竜は蝶を追う 声を弾く

竜は蝶を追う 声を弾く

竜は蝶を追う 声を弾く

声を弾く

 時々、ずっと昔はお菓子の入っていた四角い銀色の缶の蓋を、開けては眺める。
 
 桃色のおはじき。
 白に黄色のかかった光るビー玉。
 保育園で貰ったマラソン大会のメダル。
 良い香りのする消しゴム。
 金色の折り紙。
 七色の鉛筆。

 他愛もない物ばかり。けれど自分には、どれも大切な宝物。

「またそれ見てんのか、美羽」
 優しい顔で笑いかける少年の顔を見る。
〝星(ほし)君〟
「もうすぐ食事だってさ。行こう?」
 美羽はコクリと頷き、缶の蓋を元に戻した。

 灰色の海岸に日が差す気配は無い。濃い岩陰の色はグレーだ。
 波打ち際を歩きながら、美羽は顔を上げる。
 時折、誰かに呼ばれている気がする。
 自分を呼べ、と。
 誰かが。
 急くように。
 焦がれるように。
 愛情と言う、幻のように。
 彼女は嗤う。
 そんなまやかし。作り事。

 ――――――私は騙されない。決して呼ばない。
 嘗て愛は、私を傷つける為にあった。そうして私を裏切った。

 緩くうねる長い髪が風になびく。
 それを手で掻き遣り、暗色のワンピースを着た少女は、虚ろな目で波打ち際を歩き続ける。

昔日の悲鳴

 真白と荒太に報告する斑鳩(いかるが)の表情は事務的なものだった。
「黒羽森の言う縁の引力を当てに、新潟に絞って調べました。事件性がある可能性を示唆された真白様の推測は、正しかったようです。十年前、新潟県某市で一家無理心中未遂事件が起こりました。職場内の人間関係によるストレスから極度のノイローゼ、――――――後に全般性不安障害だったのではないかと言われていますが――――――、に陥った夫が妻を殺害、娘はその場から逃走、後、父親が縊死した現場に戻り、遺体を発見した模様です。事件当時八歳だった彼女の名前は上杉美羽。現在、十八歳。今は児童養護施設ひまわりに居住しています。事件後、彼女は言葉を発することが出来なくなっています。当時、彼女を診た医師は心因性失声と言う診断を下しました。今も、症状はそのままのようです」
 真白は額に手を当て、瞑目した。荒太がその肩を抱く。
「…真白様。大丈夫ですか」
「―――――――ええ。ありがとう、斑鳩。他県の捜査報告書まで目を通すのは大変だったでしょう」
「お気遣いなく。同期のつてはこのような時、役に立ちます。尤も、借りも作りましたが」
 艶麗な美女は微笑んで一礼すると去った。

樫の扉

 書斎の分厚い樫の扉がノックもされずに荒っぽく開かれた時、そこから息子が姿を現すことを新庄孝彰(しんじょうたかあき)は疑わなかった。幼少期に息子に教え込んだ礼儀作法は、成長過程のどこかで無下にも置き去りにされてしまったようだ。
〝そんなものは要らない〟
 長ずるにつれ、自分が息子に与えようとするもの、身につけさせようとするもの、その多くを息子はすげなく拒絶し、切り捨てて来た。
「…久しぶりだな。竜軌。お前が私に顔を見せるとは。厄介ごとでないことを願うよ」
「期待通りで悪いな。一つ、頼まれてくれ」
 温厚な孝彰の双眸が細まる。
「何をだろう」
「養護施設から娘を一人、引き取って欲しい」
 孝彰は深い息を吐いて、ギシリと音を鳴らし肘掛け椅子からゆっくり立ち上がった。
「教えた筈だ、竜軌。人は望めば、相応の代償も払わねばならん。その、安くはない行為の見返りに、お前は私に何をもたらすことが出来ると言うのだ?」
「孤児を引き取ったとなれば美談だ、あんたの損にはならんだろう」
 孝彰が緩く首を横に振る。
「解っていないな…。これ見よがしにそんなことをすれば、却ってマスコミの良い餌食だ。
仮に私がそんなことをしてみろ。彼らはこぞって書き立てるだろう。曰く、〝卑しい政治家の売名行為〟だとな」
「孤児が過去のトラウマにより声の出ない娘でもか?」
「関係ないな。むしろ、より性質が悪い」
「―――――――――損得勘定か」
「それだけではないが。意外だよ。お前が今更、それを言うのかね?」
 竜軌はジーンズの両ポケットに手を突っ込んだまま、虚空を見据えるように言った。
「…ならあんたの流儀に則ってやろう。今度の衆議員選。あんたの対抗馬の金の出所を探ってみろ。ありきたりだが面白いことが判る。記事にするならフリーライターの河本直(こうもとただし)に書かせると良い。その手合いでは実績がある」

触れたもの

 視線を感じて、美羽は顔を上げた。
 砂浜から、傾斜の強い階段を登り切ったところにある歩道すれすれに立ち、こちらを見下ろす影がある。
 黒い影。黒い男。初夏の日は、何かを暗示するようにその真上に。
 男を印象づけるものは〝黒〟だった。
 別に嫌いな色ではなかったし、その男の黒には、どこか惹きつけられるものがあった。
 色の褪せた黒いワークジャケット、鉤裂きの目立つジーンズ。
 髪の一部は赤かった。そして距離を置いても判る眼光の鋭さ。
 美羽を一直線に射貫く。
 混じり気のない黒の、底知れない瞳。
 射貫かれた瞬間、身動きが出来なくなった。
 心に湧いたものの正体も判らない。
 恐怖、がそれに最も近い気がする。
 剥き出しの感情の塊に晒されると、それがどんな感情であれ、人はまず怯えるのではないだろうか。
 迷うことなく己の塊を晒す人間の、意思の強さに慄きもするのだ。
 あの男はそんなことをして怖くはないのだろうか。
 直の肌に、跳ね返る傷を負うことへの恐れはないのだろうか。
 痛んでも構わないと?
(強いから出来るんだわ)
 贅沢な強さ。折れたことを知らぬがゆえの傲慢。
 美羽は鼻白んでそう思った。
 自分を睨むように見据えたまま、彼の唇が動いた。
〝―――――見つけた〟
 そう、言ったように見えた。
 だから、自分は見つけられたのだと思った。
 綺麗な黒を纏う、幻のような男に。
 男の黒い目が、ほんの少し茫然としているかに見えたのは気のせいだったのかもしれない。
 幻のような男の目が、幻を見たように美羽を捉えたと感じたのは。

勝つ花

 六月十日、真白の誕生日に婚姻届を役所に提出し、成瀬荒太と真白は夫婦となった。
 荒太は真白を愛していた。有り体に言えば他の人間はどうでも良いくらいの心境だった。
 そして普段はおっとりとした物腰の妻が、ここぞと言う時にはとてつもなく頑固になることを、よく知っていた。
 多くの場合、そんな時の彼女には勝てないことも。
 だが彼は抗おうとした。
「俺は反対だ。上杉美羽の付き添いなら俺一人で事足りる!わざわざ真白さんが出向くことはない。――――――…身体が丈夫じゃないのに」
「荒太君。憶えてるでしょう、濃姫様のご気性。…根は素直だけど難しい方だわ。男性ではなくて、誰か女性が一人、彼女に寄り添うべきよ。過去の事件のことを考えても、そのほうが美羽さんは安心出来ると思うの。水恵だって、荒太君より私のほうが化けやすいわ。そうすれば大学の出席日数も問題ない。二人同時に大学を数日間、休む訳には行かないもの」
「新潟だよ?美羽さんを支える前に、真白さんが寝込んだらどうするんだ。足手まといにしかならないよ」
 気が急く余り、荒太は言い過ぎたと感じた。
 真白がク、と唇を噛む。
「……具合が悪くなれば一人で離れて、ちゃんとした場所で休むわ。良くなるまで。もう大人だもの。黒羽森の足は引っ張らない。荒太君にも迷惑はかけないから」
 夫が息を吐いた。
 妻に降参する溜め息だった。
「ごめん。違う。迷惑かけても良いんだ。…心配なだけだ」
「うん。解ってる。私もごめんなさい、我が儘を言って」
「――――――――体調が悪いと感じたら、すぐに俺に連絡して。黒羽森にも隠さず言うんだよ。あと、濃姫が鼻持ちならない小娘で真白さんを困らせるようなら、さっさと黒羽森に押し付けて別行動で帰って来るように。どうせ真白さんには出来ないだろうけどさ」
「うん。ありがとう」
 やはり、花がほころんだ。

お砂糖警報

 いつか優しく裕福な夫婦が、自分を迎えにやって来る。
 そんな甘い物語に思い耽るほど、美羽は夢見がちな性分ではなかった。
 だのになぜ今、降って湧いたように〝養育里親〟を希望する人間が出て来るのか。
 しかも小さな子供ではなく、十八歳という可愛い盛りもとうに過ぎた、発声に障害のある自分のような人間を。
 社会において難しい立ち位置にある自分を、美羽は理解していた。
 理解していたから一層、美羽は急展開した現状に疑問を抱いた。
 ただ、今から新幹線の駅に向かう車の中、同行してくれる女性は美羽に優しい。
 成瀬真白と名乗る女性は、自分を引き取る新庄夫妻と施設の大人たちの話し合いにもずっと同席し、美羽が東京に移る日取りが決まってからは荷物をまとめる手伝いも買って出てくれた。彼女が新庄夫妻や、今、車のハンドルを握る神崎弁護士とどういう関係にあるのかは知らない。ただ、互いに納得ずくでそこにいるという雰囲気だった。一度、真白が神崎弁護士を〝くろうもり〟と呼んだのは、呼び間違えだったのだろうか。気安い関係ならば、あだ名のようなものかもしれない。変わったあだ名だ。神崎弁護士は真白に対してとても丁寧な態度で接していた。
 真白は決して押し付けがましくなく、それでいて常に美羽の助けになるだろうことを考え、動いてくれようとする。
 今回の養育里親の話が持ち上がった当初から、彼女は美羽の傍らで、大丈夫だ、心配は要らない、と何度も同じ台詞を繰り返した。
 この女性の目には、正しく自分が怯えた小動物のように映っているのだろう。
(もしこの女の人が嘘吐きなら、正直の定義から間違ってるんだわ)
 胸に海辺で見た幻がよぎる。
 今から行く場所に、あの黒い影は現れるのだろうか。
〝黒い男、いる?〟
 こんな抽象的表現では伝わらないだろうなと思いつつ、メモ帳に美羽が書いた言葉を読んで、しかし女性は確かに頷いた。
「いるわ。逢えますよ、美羽さん」
 優しい声で告げられて、そうか、やはりあれはいるのか、と思った。

竜と蝶

 迷子になりそうな家、というものが実在することを知って、美羽は呆れた。
 こんな家は低所得者層を踏み台に維持されているに違いない、と思うと腹さえ立った。
 しかしそこが、今日から美羽の〝実家〟となるのだ。
 真白はこの和風邸内の様子を知るらしく、美羽の手を取り一室に導いた。
 カラリ、と戸を開けると、清々しい藺草の香りが鼻を突いた。畳を張り替えたばかりなのだろうか。緊張した身体には、ホッとする香りだった。
「このお部屋は胡蝶の間と呼ばれていて――――――」
 真白の声が中途で止まる。
 室内には、二人の男が待ち兼ねたようにゆるりと座していた。
「荒太君。新庄先輩。女の子のお部屋ですよ?」
 眉をひそめた真白に片方の男性は謝するように笑い、もう片方の男性は無表情だった。
(黒い男)
 美羽は、いつか海岸で見たその男と改めて対峙した。
 真っ向から自分を見る瞳に、侮られてはいけないと強く思った。
「…新庄竜軌だ」
 低い、響きの良い声で名乗られるが、漢字が判らない。
 察した真白が美羽の手に持つメモ帳とペンを取ろうとするが、それより早く竜軌が動き、自分の姓名を丁寧に書いて美羽に見せた。
 それを見た美羽は瞬きした。
〝芸名?〟
 単純に感じた疑問を美羽は紙に書いた。得体の知れない竜軌の放つ迫力が、そう思わせたのだ。
 ブッ、と優しげな顔の男が噴き出す。
「――――本名だ」
〝派手な名前〟
 噴き出した男は今では笑い転げんばかりで、真白はそれを窘めようとしている。
「そう言うお前の名は何だ」
 竜軌は当然、美羽の名前を承知している。
 しかし美羽が素直にメモ帳に自分の名前を書こうとすると、竜軌がそれをサッと奪った。
「俺は自ら名乗り、字も示したぞ。お前も同じくその口で名乗るのが礼儀ではないのか」
「先輩―――――…!」
 美羽は目を見開いた。
 口でなど。
 声など出せよう筈もない。
 その事情を承知しているだろうに、何て嫌な男なのだろうと思った。

竜は蝶を追う 声を弾く

竜は蝶を追う 声を弾く

竜軌が「みわ」の行方を求め限界に達しようとする時。 過去の傷から頑なに愛情を信じようとしない少女は、北陸の海岸を歩いていた。

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  • 短編
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  • 時代・歴史
  • 青年向け
更新日
登録日
2015-04-04

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