吹雪となれば 番外編
天正十(1583)年、晴れて夫婦となった嵐と若雪は、石見国の小笠原元枝を訪ねていた。
忘れじの花
番外編 忘れじの花
雨が降って
あなたと出逢い
花が降った
その夢を
何度でも
「考えたのですが、嵐どの」
若雪がそう言って話を切り出したのは、出雲(いずも)を出て石見国(いわみのくに)に差し掛かるころだった。
天正十一(1583)年の水無月(みなづき)、若雪と嵐は互いに友である地方領主・小笠原元枝(おがさわらもとえだ)に会う為に自らの本拠地である和泉国堺(いずみのくにさかい)を発ち、石見国は邑智郡(おおちぐん)を目指していた。睦月(むつき)に祝言(しゅうげん)を挙げて晴れて夫婦となって以来、初の二人揃っての長旅だった。嘗(かつ)て石見を訪れた時には男装をしていた若雪も、今は嵐が見立てた品の良い小袖に身を包んでいる。
道中の万事は嵐が取り仕切り、若雪に余計な負担がかからないよう気を配った。細かい性分は相変わらずだったが、夫婦となってから、嵐にはこれまでにない落ち着きと余裕が生まれたようであった。
宿で夕餉(ゆうげ)を済ませたのち、若雪が思案顔で口を開いた。
「何や?」
「…互いの呼び方を、改めたほうが良いのではないかと」
「ああ……」
そのことか、と言う顔で嵐が相槌(あいづち)を打った。
この時、若雪は二十六、嵐は二十四の齢(よわい)を数えていた。
「嵐どのは私の…旦那様なのですから、私のことを呼びつけにされるべきかと」
「……若雪?」
「はい」
真面目な顔で頷く年上の妻を、嵐が見つめる。
「したら、若雪…どの、は俺のことを何て呼ぶんや?」
「それはもちろん、殿か旦那様、あなた様ではないでしょうか」
「………柄やないな。公にその必要がある場合はそない呼び合うたがええか知らんけど、普段は今まで通りでええんとちゃうか。俺は若雪どののことを、尊敬もしとるし」
今一つ腑(ふ)に落ちない顔をする若雪に、嵐が笑いかけた。
「元枝どのの前ではこれまで通りがええやろ。昔と違う呼び方してたら、元枝どのは落ち着かへんと思うで」
そうかもしれない、と若雪は思った。それからすだく虫の音に耳を傾けた。
そんな彼女の様子を、嵐が窺(うかが)うような視線で見ていた。
(…ちいとは落ち着いたかいな)
今年の卯月における羽柴秀吉と柴田勝家の戦、賤(しず)ヶ(が)岳(たけ)の戦いで深い親交のあったお市の方が亡くなったと知らされてから、若雪はずっと気落ちしていた。周囲に心配をかけまいと平静を装ってはいるものの、彼女の嘆きの深さが最も近くにいる嵐には敏(びん)に察知された。お市の方は嵐にとっても、身分と男女の垣根を越えて友人と呼べる女性だった。最後に彼女と会った折、嵐は若雪を守るようにと市から遺命を受けていたのだ。愛妻に気晴らしをさせるという目的もあり、嵐は今回の石見行きを若雪に提案したのだった。
虫の音に聴き入っていた若雪の黒髪に無言で手を伸ばすと、彼女の身体が揺れた。
ゆっくり嵐の顔を見返し、若雪は彼の肩に額を載せてきた。柔らかな芳香が嵐の鼻に届く。若雪が信頼と愛情を示す、そんな仕草が普通に出来るようになるまで、夫婦となってからも少しばかりの時が必要だった。
皮肉にも市の逝去(せいきょ)をきっかけに、若雪は嵐に触れる度合いが増した。二人きりの場合に限っては、時に堪え切れないように嵐の胸に顔を埋め泣くことさえあった。
嵐は妻の両肩に穏やかに手を置いて自分の真正面に顔を向けさせると、彼女の額に口づけを落とした。その行為を安堵したように受け容れる、若雪の表情が嬉しかった。
そのまま、整えられた夜具に若雪の身体を横たえる。
意図を悟った若雪が、被さってくる嵐の上衣を手で押さえながら困惑の声を出す。
「嵐どの…。ここは、旅先ですが」
「せやな」
「私はまだ、夜着に着替えてもおりません」
「せやな」
「それに―――――」
他にも何か言い立てようとする顔を赤らめた若雪の唇を、嵐は口づけをすることで塞(ふさ)いだ。燭台の明かりを消した闇の中、小袖の帯を解く音が静かに鳴った。
それから二、三日のち、若雪と嵐は石見国、邑智郡の温湯城城下町(ぬくゆじょうじょうかまち)に小笠原元枝の館を訪ねた。
若雪を扱う嵐の在り様は甲斐甲斐しく、傾斜の浅い市女笠(いちめがさ)に長い虫垂(むした)れ絹(ぎぬ)で顔を覆った若雪を馬に乗せると、自分はその轡(くつわ)を引いて歩いた。
嵐がそつなく先触(さきぶ)れを出していたこともあり、取次(とりつぎ)も円滑(えんかつ)に行われ、若雪と嵐は旅装の汚れを軽く払ったのちに元枝と対面した。蝉の鳴く声が威勢良く、座敷の中にまで響いている。
「何とまあ」
座敷の上座に腰を落ち着けた元枝は、およそ八年振りとなる再会に満面で喜色を表わした。
吉川氏(きっかわし)の下、乱世を泳ぎ抜かんとする元枝は八年前に出逢った時よりも、更に一回り貫禄(かんろく)が増したようであった。しかし人好きのする笑顔は以前と変わらない。磊落(らいらく)な気性もそのままに見えた。
「これはまた…、お美しくなられたものだ。若雪どの」
男装した若雪しか見たことの無い元枝には、小袖姿の若雪が殊(こと)の外眩(ほかまぶ)しく見えた。嵐にしても、彼がまだ十七歳だった以前に比べると各段に頼もしくなっている。面立ちに残っていた幼さの名残りが、今は見受けられない。
「嵐どの。お主、見事、天女を手に入れおったな」
にやり、と片頬に笑みを浮かべつつ、嵐に声をかける。
天女とは、八年前にこの館を発つ前の晩、元枝の要望で若雪が披露した仕舞の「羽衣(はごろも)」にかけての言葉だ。
双方再会するに至り、喜びと懐かしさの中思い出される事事(ことごと)は限りない。
「元枝どのには、息災のようで何よりや」
元枝の言葉をいなすように笑いながらの嵐の言葉に、若雪も静かに首肯する。
元枝が、笑顔ながら苦いものの混じった微妙な表情になる。
「ああ。まあ、毛利や吉川の小間使(こまづか)いのようなものよ。あちらこちらの戦場へ駆り出されておる」
「長親(ながちか)どのはどないしてはるんや、元枝どの」
八年前、石見での最後の晩、若雪を妻としたいのだと公言した、元枝の息子・長親の顔が思い浮かぶ。若雪は当時十九歳、彼はまだ十三歳だった。
(堪忍(かんにん)な、長親どの。若雪どのは、俺が貰うてしもうた)
嵐は心の内で長親に詫びた。しかし元から譲ってやる気は毛頭無かった。
元枝の表情の、微妙な色合いが濃くなる。
「ああ、あれは兄・長旌(ながはた)の娘を娶(めと)った。以来、兄上の嫡男ということになって兄の館におる。兄上は男児に恵まれなんだゆえな。言うては何だが、政略による婚姻のようなものだ。…若雪どののことを、中々に諦め切れぬ様子であったがな」
元枝は決して情の無い父親ではなかった。息子・長親を思い遣る心は世間の父親と何ら変わるところはない。しかし彼は父であると同時に、家と血脈を守る小笠原家の人間でもあった。その為に必要とされた手立てに息子と姪の縁組があれば、それを呑むのが本分である。息子が長兄の嫡男となることで将来の小笠原家当主となるのであれば、それもまた息子の幸福と考えたであろうことも、想像に難くない。
「…それは…、八重花(やえか)どのもお寂しいですね」
元枝の妻であり、長親の母でもある八重花に同情した若雪の言葉に、元枝も微かな笑いを見せる。
「うむ。私とて何も思わぬ訳ではないが、女親の我が子に抱く思いというのは、また格別なものがあるようでな。表向き、気丈(きじょう)に振る舞っておるのが健気(けなげ)よ。今宵の宴の支度の為今は席を外しておるが、良ければあとで顔を見せてやってはくれまいか」
「はい」
元枝の要望に頷いた若雪が、僅(わず)かに汗を拭(ぬぐ)う仕草を見せた。
蝉の音は相変わらず鳴り響いている。
すかさず嵐が尋ねた。
「しんどいんやないか、若雪どの」
言いながら彼女の前髪をそっと掻き上げると、じわりと汗ばんでいる。その問いを肯定するように苦笑をこぼした若雪を見て、嵐が元枝の顔を振り向く。
「…早速で悪いんやけど、部屋に下がらせてもろてええか?元枝どの」
「ああ無論だ。今年の夏は、殊に厳しい。案内させるから、寛(くつろ)がれると良い」
やがて嵐に伴われた若雪が座敷を退出したあと、元枝は、やれ驚いた、と独りごちた。
「あれが己の恋情(れんじょう)を受け容れた男の姿か。いや変われば変わるものだな」
未だ自分の想いを認め切れずにいた八年前の嵐と今の嵐とでは、まるで別人のようだった。
夕方になり昼間の暑さがようやく和らいできたころ、館を出ていた嵐が戻って来た。
自室に割り当てられた部屋に声をかけて入ると、若雪の隣に、元枝の妻・八重花の姿があった。若雪から八重花をおとなう前に、八重花のほうから出向いたらしい。相変わらず楚々(そそ)とした面立ちに微笑を浮かべ、嵐にしとやかな礼をする。若雪が男装していた際にはあまり感じなかったことだが、こうして若雪と八重花が二人並んでいると、面立ちの印象がどことなく似ていて姉妹のように見えないことも無い。
「久方ぶりでございます、嵐どの」
「ああ、八重花どの。お元気そうやな」
女二人で何を話していたものか、八重花は楽しげな顔で若雪に目くばせすると、部屋から退出した。
「……何を話してたんや?」
「秘密です」
そう言って笑う若雪はどこか愛らしかった。
妻の愛らしい表情を、内心では珍しいものと心楽しく眺めながら、嵐はわざと拗(す)ねた振りをして見せた。
「ああ、そう。ふうん。せっかく俺が若雪どのの為に氷を手に入れて来たいうのに、秘密なんか」
「氷ですか?今の時期に」
嵐は勝ち誇ったような笑みを浮かべて、右手に持った麻袋を掲げて見せた。中には大鋸屑(おがくず)が一杯に詰めてあり、それに包まれるようにして氷が確かに入っている。その透明で涼やかな塊は若雪を驚かせた。
「どのようにして手に入れられたのですか?」
「秘密や」
先程の仕返しとばかりに、嵐がにっこり笑う。
若雪の柳眉(りゅうび)が僅かに寄る。
「…嵐どのは、時々意地悪をなさいますね」
「俺の気が変わるように努力してみたらどないや、若雪どの」
「どのように…」
若雪が言う端から、嵐は妻との距離を詰めた。逃げられない内に、白い首筋をかすめるように唇を当てる。
(…氷が溶けるな)
自分の抑制が利かなくなる前に若雪から離れる必要性を感じ、嵐は身を引いた。
「削って甘葛(あまづら)をかけてくるさかい、ちょう待っとれ」
そう言うと麻袋を抱え、部屋をあとにした。
一人残った若雪は、嵐の唇が触れた首筋を手で押さえ、暑さとは別に身が熱くなる感覚にじっとしていた。
「野盗(やとう)?」
不穏な話題が出たのは夕餉の席でのことだった。
この晩の空はどこか紫がかって、膨(ふく)らんだ居待月(いまちづき)が頃合いに顔を見せた。夕方より吹き始めた風は、ささやかに燭台の炎を揺らす。再会を祝して皆で盃を干したが、若雪には酒の味が常よりずっと鋭いように感じられて不思議に思った。
「左様。尼子(あまこ)の残党やら、秀吉に従うを良しとせぬ地方領主配下の者共やらが集まって徒党(ととう)を組み、近隣の家々を襲うておる。今のところ小笠原旗下(おがさわらきか)であった者たちに、そのような愚行(ぐこう)を犯す輩(やから)は見受けられぬが。見回りに当たらせた我が家来たちまでが手傷を負う有り様でな。お二方の腕は存じ上げておるが、油断召さるな」
嵐と若雪が顔を見合わせる。膳に載っていた雁(かり)の和え物を、嵐が食べ終えたころであった。若雪は最近、獣鳥肉の類がなぜか苦手になっていて、〝ふくらいり〟と言うあわび、赤貝、海鼠(なまこ)、烏賊(いか)などを出汁(だし)、醤油、酒で調味した煮汁でさっと煮た一品に箸をつけていた。八重花による味付けの差配(さはい)に間違いは無い。
若雪は自分の身の上より先に、八重花の身を案じた。温湯城下一帯を実質的に治めているのは、未だ小笠原元枝と言って良い。野盗たちの憤懣(ふんまん)の矛先(ほこさき)が、元枝の妻である彼女に向いても何ら不思議はないのだ。料理を得手(えて)とする八重花は、家人を伴い自ら市へ赴き新鮮な食材の品定めをすることもあると言う。
元枝の傍近くに控え、慎ましく酒器を捧げ持つ八重花に目を遣る。
若雪の懸念を察した元枝が声をかけた。
「案ずるな、若雪どの。八重花が外に出る折には護衛の者をつけておるゆえ。物々しいと言うて、これには鬱陶(うっとう)しがられておるがな。全く、妻を心配する夫の心を少しは汲(く)んで欲しいものよ」
嘆息(たんそく)しながら言う元枝の隣で、八重花は困ったように微笑んでいる。
盃に注がれた酒を元枝があおる。
「まあそれはそうとして、せっかく当地を再訪されたのだ。ゆるりと滞在し、注意を怠らぬようにした上で、市なども見て回ると良い。この石見でしか目に出来ぬ物も多々あろう」
嵐はもとよりそのつもり、と言った表情で頷く。
「お言葉に甘えさせてもらう」
若雪は途中で退席したが、その晩は遅くまで嵐と元枝の二人で酒を酌(く)み交(か)わした。
翌日の昼前に、温湯城下に開かれる市の賑わいの中を、若雪と嵐は歩いていた。日は高く昇り人々を照らしている。この時期には蝉の声がどこに行ってもついて回った。そんな中、目に涼しげな浅葱色(あさぎいろ)の小袖を纏う若雪と、藍色の上衣に濃紺の袴を合わせた嵐の二人は、見目麗しい一対(いっつい)だった。
(…思うた以上の人波やな)
出雲大社を詣でた人間などもこちらに流れて来ているのだろう。市は大した盛況振りだ。
「若雪どの、手を」
そう言って左手を差し出した嵐に、若雪も躊躇(ためら)うことなく右手を預けた。
「何か欲しいもんを見つけたら、言うとええ」
兵法書を求められた昔を思い出しながら、嵐がにこやかに若雪を促す。
「昨日いただいた氷だけで十分です。市の活気は見ているだけで楽しいですから」
「欲が無いな」
「それに…」
笑う嵐に、続いた若雪の小さな声は周囲の騒音にかき消された。
「ん?何やて?」
嵐が耳を若雪の口元に近付けて尋ねると、若雪が再び、唇を開いた。
「…嵐どのと、このようにして共に歩けるだけで嬉しいです」
思わず覗き込んだ若雪の顔は、微かに赤い。昔はこんな言葉は到底聞けなかった。若雪の手を握る左手に力が籠る。
こうなれば、彼女に似つかわしい品を是が非でも見つけ出してやりたい、という気勢(きせい)が嵐の内に強く生じた。熱の入った視線で女物の品々を検分しにかかる。そんな作業も楽しいものだった。
その時、二人の後ろ手から、タッタッタッタッと勢い良く駆けて来る男があった。その男に先に気付いたのは嵐だった。どこか荒(すさ)んだ風体(ふうてい)の武士崩れと見られる男の手には、光る物が握られている。
「若雪どのっ!」
叫ぶと、腕を掴んで彼女の身を自分のほうに引き寄せる。
男の持っていた短刀の狙いは逸れ、若雪の小袖の左袖が斬り裂かれた。
「山尾!あの男の跡を追え。――――殺すな」
「承知」
嵐の厳しい声に応じて、瞬時に動く影があった。嵐がまとめる忍び集団・嵐下七忍の一人である。嵐は妻の総身をざっと見渡した。
「若雪どの、無事か?どこも怪我してへんか?」
「はい、小袖を損んじてしまいましたが…」
「そんなんはどうでもええ」
その時、若雪が俄(にわ)かに顔を歪め、軽く呻(うめ)くと下腹部を押さえて前のめりに倒れかけた。
「若雪どの!!」
驚いてそれを抱き留めた嵐が、混乱のままに眉間を一層険しくする。嵐の顔色まで青ざめていた。それから若雪の身体を慎重に抱え上げると、素早く元枝の館に取って返した。
館に運ばれて以来、若雪は昏々(こんこん)と眠っていた。
話を聴いた元枝の顔つきもまた、厳しいものだった。
「八重花に間違われたのやもしれぬな…。事ここに至っては、改めて野盗討滅(やとうとうめつ)の下知(げち)が下るのも時間の問題であろう。若雪どのの身体のこともある。しばらくはこの館内(やかたうち)にて過ごされよ」
「ああ…。山尾が戻ったら賊の拠点も知れるやろ」
答える嵐は重い空気を漂わせる顔つきで、若雪を案じていた。賊の持っていた刃(やいば)は若雪の肌をかすりもしなかった。それなのに若雪が倒れたということは、何らかの病に罹(かか)っている為ではないか、という不安が先程から嵐の胸を支配していた。
若雪が嘗(かつ)て労咳(ろうがい)を患(わずら)ってからというもの、嵐の中には病魔への怯えが居座るようになった。再び若雪を失ったらと考えると、それだけで身の竦(すく)む思いがするのだ。
その時、若雪を診ていた医師が座敷に入って来た。嵐と元枝に向けて丁寧に頭を下げる。
「若雪どのの容態はいかがだ?」
医師は尋ねる元枝を落ち着かせるような眼差しで見つめ、嵐と元枝に理解しやすいように、ゆっくりと言葉を連ねた。
「ここは私よりも産婆どのを呼ばれたがよろしいでしょう。どうやらご懐妊(かいにん)の御様子ですな。おめでとう存じます」
「何と!」
医師の言葉に元枝は歓声と同時に腰を上げた。
嵐を顧みれば、茫然(ぼうぜん)とした面持ちで座したままだ。医師の言葉に、まだ理解が追いついていないらしい。何事にも俊敏(しゅんびん)で無駄な動きの無い嵐とも思えない。
(何という面(つら)だ)
元枝は内心、噴き出してしまった。
「――――元枝どの。失礼する」
嵐は我に返ると立ち上がり、その言葉と共に元枝の返答も聞かず、妻のいる部屋に慌ただしく向かった。
若雪は夜着に着替えて床に就き、天井を見上げていた。
下腹部に、そっと手を当てる。
(ここに、私と嵐どのの子がいる――――――)
医師から懐妊という見立てを聴いた時、ここ最近の様々な身体の違和感の納得がいった。
そして得も言われぬ喜びが胸に込み上げた。それは今までに経験したことのない幸福感だった。一旦は子を持つことを諦めていた自分がこのような幸運に恵まれるとは、数年前には思いも寄らなかった。ただ、今は亡き母がいてくれたなら、きっと先達(せんだつ)としての教えを学ぶことが出来たであろうに、とそれが寂しく心細かった。
(…あなたを、何からも守ってあげる)
だから無事に生まれて来て、と若雪はお腹の中にいる子に心の内で語りかけた。廊下から嵐の声がかかり、障子が開く音に目を向ける。
若雪が身を起こそうとするのを、入って来た嵐が手で制した。
嵐は若雪の傍らに座した。
「若雪どの」
「はい」
言葉を選ぶ時を置いてから口を開く。
「子が出来たいうんは、ほんまか?」
「…真、のようでございます」
経験が無い為に若雪にもしかとは言いかねたが、それでも間違いあるまいと感じる何かはあった。嵐が何回か、意味も無く頷く。
「男か?女か?…いや、俺はどちらでもええんやけど」
「それは、まだ判りません」
「ああ、さよか。さよか。ええと」
嵐は頭の中で次に訊くことを数え上げているようだった。
「――――暑うはないか?気分は悪うないか?食べたいもんはないか?また氷を削るか?」
続いて繰り出された矢継(やつ)ぎ早(ばや)の質問に、若雪が落ち着かせるように嵐の手に手を添えた。
「嵐どの、大丈夫。大丈夫です。それより、眠っている間に興味深い夢を見ました」
「夢?」
若雪が、ほんのりと微笑んで頷く。
「今よりはるか遠い世で、私たちは再び出会い、生きておりました。禊(みそぎ)の時の、のちの夢かもしれません。太郎兄や次郎兄が元気に生きておいでで、三郎やお市どのもおられました。あれが真実先の世であれば、喜ばしいのですが」
どこか遠くを見るような若雪の眼差しに、嵐は少し不安になった。今まで身近に身籠った女性を見たことが無いので、こういう場合の接し方にも戸惑う。だが、若雪の語る夢は悪くないものに思えた。
そしてそれらの感情と同時に、自分もついに父親かという感慨が、ぼんやりとした実感と共に湧いた。元々、嵐は子供が好きではない。これまで子供が欲しいと思ったこともついぞ無く、ただ若雪さえ傍にいれば良いと考えていた。しかし、いざ若雪が自分との間に子をもうけると思うと、自分でも不思議な程に心が躍った。
また考えが先走る余り、若雪が生まれた子にばかり構うのではないかと、今からまだ見ぬ我が子に焼き餅を焼いたりもして、どうにも落ち着かずそわそわした。
(…若雪どのに似てるとええな)
自分に似ているより、そのほうがずっと可愛がってやれる気がした。
それから、若雪と嵐の石見滞在中に、一度大規模な野盗狩りが行われ、嵐は専(もっぱ)ら若雪と共に元枝の館内で過ごした。嵐は落ち着きない目つきで座っていたかと思えば、急に立ち上がって部屋の中をうろうろと歩き回ったり、若雪に体調をしつこく尋ねたりした。その他の時は何をするでもなく、ただ妻の身体を背後から緩やかに抱き寄せている時間が多かった。若雪もまた暑いと不満を言うこともなく、大人しく嵐の腕に身を委ねていた。
「大事ないか?」
「はい、大事ございません」
嵐が尋ね、若雪が答える。この遣り取りが日に何度も繰り返された。
そうすることによって、身籠った若雪より嵐のほうが気持ちを宥(なだ)められているようだった。実際、嵐には同じ受け答えを聴くことで、若雪に甘えている面があった。
そんな二人の部屋を、時折、八重花が訪れた。彼女は、自分の身代わりに若雪が襲撃されたらしいことをひどく気に病み、若雪に対していつも以上に居心地が良くなるよう何くれとなく気を遣った。若雪はそんな八重花に、気にする程のことではないのだと、何度も言って聴かせなければならなかった。そして彼女は若雪に求められるままに、妊娠した際の心得や自分の体験談などを語ってくれた。特に長親が産まれた時の思い出話を語る八重花が、そっと涙を拭っていたのは若雪の印象に残った。
若雪と嵐の在り様について様々な報告をする八重花から、普段よりも神経質になっているらしい嵐の様子を伝え聴いた元枝は一笑し、「どちらが身籠っておるやら解らぬな」と評した。
若雪の体調を見計らって二人は堺への帰途に就くことになったが、嵐が若雪に接する様はこの上もなく用心深く、その気遣いの濃(こま)やかさはまるで若雪の母親のようだった。
これが本当に今生(こんじょう)の別れとなるであろう旅立ちの朝、この二人を見送る元枝の胸は温かかった。二人の友人が実に幸福そうに、仲睦(なかむつ)まじく寄り添う姿を見られた幸いに笑みが絶えない。八重花も元枝と共に若雪と嵐を見送りに出たが、彼女は若雪たちとの別離に目を潤ませていた。互いに幸あれと願い、二組の夫婦は別れの挨拶を交わした。
嵐は若雪が駕籠(かご)に乗っての帰路を頑なに主張したが、若雪自身は来る時同様、馬や徒歩(かち)で構わないと言って嵐を窘(たしな)めた。
かくして嵐に轡を引いてもらい馬に揺られながら、若雪は元枝の館をあとにした。
晴れ渡った青空の下、夏の温い空気がまとわりつくように二人を包んでいる。
(嵐どのは、当たり前のようにいてくださる…。与えてくださる)
若雪の胸に開く、喪失の深い穴に荒涼(こうりょう)と吹く風の前に立ち。
今、湧き出る泉のようなこの想いを嵐に告げておかねばと思い、若雪は馬上から口を開いた。
「………嵐どの」
「何や、どないした?気分が悪いか?」
呼びかけに過剰(かじょう)に反応する自分の夫に対して、虫垂れ絹を手で避けて目と目を合わせると、若雪は静かに唇を動かした。
「いいえ。…私は今、とても幸せです。嵐どのが傍らにいてくださり、…子まで授かりました。あなたに出逢えたことを――――、心の底から感謝致しております。私がこのように申し上げたことを、どうかいつまでも忘れないでください。憶(おぼ)えていてください」
そう言って、優しげに咲く花のように笑った若雪の顔と言葉を、嵐は確かに生涯忘れないだろうと思った。
(…真っ白い花みたいや)
想いは嵐も同じだった。若雪に出逢えたことを、感謝している。彼女の亡き家族が二人を引き合わせたのかと思うと、後ろめたいような気持ちもあった。しかし今となっては、若雪と出逢うことのない人生は想像出来ない。
「うん。……憶えとる。俺が生きてる限り」
若雪を振り向いていた嵐が力強く頷き、また前に向き直ったあと、若雪の頬を涙が滑り落ちた。それは虫垂れ絹に隠され、誰の目にも見咎(みとが)められることはなかった。
若雪には、嵐に隠している秘密があった。
禊(みそぎ)の時を終えてのち、息を吹き返して労咳(ろうがい)さえ癒えた若雪は、理の姫・光より憂いを帯びた顔で教えられたのだ。今を生き延びても、そう長くの年数をこの先生きることは叶わないであろう、と。
畢竟(ひっきょう)、遠くない将来、自分は嵐より先に黄泉路(よみじ)を辿るであろうことを若雪は覚悟していた。そして、そうであれば猶更(なおさら)、今の幸せを大事にして時を過ごそうと心に決めた。
(忘れないでください。あなたのことを、お慕いしております。この先もずっと)
轡を引く嵐の後ろ姿に、それからも若雪の眼差しは注がれていた。それは言葉よりも尚、雄弁(ゆうべん)な眼差しだった。
吹雪となれば 番外編