白い現 第七章 流離
近所の夏祭りに、真白は荒太や剣護たちと繰り出す。その帰りに思わぬ出来事が―――――――。
第七章 流離
第七章 流離(りゅうり)
揺らめいて
立ち上る今は昔
想い人も消え
約束は儚い
海の泡
一
真白たちと共にカレーを食べて花火をした日の週末、土曜日の昼下がりに、二つ折りにした座布団を枕にして一人家の居間で微睡(まどろ)んでいた剣護は、チャイムの音で目覚めた。
風鈴の音も耳に心地良い寝入りばなを起こされ、多少手荒に玄関の扉を開けると、そこには浴衣姿(ゆかたすがた)の真白が立っていた。
白地に紺色の竜胆(りんどう)の柄も涼しげで、文庫結びの赤い帯は、少女らしい愛らしさを引き立てている。
そう言えば今日は、近所の神社のお祭りだった、と思い出す。まだ真白が小さい時から、お祭りに付き添うのは剣護の役目だった。眠気と不機嫌が一緒になって吹き飛ぶ。
「おー、真白。可愛い、可愛い。…けど、まだちょっと時間が早くないか?」
相好(そうごう)を崩して褒めた剣護は、首をひねった。
「剣護。あの、無いとは、思うんだけど」
真白が、どこかしどろもどろと言葉を紡ぐ。
「ん?何が?」
「―――――ヘアピンとか、持ってないよね?」
上目遣いに尋ねられたのは、全く剣護の予測の範疇(はんちゅう)を超えた言葉だった。
「……俺が?」
「うん。…出来れば、キラキラした、可愛い感じのが良いんだけど。あったら使わせて欲しいの」
「…………」
チリーン、と風鈴の音が響く。
「良いか。冷静になって考えるんだ、しろ。俺はお前の兄貴で従兄弟だ。つまりは、男だ」
浴衣の両腕に手を添えて、諭(さと)すように言う剣護に、真白はじれったそうに反論する。
「そうだけど!最近って、男の子でもヘアピンしてたりするじゃない」
「するけどなあ、そういうヘアピンはキラキラとか、可愛いとかじゃないだろ。そもそも、俺が髪にチャラチャラつけるような男かどうか、お前が一番良く知ってんだろうがっ。俺は硬派(こうは)なの!」
尤もな剣護の主張に、真白が肩を落とした。
「…とにかくお前、上がれよ」
剣護の手招きを受け、真白が下駄から白い素足を脱いだ。
「――――――大体さあ、お前、そのままで十分いつもより着飾ってんでしょ。髪の毛までどうこうする必要無いって」
言いながら、正座した真白の前に、冷えたカルピスの入ったコップを置いてやる。
普段から、髪に対してほとんど無頓着だと言うのに、なぜ今日に限って装飾を気にするのか、剣護には謎だった。自分とは異なり、癖の無いサラサラした焦げ茶の髪を見遣る。
「…私も、浴衣に着替えるまではあんまり気にしなかったんだけど。着替えてから、鏡で全身を映して見たら、髪が素(そ)っ気無(けな)さ過ぎるように思えて」
成長したなあ、と剣護は思わず感心した。昔から、女の子が喜びそうなリボンやヒラヒラしたスカート、玩具(おもちゃ)のアクセサリーなどにもほとんど興味を示さなかった真白の口から、こんな言葉を聞く日が来ようとは思わなかった。俺も年を取る筈だぜ、とややずれた感慨(かんがい)まで湧いてしまう。これも荒太の影響かと思うと、彼に殊勲賞(しゅくんしょう)をやりたい気分だった。
「よし。ちょっと待て、真白。俺が何とかしてやる」
そう言って剣護は立ち上がり、二階に向かった。
「よう、次郎。お前、ヘアピン持ってないか?」
『藪(やぶ)から棒(ぼう)に何なの、一体』
二階の自室で、剣護はスマートフォンを手に弟に語りかけていた。
相手の都合もお構いなしに話を進める。
「何かさ、キラキラした、可愛い感じのが良いんだと」
『―――――あるよ』
「マジか!お前、さすがだな、持ってないもんねえな!」
『マジな筈がないでしょ。逆に、どう考えれば俺がそんなヘアピン持ってる発想が出るんだよ、太郎兄』
呆れ果てた声にも、剣護は平然と答えた。
「お前、今時のお洒落男子(しゃれだんし)じゃん」
『偏見(へんけん)だよ、それ…』
「だってさ、真白が欲しがってんだよ」
『真白が?』
意外そうな声が返る。
「今日、近所の神社で祭りがあるんだよ。あいつ浴衣着て、めかしこんでんの。それで、髪に物足りない感じがするんだと。な?何とかしてやりたいだろ」
『…珍しいね。あの子が、そういうこと気にするなんて』
「なー、真白も、もうガキじゃないんだなぁ。俺と一緒に祭りに行くだけなのに、そこまで気を配ってんだぜ?」
『その見解(けんかい)の正否(せいひ)はまあ、置いておこう。…解った。それらしいものを見繕(みつくろ)って行くから、待ってて』
「頼んだ!」
「待ってろよ、真白。もうすぐヘアピンが来るからな」
そう言って、剣護がニコニコしながら二階から降りて来た。
「……どういう意味?」
「次郎に頼んだから。あいつに任せときゃ、大丈夫だ。それよりお前、足、崩せよ。痺(しび)れるぞ。浴衣着てると暑いだろ。クーラー入れるか?」
小まめに気遣う剣護に、真白が、え、と言う顔をした。
「次郎兄に頼んだの?わざわざ?」
「うん」
剣護が屈託(くったく)なく頷く。
「…悪いよ、そんなの」
「大丈夫、大丈夫。あいつもさ、一緒に祭りに行けばいいじゃん。何なら三郎も連れて。四人で兄妹水入らずだ!」
真白が驚いた顔をして、黙り込む。目の前に置かれたコップを手に取り、カルピスを一口、二口飲むと思い巡らせる顔つきになった。
四十分程のち、再び門倉家のチャイムが鳴った。
剣護が意気揚々(いきようよう)と扉を開ける。
「良く来たな、ヘアピン!!」
「…太郎兄、そこは本心を偽ってでも、俺の名前を呼ぶところだよ」
ぼそりと苦情を訴えると、怜は剣護に招かれるまま、居間に上がり込んだ。
そこに座る妹の浴衣姿に怜も目を細め、向かいに腰を下ろす。剣護もその隣に座った。
「ごめんね、次郎兄。わざわざお買い物させて、足、運ばせちゃって…」
済まなそうに言う真白を、安心させるように笑いかける。
「良いよ。浴衣、似合ってるね。…とりあえず、駅近くの雑貨屋で幾つか買ってみたんだけど。真白、気に入ったのを選びなよ」
そう言って、金のシールが貼られた可愛らしい柄の紙袋を、真白の目の前に置いた。
袋に品物を入れる前、「贈り物ですか?」と怜に訊いて来た女性店員の目は、和やかに笑んでいた。その問いに、怜は少し迷ったが「はい」と答えた。
中からは余り主張し過ぎない、可憐(かれん)なデザインのピンが数本出て来た。透明の石めいたビーズのついたピンと、小さなパールが連なったようなピンを見比べながら、真白が悩む。
「…どっちが良いかな」
二人の兄に問いかけてみる。剣護が肩を竦(すく)めてあっさりと言う。
「俺、そういうの良く判らん。お前の好きなほうにしろよ」
この兄は、とやや呆れた表情で怜が剣護を見てから意見を述べる。
「―――――その浴衣なら、こっちの透明なほうで良いんじゃない」
「そう?」
真白がそのヘアピンを手に取り、髪につけてみる。
「鏡、見て来るね」
言い置いて、全身が映る鏡が設置された玄関に、小走りに駆ける。
その後ろ姿を見てから、怜が剣護に紙切れを手渡した。
「はい、太郎兄」
「…何だ、これ」
「レシートだよ。ああいう小物って、意外に値が張るね。ちょっとびっくりしたよ」
剣護が、窺(うかが)うような視線を遣す。
「…俺も今、びっくりしてるんだが。これって、俺が払うの?」
「それはそうでしょ。まさか真白に払わせるつもりだったの?真白から代金を払うって言い出す前に、早いとこ支払ってよ」
「………」
弟の善意に都合良く期待していたとは言えず、剣護が口籠(くちごも)る。
試みに、そっと口を開いてみる。
「なあ、次郎。俺、ちょっと今、お小遣(こづか)いがピンチでさ」
怜がにっこり笑った。
「貸しとくよ」
そうだった、こういう奴だった、と剣護が思い出すのは、少し遅かった。
優しさと厳しさを兼ね備えた弟を前に、剣護はよろめきながら立ち上がる。
「…何か飲むか?」
「うん」
庭先には、日本マニアでサムライマニアでもある剣護の父・ピーターが趣味で育てている盆栽(ぼんさい)が並んでいる。
時折響く風鈴の音色がそれらと相まって、日本の夏らしさを醸(かも)し出していた。
「それで、成瀬はいつ迎えに来るの、真白?」
カルピスで口を潤したあと、怜が発した疑問に、兄と妹は同時に驚きを露わにした。
「どうしてここで、荒太が出て来るんだ」
「次郎兄、何で知ってるの?」
二人揃って、怜に問いかける。怪訝(けげん)な顔つきになった剣護が、真白に目を向ける。
「…真白、俺と祭りに行くんじゃないのか?」
「―――――そのつもりだったんだけど。海から戻って、おばあちゃんたちに注意されたの。受験生の剣護に、あんまり相手させちゃ駄目だって。…塔子おばあちゃんが、そろそろ、ボーイフレンドと一緒するのに慣れなさいって言うから、荒太君に話してみたら」
向こうは一も二も無く飛びついたという訳か、と怜は冷静な頭で納得した。剣護の顔を横目で見れば、ショックを受けているのが明白だった。
ゴソゴソと居間の隅に行き、大きな身体を丸めた姿は哀れを誘う。
「毎年、祭りには俺と行ってたのに…。絶対俺と一緒に行くって、昔は言い張ってたのに」
いじけながら剣護は、ヘアピンのレシートは荒太に押しつけよう、と心に決めていた。
怜にしてみれば、妹の手を放し切れない思いは、解らなくもなかった。しかし、だからと言ってその格好はどうなのだ、と呆れる思いのほうが僅(わず)かに勝った。長兄としての威厳が台無しだ。
「どうしよう、次郎兄…」
途方に暮れた顔で、真白が次兄の顔を見た。
「うーん」
考えた怜は、真白にぼそぼそと耳打ちする。
真白が半信半疑の顔で、怜に尋ねる。
「…そういうので良いの?」
「やってみてごらん」
怜に後押しされた真白は、後ろを向いている剣護の背中に抱きついた。
「お、おにーいちゃん」
甘えた声で、と怜に指示された真白だったが、声はややぎこちなかった。
しかし剣護はパッと振り返った。頬が緩んでいる。
「何、真白?」
「……荒太君と、お祭りに行っても良い?」
途端にまた、むっつりした顔に戻った。ぷい、とそっぽを向く。
「真白なんか知らないもん」
乙女かよ、と怜は内心で兄に激しく突っ込んだ。
「じ、次郎兄ぃ……」
妹に助けを求められた怜は、溜め息を吐いた。
「真白。もうこの際だから、しょうがない。お互いに妥協(だきょう)するしかないよ」
夕方になり、真白を迎えに来た荒太は、玄関で彼を出迎えた剣護に首を傾げた。チャイムを鳴らす家を隣家と間違えたかと一瞬思うが、そこは紛れもなく真白の家だ。槇の樹の生け垣の向こうに、庭の桜の樹が見える。ひぐらしの鳴く声が、どこからか聴こえてくる。
「お、荒太。お前、浴衣なんか着て色気(いろけ)づきやがって」
にこやかに言う剣護の後ろから現れた真白の浴衣姿に、一旦、感じた疑問を棚上(たなあ)げして見惚(みと)れる。清楚可憐、幽玄の美、などの褒め言葉が頭に押し寄せる。
(…すごい可愛い!ジャパニーズビューティー。よっし、来て良かった!)
荒太の顔に、自然な笑みが浮かぶ。
「可愛いね、真白さん。綺麗だね。その浴衣、良く似合ってるよ」
笑顔で絶賛されて、真白もまた、荒太の浴衣姿を見てはにかむように言った。
「荒太君も格好良いね」
そこに、真白の浴衣にしがみつく形で、ひょこ、と顔を出した児童がいた。
「真白お姉ちゃん、このお兄ちゃん、誰?」
「お友達の荒太君だよ、碧君」
真白が子供の頭を優しく撫でながら答える。
「お友達?カレシじゃないの?」
荒太が仏頂面になる。元来、子供嫌いの荒太は、突如出現した男の子の存在に、軽い苛立ちと困惑を感じていた。大抵の人間は、つぶらな瞳の碧に目を細めて愛らしいと感じ入るのだが、荒太に限っては数少ない例外だった。ただチビがいる、と認識するだけで、何の感慨も湧かない。真白がその子にやたら優しく接するのも、面白くなかった。
「…剣護先輩。何ですか、このチ…、ちっちゃいの」
「碧君。三郎だよ、成瀬。美里さんに頼まれたんだ。祭りに連れて行ってやってくれって。今日は一磨さんも遅くまで片付けないといけない仕事があって、美里さんも近所の奥様たちの集まりがあるんだって」
更に顔を出した怜に、荒太は困惑を深める。
「…真白さん。俺、今日はデートのつもりで来たんだけど」
その為に、深い藍色の浴衣に、黒い帯をきっちり締めて来たのだ。
なぜ余計な人間がわらわらといるのだ、と暗に尋ねる。
しかも、小野家の三兄弟が揃(そろ)い踏(ぶ)みだ。
「細かいこと言うなよ、荒太!皆で楽しもうぜ」
元気に声を出す剣護の向こうで、真白が申し訳無さそうな顔をしていた。
暮れなずむ空の下、カラコロと、軽やかな下駄の音が響く。風に乗って、祭囃子(まつりばやし)の音色も聴こえて来る。どことなく郷愁(きょうしゅう)の念を誘う、まったりとした空気が漂っていた。
不本意な顔の荒太と、兄弟四人が神社に向かう途中、陽気で軽い声がかかった。
「あっれー?真白ちゃんじゃーん」
(真白ちゃんだと?)
馴(な)れ馴(な)れしい物言いに、荒太のみならず、剣護まで渋い顔になって振り返る。
見ればそこには、陶聖学園高等部一年のチャラ男代表、佐藤春樹が立っていた。
彼は、いわゆるヘアピンを愛用する系の男子だ。染められた長めの金髪はあちこちに跳ねているが、彼の場合はあえてそのようにセットしているらしい。
「かっわいー、かっわいー、浴衣似合うねえ。何、お祭り?何なら俺と一緒しない?」
真白の全身をつくづくと眺める春樹は、居並ぶ男性陣を無視してはしゃいだ声を上げた。
「おい、佐藤。今から俺たちは八幡宮(はちまんぐう)の祭りに行くんだ。お前の存在は邪魔でしかないから、速(すみ)やかに立ち去れ」
遠慮も容赦も無い剣護の口振りに、春樹がおおっと、と言う顔をする。
「なーんだ、門倉先輩も一緒かあ。って、よく見りゃ江藤と成瀬もいるじゃん。ちぇー、先約かよ。残念。真白ちゃんはお姫様だねえ。そんじゃまたねー、今度、俺ともデートしようねー、バイバーイ」
あくまで軽い態度と口調で、春樹はあっさりと退散した。
「うっとうしいな、あいつ…」
苛立ちを更に刺激された表情で荒太が独りごちる。これには、剣護も怜も内心で同意していた。碧の無垢(むく)な眼差しは、春樹の後ろ姿を見てきょとんとしている。
「どうかした、碧君?」
真白が、小さな頭を傾げる碧に問いかける。
「…ううん」
真白に何でもない、と答えたものの、碧はまだ心の内に疑問を抱えていた。
(…今のお兄ちゃん、どうして人間じゃないのに、人間の振りしてたんだろう。悪い奴なのかな?)
碧の目には、春樹がほんの数秒、真っ赤に燃え盛る炎に見えていた。
鼻歌を歌いながら道を歩く春樹に、呼びかける声があった。
「御機嫌だな、ホムラ。…随分と、門倉真白が気に入ったらしいな?」
街灯に照らされた、アスファルトに伸びる影。
春樹は自分に声をかけた相手を見ると、右手を上げた。
「よー、ギレンじゃん。お疲れ~。あいっかわらず、暑苦しい格好してんなあ。クールビズしろよ、クールビズ!だあってさあ、真白ちゃん、可愛いじゃん?」
無闇やたらとはしゃいだような声が、暮れの空気をかき乱す。
「だから殺せない、と来たか?全く、仕方のない奴だな、お前も…。彼らに気配も察知させず、完全に人間に成り切って近付けるのは、お前くらいだと言うのに」
チャコールグレーのスーツを着たギレンが、弟の我(わ)が儘(まま)を大目に見るような笑みを浮かべる。
「ううーん。殺すにしてもさあ、あの綺麗なお顔は、焼きたくないよねえ」
少しだけ春樹が考える顔を見せた。彼には至極(しごく)、稀(まれ)な表情である。
「そだなー、まあ、その内、気が向けば殺すよ。うん。あんまり、期待はしないでね~」
物騒な言葉を軽い調子で言いながら、春樹はギレンにひらひらと手を振って立ち去った。
八幡神を祀(まつ)った神社の祭りは、人と出店で賑わっていた。石材で作られた鳥居の色は、赤ではなく灰色に近い。祭囃子の音が、一際大きく鳴り響いている。赤い提灯(ちょうちん)がズラリと並び、祭りらしい雰囲気を演出していた。最近の流行であるアニメキャラのお面なども、賑々(にぎにぎ)しく並べてある。色々な食べ物の匂いも、そこかしこから漂っていた。
この中を、真白と手を繋いで歩きたかったのに、と荒太は無念だった。
癪(しゃく)なことに、清楚(せいそ)な風情(ふぜい)の浴衣姿の、彼女の手を握るのは碧だ。生意気にも子供用の浴衣を着た碧は、真白にぴったりくっついている。碧の着る浴衣は白地に家紋のようなマークが散って、帯は名前に合わせたのか、緑色の絞(しぼ)り染(ぞ)め風だ。客観的に見て、良く似合っている。真白と手を繋ぐ姿は、麗しくも微笑ましい姉弟(あねおとうと)そのものだ。
(―――――兄弟揃って、邪魔しやがる。その内絶対、馬に蹴られるぞ)
神社の石段を登りながら、真白の髪に目を遣る。涼しげな透明のビーズがついたピンが光る。自分の為だけに着飾ってくれたのではなかったのか、と思うとがっかりした。
「おい、碧。腹、減ってないか。何か食いたいもんないか?」
剣護は、碧のお祭りに関する費用とお守りのお駄賃(だちん)として、美里から古風ながまぐちの財布を預かっていた。
石畳の上を、人混みの中、真白に手を引かれて歩く碧は元気に答える。
「僕、綿あめが食べたい!」
「お前、そんな腹持ちのしないもんで良いのか。…まあ、まずはそれでいっか。祭りらしいしな。しろは?何かないか?」
「私も、綿あめ、食べたいな」
「じゃあ、僕と半分こしようよ、真白お姉ちゃん」
無邪気な碧に、真白もにっこり笑いかける。
「そうしよっか」
「あ、お前ら、何か食う?」
いかにもついでのように、剣護が怜と荒太を振り向いた。
(三郎の一人勝ちか…)
怜は平静な心持ちで状況を見極める。荒太には気の毒だが、まあそれも良いかと思う。末弟(まってい)に対して甘いのは、怜も真白たちと同じだった。
「真白お姉ちゃん、指輪つけてるねえ」
綿あめにかぶりついたあと、碧がくりくりとした大きな目で、真白の左手の小指をまじまじと見た。青紫の輝きは子供には物珍しく、目を引くのだ。
「…うん」
「綺麗だね」
真白が、滲(にじ)むような微笑みを見せる。
「うん」
(―――――カレシから貰ったんだ)
幼いながらに、碧はぴんときた。
母の美里は、少し前に、剣護はやはり真白のカレシなのかもしれない、と言っていた。
(剣護お兄ちゃんから貰ったのかな?)
「それ、誰から貰ったの、真白お姉ちゃん?」
「荒太君だよ」
碧から綿あめを受け取りながら、真白が答える。
「…荒太お兄ちゃんは、お姉ちゃんのカレシなの?」
うっすらと、真白の頬が染まる。
「多分…。そうかな」
碧はそれを見て、真白が荒太に取られてしまう、と思った。
そして尚も碧は追及した。子供ながらに湧く嫉妬(しっと)の感情に、唇が尖っている。
「大切な人なの?」
「うん」
これには躊躇(ためら)わずはっきりと答えた真白に、彼らの後ろから会話を聴くともなしに聴いていた荒太が、そう来なくては、と内心で深く頷く。剣護と怜は、それとなく視線を逸らした。了解している事実であっても、面白くないものは面白くないのだ。
悔しさと悲しさ、そして寂しさがないまぜになった感情が、碧の心を支配した。
「――――僕より?」
この問いに、真白は目を大きくすると、眉根を寄せた。それは真白にとって、答えられる筈もない問いだった。
(三郎―――――――)
腕に感じた骸(むくろ)の重みを、忘れたことはないと心に呟く。
〝血の海が無ければ、嵐どのとは、荒太君とは出会えなかった〟
親兄弟を失うことと引き換えに嵐と出会ったのだという事実は、若雪を、ひいては真白を時折、懊悩(おうのう)の淵(ふち)に沈めた。もとよりどちらを採(と)ることも出来ない選択なのだ。
「…碧君。そういうことはね、大人の間では、訊いてはいけないルールになってるんだよ」
怜が碧の頭を軽く撫でながら言い聞かせる。
「怜お兄ちゃん。…どうして?」
碧が、怜の深い瞳を見返す。
「答えを聞いたら、がっかりしたり、悲しんだりする人がいるかもしれないだろう?だから、お父さんみたいに優しい男の人になりたいのなら、碧君も真白お姉ちゃんに訊くのはよそうね」
祭囃子が流れる中、怜の静かな声音は碧の胸に響いた。
こんな風に、ずっと昔にも、誰かに言い聞かせられたことがあった気がした。耳に沁みる声で。けれどそれがいつだったのか、思い出せない。
くるりくるりと、提灯の明かりが碧を幻惑(げんわく)するように回った。少なくとも碧の目にはそのように見え、束の間、自分がどこにいるのか見失った。
我に返り見上げると、真白がまだ悲しそうな顔で自分を見ている。自分の言葉が彼女を悲しませたのだ、ということだけは理解出来た。
「ごめんなさい…真白お姉ちゃん」
人々が行き交う中、真白が身を屈(かが)めると、下を向く碧の両肩に手を置いて、首を横に振る。小さな碧の身体を抱き締めた。前生で最期に触れた時とは異なる、温かい身体を。
その温もりに涙ぐみそうになるのを、押し留める。
剣護や怜に対するものとはまた違う想いで、稚(いとけな)い、小さな命が愛おしかった。
「碧君のこと、大好きだよ。…本当だよ」
(だから今生では、元気に大きくなって―――――――)
六歳より十二歳よりずっと先の、明るい人生を歩んで欲しい。
自分も、怜も剣護も、あなたを見守っているのだと伝えたかった。
「じゃあ、俺らはこのへんで帰るから」
剣護が、怜や荒太と共に、お好み焼きや焼き鳥などで十分に腹を満たしてから、真白に伝えた。夜も深まり眠くなってきたらしく、舟を漕(こ)ぎ始めた碧の身体を、よいしょ、と言って抱(かか)え上げる。
「三郎も限界みたいだし、坂江崎家に送り届けて来るよ。お前たちはもう少し楽しむと良い。…但し、余り遅くなり過ぎないように。おい、荒太。信用してるからな?」
剣護が、許容範囲内と思える時間帯には戻って来いよ、と目線で荒太に訴える。
「……俺、剣護先輩のこと、空気の読めない莫迦野郎(ばかやろう)だと誤解してました。任せてください、真白さんに危ない輩(やから)は近付けさせませんから」
「………ほう」
「成瀬の場合の一番危ない輩は、自分の中の獣だと思うけどな。気をつけて帰っておいで、真白」
ここからは真白とのフリータイムだと、剣護に許可された荒太が張り切る横で、怜が冷静な忠告を挟(はさ)む。真白に向けて優しさと微かな懸念の残る眼差しを注ぐ一方で、荒太に対しては、下手なことをしたらただでは済まさないと言わんばかりの一瞥(いちべつ)を遣した。
「ありがとう、剣護。次郎兄」
真白がはにかみながら微笑んだ。
「あーあー」
「どうしたの、太郎兄」
神社からの帰り道、どこかしんみりとした剣護の声に、怜が尋ねる。碧は長兄の肩にちょこんと顎(あご)を載せ、すっかり夢の中だ。その小さな足から何度か転がり落ちそうになった下駄を、見かねた怜が引き取った。六歳の男の子ともなれば、結構、持(も)ち重(おも)りがする。湿ったようでやや熱い碧の身体の感触が、剣護に小さかったころの真白を思い出させた。
「いや、真白がさ、嬉しそうな顔しやがってと思ってさ」
寂しそうな剣護の物言いに、怜が笑う。
「それはまあ、そうだろう。…太郎兄があの子を独(ひと)り占(じ)め出来てたのは、もう遠い昔の話だよ」
濃い群青(ぐんじょう)に沈みゆく空気に、怜の声が溶け込む。
緑の目が緩やかな回想に耽(ふけ)る。
〝剣護、待って!待って!〟
いつまでもそう言って、自分を追って来るものではないのだ。
「……その内、荒太の奴、〝真白さんを俺にください〟とか言ってくんのかなあ」
「言う相手は太郎兄じゃなくて、真白のお父さんだと思うけどね」
夜空を見上げながら、剣護が溜め息を吐く。
怜は苦笑いを浮かべた。
頼りがいがあり、気遣いも出来るこの長兄は、実は案外と寂しがり屋なのだ。お祭り好きな性分だが、祭りが終わったあとの寂しさに人恋しくなるタイプだった。
「…行っちまうんだよなぁ。真白。荒太のところに」
遅かれ早かれその日が来るのだと、剣護も怜も解ってはいるのだ。
見上げた月には叢雲(むらくも)がかかり、明瞭(めいりょう)な形が判らなかった。
「真白さん、お腹、空いてない?あんまり食べてないでしょう」
二人になった途端、機嫌の良くなった荒太が、持前の細かな気配りで真白に尋ねる。
碧が占有(せんゆう)していた彼女の左手とは逆の右手を、今はしっかり繋いでいた。繋いだ時に真白が見せた、くすぐったくも嬉しそうな顔が、荒太の機嫌を更に押し上げた。
「うん。りんご飴…食べたいかな」
「え、そんなんで良いの?」
「うん。実は今まで食べたことないの。あれ、一個丸々食べきれるかなあ、って思って」
荒太が笑う。
「食べきれなかったら、あとは俺が引き受けるよ」
真白もまた、この言葉に笑みを浮かべた。
「ありがとう」
それからしばらく二人は、参道の出店を冷かして歩いた。こうした祭りではお馴染(なじ)みの金魚すくいやヨーヨー釣り、射的などを見て回りつつ、たまにはそれらに挑戦してみたりもした。祭り特有の浮足立つような雰囲気に、荒太も真白も地面からほんの少し離れた宙を歩く気分だった。
真っ赤なりんご飴を手にした真白は、帯の赤いことも手伝って、絵に描かれたような少女振りだ。
荒太は、彼女を独占出来る喜びを心中で噛み締めていた。自分でも滅多に無い上機嫌だと解る。
「……ヘアピン、可愛いね」
そんな言葉も、今は素直に口から出て来る。真白がピンに手を遣り、微笑む。
「ありがとう。…次郎兄が、用意してくれたの。私が、騒いだから」
「騒いだ?」
何の話だと荒太が首を傾げる。
「浴衣を着たあと、髪の毛が物寂しい気がして…ヘアピン、ヘアピン、って剣護も巻き込んで騒いじゃった。…変だよね。荒太君と会う時はいつも、普段なら気にならないことが気になるの。何だか、自分が自分じゃないみたいで」
そう言ってりんご飴をかじった真白は、真顔だった。
「…真白さんは、その理由が解ってる?」
「……うん」
「本当に?」
荒太が覗き込んだ真白の顔は、りんご飴程ではないものの、赤かった。
「うん。解ってるよ」
「じゃあ、その理由、俺に教えて」
からかいと笑みを含んだような口調に、真白は少しむくれた。
「――――教えない」
「どうして」
空とぼけた荒太の問いかけに、焦げ茶の瞳が睨むような色を浮かべる。
固く結ばれた唇は、りんご飴の色が移り、日頃よりずっと赤みを帯びていた。
祭りの熱気に酔いしれる人々の間を、その熱気に伝染したかのように、温(ぬる)い夜の風が駆け抜ける。その風は真白の髪をもサラリ、サラリと揺らして行った。
「荒太君は知ってるから。…私は、言葉に出してもうちゃんと言ったもの。解らない振りをして、とぼけるのはずるいよ」
さすがにここで、荒太が謝る。
「うん。ごめん。でもさ、何回でも聴きたいものなんだよ。真白さんはさ、周りに大事な人が多いでしょう。その中でも、特別だって自信を持ち続けるのは、結構大変だから」
ふ、と真白が透明な視線を荒太に向けた。
荒太の鼓動が一つ、大きく鳴る。
赤い唇が静かに動く。
「竹林の世界を、覚えてる?」
笹の葉擦(はず)れも清(さや)かに鳴り、桜の花びらの流れる二人だけの世界。命尽きたのちに辿り着く遠い場所。
「――――覚えてる」
「もし、私が…先に向こうに行ったら、あの世界で荒太君を待ってる。荒太君が先に行った時は、待ってて。私も、必ず同じところに行くから。約束…ね」
今生では、自分は荒太よりあとから逝くのだと決めている真白は、心の中で荒太に願った。
(待っててね)
「何で、こんなになるまで我慢してたんだよ!?」
数分後、真白は荒太による叱責(しっせき)を受けていた。
八幡宮の社務所近く、小さな稲荷社(いなりしゃ)の前の石段に腰かけた真白は首を竦(すく)めた。樹齢千年とも言われる巨大な楠(くすのき)の葉が、頭上にざわめいている。
下駄を脱いだ白い素足の親指と人差し指の間は、赤くこすれて皮が破れ、見るからに痛そうだった。新調(しんちょう)したばかりの下駄を、甘く見た結果だ。
「ごめんなさい…」
「俺も今日はリバテープとかの持ち合わせはないよ」
普段は持ち歩いているような口振りだ、と真白は思う。荒太なら有り得そうなことだった。どうしたものかと考えている荒太に、真白が声をかける。
「家までだったら、我慢出来るから」
荒太が怒った顔を向けて言い放った。
「却下!その足だと五分歩くのも絶対きついって」
ここで更に大丈夫、などと言おうものなら、ますます怒られると察する真白は、沈黙した。荒太は腕を組んで思案していた。
「浴衣でおんぶはきついし…。真白さんさえ良ければ、抱き上げて帰っても良いんだけど」
「それは絶対、嫌っ!」
お姫様抱っこで家まで運ばれるなど、真白にとっては顔から火が出る行為であり、論外(ろんがい)だった。荒太が少なからず傷ついた顔を見せる。
「…そこまで拒絶しなくても良いじゃない」
「剣護に電話して、自転車で迎えに来てもらうから」
言うと同時に、荒太が不快感を露わにする。
「…真白さん、やっぱり解ってないし」
「何が?」
「―――――二人で一緒にいる時に、本当は他の男の名前なんて聞きたくないんだよ。兄だろうと従兄弟だろうと、それは変わらない」
真白が途方に暮れた顔になる。
「…ごめん」
荒太は怒った顔で真白を睨んだ。
「俺が色々、我慢してるのだって気付いてないでしょう」
「え…、荒太君も足が痛いの?」
荒太の眉が釣り上がる。
「そこじゃなくて!いつもより真白さんの唇が赤かったり、しかも浴衣だったりすると、こっちも抑えないといけない欲求があるんだよっ。あんまり無防備な顔を見せないでって言ってるの!!」
八つ当たり混じりの勝手な言い分だということは、荒太自身にも解っていた。
荒太の怒声に真白がパッと唇を手で覆った。
叢雲から出た月が照らし出す荒太の顔には、怒りと困惑がある。
「ごめ…、ごめんなさい。気付かなくて。私、そういうの、無神経なところがあるから…ごめんなさい」
羞恥(しゅうち)に頬を染めた真白は、おろおろと言葉を繋いだ。
荒太も気まずい様子で一度唇を引き結ぶと、懐を探った。
「剣護先輩に連絡するよ」
祭囃子と虫の音が響く中、二人は沈黙していた。
月は再び叢雲に隠れ、姿を消した。闇夜にくすんだ色合いの狐の像が、ぼう、と浮かんで見える。
荒太は真白の斜め後ろの石段に座っていた。その位置に他意は無かったのだが、俯いた真白の白い首筋が露わに見える角度だと、今になって思い知らされていた。嵐として若雪と夫婦になったのち、細くて白い彼女の首に、何度も触れた。自制心を働かせてあらぬ方向に目を逸らしているものの、心臓に悪いタイミングで、そんな記憶を思い出してしまう。早く、それが公然と許される間柄になりたかった。
真白は泣きたいような思いだったし、荒太も今では事態の収拾をどうつけるかと頭を悩ませていた。真白を追い詰める、きつい口調になったこともかなり反省していた。
(短気な性分が直ってないよな…)
自覚はあるのだ。
その時、再び姿を現した月を、真白と荒太が同時に見上げた。そして互いにその気配を感じた。
交わされる言葉は無い。祭囃子の音も虫の音も、その時ばかりは二人の耳に届かなかった。
無言のまま顔と顔が向き合い、視線が合う。
荒太の顔が迫っても、真白は逃げなかった。
真白の赤い唇は、見た目通りに甘かった。
二
「真白、迎えに来たよ」
剣護と連絡をつけた十五分後、稲荷社に駆けつけたのは怜だった。落ち着いた理知的な声に、真白が意表を突かれた顔をする。紺色のシャツに黒いスラックスの怜が、緩い足取りで歩み寄って来る。怜も剣護も普段着で祭りに来ていたが、もし彼らが荒太と同じく浴衣を着ていたなら、女子から浴びる注目は相当なものだっただろうと真白は考えていた。荒太が浴衣を着ていただけでも、ちらちらと投げかけられる視線はあったのだ。荒太はそれを全く意に介していない様子だったが、その視線は真白を落ち着かない気分にさせた。
「え?次郎兄が来てくれたの?」
「うん。太郎兄は今、勉強に集中しろって御両親に絞(しぼ)られてる。だから、代わりに俺が来たんだ」
何から何まで、今日は怜の世話になっている気がして、真白は恐縮した。
「ごめんね、次郎兄」
怜が白い歯を見せる。
「気にしないで。裏手の道に自転車停めてあるから、行こう。じゃあな、成瀬」
怜が真白の足の痛みを気遣いながら、ゆっくりと歩みを進める。
「荒太君、…じゃあ、また」
振り返る真白に、荒太は頷きを返した。
「―――――うん。気をつけて」
荒太としては正直なところ、もう少し真白と二人でいたかったが、仕方なかった。
次第に遠くなる怜と真白の背中を見送る。
名残りを惜しむように、真白の赤くて甘い感触の残る唇に指を触れた。
「真白。横座りは安定が悪いから、しっかり俺の背中を掴んでおくんだよ」
「はい」
剣護の母・千鶴の持ち物である自転車は、主に買い物用として使われており、ハンドルの前には大きめのカゴが設置され、荷台もついていた。その荷台に真白が横に座るのを見届けてから、怜は自転車のペダルを漕(こ)ぎ出した。カゴ近くのライトが、夜の道を照らし出す。
言われた通り、怜の背中のシャツを掴んだ真白が、話しかける。
「…重くない?」
「重くないよ」
答える怜の声には笑いが混じっていた。
祭囃子の音が、少しずつ遠ざかって行く。
「お祭りのあとって、何だか少し寂しいね」
「ああ、太郎兄もそんな感じだったな」
他人事(ひとごと)のように言う怜が真白には不思議だったが、すぐに思い当たった。
(次郎兄は孤独とか、寂しいとか、そんなことに慣れてるんだ)
その慣れが必ずしも良いものだとは、真白には思えなかった。
「…次郎兄、彼女がいたことってある?」
思いがけない質問に怜は目を丸くするが、真白からその表情は見えない。
「――――あるよ」
彼のことだから、そつのない、スマートな交際だったのだろうと真白は推測した。
怜の後頭部を見ながら話し続ける。剣護には言いにくいことでも、怜に対しては唇が滑(なめ)らかに動くのが不思議だった。
「あのね、次郎兄。私、荒太君といると落ち着かないの。すごく安心する時もあるんだけど、…怖い時とかもあって。一緒にいたいって思うのに、実際に荒太君が隣にいると緊張したりして。どうしてかな。そういうのが恋愛なんだとしたら、…不安定なものだよね。剣護といると酸素が増える気がするのに、荒太君は全然、その逆。息が苦しくて自分でも良く解らなくなる。次郎兄はそういうの、解る?」
若雪であったころからそうだった。嵐の言動に突き動かされ、乱されることがあった。そのことが屹立(きつりつ)としていようとする若雪の妨げにもなった。それでも惹かれずにはいられなかったのだ。彼は名前そのままの存在だったが、奪われたと思う以上の多くのものを若雪に与えてくれた。
兄の背中に額を押しつけながら、真白はそんなことを考えていた。
怜のアンテナに、「怖い」という単語が引っかかる。
「……成瀬に何かされたの?」
長い沈黙のあと、真白は怜の問いを小さな声で否定した。
「ううん。されてない」
怜は秀麗な顔の眉根を寄せ、自転車のペダルを踏む足に力を籠めた。車の往来の少ない交差点を過ぎたところで、横道からゆるりと姿を現す影があった。
怜が咄嗟(とっさ)にブレーキをかけると、真白は振り落とされないように彼の背中にしがみついた。
「仲がよろしいことだね、門倉真白。江藤怜」
チャコールグレイのスーツの男が、低くて冷たい、艶のある声で告げた。
真白が荷台から降り、怜もサドルを離れると、自転車を固定させた。
妹の前に庇うように立つと、怜が緊張感のある声で呼ぶ。
「虎封。行くよ」
呼びかけに応じて現れる、しなやかな黒漆太刀(くろうるしたち)。怜はギレンとは初対面だったが、彼に遭遇(そうぐう)した真白の話は聞いていたし、目の前の男が発散する気配は魍魎のそれと同じだった。
倒すべき敵として、見定める。
(しかもこれは、今までの魍魎(もうりょう)とは格が違う。…汚濁も感じられない)
ざわり、と肌が粟立(あわだ)つ感覚が恐れから来るものか、強敵と出会えた喜びから来るものか、怜自身にも判断がつかなかった。
鞘から虎封を抜いて構える怜を眺め遣り、ギレンがおもむろに口を開いた。
「君や門倉剣護を見ていると、時に成瀬荒太と門倉真白の間にある以上の絆が、彼女との間にあるように思える時があるよ」
語る彼の手に、ゆっくりと灰色と茶の入り混じったような剣が、徐々に形を成していく。それはギレンの隙の無い着こなしに比べ、余りに無骨で飾り気が無く、どうかすると土くれのようにも見えた。ギレンは、まるで講義をする教授のように言葉を続ける。
「知っているかい?古事記で最初に夫婦となった伊弉諾尊(いざなぎのみこと)と伊弉冊尊(いざなみのみこと)は、兄妹の間柄だったんだよ。古代においては近親婚も、そう珍しいことではなかった。出雲大社の神官家に生まれた君たちの絆の深さに、因縁(いんねん)めいたものを感じるのは私だけだろうかね」
気抜けする程に朴訥(ぼくとつ)とした外観の鉄剣が全貌を現す。しかしその剣から受ける印象とギレンの実力を同一視して考える程、怜も楽観的ではなかった。
(こちらから仕掛けるか)
ギレンの語りを聞き流しながら怜がそう判断した時、夜陰(やいん)に呼びかけてくる声があった。
「真白ちゃんに怜君じゃないか」
坂江崎一磨が、仕事帰りの格好で立っていた。スーツの背広(せびろ)と鞄(かばん)を手に提げ、緩めたネクタイに少しばかりよれたシャツを着ている。現実と地続きの、生活臭(せいかつしゅう)が漂う風体(ふうてい)だった。
チャコールグレイのスーツを着込んだ男を見て、力(りき)みのないのんびりした声で確認する。
「妖(あやかし)かい?」
「はい」
暑そうな出で立ちだな、と独りごちた一磨が真白の足を見る。
「ここは僕が引き受けよう。怜君は、真白ちゃんを連れて帰ってあげなさい」
「でも……」
躊躇(ためら)う怜と真白に、笑いかける。
「大丈夫だよ。残業あとっていうのがちょっときついけどね」
怜は一磨の顔を見て、真白を見た。
自分も戦える、と目で訴える真白に対し、黙って首を横に振る。彼女を極力、戦闘におけるリスクから遠ざけることは、剣護とも一致した方針だった。望むと望まざるとに関わらず、真白が雪華を振るう機会は他にも訪れる。そして怜は、一磨の力を信頼していた。
「―――――すみません。じゃあ、お任せします」
虎封の姿が闇に消える。
「うん」
再び真白を乗せた自転車が遠ざかると、一磨がコキコキ、と首を鳴らした。そんな彼に、ギレンが訝(いぶか)しげな視線を向ける。
「…何だね、君は。門倉真白の陣営の者か?」
「まあそう、些(いささ)か彼らとは存(ぞん)じ寄(よ)りでね」
ギレンに向かって微笑むと、背広と鞄を道端に立てかける。
「さあ、ここからは大人の時間だ。参ろうか、水山(すいざん)」
一磨の呼びかけに応じて、見るからに重厚な、一振りの剣が現れた。
怜に気を抜いたつもりは無かった。むしろ、いつも以上に感覚を鋭く保ち、真白を無事に家まで送り届けるという一事に専念していた。
しかしその大型トラックは、真白と怜の意識の間隙(かんげき)を突くように、突然自転車に迫った。
目が眩(くら)むような明るい光が二人を照らし出し、急ブレーキの激しい音が鳴る。
(真白……!)
怜は、ほんの数秒浮かび上がったように感じる身体を動かし、妹の手を探った。ようやく彼女の細い手を掴んだと思った次の瞬間、真白と怜の身体はトラックの前から消え失せた。
一時停止はしたものの、逃げるようにトラックは過ぎ去り、あとの道路には自転車が一台、横倒しになっているだけだった。倒れた自転車の車輪は、カラカラとしばらくの間、勢い良く回り続けた。
赤、緑、青、黄、紫……。
めくるめく色の光が、怜を取り巻いていた。
昔、田舎に住まう祖父の家の近所で見た、灯篭流(とうろうなが)しを思い出す。
盆の最後の日に魂の明かりを運び送る、川の水。独特な雰囲気が川辺に満ちる中、水の匂いさえいつもより濃いように感じられた。
〝魂送(たまおく)りと言ってな。婆さんもあれと一緒に帰るんだ〟
いつも矍鑠(かくしゃく)とした祖父の、どこかしんみりとした顔が印象的だった。
〝おじいさんは、寂しくないの?〟
つい尋ねた怜に、祖父は笑いかけた。
〝おう。怜がほれ、ここにいてくれるからな〟
慰め、励ましたかった祖父に、逆に慰められた気がした。
うっすらと目を開けた怜は、自分が日本家屋の一部屋のような場所に寝かされていることを自覚した。線香のような懐かしい匂いと、また別の匂いが入り混じったものが微かに鼻をくすぐる。
「…だからな、あの子たちの為にも……」
「もうすぐ、来るのだから…させるなら早く…」
「しかしまた……よりによって、こんな時期に」
数人の男女の会話が、聴くともなしに小さく聴こえた。
(――――――真白)
怜は妹の名前を思い出すことで、意識がはっきりと覚醒した。
身を起こし、あたりを見回す。枕元には、古風にも行燈(あんどん)が置いてある。
(どこだ)
迫るトラックの、大きな車体が脳裏に蘇る。
自分は五体満足だが、真白までそうとは限らない。
真白の姿を求めて立ち上がったその時、カラリと板戸が開いた。
「起きたのかい」
痩(や)せぎすの、四十がらみと見える、着物を着た女性が声をかけてきた。
「どこか痛むところはないかい。あんたのほうは熱は無さそうだね。あんたたち、浜辺に転がってたんだよ」
見開いたような目は黒々として、濡れたように光っている。そこには確かに労わりの情があった。素っ気無い態度とは反対の性分のようだ。ちらほらと白いものの混じる長い黒髪は、後ろで一つに括(くく)られている。もう少し身に肉がつけば美女と言って差(さ)し支(つか)えない容貌になるのではと思われたが、怜にとってそれは些末事(さまつじ)だった。女性に言われて初めて、自分の衣服が着替えさせられていることに気付く。茄子紺(なすこん)の、単衣(ひとえ)の着物だ。手を口元に遣り匂ってみると、確かに磯(いそ)の香りがした。
女性が口にした「あんたたち」と言う言葉に、怜は飛びついた。
「俺と一緒に、女の子がいませんでしたか。浴衣を着た、肩につくくらいの髪の」
「あんたと一緒に倒れてた子なら、隣の部屋で寝てるよ。あんた、あの子のこと後生大事(ごしょうだいじ)に抱え込んでたんだよ。…あんたとは顔立ちも少し似てたから、兄妹かとも思ったけど。熱があるようだったし、部屋は別にしといたが良いだろうと思ってね」
「会わせてください」
間髪入れずに要求する。
一瞬、女性は怜を探るように見たが、怜が寝ていた部屋を囲む板戸の一つを黙って指し示した。三方を板戸で仕切られたこの部屋の、残る一方は縁側に向けて開けている。カタリ、と示された板戸を開けると、捜していた妹の姿がそこにはあった。
眠る真白の顔を見て、怜は安堵の深い溜息を吐いた。真白の眠る傍らにも、行燈は置かれていた。特にどこを怪我しているという様子も見受けられない。
(真白…。良かった)
白く浮かび上がるような額に手を当てると、確かに熱い。僅かに開いた唇から洩れる息も少し荒く、辛そうだ。良く見ると真白もまた浴衣を着替えさせられていた。しかし着る物は、怜のそれより質の良い品に見える。寝かされている布団も、身体にかけられた布団も、客人にあてがうに相応しい物のようだ。
額に当てられた手のせいか、真白がぼんやりと目を開けた。
「真白」
怜の穏やかな呼びかけに何回か瞬きをすると、微かに眉を顰(ひそ)める。
「次郎兄…?ここ、どこ?」
自分でも答えようのない質問に、怜は明確な返事が出来なかった。求める答えを得られないことで、真白が混乱や不安に拍車をかけないよう注意する必要を感じた。
「…真白、もう少し寝ておいで。あとでちゃんと、説明してあげるから」
そう言ったあとに、案内してくれた女性に目線で状況を教えて欲しいと訴えた。女性は軽く頷くことで、怜の目線に承諾の意を返した。
「―――――次郎兄、どこかに行っちゃうの?」
熱により、いつもより気弱になっている真白が不安がっているのが解った。彼女の白い手が無意識の内に、空気の中を泳ぐように怜に向かう。その手を取って、このまま付き添ってやりたい気持ちを抑える。真白を守る為にも、何より今は情報を得て現状把握することが肝心だった。
「少しの間だけだよ。また戻ってくるよ。真白」
小さな子供に、宥めて言い聞かせるような柔らかい声を出す。真白は依然として不安な眼差しをしていたが、怜に向けて伸ばしかけた手を中途で止めた。
板戸にもたれかかり様子を見ていた女が、怜に対して顎(あご)をしゃくる。
怜はそれに首肯すると、真白の手を布団の中に戻してやり、部屋をあとにした。
「兄妹以上に兄妹みたいだったね、あんたら」
女の感想はある意味穿(うが)っていた。
怜が通された部屋は、最初に話し声が洩れ聞こえてきた方向の部屋だった。
部屋には二台の燭台にともされた明かりが置いてあるのみで、薄暗い。明かりには魚油(ぎょゆ)を使ってあるのだろうか、匂いが鼻につく。怜も電気の無い時代に使われていた明かりの原料となる油のことなど、知識としてしか知らないので、自分の見立ての正誤の確認は出来ない。光に群がる蛾が時折、火に飛び込み自らの身を燃やしている。
そこには白いあごひげを生やし、片目の色が白濁(はくだく)した老人と、しゃんと背筋の伸びた老婆がそれぞれ円座(わろうだ)に座っていた。怜を案内して来た女は、怜を二人の正面の円座に座るように促すと、自分は老婆の横の円座に腰を落ち着けた。三人共、似たような簡素な単衣を身に着けている。横手には囲炉裏(いろり)があり、更にその向こうには釜などが置いてある、台所と思しき場所が見えた。古い木造の家屋は、最初に感じた印象より広いようだ。しかし夜であることも手伝ってか、暗い木の色調がやや陰気(いんき)な印象だった。家の中に流れ込んでくる潮風が明かりを揺らめかし、燭台の油の匂いを一層濃くする。
老人が、一つ深い息を吐く。それが、これから話を始めると言う合図のようだった。女二人が、引き締まった顔つきになる。
「さて、本来であれば客(まろうど)であるあんたがたは、手厚く遇されるべきものなんじゃが…。時期が悪かったのう…」
奥歯に物が挟まった言い様に、怜は眉を顰める。
湿った風が老人の話す間も家の板戸を揺らし、カタカタと音を立てた。
「どういう意味ですか?いや、そもそも、ここはどこですか?日本…ですよね」
老人がおもむろに怜を見据える。白濁した目も、まるで見えているかのような圧があった。長い年月を生きた者が時々有する諦観の眼差しを、この老人も備えていた。
「ここは現世や神界から遠く外れた、辺境の世界。爪弾(つまはじ)きにされた空間。どこにも行き場の無い者たちがひっそりと身を寄せ合い、暮らす土地じゃよ。ごくたまに、時空のひずみに落ちたあんたらのような貴人(あてびと)が訪れることもある」
「―――そんな世界が、本当に在るんですか」
老人の眼差しが重みを増す。
「お前さんが今、現にここにおる。それ以上の証明が必要かね?」
老人の話が真実であれば、確かにこの時代がかった家屋や着る物などの納得もいく。未だ信じ難い思いはあったが、怜は老人の語りを一応、理解したものとして自分の内に呑み込ませた。
「…貴人とは?」
「あんたがた、神つ力をお持ちであろうが。つまりは神界に近いお人ということじゃ。しかもあの女の子からは、神気まで感じられる。こんな時期でもなければ、村中総出で宴でも開き、歓待すべきところじゃ」
神つ力の気配を察知(さっち)出来(でき)るのか、と驚きながら、真白のほうが身に着ける物その他において、怜より優遇されている理由も解った。怜は更に尋ねるべく口を開いた。円座に正座していた足の膝頭(ひざがしら)が、気付けば老人に詰め寄るように前進している。
「時期が悪かったと言うのは」
そこで老人を始めとした彼ら三人は、窺(うかが)い合うような視線を互いに交わした。老人が眉間に深い皺(しわ)を刻み、重い口を開く。
「……もうすぐこの村を、暴悪な妖(あやかし)が訪れる。儂らが避難の手筈を整えておったところに、現れたのがあんたがたじゃ。その妖は定期的にここを訪れては、人々や家畜を喰らって行く。あれは災いじゃ。恐ろしき禍(まが)つものじゃ。すぐに元の場所に戻れるものではないのなら、儂らと共に、お前さんたちも逃げなさい」
怜は考えを巡らせた。この話の場合の妖とは、吹雪によって生じた魍魎とはまた別の存在なのだろうか。そうでなければ、「食われた」と言うこと自体が、忘れ去られている筈である。
「その妖が来るまでに、あとどのくらいかかるんですか?」
「村の巫女の予言では、三、四日というところだそうじゃ」
(三、四日――)
真白が動けるようになるまで、そう長くはかからないだろう。雪華を行使すれば、恐らく元の現世に戻ることもたやすい。
「今寝ている彼女が…、あの子が動けるようになるまでは、こちらに置いていただくことは出来ないでしょうか」
老人たちが顔を見合わせた。
「そりゃあ構わんが。儂らは仕度(したく)が整い次第、ここを離れるぞ?」
「はい、そうしてください」
怜はきっぱりと言った。
いざとなれば、虎封をもって件(くだん)の妖を斬る。
怜は自らの名前と真白の名前を彼らに告げ、改めて助けられた礼を述べた。それから振る舞われた夕飯を食べ、再び真白の部屋に戻った。
「真白――――?」
どうやらこの家には、畳が敷かれた部屋というものが一つも無いようで、どこを歩いても板張りの床がギシギシと鳴る音が響いた。おまけに夜の屋内の暗さときたら相当なもので、まず見知らぬ家の中を、手燭無(てしょくな)しで動くことは困難だった。つくづく自分が常日頃、どれだけの恩恵を電気にあやかっているものか思い知らされる。近付く足音で、真白もすぐに怜が戻ったことを悟った。
「次郎兄。良かった…。戻って来てくれた」
行燈の柔らかな暖色の明かりが、本気で安堵している真白の表情を照らし出している。真白は怜が去ってからもずっと起きていたらしかった。
「戻って来るって言っただろう」
怜は優しく答えて、老人から聞いた話を、端的にまとめて真白に伝えた。
話を聴き終えた真白は、少しの間黙ってから口を開いた。
「私…、体調が戻れば、きっとその妖を倒せるのに」
かなり奇想天外な内容であっても、現状を掴めたことで真白はいくぶん落ち着いたようだった。話を聴いた真白がそう言い出すのではないかということは、怜には予想の範囲内だ。
「必要があれば、俺が虎封を使う。真白は、今は余計なことは考えずに、身体の回復に努めるんだ。熱が引かないと倒すものも倒せないよ。――――――きっと、太郎兄たちも心配している」
「…うん」
「少しで良いから、ご飯を食べられる?膳を持って来たよ」
「うん」
膳に載るのは里芋と豆腐の入った味噌汁、干し魚の焼いた物、そして木の椀に形ばかりに入った玄米だけだ。漁村と見られるこのあたりで、白米は貴重な物なのだろうと察せられた。真白であれば十分かもしれない食事内容だが、これが荒太などであれば、さぞかし餓えに悩まされることになっただろう。怜でさえ、玄米のご飯と味噌汁を二杯食べて尚、腹は満たされていないのだ。成長期の男子には辛い環境と言えた。
この辺境の世界にも、四季はあるのだろうか。虫の音が聴こえてくる。極寒の雪国などでなくて、せめてもの救いだったのかもしれない。
「起きて来られる?星がすごいよ。真白」
食事を終えた真白を、怜は自分が最初に目覚めた部屋から縁側に導いた。
海岸近くに生息する浜姫榊(はまひさかき)がまばらに生えた上空には、砂粒のような星が散らばっていた。浜姫榊が生える更に外側には、柴(しば)などを粗く編んで作った籬(まがき)があり、庭を含めたこの家の周囲を取り囲んでいるようだ。柴があるということは、この村の近くには柴が生える山野があるのだろう。夜の涼風を感じ、怜は真白の身体を気遣う。怜たちがいた現世より、この世界の季節は秋めいているようだった。カーディガンとまでは望めなくても、彼女の肩に羽織らせる為にもう一枚の単衣が欲しいと思った。ふと部屋の隅にある、柳行李(やなぎごうり)が目に入る。開けてみるとそこには、数枚の着物が畳んで置いてある。使えと言うことだろうと解釈して、怜はその内の銀鼠色(ぎんねずいろ)の一枚を手に取ると、真白の肩に羽織らせた。それは真白の着ている淡い藤色の着物に良く映えた。
縁側に座る真白は、星空に見入っていた。天を仰ぎ見る真白のすんなりとした首は、星々の輝きとは別に仄白(ほのじろ)く光るような風情だ。そんな真白を見ると、改めて彼女が神界に属する存在だと知らされるようで、妹が遠く離れ行くような不安が怜の胸をよぎる。それはただの錯覚だ、と怜は心中で自嘲した。
「本当、綺麗だね……」
瞬く星々の世界は、現世ではそう拝めるものではない。潮風の匂いを運ぶ空気は、それさえも透き通った青い色をしているようだった。
真白は、薬師如来の世界、瑠璃光浄土を思い出していた。
「…次郎兄は、私のお隣の部屋に寝てるんだよね?」
「うん。何かあったら飛んで行くから、安心しておいで」
「……同じ部屋で寝るのは、やっぱりダメなの?兄妹でも良くないこと?」
「――――――」
怜が言葉に詰まる。見知らぬ土地で寝込んでいる為、いつも以上に落ち着かなくも物淋しいのだろうとは思う。
しかし、幾ら兄妹とは言え六畳あるかないかという部屋に、もう子供でもない男女が二つ布団を並べて寝るのは、やはり問題がある気がした。怜の胸に一つの懸念が生じる。
「…真白。もしかして、俺が成瀬でも同じことを言う?」
これには即答が返った。
「言わない!!絶対言えないよ、そんなこと。…次郎兄や、剣護だから言えるんだもの」
顔を赤くした真白が下を向く。それはそれで問題がある気がしないでもない。
だが、ひとまず妹の危機管理能力を確認した怜は、少し安心した。
「同じ部屋では寝てやれないけど、真白が寝つくまで傍にいるよ」
「……我(わ)が儘(まま)を言ってごめんなさい」
眠り入るまで、真白は熱に潤んだ目を天井に向けたままじっとしていた。何を見ているというものでもなく、ただ身体の苦痛を遣り過ごそうとしているのだろう。それは幼いころから彼女に習慣づいた仕草のように見えた。
怜はその横であぐらをかいて座り、妹の顔を見ている。人並みに健康な身体に生まれついた彼には、病弱に生まれ育った妹の辛さを実感として解ってやることは出来ない。ただ心中では、自分が代わってやれるものならばと思っていた。どちらにしろ今日は、徹夜するつもりだった。自分たちを拾ってくれた老人たちを悪人とは思わないが、まだ完全には信用しきれるものではない。これが自分一人であれば高いびきもかけようというものだが、真白が共にいる現状では、用心してもし過ぎるということはなかった。
真白の瞼(まぶた)がゆっくり閉ざされていくのを見守りながら、怜は不穏な気配を見逃すまいと、いつも以上に感覚を研ぎ澄ませていた。
その時、剣戟(けんげき)の音が怜の耳をかすめた。
三
怜の鋭敏な感覚が、大きな力の気配を二つ、察知する。
一方は冷え切った水を思わせる神つ力の、そしてもう一方は燃える炎を思わせる魍魎の発するものだった。相反する二つの力は、水を思わせるもののほうが優勢に感じられた。
「ちょっと、ちょおーっと待って、待ってってば」
次いで聴こえた耳障(みみざわ)りな声は、確かに怜の知る人物のものだった。
縁先(えんさき)に雪崩(なだ)れ込んで来たのは、佐藤春樹と、彼を追う水臣だった。浜姫榊が激しく揺れ、ザワザワと騒ぐような音を立てた。卵形をした濃い緑の葉が幾枚も落ちる。籬を破損することもなくどうやってこの庭に入り込んだものか疑問に思うと同時に、水臣と対峙する春樹の手にした火焔(かえん)のような剣を見て、怜の目が険しくなる。水臣もまた剣を手にしてはいるが、それは春樹の手にある物とは対照的に、透明な水が凝(こご)ったような清浄(せいじょう)な剣だった。
事態が掴めないまま、それでも念の為に怜は虎封(こほう)を呼ぶ。その神つ力を使う気配に、春樹と水臣が同時に目を向けた。戦闘の名残(なご)りか、両者の間には赤く輝く火の粉が散っている。
春樹が目を丸くすると、怜の存在を歓迎するかのように両手を大きく開いた。
「なになに、江藤じゃーん!何でこんなとこにいんのお?…ああ、まあこの際お前でも良いや。この、おっかないお兄さんから助けてよ~。もおー、怖いって、この人。よりによってさあ、俺に対して水の属性とかさあ。イジメでしょ、これ」
怜は混乱する頭を働かせた。剣戟の音と力の気配、そしてあっけらかんとした大声に、真白が目を覚まして部屋から出て来た。先程と同じく、淡い藤色の着物に銀鼠色(ぎんねずいろ)の単衣を羽織っている。単衣は、真白の掛布団の上から怜がかけて置いたのだ。
「どうしたの。何かあったの?次郎兄…」
せっかく眠ったところだったのに、と怜は水臣と春樹に対して若干腹立たしく思う。妹を背後に庇(かば)う形で、虎封を手に問いかけた。
「―――佐藤。お前は魍魎だったのか?」
「佐藤君?」
真白が目を大きくし、春樹がやべ、と言う顔をする。
「うあー、まだバラすなってギレンには言われてたのにぃ。バレちゃったし。ああ、ギレンってあのスーツに眼鏡の気障(きざ)なおっさんね。ねえ、ここだけの話にしといてくれない?お仲間に話すのは構わないけどさ、ギレンには言わないでおいてよ、怖いから」
通常とは逆であろう春樹の懇願に、怜が呆気に取られる。同時に、一磨は無事だったろうかという思いが頭をよぎった。真白も言葉が出ない様子だ。
水臣に目を向ける。彼は未だに剣を手放していない。春樹の火焔のごとく揺らめく剣は、とうに消え失せていた。
「…水臣。あなたも、剣を収めるんだ。真白は熱があるんだ。ここでは騒がないでくれ」
水臣は冷たい瞳で怜を見遣ると、黙って透明に輝く剣を消した。それを見届けてから、怜もまた虎封を闇に帰した。
「真白ちゃん、風邪ひいたの?大変じゃん、俺もお見舞いするよー」
どこまでもマイペースな春樹に、怜は呆れた声で告げる。
「…佐藤。妖であるお前を、真白に近付ける訳にはいかない」
春樹がへらへらと笑う。そうした笑い方が、実に良く似合う外見だった。
「だあーいじょうぶだってぇ。俺、今のところ、真白ちゃんを殺す気はないから」
春樹が口に出す言葉には剣呑(けんのん)さがあったが、彼自身の正直な心情を述べているようにも思えた。
「とにかく、こちらの部屋で話そう。…真白、…一緒に彼らの話を聴くかい?」
気が進まない口振りで、怜は一応確認する。予想通り、真白はコクリと頷いた。
虫のすだく中その音色を聴きながら、縁側に開けた部屋に水臣、春樹、怜、真白が車座になって座る。怜は真白を自分の背後に隠すようにして座らせた。その上で春樹からは距離を取る。かと言って、水臣であっても無条件に信用出来かねるのが厄介ではあった。
剣戟の騒音は、日中の労働に疲れ熟睡している家の人間たちを起こさなかったらしい。怜たちの部屋が庭先に面していることが幸いした。
行燈の火と外の星明りだけでは、それぞれの表情が読み辛いと怜は思う。特に二人の異分子(いぶんし)の顔の変化は見逃さずにいたかった。ただ、彼らの感情の表出(ひょうしゅつ)はまるで正反対で、春樹が余りに明けっ広げであるのに対して水臣は凍ったように無表情だった。
解りやすいようで解りにくい、と思いながら怜が口を開く。
「確認するけど、佐藤は、魍魎なんだよな?つまりは俺たちの敵で、命の遣り取りをしている」
「うん、まあそうなってるけどお、俺、そういう風に行動を決めつけられんの、嫌いなんだよね~。自由に、佐藤春樹を満喫(まんきつ)したい訳。あ、俺の本名、ホムラね。そもそもが、大火となって家やら何やらたくさん焼く筈だったの」
口調こそ呑気で陽気だったが、これまでのチャラ男振りでは全く予想だにしない、春樹の正体だった。火を真実の姿とするなら、確かに水の属性を持つ水臣とは相性が悪いだろう。逃げ腰になるのも頷ける。
「でも、佐藤君からは何の気配もしなかったよ。…普通の、人間だとしか思えなかった」
「いーいとこに気がついた!それはね、真白ちゃん」
そう言って勢いづいた春樹が顔を真白に近付けたので、怜がその身体を邪険(じゃけん)に押し遣(や)る。
「近付き過ぎだ」
「俺がね、そういう特殊な魍魎だからだよ。戦闘状態の時以外なら自分の気配を自在に出し入れ出来る、例外中の例外。スペシャルな訳よ」
怜の冷ややかな声も一顧だにせず、春樹が右手人差し指を立て自慢げに告げた。
「…どうしてここに来たの?」
「そこの、おっかない顔した花守のおにーさんに、剣持って追いかけられたんで、とりあえずここを避難場所にしたの。隠れるには最適って感じじゃん、ここ?深い考えは無いよお。まー、すぐ見つかっちゃったけどさ」
春樹の言葉に、真白も怜も水臣の顔を見る。次は彼が事情を語る番だった。
「私は現在、花守の責を離れている。単独で魍魎狩りを続けていたところに、大物が感覚に引っかかったので、追って来ただけの話だ」
重々しくも簡潔な説明だった。
「やー、大物だなんて、照れるね」
頭を掻く春樹を相手にする者は誰もいない。
水臣が花守の責を離れている、ということ自体、真白にも怜にも驚きだった。光はその事実をどう受け止めているだろう、と真白は彼女の心情を案じた。
「――――――光の為?」
真白の印象で見た限り、水臣はどこまでも理の姫・光に関する理由でしか動かない。
尋ねた真白に、水臣が変わらない顔で頷く。
「お察しの通りでございます。雪の御方様。……私は、自らと姫様の御為に、この戦に早く終止符(しゅうしふ)を打ちたいのです」
明かりが心許無いので明確には見えないが、薄青い瞳の水臣はどこか寂しそうだと真白には思えた。戦を終わらせ、そうして彼は何がしたいのだろう。水臣が考えていることは、本当に光を幸せにするだろうか。
「…この村を襲う妖も、やはり吹雪が生んだものなの?」
「はい。人を喰らっても忘却(ぼうきゃく)の彼方にそれを追い遣ることのない、特殊なものです」
「………」
真白が黙った。焦げ茶色の瞳が思案に耽(ふけ)る。
(魍魎も一筋縄(ひとすじなわ)では行かない。佐藤君や、この地を襲う魍魎のように例外もいる。…それなら透主は?やっぱり他の妖にはない、特別な何かがあるんだろうか。…知らないって怖いな。どんな風に足元を掬(すく)われるか解らない)
春樹から何とか情報を訊き出せないものだろうか。
考える額には細かな汗が浮いている。それを見て取り、ここらが限界だと怜は思った。
真白本人に自覚は無いようだが、息が再び荒くなってきている。
怜が止めに入る寸前、真白が声を発する。
「…ここにいる間は、皆、休戦協定ということでは駄目かな。そして、出来るなら村の人を喰らう妖を、協力して倒すというのは…」
果たして水臣と春樹がこの提案を受け容れてくれるだろうか、と胸中で危ぶみながら真白はゆっくりと唇を動かした。水臣はまだしも、春樹にはメリットが無いどころか同士討ちということになる。半ば断られることを予想していた。その場合にはせめて村を襲う魍魎の味方をせず、戦いにおいては傍観(ぼうかん)してもらえるよう頼むつもりだった。それさえ聞き容れられない時には、彼とも刃を交える覚悟をしなければならない。だが未だ同級生という印象の色濃い彼とそうなる事態は、出来れば避けたかった。
しかし真白の提案を、意外にも春樹は挙手して真っ先に受け入れた。
「俺は別にいーよー」
「でも、佐藤君の仲間でしょう?」
確認するように真白に問われて、んー、と僅かに考える目を見せたが、にこっと笑う。屈託がないと言うよりは、何も考えてない笑顔だ。
「俺、そういうのあんまり気にしないんだ。今、自分がどうしたいかが基準だしぃ。そちらさんと違って魍魎全員が仲良し小好(こよ)しってこともないもんな。アオハやギレンを相手にすんのはさすがに気が引けるけどさあ」
「…透主相手、だったら?」
真白の試す問いかけに、春樹はにんまり笑う。
「さあ。どうだろうね~。やだな、真白ちゃん策士だなあ。俺から情報訊き出そうなんて」
やはり、そう簡単に情報収集出来るものではないらしい。
「――――水臣は?」
口には出さないが自分たちも春樹が言う程一枚岩ではない、と思いながら真白が尋ねる。
「私も異論ございません。しかし、ここを出た暁には改めて、この魍魎を滅しにかかるとは思いますが」
淡々と宣言された春樹が、うんざりした顔を見せる。水臣の頑強(がんきょう)さに辟易(へきえき)している様子だった。性分的(しょうぶんてき)にも、どこまでも相容れない二人のようではある。
「男に追いかけられても嬉しくないし…。どうせなら真白ちゃんに追いかけて欲しーなあ」
春樹の軽口は捉えどころが無い。
そこまで話したところで、真白の頭が不意に怜の肩に載った。長い睫(まつげ)は下を向いて意識を飛ばしている。入り組んだ話をしたことで、また熱が上がった可能性があった。肩に感じる彼女の額や頬が熱い。
「ありゃ。真白ちゃん、気絶しちゃった?」
そう言って春樹が真白の白い頬に伸ばそうとした手を、怜が払いのける。
「気安く触るな」
穏やかな中にも、相手に無視することを許さない声だった。
春樹が目を丸くする。
「へえ!江藤って、学校では人当りの良い優等生って感じなのに、結構、シビアなとこあるのな」
「そうだな。俺が優等生に見られやすいのは確かだよ。実際のところ、自分の中での優先順位をこれ程明確にしてる、冷めた人間もいないと思うけど。さあ、今日の話はこれで終わりだ。二人共、人間じゃないからには屋外で過ごすのも遣り用があるだろう。俺は真白を運ぶから」
言外に退去するよう告げる。
そうして妹の身体を抱え上げると、怜は隣室に姿を消した。それは協力を求める側の態度ではない。真白は保険の為と、彼らの行動を把握する思惑もあって水臣と春樹の協力を仰いだのだろうが、二人がそれを拒んでも、雪華と虎封がこの土地を襲う魍魎に遅れを取るとは怜は考えていなかった。
水臣と春樹を置き去りにしたその行動は実際、怜が自分で明言した通りのものだった。
真白がふと目を覚ますと、傍らにはあぐらをかいて座り込んだ怜の姿があった。
(次郎兄…)
薄紫(うすむらさき)の靄(もや)が漂う明け方の気配の中、閉ざされた瞼(まぶた)のあたりには疲労の気配がある。
腕組みをした彼の手にそっと触れると、怜は静かに目を開けた。安穏(あんのん)と、寝ていた訳ではないことがすぐに判る。その唇が微笑みを形作る。
「お早う、真白。体調はどう?」
「お早う。うん。昨日より楽だよ。…次郎兄、ずっと起きてたの?」
「いや、少しは寝たから心配しないで。真白、起きられる?この家の人たちに紹介するよ。多分、もう皆起きているだろう」
「うん、大丈夫」
ギシギシと床板の音を響かせながら短い廊下を通り、真白は怜のあとに続いて居間のような部屋に姿を見せた。軽く緊張していたが、隣に立つ怜の落ち着き払った態度を見ている内に、真白の気持ちも静まった。
そこでは昨晩、怜から聞いた通りの人物たちが朝食をとっているところだった。真白が目覚めるよりずっと早くに起き出していたことが察せられる。
怜により、片目が白濁した老人の名は嶺守(れいじゅ)。老婆は萱(かや)、女性は澪(みお)と言う名前だと知らされていた。三人は真白たちの姿を見ると、箸を置いて平伏(へいふく)した。
「お目覚めでございましたか」
微かに畏れの感じられる声音で、そう告げたのは嶺守だ。
彼らの反応には真白も慌てた。助けられたのは、自分たちのほうなのだ。
「どうぞ頭を上げてください。あの、昨日は助けていただき、本当にありがとうございました。それで…ご迷惑とは思うんですが、もう二、三日、こちらに置いてはいただけないでしょうか」
嶺守が白濁していないほうの目で、縋(すが)るように真白を窺い見る。そこには隠しようの無い希望の光があった。
「……妖を退治していただけると、そういうことでございましょうか」
怜は嶺守の言葉から、自分たちを保護した際、既に彼らの中にはそういう計算も働いていたのではないか、と推測した。神つ力の気配を察知出来るのだとすれば、猶更(なおさら)その可能性は高い。けれど自分たちへの待遇が、純粋な厚意のみで行われたものではなかったとしても、彼らを軽蔑(けいべつ)する気にはなれなかった。もとより人間とはそうした生き物だと怜は考えている。彼らに対して僅かに不快に思う点があるとすれば、幾ら神気が感じられるとは言え、見た目にはか弱い少女である真白に、平然と危険な行為を求め期待することだった。
しかし真白は静かな瞳で頷いた。
「そのつもりでいます。幸い、私たち二人の他にも、戦力になる存在がいますので」
嶺守たちが再び平伏したのち、真白と怜の前に、朝食が整えられた。その内容は、昨夜の夕食よりもはるかに充実していた。
嶺守たちの家から、浜辺は近かった。白い砂の上を、真白は怜のもとまで裸足で歩いた。下駄(げた)や草履(ぞうり)を履いて歩くには、まだ指の皮のめくれた箇所が痛んだ為だ。白砂に、兄のいるもとまで点々と小さな足跡を残して行く。
座り込んで波を見遣る怜の、背中合わせに真白は座った。子供のような仕草だ。
「どうしたの、真白。身体はもう良いの?」
笑いを含んだ声で訊く怜に、睡眠が足りていないことは真白にも解っていた。
「…私が、ちゃんと次郎兄の背中にいるから。支えてるから、眠って大丈夫だよ」
しかし上半身だけとは言え、体重を真白にかければ彼女が潰れるのではないかと怜は思った。真白の声が背中を通して響く。
「次郎兄の手、剣護と同じだね」
「手?」
真白に言われ、自分の右の掌を見る。
「鍛錬(たんれん)してるから、まめやたこがたくさん。ガサガサしてる」
真白はなぜか嬉しそうに言った。額に手を置いた時に感じたことだろう、と察せられた。
「ごめん。痛かった?」
「ううん。…安心した。兄様の手だなあって思って」
怜の口元に微笑が浮かぶ。あまり表情を露わにしない彼の、ほころぶような笑みだった。
「俺はそれを聴いて真白だなあと思うよ」
背中の温もりに語りかける。
「そうなの?」
「うん」
怜は少しだけ、真白の背に寄りかかって目を閉じた。
ほんの少しのつもりだったが、気付けば彼は浅い眠りに落ちていた。
真白はその気配を背中で感じて、緩い安堵の息を吐く。
(…次郎兄が眠ってる間は、私が次郎兄を守る)
いつも自分を守ってくれる兄を、自分もまた守る力があるという事実は、真白を心強くも喜ばせるものだった。怜が一人で無理をしがちな気質であると知るぶん、その負担を分かち合いたいと思った。
なぜだろうか、と真白は考える。
剣護も怜も、真白を守る為なら多少の無理を平気でするのに、その逆は決して認めようとはしないのだ。可能な限り、妹は穏やかな庇護の内にあって欲しいと望んでいる。
(女と男で、違うからかな)
それ以前に、過去において守れなかった負い目が未だ彼らの中にある為、という理由が大きい気がした。
こちらを見つめる視線を感じて目を遣ると、寄せる波に足が濡れるのでは、と危ぶむ位置に水臣が立っている。長い髪は潮風に吹かれ、何を思うか良く解らない面持ちだ。
「水臣…」
真白の声に許しを得たかのように、近付いて来る。立ち止まると、薄青い瞳で怜を見て言った。
「意外と他愛(たあい)ないものですね。口では何を言おうと、まだ子供ということか」
次兄を莫迦にされて真白は気分を害した。
「次郎兄は、一晩中起きていてくれたの。水臣にそんなことを言われる筋合いはないよ」
冷たく冴えた目が、真白に向かう。
「ただ守り、共にいることだけで満足出来る輩(やから)の、気が知れません。自己犠牲(じこぎせい)に酔っているだけでしょうか」
その口振りに、真白は眉を顰(ひそ)める。以前から思っていたことだが、水臣は話す相手に対して遠慮や気遣いというものが欠片も無い。相手が不快になる言葉を口にするのにも、躊躇(ためら)いが無いのだ。元来そうした点に無頓着(むとんちゃく)であるように思われた。人の神経を逆撫(さかな)でするような物言いをする彼に、なぜ理の姫が惹(ひ)かれるのか不思議だった。
「…あなたであれば、見返りを求めるということ?」
「命を賭(と)して守るのです。触れる権利くらいは許されて然(しか)るべきではありませんか」
真白には受け容れがたい考え方だった。
「他の花守も、あなたと同じ意見なの?」
「……いいえ?恐らくは違うでしょう」
水臣が、どうでも良いことのように答え、海の果てを眺める。
真白も首をひねり、陽(ひ)に光る海面を見据えた。
「そう。――――良かった」
ここの海水は透明度が高く、美しい。剣護たちと海水浴で行った海とは、だいぶ違う。
このあたりの住民はほとんどがこの海で漁をして、魚を市場に持って行き、他の食糧や生活に必要な品々と交換して暮らしているのだと、嶺守が言っていた。先程も何隻かの漁船が漕ぎ出していた。生活がかかっているということだろう。魍魎の来る直前まで漁は行われるようだ。漁師たちの何人かは真白たちを物珍しげに、また、どこか近寄り難い者を見るような目で見ていた。嶺守から何か聴かされているのかもしれない。
海に顔を向けたまま、真白は口を開く。
「光は、あなたのことが好きだよ。許すとか許さないとかじゃなくて、あなたが願うことなら、きっと叶えたいと思ってる。その為ならすごく頑張るだろうって思うのに」
水臣がゆっくりと振り向く。
「…どうして、傍にいてあげないの?」
微笑らしきものが、初めて水臣の顔に浮かぶ。
「私は欲が深いのです、雪の御方様。傍にいるだけでは満たされぬのです。あの方が私を求める以上に、私はあの方を求めている。―――――この心情は、荒太あたりなら理解出来得るものなのかもしれません。あなた方御姉妹は…中々どうして罪深い」
深く澄んだ水を思わせる声が、揶揄(やゆ)の響きを帯びる。
「…荒太君は、傍にいてくれるもの」
水臣が目を細める。
「それは彼が、あなたに触れることが可能だからですよ。いつでも。あなたさえ、それをお許しになれば」
含む物言いに真白は顔を赤らめた。荒太との絆を軽んじられた気がして、不快感が湧(わ)く。
「――――――あなたと荒太君を一緒にしないで」
「無論、致しません。存在の在り様からして我々は異なる。もし、彼が私と同じ立場であれば、果たして彼はどのように動くでしょうね。…試しようもないことですが。あなたに背を預けている彼の献身もいつまで続くものやら、私には疑問です」
「水臣…。次郎兄を、侮辱(ぶじょく)しないで。光を、泣かさないで」
強く光る焦げ茶の双眼を、水臣は見る。
理の姫の目は薄青く、真白とは全く異なる色合いなのに、二人の眼差しに通じるものがある気がして、水臣は目を伏せた。
どこまでも浅い青の広がりは、果ても無く透き通り、寄せては返す、を繰り返していた。
目を覚ました怜は、背後の妹の気配を無意識に探った。
「次郎兄…?」
憂いを帯びた声に、意識が明確になる。
「真白。どうした?何かあったの?」
不覚にも眠り込んでしまった、と慌てる。
後ろで、真白が首を横に振る気配がした。
「水臣が…、」
「水臣が、何?」
真白が一瞬、口を噤(つぐ)んだ。
「私、水臣が嫌い……。光の大事な人なのに」
嫌い、ともう一度呟いて腕に顔を埋める真白を、怜は見つめた。
水臣が自分の悪口でも言ったかな、と考える。真白は余り他人を強く嫌悪するということがないが、身内に対する攻撃には敏感だ。怜自身は水臣にどう評されようと、痛くも痒(かゆ)くもない。真白が憂慮(ゆうりょ)することのほうが問題だった。
「真白、これ何(なん)だ」
そう言って真白の前に向き合い、右手を開いて見せる。真白の目が大きくなる。
「桜貝(さくらがい)……?」
「だね。このあたり、結構、落ちてるよ」
真白の掌に、パラパラと落としてやる。古くは花貝(はながい)と呼ばれた、文字通り桜色の花びらのような貝が、真白の白い手に散った。妹の顔の強張(こわば)りがほぐれる様子を、怜は認める。
「他にもあるかな?」
真白が真顔で訊いて来る。
「探してみなよ。市枝さんへのお土産にでも、すると良い」
一度は大きく頷き立ち上がると、砂浜を探し始めた真白だったが、不安そうにこちらを見た。
「どうしたの?」
「……子供っぽくない?貝殻(かいがら)のお土産とか…」
怜が微笑んだ。
「真白のお土産なら、市枝さんはきっと喜ぶよ」
「剣護も?」
「多分ね」
男へのお土産じゃないとか何とか言いつつ、決して真白からの土産を疎(おろそ)かに出来ないだろう剣護の顔が思い浮かぶ。
「三郎にも持って帰ってあげよう。……荒太君は、きっと趣味じゃないよね」
「確かめてみたら?成瀬が粗末(そまつ)にするようなら、俺が貰(もら)うよ」
「随分、真白に嫌われたね」
怜が背後に立った水臣に語りかけた。水臣の気配は清らかな水そのもので判別しやすい。
「次郎清晴…江藤怜。お前、ここに留まってはどうだ?」
思ってもいなかった言葉に、怜は振り返る。水臣の真意が解らなかった。
「なぜ」
「雪の御方様を独占出来よう」
この感覚からして、水臣は常人とはずれている、と怜は思う。
「真白が心底望むなら一考する余地もあるけど、あの子の幸せはここにはないよ」
水臣の風に靡(なび)く長い髪を見て、黒に近いような深い青色は彼の気性に合っている、と感じた。
「閉じ込めてしまえば良いものを」
「そうしてあの子を泣かせるのか?俺は真白の泣き顔を見たくない。あなたは違うのか、水臣」
「…そうだな。私は姫様が嘆かれようと、自分の手の内にだけあって欲しいと望む。私の為に嘆き、怒り、傷つき、絶望されるとしたら、それはそれで本望だ」
怜は腰を屈(かが)めて、無邪気に貝殻(かいがら)に手を伸ばす妹を眺める。その目には柔らかに和んだ色が浮かんでいる。
「相手にとっての心の平穏や、優しい日常や、笑顔を望む思いさえも凌駕(りょうが)する激情は、やがて互いを滅ぼすだけだ。俺はそう思うよ」
言いながら、荒太は少し水臣と似ているのかもしれない、と怜は思った。
ひどく我(が)が強い癖に、自分がただ一人と定めた相手には盲目(もうもく)だ。だが、荒太は真白というフィルターを通して物を見ることが出来るのに対して、水臣にはそれが出来ないように見える。
(…病んでいるな)
鋭利(えいり)な刃のような愛情は、例えば剣護が真白に対して見せる、包み込むような愛情とはまるで正反対だ。その刃が、理の姫を傷めることのないように、怜は祈った。理の姫と、何より真白の為に。
淡い藤色の着物を纏(まと)い、波打ち際で桜貝を拾う真白の姿は、一枚の絵のようだった。
花守たちの間には張り詰めた雰囲気が漂っていた。
安易に口にするには憚(はばか)られる話をする為、彼らは木臣の創った空間に集った。
本来、全員がいれば五色揃う筈の花守の髪の色に、青だけが足りていない。
創り手である木臣自身を表わすような、淡い若草色の空間に立つ彼らの表情は硬い。空間に満ちる和やかな空気も、彼らの戸惑い、憂う心を解きほぐしはしなかった。
「じゃあ、水臣が今、花守ではないと言うのは本当の話なのかい?」
真っ赤な髪の明臣に、金臣が頷く。信じ難い、と言わんばかりの表情を明臣が浮かべた。
「職責(しょくせき)から離れることを、自ら希望したそうだ」
長い黄金の髪を揺らしながら答える金臣の顔には、憂いがある。
「けれど、それは何の為なの?」
甘い木臣の声音に、すぐに答える声は無かった。
「今までも水臣は単独行動が多くはあったけど…。摂理(せつり)の壁(かべ)が、関与しているかもしれない」
訝(いぶか)しげな視線が、明臣に向かう。
「木臣も以前、言っていただろう。新たな摂理の壁のもと、僕らにも転生が可能になるかもしれないと。……戦を早いところ終わらせて、それを実行に移したいんじゃないかい?」
赤い髪の花守は、長年探し求めていた女性の生まれ変わりと、先頃再会を果たしたばかりだ。
それまで黙っていた黒臣が、重い口を開いた。
「――――――姫様が、残照剣(ざんしょうけん)のことを水臣にお教えになった、という話も聴く。内容が内容だけに、公言する者とてほとんどおらぬが」
「〝照る日〟のことを教えられたですって?」
木臣の顔色が変わる。
「なぜ、そんなことを。ある意味、最も秘すべき相手じゃないの」
「解らん」
黒臣が低い声で答える。
つまりは、と明臣が結論付ける声で言う。
「水臣の思惑も姫様の思惑も、僕らには確かな検討がついていないのが現状って訳だ」
「あんたたちは、恋人かい?」
そう訊かれたのは、澪の洗濯を手伝っている時のことだった。
大きな盥(たらい)に洗濯板を使い、着物の汚れを落としていく。その洗濯物の中には、真白の浴衣や怜の着ていた服も混じっていた。最初は嶺守に手伝いを断られたが、澪が「良いじゃないか。本人がやりたいと言うんだ。やらせておやりよ」と口添えしてくれ、今に至る。但し彼女も、洗濯は女の仕事だと言って、怜の手出しは許さなかった。真白はこの世界に漂着してより疑問だった、なぜ言葉が通じるのかということを澪に問うてみた。だが彼女もまた首を傾げるばかりで、どこからの漂着者であっても、なぜかこの空間では言葉が通じると言う。澪に言わせればそれは、爪弾(つまはじ)きにされた存在を、神様が憐(あわ)れんでせめてもと計らってくれたのではないか、と言うことだった。
今は嶺守は漁に出て、萱も市場に出かけている。
怜は庭で洗濯に励む二人の様子を、板張りの部屋から眺めていた。
「いえ。兄妹です」
澪が、ただでさえ大きな目を、更に大きくした。
「血が繋がっているのかい」
「いえ。…でも、兄妹です」
言い張る真白に、澪は口元を歪めてふうん?と笑った。
「その髪飾りは、あの坊やに貰ったんじゃないの?」
そう言われて真白は、髪に留めたヘアピンに手を遣る。
「そうだけど…、でも次郎兄は、兄様だから」
「兄様ね…。あたしゃまたてっきり、現世から追われて、手に手を取って逃げて来たのかと思ったよ」
これらの会話は、怜の耳にも届いている。
庭の井戸から水を汲み、盥の水を新しくする。汚れた水は、地面に打ち捨てられた。丈短く雑草の生える地面に水が吸い込まれていく。近くにたむろしていた雀(すずめ)が、驚いたように飛び去った。
「どうしてですか?」
「―――――そうだね。あの怜って子が、あんまりあんたを大事そうに抱えてたから。…昔の自分を、思い出したのかもしれないね。…その、髪飾りもさ」
言いながら、澪と真白は手分けして洗濯物を絞(しぼ)り、物干し竿に掛けていく。今日のようにカラリとした晴天なら、すぐにも乾きそうだ。
「…澪さんは、ここの生まれじゃないんですね」
「ああ。現世の、親も故郷も捨て、いっとう大事な人と川に身を投げたつもりが、気付けばこの辺境の地にいた。嶺守たちに拾われてね。親代わりに、なってくれた。まだ現世が、江戸と呼ばれてたころの話だ」
真白は洗濯物を干す手を止め、思わず澪を見た。
多く見積もっても四十後半くらいにしか見えない彼女が、江戸時代の人間だったとは思いも寄らなかった。
(神界と同じだ。…時の流れが違う)
けれど、今の彼女の話では、恋人が共にいなければおかしい。なぜ、彼女は一人なのだろうか。
真白の疑問を察したかのように、澪が口を開いた。
「ここに流れ着いて、あの人と、ここの感覚では、そうさね、五年くらい夫婦として過ごした。辺境の地と呼ばれていようが、あたしらにとってここは理想郷だったんだ。…幸せだったよ。あの人が、妖に食われてしまうまでは」
ああ、と思い、真白は目を閉じた。
「皆が逃げる中、止(よ)せば良いのに、あたしの為にうんと働いて手に入れた、簪(かんざし)を取りに戻るって言って聴かなくてね。莫迦な人……。何だ、泣いてんのかい、あんた」
「いえ。…どうして、現世にはいられなかったんですか?」
澪が苦いような笑みを浮かべた。
「あたしとあの人は、異母兄妹だったんだよ。古い昔ならいざ知らず、江戸の世では認められる筈もない間柄だった」
「他の人では、駄目だったんですか。…再婚だって、しようと思えば出来るでしょう」
頬の涙を拭い、自分の浴衣を皺(しわ)を伸ばすようにして干しながら、真白が小さな声で尋ねる。尋ねる前から、真白にも答えは解っていた。
澪が優しげな眼で真白を見遣る。子供の我(わ)が儘(まま)を大目に見るような、そんな眼差しだった。
「駄目だったね。そんな風に簡単に割り切れるものなら、初めから心中なんて考えやしないよ。あんたはまだ若いから、この人だけ、っていう想いが解らないかね。―――――ねえ、真白。あんたは神つ力を使えるんだろう?それもとびきり強い、って嶺守が言ってた。あの人の、仇を討っておくれよ。頼むよ。…ね?」
澪の深い悲哀を感じて、どんな言葉も形に出来ず真白はコクンと頷いた。黙って会話を聴いていた怜は、庭の向こうに広がる蒼天に目を向けた。
妖が出ると予言された日、浜辺に住まう人々の多くは内陸に避難した。嶺守と萱、そして澪も家を離れた。別れの時、真白と怜は、彼らに改めて世話になった礼を言った。家を離れる直前、真白を見た澪の目は、物言いたげだった。そんな彼女を安心させるように、真白は一言「お元気で」とだけ告げた。
そして二人は波打ち際に佇み、魍魎を待った。
真白の髪が風に靡(なび)く。
(来る。もう、すぐ近くまで来ている。―――――禍(まが)つ力と、汚濁(おだく)の気配)
これから戦いに臨むとは思えない程、真白の心は静かに凪いでいた。
きっとすぐ近くに怜がいてくれるせいもあるのだろう。
どこか濁ったような風の吹く、薄暗い夕方にそれは姿を現した。
一見、七色の虹のような光の塊は、海の向こうからやって来た。陸地に近付くにつれ、それの通ったあとに、血のように赤い道が出来るのが見える。通過と共に、大小の命を喰らっているのだ。血のような赤は汚濁の表れだった。真白たちの姿が迫っても、それは吠えも雄叫(おたけ)びもしなかった。
「雪華。…来て」
真白の手に美麗な懐剣が握られる。
怜もまた落ち着いた声で呼びかけた。
「虎封。行くよ」
「次郎兄は、右をお願い。私は左から攻める。挟撃(きょうげき)しよう。水臣と佐藤君は、それぞれ魍魎の後ろと前の退路を塞いで」
いつの間にか姿を見せた水臣と春樹に、真白は指示を下した。顔には出さないが、実際のところ、二人が本当に協力してくれるものか今まで真白は不安に思っていた。
「はいはい、お安い御用だよー。俺一人でも平気なくらいだってば」
真白が静かな目で春樹を見る。
「あれが、そんなに簡単な魍魎でないことは、同族のあなたなら判る筈。これまで数多(あまた)の命を喰らって、膨張している。そう易々とは行かないでしょう」
「ふふん。俺、真白ちゃんのそういうとこも好き。凛々しくて良いよねえ」
真白はそれ以上春樹を相手にしなかった。臨戦態勢に入った焦げ茶の目は、魍魎だけを見据える。
丁度それが海から上がったところで左側部に走り込み、七色の光に素早く、力を籠めて雪華を突き立てた。向かいから、怜も虎封を斬りつけたことを見て取る。もとより真白は、兄が仕損じる可能性など考えていない。
(例えこれが妖から見たら殺戮(さつりく)であったとしても)
澪のような悲しみは、もう生まれてはいけないと真白は思った。改めてギレンの言葉が頭に浮かぶ。
〝だがその為に殺せるか。響く鼓動を、自らの手で奪えるか?〟
殺せる、奪える、と今であれば答える。守りたいというエゴを貫く為に――――――。
その妖の感触はひどくぶよぶよとして、刃が通りにくかった。斬れぬものの無い懐剣を伝わって腕に感じる、鈍い手応えは不快だ。それでも何とか雪華を妖の中心部に向けて切り裂いていく。虹色の光が強くなる。初めて、魍魎が悲鳴らしい咆哮(ほうこう)を上げた。狩りをするつもりで来たものが、自分が狩られる側になるなど考えてもいなかっただろう。真白と怜を忌避(きひ)するようにそれは逃亡の気配を見せたが、何気なく立つ春樹と水臣が牽制(けんせい)となって思惑は叶わない。潮風と入り混じった腐臭が濃く漂い、胸が悪くなるような汚濁が満ちる。
(―――――ここまで切り裂いても死なない。急所のようなものが、あるんだろうか)
魍魎の身体全体に目を凝らす。
(探せ。探せ――――――)
中に赤く、輝く一点。まるで心臓のように脈打っている。毒々しいように美しい真紅だ。
(見つけた。あれだ……。真っ赤で、何て綺麗なんだろう。不吉な程に)
それに最も近い場所にいるのは、海面に立つ水臣だった。
「水臣!」
「清き水は、刃のごとく」
真白が指示を出すまでもなかった。
言霊と共に水臣の手に現れたのは、美しい透明な剣だった。水がそのまま鋭利な刃の形を成したかのような、涼やかな気配を纏っている。
水臣は全く無感動な瞳で、赤い輝きを剣で貫いた。美しくもおぞましい、巨大な魍魎の姿が塵と消える。
その時、耳に知らない男性の声を真白は聴いた気がした。
〝澪に、この簪を――――――〟
静かに輝く、銀の細工物の簪が、真白の足元に落ちていた。
その翌日、家に戻った嶺守たちは、妖を倒した真白たちが去ったことを悟った。
澪の目が縁側にキラリと光る物を捉え、近付く。それは、澪の亡き夫が彼女の為にと求めた簪だった。水の波紋が細密に象(かたど)られた美しい意匠を、見間違える筈はない。
〝お前の名前に、丁度相応しいだろう?〟
そう言って、異母兄であり夫でもあった彼は、自分のほうがそれは晴れやかに、嬉しそうに笑ったのだ。その簪を手にした澪は、細工物を得られたことより、夫の気持ちが何より嬉しかった。彼の笑顔を見て怖いくらいに幸せだと、確かに感じた。
―――――――――遠い昔。
澪の震える手が簪を拾う。しばらくの間、言葉も無くその簪を見つめていた。
「……莫迦だねえ…」
魍魎に、夫と共に食われた筈の簪を手にして、澪の大きな両目から涙が溢れた。
現世に戻ると大型トラックはとうに走り過ぎたあとで、車体の後ろ姿さえ見出せなかった。どうかすれば轢(ひ)き逃げ事件が起きていたところだ、と怜は思う。急ブレーキをかけてはいたから、自分たちのことは視認出来(しにんでき)ていた筈だった。
自転車の車輪が、ついさっき倒れたかのように回っている。辺境の世界で過ごした間、こちらでは全くと言って良い程、時間が流れていなかったらしい。江戸時代に生まれた澪が、辺境の地で尚生きていたことを考えると、現世と異世界の時間の関係はかなり不規則なようだ。
水臣と春樹の姿も消えている。どこかでまた、刃を交えているのだろうか。
「真白、怪我はない?」
真白も怜も、時空に飛ばされる前の格好に予め着替えていた。
浴衣姿の真白は突っ立ったまま動かない。焦げ茶の瞳には、思い詰めた色がある。
「―――――真白?」
「…次郎兄。私、荒太君に会いたい…。まだいてくれるか判らないけど、神社に戻るね」
僻地の空間に飛ばされていた間に、足の指の皮も治癒している。
怜は開けていた口を閉じる。黙って自転車を起こすと、神社の方向にハンドルを向けた。
澪の話を聴いて、真白には感じるところがあったのだろうと察しがついた。今の真白は他の誰でも無い、荒太の存在を求めている。
「真白。乗って」
「今なら、歩いてもあんまり痛くないから、一人で行くよ」
「女の子を夜道で一人にする訳にはいかない。早く戻らないと、成瀬が帰ってしまうよ?」
申し訳ないと思いながら、真白は自転車の荷台に腰を下ろした。
怜と共に真白が去ったあと、まだ立ち去る気にもなれず八幡社の境内をうろついていた荒太だったが、真白が傍らにいなければ出店の賑わいも提灯の明かりも味気なく、空しいものだった。とりあえず本殿に参拝してから帰ることにする。陰陽道を嗜(たしな)む身であっても、融通(ゆうづう)をきかせることが肝心、というのが荒太の考え方だ。軽くお辞儀をすると賽銭(さいせん)を投げ入れて鈴を鳴らす。ガランガラン、と重々しい音が鳴り響いた。それから二拝二拍手一拝して願い事を心に唱える。
(真白さんが、俺の隣でずっと笑っててくれますように)
どんなに神仏に祈っても、どうにもならない現実があることを、荒太は嫌と言う程知っていた。真白が親兄弟を亡くした痛手(いたで)を引(ひ)き摺(ず)るように、目の前で若雪に先立たれた痛みは、今もまだ荒太の胸にある。
だからこそ猶更(なおさら)、その一事だけで良いからこの一生で叶って欲しいと願った。
嘗(かつ)て前生において若雪が妊娠したと知れた石見からの帰路(きろ)、彼女は嵐に幸せだと、出逢えたことを感謝していると告げて花のように笑った。自分がそう告げたことを忘れないでくれと、念を押すように言った。
嵐は彼女との約束を守った。生涯、その時の若雪と、その言葉を忘れなかった。そして彼女が二度目の労咳(ろうがい)に罹(かか)ったと判ってから、若雪はこの将来を予見していたのだと気付いた。足元の地面が消え、突如(とつじょ)として暗闇に投げ出されたような絶望に浸る中、ただ若雪の白い花のような笑顔が心の内をぐるぐると回った。
真っ白い花。
残酷な程にその白さで魅了して、先に逝ってしまった。
過去を回想した荒太は拳を握り締めた。
(真白さんは、俺の傍にいるんだ。この先も。一生いてくれる、俺だけの花だ)
例え彼女がそれを拒んだとしても、手を放す自信が荒太には無い。
本殿から身を翻した荒太は、空耳を聴いた気がして立ち止まった。とうに帰宅した筈の真白が、自分を呼んだように思ったのだ。果たして振り向いた先には、確かに先程見送った真白の姿があった。驚きつつも、賽銭が些少(さしょう)な額だった割に御利益(ごりやく)が早いな、と頭の隅で考える。
「荒太君……っ」
息が弾んでいる真白に駆け寄った荒太は、彼女の目が潤んでいることに気付いた。
怜に何かあったのだろうか、という危惧(きぐ)を抱く。竜胆(りんどう)の柄の浴衣に赤い帯。焦げ茶色の髪に光る透明なビーズのピン。格好は別れ際と全く同じなのに、どこか違和感を覚える。
「どうしたの、真白さん」
「荒太君、…先に、逝かないで、私―――――」
そう言って涙をこぼす真白に、荒太は慌てた。先程まで回想していたこともあり、白い花が露をこぼしている風情にも見え、手を伸ばしかけて、止まる。抱き締めようにも、公衆の面前だ。今でさえ、泣いている浴衣姿の少女を見る好奇の目は多い。とにかく人目につかないところへ行く必要があった。
荒太は真白の手を取ると、先程まで二人で座っていた、小さな稲荷社の石段まで導いた。
彼女の足の痛みを荒太は気遣ったが、真白は普段通りの歩みで大人しくついて来た。
真白を石段に座らせてから、柔らかい声を心がけて尋ねる。
「……落ち着いた?」
真白は小さく頷いたが、まだ荒太の左手を放そうとはしない。
「…私、今生は、我慢するつもりだったの」
「何を?」
真白の濡れた瞳が荒太を見る。
「荒太君に、置いて逝かれること」
荒太が息を呑む。自分が考えていたことを真白に見抜かれた気がして、動揺する。
「二回もあなたに辛い思いをさせたから…。今度は、私が耐える番だと思って」
ざわりと騒ぐ楠の下、真白はでも、と言って続けた。新しい涙が一筋、頬の輪郭(りんかく)をなぞるように落ちる。
「――――――でもやっぱり辛い。荒太君がいなくなることに、耐えられない」
澪の在り様は、真白の目に余りに悲しく映っていた。
彼女は、手を取り合って辺境の地に流れた相手を、呆気なく失った。せめてもの慰めにと思い銀の簪を置いては来たが、澪は簪などより、夫が生きて傍にいてくれたほうがはるかに幸福であったに違いないのだ。思い定めた人を亡くし、その喪失感を乗り越えて生き抜くことは、自分では到底無理だと真白は思った。
喪失の痛手を、荒太に負わせたくはない。けれど、自分もまたその痛手を負いたくはない。自分の身勝手さを恥じながら、真白は荒太に対して申し訳ない思いを強く抱いた。
「ごめんなさい……」
ずるいな、と荒太は思った。先手を打たれるようにこんな告白をされては、降参するしかない。先に逝くなと泣かれて、それを拒絶するのは難しい。
解ってはいたのだ。
置いて逝くほうもまた辛いということを―――――――。
残される者との辛さは、比較にならないものだと。嵐やまだ幼い小雨を置いて、先立たねばならなかった若雪を責めるのは間違っている。それは自分の嘆きばかりに目を向けていては気付けない真実だった。真白は荒太の苦痛を推(お)し量(はか)った上で涙を落としている。それならば自分もまた、彼女の苦痛を思い遣らなくてはならない。真白の隣にいたいと願うのであれば、それだけの男でいなければいけなかった。
泣きながら詫びる真白を抱き寄せ、髪に顔を埋(うず)める。髪の毛の一本一本に至るまで、真白に連なる全てのものが荒太には愛しくて仕方なかった。誰かに譲ることなど、考えもつかない。
(この温もりが、今は俺の手の中に在る)
それだけで全てが許せてしまう気がした。
左手を放そうとしなかった真白の思いが、今は理解出来た。
嵐が差し出した手に、若雪が手を重ねる。
自分が差し出した手に、真白が手を重ねる。
それは昔からの約束事のように、二人の間で余りに当然の仕草だった。
「真白さん。今生の俺の夢ね、真白さんと共白髪(ともしらが)なんだ。どちらが先とか、決めないで良いじゃない。――――ずっと俺の隣にいてよ」
こうして互いの体温を感じられることは、得難い幸運で奇跡なのだと思う。
「それで良いの…?」
「うん。俺の一番の野望だよ。だからさ、……長生きしてよね」
最後の言葉に、荒太の背に回された細い腕に力が籠る。
腕に収まる真白の身体からは、なぜか磯の香がした。
四
月に叢雲(むらくも)のかかる晩は、ろくなことが起きない気がする。把握(はあく)されて然(しか)るべき月の形状が解らない事実は、ギレンを少なからず不快にさせる。
尤(もっと)もそれは、あくまでギレンにとっての主観だった。
しかし今夜に限っては、その主観が正しかったようだ。
「ち……っ」
ギレンの右肩は、スーツごと深く斬り下げられていた。
いかにも上質そうなチャコールグレーの生地が、真紅に染まっている。
一磨の水山(すいざん)によって負わされた傷だ。夥(おびただ)しい血が溢(あふ)れ出し、床を汚している。この居所に対して少しの愛着もないが、派手な血の染みが残るのはのちのち目障(めざわ)りだ。
「痛い?ギレン」
訊くまでもないことを、アオハが、あくまで無邪気に尋ねる。
彼らは高層マンションの一角を拠点としていた。
片方の口角を釣り上げて、アオハに凄(すご)みのある笑みを見せる。
「まあな。―――――坂江崎一磨(さかえざきかずま)。小笠原元枝(おがさわらもとえだ)か。全く、とんだ伏兵(ふくへい)がいたものだ」
初手(しょて)だから仕損(しそん)じた訳ではない。純粋に一磨の戦闘能力が秀でていたのだ。そして何より、人間と変わらない見た目のギレンに怯(ひる)むことのない精神力は賞賛(しょうさん)に値する。
それでも真白のほうが敵対するに格上だと言うのだから、厄介な話だった。
澄んだ薄茶の瞳で、アオハが事も無げに言う。
「透主(とうしゅ)に、治してもらえば良い」
「そうだな…。透主様におかれては、さぞかし気乗りしないことだろうが」
アオハに答えて、鍵のかかった一室のドアを見つめる。
「まだ、時々呼んでるよ」
「何をだ?」
「太郎清隆の名前」
ギレンの口元が歪んだ笑みを浮かべる。
「ふ……ん」
「可哀そうだね」
評するアオハの声は、淡々と押し寄せる波のようだった。
「しろー、コーヒー淹れてくれー」
剣護は勉強の息抜きとばかりに、チャイムも押さず隣家の戸を合鍵で開けると、真白に要求の声を上げながら、廊下からリビングへ入ろうとした。そして、立ち止まる。
丁度、剣護の進もうとする先に、猫がいるのだ。この家で猫を飼っているという話は聞いたことがない。
しかも、その猫は二本足で器用に立っている。
「あ、どうも。お邪魔してます」
更に驚くべきことに、ペコリとお辞儀しながらそんな台詞(せりふ)まで言ってのけた。声はだみ声で解り辛いが、壮年(そうねん)の男性のもののように聴こえた。
「いえ、こちらこそ」
反射的にお辞儀を返し、そう返事してから、剣護の混乱は頂点に達した。
自覚は無かったのだが、自分は受験ノイローゼだったのかもしれない。受験勉強に追われる強迫観念の余波(よは)が、このような幻覚となって現れたのだ。
「俺はもう駄目だ…」
その場にへたり込んだ剣護を、猫の金色の目が興味深げに見ている。
「どうしたの、剣護?コーヒー、淹れるよ。入って」
声だけを響かせてリビングに姿を見せない従兄弟を、真白が廊下まで迎えに出て来た。
「真白…。お兄ちゃんの頭は壊れてしまいました。優秀過ぎる頭脳ってのは繊細なんだな、やっぱり。そこにさ、二本足で立つ上に、言葉を喋る猫の幻覚が見えるんだ……」
剣護の嘆きに、猫と真白が顔を見合わせる。
「あのね、剣護。初対面だから混乱したと思うんだけど、この猫は、嵐下七忍の山尾なの」
剣護が顔を上げる。
「…猫に化けてんのか?」
「ううん。山尾は、猫だよ。正確に言えば、猫の妖怪(ようかい)。魍魎(もうりょう)とは全然違うんだけど」
真白の説明に、剣護は混乱を深めた。
「嵐下七忍には、猫もいたのか?」
「あ、ううん、そうじゃなくて。とにかく、リビングに入って。説明するから。コーヒーはホット?アイス?」
「アイスで…」
頼りない声で剣護が答えた。
山尾と呼ばれた猫は、リビングのソファの上に、剣護と隣合って大人しく座っていた。人が座るのと全く同じ要領で、ちょこんと腰かけている。尻尾(しっぽ)は背中の後ろでゆらりゆらりと揺れている。瞳は金色で全身がグレーの短毛で覆われ、やや身体は大柄だが、やはりどこからどう見ても猫である。尻尾が二股(ふたまた)に分かれている訳でもない。先程から、リビングに置かれた観葉植物のベンジャミンをちらちら見ている。爪を研(と)ぎたいのだろうか、と思うが、ベンジャミンの細い幹はグルグルとねじれた形になっている為、その望みは果たせそうにない。リビングに射(さ)し込(こ)む明るい夏の光を浴びながら、グレーの猫と仲良く並んで座る剣護はまだ夢を見ているような気分だった。
「山尾はちょっと変わった人でね、前生での口癖が、〝来世があるのなら犬か猫になりたい〟だったの。そしたら、本当に猫に生まれ変わったんだって。妖怪だから、普通の猫とはだいぶ色々と違うんだけど、人畜無害だよ。樹とか石とかに精霊が宿る存在を妖怪って呼んだりするでしょう?そんな感じ。前生の記憶はあるから、時々お話しに来るの」
アイスコーヒーを剣護の目の前に置きながら、真白が説明する。「時々お話しに来るの」という言葉に、納得するところか否か、剣護は頭を悩ませる。メルヘンかつ非科学的な話に、彼は頭を柔軟(じゅうなん)にして必死でついていこうと努力した。
「でも大体、山尾と話してると…」
そこで、チャイムが激しく鳴り響いた。
剣護が戸を開けると、息を切らした荒太が立っている。
「剣護先輩、猫が来てるでしょう!?」
前置きも何も無く、噛みつくように剣護に迫った。
「…うん。来てる。やっぱりお前もお友達なの?」
「お邪魔します!」
荒太は剣護の問いには答えず、そう断ると急いでリビングに飛び込んだ。
「こんにちは、荒太様」
のんびりとしながらも丁寧で律儀な山尾の挨拶に、荒太が脱力する。その向かいに座る真白を見て、安堵の息を吐いた。
「あー、良かった。無事だった」
荒太を追って再びリビングに入った剣護は、首を傾げること頻(しき)りだった。
「なあ、荒太。俺に解るように説明してよ」
戸惑う緑色の瞳は心許無く、山尾が出現してからというもの、数え切れないくらいの瞬きが繰り返されている。
荒太が、そんな剣護にぐったりした目を向けた。
「―――こいつは山尾と言って嵐下七忍で」
「ああ、うん。そこは聞いた。何とか今、現実のこととして俺の中で消化中。俺が訊きたいのはさ、お前がどうしてそこまで焦(あせ)って家に来たかってことなんだけど」
「…猫であるのを良いことに、真白さんの膝で丸くなったり、抱き上げられたりしたがるからですよ、こいつが!あまつさえ頬擦(ほおず)りとか有り得ないっ。中身、中年のおっさんですよ?阻止(そし)しようとして、当たり前でしょうが。―――――――羨(うらや)まし過ぎるし」
荒太の最後の言葉は聴かなかったことにしてやるとして、ここまで言われれば剣護も納得した。妹の膝に乗って甘える、小太りの中年男性の像が頭に浮かび、それはいかん、と強く思う。真白が言った〝人畜無害〟という評価は甘い見解だと言わざるを得ない。
山尾の瞳が三日月のように細くなる。
そうするといかにも『不思議の国のアリス』に出てくるチェシャ猫のようで、食わせ者、と言った感が出る。
「嫌ですねえ、荒太様ってば。若雪様との祝言(しゅうげん)の折には、高砂(たかさご)を舞って差し上げたりもしたのに」
荒太の横で、山尾が尻尾(しっぽ)を軽く振りながら呑気に言う。
「それはそれ。これはこれ。兵庫が一々知らせて来るお蔭で、俺もこうして真白さんのディフェンスに駆け付けられる訳なんです」
真白の隣に陣取った剣護は、こいつも忙しいんだか暇人なんだか良く判らんなと思う。
「兵庫もまた、よくそんなんで社会人としてやっていけてるな」
「俺もそう思いますよ。まあ、あいつは器用な奴だから。俺と一緒になって株でもそこそこ儲(もう)けてますしね」
「株に手を出してんのか、お前は…。あんまりのめり込むなよ。―――――水恵さんは普段、何やってんの」
この際、気になっていた嵐下七忍の情報を訊いておこうと探りを入れる。荒太も最近では剣護らに打ち解けた為か、だいぶ口が軽くなっていた。
「ベビーシッターです。母親の留守中も母親に化けて子守が出来るんで、子供受けがすごく良いんですよ。結構、あちこちの家庭で引っ張りだこだとか」
「ああ、成る程なぁ…。そんで、祝言の時に高砂って…そいつ、踊れんの?」
向かいに座る猫を指差す。
山尾が得意げに胸を張った。半透明のひげもぴんと伸びたように見える。
「舞う、と言っていただきたいですね、兄上様。能は私の取り柄の一つでして。前生でも所望(しょもう)されるまま、若雪様たちにご披露しました。若雪様も、かなりの舞い手でいらっしゃいましたが」
山尾は能と言ったが、剣護の頭には猫が月夜にダンスする図が浮かんだ。
微笑ましくもユーモラスな光景だ。加えて、シュールとも言える。
見ると真白が、ソワソワとして落ち着きが無い。
そうだった、と剣護は思い出した。真白は動物に目が無い。そこに猫がいれば、必ず抱き上げたり撫でたりしたがる性分だった。山尾を見てどういう反応に出るか、考えるまでもない。触られたい山尾と触りたい真白。思いは一つだ。荒太が駆け付けたのには二重の理由があったのだ。
「ダメだぞ、真白。触りたいなら中年のおっさんじゃなく、他にしなさい。俺の頭でも触ってなさい」
「だって、山尾は可愛いもの…」
そう言って真白が手を伸ばす。山尾もいかにも物欲しげに、金色の瞳を期待に輝かせてひげをヒクヒクと動かしている。
その姿を見るにつけても剣護でさえ山尾の愛嬌(あいきょう)は認めるところだったが、中身が中年男性と聴いては、やはり迂闊(うかつ)に妹を近寄らせることは出来なかった。かと言って首根っこを掴んで放り出す訳にもいかない。嵐下七忍は真白に忠義を尽くしてくれる面々なのだ。猫と軽んじて疎(おろそ)かには扱えない。
剣護が山尾に伸びる真白の手を掴み、無理やり自分の頭に向ける。
「受験生を労(ねぎら)いなさい!はい、可愛い可愛いっ」
グリグリと、自分と同じ色の髪を撫でさせられた真白は、物足りなさそうな顔をしている。荒太は荒太で、嫌そうに山尾を抱え込んで動きを封じている。自分も真白に触って欲しいと顔に書いてある。
「荒太君も、コーヒー飲む?頂き物のバームクーヘンもあるよ」
真白の声に、荒太の目が輝く。
「飲む、飲む。食べる、食べる」
「コーヒーはホット?アイス?」
「ホットで」
剣護が腑(ふ)に落ちない、という表情でぼやく。
「俺にはバームクーヘンがあるとは言わなかったのに。どうしてこの食いしん坊には言うんだよ、真白」
「忘れてたの!」
真白がキッチンから弁解する。
「…剣護先輩もいい加減、妹離れして彼女とか作りましょうよ。モテるのに、勿体無いじゃないですか」
「お前な、邪魔者を追い払おうって魂胆(こんたん)を少しは隠せよ。残念でしたー。兄離れ出来ないのは真白も同じですー。俺らは似た者兄妹なんだよなー、しろ?」
「先輩。それ、洒落になってませんって」
自分も妹離れ出来ていないという事実は、最初から認めている。
真白がコーヒーとバームクーヘンの載った皿を、トレイで運んで来る。
「そんなことないよ。兄離れくらい、出来てるもの」
もしこの言葉を真白が本気で言っているのだとすれば、自分というものを理解していないな、と荒太は思う。そう思ったのは剣護も同様らしく、あしらうように口を開いた。
「俺に彼女が出来たら、お前、絶対寂しがる癖に」
「…そんなことないよ」
けれど、反論する端から真白の顔は翳(かげ)りを帯びていた。自分でも強がりを言っていることは十分に解っている。剣護はいつも近くにいて当たり前の存在で、真白にとっては空気のようなものだ。彼が大事な人を他に作る、と想像するだけで、自分でも驚く程に気が沈んだ。焦げ茶色の頭が俯く。
荒太は苦虫を噛み潰したような顔で、そんな真白を見ている。俺一人がいれば十分だろう、と真白に詰め寄りたい衝動を抑えているのだ。
「いや、あのな、大丈夫だぞ、真白。当分、俺にはそんな余裕無いし。…バームクーヘン、食うか?」
半ば本気で落ち込んだ真白に、きっかけとなる発言をした当人である剣護があたふたと声をかけて、自分用に切り分けられたバームクーヘンが載った皿を持ち上げて見せる。
真白はそれに対して首を横に振ったが、この遣り取りに既視感を覚えた。
「…前にも、こんな話したっけ?」
「――――――さあ?してないんじゃないか?」
真白は、唇に指を当て考え込んだ。
(剣護が、行ってしまう。私を置いて、他の人の手を取って)
そんな風に、確かに以前、感じたことがあった気がした。
「剣護……」
「ん?」
「どこにも行かないよね?」
真白の言葉は唐突だったが、縋(すが)るような眼差しには、本気で案じる色があった。
緑の瞳がきょとんとする。何を今更、と言った顔だ。
「行かないよ。志望大学だって地元だし、キャンパスライフを謳歌(おうか)しながら、お前と荒太の仲も温かく見守ってやるって」
「それ、体(てい)の良い監視ですよね、先輩」
大口を開けて勢い良くバームクーヘンを頬張(ほおば)りながら、荒太が嫌そうな目をする。
「ははは。言葉は受け取る側の心の在り様が出るんだぞ、荒太」
他愛ない会話が、沈んだ自分の為に交わされるものだと知りつつ、真白の胸には正体の解らない不安が込み上げていた。
その夜、風呂から上がった真白は、洗面所でドライヤーを使い、髪を乾かしていた。
目の前には洗面台と鏡がある。
髪が短いことも手伝って、すぐに八割がた乾いた髪をブラシで梳(す)いていた時、鏡面が揺らいだ。ギョッとしてブラシを取り落す。カターンと硬質(こうしつ)な音が鳴った。
揺らいだ鏡面は、更に赤く波打ったかと思うと、真白から見ても華奢な少女の姿を映し出した。肩を過ぎる黒い髪。細い首、細い手足。全身の細さが強調されるような赤いワンピース。
こちらを向いた彼女の顔に、真白は覚えがあった。
けれど、どこで出会ったものかまでは思い出せない。
よく見れば彼女の右足首には、枷(かせ)がある。それはまるで生き物のように、赤く光っていた。
〝囚人(しゅうじん)〟と言う言葉が胸に浮かぶ。
彼女の唇は、ささやかに動いていた。目を凝(こ)らして見るが、何と言っているものかまでは、窺(うかが)い知れない。
辛うじて、最初の三文字だけは読み取れた。
「タロウ―――――」
映像はそこでふっと途切れ、鏡が映し出すのは、真白の顔だけだった。
眉を顰(ひそ)めた自分の顔を見つめる。
(タロウ―――――太郎清隆?)
真白は冷たい鏡面に触れ、不可解な今の現象を、頭の中で整理しようと試みた。
ドアの開く音に、少女はハッとした。
ゆっくりとした動きで、革靴の音を響かせてギレンが部屋に入る。
「おいたは感心致しませんね。透主様」
何気ない表情で床に落ちる赤い鎖を踏みにじる。
「あ、ああああ――――――っ」
苦痛から洩れ出る響きに、ギレンは眉一つ動かさない。
「今後は、このようなことが無いように、改めてくださいますか?」
歯を食いしばり苦痛に耐える少女は、答えない。
ギレンは無表情のまま右足を上げると、勢いをつけて鎖に振り下ろした。
ダンッという音と共に、少女の身体が、身の内を貫く激痛に仰(の)け反(ぞ)る。
見開かれた瞳からは、生理的な涙が流れていた。
「改めてくださいますね?」
念を押す声に対して少女は弱々しく俯(うつむ)き、ギレンはひとまずそれで満足する。
「全く…、あなたがそこまで門倉剣護に執着(しゅうちゃく)する意味が解りませんよ。今では彼も、もちろん門倉真白も、あなたのことを覚えてはいない。いや、彼らだけではない。この世の誰一人、あなたを覚えている者などいないのですよ、透主様。御自分で確認なさっておきながら、まだ納得されませんか」
今では、少女は微動(びどう)だにせずベッドに座っていた。
ギレンは彼女の耳に、更なる毒を注(そそ)ぎ込む。
「門倉剣護が、門倉真白に対する情の濃(こま)やかさは大層なものです。本来であれば今頃は、あなたに向けられる情だったのかもしれませんね?…門倉真白は、それを奪った」
奪った、という言葉が、がらんどうとして虚ろな少女の胸にひどく大きく響いた。何も映さない少女の目から、透明な涙が静かに流れる。
陽光のような、彼の笑顔を思い出す。
それはたった一つだけ、焦(こ)がれるように少女が望んだものだった。
「太郎清隆…門倉剣護だけを望むあなたに対して、門倉真白は実に貪欲(どんよく)だ。あれもこれも、失えない存在ばかりを持っている。不公平だとは思いませんか」
眉根を寄せた少女の、耳元に囁く。低く怜悧(れいり)で、艶(つや)のある毒が少女の耳を打つ。
「奪ってしまえば良いのです。それ程に恋うる存在だと言うならば」
少女は目に涙を溜めたまま、何もかも諦めた風情で静かに首を横に振る。
「あなたはね、」
天蓋(てんがい)つきのベッドに両手を置きながら、ギレンは尚も続ける。
「この世界のどこからも切り離された、流人(るにん)なのですよ。神つ力の系譜(けいふ)に連(つら)なる身でありながら、魍魎(もうりょう)でも在り得る。そんな出来損ないの存在に、居場所などある筈がないでしょう?ですからお願いです。我らにとっての、道具としての御自身の価値を、どうぞ大切になさってください」
少女の片頬を手の甲で撫でると、彼女は怯(おび)えたように身じろぎした。
その反応に低い笑いを洩らす。
「…私の可愛い透主様」
優しい微笑を浮かべながらも、これ以上無い程に冷たい瞳で、ギレンは告げた。
少女の頬を濡らした涙など、ギレンには何の意味も持たなかった。
白い現 第七章 流離