白い現 第八章 接触
鏡で見た赤い少女、剣護が遠ざかるように思った時の既視感。なぜか心に引っかかるいくつかのことに思いふける真白。そんな時、登校日に訪れた学校の図書館で、誰かが結界を張っている気配を彼女は感じる。
第八章 接触
第八章 接触
あなたのことが
なんにも見えない
色鮮やかな
闇に
触れるだけ
一
八月の登校日、真白は窓際中程の自分の席につき、物思いに耽(ふけ)っていた。
剣護と山尾が初顔合わせをした晩、鏡に映った光景のことが、彼女の頭を離れずにいた。
今日もジワジワと蝉がうるさい。ここしばらく、空は泣いてもいない。
身体的にダメージを受けるという点においても、真白は続く晴天を少なからず恨めしく思っていた。
(赤い鏡面…。赤いワンピースの少女。確かにどこかで見た顔立ちなのに)
思い出すことが出来ない。
それが不可解だった。
また、鏡の中の少女は、明らかに助けを求めているように見えた。
それを示すように、彼女の細い足首には足枷(あしかせ)があった。
そして口にした言葉。
〝太郎清隆〟
その後、念の為剣護にも訊いてみたが、全く心当たりが無い様子だった。
「しーろりん、何考え込んでんの?」
担任である倉石からの、お決まりの注意事項を拝聴(はいちょう)したあとは早くも解散となり、周囲の生徒は帰り支度(じたく)をしているところだった。
その中で一人身じろぎしない真白に、上野みちるが横から声をかけてきたのだ。
「みちるちゃん。その呼び方、白蟻(しろあり)みたいだから止めてってば」
「何でよー、可愛いじゃん。んで、何考えてたのよ。綺麗なお顔が固まってたよ?」
くるくるとした短い巻き毛の愛らしい少女は、しっかり化粧を施した顔を真白に近付けてにんまり笑う。リップの色が可愛いな、と真白は見当違いのことを思う。以前は気にも留めなかったそんなことが、最近は目につくようになった。
「ふふーん。みちる様にはお見通しよ?成瀬のことでしょ」
そう言って、窓際最前列の席を悪戯(いたずら)っぽい目で見る。釣られるように、真白もまたそちらを見遣(みや)った。
鞄を机に置いた荒太が視線に気付き、真白に微笑みかけてくる。爽やかな少年のお手本のような笑顔だが、彼が心から笑顔を向ける相手は真白一人に限られている。その他大勢には専ら表面上のにこやかさで通すのが荒太だ。
恥じらいながら、真白も荒太に控えめな笑みを返した。
その一幕を見たみちるは、からかうような笑いを更に深めた。
「ほーら。もうほとんど決まったようなもんだよねー、しろりんと成瀬ってぇ。あたし、最初はしろりんと江藤が怪しいと思ってたんだけど。なーんかちょっと違う感じだし。他の皆もそう思ってるみたいだよ。江藤がこれまで告られた数、片手じゃきかないって」
「…江藤君、格好良いもんね。頭も良いし」
真白が無難な感想を述べる。兄を他人のように褒めるのは、どこかこそばゆい。
「うーん。でもさでもさ、あんまりにもそつがないって言うか、隙が無いって言うか、ちょっと良く解らないとこあるよね、彼。ミステリアスって感じ。それでもって、しろりんとすこーし似てるじゃない。一時期、実は兄妹なんじゃないか、って噂が流れたくらいなんだから」
真白は目を大きくして、今度は教室の中央列後方にある怜の席に目を遣る。彼はスケジュール帳を開き、何やらシャーペンで書き込んでいた。
いかにも憂いある秀麗な面持ちの怜だが、そのスケジュール帳には学校行事の日程などの他に、彼のアパートの近所にあるスーパーの特売日が、しっかりチェックされていることを真白は知っている。特にお肉の特売日には赤丸がしてあった、と一度垣間見た時のことを思い出す。高校一年にして一人暮らしをしていることもあり、あれで怜は割と所帯じみている。
ミステリアスとは何だろう、と考え込んでしまう。
視線を感じたのか彼が目を上げてこちらを見た為、真白は急いで視線を戻した。
「……似てる?」
「うん。ミステリアス美形兄妹って感じ」
衆目(しゅうもく)もこれだから侮(あなど)れない、と真白はつくづく思い知る。
真実を、ある意味で突いたところを見抜く目は、そこらじゅうにあるのだ。
「あれ?おい、しろ。どこ行くんだよ」
一年A組に真白を迎えに来た剣護は、すれ違った真白に声をかけた。
「あ、剣護。図書室に、本を返しに行って来る。休み前に返しそびれた本があるの」
そう言って、真白は右手に持ったハードカバーを掲げて見せた。
「…俺も一緒に行くか?」
「子供じゃないんだから。教室で待ってて」
真白は笑ってそう言うと、小走りに遠ざかって行った。
図書室の扉に手をかけた真白は、静止した。
(―――――誰かが結界を張ってる)
神界より帰ってから、真白の感覚は以前よりも鋭敏なものになっていた。
どうするべきか、考える。この場合、独断で対処するより、まず剣護たちに知らせて相談するのが最善だろう。だがスマートフォンは教室に置いた鞄の中だ。結界内部の状況が解らない以上、一旦この場を離れるのも躊躇(ためら)われる。
扉に手を置いたまま、再びどうするかと考えたところで、つるり、と真白の身体が闇に転がり込んだ。
その空間にたたらを踏んだ時、潮の香りが鼻についた。
闇と見えたのは、深く色濃い青の世界だった。
俊敏な身ごなしで真白から距離を取って跳躍(ちょうやく)し、しなやかに降り立った影が一つ。
薄茶のショートヘアー、白いタンクトップ、そしてジーンズを穿いたアオハは、些か困惑した瞳で真白を見た。
アオハとは、市枝の家の別荘で出会って以来だ。
彼女の前に座すのは、六王を手にした竜軌だった。敵を目前にして竜軌が膝を折ることなど、本来ならば有り得ない。深い傷を負っているのが、すぐに解った。
真白の判断は早かった。
「雪華。来て」
真白の声音に、忠実に姿を現した懐剣を、掴む。
竜軌の前に立ちはだかると、アオハに対して雪華を構えた。
アオハが首を傾げる。子供のような表情には、まだ困惑の色が濃い。
「どうして来たの、マシロ。殺したくないって言ったのに」
「――――――この人をどうするの」
「うん?殺すよ?」
何を解り切ったことを、という表情でアオハが答えた。
顔を顰(しか)めて続ける。
「言葉を乱暴に操る、無神経な人。私は大嫌い。マシロだって、リュウキのこと好きじゃないでしょう?」
思い当たるところは多々あったが、真白はアオハに同意することは出来なかった。立った場所を譲ることも出来ない。
「退(ど)け、真白」
真白は後ろにうずくまる竜軌をちらりと見る。
立つことが出来ない程の、怪我を負っているのだ。
「…退きません」
「先に六王の餌食(えじき)となるか」
低い竜軌の声が響く。その声は叱声(しっせい)にも似ていた。彼が真白の介入を喜んでいないことは明らかだ。
「あなたがしたことの意味が、まだ私には理解出来ていない。少なくともそれが解るまではあなたを死なせたくありません。それに――――――…市枝が泣くのは嫌です」
竜軌の顔が固まる。アオハと対峙する為に前を向いた真白に、その表情は見えなかった。
いかにも気乗りしないといった風情で吐息を洩らし、アオハが手に掲げたのは波のうねりのように見えた。飛沫(ひまつ)の散る、青い塊。それは変幻自在の形を取りながら、対象物を捕獲しにかかる。
瞬時に眼前に迫ったそれを、真白は雪華で防いだ。忽(たちま)ちの内に雪華の刃が、波にからめとられるように青く染まる。考えるより前に身体が動き、力を籠めてその青を切り裂いた。
美しい、紺碧(こんぺき)の欠片(かけら)が飛び散る。それは水面(みなも)に散らばるガラス片のようにも見えた。
状況を忘れ、真白はその輝きに一瞬、見惚(みと)れる。
アオハが目を丸くした。
「すごいね、マシロ。私の波を切り裂ける神器があるなんて。やっぱりあなたは特別なのね」
アオハが、どこかはしゃいだような賛嘆の声を上げる端から、次々に波のうねりが襲来する。真白は流麗な動きで、それらを雪華で切っていった。以前にも増して、雪華が自在に動く。無数に散る紺碧の色が、青より更に深い色へ真白の足元を染め上げていた。
しかし油断は出来ない。
一度波に捕らわれれば、致命的な傷を負うことになる、と直感で悟っていた。
―――――――恐らくは、竜軌のように。
襲撃が止んだ時、アオハの唇は弧を描いていた。薄茶の瞳が、得難い玩具(おもちゃ)を見つけた子供のように、キラキラと輝いている。
「ねえ、マシロ。今度は直(じか)に刃(やいば)を合わせよう。あなたもあなたの剣も、とても綺麗。私は、綺麗なものと戦うのは好き。それを傷つける痛みも含めて、自分の中でしっかり味わうの。あなたを殺してしまう、その寸前まで追い詰めて、弱った身体を抱き締めてあげるから。リュウキの六王も綺麗だから好き。…リュウキは、命拾いしたねえ?」
自尊心の高い竜軌が、この言い様に肌を刺すような殺気を放つ。
アオハがそんな竜軌を見てクスリと笑う。白い鳥が羽ばたくように、ひらりと左手を振った。
「ここ、入りやすいけど出るのは難しいから、頑張ってね。急がないと、リュウキは危ないんじゃないかな」
どこまでも無邪気に言うと、アオハは消えた。
確かにその空間は、雪華をもってしても開くことが叶わなかった。結界が内部に人を閉じ込める強さの度合いは、創り手の力に左右される。雪華によってさえびくとも揺らがない、海のように青い空間の強固さは、そのままアオハの力を物語っていた。
(…剣護を待つしかない)
図書室へ向かった自分の戻りが遅ければ、必ず剣護は異変に気付く。
振り向いた先には、未だ六王を手にしたままの竜軌が座り込んでいる。
胸元に深い裂傷(れっしょう)が走っている。真白は彼にそっと歩み寄った。左手の小指に嵌(は)めた、青紫の雫が目に入る。竜軌に襲われたことへの怯(おび)えはまだ心に在るが、今はとにかくも非常事態だった。
「……痛みはひどいですか、新庄先輩」
竜軌は憮然(ぶぜん)とした色合いの混じった、白けた顔をしている。
「――――――真白」
「はい」
「荒太とはもう寝たか?……ああ…、それとも兄貴共のどちらかが相手か。気味が悪い程に仲が良いからな、お前らは」
竜軌の傍らにひざまづいた真白の身体が強張(こわば)り、怒りと羞恥(しゅうち)で熱くなる。
剣護や怜が真白を聖域と見なすように、真白にとっての彼らもまた聖域だ。それを貶(おとし)められることは、真白には我慢ならない。荒太のことに関しても、竜軌に茶化される筋合いは無い。声を荒げたくなる思いを抑えて相手は怪我人だと何度も胸中で唱え、怒りを鎮めようとする。けれどささやかな反撃として、口を開かずにはいられなかった。
「無茶してそんな大怪我をした癖に、どうして減らず口や憎まれ口を叩(たた)くんですか」
竜軌が喉で笑う。
「案外、言いおる」
「………」
その後、落ちた沈黙を先に破ったのは竜軌だった。
「真白。透主とは、戦うな」
「え?」
竜軌の目はどこか遠くを見るようで、声は淡々としていた。
「戦うな。お前も、太郎清隆も、恐らくは透主に刃を向けることは出来まい。荒太でも難しかろう。透主を傷つけるはお前たち自身を傷つけることに他ならぬ。透主(あれ)は、俺が殺(や)る」
語られる言葉の意味を測りかねて、真白は覚束(おぼつか)ない表情を浮かべる。
「―――――どうしてですか」
「…透主は〝とうしゅ〟だからだ」
にやりと歯を見せて謎めいた言葉を言いながらも、竜軌の息は苦しそうだった。竜軌への怒りやわだかまりが束の間、遠ざかる。真白はせめてもと思い、持ち歩いているハンカチを竜軌の傷口に押し当てた。白いハンカチが、すぐに赤く染まる。それを見る竜軌の目は醒(さ)めていて、むしろ真白のほうが焦(あせ)りに駆られた。市枝の泣き顔が頭に浮かぶ。竜軌に言ったことは嘘ではない。口では何と言おうと、竜軌が万一命を落とすようなことになれば市枝が嘆くのは目に見えている。気丈でいて情が深い面を持つ親友を、真白は悲しみから守りたかった。
(剣護…。早く来て)
荒い息を吐く竜軌の目が間近にあっても、今は怖くなかった。
「私を襲ったのには、何か事情があったんですね」
黒い瞳がつい、と真白を見る。
「今の俺の言葉の、どこをどう聞いたらそうなる。都合の良い解釈をするな。痛い目に遭(あ)っても楽天的発想が治らぬとは、莫迦な女だ」
これが竜軌だ、と真白は思った。相手を思い遣っていることを、悟らせようとしない。優しくない言葉で遠回りして警告する。安直に、自らの心に迫られることを厭(いと)う。
天下を総(す)べようと考えるなら、もっと老獪(ろうかい)に人心を懐柔(かいじゅう)するべきだった。そうした観点から見れば、生来不器用な信長は、天下人の器ではなかったと言える。
(それでも彼に魅了される人間はいた)
今井宗久も嵐も若雪も、信長に賭けて自分の持てる力の全てを尽くした。
「……前生の時からそうでした。あなたは、殊更(ことさら)に偽悪振(ぎあくぶ)る時があった」
荒い息の下からも、竜軌はふん、と鼻を鳴らした。
「小賢(こざか)しいことだ。されどその小賢しさをもってしても、お前は男を解っておらぬ。ただ事情がある、それだけのことで乱行(らんぎょう)に及ぼうか」
「ではなぜ」
竜軌の黒い瞳が、真白の焦げ茶の瞳を見据えた。
「――――欲しいと思うたからよ。なぜその理由を否定したがるか、そのほうが俺には皆目解らん。雪白の肌に惹かれる男がどれだけおるか、お前本人が最も解っておらぬ」
「私には荒太君がいます。あなたのものにはなれない」
言い切った真白に、竜軌が軽く笑う。雪白と言う彼の顔色こそが紙のように白い。
「奪い取って何が悪い?強奪、侵略、搾取(さくしゅ)。乱世を、俺はそうやって切り開いてきた――――――なあ、真白」
青一色の空間で、竜軌と言葉を交わすのは不思議な気分だった。
赤と黒の色彩を持つ少年の姿は、真っ青な世界の広がる中、異質で浮いていた。
(…時代の覇者と言っても良い人なのに、いつもこの人は寂しく、世界から取りこぼされているようにさえ感じる…。余りに、先に進み過ぎて)
それは巫(かんなぎ)の資質を持つ竜軌の、業(ごう)のようなものかもしれないと真白は思う。
震える程の恐怖を、今は少しも感じない。それは竜軌が怪我を負っているからだけではなく、彼から獰猛(どうもう)な気配が発せられていないからでもあった。
「お前、俺と一緒に来ないか?」
軽く、乾いた声から真意を読み取ることは難しかった。
「一緒に…?どこへですか」
竜軌がちらりと笑う。目に悪戯(いたずら)っ子のような光がちらついた。
「世界の果てまで」
いきなり飛んだ話に、真白が瞬きする。
「中国、イギリス、フランス、アメリカ………。あらゆる国を、見てみたいと思わないか。この国は、相も変わらず狭苦(せまくる)しい。いっそ攻め滅ぼしてやりたくなる程に」
真白は自分でも知らず、悲しげに微笑んだ。
「…私には無理です。国外へだなんて。そうそう行ける筈もない」
「身体のことか?お前が歩けない時には、俺がおぶってやる。熱を出したら、お前の兄貴みたいに、看病してやる。怪我を負えば手当をして、俺がお前を守ってやる。休みながら眺める景色も、悪くなかろう。――――真白。お前のような荷なら、俺はあっても良いと思っている。お前は担いで歩くに値する女だ。…俺の手を取れ」
無骨(ぶこつ)で色気の無い物言いだったが、前生まで含めても、これ程優しい言葉を話す竜軌を真白は知らない。
真白は、竜軌が伸べた大きくて力強い手を見た。兄たちや荒太と同じ、戦う人間の掌(てのひら)だ。
荒太以外の人間の手を取ることなど、真白には考えられない。
けれど、孤高な王のような竜軌の在り様が、真白の胸に痛ましい思いを喚起(かんき)させた。
「―――――俺の孤独を哀れむならば、お前が傍らに立てば良い。俺もお前も、余人(よじん)には理解出来ぬ境地に在るは同じであろう」
真白の思いを読んだかのように、竜軌が言った。
竜軌の孤独。真白の孤独。
常人には聴こえない声を聴く巫である竜軌と、神としての資質を有しながら人として生きる真白に、通じる孤独は確かにあるのかもしれない。けれど、真白がその在り様を選んだのは荒太がいてこそだ。彼がいなければ、若雪が人として転生する選択肢を選ぶこともなかった。
自分と竜軌の孤独は、呼び合って理解し合えるかもしれない。
だがそこまでだ。それ以上の感情を、真白は彼に対して持ち得ない。誰もがそうして竜軌を置いて行くのかと思うと、真白の胸は再び鈍く痛んだ。
「…そこで泣きそうな顔をするのが、お前の弱さだ」
竜軌はあっさりと手を引っ込める。
平生(へいぜい)と変わらない目で真白の顔を眺めてから、目を逸らした。そうかもしれない、と思いつつ、真白は悲しい思いで口を開いた。
「濃姫様(のうひめさま)とは、仲睦(なかむつ)まじくしておられるように拝見しておりました」
彼女では、竜軌の隣にいられないのだろうか。
濃姫、という名前に竜軌がピクリと反応したのが解った。
「……あれが今どこにいるものか、俺の耳であっても聴き取れぬ」
では竜軌は、嘗(かつ)ての伴侶(はんりょ)を捜そうと努めはしたのだ。その事実は、真白を少しだけ安心させた。
その時、青一色だった空間に、外界の光が差し込んだ。
結界が破れ、図書室はいつもの様相を取り戻した。
「真白!無事か!?」
図書室に駆け込んだ剣護は、そこに妹と竜軌の姿を見て驚きの表情を見せたが、即座に二人の間に割り込み真白を背に庇うと、戦闘態勢に入った。低い声で呼ばわる。
「臥龍(がりゅう)。頼む」
豪奢(ごうしゃ)な金色(こんじき)の太刀を手にした兄を、真白が慌てて止めにかかる。
「待って、剣護。違う。新庄先輩は、魍魎と戦ってたの。私が、たまたまそこに入り込んだだけだよ」
真白の声に、剣護がことの是非を確認する厳しい目で竜軌を見遣った。
うずくまった彼の出血のひどさに気付き、眉を顰(ひそ)める。
救急車を呼ぶか、と考えた剣護の思惑を読んだように、竜軌が言った。
「家の人間に迎えに来させる。要らん世話をするな、門倉」
数分後、竜軌はスーツに身を包んだ男たちに伴われて学園をあとにした。その大層な警護振りに、剣護も真白も唖然とした。図書室に残った血の跡さえも、学園に残った数人の男が綺麗に後始末をして去って行った。
(何の稼業やってんだ、あいつの家は)
剣護が呆れ混じりにそう思うのも、無理は無かった。
教室に戻った真白と剣護を、怜たちが安堵した表情で迎えた。他の生徒は既に教室を去っていた。剣護が自らも真白から聞いた状況を、手早く説明する。
「…もう少ししても戻らなかったら、俺たちもそっちに行こうと思ってたよ」
怜の言葉に、荒太も市枝も頷いていた。荒太はとりわけ真白を案じる顔つきだった。自分も行くと言い張る荒太を、ここはひとまず剣護に任せておけと怜たちが止めたのだ。
「…市枝、先輩はきっと大丈夫だよ」
励ます声に複雑そうな顔を浮かべる市枝の横で、そんなことはどうでも良いとばかりに荒太が真白の腕に手を伸ばして訊いて来た。
「真白さん、大丈夫?あいつ…、何もしなかった?」
無言で深く頷く真白を、まだ心配そうな表情で見ている。
〝俺の手を取れ〟
竜軌の強い漆黒の目。
「お?お?どうした、しろ」
真白は剣護の背中にピッタリくっついた。誰にも今の顔を見られたくなかった。
(どうして。荒太君に触れられたところはやっぱり熱くなるのに。鼓動が早まるのに)
それはほんの一瞬だった。
ほんの一瞬だけ、真白は揺れた。孤独な魂の共鳴を感じて。
そしてそんな自分を恥じた。荒太しかいない、と思うと同時に揺れる自分が理解出来ず、真白はその場にいる誰の目も直視することが出来なかった。
(軽薄(けいはく)だ……私)
竜軌に優しく誘われただけで簡単にほだされる自分を、思春期の少女特有の潔癖さで真白は嫌悪した。
通話を切った兵庫は、反動をつけてベッドから起き上がった。チャリ、と胸元のネックレスが鳴る。白いタオルケットの下で微睡(まどろ)んでいた女性が、目をこすりながら甘えるように身を摺(す)り寄(よ)せて来る。ここで暑いとは言わないのが大人のマナーだ。
「どうしたの、直(ただし)くん。電話、誰から?」
「俺の大事なご主人様」
臆面も無く言ってのける兵庫に、女性は顔を歪める。
「何それ。…行っちゃうの?」
頭からシャツを被りながら頷く。
「うん。ゆかりちゃん、そのお客にまた暴力振るわれるようだったら、今回みたいに俺に知らせな。俺が優しいーく、言い聞かせてやるから。あ、鍵は郵便受けに入れといてね」
そう言いながら、キャリーバックに大きな猫――――山尾を入れる兵庫に、ゆかりは怪訝(けげん)な顔をする。
「にゃんこと一緒に行くの?」
「ああ。ご主人様の、ご所望(しょもう)でね」
ふうん、と面白くなさそうな声で、ゆかりが応じた。
「そのご主人様って女でしょ」
「そうだよ」
兵庫は誤魔化しもしなかった。
「兵庫」
真白の家近くのバス停留所に降り立った兵庫を呼ぶ、重低音があった。
濃いグレーのスーツを着た、偉丈夫(いじょうふ)。夏の太陽の下では、目に暑苦しい印象を受ける。
「よう、黒(くろ)。何してんだ、こんなところで」
「黒羽森(くろうもり)ー?」
兵庫と山尾の声が響く。
「裁判日程の調整に行く途中だ」
スーツの襟(えり)には弁護士バッジが光っている。
「お宅の事務所から裁判所に行くには、遠回りなんじゃないか?」
嵐下七忍の一人、黒羽森は兵庫の問いには答えず、山尾の入ったキャリーバッグを物言いたげな目で見下ろした。
「…真白様の御用か?」
「そういうこと。だから怖い顔してないでどけよ」
「お前たちは主君に馴れ馴れし過ぎる。特に真白様は、まだ少女でおられるのだぞ」
憂う表情を見せる黒羽森に、兵庫は聞き飽きたという顔をして見せる。
「少女だからこそ、乗って差し上げるべき相談もあるんだよ。多感なお年頃だからな。僻(ひが)んでないで、何ならお前も一緒に来れば?」
黒羽森は考えられない、と言う顔で深い溜息をつきながら立ち去った。
「苦労性だよなあ、あいつも」
キャリーバッグの中から山尾が言う。お前と比較したら大抵の人間は苦労性だよ、と兵庫は胸の内で思った。
キャリーバッグの戸を開けると、山尾は二本足で一目散に真白のもとに駆けた。
「真白様ー」
両手を出して構えていた真白が大柄の身体を抱き上げてやると、満足そうに喉をゴロゴロと鳴らす。もっちり、ふんわりした感触に、ざわついていた真白の心が癒される。
山尾は普段、兵庫の住まいを拠点として自由に動き回っている。
山尾単独でも真白の家まで来られないことはないのだが、目的地が同じ場合は、兵庫と同行するのが手っ取り早かった。車も持っている兵庫だが、真白の家への出入りを目立たないようにする為、今日は公共交通機関を利用して来たのだ。
「真白様、程々になさってくださいね。そいつ、中身はメタボのおっさんですから」
双方共に幸せそうな少女と猫を見て、兵庫が注意を促す。
目の前に置かれた紅茶からは、湯気が立ち上っていた。
真白は名残惜しそうに山尾を放し、兵庫の向かいのソファに座った。どさくさに紛れて、山尾もその横に居座る。
初めは少し言い淀んだものの、真白は今日起きた一件を、自分の感情も交えて兵庫に話した。呆れられるかもしれない、という恐れが真白にはあったのだが、話を聴いた兵庫はあっさり断じた。
「そりゃ本命がいたって、ぐらつく時はぐらつきますよ。普通です、普通」
紅茶を口にして、目を細めている。その様子に真白は力が抜けた。
さも一大事を打ち明けた顔をしている真白を見て、兵庫は内心そんなことか、と思っていた。些細(ささい)な気持ちの揺れを深刻に思い悩むあたり、潔癖な性分は昔と変わっていないらしい。真白の切実な思いを察するゆえに、くだらない用件で呼び出したと彼女を責める気持ちも起きない。むしろ荒太への愛情に忠実であろうとする真白が健気に思えた。
「そう…なの?」
自責(じせき)の念を色濃く宿す焦げ茶の瞳に、安心させるように頷いて見せる。
「そうですよ。ましてや、相手は信長公。抗(あらが)いがたい魅力ってやつがあるんじゃないですか?そんなこと一々気にしてたら、身が持ちませんて。まあ前回の一件は、向こうが強引過ぎたと思いますけどね。あれは犯罪ですから。…七忍を敵に回す行為でもありますし」
まだ若雪に触れられずにいたころ、嵐は他の女性と関係を持つこともあった。真白にだけ自分以外を見るなと言う資格は無いだろう。
(言いそうだけど)
そのあたりの事情を真白に明かさないのは、真白同様に主君である荒太への忠義立てと言うよりは、男としての仲間意識からだ。
「もし、若雪だった時に織田様に同じように手を差し出されたら、どうなってただろう…」
自分と同じく孤独な魂に惹かれ、手を預けていただろうか。
「その仮定は無意味ですよ。どちらにしろ若雪様には嵐様が、真白様には荒太様がいるんですから」
兵庫がすっぱりと言い切る。
「……兵庫は色んな女の人に魅力を感じて、たくさんの恋愛を楽しんでるの?」
この言葉に、紅茶を飲んでいた兵庫が軽くむせた。〝自由恋愛〟の一件が、まだ尾を引いている。
「ですからそれは、荒太様の誤解ですって」
「本当に?」
真白の焦げ茶色の瞳が、貫かんばかりに兵庫を凝視する。
「本当ですよ」
兵庫はにっこり笑って表情を取り繕ったが、真白にどこまで信用されたものかは疑問だった。
それを示すかのように、真白が上目遣いにポツリと言う。
「でも兵庫、今日は甘くて良い香りがするよ。…誰かと一緒だったんじゃないの?」
あくまでさりげない顔を装いながら、兵庫は内心、舌うちしていた。
ゆかりの香水が移ったのだろう。失態だ。
事情を知る山尾は、それ見たことか、と言わんばかりに兵庫から視線を逸らし、真白の腕に頭をこすりつける。気儘(きまま)な生活がたたってか、ふっくらしたお腹を気にしているだけに、メタボと言われたことを根に持っていたのだ。
「兵庫は、本当の意味で好きな人っていないの?」
兵庫が薄い笑いを浮かべる。〝本当の意味で〟という言葉の使い回しが可愛いと思う。
「どうでしょうねえ」
言いながら首筋を手で掻いた。
黙り込んだ真白を見て、おや、と意外な顔をする。
「……この場面だと、相手を追及されるとばかり、思ってましたが」
「追及しても、兵庫は言いたくない時は絶対に言わないでしょう」
静かな表情で言う真白に、兵庫が笑う。主君である聡明な少女の相手は楽しい。
「お察しの通りです」
「いつか、教えてくれる?その気になったら」
「良いですよ」
嵐下七忍でも嵐に次ぐ地位にいた男は、軽い口調で請け負った。
捉えどころのない気性の兵庫だが、仮に前生においても彼にそんな大事な人がいたのだとしたら、本能寺では死んでも死にきれない思いだったに違いない。口に出してもきっと受け取ってはもらえないであろう謝罪を、真白は心の中で述べた。
二
真白たちの住まう地域の人間が、良く足を運ぶデパートが立ち並ぶ土地のすぐ近くに、まるで光と影が並存するような形で歓楽街(かんらくがい)があった。
その内の一軒である、まだ暖簾(のれん)も掛かっていない居酒屋の戸を、剣護は開けた。
「開店前だぜ、お客さん」
すぐに野太い声がかかる。
古びた木製のカウンターの向こうから、黒い前掛けを着けた恰幅(かっぷく)の良い男が姿を見せた。元は相撲取(すもうと)りだったと言うまことしやかな噂もある彼の、確かな前歴を知る人間はいない。カウンター上部に設置されたガラスケースの中には、今夜の客が舌鼓(したづつみ)を打つことになるであろう、新鮮そうな魚介類が並んでいる。焼酎や日本酒の瓶の何本かを挟んだ更に横には生の焼き鳥類が列を成して、同じくケース内に納まっている。レジ横には、取ってつけたような招き猫がうっすらと埃(ほこり)を被って置かれていた。
「わーかってるよ、大将」
剣護は気楽に応じる。
「お姫さんは、御無事かい」
この言葉に、苦笑いを浮かべる。
「耳が早いな」
居酒屋の店主は、二重顎(にじゅうあご)の上にある、奥まった小さくて細い目を、更に細めた。表情を読み取りにくい目は、情報屋を営むにはうってつけだろう。
「そりゃ、裏の稼業だからな。烏共(からすども)が最近、やたら騒ぎやがる。美味い餌を食いたいとさ」
「……何か情報が?」
「さあてなあ。あるような、無いような」
暗にお前次第だ、と言われている。取引に応じられる金銭を、剣護は持たない。すなわちこの場合、無償の労働奉仕を求められているとは経験からすぐに察しがついた。
「夏休みの間、三日間だけなら俄(にわ)か店員やるよ。それ以上は無理だ。何せ、受験生なもんでね」
店主が片眉をヒョイと上げる。
「五日」
「無理だ」
「四日」
「むーりーだってば。国公立志望なのよ、俺?埋め合わせは別でするって」
剣護の言葉に、店主が溜め息を吐いた。
「しょうがねえな。三日間の働きで教えてやれる程に、安い情報じゃないんだがな。…まあ、お前がいると女性客が湧くからな。せいぜい働いてもらうか。埋め合わせの言葉、忘れんなよ。――――――今から教えてやるのは、恐らくあの嵐下七忍でさえ掴んでないネタだ」
そう言いながらも、店主はメモ用紙にサラサラと何かを書きつけて、剣護に手渡す。書かれた文字に目を走らせた剣護は、緑の視線を問いかけと同時に投げる。
「これは?」
「うちの烏の一羽が見つけた、…」
声をひそめてそこまで言って、店主は視線を右に左に走らせ、他に聴く者の有無を確認する。慎重を期したその様子に、剣護も何事かと一層、表情を引き締めた。
「―――――透主の居場所だ」
手に入れた貴重なメモを、ダークグリーンの革のブックカバーで覆った文庫本の中に挟み込むと、剣護は店主に礼を言って店を出た。尤もメモの内容は、既にほぼ頭の中に入っている。
制服姿であまり長居出来る場所でもないので、さっさと歓楽街を抜け、駅に向かう。
その途中で、ふと足が止まる。メモ用紙に書かれた住所は、ここからそう離れてはいなかった。
限りなく貴重なこの情報は、仲間たちにもまず知らせるべきだ。既に一度、スタンドプレーを行った剣護は、真白から情報開示と、単独で危険行動に出ないことを約束させられている。それを破った場合の真白の怒りは怖いものがあるが、泣かれでもしたらと思うとそちらのほうが剣護には痛い。真白が泣いたら自分に劣らずシスコンの怜が見せるであろう、冷ややかな怒りを被(こうむ)るのも遠慮したかった。
(…マンションの場所だけでも確認しておくか)
今日はそれだけに留めるのだ、と自分に言い聞かせて、剣護は電車の駅とは逆の方向に足を向けた。
それはおよそ三十階程の建物に見えた。色はグレーで、それなりの額を投じなければ住めないだろうと予測される、いかにも高級で上品な、けれどどこか無機質なマンションだった。
遠目から眺めるぶんには、剣護の感覚に訴えるものは何もない。これが怜や真白であれば、もっと他に感知するものがあるかもしれないと思えた。
少女は、信じられない思いで顔を上げた。
陽光のように力強く、温かな気配。間違いない。
今、自分のいるこの場所のすぐ近くに、門倉剣護が立っている。あれ程ギレンたちが入念に、ひた隠しにしていたというのに、どうやってここを突き止めたのだろう。
(来て、早く――――門倉君。太郎清隆)
救出されようなどとは思わない。ただその手で、自分の生を終わりにして欲しかった。
自分の中に、正気の欠片が辛うじて残っている内に。
少女は必死で天蓋つきのベッドから降りると、赤い鎖が許す限りの長さで、窓へと近付いた。
彼女に、今の名前とは異なる、もう一つの名前を教えたのは、他ならない剣護自身だった。
〝俺、もう一つ名前があってさ。小野太郎清隆(おののたろうきよたか)って言うの〟
朗らかな声でそう告げた剣護に、少女は大切な秘密を明かされたような気がして、嬉しかった。
剣護は、しばらくそのマンションを見つめると、踵(きびす)を返した。
遠ざかる彼の気配に、少女は泣きたいような思いだった。
「行かないで……」
涙声で弱々しく言った彼女の懇願は、剣護の耳には届かなかった。
その日の内に、剣護は真白、怜、市枝、荒太を招集した。本来であれば一磨も呼びたいところだったが、仕事中ではそうもいかなかった。
真白の部屋に集った面々は、透主の居所が知れた、という情報にまずは驚愕(きょうがく)を示し、それからそれぞれ考える顔を見せた。ひぐらしの声が響く中、真白の体調を慮(おもんぱか)り少しだけ冷房を効かせた室内で、淡い紫のクッションを腕に抱いた真白が口を開く。
「…その場所に透主がいるのは確かなことなの?」
「確かだろうよ。情報屋ってのはな、信用がそのまま命綱なんだ。一度でも偽の情報を流せば、二度と情報屋の看板を掲げることは出来ない」
真白の勉強机の椅子に、背もたれを前に座った剣護の返答に、怜が荒太を見る。彼は小テーブルに市枝と斜向(はすむ)かいに座っている。
「けど、やっぱり念は入れておきたいところだな。成瀬は見鬼(けんき)だろう。そのへんの見極めはつかないのか?」
常人には見えない鬼や霊を視る資質を持つ者を、「見鬼」と呼ぶ。嵐も荒太も見鬼だった。そもそも嵐が陰陽術を修めようと考えたのも、その資質に拠るところが大きい。
ベッドに座る真白の足元に胡坐(あぐら)をかいた荒太が、考え考え、言葉を発する。
「近くに行かんことには、何とも言えへんな。ただ、今は敵情視察をする余裕も無いやろ。
あちらが、俺たちが居所を突き止めたと少しでも察したら、早急に、根城(ねじろ)を変えるに決まっとる。チャンスは一回。そう考えたがええ」
そしてその一回の急襲で、恐らく透主をひた隠しにしようとする、アオハやギレンといった、魍魎の中でも特に格上の相手との総力戦になることも考えられる。春樹がその時点でどういう動きを見せるかはまだ予測がつかないが、甘い考えは避けるべきだった。
「そう言えば」
真白が思い出したように言った。
「碧君、三郎が、佐藤君のことが炎に見えた、ってお祭りのあと会った時に言ってた。実際彼はホムラと言う、火を操る妖(あやかし)だった訳でしょう。…三郎も、見鬼なのかな」
祭りの日、真白が怜との帰り道に、時空のひずみに転がり落ちた一件は既に話してある。
荒太が、驚きの表情を浮かべる。
「……もしそれがほんまなら、見鬼以上のレベルやで」
市枝が荒太に目を向ける。
「それってすごいことなの?成瀬」
「うん。俺には、佐藤が普通の人間にしか見えてへんかったんやから。見鬼でさえ見えへんもんを見るんやったら、むしろ巫(かんなぎ)の系統に近いかもしれん。聴こえざる声を聴く信長公に対して、碧君は本来は見えざるもんを見る」
剣護が思慮する色を目に浮かべつつ、少し渋い顔をする。
「――――――碧を連れて行くのは気が進まないけど、遠くからマンションの外側だけでも見せてみるか。俺と怜で、行ってみよう。どれ程の収穫があるか解らんが」
剣護のこの提案を、一磨は怜の代わりに自分が同行することで受け容れた。
その週の日曜日、一磨と剣護、そして碧の三人は、遠くから件(くだん)のマンションを観察していた。高層マンションなので、多少離れたところからでもその姿が悠々見て取れる。近くのデパートに来た体(てい)を装う為、三人共、街着の格好をしていた。
「どうだ、碧。何か解ることがあれば言ってごらん」
一磨の言葉に、碧はくりくりした目を期待に輝かせる。この目に、本当に徒人(ただびと)には見えないものが見えているのだろうか、と剣護は半信半疑の思いで幼い末弟(まってい)を見る。
「これが終わったら、デパートでお子様ランチ?」
「うん」
「チョコレートパフェも?」
「ああ、良いよ」
幼い子供の要望に、剣護も一磨も笑みを浮かべてしまう。報酬の為に張り切る碧が何らかの戦果を上げることを二人共に期待するが、これが空振りに終わったとしても、碧は報酬をお腹に収めることになるだろう。
碧は無垢な目で、マンションをじっと見ていた。剣護も対象物を凝視するが、グレーのマンションの外観しか目に映る物は無い。
「あのねえ、あのへんにね、赤いのと、青いのと、灰色の光が見えるよ。赤い光はね、何だかついたり消えたりしてる」
小さく細い人差し指の指先が向かうのは、マンションの二十階あたりだ。
剣護と一磨は、顔を見合わせた。
やはり視えるのか、という驚きと共に、ほぼ確定した、と二人揃って頷く。青は、真白が言っていたアオハ、灰色はチャコールグレイの男、そして点滅する赤い光が恐らく―――――。
(透主だな。しかし―――――)
点滅しているとはどういうことか。
剣護は胸の内で首を捻(ひね)る。
(…まあ良い)
これでようやく、敵の中枢(ちゅうすう)に手が届く。
戦いに、終止符(しゅうしふ)が打たれるのだ。
「ここいらの土地は一等地で地価は高い。随分と良いところに住んでるね。どういうだまくらかしで入居したのか、知りたいものだな」
一磨が笑いを含んだ声で評する。そのスラックスを、碧が小さな手で引っ張った。
「ねー、パパ。お子様ランチは?」
「ああ、食べに行こうか。剣護君も一緒においで。昼ご飯を食べよう。丁度、時分時(じぶんどき)だ」
日中はまだかなり暑いものの、ビルが林立(りんりつ)する中で昼間に吹く風は僅かな涼しさを孕(はら)み、もうすぐ訪れる秋の気配が微かに感じられた。
十二時過ぎという、最も飲食店が混み合う時間帯であることもあり、剣護たちはレストランでかなり待たされた。
ようやく席に着いて水を一口飲んだあと、剣護は一磨に気にかかっていたことを尋ねてみた。
「一磨さんって、どうして美里さんと結婚されたんですか」
目をぱちくりとさせて一磨が答える。
「それはだね、剣護君。僕と美里が大学のサークルで知り合い…、」
「あ、いえ、そういうことじゃなくて」
訊き方を間違えた、と剣護が手を振る。
うん?と一磨が疑問符を浮かべる。
その間にお子様ランチが運ばれて来て、碧が喜色満面になる。
「…前の奥さんだから、結婚したんですか?」
「――――ああ。いや、美里が八重花と同じ人間だという確証は、実は僕にも無いんだ。例の〝糸〟が、美里に限っては良く視えない。ただ、僕は今生で美里を選んだ。だからきっと、彼女は八重花なんだろうと、そう思っているよ」
これはある種ののろけだな、と剣護は思いながら水を飲む。太郎清隆は伴侶(はんりょ)を得る前に人生を終えた。縁談の話も幾つかあったが、そのどれも実現しない内に亡くなったのだ。剣護には、一磨への羨望(せんぼう)の思いがあった。
そんな彼の心中を知ってか知らずか、穏やかな笑みに満ちた瞳で、一磨は語った。
「剣護君。君のような男が、果たしてどんな女性を選ぶのか、僕は今から大いに興味があるよ。君はきっと、選び、望んだ相手に同じように望まれるだろう。君に選ばれた女性は、幸せだな」
剣護は口元に仄(ほの)かな笑みを浮かべた。何を思うか相手に読ませない表情だった。緑の瞳が少しだけ細められる。
「…そうですかね」
それは、例えるなら白く小さな角砂糖を一つ一つ積み上げていくような、地道で根気の要る作業だった。
「透主」と崇められもする立場でありながら力の使い方に不慣れな彼女は、ギレンたちに気付かれないよう、最大限の注意を払いながら〝自らの空間〟というものを創造することに腐心(ふしん)した。門倉真白の映る鏡と部屋の空間を繋ぐことは出来たのだ。空間そのものの創造も、きっと出来る。
もう間もなく完成するその空間の色は、深い赤だ。
その赤い空間に剣護を招き、彼に命を絶たれた時、自らの悲願も叶う。赤い色はその舞台に相応しい色に思えた。
それで、全て終わる――――――――――――。
果たして叶えられるものかどうか判らない少ない可能性に、少女は全てを賭けていた。
〝春になったらさあ、桜が咲くだろ?夏にはさあ。え…と、向日葵(ひまわり)?藤か?秋になると、名月に薄(すすき)の穂が揺れて、冬には綺麗な白い雪が降る〟
白い雪が降る、のあたりで、彼の笑みは優しく深まった。
この世界も捨てたものではないだろう、と笑いかけてくれた彼も、今では自分を覚えていない。
(あなたのいる世界に、私も行きたかった…。あなたがいてくれたから、捨てたものではないと、そう思えたのに)
そっと細い手を宙に伸べ、そこに一片(ひとひら)の雪が舞い降りるところを想像する。
汚れ無き純白。
次の瞬間、グッと手を握り締める。苛烈(かれつ)な程の力を籠め――――――。
違う。そうではない。雪ではない。自分が恋うたものは。
花でも月でも雪でもなく、自分を魅了し引き留めたのは、それを口にした彼の存在だった。
忘却された痛みは、今でも血が流れる程ではあるけれど。
(それでも良い)
それでも良いから―――――…。
「間違いない。大将からの情報は、確かだった」
真白の家に居並ぶ面々は、了承の頷きと共に、顔つきを引き締めた。
いよいよだと言う思いが各々にある。
また今回の一件で、測らずも碧の、巫としての資質を認めることにもなった。
「俺たちが一挙に押し寄せても、空間を渡って逃げられれば厄介だ。むしろ、一人一人、透主の側近格と思える妖(あやかし)を一気に別空間に呼び寄せて、滅しにかかると同時に、孤立した透主を討つ。それが良い。どう思う、太郎兄?」
透主側近格と目される妖は、この時点でギレン、アオハ、ホムラに絞られていた。これ以上の敵の主戦力は無いだろう、というのが真白たちの見解だ。それは、遭遇した魍魎の情報を花守側と照らし合わせての結論だった。その上での怜の発案に、剣護も賛同の意を示す。
「最善の策だろう。主力の数はこちらが勝るからな。先に透主が死ねば、この戦も終わる。他の妖を相手取る手間も、その時点で消える」
緑の瞳が怜悧(れいり)に閃(ひらめ)く。
それからは、誰がどの魍魎と相対するか、という話し合いに移った。
「スーツのおっさん…ギレンだっけ?とは、一磨さんが相性が良いようだから、お願い出来るかどうか打診してみよう」
夏祭りの夜、一磨は見事にギレンを撃退した。味方としては頼もしく、心強い限りだった。
「荒太、お前はその補佐につけ。ただ、佐藤が出張って来たらそっちの相手をしろ」
剣護の言葉に荒太が何か言いたそうったが、口を開くことは無かった。
「アオハとか言うおねーさんには、怜と市枝ちゃんで行けるか?」
指名された二人がそれぞれに頷く。
女の敵は女よね、とは市枝の言である。
「さてそれで、誰が透主とやり合うかなんだが。俺と…」
剣護の言葉に、皆の視線が真白に集まる。だがその視線は、真白を積極的に戦いに投じようというものではなく、むしろその逆だった。止めても真白は聴かないだろう、と諦める空気がそこにはある。また、戦闘能力の高さから鑑(かんが)みても、真白が透主と対峙することは妥当ではあった。
〝透主とは戦うな〟
竜軌の言葉が蘇るが、真白は確固として頷いた。
「うん。私が行く」
それでも荒太の顔は不服そうだった。
「…透主に俺が当たる訳にはいかないんですか」
「勝てる見込みの高い人選をする。命が懸かってるんだ」
剣護の物言いは厳しく容赦なかった。采配(さいはい)を振るう人間は、そうでなくてはならない。
荒太が唇を噛み締める。怜は何も言わなかった。
荒太の顔を気にするように横目で見ながら、真白が続ける。
「光にもこのこと、伝えておくよ。花守の同時参戦も期待して良いと思う。そしたら随分有利になるよ。佐藤君に対しては水臣がいてくれたら心強いし、アオハにも、出来れば同じ水の属性の水臣と、反する属性の明臣がつくほうが、勝率は上がるんじゃないかな。あの人、アオハは…強いから。市枝、気を付けて。……次郎兄、市枝をお願い」
「大丈夫よ、真白」
「解った」
軽く応じた市枝に対し、確かな声音で怜は妹の頼みを請け負った。
「七忍はどうします?」
荒太の問いに、剣護が考える顔を見せた。
「下手に動かれても困る。お前に任せると言いたいとこだが…」
「戦わないことを前提に、待機しててもらおうよ、荒太君」
真白の目には彼らを案じる色が浮かんでいる。七忍の長としては多少、過保護だと思わないでもない。加えて、これを知れば恐らく七忍は不満を示すだろうと思うものの、荒太は顎を軽く引いて見せ、真白に了承の意を表した。竜軌でさえ重傷を負うような魍魎トップクラスに、七忍がまともに当たれば命を無駄に落としかねない。
「決行は、一磨さんも動ける来週の土曜日だ。サラリーマンの都合ってのも、不便なもんだよ」
剣護がおどけたような声で宣言した。
水曜日は丁度、剣護は全国模試を受ける日だった。
いつも思うが、「門倉剣護」と言う画数の多い名前のせいで、どうも自分は試験においてハンデを背負っている気がする。サムライマニアの父がつけた仰々しい名前自体に別段不満は無いのだが、こうした弊害(へいがい)は有り難くなかった。但し画数の多い名前が、自分の実力を著しく引っ張るとは剣護はさらさら考えていない。優秀な頭脳に神様が不利な要素をつけ加えたのだとすれば、仕方ないとも思っていた。
風見鶏の館においては、そろそろ真白の絵も出来上がるらしく、出迎えの必要が無くなる一抹(いちまつ)の寂しさと共に、舞香が描いた訪問着姿の真白の絵を見るのが楽しみでもあった。
(あいつのことだから、きっとすげー可愛いぞ。お人形さんみたいに違いない)
兄馬鹿も極まって、そう考えている。
ステンドグラス制作のほうも順調なようで、経過を真白に尋ねたところ、明快な答えの代わりに嬉しそうな笑顔が返ってきた。それを見た剣護の中を、何だその花マルな笑顔は、畜生、荒太め、と忙しく思考が駆け巡った。
(なべて世はこともなし、か)
これで魍魎、加えて山田正邦との戦いに決着がつけば、平穏な日常が帰って来る。
真白が雪華を振るう必要も無くなるのだと、胸を撫で下ろすような思いだ。
(後顧(こうこ)の憂い無く、普通の女の子として、前を向いて生きるんだ)
そんな考え事をしながら廊下を歩いていた剣護は、か細い女子の声に振り返った。
「…門倉君」
「んあ?」
振り返った先には、どこまでも赤い空間が広がっていた。
(紅玉(こうぎょく)の林檎(りんご)みてー)
自分が移行した空間を、剣護が一目見た感想はそれだった。真白は林檎が好きで、特に甘味の強い品種を好んだ。酸味の強い紅玉は、見た目と名前だけは綺麗で好きなのだそうだ。
〝紅玉(こうぎょく)って、ルビーのことだよね〟
真白が微笑みながら言うのを聴いた時、そうなのか、と感心する思いと、そんなことを知っているあたり、やはり女の子だなあと思ったのを覚えている。冬に真白が寝込んだ時には、甘味の強い品種を選び、良く林檎を剝いてやったものだ。
瞬時の回想を終え、目の前に立つ少女にゆっくり焦点を合わせる。
突然、ひどい頭痛が彼を襲う。ズキン、ズキン、と鈍く痛む。
「……何だ…」
少女は色が白かった。青白い、と言える程に。
そして肩を越す、黒い髪。手足から首までどこもかしこも細く、そして顔立ちは。――――――顔立ちはどこか若雪に似ていた。
奇妙なことに、赤いワンピースの下から見える細い足首には、赤い足枷が嵌められているが、その鎖の続く先は、空気に溶け入るようにして消えている。
「門倉君」
細い声で呼ばれて再度、頭が激しく痛む。
「く……っ」
〝物好きだね、門倉君〟
そうだ、彼女はあの時そう言った。
いや、自分はこんな少女など知らない。
二つの相反する思いが、剣護の中で激しくせめぎ合った。
剣護の脳裏に、一つの記憶が蘇る。
それは去年の秋、まだ中等部だった真白を迎えに出向くころ、校庭内に現れた赤い服の少女がいた。青を主とした陶聖学園のブレザーの群れの中、紛れ込んだ赤い色はひどく目立った。多くの生徒の目が少女に注がれていた。薄いブラウスが、冷たい秋風に寒そうだと思ったのを覚えている。彼女は全力疾走したあとのように肩で息をしながら、校舎から出て来た自分に呼びかけた。
〝門倉君〟
剣護は、目を瞬きさせた。自分の知り合いに、こんな少女はいない。他の誰かと勘違いしているのではないか。そう思ったが、少女は必死な目で剣護を見ている。まるで極限まで追い詰められてでもいるかのような眼差しが、剣護に軽はずみな言葉を控えさせた。
〝えー…と〟
相手に恥をかかせないよう、注意深く言葉と、声を選んだ。
〝ごめんな、俺、きっとあんたの捜してる相手じゃないと思う。名字は同じみたいだけど〟
剣護の言葉を聴いた時の、彼女の表情は今でも良く覚えている。
唯一縋(すが)るもの、と定めた対象から蹴り落とされたかのような絶望。
小さく開かれた唇はわななき、声なき悲鳴が聴こえるようだった。
激しい悲嘆と絶望を見せた彼女の顔は、やがてふ、と力が抜けた諦観の表情に変わった。
表情のチャンネルが切り替わるような、あの瞬間。
それから力無い足取りで、赤いブラウスの少女はゆっくりと立ち去ったのだ。
「あん時も、あんただったよな?俺は、あんたのことを知ってるのか?」
少女はしばし剣護の顔を見つめると、泣きそうな顔で頷いた。
「ならどうして、忘れてる――――――」
そう言ってから、その先の言葉を呑み込んだ。
〝俺たちだって、万が一ということもある。絶対に忘れていない、忘れない、忘れられないとは言い切れない〟
要にそう説明したのは、自分ではないか。
〝万が一ということもある〟
自分で言っておきながら――――――――。
「―――…あんたは、魍魎に喰われたのか?」
「…うん」
「どうして、生きている?」
「私は、普通の人とは違うから。魍魎は、私を食べ尽くすことが出来ず、逆に自滅した。そのことによって神(かみ)つ力(ちから)と禍(まが)つ力(ちから)の双方を併せ持った私は、魍魎たちに力を注ぎ込むことが出来るようになった。力の源として、それだけの為に私は生かされる…彼らの奴隷」
静かに語る彼女の顔は、真っ直ぐに剣護だけを見ていた。
他のものは、目に入っていなかった。
「門倉君。ずっとあなたに呼びかけてた。届いたでしょう?私の願いが。さあ、ギレンたちに知られる前に、私を殺して―――――太郎清隆」
衝撃に、剣護は瞠目する。自分を殺せと、何度も呼びかけて来た声の主。それが彼女だと言うのであれば―――――――――。
「なら……、あんたが、透主か」
まるで壊れる寸前の人形のような、細い肢体のこの少女が。
悲しげな微笑を浮かべ、少女は頷いた。
〝小野太郎清隆。お前、女は斬れるか?〟
竜軌はもっと早い段階から、透主の実像を知っていたに違いない。そして彼女が剣護と関わりのある存在であるということも。
あの時自分は何と答えた?
〝敵と判断すれば、斬るしかない〟
竜軌はその答えを嗤(わら)った。
今になって見れば、その理由が良く解る。全てを知る竜軌には、さぞや甘い答えに感じられただろう。現に今自分は、透主の願いを叶えてやることも出来ず、立ち尽くしているばかりではないか。
〝お前も、太郎清隆も、恐らくは透主に刃を向けることは出来まい。荒太でも難しかろう〟
図書室で、竜軌は真白にそう語ったと聞いた。
だから、自分が透主を殺すのだと。
何もかも、竜軌は見通していたのだ。巫の力をもってして。
けれど、そんな考えの中でふと思う。
(どうして、真白や荒太も戦えないと言うんだ?)
情の深い自分の妹が、この哀れな敵の首魁(しゅかい)に刃(やいば)を向けられるかは、確かに疑問だ。しかし竜軌の言い様には、それ以上の理由があるように思われてならない。また荒太は、戦闘においては相当にシビアな感覚を持っている。真白が情に揺らぐ場面でも、彼の刃が鈍るとはとても思えない。
なぜ透主に、若雪の面影があるのかも気にかかる。
単なる偶然で片付けるには、その他の疑問も含めて引っかかりがあり過ぎる。
そう。先程、彼女は「神つ力」と「禍つ力」を併せ持った存在であると自らを称した。
魍魎に喰われる以前から、彼女には、他者とは決定的に異なる要素があったのだ。
それが何であるのか、今の剣護には解らなかった。
三
陶聖学園中等部の制服は、高等部の制服とはやや異なる。
細かい点は幾つか挙げられるのだが、その最たるものは細いリボンとネクタイだった。高等部の制服ではネクタイ着用が義務付けられるのに対し、中等部の制服では細いリボンを結ぶことが義務付けられていた。
例えばそのリボンなどが、主に学ランを制服とする公立琵山高校(こうりつびざんこうこう)の男子生徒などには莫迦にされる一因となっており、多くの陶聖学園中等部男子生徒にも評判は芳(かんば)しくなかった。
門倉剣護もまた例に洩れず、「男がリボンかよ」と思った口ではあった。しかし彼の場合は、ハーフの外見が純日本人の男子生徒よりはリボンに馴染みやすい特質を備えていた為、周囲の評判は悪くなかった。
順調に陶聖学園中等部の試験に受かり、年下の従兄妹に初めて制服姿を披露した折も、彼女は少し小首を傾げて剣護を上から下までじっと見ると、にっこり笑って「似合ってるよ、剣護」と言ってくれた。それを聞いた剣護は満更でもない気分になった。
学園生活にも慣れ、一学年、二学年と月日を過ごす内に剣護の持つリーダーシップ性は周囲に知れるところとなり、教師陣さえも彼に一目置くようになった。
剣護が物理学教師に頼まれごとをされたのは、中等部三年の春から夏に季節が移ろうとしていたころのことだった。
それは家庭に些かの問題があり、不登校しがちの女子生徒の面倒を見てやってはくれないか、という話だった。彼女は専ら保健室登校していて、本来であれば担任である彼が何とか対応すべきところだが、自分では手に負いかねると言って剣護に泣きついて来たのだ。その無責任さに剣護は呆れたが、結局はその依頼を請け負った。
担任にさえ匙(さじ)を投げられたその生徒が哀れだと思ったし、そもそもは彼女自身に問題が無いというのに、登校さえ思うようにままならない事態は理不尽だと思った。
それに、剣護がその少女、相川鏡子を初めて見た時、若雪、または真白に似ている、と感じた。それが決定打となった。自分の大事な妹に似た少女を放っておくことなど、剣護には出来なかった。
「失礼しまーす」
ガラリ、と言う音と共に保健室の戸を開ける。
それまでの剣護には、保健室はおよそ縁遠い場所でしかなかった。
たまに真白が熱を出した折などに彼女を迎えに来たりしていたので、中等部の保健室にいる養護教諭とはそれなりに顔見知りになっていたという程度だ。自分自身がお世話になったことは一度も無い。そんな空間に、剣護は久しぶりに足を踏み入れた。
桜の花もとうに散り、青い葉が茂る季節を迎えるころだった。
その時、養護教諭は席を外していた。
線の細い身体がベッドの向こう側、窓際に立っていた。
剣護の声に、少女は敏感に反応して振り向いた。
彼女とは、それが初対面だった。
(…若雪。いや、真白……?)
良く見ればそれ程似てはいないのだが、振り向いた少女は剣護の大切な存在にどこか雰囲気の似た顔立ちをしていた。しかし若雪や真白が清楚な白い花を連想させるのに対して、目の前の少女は朱が注した、色味のある花を連想させた。
線が細いながらに、どこか艶(あで)やかさを感じさせる少女だったが、媚びた様子は欠片も見受けられなかった。
彼女が警戒の眼差しで自分を凝視しているので、我に返る。
「ああ…、あんたが相川?相川鏡子…だろ?」
不審げな顔のまま少女が小さく顎(あご)を引く。
合っていた、と思い、剣護は安堵に笑う。
相川鏡子はその笑顔に驚いた顔を見せ、瞬きした。
「俺、門倉剣護。これさ、今日のおたくのクラスの授業で配られたプリント」
差し出された紙の束を鏡子が恐る恐る受け取る。受け取る手の青白さに、剣護は眉を顰(しか)めた。まともな物食ってんのか、と疑問が生じたのだ。
「門倉、君…」
初めて言葉を発音するようなたどたどしさで、名を呼ばれる。
「うん。事情があって登校が難しいんだろ?俺、相川を手伝うよ」
鏡子は疑い深い瞳で剣護を探るように見た。
「どうして――――――?」
この問いに対して、妹に似ているからと答えるような愚は、さすがに侵さなかった。
「俺は面倒見の良さで有名なんだ」
自慢げにそう言うと、晴れた青空のように笑った。
それからの剣護は、放課後になると足繁(あししげ)く保健室に通うようになった。
「また来たの?」
保健室に入って来た剣護の顔を見るなり、鏡子はそう口にした。
迷惑そうな彼女の表情を、剣護はもう見慣れてしまった。そういう趣味は無いのだが、冷たい素振りをされるのが楽しみにさえなってしまった。
憎まれ口もご愛嬌(あいきょう)だ。
「そ、また来たの。……てか、お前さ、こんな良い男が会いに来てるんだから、もうちょっと嬉しそうな顔しても良くない?」
茶化す剣護の口振りに、呆れたような視線が返る。
「自分でそういうこと言う?」
「周りがあんまり言ってくれないからな。お前含め」
そう言いながら、鞄からゴソゴソとプリントの束と、ノート数冊を取り出す。最近では授業で出されたプリント類だけではなく、剣護が授業の内容をまとめたノートも鏡子に貸すようになっていた。クラスが違っても、今現在の各教科の進行状況を把握しておいたほうが良いと判断したからだ。ノートに記された内容は解りやすく、授業内容の要点を的確に押さえている。初めに手渡されたノートを見た鏡子は、密かに感心した。
「ノート、役に立ってる?」
「うん。…ありがとう」
素直に礼を言われ、剣護が嬉しげに笑う。
「真白がさ、プリントだけじゃ不十分だろうって言うから」
「従兄妹の?」
「うん」
頷く剣護の目に宿る優しい光を、鏡子は黙って見つめた。
名乗られるまでもなく、鏡子は最初から門倉剣護の存在を知っていた。
緑の目のハーフという目立つ容姿に加え、成績優秀、スポーツ万能で生徒間に限らず強い求心力を持つ彼は、陶聖学園では有名な存在だった。初めて彼の瞳を見た時、灰色がかった深い緑が、どこか知らない外国にある森のようで綺麗だと思った。彼のような存在が、自分を構うのは今でも不思議でならない。
また、彼の従兄妹である門倉真白の存在も、従兄弟に劣らない優秀さと容姿で有名で、「女流歌人」と呼ばれていることも知っている。
剣護が、その従兄妹を大事にしているらしいことも、二人が付き合っているのではないかという噂があることも。
そこまで考えた時、胸に微かに走った痛みを、鏡子は気付かない振りをした。
鏡子を訪ねたあと、剣護は真白を迎えに陶聖学園正門に向かった。
正門傍に立つ真白に走り寄る。陶聖学園中等部の制服が良く似合う可憐な容姿は、正門を通過する男子の目を引いていた。そんな彼らに、剣護は冷たい緑の一瞥(いちべつ)をくれてやる。
「悪い、待ったか?」
「ううん、大丈夫」
「お前、きつかったら無理すんなよ。教室で待ってて良いんだぜ?」
病弱な従兄妹を気遣う剣護に、真白は微笑む。
「平気。相川さん、どうだった?」
二人揃って歩き出しながら真白が尋ねた。
「ああ。ノート、有効活用してるみたいだよ。しろのアドバイスのお蔭だな」
「良かった」
薫風(くんぷう)に、髪をサラリとそよがせた真白の言葉に、剣護も頷く。
「うん、良かった」
小さな声で鏡子が言ったのは夏の終り、季節が秋に移り変わろうとするころだった。
「―――――私ね、父からも母からも持て余されてるの」
桜の葉が、他の木々に先駆けて綺麗な赤に紅葉し始めていた。
「何でそう思うんだ?」
剣護は驚くこともなく、彼女に尋ねた。鏡子の家庭環境が複雑らしいことは知っていたからだ。鏡子が座るベッドの隣のベッドに腰掛けながら、答えを待つ。
剣護が保健室に来ている間、養護教諭は意図して留守にすることが多かった。
繊細な小動物のような少女は、そのほうが気兼ねなく剣護と会話出来るだろうと考えてのことだ。そういう配慮が出来る大人を、剣護は好ましく思った。
「父の実家は結構、良い家だったみたいで。母とは駆け落ち同然で結婚したんだけど。……あんまり、結婚生活が上手くいかなかったの。良くある話」
ここで鏡子は軽く笑った。温度の感じられない笑いだった。
「結局、離婚して。私は母方に引き取られたの。妹もいたんだけど、あの子は父のほうについていった。父の実家が、年齢が幼い娘のほうが欲しかったらしいのね。父は実家に戻って、今、別の人と暮らしてるみたい。お母さんは私を育てるのが金銭的にもだいぶ苦しいらしくて。かと言って、今更、お父さんのところに行っても困らせるだけだろうし。食べ物も、食費のこととか考えるとね、自然と食欲が無くなるの」
語る鏡子の目は、どこか虚ろだった。
「おっまえ、親孝行過ぎんだろ!俺なんか、二人前は食ってんだから、早く食費入れるようになれってお袋にうるさく言われてっぞ」
剣護の言葉に、鏡子が作り物の笑みを見せる。紛(まが)い物の、硬い笑い。
「…私、このままずっと、いなくなったほうが良い存在なのかも」
「莫迦言うな」
怒ったような声に、鏡子は剣護を見る。
「――――――世界は、お前が思うより案外捨てたもんじゃない。この先の人生がどうなるかなんて、誰にも予測はつかないんだよ。お前は千里眼じゃないんだ。あんまり軽々しく、世界に失望したりすんな。俺も、お前をフォローしてやるから」
説教臭かったか、と思った剣護は、鏡子の反応を窺った。
鏡子は笑っていた。今度の笑みには優しさと諦めが混じっていた。
「―――――そうだね」
剣護ならそのように言うだろうと鏡子は予想していた。
陽の光のように力強い声で。
暗闇の中にいる鏡子さえ引っ張り上げるような温かい手を、差し伸べてくれるだろうと。
どうしてこんな人がいるんだろうと、鏡子は心底不思議に思う。
いてくれたら良いのに、と自分が思い描くそのままの、奇跡のような人。
それから鏡子は言葉を探すように保健室内を見渡したあと、口を開いた。
「……従兄妹の子、元気?」
従兄妹、と言う単語を口にした瞬間、剣護の表情が和むのを鏡子は見た。
自分で口にしておきながら味わう羽目になった胸が妬(や)けるような感覚を、気付かれないように遣り過ごす。
「ああ。最近は余り熱も出してない」
「そう…。良かったね」
「うん。…あのさ。俺、もう一つ名前があってさ。小野太郎清隆(おののたろうきよたか)って言うの」
鏡子の打ち明け話へのお返しではないが、剣護は前生での自分の名前を彼女に告げた。
「…太郎、清隆?」
「そう。変わってるだろ?すげー昔な、そう呼ばれてた時期があったの」
「………門倉さんは、そのこと知ってる?」
剣護が滲むような笑みを浮かべた。
「良く、知ってるよ」
まだ思い出してはいないけれど―――――――。
剣護が保健室から退散してから、養護教諭が戻って来た。白衣を着なければどういった職に就いているのか判らないであろう、今時おかっぱ頭に丸眼鏡の、年齢不詳の小柄な彼女は、思い遣る表情を浮かべた。
「彼もまた、良く続くわね。中々のイケメンだし、彼女がいたら誤解されて大変ね、きっと」
うふふ、と笑う養護教諭の声をベッドを仕切るカーテン越しに聴きながら、鏡子はベッドに横たわっていた。白い、消毒薬の匂いのするシーツを掴む。
(彼女じゃない。門倉君の従兄妹の子は、そんな程度の、軽い存在じゃない――――――)
彼の慈しむような緑の瞳、優しい笑み、穏やかな声。
その全てを、門倉真白は独占している。
彼が自分に向けるのは恋愛感情ではない。これまでも、きっとこれからも。
―――――ずるい、と鏡子は強く思った。
そしてそう思う自分の醜さに失望した。
「…先生、私、白い色って嫌いです。保健室のは、そうでもないけど」
「おや、何でよー。先生は好きよー?清らかで、こう、懐が深ーい感じがするじゃない」
「………」
白は真白の白だから。
「―――――――嫌いなんです。私、醜いから」
頑なに言い張る鏡子に、丸い眼鏡の養護教諭はキョト、とした顔を見せた。
「別に嫌いだって良いじゃない。それであなたが醜いってことにはならないでしょうが」
ここしかないと定めていた灰色の世界に、光が差すような言葉だった。
自分をいじけ、諦めていた。
「………そう、でしょうか?」
「そうよ」
童顔の養護教諭は二カッと笑った。
自分の考えには、もっと他にも許される道があるのかもしれない。
剣護や養護教諭はそれを教えてくれる。
鏡子の胸に、仄かな明かりがともったように感じた。
「門倉、何やってんだ?」
同じクラスの畑中冬人がそう訊いて来た時、剣護は丁度、物理の授業内容をノートにまとめているところだった。ノートから顔を上げずに答える。
「相川用のノート、作ってる」
「ああ……。面倒見が良いな、お前も」
そう言って呆れと感心が半々のような表情を浮かべる畑中は、見事に陶聖学園中等部の制服が似合っていない。だが、ふっくらした体型に細いリボンを結んだ姿は北欧の人形のようで、どこか愛嬌があった。
「あいつ理系志望らしいからさ、特に物理なんかは解りやすく書いといてやんないとな」
ノートに書き込む手を休めることなく剣護が言う。
その後しばらく畑中は、黙々とシャーペンを動かす剣護を見ていたが、ポツリと言った。
「相川さんも割と美形なのに、色々と恵まれてないよな」
相川鏡子の事情を、生徒でも知る人間は知っている。畑中の声には同情の響きがあった。
とりわけ学校という箱庭においては、弱い立場にいる人間を見た場合、手を差し伸べようとする人間と、自分の領分を守るのに留まる人間のおよそ二種類に分かれる。そして前者は極めて少数であるのが普通だ。
相川鏡子の件に関する限り、剣護は前者で畑中は後者に分類されるが、剣護は畑中を軽蔑はしない。誰もが、自分の手が届く範囲の物事に取り組めばそれで良いと思っているからだ。苦し紛れに絞り出した正義感で無理をすれば、いずれ反動が来る。それは心に不要な傷を生むだけだ。
ノートに書き込む手をふと止め、剣護は畑中を見上げる。
額の広い、丸みを帯びた輪郭は温厚そうな印象を与える。事実、畑中はその印象を裏切らない男子だった。その目には若干の後ろめたさが浮かんでいる。お前が背負う必要は無いんだよ、と剣護は心の中で言ってやる。
「…何だ?」
「いや、お前は意外と良い男だと思って。そのミサンガ、早く切れると良いな」
畑中のふっくらした左手首周りの、賑やかな色合いをシャーペンの頭で指し示す。
「今更それに気付くか~?……まあそれは良いとしてさ。お前と相川さん、噂になってんぞ」
「あー。なるかもな」
大方、予想はついていた。しかし剣護にとって噂話とは、「だからどうした」という程度のもので、肝心なのは真実だと考えている。周りが何を言い立てようが、自分にとっての揺るがない真実さえ知っていればそれで良い。彼のその考え方は頑健(がんけん)な精神に拠るものが大きいが、誰もが同じように泰然と構えていられる訳ではないこともまた現実だった。
剣護ののんびりした反応に、焦(じ)れたように畑中が続ける。
「相川さんが、本命のいるお前を唆(そそのか)したって過激な噂もあるんだぞ。一部の女子の、やっかみだろうけど」
ここに至って剣護も険しい顔をした。
「本命?」
「真白ちゃんだよ」
「――――ああ」
「あんまり、誤解を招かない程度にやれよ、お節介もさ。相川さんも真白ちゃんも、泣かせちゃ本末転倒だろ」
剣護が目を遣った窓の外、水色の空を背景にして、色づいた桜の紅葉が一枚風に舞った。
祖母たちから相談を受けたのはそのころだった。
真白の様子が、どうにも最近おかしいのだと言う。学校から帰宅して隣家に呼ばれ、その話を聴いた剣護は、すぐさま真白の部屋に向かった。
「しろ。…開けて良いか?」
剣護の問いに、戸を間に挟んで真白が答えた。
「駄目。入らないで、剣護」
小さく、沈んだ声の拒絶にドキリとする。
「何で」
「……何ででも。とにかく、駄目」
天の岩戸だな、と思う。嘆きにくれて真白が部屋に籠ると言うのなら、剣護はどうあってもその戸を開け、彼女と顔を合わせなければならない。
「頼むよ。真白」
懇願の響きに、数分経ってから真白が戸を開けた。彼女はまだ剣護と同じ、制服姿だった。
部屋に入ったものの、辛そうな顔の真白に剣護はかける言葉を探していた。白い頬には細い髪の毛が数本張り付いている。それを払ってやりたいという思いと、手を伸ばして身を引かれたらどうしよう、という、らしくない恐れが交錯(こうさく)し、結局、剣護の手は動かなかった。制服のままで、ベッドに伏せていたのだろうか。こんな顔をした妹など、見たことがない。何が彼女を苦しませているのか、どうあってもそれを突き止め、その悩みを解消してやらなくてはならないと剣護は思った。
「……どうしたんだ、しろ?ばあちゃんたちが、心配してるぞ」
「―――――剣護も?」
「当たり前だ」
憤然(ふんぜん)として答えた。むしろ世界中で一番、心配しているくらいなんだぞ、と思っている。
いつでもどんな時でも、緑の目は真白を丸ごと受け止めようとする。
それは真白にも解っている筈だった。
余りに迷いの無い、いつも通りの剣護の眼差しに、かえって真白の目が落ち着きなく彷徨(さまよ)う。
「…剣護、相川さんと付き合ってるの?」
「え?」
予想していなかったところからの言葉を受け、驚く剣護に真白が続ける。
「そういう噂があるって、市枝が言ってた」
今年から陶聖学園中等部に入学した真白は、三原市枝(みはらいちえ)と言う気の合う友人を見つけた。噂話に疎い真白に対して、市枝は自分の知る情報を共有することで親交を深めようとしているようだった。中等部の制服のリボンも女子生徒の間では受けが良く、真白の場合も可憐な外見が引き立ち、良く似合っていた。
「付き合ってないよ」
はっきりと事実を口にする。
「……でも、相川さんのこと、大事なんでしょう?」
当時の真白には、まだ若雪としての自覚も記憶も無い。当然、嵐の記憶も無い中、最も身近な異性である剣護が自分から遠く離れて行くようで、その要因となったらしい鏡子に心穏やかならないものを感じているのだ。
〝泣かせちゃ本末転倒だろ〟
畑中の言葉が蘇る。成る程、噂話も莫迦にならない。
市枝が真白に伝えたのは悪意ある噂ではなかったが、真白は落ち込んでいる。
〝大事なんでしょう?〟
大事とは何だ。剣護にとって、弟妹(ていまい)よりも大事な存在などない。
特に妹は女の子であるぶん、自分が守ってやらなくてはならないと思っている。
それが今生において、剣護が自分自身と交わした約束だった。
「相川のことは、何とかしてやりたいと思ってる。けど真白のほうが大事だよ」
語った言葉は全て事実だったが、真白は混乱した顔を見せた。
「で、でも、相川さんに優しくしたら、誤解されるに決まってるよ。きっと相川さん、剣護が自分のこと好きだって思ってる。剣護のこと好きになってる。責任取らないと駄目だよ、剣護――――――…」
本人も自分の言っている言葉を、良く理解出来ていないように見える。
真白の言うように、そこに責任を取るという問題が実際に発生するかは別として、と剣護は考える。
「責任、取って良いの?」
焦げ茶の瞳を、緑の瞳が覗き込む。
「え?」
透き通った焦げ茶色が瞬く。
「真白は俺が相川と付き合って良いの?」
「―――――嫌とか良いとか言えない。私が決めることじゃないもの」
理屈は通っているが、真白が自分の意見を言わずに誤魔化したことを剣護は追及しなかった。
言えないのだろうと思い、逃がしてやった。
泣きそうな顔になった真白の頭を、ポンポンと叩く。
「先走るなよ。俺はさ、真白。多分、根がものすごく身勝手な奴なんだ。自分が、こいつだって決めた奴以外には、俺のことやんないの。それで―――――多分、相川はそうじゃない」
今度は真白が鏡子に同情したのが解った。剣護はついうっかり真白の単純さに噴き出しそうになり、そんな場面ではないと自分を戒(いまし)めた。やれやれと思う。
この妹と来たら、感情の動きが手に取るように解りやすいのだ。これで学校では凛として近寄り難いタイプに見られているらしいから、人の目も当てにならない。尤も、真白が生まれた時から傍にいる剣護と他者ではまた違うものかも知れなかった。
「真白。今度さ、俺と一緒に、保健室に行かない?」
「相川さんに会うの?」
「うん。多分、俺よりお前のほうが、あいつに優しくしてやれるからな」
年下であっても、真白であれば鏡子の良い友人になれる気がした。
情に脆(もろ)い妹は、鏡子の辛い境遇に直に触れれば、すぐにほだされるのに違いないのだ。
容易に想像出来るその状況を導こうと画策(かくさく)する自分を、まるで童話に出て来る魔女のようだと剣護は思った。
けれどその約束は果たされなかった。
相川鏡子は突然、前触れも無く陶聖学園を去った。
両親が離婚し母方で育てられていた彼女だったが、その母が急死し、遠く離れた父親のもとで養育されることになったのだ。
そして、甚大な霊力である吹雪が生じたのちに真白と荒太が禊(みそぎ)の時を終え、相川鏡子は魍魎に喰われた。
彼女は、今度は誰の記憶からも姿を消した。
剣護は信じられない思いで鏡子を見ていた。今まで確かだと思っていた世界が急に表情を変え、根底からまるで見知らぬものへと変化したように感じられた。
自分のものだと思っているこの手は、この足は、果たして本物だろうか。
――――――――本当に?
彼は確かに思い出した。
世界に忘れ去られ、たった独り、置き去りにされていた少女の記憶を。
呼びかけられたあの秋の日。
彼女はきっとギレンたちの目を盗み、必死で逃げて来たのだろう。
たった一人、味方と思えた剣護のもとへ――――――。
〝俺、きっとあんたの捜してる相手じゃないと思う〟
そう答えた時の鏡子の表情。
チャンネルが切り替わる。悲嘆と絶望から、諦観へと。切り替わる。
自分が、彼女を失意の底に突き落としたのだ。
剣護の顔が恐怖に歪んだ。それは、一人の人間を自分が突き落とした事実に対する恐怖であり、自分という人間に失望し、見放す思いに陥ることへの恐怖だった。
彼は一度、唾を飲むと、カラカラに乾いた口を動かした。
「相川…お前、」
その先に口に出来る言葉を剣護は持たなかった。
鏡子の目に期待する光が宿る。餓(かつ)えた光だった。
「思い出してくれたの?」
それと引き換えであれば全て許すとでも言いたげな、優しく嬉しげな声。
「――――――――ああ」
茫然として、剣護は答える。他人の口が動いているようだった。
「ああ。思い出した…」
良かった、と言った鏡子の目から涙が一筋、流れた。
(泣く程嬉しいのかよ)
たかだか自分が思い出したくらいで。
遣(や)る瀬無(せな)さが込み上げる。
やめてくれよ、と思う。こんな薄情な人間の為に泣くなんて勿体無い。
「じゃあ、門倉君」
微笑んで鏡子は両手を伸べた。
たおやかな鳥が、優美に羽根を広げるように。
けれどその鳥は最早、生の歌を囀(さえず)らない。
そうさせたのは。
「私を、殺して」
「お前…、それしか言えねえの…?」
剣護の声は震えていた。
苦悩に満ちた顔で、それでも剣護は呻(うめ)くように呼んだ。
「…………臥龍………。頼む」
黄金色の豪奢な太刀が、主の求めに応じて現れる。
忠実に。けれど、どこか悲壮(ひそう)な空気を帯びて。
鏡子が目を細めた。正気の光が、幾何残(いくばくのこ)っているものか判らない目だった。
「それが、門倉君の刀?綺麗ねぇ。お日様みたい。…あなたらしい。そんな綺麗な、輝かしいものが、私の最期(さいご)を彩(いろど)ってくれるなんて」
「莫迦野郎―――――そんなことで、喜んでんじゃねえよ」
言う声は力無かった。
臥龍を手に、剣護は両手を組んだ鏡子の正面に立った。
彼女の身体はどこもかしこも、真白より尚細い。
若雪に似た顔は青白いとさえ言える程で。
剣護は臥龍を振り上げ、鏡子の右足首に嵌まる足枷と鎖の間を断ち切った。
愕然とする鏡子の顔が、かすめるように目に映る。
その瞬間、鏡子も赤い空間も消え、剣護は一人、陶聖学園の廊下に立っていた。
「剣護、どうしたのよ」
祖母・塔子の困惑したような声が階下から聴こえたと思ったら、真白の部屋の戸が軽くノックされた。
「はい?」
真白が返事をすると、戸が開き、制服姿の剣護が重い足取りで入って来た。
いつもと様子が違う。常であれば彼の全身に漲(みなぎ)る覇気や躍動感が、今は感じられない。
何か変だ。
「剣護?…今日、模試だったよね…?…どうしたの」
模試で失敗したとか、そういうレベルの話ではない。
この、兄の傷つきようは。
思わず真白は剣護に手を伸ばす。手を、差し伸べなければならない気がした。
虚ろな緑の瞳は、およそ真白の知る彼らしくない。
(この人が、こんな目をしちゃいけない)
自分を信じられなくなった、悲しい目をしてはいけない。
真白の胸にその時湧いたのは、憤(いきどお)りだった。
「しろ……」
剣護が真白に縋(すが)るようにその手を取り、自分の口元に寄せると彼女の身を抱き締めた。
もたれかかってくる剣護の体重を支えきれず、真白がよろめいて膝をつく。
その時、頭の片隅に思った。暗いところにある事実が、ポカリと浮かび上がるように。
自分がどれだけもたれてもびくともしない剣護だが、その逆は無いのだ。
自分の力では、彼を支えきれない。
支えきれない。
「――――剣護?」
「俺だった」
「何が?」
「俺が、あいつを突き落としたんだ」
生々しく、血の噴き出るような苦しみが形になった。そんな声だった。
聴く者さえ、悲痛の境地に連れて行く。
痛い程に抱き締められている真白からは、剣護の顔が見えない。
穏やかな緑の色が見えない。
「俺が――――――――」
怖(こえ)えよ、しろ、と続いた震える声を聴いた時、真白は恐慌状態(きょうこうじょうたい)に陥った。
「一体、何があったの。剣護」
何が、どうして、ここまで剣護を追い詰めた―――――――――。
見たことの無い兄の姿に、真白は自ら取り乱しながらも懸命に問いかけた。
四
午後もだいぶ過ぎたころ、買い物から帰って来た怜は、にこにこコーポ203号室の前に立つ剣護を見た。
「…よお」
「――――何て顔してるんだよ、太郎兄」
エコバッグを持つ左手とは逆の右手でポケットの鍵を取り出し、カチャカチャと音を立ててドアを開ける。鍵につけられた、愛らしい小さなテディベアのキーホルダーは、真白から貰った物だ。そのままでは寂しいよ、と妹がくれたややかさばるそのキーホルダーを、怜は大事に扱っている。
「入りなよ」
静かな目で、剣護を促した。
「あんまり驚かないんだな」
「太郎兄が来たこと?」
テーブルの前に胡坐(あぐら)をかいて座り込んだ剣護に訊き返しながら、冷蔵庫に買って来た物を手早く入れていく。片手間で子供に返事する主婦のようだ、と剣護は感想を抱く。
もちろん口に出すような恐ろしい真似はしない。
「ああ」
「真白から電話があったからね。――――――太郎兄の様子が変だって言って、ひどく心配してた。…今にも泣きそうな声で。あの子の前で醜態晒(しゅうたいさら)して、事情も話さずに立ち去るなんて。らしくないよ」
怜の口調からは抑えた腹立ちが感じられた。
「…お前には、怒られるって思ったよ」
非難を大人しく受け容れる剣護の態度に、怜が一つ、息を落として冷蔵庫のドアをパタンと閉めた。それから兄に少しだけ和らいだ視線を投げる。
「アイスでも食べる?」
「ハーゲンダッツなら」
「ああ…帰れ」
「すみませんでした!」
冷凍庫から取り出されたコーヒーアイスの一本が、頭を下げた剣護に投げられた。
宙でキャッチし、袋から出したアイスにかぶりつきながら、何となしに部屋を見渡す。
居間兼寝室の六畳は、前に訪れた時より片付いているように見える。もう小一時間もすれば夕方と言って良い時間帯になるのに、夏の日はまだ高く昼間のような錯覚をもたらす。
律儀に壁にかけられたカレンダーを見て、夏休みの残り日数も、もう多くは残されていないことに気付く。カレンダーの柄は山地に咲く花の写真だ。白い花につい目が行く。
アメリカ人ながら日本酒を愛する父は毎年、年末になると懇意にしている酒屋からカレンダーを貰っているが、それはもっと味気(あじけ)ないもので、良く母が不満を口にしている。不満は言うものの使わないのは勿体無いと見え、結局そのカレンダーが一年中、キッチンに居座ることになるのだ。
(そう言えば荒太が部屋を片付けてやったとか喚(わめ)いてたな)
そんなことを思い出す。
尤もその代償に、冷蔵庫を空にされては堪(たま)らない。
「あの冷凍室、氷作るだけじゃないんだな」
晩酌(ばんしゃく)を密かな楽しみとする弟が、なぜ冷凍室付きの冷蔵庫を購入したのか、剣護は知っている。
「視野は広く、だよ。ある物は色々活用しないとね。…それで、何があったの?」
怜が落ち着いた声で剣護に尋ねた。
相川鏡子の話を聴き終えた怜は、しばらく何も言わなかった。
蝉がいつまで鳴き続けるものか、と思いながらも、自分が思考することから逃げたがっていることを自覚する。―――――剣護が苦悩するのも無理はない話だ。怜はそもそも相川鏡子と面識が無いが、嘗て自分が深く関わった相手の存在が記憶から全て消え失せていたと知れば、混乱に次いでショックを受けて当然だろう。
そして忘れ去ったことにより、相手を絶望させた自分への失望や怒り。落胆。
怜は痛ましさに、切れ長の双眸(そうぼう)を細める。
(失意の連鎖(れんさ)だ…)
どんなに剣護が気丈な性格でも、精神的に受ける打撃は大きいと推測出来る。
ギレンたちが鏡子に嵌めていた足枷を断ち切ったとして、それで解決するという話ではない。また、そのことによって鏡子が彼らから逃れ得たという確証も無い。
「太郎兄は、どうしたいの」
結局、怜に言える言葉はそれしか無かった。
そしてそれが最も肝要なことだった。
「……叶うなら、相川を助けてやりたい。少なくとも、あいつを魍魎サイドには置いておきたくないんだ」
「…だろうね」
剣護は軽々しく望みを口にしている訳ではない。
しかし、鏡子の救済がいかに困難かを二人共に知っていた。
「真白に、俺から話す?」
差し出すような怜の問いには、彼の思い遣りが感じられた。
剣護が怜に目を向ける。食べ終えたあと、ずっと手に持ったままだったアイスの棒を、テーブル上の空になった袋の上に置く。
「いや、俺が自分で話す。一回、逃げちまったからな。ちゃんと説明しねえと」
「――――思い出したら、真白もきっと自分を責めるよ」
怜の長い睫(まつげ)が伏せられる。
「解ってる。俺が、ちゃんと言って聴かせるよ。なあ、次郎」
「何?」
緑の瞳で怜を捉えたまま、剣護は苦悩をそのまま問いとして発した。そうすることが、弟に対する一種の甘えであると自覚した上での問いだった。
「例え囚われる立場から解放されたとしても、相川にはもう行くところが無い。親も親戚も、誰一人あいつのことを覚えてやしないんだ。…半分魍魎となった身では、人として生きることも叶わない。――――俺は、殺してやるべきだったと思うか」
怜は眉を歪め、一度唇を引き結んだ。次に開いた唇から出た声音は、哀切(あいせつ)に響いた。
「……俺に答えられないことを訊かないでよ、太郎兄」
剣護が帰る間際、怜は玄関先まで送りに出た。もどかしげな眼をしていた。言うべきこと、言いたいことがあるのにそれが何なのか自分でも解らない。そんな表情を浮かべている。
「悪かったな。突然押しかけて」
怜が首を横に振る。許容する空気だった。
「太郎兄が独りで背負い込むより良いよ」
ドアを押し開けた剣護が、その言葉に若干の苦笑いを浮かべる。弟や妹に甘えて心配をかけている自分が、情けなく思えたのだ。
「――――――太郎兄」
ドアの向こう側から剣護が振り返った。長身が半分、こちらを向く。
「相川さんのことを、好きだった?」
虚を突かれた緑の目が大きくなる。
怜は真顔だ。からかいの気配は微塵(みじん)も無い。
剣護は、意味も無くドアに設置された新聞受けに目を落とした。
怜は新聞を購読している筈だが、夕刊はまだ入っていない。
ぼそりと、呟くような答えを返す。
「………解んねえ」
夕食のあと、再び真白の部屋に入って来た剣護は、昼間よりも落ち着いていた。
剣護が苦しそうな顔のまま、その理由も明かさず真白の前を去ってから、真白の心はずっと心配や不安、混乱に満ちていた。怜に相談して宥められたものの、依然、それらの感情は真白の中にあった。その状態のままで夕飯を食べ、風呂に入った。剣護のみならず、真白まで何かあったのかと訊いて来る祖母たちに、気の利いた返事も出来なかった。夏バテ気味だったこともあり、おかずの大半も残してしまい悪いことをした。初めて見る長兄の姿に、とにかく動揺していたのだ。
彼の声が「入って良いか」と響いた時、真白は部屋の戸に駆け寄った。
剣護は昼間に見た制服姿から、私服に着替えていた。とりあえず、それなりに落ち着きを取り戻すだけの時間と余裕が得られたのだと思い、真白は一応の安堵に胸を撫で下ろした。
けれど、緑の瞳は相変わらず、悲しみの色を浮かべている。
それが真白の胸をも辛くさせた。
「次郎に会って来た。…叱られに」
その言葉から、怜が剣護の気を少しでも持ち直させてくれたのだと知り、真白は次兄に感謝した。自分一人では狼狽(うろた)えるばかりで、とても当初の剣護の混乱と嘆きに対応出来なかった。剣護も恐らくそれが解っていたから、怜のもとへと向かったのだ。
「昼間は、済まなかった。みっともねーとこ見せたな」
真白は無言で首を横に振る。
同時に、少しだが彼本来の強さの一角が取り戻された声音に、安心感を覚えた。
「真白。俺さ、ひどいことしちまった。お前に嫌われるかもしれない…」
「――――――――絶対」
真白が強く声を発した。
「絶対、嫌いにならないから。話して」
確信があった。
真白にとって剣護は、穏やかに自分を包む空気そのものだ。温もりだ。
嫌悪の対象から最も遠い存在が彼だった。
真白に勧められ、ベッドの上に並んで座った剣護は重い口を開いて語り始めた。
自分が絶望に至らしめた、哀れな少女の物語を。
二人の姿は、秘密を分け合う幼い兄妹にも似ていた。
語りながら、剣護の頭の中は、なぜか幼い日の真白との思い出が溢れた。
鏡子への強い負い目と並行して、それはフィルムがくるくると回り続けるように止まらなかった。
真っ直ぐ自分に伸びる真白の、紅葉(もみじ)のような手。
少しでも剣護が離れると、大泣きして騒いだ時期もあった。
〝もう…伯母さん、剣護君に妬けちゃうわ。――――――取らないでね?〟
取らないでね?
冗談めかして言った真白の母の目には、ほんの僅かに、本物の恐れがあった。
大人に対して生まれて初めて抱いた優越感は、後ろめたくも蜜のような甘さで。
温かな、柔らかい小さな身体。命の重みの愛おしさ。
焦げ茶の瞳が、不思議そうに追う春の雨。冬の雪。
神様。
神様。
願わくばその瞳が、醜いものを映しませんように。
僕の目が代わりに映すから。
木苺を食べて、酸っぱそうにしかめた顔。
それを指差して笑いながら思った。
そうか、世界の中心というものがあるのなら、それはきっとここなのだと。
語り終えた時、剣護は微かな怯(おび)えと共に、隣に座る妹の顔をそっと見遣った。
涼しさをもたらす素振りもない外気の為に開けられた窓の外、上空は濃くて重い藍色だ。
間遠に散らばる星の手前にある真白の顔は、悲しみに歪んだまま固まっていた。
悲痛に彩られた表情に、剣護は話したことを半ば後悔した。
「泣くなよ、真白。お前には何も非は無い」
剣護の話を聴き、真白もまた相川鏡子の存在を思い出した。
(私。私―――――――私も、知ってた)
今では真白の中でも、全ての辻褄(つじつま)が合っていた。
剣護が遠く離れ行くことに覚えた既視感。
絶望に独り佇む悲痛な魂が、太郎清隆の名を呼んだ理由。
鏡の中の赤い少女。
剣護だけではない。鏡子は恐らく真白にも助けを求めていた。
ふと他にも何かあった気がしたが、今の真白には思い出せなかった。
「ごめんなさい、剣護」
「だーかーら、謝んなって。自分がいっこも悪いことねーのに、謝罪を安売りするんじゃないの。そういうのは良くないんだぞ」
諌(いさ)める口調の剣護に、真白は首を横に振る。
罪は罪だ。罰は罰だ。
認めなければならない。
「――――――私、…焼き餅、焼いてたの。剣護が、相川さんのほうをずっと向いてたから。相川さんが苦しいこととか、ちゃんと考えてなくて。自分が、自分が恵まれてるから、本当には考えてられなくて。家族のこととか、経済的なこととか。持ってるものに、胡坐かいて。せっかく、剣護が保健室に誘ってくれてチャンスくれてからも、結局何も出来なかった。間に合わなかった……」
それは、唐突に鏡子が陶聖学園を去った為だ。剣護は胸の内で思った。誰も、何も出来なかった。彼女に手が届かなかった。真白のせいではない。
剣護の目は、真白がベッドカバーを強く掴む手を捉えた。柔くその手を押さえてゆする。
「お前のせいじゃない。何も」
「…なら。私にそう言ってくれるなら、剣護も自分を責めるのは止めて。まだ、まだ何とかなるかもしれない。相川さんのこと、助けられるかもしれない。一緒に、その方法を考えようよ」
「………そうだな」
必死に言い募る真白に、剣護は緩い笑いを返した。緑の瞳が、今は真白をあやすような優しさを浮かべている。
「――――泣かないでよ」
「泣いてんのはお前だ、莫迦」
剣護は妹の白い頬を右手で拭った。
今度は真白がベッドカバーの上に置かれた、剣護の左手の甲に自分の右手を重ねる。
「きっと何とかなるよ。だから、一人で苦しまないで。兄様」
―――――兄様――――――。
剣護。剣護。――――――剣護がいるもの。
自分の腕の中で笑う陽だまり。
緑が細まる。
パンドラの箱にはまだ唯一、残ったものがある、と自分に呼びかける白い少女の姿を前に。ひざまずく思いで。
「ああ、解ってる。―――――…ありがとう」
唇に笑みを浮かべていた舞香は、ギイ、バタンという音を聴いて、アルバムから顔を上げた。パラリ、とカールした金髪の一房が背に落ちる。今まで、真白たちと海に行った時に撮った写真を眺めていたのだ。場所はもちろん、美術書や作品群に侵略されていないキッチンである。アトリエと化したリビングで、そうした行為は望むべくも無い。
また、真白にステンドグラスを教える時など以外の目的で、リビングのテーブル上を片付けるのも億劫(おっくう)でならなかった。
「要ー?遅かったわね。末原先生も人使いが荒いこと。晩ご飯どうしたの?一応、あんたのぶんも作って置いてあるけど」
家事全般、そつなくこなせる。気立てもスタイルも良い。
全く、自分はいつでも嫁に行けると舞香は自負してしまう。その割に、相応しい相手に中々巡り会わないのが謎だ。
そんなことを考えながら、リビングに入って来た弟を首を伸ばして見遣る。
「………またあんたは、何を拾って来たのよ」
困惑顔の要が、赤いワンピースの少女を抱えて立っていた。
舞香と要は、以前、怜が使っていた部屋を再び整えて、少女の寝床を作った。介抱(かいほう)も手慣れたものでそつがない。日の匂いのする新しいシーツをベッドにかけると、要がそっと少女の華奢な身体を横たえた。その間も彼女はひどく具合が悪そうで、蒼白な顔色をしていた。
眠る少女の鼻梁(びりょう)は細く尖(とが)っている。息はか細く、どうかするとこのまま儚くなってしまうのではないか、という妄想さえ見る者に抱かせる。
彼女の傍らに立ち、妄想をはねのけながら舞香が弟にトーンを落とした声で尋ねる。
「道に倒れてたの?手ぶらで?」
「うん…。息も絶え絶えな様子で。救急車は呼ぶな言うから――――――」
呼ばなかったのか。
舞香は眉根を寄せる。
病人の人権を過剰に擁護(ようご)するのも、問題と言えば問題だ。人の良い弟の性分を十分に理解はしているつもりだが―――――――――。
全く、いつの間にか家(うち)は訳有りの俄(にわ)か傷病人引き受け所になっている、と思う。そのこと自体を迷惑には感じないのが舞香だが、自分たちの手に負いかねる患者に限っては頭を悩ませるしかない。
また、この部屋には冷房がついていない。立て付けの悪い窓を開けて少しでも風を取り入れようとするが、どうやら今夜は爽やかな夜風は期待出来ないようだ。
明らかに弱っている様子の少女を、舞香は少しでも快適な心地にしてやりたかった。
「それにしてもこの子は、栄養不足だわ。真白よりも細いんじゃないの。顔色も悪いし…」
とかく拾いものに事欠かない姉弟(あねおとうと)は、少女に食事をさせる必要性を感じた。
しかし少女は、舞香が要の為に取って置いた夕飯のおかずを、口にするだけで戻してしまった。仕方なく水だけを摂らせて、再び寝かしつける。脱水症状には用心しなければならない。
「……家出とかやろか」
柔らかな黄緑の瞳に憂う表情を浮かべ可能性を挙げた要に、舞香が小さく頷く。
「この格好で倒れてたんなら、十分有り得るわね。とにかく、熱中症じゃなさそうで良かったわ。それにしても、家出なら家出で、手荷物の一つくらい持っていても良さそうなものだけど。右足に嵌まってる、赤い足枷みたいなのも気になるし。本人が話せるようになるのを待ちましょ。本当にあんたと来たら、可愛い子ばかり拾うんだから」
「――――選んでへんよ」
「解ってるわよ」
眉を下げて困ったように言う弟に、舞香は軽く笑ってやった。
「剣護。今日は私と眠ろう」
真白が幼稚園の先生のように言った時、剣護は笑いを浮かべた。予想しないでもなかった、という笑いだった。
「何?心配してんの?……一丁前(いっちょうまえ)にさ」
「うん。一丁前に、心配してる。こんな日に、一人でいちゃ駄目だよ。寂しいと、人ってどんどん物事を悪いほうに考えちゃうんだから」
「お前、今までにそんな時があったのか」
眉を顰(ひそ)めた剣護に、真白は首を横に振る。
「ううん、一般論。私には無かったよ。剣護がいてくれたから」
辛い時にはいつも傍にいてくれる兄を、今は自分が気遣う番だと真白は思っていた。
敵(かな)わないな、と思いながらも剣護は口を開く。
「―――――俺も良い年した男なんだけどな。ばあちゃんたちがそろそろうるさいんじゃないか?」
従兄弟とは言え、男子の剣護を真白の部屋に泊めることに、祖母たちが難色を示してもおかしくはないころだろう。だが真白は再び首を横に振った。
「おばあちゃんたちも、剣護のこと心配してたもの。解ってくれるよ」
「しかしな…」
「お願い」
逆の立場であれば、真白はここまで必死にならない。
大丈夫だと言い張って、それこそ一人で耐えようとするだろうに、と剣護は真白の顔を眺め遣る。
「解ったよ。傍にいてくれ、真白」
「うん」
真白は部屋を出ると祖母たちと隣家に剣護の宿泊することを伝え、タオルケットと枕を抱えて戻って来た。剣護の様子がおかしいことは両親である叔母たちも気付いていたようで、泊まることに反対はされなかった。叔母は心配そうな顔で「悪いわね、しろちゃん」とだけ言った。誰より精神的に揺らぐことのない息子の気性を、母親である叔母もまた知っている。そしてそんな彼が、なぜか滅入(めい)っていることを察して気を揉(も)んでいるのだ。昔、まだ剣護が小学生のころにノイローゼと不眠症に陥った時期があったことも、叔母の心配に拍車をかけているのかもしれない。当時もまた叔母は、幼い真白に申し訳ないと言いながら、剣護に寄り添って眠ることを請うたのだ。あのころの剣護に、唯一眠りをもたらせたのが真白だけだったからだ。
「勉強道具は、要らなかった?」
タオルケットと枕を室内に置いて、戸を閉めながら真白が尋ねる。
「ああ…。さすがに、そんなルームサービスが欲しい気分じゃないな」
そう言ってゴロンと床に転がった剣護の脇に、真白はちょこんと座った。いつの間にかパジャマに着替えている妹を見て、剣護は少し可笑しくなる。普段はどちらかと言うと受動的なのに、人が辛苦(しんく)を抱えている時には、昔から積極的に動くようになるのが真白だった。若雪も真白も、自分にとっては何も変わらない。
部屋には豆球の明かりだけがともり、温かな薄暗さがある。
転がったままの状態で無造作に真白に手を伸ばし、癖の無い、真っ直ぐな焦げ茶の髪に触れる。
(俺は割と癖っ毛なのにな。性格が出んのかな)
だいぶ非科学的なことを考えてみる。
触れるだけでも艶(つや)やかと判る髪を、しばらく無言のまま指で梳(す)く。
薄闇の中に虫の音が響いている。
真白は黙って、剣護の気が済むようにさせていた。
「伸ばすの?」
剣護に訊かれて、真白は小首を傾げる。
「解らない。考えてる」
「荒太次第?」
「……かな」
薄暗い中でも頬を染めているだろうと解る妹を見て、不意に怜の問いかけが蘇った。
〝相川さんのことを好きだった?〟
焦げ茶の髪を梳いていた指が止まる。
あいつはたまに、人を見透(みす)かすような目をするからいかん、と思う。
怜本人に自覚はあるのだろうか。
「真白…」
「何?」
(こいつはまたこいつで、人を甘やかす目をしやがる―――――ごく時たま、狙ったみてーに)
いつものように息を吸って吐く。いつものように。
「お前にさ」
「うん」
「お前に、俺のことあげるって言ったらどうする?」
焦げ茶の瞳が微かに大きくなる。
「……どういう意味?」
「そのまんま」
「そんな大事そうなことを、弱ってる時に言うのは良くないよ」
窘(たしな)める妹の言葉に微笑む。
「―――――だな」
そう言って、剣護は真白の髪に触れていた手を下ろした。
髪から離れる剣護の手が、ひどくゆっくりした動きに真白の目に映る。
余計なことをしたかもしれないと思っていた。
今の剣護は、彼の心を理解出来ない人間が傍にいても、より孤独を感じるのではないか。自分が寄り添おうと考えたのも、結局は自己満足に終わっている気がする。剣護が真白の申し出を受け容れたのも、詰まるところ真白の為であろうと考えられた。
「しろ。お前さ、幸せになれよ」
その考えに追い打ちをかけるような優しい声に、真白の胸がつかえた。僅かに震える声で問いかける。
「どうして今、それを言うの」
ひどく唐突な優しさに、感謝などよりむしろ抗議の声を上げる。
剣護が、真白の顔を見上げてちらりと歯を見せる。宥(なだ)めるような緑の瞳。
「気分だよ、気分。……お前に良いことを言ってやりたい気分なんだよ。兄貴として」
嘘だ、と思う。剣護は嘘を言っている。
真白は彼の言い分に納得出来なかった。
剣護の言葉に、かえって泣きたいような思いが込み上げるからだ。
剣護は今、何か大切なことを決めた。
この温かな優しい薄闇の中で。
そして真白の知る限り、彼という人間は一度決めたことを翻さない。
こんなことが昔もあった。どこか自分から遠い思考が、そう囁(ささや)く。
(嵐どの)
独りで決めてしまった。
自分の命と運命を、若雪の為に差し出すことを。
嘗て嵐だった荒太はそれを過ちと悟っている。今生は、傍にいてくれる。
次は兄を失わなければならないのか。
(違う、そんな筈ない。どうして――――。こんなに近くにいるのに。剣護)
剣護が遠い。
このまま剣護が、自分の手の届かない遠くまで行ってしまう気がして、成(な)す術(すべ)も無く真白の思考は切羽詰まっていた。
縋るような気持ちで誰かに、何かに祈ろうとして、急に醒めた頭で思う。
―――――――神の眷属である自分が、一体、誰に祈れるというのか。
〝雪の御方様〟
こんなにも無力なのに、兄の手一つ掴み続けていることも困難だというのに、祈ることすら許されないのが自分という歪(いびつ)な存在なのだ。
神という称号の為だけに、取り上げられたものの大きさ。
(ひどい…)
打ちのめされる真白を、気遣わしげに見る剣護の瞳の温もりさえ、今は辛く悲しかった。
優しい緑。どれほど大切に想われているか、言葉にされなくても解ってしまう目をして。それでも。いや、だからこそ。
(そんな目をしても、あなたは、私を)
きっと―――――――――――。
辛いような愛おしさと悲しみと裏表のように共存して、胸を強く占める凍るような思いは、自分を神たらしめたものへの憎悪だと真白は気付いた。
白い現 第八章 接触