白い現 終章 白い現 三
剣護を失った真白は、その現実に耐え切れずに目を逸らす。
長兄を亡くした怜もまた喪失の痛みに苦しみ、妹である真白の存在にすがる。
終章 白い現 三
三
下界をはるかに見下ろすリビングに、二人の妖は憩っていた。
隣り合って座り、それぞれにソファの背にもたれている。
アオハがギレンの無残な傷口にそっと触れる。
「治らないの?ギレン」
悲しげに顔を曇らせて問うアオハに、ギレンは優しく笑った。
「ああ…。透主の力も、腕の再生には追いつかなかったな。腐っても、神の刃だ」
ギレンの左腕は水臣との激闘により失われたまま、戻ることはなかった。
「泣くな、アオハ」
子供のように、顔をこすりながらアオハが言う。
「片翼でも、ギレンが好きだよ」
「ああ」
「一緒に飛び続ければ良い。ね?」
宥めるような優しさで、ギレンが相槌を打つ。
「ああ。――――――だが、時が来たようだ」
アオハが肩を揺らし、ギレンを見据える。
言葉を聞くまでもなく彼女の怯えが伝わる。
「そうだ。…透主が死んだ」
「キョウコが………、あの子が、死んでしまったの?じゃあ、じゃあ、私たちも」
薄茶色の目に恐怖が宿る。
「いや、いやだよ、ギレン。死にたくないよ、死ぬのは怖いよ」
頭を振り、取り乱す。
元来は、鏡子無しでも生きていた自分たちだった。彼女の力の恩恵に酔い、依存し過ぎた結果、鏡子が全ての魍魎のアキレス腱ともなってしまったのだ。
(私たちは、互いに引き金に指をかけた状態で、ずっと睨み合っていたのだ…。ただあちらが先んじた。それだけの違いだ)
怖(おじ)けるアオハの身をギレンが片翼で包んだ。
「大丈夫だ。……一緒に飛んでくれるのだろう、アオハ?」
「…うん」
澄んだ薄茶の瞳に、ギレンは微笑を返した。
そして独り言のように語った。
「なあ、君。君の気が向いた時で良い、伝えてくれないか。門倉真白に。我々を忘れるな。忘れないでくれと―――――――――」
起こった悲劇と同じように、起こり得た悲劇も忘れないでくれ。
血に染まった手を見る度に、思い出せ。私は大地を震わせる筈だった。
大地を震わせ、アオハを生じ、大波が地を覆う筈だったのだ。
ここよりも北、東北の地で。
残った右腕でアオハを抱いたギレンは、天を仰いだ。
「―――――私の名は犠連(ぎれん)。地の震えの代行者」
崩壊の音が聴こえる。
終末の音が。
ふ、と息を吐いて呟く。
「織田信長…。君とは、戦(や)り合わずに済んだな」
「私はあの人、嫌い」
拗ねたようなアオハの声に、そうだろうなと笑い、喉を震わせる。
裏でこの終末の糸を引いた男の存在を、ギレンは嗅ぎ取っていた。
(透主殺しの真の立役者は、門倉剣護でも門倉真白でもない。白々しい顔をして。……今頃は、ほくそ笑んでいるに違いない)
ギレンは顔を巡らせ、誰もいない空間に向かって声を投げた。
「これで満足かね?」
恐らく今もどこかで耳をそばだてているであろう策略家の巫の耳には、これらの声が届いただろう。
春樹は天蓋つきのベッドに仰向けに転がっていた。
フカフカとした感触の豪勢な寝床の、一体どこが鏡子の気に入らなかったのか、春樹には理解出来ない。
(ギレンに怒られる手間が省けたじゃん。ラッキー)
彼もまた、残り時間の少ないことを悟っていた。
「あーあ、これで終わりかあ…。鏡子ちゃんもあっさり死んでくれちゃってまあ。門倉先輩にしたってさあ、後輩の命が惜しくはないのかね」
もう少し、この人間の世界で、享楽に耽りたかったものだ。
白い少女の顔が浮かぶ。
余り笑顔を見せてはもらえなかったが。
異界で行った共同作戦は、中々に面白かった。
彼女に殺されるものとばかり思っていた。
それならば悪くもないかと。
「嫌いじゃなかったんだけどなあ、ここ」
(…遊びをせんとや生まれけむ、だっけ?)
日本史で習った歌の意味が、なぜだか今、何となく解る。
遊びをせんとや生まれけむ
戯れせんとや生まれけん
遊ぶ子供の声聞けば
我が身さえこそ動(ゆる)がるれ
「あー、死にたくないっ」
そう言って、春樹は足をジタバタ動かした。
同時刻。
〝…元気でね、翔子〟
穏やかな響きに、ピアノを弾いていた翔子は手を止めた。
白鍵(はっけん)と黒鍵(こっけん)に向けられていた意識が逸れて、ピアノ教室の窓から空を見上げる。
青い、青い空の彼方から、ひどく慕わしい声を聴いた気がした。
久しぶりに聴く懐かしい声。いつの間にか姿を消してしまった彼女の。
「あら、どうしたの。望月さん?」
「―――――先生。今、鏡子お姉ちゃんの声が聴こえた」
確信を持って告げた翔子の言葉に、ピアノ教師は首を傾げる。
「望月さんに、お姉さんはいないでしょう?」
「あれ?うん。そう。だよね?変だよね?」
そうだ。
自分は、生まれてこのかた、ずっと一人っ子だ。姉などいない。
その筈なのに。
「……まあ、どうしたの?望月さん」
「え」
恐る恐る、呼びかけられて、翔子は自分の頬を滑る涙に気が付き、自分で驚いた。
「…何、これ」
混乱の中、翔子は逸る動悸と共に心の内で繰り返した。
(誰かが、私にお別れを言った。誰かが、私に)
透主の死に伴い、摂理の壁が崩壊した際に生じた数多の魍魎は全滅した。
それにより発生した個々の小規模な汚濁には、地上で待機していた明臣が随所に駆け、火焔により浄めてこれに対処した。
こうして魍魎と、神と人との戦は幕を閉じた。
しかし花守にも真白たちにも、失われた存在は余りに大きく、双方には深い傷跡が残された。それはまた、消えたギレンの望み通りでもあった。
それから数日が経ち、夏休み最終日。
幼少から成人を過ぎた年齢を含む多くの学生たちが、終わらぬ宿題の山の前で青ざめ恐怖しているであろう日、荒太はそれを他人事にのんびりクッキーを焼いていた。
そこに母が、何やら慌ただしく駆け込んで来る。
「ちょっと、荒太!荒太!」
「――――何」
不機嫌な顔でそれに応じる。専業主婦である母親以上に料理研究に熱心で、のみならず菓子作りや果実酒作り、果ては漬物やジャム、ピクルス等の保存食の製作にまで手を広げる一人息子のいる成瀬家において、荒太が立っている間はキッチンは彼の城だ。調理中に気を散らされるのは嫌だと常日頃から言ってあるのに、能天気な母はその言葉をすぐにけろりと忘れてしまうのだ。
「江藤君って同級生が来てるわよっ。江藤君って同級生が」
「………一度言えば解るよ」
母の頬はピンク色に染まっている。
考えるまでもなく理由の解る荒太はうんざりした。
「すごい美少年ねえ!すっごい美少年ねえ!少女漫画に出て来そうっ。きゃっ」
なぜか照れながら大いに盛り上がる若々しい母親を前に、荒太は逆に冷める一方だった。
「…それも一度言えば解る」
「それに何だか、真白さんに少し似てるし!」
「…………」
その言葉だけは繰り返されなくて良かった、と荒太は思う。
チン、とオーブンの鳴る音が響いた。
まさか怜が自分を訪ねて来るとは思わなかった。
荒太は意外な思いで、部屋の窓際に立つ彼を見ていた。
束ねられた薄茶色のカーテンの手前に佇む姿は、いつも通り端整で隙が無い。そのままで絵になる様子が小面憎い。
(……相変わらず、能面な顔。つまらへん)
少しは憔悴(しょうすい)した姿を見せるなり、しろと言うのだ。
―――――――兄を、剣護を亡くしたあとなのだから。
「…カルピスに美の神髄(しんずい)でも発見したんか?」
それは、荒太の出したカルピスを手に持ったまま、それにじっと視線を注いでいる怜への嫌味だった。
怜が静かな目を荒太に向ける。
「そうだな。乳白色が大理石を連想させて綺麗だと思う」
真顔だ。
荒太は苛立って舌打ちした。
「ボケにマジで返すな、阿呆」
「マジレスを期待されてるのかと思って」
「するか」
その言葉に笑った怜は、カルピスを数口飲むと、荒太の勉経机にコップをコトリと置いた。
「成瀬。お前に頼みがある」
そう切り出した怜の顔は、真摯且つ殊勝だった。
どういった風の吹き回しだと荒太は面食らっていた。
「――――――なんや」
「…真白を」
その名前に、荒太の身体がピクリと反応する。
「あの子を、しばらく俺に預けてくれないか」
荒太の顔が警戒に険しくなる。
「……どういう意味や?」
「今までより真白の側近くに、長い時間いることを許して欲しい」
長い時間、真白の側近くに―――――――。
「剣護先輩の代わりでもするつもりか」
無理だという響きを籠めて強く言い放つ。
怜が首を横に振る。
「そうじゃない。そういう、おこがましいことは考えていない。………ただ、今の俺に、あの子の存在がどうしても必要というだけの、情けない話だ」
怜は今、荒太に自分の傷口を晒していた。
「―――――…」
(中身まで能面な訳、ないか)
剣護が結界を閉じたのち、気を失った真白を抱いた怜と荒太は、見知らぬビルの屋上に立っていた。あたりは既に真っ暗だった。車で駆け付けた兵庫に送られどうにか真白を家まで連れて帰り、市枝と一磨、要に辛い報告を終えた二人は、そのまま眠る真白の傍で一夜を明かした。何があったのだと問い質す真白の祖母たちに、二人は何も答えることが出来ず、ただ彼女の傍についていさせて欲しいと懇願した。逼迫(ひっぱく)した顔つきの彼らの頼みを、真白の祖母・塔子と絵里は逡巡(しゅんじゅん)の末に受け容れた。
目覚めた真白はきっと激しく泣くだろうと、二人共覚悟していた。
それぞれ真白の部屋の床に座り込み、荒太も怜も、まだ茫然自失の状態だった。絵里が差し入れてくれたお握りにも、ほとんど手が伸びなかった。剣護の死がもたらす喪失感は、強く二人を打ちのめしていた。無言のままに、重苦しい闇夜は過ぎた。怜は気付けば枯れていた竜胆の花を、真白の目につかない内に処分した。
だが翌朝、心配そうに顔を覗き込む荒太と怜を見た真白は、戸惑いの表情を見せた。
〝…あれ、どうして二人がここにいるの?〟
そこに悲痛な嘆きの気配は無かった。
〝どうしてって…、だって、剣護先輩があんなことになって〟
具体的な内容を濁す荒太を、真白はきょとんとした顔で見た。
〝あんなことって…。剣護は、アメリカ留学に行っただけでしょう?〟
これを聞いた怜と荒太は、揃って息を呑んだ。
真白の話によれば、鏡子が全てを終わらせる為に一人、結界内で自死し、傷心の剣護は国外に発ったということだった。目的は父親であるピーターの母校である大学で学ぶ為の、アメリカ留学だ。昨日は三人で、彼を飛行場まで見送りに出かけた。
強引ではあるが、真白の中ではそのように話が形作られたのだ。
耐え難い現実から逃がれる為に、真白は虚構の物語を創り上げた。
彼女は今、真に目覚めてはいない。慎重に絶望を遠ざけた眠りの中にいる。
荒太は怜を睨んだ。
「――――なんで俺に許可を求めんねや。俺に訊いたら、あかん言うに決まってるやろ!どんな事情かて関係ない。真白さんに近付く輩を、なんで俺が許すんや!!」
「俺だけの話じゃない。―――――真白にも、俺が必要だ。例え忘れた振りをしようと、記憶の中枢には、あの日のことが深く刻み込まれている。…胸の内側に残ったひどい傷が、今でも血を流し続けているよ。今のあの子の笑顔は……、あくまで仮初めのものだ。いっそ泣いてくれたほうが、まだ対応の仕様もあった――――――」
そのことは荒太も良く了解していた。
それだけに、真白の傷を持ち出す怜に激しい怒りが湧いた。
「卑怯やぞ、江藤」
怜は否定しなかった。
「解ってる。……すまない」
荒太は歯噛みして悩んだ。
怜であっても、限られた時間であっても、真白を譲りたくはない。
しかし、真白の心に空いた、長兄を失った穴を少しでも埋められる存在がいるとすれば、それは恐らく次兄である怜しかいない。真白が怜に寄せている信頼も、どれだけ慕っているのかも荒太は知っている。認めたくはないが、真白は怜が大好きなのだ。そして、真白と怜にとって剣護は血肉にも等しい存在だったが、荒太にとってはそうではない。好ましく思い、尊敬もしていた相手ではあったが、真白たちが彼に対して抱いていた情の強さには及ぶべくもなかった。より近しい痛みを持つ者同士のほうが、慰め合えるところは大きいだろう。
「―――――学校の奴らには何て言う。もう、俺と真白さんはほぼ恋人同士に見なされてたんやで?そこにお前が割り込んだら、下手したら真白さんが、俺ら二人を両天秤にかけてるて見る奴かて出て来るぞ」
「俺がそれらしく言い繕う。どこにも角が立たない話を、皆には信じてもらう」
荒太は静かに言い切った怜の顔を眺め回した。
〝今、私は世界の平和について思いを馳せ、悩んでいるのです〟とこの秀麗な顔で憂いがちに語られて、それを疑う人間が果たしてどのくらいいるだろう。
内容に関わらず、彼がひどく真実味を帯びた声で語れば、聴く側は大抵の話を信じてしまうだろう。怜には詐欺師の才能もありそうだ。
「…江藤お前、クッキー好きか」
「ん?うん」
「さよか。やらん」
荒太はぷいとそっぽを向いた。
(嫌な奴……。ほんま、嫌な奴)
「実は俺、門倉さんとは血の繋がった実の兄妹なんだ。誕生日とか本当の親とか、誤魔化されていたことを全部、俺は知ってしまった。それでこの学校に編入して来たんだよ」
案の定、夏休み明け、二学期が始まって一日目のホームルーム前、怜がまことしやかに語った韓流ドラマばりの作り話は、驚かれながらもクラスメートたちにすぐに受け容れられた。
「ああ、だから時々、なんとか兄とか、真白とか呼び合ってたのかっ」
「道理で親しげだと思った~。編入の時期も、微妙過ぎたもんねえ」
「顔も似てるしね。私は、前から怪しいと睨んでたよ!」
「ね、ね、じゃあさ、しろりんと成瀬が良い雰囲気になって、兄としてちょっと面白くないなあとか、あった?」
最後の発言は、上野みちるによるものである。
怜は微笑んで答える。
「うん、ちょっとね。俺だって長いこと離れてた妹と、兄妹らしく過ごしたいのにと思って焦れたりしたよ。だからこうやって実情を暴露して、妹を確保しようって作戦に出たんだ」
成る程成る程、と頷き合う同級生たちを、荒太は呆れて見ていた。
(簡っ単に丸め込まれやがって…。江藤は狐だ狸だ、ペテン師だ)
同級生たちが皆、お人好しでおめでたい人種揃いなのではなく、寂しげな色を含んだ怜の面持ちと声に説得力があり過ぎるのだ。しかもその醸し出す空気が、演出ではなく、彼の真情から生まれたものであることが、説得力に拍車をかけていた。
どこにも角が立たないと怜は言ったが、怜が実家とほぼ絶縁状態であるからこそ、出来る離れ業だ。真白の親や祖母と怜の家族が接触したところに、一年A組の生徒が居合わせれば露見しかねない嘘ではあるが、その可能性は極めて低い。そして周囲は、長年離ればなれになっていた兄妹を、温かい目で見守るだろう。
「でも双方の親には、俺たちがこのことに気付いてるって内緒だから、もし顔を合わせる機会があっても、何も知らない振りで通してくれないか?もちろん先生たちにも同じように」
「オッケー、オッケー」
「特クラ一年A組の団結力の見せどころって訳ね」
アフターフォローまで抜かりが無い。
真白はその光景を見てポカンとして立っている。
予め、このように話をするということは怜から言い聞かされていたものの、ここまで呆気なくクラスの人間を信じ込ませるとは思っていなかったのだ。兄の巧みな話術に、半ば慄くような思いでいた。
「こ、荒太君、荒太君」
席に着き、左手で頬杖を突いて怜の人心掌握術を白々とした目で傍観していた荒太は、横から慌てた様子で声をかけて来た真白に顔を向けた。
「何?」
「次郎兄が将来、詐欺罪で捕まったらどうしよう。私、ちゃんと警察署までお迎えに行ってあげなくちゃ。あ、有罪判決が出たら留置場?差し入れの仕方とかどうやるんだろう。ああ、斑鳩や黒羽森にも、その時は相談に乗ってもらわないと」
驚きの余り、考えがかなり先走っている。
「迎えに行かなくて良いし差し入れも要らないよ。それより真白さん、はい」
そう言って真白の両手に、鞄から取り出した、透明な袋にラッピングされたクッキーを渡す。
「…荒太君が焼いたの?焼けるの?」
真白が袋をじっと覗き込む。
「…色んな形がある。お人形とか熊さんとか。マーブル模様もあるね!」
「うん」
「美味しそう。すごいねえ、荒太君。ありがとう」
無邪気に笑う真白を見て、満足する。
怜が兄妹の時間を欲しがる気持ちは認めるが、自分が真白に示す好意を控える気も無い。
(だから好きなだけ兄妹やってろ、莫迦野郎)
少しだけ拗ねている荒太を置き去りに、怜の告白を聴いたクラスメートは、次に真白に押し寄せ、彼女を質問攻めにした。真白は一生懸命、怜に話を合わせて質問に答えながら、その間中ずっと、クッキーの袋を死守するかのように大事に抱えていた。
剣護の両親は、息子の捜索願を警察には出さなかった。
真白の祖母たち、両親たちと話し合った末の結論だ。
捜索願を出せば、真白の創り上げた物語は突き崩される。そうならざるを得ない。
剣護は留学しているのだという、真白の思い込みを乱暴に壊すような真似をすれば、彼女の精神が崩壊してしまうかもしれない。
剣護は元気にしているだろうか、と笑顔で語る真白を見て、彼らはそう思ったのだ。
苦渋(くじゅう)の末、今いる真白の心を守る道を選ぶ決断をした。これが剣護の覚悟の失踪であれば、いずれ彼が自発的に戻る日も来るかもしれないという、僅かな望みにも賭けてのことだった。
〝剣護、クリスマスには帰るよねえ、ピーター?〟
そう、期待に満ちた顔で叔父に尋ねる真白を見て、叔母は顔を伏せ、肩を震わせた。
〝剣護〟
その名前を真白が語る度、家族たちは怯み、言葉を失くした。
学校や周囲には、真白の思い込みをそのまま適用した。
急な話ではあったが、元々破天荒な面を持つ剣護の留学話に、別れを惜しみながら教師も生徒もそれなりに納得する表情を見せた。しかし学校側としては、極めて優秀な生徒だった彼が卒業を待たずに発ったことへ、遺憾の意を表した。退学手続きも何も済ませずに学校を出た剣護は、放校処分にならざるを得ない。生徒会長をも務めた過去を持ちながら、名門・私立陶聖学園高等部の卒業資格を持たずに飛び出した剣護の行動は余りに軽はずみだ、せめて一言、自分に相談してくれていれば、と数学教諭であり生徒会執行部の顧問でもある山崎は悔しそうに言葉を重ねた。
そしてただ一人、剣護のアメリカ留学の話に納得の表情を見せなかった生徒がいた。
畑中冬人だ。
剣護の親友として、畑中の名前を度々聞いていた真白は、三年の教室まで出向き彼に直接、従兄弟の留学話を伝えた。最後に挨拶もせずに発つことを詫びていた、と言い添えて。
真白が語るその話を、難しい顔をして黙って聴いていた畑中は、最後に眉を寄せて訊いた。
〝……真白ちゃん。それ、ほんとの話?〟
畑中の疑念に満ちた問いに対し、自分自身、その虚構の物語を全力で信じ込んでいる真白は、その反応に瞬きし、頷くより他無かった。
「真白。今日、俺の家に来ない?」
真白が怜にそう言われるのは、新学期が始まって三回目だ。
放課後の陶聖学園高等部校内。廊下を歩いている時だった。全体的に垢抜けて、且つクラシカルな趣のある陶聖学園校舎内は、多くがコンクリートで作られてはいるが、焦げ茶色に艶光りする塗装の木製の手すりや窓枠などが各所に目立つ。
四人の歩く廊下の頭上に釣られた電気も、半透明の白ガラスで出来た波打つ球形という、凝ったデザインだ。
横を歩く市枝も荒太も、無言だ。
「えっと。うん。…良いの?」
以前はどちらかと言うと、真白の来訪をやんわり敬遠していた怜の態度が一変したことに、真白は戸惑いを感じていた。怜の部屋にいるのは大好きだ。安心するし、心が和む。剣護がアメリカに行って寂しく感じる気持ちが、怜の部屋にいる時は少し薄らぐ。怜もそれと気遣って、真白を招いてくれているのかもしれなかった。部屋で寛ぐ真白を見る怜の眼はとても優しくて、つい甘えたくなる。
「おいでよ」
笑っているのに、なぜか泣いているようにも見える顔で誘われる。
「じゃあ、市枝と荒太君も」
「…私は遠慮しとくわ」
「俺も」
この遣り取りも三回目だった。
真白は急に、二人に突き放された気分になる。
けれど市枝の目には、柔らかく真白を包み込む、母親のような温かさがあった。
その理由が解らずに荒太の顔を見る。笑顔だ。偽物の。すぐに判る。
悔しくなって、真白は荒太の手首を強く掴んだ。自分よりもずっと太く、しっかりした手首に細い指を喰い込ませる。すれ違う男子生徒の目がそれを見て、お、と言う顔をする。元々目立つ要素の多い顔ぶれだ。
「…真白、あとからおいで」
怜は市枝と共に先に行った。
「どうしたの、真白さん?」
廊下の端に寄った荒太は、まだ笑顔の仮面を外さない。
真白はカッとなった。
しかし頭が冷えると、次は悲しみが込み上げた。
荒太に仮面を被られる心当たりが真白にはない。
(嫌われたんだろうか。私のこと、余り好きじゃなくなったんだろうか……)
周囲にはいつの間にか、目立つ二人の姿に足を止めたギャラリーで人だかりが出来ていたが、真白はとにかく夢中でそれが目に入っていない。荒太は気付いているが、彼らを大根や人参と見なしている。
悄然(しょうぜん)とした真白の口からついて出たのは、自分でも子供じみていると感じてしまう言葉だった。
「荒太君は、私が次郎兄に取られちゃっても良いの?」
良い訳あるかい、と荒太が心中で雄叫びを上げる。
「…真白さんの、お兄さんじゃない」
「そんな分別臭い台詞、荒太君らしくない」
これまでの自分の態度のツケもあるのだが、真白を騙しおおすのは結構な難題だと改めて荒太は悟る。そこで次は感情面に訴える。真白には有効な手の筈だ。
「――――あいつ、あれで結構へこんでるよ。…剣護先輩がいなくなって」
真白が顔を上げる。その瞳には、同じ傷を持つ者への哀れみがあった。
「ブラコンでシスコンの甘ったれだからさ。だから、今はついててあげなよ」
穏やかな微笑が、今度は本物だと真白にも判った。荒太の素顔を見られたことで、少し安心する。
荒太がその隙を突くように、黙り込んだ真白の、まだ自分の手首を掴んでいる右手を人目も憚らずに甘く噛んだ。人が密集した廊下で、どよめきが起こる。
忽ち、真白が逃げるように手を引っ込める。顔は真っ赤だ。
学校の廊下で何てことをするのだ、と思う。ここでようやく周りの注目の目にも気付き、一層、赤面する。
「お、お、大喰らいにも程があるよ、荒太君…っ!お弁当足りなかったの!?あんなにお弁当箱、大きいのに」
これを聴いたギャラリーは、あ、争点がズレてるな、と一様に思った。
このあたりが、女流歌人がやや天然と言われる所以でもあった。
荒太が真顔で応じる。
「知らなかった?俺は狼野郎だから、兄貴みたいに安心してちゃダメだよ。俺、満腹でも真白さんになら手が伸びるからね。―――――もう行きなよ。江藤が待ってる」
荒太の熱くてきわどい発言に当てられた生徒たちは、「あー、部活行かなきゃ」などと言いながら三三五五、散って行く。
真白はその声に押されるように、二、三歩進むと、荒太を振り返った。
荒太の微笑は変わらず、本物だった。
「…行っといで」
真白は頷くと、怜のあとを追った。
怜の背筋の伸びた後ろ姿は、金茶色の長い髪の市枝共々目立ち、すぐに見つかった。
その背中に真白は勢い良くぶつかり、隣を歩いていた市枝をも驚かせた。
「真白?びっくりした」
「次郎兄――――剣護、早く帰って来ないかな」
不意の言葉に、怜も市枝もハッとする。
真白は怜の背中にしがみついたまま、尚も続けた。
「帰って来ないかな。荒太君、皆が思ってるよりずっと良い奴だよって教えてあげたい」
教えてあげたい、と繰り返す真白に、怜と市枝は顔を見合わせた。
その晩、〝良い奴〟こと荒太は盃を片手に、傍らには地球儀と月球儀を引き寄せて胡坐をかいていた。兵庫のデスクに置いてあったそれらの模型を、勝手にテーブルの上に移動させたのだ。
「おい、兵庫。お前これ、どう考えても実用じゃないだろ。部屋に来た女に見せる、演出の為の小道具として置いてるだけだろ」
言いながら、地球儀をコンコン、とノックするように軽く叩く。
酔っ払いの口から出た非常に失礼な発言に、兵庫は苦い顔をする。
完全にからみ酒だ。
「俺を色事しか頭に無いボケ男みたいに言わんでください。俺の職業、フリーライターですよ?色んな知識が要求されるんです、飾りじゃありませんよ」
そう言ってさっさと地球儀と月球儀を奪還し、デスクの上に戻す。
兵庫は、自分の家で出来上がってしまった主君を前に、後始末に悩んでいた。
正直言って、面倒臭い。
しかも一見、素面(しらふ)にしか見えないから、一層性質が悪かった。
黙々と盃を傾ける荒太の手首を掴む。
「…そのへんにしといたらどうですか。俺に迷惑かけるの、やめてくださいよ」
荒太は答えずに、節(ふし)くれだった兵庫の手をじっと見た。固い掌の皮の感触などから、こいつ今でもこっそり鍛錬を怠ってないな、と荒太は思う。嵐下七忍の一員として、見上げた心意気ではある。
しかし密かな感心とは別に、荒太はそのいかつい手をぺ、と振り解いた。
「お前の手なんぞ、飢餓状態でも誰が食うかい」
「何の話ですか。人の手を見て勝手に食べ物判断しないでください、失礼な。おい、片郡(かたこおり)。お前からもこの、呑兵衛主君に何とか言ってやれ」
嘗て、本能寺において兵庫と共に討ち死にした過去を持つ片郡は、盃を手に柔和な笑みを浮かべていた。嵐下七忍の中でも、体格の良さは黒羽森と一、二を争う。建築現場で働くには最適だろう。けれど立派な体躯に似合わない子供のように澄んだ瞳は、前生のままだった。
「放っておいて差し上げては。…真白様のことで、色々と心労もおありかと思いますし」
「おい、お前ら。真白さんの手はなあ、柔らかかったぞ!噛み甲斐が十二分にあったぞ、あれを見習え、あの、白い柔肌を!!」
暴言を吐きながらも、荒太の顔は至って真面目で顔色も変わっていない。言う端から重ねられる盃だけが止まらない。
「―――――――心労?」
どこが?と兵庫が冷たい目で荒太を見る。
片郡の見解は甘いのだ。
「って言うか、荒太様。人の主君に何してくれてんですか。噛んだ?噛んだって言いました?柔肌が何ですって?」
「兵庫どの、落ち着いて!」
「放せ、片郡。言うに事欠いてこのガキャ…」
「兵庫どの、御主君ですよ、荒太様もあなたの御主君ですっ」
大の大人二人が揉み合うのを横に、荒太の言葉による暴走は尚も続く。
「………良い奴だなんて思われたら、男として終りだ。俺、思われたかもしれん。ああ、くそ。いくら好感度が上がっても男じゃなくなったら意味ねえー。おい、兵庫。俺を『兎の巣穴』に連れて行け」
脈絡の無い荒太の要求に、主君を諌める務めを投げ出して、一人ウィスキーを呷(あお)っていた兵庫が、ごふり、と噴き出す。琥珀色の液体が床にこぼれる。
咳き込みながら、乱れた口調で問い質す。
「どうして荒太様がその名前知ってんですか、山尾ですかっ!?」
「ちげーよ、俺独自の情報網。〝ゆかりちゃん〟の勤め先なんだろ?」
「未成年をクラブに連れてける訳ないでしょうが!大体、真白様が知ったら泣かれますよ、嫌われますよ」
そこで暴走する一方だった荒太の勢いが急激に落ちた。
盃をテーブルに置き、しゅんと肩を丸める。
「…泣かれちゃやだ」
「でしょう」
「嫌われるのもやだ」
「そうでしょうとも」
「……おやすみ。ご静聴(せいちょう)、ありがとう」
「ちょちょちょ、ここで寝ないでください!」
誰も何も静聴してないしっ、と兵庫が慌てた。
結局寝入ってしまった荒太の肩に、片郡が甲斐甲斐しくシャツをかけてやる。
兵庫は呆れ顔でまだウイスキーを飲んでいた。ストレートを何杯目かになるが、一向に酔いが回る気配が無い。うわばみ振りでは主君にも負けていなかった。
「あんまり甘やかすな、片郡。ったく、人が虎の子にしてる、純米の大吟醸をカパカパ飲みやがって。…今日は株の相談をしようと考えてたんだがな」
これでは使い物にならない、と健やかな寝息を立てる荒太をちらりと見る。
ふう、と息を吐き出すとやれやれと頭を振った。
「…片郡、マンションの下まで送って行ってやれるか?」
片郡が人の好い笑顔で頷いた。
「はい。…今日は、山尾どのはお留守のようで」
「ああ。何でも、猫の集会に顔を出すとか言ってたよ」
片郡が、目をしぱしぱと瞬かせる。
「ははあ。―――――付き合いですねえ」
変わらず純朴な同輩の言葉に、兵庫が軽く笑った。
秋の赤い紅葉が散り、冬の白い雪が舞うころになっても、怜はまだ妹を放せずにいた。真白も怜に頼り、もたれることが自然になっていた。長兄に置き去りにされ、身を寄せ合うように生きる兄妹は、美しく、痛ましかった。荒太と市枝は、それぞれの距離の取り方を測りながら、彼ら二人を見守っていた。
九月の誕生日、真白から贈られた家族の人数分のコースターを、荒太は一人で大事に使っている。藍色と白と空色のステンドグラスで作られたそれは、中央部に薄くて丸いコルク板が敷かれ、ガラスコップを載せても滑らないようにと工夫が施されていて、真白らしい濃やかな心遣いに荒太は微笑ましい思いがした。
最初、真白はそれを白い花びらだと思った。
白い花びらが、天から降って来ているのだと。
だがそれは雪だった。
白い花びらのような雪が、真白の上から、あとからあとから、絶え間なく降っていた。
音も無く、しんしんと。
真白は子供のように両腕を大きく広げて、それを受け止めた。
コートを着ているとは言え、余り病弱な身体を冷やしてはいけないと思いながら、それでも全身で雪を受け止めたい気分だったのだ。
〝俺、季節の中では、冬が一番好きだな〟
〝どうして、剣護?〟
〝だって雪、降るじゃん。花びらみてーのが、特に好きだ〟
けど、と剣護は笑顔で言ったあと、顔を曇らせた。
〝けど真白は、風邪ひいてきついよな。ごめんな〟
そう言った兄の顔を、真白は良く覚えている。
大雑把な性格なのに、時々、人にとても気を遣う一面を見せた。
雪が降る。
〝真白にあげるよ〟
彼の声が聴こえた気がした。
〝真白にあげる〟
降りしきる雪の花の中。
(剣護。剣護。剣護…帰って来て)
天に向けられた真白の両目から涙が溢れる。
(帰って来てよ、剣護)
〝しろ〟
〝しろ〟
〝しろ〟
降り注ぐ雪の花びらは、剣護の呼ぶ声のようで。
剣護の声が降り注ぐようで。
〝俺はお前が大事だよ、真白〟
それなら帰って来て欲しい。
自分の傍に。
あの緑の瞳が恋しい。
―――――――――恋しい。
「…剣護………」
雪の花びらは薄く開いた真白の唇にも舞い降りて、真白の舌に冷たい感触を残して溶けた。
先に部屋に入っていた怜は、中々来ない真白を心配して、アパートの二階から降りて来た。
雪の降る駐車場で、泣きながら立ち尽くす妹の姿に目を見張る。
「何してるんだ、真白!風邪をひくだろうっ」
叱るように言うと、急いで真白の身体を包むようにして部屋の中へと導いた。
部屋を空調で強めに暖めたあと、怜はホットミルクを作って真白に差し出した。
「次郎兄。…やっぱり、剣護がいないと寂しいね」
ホットミルクを少しずつ口に含みながら、電気カーペットの上に座った真白は言った。
「―――――そうだね」
最近では、怜たちも真白が剣護を語る不意打ちな言葉に、だいぶ対応出来るようになっていた。
ポタリ、とホットミルクに涙が落ちる。広がるミルククラウン。
「真白……」
一緒にいるのが怜であることも手伝い、真白は子供のように泣き出してしまった。
「寂しいよぅ。剣護、何でまだ帰って来ないんだろ。ねえ、次郎兄、どうして?冬になったら牡蠣鍋、するって言ったのに」
泣き顔の真白に問われて、怜は言葉に詰まる。
「真白―――――真白。太郎兄が…戻るまで、俺が真白を守るよ。兄として。何からも守るから。だから、そんなに泣かないでくれ。お願いだ。真白に泣かれると、俺はどうすれば良いのか解らなくなるんだ」
夏の終わりから怜は、一磨に頼んで碧に、度々遊び相手として会わせてもらっていた。荒野に戻った怜の心が縋れるのは、残った弟妹である真白と碧の存在だけだった。
剣護を失った心の傷は今も癒えることなく、彼もまた苦しんでいた。
(次郎兄。次郎兄を、私が困らせている。次郎兄だって、寂しくない訳ないのに)
遠慮がちに自分を包み込む腕の持ち主は、優しいのだ。
(優しい兄様)
「ごめんなさい…」
怜が俯かせた頭を横に振る。
真白は兄の頬に涙を見た。前髪の下、静かに滑る雫を。
「良いんだ。………良いんだ」
(次郎兄…。どうして?どうして泣くの)
白い雪は一晩中降り続き、翌朝、真白は銀世界で目を覚ました。
そして、剣護がいれば大はしゃぎするだろうに、と思った。
白い現 終章 白い現 三