白い現 第五章 憧憬 三
怜の見舞いの為、荒太と共に風見鶏の館に向かう真白だったが――――――。
第五章 憧憬 三
三
電車を降りて公民館や怜のアパートを通り過ぎ、幾つかの角を曲がり歩いて行くと、風見鶏の館が見えて来た―――――――。
存在感のある建物だと改めて真白は思う。
「え、あいつ、勉強道具持って来いなんて言ったの?」
荒太が歩きながら嫌そうな顔をする。
「うん、期末試験対策だって。兄として面目躍如(めんもくやくじょ)する、って言ってたから。剣護が昔使ってた教科書とか、持って来たの。重くない範囲で良いって力説(りきせつ)してたけど、一応、五教科分は持って来た」
それを聞いて荒太が真白から学生鞄(がくせいかばん)をひったくる。
(――――――十分、重いじゃないか。江藤の奴、言葉が足りないんだよ。三教科分だけとか言えば良いんだ)
ちなみに中間試験結果の学年順位は、一位が真白、二位が怜、三位が荒太だった。荒太が嫌な顔をしたのは、期末試験において、少なくとも怜には上を行かれたくないという思いもあってのことだった。
「………荒太君。鞄、返して」
「良いから。…何で江藤からアパートの鍵(かぎ)、借りないの?人の教材だと使い勝手が違うだろうに。中身だって多少変わってるだろ」
「私もそう言ったんだけど。……何だか、私には部屋に入って欲しくないみたいだった」
メールで、怜がやんわり真白の入室を拒否した文面を思い出し、真白は些(いささ)か落ち込んだ。
「あー、成る程」
納得したような荒太の声に、真白が反応する。
「荒太君、理由が解るの?」
荒太の脳裏(のうり)には、怜の部屋で着る服を物色(ぶっしょく)していた際に見つけた、ウィスキーのボトルと日本酒の一升瓶(いっしょうびん)が浮かんでいた。
(……あいつも優等生面(ゆうとうせいづら)してる割に、中々どうして曲者(くせもの)だよな)
嫌な親近感を覚えてしまう。
ここで暴露(ばくろ)しても良いのだが、ピッキングで部屋に入った後ろめたさに加え、真白にばらしたら必ずあとから何がしかの報復(ほうふく)があるだろう、という考えが荒太の口を閉ざした。
(ああいう奴の仕返しってのは大抵、陰険(いんけん)で性質(たち)が悪いに決まってるんだ)
「…いや。誰にでも、人に見られたくない物とかあるじゃない」
真白が眉を顰(ひそ)めて立ち止まった。
「………………エロ本とか?」
(――――――――しまった。そっちに行ったか)
真白の勘の鋭さは、たまに見当違(けんとうちが)いの方向に行く。
「ええと、いや、そういうのに限らず、何やかやと、」
どうして俺が尋問(じんもん)される羽目(はめ)になる、と荒太は狼狽(うろた)えた。
「―――――次郎兄は、そんなの見ないよ。…剣護は判らないけど。……荒太君は見るの………?」
何となく真白の中にある兄二人のイメージの察しがつき、荒太はうっかり剣護に同情しかけたが、他人事(ひとごと)ではなかった。真白の疑惑(ぎわく)の矛先(ほこさき)は今、自分に向けられている。風見鶏の館まであと少し、というところで荒太は追い詰められていた。
「―――――――」
真白の焦げ茶色の瞳にじっと見つめられ、蛇(へび)に睨(にら)まれた蛙(かえる)のように、荒太は硬直(こうちょく)した。
(……返答に詰まるってことは、答えてるも同じことでは…)
そう考えた時、ふと名前を呼ばれた気がして、真白は振り返った。
〝決して振り返ってはなりませぬ〟
創世神話において、黄泉(よみ)の国まで自分を追って来た夫・伊弉諾尊(いざなぎのみこと)に、妻・伊弉冊尊(いざなみのみこと)が告げた戒(いまし)めの言葉。
けれど伊弉諾尊は振り返り、妻を再び失うことになる。
なぜかその話が真白の頭をかすめた。
振り向いた先に待ち構えるのは、暗い陥穽(かんせい)。
取り返しのつかないことが起きる予兆(よちょう)を、真白は感じ取った。
そこには闇が広がっていた。
隣を歩いていた筈の、荒太の姿が消えている。
代わりに闇に立つのは―――――――。
一瞬、山田正邦かと思ったが、違った。
「…新庄先輩……」
「病は癒えたようだな、真白。随分(ずいぶん)と幼稚(ようち)なお喋(しゃべ)りで笑えたぞ」
口ではそう言いながら、竜軌は無表情だった。その口振りと顔つきに、真白は違和感を覚える。胸に生じた怯(おび)えを自覚した。
「何か―――用ですか。私、次郎兄のところに行くんです。この結界、解いてください」
「自分で解いてみたらどうだ。神の眷属(けんぞく)・門倉真白」
竜軌の意図(いと)が読めなかった。
とにかくここで立(た)ち往生(おうじょう)している訳にもいかない。
きっと荒太も心配している。
「……幽世の大神、憐(あわ)れみ給い恵み給え、幸魂奇魂(さきみたまくしみたま)、守り給い幸い給え」
「大国主(おおくにぬし)に頼るか。さすがは出雲大社・御師(おし)の娘だな」
しかし結界は少しも揺るがなかった。
真白は他の祓詞(はらえことば)も試したが、闇はただ、闇のままだ。シン、と静まり返っている。
(どうして――――――)
竜軌がそんな真白をおもむろに見て、口を開いた。
「自覚が無いようだから教えてやる。お前はな、今、神(かみ)つ力(ちから)を行使出来ない状態なのだ。心身に受けた打撃が未だ尾を引いて、力を操るバランスに欠いている。熱が引いただけで回復したと思い込むとは、浅はかにも程がある。花守では補(おぎな)いきれなかったようだな。…実に無防備だ。太郎清隆、あれだけ近くにいながら気付かないとは大したうつけよ。今のお前には魍魎一匹(もうりょういっぴき)倒せまい。そんなお前が俺の創り上げた空間にいるということが、何を意味するか解るか?」
いつもの竜軌と違う、と真白は思った。自分の言葉に大笑いした彼ではない。魍魎に対する姿勢を諌(いさ)め、忠告してくれた時のような親しみが、今は微塵(みじん)も感じられない。
冷(ひ)え冷(び)えとしていて、身を低くして構えた獣(けもの)のような威圧感がある。
真白は竜軌の問いには答えず、無意識に一歩、後ずさった。
しかし距離を取る前に、パシ、と左手首を掴(つか)まれる。青紫の雫が揺れた。
「――――――――放して」
目の前にある、黒い一対(いっつい)の瞳が怖かった。どこまでも黒く光り、底が知れない。
(暗くて深い―――――怖い)
真白の制服のネクタイに、竜軌の指がかかる。その意図(いと)を悟(さと)り、真白の腕に鳥肌(とりはだ)が立った。
「嫌だ、放して!!雪華(せっか)っ!雪華、来て!!」
叫ぶが、美しい懐剣が姿を現すことはない。
「雪華が泣いているぞ。お前の呼びかけに応じられずに」
竜軌が淡々(たんたん)と語る。
(―――――――雪華が呼べない―――――――?)
真白が衝撃(しょうげき)を受けている間にも、ネクタイが取り外され闇に投げられた。
「―――――――!」
真白の振り回した手が、竜軌の頬に一筋の血を走らせる。
竜軌は全く怯(ひる)む気配を見せない。
シャツブラウスのボタンにかかる手を必死に払おうとするが、腕力で敵(かな)うものではなかった。
竜軌が、今気付いたように青紫の雫に目を遣(や)る。
彼が無造作(むぞうさ)に右手を振りかざした次の瞬間、引(ひ)き千切(ちぎ)られたブレスレットが地に落ちた。
「あ…………っ」
真白がそれを追って伸ばした腕も、阻(はば)まれる。
コン、コロンと小さな音を立て、雫型の石が転がった。真白の目には、荒太の笑顔も一緒に遠ざかったように見えた。
(あんなに、喜んでくれたのに)
大きな手が、はだけたシャツから見える、真白の首筋から肩にかけての肌に、直接触れた。地面に手荒く押さえつけられる。
(痛(いた)っ―――――――)
押さえつけられた皮膚の痛みに涙が滲(にじ)む。
〝雪白(せっぱく)が良く似合う〟
(どうして――――新庄先輩)
獲物(えもの)を捕らえた虎狼(ころう)の目が、上から迫る。
「―――――…嫌っ!荒太君!!荒太君、荒太君!!」
生理的な嫌悪(けんお)と恐怖に、真白は激しく叫んだ。焦げ茶色の髪が乱れる。
(剣護、助けて、次郎兄―――――――。こんなのは嫌だ。嫌だ――――――)
竜軌の動きが不意に止まった。
「奇一(きいつ)奇一(きいつ)たちまち雲霞(うんか)を結ぶ、宇内八方(うだいはっぽう)ごほうちょうなん、たちまちきゅうせんを貫き、玄都(げんと)に達し、太一真君(たいいつしんくん)に感ず、奇一奇一たちまち感通、如律令(にょりつりょう)!」
咒言(じゅげん)のあとに姿を現した荒太は、肩で息をしていた。両膝(りょうひざ)に手をついている。
「くそ…陰陽師(おんみょうじ)でもない癖(くせ)に、やたら面倒臭(めんどうくさ)い結界、張りやがって………っ!」
竜軌は、変わらない無表情のままで荒太を見た。
真白を押さえていた手の力が緩む。
荒太もまた、地に仰向(あおむ)けになった真白を見た次の瞬間、ふっと表情が消えた。但(ただ)し内奥(ないおう)に潜(ひそ)む激情が感じられる点で、竜軌とは異なる。
「彼女から離れてください、信長公。………真白さん、こっちに来て」
声は怖いくらいに平淡(へいたん)だった。
(―――――――――荒太君)
真白は渾身(こんしん)の力で竜軌の身体を突き飛ばすと、荒太のもとに駆けた。
飛び込んできた彼女の身体を、荒太が一瞬だけ強く抱き締め、素早く背後に回す。
地に落ちたブレスレットに、ちらりと視線が行った。
押し殺した声が、闇に響く。
「――――――信長公、一度だけ訊きますよ。…何の、つもりですか」
信長の表情は変わらず、荒太の問いにも答えない。
「お前が来たか……」
ゆっくり立ち上がると、ただそれだけを言った。
荒太の身体が発するざわりとした殺気(さっき)が、背後の真白にも感じられた。
「飛空、ここだ」
常より低音(ていおん)の呼びかけに現れる、飾(かざ)り気(け)の無い腰刀。その鞘(さや)を、少しの迷いも無く荒太が払った。
白い刀身(とうしん)が輝きを放つ。
ここで初めて、竜軌が薄い笑みを見せた。
「長い付き合いだが、お前とは初めて刃(やいば)を交えるな。面白い。―――――起きろ、六王(りくおう)」
竜軌の声に応じて現れたのは、剣ではなく素槍(すやり)だった。漆黒(しっこく)の柄に、螺鈿(らでん)の装飾が美しい。3メートル程はあろうかというそれを、竜軌は軽々と手にした。
剣よりも間合いの長い槍を一瞥(いちべつ)して、荒太が背後の真白を見る。
「真白さん、出来るだけ離れてて」
言われた真白は、荒太のシャツに手をかけた。
「待って――――――待って、荒太君。…多分、新庄先輩は本気じゃなかった。何かを試したかっただけだよ。……刀を、収めて」
けれどそう言う真白の声も、荒太のシャツを握る手もまだ震え、顔色は蒼白(そうはく)だった。
荒太の温(ぬく)もりが無くなることが怖かった。
(手を握ってて欲しい―――――抱き締めてて欲しい。離れないで、側にいて)
今の真白はただそれだけを、切(せつ)に願っていた。
荒太がボタンの千切れた真白のシャツの、胸元を見る。露わになった白い肩を見る。ギリ、と言う歯軋(はぎし)りが、真白の耳にも聴こえた。荒太の視線を受けて、真白は慌(あわ)ててはだけたシャツを直した。
「出来ない。狙いが何かあったにせよ、これは許容範囲(きょようはんい)を超えてる」
彼の目は、既に目の前に立つ竜軌だけを捉(とら)えている。
「―――――――――」
行かないで、という言葉が出なかった。喉(のど)の奥でつかえたかのように。
竜軌が、風の唸(うな)り声と共に二回、三回と六王を高く掲(かか)げて回転させ、構えた。
それを見届ける間も無く、荒太が駆ける。
飛空の初太刀を受けた六王が空気を横に薙(な)ぐ。
それを避け、宙に跳躍(ちょうやく)した荒太の飛空が、竜軌の頭に迫る。
半身でかわした竜軌が、更に六王を繰(く)り出す。一突き、二突き。荒太はそれを巧みにかいくぐり、飛空で内側から六王に斬りつける。
闇の空間に、激しい剣戟(けんげき)の音が響き渡る。
(どうしよう。どうしよう。今の私では止められない。あの二人が本気でこのまま戦ったら――――――どちらかが死ぬかもしれない。どうしよう。剣護も、次郎兄もいないのに)
考えている間にも、六王の切(き)っ先(さき)が荒太の肩をかすめる。血こそ出なかったものの、真白は悲鳴を上げかけた。
こんな自分は知らない。無力に震え、ただ見ているだけしか出来ないことなど、今までに無かった。力は常に、当たり前のように真白の身に備わっていた。
何も出来ないということが、これ程人を打ちのめすものだとは思いもしなかった。
恐怖、悔しさ、絶望。そして屈辱(くつじょく)。
それらの感情が、ないまぜになって真白の内側を支配する。
(剣護。剣護。次郎兄――――――助けて。誰か。誰か。誰でも良いから)
彼らを止めて――――――――。
その時、柔らかな声が、当惑(とうわく)の色をもって真白の横から響いた。
「………何してはるんですか?」
買い物袋を持った要が立っていた。彼の目は、荒太と竜軌に向けられている。
要が手に提(さ)げた袋からはネギや大根が飛び出し、闇の広がる空間の中、妙に生活感があった。
「―――――――要さん。どうして、ここに」
目を見張り、小さく声を上げた真白の状態を見て、温厚(おんこう)な顔立ちの眉根が寄る。
「真白さん、何が…、いや、とりあえず、これ羽織(はお)ってください」
そう言うと、Tシャツの上に着ていた明るいレモンイエローのシャツを脱いで、真白の肩にかけた。
要の存在に気付いているのかいないのか、闘いに没頭(ぼっとう)する二人はこちらを見向きもしない。
「要さん。助けて――――――、助けてください。あの二人を、止めてください。私、雪華を呼べないんです。今の私じゃ止められないんです――――――」
言葉が足りない、これでは伝わらない、と真白はもどかしく思った。
黄緑の瞳が静かに真白の言葉を受け止める。
要が、肝心(かんじん)な一点のみを確認するように訊く。
「……彼らを止めたら、ええんですね?」
両手で顔を覆った真白が、無言で何度も頷いた。お願いします、とか細い声が聴こえた。
要が穏やかな声で請(う)け負(お)う。
「解りました。大丈夫、何とかします。―――――真白さん、もう少し離れててください」
それは丁度、六王(りくおう)と飛空(ひくう)の刃(やいば)が離れた瞬間だった。
黄と紫の凄まじい光が、荒太と竜軌の間を駆け抜けた。
同時に轟音(ごうおん)が鳴り響く。
竜軌が、さすがに呆気(あっけ)に取られた顔になる。真白のいる方向に目を遣った荒太は、彼女の前に立つ要の姿を見た。
彼のかざした右手からパリパリと放電(ほうでん)の名残(なご)りの音が鳴り、小さな稲光(いなびかり)が立(た)ち上(のぼ)っている。
「……刃を収めたってください。二人共。せやないと、また雷を呼びますよって」
竜軌が要を値踏(ねぶ)みするように、視線を上下に走らせる。
「―――そうか。お前が智真とやらか。………どうやってこの空間に入った?」
「僕は普通に歩いてただけです。…その槍、置いてください」
竜軌は少しの間要の顔を見ていたが、数秒後には手にしていた六王が消えた。
要が荒太を見る。宥(なだ)めるような、静かな声を出す。
「お前もや、荒太。飛空をしまえ」
荒太は険(けわ)しい顔で要を睨(にら)んだ。その視界の中に、うずくまって自分を見る真白が入る。真白の懇願(こんがん)する表情に、黙って飛空を手放す。同時に飛空も消えた。
竜軌もまた、一切の興味を無くしたように、闇から消えた。
千切(ちぎ)れたブレスレットの残骸(ざんがい)と、落ちていた真白のネクタイを荒太は無言で拾い上げる。
未だうずくまる真白に向かい、一歩、二歩と歩みを進める。三歩目から荒太は駆け出した。
真白に走り寄ると、彼女は荒太に向かい、両手を伸ばした。
細い身体を抱き締める。
「―――――――荒太君…っ」
「…ごめん、真白さん」
「どうして、荒太君が謝るの」
「俺の油断だ。それに――――――」
(…真白さんが不安がっているのを解っていながら、側にいてやらなかった。信長を打ちのめしたいという自分の衝動を、優先した)
真白が首を横に振る。
「ごめんなさい、荒太君」
「……どうして真白さんが謝るの」
「ブレスレット…。私、浮かれて。せっかく、荒太君が作ってくれたのに。―――――つけて来るんじゃ、なかった」
「また作るから、またつけて来て。…泣かないで」
荒太が抱き締めた真白の身体は、まだ震えていた。
「―――――――雪華が、呼べなかったの。……何も、何も出来なくて。怖かった。…こんな、恐怖もあるんだね。全然、知らなかった」
「……知る必要の無いことだよ」
戦場では珍しい光景でも無かった、と荒太は思う。決して口には出さない。
〝妻は、私に隠れて身を売ろうとした〟
(簡単な気持ちで、出来ることじゃない。こんなこと。絶対――――――――。山田正邦は、やっぱり解ってなかったんだ)
「今日は、江藤には会わないほうが良いね」
荒太の言葉に、真白は小さく頷く。
無言で二人を見守っていた要が、そっと口を出す。
「…せやけど、家(うち)には来たほうがええ。………真白さんの…その…、シャツのボタン、姉さんに直してもろたがええと思う」
「………ああ」
荒太は頷いて、真白の背に回した腕に力を籠(こ)めた。
真白たちを出迎えた舞香は、弟のシャツを羽織った真白の様子に目を丸くした。
それから何も言わずに真白を抱擁(ほうよう)すると、真白の両目から大粒の涙がこぼれた。
「舞香さん……」
名を呼び、舞香の胸に縋(すが)りつく。
「大丈夫。大丈夫よ、真白。もう怖いことは無いわ。もう大丈夫。…私の部屋に行きましょう。ボタンをつけてる間に、着る物を貸すわ。…要、ホットミルク作っといて。蜂蜜(はちみつ)を入れてね」
コトリ、コトリ、と一歩ずつ、真白と舞香が階段を昇るのを、要と荒太は見送った。
「……剣護先輩にぶっ飛ばされるな」
荒太が真白の背中を見ながら呟いた。
舞香の部屋は、二階の左端にあった。一階のリビングに比べると片付いているが、部屋の中には様々な画家の絵の載ったポスターが貼られ、ドレッサーや机の上には所狭(ところせま)しと写真立てが並んでいる。要も写った家族写真らしきものから、友人たちと写った写真、風景写真まで被写体は多種多様だ。
真白は、貸してもらったシャツを着て、舞香のベッドの上に座り込んで膝を抱えていた。ベッドにはステンドグラスを愛する舞香らしく、色とりどりの布が縫い合わされた、パッチワークのベッドカバーがかけられている。
ボーダー柄のシャツは真白には少し大きく、膝を抱えた姿と合わせて、頼りない子供のような風情(ふぜい)だった。
手には、ホットミルクの入ったマグカップがある。一口飲むと、お腹に温(あたた)かなものが沁(し)み込むようで、ほんの少し落ち着いた。それと同時に再び浮かび上がりそうになる涙を、真白は懸命に押し込めた。
舞香もベッドの端に座り、真白のシャツを手に針と糸を器用に動かしている。
「……舞香さん…」
「なあに?」
「――――私、自分では色気が無いと思ってたんですけど。…もしかして知らない間に、新庄先輩のこと、誘ってたんでしょうか」
舞香が、危うく指に針を刺しそうになって、真白をまじまじと見た。
真白は真剣な顔だ。冗談を言っている訳ではないのが、思い詰めた表情からも見て取れる。
「…私、実は魔性(ましょう)の女なんでしょうか。自分で気付いてないだけで」
「………安心して、真白。あなたに、そっち方面のハイスペックは無いと思うわ。魔性の女っていうのはね、もうちょっとこう、違う感じよ」
(解らない―――――新庄先輩は、どうしてあんなことをしたんだろう)
何かを試したかったのだとすれば、それは何だったのだろう。
「…今日は、天気も良くて」
「そうね。お洗濯日和(せんたくびより)だったわ」
舞香が針を持つ手を休めることなく頷く。
「熱も下がって、次郎兄も回復に向かってて、荒太君が、嬉しそうに笑ってくれて」
「そう、素敵ね」
「良い一日だって思ったんです…。こんな日は、何でも上手(うま)くいきそうな気がして」
けど…、と先に続く言葉は無かった。
「明日はきっと良い一日になるわ、真白。明日のこと、明後日(あさって)のことを考えなさい。あなたの目の前には、未来が広がっている。まっさらなキャンパスみたいにね。さあ、シャツのボタンも元通りよ。ホットミルクを飲み終えたら、下に行きましょう。…慌(あわ)てなくて、良いから」
真白はコクリと頷いた。
荒太と要は、それぞれキッチンのテーブルに斜(なな)め向かいの位置でついていた。
要の淹(い)れたコーヒーには見向きもせず、荒太はテーブルを右手人差し指でコツコツと叩(たた)いている。
「荒太。さっきの男は、一体誰やったんや」
要が堪(こら)えられなくなったように訊く。
荒太がつい、と視線を要に向けた。
下から掬(すく)い上げるような目で確認する。
「前生名(ぜんしょうめい)?」
要は無言で頷く。
「―――――織田信長」
荒太の答えに、黄緑の目が大きくなる。
「…信長公……やったんか。あれが―――――」
「お前は前生でも面識無いしな。解らなくて当然だよ」
「けど…、そしたらなんで信長公が、あないなこと…。そら、若雪どのは信長公に見込まれてはったようやけど、…側室にするとか、そんな感じやなかったやろ」
荒太が戸惑う要をじっと見る。
「俺にも解らない。……真白さんは、何かを試す為だったと言ってたけど」
「それにしたかて、あんなやり方は…」
要は理解に苦しむ、と言う表情をした。
荒太がテーブルを叩く指を収め、両手を組む。
「―――――――要。…お前、今でも…」
そこで荒太が躊躇(ためら)うように言葉を切った。
「なんや?」
「……今でも真白さんが好きか?」
要が無言で固まる。
しばらくキッチンは沈黙に包まれた。黄緑の瞳が揺れる。
「…よう解らん。…今生では、会うたばかりやし…。智真が、若雪どのに憧(あこが)れてたのは事実やけどな」
「憧れ?」
「せや。――――――憧れを含めた、恋愛感情を持ってた」
それらの事柄は、嵐と智真の間で触れないこと、という不文律(ふぶんりつ)になっていた。
その為、前生では一度もこんな会話を交わしたことは無かった。
要がゆっくり口を開く。
「………智真は初め、若雪どのを、自分に近い感覚を持ったお人や思うてたんや。けど、次第に彼女は変わって行った。ステンドグラスやないけど、智真にはその変化が眩(まぶ)しく映った。雷を呼ぶ力のせいで両親に捨てられた智真は、色んなことを諦めて過ごしてた…。―――――そんな人間の目に、世界が明るく映る筈もない」
荒太は驚きもせず、要の言葉を聞いていた。彼にとっては前生において、大体の察しがついていた話だった。智真の穏やかな笑みの向こうにある孤独と諦観(ていかん)が、時折、嵐の目には透(す)けて見えた。
要は目を閉じて語り続けた。表情は優しく、穏やかだった。
「…せやけどな。せやけど若雪どのが笑うたら、智真が諦めてた世界に陽が差すように感じたんや。自分やなくて良い、若雪どのがそない笑えるんなら、彼女の傍らに立つのが誰でも良いて思うた。智真は彼女のお蔭で変わった…。前を向くことを、考えるようになった。……憧れは、人を前進させる原動力になるんや」
再び目を開けた要の顔に浮かぶ、滲(にじ)むような笑みを荒太は見た。
前生で若雪が息を引き取ったあと、嵐と智真はそれぞれ、大き過ぎる喪失感(そうしつかん)に打ちのめされた。嵐には若雪の忘(わす)れ形見(がたみ)の小雨(こさめ)がいたが、智真は独りで痛手(いたで)に耐えた。紅葉(こうよう)の美しい秋のことだった。楓(かえで)の葉が舞う中、無言で佇(たたず)んでいた墨染(すみぞめ)の後ろ姿を、荒太は今でも覚えている。
(知っていた――――――俺は。智真の気持ちも、その切実さも。知っていて、最後の最後まで、知らない振りを通した)
智真もまたそのことに気付いた上で、何も言わなかった。二人共、言葉に出すことで壊れる何かを恐れたのだ。
荒太が下を向く。
「…嵐で良かったのか?傍らに立つのが。……人間的に未熟だって自覚は、俺にもあったぞ」
「――――――ああ。…智真は、嵐で良かったて思うてた」
間を置いてから、ふん、と荒太が笑う。
「今生でも俺は相変わらずアクセルで、お前はストッパーだ。割に合わないな」
「ほんまその通りや」
要も笑った。
その時、階段のほうから足音が聞こえた。
舞香に伴(ともな)われて二階から降りて来た真白に、要は気遣(きづか)うような視線を向け、荒太は座っていた椅子から腰を浮かした。
「真白さん――――――、大丈夫?」
「…うん」
真白は辛うじて微笑んだが、顔色はまだ青かった。
「リビングに来てごらんなさい、真白。丁度良い時間帯(じかんたい)だわ」
舞香の声に導かれるまま、作品群で占められたリビングに足を踏み入れる。
強い西日の差しこむ室内は、光の洪水(こうずい)で溢(あふ)れていた。
様々な色のステンドグラスが作り出す、色彩の海。
その海の中に、真白はいた。
ささくれ立っていた心に、穏やかな波が押し寄せる。
(―――――綺麗……。クレーだったっけ。確か)
〝私は色彩に捕らえられた〟
そう言った画家がいた。
(捕らえられる…。色が余りにも鮮やかで、悲しみまで遠ざかるみたい)
隣に立つ舞香が口を開く。彼女の目は弟とはまた異なり、綺麗な琥珀色(こはくいろ)だ。
「キリスト教ではね、神は光なの。ステンドグラスは、その光を具現化(ぐげんか)する扉。光が差すことで完成するアートよ。ウィリアム・モリスの友人は、ステンドグラスを、〝芸術が到達(とうたつ)し得る最高点〟と言ったのよ。こんな光景を見ると、そう言いたくなる気持ちも解る気がするわね」
真白はしばらくリビングに立ち、ぼんやりと色彩の海に浸(ひた)っていた。そうしていると光に身を委(ゆだ)ねて、柔らかく慰撫(いぶ)されているような気持ちになった。
荒太も要も、光の中に立つ真白を黙って見つめていた。
白い現 第五章 憧憬 三