白い現 第五章 憧憬 一

白い現 第五章 憧憬 一

心身共に打撃を受けた真白は再び熱にうかされる。

第五章 憧憬 一

第五章 憧憬(しょうけい)

私の泣いた世界を
明るく照らした
あなただったから
ずっと一緒に
歩きたかった

     一

〝よお、相川(あいかわ)〟
 剣護が声をかけると、相手は振り向いた。
〝これ、今日の授業のぶんのプリント〟
 保健室のベッドに腰掛ける少女は、奇妙な生き物を見る目で、剣護を見た。
 彼女はいつも、剣護が顔を出すたびに、そんな顔をする。
 怪訝(けげん)そうな、探るような表情。
 自分は騙(だま)されないぞと言わんばかりの、厚意への疑い。
 余りにそれが解りやすくて、剣護はつい苦笑してしまう。
 本当に警戒するのなら、警戒しているという素振(そぶ)りさえ、相手に見せるものではない。
 少女のさらけ出す正直で不器用な面は、かえって剣護の目に好ましく映った。
〝……物好きだね、門倉君〟
〝よく言われる〟
 乾いた目をふい、と窓の外に向けて、少女は続ける。
〝私を構っても、良いことなんか無いのに〟
〝ああ?そりゃ俺の自由だ。相川に言われることじゃない〟
 まるで頓着(とんちゃく)せず言う剣護を、少女は理解出来ない、と言う目で見た。
〝―――――門倉君って、変〟
〝それもよく言われる。従兄妹(いとこ)から〟
〝…従兄妹?〟
〝うん〟
 剣護は頷き、に、と笑って白い歯を見せる。
 少女は惹(ひ)かれたように、その笑みを凝視(ぎょうし)した。

 目覚ましの音で起きた剣護は、今見た夢をぼんやり回想した。
 寝間着替わりのTシャツの背中は、じっとりと汗ばんでいる。
(―――――――相川?…って誰?……知らねーぞ)
 全く記憶に無い名前だ。
 試みに思い出そうとすると、頭がズキンと鈍(にぶ)く痛んだ。
「ってえ。―――――――…何だぁ?」
 ぶら下がった電気の紐(ひも)が目に入る。先端には、昔、真白が海に行ったお土産にくれた、波に洗われて角の丸くなった緑のガラス片が結び付けられている。
 深い森のような緑。
〝剣護の目の色と、同じでしょう?〟
 得意そうに言う、今よりずっと幼い真白の笑顔が浮かぶ。
〝太郎兄、これ、どうしたの?〟
 怜が初めて家に泊まった晩、ガラス片を指して尋ねた。
〝ああ、それは――――…、どっかで拾った〟
「……………」
(あれ、何考えてたっけか。…忘れた)
 のっそりと身体を起こし、緩(ゆる)い癖(くせ)っ毛(け)をガリガリ掻(か)く。
 ガラス片を軽く手で払うと、それは振り子のように、右に左に心許無(こころもとな)く揺れた。
 窓の外に広がる真っ青な空を見て、今日も暑くなりそうだと思う。

 制服に着替え、朝食を済ませてから真白の部屋を訪れると、荒太が座り込んだ体勢のまま、寝ていた。
 耳を澄ませば、すー、と静かな寝息が聴こえる。
(寝相(ねぞう)の良い奴…)
 寝ている時ばかりは可愛(かわい)くも見える顔を、指先でつついてやりたくなる。
 服装にはうるさい彼だが、昨日は剣護が貸した草色の甚平(じんべえ)に、文句一つ言わず着替えていた。
(しかし………)
 やはり少しサイズが大きかったな、と寝姿を見て思う。相手はまだ発育途中の十五歳だ。
 真白はベッドの上で、タオルケットにくるまっている。彼女の寝顔を確認した剣護は、少しホッとした。
「―――――――ご苦労さん」
 寝ている荒太に労(ねぎら)いの声をかける。見ている間にカクン、と荒太の頭が落ちた。
「―――――…剣護?…」
 真白がゴソゴソと半身を起こす。髪は少し乱れ、まだ寝惚(ねぼ)け眼(まなこ)だ。
「おう。しろ、気分はどうだ?」
「うん……。なんか、頭が熱くて、ぼんやりする…」
「ちょっとおでこ貸せ」
 中腰になってチョイチョイ、と手招きする。
 寝起きだからか、真白は素直に従う。
 荒い息を吐く様子は、見るからにきつそうだった。
 ペタリ、と彼女の額に手を当てた剣護は、眉を寄せる。
「――――やっぱり、結構熱出てんな。今日も学校は休め」
「え……。じゃあ、次郎兄のところには…?」
「無理だよ。あいつだって、具合の悪いお前が見舞いに来ても、心配するだけだろ」
「――――――…」
 尤(もっと)もな意見に真白が黙って俯(うつむ)く。明らかに意気消沈(いきしょうちん)している様子が哀れだった。
「大丈夫だよ、次郎は逃げたりしないから。その内、お前より先に元気になって、逆に見舞いに来るかもしれねーぞ?」
 剣護の励ましに、真白は微かに笑った。
「そうだね――――。剣護…。私、荒太君に負担かけちゃった。疲れてただろうに、一晩中、私の言うことの相手してくれて……」
 剣護も真白も、眠る荒太を見た。二人共、彼を起こさないように、声のトーンを落として話している。
「………あいつがそうしたかったんだよ。あまり気に病むな。お前もよく眠れてないだろ。学校行く時間まで、ついててやるから寝ろ」
 真白の目は、昨日と同じくまだ赤い。
 ――――――一晩中、荒太を相手に泣き明かしたのだろうか。
「…真白、お前さ、あんまり泣くなよ。兎(うさぎ)から元に戻れなくなるぞ」
 彼女にもどうしようもないこと、と解っていながら、つい口を出してしまう。
 剣護に言われて、目に手を遣(や)ろうとした真白の手首を掴(つか)み、「こら、触るな」と注意する。その手を真白がじっと見た。
「…うん。あのね、剣護。私、もう少し、強くなるように、もっと頑張るから。…お願いが、あるんだけど」
「何?」
 美しくも痛ましい、真白の剣舞を思い出す。無理はするなと言ってやりたかった。それが言えないならせめて、真白の願うことを何でも叶えてやりたいと剣護は思った。
「……手、握ってても良い…?」
「―――――――良いよ」
 そう答えると、真白は目に見えて安心した顔になる。
(そんなことか)
「…お前、莫迦(ばか)だな」
「どうして?」
 反発するでもなく、真白が不思議そうな顔をする。
「………良いんだよ。寝ろ」
 ベッドの傍らにどっかりと座り込み、剣護はタオルケットの中から差し出された白い手を握った。
 自分に比べるとあまりに頼りない、華奢(きゃしゃ)な手。どうかすると、すぐに折れるのではないかと心配になる。
(―――――何でだろうな。お前ばかり…こんな、小さな手で)
この手が、雪華を握らずに済む未来を、剣護は願った。
(乗り切れよ、真白。その為なら、何だってしてやるから)
 心の声が聴こえたかのように、真白が子供のように澄んだ瞳で剣護を見上げてきた。
 若雪だったころから彼女は、時々、そんな目を見せた。余りに透き通ったその眼差(まなざ)しに、剣護は理由も無く不安を覚える。
 妹が遠くに行ってしまうような、錯覚(さっかく)に陥(おちい)るのだ。
握った手に縋(すが)っているのは、果たしてどちらだろうか―――――――――。
 一度、二度、と瞬(まばた)きしたあと、真白の淡い色の唇が小さく動く。
「ごめんね…」
「何を謝ってんだよ」
「うん…。ごめん」
 言葉と一緒に、細い手が剣護の大きな手をキュッと握り締めた。
(…珍しいな。こういう甘え方をするなんて。―――――――いや、そうじゃない―――――――こいつ―――――――)
 真白は〝生きている兄の手〟を握って安心したいのだ。
冷たく固まった手ではなく、温かく、脈打つ手を。
そうでもしないと、正邦の出現によって再び胸に浮上した、兄を失うのではないか、という不安を拭(ぬぐ)えない――――――。
〝俺ら、死なんようにしましょうね〟
 荒太の言葉が蘇る。
(死なない覚悟と、……殺す覚悟か………)
 それが、今の自分たちに最低限必要とされる条件だった。
 剣護は真白の手を握る手に、柔らかく力を籠めた。

 剣護はその日、学校が終わると、風見鶏(かざみどり)の館(やかた)に直行した。
 荒太は昨日、制服姿のままで風見鶏の館や真白の家まで動いたので、幾つかの教材(きょうざい)を他のクラスで借りれば無難(ぶなん)に授業を遣り過ごすことが出来た。但(ただ)し、授業中の大半は寝ていたので、教師の不興(ふきょう)は買う結果になった。剣護と違い、今日は市枝を家まで送り届けたら帰って寝る、と宣言していた。
 実際、荒太には体力の充電が必要だった。
「ええ、真白、今日は来られないの?」
 相変わらず、アトリエ然としたリビングで待ち構えていた舞香は、当然落胆(らくたん)した。つまらないわとこぼし、がっくりと肩を落とす。右手には早くも鉛筆が握られていた。イーゼルには白いキャンパスが立てかけられ、その向こうには木製でビロード張りの、座り心地の良さそうな丸椅子が置いてある。真白をモデルに描く為に準備万端(じゅんびばんたん)、諸事整えられた様子を見ると、剣護も恐縮(きょうしゅく)するものがあった。
「ちょっと熱を出してしまって。元々、あいつはあんまり丈夫(じょうぶ)じゃないもんだから…。すみません」
 剣護が申し訳なさそうに言うと、逆に舞香の目は光った。
「――――――あの子、やっぱり病弱(びょうじゃく)なの?」
「…はあ、まあ」
「素敵………」
「はい?」
 うっとりとした声で響いた言葉に、聞き間違えただろうか、と剣護が訊き返す。
「色白で、病弱で、細くて、儚げで、美形。素晴らしいわ。私の思い描く、理想の少女像そのもの…。大正のジャパーン。ああ、サナトリウムが見えてくる……っ」
「すんません、ほんまにすんません。姉さんに悪気は無いんです。ただちょっと好みが偏(かたよ)ってて、自分に正直過ぎるだけなんです」
 要が必死になって姉を弁護し、謝る。
「はあ………」
 マニアックな御趣味ですね、と言おうとして剣護は止める。
 世の中には色んな人間がいるものだ。

 二階で寝ていた怜は、剣護が一人で来たと見ただけで、異変を察した。
「真白に何かあったの、太郎兄?」
 傷の痛みを堪(こら)える顔で、半身を起こして聞いてくる。目が険(けわ)しい。
(…全く、兄妹揃って敏感(びんかん)でいやがる)
 それは剣護にも言えることで、また、前生での経緯(けいい)を考えれば無理も無かった。
 いつも心のどこかで、再度の別離(べつり)を懸念(けねん)している。
「――――――ちょっとな。お前はどうなんだ、熱は?傷の具合は?」
「今日は、少しだるいだけだよ。傷も悪化はしてない。それで、何があったの?」
 怜にしては性急(せいきゅう)な口調だった。
 剣護は、ちらりと窓際に立つ遥を見る。
「僕、お腹空いたんで、下でおやつでも貰(もら)って来ますねー」
 さすがに察しは良いらしく、遥はそう言って部屋を出て行った。
「―――――――山田正邦に、会った」
 剣護の言葉に、怜が身じろぎした。秀麗な面持ちに張り詰めた空気が漂う。
「…どういう状況で?」
「昨日、ここからの帰りの電車内で、あいつ、空間を切り離しやがった。真白が一人で、あいつと対峙(たいじ)する羽目になって。多分最初から、しろに狙(ねら)いを絞(しぼ)って衝撃を与えるつもりだったんだ。――――――正邦は、妻を自分の手で斬り、娘を病で失い、自らは狂い死にしていた。そしてその全てを若雪のせいと押し付け、若雪を逆恨みしてたんだ。真白のことも、それに連なる俺たちのことも。……憎くて仕方がないって様子だったよ」
 怜の瞳に動揺(どうよう)が走ったのは最初だけだった。
 今はもう、冷静に思考する顔つきだ。
「じゃあ、やっぱり呪詛(じゅそ)も?」
「ああ、あいつの仕業(しわざ)だった。真白に、どうして自分をひと思いに殺さなかったのかと言って、責めていた」
 ざわっ、と怜の身体から怒気(どき)が立ち上(のぼ)る。
「―――――――勝手なことを!」
 剣護が深く頷いた。
「そうだ、身勝手だ。真白も、そう言っていた。口ではな。理屈では真白だって正否(せいひ)の判断はついてる。――――――ただ、今はまだ気持ちがついていかないんだ。あいつは、今生ではまだ、十六歳の女の子だ。揺らがないほうがおかしいんだよ。今は熱を出して寝込んでる。…秋山の時よりひどい」
「…可哀(かわい)そうに」
 怜がポツリと呟く。普段はあまり感情が出ない面に、憂いが表れていた。
「うん。今もきっと、心の中じゃ戦ってる。正邦の言い分だけじゃない、過去の記憶とも」
 怜が、少し黙ったあとに言った。
「…太郎兄が羨(うらや)ましいよ」
「――――何で」
「真白に何かあれば、すぐ飛んで行ける間柄(あいだがら)で、距離だ。―――――俺には出来ない」
 怜がそんな弱音を吐くのは珍しい。同時にそれは、剣護の罪悪感をも刺激した。
自分だけが真白の傍に生まれつき、共に育って来られたことを、剣護はずっと負い目に感じていた。
(俺は何でも耐えられたんだ、次郎。お前と違って、真白が傍にいたから―――――)
 覚醒時(かくせいじ)の混乱と苦しみも、遣(や)り過(す)ごすことが出来た。
 寝ると悪夢にうなされノイローゼに陥(おちい)った幼い剣護は、もっと幼かった真白を抱き締めて幾晩も眠りに就いた。腕の中の妹の温もりが、前生における悲惨な最期(さいご)の記憶で、押し潰(つぶ)されそうな彼を救った。
(お前にはその温もりすら与えられなかった…)
 皮肉なことに、誰より前生を思う怜が、兄妹の中で最も孤独な環境にいたのだ。
 いつも真(ま)っ直(す)ぐに前だけを見つめる緑の瞳が、下を向く。
「……すまない、次郎。お前を、長いこと独りにしちまった。俺が、早くお前を見つけてやるべきだったんだ」
 後悔の滲(にじ)む声に、怜が苦笑する。
「莫迦(ばか)だな、太郎兄。今のはただの、俺の愚痴(ぐち)だ。―――――太郎兄は、何も悪くないよ。それぐらい、俺にも解ってる」
「……お前だって、俺の大事な弟なんだ」
「解ってるよ。でも俺は男だし、大丈夫だ。太郎兄は早く帰って、真白についててやってよ」
 笑顔で言い切る怜を見た。
(平気そうな顔で笑いやがって……)
本当は、自分がついててやりたいんだろう。
 剣護はそう言いたかった。遣(や)る瀬無(せな)い思いだった。
「太郎兄」
 帰ろうとした剣護に、怜が声をかける。
「―――…あの子を、守ってくれよ。俺が羨ましいと思うぶんも含めて。悔しいけど、今の俺は動けないから。……頼むよ」
 怜の瞳は真剣だった。剣護もそれに真顔で答える。
「俺に出来る限りはするさ。言われなくても。ただ……参るのが、真白は真白で俺たちを守ろうと意気込んでるところだよな。あいつは、何でああなんだろうな。実際、そうするだけの力を持ってるのが余計に厄介(やっかい)と言うか」
 自分では守れないと悔し泣きした嘗(かつ)ての次郎の思いが、今なら少し解る気がした。
 そこでちょっと語調を変えて、剣護は続ける。
「――――――でもな次郎、お前にだって力は備わってるんだ。加えて賢い頭脳もついてる。俺だけに委(ゆだ)ねてないで、自分で守れよ。……早々(はやばや)と、諦めてんじゃねえよ」
 怜は真顔できっぱりと答えた。
「もちろん、それはそのつもりだよ。俺だってまだ、成瀬に今のポジションを譲る気は無いからね。――――――その為にも、まずはとっとと戦線復帰(せんせんふっき)しないと」
 形の良い唇に、力強い笑みが浮かんだ。

「真白さん、ほんまに大丈夫ですか?」
 剣護の帰り際、要が尋ねてきた。
 夕暮れの陽が差し込んで、西側の窓に立てかけられたステンドグラスが、床やイーゼルに鮮やかな色を投げかけている。その中に立つ要は、宗教画に描かれた聖人像のようだった。
 軽く顰(ひそ)められた眉の下にある黄緑の目には、真白を気遣う思いが宿っている。
 彼の物腰の柔らかさと、こちらを純粋に思(おも)い遣(や)る態度に、剣護は実際に何があったのか、全て話してしまいたい気分になった。
「……はい、少し寝たら復活すると思います。そしたらまた、こちらにお邪魔させてもらうんで。相手してやってください」
 要にはもう十分世話になっている。これ以上甘えるべきではないと、剣護は自戒(じかい)した。

 真白の家の玄関前に立つ市枝は、焦(あせ)りと苛立(いらだ)ちに駆(か)られていた。
 夏至(げし)をとうに過ぎたとは言え、陽が落ちるのが遅い季節である。
 頭上にある空はまだまだ青く、市枝の足元にも濃い影が出来ていた。
(蝉(せみ)がうるさい…。うっとうしいったらないわ。少しは鳴き止めば良いのに。暑いし)
 庭に植えてある桜の樹が、今は青々とした葉を茂らせているのが見える。
 この季節は、いつもなら帰宅してすぐにシャワーを浴びるところだが、今はそれどころではない。長い髪が覆う、首にかいた汗の不快感も無視する。
(真白。また寝込むなんて――――――)
 労咳(ろうがい)に伏せる若雪の姿が、嫌になる程鮮やかに、脳裏に蘇る。
(――――――しっかりしないと。肺結核(はいけっかく)なんて、現代の医学があれば高い確率で治る。そもそもは、ただの風邪だろうし―――――――)
 逸(はや)る気持ちを抑えてチャイムを鳴らそうとしたところ、その直前に玄関の戸が開いた。
 慌てて、手を引っ込める。
「じゃあ、僕はこれで」
「はい、どうもありがとうございました。奥様によろしくお伝えください」
 長身の男性が、中から出て来た。市枝にぶつかりそうになり、危うく避ける。
「おっと…。ごめんね」
「いえ、こちらこそ」
 双方(そうほう)で、一瞬場所を譲り合った。
「あら、市枝ちゃん?来てくれたの?」
 真白の祖母の言葉に、男が市枝の顔を見る。
「―――――真白ちゃんの、お友達かな?」
 にこりと笑う。翳(かげ)りが全く無い、さらっとした笑顔が印象的だ。
「はい」
「そう」
 男は笑顔のまま頷くと、向かいの家に入って行った。
「お久しぶりね、市枝ちゃん。ますます美人になっちゃって」
 市枝を玄関先で出迎えた真白の祖母は、にこやかに言った。傍らに置かれた紙袋からは、粒の大きな葡萄(ぶどう)が顔を覗(のぞ)かせている。
 市枝は折り目正しく頭を下げる。
「こんにちは、塔子さん。…今の人は」
「お向かいの、坂江崎(さかえざき)さんとこのご主人よ。奥様のご実家が葡萄を作ってらっしゃるの。今日は早めにお仕事が終わって、おすそわけを奥様から言付(ことづ)かってらしたんですって」
(坂江崎さん…。碧君の―――三郎の、今のお父さんか。爽(さわ)やかな感じだったな。いかにも体育会系な)
 一呼吸置いてから尋ねる。
「―――――あの、真白の具合はどうですか?」
 一日中、この質問だけが頭を占めていたのだ。
市枝の言葉に、祖母の眉尻は下がる。同時に落とされる、溜め息。
「…昨日から熱が下がらないわ。何か悩み事があって、横になっててもあまり眠れないみたいで…私たちも心配してるの。さ、とにかく上がってちょうだい?」
「はい。お邪魔します」

 少しだけ冷やしたスポーツドリンクのコップを盆に載せ、真白の祖母は市枝を伴って真白の部屋の前まで来た。軽くノックする。
「真白ちゃん?市枝ちゃんが、お見舞いに来てくれたわよ」
 返事はない。
 そっと戸を開けると、ベッドに横たわった真白の目は、閉じられていた。
 それを見た市枝は、真白の祖母から盆を受け取り、あとは自分が引き受ける、と目線で伝えた。
 祖母が階下に向かうと同時に部屋に入り、小テーブルに盆を載せる。
「………真白?」
 静かな呼びかけに、返事は無い。
 白い顔の額には、細かな汗がうっすらと浮いている。
 そんな顔であっても、一目見ると少なからず落ち着くものはあった。闇雲(やみくも)な心配に、歯止めがかかる。
 市枝は空調のリモコンを見つけると、窓を閉めて冷房の弱のスイッチを押した。
 安らかとは言えない、寝顔を縁(ふち)どる髪を見る。
(――――相変わらず、髪の毛サラサラ……。若雪より、色が薄いけど)
 若雪の髪は、見事に黒々としていた。対して真白の髪は、従兄弟である剣護と同様、栗色よりは深い焦げ茶、ダークブラウンだ。
〝そなたの髪は、梳(くしけず)りやすそうで良いの、若雪〟
〝そうですか?〟
 何気に言った市の言葉に、あまり考えたことも無かった、と言う顔で若雪が答えた。
 若雪は、真白以上に自分の容姿に無頓着(むとんちゃく)だった。
 市は若雪のそうした性分(しょうぶん)を、呆れながらも好ましく見ていた。
(………そんな時も、あった)
 夢物語のように過ぎた日々も。
 ハンカチで真白の額の汗を、柔らかく拭(ぬぐ)う。
 同時に、真白の身体がビクンッと跳ねるように動き、市枝もギョッとする。
「―――――真白…?」
 恐る恐る名を呼ぶと、真白が目を開けた。
「市枝…あれ…?どうして……門限が、」
「――――今日は、真白に勉強の個人指導してもらう、って言って来てるから大丈夫よ。あと、塔子さんにはもう許可貰ったけど、今晩、泊まってくから」
 見れば市枝は学生鞄の他に、花柄のボストンバッグを横に置いている。
「え―――――、でも私、教えてあげられる状態じゃないよ…?」
 真白は本気で困惑している。
 市枝の顔が、もどかしそうに歪(ゆが)んだ。
「口実(こうじつ)に決まってるでしょ、そんなの!―――――何で、こんなにボロボロになってんのよ、真白。成瀬や剣護先輩は何してたのよ……!江藤も江藤だわ、心配かけて。男共が、こんなに頼りにならないなんてっ」
 市枝の目尻(めじり)に光るものを見て、真白は驚いた。
「市枝―――――――」
 市枝が自分の額に手を遣る。
「ああ、もう、情けない。―――――――自分が一番情けないわ。真白の為になることが、全然出来てない。今生こそは、一緒に生きるって決めたのに」
 そう言って、ボフッと真白にかけられたタオルケットに顔を埋(うず)めた。
 真白がおろおろしながら身を起こす。
「……そんなこと言わないで。市枝らしくないよ。ちゃんと、市枝にも助けてもらってるよ。…若雪には姉はいなかったけど、私は市枝のこと、お姉さんみたいに頼もしい友達だって思ってるもの――――――。……私は市枝だって、守りたいんだよ」
 市枝の長い髪を、覚束(おぼつか)ない手つきで撫(な)でながら、真白がたどたどしく言う。
「…真白の莫迦(ばか)」
 タオルケットに顔を埋めたまま、市枝のくぐもった声が響く。
「え、何で!」
 市枝がガバリと身を起こす。金茶の髪が、ふわりと舞い上がる。
「良いわよ、じゃあ守りなさいよ、守ってもらおうじゃないの!!だからもっとふてぶてしく元気でいなさいよ。考え過ぎなのよ、悩み過ぎなのよ。もっと楽に生きなさいよ、面白可笑しく!良いじゃない、前生では散々苦労したんだから、そのくらい。世間の女子高生は、毎日もっと笑って過ごしてるわよっ。今の真白って歯痒(はがゆ)いし、心配だし、見てるほうは堪(たま)んないわ。……勉強も手につかないし」
 一息にそう言って、再びタオルケットにボスンと顔を埋めた。
「――――――ごめんなさい」
 真白は心底謝ったが、一言付け加えるのも忘れなかった。
「…でも、最後のは私のせいじゃないでしょ。前からでしょ」
 ガバリと市枝が再び身を起こす。
「それくらい、大目に見てよ。石頭!」
 華のある美人の怒り顔は迫力がある。猫科動物が威嚇(いかく)する時の顔にも似ていて、真白は首を竦(すく)めた。
「…ご、ごめん。ねえ、でも市枝、学校から一人で家まで来たの?危ないよ。次郎兄のことがあったすぐあとなのに」
 この上、市枝にまで何かあってはと思い、真白は必死になって声を出した。
 それに対して市枝は、全く問題無い、という表情を見せる。
「兄上に頼み込んで送ってもらったから、大丈夫よ。成瀬も疲れてるみたいだったから、願ったり叶ったり、って顔して飛んで家に帰ってたわよ。解りやすい奴」
「織田様を足に使ったの!?」
 驚きに声を上げる真白に、市枝が眉を寄せる。
「人聞きの悪い…。ちょーっと真白の家まで送って~ってお願いしただけよ」
「………タクシーで?」
「うん」
 無邪気に頷く友人を、真白は空恐(そらおそ)ろしい思いで見つめた。
 つい熱のある頭の中で、メーター幾らとして、と換算(かんさん)しそうになり止める。触らずにいたほうが良い物事が、世の中にはある。
(新庄先輩って、市枝には甘いというか、ちょろいんだろうか…。確かに前生からそういう傾向はあったけど…)
 竜軌は――――信長は、良くも悪しくも大器(たいき)ではあった。奔放(ほんぽう)で、捉(とら)えどころが無く、激しい。――――――孤独な人だった。それを顧みない強さを持ち合わせてもいたが。彼でも兄馬鹿ということがあるのだろうか、という疑惑を抱いた時、ズキン、と頭が痛んだ。
「…………」
 気が緩むと、すぐに頭痛がぶり返す。
 こめかみに手を当てて目を閉じた真白に、市枝が心配そうな顔になる。
「――――きつい?……ごめん。病人相手に、喚(わめ)き過ぎたわね。喉(のど)、乾いてない?飲み物あるわよ。お向かいの坂江崎さん、の、旦那さんのほうから、塔子さんが葡萄をいただいてたから、頼んで貰(もら)って来ようか?」
 差し出されたコップから、ちょびちょびと舐(な)めるように、真白は水分を摂取(せっしゅ)した。
「そっか…。碧君のお父さんが」
 熱に潤(うる)んだ瞳でぼんやりと言う。
「あの人、落ち着いた大人の男性って感じで、良いわよね」
「……既婚者(きこんしゃ)だからね?」
「解ってるわよ、そのくらい」
「…頭、熱い…」
 ぼう、とした表情で真白が呟(つぶや)く。そうでしょうとも、と市枝が頷いた。
「お薬飲んで、そのまま寝ちゃいなさいよ。まだ熱があるんだから。――――ほら、小太郎もいるし」
 市枝の指差す先、枕元にちょこんと座るテディベアを真白は見る。
 それから、壁にかかった、飛翔(ひしょう)する鷹の写真の入った額を見た。
 普段はそれで和む心が、今は固く硬直(こうちょく)している。
「――――寝たら、嫌な夢、見るから……」
 あまり眠りたくないの、と真白が顔を顰(しか)める。
「そんなこと――――――」
 言ってる場合じゃない、と言いかけたが、夢の内容の切実さを知る為に、言葉は半ばで途切れた。
「………市枝?」
「…変よね、真白。私たち皆、また逢いたくて、一緒に時を過ごしたくて…転生を望んだ筈なのに――――――失くすことばかり、怖がってる。変よ」
「市枝、怖いの?」
「怖いわ」
「……でも若雪は、お市の方を置いては逝かなかったよ。…置いてけぼりにされたのは、若雪のほうだった…。あなたが、自害したと聞いた時の気持ちは、今でも忘れない」
 最後のほうの声は、微かに震えた。
〝小谷(おだに)の方様は御夫君共々(ごふくんともども)、御自害なされた由(よし)にございます〟
 嵐下七忍(らんかしちにん)の一人、黒羽森(くろうもり)が低い声でそう告げた時、若雪は表情を変えることなく、何も言わなかったが、それが嘆きの浅さを表わしている訳ではなかった。
「――――――…」
市枝は返す言葉が出ずに、口を閉ざした。
 半ば熱に浮かされて紡(つむ)がれる、決して責める口調ではない声が、市枝の胸に大きく、重く響いた。共に過ごした日々を夢物語と感じたのは、自分だけではなかったと悟る。
(楽しかったのよ、真白――――――。若雪と他愛(たあい)ないお喋(しゃべ)りをする時間が、私にとってもかけがえのない安らぎだった。…陽だまりみたいな、時だった)
 自分たちはそんなささやかな幸福に焦(こ)がれて、生まれ変わりを繰り返すのかもしれない。何度も何度も、たったそれだけのものが欲しくて、忘れられなくて、懸命に手を伸ばす―――――――――。
 不意に泣きそうになる気持ちを強(し)いて堪(こら)え、タオルケットを掴(つか)む手に力を入れた。
「―――……幾らでも、あとで聞くわ。恨み言なら。だから、お願いだから今は寝てちょうだい、真白…」
「……―――――無理だよ。私だって、怖いもの―――――。失くす夢を見るのは」
 真白は頑(かたく)なだった。
(…駄目。私じゃ真白を安心させてやれない。若雪の兄弟と違って、市は自分で死を選んでしまったから――――――肝心なところで、信用されない。自分の取った行動が、今になって跳ね返って来るなんて)
 いつまでも眠りが足りないままでは、治るものも治らない。
(どうしよう。このまま、どんどん症状が悪化したら―――――――)
 市枝はその可能性を考え、ヒヤリとした。
「…花守って、こんな時、来ない訳!?役に立たないんだから!」
 不安に耐えかねた市枝が八つ当たり混じりの声を上げると、それを見計らったかのように、ふわりと部屋の空気が揺れた。甘い香りが漂う。
「―――――――心外ですわね」
 若草色の、ふわふわとした髪。微かにグレーがかった薄い水色の開襟(かいきん)シャツに、揺れる濃紺のフレアースカートを穿(は)いた美女は、蜜のように甘い声で一言不満を述べると、市枝を軽く睨(にら)んだ。

白い現 第五章 憧憬 一

白い現 第五章 憧憬 一

山田正邦の出現により、動揺を隠せない真白。再び寝込むことになった彼女を周囲は心配するが――――――――。作品画像は以前アップしたもののブレスレットバージョンです。ザクロの実。 私の泣いた世界を 明るく照らした あなただったから ずっと一緒に 歩きたかった

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-11-08

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted