竜は蝶を追う
竜は蝶を追う 「みわ」
「みわ」
高校一年の時、竜軌の耳につんざかんばかりの悲鳴が飛び込んで来たことがある。
〝みわっ〟
痛むかのような錯覚に、思わず耳を押さえた。
気力を振り絞るような中年の女の声だった。
続いて、息を呑むような微かな音。駆ける足音。
まだ力の安定に欠いていた時期には、突如として耳に入る予期せぬ音や声もあった。
その声もそんな数多の一つ、と忘れられなかったのはどうしてなのか解らない。
叫び声がひどく逼迫していたせいもある。
精魂を込めたような、命懸けの。
多分あれは、猟師に撃たれた獣が、息絶える前に子供らに逃げろと呼びかけるような、そんな類の声だったのだろうと思う。
人の世も獣の世も、相似した出来事は起こる。
喰らい、喰らわれるのが世の常だ。
そしてもしかしたら、と思った。
それは一縷の希望のようなものだった。
「みわ」が帰蝶の名前であったならと。
未だ知られぬ今生名であったならと思った。
しかし声の状況には不穏な気配があった。
「みわ」が帰蝶であるとすれば、竜軌が声を聴いた時点で、彼女は危機的な局面を迎えた可能性が考えられる。
帰蝶と「みわ」が無縁なら、恐らく帰蝶は大禍ない人生を過ごしているだろう。
「みわ」であってくれれば良い。
「みわ」であって欲しくない。
心は割れた。
そして、「みわ」であれば、どういう漢字を当てるのだろうと考えた。
――――――――美しい羽。
「美羽」であれば相応しいと思った。
紅の玻璃
金襴緞子の似合う女だった。
元々が明瞭な顔立ちの美形だ。
飾れば飾るほど、艶やかに華やかに輝いた。
時に目をよぎる、翳はあったけれど。
褒めれば嬉しそうに、はしゃぐように笑った。
そんな顔を見るのは、悪くない気分だった。
濃い紅の玻璃が似合うだろうと思い、宣教師や商人に尋ねてみた。
〝上様。紅の玻璃は、作り出すのが大層、難しゅうございます〟
興に水を差された気がして不快な声になった。
〝なぜだ〟
〝技法が、〟
〝それを何とか致すのが職人であろうが〟
〝紅は難しゅうございます。瑠璃の色ではいかがでございましょうか〟
〝ならぬ。あれには似合わぬ。紅を持て〟
〝紅は難しゅうございます〟
〝そのそっ首に懸けて申すか〟
商人の額から滴った汗が、ぽとりと畳を打った。
〝紅は難しゅうございます〟
商人は辛抱強く繰り返した。
信長は男の胆力と商人としての誠心に敬意を表し、命は取らぬこととした。
〝あい解った。無理を言うたな。―――――したがこの先、面を見せるな〟
商人は平伏し、退出した。
使い勝手の良かったその男のことを、少しだけ、惜しいことをしたと思った。
くっくっく、と含むような笑いが聴こえた。
〝無茶を言わはるお方やなあ。赤い玻璃は難儀ですわ。信長公の短気は、その内、命を縮めるやしれませんねえ〟
その場に居合わせた荒太の前生・嵐は、笑いながら遠慮なくそう言ってのけた。
〝さもあろうな〟
信長は素っ気無く答えた。
自らの気性もその危うさも、言われるまでもなく理解していた。
〝紅の玻璃?そんな物、興味ない〟
後に帰蝶がそうあっさり言い放つのを聴いた時、何だ、執着していたのは俺だけであったか、と肩透かしを食った気分だった。
欲しいと遠慮なく言い、与えれば喜ぶが、与えなくても不平は言わない。
ただむくれる。
その顔が可愛かった。
揺らぐ水面
「ハーブティーがどうかしたか」
沈黙したままティーカップに目を注いでいた竜軌に、剣護が話しかけた。
「いや」
「赤いな、これ。――――林檎の香りがする」
真白は出かける前に、剣護にもハーブティーを出して行った。
液体は時に人の記憶を刺激する。
揺らめき波打つ在り様が、心をも似た形状に導こうとするからだろうか。
(だが記憶は食えぬ。触れぬ)
芳香や手触りをいくら思い出したところで、生殺しだ。
「腹が立つ男だ。門倉剣護。マゾめ」
「あんたさ、それ、百パーセント八つ当たりだろ」
あっけらかんとした剣護の鷹揚な声に答えず、白磁に金の縁取りがされたカップを見る。
今まで赤い水面ばかり見ていて、カップが目に入っていなかった。
いかにも荒太好みの良品だ。
(細かいところに一々、小金をかけおって)
腹立ち紛れに割ってやろうかと邪心を抱くが、真白の顔を思い出し断念する。
「このティーセット、真白と荒太が二人で選んだ物だからな」
「……だから何だ」
狙いすましたような剣護の声に、問う。
「いや。故意に割ったりしたら、いくらあんたでも真白に怒られるだろうなと思っただけ」
竜軌は盛大に舌打ちする。
元来、天邪鬼な性分ゆえに、竜軌は人に心を悟られることを好まない。
その為、今の剣護の物言いは彼の神経を著しく逆撫でした。
ちら、と足元のカーペットを見る。
白でアラベスク模様が織り込まれた生成り色のカーペット。多少の水をこぼしたところで弾き返しそうな上等な毛織物。
学生が身の丈に合わん買い物をしおって、と思う。それを可能にするだけの甲斐性を持つ荒太のそつのない能力が、尚、忌々しい。
要するに今、竜軌は、この世の全てが気に食わなかった。
目に触れる物、手に触れる物全て、グシャグシャにしてしまいたかった。
幸せそうな男と女など破滅してしまえば良い。
ここでテーブルをひっくり返しでもしたら、赤い液体と粉々になった磁器の破片が上等なカーペットに散ってさぞや爽快だろう。
そしてその惨状を見たら真白は。
あの白い花のような女は――――――――――。
そこに思い至ってから、竜軌の心は急速に静まって行った。
竜軌は頭の悪い真似はやめることにした。
掴みどころのない記憶に苛立ち、癇癪を起こすのは。
(俺とて怒らせてはならぬ相手くらい、心得ている)
赤い水面を揺らすと、苛立ちも共に飲み干す勢いで、だいぶ冷めたそれをぐいと飲んだ。
出せない
「新庄先輩。………濃姫様御自身が、声を出せない状態でおられるとしたらどうでしょう」
買い物から帰った真白が、冷蔵庫や冷凍庫を何度か開け閉めしたあと、新しく紅茶を淹れて竜軌と剣護の前に出してから言った。自分もソファに座る。
「出せない、とは?」
竜軌が目を眇める。
「例えば、重い喉の病気を長期間、患っておられるとか。強いストレスで声が出せなくなる場合もあるでしょう」
「…失声症とか、聞くな」
剣護も相槌を打つ。
「嵐下七忍が二年間、捜し続けて見つからないからには、普通の状況にはおられないのかもしれません。考えたくはありませんが、何か―――――――濃姫様の身に、異変が起きたのではないでしょうか」
「確かに〝みわ〟が帰蝶に相違無ければ、その可能性は高い。……声が出せぬ、か。聾学校は聴力に難のある障害者に教育を受けさせる学校だな。声が出ないだけであれば通学出来るとは思えんが。万一、耳も聴こえぬと言うことであれば捜してみる価値はある」
思案しながら語る竜軌に、真白が尋ねる。
「先輩の巫の力が、安定して自由に行使出来始めたのはいつですか?」
「高校…一、二年のころか」
「〝みわ〟と言う声を聴かれたのが高校一年でしたね。逆算して九~十年前。そのころを機に声の出せなくなった女性、それ以前より声の出せなかった女性、加えて〝みわ〟と言う名前も含め、改めて捜索し直しましょう。聾学校も念の為、当たってみます。もちろんそれでも網の目の大きさを鑑みれば、すぐに見つかると言う訳には行かないと思いますが」
「…やはりお前を荒太の嫁にやるのは惜しいな」
しばらく真白を眺めたあと、竜軌は様々な思惑からそう評した。
思慕の谺す
檜の広い浴槽の中で、竜軌は濡れた黒髪を掻き上げた。高校のころからつけている赤いエクステはすっかり馴染んでしまっている。
湯は熱めを好む。ぬるま湯は好かない。
「…みわ」
声に反応するように、ピチャンと水滴が鳴った。
湯煙の立ち込める白い浴室に、竜軌のよく通る声は大きく響いた。
(呼んで聴こえるものでもなかろうが)
竜軌と同じく巫の資質を持つ者は極めて稀であり、帰蝶にその資質は無かった。
湯に浸かりながら、あれの肌はどのくらい熱かっただろうかと考える。
ぬるま湯では足りぬ自分を包んだ、蝶の肌は。
思い出せば堪らなくなるので、無理にそこから意識を逸らす。
だが結局、口をついて出るのは。
「美羽」
漢字を当てたその名前だ。自分でも呆れる。
呼びながら、形ばかりの美しい女でなければ良いがと思う。
ただ顔立ちの美しい女ならば掃いて捨てる程、ごまんといる。
そんな女を捜して嵐下七忍を動かしている訳ではない。日本を流浪している訳ではない。
自分を捕らえたのは、癒えぬ傷の中でも保たれていた誇り高さだ。
どこまでも傷ついていながら毅然と顔を上げ、真っ向から「織田信長」を睨み据えた。
瞳の強さが、何かの宝玉のようだと思った。
初めは呆れた彼女の纏う高慢さの鎧を、慎重に剥いでみる気になったのはそのせいだ。
傷に血が滲む中の光輝。蝶の持つ宝玉に惹かれた。
(あれを知ったあとでは、全き美しさなどつまらぬと思えた)
時を経て、その傷に触れ―――――――愛することを許された。
(遠い)
「――――――…帰蝶。みわ。美羽。美羽。美羽っ!」
湯を力任せに打ち、何度も飛沫を上げる。
どこにいる。
――――――――どこにいる。
(俺を呼べ。俺を呼べ)
どんな小さな声でも聴いてやる。
目の前の湯に、なぜ彼女の黒髪が流れない。
ぬばたまの、あの髪がなぜ手の内に無い。
竜の渇望は限界の極みだった。
竜は蝶を追う