白い現 第六章 面相 三

荒太たちと海に来ていた真白は体調を崩し、怜と共に市枝の別荘に泊まることになる。

第六章 面相 三

       三

 その建物は深いチョコレート色の、海辺に広いテラスを備えた平屋(ひらや)だった。
「俺たちはもう少ししたら舞香さんたちに送ってもらうけど、お前は市枝ちゃんと次郎とこの別荘に泊めてもらえ。いいか?市枝ちゃん。頼めるか、次郎」
 市枝の家の別荘で、真白に言って聞かせながら、剣護は市枝と怜にもそれぞれ確認をして指示を出した。剣護も舞香も、そして要も明日は予定があり、宿泊は困難だった。
「もちろん、良いわよ。休憩(きゅうけい)だけに使うつもりだったけど、良かったわね、うちの別荘を確保しといて」
 三つ編みを解(ほど)いたあとの、まだ濡れている金茶の髪を片手でいじりながら、市枝があっさりと応じた。
 怜も当然のように頷く。
 この決定に、荒太は不満を唱(とな)えなかった。普段であれば、どうにかして自分も居座(いすわ)ろうと粘(ねば)ったかもしれない。だが今は、そんな立場ではない、と考えていた。例え真白が自分と過ごす為に無理をしてくれたのだとしても、やはり彼女の不調に真っ先に自分が気付くべきだったのだ。
 剣護は荒太に目をくれることなく、籐(とう)の揺(ゆ)り椅子(いす)に身を預けた真白に近付く。彼女の下半身にはタオルケットがかけられている。中腰になった剣護が、真白に話しかけた。
「真白、少しで良いから何か腹に入れろ。薬を飲むのはそれからだ。粥(かゆ)、作ってやる。何の具材だったら食えそうだ?」
 この場面で、何でも良い、と答えるのはかえって剣護を困らせる。真白は無難(ぶなん)な具材を考えた。迷惑をかけてごめんなさい、と訴える真白の眼差(まなざ)しに、剣護は良いんだよ、と宥(なだ)める瞳で応じる。
「…青菜(あおな)、とか…」
 剣護が市枝を振り向くと、市枝が頷いた。別荘に準備された食材に抜かりはない。
「少し待ってろ」
 それからしばらくの間、剣護は別荘の広いキッチンを一人で行ったり来たりした。

「…頭が下がるよな」
 手伝いの申し出を断られ、手持無沙汰(てもちぶさた)に立っていた荒太に、肘掛(ひじか)け椅子(いす)の一つに座った怜が話しかけた。別荘の広いリビングルームには、そこここに、ゲスト用の物であろう肘掛け椅子が配置してある。ちょっとしたホテルの、ロビーのような雰囲気があった。
「太郎兄が最初に覚えた料理は、お粥だったらしい。真白がまだ小さな時から、食欲が無い時が続いたり、体調を崩したりすると、太郎兄がお粥を作ってやってたんだってさ。その時々によって真白の望む具を入れたりしてね。どんな時でも、真白はそれなら食べれたって。……そのへんはもう、理屈じゃないんだろうな」
 荒太は、出来上がったお粥を皿に注(つ)ぐ剣護の姿を見る。お粥の中には、刻まれた小松菜が混ざっている。
 安心しきった顔でそのお粥を口に運ぶ真白を見て、この兄と妹の築いた歴史の長さに、打ちのめされる思いがした。真白の左手の小指に嵌(は)まった青紫の輝きも、かすんで見える。
 何をどうしても敵(かな)わない、共に過ごした年月の重みというものがあるのだ。嵐と若雪が、時間を経(へ)て育(はぐく)んだ絆(きずな)と同様に。
〝あいつ、目が覚めて真っ先にお前の名前を呼んだんだ〟
 荒太がまだ病院にいたころ、見舞いに来た剣護が、禊(みそぎ)の時を終えて目覚めた真白のことを、少し悔しそうに語った。
(違う。それは、嵐の名前だ。俺じゃない。…俺の名前じゃない)
 今にして思えば、嵐がたやすく若雪を独占出来たのは、彼女が親も兄弟も亡くした身の上だったからだ。自分とは条件が違う。今生で真白が兄弟と再会出来たことを、彼女の為に喜ばしいと思わない訳ではないのだが―――――――。
 荒太としての自分が真白との間に積み重ねたものなど、まだほんの僅(わず)かだ。目の前の兄妹に比べれば柔らかくてか細く、頼りないような繋(つな)がりしか互いの間には無い。これから先が肝要(かんよう)なのだとは思うものの、真白の傍(かたわ)らに立つ剣護を見ていると、生じる焦(あせ)りは抑えようがなかった。
〝真白のお母さんみたいよね〟
 市枝は剣護をそう評したが、二人の間にある信頼はそれ以上のものに見える。強固な結びつきに太刀打(たちう)ち出来ないものを感じて、荒太は唇を噛(か)んだ。
 また、そう感じるのが自分一人ではないということも、怜を見ていれば良く解った。相変わらず表情には出ないものの、滲(にじ)み出る空気から察せられるものはあるのだ。
(……同じ兄貴っていう立場だ。俺なんかより、よっぽど悔しいだろうな、こいつ)

 剣護たちが別荘から引(ひ)き揚(あ)げたあと、別荘のテラスを降りたあたりで、怜はパーカーのポケットに両手を入れ、風に吹かれながら夜景を眺めていた。海のはるか上には、もうすぐ満ちそうな月が小さくポツンと浮かんでいる。先程から、『フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン』の歌が彼の頭の中を流れていた。
 そこに柔らかな声がかけられる。
「次郎兄…?」
 ワンピースの上から、金色がかった淡いベージュのストールを羽織(はお)った真白が立っていた。
「真白…。どうしたの。寝ていなくて良いの?」
 夜風が妹の身体を冷やさないように、腕に手を添え、別荘内に導く。
「……次郎兄が、悲しんでる気がしたの」
 澄んだ瞳を向ける真白の言葉に、心中の動揺(どうよう)が表に出ないよう、努めながら答える。
「そんなことはないよ。美女二人のエスコート役を、任されたことだしね」
 茶化(ちゃか)したように言った怜の顔を、真白が見た。
「…次郎兄、じゃあ、あの、もしかして怒ってる?」
 真白をリビングの椅子に座らせながら、自らはその傍らに立ったまま、怜が意外な問いかけに驚く。メインの電気をつけていないので、リビングのあちこちにともる間接照明(かんせつしょうめい)だけが光源(こうげん)だ。その青白い光が二人の姿を浮かび上がらせ、海中にいるかのような錯覚(さっかく)をもたらしていた。囁(ささや)きより少しだけ大きな真白の声は、室内に不思議と良く響いた。
「どうして?」
「……私が、身体弱くて、迷惑をかけたから。剣護や、市枝や、舞香さんと要さんにも、心配かけて―――――昔は、こんなこと無かったのに。…悔しい」
 ザ、ザーンと打ち寄せる波の音が聴こえる。
 真白の言う「昔」が、若雪だったころの話だと、怜には解った。今生において真白が、丈夫でない身体に生まれついたことは、本人にはどうしようもないことだ。だが真白は、過剰(かじょう)に自分の身体の弱さを恥じていた。
「俺たちの誰一人、真白を責めても怒ってもいないよ。真白が悪くないってことは、誰だって解ってる」
 優しく言い聞かせる怜の声音に、真白は唇を結んで頷く。
 慰められて安心する思いの横で、けれど穏やかに言葉を紡(つむ)ぐ怜の心に、やはり何らかの悲しみがある、と真白は感じていた。
(独りにならないで、次郎兄)
 彼の心が、遠いところにある気がした。手を伸ばして、暖かい場所に連れ戻さなければ、と強く思った。繊細な心を持つ次兄(じけい)の悲しみは、真白にとっても悲しむべきことだった。
「次郎兄は、優しいから。悲しいことも、辛いことも、一人で抱え込もうとするから。…自分がしんどいのを隠すのが上手なのは、良いことじゃないよ。………私に出来ることはない?何でもする。頑張るよ」
 真白が誠心(せいしん)からそれを言っていることが感じ取れた。
 それがかえって怜には辛かった。少しだけ、笑う。
「真白の勘の良さは…、時々、残酷だね。―――――俺は困ってしまうよ」
 言った瞬間、真白がショックを受けた顔をしたのが解った。
 怜はそれ以上、真白の顔を直視していられず、顔を背(そむ)けてリビングルームから立ち去った。

 別荘の中、あてがわれた部屋のベッドに仰向(あおむ)けになり、怜は自己嫌悪(じこけんお)に陥(おちい)っていた。
(最悪だ……。体調の悪い真白に、身勝手な八つ当たりをした―――――太郎兄なら)
 彼ならばきっとこんなことはないだろうに――――――――。
 どう足掻(あが)いても取り返せない時間があるのなら、今、目の前にある時間の中で、それを埋める努力をするしかないというのに。
 それがどれ程遠回りに見えようと。
(解ってる――――解っている。ただ、時々、どうしようもなく疲れたように感じることがあるだけだ)
 埋められない差を見せつけられて。

 真白は市枝と二人部屋だった。豪勢(ごうせい)なベッドが二つ並ぶ部屋は広々として、天井からは控えめに輝く、品の良いシャンデリアが下がっている。壁には落ち着いた色調(しきちょう)で描かれた抽象的(ちゅうしょうてき)な油絵が、銀色の額縁(がくぶち)に収まって掛けてある。ユニットバスまでついたこの部屋が、別荘の中でもとりわけ上等な部屋であることは確実だった。急な客の為の、下着などの衣類も新品が備えつけてある。それは市枝に言わせると、各部屋に常に準備されているとのことだった。
 怜の様子が気になると言って部屋を出た真白が、沈んだ顔で戻って来たので市枝は心配した。
「どうしたの、真白。……また具合が悪くなった?それとも、江藤がどうかした?」
 真白は微笑んで首を横に振り、ベッドに腰掛けた市枝の隣に座る。
「ううん。…三郎や一磨さんたちも、一緒に来られたら良かったのに、って思って」
 真白が話題を変えたがっていることを敏感(びんかん)に察し、市枝も話を合わせる。
「そうね。お仕事の都合がつかないんじゃ、どうしようもないわね。…その内、一緒に来られる日も来るわよ。またパパたちに、ここ、使わせてもらえるように頼んでみるから」
「うん。市枝、期末の結果、中間試験よりずっと上がってたね。勉強、頑張ったんでしょう」
 市枝の両親は基本的に一人娘に甘いが、こと学問に関しては、相応の成績を出すことを求めた。そして娘が努力した見返りには、富裕(ふゆう)な家に付随(ふずい)する特権を行使することを許した。別荘使用の許可も、その一環(いっかん)である。日本全国にチェーン店を展開するファミリーレストランの経営を、いずれは娘に引き継がせたいという思惑(おもわく)が、市枝の両親にはあった。
 市枝が、真白や剣護たちと交流することを彼らが歓迎するのも、真白たちに勉学その他において、高い資質が認められるからであった。優秀な人間、というものを、市枝の親は好んだ。時折、市枝がそれらのことに関していらついたり、息苦しくなる時があることを真白は知っていた。
〝どんな風に生まれついても、何(なん)やかやあるわね、人の世は〟
 市枝が以前、ふとした拍子(ひょうし)にそう洩(も)らしたことがある。今生が、前生より希望に満ちたものである保障など、どこにも無いのだ。
 ボスン、とベッドに転がった市枝に、真白は労(いた)わりの眼差しを向けた。
「―――――まあね。我ながら今回は、良くやったと思うわ。褒めて、真白」
「うん。偉い、偉い」
 そう言いながら、市枝の金茶色の頭を柔らかく撫でた。
 市枝がまんざらでもない笑みを浮かべる。長い金茶の髪が、今日一日三つ編みにしていたので、軽くウェーブがかかってベッドの上に広がっていた。
 目を閉じると、潮騒(しおさい)の音が大きく聴こえた。
「舞香さんって、良い人ね」
 真白に執心(しゅうしん)を示す舞香に、初めこそ警戒した市枝だったが、話してみるとざっくばらんとして開けた人柄に、好ましいものを感じた。
「そうでしょう。―――――私、舞香さんの絵のモデルに時々、風見鶏の館にお邪魔してるんだけど、市枝のことも描いてみたいって言ってたよ。私と対(つい)で描いてみたいんだって」
「真白と対で?」
 市枝が面白そうな顔つきになる。
「――…良いわね、それ」
 それにしても、と市枝が続ける。
「…お腹が空いたわ」
 キッチンには真白の為に作られたお粥があるだけで、食材はある程度用意されているものの、市枝も怜も、まだ夕食らしい夕食をとっていなかった。
 それぞれシャワーを浴びるなり入浴するなりしたあと、体調の優れない真白を除いて、空腹を抱えて時間を過ごしていた。
 市枝にとって食事とは、調理された状態で目の前に提供される物であり、自分の手で作るという発想は無い。そして、およそどんな事柄でも完璧にこなす愛すべき親友が、料理だけは苦手であることも承知していた。
「…江藤って、ご飯作れないの?」
 真白が首を傾けて答える。
「―――――一応自炊してるから、それなりに料理も出来ると思うよ」
「訊いてみよう。駄目ならピザか何か、取りましょ。このままじゃ餓(う)え死(じ)ぬわ」
 市枝に手を引かれて、真白も一緒に部屋を出る。
「あ、待って。市枝。その前にお台所、借りても良い?」

〝太郎兄はお日様で、次郎兄はお月様みたい〟
 それは、太郎が丁度、清隆と言う元服名(げんぷくめい)を貰(もら)ったころだった。
 若雪が笑顔で、兄たちをそれぞれ例えたことがあった。
〝ええ、俺は月のほうが良い〟
 不満げに言う太郎の顔を見ながら、次郎も内心、太陽のほうが良い、と兄を羨(うらや)んだ。
 本人たちの賛同を得られなかった若雪は、小首を傾げて困った表情をしていた。
 
 部屋のドアが叩かれる音で、怜は目を覚ました。
 ベッドに仰向けに転がったまま眠り入る、ということは怜にはあまりないことだった。
(…昔の夢か……)
 時折、前生での出来事が、水にぷかりと浮かび上がる泡(あわ)のように、気紛(きまぐ)れに夢となって訪れる。それは悪夢であったり、泣きたくなる程に懐かしい、幸せな夢だったりした。
 若雪から月に例えられた時、自分は妹にとって二番目の存在だ、と明言(めいげん)された気がして落胆(らくたん)したのを覚えている。
(あのころからシスコンだったよな。俺も、太郎兄も三郎も)
 三郎などは末っ子の特権で、おおっぴらに姉である若雪にまとわりついていたものだった。 
 
ノックの音にドアを開けた怜の顔には、やや疲れがあった。
 市枝はそんなこともお構いなしである。ずけずけと訊いてくる。
「江藤、あんた、夕飯作れない?」
「――――簡単な物なら作れないこともないけど。真白、お腹空いてるの?」
 先程の気まずい遣(や)り取(と)りを引(ひ)き摺(ず)らない顔で怜に問われ、真白は首を横に振った。
「ううん。私はそんなに」
「じゃあ、作れないってことで」
 市枝を無視したその対応は、普段の怜と比べて、多少ぞんざいだった。
「……良い態度ね、江藤。今晩、海辺で野宿する?」
 暗に作らなければ追い出すぞ、という脅(おど)しを受け、怜が溜め息を吐いた。
「市枝、ピザ、取ろうよ。次郎兄も、お腹が空いてるでしょう?それで、部屋で三人でトランプでもしない?」
 真白の取り成しに、市枝が妥協(だきょう)する表情を見せた。
「真白、トランプなんて持って来たの?」
「―――――うん。私、海に入らないし、皆でする時間があるかもって思って」
 真白が少し顔を赤らめて言った。子供じみていると思われただろうか、と俯(うつむ)く。
 そんな真白を、怜が眺(なが)め遣(や)る。
「女子の部屋に、俺が入って良いの?」
 怜の言葉に、真白がパッと顔を上げる。
「うん、うん。次郎兄なら。良いよね、市枝?」
 大した信頼だわ、と市枝が内心で嘆息(たんそく)しながら頷いた。
「あのね、次郎兄。私、レモネード作ったの。塔子おばあちゃん直伝(じきでん)のレシピだよ」
 美味しいよ、と言う真白が、理由は解らないが気落ちしている怜の為に、それを作ったことは明らかだった。まだ兄を案じる瞳の真白を見ていると、次第に怜の心も穏やかになり、凪(な)いでいくのを感じた。心に刺さった棘(とげ)が、柔らかく押し流される。
「…言っとくけど俺、トランプ強いよ?」
 怜が不敵な笑みを浮かべて宣言した。

 翌日の早朝、真白はストールを肩にかけ、別荘のテラスに置かれたベンチに腰かけていた。海面が、少し翳(かげ)りのある朝の光を受けて、控えめに輝いている。
 左手の砂浜から、こちらに歩いて来る影があった。海鳥の鳴く声が賑(にぎ)やかな中、真白の間近で足を止めたのは、薄い茶色の髪のショートカットに、白いタンクトップ、ジーンズを穿(は)いた女性だった。瞳も髪と同じく薄い茶色で、全体に清爽(せいそう)な印象がある。
「こんにちは」
 挨拶(あいさつ)されたので、真白も返す。
「…こんにちは。お散歩ですか?」
 近所の住人か、自分たちと同じくリゾート客だろうか、と推測する。
 相手は子供のように、コクリ、と頷いた。
「そう。私の、兄弟でもある波たちに、朝の挨拶(あいさつ)。……私は、アオハ」
 彼女の言葉は、ひどく詩的なものに聞こえた。
 澄んだ瞳が、あなたは?と訊いているように思えて、真白も応じる。
「私は、門倉真白と言います」
「マシロ。あなた、海は好き?」
 出し抜けに問われて、真白はやや困惑する。
「―――――――はい」
 アオハと名乗る女性が、嬉しそうに笑う。母親に褒められた子供のような笑みだった。
 二人の間を潮風が吹く。
 今日は昨日より少しだけ曇っていて、空を行く雲の動きも早い。
「…アオハ、さんの名前は、青い波、と書くんですか?」
 鳴り止むことの無い波の音の影響もあってか、何となく、その文字が彼女には似つかわしく思えた。清々しく、美しい名だ。
「うん。そう。私は――――――波。本当に、そうなる筈だったの」
 不可解な言葉のあと、ひた、とアオハが真白に目を合わせた。
「あなたたちが、それを邪魔した」
「え………?」
 アオハの言う言葉の意味が、真白には解らなかった。彼女の薄茶の目は、生まれ落ちたばかりの赤ん坊のようにどこまでも透き通っていて、真白の向こうに何を見ているものか、窺(うかが)い知ることは出来ない。
 真白の羽織ったストールが、風にあおられて揺れる。
 真白とアオハは、しばし沈黙のままに対峙(たいじ)した。
探るように見つめ合う、焦げ茶の瞳と薄茶の瞳。
 絶え間ない波の音の中、アオハが読めない表情で言った。
「…私、マシロが嫌いじゃないよ。出来れば、殺したくないな」
 アオハが真白の眼前まで歩み寄り、手を仰向(あおむ)けて、そっと真白の白い頤(おとがい)に触れる。アオハの瞳に宿る、憐(あわ)れみの意味を真白は知らない。その言葉を最後に、彼女は真白の前から歩み去った。しなやかで人に馴(な)れることのない、美しい獣(けもの)のような後ろ姿だった。

「真白!」
 別荘内から、怜が声をかけて小走りに真白のもとに来た。
「―――――今、誰かと話してた?」
 真白はぼうっと、兄の顔を見上げる。
「…うん。お散歩中の人と。どうしたの、次郎兄。…顔が怖いよ」
「……感覚を捉(とら)え損(そこ)ねたかな。妖(あやかし)の、気配がしたと思ったんだけど」
 怜が懸念(けねん)する表情を見せる横で、真白は、今、遭遇(そうぐう)した人物のことを、自分はなぜ怜に告げないのだろうと考えていた。特に鋭敏(えいびん)な感覚を持つ怜が、魍魎(もうりょう)の気配を察知(さっち)したのなら、恐らく今の女性も、チャコールグレイのスーツの男性同様、魍魎だったのだ。
〝殺したくないな〟
 まだ帰りたくないな、と思ったままを無邪気に言う子供のような、女性の口調と声が耳に残っている。
「市枝さんは?」
「まだ寝てる。市枝、寝起きが悪いから。……次郎兄。私、お散歩に行きたい」
 唐突(とうとつ)な妹の要望に、怜が首を傾げる。
「松林?」
「うん」
「…じゃあ、朝食前に少しだけ散歩しようか。市枝さんには、メモを置いて行こう」
 本日の朝食は怜が賄(まかな)うもの、と昨夜の内に話がついていた。
 怜はおもむろに、真白のノースリーブのワンピースを眺める。汗をかいた時の着替えの為に、真白は予備のワンピースをもう一枚、持って来ていた。色は昨日着ていた物と同じ白だが、今着ているほうは青味がかった白で、胸元にレース飾りがついている。空気に晒(さら)された両肩が、いかにも寒く心細そうに見えた。物柔(ものやわ)らかに言い添える。
「冷えるといけないから、そのストールも、ちゃんと羽織っておいで」
 真白は小さく頷き、ベージュのストールの端を掴(つか)んだ。

 怜は、つまずきそうな木の根や石ころがあるところでは、真白の手を取ってやりながら、歩いた。たまに犬の散歩中の人などとすれ違い、互いに会釈(えしゃく)を交わす。
 雰囲気に通じるものがある、見目の良い少年少女の二人連れは、微笑ましい表情で見送られた。
「真白って、まだ舞香さんのモデルを続けてるんだよね?」
「うん。大体、二時間くらい風見鶏の館にお邪魔して、一時間はモデル、もう一時間はステンドグラスを教えてもらってる」
「絵が完成したら、俺も見たいな」
 怜が何気(なにげ)ない口調で言う。
「うーん。普段と違う格好してるから、私に見えないかも」
「え、どんな格好?」
 興味を引かれた怜の問いに、真白が答える。
「………京友禅(きょうゆうぜん)の、訪問着(ほうもんぎ)を着てるの。舞香さんが、以前京都に旅行に行った時、東寺(とうじ)の弘法市(こうぼういち)で手に入れたんだって。地の色が綺麗な紫色でね、桜の花柄で、とても状態が良いの。私が自分で着付け出来るって知ってから、その着物を着てモデルになってもらえるって言って、舞香さん、とても喜んでた」
 へえ、と怜が感心したように相槌(あいづち)を打つ。
「モデルしてるところ、俺も見てみたい」
「―――――見ても私がじっと座ってるだけだから、面白くないよ」
 この言い分に、怜は笑った。
 普段は見られない格好で、着飾った妹の姿を見てみたいという兄心が、いまいち真白には伝わっていないらしい。
「……次郎兄。私ね、一つだけ、真白として成し遂げたいことがあるの」
 サンダルで足元の地面をサクサクと踏みながら、さりげない調子で真白が言った。
「何?」
 将来の夢か何かだろうか、と怜は考えた。真白の能力があれば、大抵の目標は達成出来るだろう。難(なん)があるとすれば、身体が丈夫でないことだ。
 真白が微笑んで怜を見る。
「誰にも秘密だよ?」
朝日を背にした妹の、唇が動いた。
「荒太君より、先に逝(い)かないこと」
 怜が、言葉を失う。
「前生で、私、二回も荒太君を置いて逝ったから。今度は、私が我慢する番だって思ってるの。…身体が弱いから、頑張らなくちゃ」
 それは、聞いていて胸が詰まるような覚悟だった。真白が心の内で静かに、密かに抱く決意が、怜の内側を遣(や)る瀬無(せな)さで満たした。
(…それは違う。真白)
 真白のこの決意を知って、荒太が喜ぶとは怜には思えなかった。
「――――――その理屈でいけば、俺も、太郎兄も三郎も、市枝さんだって真白より先には逝けなくなるな。それこそ、前生で真白を、置いて逝ってしまったからね。そんなことを、今から真白が決める必要は無いんだよ。先走って考えるのは、真白の良くない癖だ。今生で、真白の大切な人たちが、そう簡単に真白を置いて先に逝ったりはしないから。言っただろう?だから真白も安心して、長生きしてよ。俺たちと。……お爺さんお婆さんになっても、皆でつるんでいれば良いじゃない」
 前に向き直り歩いていた真白が振り返り、ひたむきな瞳で怜を見た。
 置いて行かないでね、とその目は語っていた。哀願(あいがん)と言っても良い切実さがそこにはある。そうか、と怜は思う。目を覚まさせられた心地がした。
(……太郎兄だけじゃない。真白にとって、ちゃんと俺も兄だ。必要とされている)
 能力の有無(うむ)や付き合いの長さなどはるか以前の問題で、ただ怜の存在そのものを真白は求めている。それはいなくならないで欲しいという、単純で強い祈りだった。
 幼い若雪に月に例えられて、当初は落ち込んだ次郎だったが、彼女が殊(こと)の外(ほか)、月を好んでいた事実を思い出し、その後自信を取り戻した。若雪は月の光、雪の明かりをこよなく愛(め)でる少女だった。太郎が不満げな顔をしたのは、理由あってのことだったのだ。
(俺だって真白が大事だ。太郎兄とは別に、俺は俺でこの子を守ってやりたい)
 その為には、彼女の傍にいなくてはならない。少なくとも、手を放すことを真白が望むようになるまでは。
 あれだけ派手に、真白に置いて行くなと泣きつかれたのに、剣護と真白の絆(きずな)を見るにつれ、真白の涙を忘れかけていた。間の抜けた自分を省みて苦笑が口元に浮かぶ。
「…どうしたの、次郎兄?」
「いや。――――俺は莫迦(ばか)だな、と反省してた」
 真白が、不思議そうな顔になる。
「次郎兄は、賢いよ。剣護も私も、良く知ってるもの」
「………ありがとう、真白」
 怜は目を閉じて、妹に告げた。

白い現 第六章 面相 三

白い現 第六章 面相 三

荒太や剣護たちと海に遊びに来ていた真白は、体調を崩す。いち早く真白の不調に気づき、かいがいしく世話を焼く剣護を、荒太と怜が複雑な目で眺める。真白はそのまま市枝と共に市枝の別荘に泊まることとなり、怜は剣護にあとを任される。しかし剣護と真白の姿を見るにつけ、今生において、妹である真白と長らく離れていたことに、怜は焦りを感じていた。

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  • 短編
  • ファンタジー
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-12-20

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