竜は蝶を追う

竜は蝶を追う

織田信長を前生とする新庄竜軌。望めばあらゆる声、音を聴く能力を持つ彼の耳に、かつての妻・帰蝶の声だけが聴こえない。竜はいつまで蝶を追い続けるのか―――――――――――。

音と声、渇き

竜は蝶を追う

音と声、渇き

 資産家に生まれついた少年は、母は代々続く上流階級の出身、父もまた、祖父の代からの代議士、国会議員だった。
 そのような環境に育つ子供の例に洩れず、彼は幼少よりバイオリンやピアノを習わされ、英才教育を受けた。
 砂に水が沁み込むように少年は教養、勉学を身に修め両親を喜ばせた。
 しかし少年自身は思っていた。
〝つまらない〟
 音楽教師たちは、特に彼の聴力の秀でていることを褒め称え、目指せば調律師になることも可能だと言った。
 それも道理である。
 なぜなら彼、新庄竜軌(しんじょうりゅうき)は、望めばこの世のどこの、誰の声でも聴くことが出来たのだから。
 彼はこの世のみならぬ、神仏の声さえ聴いた。
 その巫(かんなぎ)の力を最大限利用して、前生では天下統一まで成し遂げた。

 過去、織田信長(おだのぶなが)と呼ばれた竜軌は、現に飽いていた。
 最も聴きたい声だけが、竜軌の耳に届かない。

 玻璃細工の蝶の声。

 苛立ち紛れに竜軌は、足元にあった錆びたペンキの缶を蹴飛ばした。
 北陸の春は遅い。
 桜がはらはらと散る横で、今は寂れた廃工場が無言で佇む。
 世は諸行無常だが、竜軌にそんな感慨を覚える情緒は備わっていない。
「―――――――今宵の宿は、いずこに」
 尋ねる青年の、華やかな顔立ちを見る。
「どこなりと。ユースでも俺は構わんが」
 ついと目を物言いたげに動かした青年に、吐息をこぼす。
「……お前に任せる。好きなようにしろ、蘭」
「御意に」
 日本各地を流浪する竜軌の、お目付役とばかりに同道する青年が、多少、煩わしくはあった。

金の檻

 いわゆる政略結婚で嫁いで来た少女は、器量は良かったが気性が苛烈だった。父が蝮なら娘は毛を逆立てた猫かと思い、信長は呆れた。
 まあこんなものだろうと、さっさと見切りをつけようとした。
 しかし気位の高い、毛を逆立てた猫の内面はひどく傷ついていた。
 彼女の気質は実のところ、玻璃細工の蝶であった。
 脆く儚く、舞えばたちどころに繊細な羽を損ねて宙から落ちてしまう。
 美しいゆえに、痛ましかった。
 その所以を信長が知った時、彼は斎藤義龍(さいとうよしたつ)を殺そうと思った。
 自らの手で義龍の首級を挙げられなかったことは、後々まで信長の悔やむところとなった。
 さてそれでは、自分がそこまで帰蝶(きちょう)を愛していたかと言うと、竜軌はそこで首を傾げる。
 どの女よりも、拘っていた気はする。
 どの女よりも、掻き乱された。
 彼女と共にいれば果てなく安らげるかと思えば、天を震わせる程に激させられることもあった。
 要は惚れていたという訳だ、つまらん、と竜軌の思考はそこに行き着く。
 帰蝶が望むより先に、信長はあらゆる贅を彼女に与えた。
 その重みで蝶の羽が自由に動かぬよう。
 自分から飛び去ってしまわぬように。
 金の檻で閉じ込めた。
 そうしてあれは幸せだったか、と竜軌は思う。
 年月を重ねるにつれ、傷つき、ほころびた羽はゆるゆると癒されていったようには見えた。
 しかしそれは時の手柄であり、自分の功ではないだろう。
 そこで竜軌は心の本音に気付く。
(――――――成る程。俺は自信が無いのか)
 彼女の声が今もって聴こえないのも、ひょっとしたら自分への拒絶の思いからではないか、と危ぶむ思いがある。
 忌々しくなるような怯懦だ。そんなもの、自分には似合わない。
 もし次に逢えたら。
 金の檻などより、もっと柔らかなものであれを包もう。
 重みで自由を奪うのではなく、あれが自然に惹かれるような、花のようなものを用意しよう。
 蜜でも、甘い水でも。
 玻璃細工の蝶が、ずっと傍で笑っていられるように。

蝶と花

 東京に戻った竜軌は、門倉真白(かどくらましろ)に会った。
 見つからなかった、と告げると、真白はそうですか、と言った。
 ごく自然に、優しい香りのハーブティーが出される。
「見つかると思うか」
 そう尋ねる。
「見つかるでしょう」
 他の人間には訊かない問いに、彼女は必ずそう答える。
 真白が言うならば見つかるのだろう、と竜軌はそのたびに自分を得心させる。
 真白は今、成瀬荒太(なるせこうた)と婚約期間を過ごしている。
 荒太も真白も、嵐下七忍(らんかしちにん)と言う忍び集団を率いて、政治、軍略、商いなど幅広い分野で信長を助けた。今現在も、帰蝶を捜す為、嵐下七忍の手を借りている。
 帰蝶が蝶であるならば、真白は花だと竜軌は思う。
 白雪のような花。
 このまま帰蝶が見つからなければ、この花で手を打っても構わない、などと考える。
 邪魔な有象無象は蹴散らせば良い。
 しかし真白が抗い、本気で白刃を竜軌に向けるとなれば。
(勝てぬであろうな)
 矜持の高い竜軌でさえ、容易く答えは出る。
 白い花は怖い。
 いとも儚げでいて強(こわ)い女なのだ。
「お、新庄。戻ってたのか」
 真白の住むマンションの階下に住まう門倉剣護(かどくらけんご)がやって来る。
 竜軌の心に微かな苛立ちが湧く。
 緑の目を持つ真白の従兄弟を、竜軌は密かに嫌っていた。
 世に言わせれば好漢、と言われる部類であろう。
(しかし好かぬ)
 その理由はただ一つ。
 門倉剣護が前生における妹・真白を愛しているからだ。

「自分をおぞましいと思わんのか、お前」
 真白が荒太に頼まれていた夕飯の買い物に出るや否や、竜軌からの罵声が飛んだ。
「ん~~~。んにゃ、あんまり?昔はこれでもだいぶん悩んだんだがな」
 剣護はすぐに何の話か察したようで、そう返した。
「開き直ったと言う訳か」
「俺は真白が幸せならいんだよ」
 軽蔑したような竜軌の声に、春風のように穏やかな顔が答える。
「にしてもあんた、妙にこの件にこだわるね。昔、何かあったのか?」

 ふ、と記憶が蘇る。

 信長、
 信長、
 私は穢れている。
 穢れているのだ、信長。

 そう言って、腕の中で泣く蝶を抱き締めた。
 蝶を悲痛に泣かせた者の正体を、信長は知った。
 殺意を抱くことに躊躇いは無かった。
 解っている。
 剣護と義龍は違う。
 帰蝶はほんの幼いころから、先を期待される美貌の持ち主だった。
 それが彼女に災いとなった。
 義龍は妹の幸福など望まなかった。義龍は邪恋を妹に強いた。
 年端も行かない妹を力で押さえつけた。
 獣にも劣る蛮行に何度も身を晒され、帰蝶は壊れる寸前だった。

 私は穢れているのだ、信長。
 あの苦しげな泣き声が、耳について離れない。
 今もどこかで、彼女が泣いている気がしてならない。
 早く見つけ出してやらねばと思うのに。
 泣き声さえも、聴こえない。

忍び二人

「どうだ、兵庫(ひょうご)。そちらは」
「無理、無理。どだい、話に無理がある」
「お前、最初から投げてかかっているのか」
「投げたくもなるだろ、黒羽森(くろうもり)。なんせ、手がかりは〝女〟であること。〝みわ〟と言う名前かもしれない、ってことの二つだぜ?俺たちがいくら優秀だろうと、不可能はあるさ。違うか、弁護士先生?」
 ふー、と兵庫が紫煙を吐く。黒羽森はそれをじっと見て、愚直に重い口を開いた。
「…だが、主命だ」
「違うだろ、主人が請け負った、命令だろ。しかも交換条件だ。厳密には主命とは言わないよ」
「手を抜けば、真白様と荒太様が信長公に侮られよう」
 黒羽森の言葉に潮騒が混じる。
「…俺の勘では、このあたりが臭かったんだけどな」
「ああ。公も先日までこのあたりにおられたとか。頼みの綱は引き寄せあう縁の引力か」
 海猫の舞う重い空を、片手に煙草をくゆらせながら兵庫が見据える。
「――――――――遠くはない。俺はそう睨んでる。あと何か一つ、突破口が欲しい」
「突破口か…」
 ふと兵庫が笑う。
「どうした」
「いや、昔っからこんな時、突破口を指し示してくれるのは、大体、若雪様…、真白様だったと思ってね」
「そうだな」
 黒羽森の口元も和む。
 灰色の空、灰色の雲。
 砂浜に立つ二人の男は先行きに光明を求めていた。

竜は蝶を追う

竜は蝶を追う

織田信長を前生とする新庄竜軌。望めばあらゆる声、音を聴く能力を持つ彼の耳に、かつての妻・帰蝶の声だけが聴こえない。竜はいつまで蝶を追い続けるのか―――――――――――。

  • 小説
  • 掌編
  • ファンタジー
  • 恋愛
  • 時代・歴史
  • 青年向け
更新日
登録日
2015-04-02

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