白い現 終章 白い現 五

剣護が生きる可能性を求め、荒太はその捜索を決意する。

終章 白い現 五

       五

〝剣護は生きているかもしれない〟
 荒太にその可能性を考えさせたのは、剣護が自ら結界を閉ざして自分たちの前から消えたあと、手元に残った種の存在だった。
〝荒太。その種、透主が死んでも取っておけ〟
 そう言った竜軌の忠告に加え、今後、何らかの役に立つ時が来るかもしれないとの考えもあって、自分を相川鏡子のもとに導いた花の種を荒太は捨てずに取って置いた。
 恐らく鏡子の死と同時刻、美しく艶やかな赤い花弁を散らした花は、種の形状へと逆戻りした。それを、荒太は今までずっと律儀に保管していたのだ。
 時にはそれを取り出し、眺めてみることもあった。
 そして、長い年月の間、何の変化も無かったその種が、今年の桜の時期になって一度、赤く点滅したのだ。それはじっと見ていなければ見逃してしまうような、微かな瞬きだった。たまたま荒太が見ていた時にそれが点滅したのは、運命の悪戯だったと今でも思う。
 鏡子が死んだ今、種が点滅した理由を知る為に、高校をやっと卒業したのち、大学に行くでも就職するでもなく気儘に放浪していた竜軌を捜し当てて、久しぶりに会いに行った。
 荒太も陰陽師ではあるが、呪物に関しては、それを生成した者に訊くのが最も手っ取り早く確実だからだ。
 もしかすると、という予感が胸にはあった。
 荒太の話を聴いた竜軌は、一度口の端を軽く釣り上げ、点滅の由来を語った。
 相も変わらず傲岸不遜(ごうがんふそん)な表情が語る内容に、荒太は聴き入った。

 そして今、チェーンに繋いだ種を首に下げ、真白から借り受けた懐剣・雪華を手にした荒太は、波打ち際に佇んでいた。紺色のワークジャケットが風にはためく。背中には非常食や水、軽量の懐中電灯、サバイバルナイフ等に加え、何が役立つか解らないとばかりにしたためて来た護符やら呪符やらの陰陽道系グッズまでが、ぎゅうぎゅうに詰め込まれたナップザックがある。ちょっと欲張り過ぎたな、と反省していた。
 目の前には白い砂浜と、透明度の高い海が広がっている。
 頭上から降り注ぐ、きつめの日差しに目を細める。
 サラサラした砂にめり込むトレッキングシューズが重い。
(どこや、ここ……)
 困惑する思いであたりを見回していると、声をかけられた。
「ちょいと、あんた!」
 声の方向に首を巡らすと、簡素な着物に身を包んだ、妙齢の女性が立っていた。
 少し白髪の混じる黒髪を結い上げ、美しい銀細工の簪を挿している。
 荒太はそれをついいつもの癖でチェックして、悪くない趣味だと思った。
 女性の濡れたように黒々とした目は、驚きに見開かれていた。
「あんた、その、手に持ってるのは雪華じゃないのかい。真白の……」
 この言葉に、荒太もまた目を見開いた。
 互いに驚き、言葉を探す二人の後ろで、潮騒が鳴り響いていた。
 浜辺には幾隻かの船が泊まっている。博物館で見る模型のような、古風な外観の船だ。海猫が独特の声で鳴きながら、それらの周囲を舞っている。
 近くで食事していた、漁師らしき男の集団がジロジロと自分たちに送る視線を、荒太は感じた。

 荒太が通された囲炉裏のある板の間で、あごひげを生やし、片目が白濁した老人は嶺守(れいじゅ)、いかにもしっかりしていそうな風貌の老婆は萱(かや)、そして自分に声をかけた女性は澪(みお)とそれぞれ名乗った。
「真白様、怜様のお二方には、真に、どれだけ感謝しても感謝しきれません。儂ら、いや、このあたり一帯に住まう者、皆の恩人です。ろくにお礼も申し上げられぬまま、お二人は当地を去ってしまわれましたが。あなた様が、真白様のお知り合いでおられるとは…。久々の客(まろうど)の訪れです。真白様たちが受け取られなかったぶん、感謝の心を尽くして、今宵は盛大に宴を開かねばなりますまいな」
 にこやかに語る嶺守に、荒太は、はあ、と相槌を打つ。
 鬼が出るか蛇が出るかと思い、あらゆる事態を想定して気負って持って来たナップザックが、何とも間抜けに彼の隣に置いてある。
 今から三年近く前の夏祭りの夜、異界に流された話は真白からも聞いていたが、実際にその場所に身を置くと、やはり違和感は拭えなかった。どちらかと言えば前生を思い出させる木造の家屋の空気に、時を逆流したかのような錯覚に陥る。真白たちには、そんなことはなかったのだろうか。
 澪が口を出す。
「嶺守。剣護にも、知らせてやらないと。真白の兄なら、この子とも顔馴染みなんじゃないのかい」
 その言葉に、荒太が全身を硬直させた。
 やはり、という思いと、莫迦な、という思いが同時に湧く。
「………………剣護……?」
 かすれた声が自分の口から出るのを、荒太は聴いた。
 嶺守の顔が明るくなる。
「おお、ご存じでしたか。あの方も数年前にこちらに来られて。ゆっくりと過ごされれば良いものを、それでは心苦しいと言って、今は庭で薪を割ってくださっている筈です。しかし……、」
 そこで嶺守は言葉を区切り、言いにくそうに顔を顰(しか)めた。
「なんです?」

 カンッという小気味良い音と共に、薪が真っ二つに割れる。
 斧を振り上げる人間は、長く伸びた焦げ茶色の癖っ毛を一つに束ね、着物を上半身脱いでいた。長身の、昔より更にたくましくなった身体に汗が光る。
 浜姫榊が生える傍に立って、荒太はそれを見ていた。
 その内、薪を割っていた人間の動きがふと止まる。
「………誰かそこにいんのか?」
 低い、穏やかな声。懐かしい緑の瞳も、何も変わっていなかった。
 今や立派な大人の男性である。それもその筈だ。嶺守の話では、剣護が流れ着いたのはおよそ三年半前。現世の目盛より半年程長い時を生きており、実年齢ではとっくに成人していることになる。
 しかしその立派な体躯を見ても、荒太はすぐに声をかけることが出来なかった。
 頭の中では、嘘だという言葉がぐるぐると回り続けている。
「…剣護先輩」
 生きていた。
 ようやくの思いで声をかけた荒太の方向を、剣護が向く。
 二人の間は3メートルと離れていない。
 しかし剣護は探るような、信じ難いと言わんばかりの声で確認した。
「―――――荒太なのか?」
 荒太は声を出せない。
 生きていた。しかし。
 緑の目はこちらを向いているのに。
 剣護が焦れたように再び問いかける。
「おい、荒太。そこにいんのか?」
 自分で確認するまで、荒太は嶺守の話を信じられなかった。
 剣護は生きていた。
 しかし彼の目は光を失っていた。

 剣護と荒太は縁側に腰掛けていた。薪割りを最後まで終えた剣護の手に、荒太は縁側に置いてあった手拭を持たせてやった。そうしなければ、手拭を求めて縁先を手探りする剣護を見なければならなくなる。荒太は、彼のそんな姿を見たくなかった。手拭を持たされた剣護は礼を言うと、それで首や背などを拭いた。
「…どうやらな、相川の奴が、死ぬ寸前に俺を結界から締め出したらしいんだ。あいつは虫の息で、結界内はとうに汚濁が充満していた。一か八かのことしやがって。俺はその弾みで時空のひずみに転がり落ちて、気が付けばこの辺境の地にいた。汚濁も少しばかり持って来て、迷惑かけた。………で。その時にはもう、何も見えなかった。やっぱ、濃過ぎる汚濁がやばかったのかもしれん。嶺守たちに拾われ、話す内に、ここが以前、真白と次郎が流された世界だと知った。あいつらの活躍と俺の持つ神つ力の気配のお蔭で、貴人(あてびと)として厚遇してもらったよ」
 話す剣護の目は、どこにも焦点が合っていなかった。
「失明状態に慣れるまでには、相当かかった。今じゃ薪割りが出来る程度にまでなったが。嶺守がさ、嫁さんの世話してくれるとか最近言い出して。さすがに断ったよ」
「…なんでですか」
 剣護が笑う。
「俺が相手じゃ可哀そうだ」
 まだ上半身を空気に晒したままの剣護の右肩には、赤い、花びらのような痣(あざ)がついている。荒太は剣護の右側に座り、その痣をじっと見ていた。これが無ければ、雪華の力をもってしても、ここまで辿り着くことは出来なかっただろう。
「お前は?どうやってここまで来たんだ、荒太。おいそれと来られる場所じゃないだろう」
 暗くなりそうな雰囲気を振り払うように、剣護が尋ねた。
「…相川さんの肩に咲いた花、覚えてますか?」
 荒太は剣護の肩の痣から、庭先に戯れる雀たちの姿に視線を移して問いを返した。
 この雀たちも、剣護の目には映っていないのだ。ただ鳴き声だけが、聴こえている。
「ああ、あれな。綺麗だったな。発信機みてーなものだったんだろ?」
 思い出すように、剣護の顔がほころんだ。
「あれの花びらの一枚が、剣護先輩の肩にくっついてます」
「え、マジで?」
 剣護が右肩、左肩、と慌ただしく手を遣る。
「…右肩です。ほぼ先輩に同化してるみたいですね。それに、俺の手元に残っていた花の一対の片方だった種が反応したんです。赤く点滅して。この次第を信長公に話したら、剣護先輩の生存の可能性を示唆(しさ)された。元々が、身近な人間に寄生する性質を備えた呪物やそうです。花を肩に咲かせた相川さんと最後まで一緒におったんは先輩です。透主が生きていない現状、種が点滅するいうことは、先輩に寄生した花の一部分に反応してるんやないか。種が先輩まで導くやろう。…そう言われました。それで真白さんに雪華を借りて。ようやく、ここまで来ることが出来ました。―――――種の話を聴き出す為に俺は、あいつの依頼を受けなならんかったんですからね」
 真白は雪華を貸すことを嫌がらなかった。飛空だけでは心許無いから、護身用に借りて行きたいと言う荒太の無理のある嘘を素直に信じ、進んで差し出した。
「依頼?」
 荒太が溜め息を落とす。
「濃姫捜し、です。嵐下七忍を動員してでも見つけ出せて。全く。信長公の、唯一の泣き所ですわ」
 日本各地を放浪する竜軌の行動の、裏にある彼の目的に荒太は勘付いていた。
 そして少しだけ、良い気味だと思っていたことは否めない。
「……あいつ結構、可愛いな」
 意外そうな表情で剣護が呟く。
 それから、悪戯を仕出かした子供のような顔で尋ねた。
「―――――一磨さんは、何か言ってたか?」
「…ただ、残念やと一言。それだけです。あの人は、大人やから」
「ほんと、その通りだよ。俺、結構あの人に憧れてたんだ。かっけーよな」
 決まり悪そうに焦げ茶の頭をガリガリと掻く。
 彼が妻子を守るように、真白や弟たちを守ってやることが剣護の理想だった。
 荒太はその顔を見る。返って来る眼差しが無いことが、今でも信じられない。
 だが荒太は、剣護の逃げを許すつもりは無かった。
 現から目を逸らしてでも、ずっと剣護の帰りを待ち侘びている真白の姿を、彼は見続けて来たのだ。時には胸がひりつくような痛みと共に。
「剣護先輩。帰れなかったんですか?帰らなかったんですか?」
 頭を掻く手が止まる。
「――――――帰れなかったし、帰らなかった」
 変わっていない、と荒太は感じた。
 例え光を失おうと。一方では思惑を胸に秘め、周囲を欺(あざむ)き通す顔を持ちながら、それでいて不器用とも思える程に真っ正直な心根と芯の強さは。
「臥龍では、俺を現世まで導くことは出来ない。それに…こんな有り様を、真白に見られたくなかった。荒太。俺は、今まで望めば大抵のことが出来た。それを叶える力があった。何があっても真白を守ってやれる自分が誇りだったし、その事実が俺の生きる喜びでもあった」
 剣護は、右の掌を握って、開き、また握った。今度は強く。
「でも今は、もう出来ない。解るか、荒太。俺はずっと生き甲斐にしてたもんを失くしてしまったんだ。俺がこんな状態で戻れば、絶対に、真白は俺を支えようとするだろう。叱っても宥めても、あいつは聴かない。――――――まっぴらだ、そんなの。だから俺はここに残るよ」
真白に哀れまれることは、剣護には耐え難かった。
 この先、何より愛した焦げ茶色の瞳を見ることも叶わない。
 あの澄んだ目が曇らないよう、現実の醜い何物からも庇い守ってやりたかった。
 そして自分が生きている限りは、それは可能であり続けるのだと信じて疑わなかった。
〝僕の目が代わりに映すから〟
(…それも、もう出来ねえ)
 荒太の目には、様々な感情の色が浮かんでは消えた。
 剣護の言葉は、男として非常に理解出来るものがあった。
 大事な存在をその手で守れないという無力感は、理屈抜きに男を打ちのめすのに十分だ。
 逆に庇護しようとされかねない屈辱は、それに輪をかけて苦痛だろう。
 本人が言う通り、これまで大抵のことを可能にする力を持っていた剣護であれば猶更だ。
 だが荒太は同情に流されずに踏み止まった。
 そうであっても剣護には、この難関を超えてもらわなければならないのだ。
(ここがあんたの正念場や)
 それは荒太自身にも当てはまることだった。
 荒太は口を開き、ゆっくりと告げた。良く聴きやがれと思いつつ。
 これを聴いても、同じ言葉が言えるものかどうか――――――――。
「……〝剣護は、アメリカ留学に行っただけでしょう?〟」
「―――――何だ、そりゃ」
 剣護が不審そうな声を出す。
「真白さんが、剣護先輩の消えたあと、目を覚まして言った台詞です」
 剣護が息を呑む。その台詞を聴いた時の、荒太や怜と同様に。
「解りますか。彼女には、あんたがおらんようになるんが、耐えられんかったんですよ。せやから、辛くない物語を自分で創り上げて信じ込んでしもた。今でもです。二年経っても、真白さんは夢の世界を生きてる。まだ、本当には目が覚めてへん。剣護先輩が帰らんかったら、ずっと眠り姫のまんまや。あんた、それでもええんか」
 剣護は沈黙した。
 波の音が聴こえる。
 浜姫榊が葉擦れし、磯の香が鼻につく。
 雀が、近くで鳴いている。
 だが世界は暗闇に閉ざされている。

〝今、見たいの?最後の仕上げが終わったら、どうせ皆に披露するのに。せっかちねえ〟
 剣護は、舞香の描いた真白の油絵を、頼み込んで他の連中より一足先に見せてもらっていた。鏡子と逝く、覚悟を決めたあとだ。
 着物姿のモデルを油絵で描くことに疑問を感じていた剣護だったが、白い布が取り外された絵を見た瞬間、良かったと思った。見ておいて良かったと。
 絵の背景は写実ではなく、空想の世界を思わせる抽象画だった。
 ステンドグラスのような色の洪水が、キャンパスいっぱいに溢れていた。
 その、輝くような色彩の祝福を受けて。
 幸福そうに笑う真白がいた。
 紫に、桜が咲いた柄の着物に身を包んで、微笑む少女がそこにいた。
 とても綺麗だった。画材を超えた美が見事にそこに具現していた。
 絵そのものに、本当に光が差しているように見えた。
 絵に魂を奪われるということを、剣護は生まれて初めてその時、体感した。
(―――――してやられたな)
 心の底から自慢の妹だと思った。
 真白を花嫁として迎えることの出来る男は、世界一の果報者だと羨(うらや)んだ。
(俺じゃなくて残念だ)
 しばらくの間、声も無く絵を見つめてから剣護は言った。
〝……ありがとうございました、舞香さん。これで悔いは無いです〟
〝いやあね。あなた、今から戦地にでも行くつもり?〟
 笑う舞香に、苦笑を返すしかなかった。

 目が見えなくなった今、あの時に見ておいて良かったと改めて強く思っている。
荒太は感傷に浸る剣護をそのままに、強い口調で語った。
「俺が剣護先輩に一目置いたんは、剣護先輩が今生でずうっと真白さんを守って来た人やからです。これからもそうしよういう、気概を見せてた人やからです。今も、そんなあんたの言葉やったら俺は尊重したかもしれん。けど、あかん。無様な自分を見られたない、いう理由で、真白さんを置き去りにするような男の言葉を、聞いたる気は無い。同情かて、してたまるかっ」
 激する荒太とは反対に、剣護は静かな口調で返す。
「……お前はそれで良いのか、荒太?」
「ええですよ。あんたを真白さんへの誕生日プレゼントにして、せいぜい株を上げます。今以上にね!」
 豪語する荒太に、真剣な顔で剣護が迫る。決して焦点が合うことの無い緑の目は、荒太を遣る瀬無くさせる一方だった。
「荒太、――――――良く聴け。俺は、この世に生きてる女の中で、真白が一番好きで大事だ。それは一生、変わらねえ。そういう俺を、あいつのもとに帰して良いのか、って訊いてんだ」
「やっかましいっ!!本邦初公開、みたいな顔で、誰でも知っとるようなこと抜かすなっ」
 があっと吠えた荒太に、剣護がやや怯む。
(言われるまでもない―――――あんたは真白さんを愛してる)
 でなければ、どうして命まで投げ出せる?
 最初から気付いていた。自分と同類の匂いに。けれどそれは荒太にとって怖い事実だった。だから真白を女性として見る存在が、自分の他には要だけだと目を逸らして誤魔化そうとした。
少し口調を弱めて荒太は続けた。
「…俺、剣護先輩のことがずっと怖かったです。あんたが本気になったら、簡単に真白さんを横から攫(さら)われそうな気いして。怯えてた。生きてるかもしれんて判ったあとも、―――――ほんまは少しだけ悩みました。確かめに行くかどうか」
 それは荒太が初めて口にする胸の内だった。
 だが、真白と共に過ごした時間が、荒太の中に自信を培っていた。
 例え真白にとっては夢の中の現でも。荒太にとっては夢のような現だった。
 その全てが嘘で無意味だとは、荒太は思わない。
 真っ赤な顔を両手で覆った真白の告白は止めとなった。
〝私の荒太君だから〟
 おっとりした真白が荒太の為に初めて嫉妬し、激しい感情をさらけ出した。
 常に嫉妬させられる一方だった荒太がそのことをどれだけ喜んだか、真白は知らないだろう。人に譲る気性の彼女が、自分に対して示した強い独占欲が、荒太の中に剣護を迎え入れる決意を促した。
「……帰りましょう、剣護先輩。俺、真白さんに、俺は真白さんのもんやって言われてしもたんです。そんな訳で真白さんはもう俺にベタ惚れやさかい、大丈夫です。俺、剣護先輩のこと、道端の石っころくらいにしか思いませんし」
 剣護は荒太の言葉から、妹が荒太と過ごした月日で彼と幸せだったのだろうと察した。
 そしてその幸せを作り、維持するべく奮闘して来た荒太の姿が浮かんだ。
 それでもまだ、真白に自分が足りないと言うのなら。必要だと言うのなら。
 光を失っても、彼女の声を聴く耳は残っている。
〝剣護。剣護―――――〟
 記憶に残る、最後の真白の声は激しい泣き声だ。
(聴きたい)
 幸せに和らぎ、自分の名を呼ぶ真白の声を。逢いたかったと言う泣き声でも。
 どうしても聴きたいと思ってしまった。
 波の音を聴きながら、これで詰みかな、と剣護は思う。
 同時に、こんな辺境の地までやって来て、頑なな自分の覚悟を突き崩した荒太に感嘆するような脱帽するような念を抱いた。
 ただ現状維持を選び、真白を一人で確保し続ける道もあっただろうに。
 荒太にとって心穏やかでいられない存在である筈の、〝門倉剣護〟さえ真白に捧げようとする。
(呆れた奴だ。お前。――――――そんなに真白が好きかよ)
 成瀬荒太は正真正銘、本物の莫迦だ。
「……抜け抜けと言いやがって…。誰が石っころだ。誰が。俺はなあ、宝石で言えばさしずめエメラルドだぞ、この野郎」
「いてっ」
 目が見えなくても、頬っぺたをつねる程度の芸当は出来るらしかった。
 更に荒太の首を腕でグイッと引き寄せ、剣護が低い声で最終確認をする。
「―――――良いか?真白にくれてやった、エメラルドだぞ。あとで後悔するなよ」
「しませんよ。真白さんの指にはとっくの昔から、タンザナイトがありますから」
 あーあ、と剣護が見えない目で天を仰ぐ。
「今夜の宴は送別会になるな」


 真白は、日曜の晩を怜と過ごしていた。
 料理の出来ない真白の為に、荒太は、自分の留守中はなるべく怜と食事をとるように真白に言い置いて行った。自分の料理の腕前を自覚している真白は、保護者のような荒太の言い付けを従順に受け容れた。怜はむしろその事態を歓迎して、普段自分が食べるだけに作るよりも、ずっと張り切って食事の用意に取り組んだ。
 夕食が済んで真白が後片付けを終わらせると、二人してカーペットに並んで座り、推理ドラマを観た。
 怜はドラマの序盤で早くも犯人が解ってしまったようで、先程から真白に請われるままに、少しずつ犯人を指し示すヒントを出してやっていた。ドラマの間に入ったコマーシャル中に、真白が兄に話しかける。
「…ねえ次郎兄」
「ん。犯人、解った?」
「ううん、そうじゃなくて。―――――荒太君、いつ帰るのかな」
「まだ二日だろう。真白、寂しいの?」
 笑い混じりの問いにコクリと頷く。
「うん。……寂しい。今までは傍にいてくれるのが、あんまり当たり前になってたから。あのね、次郎兄。呆れないで聴いてくれる?」
 耳元に口を寄せた妹に、怜もまた頭を傾けて頷く。
「うん」
「絶対、内緒にしてくれる?」
「うん。何?」
「絶対だよ。――――――実は昨日ね、………こっそり、荒太君のベッドで寝たの……。…内緒だよ?きっと怒られるから。すごく恥ずかしいし。はしたないって思われるの嫌だから。荒太君は潔癖症だから、気付かれないように髪の毛一本見逃さないようにして、頑張って証拠隠滅して来たんだけど。もうね、警察の鑑識並みに神経を使ったんだよ」
 真白は最近、刑事物のドラマに凝っている。
「……内緒にするよ」
 複雑な思いを隠して、怜は真白に微笑んで請け負う。
 有頂天になった荒太の顔を見るのは面白くない。
 怜は荒太が、何をしに家を空けたのか知っていた。剣護生存の可能性の報告と同時に、前もって聴かされていたのだ。
 薄手のワークジャケットを羽織った彼は、パンパンに膨れ上がったナップザックを背負い、首には種のついたネックレスを下げ、手には真白から借り受けた雪華を持っていた。足に履くのはトレッキングシューズだ。一見、どこに何をしに行くのか解らない、奇妙な格好ではある。目的と任務の為なら、ビジュアルにも頓着しない意識の切り替えの潔さは、忍びならではとも言えた。
〝どんな結果になるか解らへんよって、真白さんにはなんも言わんで行く。俺が留守の間、彼女のこと、くれぐれも頼む。ええな、頼んだからな?真白さんに傷一つ、つけたら許さへんぞ!くれぐれも言うとくぞ!〟
 噛みつかんばかりの勢いで何度もしつこく念を押して迫る荒太に、俺は兄だぞと思いながらも怜は頷き、彼を送り出した。
 最初は、荒太の言葉がとても信じられなかった。
 閉ざされていく緑の結界を、怜は確かにこの目で見た。鏡子の身体から滲み出す汚濁を感じ取りながら。こちらを見る、とても静かな剣護の表情。
 それで全ては終わったと思っていた。
 今生で唯一、兄と呼べた存在を自分は失ってしまったのだと。
〝可能性はまだある。諦めるな〟
 荒太の声と目には、怜の底深くに埋もれていた希望を呼び起こすだけの力強さがあった。
(――――――もしも太郎兄が本当に戻って来てくれるなら)
 自分たちのもとに、剣護が戻るというのなら。
 それは怜にとって、奇跡の再現でもある。
 荒野に落ち着きつつあった怜の心が、大きく飛躍することになる。
 そして欠けていたピースが揃うことで、真白は夢から目覚めるだろう。
 目覚めて、今度は彼女を傷つけることのない、幸福な現実と向き合うだろう。
「なあに、次郎兄?」
 自分の頭を撫でる次兄に、真白は首を傾ける。
 優しい目でそんな妹の顔を見て、きっとそれは叶う、と怜は信じた。
 ひたすら強く祈った。奇跡の再現を。
(頼むぞ、成瀬)
 ふと、怜は笑う。
 気付けば自分はいつも、剣護に関しては肝心なところで荒太に頼っている。
 それは荒太の剣護に対する、ひいては真白に対する執念の賜物だった。真白の幸福を、いつもがむしゃらになって追いかける荒太の姿は、兄としても感じ入るものがある。
 そろそろ観念して認めてやる頃合いなのかもしれない、と怜が考えていた時。
 チャイムの音が鳴った。

 パチン、と、どこかで泡が弾ける音を聴いた気がして、真白は瞬きした。
 目の前には着物姿の剣護が立っている。
 剣護が立っている。

 口笛を吹きながら、畑中冬人は浴槽を洗っていた。
 男の一人暮らしとは言え、なるべく清潔感を保っていないと、せっかく出来た彼女に愛想を尽かされてしまう。浴槽はちょっと手を抜くとすぐに垢がこびりついて取れなくなると、実家の母親が口を酸っぱくして言っていたのを教訓にしているのだ。
 洗いながら、左手首に巻かれた色とりどりのミサンガが目に入る。中学の時からしているミサンガだが、一向に切れる気配が無い。どれだけ頑丈なのだと呆れてしまう。
(俺の願いを一個も叶える気が無いってか?)
 高校時代に消えた親友のことを思い出し、口笛が止まる。
 剣護がアメリカ留学したという話を、畑中は今でも素直に信じることが出来ないでいた。その疑いを裏付けるように、彼とはあれ以来音信不通だ。正月に、剣護の実家に出した年賀状にも返事は来なかった。
(…あいつにも、もう会えないのかな)
「ふゆくーん、終わった?」
「あ、美由紀ちゃん。ごめん、まだ」
 風呂掃除が終わったら、ブルーレイを借りて家に来た彼女と、映画を見る予定なのだ。
 美由紀はそう、と笑うと顔を引っ込めた。
 可愛いなあ、とやにさがる畑中は、左手首に微かな違和感を覚えた。
「あ」
 思わず大きな声を出してしまう。
 当然、美由紀が再び顔を出す。
「何?どうしたの?」
「――――ミサンガが、切れた」
「おー、やったね。願い事、叶うよ。どれ?何色のが切れたの?」
 にこにこした顔で訊かれ、千切れて浴槽に落ちた紐を見る。
 洗剤の泡にまみれたその色は。
「…緑」

「剣護。嘘。…どうやって?だって相川さんと、結界の中に残ったでしょう?」
 荒太と怜が顔を見合わせる。
 その言葉は、真白が虚構の世界から戻って来たことを意味していた。
 剣護の帰還。それに伴う真白の、現への帰還。
 荒太は真白の顔を見ながら、ナップザックを床に降ろした。ドサ、と音が鳴る。
(真白さんが、目を覚ました…………)
 やっと。
 剣護も気付いたようだった。
「――――あいつに、最後の最後に締め出された。俺の子守唄はいらねえってさ。…母親の代わりに、お前が抱き締めてくれたからって」
(相川さん…)
 剣護は荒太に頼み、嶺守たちの家の庭にある、澪の夫の墓の隣に、彼らの了解を得て鏡子の小さな墓を作ってもらった。盛った土に石を置いただけの素朴な墓の下には、骨ではなく荒太を導いた種が埋まっている。もしかしたらいつの日か土を割って芽吹き、育った蕾が赤い、綺麗な花を咲かせる日が来るかもしれない。
「…真白」
 最大限の慈しみと愛しさが籠められた声。
 ずっと夢の中で聴いていた声と同じ響きで呼ばれて、顔を上げる。
 夢ではない。
 もう、夢ではない。
「おいで」
 広い腕の中に、真白は泣きながら飛び込んだ。
 その瞬間、真白の世界に欠けていた太陽が戻って来た。
(――――私のお日様)

 実家への連絡は明日することにして、ひとまずその日、剣護は怜の家に泊まることになった。今晩は剣護と一緒にいたがるだろうと思っていた真白が彼について行かなかったことが、荒太には意外だった。
 ――――――剣護が帰って来た。
 レシピ本や大学の教材などが並べられた机の前の椅子に座り、その事実を、荒太は改めて噛み締めていた。宴でのご馳走も含め、嶺守らの家では十分な量の食事を提供してもらった。入浴を済ませたことで、異空間を往来したことによる疲労も消えた。達成感とある種の虚脱感の両方が、彼の中にはあった。
後悔はしていない。
 そしてこののちに起こり得る事態は、とっくに予測していたものだった。
 ふう、と息を吐く。
 なぜだか部屋がいつもより、静まり返っているように感じられる。
 長くはない期間だったがこの家で、真白と過ごした幸せな記憶を、荒太は今思い出していた。
 部屋のドアが遠慮がちにノックされる。
 来た、と思った。
「荒太君。ちょっと良い?」
「――――――うん、入って」
 おずおずと、入って来る真白の様子を見て、拳を握る。
「…ベッドに、座っても良い?」
 これには少し驚いた。真白にしては大胆だ。禊の時を終えて初めて会った高校の時はまだ彼女も無防備で、勧めると荒太のベッドに無邪気に腰掛けていたものだが。
「良いよ」
 ピシリと皴一つ無く整えられたベッドカバーに、真白がそっと腰を下ろす。
「荒太君。剣護を連れ帰ってくれて、どうもありがとう。本当に感謝してる。一生、恩に着ます」
 真白はそう言って、腰掛けたまま、深々と頭を下げた。サラサラと焦げ茶色の髪が鳴る。
「…良いよ」
「私の為、だよね」
 顔を上げた真白が、悲しみとも喜びともつかない表情で呟いた。
「…………」
「今まで私、自分の物語の中で、眠りこけてたんだね。それで、皆が私の為に、私の眠りを必死で守ってくれた。…申し訳なくて、いたたまれない。次郎兄がどうして泣いてたのかとか、今なら解ることがたくさんあるの。そして荒太君は、一番近くで見守り続けてくれた。きっと何度も、傷ついたでしょうに。離れないでいてくれて。その上、剣護まで私に戻してくれた。…私にそれと同じくらい大きな、返せるものがあれば良かった。あなたに。本当に、―――――――本当にそう―――――思ってるの」
 真白らしい発想だと荒太は思う。彼女は知らないだけだ。
 見返りは貰う。真白の笑顔。真白の幸福。
「俺は好きで真白さんの傍にいた。…真白さんが、俺の作った飯、美味しいって笑って食べてくれて、食後には温かいお茶を淹れてくれて。少しくらいきついことがあっても、…幸せだったんだ。嘘じゃない。だから返すとか、考えなくて良い」
「…荒太君、自分が優しいって、そろそろ自覚したほうが良いよ」
「俺のは真白さん限定なんだってこと、真白さんもそろそろ自覚してよ」
「―――燕の巣は?」
「真白さんが知らなけりゃ、とっくに他所に移してた」
「…………」
 真白はそこで間を置いた。
「あのね、荒太君――――」
「真白さん、実家に帰ったら?」
 耐えられずに、自分から突き放すように口にして、荒太は後悔した。
 真白がひどくショックを受けた顔で、荒太を見る。
「…わ…、私も、そう思ってた。剣護を、私、支えないといけないから」
「そうだね」
 荒太は唇を噛んだ。
「これから、点字とかの勉強も、しようと思うの」
「……うん」
 それから真白は、泣きそうな顔で微笑んだ。
「指輪、返すね」
 左手の小指に嵌めていたタンザナイトは、今も変わらずそこにあった。真白は、いずれその指輪を荒太の手で、薬指に嵌め変えてもらうつもりだった。荒太がピンキーリングに調節してくれた時から、ずっとそのつもりでいたのだ。
 抜き取ろうとする真白の手を荒太が止める。
「返さないで。持ってて」
 真白は首を横に振った。
「甘えて、荒太君を縛ることは出来ないよ」
「そういうことじゃない、それは真白さんにあげたものだ。真白さんの為だけの指輪だから、返されてもどうしようもないんだ」
 他に言い様があるだろう、と荒太は自分に突っ込んでいた。
 余裕が無くて、真白に優しく接することの出来ない自分がもどかしい。
 真白はしばらく荒太を悲しそうに見ていたが、俯いた。
「…荒太君は格好良いし、お料理も、何でも出来るから、」
「すぐに良い人が出来るとか言わないでね、怒るから」
 本気の響きに、真白が口籠る。
「俺は、真白さんのでしょう?ずっと、そうだろう?」
 真白が唇を結んでいる長い間、荒太は彼女の顔から目を逸らさなかった。
 真白は目を閉じて、首を横に振ろうとした。
 けれど荒太が掴んだ右手の感触に目を開け、動きを止める。荒太の左手は弱々しく握り返され、一度は固く引き結ばれた唇が、震えながら動いた。
「剣護の目が治るまで、私、戻らないよ?」
「うん」
「……治らないかも、しれないんだよ?」
「うん」
「それでも?」
「うん」
 ついに真白が泣いた。
(泣き虫だなあ、真白さん)
 優しい気持ちが込み上げて、荒太は焦げ茶色の頭を撫でた。
 その優しさに誘われるように、真白が荒太を見上げる。
 ベッドに座った彼女に、荒太はずっと立ったまま応対していた。
 焦げ茶色の瞳が静かに瞬いた。
「荒太君に私をあげます」
 唐突な発言に、一瞬、荒太は頭の中が空白になった。
「…え?」
 真白が、目を彷徨わせながら口を開く。
「ずっと以前、荒太君、言ったでしょう。…私が許すなら、私の全部が欲しいって。だから。…だから…」
 やっと真白の言っている言葉に理解が追いついた。更に、真白が今日に限ってベッドに座った理由が解り、荒太は唖然とした。真白の身体の柔らかさが蘇る。唇の甘さや、しょっぱさも。そうして思い出しながら、彼女の身体に無意識に伸ばしかけていた右手を、バッと引っ込める。危なかった、という言葉を胸の内で何度も早口で繰り返す。荒太の心臓はバクバクと暴れていた。
「――――――駄目だよ、そんな。別れる前の最後の、みたいな」
 真白の顔と身体から視線をもぎ離しながら、乱れた口調で言う。顔が熱い。
「違う、そんなんじゃ。あなたのところに、帰って来たいから」
「ちゃんと、俺と結婚する時にちょうだい!絶対、その時は貰うから」
 荒太はこれだけの言葉を言うのに、一生分の克己心を使い果たした気がした。言葉を発した為に、肩で息をする羽目になる日が来るとは思ってもいなかった。
(―――――莫迦か俺は。いや。これで良い。やっぱり莫迦だ――――いや)
 葛藤する荒太の前で、真白は黙り込んだ。
 非常に惜しいことをした、という思いが荒太の頭に居座ろうとしたが、無理矢理にそれを追い払う。代わりに、真白に請う。
「…キスして良い?」
「え、うん」
 真白が言い終わる前に、荒太は真白の唇に覆い被さるようにくちづけていた。
 キスだけだ、それだけだ、と自分に言い聞かせながら、そのままの勢いで真白の身体をベッドカバーに倒す。白に、焦げ茶色の髪がふわっと散る。微かな怯えが走った真白の目を見て、キスだけだ、と再び強く念じる。
 頬に、首の付け根に、唇に唇をつけると、耳たぶを噛み、唇を噛んだ。ブラウスの襟元から覗く、白く浮き出た鎖骨にも歯を当てる。
 ガバッと真白が跳ね起きた。勢い、荒太の身体が転がる。
「ど、どうして噛みつくの?」
「え、と。美味しそうだったから?」
「えええ?」
「痛かった?…甘噛みした、つもりだけど」
 荒太が上目遣いになる。
「そ、そういう問題じゃ、なくて」
「ダメだった?」
「……ううん」
 お互いに赤面して、気まずい空気が流れる。
 間抜けな発言だと思いつつ、荒太は確認を取る。
「――――あの、続けても?」
「あ、はい…。……あんまり、噛まないで」
 荒太の確認に答える真白の唇に、やはり荒太は性急に迫った。

白い現 終章 白い現 五

白い現 終章 白い現 五

剣護は生きているかもしれない。 その可能性に賭けて、荒太は彼を捜索する決意をする。

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更新日
登録日
2015-02-24

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