春子と桜子

数日前にこちらのサイトを発見し、初めて投稿させていただいたアナログ男です。
ツイッターなどもこれからやってみなくては……

 先月は、双子の姉の三十三回忌を、私たちとごく親しかった人ばかり五人ほどで厳かに執り行なうことができました。暖かな小春日和でとても思い出深い一日となり、これで私も漸く肩の荷を下ろすことができたのでございます。
 そして昨日は、私が『天職』と思っております小学校の教師という職を定年まで勤め上げることができまして、無事に教壇を下りさせていただいたのでございます。今年は例年より暖かで、桜は新入生の入学式まで待ってはくれず、私が学校を離れるのを儚んでくれるかのように舞い散っておりました。
 忙しくしていた毎日からは解放されまして、時間を沢山持つことができたのは良いのですが、さて何をしたら良いのか皆目見当がつきません。連れ合いを持ちそびれてしまいましたから、一人で家にいることがこんなにも寂しいものなのかと今更ながら後悔している有様なのです。
 そこで、ふと思い付いた事がございます。実は、その双子の姉がまだ自宅で療養していた頃、私たちはとても不思議な体験をいたしました。当時は、まだ慮ることがございましてお話しすることができませんでしたけが、時は流れて今日に至っては、御迷惑をお掛けする方も無かろうかと存じます。いえ、却って姉の存在を――生きてきた証を皆さんに知っていただけるのではないかと思うのでございます。
 姉が使っておりました部屋で、当時の品々を取り出しながら、想い起して綴ってみようかと思います。
 ただ、ご存命中の方もいらっしゃいますので、お名前は匿名でお話しさせていただきたいと思います。


 私の名は春子、姉は桜子と申しまして、町からは少し外れた片田舎に、特に裕福でも貧しくもなく、ごく中流の家庭に育ちました。
 私たち双子の姉妹は幼い頃より、同じように育てられ、着る洋服も、靴も帽子も同じ、少しでも違うところがあると、それは駄々を捏ねたそうでございます。一卵性ではありませんでしたので、顔立ちが似ているとはいっても、他の方から見ても見分けがつかない事はありませんでした。
 少し成長した中学生の頃には、多少自我が芽生えてきて好みにも違いが出てきてまいりましたが、同じでいることに然程違和感を持つこともなく当たり前の事のように思っておりました。学力的にも同じくらいのレベルでありましたので、高校を選ぶに当たっては、当然の事のように同じ高校を選びました。
 ところが高校入学を待たず、二人の進む道が全く違う方向を向いてしまいました。姉が病床についてしまったのです。
 私たちが中学生になって間もなくの頃には父が病に倒れ、あっという間に逝ってしまいました。脳梗塞でした。
 まさに、姉も同じ病でした。
 しかし、幸いに手当てが早く施され、姉は一命を取り留めることができました。ただ、術後医師から宣告されておりました通り、後遺症が残ってしまいました。言語の障害と右半身の麻痺でした。頭で理解する事はできますが、それを言葉で私たちに表現することができないのです。口をうまく動かすことができないものですから、アーとかウーとか涎を垂らしながら何とか伝えようとしている姿を見ていると可哀想でなりません。
 小さなホワイトボードに、利き手ではない左手でマジックペンを持って、母や私に何とか意志を伝えることができるようになりましたのは、病院でのリハビリが一年も経とうとしている頃でした。ただ、右半身は相変わらず麻痺したままで、視力も低下しておりまして病室から出るときは介助が必要な状態です。しかし、これ以上は顕著なる回復は見込めないという医師のお話もあったものですから、費用の事を考えても自宅で療養することにいたしました。
 家に戻ってからの姉は、それは大変な努力をしておりました。母や私に迷惑を掛けまいと、動かぬ身体で何とか身の回りの事を一人でこなそうとしましたり、買い揃えてありました高校の教科書を開いては勉強を始め、解らないことは私に尋ねたりしまして、自分なりに成長をして行こうとする意志を強く感じました。
 ただ、人と会うことは避け、中学校時代の友達が訪ねて参りましても決して会うことはいたしませんでした。思春期の姉は、不自由な身体を人前に出したくないという気持ちが強い半面、毎日のように卒業アルバムを眺めては当時を懐かしみ、あの子はどうしているのかと尋ねたりするのです。姉が倒れた時に、親戚の人の伝手で町のほうの小さなアパートに引っ越しておりましたので、当時の友達とは二・三人の親しい方を除いては疎遠になってしまい、姉とはお付き合いしていた友達も違っておりましたのでなかなか答えることはできませんでした。
 私たちが二十五歳の時です。
 ――当時、私は大学を卒業して小学校の教師をしておりました。私が教師を目指したきっかけは母でした。父が突然他界してしまい、母は、女もきちんとした仕事を持つべきだとしきりに言っておりました。母は子供が好きで、小学校の先生を目指した頃もあったそうでございましたが、周りの方からは仕事を持つより家庭に入るべきだと諭され、諦めてしまったということでした。そんな母の勧めもあって必死に勉強し、念願の教職を手に入れることができたのでございます。学校の生活も二年が経ち、仕事にも慣れ、充実した日々を送っていた丁度その頃でございました――。
 中学校時代の同窓会の案内状が届きました。卒業してからは早十年が経っておりました。その幹事をなさって居られた方のお一人が、私と親しくさせていただいた三沢小百合さんと申す女性でした。彼女には新しい連絡先を告げておりましたので、案内状をいただくことができたのでございます。そしてもうお一方、男性幹事のお名前を見ると、何と私が秘かに思いを寄せておりました邑木里昭さんではございませんか。胸が小躍りしたのは言うまでもありません。しかし、姉の事を思うと私だけ出席するわけにはまいりません。姉の状態はその後も、特に進展してはいなかったのです。姉と私への二枚の案内状は、机の引出しに仕舞い込んで置きました。
 ところが、案内状が届いて数日経った休日、私が外出している時に三沢小百合さんから電話がございまして、小百合さんが母に同窓会のお話をなさって、姉の耳にも入ることとなってしまったのです。私は欠席するつもりでおりましたが、姉がホワイトボードに、【私に気兼ねしないで行って来てね。お土産話を待っています。跡見さんの事も教えてね】と、時間を掛けて長い文字を書き、そっと私に見せたのです。
 跡見慎太郎さんは姉が秘かに思いを寄せておりましたお方で、邑木里昭さんとは友人でもあり、そのことは小百合さんと私たち三人だけの秘密でもありました。
 そして、同窓会に出席させていただいた私は、それは楽しい時間を過ごさせてもらいました。ただ、そこに姉の姿がなかったことが残念でなりませんでした。邑木さん、跡見さんも、姉がまさかそんな状態になっているとは思ってもおりませんでしたので、とても心配して下さいました。
 私は邑木さんにそっとお願いをしてみました。邑木さんは当時の私の思いなどご存じありませんが、一人では恥ずかしいものですから、小百合さんにも一緒にいていただいてお願いをいたしました。
『邑木さんのお友達でいらっしゃる跡見さんに、邑木さんから是非お願いしていただきたいことがございます』
『僕が跡見に?』
『――姉の桜子は中学生の頃、跡見さんに秘かに思いを寄せておりました。もちろん跡見さんはご存じありません。姉は卒業後あのようなことになってしまいましたが、十年間も中学生の跡見さんに恋をしているのでございます』
『桜子さんが跡見の事を……』
『今後も男性とお知り合いになる機会などなかろうかと思います。ほんの一時で結構でございます。訪ねて来て下さるようにお願いしていただけないでしょうか』
『邑木さん、私からもお願いします』
 小百合さんも後押しして下さいました。
 ところが小百合さんは、
『邑木さんもご存じないかと思いますけれど、実は春ちゃんは邑木さんのことが好きだったのですよ』
 と、余計な事までお話しするものですから、私は赤面し、その後の言葉がなかなか出てまいりませんでした。
 取り敢えず、邑木さんには御協力をしていただけることになりました。翌週の日曜日の三月二十七日が、ちょうど私たちの二十五回目の誕生日に当たりますので、その日に何とか合わせていただけるようにお願いをいたしました。
 家に帰ってから早速姉にそのことを話しますと、驚き、恥ずかしがりとても言葉にならない奇声を上げ、興奮しているのが目に見えて分かりました。少し落ち着くと、ホワイトボードに、【ありがとう。とても楽しみにしています】と、まだ興奮している為か、いつもより文字も乱れ喜びが隠せない様子でした。
 ところが、実際にはなかなかうまく事は運ばないものでございまして、邑木さんのお話しに依って跡見さんからは快く了承をいただいておりましたが、前日になりまして、跡見さんは仕事の関係で外国への出張がお決まりになり来られなくなってしまったと、邑木さんが電話で伝えて来られたのです。
 邑木さんは申し訳ないくらい責任を感じて下さいまして、私にこんな提案をいたしました。
『桜子さんを騙すことになるかもしれないけれど、僕が跡見になりきって桜子さんに会うのは如何なものか』
 と、申すのです。私は迷いました。姉を騙すことはしたくないですけれど、あんなに喜んでくれた姉を裏切ることは更にできることではありません。視力も弱っている姉に十年後の跡見さんということで接すれば、それを違う人だと判断することは姉にはできないと思われます。こんな日の来ることを十年も待っていたのですもの、姉も私の気持ちが分かってくれるに違いありません。私は自分を納得させて、邑木さんにお願いすることにいたしました。
 しかし、当日のお約束の時間になっても、なかなか跡見さんに扮した邑木さんはお見えにはならず、気を揉んでおりましたところ、午後三時を過ぎて来て下さったのは何と跡見さんご本人ではございませんか! 私が驚いたのは言うまでもありません。お仕事がキャンセルとなられたのでありましょうか? 跡見さんにそれとなくお尋ねしてみましても、私が何を申し上げているのか解らない様子です。私がどうにかなってしまったのでありましょうか。
 そんな私をよそに姉はとても喜んでおります。姉のそんな喜んでいる姿を見ているうちに、私もいつの間にか跡見さんご本人が来て下さったことに、不思議な気持から感謝の気持ちになってまいりました。
 二十分ほどで跡見さんはお帰りになり、私は早速邑木さんに電話を掛け、事を確かめてみることにいたしました。
 ところが、そこでまた、私は信じられないことに愕然とするのです。
 邑木さんは、受話器の向こうで忙しそうになさりながら、まだ伺えていない事をお詫びになると、
『申し訳ありません。仕事が片付かずに遅くなってしまいましたが、これからお伺いできますのでもう少しお待ち下さい。しかし、跡見が事故に遭うなんて――』
 と、おっしゃるではありませんか。
『跡見さんが事故に?』
『まだ連絡が入っていませんか? 跡見が今朝方飛行機事故で亡くなったと――』
 ――では、先程までいらした方はどなたでございましょう? 介護の疲れから私が見た幻なのでしょうか。いえ、姉もあんなに喜んでいたのです。二人で幻を見たのでしょうか。夢でも幻でも構いませんでした。一時でも幸せな時を過ごすことができたのですから……。

 二年が経ち、また桜の季節が巡ってまいりました。私たちは二十七回目の誕生日を迎えることができましたが、お祝いをしたのも束の間、姉の病状が突然悪化し、病床から復帰することなく静かに息を引き取りました。今回は手を施す時間もなく、あっという間の事でございました。姉は良き思い出を胸にあの世に旅立てたと思います。穏やかな死に顔でした。


 姉の過ごした部屋で今、思い出の品々を取り出して当時の事を振り返っておりますが、三十五年も前の事ですから、私が思い違いをしていて真実をお伝えできているのか自信がございません。しかし、あの一時の幸せは真実であったと確信しております。
 母は十年前に亡くなりましたが、亡くなる直前には、もうすぐ姉に会えると譫言(うわごと)のように申しておりました。姉の事はずっと不憫に思っておりましたので、今は親子一緒で心安らかにしていることでしょう。
 私は母の夢を叶え教職に就くことができましたが、母に孫の顔を見せてあげられなかったことが残念でなりません。
 私は、あと幾度桜の季節を迎えることができるのでしょうか……。

春子と桜子

読んでいただき、ありがとうございました。

春子と桜子

定年を迎えた女性が、若き日に双子の姉と不思議な体験をした回想記です。

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-11-25

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