白い現 第六章 面相 四
魍魎側からの誘いに揺れる水臣。それを察した理の姫は、彼に神殺しの宝剣の存在を教える。
第六章 面相 四
四
理の姫は神界の湖の前に佇(たたず)み、優しい風に吹かれていた。長い黒髪に戯(たわむ)れかかるこの風の優しさを理の姫は愛し、そしてほんの少しだけ憎んでいた。
水臣(みずおみ)は、嘗(かつ)て現世において、この湖のように澄んだ水の集まりだった。
そのころ、まだ日の光、月の光として存在していた理の姫は、その水の透明さ、清らかさに惹(ひ)かれて光を注いだ。
(あのころから、既に私の心は水臣のものだった)
他の誰にも譲り渡せるものではなく。
後ろから近付く気配の主に、出会わなければ良かったと思ったことは一度もない。
「姫様。お呼びでしょうか」
涼やかでいて、深い水を思わせる声が響く。
いかにも理知的で思慮深げな容貌を備えた彼が、実は非常に激情家であることを、理の姫のみならず、他の花守たちも知っている。
向き直り、名を呼ぶ。
「水臣…」
「はい」
「もしも私が、共に逃げて欲しいと頼めば、あなたは聞いてくれるだろうか?」
冗談ともつかない笑みを含んだ声に、水臣は真顔で応じた。
「姫様がそれをお望みであれば、いつなりと。…今、すぐにでも」
他を顧みることのない、直情さが表れた答えだった。
(あなたは私以外の為に心を砕くことが出来ない)
それを憂慮(ゆうりょ)すべきことと悲しむ一方で、嬉しいと感じる自分がいる。
自らの心の動きを、ひどく罪深いものであるように、理の姫は感じていた。
「あなたに、見せたいものがある。…ついて来て」
「……はい」
「落日(らくじつ)の扉は、今ここに開かれよ。我は其(そ)をおとなう客(まろうど)なり」
理の姫の厳(おごそ)かな言霊(ことだま)が、闇を震わせ押し開いた。
そこは理の姫が管轄(かんかつ)する空間の中でも、内包(ないほう)されている物ゆえに、特に秘められた空間だった。禍々(まがまが)しさとは程遠い、雅(みやび)やかな気配の漂う暗闇が、そこには在った。
闇の中の闇。漆黒(しっこく)の中の漆黒に、それは浮かんでいた。
美しい、金色の一振りの剣が、理の姫の存在に反応するように、纏(まと)う光を強くした。
その剣の柄には、赤、青、白、黒、黄、の五色(ごしき)の宝玉が埋め込まれている。
「姫様、これは―――――――」
「これは、理の姫の役を負う神を、死に至らしめる宝剣(ほうけん)。…神殺しの剣。理の姫としてある神が、道筋を逸れた時には、この剣で断罪される。私を殺し得る、唯一の神器(じんぎ)。神界においても秘中の秘とされている剣だが、存在を知る神仏の間では、〝照る日〟とも〝残照剣(ざんしょうけん)〟とも呼ばれている」
淡々と説明する理の姫の真意が解らず、水臣は困惑(こんわく)の表情を浮かべた。
彼女の横顔はいつにもまして凛と気高く、胸に何らかの覚悟を抱いている様子だった。
水臣は唇を湿(しめ)してから、慎重に声を発する。
「なぜ…私にこの剣の存在をお教えになるのです」
理の姫が水臣を見た。端整な唇から、淡々と言葉が紡がれる。
「あなたが魍魎の側につくのであれば、去る前に、私をこの剣で刺し貫いて欲しいから」
水臣が絶句する。薄青い瞳と瞳が正面からぶつかり合う。
「――――御存じで、いらしたのですか」
「…知っていた。あなたがあちらから誘いを受けていることも。あなたが、揺れていたことも」
透徹(とうてつ)とした眼差しが、水臣を見ていた。
「……あなたが、花守に籍を置くことを苦痛と感じ、魍魎に与(くみ)すると言うのであれば、我らはあなたを断罪しなければならない。…それが私の、理の姫の果たすべき勤めだからだ。けれど私には―――――それは出来まい。きっと」
ポツ、と一滴の涙が落ちる。唇は笑みを形作るが、柳眉(りゅうび)は悲しく歪んでいた。
「勤めを果たせぬ私もまた、裏切り者として断罪されよう。ならば、どのみち死ぬのであれば、私はあなたの手にかかって死にたいと思う」
静かな声音が語るのは、深く激しい愛情の吐露(とろ)だった。
水臣は茫然(ぼうぜん)として立ち尽していた。ようやくの思いで、唇を動かす。
「…姫様。私は、あなたに触れたいのです」
「……」
私もあなたに触れて欲しい、と理の姫は目を閉じて思う。言葉には出来なかった。理の姫としての一線が、まだ彼女を縛っていた。沈黙しか返らない闇に、水臣は再び口を開いた。
「花守では、お守りすることしか出来ない。神界においては、本当の意味であなたに触れることさえ出来ない!かき抱いてもかき抱いてもかき抱いてもまだ足りない!!」
水臣が抱く恋着の念と絶望は、臨界点に達していた。
それを理の姫は、哀れとも愛しいとも感じた。
激する水臣を見る理の姫の目からは、涙が静かに流れ落ちている。
「それで、花守そのものから抜けようとしたのか?」
水臣が両手で理の姫の肩を掴んだ。箍(たが)が外れたような力がその手には籠められていたが、理の姫は歯を食いしばり、痛いとも言わない。
「あなたさえ、いれば良いのに―――――これ程近くにいて尚、遠い。手に、入らない。あなたを、私の創った空間に閉じ込め、永遠に私のみをその双眸(そうぼう)に映すようにしたいと、これまで幾度思ったか知れません。…私が狂気に蝕(むしば)まれていることは、誰より私自身が良く承知しております」
顔を伏せた水臣のこぼす涙を、理の姫は透明な眼差しで見つめた。
湖から神と成った者の涙は、ひどく澄んで美しかった。
(あなたでも…泣くのだな)
不思議な思いだった。
出会ってから永久(とわ)にも近い時が経つが、彼の涙を初めて見た気がする。
「姫様お一人を死なせるくらいなら、私もあなたと参ります。―――――しばらくの間、花守の責を離れることを、お許しください。…魍魎に加担(かたん)は、致しませぬゆえ」
そう言って水臣は、これ以上ない程に強く理の姫を抱きすくめた。
ずっとこのままでいられれば良い、と理の姫はぼんやりと思う。神らしからぬ熱情は、それ程に罪なものだろうか。永遠にこのままで。それこそ、水臣の言ったように二人だけしかいない空間で、ずっと―――――。過ごせれば良いのに、と理の姫は刹那(せつな)の夢を描く。けれど夢は夢だった。自分を抱く腕も、頬を押しつける胸の温もりも、離れて行ってしまうことを悲しみの内に悟っていた。水臣は理の姫の背に回した手をそっと解(ほど)くと、数歩、後ずさり、そして消えた。
残された理の姫は、その場に忘我(ぼうが)の瞳で立ち、小さな呟(つぶや)きを落とした。
「共にいられるだけでも、私は構わないのに。…あなたを失うくらいなら」
触れることが、触れられることが出来ない辛さにも耐えるのに、と。
誰かが泣く声が耳をかすめた気がして、真白は顔を上げた。
(誰……)
すかさず、舞香の声が飛ぶ。
「あら駄目よ、真白。動かないで」
「あ、ごめんなさい」
紫色の訪問着を着て、舞香の絵のモデルを務めている最中だったのだ。夏休みに入ってから真白も時間が取りやすくなり、最近では午前中のうちに風見鶏の館を訪ねるようになっていた。
着物を着た真白が暑さでばてないよう、風見鶏の館のリビングには、若干強めに冷房が設定されていた。油絵の具の匂いが、つんと鼻をつく。絵筆を持った舞香の表情は真剣そのもので怖いくらいだった。絵が完成した暁(あかつき)には、剣護たちに披露(ひろう)したあと、研究室の教授に見てもらうのだと舞香は張り切っていて、真白としてはこそばゆいような心持ちだった。
「―――――良いわ、今日はここまで。真白、お疲れ様」
しばらくして舞香が満足の息を吐きながら、許可の声を出した。
真白もホッとして身体の緊張を緩める。
「じゃあ、着替えてきますね。それから、お茶淹れます」
舞香がにっこり笑った。
「ありがと。悪いわね」
キッチンに立った真白は、流しの横の引き出しから、カモミールの花を乾燥させた物の入った箱を取り出した。初めてこの家を訪れた時には無かった、ハーブティーだ。鎮静作用(ちんせいさよう)があり、リラックスしたい時に飲むのに適する。その効能は花の部位に発揮される。
恐らく真白たちの為に、気遣いに溢(あふ)れた姉か弟のどちらかが購入した物だろう。
陽だまりのように優しい彼らの気持ちが嬉しくて、真白は微笑みを浮かべた。
「今日は、要さんはお留守なんですね」
真白が淹れたカモミールティーを飲みながら、二人は一息ついていた。
このあとは、舞香にステンドグラスを教わる時間だ。
「そ。大学院に行ってるわ。要が師事してる教授の、美術書を執筆(しっぴつ)するお手伝い。資料集めに奔走(ほんそう)してるのよ。御苦労なお話。あの子は要領が悪いから、すぐ人の手伝いに捕まっちゃうの」
舞香は院の二年生、要は一年生と聞いた。教授の要望とあれば聞かざるを得ない立場でもあるのだろう。
ティーカップを口元に運びながら、要らしい、と真白は思った。
「真白、この間、五行歌を投稿(とうこう)したでしょ。見たわよ、新聞。あなた、結構ファンがいるのね。ネットでも、女流歌人が帰って来た、とか言って一部騒いでたわ」
真白は照れ臭い思いで少し身を縮(ちぢ)め、答える。
「最近は、時間に余裕があったから…」
舞香はカップを置いて、頷きながら感想を述べる。
「面白いわね、五行歌って。私は限られた字数の中で情緒(じょうちょ)を保つ、和歌の雰囲気が好きなんだけど。五行歌はより自由なぶん、詠み手の人柄がもっと表れやすい気がするわ。……真白の歌は、恋愛めいたものに見えたけど?」
「はあ……」
からかうような舞香の視線に、真白は顔を赤くして俯(うつむ)く。誰を想って詠んだ歌なのかは、言うまでも無く明らかだ。
「それで、今日のお迎えの騎士(ナイト)は誰かしら?」
あっさり話題を変えた舞香に、助けられた思いで答える。
「剣護が、夏期講習のあとに来てくれるそうです」
「ふうん……」
再びカップを手に取りお茶を口に含む舞香には、正直、真白と剣護、怜の繋がりが良く解らないでいた。真白が荒太に向けるものは、明らかに恋愛感情と見て取れるが、剣護や怜に向ける信頼や親愛の情は男女の間柄を超えて、深いものに思える。
互いをどれ程大切に感じているか、傍(はた)から見ていてもありありと伝わってくるものがあるのだ。
(荒太が少し、気の毒かしらね……)
独占欲の強そうな彼が、その状態に不満を言わず耐えていると思うと、舞香の胸には同情の念が湧いた。それはそれで青春かとも思いながら、カチャリと空になったティーカップを置く。
「さて、じゃあステンドグラスのほうをやりましょうか」
「はい」
真白がカップをまとめて、流しのほうに持って行く。
その間に舞香が、リビングのテーブル上を作業台として使えるように整える。ガラス板他様々な道具を使用する為、普段は美術書等に埋もれたテーブルも、整理整頓(せいりせいとん)してスペースを空ける必要があるのだ。空いたスペースに、舞香が種々(しゅじゅ)の道具類を並べていく。真白はその道具類を見るのも好きだった。機能美と言うのだろうか、ステンドグラス制作に使う道具一つにも、無駄の無いデザインの美しさを見る気がした。
「だいぶ、オイルカッターの扱いには慣れてきたわね、真白。あれは要領さえ掴めば、余り力を使わずにカットラインが引けて重宝(ちょうほう)なのよ」
今でこそ、使用する道具類の名前もそれなりに覚えた真白だったが、当初は制作に当たっての説明について行くのにも一苦労だった。何しろ、扱うガラスの種類からして、大別してもアンティークガラス、ロールドガラス、キャストガラス、と三種類あるのだ。更に舞香によると、アンティークガラスの中にも、ガラスを扱うメーカー別に気泡(きほう)の形状(けいじょう)の違いというものがあるらしく、想像していたよりもずっと奥が深い、と思い知らされた。芸術もやはり学問の一つには違いないのだ。
「はい。…でも、ランニングプライヤーでガラスを真(ま)っ直(す)ぐに割るの、難しいです」
「そうねぇ。まあ、その内に慣れるわよ。とにかく、怪我(けが)には気をつけてやりましょう。せっかくの制作で真白が指でも切ったら、私も悲しいわ」
真白が、真面目な表情で頷く。
「気をつけます」
「おい、門倉。何か食って帰ろうぜ」
陶聖学園高等部では三年に向けての特別夏期講習が終わり、剣護と同じく理系学部志望の畑中冬人(はたなかふゆと)が声をかけた。ふっくらした左手首回りに巻かれた数本のミサンガは、彼なりのお洒落心(しゃれごころ)の表れらしい。オレンジや紺、緑など賑やかな色合いが、その人柄を象徴するようだ。
「あー、冷麺食いてえ。けど悪(わり)ぃ、先約がある」
悪友の誘いをあっさりと蹴(け)る。
「真白ちゃんか?」
「そうそう、迎えに行くことになってんだよ」
畑中が理解出来ない、と言う顔をした。
「…お前さあ、そこまで従兄妹の美少女と仲良くて、何で付き合う流れにならないの?俺なら速攻(そっこう)で彼氏を気取るね」
剣護が肩を竦(すく)める。
「嘆かわしいことに、俺のような正統派ハンサムは真白の好みじゃないんだよ、畑中クン。あいつはな、好みがちょっとひねくれてんだよな、うん」
「そういうくだらんことを言ってる間に、他の男に取られても構わないってか?噂になってんぞ。女流歌人が…成瀬だっけ?一年坊主と親密だってさ」
「ほー」
それは実際その通りだと知る剣護には、反応の仕様が無い。
「お前にその気がないならさ、俺に真白ちゃん、紹介してよ」
剣護が、自分には及ばないまでも上背(うわぜい)のある、眼鏡をかけた聡明そうな畑中の顔を見る。額は広めで身体の輪郭(りんかく)はやや丸みを帯び、気の良い内面が滲(にじ)み出ている。特に容姿が優れている訳でもないのだが、外見からも感じ取れる温厚さに加えて気さくで賑やかで、男女共に交友関係が幅広い。剣護とは気が合い、よくつるんでいた。
見かけが優等生で人畜無害(じんちくむがい)な彼が、実はガールハントに熱心という噂は、剣護の耳にも届いている。自然、剣護の表情は苦くなった。
「そっちが本音かよ。しっしっ、真白に近寄るんじゃない!」
「大して本気で言った訳じゃないが、お前、仮にも友人に対してその言い方…」
少なからず傷ついた顔を畑中が見せる。
しかし同情する剣護ではなかった。
「一年の佐藤、三年の畑中、ってチャラ男の二大巨頭(にだいきょとう)の片割れに、誰がくれてやるかい。名前まで春樹と冬人で1セットみたいじゃねえか。お前、冬人って柄かよ」
「俺が選んだ名前じゃないよ。そういや、佐藤がしつこく真白ちゃんに言い寄ってるとかも聞いたな」
この言葉には、剣護が顔を険しくした。折しも、ペンケースや先程まで使っていた教材をしまう鞄の中からは、真白から誕生日に貰(もら)った、ダークグリーンの革のブックカバーで覆われた文庫本が覗(のぞ)いている。誕生日プレゼントだと言って真白に手渡された時、安価(あんか)で手に入る品でないことは、剣護の目で見ても判った。きっと品物に目星(めぼし)をつけてから、お小遣いを貯(た)めて買ってくれたのであろうと思うと、使うたびに押(お)し戴(いただ)くような気持ちになる。
「何だ、そりゃ。そこまでは聞いてねえぞ」
「チャラ男の割には一途(いちず)だと、同情する声もあるらしい。お前がビシッと交際宣言でもすれば、寄って来る虫も消えるだろうに」
どうやら畑中は、真面目に忠告してくれているらしかった。
「だって俺、あいつの兄貴だもん」
「だからさ、その兄代わりを卒業しろって」
話が進まない、と言う顔で、畑中が焦(じ)れたように顔を歪めた。剣護がパタパタと手を振る。この暑い中に、押問答(おしもんどう)は勘弁(かんべん)して欲しかった。
「無理、無理。それよりさ、相川って理系じゃなかったっけ?講習は受けないんだな」
そう言ってぐるりと教室内を見渡す。
そこで畑中が、怪訝(けげん)な顔をした。
「――――誰だって?」
「相川……ん?」
言いかけた剣護の動きが止まる。首を傾げて、畑中の顔をじっと見た。
「そんな奴、いたっけ?」
「俺のほうが訊きたいよ。…お前、受験勉強で疲れてんじゃないのか?」
疑惑の眼差しを受けて、剣護は戸惑う。
帰り支度(じたく)をする生徒たちのざわめきが遠のき、急に蝉の鳴き声が大きくなったように感じる。消毒薬の匂いのする保健室の残像が、なぜか頭をよぎる。
揺れる白いカーテン。
〝物好きだね、門倉君〟
そう彼女は呟(つぶや)いたのだ。いや、そんな(、、、)少女(、、)はいなかった(、、、、、、)。
なぜなら相川などと言う同級生は最初(、、)から(、、)存在(、、)しない(、、、)からだ。
それなのについさっきまで、余りにも自然にその存在を信じ込んでいた。
しかし今では、自分がなぜそんな勘違いをしたかを疑問に思う気持ちのほうが強かった。
自分の頭の中にいつの間にか居座っていた、解けない迷路に驚かされるような感覚に陥る。手探(てさぐ)りに道を行くような覚束(おぼつか)なさ。しかも迷路そのものが、確かに在るものかどうかさえ、判然としないのだ。
真夏の暑さと蝉の声が、深く沈もうとしていた剣護の思考を遮(さえぎ)った。この暑さで、病弱な妹がへばっていはしまいかと、心配になる。
(…しろが待ってる。行ってやんないと)
剣護はガリガリと頭を掻(か)くと、首を緩く横に振った。
「うん、ダメだ。さっぱり解らん。暑いせいだな、きっと。さっさと真白を迎えに行こう」
「結局、そこに戻るのかよ……」
疲れた面持ちで畑中が言った。
「スーパーに寄るのか?」
風見鶏の館からの帰り道、買い物メモを見ながら、駅近くのスーパーの方角に向かう真白に、剣護が尋ねる。袖の短い涼しげな水色のブラウスに、紫紺(しこん)の細いズボンを合わせた真白には媚(こ)びない清楚(せいそ)さがあり、すれ違う目敏(めざと)い男子たちの視線が向かう。そんな彼らを緑の瞳で睥睨(へいげい)し、牽制(けんせい)する剣護の様子に、メモに集中する真白は気付かない。
「うん。今日は、塔子おばあちゃんはデートで遅くなるって言ってたし、絵里おばあちゃんはお華の展示会で京都にお泊りだから。明日、二人が食べるぶんも一緒に、カレーライスを作って食べようと思って」
真白の台詞(せりふ)の後半に、ガードレール真横を行き過ぎたバイクの騒音が被(かぶ)さったこともあって、剣護は念の為に訊き返してみた。
「……お前が?」
「うん」
「お前が?」
「しつこいよ、剣護」
顔を赤らめて真白が怒り顔を作るが、本人も自分の料理の腕前を自覚している為、余り迫力は無かった。
「良いけどさ。俺、空腹で死にそう。たこ焼き買って、食って良いか?」
「あ…、そうだよね。ごめんね」
慌てて言う真白のこめかみには汗が浮いている。
早く冷房の効いた建物内に入らせようと、剣護は足を速めた。
剣護がたこ焼きを片手に生鮮品売り場に向かうと、そこにいた筈の真白の姿が消えている。
そう思ったのは錯覚(さっかく)で、売り場に立っていた恰幅(かっぷく)の良い女性の向こう側に、彼女の細い身体が隠されていただけだった。押しの強い笑顔で、きついピンク色の口紅を厚く塗った中年女性が真白に迫る様は、狩人(かりうど)のようだ。圧力を加えんばかりの勢いで、真白ににじり寄る。
「だからねお嬢さん、今、ここの会員になっておくと、ほんと、お得なのよ。ね、入会しておきなさいな。割安でお買い物が出来るようになるんだから」
「いえ、私には決められないので…」
食材が入ったカゴを両手で持ち、真白が困惑の表情を浮かべている。
「大丈夫よ、一から説明してあげますからね、」
断り切れず弱っている真白と女性の間に、剣護は身体を割り込ませる。
長身で体格も良い剣護が上から見下ろす視線には、迫力があった。
「ごめん、おばちゃん。こいつの家、カード作らない主義だから」
あらそう?残念ねえ、と言いながら女性は渋々引き下がって行った。
「おい、無事か、しろ?」
「うん。ありがとう」
「お前なあ、最初っからはっきり〝要りません〟って断っとけば、向こうもさっさと諦めるんだぞ?おばちゃんだって仕事だからな、曖昧(あいまい)な態度の奴には期待持って喰いついちゃうんだよ。ほれ、たこ焼き食え」
耳に痛い忠言と共に、目の前にぬっと差し出されたたこ焼きを見て、真白が剣護を見上げる。出来たてらしいたこ焼きからは、ホカホカと湯気(ゆげ)が上がっている。
「……剣護がお腹空いてたんじゃないの?」
およそ20センチ以上は自分より背の高い剣護に、尋ねる真白の眼差しは幼子(おさなご)のようだ。
「俺も食うけど、お前も食べなさい。夏バテ気味だろ、真白」
剣護の言葉にギクリとする。最近の夏本番の暑さは、ただでさえ食の細い真白から、体力と食欲を奪っていた。
「…ごめん。たこ焼きの匂いがきつくて、食べられない」
しょんぼりとした真白が小さく言う。
剣護が呆れた顔をした。なまじ自分が頑丈(がんじょう)に生まれついただけに、身体の弱い妹を繊細な壊れ物のように感じるのは、こんな時だ。過剰な庇護欲が育まれるのも無理はなかった。
「お前、よくそれでカレー作ろうなんて思えたな。料理は体力勝負なんだぞ」
そう言って、かなりのスピードでたこ焼きを平らげる。完食するまでに一分とかからなかった。その為に多少、口の中を火傷(やけど)した。
真白が唇を結んで落ち込む様子を見せるので、剣護も口調を和らげた。
「ほら、カゴ貸せ。……昼飯用に粥作ってやる。それなら食えるか?」
「…うん」
「よし、何入れる?」
「枝豆」
それから二人は野菜売り場のほうに向かい、レジを済ませてから買ったアイスを食べながら帰った。
夕方になり、真白の様子が気になった剣護は、隣家を訪ねた。
カレーらしきものの匂いは、まだ漂ってこない。
どうなっていることやらと思いつつチャイムを鳴らすと、エプロン姿の真白が出て来た。気のせいか、顔が青白い。
「剣護……」
「おう。カレーはどうなってる?ちゃんと作れてるか?」
我ながら心配性だ、と思いつつ尋ねる。しかし、これまで真白による料理への挑戦が、成功を収めた例を知らない身としては、不安にもなろうと言うものだ。どうやっても固くて食べられないチョコレートを、剣護が父親共々、真白からバレンタインに貰った日には、この固形物(こけいぶつ)の処遇(しょぐう)をどうすべきかと、親子揃って頭を悩ませたものだった。最初にそのチョコを噛(か)み砕(くだ)くべく、果敢(かかん)に挑戦した父・ピーターの右奥歯が欠けたことは、真白には永遠の秘密である。
「……玉ねぎを、切ってたんだけど」
「ああ」
それでこの涙目か、と剣護は納得する。
「……指、切っちゃって」
真白の左手の人差し指から、たらたらと流れる赤い血を見て、剣護は目眩(めまい)がする思いだった。
悠長(ゆうちょう)に話してる場合かと叫びたいのを堪(こら)え、彼女の右手をひっつかんで急いで家の中に駆け込む。真白を流しのほうに押(お)し遣(や)り、自分は勝手知ったるとばかりに、リビングに置かれたテーブルの下から救急箱を取り出した。
「真白、とりあえず切った指を洗え。念入りにな」
それから消毒液を手に、流しに立つ真白に近付く。
「ほら、指を出せ。――――少し沁(し)みるぞ」
消毒液が指の傷口にかかった瞬間、真白が顔を顰(しか)めた。
手早くティッシュで傷口を拭(ぬぐ)った剣護は、リバテープを真白の指に巻きつける。
幸い、出血の割りには、傷はそう深くなかった。
そこまで済んだところで、剣護が深く、大きな溜め息を吐く。真白と料理と言う組み合わせには、サバイバルと言う単語が一緒になってついて来る気がする。
「ごめん、剣護。…ありがとう」
ステンドグラス制作より先に、料理で指を切るなんて、と真白は陰鬱(いんうつ)な気分になった。
「良いからちょっと、お前は座ってろ。体力落ちてると手元も狂いやすいんだよ」
「……上手に出来たら、剣護たちにも食べて欲しかったのに」
この言葉に、剣護もこれ以上真白に小言(こごと)を言う気を無くした。
「お前の神様ハイスペックが、何で料理においてだけ発揮(はっき)されないのか、俺はつくづく疑問だよ……。あとは俺がやってやるから、お前は荒太たちに連絡しとけ」
キッチンのフックにかかった、この家に常備してある自分専用の黒いエプロンを着けながら言う剣護に、真白は声を上げた。
「え?」
「食わせてやりたいんだろ?まあ、今回は俺の特製カレーってことになるけど。次郎や市枝ちゃんにも、声かけてみろよ」
暗かった真白の顔が和らぎ、明るくなる。
「うん」
紺青色(こんじょういろ)した晩に、少年少女が集った。
「真白さん、このカレー美味しいよ!コクがあるし、肉の柔らかさも丁度良い」
荒太の褒め方は、まるで料理評論家だった。
真白の料理の腕前を知る荒太にとって、晩餐(ばんさん)の誘いは嬉しくもあり、怖くもあった。しかし、おっかなびっくり口にしたカレーは、至って美味だった。内心では意外過ぎる、と思いながらも、荒太は賛辞(さんじ)を惜しまなかった。
「うん、トマトの酸味も良く効いてる。頑張ったね、真白」
怜も頷く。
「真白、料理上達したのね!」
銀のスプーンを手にした面々から賞賛(しょうさん)を浴び、真白は身を小さくした。
天井にある、北欧調の木の皮で作られたランプシェードから、オレンジ味を帯びた柔らかな光が食卓に投げかけられている。だが、そこに供された夕食を作ったのは真白ではない。
「残念でした。作ったのは俺です。ザ・ワイルドマン・剣護カレーです」
剣護のその言葉に、一同、何だ、と言う表情を浮かべる。
せめてこの兄の半分でも料理が出来れば良いのに、と真白は情けなかった。
「これで真白が、私のお料理上手なお嫁さんになってくれるって思ったのに」
どこまでが本気なのか判らない口調で嘆く市枝に、剣護が語りかける。
「良く聴いて、市枝ちゃん。日本の法律では、まだ同性婚は認められていないんだ」
「男の手料理に感激してしもうた…」
今度はそう言って自己嫌悪に陥る荒太の足に、テーブル下から剣護が蹴りを入れる。
「真白が料理中に指、切ったんだよ。しょうがねえだろ」
「え、大丈夫?真白」
心配する市枝に、真白がブンブンと頷く。
「剣護が手当してくれたから」
「…おい、そこの野郎二人、俺を睨(にら)むのは止めなさい。ここで俺が睨(にら)まれるの、どう考えてもおかしいだろ」
怜が斜めに視線を逸らし、荒太はスプーンにカレーを載せる。
「俺がついてたらそないなことも無かったのに…。まさか剣護先輩、真白さんの傷口を舐(な)めたりせんかったでしょうね」
荒太がぶつぶつと言う。
どこからそんな発想が出て来る、と剣護は呆れた。
「莫迦(ばか)か、お前は。何で俺がそんなことするんだよ。人の口ん中ってなあ、雑菌だらけなんだぞ。…どうした、しろ。顔が赤いぞ」
「何でも無い」
赤い顔の真白が、細い声を出した。
怜は無言だったが、僅(わず)かながら剣護を責める空気を漂わせている。
(俺だって四六時中、真白に張りついてる訳にもいかねんだよ)
剣護は苦い顔を浮かべ、胸の内で二人に言い返した。軽い意趣返(いしゅがえ)しに、怜と荒太が嫌がりそうなことを言ってやる。
「お前たちって、実はとっても仲良しだろ」
彼らをそう評した剣護の言葉に、怜は微かに眉を寄せ、荒太はひどく不味(まず)い物を食べたような表情を浮かべた。
「市枝、花火しようよ」
食後に、真白がどこから取り出して来たのか、花火セットの袋を持って来た。
白い光のともる蝋燭(ろうそく)を用意し、水の入ったバケツを置いて女子二人がきゃあきゃあ言いながら花火に興じる様を、男子たちは缶ビール片手に縁側(えんがわ)から眺めていた。
「飲んだあとの空き缶は、各自、こっそり、しっかり、持って帰ること」
厳(おごそ)かに言う剣護は、缶ビールを横に置き、右手に煙草(たばこ)をくゆらせている。
「解ってるよ。太郎兄も喫煙(きつえん)はどうかと思うけどな。健康、損ねるだろ」
「損ねる程の本数じゃないし、真白の前じゃ吸わないよ。副流煙(ふくりゅうえん)があいつの身体に障(さわ)るの嫌だしな…。お前も、全く吸わないことはない癖に」
「俺だって、真白に気付かれるような下手(へた)は打たないよ。滅多に吸わないし。…良い子の兄貴でいたいからね」
二人共良い勝負だ、と荒太は呆れながら、自分も缶ビールを口に含む。
荒太は、今のところ喫煙には興味が無い。衣服に煙草の匂いがつくのも、あまり好きではなかった。
意外にこの兄弟のほうが、自分より猫被(ねこかぶ)りではないだろうか、と思う。
さわさわと、夜の涼風(りょうふう)が縁側に座る彼らの髪を揺らす。
「……それで、何体倒したって?」
感情の抜け落ちたような声で、剣護が口火(くちび)を切る。
「…四」
「三」
怜と荒太がそれぞれ答えを返す。
「お前ら、腕上げたな」
「太郎兄は?」
「八体」
答えてから、ふう、と煙を吐く。
「……段違いやないですか。嫌味ですか、剣護先輩」
荒太の苦い声に、剣護が微かに笑う。
「どうも俺は、魍魎に好かれてるようだな」
「真白も市枝さんも、その後は一、二体を倒しただけだって聞いたけど」
「ああ。…俺たちが専(もっぱ)ら魍魎の攻撃対象になるのは、まあ悪くない」
ただ、どうにも後味の悪いような思いは、常に魍魎を倒したあとに付きまとう。時が経てば無感動になり、何も感じなくなるのも、それはそれで怖い。
口には出さないものの、〝殺す〟ことに慣れてゆく、という感覚は、彼らを内側から少しずつ苛(さいな)んでいた。
「一磨さんは強いよな…」
魍魎の存在を知ってからも、一磨の姿勢に揺らぎは無かった。敵に出会えば、討つ。その感覚が身体の隅々まで行き渡っているようだった。その後、倒した魍魎の正確な数はまだ聞いていないが、十に近い数は行っているだろうと剣護は見ている。力に秀でると言うよりは、精神面が並外れて強靭(きょうじん)なのだ。
守る者が在るという意識が、彼の意思をそこまで強く保たせるのだろうか。
(俺もそこなら負けちゃいないと思うんだが)
それは怜にしろ荒太にしろ、それなりに自負しているところだろう。
しかし一家の長、という立場になったことのない剣護には、まだ解らない感覚があるのかもしれない。
(こいつは経験者ってことになるのかな)
そう思いながら、荒太の顔を眺める。嵐には守るべき妻子がいた。
「何ですか、先輩」
「いや……妖(あやかし)の殲滅(せんめつ)は、今年度の課題にしたいと思ってな」
この戦に、年内には決着をつけようという意味だ。
乾いた瞳で言う剣護の言葉に、怜も荒太も、頷く思いだった。こんな命の遣り取りは早く終わらせて、全て悪い夢だったと自分に思い込ませ、生きて行きたい。例えそれが逃げであるとしても。襲撃をかけて来る敵の殺生にそれ程抵抗の無い荒太でさえ、そう思った。自らの手を余りに血で汚せば、真白に触れ辛くなる気がしてならないからだ。
ビール缶を持ってないほうの自分の手をぼんやりと見る。
この手が、彼女の手を取る資格があるのか、今でさえ考える時がある。
荒太の目から見れば、魍魎を何体倒していようと、真白自身の手は他の誰より清浄なままだった。流れた血を覆う雪の一片(ひとひら)のように。
「剣護、ねずみ花火、ねずみ花火やろうよー」
真白が笑顔で声をかけてくる。
「おっしゃ、待ってろ」
携帯灰皿に煙草を押しつけ、剣護はつっかけを履(は)いて立ち上がった。
空には冴えた銀の月が浮かんでいた。
白い現 第六章 面相 四