靴、玄関、琴音の姿
靴、玄関、琴音の姿
「やだー行きたくない」
もうすぐ4歳になる琴音はいつも玄関でダダをこねる。それはもう分かり切っている事なのに、私はいつもその瞬間にまだ子供の琴音に対して強いフラストレーションを抱く。
「だって公園に行きたいって言ったのは琴音ちゃんじゃない。……どうして?」
今履かせたばかりの靴を、足をばたつかせて脱いでしまう。私はその放られた靴を拾ってもう一度琴音の足に靴を無理矢理に履かせた。
「ほら、今日は夕方から雨が降っちゃうって言ってたから、早く行こ!」
「やだー!やだー!」
そう言ってまた履いた靴を脱いでしまった。
「じゃあ、どうするの?公園に行かなくていいの?」
琴音はぶすっとした顔を私に向けて、「こうえんには行きたいもん」と言った。
私はどうすればいいんだろう。こういう時の一番正しい答えってなんなのだろう。そして、この子が一番求めている事ってなんなのだろう。そんな事を考えれば考える程分からなくなる。
「子供は素直な生き物だからな」
旦那である彼に私はこの事を言うと、そんな風に言われた。正直、なんの助けにもならないこの助言に、私は旦那にさえフラストレーションを感じた。
琴音は、私が望んで産んだ子じゃない。琴音には悪いと思うけれど、本当にそうなのだからしょうがない。私はまだ子供なんて欲しいと思っていた訳じゃないのに、結果として彼女が私のお腹の中で生まれてしまったというだけの話なのだ。だから彼は私と結婚した。その結婚だって、琴音がもし今いなかったらどうなっていたかなんて分からない。
もちろん彼の事は好きだ。だけど、子育てに追われる今となっては彼の事を考える余裕だってそんなにない。彼だって、昔のように私をずっと見ていてくれる訳じゃない。もしかしたら外で別の女の人がいるのかもしれない。でも、それを追求するのも面倒だった。
だから、今目の前にあるこの現実は、私が望んだものなんかじゃない。
「こうえんには、行かなーい」
靴を脱いだ琴音は、玄関からリビングの方へ走って行ってしまう。私と脱ぎ捨てられた靴だけが玄関に取り残されて、酷く孤独を感じた。
……どうすればいいのよ。私の人生は琴音が産まれてきた事によって終わってしまったのかもしれない。……琴音によって、私の人生は壊されてしまったのかもしれない。
……悲しくなった。こんな風になってしまった自分の人生にも、それを琴音のせいにしようとしている自分にも幻滅した。それでもやっぱり私の人生は、もうほとんど道が決められてしまっているようで、今この場から逃げ出してしまいたいという気持ちを拭う事はできないでいる。
「じゃあ、もう公園行かないよ!」
私はリビングに向かって大きな声を出す。だけど、琴音の声が聞こえてくる事はない。私は靴を脱いで玄関を上がりリビングへ向かった。
「ほらー琴音ー、もう公園行かないからね!」
私がリビングのソファに腰を下ろすと、どこからか
「やだー!こうえん行くもん!」
と声が聞こえてくるけど、琴音の姿は確認できない。
「ほら、琴音ちゃんどこなの?」
そう問いかけても、声は返ってこない。私は心配になってソファから立ち上がり、部屋をまわった。
「ねー琴音ちゃんどこー?」
台所にも、脱衣所にも、寝室にも彼女の姿を確認する事ができない。……もう、どこに行ったのよ。そんな事を思いながら、玄関を見ると、彼女はそこに立っていた。靴を履いている、そして私を真っ直ぐに見ていた。
「琴音ちゃん、そこにいたの」
「うん」
「ねえ、琴音ちゃん」
「なに?」
「私は間違っていたのかな?」
「そんなことないよ。ママはまちがってはいないよ」
「でもね、思うの。あの時琴音ちゃん公園に行きたがらなかったじゃない。だけど、私が無理矢理連れていったから、だから……」
「でもさいしょにこうえんに行きたいって言ったのは、琴音だもん」
「うん、でも。あの日ずっとうちにいたらさ、琴音ちゃんが事故に遭う事もなかったんだよ?」
「ちがうの。それはちがうの」
「私はあれから、琴音なんて最初からいなければよかったって何度も思ったの。それで頭の中で琴音をすごく嫌な子供にして、その気持ちを何度も拭おうとしたの。だけど……だけど、どうしてあなたは私の前に現れてくるの?」
さっき靴を琴音に履かせていた時から流れている涙は今もまだ止まる事がない。だって、今私の視界の中にいるこの子は、一年前に事故で死んだ子のはずなのに。
「ママに会いたいから」
「私だって……、私だって!」
「ママ、こうえんに行こう?」
玄関に立つ琴音は私の方へ手を差し出した。そしてその手に自分の手を重ねると、琴音の姿は一瞬にして消えてしまった。
リビングにある琴音の遺影は、今はまだ伏せたままでいる。彼女の顔を見る度、私は自分の命がここにある事に罪を感じてしまうんだ。
靴、玄関、琴音の姿