九龍の夜

香月 鐘二郎

  1. 10
  2. 11

中華人民共和国香港特別行政区、通称「香港」は東京都の約半分の土地に700万人を超える人口を抱える中国の特別行政区である。
 そのほとんどが中国系であり、戦争や共産支配から逃げてきた人々の末裔である。
 また外国居住者も多く、アメリカ、フィリピン、インドネシアなど約25万人もいるといわれている。
 香港は長きに渡って英国統治が続いていたが、1997年7月に正式に中国に返還され、同時に一国二制度により特別行政区になった。
 特別行政区というのは、本国の行政制度とは異なる独自の行政機関を持ち、一定の自治権を保証された地域のことである。
 すなわち香港は中国の統治下にありながら、本国とは異なった社会体系を持つ、別国扱いということになった。
 一国二制度とはそういうことである。
 もちろん表向きはの話である。
 返還後の社会主義化を目論む本国側と、あくまで民主主義を貫こうとする香港市民の「落としどころ」として提唱されたのが、一国二制度であった。ただし50年の期限つきではあるが。
 返還後十数年も経てば、次第に中国本土の影響力は増してくる。
 経済的にも中国本土への依存が強まる中、親中派と民主派の対立が深まるのが香港の現状であるのだ。

 変わった男だった。
 尖沙咀(チムサアチョイ)の駅から、九龍公園のほうへ少し行った植え込みの縁に腰掛けて、その男はぼんやりと空を見上げていた。
 それだけなら、別段なんということはないのだが、変わっているのは彼の周囲に、無数の鳥たちが群がっているということだ。
 もともと九龍公園は野鳥の宝庫である。鳥の池にはフラミンゴなども生息する。
 彼の周囲に集まっているのはドバトが殆どなのだが、特別エサなどを与えている様子もないのに、ごく自然な感じで集まってる。
 まるで彼の存在に気付いていないかのようだ。
 日本人のようである。
 身体はかなり大きい。190センチにやや足りないくらいか。
 がっしりとした体格。腕周りも太い。
 好みのタイプだ。
 少女は密かに舌なめずりをした。
 長身、金髪。ハーフ系の顔をした美少女だ。
「ねえ、あんた。こんなところで何をしてるのさ」
 日本語で声を掛ける。
 香港人とUSAのハーフ。広東語と英語は日常的に話せるが、日本語はTVのアニメで覚えた。
 というよりは、仕事柄覚えた。
 この仕事は日本人相手が、最も身入りがいい。
 少女が声を掛けると、鳥たちは一斉に飛び立った。そこに居るのが銅像か何かではなく、生きた人間であることに、初めて気づいたかのように。

「よう」
 飛び立つ鳥たちを見送って、爽やかな笑顔を見せる。
 結構いい男だ。少しドキマキする。
 傍らには大きなダッフルバック。海兵隊が肩に担いでいるやつだ。
 旅行者であろう。
 カモである。
「あんた、日本人だろ? こんな所で、なにしてんだ?」
「日本語わかるのか?」
「まあね。TVのアニメで覚えたのよ」
「へえ、凄いんだな」
「香港人は語学感覚に優れているんだ。英語や中国語は最初から話せるしな」
 少女は胸の前で腕を組んで、殊更おおきく脚を開いてみせた。
 香港とUSAのハーフである彼女は、自慢じゃないが脚が長い。身長の半分は脚じゃないかというくらい。
 それが彼女の武器のひとつでもあるのだ。
 黒いフェイクレザーのショートパンツ。そこから伸びる太ももは、客観的にみてもモデルクラスだ。
 これを観てクラクラしない男はまずいない。
 この男もそうだ。
「観光か?」
「まあ、そんなところかな」
 妙にのんびりした男だ。
「香港は初めてなんだろう? あたしが案内してやろうか?」
「ほう」
 男はちょっと驚いた顔をして、少女の全身を舐め回した。
 彼女は飛び切りの笑顔を振りまく。
「そりゃ、有難いな」
「じゃ、決まりね。あたしは、劉愛華(リュウ・アイファ)
「俺は御門将介だ」
「ショウスケか。じゃ、ショウでいいな。で、あんたホテルはどこ?」
「別に決まってない。行き当たりばったりなんだ」
 愛華は吹き出した。嫌いなタイプではない。
「適当だな。まあ、いい。あたしがホテルを紹介してやるよ。どのレベルがいいんだ?」
「それがな」
 将介はテレ臭そうに頭をかいた。
「到着そうそうやられちまったんだ。いまは無一文なしさ」
 そう言って、大声で笑い出した。

 やられちまったのは、こっちのほうだ!
 愛華は心の中で悪態をついた。
 まあ、公園でぼんやり空を眺めている時点で怪しいとは思ったのだが、雰囲気に騙されてついつい声をかけてしまった。
 それというのもHPで予約してきた日本人の男性が、直前になってキャンセルしてきたからだ。懐に入るはずの金がなくなってしまったので、何とかしなくてはと思っていたところだ。
 そんな所に、この見るからに無防備そうなカモの出現である。
 これ幸いと思って声を掛けたのが失敗だった。
 まさか、無一文なしとは。

 彼女の職業はデート嬢である。
 観光客と擬似デートをしながら、香港の街をガイドするのが仕事である。
 もちろん場合によっては、夜の仕事もする。
 香港では売春も国に認められた立派な仕事だから、別に法律に違反しているわけではない。
 ただし時と場合によっては違法なこともする。
 今回のようなケースだ。
 さて、どうするか。
 愛華は考えた。
 このままおサラバしてもいいのだが、それでは気が収まらない。
 こういう奴からは徹底的にむしり取らねば、腹の虫がおさまらないのだ。
 それにはまず、奪われたという金を取り戻さなくてはならない。
「ねえ、ショウ。あんた、どこで金を取られたんだ」
「地下鉄の駅を降りてすぐだ。まあ、ひったくりだな」
「ぼんやりしているからだろ。しかし、このあたりのチームなら、まんざら知らないこともない。何とかなるかも知れないわ」
「そうか。恩に着るぜ」
「もちろん、それ相応の礼はしてもらうけどね」
 それ相応どころか、全額巻き上げるのに決まっているだろう。
「じゃ行くか。取り敢えず金を取り返さなくては、どうしようもないからな」
 ふたりは立ち上がって、公園のほうに歩き出した。
「おい、ちょっと待てよ。お前、アイファだろ」
 
 公園に入ったところで声をかけられた。
 日本語である。
 振り向くと顔を真っ赤にした、明らかに旅行客らしい三人の日本人が立っていた。
「やばい」
 愛華は慌てて、将介のでかい身体の後ろに隠れる。
 こういう時は頼もしい。
「知り合いか?」
 将介が緊張感のない声を出す。
 馬鹿野郎。
 空気を読みやがれ。
「おい、お前。お前もこの女に騙されたクチか?」
「騙された?」
「この女、とんでもないタマだぜ。俺とやってる最中に、金持って逃げやがった」
「ははぁん」
 ようやく将介にも納得がいったようだ。なんとも鈍い男だ。
「あたしとやれたんだから、文句はないだろ」
「ふざけるな。入れたと見せかけて、脚で済ませやがって。ちょっと可愛いい顔してるからって、調子に乗ってんじゃねえ」
「だから、あたしの脚でイケたんだから、文句はねえだろってんだよ」
 愛華は将介の脇の下から、顔を覗かせて悪態をついた。
「まあまあ、ちょっと待て」
 将介は仲裁に入ろうとするのだが、男はすっかり頭に血が上っているらしく、てんで聞く耳を持たない。
 ポケットから飛び出しナイフを取り出した。
「切り刻んでやるよ」
「おいおい、そいつはいけねえな」
 将介の口調が変わった。
 体格がでかいだけに、ドスの効いた声を出すと迫力がある。
「そういうもんは、簡単に出すもんじゃねえぜ」
「やかましい!」
 男は有無を言わさず切りつけて来た。
 将介は、それを殊更よけたふうにも思えない。
 男のナイフを握った腕は、将介の脇の下を通って、背中に隠れた愛華の目の前を通り過ぎた。
「きゃあ!」
 彼女が悲鳴を挙げる。
「よう」
 将介が延びきった男の腕を叩いて、何か言っている。
「良かったな、お前。もうそのナイフで、誰も傷付けられないぜ」
 そう言って、愛華を振り返る。
 無謀にも男には、完全に背中を向けて、だ。
「怖かったか? もう大丈夫だぜ」
「危ない!」
 男がナイフを構えて、将介の背中に突っ込んできた。
 と。
 何故か、男の身体は大きく逸れて、頭から地面に転がった。
 何が起こった?
 あの距離で、でかい将介の背中を外すはずがない。
 男も狐に摘まれたような顔をしている。
「なあ、だから言ったろう。誰も傷付けられないって」
「ふざけやがって」
 男が激昂した。眼が吊り上がっている。
 こういう目つきをした男は、本格的にヤバい事を経験的に知っている。
 男はターゲットを、愛華のほうに切り替えたようだ。
 頭を下げて、体ごと突っ込んで来る。
「いやぁ!」
 愛華は将介の身体にしがみついた。
 男の身体は愛華と将介の脇をすり抜け、前方の仲間たちを巻き込んで地面に転がった。
 先程と一緒だった。
「中々いいもんだな、美人に抱き付かれる気分は、よ」
 馬鹿か。
 不覚にも赤くなってしまった。
 尚も立ち上がろうとする男に、仲間の男達がすがり着いた。
「おい、逃げよう。こいつ、本格的にヤバいぜ」
「覚えてやがれ」
 捨て台詞を残して、男たちは転がるように逃げて行った。

「ざまあ見やがれ」
 愛華は連中の背中に中指を立てて見せた。
「お前もなあ、いい加減にしとかないと、終いには大怪我するぜ」
「ふん」
 将介のやつが柄にもなく説教を始めやがった。
「あたしはね、例え仕事でも、気の食わない奴にはやらせないんだよ」
「やれやれだな」
 将介があきれたように肩を竦めたので、愛華は思わず吹き出してしまった。
「じゃあな、ショウ」
「おいおい、俺の金を取り戻してくれるんじゃなかったのか?」
「お前さっきの話、聞いてなかったのか? あたしもあんたの金を狙ってるんだぜ」
「しかし、金がないことにはどうしょうもないだろ」
「取り戻した金を、巻き上げるかも知れないんだよ」
「まあ、その時はその時だな」
「ふん」
 可笑しくなった。
 御門将介。
 面白い男だ。

 九龍公園内のカフェだ。
 オープンテラスの席に、将介と向き合っている。
「なあ、ショウ。さっきのあれは、何だ?」
「さっきのって?」
「だから、あいつらのナイフが刺さらなかった理由だよ」
「ああ、あれか。あれは俺が術をかけたからな」
「術? 忍術か」
 将介はプッと吹き出した。
「お前、アニメの見すぎだな。ありゃ、心法だ」
「シンポウ? やっぱアニメじゃんか」
「違うよ、金剛心法だ。ま、言ってみれば、瞬間催眠の一種かな」
「催眠術か。すごいな、あんた」
 愛華は眼を輝かせた。
 こいつの魔法があれば、何でも出来るんじゃないかと本気で思った。
「それより、俺の金はどうなった」
 将介は本題を切り出した。
「まあ、焦るなよ。ちゃんと手はうったから」
 愛華は持ったぶって言った。
「この辺は和合社(フォホーシャ)という黒社会の組織が牛耳っているのね」
「黒社会?」
「日本でいうヤクザ組織のことよ」
「ふーん」
 そう言われると話は早いようだ。
「その和合社の下部組織で、黒龍組(ヘイロンズー)というチンピラグループが、あんたの金を獲った。多分だけどね」
「ほう」
「ひったくりは、だいたいがチンピラの仕事よ。この辺りのチンピラといったら、奴らしかいないから」
「お前、その黒龍組なのか?」
「まさか。あたしが知っているのは、黒龍組の下っ端で、余嘉成(ユウ・ジャチォン)という男。あたしの幼馴染だわ」
 そしてスマホを取り出して見せた。
「さっき、電話しておいたから、もう着く頃よ」
 顔を上げると公園の入り口から、真っ直ぐこちらへ向かってくる男の姿が目に入った。
 
 キツネのような目をした男だ。
 余嘉成である。
 劉愛華にとっては、幼馴染みでもあった。
 背はそれほど低くはないはずである。しかし、猫背のせいかずっと小さく見える。
 子供の頃から気が弱く、近所の悪ガキ共によくいじめられた。
 いつも庇ってやったところから、愛華の舎弟みたいになった。
 それは今も変わらない。
 彼の言によると、ずっと小さい頃に、大きくなったら彼のお嫁さんになると言った事があったそうだ。
 もちろん愛華にはそんな記憶はない。
 しかし、彼はずっと覚えていて、いまでもそのつもりでいるらしい。
 彼の視線が、愛華の太もものあたりを撫で回す。
 その視線の先が、将介に向けられた。
 当然ながら、愛華の周囲の男たちには敵愾心をむき出しにするのだ。
「そいつは、誰だ?」
 広東語で耳打ちをする。
「ただの客だよ、ジャチォン。その客が、あたしに払う金を獲られて困ってるんだ。それがないと、あたしは金をもらえないの。何とかしてよ」
 愛華はこれまでの経緯を、嘉成に説明した。
「何とかしろと、言われてもなあ」
 嘉成は将介を値踏みするように見た。
「うちの組はチーム別に行動するからな、他のチームの事はわからないんだ」
「そこを何とかするのが、あんたでしょ」
「無茶を言うなよ、アイファ。組での俺の立場を知ってるだろ」
 どうしてこんな意気地無しが、黒社会なんかに入ったのかは知らないが、どこの世界に行っても彼の立場は下っ端の使い走りだ。
「ジャチォン。いつも言ってるでしょ、自信を持ってよ。あんたは、頑張れば出来るんだから」
「本当に?」
「本当よ。それに、頑張ればいいことがあるかも」
 愛華は嘉成の前で、これみよがしに脚を組み直して見せた。
 途端に、彼の眼が輝き出す。
「わかった。心辺りを当たってみるよ。わかったら連絡する」
「頼むわよ、ジャチォン」
 嘉成は喜び勇んで去って行った。
 単純な男。
「なあ、大丈夫か? あの男。随分おどおどしていたようだが」
 言葉の解らない将介が、心配そうに聞いた。
「大丈夫よ。あいつはああ見えて、意外と抜け目のない奴だからね。うまくやるわ。それより・・・」
 愛華は将介の腕を取って立ち上った。
「じゃあ、行こうか?」
「行く? どこへ?」
「決まってるじゃん、観光よ。お金が戻るメドがたったでしょ。あたしは、あたしの仕事をしなくっちゃね」
 そう言って、魅力たっぷりのウィンクをしてみせた。

 目が覚めた時には、すでにお昼を回っていた。
 玄関のチャイムが激しく鳴っている。それで目が覚めたのだ。
 心地よい倦怠感。
 うるさいな。
 ベットの上に起き上がって気がついた。
 全裸で眠っていたのだ。
 隣には熊のように大きな裸の背中。
 ショースケとかいう日本人だ。
 昨夜の一戦が蘇る。
 こいつも結構ガンバった方だが、所詮はあたしの敵ではなかったという事か。
 ふふん。
 思わず口元が綻ぶ。
 愛華は素肌にバスローブをはおり、唇に微笑を張り付かせたまま玄関の扉を開く。
 余嘉成が不機嫌な顔をして立っていた。
「なにをニヤ付いているんだ」
「別に」
 バスローブの下は素裸だ。嘉成の視線はガウンを透かせて、中の裸を舐めまわす気がする。
「ちょっと待って、着替えるから」
 部屋の中を覗こうとする嘉成の頭を抑えるようにして扉を閉めた。

 愛華は薄いピンクのサマーニットに、脚のラインにピッタリフィットした白パンツ姿で現れた。
「お前、あの日本人とやったのか?」
 嘉成は顔を合わせるなり、関一番そう切り出した。
 部屋の中を覗かれたのだ。
「ってか、これも仕事の一環だからね」
 愛華は皮肉たっぷりに言ってやった。
「仕事って、あいつ金持ってないんだろ」
「だから、あんたに取り戻してもらいたいんじゃないか。頼りにしてるよ、ジャチォン」
 愛華は猫撫で声を出しながら、わざとらしく嘉成腕を取って豊満な胸に押し付ける。
 嘉成はその腕を払い除けた。
「例え仕事でも、客は自分の部屋には入れない主義じゃなかったっけ」
「まあ、そう言わないで、ジャチォン。あいつはホテルにも泊まれなくって困ってたんだから。ボランテアよ、ボアンテア。・・・そう、いじけないでよ」
 ここでヘソを曲げられては敵わない。愛華は両手で余嘉成の顔を抑えると、その唇にチュッと音を立ててキスをした。
「あとでチャンとお礼はするから、ね」
「わ、わかったよ」
 顔を真っ赤にして嘉成は言った。
 ちょろいものだ。
「で、どうだったの? 盗んだ男はわかった?」
「ああ、その日尖沙咀駅近辺で仕事をしていたのは、湯文如(タン・ウェンル)という男で、俺らと変わらない下っ端なんだが、ただ厄介なことは上にいるのが、あの漢兄貴なんだよ」
「漢兄貴って、あの漢虎(ハンフー)?」
 愛華は驚いて言った。
「おい、どうしたい?」
 振り向くと、いつの間にか着替えた将介が後ろに立っていた。
 言葉のわからない将介に、愛華はそれまでの経緯を簡単に説明した。
「漢兄貴というのは、黒龍組の幹部で、功夫(カンフー)の達人。裏社会では「漢虎」と呼ばれている、恐ろしい男よ」
「ふうん。そいつが、俺の金を盗んだってのか?」
「ううん。盗んだのは、漢兄貴の舎弟で湯文如という男」
「まあ、俺的にはその漢兄貴というのに興味があるけどな」
 将介は相変わらず呑気なものだ。
「何を言ってるんだ?」
 今度は日本語の解らない余嘉成に広東語で通訳する。
 いちいち面倒臭い。
「ちょっと待てよ、アイファ。何もそこまでこだわる事はないだろう。漢兄貴は本当にヤバイやつなんだから」
「わかってるって。いずれにしても、漢兄貴が出てくる前に何とかしないと不味いわよね」
 愛華は腕を組みながら言った。
「ねえ、ジャチォン。そいつの家はわかっているんでしょうね」
「ああ、重慶大店(チョンチンダーデン)だよ」
「重慶大店ですって!」
 愛華は驚いて聴き直した。
 それはまた、厄介な所に住んでいるものだ。

 重慶大店は尖沙咀地区の北側、弥敦道に面して建つ巨大な複合型の雑居ビルである。
 外観は香港のどこにでもある古い雑居ビルだが、内部には様々な商業施設の他に、一般の住居や会社の事務所、果てはたくさんの安宿までがひしめき合っている。
 建物の外側には如何にも香港らしい、派手派手な看板が軒を連ねており、その内部に一歩足を踏み入れると、狭い廊下が迷路のように入り組んでいる。
 ビルの中には中国人はもちろん、インド人・フィリピン人・ネパール人、アラブ系の東洋人から西洋人とまざまな人種・宗教の人であふれかえっていて、一種の無国籍状態の異様な雰囲気が漂っている。
 そしてまた、様々な犯罪の温床でもあるのだ。
 湯文如の宿は、その重慶大店の一角にあるという。
 将介たちは余嘉成の案内で、その重慶大店のアパートメントを訪れた。
 文如の部屋は、建物の南側、いくつものエレベーターを乗り継ぎ、狭い廊下を行った先にあった。
 薄暗い廊下のそこらこちらには、疲れた目をして生きる気力を無くした東洋人や黒人たちがうずくまっている。
 ほとんどの人たちはドラッグをやっているのだ。
 そんな亡者たちの間を縫うように進むと、目前に薄汚れた目的の部屋があった。
「おい、ウェンル。俺だ、余嘉成だ。居るんだろ? ちょっと開けてくれ」
 部屋の中から返答はなかった。
 更に叩き続けると、しばらくしてからカチャリと鍵の開く音がして、湯文如が顔を覗かせた。
 その顔は右頬のあたりが大きく腫れ上がり、唇にも切った形跡があった。
 左腕は肩から吊っている。腕を負傷しているらしい。
「ああ、ジャチォンか」
 情けない声で文如が言った。
「どうしたんだ、お前」
「やられた。三人組の日本人だ。俺もヤキが回ったよ」
 そう言ってから、初めて将介の存在に気がつき、ギクリと身を固くした。
「覚えているか? お前が昨日、尖沙咀駅で仕事をした日本人だ」
「知らねえな」
 閉めようとする扉に、将介が足を入れて止めた。
「アイファ。通訳してくれ。その三人の日本人の事を知りたい」
 将介の言葉を愛華は通訳して聴かせる。
「昨日の昼間、九龍公園でカモにしようとした日本人たちだ。寸前の所でバレて、フクロにされた。3対1じゃ分が悪い。お陰で昨日の売り上げはパアさ。そっちの男の金も、いまでは奴らの懐だよ」
「あいつらか」
 愛華はハッとして言った。
 彼女にカモにされ、昨日将介にひどい目に遭わされた三人の日本人だ。時間的にいっても間違いない。
 彼女は将介の顔を伺う。
「ああ、奴らに間違いはないだろうな」
「お前らの知り合いか? アイファ。残念だが、奴ら無事にはこの街を出られないぜ。漢兄貴が黙ってないからな。兄貴は舐められるのが、何より嫌いなんだ。もう追い込みは掛かっている。奴らが捕まるのは時間の問題だ」
 そう言って、切れた唇でニヤリと笑った。

「ヤバイことになったな、ショウ。どうする?」
 愛華は将介の顔を見上げて聞いた。
「うん。とりあえず、連中のもとへ行ってみよう。アイファはホテルを知っているんだろ?」
 それで一同は尖東(ジェンドン)のホテルへ移動した。
 ホテルで確認すると、三人は昨夜ホテルを出たまま帰らないという。
 すでに拉致されたのか。
 将介たちは九龍公園に戻って善後策を検討した。
「アイファ。ジャチォンは連中に顔が利くんだろう。ちょっと探りを入れてもらえないか?」
 将介の言葉を通訳すると、嘉成はあからさまに嫌な顔をした。
「そこまでこだわる事はないだろ、アイファ。それに俺は漢兄貴に係わるのは嫌なんだ」
「あたしも賛成だな。相手が悪いよ、ショウ。お金のことは仕方がない諦めよう。あたしも諦める」
「いや、金の問題じゃないんだ。奴らはどうしようもない人間かも知れないが、同胞として見過ごせないんだ。それに・・・」
 将介は人懐こい笑みを浮かべた。
「個人的に漢兄貴というのに興味があるからな」
「馬鹿言ってるんじゃない。漢兄貴は本当に恐ろしい男なんだ」
「だからさ、面白いんじゃないか」
 愛華はやれやれと頭を振った。
 こうした人を食ったような将介は嫌いじゃない。
 それに将介のあの魔法のような術なら、ひょっとしたら漢兄貴に勝てるかも知れない。
「よし、わかった。ひと肌脱ごう。ねえ、ジャチォン」
「何を言ってるんだ。漢兄貴には誰も勝てない。殺されるぞ」
「大丈夫だって。このショウは忍者スターなんだ。漢兄貴のカンフーとショウの忍術、どちらが勝つか興味はないかい?」
「忍者スター? あんたニンジャなのか?」
 嘉成は尊敬の眼差しを向けた。彼らの世代は、日本のアニメやニンジャには特別の思い入れがあるのだ。
「本当にニンジャなのか?」
「ま、そんなとこかな」
 将介の話を合わせて来る。
「証拠を見せてみろよ」
「ああ、いいぜ。その代わり、お前らに頼みがある」
「頼み?」
「まあ、いい。後のことだ。それよりジャチォン、忍術を見せてやるぜ、掛かってこいよ」
 嘉成に向かって言った。
 彼は一瞬たじろいた。
「アイファ、通訳しろよ。お前、俺が気に食わないんだろ。悔しかったら掛かってこい」
 通訳が終わった途端、嘉成の顔色が変わった。キツネのような目が更に吊り上がった。
「うわ!!」
 頭に血の登った余嘉成は、拳を握って殴りかかってきた。
 殴りかかって来た嘉成の顔を、将介は大きな掌で包み込むと、反対側の手で後頭部を抑えた。
 ただ、それだけだった。
 嘉成は意識を失い、膝から崩れ落ちた。
 何が起こったのか、愛華にはまるで理解ができなかった。
 将介が活を入れると、嘉成はすぐに意識を取り戻した。
「すまなかったな、ジャチォン。この埋め合わせは必ずする」
 彼はただ目を白黒させるのみだ。
「驚いた。あんた本当に忍者スターなのか」
「まあな」
 将介は笑った。
「驚いたな、ショウ。あれがお前の言ってたシンポウか?」
 愛華は驚いた顔で言った。
「いや、あれは単なる瞬間催眠だ。心法と呼べる代物じゃない。そこで、相談なんだが、日本から来た忍者スターが、拉致された日本人を取り戻しに来たという噂を、連中の間に広めてもらいたいんだ。出来れば、漢兄貴の耳にも入るようにしてもらいたい」
 将介はそう言った。
「何で、そんな事を?」
「俺の心法は相手がそれを知ってるほうが掛け易いんだ。俺の術は言葉を利用する。だから、言葉の解らない外国人には掛けにくいのだよ」
「なるほど」
「まあ、言葉が解らなくともかける方法がない訳じゃないけどな、いろいろと面倒臭い手続きがあるんだよ。それでまあ、出来るだけ有利になるように働きかけたいんだ」
「わかった、任せておけ。なあ、ジャチォン」
「ああ」
 すっかり感化された嘉成は目を輝かせた。
「忍術対カンフーか。これは楽しみだな」

 金剛心法。

 いにしえより伝わる古流柔術の一派である。
 ルーツをたどれば、遥か奈良時代に行き着くと伝えられている。
「役の小角」がその始祖とも言われているが、もちろん真偽のほどは解らない。
 役の小角というのは奈良時代の修験者である。
 葛城山の麓に生まれ、古くより伝わる山岳信教と仏教の一派である密教を結び付け、修験道の基礎を創設したと言われている。
 また前鬼・後鬼という二匹の鬼を使役し、様々な呪法を駆使したと伝えられている。
 このあたりは陰陽師に近いといえるのかも知れない。
 小角の記述は「続日本記」や「日本霊異記」に見られるが、伝えられる人物像には伝説的な部分が多い。
 その小角が用いた呪術のひとつが、金剛心法だというのだ。
 もちろん小角の史料の中に金剛心法の記述はない。
 思うに少なからず呪術的な要素を含む心法と、小角の駆使した呪法とを結び合わせて伝えられたのではないか。
 金剛心法というは相手の行動を制限し、戦闘をコントロールすることを目的とした武術である。
 語弊を恐れずにいうなら、催眠術の一種である。
 戦闘中にかける催眠術が、金剛心法なのだというのだ。
 一体闘いの最中に、催眠術にかけることが出来るのであろうか。
 御門将介の言によると、
「闘いのさなか自体が、一種の催眠状態にあると言えるのだよ」
 と、いうことのなる。
 催眠とは変性意識状態の一種である。
 変性意識状態とは、何かに集中しているために、そのこと以外の対外的刺激を全て遮断している状態である。
 例えば、テレビに熱中していて誰かに声をかけられたのに気づかないとか、好きな事をしている時には時間の経過が早く感じたりするのがこの現象である。
 闘いの最中は、相手の一手一投足に集中しているため、自然とこの変性意識状態に陥るというのだ。
 この状態に入った人間は暗示を受け易くなる。
 これを「これを被暗示性が高まる」といい、様々な事柄を考えるストレスから解放され、結果として自由な思考が制限されるのだ。
 金剛心法では、この状態を利用して暗示をかける。
 催眠術では通常の心理状態から、一度変性意識状態に落とし込む必要があるのだが、戦闘中は最初からその状態にあるため暗示に掛け易いと将介は言うのである。
 ただし暗示というのは、言葉を用いて行うものである。
 言葉の通じない相手には、暗示のかけようがないのだ。
 それが金剛心法の弱点でもある。
 言葉の通じない相手。香港人相手に、将介はどうやって術をかけるというのか。

 将介たちが重慶大店の湯文如の宿を訪ねてから二日後の夜、彌敦道(ネイザンロード)裏の露天で軽めの食事を済ませた将介と愛華の前にその男たちは現れた。
 黒っぽい作業着にハンティングキャップを目深に被った二人の男たちだ。
 どう見ても黒社会の人間にしか見えない。
 将介流に言えば、「誘いに乗った」ということになるだろう。
 ここ2日ばかり、将介は愛華と嘉成に頼んで「忍者スター」の噂を広めてもらったのだ。
 噂が彼らの耳に入り、彼らが何らかの行動を起こすことを予想してのことだ。
 もちろん、もうひとつの目的がある。
 それは将介の術が、相手の行動をコントロールする力があるということを、彼らに理解してもらうことだ。
 それが分からなければ、将介が何を言っても、彼らにはそれが何を意味するのかは理解ができないだろう。
 理解ができなければ、術にはめることは出来ない。
 暗示とはそういうものである。
 だから、前もって術をかける相手にはそれを知ってもらう必要があるのだ。
 そのためには「忍者スター」の名称は効果的だ。
 幼少の頃より日本のアニメで育った彼らの頭の中には、不可思議な忍術を使う忍者スターの存在がインプットされているからだ。
 将介が忍者スターであるというだけで、彼らは無条件に将介の使う不思議な術を受け入れてしまうだろう。
 
「おい、アイファ」
 将介は言った。
「尾行されているぜ」
 愛華は思わず振り返ろうとした。
「振り返るな。お前はここから帰るんだ。連中の狙いは俺だけのはずだ」
「馬鹿を言うなよ、ショウ。あたしが帰ったら通訳はどうするんだ? 日本のコトワザにあるだろ、「沈みかかった船」ってのが」
「船を沈めてどうする。それを言うなら「乗りかかった船」だ。」
 将介はちょっと考えた。
 ここ二日ばかり愛華に広東語を習ってはいるが、せいぜいが単語のいくつかを覚えたくらいで、とうてい会話になるレベルではない。
「心配するな。こう見えても、あたしは連中に顔が利くんだ」
「わかった。じゃ、少しでも危険だと思ったら、すぐに逃げるんだぞ」
 将介たちは尾行者が動きやすいように、わざと暗がりの路地へと足を運んだ。
 すると目の前にもうふたり、同じような格好をした男たちが道を塞いだ。
 後方からの男たちと併せて、完全に道を塞がれた形だ。
「お前か、日本から来たニンジャというのは?」
 男たちのひとりが言った。
 正に思うツボである。将介の唇に微笑が浮かぶ。
「ま、そんなところかな」
「一緒に来てもらえるかい?」
「その前に教えてもらえるかい。お前たちが、あの三人の日本人を拉致したのか?」
「来ればわかる」
 男の言葉には有無を言わせない迫力がある。
「わかった。行こう」
 将介は言った。

 将介と愛華のふたりは目隠しをされた上、車の後部座席に乗せられた。
 左右を挟むようにふたりの組員、ふたりは運転席と助手席に座る。
 残りのふたりは後方の車である。
 2台の黒塗りのベンツは、九龍の夜の闇へ滑るように走り出した。
 行き場所を特定されるのを防ぐためか、車は東へ西へ盛んに方向を変える。
 男たちは終始無言である。
 愛華が手を延ばして、将介の掌を握る。その手が微かに震えていた。
「怖いか?」
 将介がその耳に囁く。
「ま、無理もないわな」
「お前は怖くはないのか?」
「怖くないといえば、嘘にはなるが。・・・ま、心配するな。なんとかはなる」
 そう言って、愛華の手のひらをギュッと握る。
 愛華は思わず吹き出した。
「不思議だな。お前にそう言われると、何故か気持ちが落ち着くわ」
「おい」
 初めて隣の男が声をかけた。
「何を笑っている?」
「別に」
 愛華が広東語で応えたとき車は停車した。
 九龍の露天を出てから、すでに2時間が経過していた。
「潮の香りがするな」
 車から降ろされた将介はポツリと呟いた。

 ふたりは目隠しをされたまま、男達に連れられて歩き出した。
 狭い路地のような場所をグルグル歩き回された後、何やら広い建物の中に連れ込まれたようであった。
「ヨウコソ、ニンジャスター」
 片言の日本語が聴こえたあと、突然目隠しが剥ぎ取られた。
 大量の光の洪水に、思わず目を閉じる。
 ゆるゆると目を開くと、そこは古い倉庫の中であった。
 使われなくなってかなりの年月が経過しているのだろう、倉庫の中はがらんとしていた。
 壊れて埃まみれになった古い機械や、錆びたドラム缶、何が入っているのか判らない大きな袋などが、部屋の隅に積み上げられているばかりだ。
 ふたりの周囲には二十人ほどの黒社会の人間が取り囲んでいる。
 正面には人一倍身体のがっしりした男。先程、片言の日本語で話しかけてきた男が、ニヤついた顔で立っていた。
「あんたが、漢虎か?」
 将介は日本語で言った。
「チガウ。ワタシ、ハンフー、ナイネ」
「ふん」
 周囲を見回す。部屋の隅には、寄り添うように三人の日本人たちが、肩を寄せ合って震えていた。
 激しい暴行を受けたのだろう、どいつもこいつもひどく顔を張らしている。
 再び集団のほうに目をやると、
「あっ、お前。ジャチォンじゃないか」
 後方の愛華が声をあげた。
 余嘉成が連中の陰に顔を隠す。
「あいつ、裏切ったんだ。あたしたちの居場所を教えたのは、あいつだ」
 愛華がくやしそうに叫んだ。
「こうするよりなかったんだ。漢兄貴には逆らえない。アイファ、お前だってそうだ。今ならまだ遅くない。そいつから離れるんだ」
 集団の後ろから嘉成の声がする。
「ふざけるな、ジャチォン。この裏切り者!」
「まあ、そう言うな。これでいいんだよ。それより俺の言葉を通訳してくれ」
 将介は嘉成の裏切りを予想していたかのような余裕をみせて言った。
「そこの日本人たちを解放してほしいんだけどよ」
「そうはいかない。彼らは仲間を傷つけた。俺たちは舐められたままじゃ済まさないのだ」
「気持ちはわかるがよ、元はと言えばお前らが、こいつらの金に手を出したからじゃねえかよ。その中には俺の金も入ってるんだぜ」
「お前の事情は知らない。お前がこいつらを取り戻そうとするなら、お前もタダじゃ済まないぞ」
 ナイフ、チェーン、鉄パイプ・・・組員たちは手に手に得物を持って、警戒の輪を縮めて来る。
「しょうがねえな」
 将介はひどくのんびりした声で言った。
「俺は喧嘩はしない主義なんだがな」
「お前はニンジャだとかいうじゃないか」
 リーダー格のがっしりした男は薄ら笑いを浮かべながら言った。
「忍者なら忍術を使うだろ? 見せてみろよ」
「見たいか? なら、みせてやる。いいか、俺が「動くな」と言ったら、お前たちの足は地面に張り付いて動かなくなるぜ」
「馬鹿馬鹿しい」
 どっと笑いが起こった。
「おい、みんな。この忍者スターをやっちまえ!」
 男の掛け声で連中が一斉に動いた。

 奇声を挙げて将介に襲いかかる。
動けない!(フーヤオドン)
 腹の底から響くような声で将介が叫ぶ。憶えたばかりの広東語だ。
 それと同時にパパパパッという爆竹の破裂音が響き渡った。
一瞬、集団の動きが停止する。
「ほら、見ろ。もう動けねえぜ」
 将介が会心の笑みを浮かべる。
「何を馬鹿なことを」
 リーダー格の男が歩みを進めようとするが、その足が前に出ない。
「な、何だ? これは」
 他の男たちも必死に前に出ようとするのだが、まるで足が大地に張り付いたようにビクともしないのだ。
「どういうことだ、足が動かない」
 焦れば焦るほどその足は、固くコンクリの地面に固定され、バランスを失ってある者は尻餅を付き、またあるものは両手をついて四つん這いになっている。
「うまく行ったようだな」
 気がつくと嘉成が後方に回り込んでいた。
「この野郎、ジャチォン。よくも裏切ってくれたな」
 愛華が首根っこにしがみつく。
「ちょっと待てよ、アイファ。俺は裏切った訳じゃない」
「そうだ。俺が頼んで、裏切った振りをしてもらったんだ。俺たちの居場所を教えたのも俺の指示だ」
 将介が言った。
「それとショウの合図で爆竹を鳴らすこともな」
「なんだ。そういうことなら先に言えよ」
「悪いな。敵を欺くには、まず味方からって日本のことわざがあるからな」
 そう言われれば、愛華にも思い当たる節がないわけではない。この二日ほど言葉を教えているわけだが、その際通常の会話に混じって「裏切り」だの「計略」だの変わった単語を覚えたがっていた。
 あれはこのためであったのか。
「しかし・・・」
 愛華は信じられないという目で、身動きがとれずにもがいている組連中を眺めている。
「こいつら、どうして術にはまったんだ?」
「ああ、爆竹のお陰なんだ」
 将介は言った。

 金剛心法は暗示を利用してかける術である。
 では、彼らはいつ暗示にかかったのか?
 答えは彼らが将介の噂を聴いたときである。
「ニンジャ」と聴いて、彼らは笑った。所詮はアニメの中の出来事であろうと。
 その通りである。
 しかし、表面上はいくらそう思っていても、深層意識の奥では幼少の頃に染み付いた「忍者」のイメージが残っている。
 それが暗示になるのだ。暗示とは深層意識に語りかけるものである。
 将介は深層意識に染み込んだ「忍者」のイメージに語りかけたのだ。
「俺が「動くな」と言ったら、お前たちの足は地面に張り付いて動かなくなる」
 と。
 彼らの表層意識は当然それを否定したが、暗示を受けた深層意識は簡単にそれを受け入れた。
 そこに爆竹の音である。
 それを聴いて驚いた彼らの足は萎縮し、一瞬立ちすくんだ。
 同時に放たれた将介の暗示。
「動けない」
 それを聴いた彼らの深層意識は、爆竹の音で立ちすくんだ事を、将介の命令によって動けなくなったものと勘違いをしたのだ。
 彼らの脳は勘違いをし、それを受け入れた。
 一度受け入れてしまえば、あとは将介がそれを解除しない限り、永遠にそれを受け入れることになる。
 自分の放つ命令と、その後に起こる事象を関連付けて術にはめる。これが「先付け」である。
 逆に先に起こった事象に、後からの命令を関連付ける事を「後付け」という。
「先付け」「後付け」は、金剛心法の基本中の基本なのだ。

「さて」
 将介は傷付いて震えている三人の日本人たちに近づいた。
「これに懲りたら、もうあまり無茶なことはするもんじゃないぜ。さあ、もう行きな」
 男たちは転がるように逃げて行った。
「で、どうする、ショウ」
 逃げていく日本人たちを見送って愛華が言った。
「金を取り戻すか?」
「そうだな」
 将介はあくまでのんびりしている。
「わかった。金は返す。これを何とかしてくれ」
 リーダー格の男が、両手両足を地面に突っ伏し、四つん這いの姿勢で情けない声をだした。
「心配しなくとも、じきに元に戻る」
 そう言った将介は表情を引き締めて顔を上げた。倉庫の奥から只ならない気配を感じ取ったからだ。
「どうした? ショウ」
「アイファ、ジャチォン。少し下がってろ」
 緊張した声で言う将介の視線は、倉庫の奥に向けられたままである。
 こんな緊張した将介は初めてだ。
 そして。
 倉庫の奥の部屋から、その黒い影は現れたのだ。
「漢兄貴、助けてくれ」
 リーダー格の男が声を上げた。
 黒い影はそちらには目もくれず、鋭い視線で将介を睨み付けている。
「随分と荒らしてくれたものだな、忍者スター」
 黒い影が流暢な日本語で言った。
 ふふん。
 将介の唇に微笑が浮かぶ。
「忍者スターじゃない。俺は御門将介だ。あんたかい、漢虎というのは?」
「漢虎ではない。漢隆峰(ハン・ロンフォン)だ」
 漢虎も笑みを返した。
 ふふん。
 将介と漢虎は三メートルの距離で向かい合った。

 倉庫の奥から一直線に歩いてきた漢虎は、将介の間合い直前で歩みを停めると、反時計方向に向きを変えた。
 同時に将介も漢虎に対して反時計方向に足を進める。
 まるでふたりの中間に直径二メートルほどの、見えない球形の壁があるように、ふたりは二メートルの距離を保ちながらその周囲をまわり始めた。
「お前の術は、俺には効かない」
 漢虎は昏い声で言った。
「へえ、そうかい」
 将介の唇には依然微笑が張り付いたままだ。
「あれを観た時点で、あんたは半分がた術にかかっているんだ」
「半分だろ?」
「半分だ」
 漢虎は両腕を持ち上げ、顔を挟むように構えた。
 両足で軽いステップを踏む。
「気を付けろ、ショウ」
 嘉成が叫んだ。
「漢兄貴はカンフーの達人だが、そのベースはムエタイなんだ」
「シュッ」
 嘉成の言葉を遮るように、漢虎の右足が翻った。爆風のようなミドルが、将介のボディを襲う。
 将介は両腕をクロスしてそれを受ける。
 ドン!!
 という衝撃とともに、将介の巨体が一瞬浮き上がる。
 それとほぼ同時に、旋風のようなハイキックが将介の頭部をなぎ払う。
 疾い。
 避けきれない。
 将介の身体が宙に舞い、地面に転がった。
「ショウ!」
 愛華の悲鳴が聴こえる。
 将介は起き上がれない。
 漢虎はそんな彼に襲いかかるでもなく、ただじっと見つめている。
「立て。ダメージはないはずだ」
「へへ、バレたか。・・・しかし、ダメージがないとは、随分な言い様だな」
 確かに蹴りの方向に自ら飛んで衝撃を和らげてはいるが、それでもノーダーメージとはいい過ぎだろうとでも言いたげだ。
 将介は大きな熊のように立ち上がったが、その唇は切れ血が滴っている。
「さて、楽しくなってきたな」
 その顔に左のジャブが飛ぶ。右に頭を振ってよける所へ右のストレート。
 左フックはフェイントで、右のダブルから左ショートアッパー。・・・
 息もつかせぬコンビネーションだ。
 その何発かは確実にヒットしている。
 頭部をカバーしながら、暴風雨のような攻撃に耐える将介の脳裏に、あの水咲薫の面影が浮かぶ。
 スピードと鋭さは彼女といい勝負だが、強さと重さに関しては桁違いだ。
 これは人を殺せる突きであり、蹴りである。
 ・・・が、しかし。
「ジャチォン、止めてくれ。このままじゃ、ショウが殺されちまう」
「いや、違う・・・」
 すがり付く愛華を抑えて嘉成が言った。
「見ろ、漢兄貴の攻撃が当たらなくなってきた」
 嘉成の言う通り、それまでは三発に一発は当たっていたパンチが五発に一発になり、今では殆ど当たらなくなった。
 それに連れて将介の動きが次第に少なくなって来る。にも係わらず漢虎の攻撃はまるでヒットしないのだ。
 もちろん彼が手を抜いている訳ではない、細かいフェイントを織り交ぜた様々なコンビネーションを繰り出すのだが、将介はそれを軽々と捌いていく。
 攻撃がことごとく読まれている。
 そうとしか思えない。
「綺麗・・・」
 思わず愛華は目を見張った。
 彼らが目にしたものは、息が合った者同士が見せる殺陣のような、華麗な舞いであった。
 それはまるでアクション映画の格闘シーンを見るかのようである。
 息を切らせているのは、攻撃をしているはずの漢虎であった。
 将介は息ひとつ乱してはいない。
 と。
漢虎は突如、戦法を変更してきた。両腕を延ばして将介の頭を掴みにきたのだ。
 首相撲からの膝蹴り攻撃に入ろうとしたのである。
 これなら外される恐れはない。
 しかし頭を掴もうとした彼の腕は、何も掴めずに空を泳いだ。
 別段、将介がそれを交わした訳ではない。
 漢虎が目測を誤ったのだ。
 ・・・まさか。
 漢虎は唖然として立ち竦んだ。
あの時と同じだ。と、愛華は思った。
 将介が三人の日本人をあしらったときだ。
 あの時も通常では考えられない状況で、ナイフを持った日本人は目標を見誤ったのだ。
「準備は整った。見せてやるぜ、金剛心法」
 切れるような笑みを浮かべて、将介が言った。

10

 漢虎の表情が変わった。眼が吊り上がっている。
「見せてもらおうか」
 ノーモーションでパンチを繰り出した。ムエタイのパンチではない。カンフーの突きである。
 同時に将介が人差し指を突き出した。
 喉元に指を突きつけられ、漢虎の動きが停止した。
 ニヤリと笑った将介は、その指をゆっくりと降ろして、漢虎の足元を指差した。
「あっ」
 嘉成は思わず息を飲んだ。
 漢虎の身体が不自然に傾いていることに気がついたからだ。
 上半身は姿勢を保とうとするのだが、下半身が斜めに捻れている。
 そう、彼の体は将介が指差す方向に傾いているのだ。
 ゆっくり、ゆっくり、漢虎の身体が倒れていく。
 歯を食いしばる。
 倒れゆく身体を持ち直そうと必死に耐えているのだ。
 それが限界に近づいた時、遂に彼は諦めた。
 倒れゆく方向に自ら飛んで、地面を転がった。
 一回転して起き上がった漢虎は、信じられない面持ちで将介を見上げている。
「立てよ」
 将介は言った。
「ダメージはないはずだぜ」
 漢虎が立ち上がった。
 怒りに全身が震えている。
「オオオッ」
 天を向き、吠えた。
 両足を開き重心を落とす。
 左腕が前、右腕が後ろ。
 半身。
 左足を持ち上げ、鋭く打ち下ろす。
 振脚。
 大地が震える。
 勁を溜める。
 功夫。
「発ッ!」
 気合一閃。練り上げた勁を拳に込めて、渾身の一撃を繰り出した。
 海を裂き、山を砕く一撃だ。
 それに対する将介は、さりげなく右の掌を持ち上げただけだ。
 通常であれば、その掌ごと数メートル先に吹っ飛ばされていることだろう。
 しかし、そうはならなかった。
 漢虎が放った渾身の一撃は、将介の手のひら数センチの距離でピタリと静止した。まるで漢虎の拳と将介の掌の間に、目には見えない壁が存在するかのように。
 愛華と嘉成は目を見張っている。
 そして彼らは、その奇跡を目の当たりにすることになるのだ。

 将介が右の掌をゆっくりと持ち上げていく。
 するとなんと、数センチの距離を保ったまま、漢虎の右腕も同様に持ち上がっていくではないか。
 もちろんそれは、彼の意図したことではない。
 その証拠に彼は必死の形相で、それを阻止しようと全身の力を込めているのだ。
 しかし意思に逆らって彼の腕は、高く高く持ち上がっていく。
 身長でいうなら、将介のほうが遥かに高い。従って漢虎はつま先立ちになり、完全にバランスを失っていた。
「合気傀儡投げ」
 将介が呟いた。
 振り上げていた右腕を、斜め下に振り下ろす。
 振り下ろされた腕の動きに引っ張られるように、漢虎の身体が宙で回転し、背中からコンクリートの地面に激突した。
「ぬぐぅ」
 したたかに背中を打ち付けたはずの漢虎だったが、何事もなかったかのように起き上がると、必殺の蹴りを将介の頭部に放った。
 将介が指で空中に円を描くと、漢虎の身体は蹴りを放ったままの姿勢で、その軌道に沿うように宙を舞う。
 指一本触れてはいない。
 傍から見ていると、漢虎が将介の周囲を勝手に飛び回っているようにも観える。
 将介が指を持ち上げると、倒れていた漢虎の身体は引きずられるように起き上がり、再び回転して大地に叩きつけられた。
 まるで見えない糸が漢虎の身体に結び付けられていて、自由に操られているかのようだ。
 愛華も嘉成も、動けない漢虎の部下たちも、息を飲んでその信じられない光景を見つめていた。
 とうとう漢虎は動かなくなった。
「ここまでだな」
 将介が言った。

11

 漢虎は天を向いて動かない。
「俺は・・・負けたのか?」
 ポツリと呟いた。
「ああ」
 将介が言う。
「お前、今まで負けた事がなかったのか?」
「ない」
「ふん、俺なんか負けてばかりだったがな」
「お前がか?」
 漢虎は驚いて将介の顔を見上げた。
「ジジイも兄貴も、とんでもない化物でな。俺は一度も勝てなかった」
 将介は手を差し伸べた。
 漢虎は少しの間、その瞳を見つめていたが、やがてその手を掴んだ。
「漢兄貴・・・」
 漢虎の部下が情けない声をあげる。
「お前たち、もういい。もう動けるはずだ」
 そして将介を見つめた。
「そういうことだろう?」
「まあな」
 その瞬間、金縛りにあっていた漢虎の部下たちの身体は、それまでのことが嘘のように自由になった。
「どういうことだ、ショウ」
 愛華と嘉成が将介の元に駆け寄る。
「この漢隆峰には分かったらしい、傀儡投げの正体がな。なあ、ロンフォン」
「ふん、だからと言ってどうなるのもでもない。お前の術は、相手がそれを知ってる程かかりやすい。そうだろう?」
「まあ、心法は潜在意識に働きかけるものだからな」
「俺の負けだ」
 漢虎は背を向けた。
「なあ、ロンフォン。あの、三人の日本人だが、俺の顔に免じて許してはもらえないか?」
「何故連中にこだわる。同胞だからか?」
 将介の言葉に漢虎は足を止めた。
「まあ、それもあるが、何ていうか連中にも親兄弟はいるだろからな」
 将介は頭を掻きながら言った。
 漢虎はしばらくその顔を見つめていたが、ふいにプッと吹き出した。
「まあ、いい。今回は貸しにしておく」
 そう言って漢虎は、部下たちと引き上げていった。
「驚いたな」
 嘉成が言った。
「俺は漢兄貴が笑うところを初めて見た」
「それにしても、大した男だな、ショウ。あの漢兄貴を倒しちまうんだからな」
 愛華が横に並んだ。
「あッ」
 急に将介が大きな声をあげたので、ふたりは驚いて彼を見上げた。
「どうしたんだ、ショウ」
「しまった。俺の金を取り戻すのを忘れた」
「馬鹿野郎!」
 愛華は将介の脚を蹴飛ばした。
「あたしの金だ」



この物語はフィクションであり、実在の人物・団体とは一切関係ありません。
 
 

                                           完

九龍の夜

高校生時代の御門将介の活躍が読みたい方は「センター街の魔女」をご覧下さい。

九龍の夜

無敵と思われた「金剛心法」の弱点は言葉にあった。 混乱の都・香港に現れた御門将介は、知り合った愛華、嘉成と共に日本人拉致事件に巻き込まれる。そこで出会ったのは拳法の達人・漢虎だった。言葉の通じない香港人相手に将介はどう闘うのか? 金剛心法VSカンフーの壮絶な闘いの幕が開いた。

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