白い現 第九章 散華

白い現 第九章 散華

相川鏡子の存在を思い出した剣護は自責の念に苦しむ。彼を間近に見ながら真白は、剣護が何か穏やかならぬ決意をしたのではないかと恐れる。一方、荒太は要からの連絡を受け、鏡子を保護した風見鶏の館に向かっていた。

第九章 散華

第九章 散華(さんげ)

蕾が一つ
ほわりと開き
芳香漂わせ
やがて
散りました

     一

 闇に何度も火花が散る。
 白や黄色、橙(だいだい)の光が瞬く間、明るく輝いては再び暗く沈む。
 二つの影が近付いては離れ、また近付き、刃(やいば)を打ち合う。
 それは見る者があれば、まるで舞台上の演出のごとく見応えのあるものだったに違いない。
 そして演じる役者たちは疲弊知(ひへいし)らずであるかのように、その光景はもう三十分近くの間、延々と繰り返されていた。
 互いに距離を取った頃合いを見計らって、兵庫が口を開く。彼の着ているシャツは汗を吸って本来よりも重みを増し、それに足りず新しい汗も顎先(あごさき)から伝い落ちている。
「このへんにしときましょう、荒太様」
 息を切らしながら言い、両手にあった二丁鎌を消して茶髪をかき上げる。
 打ち合いを終えると言う、問答無用の意思表示だった。
 今にも飛空を薙(な)ごうとしていた荒太の動きが止まる。寸前で止めるにも技術が要ることを、兵庫は知っていた。そして主君の力量も。荒太が兵庫を睨みつける。
「スマートじゃないですよ、こんなの」
 熱血に気合の入った汗だくの鍛錬など、性に合わない。一人でこっそりとするのであればともかくだ。
 しかし荒太は聴かなかった。険しい双眼で、兵庫の進言を退ける。
「誰が刃をしまえと言った」
「…何をそんなに熱くなってるんですか。俺、明日締切の仕事があるんですって。悔しいのは解りますけど、八つ当たりは正直迷惑ですよ」
「――――――何が解るだと?」
 いつものように遠慮の無い言葉を言い放ってから、返って来た主の言葉に、兵庫は勘気(かんき)を感じ取りハッとした。底冷えのするような光が一瞬、荒太の目をよぎる。
「ああ、お前の言う通りだ。俺は悔しくて、苛立ってるよ。相手させられるお前は、さぞ良い迷惑だろうな。……けど、仕方ないだろ。好きな女に剣を持たせたいなんて、どこの男が思うかよ…。なのに俺は、守りたい真白さんよりも、―――――強くはないんだ」
 極限まで譲った物言いだった。
 弱い、と言う言葉は荒太の矜持(きょうじ)が死んでも許さない。相手が真白相手であれば、尚のことだ。保守的、愚かな拘(こだわ)りだと言われようと、大事な女を守りたいと、男が思うのはごく自然で当然な思いではないか。誰に強いられるものでもなく。自分にそう思わせるだけの存在があることを、荒太は幸いだとも感じている。だが、その為に生まれる苦悩もある。
「だから透主とも戦(や)り合えない。俺がこの手でぶっ潰して、一番に真白さんを守ってやりたいのに。彼女を、争いや危険から遠ざけて、この手の内に守り置きたいと思いながら、実際はこのざまだ」
 語る声には自嘲と憤りが強く感じられる。
 守りたい対象である真白の力が自分よりも上回ることに関して、同じ苦悩を嘗(かつ)て小野次郎清晴(おののじろうきよはる)が抱いたことを荒太は知らない。
 荒太は、真白が当然のように魍魎の長(おさ)と戦う役割を負うことになる状況を、腹立たしく思っていた。何より、彼女に代わることの出来ない自分が不甲斐無(ふがいな)くて許せなかった。
 あの白くて優しい手は、自分の手と結ばれる為にだけあって欲しいのに。
 自分が差し出した手に、真白が重ねた手を包む。身体の一部が繋がっている喜びを感じる、得難い瞬間。
 彼女の剣舞は美しい。美しいが、哀しい。
 語調が少し弱くなる。
「向いてないんだよ、真白さんは。戦闘に。お前だって解ってるだろ。彼女が戦うのは、ただ守りたいからで。…情けないことに、その守りたい中には多分、俺も入ってる。………けど、ことは命懸けの戦いだぜ。幾ら真白さんが神の眷属で強くても、――――――万一のことがないなんて、誰に言い切れる?兵庫。俺は、今度こそ真白さんを亡くしたくない。もしも今、目の前で再び……、死なれでもしたら気が狂う。―――――――気が狂う。…浮ついた夢みたいな例え話をしてるんじゃない。現実の話として、本当に、俺には彼女しかいないんだ」
 飛空を強く握ったまま、荒太は眉根を寄せて呟くように言った。怒りよりも、今は悲哀が勝る面持ちだった。
「荒太様って…、そんなキャラでしたっけ」
 ふざけるような物言いをしながらも兵庫は、痛ましい者を見る思いだった。
 自分が前生で死んだあと、嵐と若雪、二人の主君がどういう人生を歩んだのかは知っている。
 若雪が三十三歳までしか生きられなかったことも、彼女の死後、嵐が独りで若雪の忘れ形見である娘を育てたことも――――――――。
 飛空という腰刀の銘は、若雪が名付けたとも聞いている。
〝飛空〟
 空を飛ぶ。自由に――――――。
 若雪は嵐を、鷹のごとき気性だと評していたと聞く。
〝嵐どのが空を舞う妨げにならないのであれば〟
 あの尊い女性はそう言った。何より嵐が飛翔し続けることを願い。
 兵庫の眉が僅かに切なく顰(ひそ)められ、唇には苦いような微笑が浮かぶ。
 刀につけた銘一つにも、彼女が嵐に寄せていた愛情の深さが良く表れているではないか。
 その若雪が目の前で動きを、息を永遠に止める。自分に向けられていた笑みの完全なる喪失。
 雪が、溶けて消えるのだ。
 恐ろしかっただろう、と兵庫は荒太に同情した。
 笑みを形作ったままの唇から、溜め息を落とす。
「真白様をお信じなさい、荒太様。あの方は、あなたに苦痛を三度(みたび)、味あわせない為なら、きっと何だってなさいます。荒太様の為と言うより、御自身の為にね。知ってますか?真白様はね、荒太様のことをそれはお好きですよ。あなたは自分だけが真白様の為に命を懸けられると思ってるかもしれませんが、真白様だって同じです」
 普段は余り男の心情に踏み込んだお節介を好まない兵庫が、珍しく饒舌(じょうぜつ)だった。彼の心持ちがそうさせた。
 真白が竜軌に襲われた日の晩。
 神つ力を失くした無防備な彼女が心配で、会いに行った。
 今生での顔を見たかったというのもある。
〝元気そうな顔が見られて、良かった〟
 ところが他ならぬ彼女に、ホッとしたような笑みを浮かべ、そう言われてしまった。
 前生での負い目があったにしても、自分があんな目に遭ったあとだというのに。
 優しい子なのだ。―――――――変わらない。
 柔らかく、儚く色づいた笑みを見て、これが今生の主君なのだと満ち足りた思いだった。
 本能寺での横死(おうし)を悔いる思いは、少しも無かった。
「荒太様みたいなこーんなガキのどこが良いんだか、俺にはさっぱり解りませんがね。心底惚れた女にそこまでしてもらえるんです。…あんた、男冥利に尽きますよ」
 兵庫が荒太に言うには珍しい、風が穏やかに吹くような声音だった。
 藍色めいた闇に、束の間沈黙が降りる。個々が張る結界は、時によりその色を微妙に変えるが、荒太の結界の基本色は深い藍色だ。主君の巡らせた色の中で、常より多くを語った兵庫は、今は静かな眼差(まなざ)しで佇(たたず)んでいた。
 荒太は意表を突かれた様子だったが、やがて目を伏せ、徐々に和やかなものを表情に浮かべると、黙って飛空を闇に帰した。

 要の報せを受けて、荒太が風見鶏の館に駆け付けたのはそれから一時間程のちのことだった。
闇の中を、彼は軽やかに駆けた。兵庫とのがむしゃらな打ち合いが僅かに影響を及ぼしはしたものの、荒太の疾走(しっそう)は風のようだった。
 街灯や、ぽつぽつとまばらにともる家の明かりを残し、既に多くの人家が眠りに沈んだ夜。それらを横目にしながら、夜の涼しさを感じさせない空気を不満に思いつつ、足を止めることはなかった。
 ただ、月が出ていない、そんなことを思っていた。
 
ベッドに横たわる少女を見た荒太の顔が、一気に険しくなったのを見て取った時、要は自分の嫌な予感が当たったことを知った。
 少女の目は今は開き、荒太の顔を怯えるように睨んでいる。毛を逆立てた小動物のような彼女の反応に要は戸惑いつつも、一応は荒太から庇える位置に立つ。狭い室内は今や緊迫した空気に満ちていた。
 そんな要を見て荒太は呆れたような顔をする。
「…お前はいつもいつも、問題人物を庇おうとするな」
「――――どういう意味や?寝言で剣護君の名前を呼んでたさかい、連絡しようとしたら目え覚まして、それは止めてくれ言うんや。弱ってしもて。……そんで、お前に電話したんやけど」
 それはもっとまずかったかもしれない、と要は今更ながらに思っていた。
 荒太が少女を見据える目は厳しく、容赦なかった。
 真白と異なり、敵と見なした相手には一切の温情をかけない荒太の気性を、要は良く知っている。
「魍魎だ、そいつは。…なぜか若雪どのや真白さんの面影があるが。そういう、見る者を惑わせるタイプの奴なのかもしれない。但し、ただの魍魎にしては少し気配がおかしい。とにかくこの家には置いておけない」
 荒太の意図を要は察する。彼は少女を追い出す気だ。いや。それだけではなく、きっと滅してしまうつもりでいる。これ程までに衰弱した女の子を。
「家(うち)は誰かて置いとける」
 少女の前で要は両手を大きく広げた。
 荒太が、それを始末に悪いもののように見る。現状、荒太は十五歳、要は二十二歳だ。リーチにおいて、荒太はまだ要に敵うものではない。
 ちくしょう、ハーフめ、と荒太は妬(ねた)み半分に思う。
「顔に騙(だま)されるな。それは真白さんでも、若雪どのでもない」
「そんなんとちゃう。こない弱っとる女の子を、お前どうするつもりなんや!」
 糾弾(きゅうだん)する要の物言いに、荒太の顔が苦くなる。
「――――――俺が誤解されるような言い方をするなよ。…ここで妙な情けをかけてその魍魎を野放しにしたとして。もしそいつがこの先、真白さんを傷つけて見ろ。要。お前でも、俺は許さないぞ」
 ぐっ、と要が息を呑んだが、動こうとはしなかった。
「そこを退(ど)け、要」
「嫌や」
「なら雷(いかずち)を使え。俺でもイチコロだぜ?」
「―――――」
 要の顔が苦しげに歪む。余程の場合を除き、彼は人に向けて力を行使出来ない。
 それが要と言う人間だ。荒太は解っていて言った。
 柔らかな黄緑の瞳と荒太の瞳が、真っ向からぶつかり合う。
 両者一歩も譲ろうとしない。
 空気は緊迫に険悪が加わったものへと変化していた。
 柔軟だが非情に頑固な一面も持ち合わせる要はこんな時、言い出したら聞かない。荒太が少しでも少女に危害を加える素振りを見せたら、全力でそれを止めようとするだろう。
そしてそれ以前に、この家には絶対的な権限の持ち主がいた。
「こら!」
「いって!」
 荒太の頭が、丸めた新聞紙で叩かれる。バコンッと大きな音が小気味良く響いた。
 それは相当に厚く、硬く丸められた新聞紙で、また、振るわれた力もかなり容赦なかった。
 仁王立ちして素早く少女の前に立ちふさがる舞香がそこにいた。長身である要の身体より更に手前に立ち、弟をも擁護(ようご)する姿勢だ。琥珀色の目が、荒太を睨んでいる。
「舞香さん…」
「荒太。あんたって子は。少しは見どころがあると思ってたら、ここまで弱り切ってる子をこれ以上追い詰めてどうしようっての。真白に言いつけるわよ?良い?今日はもう、この子の眠りを邪魔しないこと。この家での乱暴狼藉は、私が許さないわ。――――――さあ。私がついてるから、大丈夫よ。安心して眠りなさい」
 振り向いた舞香に優しく髪を撫でられて、少女はむしろ困惑に目を見張る。決して許されまいと思っていた失態を許された子供のような顔をして、おどおどと舞香の顔を見上げた。

 一階のキッチンで、要はカモミールティーを淹れた。
 荒太の神経が少しでも落ち着くようにと思ったのだが、荒太の表情は既に静かだった。その顔のままで要に報告する。
「剣護先輩には連絡した。心当たりがあるらしいな。かなり驚いてた。…危害を加えるなと、釘を刺された。すぐに来たそうだったけど、彼女がもう眠ったと伝えたら、明日の朝には来るって言ってたよ」
 もう夜も遅いのに、剣護の背後にある真白の気配を、荒太は感じた。その時、荒太は唇を知らずに噛んでいた。従兄妹同士、兄妹同士なのだからそういう時もあるだろうと、無理矢理に自分を納得させてみたが、どうしようもなく今も胸は妬(や)けていた。彼ら兄妹の強い繋がりに、時に荒太の心はひどくかき乱され、息が苦しいような思いを抱く。
 どうか奪わないでくれ、と胸中で懇願する。
 真白だけは駄目だ。
 強く、大らかに、人を包み込む度量を持つ剣護を荒太は尊敬していた。人間的に、自分には無いものばかりを持っていると、そのようにも思う。
 同時に恐れてもいた。
 真白を見守る、緑の瞳の優しさを。
「ああ、剣護君に任せたら、大丈夫や。きっと何とかしてくれる。真白さんが、あれだけ頼っとる相手なんやから」
 頷く要も今では落ち着いている。元々、怒りを長く持続出来ない温厚な気性だ。彼の言葉に、荒太が俯いた。
「…どないしてん、荒太」
「―――――――お前は、妬けないのか」
 黄緑の瞳が、不思議そうに瞬く。
「何をや?」
「真白さんと剣護先輩は、今は従兄妹だぜ」
 要の顔が固まる。
 それを見て、テーブルに片肘(かたひじ)をついていた荒太は、溜め息を吐いた。
 ここまで簡単に表情で暴露(ばくろ)されると、いっそ気抜けがしてしまう。
 チン、チン、チン、とティーカップの金色の縁を爪で弾く。
「…そんなあからさまに、何でばれたんだって顔すんなよ、莫迦」
 色白の要の肌が紅潮し、黄緑の色は迷子のように頼りなく動く。
「荒太。………僕は、やっぱり解りやすいんかな?」
「モロばれ。真白さんと良い勝負だよ」
 要ががくりとテーブルに両肩を落とした。
「誤魔化し方もなっちゃいない、腹芸(はらげい)が出来ないのは相変わらずだ」
 遠慮の無い荒太のダメ出しに、要は赤面して項垂(うなだ)れる一方だ。
「なあ。何で、真白さんなんだ―――――――?」
 要の視線が宙の一点に定まる。動かなければ読まれまいと言うかのように。
「…兵庫は、良く解らんが多分、若雪どのの面影を想ってる。信長公には所詮、濃姫がいる。真白さんのことを、本気で、心底恋愛対象に見てるのは、お前だけだろう―――――俺以外には。なぜだ?俺は、お前になら、他のものを譲れた。他のものなら、お前がどうしても望むんなら、何だって譲ってやったんだ!」
 俯いて、言葉を烈(はげ)しく発する荒太の顔には、苦悩と苛立ちがあった。
(俺はお前に借りがある)
 紅葉の中に佇む墨染の衣。
 荒太が抱く要への負い目と友情が、彼に強い声を出させた。
 顔を下に向けたまま、もう一度尋ねる。今度は少し抑えた声音で。
「どうして真白さんだった」
 静かな夜の空気に、近くを通り過ぎる車の走行音が響く。
 要が、その音と共に何かを振り切ったかのような顔で、俯く荒太を真っ直ぐに見た。
「ならお前は、――――…何で真白さんやったんや、荒太」
 鏡のように返された静かな要の声に、荒太は顔を上げる。
「前生が若雪どのやったからか?ちゃうやろ?……どうしょうもなく、最初っから、惹かれてもうたんやろ?よう解るわ。…僕かて同じやから…。お前に言われんかて、譲ってもらおなんて思ってへん。これっぱかしも」
 静かだが凛とした、黄緑色の輝きが荒太を見据えていた。
 どうしようもなく最初から。
 陳腐(ちんぷ)な言葉だと荒太は思う。知ってはいたが要は相当のロマンチストだ。
だが笑ってしまうことに、事実は、それ以外の何でも無かった。
 確かに禊(みそぎ)の時を終えてから初めて真白に出会う前、予備知識の為に期待も憧れもあった。
 ただ、もしかしたら当てが外れるかもしれない。その時は気持ちを切り替えよう。
 そういう考えも、実はあった。思考回路の逃げ道を、こっそり確保しておいた。前生での絆(きずな)が確実に再現されると、信じ込む程に夢見がちな性格ではなかったのだ。それでも消せない期待の為に、リハビリにだけは励んだ。
 しかし。
〝成瀬荒太君?〟
 焦げ茶色のショートカット。白い肌。淡く色づいた唇が、自分の名前の形に動く。
 青紫のワンピースを着た少女に問いかけられた時、思ったことは「逢えた」という一事だった。
 逢えた。見つけた。放したくない。
思いは軽々とその三段階を順に飛び、他の理屈は無かった。
 呼ばれた名に光が注いだと感じた。天啓(てんけい)のように。
絆への疑念は、荒太の中から風に吹かれる紙のように消え失せた。束縛を嫌い、何より自由を好む自分が、捕らわれて安堵する囚人になった気分でそれが妙に可笑(おか)しかった。
(始まりが既にゴールだ。ある意味、終わってる…)
 けれど荒太はその事実を歓迎した。
真白が〝また逢えて嬉しい〟と言ってくれた時、その言葉が痺(しび)れる程に嬉しかった。
たったそれだけの言葉で、いとも簡単に、尻尾を振る犬のように喜んでしまう自分が情けなくて、自分はもっとプライドの高い男だった筈だと訝(いぶか)しんだ。それでも、同じ想いを抱かれることの幸せは、荒太が後生大事にしていたプライドさえあっさりと押し流してしまった。
〝抱き締めてもええ?〟
〝若雪を?真白を?〟
〝真白さんをや〟
 嘘は無かった。若雪でも他の誰でもなく、真白に触れたいと思った。
 請うて許され、彼女を抱き締めた時、「戻って来た」と思った。
 ああ、ここだ、と。若雪ではない。真白に、「戻って来た」。
 自分のそんな感情の全てが他愛なくて滑稽(こっけい)で、莫迦みたいだった。
(莫迦みたいだ――――――俺は彼女を放せない)
 何よりも焦がれる、白い花。優しい微笑を形作るその魂。
不覚にも涙が出た。
 ―――――それが全てだった。
 
黙り込んだ荒太を、要は見つめていた。
 嵐が、荒太が自分に対して負い目を感じていたことには薄々気付いていた。けれど、譲る、譲らないというところまで思い詰めて考えていたとは知らなかった。それもまた、彼の抱く自分への友情の一つの形だと思うと、何とはなしに泣けてくるような思いが、要の胸を温かく占めた。当たりの良い外面(そとづら)を被りながら、本性は悪童(あくどう)と言っても差し支えない荒太が、自分のことをそこまで気遣っていたのだ。
(…僕も阿呆やな)
 叶う見込みの無い恋を再びするなど、我ながら不器用だとも、救いが無いとも思う。
 しかし。
 紛れ込んで真白と出会ったあの暗闇で。
〝要さん。助けて――――、助けてください〟
 泣きながら叫ぶ彼女は、自分の保身を求めているのではなかった。ただ荒太と竜軌の命を失うまいとしていたのだ。なかんずく、荒太の命を。
 失いたくないと泣いていた。
 必死の形相(ぎょうそう)で真白に請われた時、自分に彼女の願いに応じられるだけの力があったことに感謝した。喜んで、手を差し伸べた。
 同じ瞳で求められたら、何回でも、何十回でもきっと自分は応えてしまうのだろう。
 どこか彼女に通じるような、カモミールティーの優しい香りにゆっくりと両目を閉じる。
 不毛な恋をする自分に呆れながらも、要の唇には満足げな笑みが浮かんでいた。
(阿呆やなあ……)

 真白の部屋は未だ優しい薄闇が保たれていた。
 剣護のスマートフォンの着信が鳴り、彼が低い声で受け答えするのを脇で聴いていた真白は、誰が発見されたという報せであるか、すぐに察しがついた。通話を終えた兄に尋ねる。
「剣護。…え、荒太君から?相川さんが見つかったの?」
 勘の良い妹だと剣護は半ば呆れる。
 ベッドの中の真白を振り向き、説明の為に口を開く。
「ああ。………道端に倒れてたのを、要さんが保護したそうだ。…臥龍の断ち切った鎖は、単にあいつを縛る為だけのものじゃなかったのかもしれない。あれを切った途端、相川の創った空間は弾けた。相川自身もまた、弾き飛ばされたみたいだ。今は、風見鶏の館で眠ってる。――――要さんは救急車みたいな人だな」
 剣護が苦く笑う。
「相川の奴…、俺には知らせるなと言ったらしい。思い出したってのに望みを叶えてやれもしねーで、愛想尽かされたのかもな。んで荒太が、要さんに呼ばれたんだと。あの二人がいることだし…、あそこならとりあえずは任せられる。あいつも久しぶりに、温かい寝床で眠れるだろう」
 それは精神的な意味でだ。
 真白が身を起こす。
「明日、行くの?風見鶏の館に」
「うん」
「私も一緒に行って良い?」
 勢い込んで尋ねた真白に、剣護は目を細めて答えた。
「ダメだっつっても聞かないだろ、お前。良いよ。――――真白、こっちにおいで」
 優しい声で誘(いざな)われる。
 その言葉を待っていたかのように、真白は躊躇(ためら)いなくベッドから抜け出し、手招きする剣護の広い腕に収まった。
 包まれることで、少し前まで自分の中にあった烈(はげ)しい感情を鎮めたかった。
 あんな凍えそうな烈しさは要らない。あれは怖い。安らぎが恋しい。
 暑いというよりは、温かいと感じる腕の中。
(虫の音は、あのころと変わらない)
「…昔みたい」
 剣護の緩やかな鼓動が聴こえて、安心する。目を閉じると溶けていく。
 二匹の小さな獣のように、互いにくるまって眠った日々。
「ああ…。そうだな」
 剣護の腕に包まれた安らぎに、真白は先程まで抱いていた悲壮(ひそう)なまでの危機感を遠ざけることが出来た。
きっとあれは夏の夜が見せた怖い夢、悪い夢なのだ。
 自分を包むこの腕が、消える筈など無いのだから。
「剣護。荒太君には、まだ話してないんだね」
 腕の中から囁(ささや)くように問いかける。
 何をかは、言うまでもなかった。簡単に口に出来ることでもない。
「相川のことは、明日、話すよ」
「――――ううん、私から話すよ。私だって、当事者ではあるもの」
 剣護は既に、怜と真白に辛い告白をしている。これ以上は酷だと真白は思った。
 話す度に彼は自分を責め、傷を抉(えぐ)る。
 自分で自分を追い詰める悲しい緑の瞳を、真白はもう見たくなかった。
「お前は結構、俺を甘やかすよな。…妹の癖にさ」
 剣護が吐息と共に言う。
「…剣護は、」
 真白が真剣な声を出す。低い声は、少しかすれていた。
「剣護は、私が、すごく剣護のこと大好きだって解ってないんだよ」
 緑の目が、腕の中にいる真白に向かう。
「―――マジで?」
「そうだよ」
「荒太より?」
「そこは譲れない」
 ぷ、と剣護は軽く噴き出す。
「一途(いちず)な奴…。うり坊みてぇ」
「そうだよ?私、あの人の為なら、何だって出来る。…荒太君、まだあんまり実感してないみたいだけど。でも、剣護が笑ってられるなら、辛い思いしないでいてくれるなら、その為だって何でも出来ると思うよ」
 剣護は何も答えなかった。
 自分を真っ直ぐに見上げて来る焦げ茶の目に、決意が鈍りそうで困るとは言えなかった。
 真白は既に、少なからず何かに勘づいている。自分が感傷に流され、喋り過ぎたせいだ。
 これ以上は気取(けど)られまいとする剣護の思惑は知らず、真白は兄の温もりに寛いでいた。
(……温かいなあ。剣護の中は)
 時々、兄の腕の中は世界の中心ではないかと感じる時がある。
 何からも守られて。目に映ると辛いような、醜いものからさえ遮断(しゃだん)されて。
 優しさと慈しみの雨が、全身に甘く降り注がれるように。
 きっと剣護は自分がこのように感じているとは、思いも寄らないのだろう。
 もし知ったら、あの緑の目が真ん丸になるに違いないと思うと、可笑しくなってしまう。
 そんな真白の心に、もう一人の兄の面影が浮かぶ。
(次郎兄)
 あの流された辺境の異世界で、妹を守ろうと孤軍奮闘(こぐんふんとう)した姿は記憶に新しい。彼は強かった。心も、力も。右も左も解らない土地で人を守るという難業を、果敢にこなして見せた。今生で共に過ごした日々はまだ少ないというのに、真白を守る為に怜が伸ばす手は、常に迷いが無く、優しい。
 どうして、と真白は悲しく思う。理不尽だと。
(あなたと一緒に育って来たかった。剣護の守りを私だけが独占してしまった。……あの優しい兄様だけが、どうして独りにされてしまったのだろう)
「――――――真白?おい、泣いてんのか?」
 剣護が驚いて腕の中の妹を見る。
「だって―――…次郎兄が可哀(かわい)そうだよ」
 真白には剣護が、剣護には真白がいて、怜には誰もいなかった。過去の悪夢にも覚醒の苦しみにも、独りきりで耐えるしかなかったのだ。
 深い孤独の闇にぽつねんと立つ、少年の姿が浮かび上がる。
 整った面立ちが際立たせる寂しい影。
 どれ程辛かっただろう。
 秀麗な、優等生然とした顔で。何の苦労も無かったような顔をして。
〝俺と太郎兄は、そんな未来を守る為に戦う〟
 苦しみを独りで越え、それでも彼は妹の幸福を願い剣を取る道を選んだ。
「次郎兄が、可哀そう………。あんなに、繊細な人なのに」
 そう言って泣く真白の頭を、剣護は大きな手で抱え込む。
 弟を不憫(ふびん)と思う気持ちは、剣護の中にも強く、負い目と共にあった。
 けれど怜の誇り高さを軽んじることだけはすまいとも思っていた。
 だから泣く真白に、一言だけ言った。譲らない声で。
「あいつは強い奴だ」
 真白が無言で頷く。
 そのまま、密やかに泣く真白の髪を、優しい手つきで剣護は撫で続けた。
 柔らかな花に触れるように。けれどその花びらを散らしてしまわないように。ひどく慎重な、用心深い優しさで。
 何にもこの子が傷ついてなど欲しくないのに、と思いながら。
(…頼むよ、神様。その為だったら)
 その為だったら――――――――――。

 荒太は浅い眠りの中にいた。
 少し先には、小袖を着た真白がいた。それだけのことで微笑んでしまう。
 簡単な男だと自分でも呆れる。
 水色の地に浮き出る小袖の柄は、若雪も真白も好きな竜胆(りんどう)。
 真白が嵌めている指輪のタンザナイトと同じ、濃い青紫色の花。
 夢を見ている自覚はあった。
(うん。品のええ小袖や…。よう似合うとるし。当然か。俺の夢や)
 真白の周りに花びらが舞う。
 桜。桜の花びら。
 桜吹雪だ。
 光に舞う。
どこかで見た光景だと思った。
 懐かしくも泣きたくなる、吹雪。
 目を細めて、より一層、真白に見入る。
(真白さん。真白さん。真白さん)
 他の誰でもなく、俺を選んで。
 持ってる物、残らずあげるから。
 そして今生こそは、一分でも、一秒でも長く共に―――――――――。
 その為だったら何でもする。
 いつの間にか真白は、小袖から純白の打掛姿(うちかけすがた)に変わっていた。
(ああ、ほんま綺麗や。これは、あれか。やっぱり俺のお嫁さんいう落ちかな。それしか無いしな)
 真白がこちらに気付き、満面の笑顔になる。
 満面の笑みで駆けて来る。
(うん、やっぱりそうや。うっわー、かいらしい。てか綺麗やわ)
 裾がもつれて彼女が転ばないかと不安になり、荒太が差し出した両腕の、その横を真白は通り過ぎて行った。
(―――――は?)
 荒太がバッと振り返った先には、侍烏帽子(さむらいえぼし)に縹色(はなだいろ)の直垂(ひたたれ)も凛々しい門倉剣護が、緑の目を細めて待ち構えていた。
 花嫁姿の真白は、剣護の伸べた手に、嬉しそうに自分の手を重ねようとした。
(んな阿呆な。有り得へん――――――――!)

 朝の金色の光が塗装(とそう)の剥げかかった床にまで差し込み、明るい模様を形作っていた。
 久々に聴いたような、雀(すずめ)の鳴き声が頭に響く。
 寝相の良さを自負する荒太は、魍魎の少女が眠るベッドの傍らで胡坐をかいて一夜を過ごした。無論、見張りの為であるが、舞香を説き伏せるのは非常に骨が折れた。窮屈な環境下で寝たせいか、これ以上無いという程、寝覚めの悪い夢を見てしまった。まだ動悸(どうき)が激しい。よりにもよって真白を、剣護に嫁に取られる夢など。兄妹ではないか。同時に従兄妹でもあるが。その複雑で曖昧な二人の間のボーダーラインが、荒太を不安に陥れる最たるものと言っても過言ではなかった。
どうせ夢なのだから、憂さ晴らしにこの際剣護を一、二発、殴っておけば良かったと後悔する。それくらいしなければ、満面の笑みを湛えた花嫁姿の真白が自分を素通りした、というショックが癒されない。
「…あらちをの かるやのさきに たつ鹿も ちがへをすれば ちがふとぞきく」
 頭痛がしそうな気分を取り直し、額を押さえてとりあえずは陰陽師らしく、夢違誦文歌(ゆめちがえじゅもんか)を詠んでおく。悪夢を吉夢に転じるのだ。
 たかが夢と莫迦にしたものでないことは、前生において嫌と言う程学んだ。
 そして一息吐いた荒太は、やっとのことで目前にあるベッドが、もぬけの殻であることに気付いた。

 目の前に座る少女を、アオハは不思議なものを見る目で見ていた。
 アオハにとって、この世は不思議なものばかりだ。
 蝸牛(かたつむり)の殻。蛙(かえる)の濡れた背中。雨上がりの虹。流れる血液。
 目に映る世界はどこもかしこも鮮やかに美しく、まるで全てアオハの為に用意された、玩具箱(おもちゃばこ)のようだった。それを用意してくれた誰かに向けて、思わず感謝の微笑みを向けたくなる。
 それらの様子をじっと眺めるのは面白い。
 中でも人格を持った生命体はひどく興味深い。
 この上なく尊いものと思えるのに、失われる時はあっと言う間だ。
 本来であれば自分はそのように、一瞬にして多くを奪い、失わせる筈だったのだ。
 今、自分がどうしてここにいるのか、アオハにはやはり解らない。
 けれど、ここにアオハを遣わした存在から、アオハはきっと確かに愛されている。アオハはそう思う。
 どこか空の遠く、高い、高いところにいる存在から――――――――――。
「ねえキョウコ。どうして逃げたの?どうして戻って来たの?」
 澄んだ薄茶色の瞳の問いかけに、ソファに腰かけた少女は口を閉ざして応じない。強い意思のもとにそうしているのではなく、失意の余りの深さ、大きさが、彼女から能動的に何かを成そうとする意思を奪ってしまったのだ。
 何度絶望すれば、自分は死ねるのだろう。ぼんやりと鏡子は思っていた。
 自分に死を与えてくれると恃(たの)んだ剣護は、それを叶えてはくれなかった。
(どうして逃げたの?あなたしかいないのに)
 それでも自分の為に、悲痛に顔を歪めた剣護を見た鏡子の胸には、痛ましさと昏(くら)い喜びが芽生えた。彼は、他でもない自分の為に傷ついてくれたのだ。
〝思い出した…〟
 あの強くて美しい緑の瞳が、哀しく沈む。
〝お前…、それしか言えねえの…?〟
 常に朗らかな毅然(きぜん)とした声が、震える。
 それらの全てが、自分の為に。
 辛い――――――嬉しい。ごめんなさい。
身体を虚ろに投げ出した人形にも似た鏡子を見て、それでもこの子は綺麗、とアオハは思う。愛おしさと共に。
 アオハは不意に向かいのソファから身を乗り出すと、鏡子の細い身体を抱き締めた。
 母のように。
「太郎清隆に、殺して欲しいのね。可哀そうに」
 鏡子の黒髪を撫でつけながら、アオハもまた悲しそうな顔をする。
「でもね、キョウコ。あなたが死ねば、私たちもまた生きてはいられなくなる。…私は死にたくないし、ギレンやホムラや、他の兄弟たちにも死んで欲しくないの」
「―――――そこまでにしておけ」
 アオハの優しい抱擁は、冷たい声によって止められた。
 最もベランダ側に近い一人掛け用の椅子に座るギレンは、それでも耐えたほうだった。
 ツカツカと音高く鏡子に歩み寄ると、手を振り上げようとした。
 だが、鏡子との間に身を置いたアオハによって阻まれる。
「乱暴しないで、ギレン。ね?」
 ギレンは忌々しげな表情を浮かべると、再び椅子に戻った。
「門倉剣護も、莫迦な男だ。敵の首魁に哀れみをかけ、殺すことも出来ないとは。挙句、たかだか鎖を断ち切ったことで自己満足に浸っている。―――――何も知らずに。鎖が断ち切られたままでは、我々も力の供給を受けられないが、透主自身もまた生命力を得ることが出来ないというのに。我らの間にある需要と供給のメカニズムを解することなく、薄っぺらい慈悲めいた行為に走る。ああいう中途半端な輩が、最も性質が悪い。反吐(へど)が出る。賢明な仮面を被った真の愚者(ぐしゃ)だ。あなたも悪い男に引っかかったものですね、透主様」
 鏡子の表情はギレンが長々と剣護を罵倒(ばとう)する内容を語る間も、少しも変わることはない。
 だがギレンが口を閉じると、その色の悪い唇を微かに動かした。
「………くんを」
「何ですか?」
「門倉君を、悪く言わないで」
 細い声には、辛うじて残された意思の響きがあった。
(汚(けが)さないで――――――私の太陽)
 ギレンの片眉が持ち上がる。
 今度こそ、彼の手が鏡子を打擲(ちょうちゃく)した。椅子から立ち上がって一瞬の素早い動きに、アオハが止めに入る間も無かった。
 上質なカーペットの敷かれた床に、鏡子の身体が転がる。
「―――――愚かな女だ。確かにあの道化(どうけ)には相応しいだろうよ」
 眉間に皺(しわ)を寄せ、ギレンは吐き捨てた。
 鏡子は半身を起こしただけでじっとしている。しかし彼女の右手がカーペットに強く爪を立てていることに、アオハは気付いていた。
「…鎖の長さの範囲は、また調節させていただきますよ、透主様。もうお部屋にお戻りになられて結構です」
 言外に、自分の目に触れるところから消えろとギレンは命じた。

 高いような低いような、くぐもった耳障りな笑い声に、ギレンが神経質に反応する。
 腐臭を放つビジネス・スーツの男がそこにいた。だらしなく、カーペットに直に座り込んだ彼の目はどろりと濁り、唇は引きつって歪んでいる。
こいつもそろそろ人外になりつつあるな、と思いながらギレンは尋ねてみる。
「何か可笑しいかね、山田正邦?」
「可笑しいとも。人でない化け物共が、揃って並みに感情がある猿芝居を打ちよる。滑稽(こっけい)なことこの上ないわ」
 ふむ、とギレンはケロイド状になった彼の顔半分を眺める。ホムラを呼んで全身を業火(ごうか)で焼き尽くしてやろうか、という物騒な考えがギレンの頭に浮かんでいた。しかし途中で気が変わる。そんなことをしても不味(まず)そうな肉が転がるだけだ。魍魎と言えど食べる対象は選ぶのだ。
 アオハが不快そうな顔で正邦を見ている。彼女は最初から、彼のことを嫌っていた。
 生理的に受け付けないようだ。
 アオハは心身どちらと言わず、美しいものを好む。醜悪に歪みきった存在である正邦を受け容れられないのは道理だろう。
「ねえ、ギレン。殺しちゃダメ?」
 ねだるように尋ねるアオハに、ギレンは優しく微笑む。
「我慢おし。まだ、彼にも利用価値があるかもしれないからね」
 二人の会話も耳に入らない表情で、正邦は口の端から涎(よだれ)を垂らしながら笑い続けていた。

 その日も、律儀な太陽が夏を装い地を照らしつけていた。
 剣護と真白が風見鶏の館に着いた時、既に鏡子の姿は館内のどこにも無かった。
 彼女が寝ていた部屋に、荒太が唇を噛んで正座し、舞香と要は困惑する風で立っている。
 真白は剣護が荒太に殴りかかったりしないよう、彼の手を強く握っていた。
 だがその手を見る荒太の目は、何か違うことを考えるようだった。
「…真白、手を放しな。何もしないから」
 存外落ち着いた剣護の声に、細く安堵の息を洩らしながら真白が手を解く。
「どういう状況だったのか、詳しく聴いても」
「真白さんから離れろ!」
 剣護が言いかけた言葉に、立ち上がった荒太の叫びが重なった。
 荒太以外の全員が虚を突かれた顔をする。
「荒、太君…?」
 真白の呼びかけに、荒太が我に返った顔になる。
「あ……」
 ばつの悪さが面に浮かび上がった。
「何言ってんだ、お前?…あ、そーか、そーか、焼き餅かあ。俺としろがあーんまり仲良しなんで、焼き餅焼いてんだなこいつぅー。あー無理もない、無理もない。俺らの麗しーい兄妹愛は、さながら宝石のごとくこの朝日に燦然(さんぜん)と輝いているからなあ。うん」
 機転を利かしたのかどうか判らない、剣護のひどく茶化した言葉に、荒太は冷静さを取り戻したようだ。
 自己嫌悪に浸る面持ちは、普段の彼の顔だった。
「……いつも通りの先輩でおおきに」
「今、いつも通りの阿呆で、って言わなかったか?」
「思うただけです。言うてません」
「はは。可愛くねーなあ。荒太」
 丁々発止(ちょうちょうはっし)の遣り取りが、今日も蝉が威勢良く鳴く中、繰り広げられる。
 広くない室内で、他三名の傍観者たちは少しの間それを放っておいたが、やがて真白が動いた。荒太は何かに怯えている。真白はそう感じた。不安がって、自分に縋るような思いを向けている。
 宥めて、慰め、安心して欲しかった。彼の抱く恐れなど、何程のものではないのだと。
(荒太君)
 その思いのまま自分の隣から離れて行く真白を、剣護は無表情に見送る。
 白い少女が離れる、風を感じながら。
 荒太の傍らに歩み寄ると、真白はその手を握った。
 ビクリ、と荒太の身体が揺れる。剣護に対して尚も何か言おうとしていた口が、言葉を発さない内に固まった。
(――――何が怖いの)
「…何も怖くないよ」
 恐れるのは自分のほうだ。
 荒太の一挙手一投足に見入り、有頂天になったかと思えば、どこまでも落ち込んでいる。
 心が操られているようで悔しいのに、所詮は幸せでしかない。
(あなたはもう、私を持って行ってしまってるんだよ?)
 風のようにかっさらった自覚が無いのだろうか。
(…返してって言っても、返してくれない癖に)
 一人で怖がるなんて、自分勝手だ。
 拗(す)ねるような気持ちで、そう思ってしまう。
 真白は手を握ったまま、荒太の瞳を覗き込んだ。何より雄弁な想いを秘めた表情で。
 荒太が、緩やかに静まった。焦り、苛立つような空気が、綺麗に消え去る。
 俺の妹は猛獣使いか、と思いながら剣護は複雑な心境でその光景を眺めた。
「いるよ、ここに」
 何の力みも無く、ただ当然のことのように真白が口にした言葉は少なかった。だが荒太は彼女の声に、子供のようにコクンと素直に頷いた。
 その和らいだ表情を、黄緑と緑の二対の目が黙って見届けていた。
 
       二

「え、次郎の家に?」
 風見鶏の館を出て、道をゆっくりと歩きながら真白がした提案に、剣護が瞬きした。
「何で」
「心配。かけたでしょう?剣護。もう、謝ってはあるんだろうけど、お世話になったお礼の代わりに、ここまで立ち直った剣護の顔、次郎兄にも見せてあげないと」
 言葉を丁寧に区切りながら真白にしたり顔で言われると、返す言葉に詰まる。
「それにね……私もね、次郎兄に会いたいの。お部屋行くの、初めてだし」
 いつもそつなく、眉目秀麗(びもくしゅうれい)な兄がどんなところで生活しているのか、実は少し楽しみでもあるのだ。
 横を歩いていた荒太が、真白をちらりと見る。
 荒太には、相川鏡子のことを真白が語って聞かせた。話を聴く荒太の表情は複雑そうで、物言いたげな視線を一度だけ傍に立つ剣護に向けた。剣護は、何を言われる覚悟も出来ている表情で荒太を見返した。だが荒太は彼に対して何かを言うことはせず、窓の外の空を眺めて、「誰が悪い訳でもないな」と言った。それから今後の〝透主〟に対する在り様について、考えを巡らせる風だった。
「荒太君も、一緒に行かない?」
 真白は、次兄と荒太の仲が良好なものになることを日頃より願っていた。
 荒太が答えようとして口を開いた時、先に剣護が言った。
「待て、真白。荒太――――すまんが今回は遠慮してくれ」
 真白が非難の声を上げる。
「どうして、剣護…」
 それでは荒太が傷つく。
 振り仰いだ兄の目は、弟妹の存在だけを今は望んでいた。そして、そんな自分の身勝手さを十分に恥じる色があった。
 衝撃を受けた当初より立ち直りを見せているとは言え、今も尚、剣護の傷口からは血が流れているのだ。
 それを悟り、真白が俯く。
「せっかくやけど、今日はやめとくわ」
 雰囲気を読んだ荒太がそう言ってくれるのが、真白は申し訳なかった。
「――――荒太君」
 アスファルトを歩む足を止めて、呼びかける。道の端、民家のコンクリートの外壁の隙間から生え出た、たくましい露草(つゆくさ)の青に目を遣りながら言葉を続けた。真白は荒太の目を正視出来る時と、出来ない時がある。今は後者だった。
「夏休み、まだあるから」
「うん?」
 顔は見えないものの、荒太が首を傾げる気配を感じて、彼は自分の見た目の良さをどのくらい自覚して計算しているのだろう、と真白は一抹(いちまつ)の疑いと共に考える。しかし今現在に限って、真白の疑惑は惚れた欲目を伴った穿(うが)ち過ぎというもので、この時の荒太には何の計算も無かった。
「デ、ート、またしようね。………して、くれる?」
 勇気を奮って不器用に誘った真白に、荒太の顔が輝く。言葉を口にしながらそっと彼の顔を窺い見た真白は、その表情に小さく安堵の息を吐く。好意を持たれているとは思うものの、まだ強気に誘える程の自信は持てていないのが実情なのだ。
「ほんま?」
「…ほんま」
 荒太がにっこりと微笑んだ。荒太は偽物の笑いも持ち合わせる性分だ。それだけに、彼が本当の笑顔を見せてくれた時、真白の胸は喜びに溢れる。
「おおきに」
 それまで黙っていた剣護が口を出す。
「…おい、デートの前に決戦だからな?魍魎たちとの決戦だからな?恋愛に現を抜かすような真似、お兄ちゃんはどうかと思うぞ。大体お前たち、せいぜい手を繋ぐとか交換日記が限度だって解ってるだろうな。ハグすりゃそれがもう最上級だ、打ち止めだ。それ以上の不純異性交遊は、この俺が厳しく取り締まるぞ!」
 けれど説教がましく並べられる、剣護の古めかしい価値観による語りが半分も終わらない内に、荒太はさっさと真白に手を振り電車の駅の方面へと歩いて行った。
偽物でないにこやかな笑顔を残して。

 風見鶏の館から、怜のアパートまでは大して距離が無い。真白と剣護の二人は連れ立ってにこにこコーポまで歩いていた。
 昼前、夏の日差しが強くなる時間帯だ。
「大丈夫か、真白」
 剣護は自分の身体の影に真白が入るよう、立つ方向を前後右左に調節しながら歩いた。
 狭い家の中では邪険にされることも多い大きな図体も、こんな時には役に立つ。
「うん――――」
 それでも答える真白の顔色が余り良くないことに、剣護は気付いていた。

 それは、公民館が見えてくるあたりでの路上でのことだった。
 二人の少年が言い争う声が聴こえて来た。
「――――待て、恒二(こうじ)!」
「うぜえって、放せよ。…家族捨てたあんたに、今更関係ねえだろ!?」
 その叫び声は、真白の耳を痛々しく打った。攻撃的に言い放つ人間が、傷ついていることが伝わって来たからだ。
 相手を呼び止めようとしているのは怜だった。
 殊更(ことさら)に大きくはすまいと努める声が、住宅街の中ではそれでも大きく響いてしまっている。加えて言い返すほうの声量は、怜のような気遣いを全く感じさせないものだった。
 近くの家の玄関の扉から、少しだけ隙間を開けてこちらを覗き見ている主婦らしき姿があるのも、無理はなかった。
 言い争いの相手は、怜程には上背の無い、まだまだ幼さの残る顔つきの男子だった。怜の秀麗な顔を、少し荒っぽくしたような面立ちをしている。一見して、血の繋がりが感じられた。突っ張って不良を気取ったような服装が、怜に似た面立ちを置いてけぼりにして余り似合っていない。
 怜がこちらに気付いた。冷静な顔が一瞬、恥じる表情を見せる。
「太郎兄、真白―――――」
「はあ?何だ、そのタロウアニとかマシロって。格ゲーのキャラ?」
 怜に似た少年がジロジロと不躾(ぶしつけ)な視線を剣護と真白に送る。
 但し、無礼者に返した剣護の一睨(ひとにら)みには、すぐに首を竦(すく)めていた。
 次に彼は与(くみ)しやすそうな真白に目をつけた。
 柔らかで優しげな白い面の少女に、剣護とは異なる意味で怯む気配を見せながらも、意地になったように罵倒(ばとう)する言葉をひねり出す。
「あんた、兄貴の彼女?ふーん。…貧相な女。そんなんであいつのお相手が務まんの?」
 ここまで無遠慮に物を言われた経験が無い真白は、頬を染め、ただ口を開けたり閉めたりした。品の無い悪口に免疫が無いのだ。
 後ろに立つ剣護は緑の目を剣呑(けんのん)に光らせて、さてこの小僧をどうしてやろうかと考える。
 しかし剣護が制裁を下す前に、パシッという鋭い音が響いた。
 怜が少年の頬を平手で打ったのだ。それ程力が籠った音には聴こえなかったが、頬を打たれた少年は、ひどくショックを受けた顔で怜を見上げていた。
 甘いんじゃないか、と剣護などは考えている。
「口が過ぎるよ、恒二」
 静かな怜の声に、彼は震わせていた唇をくっと噛み締めると、真白を激しく睨んでから足早に立ち去った。真白がその後ろ姿と怜の顔を交互に見たが、怜はもうその少年を引き留めようとはしなかった。

 初めて足を踏み入れた怜の部屋は、真白が予想したよりもずっと片付いていた。
 荒太が以前、整理整頓したという話は聞いたが、それでも、一人の暮らしにおいても、怜が身の回りのことを疎かにしない性分だということが判る。
 麦茶を出してもらいながら、剣護も真白も、怜のプライベートに著しく踏み込んだ気がしてならなかった。まさかいきなり、あんな場面に出くわすとは考えていなかったのだ。毎回そうと言う訳ではないのだが、身内の気安さで今日は前もって連絡せずに来たことを、今では後悔していた。二人共、気まずい思いで先程からチラチラと怜の顔色を窺っていた。
 怜本人は、今は気にした様子もなく、冷蔵庫を開け閉めしている。
「そうか…。相川さんは、どうして風見鶏の館を出たんだろうな」
 鏡子が消えた一件を聴くと、怜はそう感想を洩らした。
「うん。だって、あの場所だよ?敵地だとも、思わないでしょう。舞香さんは、彼女が息も絶え絶えな状態だったって言ってた。―――――どうして、そんな無茶をしたんだろう」
 真白の顔には純粋な疑問と、鏡子の身を案じる思いがあった。
 じっと黙っていた剣護が口を開く。
「ひょっとしたら、相川自身、ギレンたちから離れると生命の危機に晒されるような仕組みが、あるのかもしれない。相川が奴らに力を分け与えるのと同様に」
 思慮深い目で怜が疑問を呈する。
「……彼女は、太郎兄に殺してもらいたがってるんだよね?つまり、死にたいんでしょう。ギレンたちから離れることでそれが成し得るのなら、どうしてそうしないんだろう」
「何か理由があるのか…」
 言いかけて、真白が長兄の顔を見る。
 彫りが深めに整った目鼻立ち。やや癖のある焦げ茶の髪と、強い意思を宿す緑の瞳。本人は無頓着だが、長い手足と長身に恵まれた剣護は、全身から厚みのある陽のオーラを発散させて、周囲の人間を魅了する。
 剣護はきょとんと真白を見返す。
「ん?」
「…よっぽど、…剣護の手にかかって死ぬことに拘(こだわ)りがあるのか」
 口にすると、胸に寂しい風が吹くような思いと、悲しみが生まれる。
 透主となってからも鏡子はずっと太郎清隆、剣護を呼び続けていた。
 きっと彼女はこれ以上無いくらい、剣護のことが好きなのだ。
 真白には良く解る。
 今の真白は荒太と共に、出来得る限り長く生きることを願っている。
 けれどもし鏡子と同じ状況、同じ立場であれば、真白なら荒太の刃(やいば)を望む。その点で女子として、鏡子に痛い程共感出来るものがあった。
 真白の唇に仄かな微笑が浮かぶ。
(…それでもきっと、荒太君は願いをきいてはくれないんだろうな)
 死なせてと言えば問答無用で、真白の身を強く抱き締めてしまうだろう。
 そういう人だ。
 真白は剣護の側近くにいる存在としては意外に、あまり妬みなどによる苛めを受けたことは無かった。それは真白自身、他より優れた資質の持ち主であった為でもあり、剣護の従兄妹という立場があった為でもある。
 けれど、全く何も無かった訳ではない。真白は凛としても見られるが、大人しくも見られやすい。その日行われた授業のノートが数ページ、切り裂かれるという陰湿(いんしつ)な嫌がらせを受けたこともあれば、聞えよがしの嫌味を言われたことも何度かくらいはある。剣護は自分自身の評価を妙な謙遜(けんそん)で曇らせるようなことはしないが、それでも彼自身が思う以上に、多くの女子が彼に恋愛感情を抱き、また、憧れの対象として見ている。
 相川鏡子もその一人だったが、今や彼女には普通に恋をすることは許されなくなってしまった。麦茶の入ったコップを持つ手が、滴(しずく)に濡れるのを感じながら考える。
(相川さんだったら、私に意地悪しただろうか……)
 きっとしなかっただろうという気がする。剣護があそこまで鏡子の面倒を見たことが、鏡子の人間性を保証している。そうであれば猶更(なおさら)に、彼女が痛ましいと真白には思えた。
 フローリングの床の上に直(じか)に座る足は、ヒンヤリとしている。
 暑い中を歩いて汗をかいた身体に、その冷たさは心地好かった。
 三人はしばらく、麦茶を飲んだりしながらそれぞれの思考を落ち着けていた。
「真白、大丈夫?」
 先程から暑気あたりの気配を見せる真白に、怜が声をかけた。
 気の回る怜は、真白を居間兼寝室に迎え入れてすぐ、ベランダ側の引き戸やダイニングキッチンとの境を仕切る戸を閉め、冷房をつけていた。
 剣護も心配の表情を浮かべている。
「アイスでも食べる?」
「うん……」
「ハーゲンダッツがあるけど、バニラとラムレーズンとどっちが良い?」
「ラムレーズン」
「ちょっと待てっっ」
 剣護がすわ、と立ち上がって大声で待ったをかけた。
「――――――昨日は無かったハーゲンダッツが、何で今日は湧いて出る?」
「たまには高級志向も良いかな、と思って、買って来たんだよ。タイムリーだったね」
 納得いかねえ、納得いかねえ、とお経のようにブツブツ言う剣護の横で、真白にアイスのカップとスプーンが手渡される。真白が小さな子を相手にするように、銀のスプーンを持って剣護に声をかけた。
「剣護。私と半分こ、しようよ」
「真白おおおお。お兄ちゃんは、お前のような可愛い妹がいて本当に良かったと思う」
「……ちゃんと全員分の数あるよ」
 怜の呆れた声を聴き、剣護はこのあと、真白のいないところで自分だけアイス料金を請求されないだろうか、と内心ドキドキした。夏祭りの時のヘアピン代は、結局どさくさに紛れて荒太に押し付けたのだ。彼は首をひねりながらも、不満は無い様子で支払っていた。
 ちら、と真白の様子を見る。
 アイスを食べ終わった妹は、何かを堪(こら)えるような顔をしていた。
 途端に剣護は兄、もしくは母の顔になる。
「――――しろ。きついならちゃんと言いなさい」
 真白は体調不良の時、唇を噛み締めて懸命に我慢しようとすることがある。
 剣護の言葉に怜が真白を見て慌てた。
「真白、横になる?ええ、と、俺のベッドで大丈夫?汚れたりはしてないけど、」
 熱さましを飲んで、ひとまず真白は怜のベッドで横になった。
 天井のクリーム色が目に迫る。これが、いつも怜が眠る時、目覚めた時、見ているものなのだ。
「…次郎兄。さっきの子、弟さん?」
 そっと尋ねた真白に、怜が頷いた。
「そう。莫迦な言葉聞かせてごめん、真白。あいつは、恒二は、わざと俺に反発したいだけなんだ」
「回り回ったブラコンか。面倒臭えな」
「剣護!」
 これだからガキは、と剣護は真白の横たわるベッドに寄りかかって、白い目をする。
 怜が苦笑した。それ以外の表情が、思い浮かばないという顔だった。
「……うちの親は結構、勉強の成績至上主義なんだ。だから俺と弟にも、過剰な期待をかけた。新設の、近隣でも評判が良くて難関って言われる高校を目指せと言われてね。俺はそういうのも、そこまで苦にするほうじゃなかったけど、弟は違った。どちらかと言うと勉強よりスポーツを好む性格なんだ。それでも、中学に入った時から見てて気の毒なくらい、親の期待に応える為に努力してたよ。………俺のことも尊敬して、慕ってくれてた。俺も結構、あいつが可愛くてさ。けど」
 親の期待をかけた高校に無事受かり、入学した直後、怜は前生を思い出してしまった。
 思い出し、そして囚われた―――――――。慕わしさに。
 その時のことを思い浮かべるように、微笑して前髪をかき上げながら怜は語った。
「真白たちの居場所を理の姫に教わり、俺が陶聖学園に編入して一人で暮らすと言い始めたことは、両親、特に母親にとっては青天(せいてん)の霹靂(へきれき)だった。俺が前の高校に受かった時のはしゃぎようを考えれば、無理もない。それはもうね、大揉(おおも)めに揉めたよ。でも最終的には、おじいさんの後押しもあって、俺が我(わ)が儘(まま)を通した。俺も譲れなかったんだ。…前にも少し話したよね」
〝親不孝者!〟
「…恒二は、自分が必死に掴もうとしたものを、あっさり手放した俺が許せないんだ。何せ理由さえ解らないだろう?あいつや家族より優先したい存在が出来たなんて、話すのも酷だ。それで今、少しグレてしまってる。今年中学三年で高校受験を控えてるんだけど、最近、このあたりの柄の悪いのと一緒にいるらしくて」
 放っておけなかったのだろう、と真白は思った。
 けれど怜の実家は、ここから随分と遠い筈だ。恒二が怜の住まうアパート近くをこれ見よがしにうろつくのは、やはり兄に構って欲しい思いがあるからではないだろうか。寂しくて、なのに近付いてもらえると今度は逆にどうすれば良いか解らず、つい噛みつくように反抗してしまう。
 怜に頬を打たれたあとのショックを受けた顔。自分を睨みつけた恒二の顔が浮かぶ。
(ごめんね。私たちが、あなたのお兄さんを取ってしまったんだね……)
 きっと彼も、自分と同じで怜のことが大好きなのだ。そして彼は男子であるぶん、自分よりずっとその意思表示がし辛いに違いない。
(…大好きだと、思うままに言えるのは、恵まれたことなんだ)
 薬の副作用と夏バテの身体で炎天下に歩いた疲れで、眠気がだんだんと意識をぼかしていくが、この場所であればそれも少しも不安なことでは無かった。タオルケットにモソモソと潜り込む。
(…これが次郎兄のお家の匂いか。ここで、一人でご飯食べたり、お風呂入ったりしてるのか)
 まだ十五歳なのに、とつい思ってしまう。
 秀麗な横顔は、いつも超然として見えるけれど。
(次郎兄…寂しくない、はず…ない…よ……ね…?)
「――――ね…次郎兄…」
 半分寝言のようなその言葉を最後に、真白はそのまま寝入ってしまった。
 一人暮らしの男性の部屋で女子が寝込むなど、本来であれば危険性を考慮して然るべきところだ。だが、眠る真白の傍に座るのは剣護であり、怜だった。長兄と次兄に守られたそこは、真白にとって、この世で最も安全な寝床だったのだ。
「…寝たか?」
「うん」
 真白の寝顔を見ながら返事をする怜の目は、慈しみに満ちている。加えて、妹を見守ることの出来る喜びがその目には浮かんでいた。
 ベッドにもたれたまま怜の横顔を見ながら、俺もこんなんなのかー、と剣護は思った。
「―――――最近、吸ってねえみたいだな」
 剣護が言う。煙草の匂いが全く部屋からしない。ベッドを覗き込んでいた怜が上半身を戻して答える。
「ああ…。気を付けてるんだ。今日みたいに突然、真白が来るかもしれないだろう。夏休みだし、そろそろかなって思ってたんだよ」
「………勘の良い奴だこと」
 そう言ってぐるりと室内を見渡す。
 六畳のダイニングキッチンと、同じく六畳の居間兼寝室。
 ささやかな室内にテレビやテーブル、ベッドなどが場所を取る。
 多少、手狭(てぜま)だがまあ良いか、と思う。
「よし、次郎。今晩、俺らをここに泊めろ!」
「はあ?」
 中々聴けない怜の素(す)っ頓狂(とんきょう)な声を聴いた剣護は、してやったりと笑った。
 叶わなかった時間を少しでも、今ここで取り戻すのだ。

「昼は外で済ますとしても、夕飯は!風呂はどうするの!真白は女の子なんだよ?」
 年の割りには家事に器用な怜も、いきなり三人分の食事を準備する容量は無い。
 急な思いつきにも程がある、と剣護を諌めにかかる。
 このざっくばらんな長兄は、女子が特に念入りに「お泊り」の準備を必要とするということを、理解していないのだと世慣れた頭で思う。
「近くに銭湯あるだろ。前、一緒に行ったじゃねえか。…真白はさ、俺に対するのに劣らずお前のことが大好きだ。知ってるだろ?俺たちは大概にシスコンだが、あいつだって筋金入りのブラコンだ。お前の弟にだって負けねえ。ずっと離れてたお前を恋しがって、泣いたりすんだぜ?たまにはベッタリ甘えさせてやれって」
 そう言って、逆に静かな口調で剣護に語られた怜は、心を揺さぶられた表情で視線を落とした。自制心が強いとは言え、彼とて真白と過ごしたくない筈がないのだ。
 剣護には解っていた。
「夕飯は鍋とかで良いだろ」
「…この暑いのに?それに、真白は夏バテじゃないのか」
「うーん。俺は鍋を囲みたい気分なんだが。んじゃそこは、しろ次第ってことで」
 怜はついに嘆息した。妹の「お泊り」準備のフォローは、自分がするしかないなと思いながら。
「………今日は飲めないな」
 はは、と剣護が明るく笑う。
「たまには我慢しろ。その年でアル中になるぞ?〝アル中の次郎兄〟なんて見てみろ。真白が一発で嘆くぞ。嫌だろ?ん?」
 兄たちの笑い声で、真白は目を覚ました。ぼうっと瞼(まぶた)を開ける。
 剣護がいる。怜がいる。
(兄様たちがいる…。そこに、笑って)
 ―――――…血が流れていない。血の匂いがしない。
 生きている。夢ではない。
 何度も何度も、数え切れない回数、生き残った若雪が見たような夢とは違う。
現実だ。
 ふと真白に目を遣った怜が、珍しくギョッとした表情になる。
「―――――真白。どうして泣いてるの」
「あー、次郎が泣かせた」
「違うだろう。真白?どうしたの?」
 戸惑う怜が優しい声で訊いて来る。
 今この瞬間、小さな子供に戻りたい、と真白は強く願った。
 屈託なく彼らに抱きついて、縋って泣きたい。思い切り、甘えたい。
 若雪のぶんも。
 嵐の前では、生涯、ついに一度も口にはしなかった。
 兄たちがいなくて寂しい、悲しいとは。
 だが嵐は知っていた。彼の素振りで、そうと知れた。
 夫婦となって気心を許しても、互いに知っていて知らない振りをしたことは、実は意外に多かった。それでも、それらをひっくるめて幸せだった。
(だって嵐どのは知らない振りをして、寂しい時の若雪には、すごく優しかった)
〝俺がここにおるやろ〟
 短気できつい気性でもあった嵐が、驚く程の優しさで若雪を包んだ。
 ただ時折、心を冷たい風が駆けた。それはもう、どうしようもないことだった。
 その冷たさを満たすものが、今はここにある。信じられないような奇跡だ。
(―――――駄目だ。涙が)
 堪(こら)え切れずに溢れる。指の間から落ちて行く、透明な雫が真白の目に映る。
 せめても、怜の肩に頭を載せる。見られないように。
 秀麗な顔立ちであろうと、少女では有り得ない固い筋肉のついた肩だった。
 温かい肩だった。
「次郎兄。次郎兄。…兄様」
 涙が怜の肩を濡らす。
「うん、真白。何?何か悲しい?」
 いつも冷静な兄が、今は自分の為に必死になっている。狼狽(ろうばい)しそうになる自分を律しようとする気配が、皮膚を通して伝わる。
「一緒にいられなくて、ごめんなさい、独りぼっちにして、ごめんなさい」
 泣きながら絞(しぼ)り出された真白の言葉に、怜も剣護も不意を突かれたように真顔になった。
 室内の空気が、真白の泣き声を除き、急に静寂に満ちたものとなる。
 それだったか、と怜は思う。
 時折、焦げ茶の瞳に浮かんでいた罪悪感の由来。申し訳なさそうに伏せられる睫(まつげ)。
「――――――ねえ、真白。どうにもならないことっていうのは、世の中にあるんだ。今言ったそれもそうでね、真白が謝ることじゃないんだよ…」
「一緒にいたかったの。次郎兄も、一緒に。…お月様」
〝太郎兄はお日様で、次郎兄はお月様みたい〟
「うん、解ってる。…………解ってるよ」
 いつもであれば遠慮しそうな怜が、この時は子供にするように真白の肩をギュッと抱え込んだ。
 大らかな太郎清隆に比べ、次郎清晴には鋭いような厳しさがあった。
 けれど繊細さに比例する、甘さも同時に持ち合わせていた。時に次郎は度が過ぎる程の甘さを若雪や三郎に対して示し、太郎に呆れられることもあった。
 その名残りのようにしばらくの間、怜が思う存分真白をあやして抱き締めたあと、頃合いを見計らって剣護が告げた。
「しろ、今日はな、三人でお泊りだぞ」
「お泊り?」
 焦げ茶の瞳が子供のように輝く。
 怜はその顔を見て微笑みながら、三人分の空のコップを流しに持って行った。
 泣いたあとの目元を、相変わらずこすろうとする真白の手を掴みながら剣護が頷く。
「そ。鍋パだ、鍋パ」
「お鍋?剣護と、次郎兄と?」
 言う端から、真白が嬉しそうに笑み崩れる。
 戻って来た怜がその顔を見て、ああ決まりかな、と思う。
「そうだ。嬉しいか?」
「――――うん」
 花が開くような愛らしい笑顔に、兄たちの頬が和み、夕飯の献立が決定した。

ゴ―――――――ッと電車の音が聴こえる橋脚(きょうきゃく)のたもと、暗い影に恒二は数人の男と紫煙を吹かせていた。人に見られては好ましくない行為をしていると、雰囲気が物語っている。
 コツ、コツ、と場違いに品良く響くヒールの音に、男たちの視線が集中する。
 品の良いベージュのスカートに、サーモンピンクのシャツを着た艶麗(えんれい)な顔立ちの女性は、男たちの下卑(げび)た無遠慮な視線に臆(おく)すことなく、恒二の前まで来ると歩みを止めた。
 背中を覆うくらいの、長いワンレングスの髪が揺れる。
 にっこりと微笑んだ彼女は、見惚(みと)れる恒二に向けて口を開いた。
「こんなところで遊んで、いけない子ね。お兄さんが心配してるわ?早く、お帰りなさい。―――――――もう、脱法ハーブなんかを玩具(おもちゃ)にしちゃダメ」
「誰が何だって?おい、知ったようなこと言ってんなよてめ…」
 そうドスを利かせた声で柄シャツを着た男が、彼女の肩を掴もうとした手はあっさりと細腕に絡め取られ、上半身を押さえ込まれた。男の横幅は、女性の優に二倍はある。それが軽やかに触れられているだけにも見える女の手により、万力(まんりき)で固定されたかのように動けない。
「いでええぇ」
 そのまま辛うじて目に見えるという素早さで、彼女が手刀(しゅとう)を男の首筋に叩き込むと、巨体がどう、と倒れた。男は白目を剥いている。女性の無感動な眼差しがそれを見届ける。
 呆気に取られた恒二が周囲を見回すと、数人いた他の男たちが一斉(いっせい)に崩れ落ちた。
 ドサドサドサッと雪崩(なだれ)を打つように、彼らの身体が地を打つ音が響く。
「わーお。斑鳩(いかるが)さん、鮮やかなお手並みだなー!変わってないねえ」
 突然背後から現れた少年が歓声を上げたので、恒二はひどく驚いた。
 美女が苦笑を浮かべる。
「あなたもね、遥。針の腕前は、相変わらず。…後遺症は、残らないでしょうね?」
「もちろんだよー。僕、善良な忍びだからさ。それにしたって僕らも人の好い忍び集団だよねえ。お達しが無くても、こうして真白様の兄上様の身内が、非行に走るのを防ごうと自主的に動くんだから。こういうのって警察は表彰してくんないのかな。全く、忍びが非人道的な生き物だなんて眉唾(まゆつば)だよ。そう思わない?まあ斑鳩さんは、婦警さんっていう立場上もあるのかもしれないけど!」
 ペラペラと、良く口の回る少年だった。
「そうね」
美女は慣れた様子で微笑みながら相槌(あいづち)を打つ。
 そこで二人は呆気に取られている恒二を振り向いた。
「な…んなんだ、あんたら?何なんだっ?」
 精一杯、虚勢を張った恒二だったが、居並ぶ二人の醸(かも)し出す迫力と、感じ取れる年季を我が身に比較すると、差があり過ぎた。それは自分と同年代に見える少年と比しても同じだ。呑気そうに構えているのに、こんな底知れない目をした少年など見たことがない。
(兄貴)
 そう言えば怜の目も、時折こんな風だったと恒二は思い出していた。
 怜は恒二の知る誰よりもずば抜けて優秀だった。勉強も、スポーツも、腕力さえ。
 常に人の先頭に立ち、颯爽(さっそう)と風を切って歩く端整な姿。自慢だった。
〝お前の兄ちゃんって、ちょっとおっかねえよな。…人間離れしてるよ〟
 同級生のそんな言葉さえ嬉しくて、誇らしい思いで聞いた。
 憧れ、父親よりも尊敬し、母親が彼に過剰にかける期待も当然だと思った。
 突然、通っていた進学校から遠く離れた他校へ編入すると聞かされた時は、裏切られた気分だった。それまでの態度を、手の平を返すようにして。いきなり突き放し、置いて行くのかと恨んだ。
〝口が過ぎるよ、恒二〟
 ――――――兄が自分に手を上げるなど、初めてだった。
 転入する怜を勝手だと、どんなに罵(ののし)った時も、彼は黙ってそれを聞いていただけだったのに。焦げ茶色の、澄んだ目の少女を少しからかっただけで。
(あの女。あの女かよ―――――――兄貴)
 違う、と恒二は思う。違う。そんな感情は認めない。自分はショックなど受けていない。
 悲しんでなどいない。
 自分は怜を卑下(ひげ)している。逃げ出した弱虫、臆病者と嗤(わら)っている筈だ。
「違う…。畜生。兄貴。……あいつは、ただの腰抜けだ。……戻って来て欲しいなんて、誰が思うかよ。思ってねえ。思ってねえ。俺は、絶対、許さねえ!…畜生…畜生…畜生…」
唸(うな)るように言葉を吐き出す恒二を眺めていた美女が、カーマインレッドの唇を動かす。
「―――――――ねえ、あなた。遊びはいつか終わるもの。踏み外しも度を過ぎれば、笑い事ではなくあなたを滅ぼすことになる。周りの人を、悲しませてはいけないわ。…ね?」
 彼女の口振りは優しげでいて、どこまでもクールだった。
 そしてそれだけ告げると、美女は中学生らしき少年を伴い、恒二を置いてあっさり去って行った。

 剣護も一緒だと告げると、祖母からの外泊許可はスムーズに下りた。兄のようにずっと真白を見守って来た、頼もしい孫である剣護に対する祖母たちの信頼は相当なものだ。但し剣護が受験生であることも忘れないように、と釘も刺された。親に連絡を入れた剣護も、同様だったようだ。昼食を外でとったあと、アパートでしばらくテレビを観たりして休憩してから、真白たちは夕飯の材料を調達しに、近所のスーパーへと向かった。
 買い物カートをガラガラ押しながら、何鍋にするか一頻(ひとしき)り三人はてんでに声を上げたが、結局は〝何でもあり鍋〟ということになった。この時点で既に夕飯が、闇鍋に近い物になる気配が濃厚になっていた。
 成り行きで材料費の出資者となった怜に申し訳なく、真白は自分も費用を受け持つ旨を申し出たのだが、その申し出を聞いた怜は真白の前髪をくしゃりとかき上げると、優しげな微笑でそれを流した。代わりと言っては何だが、その直後には怜から剣護に対する物言いたげな視線が向かった。
「わーっかってるよ、半分、出す!出します、あとで!!」
 怜の視線に音を上げた剣護が敗北宣言した。
「良かった。真白、食べたい具材は他に無い?食後のデザートとか、買う?女の子って、そういうの好きでしょ」
 余りに怜が甲斐甲斐しく気を遣ってくれるので、真白は何だか照れてしまう。剣護も普段から気遣ってくれるが、その気遣いはどちらかと言うと母親的なもので、異性に対するそれとはまた趣が違ったのだ。
「次郎兄、甘やかし過ぎだよ」
「そーだぞ、次郎。あんま、こいつを甘やかすな。可愛かったら旅させるんだ」
 ぼそぼそと言う真白の言葉に、剣護も大きく首を縦に振る。
「太郎兄が言うことじゃないな。良いじゃないか、甘やかせてよ。俺だって、妹のいる兄貴らしい気分に浸りたいんだよ。兄馬鹿、させてよ」
 それを聞いた真白は、ふと胸を突く表情を見せたが、やがて微笑むと頷いた。
「じゃあ、チョコレートとおせんべいが食べたいな」
 怜がそれを嬉しそうに聞く。
「甘辛(あまから)だなあ」

 スーパーから出た真白と怜は、にこにこコーポから反対の方向に歩こうとし、剣護はその逆に足を踏み出していた。二人と一人が、怪訝な顔を見合わせあう。
「あれ?お前ら、どこ行くんだよ。今から帰って銭湯だろ?」
「え、だって、その前に、……コンビニに」
 行かなくちゃ、と顔を薄く赤らめて口籠る真白を代弁して、怜が剣護に言う。
「だからね。真白は女の子なんだから、…新しい下着とか必要でしょ。俺の貸す訳に行かないんだし。服は、俺のしか貸してあげられないけど。携帯用のシャンプーやリンスなんかも、あったほうが良いだろう。――――ああ、化粧水はどうする?」
 それにしても、と真白は次兄の気配りの細かさに感心してしまう。
 普通、同年代の男子ではこうはいかない。
(荒太君なら有り得るけど、でも……)
 ここまで周到だと、有り難さと同時に、要らない疑惑まで生じてしまう。
〝…次郎兄、彼女がいたことってある?〟
〝――――あるよ〟
 この綺麗な顔立ちをした次兄は、ひょっとすると自分が考える以上に大人の男性なのではないか。
 そう思うと、真白の顔は我知らず赤くなった。
 怜が、急に見知らぬ男性になった気がする。
 じりじり、と自分から数歩距離を取った真白を、怜が不思議な目で見る。
「…真白?」
 ところがそんな真白の複雑な乙女心の機微(きび)を、吹き飛ばす発言をする輩がいた。
 剣護がポン、と掌を拳で打つ。
「お、成る程な。しろって下着のサイズ、何?」
「え、エ―――――――」
「答える必要無いからね、真白」
 勢いに乗せられ、はずみで答えそうになる真白に、すかさず怜がストップをかける。
「………太郎兄、セクハラにも程があるよ」
 呆れ果てる次兄を視野の外に置いて、剣護は一人考察を始めた。
「〝エ〟、か。それじゃ絞り込めねえな。Fはねーだろうから、AカップかSかMか?ふんふん、まあこれからだよな、真白。市枝ちゃんや舞香さんとまではいかなくても、何とかなるって!ちなみに俺はダイナマイト・バディ大好きだけど、小さくても可愛いと思う!」
二カッと良い笑顔を見せた彼に、果たして悪気があったかどうかは判らない。
しかし結果として真白の華奢な拳は剣護の腹部にめり込み、体格の良い長身がよろめいた。目を白黒させているところを見ると、完全に素の発言だったらしく、それはそれで性質が悪かった。
真白の中で、ごく僅かに芽生えていた怜への警戒心が消え失せる。
「―――――次郎兄、今日は次郎兄と二人でお泊りする。剣護は軒先に吊るそう」
「そうだね。夜風が良い案配(あんばい)に涼しいだろう」
「待て、真白!俺が悪かった。許せっ!安心しろ、多少サイズが小さかろうが健気に生きてる淑女(しゅくじょ)が世間にはたくさん…、」
「剣護の莫迦っっ!女の敵!!ブラジャーに埋もれて死んじゃえっ」
「良く解らんが、最後のはさすがに嫌だ!」
 泣きついて来る妹の頭をよしよしと撫でながら、怜はまだ呻(うめ)いている剣護を置き去りに、コンビニへと向かった。

 一旦帰宅して準備を整えてから出向いた銭湯から帰り、怜の服を着て体操座りする真白の姿は、ひどく見る者の庇護欲を誘った。
 怜はそれ程大柄なほうではないが、それでも彼の服を真白が着ると、小さな子供が背伸びしている印象になる。サイズの大きさのせいで真白の胸元が見えてしまうのを防ぐ目的もあって、怜は浅いボートネックのシャツを貸したのだが、それはそれで、今度は白い肩がはみ出してしまいそうなのが考え物だった。下は、ここまで穿(は)いて来た麻のズボンを続けて穿いている。麻の素材はサラリとして、夏に長時間着用しても、そこまで汗臭さの不快感を感じさせないので重宝だ。
 その格好に怜のパーカーを羽織った風呂上りの真白を、二人の兄が両脇に立ってしっかりガードして家に帰り着いたのだ。
 三人で鍋をつつき始めるころには、夏の長い日も沈み、外の藍色が窓ガラスを透けて見えた。換気扇が回る音と鍋の具がグツグツ煮える音、そして虫の音が耳に聴こえる。湯気の上がる鍋周辺はさすがに暑かった。六畳間同士の間の戸は換気の為に開け放たれ、冷房がパワフルに設定された。キッチンに置かれた小奇麗な食器棚のガラス戸まで、湯気の為にうっすら曇っている。
 遠く、微かに電車の走行音も伝わって来る中で、三膳の箸が鍋の中に思い思いに伸びる。
「お、これうめえ!海老天(えびてん)、入れたの誰だ?」
「私。あー、次郎兄に食べて欲しかったのに…」
 真白の残念がる声に、剣護が「小憎らしい!」と言って彼女の洗い立ての髪をわしゃわしゃとかき回す。すると今度は真白が、カタン、と箸を落とし、鍋から遠ざかった。怜がそんな妹を驚きと心配の目で見る。
「どうしたの、真白?何か変な物でも入ってた?」
「か、蛙(かえる)が泳いでる……っ、お鍋の中、」
「蛙?」
 そんな莫迦な、と思い鍋の中に目を遣ると、確かに、それらしき形をした苔(こけ)のような緑色が浮かんでいる。お玉で掬(すく)い上げてみるとそれは、練り物の類(たぐい)のようだった。
 こんなものを投入するのは一人しかいない。
 果たして緑の目の容疑者は、にやにやと満足げな笑いを浮かべていた。
「一体どこに売ってたんだよ、こんなの…」
「売ってねーよ、作ったの」
 まるで大きな悪戯っ子のように、剣護が胸を張って答える。
「――――作った?」
「こう、この家にあった小麦粉とか水とか、ほうれん草とか色々使って」
 道理で帰って来てから何やらゴソゴソと、ダイニングキッチンを徘徊(はいかい)していた訳だ。
 剣護は成績優秀だが美術と音楽だけは苦手だ。小学生のころ、真白の似顔絵を描いて泣かれてしまったこともある。しかしこの蛙もどきは、やたらと上手く拵(こしら)えていた。料理の腕で芸術音痴(げいじゅつおんち)を補ったというところか。
 怜がはああ、と深い溜息を落とし、上目遣いに兄を睨み上げる。
「……無駄なスキル!」
「どういたしまして~」
 褒め言葉を貰ったように、ニマ―――ッと剣護は笑った。

「でもさー蛙は昔っから、日本では貴重な栄養源だったんだぞー?」
「まだ言ってる…。だからって皆食べてた訳じゃなかっただろ」
「若雪は食ってたじゃないか」
「真白は現代の女の子だよ?」
「ねえそれより、次は冬に牡蠣鍋(かきなべ)しようよ!」
「牡蠣い?豪勢だなあ、しろ」
 三人で川の字になって寝転んだ中、剣護と怜の言い合う声に、真白も加わる。
 ベッドの中は空だ。
 ベッドで眠ることを勧める兄たちに、真白が、三人で並んで寝たいと言い張ったせいだ。
 一枚しかない敷布団は真白の為に供され、その両隣に、剣護と怜が並んだ。タオルケットも同様に真白に譲られ、怜と剣護はそれぞれバスタオルで代用した。暑い中ではそれも苦ではなかった。
「…狭いな」
 剣護が呻くように言う。長い手足が窮屈そうだ。彼は部屋の端に置かれたテレビと、真白の寝る敷布団との間で身を小さくしていた。怜も、剣護程ではないものの、同じく長い手足を、真白と右手にあるベッドの間の狭いスペースに、何とか落ち着かせている状況だ。少しでもスペースを確保する為、折り畳まれたテーブルは、ダイニングキッチンのほうに置いてある。密集することによる暑苦しさを和らげるべく、空調はまだ緩く働いていた。
「ごめんね。私が、兄様たちと両手に星、したかったの」
 謝る真白の言い方が面白くて、怜が笑う。
「まあなー。こんな良い男二人を捕まえてんだからなー。お前は果報者だぞ、真白」
「自分で言ってれば世話ないね、太郎兄。―――――俺は可愛い妹の隣に寝るってことで、実は結構、ドキドキしてるよ。太郎兄は子供時分に慣れてるんだろうけど」
 真白が右隣にいる怜に顔を向ける。はずみで左にふわりと舞い上がった髪から、シャンプーの香りが空気中に漂った。いつもの自室には無い甘い香りが、怜の鼻腔(びこう)をくすぐる。
「本当?」
「うん」
「…可愛い?妹?」
「うん」
 真白の顔がくしゃっと子供のような笑顔になる。夜が深まるにつれて、真白には子供帰りしていく傾向が見られた。一人で眠るのが通常の夜を、二人の兄と共に過ごしているという非日常的な環境における喜びが、彼女を常になくはしゃがせていた。
 えへへ、と笑うとゴロリン、と芋虫のように右側に一回転して、怜との間を詰めて彼に飛びつく。怜の切れ長の瞳が丸くなる。更に、仔猫のように首筋に焦げ茶色の頭を摺り寄せられ、身体が固まった。真白は子供そのものの、満面の笑顔だ。そこにいるのは女子高生ではなく、幼稚園児だった。
「次郎兄、大好き」
「あ、うん、俺も―――――いや、だからドキドキしてるって言う俺の話を」
 言いながら、真白の肩からずり下がりそうなボートネックの襟(えり)を引っ張り上げる。
 わざとらしい咳払(せきばら)いが二回程、大きく響く。真白が寝ていた敷布団の、左側からだ。
「くっつくのはダメだ、うん、そおゆうのは良くないと、お兄ちゃんは思うな!節度を守るってのは、人として大事だよなあ!」
 真白が心底解らない、という声を上げる。
「どうして?兄妹だよ。剣護だって、昨日も一緒にくっついて寝たじゃない」
 途端にすぐ傍にあった怜の身体から冷気が立ち上り、真白は驚く。
 剣護はすぐさま、やべえ、と思った。
「……そう、そうなんだ。へえ。太郎兄。節度を守れる人だと、信用してたんだけどな。真白、もっとこっちにおいで」
「うん」
「待て待て待て、理屈の筋が通ってねえっ!しろ、こっちに来い!」
「やだ」
 きいい、とヒステリックな叫びを剣護が上げる。バフッと八つ当たりを受けたバスタオルが宙に舞い上がる。
「昨日はあんなに可愛らしく俺にくっついて来た癖にっ。お前は一体、俺と次郎のどっちが好きなの!!」
「次郎兄」
「魔性の妹めえええ」
 お墨付(すみつ)きを貰った、とばかりに真白を抱き込んだ怜は、あはは、と声を上げて笑った。
 剣護が真白と自分を泊めろ、と言い張った思惑が今なら解った。
 妹がいる。
 兄がいる。
 自然に、自分の口から上がる笑い声が信じられない。
 幸福で息が苦しい。このまま時間が止まれば良いのに。

       三

 荒(すさ)んだ風の吹く、そこは地の果て。天の果て。
 この世の摂理を司る摂理の壁が、真新しくも聳(そび)え立つ断崖絶壁。
 新たに壁を守る役目を負うた、老翁(ろうおう)たちの慄(おのの)きが聴こえる。
「赤色(せきしょく)?莫迦な」
「摂理の壁が、なにゆえ今更、赤色を示す」
「吹雪を終えて、初のことでは」
「魍魎も、あらかた先が見えたところであろう」
「さればなにゆえに」
「よもや」
「まさか」
「いやまさか」
「…理の姫の、御身に何か?」
「―――――――有り得ぬ」
「左様、彼の方は、永遠なれば」
「したが既に、花守に落伍者(らくごしゃ)が出たと言うではないか」
「いやしかし、姫は永久(とこしえ)の花なれば」
「左様」
「永久の花なれば」

 早朝の公園は朝日に照らされ、淡いレモン色に染まっている。
 柔柔(やわやわ)として平和な朝が、始まろうとしていた。
 水臣(みずおみ)の座るベンチのペンキは、まだ塗られてそう日が経っていないらしい。真新しい若草の色だ。その色が連想させる一人の花守を思い出し、水臣は緩く笑んだ。
 花守の中でも、とりわけ理の姫を明(あ)けっ広(ぴろ)げに慕う彼女は、これまでに何度手厳しい忠告を自分に重ねたことか。時には戦闘的な態度さえ見せて。
〝あなた、解ってらっしゃるかしら?自分が姫様を楯(たて)に安全を得ていることを〟
 そう言われた時はさすがに、参ったな、とも、成る程な、とも思わせられた。
(木臣(もくおみ)。お前は決して私を許すまい)
 それでも陽の光を受けた水臣の顔は、ひどく穏やかだった。
 足元の小花が目に入る。
 名も知らない、黄色い小花を見ても、理の姫の顔が浮かぶのは我ながら不思議だった。
(あの方は気高き花。諸人(もろびと)の手の届かぬところに咲く、愛おしき我が花)
 我が花。
〝あなたは自惚(うぬぼ)れが過ぎる〟
 理の姫ゆえにと自らを縛り、言の葉にはそう上らせて。
(…姫様は嘘が下手であらせられる)
 自惚れでも何でもない。理の姫は自分を想っている。
〝私はあなたの手にかかって死にたいと思う〟
 何よりその言葉が、彼女の思いの丈を物語っているではないか。
 苛烈(かれつ)な愛情の吐露(とろ)は、水臣を歓喜に震わせた。
 けれど、まだ足りなかった。
 いつも考えていた。
 理の姫が真実、自分のものになれば。
 涙も笑顔も怒りも全て、この手に得られるのならば。
(私は、我というものを持って初めて、満たされることを知るだろう……)
 木臣の朗らかさも、明臣の優しさも、金臣の凛々しさも、黒臣の愚直さも。
 理の姫を彩る花びらたる彼らを、水臣は嫌いではなかった。
 ただ、自分には不要な存在と思い、理の姫が心許す彼らが時に疎ましくもあった。
 それが、ずっと変わらない自分の在り様だった―――――――。
「これはまた、元花守どのがこんな場所で何をしておいでかな?……おや、もしや私は、待ち伏せされたかな?」
 コツ、コツ、コツ、と、ゆっくり近づいてくる足音は、水臣の座るベンチの近く、噴水脇で止まる。
 朝の光を浴びても変わらないチャコールグレーの色を、水臣は皮肉に思う。
 ギレンは口元に笑みを刷(は)き、両ポケットに手を入れてゆったりと立っていた。
 そのまま、水臣にごく軽く問う。
「一戦、交えるかね?」
 煙草の火を貰えるか、とでも言うような、気安い口調だった。
 水臣が立ち上がり、口の端を釣り上げる。
「無論――――――その為に来た」
 そう不敵に言うと、空に手をかざした。

 平原に腰を下ろし、神界の風に吹かれる理の姫の身を、稲妻が走るような衝撃が駆け抜けた。彼女が見たものは、あってはならない先の映像だった。
「姫様?いかがされました」
 金臣(かなおみ)が問いかける。身を屈(かが)めての問いの為に、黄金の長い髪は地を這(は)っている。緑と金の色が、緩やかに交わる。
 その色合いの妙も何も、今は映すことのない理の姫の薄青い目は大きく見開かれ、柳眉(りゅうび)は険しく顰(しか)められている。顔色は白を通り越して蒼白だ。
 何事、と金臣は思う。つい先程まで、ゆったりと落ち着いていたというのに。
 真白たちの協力のもと、魍魎の討滅もようやく終息を迎えそうだと、二人で語らっていたところだった。穏やかな時が戻るのだと、笑みながら。真白には、何か恩を返さなければならないと話していた。水臣が去って以来、ずっと塞(ふさ)いでいた理の姫の久しぶりに寛(くつろ)いだ表情に、金臣も安堵し喜んでいた。
 だが安堵も喜びも、理の姫の一言の前に儚く沈む。
「水臣…」
 淡い色の唇から、その名前がこぼれ落ちる。
 痛ましい思いで、金臣はそれを聞く。やはり、どうあっても忘れられるものではないのだ。忌まわしくも慕わしき、金臣の同胞。
 水臣。
 その名前こそが、金臣の主、理の姫の全て。
 人であれば、誰に憚(はばか)ることなく命とも言えたものだろう。
(お労(いたわ)しい…)
 突如、ガシッと理の姫に両肩を掴まれ驚く。
「姫様?」
「金臣、どうすれば良い…。水臣が、戦っている」
「…魍魎とでございますか?」
 それが、理の姫が我を失くす程のことだろうか。
 肩を掴む細い指が震えていることに、金臣はますます異様の感を覚える。
「姫様、どうかこの金臣にも解るよう、教えてくださいませ。何を…予見あそばされたのですか?」
 しかし理の姫は、金臣を見ようともしない。
 今は両手で頭を挟み、全身を震わせている。
「水臣。水臣が。どうしよう、金臣。水臣が――――――」
「姫様!」
 理の姫の顔からは、表情が抜け落ちていた。
「――――――散るつもりだ」

 水臣の清らな剣は、数度の打ち合いの間、ギレンの剣を幾度も激しく刃毀(はこぼ)れさせた。
 対してギレンもまた、水臣の剣に数回に及んでひびを生じさせていた。
 しかしギレンの剣は刃毀れの度に土が欠けたところを覆い、水臣の剣はひびが生じるたびに水がこぼれ出て、互いの剣は修復を繰り返し変わらない姿を保っていた。
 上段から振り下ろされた透明なる水の剣は、土の剣に正面から受け止められる。
 ギレンが水の刃(やいば)を弾き飛ばし、水臣が後方に退いて構えた。
「無様(ぶざま)だな、魍魎」
 水臣の揶揄(やゆ)する言葉に、ギレンはふん、と息を吐いた。
 彼の左腕は根元から綺麗に切り落とされていた。
 滴(したた)り落ちる、夥(おびただ)しい赤を見て、水臣が首を傾げる。
「ほう…まるで徒人(ただびと)のような色を出す。いっぱしに」
 水臣の剣により隻腕(せきわん)となったギレンは、戦い半ばから、水臣の攻撃を右手一本で凌(しの)いでいたのだ。水臣もまた、無傷ではなかった。腕を失ったギレン程ではないにせよ、常には水のように透明で清らかな印象を与える外観が、無数の傷により荒んだ赤に染まっている。一つに結ばれていた長い髪も今は解け、黒にも近い深い青が風に幅広く靡(なび)いていた。
その様が、無残にも美しくギレンの目に映る。
ギレンが堪(こら)え切れなくなったように哄笑(こうしょう)した。
「あっはっはっは。良いねえ。君のような者が、神の端くれというのだからな。私はむしろ嬉しくなってしまうよ。……つくづく、こちら側に来てもらえなかったのが残念だ」
 荒い息の中から、それでもどこか楽しげにギレンは声を絞り出す。
 ふと、その愉快そうな笑顔が真顔になる。
「―――…それにしても、君。これはどうしたことだろうね?私の力を圧して余りある君だが、どうにも私は、君が私に手加減しているように思えてならないのだよ。そんな可愛げなどあるまいに」
 水臣はそれには答えず薄く笑うと、素早くギレンとの間合いを詰めた。
 キィンッと再び刃の打ち合う音が響く。
(――――姫様。あなたは、私との関わりに、どのような先をお望みですか。…お解りでございましょう。今を保つことは、最早不可能。ゆえに私は、動くしかなかったのです)
 数度、水の剣がギレンの髪をかすって散らす。銀縁の眼鏡は戦いの初めに、既にどこかに飛ばされていた。細めた双眼で、ギレンが水臣を睨(ね)めつける。自他を嘲笑(あざわら)うように口元を歪めた。
「なぶるか、花守」
「いや?待っているだけだ」
 何を、とギレンが問い返すまでもなく、それはそこに来ていた。

「水臣―――――――!!」

 ああ、私の光(ひかり)が来た。この世で最も美しい光(ひかり)が。
 私を想って泣く為に。
 私を想って泣く為に。
 水臣は笑った。勝利者の笑みで。
 それから、間近にあったギレンの持つ鉄剣を素手で掴むと、自らの胸に突き立てた。
 
 一瞬が、まるで永遠のように過ぎた。
 ギレンは信じ難い表情で剣を引き抜いた。
 ズル…、という鈍い音がする。
 常軌(じょうき)を逸(いっ)したとしか思えない水臣の行動にギレンは目を大きく見開き、眉間には深い皺を刻んでいる。
 そして彼は悟った。
 初めから、水臣の狙いはこれにあったのだと。
 単独による魍魎狩りも、全てはここに行き着く為に。
(狂気の沙汰だ――――――)
「…恋情ゆえに私を利用したか!」
哀れみとも侮蔑(ぶべつ)ともつかない表情をギレンが浮かべる。
顔を険しく強張らせた金臣の琥珀色の刃が、空を切る音を響かせる。
それを自らへの威嚇(いかく)と察したギレンは退却の構えを見せ、金臣の薄青い瞳と睨み合うこと数秒、身を引き摺るようにしてその場を去った。激しい赤で地面を染め上げながら。
金臣にそれを追う余裕は無かった。
 
残されたのは、横たわった水臣。
 それから茫然と立つ理の姫、金臣の二人だった。
 早朝の公園には、この世ならぬ空気が満ちていた。
 そこだけが結界により、他より切り取られていたせいでもある。
 水臣が待ち望んだ涙が、理の姫の双眸(そうぼう)より溢れ、流れ落ちた。
 水臣が待ち望んだ嘆きが、理の姫の口から、悲鳴となって迸(ほとばし)っていた。
「いや、いや、いや、水臣、水臣、水臣」
 名を呼ばれる度、水臣の胸がこれまでにない至福に満ちてゆく。
 自分の名だけを理の姫の唇が紡ぐ、快感と悦楽(えつらく)。――――――喜び。
「姫様」
 万感の思いを込めて、呼びかける。
「水臣、答えなさい、水臣!なぜ、なぜこんな、莫迦なことをっなぜ!!」
「…はぐれた花守が、魍魎と戦い敗れました。御老翁たちへの建前(たてまえ)としては、十分かと」
 理の姫の薄青い瞳から、大粒の涙がバラバラと幾粒も落ち、水臣の顔を打つ。
〝姫様は、麗しき花の容(かんばせ)〟
 歌うように、自分のことのように自慢げに木臣が口にしていた言葉。
(全く……その通りだな)
 涙を落とす、嘆きの表情さえその美しさを損なわず、彩る。
(私の花、私の光)
 その全てが最初から、自分のものであったなら。
「そのようなことは訊いていない!なぜっ………………、」
 それが限界だった。理の姫の身体から、力が抜ける。
 理の姫は水臣の身に縋りついて泣いた。
「――――――水臣…、水臣…、…私を、独りにしないで…独りにしないで…頼む」
 至高の存在の哀願(あいがん)に、水臣は酔いしれる。
 今、理の姫が希(こいねが)う相手は、自分ただ一人。他の誰でもない。
 がふり、と咳(せき)をして、水臣は理の姫の濡れた頬に触れた。
 白皙(はくせき)の頬に赤が移る。
 手に入れた、と思った。同時に、身体の傷とは別に、胸に鋭い痛みが走った。予期せぬ痛みに、理の姫と同じ薄青い瞳を見開く。
 莫迦な、と。
(莫迦な…。この、私が。今更)
 理の姫の嘆きが辛いだなどと。
 この結末により、理の姫は永劫(えいごう)、自分を忘れず、笑顔を忘れ、嘆き続ける。
 それこそが永遠。理の姫の存在そのものが、自分のものになる。
 これで全てを手に入れたと思ったのに。
(こんな落とし穴に、この、私が?)

 理の姫が涙を流しながら水臣に口づける。深く、長く。
 水臣は目を閉じてそれを受けた。互いに、互いの唇を貪(むさぼ)るように味わう。
(姫様…。―――姫様――――)
 涙と血が混ざり合う。
 唇を離した理の姫は、涙と血に濡れた顔のままただ一言、水臣に請うた。
「共に逝かせて」
 金臣が血相を変えた。
「なりません、姫様っ」
 理の姫が金臣を見る。金臣は、それだけで全てを封じられた。
 神力ではなく、嘆く瞳が金臣の言葉も動きも奪った。
「落日の、」
 花の唇が動く。
「………落日の扉は、今ここに開かれよ。我は其(そ)をおとなう客(まろうど)なり」
 歌を詠むような玲瓏(れいろう)たる声に、どこか遠くで、重い闇が開く。
 雅な闇。漆黒の中の漆黒が守り抱く尊い宝が、姫の声に招かれる。
 理の姫のたおやかな手に現れる、金色の剣。
 柄に埋め込まれた五色(ごしき)の宝玉は花守を表わす。
 金臣は何も出来ずに、その光景を、唇を震わせて見ていた。
 今から、彼女にとって最も敬愛すべき主の命が失われようというのに、腕の一本も動かすことが出来ない。
(お待ちください、姫様)
〝残照剣〟または〝照る日〟とも呼ばれる神殺しの宝剣は、美しかった。
(我らを置いて逝かれるのですか。我ら花守の皆を)
 木臣を。黒臣(くろおみ)を。明臣(あきおみ)を。自分を。
 水臣ただ一人を追ってゆく、その為だけに。
〝次郎兄を助けてくれて、ありがとう〟
 柔らかく優しい声で、白い少女は自分にそう礼を言った。
 あの時、理の姫が真白を姉と慕う気持ちが、解った気がしたのだ。
 その真白をも置いて。
(姉君様とて、雪の御方様とて嘆かれまする、必ずや)
 美しい残照剣の柄を両手で掴み、理の姫は再び、水臣に請う。
 微笑みながら。
 涙と血に彩られた凄絶(せいぜつ)な微笑みは、それでもこの上なく清浄に美しかった。
「―――――――共に」
 金臣が、首を激しく横に振る。何度も何度も。
「姫様――――――――っ!!」
(それは余りにむごうございます)
 水臣の視界に、金臣の悲嘆する様は入っていなかった。
 水臣は残り少ない時間の全て、理の姫の何ものをも見逃すまいと、凝視(ぎょうし)する為に費やそうとしていた。
 これで双方が死ねば、恐らく摂理の壁の定めのもと、二人は人の世に転生することになる。
 真実、触れ合うことが可能な身となるのだ。
 それは水臣にとって恐ろしいような僥倖(ぎょうこう)だった。
(事態はいつも…私の思わぬ方向に動く。これが神というのだから、笑えてしまう。だが。だが……)
地に落ちた種はやがて芽吹き、緑なす大地と広がるだろう。その大地に咲く花はやがて、一筋の細い水の流れと出逢うだろう。
(出逢うだろう――――――きっと)
「姫様。次にお会いする時は、私のものになってくださいますか?この、哀れな魂に、永遠をお与えくださいますか」
 理の姫は澄んだ瞳で最も愛した男を見た。
「次も何もない。私は、初めからあなたのものだ」
 残照剣が光を弾いて、まるで誇らしげに輝く。
 金臣が悲鳴を上げる。
 いつでも凛として立つ金臣の悲鳴は、空気を裂くようだった。
 どこからかふわりと風が吹く。長閑(のどか)に、和やかに。
 水を追い、永久の花が散った。

       四

 金曜日の午前中、チャイムの音に玄関のドアを開けた公立琵山高校(こうりつびざんこうこう)に通う和久井琴美(わくいことみ)は、そこに同級生の渡辺定行(わたなべさだゆき)の姿を見た。普段着でいても、やはり彼の真っ赤な髪は目立つ。彼とは今年の梅雨のころから、友達以上、恋人未満といった微妙な関係が続いている。
 様々な事情から、当初は彼の存在を不気味に思っていた琴美も、次第に、彼から向けられる素直な好意に気持ちがほぐれていった。夏休みには一度だけ、デートらしきものもした。心配性の父親が、どうやら娘に彼氏らしき存在が出来たと勘付いて、紹介しろと最近うるさい。だが、定行とはまだそこまではっきりした仲ではないし、彼の真っ赤な髪を保守的な父が見たらどう反応するかなど、簡単に想像がついてしまうので琴美に紹介する気は全く無かった。大体今時、わざわざ恋人を父親に紹介するなど、流行らないと琴美は思う。結婚を前提にした大人の話であればともかくだ。
 そうした思考はさておき、定行が前触れも無く家に来ることなど初めてで、また、住所を教えた覚えも無いので琴美は面食らっていた。
「…何かあったの?渡辺君」
 どうやって住所を知ったのかなどという疑問を脇に置いて思わずそう訊いてしまったのは、彼がいつになく悲壮な雰囲気を漂わせていたからだ。
 彼は琴美の問いに答えず、俯いた。ドキリとする。
(泣いてるの…?)
 小学生の弟が、ひょいと顔を出す。夏休みを満喫している腕白盛(わんぱくざか)りが家にいると、喧(やかま)しくて仕方がない。好奇心の塊のような彼が、定行の真っ赤な髪に興味を示さない筈がなかった。
「お、ねーちゃん。彼氏か、彼氏か?すっげー髪!不良?」
「うるっさいっ!あっち行って宿題でもしなさい。今から、ねえちゃんが良いって言うまで、ねえちゃんの部屋に近付いたら怒るからね!――――――ごめん、渡辺君。とにかく、上がって?」
「…お邪魔します」
 定行は泣いてはいなかったが、今にも泣きそうな目で一言、告げた。唇だけが、いつものように弧を描いていた。

「え、と、狭い部屋でごめんね?」
 オレンジジュースを運んで来た琴美が詫びると、定行がくすりと笑った。
「勝手に押しかけたのは、僕のほうだよ。そんなことで謝らないでよ」
 そのまま、室内に沈黙が満ちる。
 落ち着かない気持ちの琴美は、部屋の隅に置かれた、大きな犬のぬいぐるみを抱え込みたい気分だったが、それを定行に子供じみていると思われたら、と思うと出来なかった。
 ああ、部屋の掃除をここ数日サボっていた、とそんなことも考える。定行が潔癖症の綺麗好きなどでなければ良いと思うが、今はそれどころではなさそうだった。
 琴美の知る定行は朗らかで明るく、琴美はいつも彼に引っ張り回されていた。
 これ程までに沈み込んだ定行を見るのは、初めてのことだった。
「…今から言うのは、ただの僕の、ちょっととち狂った作り話だと思って聴いて欲しいんだけど。ついて来られなかったら、遠慮なくドン引きしてよ」
 やっと話を切り出した定行に、琴美は力強く頷く。
「うん。渡辺君のそれは、もう慣れてるもの」
 彼は時折、自分のことを、ずっと探していた生まれ変わり、などという電波系な発言をして困らせるのだ。しかもそれは、応仁の乱のころに遡る話だと言うから呆れる。
 そしたらあなたは何者なのだ、と問うと、花守と言う神の眷属だと答えるので、もうそれ以上、何も言う気を無くしてしまった。その突拍子も無い発言も琴美に対してしかなされないので、学校ではごく普通の、明るい人気者で通っているのだ。
「僕たちのお仕えしていた姫様が、亡くなられた。恋人の花守に死なれることに耐え切れず、自ら命を絶たれたんだ………。世を照らす光のような方だった。あのお方は永遠だと、ずっと変わらずにおられるのだと、そう、信じていたのに。僕の…」
 そこで定行は深く息を吸った。
 まったりとした風に、レースのカーテンが揺れる。白いレースのカーテン。
 光が差す。光――――――――。
(金臣。木臣。黒臣。……一人だけ、残った僕を責めるかい?)
 だが明臣は、目の前で心配そうに自分を見つめる少女と、離れることが出来なかった。
〝明臣はそれで良いんだ。…すまない〟
 金臣は最期に、自分にそう言い残してくれた。独りで花守の責を負うことになる明臣に、詫びた。彼女の流れる黄金の髪も、もう見ることは叶わなくなってしまった。
 金と若草と黒は、明臣の見守る目の前で散った。
「僕の仲間の花守も、…皆、殉死(じゅんし)した。姫様と生まれ変わりを同じくする為に。僕は――――――、僕だけは、皆と逝けなかった」
 端整な顔に流れる涙から、琴美は目が離せなかった。
(殉、死。…殉死って)
 主君の死を追って、自殺することだ。
 喉まで出かかった、時代錯誤だという言葉が、定行の涙の前に引っ込む。
 作り話にしろ、定行が死ぬかもしれなかった、という事実に、恐れを抱く自分を琴美は自覚した。―――――彼がいなくなることを、怖いと、自分は思っているのだ。
 泣いている定行を慰めたいと思い、おずおずと手を伸ばすと、その赤い、綺麗な髪に触れた。柔らかくて、温かい。生きている。
「お蔭で僕は、今では唯一残った花守だ。…君がいたからだよ、和久井さん」
 彼の目が、射るように琴美を見る。その目が薄い青だと気付いたのはいつだったか。
 赤い髪に触れる手が戸惑いに止まる。
「え――――…と、どうして?」
 明臣が嗤(わら)った。見たことのない笑いに、琴美は少し怯える。
「五百年だよ?君のこと、五百年探してやっと逢えたっていうのに、ここで僕が下手に転生の輪に入ったら、すれ違って会えなくなるかもしれないじゃないか。もうこれ以上は、僕には耐えられなかった。だから―――――、だから、和久井さんには僕のこと、慰める義務があるんだ……」
 声には力が無く、定行が本気で言っている訳ではないと琴美にも解った。だが、琴美は自分の意思で、定行のことを出来る限り慰めてあげたいと思った。
(私のせいで、置いてけぼりにされちゃったの?…私の為に、残ってくれたの?)
 定行の話は、今までで一番、真に迫って琴美の耳に響いた。
「勝彦ー!!」
 大声で名を呼ばわると、ドアの向こうで聞き耳を立てていた弟がドタバタと慌てる物音がした。部屋から出てその首根っこを掴むと、財布から取り出した五百円硬貨を手に握らせる。
「お小遣(こづか)いあげる。だからあっ君でも誘って、しばらくお外に行ってなさい!解った?」
 勝彦は握らされた五百円玉と姉の顔を見比べた。上目遣いの黒い瞳が疑惑に光る。
「…いーけどさ。ねえちゃん、あの赤いにいちゃんとエロいことするんじゃねーだろな。テレビドラマでさ、こーやって母親が子供を外に出してさ、愛人連れ込むとことかやってたぜ」
 何てことを言うのだ、と琴美は怒り、呆れた。今度から弟にテレビのリモコンは触れさせまいと、固く決意する。
「莫迦っ。あんた、テレビの観過ぎよ!!信じらんない」
「いで!!」
 頭をさすりながら外に出かける弟の後ろ姿を見送り、琴美はふう、と息を吐いた。
 そして、そのままドアを背に、狭い玄関の三和土(たたき)にズルズルと座り込んで泣いた。
 ヒヤリとした三和土の冷たさに、なぜだか無性に泣けてしまった。
(――――何でだろ。渡辺君が泣くと、私まで悲しいなんて)
 思っていた以上に、自分は彼のことが好きなんだろうか。
 定行の嘆きをうつされてしまった、と思いながら、琴美はしばらく部屋に戻ることが出来なかった。

「あ、ごめんね、ほったらかしにして。ちょっと、お手洗いとか行ってて」
「…和久井さん、目が赤いよ」
 時間を置いてやっと部屋に戻れた琴美は、定行に指摘され、赤面した。
「そう?」
 素知らぬ振りを通す。
「――――ねえ。私、渡辺君の為に何が出来る?」
 定行が目を見開く。
「…直球だね。普通、引くよ?あんな話。だいぶ気違いじみたこと、言ったと思うんだけど」
「茶化さないで教えて。出来ることはするから」
 琴美の声は柔らかかった。
(――――――富)
 主君も同胞も失った自分に唯一、残った存在。
 このタイミングで彼女と再会出来ていたことは、運命の皮肉だ。
「じゃあ、お言葉に甘えて。二つ、お願いしたいんだけど」
「うん」
「情けない話、僕はこれから結構泣くと思うけど、その間、胸を貸してもらっても良い?」
「い、良いよ」
 こんなことなら、先日買った新しいキャミソールでも着ていれば良かった、と琴美は後悔していた。
(せっかく奮発(ふんぱつ)した、シルクのキャミだったのに!)
 一つ目がこれだ。二つ目は何だろう、と琴美は自分で言い出しておきながら恐々と思う。二つ目は、簡単なようでいて、中々の難題だった。
「あと、僕のこと、定行って名前で呼んで欲しいんだ」
「が、…学校でも?」
「うん。いつでも」
 ただでさえ、半ばカップルのような目で見られている自分たちだ。定行をファーストネームで呼べば、それが確実視されることになるだろう。
(渡辺君は、それが良いのかな…)
 それだけではない気がした。何か、他に理由があるように琴美には思えた。
 ふっと意識が浮遊(ふゆう)する感覚に陥る。
(―――――だってあのころも、定行様と呼んでいたもの)
 そう考え、ちょっと待て、と自分の思考を停止させる。
 またこれだ。いけない。
 定行といると、時々、彼の妄想癖(もうそうへき)に引き摺られて、自分まで妙なことを考えてしまう。それを改善する為に二人でカウンセリングにまで通っているというのに、それが全く功を奏していない。
 けれど、と琴美は思った。結局、自分は彼が好きなのだ。それで打ちひしがれている姿を見ると、甘やかしてあげたくなってしまう。優しくしてやりたくなる。琴美は開き直った。
「良いよ、…定行君。じゃあ、私のことも、琴美って呼んで?」
 琴美が微笑んでそう言うと、定行は一瞬、目を丸くし、それから泣き笑いのような表情を浮かべた。
「良いの?」
「うん。今、解った。私、定行君にそう呼んで欲しいんだ」
その言葉を噛み締めるように目を閉じた定行が、半身を傾けてゆっくり琴美の腕の中に頭を預けて来る。琴美は両腕を広げ、彼を包み込んだ。ポリエステルの素材など、この際、問題ではない。音高く鳴る心臓の響きが、定行に聴こえてしまうであろうことが恥ずかしかった。
 燃えるように真っ赤な髪が、琴美の視界を覆う。
 その赤い色を愛おしいと、琴美は思った。

 
真白が泣いていた。
 部屋の隅で淡い紫のクッションを抱いて、声も無く肩を震わせている。
(真白さん…)
 部屋の戸を半ばまで開けた荒太は、入口に立ち尽くした。
 理の姫、並びに明臣を除いた花守散る、の報をもたらされた荒太は、剣護より真白の傍にいてやってくれとの要請も受け、門倉家に来た。二人の祖母は家を空けている。
 今でもまだ信じられない思いだった。
 彼ら神々は、永遠だと思い込んでいたのだ。例え明臣のように人に似た懊悩(おうのう)を抱えようと、輝かしく在り続ける不変の存在なのだと。何せ嵐だった時から、戦国の世から知っていた相手だ。
 ことの顛末(てんまつ)は、明臣から真白の陣営に属する者全員に知らされた。いつも陽気で朗らかな赤い髪の花守が、今回ばかりは沈鬱(ちんうつ)な面持ちで、何か罰を受けている者であるかのように、語って聞かせた。最後には、助力を受けながらこのような事態になって申し訳ない、だが主である理の姫を許してやって欲しいと、謝罪に嘆願を重ねた。どこまでも神妙な態度だった。
 話を聴いて荒太が一番に思ったのは、水臣のどうしようもない愚かさだった。
 なぜ、好きな女を死なせるような真似をするのか、と。
 どんなに生かしたくても、生かせない命もあるのだ。
 前生より好かない相手ではあったが、まさかこれ程の莫迦を仕出かすとは思わなかった。
 そこには嘗ての自分を見るような思いも、あったかもしれない。
(解ってる――――。あいつは俺に似てた。だから怒りも、ここまで募る)
 理の姫も無責任だ、と思った。
 真白をこの戦いに巻き込んだのは、そもそもは彼女なのだ。その戦いの行方も見届けずに自死するなど、真白の存在を何だと思っているのだ。
〝大丈夫だよ、光(こう)。私もいるから〟
 真白がどんな思いでそう言ったのか、理の姫には解っていなかったというのか。
(真白さんが可哀そうだ…)
 何が姉だ、何が妹だ。
 真白は結局、捨てられたのだ。
 理の姫は、真白が差し伸べた手を踏みにじる行為をしたのだ。
(許せない)
 荒太は拳を強く握ると、室内に足を踏み入れ戸を閉めた。
「真白さん」
 呼びかけると、真白の肩が大きく揺れて、白い面が荒太に向いた。幾粒もの雫が伝う、白い面が。クッションが手からポロ、と落ちる。
 荒太はそれを見ると堪(たま)らなくなり、大股で真白に近付くと細い肩を抱いた。
 真白の腕が、荒太の首に縋りつく。
「――――荒太君。荒太君」
「泣くなよ。―――――あんな奴らの為になんか」
 すると真白が勢い良く顔を上げ、ふるふると横に振った。
「光は、私を捨てたんじゃない。怒らないであげて」
 荒太の頭に、カッと血が上った。
「捨てたじゃないかっ!現に真白さんは泣いてる!理の姫は、恩知らずだ。…俺は許さない。こんなことになるんだったら、真白さんに相談された時、何が何でも反対すれば良かった。だって真白さんは、参戦を決めてからたくさん泣いた。何度も何度も、泣いたじゃないか!!苦しんで。自分を責めて、追い詰めて。俺はそんなの、見たくなかったんだっ」
 ただひたすら真白の意思だからと思い、尊重した。
(―――――しなければ良かった。無理矢理にでも守りの中に閉じ込めて。懇願してでも、真白さんをずっと放さずに、引き留めてしまえば良かった)
 真白をこれ以上追い詰めたくないと思うのに、荒太の口は止まらなかった。
 それでも真白は、違うと首を横に振る。動きに合わせて、涙が散って光った。
「私は後悔してない!光は、光は、水臣のことが好きだったの。だけど理の姫だから、自分の想いをずっと堪(こら)えてた。私、解ってた…。荒太君、知ってる?神様ってね、祈ることが出来ないの。祈る対象を、最初から奪われてるから。それって、すごく辛いんだよ。世界で独りっきりの気持ちになるの。―――――――光はずっとそこに佇んで、ただ水臣を想うしかなかった。…目の前で散る水臣を追った彼女を責めたくても、私にはその言葉が見つからない」
 荒太は、言い募る腕の中の真白が、どうにも腹立たしくて、愛しかった。
 何に対して、というものでもなく、無性に悔しくもあった。
「―――――どうして許せるんだ?」
 傷ついていない筈などないのに。
「それはね、荒太君」
 荒太の問いに、真白が涙を抑えながら笑顔らしきものを作ろうとする。成功しているとはとても言い難い。だが、瞳に宿る色はどこまでも真っ直ぐだ。
許せる理由は、簡潔だった。
「光が私と同じだから。きっとあなたを失えば、私も同じ道をゆく。…誰を嘆かせても」
 真白には出来ない。
 荒太は一瞬でそう判断した。
 彼女には捨てられないものが多過ぎる。それは剣護であり、怜であり、市枝であり、家族だったりする。親しい者の誰一人、欠かすことが出来ない。誰かが泣けば、その泣き声に振り向かずにはいられない。それは真白の情の濃さであり深さだった。比較して理の姫の天秤(てんびん)は、余りに水臣に傾き過ぎていた。他の花守の存在も、姉である真白の存在も、彼女が死を選ぶ抑止力にはならなかった。
しかし真白の本心から出た言葉は、思わず言葉を失うくらいに嬉しかった。
 本来であればここで彼女を咎(とが)め、諌めるべきだと解っていても、どうしようもなく、後ろめたい喜びに心が躍(おど)った。真白の耳に、確かに響くように問いかける。
「……俺がとても、とても大事?真白さん」
「当たり前のこと、訊かないで。荒太君、いつもそう。あなたがいなくなることに耐えられないって、あんなにはっきり言ったのに。私、言ったのに。荒太君、ちっとも聴いてくれてない!ひどいよ…。光の話を聞いて、荒太君に、水臣みたいに死なれたらどうしようって、私がどんなに怖がったか少しも知らないでっ」
 また真白を泣かせてしまった。
 後悔した荒太は、全面降伏した。
「ごめん。ごめんなさい。…俺が悪かったです。ごめん」
〝真白様はね、荒太様のことをそれはお好きですよ〟
 兵庫の言葉を、慰め混じりのものと聞いていたのだが。
(真白さん、俺のこと、ものすごく好きだ。何だ。何だ。―――――俺、幸せだ)
 若雪が、嵐の求婚を受け容れてくれた時の幸福感を思い出す。
 絶対に、真白に理の姫と同じ道は歩ませまいと心に誓う。
(俺は水臣みたいな望み方はしない。真白さんが隣にいてくれるだけで、それで良いんだ)
 荒太の腕の中で、まだしゃくり上げながら、それでも真白は少しずつ落ち着きを取り戻していった。荒太はそれを見守り、ずっと真白の背中を緩くさすっていた。
 しばらく時が経ち、真白は、今では細い首を俯かせ、荒太の胸に大人しく身を預けている。信頼されていることへの充足を感じる。
「……真白さん。何か俺に、出来ることはない?して欲しいこと、ない?」
 何でも良いから、彼女の慰めになることをしてやりたいと思った。
 真白は顔を上げ、涙の残る、子供のように澄んだ瞳で少し考える風だった。
「…何でも良いの?」
「良いよ」
 荒太は笑って答える。自分でも優しげな笑みだと解る。作ったような、安っぽい笑いではなく。
「―――――あの、歌を」
「歌?」
「うん、お願い。あの歌を、」
 歌って、と突然に請われ、訊き返してから思い当たった。若雪が、出雲で母から歌ってもらっていたという子守唄だ。前生で、彼女が歌うのを聴いたことがある。
 確か、輪廻転生(りんねてんしょう)を歌った―――――――。
 そこまで思ってから、荒太は胸が詰まった。
 呆気なく置いて逝かれて。それでも真白は、光を妹として好いていたのだ。
呼吸を落ち着かせ唇を湿して、息を吸いながらゆっくりと口を開く。
 最愛の少女の為に、彼は極めて穏やかな旋律(せんりつ)を紡いだ。

 回れば廻(めぐ)る
 廻れば逢える
 回る輪の内出(い)でぬなら
 輪の内回ってまた逢える
 雪と光は姉妹(あねいもと)
 金銀砂子の見守りて
 廻りを待てとや歌いけり
 廻りを待てとや笑いけり

 歌を聴きながら再び静かに涙を流す真白を、荒太は包むように抱いていた。
 真白の温もりに浸りながら、身体が二つあることの煩雑(はんざつ)さを思う。
 いっそ二人で一つきりなら面倒が無いのにと。

 剣護からの要請を他より早く受けた荒太を除き、緊急招集に応じ、真白の部屋に最も早く着いたのは怜だった。昼よりも前、日が照りつけるように暑い時間帯で、怜は花守と理の姫の訃報(ふほう)もさることながら、妹の心身が気がかりだった。
 そして彼は今、真白の部屋の戸を三分の二開けた状態で、戸の枠に肘を置いて身体を斜めに重心をかける姿勢を取り、室内の状況を複雑な思いで眺めていた。
 部屋の中では泣き疲れた真白がクッションを抱き締め、その状態で荒太の腕の中、眠りに落ちていた。彼女を抱えた荒太は、なるべく長く体勢を維持出来るよう、投げ出した足を広げてその間に真白の身を置き、身体を壁に寄りかからせている。
 じっと動かない顔は無表情で、怜の来たことを知ってもピクリともしない。二人で一塊にも見える姿は、芸術家が丹精を尽くしてこの世に生み出した、触れてはならない彫像のようだった。
「成瀬」
「……」
「おい」
「黙ってろ。…少し前に寝たんだ。起きたらまた、泣くかもしれない」
 そう言って、そっと白い頬についた涙の跡を親指でなぞる。
 嫌になる程良く解る荒太の理屈と心情に、怜は形の良い眉を顰(ひそ)める。
「太郎兄に見つかる前に、起こしてやれ。お前も、俺もいるんだ。きっともう泣かないよ。太郎兄がお前と険悪になるほうが、真白は悲しむ」
 無表情だった荒太の顔が動く。
「俺を呼んだのは剣護先輩だぜ」
 怜が吐息を落とす。
「それでもだよ。太郎兄は、真白のことになるとちょっと理性が飛ぶ。今のお前の、そのポジションは、ずっと太郎兄のものだったんだ。…あの人は、ずっとそうやって真白を守って来たんだよ。お前が簡単に、侵して良い領分じゃない。いずれその子はお前のもとに行く。解ってるだろう。もう少しの間、譲って大人を見せても良いんじゃないか?」
 淡々と話す怜を、荒太は凝視していた。
 鏡子の一件が無ければ、今、自分がこうして話すこともなかったかもしれないと怜は考える。剣護は強い。掛け値なく慈しみ、守って来た真白を荒太に託すことも、彼は受け容れつつあった。送り出そうとしていた。けれど、その強靭(きょうじん)な精神は相川鏡子の為に著しく傷ついてしまった。今は可能な限り、剣護の精神が穏やかに保たれる状態を作らなければならない。
 その考えが怜に、荒太と真白の間に現時点では、一線を引かせる言葉を選ばせた。また、怜は市枝と一磨、要にも鏡子の件を先んじて伝えておいた。そうすることで、剣護にかかる負担を予め軽減しておこうとしたのだ。今の怜の目は長兄を、フォローし、その心を守るべき存在と捉えていた。兄妹を庇い背負う荷を、こんな時くらいは自分が肩代わりしなければならない。
 黙って怜の話を聴いていた荒太が、真白を抱えていた腕を放しかけた時、真白の瞼(まぶた)がふ、と動いた。そのまま目を覚ましそうになる気配に、反射的に、荒太が急いで彼女の身を包み直す。再び真白の瞼は静かに閉ざされ、荒太は安堵とも自己嫌悪ともつかない面持ちになった。
 怜は額に手を当て、また一つ、溜め息を吐いた。
 ちらり、と妹の身体に回された荒太の腕に目を遣る。
(そもそも、理性が良く保(も)っていると思わないでもないけれどね……)

 怜、剣護、そして有給休暇をもぎ取った一磨に続いて最後にやって来た市枝は、室内に集う六人の中で、最も怒り狂っていた。憤怒(ふんぬ)の形相は、しかし彼女の美しさを損なうことなく、むしろ煌めき、発光させているかのようだった。金茶の髪が、これほど市枝を輝かしく見せたこともない。
「―――――許せぬわ、理の姫」
 怒りのまま発せられた声は、久しぶりに市の口調になっている。
 その言葉を受け、荒太が懸念する顔つきで真白を見る。
 荒太の腕の中で眠っていた真白は、剣護の足音で目を覚ました。
 それはまたそれで、荒太は複雑な気分にさせられた。
 今、真白は大人しく市枝の怒声を聴いている。
 自分も理の姫を責めて真白を嘆かせたものではあるが、市枝の言葉がまた真白を悲しませはしまいかと、荒太は心配だった。
 果たして真白は少し眉根を寄せて微笑むと、小テーブルの、隣に座る市枝を柔らかく抱き締めた。市枝という友人を、彼女がどれだけ得難い存在と思っているか見ただけで解るような、優しさの籠った抱擁だった。
「………ありがとう。市枝」
 真の感じられる声に、市枝が大きな目を一つ瞬かせる。長い睫(まつげ)が、上下に動いた。
「でもね、もう…良いの。良いんだよ。やっぱり悲しいし、辛いけど」
 そこで言葉が揺れる。だが真白は堪(こら)えた。
「恨む思いも、少しはあるけど。それでも私、また次に光に逢えた時、久しぶりだねって言いたい。それで、あの時は私を置いてけぼりにしてひどかったじゃない、って文句を言ってやりたい。…お茶の一杯くらい、奢ってもらおうかな。―――――――ね、市枝。それで、良いでしょう?」
 微かに揺れながら紡がれる言葉に、部屋はしんとしていた。
 真白に対する反論は一つも上がらない。
 市枝だけが、真白の耳元で毅然と言い放った。
「愚かな世迷言(よまいごと)じゃ。全く以て度し難い。……じゃが、真白の愚かさは、温かい」
 そう評した市枝の眉も歪んでいた。泣くまいと耐えるかのように、先程は瞬かせた睫が今は細かく震えている。唇を噛んで、俯く。
(真白。――――あなた、そうやって私まで許すって言うの?)
 細い腕は、理の姫の罪ごと、市枝をくるんでいた。
〝あなたが、自害したと聞いた時の気持ちは、今でも忘れない〟
 嘗て自らも若雪を置いて逝ったことのある市枝は、真白が今、理の姫と共に自分を許したのだと感じた。前生において若雪との最後となった文月の夕暮れの別れから、あの時見た蛍のように頼りなく迷っていた心が、やっと真白に帰り着いた。そう思った。

「とにかく、…今回のことで、こちらの戦力は激減したと言って良いだろう。この先、治癒の力を余り当てに出来なくなったのも痛い。妖にとってはもっけの幸いって奴だ。体勢を立て直す時間が欲しいな」
 剣護が空気を切り替えるように口火を切って、話を進めた。
「…透主をどうするの、剣護先輩?」
 市枝が、僅かながら遠慮する口振りで訊く。
 市枝を含めた数人が口を開き、自分なりの考えを述べた。
 鏡子を擁護する声もあれば、弾劾は避けられないとする声もあった。
 それらの意見を黙って平静な顔で聴く剣護の姿は、真白に陶聖学園高等部の生徒会長をしていたころの彼を彷彿とさせた。
 意見の全てを聴くだけ聴いたのち、剣護は断固とした口調で述べた。
「皆の言うことは解った。……けど透主に関しては、俺に考えがある」
「考えの内容は?」
 それまで無言だった一磨が、初めて口を開いた。剣護が首を動かし、真白の勉強机の椅子に座り足を組んでいた彼を見据える。目と目がぶつかり、極めて静かに対峙した。
「―――――追って話します」
「今、ここでは言えないのかな?」
 柔らかな口調だった。
「はい。時間をください」
「…そうか」
 焦げ茶の瞳が自分の顔を向くのを、剣護は感じた。

「じゃあ、しばらく、各自で自己調整してくれ。動く時は、また知らせる」
 剣護のその言葉で、話し合いは解散となった。真白の部屋から退散しようとする面々の中、荒太のシャツの裾を、真白が掴んだ。
 つん、と引っ張られる感覚に荒太が振り向く。
 焦げ茶の色が自分を見上げるので、何事かと荒太は思った。
 真白が目を彷徨わせながら口を開く。
「…夏休みの宿題、済んだ?」
「うん。あらかた」
「……もし良かったら、もう少し、いてもらっても、良い、ですか。と、隣に、座っててくれるだけで、…良いから」
 たどたどしく、丁寧語混じりに言う真白の顔は、少しだけ赤く、しかしそれより懇願の表情が勝っていた。まだいて欲しい、と表情が雄弁に訴えている。
 荒太はこのあと、兵庫と株の件で打ち合わせする予定だった。
(でも、仕方ないよな。真白さんは俺のことが大好きで、今、俺を必要としてるんだから)
 どこまでも満足な気持ちでそう思う。
 頭の隅に苦情を言う兵庫の顔が浮かんだが、すぐに消える。
(真白さんが俺を好きなんだから、しょうがない)
 今の荒太は、世界の全てをその理屈で押し通す構えだった。
 室内に残っていた怜が、荒太と剣護の顔をそれぞれ見遣る。
 剣護は穏やかな表情だった。穏やか過ぎるくらいだと、怜は思う。
「―――――うん。いるよ」
 荒太ははっきりと頷いた。
 今ここに兄貴どもがいなければ、すぐにでも真白の身を抱いて放さないのにと考える。
(まあ、いて良かったか)
 力加減出来ずに、真白を抱き潰してしまわずに済む。
 ずっと真白の身を抱えていたので、離れたら寂しく、彼女の温もりが恋しいと感じてしまうのは我ながら困り物だった。

 外に出て市枝を見送った剣護は、一磨が自分のほうを見ていることに気付いた。
 静かに観察する眼差しをして、槇の樹の生け垣に寄り添うように立っている。
(…怖いな)
 怜は市枝を送りに行った。
 一磨は話し合いの間、ずっと剣護を注視していた。
 これが名立たる戦国大名・毛利氏と渡り合ってきた男の目だ。
「――――――すみませんでした、一磨さん。有休まで使ってもらったのに、余り実の無い作戦会議で」
 一磨は、笑みながら謝罪する剣護を見て、首をひねる。
「剣護君。君、――――――何か物騒なことを考えてやしないかい?」
「いえ?別に何も。…買い被り過ぎですよ」
 朗らかに笑って見せる。
 それでも尚、一磨は得心の行かない顔で剣護を見続けていたが、やがて吐息と共に口を開く。これ以上の追及を諦めた風情だった。
「……若いっていうのはね、時にひどく厄介なんだ。化け物みたいに暴走して、周りの人間を泣かせてしまうことがある。…君が、君の守りたいものを傷つけないことを、僕は祈るよ。真白ちゃんたちももちろんだが、御両親を悲しませてはいけないよ。……年長者の言うことだと思って、どうか心に留めておいてくれ」
 その言葉をどこか寂しそうに残し、一磨は向かいの坂江崎家に入って行った。
 申し訳ない思いで、剣護はその背中を見送った。
〝しれっとした顔で策を弄(ろう)することもある〟
 今はたった独りの花守となった明臣に、以前指摘されたことを思い出す。
(ああ―――――その通りだよ、明臣)
 自分の本性が、人が見るより食わせ者だということを剣護は知っていた。一見、怜のほうがそのように思われがちだが、実際は違う。あざとく、人を騙しおおそうとする狡(ずる)さをより多分に持つのは自分だ。一緒に生まれ育ってきた真白はそれを知っている。だから今は、あの焦げ茶色の瞳が怖い。現時点では専ら荒太に向けられていて幸いだと思いながらも、少しだけ胸が疼(うず)く。そんな自分を剣護は苦く笑った。
(しょうもない奴)
 天に輝く太陽に、目を細める。
 蝉が鳴いている。

 その晩、荒太は自室で、右の掌の上にある赤い種を見ていた。
 それは、竜軌から受け取った物だった。彼がアオハと戦い負傷した翌日、荒太は竜軌と会っていた。彼に呼ばれたのだ。呼ばれたからと言って大人しく馳せ参じるなど業腹(ごうはら)だったが、真白にも関わる重要な用件だと聞き、渋々出向いたのだ。彼の住まいは、うんざりするくらいに広大な和風邸宅だった。そもそも父親の肩書が資産家の代議士、という点からして余りにも竜軌にはまり過ぎであり、荒太は乾いた笑いを洩らしてしまった。親父さんを泣かせてないでさっさと高校を卒業しろよ、と余計なことまで考えた。
 強い神つ力を持つ竜軌とは言え、傷は余程に深かったらしく、広い畳の間に敷かれた布団に彼は横になっていた。竜軌が煩わしそうに手を振ると、傍にいた医者らしき男が部屋から出て行った。これが患者では大変だ、と荒太は医者に同情した。
 そんな荒太の呆れたような表情も無視し、竜軌は荒太の目の前に置かれていた茶托(ちゃたく)に視線を投げた。艶のある木製の茶托の上に置かれていたのは湯呑み茶碗ではなく、一粒の種だった。アーモンドのような形をした種の色は、鈍い赤だ。
 一瞥して、茶托に種を載せるな、という突っ込みの言葉が荒太の口から出かかる。
〝お前の物だ。とっとと持って帰れ〟
 出し抜けに竜軌がそう言うので、荒太は呆れた。
〝あんたは押し売りか。いきなり人を呼びつけて、妙なもん押しつけんな〟
 竜軌の目が荒太を嘲笑うように眇(すが)められた。
〝受け取らねば、あとで悔やむぞ〟
 自分の優位を疑わない一歩的な態度に対する苛立ちが、荒太の内に生じる。
〝その回りくどい言動、いい加減にやめろよ。人にされたら腹立てる癖に〟
 竜軌は聴く耳を持たない顔をしていた。当然だろう。前生からの性根が、すぐに改まる筈もない。荒太の言葉に答えることなく、得々と語った。
〝この種はいずれ育ちながら、透主に顕著な反応を示すようになる。あれの居場所に、持ち主を導く。対となった種のもう片方は、あの青い女を介して今頃、透主の身にあるだろう〟
 にやり、と竜軌が笑う。床に伏していようと、炯炯(けいけい)とした眼光に変わりはない。
 鏡子に直に近付くのが難しいのであれば、その周囲から彼女の居所を手繰り寄せることを彼は考えた。
 竜軌は、自分に重傷を負わせたことに浮かれるアオハの心の隙を突いたのだ。
 全てはこの為のアオハとの戦闘であったのかと、荒太は目から鱗が落ちる思いだった。竜軌は思慮が浅いようで、ひどく深い。煮ても焼いても喰えない男だと、再認識した。この底知れなさが、過去、彼に天下統一まで成し遂げさせたのだと荒太は思う。
〝何で、俺にこれを?〟
 尋ねた荒太を、竜軌は深い漆黒の瞳で見た。
〝来たのがお前だったからだ〟
〝―――――何のことです?〟
〝俺が、真白を襲った時。…誰が来るものかと、念入りに結界を張って待っていた。少しワクワクしてな。あれは楽しかった。ガキのころに戻ったようでな。が。何のことは無い。来たのは太郎清隆でも、次郎清晴でもない、お前だった。あの時真白に同道していたのがお前でなくとも、結果は同じであったのだろう。来たのは、荒太。お前だ。意外性が無くてつまらぬ気がしたが、とにかく俺はその種を、最初に辿り着いた奴にくれてやるつもりだったのだ。――――――それを作るのは骨が折れた。認めた奴にしか渡す気は無い。だから、その通りにする〟
 陰陽師である荒太でさえ、このような凝った仕掛けの呪物(じゅぶつ)はそう作れない。
 つまみ上げた種をしげしげと見ながら、荒太は思わず竜軌の技量に感心してしまった。
〝信長公…あんた、陰陽師でも食べていけますよ〟
〝誰がそんな辛気臭いものになるか〟
 面白くない冗談を聞いたように、竜軌が不機嫌な顔になる。
 相変わらずだなと思い、久しぶりに竜軌の前で少しだけ笑った。
 しかし、と睨んで念を押す。
〝あれは絶対、やり過ぎでしたからね〟
 幾らその気が無かったとは言え、真白を手荒く扱ったことは許せない。
〝役得だ。あのくらい、拝ませろ〟
 荒太の睨みなど物ともせず、竜軌はしれっとそう言ってのけた。
〝阿呆抜かせ。次は殺すぞ〟
 本気でそう言ってから、ふとそこで疑問が生じる。
〝信長公。どうしてこの種、自分で使わないんですか?最初から、誰かに譲る気だったのはなぜですか。あんたは透主を倒すつもりだった筈だ〟
〝俺一人動くのであれば、こんな種なぞ無用の長物。俺は巫(かんなぎ)だ。あれがどこに動こうと、居場所を知るくらい造作(ぞうさ)ない。だがお前らには必要だろう。…あの哀れな女を、俺が殺してやる前にお前たちが救えるというものなら、そうすれば良い。やってみろ〟

 回想しながら、荒太の中には竜軌の行動に対する疑問が湧いた。
(――――あいつ、そんな人情派だったっけ?)
 どちらかと言えば苛烈さ、情け容赦の無さが売りの人物だ。
 ここまで世話を焼くような甘さなど、持ち合わせない筈だが。

赤い種は時折光り、点滅する時があった。
 それは相川鏡子の命の脈動を象徴するようだ。
 この種が、文字通り希望の種となるのか。それとも暗い終焉(しゅうえん)への端緒(たんしょ)となるのか。
 剣護にこれを渡すべきではないか。荒太はそう思った。
 鏡子を誰より救いたがっているのは剣護だ。この、極めて貴重な呪物を持つのは、彼が最も相応しいだろう。
 しかし荒太は、それを実行に移すことを躊躇った。
 なぜかは自分でも解らない。
 剣護が持つべきだと思う一方で、彼に渡してはならないと感じる自分がいる。
 自分自身に困惑する荒太の掌で、種は一際赤く輝いた。

白い現 第九章 散華

白い現 第九章 散華

相川鏡子の存在を思い出し、彼女を絶望させたのは自分だと苦しむ剣護。真白は、彼が何か不穏な決意をしたと察し、剣護を失うことを怯え戸惑う。一方、荒太は要からの連絡を受け、鏡子を保護した風見鶏の館に向かっていた。鏡子の存在の発覚を契機に、事態は急激に加速し動き始める。また、花守を離れた水臣は一人、思惑を胸に秘め、ギレンとの戦闘に臨んでいた。 「蕾が一つ ほわりと開き 芳香漂わせ やがて 散りました」 作品画像は今回の散華の内、核となる水臣と理の姫の話に捧げた絵です。

  • 小説
  • 中編
  • ファンタジー
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-01-17

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