白い現 第五章 憧憬 四
風見鶏の館で要や舞香の気遣いに慰められた真白は、荒太と共に家路につく。
第五章 憧憬 四
四
変化に敏(さと)くすばしっこい遥(よう)が、いつもとは異なる真白たちの様子に、気付かない筈がなかった。キッチンの隅(すみ)で、荒太がぼそぼそと声を出す。
「良いな、遥。江藤が寝てたのは好都合だ。あいつが起きたら、勉強道具だけ渡して、真白さんは具合が悪いんで帰ったって言うんだ。まだ本調子じゃないんだって尤(もっと)もらしく言い張れよ」
遥は頭の後ろで手を組んで、荒太の指示に異を唱えた。
「ええ~。絶対、嘘だってばれますよ、それー。僕、荒太様と違って、嘘吐くの得意じゃないし。江藤先輩って、すごく勘が良いもん。もし信長公にリベンジするんだって言って飛び出されたら、止める自信無いですよ。…って言うか、真白様、大丈夫なんですか。僕もそっちの護衛(ごえい)に回りたいんですけど」
遥の目は純粋に真白を案じている。
「…僕だって、七忍の端くれなんですよー?」
しかし返す荒太の言葉は容赦(ようしゃ)なかった。
「お前がいて、どうこう出来る相手じゃない」
「ごめんね、遥。今はまだ、次郎兄についててあげて。私は荒太君に送ってもらうから、心配しないで」
真白に両手を合わせて頼み込まれた遥は、そう来(こ)られては、と言う表情で眉尻を下げた。
「むー。…でも荒太様、この件、絶対、どうしたって兵庫さんの耳には入りますからね。また耳に痛いこと、言われちゃいますよ」
「仕方ないな。今回ばかりは、俺にも落ち度がある。…剣護先輩に、幾らか殴られるくらいの覚悟も出来てるしな」
「それは駄目だよ!!」
荒太の言葉を聞いて真白の上げた大声に、遥も荒太もビクッとする。
「―――――何でそうなるの?男の子って、どうしてそんな簡単に殴ったりするの。もし剣護が、本当に荒太君を殴ろうとしたら、私が止めるよ。荒太君は悪くないじゃない」
遥と荒太は顔を見合わせて沈黙する。
そういう問題では無いのだ、と言う空気が、二人の間に流れている。
その様子を見て、真白は不安を覚えた。
(……男の常識と女の常識って、やっぱり違うのかな)
彼らの後ろから舞香がヒョイと顔を出す。
「そうよお。これ以上、真白に心労(しんろう)かけるような真似(まね)、止めなさい?ああ、私、要が喧嘩(けんか)っ早い弟じゃなくて良かったー。温厚な草食系で良かったわー。じゃあね、真白、……気を付けて。こら坊や、今度こそしっかり真白をボディーガードするのよ?」
(坊や…)
荒太はややムッとしたが、頭を下げた。
「はい。今日は、どうもお世話になりました。…色々と、ありがとうございました」
真白も一緒に頭を下げる。
(ふうん。まともな挨拶(あいさつ)は出来るのね)
舞香は微笑ましく思いながら、荒太を見た。気持ちの赴(おもむ)くまま、暴走するタイプにも見えるが、今、自分が取るべき態度は何かということを、弁(わきま)える思慮深さはあるようだ。
ただ危なっかしいだけの子供ではない。
自分一人の力では、及ばない物事を経験で知る、目をしている。思い返せばそれは、剣護にも怜にも、そして真白にも当てはまることだ。まだ若い身でありながら――――――。
(…不思議な子たち)
玄関先まで二人を見送り、リビングに引き返そうとした舞香は、要が立ったままじっと動かないことに気付いた。
黄緑の瞳は魅入(みい)られたように閉まったばかりの玄関ドアを見つめ、手にはレモンイエローのシャツを握っていた。
「―――――要?どうしたの?」
「…いや、上手く誤魔化せたかな、思うて」
「何を?」
「ええんや。何でもない」
要が笑って言うのを、舞香は訝(いぶか)しむ目で見た。
それにしても、と腕を組む。
「……警察に通報しなくて本当に良かったのかしら?いくら未遂(みすい)で、顔見知りの人間とのトラブルって言ったって。同じことがまた起きないとも限らないじゃない」
「ああ。……真白さんたちにも、真白さんたちの考えがあるみたいやから」
内情を知る要としては、他に言い様が無い。
舞香は案じる顔つきで頭を斜(なな)めに傾(かたむ)ける。
「でもねえ…。剣護は確かにしっかりしてると思うけど、皆、子供であることには変わりないわ。自分たちだけで判断するにも、限界があると思うのよねぇ…」
溜め息を吐く舞香に、一理あると要も思う。
せめて彼らの内情を知り、手助け出来る大人がいれば、剣護の負担ももっと軽くなるだろう。彼は今年、受験生だと聞いた。背負うものを少なくして、将来のことを考えるのに今は専念(せんねん)したほうが良い。院生の自分では、まだそこまでの助けにはなれない。
(大人の協力者がいてたら―――――――)
そう思わずにはいられなかった。
「真白さん、手を」
風見鶏の館を出た荒太は、そう言って真白に手を差し出した。
真白がその手を見る。
「握ってて―――――――。…俺が、安心したいんだ」
荒太は真剣な顔だった。
そっと重ねられた真白の右手を、荒太の左手が包む。
「もう、いなくならないでね」
荒太の声は真剣で、迷子のような心細さを含(ふく)んでいるようにも聞こえた。
こんなことがずっと昔にもあった、と思う。桜が終わるころ、春の堺で。
まだ若雪と嵐は、出会って間も無かった。
〝若雪どの。手、繋(つな)いでもええか〟
それは単に利便性(りべんせい)を考えて発せられた言葉だったが、若雪は嬉しかった。嵐の、ほんの少しの気遣いが、そこには感じられたから。
(…手を繋(つな)いで安心するのは、私のほうなのに)
〝怖いわ〟
いつもは気丈(きじょう)な、市枝の言葉を思い出す。
(荒太君。荒太君も、怖いの―――――…?私が、二度もあなたを置いて逝(い)ったから)
失くすことで泣く辛さに、怯(おび)えているのだろうか。
今にも落ちようとする夕日に照らされた彼の背中に、口に出して訊くことは憚(はばか)られた。
代わりに、荒太に預けた右手に力を籠めた。
家に辿り着くころには、もう日も暮れていた。烏(からす)がどこかへ飛び去る姿が、二、三、見える。
暮れたあと、空に滲(にじ)む薄紅色(うすべにいろ)は美しかったが、今の真白の目には入っていない。
真白の頭の中は、今は竜軌の仕打ちより、どうすれば剣護にそのことに気付かれずに済むかで一杯だった。
(どうしよう…。今まで、隠し事して剣護にばれなかった例(ためし)が無いし。何より荒太君に隠す気が無いんじゃ、剣護に知られずにいる筈が無い)
考える程に、荒太の左手を握る右手に力が入っていくことに、本人は気付いていない。
荒太がそんな真白の顔と、ぎゅうぎゅうに握り締められる自分の左手を黙って見ていた。
打開策が浮かばずに真白が悩んでいると、真白の家も間近に迫る街灯付近に至ったところで、荒太が呟(つぶや)いた。
「…剣護先輩」
「―――――え!?」
見れば真白の家の門柱に、確かに剣護が腕組みして寄りかかっている。Tシャツにハーフパンツ、という簡単で涼しげな格好だ。足にはサンダルを引っかけ、緑の目は退屈そうに泳いでいる。
こちらに気付くと、やっと来たかと言うように笑いかけた。
「よお。御両人(ごりょうにん)」
「……剣護先輩、今時そんな言い方しませんよ」
「おっとぉ。お前そんな憎まれ口、叩くか?今日の送る役を代わってやったんだから、もっと有り難く思えよ。市枝ちゃんが呆れてたぞ。次郎の様子はどうだった?教科書はあれで良かったか?」
その問いには答えず、真白が逆に訊き返す。
「――――――剣護、どうしたの?」
「ん?いや、お前らの帰りが遅いから、保護者として心配して…」
剣護がにこやかな顔で真白を見る。
「こんなとこにずっと立ってたら、蚊(か)に喰われちゃうよ。早くお家に入って」
荒太の手をほどいた真白が、グイグイと剣護の背中を押す。
(気付かれないようにしないと――――――)
そればかりが頭を占め、真白は焦(あせ)っていた。また、剣護の顔を見ていると気が緩み、再び泣けてきてしまいそうになる自分を抑える必要もあった。
「何だ、しろ。冷たいな。……この手、どうした?」
背中を押していた真白の、左腕を剣護が掴(つか)んだ。
竜軌に捕(つか)まれた手首に、赤い痣(あざ)が出来ている。気付いた真白が腕を引こうとするが、剣護の手はピクリとも動かなかった。
灰色がかった緑の目が鋭くなる。
「……あのブレスレットが無いな。良く見りゃ目も赤い。――――――おい、荒太。何があった?」
口を開こうとする荒太を、真白が遮(さえぎ)る。
「何も無いよ、剣護。…本当に、何も無い!」
必死の形相(ぎょうそう)だったが、努力が報われることはなかった。
(…解りやすい)
荒太も剣護も同時にそう思う。
「真白、先に家に入ってろ」
厳しい表情になった剣護に対して、真白は早口で言い募る。
「そうしたら、荒太君に何もしないでくれる?なら、家に入る」
「―――――つまり、例えば俺が荒太に手を上げざるを得ないような、何かがあったと」
「…………」
真白は言葉に詰まった。口を開けば開く程、隠そうとするものが明るみになる。
「二、三発は覚悟してます」
荒太の言葉に剣護が目を細める。
「荒太君………!」
「へえ?」
身を乗り出した剣護に、真白がしがみついた。
「止(や)めて、剣護。荒太君は助けてくれたの、新庄先輩から―――――――」
「――――――新庄?」
剣護が思いがけない名前に目を見開く。
「…風見鶏の館に行く途中、荒太君と切り離されて…、新庄先輩の作った結界から、私、抜け出せなかったの……。祓詞(はらえことば)も、効かなくて。そうしたら、先輩から言われた。今の私では、神(かみ)つ力(ちから)が、使えないって。力のバランスが取れなくて、無理なんだって、…。本当に、雪華を、呼べなかったの。それで。…それで、ネクタイを、…解かれて――――――」
それ以上は言葉にならなかった。話す内に浮かぶ涙を、真白は堪(こら)え切れなかった。
剣護は予期せぬ話に唖然(あぜん)としている。しがみついた真白の肩は、震えていた。
〝俺に真白を寄越(よこ)すか?〟
(まさか本気だったのか、あいつ―――――?)
「――――――解った、真白。もう良いよ。もう喋るな。荒太を殴ったりもしないから、安心しろ。どうやら、俺にも非があるっぽいしな。…但(ただ)し、次があった時は殴る」
ひとまずホッとした真白は、より一層、剣護にしがみついた。その頭を、柔らかい手つきで剣護が撫でる。
「剣護―――――――」
「ああ、もう大丈夫だから。俺がいるから、安心しろ」
その光景を見る荒太は渋面(じゅうめん)だった。
明らかに今の真白は、自分の腕の中にいた時より安堵(あんど)しているように見える。相手が剣護では、無理もないことかもしれないが―――――――。
(殴られたほうがましだった気がする…)
その時、不意に第三者の声が響いた。
「こらこら、君たち。こんなところで女の子を泣かせるのは感心しないな。御近所様の目もあることだしね」
適度な重みがありつつ、さらっと乾いた爽(さわ)やかな声音。長身の作る長い影。広い肩幅(かたはば)。体格がしっかりしているので、Tシャツにジーンズというありふれた格好も様になる。
「坂江崎(さかえざき)さん…」
剣護が名を呼ぶ。
「やあ、剣護君。こんばんは。回覧板(かいらんばん)を持って行こうとしたら、君たちの深刻(しんこく)そうな声が聴こえたもんで、つい立ち止まってしまったよ。…若雪どのはどうしたんだい?」
真白はまだ剣護にしがみついている。坂江崎一磨(さかえざきかずま)の声が響いてからは、隠れるようにして背中に回った。朗(ほが)らかな問いかけに、どう答えたものかと考えた剣護は、ふと静止する。
――――――〝若雪どの〟?
荒太に目を遣ると、彼もまた一磨を凝視(ぎょうし)していた。
「あんた……」
一磨が荒太に向けて右手を挙げる。
「久しいな、嵐どの。息災(そくさい)なようで何より。―――――――私が判らぬか?嵐どのは見事、私に、満たされた天の器を見せてくれたではないか」
聞き覚えのある言葉だ、と荒太は思った。記憶の海にたゆたうものを探り出す。
〝星の輝く天の器(うつわ)が真(まこと)に空(から)であるならば……〟
〝満たされた天の器とやらを、見てみたいものだな〟
あの時、独り言のように彼はそう言った。
石見国(いわみのくに)。彼の館で、酒を酌(く)み交(か)わした晩――――――。
智真の他に、嵐が友人と思えたもう一人の人物。
「――――――そうか…、元枝どの。小笠原元枝(おがさわらもとえだ)どのか……!」
荒太の声に、一磨の笑みが大きくなった。
「…嘘。元枝どの―――――!?」
「あなた!!」
真白が声を上げるのと、坂江崎美里(さかえざきみさと)の一喝(いっかつ)が響くのは、ほぼ同時だった。
エプロン姿で腰に両手を当てた妻の怒声(どせい)に、一磨が回覧板を取り落しそうになり、そろりと振り返る。夫婦の力関係を、如実(にょじつ)に物語る仕草(しぐさ)だった。
「おう、美里。…どうした」
アスファルトを力強く踏みしめた美里の口から、夫を諌(いさ)める言葉が放たれる。
「どうしたじゃないわよ。回覧板をどこまで遠くへ持って行ったかと思ったら、若者たちの青春に首を突っ込んでるなんて……。良い大人が、出歯亀(でばかめ)なんてするもんじゃないわ。とにかくあなた、回覧板、早く届けてください。私、碧(みどり)を置いて来てるんですから。…ごめんなさいね、真白ちゃん、剣護君、…剣護君のライバル君?時には拳(こぶし)を突き合わせたって、良いと思うわ。若いんですもの。存分(ぞんぶん)に、青春の続きをしてちょうだいな。さ、行きましょう、あなた」
小柄な美里にTシャツを引っ張られ、一磨は剣護たちに手を振った。
「…まあ、そういう訳だから、感動の再会話はまた明日にでも」
「こら、もう。若い子たちのことは放っておいてやりなさい」
カア、カア、と烏がまだ鳴いている。
残された真白たちは、呆気(あっけ)に取られていた。
「元枝どのって、恐妻家(きょうさいか)だったっけ……?」
真白が、妻に追い立てられる一磨の後ろ姿を見ながら、目を瞬(またた)きさせている。
荒太が唸(うな)るようにして真白に答えた。
「いや、八重花(やえか)どのはもっと控(ひか)えめで、清楚(せいそ)な感じだった。…あの奥さん、どうなんだろ。八重花どのだとしたら、変われば変わるなあ。魂の神秘と言うか」
真白と荒太の会話に、剣護はついていけない。
「…何か、いまいち締まらない再会に見えたんだが、坂江崎さんちの旦那さんが、何だって?…碧の、――――三郎の父親ってだけじゃないのか?」
差し挟まれた剣護の疑問に対して、真白が我に返り、剣護の身体にしがみついたままだということに気付く。
これでは美里に誤解されても無理はない。
しかし真白は、剣護から離れようとしなかった。剣護に説明しようと言葉に出したことで、改めて竜軌への恐怖が蘇ったのだ。
黒い一対(いっつい)の瞳――――黒い光。思い出すだけで再びブルッと震えが走る。物心ついた時から慣れ親しんできた、優しい緑の眼差(まなざ)しとはまるで違う―――――――。
「ええと、真白。とりあえず兄ちゃんの身体を、一旦解放(いったんかいほう)してくれないか」
「……………」
それでも真白は離れようとしない。剣護の身体が救命ボートであるかのように、懸命にしがみついている。
(…駄目だこりゃ)
次第に暗くなる空に向け、剣護が諦(あきら)めの息を吐いた。
「荒太、大体事情は解ったから、お前はもう帰れ」
「―――――――――はい」
「怨念(おんねん)の籠(こも)った目で俺を見るな、俺を。敵は本能寺だろうが」
「…真白さん。ブレスレット、速攻(そっこう)で作り直すから、待ってて」
荒太の言葉には熱と力があった。
剣護にしがみついたままの真白が頷く。
「ごめんね」
「良いって」
結局、剣護はしがみつく妹の身体を引(ひ)き摺(ず)るようにして、そのままズルズルと真白の部屋まで上がった。
祖母たちが真白の様子を心配して、剣護に上がっていけと勧(すす)めたせいもある。
「―――――しろ、とりあえず座ろう」
剣護が腕の中に呼びかけると、真白は小さく頷いた。
手足の長い剣護が胡坐(あぐら)をかくと、華奢(きゃしゃ)な真白の身体はその中にすっぽりと収まる。互いの体温と体温がくっつき合い―――――――実際のところ、かなり暑い。しかしここで、暑苦しいと言って真白を突き放すことは、剣護には到底(とうてい)、不可能だった。
「おーい、真白。顔、上げてくれー」
真白が無言で首を横に振る。顔を見せたら良くないことが起こると、信じてでもいるかのような頑(かたく)なさだった。
(この腕の中は怖くない。怖くない)
視野狭窄(しやきょうさく)に陥(おちい)っている今の真白にとって、兄の腕の中だけが安全地帯だった。
(………昔からそうだった。何かあったら傍にいて、慰めてくれた)
それが当然のような顔をして、常に剣護は真白を庇護(ひご)する空気を纏(まと)い、立っていた。
真白の両親がイギリス勤務になってからは、剣護は真白にとって父代わりであり、母代わりでもあった。
〝真白…。本当に、お母さんがいなくなっても大丈夫?〟
先にイギリス勤務をしていた父のあとを追うように、母もまたイギリスへの転勤が決まった。心配そうに尋ねてくる母に、真白は頷いた。
〝うん。だって、剣護がいるもの。剣護がいるから、大丈夫だよ〟
〝そう………?〟
複雑な瞳で微笑(びしょう)した、母の顔。
真白がまだ小学生、剣護は中学生の時だった。
剣護がいるから、大丈夫――――――――。
それは半分、強がりだったが、半分は本音だった。祖母二人も頑張ってくれたが、剣護がいなければ、両親不在の寂しさに耐え切れなかっただろう。
剣護の腕の中はいつも、温(あたた)かなお湯に浸(つ)かるような安心感を真白にもたらす。
この腕が、前生のぶんまで取り戻そうと、ずっと自分を守って来てくれたことを、真白は知っている。怜もまた、同じように自分を守ろうと手を伸ばしてくれる。
それぞれに、負い目を感じているのだ。
(前生で私一人残されたのは、兄様たちのせいじゃないのに)
「剣護。剣護、剣護―――――――」
名前を呼べば落ち着いた。一回名を呼ぶごとに、自分の身体を温かな膜(まく)が包み、重なって層(そう)を成してゆくように感じた。酸素が増えて、呼吸が楽になるように思える。
「…悪かったな、いてやれなくて」
荒太に任せるのはまだ早かったか、と剣護は思案する。
妹が生まれて初めて味わったであろう恐怖を思うと、いたたまれない気持ちになった。
「―――――大丈夫だ、真白。もう誰にも、こんな真似(まね)は許さないから」
力強く、確固(かっこ)とした声が響く。
普段どんなにおどけたり、気ままな言動を取っていても、剣護は明言(めいげん)した事柄を必ず果たす。緑の瞳は、決して真白を裏切らない。
(それも私は知ってる。ずっと一緒にいたから)
「うん。…うん――――。剣護。私、…今日初めて、男の人を本気で怖いって思った」
くぐもっていても、真白の声からは恐怖が感じ取れた。
「そうか…」
暗(あん)に「男の人」の枠(わく)から除外(じょがい)された剣護は、やや複雑な心境だった。
真白の背中をポン、ポン、と叩きながら言う。
「…なあ、しろ。他に言いたいことはないか?何でも良いぞ。何でも聞いてやる。――――――――全部、ぶちまけちまえ」
真白の身体が、それまで以上にギュッと縮(ちぢ)こまり、固くなる。
「……剣護。荒太君に、…見られた。絶対、あんな姿、見られたくなかったのに。………恥ずかしいよ。…恥ずかしくて死にそうだよ……」
最後は消え入るような声だった。真白の中では今更ながらに、激しい羞恥(しゅうち)の念が込み上げていた。ボタンの取れたシャツの胸元を、露わになった肩を見た時の、荒太の目――――――――――。思い出す程に顔が熱くなる。次に彼に会う時、どんな顔をすれば良いのか解らない。
「気にすんな。今頃、あいつのほうが百倍は恥じ入ってるさ。お前をちゃんと守れなかったってな」
真白が、涙ぐんだ目を上げる。
「本当に…?」
「ああ。でなきゃ、男じゃねえよ」
真白の目を見ながら、剣護が頷く。
(…結局、何が狙いだった――――――織田信長。単に欲しいというだけで、安直(あんちょく)に行動を起こすような奴じゃない)
また、真白はいつ、再び神(かみ)つ力(ちから)を操れるようになるのか。
雪華を呼べない状態で、真白を外に出すのは余りに危うい。
(学校を休ませるのが一番なんだが……)
熱も下がり、ようやく登校出来ると喜んでいた真白が聞くだろうか。
ふと気が付けば、腕の中がやけに静かだ。
「…おーわー」
(こいつ、寝てやがる――――――俺をホールドしたまま。…コアラかよ)
そっと振りほどこうとしても、腕が離れない。
祖母に助けを呼ぶ声を上げようとした時、真白が眠ったまま呟いた。
「太郎兄――――――」
剣護がギクリとして真白の顔を見る。閉ざされた睫(まつげ)の下には涙があった。
黙ってそれを凝視(ぎょうし)した剣護は、がっくり項垂(うなだ)れる。負けた、と思った。
(何ともまあ、俺の泣き所を押さえた奴だよ。全く―――――――)
はあ――――――、と大きく溜め息を吐いて、妹の頭をいつもより丁寧に撫でる。
「お前は最近、泣いてばっかだな……」
気が休まらないよ俺は、とぼやく。
平穏な日々が、ひどく遠くに感じられた。
カーテンが開け放たれたままの、窓の向こう側に散る夜空の星を、数えるともなしに数える。
(そんなに高望みしてる訳でも、ないと思うんだがな)
「信じられんっちゅーねん!!」
荒太が机をバンバン、と叩いてスマートフォンに向けて怒鳴った。
『はあ、開口一番(かいこういちばん)そればっかり聞かされてる、俺の身にもなってもらえると助かります』
「お前は女遊び出来るくらい暇やろが、兵庫っ。これぐらいの愚痴(ぐち)、付き合えや」
『うっわ、暴言(ぼうげん)。荒太様、まさかお酒入ってないでしょうね』
「―――――少しだけや」
荒太の机の上には、缶チューハイが置いてある。
『少しでもお酒はお酒ですよー。今は現代で、自分は未成年ってこと、忘れないでくださいねー』
「口を開けば剣護剣護剣護、それやなかったら次郎兄次郎兄次郎兄、ああ、舌がもつれるっ。あの、シスコンブラザーズの名前ばっかりやっ!真白さんが呼ぶんは!!」
噛(か)みつくような勢いで、まくしたてる。
『まあ、真白様も立派なブラコンですから。………前生が前生です、無理ないですよ』
「……兵庫。ここに天秤(てんびん)があるとしてや」
『はあ』
ひどく気の無い相槌(あいづち)を打つ。
駄目だ脈絡(みゃくらく)が無い、立派な酔っ払いだ、と兵庫は内心思っていた。酒豪(しゅごう)だった嵐も、若雪がらみで何かあった日には少量の酒で酔うことがあった。
「片方に俺。もう片方にブラザーズとしたら、真白さんはどっち取ると思う?」
『ものすごい面倒臭(めんどうくさ)いんですけど。これ、答えないといけないんですか?』
「答えろ」
『ブラザーズ』
無慈悲(むじひ)に返ってきた答えに、荒太が肩を落とす。
「……マジで?」
『冗談ですって。真白様にはちょっと選べないでしょうね。酷(こく)ですよ、それを訊くのは。そんなしょうもないこと考えるより、御自分の、今日仕出かした失態(しったい)をもう少し反省したらいかがですか?』
シニカルな口調に宿る、刃(やいば)のような鋭さ。
「――――――――」
『青春エンジョイ、大いに結構だと思いますよ。でもそれで真白様を危うい目に遭わせて、どうするんですか。荒太様はまだ、心構えが甘いですよ。人一人守るってのがどれだけ難しいか、前生で骨身(ほねみ)に沁(し)みたんじゃないんですか。学習能力ゼロですか』
流れる水のように発せられる兵庫のダメ出しに、荒太が机にパッタリと上半身を載せた。
誰より自分自身が痛感(つうかん)していることだけに、指摘されると言葉が刺さる。
「相変わらずよう回る口やな…。……よし。真白さんに引き合わせるの、当分先にしたる」
『ふっふっふ。荒太様のことだから、きっとそう言われると思いました』
「なんやお前、気色悪い」
『実は今、真白様の自宅近くに来ちゃってるんですよねー』
「はあ!?」
『だって荒太様、焦(じ)らして会わせてくれないじゃないですか。実力行使、あるのみでしょ』
「…まさかお前、真白さんの部屋に忍び込もうとか考えたり――――――――」
『しますよ。だって俺、忍びですから』
けろりとした答えに、荒太は机に身を乗り出す。
「おい、今日はやめとけ!真白さん、怯(おび)えるに決まっとる。そんくらい解るやろが」
『兄上様が御一緒ですし、大丈夫だと思いますよ』
「剣護先輩が一緒―――――!?猶更(なおさら)あかん、お前殺されるでっ!本能寺の次は、門倉家を死地に選ぶ気かっ、洒落(しゃれ)にならんわ!!」
『ははは。だーいじょーぶでーすよー。じゃあ、荒太様。お酒は程々に。若い内から飲み過ぎると、肝臓痛めますよ』
そして途切れた通話は、二度と繋がることは無かった。
思えば兵庫との遣(や)り取(と)りで、一方的に切られなかったことは、今までにほとんど無い気がする。
空になったチューハイの缶をメキョッと片手で握り潰(つぶ)しながら、あいつほんまに俺の配下やろか、という疑問が荒太の頭をよぎった。
机の端、広げたハンカチの上に置いた、ブレスレットの残骸(ざんがい)に目を遣(や)る。
〝た、宝物だから〟
〝一度つけると、外せなくなっちゃって〟
〝ごめんなさい、荒太君〟
真白がこのブレスレット一つに、一喜一憂した顔が蘇る。
(今生では結構、表情豊かやんな――――――)
そのぶん、泣き顔も鮮明(せんめい)に記憶に残る。
〝つけて来るんじゃなかった〟
真白の涙声が、耳の奥でこだました。
思い出すと同時に、信長ぶち殺す、という思いが腹の底から湧き上がる。あんな顔を見る為に、あんな声を聴く為に、真白にブレスレットを贈った訳ではない。喜んで欲しかっただけだ。彼女の笑顔が、見たかっただけだ。点数稼ぎをしたいという下心が、全く無かったとは言わないが―――――――。
(…挙句(あげく)、フォローする役、剣護先輩に全部持ってかれて)
男がすたるというものだ。
「……………」
軽く息を吐くと頭を一振りし、引出(ひきだ)しから工具と材料を取り出す。
(兵庫に会うて…真白さんが喜ぶなら、それでええか)
身動きを封じられた剣護は、じっと座って耐えていた。
暑い―――――――。
窓は閉められたままで、空調のリモコンには手が届かない。おまけに真白の体温が密着している。三重苦だった。耳に届く虫の音だけが、やたら涼しげだ。こめかみに浮く汗をTシャツの袖で拭(ぬぐ)う。
(苦行(くぎょう)してる坊さんってこんな感じかな…)
彼に忍耐(にんたい)を強(し)いている張本人は、今では夢の中である。
(よく暑くねーな、こいつは。それにしても、ばあちゃんたちも真白も、俺を信用し過ぎじゃねーか?血縁上は従兄弟だぞ?結婚だって出来るんだぞ?有り得ないけど。…俺ってあんまり男らしく見えねーのかな。んなこと無いよな)
一晩中このままの体勢はさすがにきつい。腰痛(ようつう)になること確実だ。ぐるぐると、自由な首だけを回してみたりする。だがその程度では、血流の滞(とどこお)りは如何(いかん)ともしがたい。
せめて単語帳が欲しい、と受験生らしく考えていた時、部屋の窓が外からノックされた。
コンコン、という音にギョッとする。
窓の外に見知らぬ男性の姿を見た剣護は、反射的に真白の身体をより引き寄せた。
中から見て取れる男の体勢からして、一階の屋根を足場にしていると察せられる。
「――――――剣護…?」
目を覚ました真白は、緊迫(きんぱく)した表情の兄の顔をそこに見た。急に意識が覚醒(かくせい)する。
窓の外の男の唇が動く。
「い・れ・て・く・だ・さ・い」
莫迦(ばか)を言うな、と剣護は思った。
結界がある以上、男はそれ以上屋内には入り込めない。入るには真白の承認が要る。
男が自分を指差し、更に唇を大きく、ゆっくり動かす。
真白も剣護と同じく、その動きを見つめた。
「ら・ん・か・し・ち・に・ん・ひょ・う・ご」
そこまで動きを読んだ時、真白が剣護の腕の中から、そろっと立ち上がった。
「――――――兵庫?」
真白の表情をガラス越しに確認した男は、にっこり笑って右手を振った。
白い現 第五章 憧憬 四