まとりょーしかの瞬き
こちらの作品は冒頭部分のみとなります。
本編はKindleにて販売しております。
手
初めて見たのは手だった。その手が僕の方に伸びて来て、僕はそれをどうすればいいのか分からないままだ。目の前に差し出された手に対して、僕が行うべき正しい行動の判断ができずに、ただ、たまにその手を見て、ほとんどの時間を俯くという行動にあてた。その手にも戸惑いが感じられる。震えている訳ではないけれど、何かを戸惑っているようで、その手だって、正しい判断ができていないのは容易に察する事ができた。だからこそ僕もそこに対する正しい判断というものができない。
「だいき君、さあ……」
そんな声が聞こえた。見慣れた歳をとった女の人は僕より四十個も歳が離れていて、普段、とても活発で、時には恐ろしい声で叱られたりなんかしたけど、それでも僕にとってはその人が母であり、僕はその人以外の大人を知らなかった。唯一甘えられる存在。甘えだなんて事、意識して出来る年齢なんかじゃないけど、おそらく僕は無意識の内に甘えていたし、そうするとその女の人が暖かく包み込んでくれるその手が愛ってものなんじゃないかって、そう思っていた。
「ほら、だいき君」
急かすように、その声は僕に届く。僕だってどうにかその手に応えてあげたいけれど、その方法が分からないんだ。女の人は僕にたくさんの事を教えてくれたけど、突然知らない人に差し出される手に対する行動なんて教えてくれなかったじゃないか。そんな未知の領域を「ほら」なんて言葉で説明されても、やっぱり僕には分からなかったし、下を向いたまま、たまに差し出された手を見たりして過ごしている。
女の人が困っているのを感じた。でも分からないから、そのまま。
「うーん……」
なんて言ってるけど、分からないものは分からないのだから仕方ない。太く頑丈な手は迷いを感じたままで、僕の目もまた、視点が定まらないままで。
「静かな子なんですよ」
女の人が言うその言葉で、この状況を変えられるのかなって考えてみる。静かな子であれば、こういう状況をくぐり抜ける事が出来るのかってまた一つ勉強になった。ふふふと笑う女の人の声が遠くの方で聞こえる。すぐ近くにいるのに、なんだか遠い。目の前にある手は何も喋らないで何かを待っている。
待っている?そうだ。この手は僕を待っているんだ。僕がこの手に応える方法というのは、つまり、僕の手をこの手に差し出す事なんじゃないだろうか。
やっとでてきた一つの可能性を信じて右手を上げると、僕の小さな手が大きなその手に包み込まれる。僕の手が触れた瞬間に、急に暖かな温もりを纏う手がなんだかとても優しいものに思えて、これでよかったんだなって、その時そう思った。
これでよかったんだ。
まだいろいろと分からない事がたくさんあるけど、これでよかったんだって。
「それじゃ」
初めて聞いた。やっと声を出した男の人の手。
声
「それじゃ」
男の人は僕より四十個も歳の離れているその女の人に会釈をして、僕の手を優しく引いた。引かれる手につられて足も引かれる。男の人に包まれた僕の右手は暖かかくて、固まった気持ちが少しずつ和らいでいくような気がしたけど、そんな簡単な事じゃないって事くらい分かる。自分の心なのに自分じゃ制御出来ないなんてとても悲しいけど、ここに付いた傷はいつかは治るってそう思おうとしても、それがいつ治るのかなんて分からないし、どうやって治るのかというのも分からない。でもその暖かさに包まれた時、もしかしたらこういう事なのかもしれないって、ヒントみたいな、そんなものを見つけた気がして少し嬉しい。
「あの……だいき君……」
男の人が僕の名前を呼んだ。その声はなんだか震えているみたいで、名前に反応して僕の耳は傾く。
「これから僕はだいき君のお父さんになるんだ」
男の人はそう言った。お父さんってなんだっけ。たしか男の人がなるものだったっけ、なんて。お父さんて存在がどういう立ち位置に値するのかよく分からないけど、僕はほんの少しだけ頷いた。そうか、この人が僕のお父さんになるのかって。……分かってもいないのに。
「これからは僕と一緒に住むんだよ」
その人の声は、僕がお母さんとして接していた人よりも随分と低くて重いものだった。人の声っていろんなものがあるんだなってその時に感じて、僕はまだなんにも知らないんだって思った。耳の中にある鼓膜の揺れ方が、女の人の声を聞く時と、この男の人の声を聞くときでは全然違う。女の人の声は小刻みに絶え間なく揺れる感じ、でも、男の人の声はゆっくりと大きく揺れる感じ。声ってこんなに意識した事なかったから、僕はその声のおかげでその男の人に興味を持った。もっと何か喋らないかなって思っていて、大きく揺れる鼓膜を楽しみにしている。耳が男の人に傾いたままだから、いつでも男の人の声を聞く準備は整っている。
「とりあえず、これから僕の家に行くんだ。……だいき君」
男の人が、僕の名前を呼ぶ時に発する声に自信がない。僕を呼ぶのに僕の名はそれしかないのに、なんでそこで躊躇してしまうんだろうって思う。そういえば、僕はこの人の名前を知らない。僕はこの人をなんて呼んだらいいんだろう。僕より四十個歳の離れた女の人を僕は「お母さん」って呼んでいたし、この人はさっき「お父さん」になるって言っていたから、僕はこの人を「お父さん」って呼べばいいのかな。でも「お父さん」ってなんだか他人行儀な気がするから、安心出来ない。この人の名前はなんて言うんだろうって、考えていたら、自然と僕は男の人の顔の方を向いた。とても高い位置にあるその顔を僕は初めて見た。男の人もそれに気付いて僕の方を見た。男の人の目と僕の目が合った瞬間に体中の鳥肌が立った。ぶるっと感じさせたのはたぶん、僕の中でこの人と生きて行くんだって決心の表れだったんじゃないかって思うんだ。
目
その男の人の優しい目が僕の方に向いた時、そうか、目じゃないんだって思った。どの人間も目に感情を抱く事は難しい、というか、無理なんじゃないかって思う。それを優しいと感じさせるのは、その近くの眉だったり、口だったり、声だったりするんだ。きっとね。目、自体には感情なんてない。目は常に感情を持ってない。男の人の目、というか顔は、それはどう見たって僕を優しく包み込んでいるんだけれど、それは目に付随する他のもののおかげで、目は何も感じていないじゃないかって、そんな目。でもしょうがない。それは誰しもそうなのだから、目に罪はなくて、もちろんこの人にも罪はない。
男の人のずっと向こう側で照らす太陽が眩しいから、僕は目を細めて、男の人の顔がよく見えない。だからいつまでもずっと見ていられるような気がする。初めてちゃんと見た男の人の顔が、「そうかこの顔がお父さんって人なのか」って思わせる。
「お腹空いてない?」
そうやって、僕の目を見たまま聞く男の人に、なんて応えよう。また判断ができない。そんなの簡単な事のはずなのにな、だって、さっきからお腹は空腹を知らせる合図を何度も出しているじゃないか。だから「空いてる」って応えればいいのに、それが本当に正しい事なの?って僕は思ってしまうから、やっぱりそこでもちゃんと応えられない。男の人が僕の応えを待っているのはその目を見えれば容易に分かる。でも迷う。
「どうしようか?……だいき君」
また、名前を呼ぶ時の揺れる声。こちらまで、不安になるその声が、僕の名前が本当にだいきだったのか忘れさせようとしているみたい。僕の目を見る男の人の目。結局、声なんて出せなかったけど、小さく、小さく頷いた。
「よし」
男の人の目はもう僕に向いていない。僕も男の人の目を見ていない。今はただ、男の人の手につられて、ただ前を見ているだけ。ただ、歩いているだけ。
曲線を描く文字は僕には読めないって、そんな事はどうでもいいや。その曲線の描かれた看板の掲げられた小さなお店に入った僕と男の人は、二人しかいない内の一人の店員に促されて狭い席に付いた。小さな四角いテーブルに向かい合って座る。油をたっぷり含んだベタベタな小さなメニューを僕の方に向けてくれる男の人は僕を見る事なく、メニューを見たまま
「何が食べたい?」
って聞いてくる。どうしよう。少し考えたけど、注文はすぐに決まる。そのメニューにカニクリームコロッケって書いてあったから。
「お、一番高いものだな」
って男の人が言ったけど、その言葉の真意を掴む事はできない。なんとなく、頷いて応えてみたけど、それが正しかったのかどうか。でもやっぱりお腹は空いたまま。
僕はカニクリームコロッケ定食を、男の人はナポリタンを頼んだ。男の人は店内を見回したり、小さなグラスに入れられた水を何度も少しずつ飲んだりと落ち着かないようで、僕もそれにつられて何度も少しずつ水を飲んだ。
「突然の事でびっくりしているかもしれないけど……」
男の人はやっと僕を見た。やっと見れたって思いのこもった目。今はさっきより戸惑いを感じなくなった。僕もちゃんと見返す。男の人の目に僕の目を重ねてみる。
「僕は斉藤浩二って言います」
それだけ言って、男の人は黙ったまま、僕を見ている。
この人は斉藤浩二と言うのか。言われた言葉をそのまま体に流し込む。さっきまで気になっていた事が分かったおかげで僕の空腹感が増した。安心したのかもしれない。なんで安心したのか分からないけど。
斉藤浩二はまた目を僕から逸らした。なんでかなって思ってたら、カニクリームコロッケの匂いが段々と近づいてきていることに気付いた。
to be continued...
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