「ブラディ・シャドウ」の街

香月 鐘二郎

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 金剛心法。
 いにしえより伝わる古流柔術の一派である。
 ルーツをたどれば、遥か奈良時代に行き着くと伝えられている。
「役の小角」がその始祖とも言われているが、もちろん真偽のほどは解らない。
 役の小角というのは奈良時代の修験者である。
 葛城山の麓に生まれ、古くより伝わる山岳信教と仏教の一派である密教を結び付け、修験道の基礎を創設したと言われている。
 また前鬼・後鬼という二匹の鬼を使役し、様々な呪法を駆使したと伝えられている。
 このあたりは陰陽師に近いといえるのかも知れない。
 小角の記述は「続日本記」や「日本霊異記」に見られるが、伝えられる人物像には伝説的な部分が多い。
 その小角が用いた呪術のひとつが、金剛心法だというのだ。
 もちろん小角の史料の中に金剛心法の記述はない。
 思うに少なからず呪術的な要素を含む心法と、小角の駆使した呪法とを結び合わせて伝えられたのではないか。
 金剛心法というは相手の行動を制限し、戦闘をコントロールすることを目的とした武術である。
 語弊を恐れずにいうなら、催眠術の一種である。
 戦闘中にかける催眠術が、金剛心法なのだというのだ。
 一体闘いの最中に、催眠術にかけることが出来るのであろうか。
 御門将介の言によると、
「闘いのさなか自体が、一種の催眠状態にあると言えるのだよ」
 と、いうことのなる。
 催眠とは変性意識状態の一種である。
 変性意識状態とは、何かに集中しているために、そのこと以外の対外的刺激を全て遮断している状態である。
 例えば、テレビに熱中していて誰かに声をかけられたのに気づかないとか、好きな事をしている時には時間の経過が早く感じたりするのがこの現象である。
 闘いの最中は、相手の一手一投足に集中しているため、自然とこの変性意識状態に陥るというのだ。
 この状態に入った人間は暗示を受け易くなる。
 これを「これを被暗示性が高まる」といい、様々な事柄を考えるストレスから解放され、結果として自由な思考が制限されるのだ。
 金剛心法では、この状態を利用して暗示をかける。
 催眠術では通常の心理状態から、一度変性意識状態に落とし込む必要があるのだが、戦闘中は最初からその状態にあるため暗示に掛け易いと将介は言うのである。
 ただし暗示というのは、言葉を用いて行うものである。
 言葉の通じない相手には、暗示のかけようがないのだ。
 それが金剛心法の弱点でもある。

 その女が現れたとき、会場にいた全ての男たちの視線は、彼女に釘付けになった。
 まるでハリウッドのトップ・スターが現れたようだ。
 美しい女であった。
 長い金髪を複雑な形に結いあげており、そこから観えるうなじから肩にかかるラインが実に美麗であった。
 淡いブルーのナイトドレスの胸が形よく盛り上がっている。
 長身、スレンダー、ハーフ系の美女であった。
 その女がドレスロンググローブのしなやかな腕を絡ませているのは、これまた白のディナージャケットスーツを着込んだ長身の若者である。
 身長は188センチ、体重でも有に100キロは超えるであろう。
 鍛え上げられた身体であることは、スーツの上からも容易に見て取れる。
 イケメンとは言えないまでも愛嬌のある風貌は、見ている者を思わずほっこりとさせる。
 今風にいえば癒し系の風貌ということになろう。
 若者は名を御門将介(みかど・しょうすけ)といった。
 日本人である。
「おい、ショウ」
 華やかな美女が、羨望の眼差しを向ける客たちに、軽い会釈を返しながら囁いた。
「あたし、目立ってるか?」
「もったいないな」
 将介はその耳に返した。
「何がだ? あたしのようなイイ女には、てめえなんかは勿体ないってか」
 その女は上機嫌で応える。
「お前も黙ってりゃ、そこそこイイ女なんだがな」
 その脚をロングドレスの中で蹴飛ばした。
「てめえ、殺すぞ。黙ってりゃってのはどういうことだよ。ってかそこそことは何だ、すげえイイ女だろうが」
「だから、それが勿体ないってんだよ」
 女の名前は劉愛華(リュウ・アイファ)。香港のデート嬢である。
 デート嬢というのは、客と擬似デートをしながら観光案内などをする仕事だ。もちろん要望があれば夜の仕事もする。
 というよりは、そちらがメインみたいなものだ。
 そのほうが身入りがいいからだ。
 つまりは将介は愛華の客だったというわけである。
 
 マカオ。
 コタイストリップの「ホテル・イン・ギャラクシアン」のカジノ場である。
 広大なスペースに無数のバカラやルーレット台を配し、その周囲には幾重にも人々の群れが層をなしている。その人垣の更に周囲を囲むのはスロットマシンの行列である。
 将介と愛華が歩くと人々の列が割れ道が出来る。
「で、どうするんだ、ショウ。ひと勝負行くか?」
「ま、ここはカジノだしな」
「勝負となれば、お前の「シンポウ」で楽勝に勝てんだろ?」
 愛華はドキドキしながら言った。
 金剛心法。
 闘いの中で相手の動きをコントロールする事を主眼に置いた拳法だ。闘いの最中に仕掛ける催眠術の一種と思っていただければ話は早い。
 愛華は以前香港マフィアとの闘いで、魔法のような心法の威力を目の当たりにしてるから、それがカジノでも通用すると期待しているのだろう。
 通用すれば無論、あっという間に大金持ちだ。
「ところがそうは上手くはいかない」
 愛華の胸の内を見抜いたように将介は笑った。
「俺ら御門家の者は、最初に術を掛けられるんだ」
「術?」
「ま、「百舌かえり」という術だな」
「モズかえり?」
 将介は説明を始めた。
「托卵という習性を知っているか?」
「さあ、知らないわ」
「カッコウという鳥がいる。この鳥はモズなどのカッコウ科の鳥の巣に自分の卵を産み付けるのだ。モズの親はそれを自分の子供と思い込み、必死で餌を与え育てる。自分よりも遥かにでかいカッコウの雛にだ」
「気の毒な話ね」
「つまり「百舌かえり」というのはそう言う術だ。幼少の頃に植えつけられた暗示は、普段は何ら影響を及ぼさないが、ある特定の状況になるとカッコウの雛のように姿を現す」
「どのような状況だ?」
「いろいろあるが、例えばギャンブルのような状況だな。心法をギャンブルに使おうとすると、体が動かなくなり術が使えなくなる」
「なんだって!」
 愛華はつい大声をあげた。
 人々が驚いて振り返ったので、あわてて口を抑えた。
「誰にそんなマネを・・・」
「俺は親父にかけられた。親父はじじいだな。じじいはそのまたじじいという風にずっと続いている。ま、心法は使い方次第で色々と危険なこともあるからな、昔の人はそれなりに規制を掛けたんだろうな」
「うっそ。それじゃ、まるっきり意味がないじゃないの」
 愛華はがっかりして肩を落とした。
「そんなことはないだろう。まっとうな勝負で勝てばいいのだからな」
 そう言った将介の足が止まった。ひときわ人いきれの激しいバカラ台の前だ。
 バカラ台の隅っこに見窄らしい身なりの老人が座っている。
 よれよれのジャケットにくたびれたスラックスを履いている。年齢は70代の半ばを過ぎたくらいか、顔が酒に赤く染まっている。
 マカオのカジノは身なりに関してはそう厳しくはない。身分さえしっかりしていれば、基本的にTシャツにジ-ンズでもOKだ。
「どうした、ショウ?」
 ふん。
 将介の唇に微笑が浮かぶ。
「アイファ。面白いもんが見れるぜ」
「面白いもの?」
「あのじじいだ」
 将介はバカラ台の前の老人を顎で差した。
「あのじじいがどうした?」
「まあ、見てろよ」
 ふたりは老人の後ろに立ってゲームの行方を見守った。

 バカラはマカオのカジノで最も人気のあるゲームである。
 バカラではディーラと客が直接対決するわけではなく、別に「バンカー」と「プレーヤー」という代理人をたて、その勝負の行方に対しそれぞれ賭けることが出来るのだ。この場合、客が賭けるのはバンカー側でもいいし、プレーヤー側でもいい。
 ゲームが始まるとバンカーとプレーヤーにそれぞれ2枚ずつのカードが配られる。客は2枚のカードの合計が、より9に近いほうを予測し賭けるわけであるが、もしも合計が9より大きくなった場合は下一桁の数字で競うことになる。
 例えば3と3の組み合わせは合計が6であるが、5と6の組み合わせでは合計が11となって下一桁は1だから、この場合は3と3の組み合わせの勝ちとなる。
 バンカーかプレーヤーの点数が、最初の2枚で「8」か「9」の場合はこれを「ナチュラル」と呼び、そのまま勝負が決まるのだが、バンカーかプレーヤーのいずれもナチュラルでない場合は、もう一枚のカードを引くことができる。
 プレーヤーは点数が6か7の時はそのまま勝負し、5以下の場合はもう一枚のカードを引くことになる。それに対するバンカーは、プレーヤーが6か7で勝負にでた場合、バンカーの点数が5以下なら3枚目を引くことになる。
 こうしたカードのやり取りはディーラーが行うので、客はただバンカーかプレーヤーに賭けるだけで勝負することが出来るため、非常に簡単で尚且短時間で結果が出る。それでこのゲームは人気があるのだろう。

 その老人はバカラ台の隅でチップを切っていた。
 老人の前には数枚のチップ。多くも少なくもない。
 ディラーがカードを切るたびに何枚かのチップを賭ける。
 勝ったり負けたり。
 それでも不思議なことに手元のチップの数は変わらない。
 負けるときには少なく。勝てるときには多めに。・・・そういう賭け方をしているらしい。
「おい、ショウ」
 愛華が退屈を持て余した体で頬を膨らませた。
「別に何も起こらないじゃない。退屈なだけよ」
「まあ、そう焦るな。もう少しだ」
 将介が言ったとき、その異変は発生した。

 老人が急に勝ちだしたのだ。
 老人は常にプレーヤー側に賭けていたのだが、そのプレーヤー側の勝率が、突然急激にアップし始めたのだ。
 3連勝。4連勝。5連勝。その度に老人の手元には多額のチップが戻って来る。
 あっという間に老人の前にはチップの山が出来上がった。
「へえ、驚いたな。あのじじい急にツキ始めやがった」
 愛華が目を丸くした。
「そういうわけでもないな。じじいは最初から分かっていたんだ、いずれはこういうツキが来ることを。わかっていたから、損出を最小限に抑えながら待っていたわけだな」
 将介が解説をはじめる。
「わかっていた? どういうことよ」
「あの、カードを取り出すボックス。「シュー」というのか」
「正確には「ディーリング・シュー」ね」
「じじいはあのシューの中のカードを読みきったんだ」
「読み切った?」
「その結果プレーヤー側が勝てると踏んだからプレーヤー側に賭け続けたんだ」
「どういうこと?」
「例えばシューの中に4以下の小さなカードが多く入っていれば、出したカードの合計が小さくなるから、10を超えることは少なくなるだろう」
「まあ、そうだな」
「3枚目のカードを引くのはプレーヤーが先だから、手元に来るカードとの合計は10を超えず、且つ9に限りなく近づく」
「なるほど。だからプレーヤーの勝つ確率が増えたわけね」
「そうだな」
「しかし、なんでシューの中に小さなカードが多いと分かったのかしら」
「それはじじいが、これまで出されたカードを全て覚えていたからだろう」
 将介はとんでもないことを言い出した。
「全てって・・・最初からか?」
「ああ、多分な」
「何百枚もあるんだぞ」
「俺が見たのは途中からだが、じじいがカードを暗記しているのは確かだ。恐らく最初の一枚から全て暗記しているのだろうな」
 そしてニヤリと笑った。
「プロだな、あのじじい」
「ふうん」
 愛華の唇にも不敵な笑みが浮かんた。
「じゃ、あのじじいでいいな」
「ああ」
 将介が頷いた。
「んじゃ、行ってくる」
 微笑を唇に張り付かせたまま、愛華は老人に近づいていった。

「おじいさん。随分と景気が良さそうね」
 愛華は大輪の花のように老人の隣に腰掛けた。
「ほう、これはこれは。目にも麗しいお嬢さん」
 老人は真っ赤に酒やけした顔を更に赤くして言った。
「そのツキを分けて欲しいの」
「ほほ、わかりやすいお嬢さんじゃの」
「おじいさん、名前は?」
「わしゃ、楚儀(チュウ・イー)じゃ。お嬢さんは?」
「あたしは劉愛華よ」
「香港のお方かな」
「そうよ。おじいさんは?」
「台湾じゃ」
「ねえ」
 愛華は老人の手を握って、飛び切りの笑顔をみせた。
「ここじゃ何だから、もっと静かなところで話さない?」
「それは嬉しい提案なんじゃが、先程から後ろの視線が気になってのう」
 そう言うと後方の将介を振り返った。
「お嬢さんの連れじゃろう。ゲームの途中から気付いておったが、すべてを見透かされておるようで、やりにくいったらなかったわ」
「彼はおじいさんの事をプロだと言ってた」
「やれやれ、じゃのう」
 老人は立ち上がった。将介に向き合う。
「わしは楚儀というもんじゃ」
「御門将介。日本人だ」
 将介は鮮やかな広東語で言った。
「日本人がわしに何の用じゃ。金か?」
「そういう訳じゃないけどよ。何と言うか・・・ま、先に謝っておこうと思って、よ」
 将介が言ったとき、その集団が踊り込んできたのであった。

 それは黒いスーツにサングラスの10人ほどの集団であった。
 どう見てもただのツアー客には見えない。まるで三流映画に出てくる殺し屋の集団だ。
 その異様な雰囲気に押されて、観客は道を開けた。
 集団は真っ直ぐに将介や愛華のいる方に近づいて来る。
 楚儀は自分のチップを守るように、バカラ台の前に立ちふさがった。その姿は70の老人には見えない、異様な迫力があった。
 将介はそんな楚儀を横目で見やると、唇に微笑を浮かべたまま、その肩に手をやってスッと前に出た。
 黒い集団は左右に散らばると、将介達を取り囲んだ。
「何か用かい? ゲームを代わってくれというようには見えないけどな」
 将介が英語で言った。
「ショウスケ・ミカドだな」
 真ん中の男が言った。どうやらこの男がリーダーらしい。
「用があるなら、別の場所で聞くぜ」
「別に用はない。ただ・・・」
 男は全身に殺気をみなぎらせて言った。
「目障りなだけだ」
 集団のひとりが一歩前に踏み出すと、顔面にパンチを繰り出した。問答無用だ。
 素人のパンチではない。
 将介が頭を振ると、男の身体はその体を飛び越して、バカラ台の上に仰向けに叩きつけられた。
 ディーラーが悲鳴をあげて尻餅をついた。
 遠巻きに事の成り行きを見守っていた観光客達が一斉に逃げ惑った。
「人間違いではないようだな」
 将介が目配せをすると、愛華は無言で頷いて老人を庇って後ろに下がった。
 黒の集団はジリジリと間合いを縮めて来る。
「俺は喧嘩はしない主義なのだが・・・仕方ないか」
 将介は両手を頭の上に持ち上げると、リズムを取るように叩きだした。
「GO!」
 リーダー格の男が吼えた。
 男達がいっせいに動いた。
 将介は右に左に身体を揺すって、その攻撃を避ける。
 将介が身を翻す度に、男たちの身体が次々と宙に舞う。
「いい運動だな」
 将介は額の汗を拭いながら、愛華と老人の元まで下がった。
「なあ、イーのじいさん」
「あんた、何者じゃ?」
 老人、楚儀が目を見張った。
 その肩をポンと叩いて、将介はニヤリと笑う。
「いいか、俺が「カウント」と言ったら、全身が痺れて動けなくなるぜ」
 将介が男達に向かって、そう宣言した。
「出るわよ」
 愛華は楚儀に囁いた。
「なにがじゃ?」
「まあ、見てればわかるわよ」
 その時、将介の周囲を取り囲んでいた男達が一斉に動いた。
 今度は一人ずつではない、呼吸を合わせて同時に襲いかかったのだ。これではどうあがいても捌きようがない。
 しかし将介はあわてなかった。
 頭の上で手を叩いて言い放った。
「カウント!」
 奇跡が起こった。
 その瞬間、襲いかかろうとした男たちの動きがピタリと停止したのだ。
 まるでビデオの一時停止ボタンを押したかのようだ。
 勢いの余った男のひとりは、前のめりになって両手を着いたが、そのままの姿勢で動かなくなった。
「なんじゃ?」
 楚老人は目を疑った。愛華が解説を加える。
「見ての通りよ。連中はショウの号令で動けなくなった」
「それを彼がやった、と?」
「そういうこと」
 やがてようやく自分たちの出番か、という態でバウンサ、ガードマン達が駆けつけると、男たちを連行して行った。
 一時は騒然とした会場も、ようやく平静を取り戻しつつあった。
「よう、じいさん。怪我はないか」
 将介は楚老人に話しかけた。
「ああ、怪我はない。ただ・・・」
「ただ?」
「とんだ茶番を見せられたもんじゃ」
 楚老人は言った。

「ほう」
 将介はちょっと驚いた顔をしたが、すぐに破顔した。
「やっぱ、バレたか。どこで気づいたんだ?」
「あの場面で真っ先に駆けつけるはずのバウンサーが、何時までたっても現れなかったからの。店側と何らかの話し合いがついてなければ出来ない相談じゃ。それに」
「それに?」
「演技が下手過ぎじゃ」
 将介は爆笑した。
「そう言うな。あいつら役者じゃないんだ。あれでも一生懸命なんだよ」
「わしが言うておるのはお前さんのことじゃ。お前さんが一番の大根じゃ」
「俺か?」
 腹を抱える。
「で、何であんな真似をした? あれに何かの意味があるのか?」
「もちろん意味はある。しかしまあ、どんな意味があろうとも、あんたには係わりあいのないことだ」
「違いない」
「取り敢えず謝って置く。あんたを巻き込んだことをな」
 頭を下げて、将介は愛華を振り返った。
「じゃ、行くかアイファ。今日の分の仕事はこれで終了だ」
 引き上げようとする将介は、ふと思い出したように振り返ると楚老人に声を掛けた。
「本当にあるぜ」
「ある、とは?」
「だから、やつらの動きを止めた技のことだよ」
 将介のはニヤリとした。
「ま、信じるも信じないも、あんた次第だがな」
「ふん」
「また会おうぜ、じいさん」
 そう言ってふたりは立ち去ったのであった。

 将介と愛華が出会ったのは4ヶ月ほど前。場所は香港であった。
 デート嬢の愛華は、見るからに無防備そうな旅行者の将介を、程よいカモとみなして近づいたのだ。ところが将介は、香港上陸と共に置き引きにあって無一文になっていた。
 消沈した愛華だったが、幼なじみの余嘉成(ユウ・ジャチォン)を巻き込んで、置き引き犯人を探すことになったのだ。
 一方置き引き犯の湯文如(タン・ウェンル)は、次に狙った日本人グループに失敗し、逆にひどい目に合わされていた。それに腹を立てた黒社会の一団がこの日本人達を拉致したこともあって、将介達はその救出に向かうことになったのである。
 九龍の倉庫跡で、将介は黒社会の一団と金剛心法で闘うことになった。そこに現れたのが「漢虎」の異名を取る功夫の達人、漢隆峰(ハン・ロンフォン)だった。
 功夫対心法の闘いは壮絶を極めたが、この闘いに将介は勝利し日本人達は解放された。
 それから4ヶ月、将介は愛華のアパートに転がり込み、英語と中国語を習っていた。
 いまでは日常会話くらいなら、何の不自由もしない。
 一方、いつの間にか余嘉成の属する黒龍会の客人のような立場にもなっていた。
 組同士の揉め事があっても、将介が顔を出すと不思議と丸く収まるのだ。
 漢虎を倒した将介の名声は、たちどころに香港中の黒社会に広がり、いつの間にか彼らには一目も二目も置かれる存在になっていたのだった。
 もっとも当の将介にはそんな自覚はない。いつも通り余嘉成やその仲間たちと連んでワイワイやって居ただけだ。
 その日もそうであった。
 彌敦道(ネイザンロード)裏の露天でいつも通り仲間たちと酒を酌み交わしていた。
 話題はもっぱら、漢虎との決闘のことであった。
 あれから4ヶ月も経つが、嘉成は酔うと必ずその話を持ち出す。
 身振り手振りで、そのときの死闘を再現する。
 仲間たちも強面の漢虎がやり込められるのが面白いのか、ヤンヤヤンヤちゃちを入れている。
「あの時の漢兄貴の顔、お前らにも見せてやりたかったぜ」
 そう言った嘉成の酔いが一瞬で醒めた。手にしたカップが床に落ちた。
 目の前にその漢虎が立って居たからだ。
 嘉成は悲鳴をあげて立ち上がった。
 他の仲間たちも一斉に立ち上がると、直立不動の姿勢を取る。
 たちまちのうちに人の道が出来上がった。その道の最奥に将介が悠然と座っている。
「御門将介」
 漢虎は左右に並ぶ組員たちの存在を無視して、中央の将介に声を掛けた。
「よう。久しぶりだな」
 将介はにこやかな笑顔で応えた。
「借りを返してもらいに来た」
 漢虎は昏い声で言った。

 彌敦道の屋台である。
 将介が黒龍組の仲間たちと飲んでいるところへ、その男は現われたのであった。
 漢虎こと漢隆峰であった。
 香港の裏社会では知らぬ者のない拳法の達人である。
 その男が、借りを返せと言ってきたのだ。彼の部下を痛めつけた日本人観光客を許した貸しである。
 将介は晴れやかな笑みを向けた。
「実を言うとな、待っていたんだぜ。お前がそう言って来るのを、よ」
 鮮やかな広東語だ。
 漢虎は凄まじい視線を将介に向けた。
 もう一度闘えば俺は勝てるのか?
 勝てる、と思う。
 こいつの手口は分かっている。2度と同じ術にははまらない。
 しかし・・・
 本当にそうか?
 何度やっても同じ気もするのだ
 わからない。
 わからないから、もう一度闘いたい。
 しかしそれは途方もなく恐ろしくもある。
 闘って、もう一度負ければ俺はどうなる?
 俺は俺ではいられないだろう。
 それが恐ろしい。
 だから、これまで遭うことが出来なかったのだ。
 葛藤。
 なのに、こいつは何だ。
 こいつと話していると調子が狂う。
 こいつからは怒りや憎しみという感情が感じられない。
 いつでもそうだ。あの闘いの時でさえ、この男から感じたのはワクワクとした喜びの感情だけであった。
 今もそうだ。あれ程の死闘を繰り広げた自分にさえ、親しい友人に向ける暖かな視線しか感じられない。
 身構えている自分が馬鹿馬鹿しくなる。
「で、俺は何をすればいいんだ?」
 例のワクワクとした視線を向ける。
「ここでは何だ」
 漢虎は言った。
「場所を変えよう」

 中華人民共和国マカオ特別行政区、通称マカオ。
 中国大陸南岸のデルタ地帯、珠江河口に位置する旧ポルトガル植民地であったが、1999年に中華人民共和国へ返還され、マカオは特別行政区になった。すなわち政治的には中華人民共和国の下に入ることとなったのだが、返還後50年間は現状の保全が取り決められているため、現在もポルトガル語が公用語として使用されている他、ポルトガル統治時の法律の多くがそのまま適用され、宗教の自由や表現の自由などが制限されている中国とは違い、少なくとも現在これらの自由は、表面的にだが保障されている。
 マカオは中国大陸本土南海岸に突き出たマカオ半島と、沖合いの島から構成されている。もともとタイパ島とコロアネ島という二つの島であったのだが、島の間は埋め立てられてコタイと呼ぶ地域となり、全体がひとつの島のようになっている。
 マカオは観光とギャンブルの国である。
 観光では30以上の世界遺産を収めたマカオ歴史地区をはじめ様々な観光資源を持ち、またギャンブルではアメリカのラスベガスを凌ぐ世界一のカジノ大国でもある。
 マカオのカジノは、返還以前は「マカオの帝王」スタンレー・ハッサンのほぼ独占状態だった市場を、香港系の「ギャラクシー・カジノ」やアメリカの「ウィンリゾート」にも解放した結果海外からの投資が急増し、20を超える大小様々なカジノが凌ぎを削るようになった。それに連れて観光客も倍増し、これまで世界最大であったアメリカのラスベガスを超え世界最大のカジノ都市となったのだ。
 マカオがカジノ市場の開放からわずかな年月で、カジノ都市として世界首位に躍り出た背景には、膨張する「チャイナ・マネー」をはじめとする潤沢な外資があると考えられている。
 またそれらの莫大な利潤を狙って暗躍する中国の「黒社会」や、アメリカやポルトガルのマフィア系ギャング団にとっても絶好の「市場」であった。
 現在マカオのカジノを牛耳っているのは、「七人の代理人」(エージェント・セブン)とよばれている七人の黒幕達である。その影には中国社会の深い闇があった。
 このエージェントこそが、中国の闇とマカオとを結び付け、多額の金を呼び寄せてアジア有数の資金洗浄地となったマカオの鍵を握っているのだ。
 
 彌敦道の屋台街。そのまた奥深くにある地下バーの一角だ。
 通常の観光客が寄りつけるような場所ではない。
 そこに居るのは、どう見てもワケありの男たちだ。何かきっかけがあれば、すぐにでも因縁を吹っ掛けようと憎悪の視線を向けてくる。
 そんな男たちも漢虎の存在を認めると、灯りの下のドブネズミのようにこそこそと逃げ惑うのだ。
 ふたりはカウンターの最奥に腰掛けていた。
 こんな場所で漢虎とふたり。
 凶悪な犯罪者でも震え上がるシチレーションだ。
 にも係わらず、将介は平然と酒を運ぶ。日本人の将介は漢虎の本当の恐ろしさを、まだ知らないからだ。最も知ったからといって、彼の態度がどれほど違うかは解らないのだが。
「オヤジが狙われている」
 昏い声で漢虎は言った。
「オヤジとは?」
「和合社の王会長だ」
「ほう」
 将介は目を見開いた。さすがの将介もその名前は耳にしたことがある。
「香港マフィアの大物、王暁明(ワン・シャオミン)だな」
「実業家だ」
「ま、どちらでもいい。で、生命を狙われているってのは、どういうことだい?」
「オヤジ・・王会長はエージェント・セブンのひとりだ。エージェント・セブンってのは知ってるだろう?」
「ああ、マカオを支配している7人の黒幕のことだろ。まあ、想像はしてたけどな」
 香港マフィアのトップなら、エージェント・セブンの資格は十分にあるだろう。と、それくらいの意味である。
「ところが、最近出張って来た台湾のある組織が、エージェント・セブンの座を狙っているという噂がある」
「なるほど。エージェント・セブンの誰かが亡くなってシックスになれば、誰かがその席を埋めねばならないってわけか」
「そういうことだ」
「しかし、あくまで噂話のレベルだろ?」
「いや、確かな筋からの情報だ。1週間後にマカオの「ホテル・イン・ギャラクシアン」で、エージェント・セブンの会合が開かれる。普段は社会の闇に隠れているセブンが一堂に会するのだ。その席で王会長暗殺は計画されているらしい」
 ホテル・イン・ギャラクシアンは王会長の経営するホテルである。
「どうやら、マジの話らしいな」
「台湾の組織は殺し屋として、「ブラディ・シャドウ」を雇ったらしい」
「ブラディ・シャドウ?」
「台湾いや東アジア屈指の殺し屋だ。その姿を見たものは誰もいない。一節によると、姿を見たものは必ず殺されるらしい。そこから「見えない暗殺者」(インビシブル・キラー)の異名がついている」
 その名を呼ぶときは漢虎の表情にも緊張が走る。その様子からも只者ではない雰囲気が見て取れる。
「狙撃の名手で、姿を見せずに目標に近づき、標的を打ち抜いて、音も立てずに立ち去るらしい」
「面白そうだな」
 将介の口元が綻ぶ。
「笑っている場合ではない。危険な相手だ」
「で、俺にどうしろと言うのだ? そのブラディ何とかを捕らえるのか」
「いや。奴とは俺が対決する。お前にはサポートを頼みたい」
 漢虎は固い決意の表情で言った。さすがの彼も今回ばかりは生命がけなのだ。
「姿が見えない相手ではどうしようもない。お前の心法で、奴を炙り出すことは出来ないか?」
「難問だな。さすがの俺も見えない相手に心法をかけることは至難の技だぞ」
「・・・そうか」
 漢虎は黙り込んだ。
 それはそうだ。心法とはいえ魔法ではない。出来ることと出来ないことがある。
 そのくらいの事は漢虎にも分かっている。分かってはいるが、一縷の望みをかけていたことも事実だ。
「わかった。この件は忘れてくれ」
 そう言って立ち上がろうとするのへ将介は声を掛けた。
「待てよ。難しいとは言ったが、出来ないとは言ってない」
「可能性がある、と?」
 漢虎が足を止めた。
「その前に話はそれるが、先程お前もう一度闘えば俺に勝てると、そう思っただろう?」
 図星を刺されて漢虎の眉が吊り上がった。
「無理だな」
 将介は片頬を歪めて漢虎に向き直った。
「何度やっても、お前さんは俺には勝てないよ」
「ほう・・・面白いことをいう」
 漢虎の声が尖ってきた。その身体から怪しい熱気が漂いだすようだ。殺気といってもいい。
「・・・試してみるか」
 ふたりの周囲の空気が帯電しているようだ。
 異様な雰囲気を察して、バーデンダーは店の奥に引っ込んだ。
 膨れ上がった熱球が破烈するように、漢虎が動き出す瞬間、将介が声を掛けた。
「待てよ、ロンフォン。俺はやる気がない」
 絶妙のタイミングだった。
 漢虎の闘気がそこで霧散したのだ。早くても遅くてもこうはいかない。
 早すぎればそれが合図となって漢虎の攻撃が飛ぶだろう。逆に遅すぎれば漢虎の打撃をモロに受けるだけだ。
「お前にはもう、道筋がついているからな」
「道筋?」
「何て言うか。ま、今ふうに言うなら、回路が継ったというくらいの意味かな」
「回路だって?」
 何を言っているのか解らない。
「心法ってのはな、言ってみればハッキングみたいなもんだ」
「ハッキング?」
「頭の中のある回路にハッキングする。それが心法って訳さ」
「そういうことか」
「最初はハッキングする回路が判らない、だから色々なチャンネルを探って回路を繋ぐのさ。それを「道筋を立てる」というんだ。一度立ってしまえば、あとはその道を伝わって暗示を送り込むだけの話だ」
「俺にはその道が出来たということか」
「ま、そういうことだな」
 漢虎は難しい顔をした。
「出来るのか? 見えない敵との間に回路を継ぐことが」
「いいか、道筋を立てるには「仕込み」が必要だ」
 将介はニヤリと笑って言った。
「協力してもらうぞ、漢隆峰」

 コタイはマカオ南部のタイバ島とコロネア島を組み合わせて作った造語だ。
 1980年代にふたつの島の間の浅瀬を埋め立てて、大規模なリゾート施設を中心とした都市計画を行った。その結果、現在では数十の高級ホテルや大規模カジノがひしめき合う、まさに東洋のラスベガスとも呼べる一大リゾート地区となったのである。
 そのコタイ地区の中央を走るメインストリート、通称コタイ・ストリップを駆け抜ける大きな人影。
 純白のスーツ。黒い髪。20代前半とも思える東洋人の若者だ。
 何者かに追われるようだ。観光客の人混みの中を縫うように駆け抜ける。
 その後を追いかけるのは十人ほどの黒服の男たちだ。
 漆黒のダークスーツ。揃いのサングラス。どう見てもカタギの人間たちではない。
 コタイの午後十時。ここでは真昼も同様だ。
 只ならない男たちの疾走に、ひしめき合う観光客達は悲鳴をあげて逃げ惑う。
 その混乱する人々の間を、純白の若者は華麗なステップですり抜けて行くのだ。
 やがて目前に、巨大なリゾート空間「ホテル・イン・ギャラクシアン」が姿を見せる。
 3000室以上の客室。2万平方メートルにも及ぶカジノスペース。10個のダンスホール。20のショピングエリア。3ッのフットネスクラブ。2ッのスパ。そして30以上の飲食店が軒を連ねる総合リゾートホテルである。
 もはやひとつの都市と言っても過言ではない。
 そのホテル・イン・ギャラクシアンの正面に燦然と輝く巨大噴水。1分間に2千リットルもの水を吹き上げる、ギャラクシアンホテルの象徴ともいえるエンターテイメントだ。
 エキサイティングなブロードウエィ・ミユージックに乗って、色とりどりの光の中で虹色に輝く水の壁。その中に男たちのシュリエットが浮かび上がる。
 白いスーツの若者がヒップホップのようなステップを切るたびに、黒スーツの男達が次々と噴水の中に転げ落ちていく。
 最初は遠巻きにしていた観光客たちも、次第に歓声をあげるようななった。
 新しいアトラクションと勘違いをしたのだろう。
 若者の動きに合わせて手拍子が鳴る。それに応えるように若者の動きが素早さを増していった。
「フリーズ・ザ・ムーヴメンツ!」
 突然若者が歌うように叫んだ。
 その瞬間、黒衣の男達が凍りついたように動かなくなった。
 ブレイクダンスの一場面みたいだ。
 観客からドッと歓声があがった。
 若者は華麗な体捌きで、動きを停めた男たちを、次々と噴水の中に落としていった。
 その度に歓声、拍手、足踏みが巻き起こる。
 最後に若者は噴水の淵に立ち、深々と頭を下げた後、人混みの中に飛び込むとアッという間に姿をくらませた。
 噴水に落とされた男たちも、水に浸かると意識を取り戻すのか、お慌てで水から這い出ると散り散りになって胡散した。
 けたたましい警笛が響き、遅ればせながら警官隊が駆けつけたからだ。
 それでこのエンターテイメントは終了となった。

 ホテル・イン・ギャラクシアン最上階の会員制ラウンジである。
 年間百万ドル以上の賭け金をもたらす者だけが入れる特別な場所であった。並の金持ちではどうしようもない。
 そのラウンジの豪華なソファにひとりの男が腰掛けていた。
 漆黒のダークスーツ。鉄色の皮膚。見る者のハートを抉るような冷たい瞳。
 どう見てもこの場に相応しい人間とは思えない。
 男は58階の窓からコタイの夜景を眺めていた。
 ふと男の髪を一陣の疾風が揺らす。
 目を上げると白スーツの若者が、男の向かいのソファに腰掛けるところだった。
 先程ホテル前の噴水で、大活劇を繰り広げた若者だ。
「どうだった? 俺の演技は」
 白スーツの若者・御門将介はダークスーツの漢虎に言った。
 日本語である。
 日本人でこのラウンジまでたどり着ける人間は、まず滅多にいない。それだけに日本語は安全であった。
 漢虎と将介は王会長の警護という名目で、ホテル内の大抵の場所には出入りが出来る。
「日本語は久しぶりだな」
 と言って、将介は笑う。ここ数カ月、ほとんどが英語と広東語で過ごしてきた。お陰で日本語を忘れそうだよと言うのだ。
「なんの猿芝居だ?」
 漢虎が冷たく応える。
「つまらないショーか何かのつもりか?」
「そう言うなよ、ロンフォン」
 漢虎に言う。
「つい調子に乗りすぎただけだ」
 ここ数日の間、将介はホテルの周辺でこのようなパフォーマンスを繰り返している。
 どこかでブラディ・シャドウが見ていてくれればめっけ物だが、見ていなくともそれはそれで構わないと、彼は言うのだ。
「直接目にしなくとも、噂くらいは耳に入るだろう。いまはそれで十分だ」
「しかし、あんな事で本当に奴を追い込むことが出来るのか?」
「それは解らんが、ま、仕込むことは出来んだろう」
「仕込む?」
「心法を掛け易いよう前準備をすることを、「仕込む」と言うんだよ」
「前準備か」
「初対面の相手にいきなり術をかけようとしても、これはかなり難しい。そこで予め術がかかりやすくなるように、予備知識を与えるんだ。以前あんたたちと対決したとき、「不思議な技を持つ忍者スターが拉致された日本人を救出に来た」という噂を流した。それであんたたちは、俺が心法という技を持っているという予備知識を得たわけだ。もちろんその時点では心法が何であるかはわからない。わからないから不安になる。その心の動揺につけこんで技を仕掛けるって寸法さ」
「なるほど」
「心法は人の心に仕掛けるウィルスみたいなものだ。ウィルスを送り込むには、相手の心との回路が繋がっていることが第一条件なんだ。そのためには相手に関心をもってもらわなくちゃどうしようもないだろ」
「そのためのパフォーマンスがあれってわけか」
「まあな。かなり強引だったけど、この前の噂を流す程度では、どこにいるか判らないブラディ・シャドウには、伝わらない恐れがあるだろう。だから少し派手目な演出をとらせてもらった」
「ふん、俺には単にバカ騒ぎをしたいだけに見えたがな」
「あははは。やはり解るか」
 将介はまた腹を抱える。
「だが、問題はやつが仕掛けに乗るかだが」
「それは乗って来るだろうよ。今度の仕事は向こうにとっても生命賭けだ。不安な要素は出来るだけ排除して置きたいと考えるのが人情だろう。接触はしてこないまでも、必ず何かしらのアクションを起こしてくるはずだ」
 将介は自信満々で行った。
「しかし、今回は俺たちと闘った時とは違うぞ。直接お前と相対した俺たちとは違い、やつはスパイナーだ。最後まで姿を現さずに仕事を済ませる。仕込みは出来ても肝心な心法をかける隙がない」
 漢虎は難しい顔をした。
「もちろん判っている。そのために第二の仕掛けを用意してある」
「第二の仕掛け?」
「仕込みとはな何もひとつだけとは限らない。仕込みをひとつの心法と仮定するならば、仕込みを積み重ねることにより、より深い術にはめることが出来るのだ。これを「重ね衣」という・・・」
「貴様!」
 漢虎は突如立ち上がった。もの凄い目つきで将介を見下ろす。
「なんでそんな話をする。何で心法の秘密を俺に話す」
「気がついたか、ロンフォン」
 将介は不敵な笑みを唇に浮かべている。
「お前との会話。これも仕込みのひとつなんだよ。お前はいま心法にかかっている。いわいる重ね衣というやつだ。以前、お前は俺には勝てないといったのはそういう意味だ」
「ショウ!」
 漢虎が身構えた。凄まじい殺気が全身から溢れている。
「よせよ、ロンフォン。お前の攻撃は俺には当らない、絶対にだ」
 将介は静かに言った。
 漢虎は燃える様な瞳で将介を見下ろしている。
 漢虎には解っていた。将介の言うことは嘘ではない。
 崩れるように腰を下ろした。
「ま、悪く思うな。俺はお前のことを友達と思ってはいるが、どうやらお前はそうではないらしい。これも保険のひとつだ」
「ふん」
 ニガ虫を噛み潰したように漢虎がいう。
「謝る必要はない。俺がお前でもそうする。それをどうするかは俺の問題だ。それより仕事だけはキッチリやってもらう」
「ああ、任せておけ」
「あと二日だ」
 2日後にエージェント・セブンの会合のため、王会長が来訪するという意味である。
 漢虎はラウンジを出て行った。
 後に残された将介は窓辺に寄って、真昼のようなコタイの町並みを見下ろした。
「ブラディ・シャドウか」
 その唇に笑みが浮かぶ。
 面白くなりそうだ。

 コタイステンバード・ホテル。
 ホテル・イン・ギャラクシアンの裏手に建つ32階建の総合リゾートホテルである。
 オーナーはポルトガルの実業家。カジノホテルとしてはギャラクシアンホテルよりも老舗だが、規模的には遥かに劣っている。
 そのため近年では客足を奪われ、経営的に行き詰まっているらしい。
 そこで身売りの話が持ち上がった。
 コタイステンバードホテルのすぐ横に建設中の巨大複合リゾート施設。
 仕掛け人は東洋の「ビル・ゲイツ」と異名を取る人物・陳聰明(チェン・ツォンミン)である。世界の携帯電話市場の3分の1を独占しているらしい。
 その人物がカジノ市場に乱入してきた。
 コタイステンバードホテルを買収し、複合リゾート施設と合わせて巨大な一大ホテルリゾートを建設する。
 カジノだけではない。劇場。体育館。アミューズメント施設。
 ハリウッドの人気スターを集めての本格的なショー。ボクシングのヘビー級タイトルマッチ。ディズニーのキャラクターを集めたアイスショー。
 そこはラスベガス並のエンターテイメント施設の集合体である。
 それは「黒船」であった。
 
 そのコタイステンバード・ホテルの32階の屋上に、その男は立っていた。
 前方にはホテル・イン・ギャラクシアンの巨大な建築物が見える。
 58階。
 巨大なコタイステンバード・ホテルより、更に20階は高い。
 夜である。他には誰もいない。
 男は屋上の手すりに寄りかかって、冷たい瞳で眼下に建設中のリゾート施設を眺めていた。
 白髪。細身。安物のジャケット。
 老人である。
 歳は75を下らないであろう。
 ゆらりと煙草をくゆらせる。夜風が心地よく銀髪を撫でていく。
「よう、じいさん。また会ったな」
 突然声が掛かった。
 老人が振り返ると、長身の若者がにこやかに笑いながら近づいて来る所であった。
「あんたか」
 老人は若者を見やりながら言った。知らない顔ではない。
「確か、御門将介とかいったか」
「ショウでいいぜ。イーのじいさん」
 将介と呼ばれた若者は、楚儀老人の横に並んだ。
「妙な所でお目にかかるもんだな」
「それはわしのセリフじゃ」
「じいさんは、このホテルに泊まっているのか?」
「まあ、そういうことじゃな」
「それなのに、わざわざ隣のホテルまで出張ったってわけか。カジノならこのホテルにもあるだろうが」
「向こうのほうがカジノの規模がでかいのでな」
 楚老人は顎で、目の前にそびえるホテル・イン・ギャラクシアンを指して言った。
「それだけ身入りのいいってわけか。豪勢な話だな」
「それよりお前さんこそこんな所でなにをしているんじゃ? 確かお前さんは・・・」
「よく知ってるな。そうとも、俺はあのギャラクシアンホテルに泊まってんだ。ここに来たのは、そうだな月が綺麗だからかな」
 そう言って夜空を見上げる。摩天楼の隙間に見事な満月が顔を出していた。
「ギャラクシアンホテルでは、屋上もアミューズメント施設になっていてよ、折角の満月も見ることが出来ねえんだよ」
「変わった男じゃのう」
 楚老人も苦笑するしかない。
「しかし大した物じゃねえか」
 将介は目線を落として着々と組み上がる鉄骨の建造物に目をやった。
「あそこに東洋一のリゾート施設が出来るんだとよ」
「そうらしいな」
「携帯電話ってのはそんなに儲かるのか?」
「さあな、わしには関係のない話じゃ。では、そろそろ失礼する。夜風は老人には毒でな」
「まあ、待ちなよ、じいさん。もう少し話をしようぜ」
 煙草を消して立ち去ろうとする楚老人を呼び止めた。
「実を言うとよ、あんた死んだうちのじいさんに、どことなく似てるんだ」
「お亡くなりになった?」
「ああ、とんでもない頑固じじいでよ、何度も殺してやろうかと思ったが、いざおっ死んじゃうとそれはそれで寂しいもんだな」
「その頑固じじいにわしが似ている、と?」
「勘違いすんなよ、別にあんたが頑固だと言ってるわけじゃない。何というか、雰囲気というか、風格というか、ま、そんなところだ」
「ふん」
 楚老人は立ち止まると新しい煙草に火を点けた。
「なあ、じいさん。知っているか?」
 将介はそろりと口を開いた。まるで口の中から毒を吐き出すように。
「何をじゃな」
「明日。あのホテル・イン・ギャラクシアンにある男がやって来るんだよ」
「ある男?」
「王暁明。知ってんだろ。ギャラクシアンホテルのオーナーで、香港マフィアの大ボスだ」
「それがどうした。オーナーが自分のホテルに来てもおかしくはないだろう」
「じゃあな、エージェント・セブンってのは知ってるか? このマカオのカジノ街を支配する7人の男達のことだ。そのエージェント・セブンの会合がギャラクシアンホテルで開かれる。王会長はその会議に出席するためにやって来るんだ」
「ほう、それは凄いな」
「ところがな。陳聰明だっけ、あのリゾート施設の設立者」
 将介は眼下の建造物を見下ろして続けた。
「その携帯電話屋がエージェント・セブンの座を欲しがっていてな、会合に合わせて事を起こそうと企んでいるらしい」
「事を起こすじゃと?」
「暗殺だよう」
 声を潜めて恐ろしいことを口にする。
「物騒な話じゃな。しかし、あくまで噂だろう。王暁明とは違って陳聰明は立派な実業家じゃ。黒社会の人間ではない」
「まあな。しかし人間の裏なんて分かったもんじゃないぜ」
「噂はともかく実際にはそんなことは出来はせん」
「しかし、リアルな話もある。じいさんも台湾人なら、ブラディ・シャドウの名前くらいは聴いたことがあるだろう?」
「伝説の殺し屋といった所かのう。だが、実在の人物かどうかは疑わしい。誰も見たものは居らんのじゃ」
 楚老人は空を見上げて煙を吐き出した。
「だったらいいがな」
「もしもブラディ・シャドウが実在の人物なら、王暁明は彼に暗殺されると?」
「あくまで噂話ではあるが、よ」
「聴くところによると、ブラディ・シャドウは狙撃の名人という話じゃな」
「そのようだな。しかし奴の銃弾は王会長には当らないぜ」
 将介は楚老人の瞳の奥を覗き込みながら言った。
「ほう、何故かな」
「奴が王会長を狙おうとすると、銃口がやや上を向くからさ。それで銃弾が上に反れる」
「なんでそんなことがわかる」
「さあ、何故かな」
 将介は苦笑を浮かべて続けた。
「ところで、香港の漢虎という男を知ってるか?」
「香港NO1の拳客じゃな。香港どころが中国全土の黒社会が、その名を聞いただけで震え上がる」
「ふん。さすがに詳しいな」
「それがどうしたんじゃ」
「その漢虎が、王会長の暗殺を阻止しようと動いているらしい」
「ほう」
「なあ、じいさん。面白いとは思わねえか。伝説の殺し屋と香港最強の拳士との闘いが見れるかも知れないんだぜ」
 将介は心の底からワクワクして言った。
「だから、そんな男は居りはせん。もしも居ったとしても、わしは単なる老いたギャンブラーじゃ、そんな物騒な話はお断りじゃな」
 そう言って楚老人は踵を返した。
「帰るのか、じいさん」
「ああ、お前さんのお陰ですっかり場が荒れてしもうた。そろそろ潮時じゃ。台湾に帰るわい」
「そいつは済まなかったな」
 立ち去る楚老人の背中に、思い出したように将介が声をかける。
「言い忘れたが、死んだうちのじいさんの名前なんだがよ、御門龍之進というんだ」
「リュウ!?」
 楚老人の足がピタリと止まる。
「ま、あんたには関係がないけどよ」
 将介は切り取られた夜空に浮かぶ、鮮やかな満月を見上げて呟いた。

 風が雲を運んで来た。
 昨日までの晴れ間が嘘のように、重い黒雲が空を覆っている。昨夜の満月はもう見えない。
 ただ強さを増したビル風が、摩天楼の隙間を駆け抜けるだけだ。
 眩い程の発光ダイオードの光もここまでは届かない。
 ホテル・イン・ギャラクシアンの裏側。
 VIP専用の通用門がここにはある。表口からは入れないようなワケありの極太客が、ひっそりと出入りするための特別な通用口だ。
 世界的な有名スター。レジェンドと呼ばれるクラスのスポーツ選手。政府関係者等等。
 その通用門が特別な緊張感に包まれていた。
 今日の客はVIP中のVIP。このホテル・イン・ギャラクシアンのオーナーであり、香港の黒社会を牛耳る和合社の王会長なのだ。しかもその生命が狙われているとなれば、警護する和合社のギャング達の緊張も半端なものではなかろう。
 通用口の斜向かいに位置するカフェ「ベルモント」。コタイステンバード・ホテルの一階に併設されているものだ。
 窓際の席に男がふたり。ゆるりと紅茶を楽しんでいる。
 漢虎と将介の二人である。
 他に客はいない。漢虎が貸し切ったからだ。もちろん王会長の警護のためである。
 カフェばかりではない。近辺の全ての飲食店、ナイトクラブは全て貸切。周囲のショップもシャッターを下ろさせている。
 通用門の正面を通る道路すらも規制をかけているほどだ。
「大した騒ぎだな」
 将介がゴーストタウンのように静まり返った道路を眺めながら言った。
「相手はブラディ・シャドウだ。これでも足りないくらいだ」
 漢虎は昏い声で応える。
「大した思い入れだな」
「王会長の車は装甲車なみの完全防弾使用だ。ホテルの中は黒社会の人間で埋め尽くされている。狙撃のタイミングは、会長が車から降りてホテルに入るほんの一瞬しかない」
「ま、そんなところだな」
「お前ならどこから狙う、ショウ?」
「コタイステンバード・ホテルの窓か、建設中のリゾート施設だな」
「妥当な線だ」
「ということは、当然手は打ってあるのだろ?」
「出来る限りの手は尽くした、しかし如何に和合社とはいえ、このホテルを貸し切ることは不可能だ」
「それはそうだな。リゾート施設のほうは尚更だろう。あそこは陳聰明の持ち物。つまりは敵方の物件だからな」
 将介は含み笑いを浮かべながら言った。
「随分と楽しそうだが、お前この件が失敗したらどうなるのか判っているのか?」
 漢虎は深刻な表情を浮かべる。
「どうって?」
「組織に消される。俺もお前もな」
「なるほど。やっぱりそうなるか」
 将介はあくまで呑気だ。
「最も計画が成功しても、それはそれで台湾側の組織に狙われるがな」
「おいおい」
 大阪芸人なみのツッコミを入れた。
「それじゃ立つ瀬がない」
「心配するな。お前のことは俺が責任を持って逃がしてやる」
「別に心配はしてないけどな」
 将介は鼻をほじりながら言う。そんな顔をまじまじと見つめながら、漢虎は呆れたように言った。
「お前は本当に変わっているな。生命を狙われるという事がどういうことか解っているのか? それとも組織を舐めているのか?」
「別に舐めてはいないけどよ。なあ、ロンフォン。俺は何度も心法をかけるには、相手にその事を知ってもらう必要があると説いてきたよな。ということは、逆に言うなら心法にかからないようにするには何も知らなければいいということになる。わかるか?」
 漢虎は頷いた。
「余計な予備知識を持って不安を抱けば心が乱れる。自分で自分に心法をかけるようなものだ」
「それは分かるが、何もしなければ殺される」
「その時はその時だ。なるようにはなる」
 漢虎は諦めて肩をすくませた。
「ところでお前のほうの首尾はどうだ。奴に術をかけられそうか?」
「さあな。こればっかりは結果を見てみないとな。ま、お前流にいうなら出来る限りの手は尽くした、ということになるだろうな。それより逃げる方の算段を考えておけ」
「おい」
 漢虎が緊張した面持ちで、将介の言葉を遮った。
「来たぞ」
 
 ホテル・イン・ギャラクシアンの裏道り。極端に車の通行量が減った道路に、巨大な光の帯が現れた。 
 和合社の王会長を乗せたリムジンを囲む長大な車の列だ。
 時計は午後8時を回っていた。
 するとどこから現れたのか大勢の男達が群がり集まり、道路の両側をビッシリと埋めた。和合社の社員、すなわちギャングの構成員である。
 静寂を極めた裏通りが一気に騒がしくなる。
 漢虎と将介もカフェを飛び出して車道に繰り出した。
「おい」
 漢虎は将介の手に何やら黒い物体を押し付けようとした。見るとそれは黒光りする拳銃だった。
「持っておけ。護身用だ」
「いや、俺は銃を射ったことはない。それにそんなものは持つ必要がない」
「そうか。そう言うと思った。まあ、俺も持たない派だがな」
 ニヤリと笑うと漢虎はあっさりそれを道に投げ出した。
「さてと、どこから来るかだが」
 暗い夜空を見上げる。
 車の列はホテル前に到着し、和合社の幹部達が次々と排出される。その周囲を固めるのは各々のバウンサーや秘書達だろうか。
 やがて一際大きな騒音をあげて、長大なリムジンが横付けされた。
 王会長を乗せたリムジンである。
 完全防弾。鉄壁の装甲。対戦車ミサイルでも傷ひとつ付けられない。
 一気に緊張が高まった。
 扉が開いて人が降りてくる。
 まずは数人のバウンサー達。これが狙撃者からの「人間の盾」になる。そして何人かの秘書官。
 最後に王会長のでっぷり太った身体が現れた。
 その瞬間だった。
 タン。
 という甲高い銃声とともに、バウンサーのひとりが血煙をあげて昏倒した。
 狙撃されたのだ。
 王会長を狙撃した銃弾は、わずかに会長の頭部を外れて後方にいたバウンサーの男を撃ち抜いたのだった。
 場が騒然とした。
 怒号と悲鳴が轟いた。
 男たちは会長を車に押し戻し脱出しようと焦った。
 二発目の銃弾はそのドアのフレームに当たって弾け飛んだ。
「リゾート施設の鉄骨の上だ」
 漢虎は叫ぶと猛然とダッシュした。
 将介もあわてて後を追う。
 鉄作の扉をこじ開けて工事現場に入り込んだ。
 鉄骨を組み上げた工事現場の中程に、数人の男達が倒れている。和合社の社員達だ。
「ここからは俺の仕事だ」
 漢虎は決死の覚悟を込めて言った。
「お前はここで待っていろ」
「解っている」 
 将介は言った。
「気付けろ」
 漢虎は頷いて、ゆっくりと歩みを進めた。
 死地に向かって。

 暗い工事現場の階段を漢虎が登って行く。
 階上の所々に黒服の男達が倒れている。現場を警備していた和合社の社員、つまりは黒社会の構成員達だ。
 漢虎は銃を持ってはいない。丸腰である。先程、将介に渡そうとした拳銃を路上に投げ捨てたからだ。
 しかし彼はそのことを少しも後悔してはいない。
 相手は銃の達人である。それに対して不慣れな銃で応戦しても勝ち目はない。やるなら自分の土俵で勝負するしかない。
 そう覚悟を決めたのであった。
 気配を消してゆっくり階段を上がっていく。
 煌びやかな表通りの喧騒もここまでは届かない。黒々とした闇がそこいら中にわだかまっているのだ。
 登りながら上着を脱ぐ。ジャケットの下は闇色のスエットだ。同色の手袋と帽子を取り出し身につける。
 闇と同化するつもりである。
 呼吸を極端に遅くし、極限まで身を縮めて這うように登って行く。階上の踊り場に眼だけを出して周囲を伺う。
 漢虎は人よりも夜目が利く。その眼がわだかまる闇に蠢く気配を察知した。
 その瞬間。
 タン。
 見えない何かが空気を切り裂いて疾った。
 本能的に身を屈めた頭の先を、鋭い何かが駆け抜けた。階段の手摺が弾けて火花が散った。
 漢虎は逃げなかった。
 逆に炸裂音のした方向に、全速力で駆け寄った。
 暗闇に潜んでいたのは漆黒のフードを被った小柄な人物であった。男は2発目の弾丸が間に合わないと判断し、咄嗟に持っていたライフルを投げ捨てた。
 その頭部に暴風のような漢虎の蹴りが炸裂する。
 フードの男は左腕を挙げその蹴りを受けた。
 しかし漢虎の蹴りの破壊力は半端ではない。蹴りを受けた男の身体は、勢い余って後方に弾け飛んだ。
「ブラディ・シャドウ」
 漢虎が固いものを吐き出すように言った。
 漢虎とブラディ・シャドウは3メートルの距離で睨み合ったのである。

 漢虎は両腕を持ち上げ、頭部を挟み込む形で身構えた。ムエタイの構えである。
 対するフードの男は両腕を軽めに持ち上げ、やや屈曲する姿勢を取った。
 ブラディ・シャドウは狙撃の達人である。これまでの暗殺は全て、銃による狙撃によってなされて来た。
 では、その体術はというと未知数である。彼と相対した全ての者はそこに行き着く前に狙撃によって倒されている。彼と体術勝負に持ち込んだのは、この時の漢虎が最初で最後あった。
 漢虎はゆっくりゆっくり、体内に気をたわめていく。功夫でいう勁を溜めるのだ。
 シャドウはフードの下から凛とした眼光を送ってくる。
「シャッ!!」
 漢虎の右足が滑るように動いた。
 動きに反応してシャドウの身体が前方斜めに流れる。その顎先に漢虎の脚が、下から直角に跳ね上がった。
 一撃で顎を砕く必殺の蹴りである。
 寸前の所でシャドウは身体を反らし、必殺の一撃を躱した。フードの鍔先をきな臭い匂いを残して漢虎の脚が駆け抜けた。
 が、しかし、シャドウは逃げずに逆に間合いを詰めて、漢虎の懐に飛び込んだ。
 その肩口に漢虎は肘を合わせる。
 同時に懐へ飛び込んだシャドウの右の掌が、漢虎の腹部を捉えていた。
 ドン!
 軽く掌を当てただけと見えたが、漢虎の身体は後方に大きく弾け飛んでいた。
 寸勁。あるいは発勁と呼ばれる中国拳法の技だ。殆ど密着した状態から、全身の力をたわめて必殺の一撃を繰り出す。
 この男、中国拳法の心得があるのか?
 漢虎の口元に笑みが広がった。
 もちろん功夫の達人である漢虎もその技は周知しており、咄嗟の所で後方に飛んで威力を弱めている。しかしある程度のダメージは、腹の中に残っている。
 漢虎は腹の内容物を、血塊と共に吐き出した。
 一方のシャドウの方も漢虎の肘を右肩に受け、そこそこのダメージは隠せない。ファースト・コンタクトはお互いに互角の攻防といえた。
 再び両腕を持ち上げた漢虎は、右に回り込みながら間合いを詰めた。
 その顔面にシャドウの左のジャブが飛ぶ。
 漢虎はそれを交わしざま、右のストレートを放つ。
 左腕で受けながら右のミドル。
 漢虎が受ける。
 シャドウが打つ。
 漢虎が蹴る。
 無言の攻防が続いた。互の肉を打つ音だけが、漆黒の工事現場に響いている。
 いつしか両者の顔面が血に染まっている。
 シャドウのストレートがダブル。
 それを左の肩口で受けながら更に間合いを詰める。右の膝がシャドウの腹部に吸い込まれる。身体がくの字に折れ曲がる。
 腹部に食い込んだ膝を、抱え込むことによって勢いを消したのだ。
「ぬう」
 シャドウに膝を抱え込まれたまま、漢虎は片足のみで再度飛び上がった。
 空中での寸勁。
 漢虎のオリジナルだ。
 シャドウの身体は音もなく崩れ落ちた。
 勝機だった。
 その頭部に止めの踵落しをブチ込む。シャドウの身体が一度弾んで動かなくなった。
 倒れ付したシャドウを冷たい視線で見つめながらゆっくりと近づく。
 伏した頭部に更に踵を落とそうとした瞬間。
 パン!
 銃声が轟いた。
 倒れたシャドウの右手には掌大の短銃が握られていた。
 隠し武器。暗器である。
 右脚を撃ち抜かれた漢虎はその場から動けない。
 シャドウがのろのろと立ち上がる。こちらも相当なダメージを受けているようだ。
 銃口を漢虎に向ける。
 漢虎が覚悟を決めた時、パチパチという拍手が響き渡った。
 ふたりは同時に拍手の聴こえた方向を振り向いた。
 御門将介が手を叩きながら、階段を登ってくる所であった。
「ま、そんなところかな」
 彼は言った。
 ブラディ・シャドウの銃が将介に向けられる。
「馬鹿野郎。なんで来やがった」
 漢虎が苦しい息の下で言った。
「何でって、お前。こんな面白いものを見逃す手はねえだろう」
 そしてシャドウに向かって声を掛けた。
「なあ、イーのじいさん」

10

 将介とブラディ・シャドウの距離は5メートル。短銃の射程は約3メートル。シャドウの銃が届かないことを将介は知っていた。
「やはり、知っておったか」
 ブラディ・シャドウこと楚儀はフードを取って顔を覗かせた。
 脚を撃ち抜かれた漢虎は動けない。
「いつ気づいたのじゃ?」
 楚老人はにこやかな笑みを浮かべて訊いた。
「カジノで最初にあんたと逢った時だよ。ひと目でわかったぜ」
「ほう、何故かね」
「だから言ったじゃねえかよ。あんたは死んだうちのじいさんに似ているとよ。うちのじいさんはな、その筋じゃちょっとは有名な」
 そして声を潜めて続ける。
「殺し屋だったんだぜ」
 楚老人は息を飲み込んだ。
「なんていうか、あんたはそのじいいに雰囲気というか匂いが似ている。あんたはじじいの同胞だ」
「お前さんの祖父。名前は確か、リュウとか言ったな」
「ああ、リュウとはドラゴンのことだ」
「ドラゴン」
 楚老人は驚愕した。
「知ってるのか?」
「その名を持つ男とやり合ったことがある。ブラディ・シャドウなどと呼ばれる遥か昔の話じゃ」
 楚老人は昔を懐かしむような遠い目をして言った。
「世間は狭いな」
「それで合点がいった。実を言うとな、ちと心配しておったのじゃ。このわしが如何に風が強いといって、あの距離で2度も目標を外すとはな。自分でも信じられない。いよいよわしも老いぼれたか、そう思うたくらいじゃ」
 語りながら楚老人は少しづつ距離を詰める。それに連れて将介は常に一定の距離を取るよう後ろに下がる。
「老いぼれてんじゃねえか」
「思い出したんじゃ。シンポウとか言うたのう」
「金剛心法だな」
「ドラゴンの使う不思議な技が、確かそんな名前じゃった」
 楚老人は氷の瞳で将介を見やった。短銃の狙いを外さない。
「じじいは俺の師匠だからな」
「ドラゴンは人心を操る。お前さんも同じ技を使うのか?」
「だから、そう言ったじゃねえか」
「わしの弾丸が反れたのもそのせいか?」
「ま、そうなるわな」
 将介の唇に笑みが浮かぶ。
「いつ技をかけた?」
 固い声で楚老人が尋ねた。
「昨夜、コタイステンバード・ホテルの屋上で話したろう」
「あれは単なる雑談じゃ」
「そうだな。しかし、それだけじゃない。あるキーワードを設定し、その行動を取ると自動的に術が発動する、そういう暗示をかけた」
 将介は悪魔的な声で続ける。
「百舌かえりという技だ」
「モズかえり?」
「俗にいう後催眠のようなものだな。あんたが王会長を狙おうとすると自動的に銃口がブレると、そういう暗示をかけておいた」
「馬鹿な、あの程度の会話でそのような暗示がかけられるものか」
 楚老人は思わず声を荒げた。
「そうだな。確かにあれだけでは、それほど高度な暗示はかけられない。しかし、あの時点ですでにあんたは心法にかかっていたんだ。重ね衣といってな、心法を重ねてかけられると、より深い暗示にかかっていくものだ」
「すでにかかっていた? いつの間に」
 楚老人の表情がなくなった。
「ホテル・イン・ギャラクシアンのカジノで、俺の猿芝居を観たときさ。あの時、最初の百舌かえりを仕掛けた」
「まさか」
「嘘じゃねえぜ。証拠をみせようか?」
 将介が毒を吐くように、そろりと言った。
「その必要はない。ジ・エンドだ」
 楚老人がスッと前に出る。後ろに下がろうとした将介の踵は、鉄骨の淵を踏んでいた。何時の間にか足場の端まで追い詰められていたのであった。
 後方からのビル風が、将介の背中をなぶっている。
「これは、まいったな。あんたが、俺のつまらない話に付き合ったのは、このためかい?」
「もっと早くこうするべきだった。お前さんは危険な男だ」
 間合いが詰まって短銃の射程に入っている。
「逃げろ、ショウ!!」
 漢虎が悲痛な声で叫んだ。
「よせよ、イーのじいさん。俺はあんたを嫌いじゃない、むしろ好意を抱いているんだ」
 そういう将介の顔には悲壮感というものがまるでない。伝説の殺し屋に銃を向けられている男の顔ではなかった。
「それは有り難いが、残念じゃな。サヨナラじゃ」
 最後を日本語で言って、楚老人の指が動いた。引き鉄が絞られる。
 その刹那。
「カウント」
 一声と共に、引き鉄に指を掛けたまま、楚老人の身体が動かなくなった。
 老人の全身に凄まじい力がかかっている。あと数ミリ指を引けば弾丸を発射できるのだが、その数ミリがどうしても動かないのだ。
 漢虎も驚愕の表情を浮かべて、成り行きを見守っている。
「証拠を見せると言ったろう」
 将介が横に移動しても、楚老人はそちらに顔を動かすことすら出来ない。
 その手から短銃を取り上げる。
「あんたは漢虎と同じ拳士のはずだろう。こんなものは似合わねえよ。なあ、イーのじいさん」
 将介は取り上げた短銃を足場の外に投げ捨ててから、その肩をポンと叩いた。
 マリオネットの糸が切れたかのように、老人の身体がその場に崩れ落ちた。
「いつだ?」
 楚老人は肩を震わせて叫んだ。
「何時わしに術をかけた」
「だから最初に逢ったカジノの会場でだよ。あの時、猿芝居の相手に術をかけたように見せてはいたが、実はあんたにかけていたんだ。カウントというのは、覚えているだろうあんたがあの時使ったバカラの必勝法だよ。あのシューの中身を全て覚えるというやつ。あれのことをあんた達はカウントというのだろう。あの時のあんたには最も印象深い言葉だ。だからキーワードにさせてもらった」
「そうだったのか」
「じじいは若い頃、軍の仕事で大陸に渡っていたそうだからな。ひょっしたら名前くらいは知っているかと思ったが、まさか知り合いだったとはな。お陰で思いの他スムーズに事は進んだ」
「知り合いというわけではない」
「表面的には忘れたつもりでも、潜在意識の底では心法のイメージがこびり着いていたんだ」
「皮肉なものだな」
 自嘲の笑みを浮かべながら、楚老人はよろよろと立ち上がった。その顔からはすっかり敵意が消失している。
「ドラゴンに敗れ、それから半世紀の時を経て、再びその孫に敗れるとは」
「時代は移り変わるということだろう」
「時代は変わる、か」
 楚儀はフラフラと歩き出した。
「そうか、死んだのか。あのドラゴンが」
「しまった。カウン・・・」
 必死の百舌かえりは間に合わなかった。
 足場の隅まで近づいた楚老人の身体は、一瞬フワリと宙に浮くと、かき消すように見えなくなった。

11

 香港国際空港、出国ターミナル。
 御門将介は離発着の情報を告げる大きなモニターの前のソファーに腰を下ろしていた。Tシャツにカーキ色のモッズコート。同色のミネタリーパンツ。黒のジャングルブーツ。傍らには大きなダッフルバックが置かれている。
 彼は同行者の漢虎を待っているのだ。

 あれから三週間。将介たちは香港に戻っていた。
 ホテル・イン・ギャラクシアン裏の工事現場から墜落した楚老人は、首の骨を折って即死の状態で発見された。
 香港に戻った将介の日常は、それまでのものに戻っていた。
 相変わらず九龍の不良たちとワイワイやる日常である。
 二週間程たった頃、黒龍会の事務所に銃弾が撃ち込まれるという事件が起こった。台湾のシンジケートの仕業だと、もっぱらの噂であった。
 漢虎がやって来たのは、そのことに対しての話し合いをしている最中であった。
「ショウ。少し顔を貸せ」
 漢虎に会うのはマカオ以来である。
 マカオで撃たれた脚の傷がまだ癒えていないのだろう。腕にはイングリッド松葉杖を巻いている。
 ふたりは以前語り合った地下バーのカウンターに肩を並べた。
「大丈夫か?」
 将介は漢虎の脚を気遣った。
「ああ、幸い骨に異常はなかった。筋肉に損傷を負ったが、大した事はない」
「そうは見えないがな」
「そんなことより、例の一件は知っているだろう?」
「ああ、事務所に撃ち込まれた件か?」
「そうだ。いよいよ台湾が動き出した」
 漢虎は真剣な面持ちで言った。
「しかし、何で台湾のギャングが動く? 陳聰明は黒社会の人間ではないんだろう?」
「そうだな。しかしブラディ・シャドウは台湾の黒社会にとっては象徴のような存在だ。それが傷付けられたとあっては、黙っていられないのだろうな。プライドの問題だ」
「ふん。日本のヤクザ達の口にする「落とし前」というやつか。つまりは漢虎が傷付けられたら香港の黒社会が黙っていないのと一緒か」
「冗談はよせ。事態は深刻だ」
「そうなのか?」
 漢虎は頭を下げた。
「お前には済まないことをした。これは俺の責任だ」
「おいおい、気味が悪いな」
 将介は快活に笑ったが、漢虎は固い表情で続けた。
「お前のことは、俺が生命にかけても守る」
「前にも言ったが、俺が好きでやった事だ。お前に責任はないよ。それに・・・」
 将介はグッと顔を近づけて、
「生命を狙われるというのも、それはそれで面白い」
「お前というやつは・・・」
 漢虎は心底あきれた。
「本物の馬鹿だ」
 漢虎には解っていた。彼の心を傷つけまいとする、将介の心遣いをだ。
「まあ、そんなところだな。で、これからどうする?」
「本土の広西というところへ身を隠す」
「本土? 中国本土へ渡るのか?」
「ああ、問題があるか?」
「いや、願ったり叶ったりだな。実はそろそろ大陸へ渡ろうかと思っていたところだ」
「広西のチワン族自治区は黒龍組会長の出身地なのだ」
 漢虎は言った。
「話はついている。俺たちを匿ってくれるはずだ」

「おい、ショウ。どうした、ボンヤリして?」
 離発着を繰り返す飛行機を眺めながら、先日の会合を思い出していた将介は後方から声を掛けられて我に返った。
「何だ、アイファか」
「何だとは何だ。折角見送りに来てやったというのによ」
 振り向くと愛華と嘉成が立っていた。
「すまなかったな。お前にはすっかり世話になった」
「当たり前だ。てめえ、これで済んだと思うなよ。いいか、ほとぼりが冷めたら必ず帰ってこい」
 愛華は怖い顔をして言った。その瞳がわずかに潤んでいる。
「わかった。必ず帰ってくる」
「嘘つき」
 愛華は後ろを向いた。
「嘘じゃねえよ」
「知ってるんだ、お前の夢はユーラシア大陸の横断なんだろう。もう帰ってくる気はないんだろ」
「お前、何で? そうかジャチォンに訊いたのか」
 嘉成が隣で首を竦めている。
「寂しくなるな」
 嘉成が握手を求めて来る。
「ああ、お前にも世話になった」
「何てことはない。俺はお前に会えてよかったと思っている」
「そう言われると心苦しいがな」
 将介は嘉成の愛華への気持ちを思いやって、その耳に囁いた。
「あとは頼むぞ。バッチリ決めろよ」
 嘉成は耳を赤く染めた。
「また、戻って来るのだろ?」
「ああ、ユーラシア大陸の横断に成功したら帰ってくる」
「いつの話だ」
 愛華が割り込んだ。
 やり合っている所へ、漢虎が戻って来た。
「別れ話は終わったか。そろそろ搭乗だぞ」
「ああ」
 将介はそっぽを向く愛華の首根っこを抑えると、その顔を覗き込んだ。
「アイファ。お前はすげえイイ女なんだから、きっとすぐに俺よりいい男が見つかるさ」
 そして隣の嘉成に目をやった。
「ひょっとしたら、それはすぐ近くに居るかも知れない」
「馬鹿野郎」
 愛華はその脚を力いっぱい蹴飛ばした。


    この物語はフィクションであり、実在の人物・団体とは一切関係ありません。


                                                完

「ブラディ・シャドウ」の街

 御門将介シリーズ「香港編」は、「九龍の夜」をお読み下さい。

「ブラディ・シャドウ」の街

無敵の拳法・「金剛心法」 次の相手は見えない暗殺者、「ブラディ・シャドウ」であった。 香港マフィアを牛耳る和合社の王会長を守るため、ギャンブルの街・マカオに現れた御門将介と漢虎。 見えない相手に将介は如何に心法を仕掛けるか。 御門将介シリーズ「マカオ編」。

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