白い現 終章 白い現 四

大学一年になった真白と荒太は、同棲生活を始めていた。
幸福に浸る荒太だが、真白はまだ、「剣護はアメリカ留学している」という創造の世界で自分を守っていた。そんな中、二人の間に起きたある出来事をきっかけに、荒太は一つの決意をする。

終章 白い現 四

       四

 荒太はキッチンにある生ごみ用のごみ箱の中を見て、首を傾げた。
「真白さん。鰹(かつお)が入ってた空のトレイ、捨てちゃった?」
 訊かれて流しに立っていた真白が、あ、と言う顔をする。
 絞って水を切ったスポンジを置き、エプロンを外しながら答える。
「ごめんなさい、うっかりしてた。リサイクル出来るんだったね」
「うん、良いよ。後片付け、お疲れ様」
「緑茶にする?紅茶?コーヒー?」
「緑茶で」
「はい」
 微笑んで真白が手に取る茶筒は、荒太が吟味した桜皮の茶筒だ。以前、大学の合格祝いを兼ねて二人で旅行した際に訪れた、秋田で手に入れた伝統工芸品は、桜の花が満開に咲いたような細工が美しい上に密閉性が高く、実用的だった。
 真白がお茶を淹れる仕度を整える姿を眺めてから、荒太はリビングのテーブルにコースターを準備した。藍色と空色、そして白のシックな色合いが品の良いコースターは真白の手作りだ。
 本来、剣護の志望先であった大学に、今年の四月、荒太と真白は入学した。それに先立ち、二人共、保護者の了解を得た上でマンションでの同棲生活を始めた。
 引っ越し先を探すに当たり、荒太は陽当たりの良い、室内から桜の眺められる物件を探した。他にもキッチン周りの使い勝手やら収納スペースの広さやら、彼の要求は新婚の妻以上に高く、終いには嵐下七忍まで追い立てての大規模な物件捕り物となった。その最中、職権濫用、公私混同、と兵庫が何度叫んだことか。荒太もまた真白との新居を探すということで血眼(ちまなこ)になっており、任務の内容如何に関わらず主命に黙って従うのも忍びの勤めだろうが、と繰り返し言っては兵庫を黙らせた。
 結果、落ち着いた今の住処に、荒太は非常に満足していた。今年は慌ただしくて余裕が無かったが、来年の春には室内から真白と共に花見が出来るだろう。随分と規模は小さくなったが、当面はここが荒太と真白にとっての桜屋敷だ。
 問題は、と思い、隣でお茶を飲む真白を見遣る。
 視線に気付き、笑顔を向ける真白に笑顔を返し、幸せを噛み締めながら、問題は、と思考を続ける。
 問題は一緒に暮らしながらも寝室は別々、という生殺し状態にあった。学生の二人暮らしにしては余裕のある部屋数が、この場合は仇となってしまったのだ。
 湯上りの真白や寝起きでパジャマ姿の真白を、ただただ見ているだけで何もしないということは、荒太にとってかなり切実に苦しいものがあった。今では荒太を生活のパートナーと見なし、信頼してくれる真白も、荒太が自分の寝室に踏み入ることだけは固く拒んだ。一度、疲れて帰った深夜、自分の部屋と間違えてうっかり真白の部屋に数歩、踏み入ってしまった荒太は、起きて動揺した真白に泣かれそうになり自室に飛んで逃げ帰った。
(おまけに)
 ピンポーン、と明るいチャイムの音が鳴る。
 誰が来たか、荒太には察しがついた。
「次郎兄!」
 玄関から聴こえて来た真白の弾んだ声に、やっぱり、と顰(しか)め面(つら)になる。
「入って、入って。どうしたの?」
「サークルでケーキ貰ったんだ。一緒に食べようと思って」
「本当?丁度良かった。今、お茶してたとこだったの。次郎兄のぶんも淹れるね」
 静かに微笑しながら入って来る怜は、三年前よりぐんと背が伸びた。今では大人びたと言うより、頼もしい大人の風格が漂っている。
 自分とどちらが身長が高いか、正確な数値を荒太は是非とも知りたいところだったが、今は「ケーキ」の響きに耳が動いた。真白たちと同じ大学に通う怜は、にこにこコーポを少し前に引き払い、このマンションの、真白たちの住まう階の一つ下の階に引っ越して来ていた。妹の真白を追ってであることは言うまでもない。
 二年前、秋と冬を真白と寄り添って過ごした怜は、春を迎えるころには精神の安定を取り戻していた。未だ心は荒野の中にあっても、彼本来のしなやかな強さで、息を吹き返すように立ち直った。
〝悪かったな〟
 怜のその一言で、荒太は再び真白を取り戻した。
 それから時間を重ね、二人の日々を育んだ。
 壊れ物を扱うように慎重に、同時に濃い密度で荒太は真白に接した。
 お互いに大学に受かってから、同じ家で暮らしたいと口にするには非常な勇気が必要だった。けれど、断られることも覚悟で申し込んだ荒太に、真白は頷いてしみじみと言った。
〝…嬉しい。これからは、荒太君とずっと一緒にいられるんだね〟
 その言葉が荒太にも嬉し過ぎて、兵庫と片郡を相手にまた飲み過ぎてしまった。
 
貰ったと言うよりは、恐らく怜が女子大生に貢がれたのであろうケーキを荒太は真剣な目で検分する。〝貢ぎ物〟であることを裏付けるように、箱の中に入っていた三個のケーキは全て、怜の好むチョコレートケーキで統一されていた。
「チョコレートケーキが三個か。…難しいな」
「どうして?三人だし、一種類しか無いのに」
 難問を前にしたように唸る荒太に、真白が不思議そうな目を向ける。
「だって、俺が二個食べて真白さんが一個食べると、江藤のぶんが無くなるだろ?」
「……成瀬。お前、数学と人間交渉術が出来なくて、良く大学に受かったね」
「両方、出来てる」
 怜が首を横に振りながら息を吐く。
「じゃあ倫理がなってないんだな。俺の人権を軽視し過ぎだ」
「莫迦な。ちゃんと考えてるから、無くなったら可哀そうだなーって言ってんじゃないか」
「荒太君が二個食べて次郎兄が一個食べたら良いよ。私は荒太君が作ってくれた美味しいご飯で、お腹一杯だから」
 笑ってそう言った真白を、荒太は優しい主人に注意を受けた犬のような顔で見た。そしてケーキは一人一個ずつの割り当てで落ち着いた。

「荒太君、お風呂、上がりました」
「あ、はい」
 怜の帰ったあと、自室で料理雑誌を読んでいた荒太は、ノックの音に続きドアを開けた真白を振り返った。
「…………」
 パーカーを羽織ったパジャマの上の、まだほんのりと上気した顔が、自分を見て静止した荒太に疑問符を浮かべる。
「え、どうかした?」
「ううん、何でも無い。――――いや、やっぱりある、ある。真白さん、こっちに来て」
 真白が、少しおっかなびっくり、といった様子で室内に入って来る。
 荒太の部屋に入るのは、警戒しながらも許容範囲らしいのが不思議だった。高校のころからの慣れがあるのかもしれない。しかしそれなら、高校時代には荒太が真白の部屋にかなり入り浸りだった状況は、今の真白の中でどう処理されているのだろう。荒太には今一つ良く解らない。実家の自室と同棲先での自室では、ガードの固さに差が出るということだろうか。何せ実家には二人の祖母という強い守護者(ガーディアン)がいたのに加え、隣家にも真白を我が子同然に思う叔母夫妻がいた。
一度、荒太は手痛い失敗をやらかしたことがある。
恋愛に関してかなりオープンな姿勢を持つ真白の父方の祖母・塔子とは対照的に、母方の祖母・絵里は女性の貞淑・貞節を重んじる、古風な考えの持ち主だった。
高校二年の春、怜の手から真白を取り戻した荒太は、それまで真白との間に空いた時間を取り戻そうと、盲目的に二人だけの時間を欲した。
孫娘の部屋に連日深夜まで通い詰める荒太に業を煮やした絵里が、真白の部屋で我が物顔で夜遅くまで寛いでいた彼におっとりと声をかけた。
〝成瀬君。そろそろ帰らないと、お家の方が心配なさるんじゃないかしら?〟
 お気遣いなく、と言おうとして部屋の入口に顔を向けた荒太は、そこに静かに怒れる守護者の姿を見た。口調と変わらない、おっとりした優しげな風情の着物姿の絵里の手には、薙刀(なぎなた)がごく自然に構えられていた。それはもう、荒太から見ても惚れ惚れするくらい見事な構えだった。これには真白も驚き、目を丸くしていた。鞘が外され剥き出しになった刃先はきらりと光った。そんな絵里の出で立ちを見た荒太は肝を冷やし、すぐに退散した。さすがに荒太も、そのころの自分の態度が行き過ぎたものであったと反省せざるを得なかった。絵里が若いころ薙刀の名手だったと聞いたのは後のことである。真白と荒太の同棲を最後まで渋っていたのも彼女だったが、結局は孫娘の嘆願に押し切られた。二人だけの秋田旅行さえ許可したものか散々に悩んでいたのだから、同棲を認めるにあたっては相当な思いで決断するまでに至った筈である。
(…全く。俺だけの真白さんにするのは一苦労だ)
 開いた窓からは五月の、爽やかな夜風が吹き込む。
 真白が近付くと、柔らかな芳香が漂った。
 甘い香りに酔いながら、口を開く。
「髪、伸びたね」
 そう言って、肩を越した長さの髪に触れる。―――――まだ許容範囲だ。
 真白が、悲しそうに微笑んだ。
「…剣護と同じこと言うね、荒太君」
 荒太の手が思わず固まる。
「結局、ずっと連絡も無し。帰国もしないで。風来坊にも程があるよね」
 真白はまだ、自分の創った虚構の世界に生きていた。
 荒太は拳を形作った手を下ろそうとして、気が変わり、滑らかな真白の頬に触れた。これもまだ、許容範囲だ。真白はじっとしている。悲しげな目のまま。
「……剣護先輩に会いたい?」
「―――――――うん」
 涙ぐむ目をしないで欲しい。恋い慕う人間を想うような目をしないで欲しい。
(目の前にいるのは俺なのに)
 剣護のほうが良いのかと、子供のように問い詰めてしまいそうになる。
 緑の呪縛は、いつまで真白を捕らえて放さないのか。
「時々、夢に見るの。剣護の名前を呼んでしまってるのが、自分でも解るの。…荒太君、そんなの嫌でしょう?聴きたくないでしょう?」
 荒太がひどく嫉妬深い気質であることを、真白は高校のころから知っている。
 それもあって、真白は荒太の入室を頑なに拒んでいたのだ。
 抱き締めて良いか、尋ねる手順をすっ飛ばして、パジャマ姿の真白を強く抱いている自分に荒太は気付く。真白の身体の柔らかさに、空恐ろしいような心地がする。
「――――――ごめん」
 二人同時に、口にした。
 真白は嫌がる素振りもせず、むしろ荒太に更に強く身を押し付けて来た。
(――――え――――)
 どくん、と荒太の心臓が大きく脈打つ。視界に入るベッドから、慌てて目を背ける。
「荒太君…荒太君……」
 真白は泣いていた。
 涙に濡れた声に、荒太の忍耐の緒が切れかけていた。
(耐久力テストかよ……っ)
 半分本気でそう思う。絵里は同棲するにあたっての心得を、孫娘に言って聴かせたのではないのか。
(――――ああ、もうこの際だ)
 許容範囲を測る慎重さと臆病さを放り投げる。
 荒太は自棄(やけ)になって言った。
「真白さん。キスして良い?」
 そのくらいの責任は取ってくれ、と思った。
 相変わらず、夜風はさわさわと吹いていた。
 真白の焦げ茶色の髪が、揺れる。
 返事が貰えるまで、随分と待った気がした。
 その間もずっと身体は密着したままで、荒太は天国と地獄を行ったり来たりしていた。
「……うん、良いよ」
 忍びでなければ聴き取れないくらいの小声が返った。
 許された唇はしょっぱかった。涙の味だと気付き、荒太は切なくなった。

〝哀しみの女流歌人〟
 それが、キャンパスで真白についたあだ名だった。
 真白は今でも五行歌を続けていて、大学入学の少し前に、小さな歌集も出版した。歌集の後半部分には挽歌(ばんか)らしき歌が多く載り、詠んだ真白本人は首をひねり、身内の人間は沈黙した。その歌集から得られる印税と両親からの仕送りで、荒太との生活費を賄っている。入学前から少し名の知れた存在だった真白は、その容姿においても学生たちの注目を集めた。
 憂いを含んだ、白く儚げな顔。
 幼さが僅かに残るものの大人びた面立ちは整い、少女らしさを含みながら大人の女性の雰囲気を漂わせて仄かな色香がある。しかしすんなりと伸びた立ち姿から醸し出される空気は、まるで帰らぬ誰かを待ち侘びているようで、いつもどこか哀しい。
 周囲の人間から見た真白像は、核心に近かった。
「僕が守ってあげたい」
 彼女の佇まいは、多くの男性にそんな思いを喚起させた。
 当然、寄って来る立候補者はいたが、成瀬荒太という、押しも押されもせぬ同棲相手が学内にいることも知れ渡っていた為、しつこく迫られることは無かった。
 広いキャンパス構内、クリスマスには盛大な飾り付けの施される大きな樅(もみ)の木の側のベンチに、真白は一人座って自動販売機で買ったココアを飲んでいた。目はぼうっと虚ろだ。
(あ…、燕が飛んでる)
 抜けるように青い空が眩しい。その青空をポツンと飛翔する、黒い小さな点。
 実家の軒先に毎年巣を作っていた燕は、今年もやって来ただろうか。
 今住んでいるマンションの、荒太の部屋の窓の外側にも、燕が巣を作っている。
 荒太は雛の鳴き声がうるさいと言いつつ、我慢しているようだ。
(荒太君――――――)
 同棲しているのに、寝室が別だというのはおかしいと、同じ国文学科の上野みちるに言われてしまった。
〝多分ね、成瀬は我慢してるよ、しろりん。…ちょっと可哀そうだって〟
 そうだろうか、と思う。
 思って下を向くと、肩からサラリと髪が滑り落ちた。
 紙コップの中のココアの、まったりと濁った茶色を見つめる。
 きっと、みちるの言うことは正しい。
 荒太がずっと、自分に対して大きく譲歩して来てくれていることに、真白は気付いていた。気付きながら、それに甘え続けて来た。
 本当はキス以上を待たれていると知りつつ、そこまでの領域に踏み込むことをまだ恐れている。自分は同年代の女の子より臆病なのだ。
 そして欲しがりながら、真白に無理強いするような真似を、荒太は一度もしたことがない。急かす言葉も口にしない。焦がれるように求められていることが、真白にもひしひしと伝わって来るのに。
(…荒太君は私を傷つけない。何が何でも、傷つけまいとしてる。いつも)
 短気で我が強い自分を弁えているぶん、ありったけの思い遣りをかき集めて真白を包もうと努力している。
 燕の雛の声のうるささに眉間に皺を作りながら、決して巣を取り除こうとはしない荒太。
(荒太君は自分が優しいってこと、知ってるのかな)
 器用なようでいて不器用な彼は――――――――。
 ふと顔を上げて、視線の先を歩く荒太の姿を見つける。
 怜にしろ荒太にしろ、姿勢の良い後ろ姿というのは思いの外、目立つ。
 嬉しくなって声をかけようとした真白の口から、声は発せられなかった。
 荒太の隣には、見知らぬ女性がいた。荒太と並んでも見劣りしない、スラリとした長い手足。大人っぽい、洒落た服装はそれに見合ったスタイルとも相まって、スタイリスト並みに評価の厳しい荒太でも太鼓判を押しそうだ。
 長い髪を風に靡かせた彼女は親しげに、荒太の腕に手を添えている。
 凍りついた真白の目はその手に吸い寄せられ、動けなくなった。
(…あ、…動悸が激しい。どうして。苦しい)
 喉が詰まったように、息が苦しい――――――――。

 帰宅した荒太はあれ、と思った。
 もう日も落ちたのに、家の電気が一つもついていない。
 今日、真白が受ける講義は午前中までだった筈だ。とっくに帰っているだろうに、姿も見えない。帰った時に、彼女が笑顔で〝お帰りなさい〟と出迎えてくれないのは非常に寂しい。まるで中毒のように、荒太にはそれが馴染んでしまっているのだ。怜のところだろうか。とりあえず廊下とキッチンの電気をつけ、買って来た食料品を冷蔵庫に入れるなりして、自室に鞄を放り込んでからリビングの電気をつけた。真白の部屋のドアも念の為にノックする。――――――返事は無い。
「…真白さん?いる?」
 そおっと覗き込むと、ベッドの布団が膨らんでいた。
「真白さん!?もしかして、具合悪いの?」
 遠慮も忘れて室内に踏み込み、ベッドの傍にひざまずいた。
 電気を一切つける余裕も無いくらいに体調を崩してしまったのだろうか。
「――――――悪くないよ。大丈夫」
 くぐもった返事に、ホッと息を吐く。
「良かった。…でもどうしたの?家中、真っ暗だったよ」
「うん。ごめん。何でもないの」
 何か様子がおかしいということに、荒太も気付いた。
「真白さん。顔、見せてくれる?」
「…どうして?」
「今、怒るか悲しむか、してるでしょ」
 返事は無かった。
 荒太は躊躇ののち、掛布団をそっとめくった。
 幼児のように丸くなった真白が、そこにいた。両足を曲げ、腕で抱え込んで壁側を向き、こちらに背を向けている。
 柔らかい綿のクルーネックの長袖シャツ、ゆったりした綿麻素材のズボンは、真白が好む部屋着スタイルの一つだ。色はどちらもオフホワイト。彼女が心を落ち着けたい時に良く手に取る色だ。
「―――――…ま、真白さん。俺、何かした?」
 強固な壁のようにも見える真白の背中に問いかける。
焦げ茶色に流れる髪の向こうから声が届く。
「してない―――――した。ううん、してない。してないの」
 絶対、何か気付かない内にやらかしたのだと荒太は確信した。
 顔を見せないことは彼女の意思表示だ。
 何だ、俺、何をした、と記憶の中を大捜索する荒太の耳に、真白の硬い声が響いた。
「荒太君。私のこと、嫌になったのなら言って」
「な―――――、」
「もっと大人の、お付き合いが出来る女性が良いのなら――――――」
「真白さん!」
 荒太の怒鳴り声に、真白の身体がビクッと揺れる。
「…怒るよ」
 しかし、真白が恐る恐るこちらを向いた顔を見た途端、荒太は怯んだ。
「ごめん。今の無し。怒らない」
(ちくしょう。勝てない)
「…こっち、こっちに来て」
 ベッドの隅に籠城する真白に、怯えさせないよう優しく声をかける。
 手を取って真白をベッドに腰掛けさせ、自分はひざまずいたままの姿勢で、目を合わせて尋ねた。
 この焦げ茶色が大好きだと思いながら。
「……何でそんな莫迦なこと、考えたの。俺の眼中に真白さんしかないことくらい、三歳児だって見りゃ解るよ」
「昼間、」
「昼間?」
「見た」
「見た…」
 鸚鵡(おうむ)返しに言葉を聴き出す。
「―――何を?」
 ここで真白がキュッと握り拳を作る。
「荒太君と女の人が、歩いてるとこ。………荒太君の腕に、…触ってた」
 荒太は、真白以外の女性には相当にドライだ。一緒に並んで歩いたり、まして腕に手を添えるようなことは許さない。
 だから真白が見た光景は、彼女にショックを与えた。荒太が臆病な自分に合わせ、無理をしているのだろうと考え事に耽っていた折も折だ。
「あぁ―――――あ…」
 荒太が額に手を置いた。
「……俺としたことが。良かれと思ってベタな失敗を。そっか。真白さん、あの樅の木の側のベンチ、お気に入りだったね」
「――――…うん?」
 荒太が顔を歪め、首の後ろをがしがしと掻いている。変わらない彼の癖を見て、真白の心がほんの少しだけ解れる。
 荒太が顔を上げた。そこに後ろめたい色はなかった。
「…サプライズにしたかったんだけどなあ。ねえ、真白さん。来月、六月の十日、何の日か解る?」
 きょとん、とした顔で見返す真白に、荒太は内心でやっぱりな、と思っていた。
 自分の誕生日を忘れるのは彼女のお家芸だ。昔から変わらない性分に苦笑してしまう。
「真白さんが、十九歳になる日でしょう?」
「…あ………」
 それだけで、真白には聴くまでもなく、何となく事情が呑み込めてしまった。
 しかし荒太はきちんと言葉を使った説明をした。
「だから俺としては、誕生日プレゼントの仕込みを入念にすべく、社交辞令も使って色々と情報を得ようとしてた訳で。…押しつけがましいかもしれないけど、今年は洋服をプレゼントしたいって思ってたんだ。昼間会ってたのは、海外のナチュラル系ブランドにも詳しい相手でね。女性のそういう情報通って忍び以上だからさ。彼女の服装とか俺の合格圏内だったし、話を聴く価値があると思ったんだけど」
 真白に誤解された挙句、〝大人のお付き合い〟を薦められるに至っては、失態を仕出かしたと思う他なかった。誤解が解けた今に至っては、真白も赤面して気まずい表情をしていた。荒太が、真白の目をじっと見る。
「俺が他の女に触られるの、嫌だったの?」
 真白が右に逸らした目を追い、更に左に逸らした目を追うと、観念したように真白は正面を向いて荒太の視線を受け容れた。もちろん荒太に逃がすつもりは無かった。
「……うん。嫌。嫌。すごく辛くて、自分でもびっくりした。だって―――――――」
 事情が明らかになった今でも、やはり荒太に触れないで欲しいという強い思いは変わらない。これまでに、これ程激しい嫉妬の感情と独占欲を抱いたことのない真白は、自分自身に当惑していた。混乱と羞恥の余り、顔のみならず、常には白い首筋までうっすら赤く染まっている。その有り様と真白の率直な言葉は、荒太を喜ばせるに十分だった。
「だって?」
 荒太は頬に笑みが浮かびそうになるのを抑えながら、余裕を持って訊き返す。
 直接、真白の口から聴きたかった。そして返って来た言葉は、予想より赤裸々だった。
「わ、私の荒太君だから」
「―――――――」
 ベッドで問答していたのがまずい、と荒太は思う。
 両手で真っ赤な顔を隠した真白を、押し倒さない自制心と克己心を、荒太は試された。

「荒太君、紅茶が入ったよ」
 いつもよりも和らいだ真白の声がドアの間からかかる。
(…雨降って、地が固まったな)
 そう思いつつ、荒太も笑顔で応じた。
「うん。今、行く」
 机の上に置いていたプラスチックケースに荒太が入れようとした物に、真白の目が向かう。
「……種?赤いね」
 興味を引かれたように、部屋の中に入って来る。
「あ、うん」
 それは、相川鏡子へと荒太を導いた種だった。一度は芽吹き、花が咲いたのだが、鏡子の死と同時に枯れ、また再び種の形に戻った。荒太はそれを見ながら、ずっとあることを考えていた。
 失われた緑の瞳。
 荒太にとって慕わしくもあり、また恐ろしくもあったその存在。
 それがもし万一、戻り得るとしたら。
 その時、真白は。真白は――――――――――。
「ベランダに植えるの?なら鉢植え、買って来なくちゃ」
「…あー、どうしようかな」
「植えたら良いのに」
 真白がふわりと微笑む。荒太は眩しげにその顔を見る。
 決めた、と思った。
「真白さん。俺、数日、家を空けるよ」
 軽い調子で言った荒太に、真白の笑顔が凝固する。
「…どこか旅行に行くの?」
「――――そうだね」
「遠いところ?」
「かもしれない」
「いや!!」
 激しい拒絶の言葉に、荒太は驚く。
「行かないで。いや。荒太君まで帰って来なかったら、いやだ」
「真白さん、真白さん。落ち着いて。大丈夫、そんなことにはならない」
 取り乱す真白の両腕を掴んで、荒太が言い聞かせる。
「俺は、何があっても絶対に真白さんのもとに戻るよ。手ぶらでもね。……でも、もしかしたら…、洋服なんかよりもずっと真白さんに喜んでもらえるような、誕生日プレゼントにあげられるお土産を、捜し当てることが出来るかもしれない」
 それは自分自身にも言い聞かせる言葉だった。
 そうすればもう、真白が〝哀しみの女流歌人〟と呼ばれることもない。
 荒太はにっこり笑いかけた。

白い現 終章 白い現 四

白い現 終章 白い現 四

月日は流れ、大学一年になった真白と荒太は、同棲生活を送っていた。 幸福に浸る荒太だが、真白はまだ、「剣護はアメリカ留学している」という創造の世界で自分を守っていた。そんな中、二人の間に起きたある出来事がきっかけとなり、荒太は一つの決意をする。その決意とは――――――――。

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
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  • 恋愛
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更新日
登録日
2015-02-15

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