塩山一族
あらすじ
信州白馬台高校で青酸カリが盗まれた。数日後湖から事故車が上がる。死んだのは村の実力者の次男坊。胃の中から青酸反応が出た。自殺か他殺か?大自然を舞台に塩山一族の怨念がつのる。
信州
信州、国道148号線を大町から北に向かうと、
JR大糸線に沿ってすばらしい山々と湖、スイス
のアルプスと見まごうばかりの白馬の山なみに、
誰人も感動する。5月の頃はまだ残雪も多く、夏
のシーズン前で村人は田植えに忙しい。
青木湖のトンネルを抜けて五竜岳、遠見岳、白馬岳
を望みながら山麓の村神城(かみしろ)、飯森(いいもり)
を通り、白馬八方の麓、岩岳(いわたけ)、森上(もりうえ)
へと向かう。
その昔、塩の道と呼ばれた街道だ。村の焼却場の手前に
白馬台高校がある。オリンピック選手を多く生んだ
名門校である。
いつもは静かな学校が今日は何かとあわただしい。
校門を入った所に長野県警のパトカーが1台止まっていて、
もう1台灰色の県警の大型バンが奥のほうに止まっている。
なにやら学校で事件があったみたいだ。廊下を行くと
理科室の手前から『立ち入り禁止』と書かれた県警の
黄色いロープが張ってあり、理科室内があわただしい。
長野県警のベテラン田中刑事が教頭から事情聴取をしている。
鑑識が数人作業をしている。
「盗まれたものはシアン化カリウムとナトリウム
の二瓶だけですな?」
「そうです。この二瓶だけがなくなっています」
教頭は毒物薬品棚の二瓶ぶん空いたスペースを指差しながら
他の毒物の濃い茶色瓶を確認した。
鑑識の山本が田中刑事に近づいて鎖の切り口を手にとって見せながら、
「皮手袋をはめての犯行のようです。鉄製の鎖を番線カッターで
一発で切っています。用意周到な力持ちのプロと考えられます」
「ふむ、プロ?・・・・・・かもな」
と言って田中は手帳にメモをした。
山本は、足跡の測定をした後田中に聞いた。
「この村で事件が起きますかね?」
「さあ、わからん」
田中刑事はぶっきらぼうに答えた。
それから数日後事件は起きた。青木湖の湖底から高級乗用車が引き上
げられたのだ。死亡した運転者は信濃森上の大地主、塩山家の次男坊
塩山清二35才。深夜に湖の崖の急カーブを曲がりきれずに、
ガードレールの間から猛スピードで湖にダイブしたものと思われた。
運転ミスによる事故死。だが、解剖の結果胃の中からシアン化合物
による薬物反応が出て、死因は服毒死と判明した。
という事は、自殺、他殺の可能性も出てきたのだ。
鑑識の山本は気色ばんだ。
「よし、この事件俺が解決してやる」
塩山一族
この事件が起こる10日ほど前ののどかな日、JR大糸線の
ジーゼル車に塩山清一と亜紀の父娘が乗っていた。
木崎湖から中綱湖、青木湖を経て白馬山麓をゆっくりと走る、
すばらしい眺めだ。清一が遠くを指差して、
「亜紀、見てごらん。あの山の上のほう」
「わあ、きれい!まだ雪があんなに残ってる」
「ああ、よく見てごらん。あそこ、何の形に見える?」
「お馬さん!お馬さんにそっくり!」
「ああ、お馬さんにそっくりだねえ。あれを目印にしてこの
村の人は田植えをするんだよ、だからここは白馬」
「ほんと?」
「ああ、ほんとさ」
あまりの美しさに、亜紀は大きなため息をついた。白馬の
次の駅が信濃森上の駅だ。白馬駅でほとんどの人が降りて
しまって、がらがらになった車内で二人降りる準備をする。
亜紀は小さな赤いリュックを背負い、清一も大きなリュック
を棚から下ろす。
「おばあちゃん、元気かな?」
「そうだな。去年おじいちゃんが亡くなって一年ぶりだ
もんな。でもそう変わっちゃいないさ」
「そうだよね」
仲のよい父と娘、顔を見合わせて微笑んだ。駅から踏み切り
を越えて田舎道を岩岳のほうへ歩む父娘の後姿。白馬八方
山麓を背景にそのシルエットが美しい。
その昔、塩山一族は森上から小谷(おたり)村にかけての
塩の道を制する豪族だった。戦後の農地改革でも山林地主
として生き残り、祖父の代まで膨大な山林を所有していた。
父の代で山林は三分の一に減少したが、それでも時価十数億
の山林であった。その父が去年亡くなった。母ヨネからの
連絡で急遽亜紀をつれて久しぶりに帰郷した。ぐれて手の
つけられなかった弟清二も隣村から駆けつけて来ていた。
豹がらのミニスカートを着た女房春子を連れて。
ヨネは弟夫婦を心底毛嫌いしていた。ことに春子とは
全く気が合わなかった。父の遺言で全財産はしばらく
ヨネが一切管理することになっていたのだが・・・・。
ヨネには唯一の妹ヨシがいて、年は離れていたが一番
気の合う肉親だった。ヨシも5年前に亭主を亡くし、
一人娘の小百合とみそらのエコーランドで可愛い
ブティックを経営していた。今年29歳になる小百合
もまた、3年前に夫と死別して母の元に戻ってきていた。
仲のよい母娘であった。
ヨネは主人が死んでからこの1年、畑仕事をしながら
この大邸宅に独りで住んでいた。時々ヨシと小百合が
訪ねて来るくらいで閑散とした塩山邸であった。
発作
そうしたある日、一ヶ月ほど前のことである。
早朝ヨネは急に咳き込んだ。息ができない。
それは苦しい喘息の発作であった。
ヨネははいつくばってやっと電話口に出た。
「ゴホンゴホン。うう。ヨシ!」
「どうした姉さん?」
「咳き込んで、苦しい。死にそうじゃ。ゴホンゴホン」
「わかった。今すぐ行く!」
店の開店準備をしていたヨシは、受話器を置くと
奥に向かって叫んだ。
「小百合!お店準備しといて!姉さんとこへ行ってくるから。
何か咳き込んで苦しそう。病院へ連れて行ってくる」
「はーい!わかりました。おかあさん!」
白馬みそらのエコーランド。数十軒のブティック、土産品店、
喫茶店、レストラン。さらにプールやディスコなどが
なだらかな坂道数百メートルの両側に立ち並んでいる。
可愛いブティック『SAYURI』はエコーランドのほぼ
中央にあるこじんまりとした店舗住宅である。
ヨシは軽乗用車でみそらのからジャンプ台、八方ゴンドラ、
ペンション村を越え、田舎道を抜けて森上までの数キロを
急ぎ走った。
白馬山麓の旧家塩山邸は植え込み石垣に囲まれ、奥には古い
土蔵まである。広い中庭と駐車スペース。古い乗用車が1台
と軽トラが1台止まっている。
ヨネはその横に車を止めると踏み石を踏んで玄関へ駆け込んだ。
「ねえさん!ねえさん!大丈夫?」
長い廊下を走り、ヨネの寝室の障子を開ける。床からはみ出し
瞳をむいてもがいているヨネ。ヨシは駆け寄りヨネの体を起こす。
「ねえさん!救急車を呼ぶわね!」
息絶え絶えのヨネ、苦しそうにうなづいた。
ほどなく救急車のサイレンが聞こえてきた。
エコーランドの店内にいた小百合は、不安げに外を見る。
塩山邸に救急車が到着し、酸素マスクをあてがい担ぎ込まれるヨネ。
ヨシも救急車に乗り込む。村人数人が不安そうに見守っている。
帰郷
救急車が動き出しサイレンの音が遠ざかると、
村人が立ち話を始めた。
「こんな大きなお屋敷、清二夫婦が越してくりゃええがね」
「あの嫁とじゃうまくいかんじゃろう。誰か一人つい
といてやらんと、もう75じゃ。喘息の発作が怖いよの」
その日の夕方、症状が回復して病院から戻って床につい
ていたヨネはそばで見守っているヨシに話しかけた。
「なあヨシ。わしももう年じゃ。一人じゃ心細うてなあ、
こういう事あるとよけいに。お前さえよけりゃあ、小百合
とこっちへ越してこんかな。一度相談してみてよな。
一人で飯食うのももう耐えられん」
そういうわけで、一ヶ月前にヨシと小百合が越してきた。
その日もヨシが店に出て小百合がヨネを見ながら、今日
清一と亜紀が帰ってくるということで、朝からあちこち
部屋を掃除していた。
一年ぶり、白馬の山々を見ながら清らかな空気を胸いっぱい
に吸い込んで、やっと清一と亜紀は塩山邸に着いた。父と娘、
踏み石を踏んで玄関へ入っていく。亜紀はとても楽しそうだ。
玄関口で清一が、
「ただいまー!」
と言って二人でたたずんだが、誰も出てこない。
二人顔を見合わせて大声でもう一度、
「ただいいまー!」
亜紀が見上げて笑う。
奥からいとこの小百合が可愛いエプロンをつけて出てきた。
「すいません。奥の厨房にいたもんですから、
お帰りなさいませ、清一お坊ちゃま」
「何だ、小百合さんか、お袋は?」
清一と亜紀、玄関を上がり奥へ進む。廊下を歩みながら
小百合が、
「ちょっと具合が悪くて休んでおられます。
こちらです、お坊ちゃま」
清一が笑いながら、
「その、お坊ちゃまと言うの止めてくれない」
「はい、それじゃ・・清一兄様」
三人とも吹き出して笑い声が響く。
「清一さんでいいよ。・・エコーランドの店のほうは?」
「母と交替で見てますよ」
「そう」
三人ヨネの寝室に近づく。
小百合
寝室では、床に臥しテレビを見ていたヨネが、
皆の笑い声に気付いてあたふたと起き上がり、
居住まいを正して正座して待つ。障子が開いて
清一と亜紀、後ろから小百合が入ってくる。
清一と亜紀があいさつをする。
「母さん、ただいま」
「おばあちゃん、こんにちわ!」
ヨネ笑顔で、
「ああ、おかえり、おかえり」
小百合、二人のリュックを抱えて、
「お荷物は奥の部屋へ運んでおきます」
ヨネと清一が同時に、
「小百合さん、ありがとう」
皆で笑い、小百合が礼をして出て行く。
清一が不安げにヨネにたずねる。
「母さん、元気?じゃないよね。どうしたんだよ?」
「朝、立ちくらみがしての。今日一日床でゆっくり
しとったんじゃ。もう大丈夫じゃ。亜紀の顔を見たら
元気が出てきたハハハ」
ヨネが亜紀の頭をなでて笑うと、
亜紀もにっこりと微笑んだ。
「小百合さんとヨシおばさんが交替で賄いに
来てくれているんでしょう」
「お前には連絡せなんだが、ちょうど一ヶ月ほど前に
ひどい喘息の発作が起きてのう、死に掛けたんじゃ。
そのときヨシに飛んできてもろうて助かった。
それからは一人じゃとても心細うてのう、わしから
頼んでこっちへ越してきてもろうたんじゃ」
「そりゃ心丈夫じゃないか」
「妹の所も5年前に亭主が死んで女二人じゃろが」
「じゃ、賄いは全部小百合さんが」
「小百合も知ってのとおり、お前と一緒じゃ。結婚して
すぐに連れ添いに先立たれて実家に帰って来よった。
店のほうは交替で見とるようじゃ」
「清二は?」
清二の一声に、ヨネは敏感に反応して顔の相が変わった。
脇でおとなしく手遊びしていた亜紀も思わず手を止めて
ヨネの顔を見上げた。
水炊き
「ふん、あいつら鬼じゃ。塩山の財産ばっかり狙うとる。
わしがまだ生きとるうちは、まだ爺さんの遺言があるから
ええが、わしが死んだら全部あの一家が持っていきよるぞ
清一、気をつけんと一銭もお前の手には入らんぞ」
「いいじゃないですか。十分今これでいけていますから。
なあ、亜紀」
亜紀、清一を見上げて微笑みうなづく。
「お前とは人間が違うんじゃよ。清二は隣村の地主の娘と
駆け落ちして、今は神城に住んどる。時々来るがの。
酒の匂いをぷんぷんさせて相変わらずじゃ。わしはあの
春子という女が大嫌いでの、何をやらかすかあの連中、
まだまだ死ねん、ハアハア」
「あまり興奮しないでください、かあさん!」
ちょうどこの時、小百合が飲み物を持って入ってきた。
「もうすぐ母が帰ってきます。店を閉めた帰りに
スーパーに寄って。今日は水炊きですよ」
亜紀がうれしそうに手を叩く。
「わーい。みずたき、みずたき。
お手伝いしていい?小百合姉さん」
「もちろんいいわよ。台所行く?」
亜紀が清一のほうを向いて、
「パパ、いい?」
ヨネは笑顔で一部始終を見守っている。
清一が明るく答える。
「もちろんいいとも!」
亜紀は喜んで小百合の後について部屋を出る。
ヨネがしんみりとつぶやく。
「あの子はほんまにええ娘(こ)じゃ、ゴホゴホ」
清一、すぐに駆け寄りヨネの肩を支えて、
「ああ、大丈夫?休んで、休んで」
「お前達の笑い声が一番なんじゃがのう」
「ああ」
その時外で車の止まる音がしてヨシおばさんが帰って来た。
皆で迎えに出る。
ヨシおばさん
駐車場に軽自動車が止まって、見るからに
人のよさそうなヨシおばさんが、手に一杯
のビニール袋を提げて下りてきた。
小百合と亜紀が駆け寄る。清一も近寄る。
「小百合、まだ助手席にもあるよ。
あら、清一ちゃんお帰り!」
「ああ、おばさん。買い物いつもすみません」
「なんのなんの。やあ、亜紀ちゃんも
おおきゅうなって!」
亜紀もビニール袋を両手に持って、
「こんにちわ!」
「こんにちわ!いくつになったの?」
「9才!小学三年生!」
「もう9才!どう?亜紀ちゃんは田舎好き?」
「だあいすき!」
「ハッハッハ。そうかね。」
ヨシは田舎大好きに感動して破顔笑顔になった。
小百合と亜紀がビニール袋を持って先に行く。
後からゆっくりと清一とヨシ歩きながら、
「一ヶ月前に姉さんが喘息の発作で死に掛けてナ」
「ああ、今お袋から聞きました。おばさんに
命を助けられたとほんとに感謝していました」
「どうしても清二夫婦には見てもらいとうない
と言うてなあ」
「お袋は頑固だから」
「ああ、頑固頑固。こりゃ逆らえんと腹を決めて
小百合と越してきたんじゃ」
「清二は?」
「清二は前より益々悪うなっとる。ここにあった親父
さんの高級乗用車も持っていったきり。むこうの
親父が極道だで、清二もそれに染まってきとる」
「ふーん」
「気をつけんと何されるか分からんよ、あの連中!」
「あの連中」
お袋と同じことを言うと思い、清一は顔をしかめた。
すわりの悪い盆
厨房では小百合と亜紀がビニール袋から
食料、飲み物を出して冷蔵庫に入れたりしている。
亜紀がペットボトル2本を出して、
「これ、どこへ置けばいいの?」
「あ、その盆の上に置いといて」
亜紀はペットボトルを丸盆の上においては見たが、
すこぶる盆のすわりが悪い。
亜紀は不審げな顔をして、
「このお盆、少し変?」
と顔をしかめた。小百合は冷蔵庫に物を入れ、しまって
から鍋類を出している。チラッと亜紀のほうを見て、
「ああ、それね。私のうちから持ってきたの。
子供の頃よくそれで遊んだわ」
亜紀はまじまじと盆を見る。
「へー、どうやって遊んでたの?」
小百合、おもむろに亜紀に近づき、笑みを浮かべて
丸盆からペットボトルを下ろす。盆に人差し指を当て、
「こうやって、えいっ!」
盆が一回転して止まる。亜紀、驚いて、
「あっ、すごい!」
と言ってすぐまねをするがなかなかうまくは回らない。
小百合が、
「ね、難しいでしょ。うまくいったらお慰み」
と言いながら鍋の準備に取り掛かる。
亜紀は必死で盆を回そうとする。
人差し指を盆の淵に当てて、
「えいっ!」
盆がくるりと1回転した。
「わっ、おもしろい!」
二人の楽しそうな笑い声が響き渡る。
一方、廊下では深刻そうに話しながら、
清一とヨシが歩いてくる。
「よく分かりました。どうも」
清一がヨシに目礼する。ヨシは口に人差し指を立てて
ヨネの寝室前で立ち止まり障子を開ける。顔だけ出して、
「姉さん、ただいま!今からすぐ食事作るからね」
テレビを見ていたヨネ、
「すまないねヨシ。ありがとうよ」
夕餉
清一が入ってきてヨネの横に座り胡坐を汲む。
「かあさん、色々聞いたよ。ヨシおばさんから」
「清二のこともかい?」
「ああ」
「できのいいお前ばかり可愛がりすぎて、ぐれたんじゃ」
「まあな。できのいい長男は東京に行きっぱなし。
できの悪い次男は、ぐれて隣村の娘と駆け落ち。
近くへ戻ってきたものの、その娘は母さんの一番嫌
いなタイプ。最悪だね、かあさん」
「そこまで分かってくれるんなら、帰ってきておくれよ」
「ああ、今考えてるとこ」
「ほんとうかい?」
「仕事はパソコンさえあれば何とかなる。
亜紀次第だね。学校のこともあるし」
ヨネ、黙って涙ぐむ。
「食事の用意ができましたよ!」
ヨシの声が聞こえて夕食が始まった。
居間に全員が集合する。
水炊きの用意ができている。いい匂いだ。
床の間を背にヨネを清一が介助して座らせる。ヨネの脇に
清一と亜紀が座ってヨシと小百合がまかないをしている。
「それじゃ、いただきましょうか?」
ヨネがそう言うと、皆一斉に、
「いただきまーす!」
と言って食事がはじまった。絶対に壊したくない幸せな
夕餉のひと時だ。涙をにじませながら、じっと野菜を噛
み締めている母の横顔を眺め清一には、
かつての一家を支えていた気丈な母の面影など、
ひとかけらも見られないほど母は気弱に見えた。
『おふくろも急に年をとってしまったものだ』
清一は心でそっとそうつぶやいた。
堀金観光開発
清一には5才年下の弟清二がいる。
共に白馬台高校の出身ではあるが、
清一が優等生だったのに比して
清二はひねくれものの悪だった。
それには原因があった。幼い頃から
利発だった長男清一を、ヨネは
心底愛し英才教育を施し、塩山家の跡取
り息子として多大の期待をかけてきた。
逆に清二には塩山家の面汚しとして
人目もはばからず虐待した。
清二は中学校に上がると益々非行に走り
ヨネの手に負えなくなっていった。
清一は母の過度の期待と弟の存在とにいたた
まれなくなり、東京の大学に入学と同時に何
かと理由をつけては故郷に帰らなくなった。
卒業後東京の出版社に就職してからはなお
さらだ。30歳で家族には内緒で結婚した。
亜紀が生まれて5年後に病弱の妻が死んだ。それ
からの5年間は父と娘の生活がずっと続いていた。
清二は高校を中退して隣村の堀金観光開発の
作業員としてバイトを始めた。社長の堀金留吉
が塩山家の次男と知って、それとなく手なずけ
ていったのだ。数年後清二は堀金の娘春子と
駆け落ちをする。二人は数年東京あたりで同棲
した後、神城に戻って堀金の許可の下所帯を持った。
そして昨年入退院を繰り返していた塩山の父が
亡くなった。葬式で兄弟が10数年ぶりに再会した。
白馬の隣村が飯森と神城である。五竜岳と大小遠見岳
の山並みが見事に美しい。
堀金観光開発は神城の五竜ゴンドラ乗り場を下った
留吉の所有地の中にある。
事務所で留吉と春子と清二がソファーに座って話している。
奥で女事務員が帳簿をつけている。
堀金留吉は葉巻に火をつけながら、
「清二、この間ばあさんが倒れたんだってな?」
「ああ、喘息の発作がきつうて」
「うちの家に電話くれりゃ、すぐ飛んで行ってやったのに」
春子は憎憎しげにそういいタバコに火をつける。
テーブルにコーヒーが出ていて清二はコーヒーを飲む。
留吉が煙たげに葉巻を吸いながら。
「お前達があそこに住めば一番ええんじゃがのう」
うわさ
春子もまた父留吉と同じようにタバコを煙たげにすいながら、
「あのオバア、絶対にうちのこと嫌いじゃから、
一緒にゃ住まんよ。うちも大嫌い!」
清二がコーヒーを飲み干して、
「お袋は兄貴べったりじゃけ、くそったれ、いつか仕返し
してやる。兄貴の言うことなら何でも聞きよる、くそ!」
と言って床を強く蹴った。堀金が、
「まあもう少しの辛抱じゃ。ばあさんが死にゃあ、こっちの
もんじゃ。財産の半分はお前のもんじゃ。数億はあるでよ」
堀金は笑みを浮べ清二を下目から見上げる。
清二はそれでも不満の様子だ。
「同じだけ兄貴にいくのは我慢ならん。全部いままで
いじめられ続けたわしのもんじゃ」
「そうは言うても、相続放棄でもせん限り無理だで。それより
変な遺言でもかかれたら最悪や。いま、妹のヨシバアと小百合
が面倒見とると言うじゃないか、全部持っていかれるぞ」
「くそ。あの兄貴さえおらんけりゃ」
堀金が葉巻を消しながら清二を見つめて意味ありげにうなづいた。
それから数日後のことである。毎日五月晴れのつづいたすがすが
しい朝、エコーランドの店SAYURIをヨシが掃除していた。
そこに村人が自転車を止めてヨシに声をかけてきた。
「ヨシさん、あんた聞いた?あんたんとこの甥っこ清二が、
あちこち借金しまくって歩いとるだや」
「大町の飲み屋の付けじゃないのけ?」
「その何倍もの借金じゃとよ。しかも、その金全部兄の清一が
払うというて借用証勝手に書いとるぞ」
ヨシは不安顔で聞き入っている。
「何でも数千万じゃきかんらしいだ。噂じゃ、億越したとか
越さんとかかの話じゃ」
「・・・・・・・」
そう言って村人は去っていった。
親子の会話
その日の夕方、買い物をして帰ったヨシは、
ビニール袋を全部小百合と亜紀に渡して
玄関先でことの全てを清一に話した。
清一は上を向いて腕組みし、しばらく考え、
力を込めてヨシに答えた。
「わかりました。おばさん!心配かけてごめんなさい」
翌日はすばらしい天気だった。山々の峰が間近に見えて
新緑が生命の息吹を叫んでいる。清一は思わず
大きく深呼吸をして、ここはいい所だと思った。
冬の八方はいわずと知れたスキーのメッカ。上級者達が
こぞって挑戦するのがこの八方スキー場正面のスラロームだ。
夏の八方はというと、これまた三千メートル級の
山並みを望みながら標高二千メートルのトレッキングが
できる超一流の山歩きスポットだ。
大雪渓、尾根歩きとなると本格的な装備が必要だが、
千数百メートルの八方尾根までなら、ゴンドラと二つの
リフトを乗り継いで誰でもすぐに登れる。
この日、エコーランドのお店を臨時休業して清一と亜紀
と小百合は、八方尾根まで登ることにした。
ヨネの寝室でヨシが話し相手をしている。清一が入ってきて、
「じゃあ、かあさん、亜紀をつれて八方尾根まで登ってくるよ」
「ああ、たのしくやるんだよ。亜紀に白馬を好きになって
もらわなくちゃ、何も始まらないからねえ。お前もこの村の
良さをもう一度再確認することだね。いってらっしゃい!」
「わかりました。よしおばさん行って来ます。
お袋の相手をしといてください」
「ああ、大丈夫だよこっちは。小百合は山のこと詳しいから。
天気が急変しそうだったら小百合の言うことを聞いて、
すぐ引き返してきておくれよな」
「はい、よくわかりました」
「小百合もこの私と一緒でこの村が大好きでな、空気の香りと
空の色で1時間後の天気がはっきりと分かるだで」
姉妹
「どうもありがとう、おばさん。勉強、勉強で
村のことを一番知らないのは、間違いなく
この私です。小百合さんの言うことをよく聞いて
行って来ますから安心してください」
「はい、じゃあ気をつけて」
「夕方6時には戻ります」
玄関から亜紀の叫ぶ声が聞こえる。
「パパー、まだ?早く行こうよ」
「あー、今行く!」
小百合と亜紀の笑い声が聞こえる。
三人が出発した後ヨネとヨシは一緒にテレビを見ながら
お茶を飲みお菓子を頬張っていた。ヨネがしみじみと、
「あの3人がずっとここの家族でいてくれると、
わしゃほんとに心安らかなんじゃがのう」
ヨシはせんべいをかじりながら、
「そん時ゃ、下女とばあやで住み込ませてもらおう
かいの、なー姉さん!」
「下女とばあやか。小百合が下女と言う事はなかろう。
お前がばあやはわかるがの」
「ほならお手伝いさんか?それでも十分じゃ」
「なんのなんの、嫁でもええのとちがうか?」
「それじゃあ姉さん、あんまりもったいないだで。
第一二人ともその気が全然ねえだよ。
そろってバツ一やしのう。わしらがどんなに
やきもきしても、そりゃかなわんでよ」
「そりゃ、そうじゃ。ワッハッハッハ」
ヨネは久しぶりに腹の底から大笑いをした。
「医者が喘息はストレスからじゃと言うとった。
発作を起こさんためにも何とか亜紀に気に入って
もろうて、ここに越してきて欲しいんじゃが」
「清一さんがそういうとんなさったか?」
「ああ、仕事はパソコンとかで何とかなる言うてな。
学校のこともあるが、亜紀次第やと言うとった」
「そうかー、亜紀ちゃん次第かー」
「そうや。あの亜紀ちゃん次第や」
明るい希望に二人は顔を見合わせて微笑んだ。
ゴンドラ
八方山麓ゴンドラ乗り場では、乗る人の列が続いていた。
亜紀がおおはしゃぎで小百合と話している。
「きょう、お店はいいの?」
「ええ、だいじょうぶよ。臨時休業。今日はお休み。
ヨネおばさんはうちの母が見ているし今日一日
ゆっくりしましょう。ねえ、清一兄様」
「すまないね、ありがとう」
三人手をつないで家族のよう。清一と小百合、顔を
見合わせて照れ笑いをしている。
うれしそうにそれを確認して微笑む亜紀。
順番が来てゴンドラの扉が開いた。清一が先に
乗り込んで亜紀の手を引く。
「さあ、気をつけて」
次に小百合の手を引く。見詰め合う清一と小百合、しっかり
と手を握る。そのしぐさをうれしそうに見つめている亜紀。
ゴンドラが急上昇して視界が開け、森の中の谷の上を
昇っていく。亜紀が叫ぶ、
「わあ、こわい」
「じっとしてれば大丈夫だ」
清一が父親らしく言うと、小百合は優しく微笑んだ。
視界がさらに開けて、小百合と亜紀が同時に叫ぶ。
「わー、きれい!」
清一も思わず見とれて、
「すばらしい景色だねえ」
心の底からそう思って叫んだ。
18歳で東京に出るまで暮らしたこの村が、こんなに
すばらしい大自然に包まれていたとは今まで気付かな
かった。おろかな人間の欲望に翻弄されて、
もう故郷へは絶対帰るまいと心に誓って20余年、時
とともに清一の心情も大きく変化しようとしていた。
ゴンドラの終点に着いて三人、軽やかな気分で
次のリフト乗り場へと歩む。
「今度はリフトだ、これは難しいぞ」
「ほんと?」
「大丈夫よ。3人乗りだから真ん中に座らせてあげる」
「わーい、よかった!」
リフトは3人並んで座る。前の人と同じようにまねをして
すっと何とか楽に座れた。亜紀の緊張は一瞬だった。
清一と小百合に挟まれて幸せが心を包んでいた。
リフトはとてもゆっくりと上昇していく。足が届きそうな
所もある。笑顔一杯の三人の姿。さわやかな風、
新緑の香り、残雪の山なみ。
八方尾根
さらにリフトを乗り継いで八方尾根頂上に
着くと少し肌寒い。
周りの山脈の絶景に3人はしばし見とれていた。
清一が小百合に礼を述べる。
「小百合さん、今日はほんとにありがとう」
「こちらこそ。とても楽しいです。
ねえ、亜紀ちゃん?あら?」
亜紀が見当たらない。
「はーい、お二人さん。こっち向いて!」
亜紀が向こうからカメラを構えている。
清一と小百合が思わず顔を向けた瞬間、
亜紀がカメラのシャッターを切った。
「はい、ツーショット。決まりだね」
亜紀は確信をこめて一人つぶやいた。
八方尾根を下りてから3人はみそらのエコーランド
を歩いた。色んなお店がある。
ディスコやプールまである。
店SAYURIでちょっと休憩して夕方6時、
ポンコツ乗用車で帰宅した。
「わー、いいにおい!」
「きょうはすきやきですよ」
「お袋も食べるのかい?」
「お医者様から、ゆっくりかんでどんどん食べなさい
って言われたそうです」
「ふーん。ゆっくり噛んでか・・そりゃそうだ」
3人の笑い声が屋敷中に響き渡る。
食卓の用意ができている居間に3人が入ってきた。
「ただいまー、帰りました」
ヨシが鍋に肉を入れながら、
「おかえり、すぐに食べられるからね」
ヨネも元気そうだ。
「おかえり。楽しそうだね。笑い声が一杯で、
これじゃすぐに元気になれるよ私も」
ヨネがうれしそうに笑う。ヨシが、
「いつでもどこでも笑顔が一番!」
と言うと皆一斉に大笑いをした。
塩山家の楽しい夕餉が今日も始まる。
ところが今夜は少し様子が違った。
しばらくしてから一台の高級乗用車が音もなく
塩山邸に入ってきた。運転しているのは春子。
助手席には酔った清二が乗っている。
横っ面
車が止まると清二は扉を開けて荒々しい足取りで
玄関口を駆け上がった。廊下を大きな音を立てて走る。
豹がらのミニスカートをはいた春子が後を追う。
「やめなさいよ、あんた!やめなさいよ!」
物音に居間の皆は緊張する。食べる手を止め
廊下を注視する。荒々しい足音。障子が乱暴に
開けられ、酔った清二が現れた。
「こらっ、兄貴。黙って帰ってきやがって、
財産の半分はわしのもんじゃ。絶対、
兄貴に独り占めはさせんぞ!」
と大声で叫んだ。清一は黙ってすっと立ち上がり、
清二の横っ面を平手で思いっきり打った。
『ビシッ』と大きな音がする。
「わーっ」
清二が泣きべそをかきながら、左の頬を両手で
抑えて廊下を走り去っていった。
「わーっ。兄貴ばかりいい子にしやがって、
わしはいつものけもんや。こんちきしょう。
いまにみてろよ」
「ほら見てごらん、あんた」
後を追う春子の声が聞こえ、
急発進の車の音がして二人は去っていった。
ヨシがぐつぐつ煮える鍋の火を消す。
皆緊張の面持ちで座りなおす。
清一がおもむろに、
「母さん、来年の春に亜紀とこっちへ引っ越してくるよ」
ヨネは驚いて亜紀に、
「ええっ!いいのかい、亜紀ちゃん?」
亜紀は微笑みながら答えた。
「うん、いいよ。小百合姉ちゃんと一緒に暮らせるんなら」
小百合は戸惑ってヨシとヨネの顔を交互に見る。
ヨネが間をおいて、
「皆一緒に住んどりゃええじゃないか。屋敷は広いんじゃし。
なあ、ヨシ」
ヨシはせっせと肉を鍋に入れ火をつけなおしながら、
「わたしゃ姉さんの傍が一番ええ!」
そこで又皆は大笑いをした。清一が、
「それじゃあそういうことで皆さんよろしくお願いします」
亜紀も、
「お願いします」
と頭を下げた。
「じゃあもう一度食べなおし!」
清一が叫んで、塩山家の笑い声と楽しい夕餉が再び始まった。
清一の決意
その頃清二は春子の運転する車で田舎の凸凹道を
のろのろと走っていた。助手席で悪態をつく清二、
「くそっ、今に見ていろ殺してやる。兄貴さえいな
ければ、あのババアがくたばれば財産は全部
わしのもんだ。10億の財産は全部わしのもんだ」
くわえタバコで運転しながら春子はニタリと笑い、
さげすみの目で清二を見ていた。
『そのあとはそっくり私のものよフフフ』
深夜の塩山邸、一部屋だけぽつんと明かりが点いている。
清一とヨネが、ヨネの寝室で話している。
「それでお前、結婚を?」
「小百合さんさえよければ是非」
「そりゃいいに決まっとるじゃないか。明日妹と本人に
話をしよう。来春東京から越してくるにしてもその
ほうがつじつまが合うよな」
「ああ、そのほうがいいと思う・・・・それからもう一つ」
「もう一つ?」
「もう一つお願いがあるんだけど。遺言状を書いといて欲しいんだ」
「遺言状?」
「弁護士を通して正式の遺言状を書いて欲しいんだ」
「それっておまえ・・・」
「長男清一の取り分は十分の一。後は清二にやってくれ。
全て現金化した後と一筆書いといてくれたら助かるんだがな」
「山林もこの屋敷もかい?」
「ああ、もちろん」
「あっさりしてるね、お前は」
「完成したら真っ先に清二を呼んでその旨知らせてあげること」
「・・・・・」
「これしか清二を立ち直らせる方法はないと思う」
「お前って子は、ほんとに」
「よく考えてみて母さん。じゃ、おやすみ」
邸内の明かりがぱっと消えて闇夜。美しい星空。
清二の決意
翌日の午後、青木湖湖岸の駐車場に清二と
春子が乗った高級乗用車が止まっていた。
車は泥だらけで汚れている。今日は清二が
運転席、春子は助手席でタバコを吸っている。
清二が思案顔で語りかける、
「どうやって兄貴を殺(や)るかだ」
「事故に見せかけることよ」
「事故?」
「そう、たとえば眠り薬とか青酸カリとか
飲ませた後で車ごと湖の底に沈めるのよ」
「なるほど」
「もし車が発見されても、死体は腐ってて
毒殺とは分かりゃしないさ。事故。夜スピードを
あげすぎてカーブを曲がりきれずに湖にがけから
ざんぶとダイビング。あるいは、目の錯覚で
柵を乗り越え湖へ、なんとでもなる」
「よし、それでいこう」
「本気(まじ)?」
「ああ、もちろん。今までの苦難の人生に決着を
つけるんじゃ」
春子は黙って次のタバコに火をつけた。
その晩清二はこっそりと白馬台高校の理科室に
忍び込んだ。かつて中退する前に理科の実験に
出たことがあった。その時化学担当の教師
(今の教頭)が注意事項を話した。
「ここの劇薬を扱う時だけは重々注意してください。
特にこの青酸カリとか」
この時誰かが質問をした。
「どれが青酸カリですか?」
「このシアン化カリウムというのが青酸カリのことだ。
こちらのシアン化ナトリウムも同様に劇薬だ」
清二は二度と実験に出る事はなかったが、
この日の事は鮮明に覚えていた。
「あれが青酸カリだ。あの鎖は番線カッターで切れる」
清二は皮手袋をはめ、番線カッターを持って忍び込んだ。
すぐに劇薬棚は見つかった。瓶の位置もそのままだ。
清二は鎖を一気に切断するとすばやく二瓶を掴んで逃走した。
得意げに瓶を見せた時、春子は驚き血の気が引いた。
「あんた、ほんとに本気なのね?」
「ああ、本気で決着をつけると言うたじゃろが」
調書
清二の気迫に押されて春子は策をひねり出した。
数日後の晩に新発売の缶チューハイを持って
塩山邸を二人で謝罪に訪れる。
ヨネは春子が引き止めておく。清一と清二が二人
きり乾杯をすることができればもう殺ったも同然。
時間は小百合とヨシバアが床についた頃、10時
が一番いい。後は二人で清一を病院に連れて行く
といって担ぎ出せばこっちのものだ。
全てはうまく行くと思えたのだが・・・・。
数日後の長野県警本部。刑事課で田中刑事が
鑑識の山本と話している。
「で、清二の胃の中の薬物は?」
「青酸カリでした。致死量に達しています」
「ということは、死因は溺死ではなく服毒死」
「はい、そうです」
「で?」
「さらに靴の裏が白馬台高校の毒物窃盗犯のものと
ぴったり一致しました」
「ふむ、まちがいないな」
田中刑事、タバコに火をつけて、
「皮手袋、シアン化カリウムの空き瓶と、まだ
未使用のシアン化ナトリウムの瓶とが車のトランク
から見つかっている」
田中刑事、くわえタバコで報告書を書き始めた。
「塩山清二は死を決意して白馬台高校に青酸カリを
盗みに入った。数日後の深夜ドライブをしながら
青酸カリを口に含み、ごくりと飲み込んでから猛
スピードで湖に突っ込んだ。覚悟の自殺という訳だ」
田中刑事、調書の下書きをしながら山本を見上げる。
山本は疑問ありげにしぶしぶうなづく。
その晩、神城の清二宅で通夜が執り行われていた。
棺の前に喪主の春子。隣に堀金留吉が座っている。
向かいに田中刑事が座っている。最後の弔問客が帰って
堀金留吉が春子に声をかける、
「春子、わしは家で飯食ってくる」
と言って立ち上がり、田中刑事に目礼をして出て行った。
田中刑事も時計を見、周りを見回した後、
「じゃ、私もこれで失礼させていただきます」
と言って立ち上がった。
通夜
春子はずっと下を向いたまま返事の代わりにうなずいている。
田中刑事は棺に近づき最後の別れをした。この時棺の下に
何か細工をした。棺に手を合わせて、
「じゃ、又明日のお昼に」
と言って出て行った。
春子が一人うつむいたまま棺の前に座っている。
しばらくじっとしていた春子が、突然、
「うううっ!」
と言って小声で叫びだした。
「バカ!もうバカ!バカ!どうしてこうなるのよ。
もうドジなんだから。何もかも失敗じゃないの。
どうして間違って飲んじゃったのよ。盗むところ
間ではうまく行ってたのに、もう。最後の詰めが
甘かったのよ。清一に飲ませる毒入りを一気に
間違って飲むなんて、ほんとにばかじゃない?
もう一銭にもならないわ。罰が当たったのよ。
欲にくらんで大罰が当たったのよ。ばかばかしいっ
たらありゃしない。うううう、あんた」
春子は棺にひれ伏して泣き続けた。
田中刑事と山本は、清二のことをあちこち聞いて周った。
「清二は相当母親のヨネと兄清一を憎んでましたね」
「ああ、堀金開発の事務員の話じゃ、いつか兄貴に
仕返しをしてやるとか、くそっあの兄貴さえおらんけりゃ
とかいうとったらしい」
「借金していた店の主人や友人達も口をそろえてそう言っ
てるそうです。とても自殺とは考えられませんね?」
「そりゃわからん。あてつけで死ぬ奴もいる」
「あてつけですか?」
「ああ、相手を殺るほどの勇気のない奴は、憎い相手の
目の前で毒をあおって死ぬなんて、歌舞伎とかオペラ
とかでありゃせんか?昔から」
「なるほど。話は変わりますが、清二の借金八千万円は
全額塩山ヨネさんが払うそうです」
「大変な息子を持ったもんだな」
缶酎ハイ
春子は必死でその晩のことを思い出していた。
全てはうまく行っていたのに何故?
夜10時、予想どうりヨネの寝室あたりの灯が
ぽつんと点いているだけで皆寝静まっていた。
静かに車を止めてそっと玄関のチャイムを押す。
ヨネの寝室でまだ話しをしていた清一が気づき、
「誰だろう今頃?ちょっと見てくる」
と言って部屋を出た。
玄関には神妙に清二と春子が立っている。
ヨネが奥から雰囲気を察して出てきた。
清二が今までになく神妙に、
「かあさん、にいさん。この間は乱暴を働いて
本当にごめん。今日は春子と謝りに来た」
「まあ、どこまでがほんとうかね?」
「あげてやりなよ、かあさん。すぐ帰るんだろ、清二?」
「ああ、この新発売のチューハイを一缶、兄貴と仲直り
の乾杯をしたらすぐ帰る」
と言って清二は手に提げていた缶の入った袋を持ち上げた。
「そうか、じゃあ俺たちは厨房でいいよ。
こりゃまたたくさん持ってきてくれたなあ」
清一は清二から袋を受け取り厨房へ向かう。
ヨネと春子は部屋に入った。
清二は清一に親しげに話しかける。
「ああ、新発売であっさりしていてうまい」
その晩亜紀はいつものように小百合と一緒にヨシの部屋で
寝ていた。皆が眠りについた頃喉が渇いて厨房へ立った。
冷蔵庫を開けてジュースを飲み扉を閉めた時、
廊下に足音といつもと違う男の人の声が聞こえた。
亜紀はスーッと冷蔵庫の陰に身を隠す。
清二が先に入ってくる。
「このチューハイ、コップにとくとくと移して、
一気に飲むとうまいんじゃ」
「ふーん」
後から入ってきた清一は椅子に腰掛け缶のラベルに見入っている。
清二が棚からコップを二つだし、流し台の丸盆の上におく。
缶チューハイをコップに注ぎ向こう側に薬を入れる。
一気飲み
「マドラーは?と」
清二がしゃがんで下の引き出しを開けている。
この隙に亜紀は冷蔵庫の陰からすっと横切って
廊下へ出る。
この時思わず盆に指が触れた。
盆は半回転して止まる。
清二、コップにマドラーを入れ・
「よくかきまわして、と」
かき回しながら盆を持ってくる。
盆をテーブルの上に置き、
「こうやって一気に飲むとうまい」
と言って乾杯もせずに、清二は一気に飲み干した。
その頃居間では、床の間を背にヨネが正座していた。
春子が居ずまいを正して深々とお辞儀をしている。
「この間は本当にご迷惑をおかけしました」
ヨネはふんという顔つきで、
「どういたしまして」
その時奥で騒がしい物音がした。
計画通りだ。ここで清二、
「兄貴が倒れた!」
の大声が聞こえる、はずだったのに。
清一の大声で、
「清二、どうした?!」
あわただしい足音が廊下から玄関へ、
そのまま車が急発進して出て行った。
清一が後を追い、庭先で、
「清二ーっ!」
遠ざかる車。清一が呆然と立ち尽くしている。
ヨネと春子が歩み寄る。パジャマ姿の
ヨシと小百合と亜紀が飛び出してくる。
「缶チューハイを一気飲みして急に駆け出して
行ったんだ。仲直りの乾杯もしないうちに。
何がなんだか分からない?」
春子の顔色が急変した。
「あんた?」
春子が走り出そうとする。
清一が乗用車に走りより、
「春子さん!この車に乗って。皆は家で待っててくれ。
追いかけてくる」
そう言って清一は、ポンコツの車を急発進させた。
国道148号線を大町方面へと疾走する。
春子の顔は引きつっている。
神城に清二は戻っていなかった。
転落死
「病院?」
思いつめていた春子は、そう小さくつぶやいた。
南神城のトンネルを抜けて青木湖へ出る。
直線道路に大町まで10kmの標識が見える。
湖に面した崖の急カーブ、ガードレールの隙間、
両側が激しく外側に折れ曲がっていて湖に向かって
タイヤの跡がついていたが、清一は気づかず
そのまま大町へと向かった。
大町救急病院に寄る。
「どなたも急患は見えておられませんが」
再び神城に戻ったが、やはり清二は帰宅してなかった。
春子を下ろして森上へ戻る。
城山邸では皆が起きて待っていた。
「清二は見つからない。今日のところはこのままに
しといて、とにかくもう休もう」
厨房もそのままにして皆寝床に着いた。
翌早朝である。長野県警のパトカーが神城の清二宅
に止まっていた。
「ご主人が転落死されました。確認のためご同行願います」
さほど驚きもせず春子は、
「ハイ」
と返事してパトカーに乗った。
この時田中刑事は直感で春子は何かを知っている、
清二の死を予知していた節がある。
パトカーの中で、
「昨夜、ご主人に何か変わった事はありませんでしたか?」
「一緒に森上の塩山邸にうかがいました」
「何時ごろですか?」
「夜の十時ごろです」
「どういうご用件で?」
「数日前の晩に、主人がお酒を飲んで乱暴を働いたので、
そのおわびに・・・」
「そうですか」
その頃塩山邸には鑑識の車が止まっていた。
「厨房は全て昨夜のままです」
そういう清一を、鑑識の山本は疑いの目で見ている。
「ありがとうございます。このコップが清二さんのですね?」
「ええ」
「こちらは?」
「私のために清二が注いでくれたコップで、
まだ手をつけていません。清二が、こうやって
飲むとうまいと言って一気飲みして見せたんです」
「なるほど、その直後ですね、外に駆け出して行ったのは?」
「そうです」
誤飲
みんなの指紋が採取された。
亜紀はおもしろがっている。
捜査が進むにつれて、この家の人は犯人で
はないなと山本は確信した。
清二の告別式も済み数日後、田中刑事は報告書
をまとめ上げて県警本部へ届けるところであった。
白馬から鬼無里を通って長野へ抜ける県道である。
険しい山道をパトカーがゆっくりと走っている。
鑑識の山本がハンドルを握り、助手席で
田中刑事がタバコに火をつけた。山本が、
「コップから青酸反応が出ました」
田中刑事、大きく煙を吐き出して、
「誤飲にしろ自殺にしろ自分で毒を飲んだのには変わりはない」
「誤飲?・・・どうしてそうなってしまったんでしょうかね?」
「わからん」
「あのチュウハイ、一気飲みだったそうです
コップの指紋は清二。盆には清二と亜紀ちゃんの
人差し指の指紋がついていました」
「ふーん」
「別に問題は?」
「別に問題はないだろう。それより、よく運転できたなあ」
「そうですよね。たまにあるらしいです、強靭な胃の持ち主で
毒の回りが遅れることが」
「すごい顔して死んでたもんな」
「相当苦しかったと思いますよ。それで湖めがけてまっしぐら」
「嫉妬と挫折と自暴自棄」
「清二の場合、ひねくれ方が異常でした」
田中刑事、しばらく間をおいて、
「・・・・・自殺だな」
「でも覚悟の自殺だとしたら何故その場から駆け出したんで
しょうか?何かのドラマのように兄の腕に抱かれて、最後に
何かしゃべって、その場で死ぬというのが自然だと思いますが」
田中刑事、タバコの火を消して、
「それはな・・・しまったと思ったんだよ」
「しまった・・・・と?」
「ああ、たとえば飛び降り自殺した奴も、とんだ瞬間
しまったと思ったのがかなりいやほぼ全員そう思うん
じゃないのかな?頭で思うんじゃなくて命がそう思うんだ」
「命が・・しまったと思うんですか?」
「たぶんな。ためらい傷と同じだ」
田中刑事、次のタバコに火をつける。
山本が叫ぶ。
「ためらい傷?一気飲みした瞬間、命がしまったと思った。
その場で吐きだしゃいいじゃないですか!」
真実(最終回)
「男にはプライドってものがある」
「プライドねえ。それで車を駆って湖へ」
「そのときゃ毒がもう回っていた。ノーブレーキで突っ込んでいる」
「なるほど、しまったと思ったがもう遅かった」
「そうだ」
「清一の話では、仲直りの乾杯もせずに一気に飲み干したから
変だと思ったと言ってます。もし誤飲だとしたら。
中身を知ってるわけですから大急ぎで救急病院、
ここでしたら大町病院を目指してまっしぐらのはずですが?」
「それはない」
「でも先輩、さっき誤飲でも自殺でもと言いましたよ」
「誤飲はありえない。小心者だった清二はいざその時となって
怖くなったのだ。もし清一をほんとに殺るつもりでいても、
とうとう実行する勇気をもてなかった。
それこそ成り行きでやけになって毒入りを自ら一気にあおったのだ」
「そういうもんですかね」
「ああ、そういうもんだ」
「それだけの根性があれば、兄貴にひれ伏して、いままでのこと
許してくれと涙ながらに暴露してもいいんじゃないかと?」
「それはドラマの見すぎだ。現実は小心者のひねくれた男は、
プライドのはざまでいとも簡単に死を選ぶ。その瞬間、
命そのものはしまったと感じる・・・・・・自殺だ」
「なるほど。・・・先輩、よく分かりました」
美しい山並みの中をパトカーがゆっくりと走っていく。
だんだんと小さくなりパトカーは見えなくなった。
美しい夕焼け。白馬の里が今、何事もなかった
のように暮れようとしている。
どこかでカセットのスイッチを入れる音が聞こえた。
テープが回りだし春子の叫び声が聞こえてきた。
「バカ!もうバカ!バカ!どうしてこうなるのよ。
もうドジなんだから。何もかも失敗じゃないの!
どうして間違って飲んじゃったのよ!盗む所までは
うまく行ってたのに、もう!最後の詰めが甘かったのよ。
清一に飲ませる毒入りを一気に飲むなんて、
ほんとにバカじゃない。もう一銭にもならないわ。
罰が当たったのよ。欲にくらんで大罰が当たったのよ。
バカバカしいったらありゃしない・・・うううっ。私の夢
も泡と消えてしまったじゃないの・・・うううっ。あんた!」
ー完ー
塩山一族