愛したがために
愛
深夜のベッドで私は突然に目を覚ました。
彼の腕に抱かれたその中で「愛ってなんだろう?」と、ふいに私はそんな事を考える。
私にとって愛は、優しく包み込む泡のような存在でありながら、鋭利な刃物のようにも感じられる。求めれば求める程人を傷つけて、それに自分さえも傷つけてしまうようなもの。
君が僕の前を歩いていて、途端に振り向いたその顔がまるで輝いているように見えたのはその後ろに夕日があったからだろうか。君のそんな笑顔を見ながら僕は「愛ってなんだろう?」という思いを、ただ無意識の中で抱いていた。
僕は誰かを愛している時が、一番孤独だ。誰かを嫌ったり、誰かを蔑んだりする時よりも、誰かを好いているという気持ちを持った時が、世界の誰よりも寂しい気持ちになるんだ。
*
僕は溺れた。
堕(お)ちた。という感覚もないまま、いつの間にか息もままならないくらいに溺れてしまっていて、そして今でも、その苦しい空間を抜け出せずに溺れ続けている。
「栞(しおり)」というとても大きな湖の中で、僕は微かな息を紡ぎながら、そこから出る事ができない。逃げ出してしまおうと思えば、そう難しい事ではないのかもしれない。だけど、そんな自由が僕にあるなんて思えなかった。それは栞に原因があるのではなく、僕の心の中にある大きな枷が原因なのだと思う。”好き”という気持ちの枷は、僕をその大きな湖の中で強い力を持ったまま、僕を底に追いやったままだ。
僕は、栞に聞いた。もしその答えを見つけたら、ここで溺れている理由に少しでも近づく事ができるような気がして。
「どうして僕なんだろう?」
栞は俯いて、その答えを慎重に選んでいるように見える。その答えが僕にとって、あまり良いものでなかったとしても、僕はおそらく納得したに違いない。
「分からない......。でも、......理由なんか必要なの?」
栞は僕の顔を見ながら言った。僕はその、答えの定まらない答えを求めていた事を恥じた。そう、たしかに理由なんていらないのかもしれない。僕が栞を好きでいて、栞が僕を好きでいてくれている、ただそれだけでよかったんだ。
僕だって、そんな理由なんて不必要だと思っている。それでも僕は、そこに何かしらの理由を求めて聞いてしまったんだ。
だって、栞はこんなに僕の近くにいて、体温だって感じる事ができるのに僕は自然と涙を流しているんだ。ただお互いが好きでいるという気持ちのそれだけでいいはずなのに、僕はなぜこんなにも苦しく、そして吐く息さえも濁って見えてしまう。
偶然
僕が栞と出会った事はきっと偶然の重なり合いの中で起きた一つの必然なのかもしれない。必然......。いやでも、もし、偶然の重なりが必然になるのであれば、それこそ重なり合った小さな偶然でさえ、必然だったのではないかと感じる事が出来る。
世の中の物事の全ては必然。果たしてそうだろうか?後から考えれば、どんな事だって必然という事ができるだろう。でもその時起きた、そのその時の出来事を、僕は瞬時にこれを必然だなんて考える事はできなかった。それにそれは、まるで偶然であるという風を装って僕の前に現れた必然なのだから。
僕は高校を卒業した後、東京にある大学に通うために実家のある福井県を離れ上京した。初めての一人暮らしらしく、あまり綺麗とも言えないけれど、古すぎるとも言えない無個性なアパートに僕”達”は住んでいた。
僕達はお互いの存在を知らずに、"偶然"同じアパートに住んでいた。僕の住んでいたその部屋の薄い壁を取り払ってしまえば、すぐそこは栞の部屋だった。
僕も栞もほとんど同時期に実家のある地方から、この大都市東京に対する不安や希望を抱きながら、この無個性なアパートに越してきたのだ。僕が引っ越してきたその時はまだ、隣の部屋に人が住んでいる気配を感じる事が出来ず、隣が空き部屋である事に、僕は少し喜んだりもした。隣人トラブルなんて話だけはやたらと聞いた事があるけれど、実際に僕の身に振りかかってきた事はない。ただそれでも、テレビの音量を極度に気にする必要はないんだな、なんて事を思うと、やはり少し嬉しかったりする。
しかし、僕が引っ越してきたその日から三日後。空き部屋だった僕の家の隣は意図も簡単に埋まってしまった。彼女が引っ越し作業をしているところに僕が自分の家のドアを開け、隣の家に誰かが越して来たのだという事を察した。そしてその時はまだ栞という名前も知らないまま、僕は隣に歳が近そうな女性が越して来た事を知った。
僕達が最初に言葉を交わしたのは、栞が引っ越してきた次の日。僕の部屋のインターホンが鳴り、その音に誘われるように僕がドアを開けると、そこに彼女が立っていた。包装紙に包まれた四角い箱を持ったまま「隣に引っ越してきた神崎です」と彼女は言った。僕は軽く会釈し、「須藤です」と名を名乗り、その四角い箱を受け取った。初めての一人暮らしで、こういった時の対応を僕は知らず、僕は彼女が名前を言えば、僕の名前を言ったし、彼女が箱を差し出せば、僕はそれを受け取るしかなかった。
そうして、僕たちは初めてお互いの顔を見ながら言葉を交わしたのだ。
僕はその時に栞の事が好きになったのだろうか?
......いや、それは違うと思う。彼女が僕の家のインターホンを押した時、僕は彼女を隣人としてしか受け入れていなかったし、それ以上の存在になるなんて考えてもいなかった。それなのに、僕たちがお互いを好いてしまったのは、やはり”偶然”という名の”必然”が生み出したもので、僕達みたいな人間は、そのような流れにどうしたって逆らう事が出来なかった。そして自分の気持ちにも抗う事ができないのだ。
僕達は同い年だった。それに大学進学のため地方から上京して来たという同じ境遇にも立たされていた。それならば、同じ時期にここに越して来た事にも幾分納得がいく。そんな共通点が僕と彼女の間にあったおかげか、僕と栞が意気投合するにはそれ程の時間は必要なかった。と言っても、別にすぐに仲良くなった訳でもないのだけれど。
僕と栞がこのアパートに越してすぐの頃は、”偶然”顔を合わせる機会があったとしても、軽く会釈をする程度の関係だった。そんな関係は数日間続いていたし、僕はそれが隣人との距離感なのだと実感し始めていた。だからそれを乱そうとも思っていなかったし、もちろん、彼女に好意を抱いてもいない。僕にとって彼女はあくまで”隣人”以外の何者でもないのだ。
だから、その後僕たちが好き合う関係になる事はもちろん予想できてはいなかったし、そう差し向ける気もなかった。
きっといくつもの"偶然"が重なり、人は人と出会う。その”偶然”に更に重なった”偶然”で、僕たちは恋に落ちたのだろうか。
*
私はその日、大学の図書館で調べ事をしていて、いつもより帰るのが遅くなった。家に着く頃に見た時計は既に十時をまわり、辺りは暗い底に落ちて、まだ越したばかりの自分の帰る家さえ場所を見失ってしまうのではないかと少し不安だった。
自分の家であるアパートに着いて、いつもなら何事もなく家のドアを開けるのに、その日はある障害が私のそれを拒んだ。私の住んでいるアパートの隣に住んでいる後藤さんが、自分の部屋のドアに寄りかかり、ぐったりと倒れている。
彼が大学生で、私と同い年で、ここに引っ越してきたばかりだという事は挨拶をした時に聞いた。私が彼に親近感を抱くのはそれだけでも十分過ぎるくらいで、初めての一人暮らしで感じていた不安も、幾分取り除かれたように感じる。だから、私は彼に声を掛けたのだと思う。
「えっと……、後藤さん?どうしたんですか?大丈夫ですか?」
彼はどうやらお酒を飲んでいたようだった。それは彼のまわりの空気にまとわりついていたそのアルコールの匂いで分かった。
「大丈夫。大丈夫。」
彼は焦点の定まらない目のまま、手を横に振った。大丈夫と言った割には起きる気配さえ感じられない。
「もうここ家ですよ。中に入らないんですか?」
「んー……」
誰がどう見ても、彼が泥酔している事は容易に受け取れるだろう。私たちはそんな、なかなか先に進む事のできない会話を30分程続け、彼はようやく自分の部屋に入っていった。
次の朝、私は彼と"偶然"同時にドアを開け、自分の家のドアの前で目を合わせた。彼は「あ、どうも」と小さな声で言って、簡単に会釈をした。そんないつもの素っ気ない隣人関係のまま彼は先に行こうとしたから、私は少しだけムッとして、ちょっとからかうくらいの気持ちで彼に向かって言った。
「昨日は大分酔っ払ってたみたいですけど、大丈夫でしたか?」
彼は振り返り、驚きの表情を見せた。そして次の瞬間にはなんで知ってるんだとでも言い出しそうな顔を見せる。
「昨日私が帰ってきた時、後藤さんドアの前で寝てましたよ」
「……え!?」
彼はびっくりした顔で続けた。「本当ですか!?」
私はゆっくりと頷いた。
「もしかして……ご迷惑お掛けしましたか?」
「いえいえ、全然大丈夫ですよ」
「本当ですか?……すみません。僕いつも調子に乗って飲み過ぎちゃうんですよ」
その日、私達は始めて、二人で最寄りの駅まで歩いていった。その間に私たちは何を話したのだろう?記憶に刻まれるような深い話なんて何一つしていないのだろう。記憶を触れるような優しさで引っ掻くような、当たり障りない話だったんだろう。
*
当時、まだ東京に出てきたばかりの頃、僕には恋人がいた。彼女と僕は高校の同級生で、僕が東京が東京へ行く事とは対をなすように、彼女は地元で就職先を見つけそこで働いていた。だから僕たちは遠距離恋愛をしていたのだ。同じ高校で、あれだけ毎日一緒にいた人と急に遠距離の関係性なんて僕にはどうしても想像する事ができなかったから、上京する少し前に僕は彼女に別れ話を切り出した。だけど彼女は「とりあえずやってみようよ」と言って、結局僕らの関係は遠距離恋愛へと続いていったのだ。
だけどやっぱりそんな関係が上手く行くはずなんてなく、すぐに僕たちの関係は危ういものになった。連絡だって前ほどマメに取っていないし、彼女の声はもうほとんど忘れてしまった気がする。
そして、栞にも当時恋人がいて、その恋人がいるのは栞の地元の愛知県だった。この話は僕が酔っ払ってドアの前に寝ていたあの日から一週間後くらいに聞いた。
そういう意味でも、僕たちの境遇は似ていたのだ。僕達は遠距離恋愛の難しさをお互いに語り、たまに恋人の悪口を言ったりした。そして、この関係がそう長くは続かない事もお互いで話し合ったりもしていた。
程なくして、僕は恋人と別れた。それから数日後に、栞も恋人と別れたんだ。
そして、僕達は何となく、そう、これに関しては明確な理由がなかった。僕は栞が好きなのかどうかも分からず、たぶん栞も僕を好きなのかどうか分かってなどいなかったと思うのだけれど、僕たちは付き合い始めた。お互いがお互いを恋人を認識し合いながら。
流れとはこういう事なのだろうと思った。二人ともそんな曖昧な気持ちだったにも関わらず、付き合う僕たちのその関係性は"必然"から生まれたもののように感じられる。
必然
私達は、自然にお互いを下の名前で呼ぶようになった。彼は私の事を栞と呼び、私は琢磨と呼んだ。私たちが恋人同士になった事もそうだし、下の名前で呼ぶようになったのだって、いつからだったかを明確に覚えてはいない。付き合ったそれと同じように、とても自然の中での私は彼を「琢磨」と呼んだし、彼は私を「栞」と呼んだんだ。そう、気付いた時にはそんな関係になっていた。
こんな曖昧な気持ちで始まった恋愛を私は今までに経験していない。いつも100%の気持ちから始まって、意図もせずにその気持ちは段々と落ちて行く。だからこの自然の流れの中で、私と琢磨が一緒になって、そしてこの先二人の関係がどのように変化し暴走し育っていくのかが私にとって未知数だった。
だけど琢磨はとても優しい人。いつも私の事を考えてくれていると感じる事ができたし、だからこそ私も素直になる事ができた。付き合い始めた時の曖昧だった気持ちは、付き合いが長くなればなる程に明確な気持ちへと変わっていって、気持ちが曖昧だったなんて事すぐに忘れてしまう。それは多分、琢磨も同じだったと思う。
だからこそ私は怖くなってしまう。今はこんなに幸せな恋愛でも、いつかはきっと終わってしまうんだ。私たちの幸せが強まれば強まる程、いつか物凄い勢いで地に落とされ打ち付けられてしまうような気がした。これ以上好きになってしまっては、私はその反動に耐えうる事ができなくなってしまう。もっともっと好きになりたいのに、好きになればなるほど、その怖さも大きくなっていく。自分の気持ちをコントロールできないままで、私はやっぱり琢磨の事をこれ以上ないくらいに好きになっていってしまう。
私達は部屋が隣同士という事もあって、ほとんど日々を一緒に過ごした。もし、私たちが別れたとしたら、私はこの家から出て行かなくてはならなくなるだろうか、それか琢磨がこの家を出ていくのだろうか。そんな事を考えると少しだけ泣きそうになって、琢磨の腕の中で静かに甘えた。
毎日夜ご飯もベッドも共にした。私たちは一人暮らしだったけれど、それは世の中の同棲とさして変わらない。
それでも大学にはちゃんと通っていたし、勉学にも励んだ。間違いなく私は幸せで、私を取り巻く全ての環境も上手く循環しているように思える。
この人といつまでも居たいと思ってる。いつだってそう。今だってそう。
だけど、恋はゴールの明かりさえ見えやしない迷路だった。ときに私はその中に迷い込んで、出口が分からないまま琢磨の中で苦しみ続けた。幸せの中に潜む小さな悪魔は、いつでも私の首元に刃物を突き付けるようにして、”その日”を待っているみたいに。
*
おそらく、今まで付き合ってきた誰よりも、僕は栞の事が好きだった。彼女と僕はいろんな部分で似た境遇にもいたし、性格だってとても合っていると思う。僕たちは相性がいいんだと思う。
僕は栞を愛している。でも愛するが故に、栞の気持ちと自分自身の気持ちが分からなくなる時がある。
僕は栞とセックスをする時、今まで付き合ったどの女性よりも快楽を感じている。だけど、行為を終えた後の虚無感も今まで付き合ったどの女性よりも大きかった。
僕はその虚無感の正体が分からない。……栞を失ってしまうという恐怖?それは確かに恐ろしく、とても悲しいものだった。
栞が僕の事をどのように考えているのかが分からない。僕と彼女はほとんど毎日一緒にいたけど、それでもたまにとても強い孤独感に苛まれる。僕はその理由も分からなかった。
僕はただ、その孤独感を栞に拭って欲しいだけだ。彼女と一緒にいればいる程拭えると思っていたその気持ちは、彼女と一緒にいればいる程、徐々に大きくなっていく。
隣で小さく寝息をたてる栞の体温を感じ、栞の鼓動も感じた。その温もりにほんの少しだけ僕の孤独感は癒されたように思えたけれど、でもやっぱり僕の心は冷たいままだった。
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私はただ、琢磨を失うのが怖かった。だから……付き合い始めて半年が経った頃、私達はよく喧嘩をした。大した理由ではない。私は自分の事しか考えてなかった、そして琢磨を傷つけている。何の意味もなしに。琢磨はそれを受け止めていてくれていた。私の尖った恐怖心は、琢磨が私を抱きしめる事で安らいだ。
だけど、それでも私は安心できない。私はもう自分自身さえ分からない。今までにない程に人を好きになってしまって、自分でも制御ができない。
その助けを毎回琢磨に求めるように、私は琢磨に当たり散らして、彼を傷つけた。いつだって私は琢磨に寄りかかってばかりだけど、でも、たしかに私達は不器用ながらも愛し合っていたんだよね?
*
栞と体を重ねた後、僕は毎回涙を流していた。みっともない事くらい自分でもよく分かっていたけど、栞を抱きしめているとどうしてもそれを抑える事ができなくなってしまう。そんな僕を見て、栞は理由を尋ねてきたけど、僕も自分がなぜ涙を流しているのかが分からなかった。今までに感じた事のないような寂しさ。最愛の彼女を、僕は僕の腕で抱いているのに、我慢が出来ない程に悲しみに捕われる。そして気付けば涙はあふれている。栞の体温を肌で感じる度に切なくなって、僕は僕でいられる自信がなくなりそうだった。栞を愛すれば愛する程、自分は壊れてしまいそうだった。
そんな自分には見えない何かが、僕をずっと苦しめる。
たぶん栞も見えない何かに苦しめられていたんだと思う。彼女がそれに一人でもがいているように見えたけど、僕はそれを分かっていながら救ってあげる事ができない。救ってあげる術を知らない。それに、彼女を救う事で、自分がまたひとつ壊れてしまうような気もしていたんだ。
*
私達はお互いを愛する代わりに、自分達で、自分自身を壊しながら、狂わせてもいた。お互いがその事に気付いた時、私達の関係は既に終わっていた。
別の人間と別の人間が交じり合うのは、とても複雑で、とても難しい事。
私達が愛し合っていた事、それに間違いはない。だけど、お互いがそれぞれに深くなり過ぎてしまっていた。それはまるで自然の流れのように。
*
自然の流れの中で僕達は出会い、付き合い始めた。そしてお互い愛し合った。栞は相手が僕である事の理由などないと言った。それは正しい意見だと思う。そう、きっと理由なんてないんだ。お互いが無意識の中で惹かれ合って、無意識の中で溺れていってしまったのだ。だから僕達はその流れに乗って、別れる事になったのだと思う。
僕達が別れたのは"偶然"ではなく"必然"だった。
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