白い現 第六章 面相 一

白い現 第六章 面相 一

剣護にしがみついて眠りに落ちた真白。警戒態勢を取った剣護の気配に目覚めると、そこには嵐下七忍・兵庫の懐かしい姿があった。

第六章 面相 一

第六章 面相(めんそう)

浮かぶ面(おもて)は
右を向いて
左を向いて
無限の広がりが
ただそこに在る

     一

 立ち上がった剣護が部屋の電気のスイッチを押すと、室内と一緒に窓の外側にいる男の姿もパッと照らし出された。眩(まぶ)しそうに眼を細めた彼の顔を、真白は改めてじっと見つめる。
 兵庫を名乗る男は、黙って真白が自分を検分(けんぶん)するに任せていた。
 真白は特に、彼の双眼(そうがん)を注視(ちゅうし)した。相手もまた、自分をさらけ出すように真白を見返す。
(害意も、敵意も、感じられない。むしろ、私に対する思(おも)い遣(や)りのような念を感じる。―――――…大丈夫。彼は、本当に兵庫だ)
「―――――入って良いよ」
 真白の言霊(ことだま)が空気に溶け込むように響き、兵庫(ひょうご)の身体からパチン、と何かが弾(はじ)けるような音がした。真白たちが開けるまでもなく、元々、窓の鍵(かぎ)は閉まっていない。
 カラカラカラ、と軽い音を立てて、網戸(あみど)とガラス戸が開けられた。
「お邪魔しまーす」
 さらりとした声と共に、兵庫は真白と剣護の前に軽やかに降り立った。裸足(はだし)であるところを見ると、屋外(おくがい)のどこかに靴を置いてあるのだろう。
「……………」
 迷彩柄(めいさいがら)のズボンに、Vネックの黒い半袖シャツ。
 精悍(せいかん)な男らしさと大人の色気を感じさせる顔立ちは、前生とあまり変わらないように見えた。いかにもオードトワレなどをつけていそうな雰囲気だが、香ってくるものは何も無い。忍びの心得(こころえ)を守っていることが窺(うかが)える。
 纏(まと)う空気は剽軽(ひょうきん)で、怜悧(れいり)。相反(あいはん)するような性質が、彼の中には共存している。
「…兵庫」
 まだ少し茫然(ぼうぜん)とした真白の呟(つぶや)きに応じるように、兵庫が膝(ひざ)を折り、頭(こうべ)を垂(た)れる。
「お久しぶりです。―――――真白様。嵐下七忍(らんかしちにん)が一・兵庫、参上が遅れましたことをお許しください」
 告げる声に浮ついた響きは無く、真摯(しんし)な思いが籠っていた。
 人を食ったような言動の多い男だが、嵐と若雪に対しては誰より厚い忠誠心と誠意を抱いていたと真白は記憶している。彼に寄せた信頼を、裏切られたことはただの一度も無い。
〝兵庫と片郡(かたこおり)が死んだ〟
 嵐の声が蘇(よみがえ)る。
「兵庫――――――」
「はい」
 何の拘(こだわ)りも見せずに顔を上げ、兵庫が返事をする。
 彼に対する慙愧(ざんき)の念が、真白の心に沸き起こった。
(…痛かったでしょう。…苦しかったでしょう。――――――私の言葉が、あなたを本能寺で死なせた―――――――)
 そう言おうとして動かしかけた唇は、兵庫の顔を見て止まった。
 彼の静かな表情が、それを口に出してはならないと物語っていた。
 言えば兵庫の誇りを傷つけることになる――――――。
〝あいつらの覚悟を、そないして侮辱(ぶじょく)したらあかん〟
 再び蘇った嵐の言葉に、真白は震える息を吸った。
「……元気だった?」
 代わりに発した言葉は、ありふれた問いかけだった。
 それで良い、と言うように兵庫が笑みを浮かべる。
「はい、お蔭様(かげさま)で」
「…髪が、短いね。…茶髪(ちゃぱつ)だし」
 昔は黒い髪を後ろで一つに結んでいた。
「時代に合わせたビジュアルを心がけてますから」
「そう――――…」
 他にかける言葉が思い浮かばず、真白は兄を振り返る。
 剣護は静観(せいかん)する表情で真白たちを見ていた。兵庫に対する警戒を、まだ完全には解いていない。いつでも真白を庇(かば)える位置に立っている。
「剣護。…この人は、嵐下七忍(らんかしちにん)の一人で、兵庫って言うの。前生で、嵐どのと若雪に仕えてくれてた。……今の名前は…」
 何と言っただろうか。
 荒太に聞いた筈なのに、思い出せない。真白にとって、兵庫はどこまでも兵庫だった。
 気付いた兵庫が、自ら名乗る。
「河本直(こうもとただし)ですけど、兵庫で構いませんよ、真白様。兄上様も。荒太様がね、これまた何度訂正しても、俺を兵庫と呼びますし」
 剣護は黙って兵庫の顔を見ると、おもむろに尋ねた。
「――――あんた、夕飯は?」
「まだですけど」
 そこで剣護が思案する顔つきになる。
「…俺たちもまだなんだ。夜食(やしょく)に、握(にぎ)り飯(めし)くらい作って来ても良いんだが―――――」
 竜軌の乱行(らんぎょう)を聞いたあとだけに、真白と兵庫を二人にして良いものかどうか、剣護は迷っていた。
 それを察した真白が言う。
「大丈夫だよ、剣護。…兵庫は、兵庫だから」
 真白の示す無条件の信頼を見ても、剣護はまだ判断を下しかねた。
「兵庫。――――もうしばらく、外で待てるか?真白はまだ制服だし…、一息つかせてやりたい」
 剣護の言葉の意味するところを悟り、兵庫は頷く。
「窓の外で待機(たいき)してるんで、頃合(ころあ)いを見計(みはか)らってまた呼んでください」
「………御近所に見られないよう、気をつけてくれ」
 兵庫が面白そうに笑った。
「そんなへまはしませんよ」

 真白が風呂から上がり、部屋着に着替えて部屋に戻ると、まだホカホカと温かそうな、たくさんのごま塩お握りの載った陶器の大皿と、麦茶の入ったコップ、冷水筒(れいすいとう)を小テーブルに置き、剣護と兵庫が向かい合って座っていた。室内は空調で心地好い程度に冷やされている。
「…大丈夫か?真白」
 気遣う剣護の問いに、頷く。
「うん。待たせてごめんなさい」
 真白がテーブルにつくと、先に座っていた二人は同時に「いただきます」と行儀良く手を合わせ、お握りに手を伸ばした。真白もそれに倣(なら)う。
 大の男二人が、決して大きくはない小テーブルに向かいお握りを頬張(ほおば)る様子は、何となくユーモラスだ。真白が少し笑うと、剣護も兵庫もどこかホッとした表情を見せた。
 瞬(またた)く間に消えて行くお握りの山を前に、剣護はあることに気付く。
 真白が大人しく一口ずつお握りを食べる前で、兵庫の食事の姿勢もそれに合わせるように礼儀正しい。咀嚼(そしゃく)そのものは素早いが、がっつくような食べ方は、間違ってもしない。
(…真白の前だからか。主君の前だから、畏(かしこ)まっている訳か――――――)
 目の前の男にとって妹は、昔と変わらず敬うべき存在なのだ。主従のけじめが、現在でも尊重するものとして、兵庫の中に刻まれている。前生において、自分亡きあとに妹が歩んだ人生の中で、築いていった絆(きずな)を目(ま)の当(あ)たりにするのは、不思議な気分だと改めて思う。
(俺たちのいないところで、頑張って生きたんだな―――――若雪)
 尚(なお)のこと、今生では叶う限り、真白を見守ってやりたいと願った。
「俺、これをいただいたら退散しますね、真白様。今夜はゆっくりお休みください」
 兵庫の言葉を聞いて、真白の顔が名残惜(なごりお)しそうな色を浮かべる。
「え…、もう、行くの?」
 兵庫がにっこり笑う。
「今日は、お顔を拝見したかっただけなので。夜分(やぶん)に失礼しました。…あと、神つ力の件ですけど」
 剣護がお握りを頬張(ほおば)る手を止める。
「俺に言えることは何も無いんですが、理の姫様に相談したらいかがですか?餅(もち)は餅屋(もちや)です。的確な助言なり、貰(もら)えるんじゃないですかね」
 真白と剣護が顔を見合わせる。
(その通りだ――――――。光(こう)なら、きっと何か知ってる)
 麦茶をぐいっと飲む兵庫を見る。
 彼はいい加減に家を訪れた訳ではない。神つ力を使えなくなった真白を心配して、様子を見に来たのだ。けれどそんな内心を表わすような態度は、おくびにも出さない。変わらない彼の気質が、真白にはひどく懐かしかった。
(今生でも、またあなたに助けられてるね――――――)
 今も変わらず受け継がれる絆の温かさを、嬉しいと感じる。
 その時ふと、荒太の言葉を思い出した。
「兵庫」
「はい」
「自由恋愛を楽しんでるって本当?」
 それまで終始にこやかだった兵庫の表情が強張(こわば)る。
「…誰がですか?」
「兵庫が。荒太君から聞いた。前生でもプレイボーイだったって。私、全然、知らなかった」
 兵庫の固まった笑みに、青筋(あおすじ)が立つような気配を剣護は感じ取った。
「ああ――――――それは、荒太様の勘違いですね。…俺は大人ですから、それなりに女性との交流も大事にしないといけません。そのへんを少し、誤解されただけでしょう」
 さらさらと流れるような訂正文(ていせいぶん)だった。
(…こりゃ荒太の言葉が本当だな)
 納得したようなしないような表情を見せる真白の横で、剣護はこっそりそう思う。
「じゃ、俺はこのへんで失礼します。あとこれ、俺の名刺(めいし)です。ケータイの番号も載ってるんで、御用の際はいつでも呼んでください」
 兵庫が真白に名刺を渡し、そそくさと立ち上がる。
 剣護も真白が手にした名刺を覗(のぞ)き込む。
 そこにはフリーライター、という肩書(かたがき)があった。
(胡散臭(うさんくせ)え…)
 カラカラと窓を開け、身軽に外に出る兵庫の背中を見て、剣護は思った。
「あ、兵庫――――」
「…はい」
 再び真白がかけた声に、今度は何を言われるか、と言う顔で兵庫が振り向く。明らかに、早く退散したがっている様子だった。そんな彼に、真白は仄(ほの)かな笑みを浮かべて言った。
「あの…、ありがとう。…来てくれて。元気そうな顔が見られて、良かった」
 一拍(いっぱく)の間を置いて、兵庫は目を細め、口角を上げる。
「どういたしまして」

「真白。今晩は俺がついててやるから、安心して寝ろ」
 剣護が決定事項(けっていじこう)のようにそう宣言した時、真白の表情は揺れた。
「――――過保護だよ。…私ばかり、甘やかされてる…」
 剣護が真面目な顔で語った。
「それは違う。別に誰も、理由なくお前を甘やかしたりしてない。お前は、このところ色々とあり過ぎた。……今日みたいなことがあって、周りの人間がお前を気遣うからと言って、それのどこが甘やかしだ?…理不尽(りふじん)に傷を負った人間が労(いた)わられるのは、人同士の触れ合いの中では、ごく当然のことなんだよ」
 それでも剣護が自分を犠牲にする理由にはならない、と真白は思う。そもそも彼は、真白の為に自分の時間を削(けず)ることを、犠牲とすら感じていないのだ。
 大きく迫る、竜軌の掌(てのひら)が蘇る。肩を押さえつけられた時の痛み、恐怖。
 思い出しただけでも息苦しく、動悸(どうき)が激しくなる。
 今の状態のまま、一人で眠ることなど出来ないだろう。
(――――いて欲しい―――――でも)
「…剣護は、受験生でしょう。お家に帰って勉強して。あんまり、叔母さんたちに心配かけちゃ駄目(だめ)だよ」
 下を向いて言う真白の髪を、剣護が手荒くかき回す。
「一人前に、分別臭(ふんべつくさ)いこと言ってんなよ」
「こんなことが重なって、もし剣護が浪人したら私のせいだもの…。責任、取れないよ」
 呆れたような表情を、剣護が見せた。
「お前なあ、もっと俺様を信用しろって。成績万年トップは伊達(だて)じゃねーぞ?参考書と単語帳、持って来るから。お前は着替えてベッドに入ってろ。お前に見られてると思うと、俺だって勉強に身を入れない訳にはいかないからな。実際のところ、はかどるくらいだ」
「――――――本当に、一人で大丈夫だから」
「嘘吐(うそつ)け。俺がいないと眠れないくせに」
 剣護があっさりと真白の言葉を退(しりぞ)ける。お互いに長い付き合いだ。見透(みす)かされている。
 真白がいたたまれない気持ちで、口を開く。
「………剣護―――――。そんなに、背負わないで。自分のことを、疎(おろそ)かにしないで。大事な時期なのに、剣護にばかり負担がかかってる。……兵庫が来るまで私、知らずに引き留めてて、ごめん」
「――――あのな、真白」
 穏やかに呼びかけられて、真白は顔を上げる。
「良いんだよ、これぐらいは。俺は、お前らの兄貴なんだから」
 当たり前のようにそう言って笑う剣護を見て、真白は唇を噛(か)んだ。
 兄だからというだけの理由で、剣護は妹や弟に降りかかる危難全(きなんすべ)ての盾(たて)になろうとする。そんな荷は、放棄(ほうき)すれば良いのだ。前生のことなど知らないと言って投げ出しても、誰も彼を責めることなど出来ないだろう。けれどその安楽な道を、剣護は決して選ばない。
 きっと表看板(おもてかんばん)を背負うと言った時から、剣護はとうに覚悟していたのだ。
「…剣護の莫迦(ばか)」
「おいおい、ここは〝剣護、頼もしいっ!〟だろうが」
「だって莫迦だもん」
 苦情を申し立てる剣護に、真白は言い張った。
 いつかとは逆の遣(や)り取(と)りをしている。
(剣護の負担を軽くする為にも、また雪華を呼べるようになりたい)
 早く光に会わなければ、と真白は思った。

 岩手県釜石市(いわてけんかまいしし)・片岸海岸。
 土曜日の早朝、砂浜に大の字に寝転がる女性の姿があった。
 薄い茶色のショートカット。白いタンクトップにジーンズを穿(は)いている。妙齢の女性が取る行動としては、世間の常識とかけ離れている。
 見開かれた薄茶の目は、晴天を映していた。
「…お姉ちゃん、何してるの?」
 近くを通りかかった男の子が、不思議そうに尋ねる。
 女は数秒の沈黙のあと、答えた。
「―――――本来なら私は、ここで生まれる筈だった。ここを含む東北・関東の、広い、広い地域で生まれ、あらゆるものを押し流し、呑み込む運命の筈だった……。多くの人の、嘆きを呼び。けれど、私はそのように生じることなく、人型(ひとがた)を得た。……その理由を、考えている…」
 彼女が口にする言葉の意味がさっぱり解らず、男の子は首を傾げると「変な奴ぅー」と言って走り去った。
 そこにまた、別の声がかかった。低く、艶(つや)のある男の声。
「こんなところで何をしている、アオハ」
 アオハと呼ばれた女性が視線を巡らせると、寝転がった頭の上方にチャコールグレーの色が見えた。
「ギレン。潮騒(しおさい)に…訊いていた。地球の鼓動(こどう)に。―――――私の、ルーツを」
「とりあえず起きろ。髪にも服にも砂が貼(は)りつくぞ」
 チャコールグレーのスーツを着た男性に腕を取られ、彼女はぼんやりと起き上がる。
「どうせ全ては仮初(かりそ)めなのに。ギレンは変なところに拘(こだわ)る」
「仮初めだからこそ、だ。粗末(そまつ)にするんじゃない」
 諭(さと)すように男は言うと、持っていた煙草(たばこ)に火をつけた。
「………あと、何人残っているの?私たちの、同胞(はらから)は?」
 煙を吐いて男は答える。
「六十といったところだ。新たな姿の我らが兄弟にも、順応(じゅんのう)が思ったより早かった。花守にしろ、門倉真白たちにしろ」
 立(た)ち上(のぼ)る紫煙(しえん)と、男性の顔を女性は見比べる。
「殺すことに慣れてきたということ?」
「そういうことになるかな」
 淡々とした遣(や)り取(と)りだが、口にする言葉には剣呑(けんのん)なものが混じる。
「―――ギレン。どうして私は生まれたの。…災いを成す者として」
「……甚大(じんだい)な霊力の塊(かたまり)である吹雪(ふぶき)が招く筈だった、災厄(さいやく)の成り代わりが私や、お前や、他の魍魎(もうりょう)たちだ」
 子供がむずがるように、女が首を横に振る。薄茶の髪も、合わせて揺れる。
「そんなことを訊いているのではない。どうして、私という意識が、アオハという形をもって存在する者に選ばれたのか、それを訊いている。この、心が、なぜアオハに選ばれたの?」
 ギレンの瞳は宙の煙を追った。
「―――――それは私にも答えられない。同じ問いは、私にも言えることだ。存在の根源に触れる問いに、答えられる者はそうはいないよ、アオハ」
 あどけなく、澄んだ瞳の女性が、顔を歪(ゆが)ませて呟(つぶや)く。
「……同胞が、死ぬのは嫌」
「ああ――――――そうだな」
 けれど、とギレンは煙草を吸いながら目を細める。
(魍魎の数が減るということは、すなわち花守や門倉真白らが、殺人を犯す域により近付くことを意味する。透主(とうしゅ)を含め、我々が全て壊滅(かいめつ)された時には、奴らも立派な殺戮者(さつりくしゃ)だ。その事実を、どう受け止めるかな―――――――)
 ギレンは寄せる波を見つめ、目を細める。
 最初から、敗北が見える戦いだった。
 肝要(かんよう)なのは戦いが終わったのち、勝者側である彼らの胸に、どれだけ深い傷を残せるかということだ。心を抉(えぐ)るような、深い傷を。
忘れられない為にも。
 海の彼方を見つめるアオハの隣に立ち、ギレンが考えるのはそんなことだった。
 潮風に混じり、紫煙が流れて行く。
  
「おはよう、剣護君、真白ちゃん。どうぞ、入って」
 一磨の声に迎えられ、真白と剣護は坂江崎家に足を踏み入れた。
 勧められるまま、リビングの茶色い革張りのソファに座る。一階の間取りは門倉家とほぼ同じで、オープンキッチンの向こうでは一磨が慣れない手つきでコーヒーカップを並べている。
「コーヒーで良かったかな?」
 一磨の言葉に二人揃って「はい」と答えたものの、キッチンから聴こえて来るガチャ、ガチャン、バタン、といった騒音に、真白は不安を覚えた。
 普段から、キッチンでテキパキと立ち働く従兄弟を見慣れているので、比較して台所仕事に慣れない人の動きだと、一目で判る。
 思わず「私が淹(い)れましょうか」と言いそうになるが、この場では差し出がましいかと思い、控える。
「奥さんと碧君はお出かけですか?」
 剣護の問いにシンクの向こうから、一磨がひょっこり顔を出す。
「そう、デパートに買い物。来年は碧も小学生だし、色々と今から準備すると、家内(かない)は張り切ってるよ―――――えーと、ミルクと砂糖はいるかい?」
「お願いします」
「どこだったかな…」
 今度は一磨からの問いかけに、剣護が答えた。
 真白はブラック党なので黙っている。
 少ししてから、一磨が覚束(おぼつか)ない手つきで、コーヒーカップが載ったトレイを運んで来た。
 リビング中央の、楕円形(だえんけい)の明るい木目(もくめ)のテーブルに、カップを並べる。カップは小花(こばな)が可憐(かれん)に散る柄だ。美里の好みだろう。
「すまないね。いつもは美里がドリップ式で淹れてくれるんだが、僕はどうも不調法(ぶちょうほう)で、淹れ方がよく解らないんだ。インスタントで我慢してくれ」
 いただきます、と真白と剣護がカップに手を伸ばす。
「…荒太君も来るんですよね?」
 真白がちらりと一磨の顔を窺(うかが)うように見る。
「…ああ、嵐どのだな。うん。十時頃に来ると言っていたから、じきに来るだろう。剣護君にはその前に、自己紹介をしておこうか」
 一磨の改まった声に、剣護がミルクと砂糖のたっぷり入ったコーヒーを飲む手を止め、カップを置く。
「私は嘗(かつ)て、石見国(いわみのくに)は邑智郡(おおちぐん)、温湯城主(ぬくゆじょうしゅ)だった小笠原長雄(おがさわらながたか)の次男、小笠原元枝(おがさわらもとえだ)と称した者だ。父の代より石見銀山(いわみぎんざん)との関わりが深かった為、堺の豪商・今井宗久(いまいそうきゅう)どのと、毛利に隠れて銀と諸物資の取引をしていた。若雪どのとは、その交渉役として石見に参られる以前よりの知己(ちき)でな。若雪どのを我が館まで迎えに来られた嵐どのとも、昵懇(じっこん)の間柄(あいだがら)となったのだ」
 一磨の口調は、中世戦国の時代人そのものだった。
 剣護は彼の語る独特の空気に釣られ、自分まで出雲大社・神官家の嫡男(ちゃくなん)だった小野太郎清隆(おののたろうきよたか)に戻った気がした。
「剣護君は、若雪どのとはどういった間柄だったのかな?前生でも浅からぬ関わりがあったと見受けられるが」
 一磨の目は、近所の男子高校生を見る目ではなかった。一人の人間の人格を、重みを測ろうとする、上に立つ者特有の目だ。
「――――――俺の前生は、出雲大社の神官家・小野家の嫡男、小野太郎清隆。……小野若雪(おののわかゆき)の一番上の兄にあたります」
「ほう、成る程。兄上どのだったか。もう一人、最近、門倉家に出入りしている彼は?ここ数日、姿が見えないけど」
 怜のことだ。
「あれは、次男です。小野次郎清晴(おののじろうきよはる)。今生の名前を、江藤怜(えとうりょう)と言います」
 一磨が腕を組む。
「ははあ。それで、うちの碧と君たちとは、どういう関係になるのかな?」
「碧は、三男…末弟(まってい)です。若雪の弟に当たります。前生名は小野三郎(おののさぶろう)」
「…元服名(げんぷくめい)が無いな」
 一磨の指摘に、剣護も真白も、痛いところを突かれた面持ちになる。
「―――――――三郎は、元服名がつく前に亡くなったので」
 得心(とくしん)が行った、という顔で一磨が軽く頷いた。
「そうか。若雪どのの家族は皆、山田正邦の雇う刺客の凶刃(きょうじん)に斃(たお)れたのであったな……。そうか………あの子が。…奇縁(きえん)よな」
 実際、小野家の末弟が、前生で若雪と縁の深かった、小笠原元枝の転生者(てんしょうしゃ)の息子としてこの世に生を受けたのは、奇縁としか言い様が無かった。
 物思う顔つきになった一磨に、剣護が尋ねる。
「あの、坂江崎さんは、どうして真白が若雪だと判(わか)ったんですか?…碧と俺たちとが関わりがあるって」
「ああ……何となくね。僕が前生の記憶を思い出したのはまだ学生の時だったが…。今生で歳を重ねるにつれ、判るようになったんだよ。こちらに引っ越して来てからすぐ、真白ちゃんが若雪どのだと気付いたよ。前生で直接の関わりがあった人間は、それと判りやすいらしい。理屈では言えない勘のようなものが働くんだ。もちろん、全員が全員、判る訳ではないがね。それからね、目を凝らすと糸のようなものが見えるんだ」
「――――糸?」
「そう。碧と、真白ちゃん。それから剣護君たちの間を繋(つな)ぐ、うっすらと光る糸のようなものが。それは僕と真白ちゃんの間にもある。例えるなら、そうだな。蛍(ほたる)の光跡(こうせき)のような。だから君たちとうちの子に、何か縁があったらしいと考えた。赤い糸という言葉も、そう莫迦(ばか)にしたものではないものかもしれないね。君たちもその内、今よりも明確に、出会う人との前生における縁の有無(うむ)が判るようになるよ」
 一磨の語る経験と知識は、先達(せんだつ)を持たない真白たちにとって頼もしいものだった。
 そこまで話した時、チャイムの鳴る音が響いた。

 一磨に案内されて、リビングに入って来た荒太を見た瞬間、真白は隣に座っていた剣護の背に隠れるようにしがみついた。
 一磨と荒太が目を丸くする。
 理由の解る剣護は、どうしたものかと考えた。
「…真白。気持ちは解るが、お前がそのままだと、話が一向(いっこう)に進まないぞ」
 剣護の言葉に、真白は恐る恐る座り直したが、左手は兄のシャツの裾(すそ)を掴(つか)んだままだった。決して荒太と目を合わせようとしない。
 理由が解らないままに避けられた荒太は、困惑(こんわく)の表情で二人の向かい、一磨の隣に腰を下ろし、これまでの話の流れの説明を受けた。
「荒太君、コーヒーを飲むかい?オレンジジュースもあるけど」
 話が一段落したところで、一磨が尋ねた。
「じゃあ、オレンジジュースをお願いします」
 一磨がキッチンに立つ間も、真白はずっと荒太から目を逸(そ)らし続けている。
(おー、睨(にら)んでる、睨んでる)
 とりあえず荒太は、苛立(いらだ)ちの矛先(ほこさき)を剣護に向けることにしたようで、仏頂面(ぶっちょうづら)の眼差(まなざ)しは剣護に注(そそ)がれた。八つ当たりの的(まと)ととなった本人は、やれやれと思っている。
 オレンジジュースの入ったコップを手に戻って来た一磨は、荒太と真白に親しげな笑みを向けた。
「前生で、嵐どのと若雪どのが我が館を再訪(さいほう)してくれた時は、真に嬉しかった。天正十一年に祝言(しゅうげん)を挙げられたとは聞いたが、そののちに逢えるものとは、夢にも思うておらなんだゆえな。あの折に、若雪どのの懐妊(かいにん)も判ったのであったな。……お二方共、実に幸せそうで。嵐どのも若雪どのも、それまでに見たことのない顔をしておられた……」
 荒太も真白も、その言葉を聞いて一磨の顔を見た。
 荒太は、幸福な記憶を真白とも共有したいと思い、彼女の顔に目を遣(や)ったが、真白はまだ頑(かたく)なに荒太の顔から目を逸らしていた。荒太の中で、何かがぷつり、と音を立てて切れた。
「―――――――剣護先輩、あとの説明、よろしくお願いします。俺、真白さんに話があるんで。一磨さん、ちょっと失礼します」
 荒太は立ち上がると、向かいに座っていた真白の右手を掴み、強引に引っ張った。
「―――――――嫌だ、剣護」
 しかし剣護は、シャツを掴む真白の左手を、柔らかく振りほどいた。
「…話をして来い、真白。このままじゃ、ちょっとばかし荒太が気の毒だ。―――――泣かせるなよ」
 最後の一言は、荒太に対してだった。

「お邪魔します!」
 勢い良くそう言って、荒太は真白の手を掴んだまま、門倉家に上がり込んだ。
「あら、成瀬君。……どうしたの?」
 普段から着物姿でいることの多い、おっとりした祖母の絵里が、二人の様子に目を丸くしている。
「ちょっと真白さんに話があるんで、二階に上がらせてください」
「あらまあ、どうぞ?…乱暴は控えてちょうだいね?」
「解ってます」
 そのままダダダダッと二階に上がる荒太と、彼に引っ張られる孫娘の後ろ姿を、見送る絵里に声がかかる。
「どうしたの?」
「ああ、塔子さん。今ね、真白ちゃんと成瀬君がお二階に上がって行ったんだけど。何だか成瀬君、思い詰めた様子だったから。大丈夫かしらと思って」
 同じく真白の祖母である塔子は、深い色の唇に笑みを形作る。
「――――――心配無いわよ、絵里さん。真白ちゃんもお年頃ってこと。このぶんだと剣護離(けんごばな)れも、そう遠くはないかしら?あの子、寂しがるわね、きっと」

 二階の真白の部屋では、真白が座り込み、項垂(うなだ)れていた。荒太はその正面に正座している。
 向かい合って座る二人を、飛翔(ひしょう)する鷹の写真が見下ろしている。
「…………何で俺のこと避けるの、真白さん」
 荒太の声音には、彼の混乱する内面が表れていた。
「……………」
「…昨日のこと?俺が、真白さんをちゃんと守れなかったから、怒ってるの?」
 真白が首を横に振る。
「……俺のこと、嫌いになったの?」
 これにも、真白は激しく首を横に振った。
「…じゃあ、どうして?」
 真白が畳を見つめたまま、かろうじて聞き取れる声で言った。
「…荒太君に…、荒太君にあんな格好、見られたから………」
 その言葉で、ようやく荒太にも合点(がてん)が行った。
 また、真白にしてみれば勝手だろうが、僅(わず)かに、嬉しいという思いが心に生じた。
 真白が竜軌によって乱された姿を、荒太に見られて強い羞恥(しゅうち)を覚えるということは、それだけ荒太を、特別な好意を向ける相手として見ているに他ならないからだ。
(――――俺の配慮(はいりょ)が、足りなかった)
 そっと口を開く。想いが届くように祈りながら。
「真白さん。俺、真白さんのことすごく好きだよ」
 真白が少し顔を上げる。
「…すごく、すごく好きだよ。多分、真白さんが想像してる数倍は。嫌われたくないから、今はまだ全然、良い子ぶってるけど」
 続きを口にするかどうか、荒太は迷った。
「……真白さんが許してくれるんなら、真白さんの全部、今すぐにでも欲しいくらいだ」
 それは真っ正直で飾らない、荒太の本音だった。
 真白の目と荒太の目が合った。
 荒太がホッと息を吐く。
「やっと、こっち見てくれたね」
 赤面した真白が小さく尋ねる。
「荒太君…。…あの、今、言ったこと――――――――」
「…うん。嘘じゃないよ。でも怖がらないでね。真白さんが嫌がることは、絶対しないから」
 竜軌と荒太は違う、ということを、真白は心に刻んだ。
「――――――あんな姿見られたから、今日、どんな顔して会えば良いのか、判らなくて」
「うん」
「………ごめんなさい…嫌な思いさせて」
 荒太は何も言わず、真白を抱き締めた。
 温かくて柔らかくて、心許無(こころもとな)い程に細い身体を抱き締めながら、こうすることだけで、いつまで自分は満足していられるだろうかと考えていた。
「あのね…荒太君…」
 耳元をかする真白の吐息にも、自分が刺激されるのを荒太は感じた。
「…キ………」
 キスなら、と言う蚊(か)の鳴くような声を聴いた瞬間、荒太の理性が飛んだ。
 真白の顔を両手で包み込み、仰向(あおむ)けると深く口づけた。そのまま、真白の唇を貪(むさぼ)るような勢いは止まらず、舌を入れ込む。真白の身体がビクン、と動くのを感じた。
 真白が赤い顔で、必死に応じようとする姿が愛(いと)しかった。
(欲しい。欲しい。欲しい。欲しい)
 焼けるような衝動に尚一層(なおいっそう)、舌を深く動かし、彼女の内側を探ろうとする。
 そこで限界に至った真白が、唇を離した。
 乱れた髪の下、垣間見(かいまみ)える顔は赤く、肩で息をしている。ここまで荒太が激しい動きに出るとは、真白は予想していなかったのだ。兄たちの示す緩やかで穏やかな愛情に比べ、荒太の熱情はひどく切羽詰(せっぱつ)まっていて、真白は顔が火照(ほて)る思いがした。荒太の内側には、満たされた思いと、未だ残る欲求とが渦巻(うずま)いていた。
(―――――やばい…。止まらなくなるところだった)
 嵐もそう堪(こら)え性(しょう)があるほうではなかったが、長い年月、良く耐えたものだと改めて思う。
 自分には到底(とうてい)、真似出来そうもない。

白い現 第六章 面相 一

白い現 第六章 面相 一

竜軌に襲われた傷心を、風見鶏の館で癒し、荒太と共に帰宅した真白。彼女を包む兄・剣護にしがみついて眠りに落ちるが、目覚めると、窓の外には前生、本能寺で死んだ嵐下七忍・兵庫の懐かしい姿があった。 「浮かぶ面(おもて)は 右を向いて 左を向いて 無限の広がりが ただそこに在る」 面相というタイトル、苦肉の策で画像の帯ブレスを選んでみました。人の持つ顔は一つではない、というテーマがこめられたタイトルです。

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-12-06

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted