芳醇な血

芳醇な血

芳醇な血

 雪を見ると無性に赤ワインが飲みたくなるのは、私にとって随分と昔からの癖というか、生活そのもののようなもので。

 赤ワインなんて普段滅多に口にしないのに、そういう時ばかりは、その深紅の色に完全に心を持っていかれちゃったりするのは、とても不思議な感覚だった。

   *

 大雪になるという予報を一週間前に見た。
 東京にいる私にとって雪はそれこそ珍しいという事もないけど、それでも少し心が浮く。日を追う毎に雪の確率が上がり、私の気持ちも日を追う毎に上がっていった。

 私はその予報の前日にスーパーマーケットで赤ワインを買った。四千円、そのスーパーマーケットで並ぶワインの中では高い物で、別に私はワイン通でもなんでもないからそれこそ何でもよかったのだけれど、予報で「数年ぶりの大雪」と言った天気予報士の言葉を思い浮かべていると、自然と少しだけ割高なワインに手が伸びたのだった。

 家に帰り、ワインを置いた。シャワーを浴び、外の方へ目を向けてみてもまだ雪は降っていない。
 明け方から降るという予報なのだ、当たり前だろう。

 明日、朝目が覚めた時に広がる真っ白な世界を思い浮かべてみると、やはり私の心は踊りだしてしまう。きっと、この日本にだって雪で苦労している人はたくさんいるに違いない。雪によって命を落としてしまう人だっている。そういった人たちに対してはとても申し訳ない気持ちになるけれど、それでも、私は白銀の世界が待ち遠しい。

 そんな世界を思い浮かべながら床に就いたのは、深夜一時を回った頃だった。雪はまだ降っていない。ゆっくりと目を閉じて、私はいつの間にか眠りの底へと引き込まれていた。

 朝、窓の外には一面が白く染まった、いつもと同じ風景が広がっていた。絶え間なく降り続ける雪が私の心を穏やかに揺らしている。枯れた枝にバランスよく乗っかった雪、窓の淵にこんもりと丸みを帯びた雪、いくつかの足跡が残る道路の雪。その上に、限りなく降り続ける雪。

 真っ白一面に広がる大きな空から、突然現れる、細かく可憐な雪の粒。少し風が吹けば、屋根の上に積もった白い粉が舞い上がり、空気を白く染めた。

 熱いシャワーを浴びて、一つしかないワイングラスに昨日買ったばかりのワインを注いだ。とくとくと音をたてながら、注ぎ込まれた深紅の色が私の心を労り、優しくしてくれる。

 窓の外を眺めながら、一口飲むと、芳醇な苦みが口の中に広がった。ゆっくりと体の中を流れる感覚を味わってから、もう一度、グラスを口へと運んだ。舌の上を転がる苦みが少し涙を誘い、静かに体の奥深くへと流れ込んでいった。


 もう、忘れたと思っていた。そんな風にふと思い出すくらいなのだから、一時は本当に忘れていたのかもしれない。
 でも今その思いは確実に私の中にふたたび生まれ、そして私を苛んでいる。一度芽を生んでしまえば、その思いに顔を背ける事なんてそう容易い事ではない。

 私はその傷に届くようにまた赤ワインを飲んだ。喉を通り抜けた液体が心の傷口にじんわりと浸透していく感覚が、目の前で降り続ける雪のように、いつの間にか儚く消えていった。

--

 私が初めて雪を見たのは小学校に上がったその年の冬だったと思う。校庭を白く染めようと一生懸命に降る雪も、結局は地面を覆ってしまう前に全てを諦めてしまうようなか弱い雪だった。空から降ってくるそれは、一番窓際の席に座っていた私にはよく見えて、隣に座っているクラスで一番の人気者の坂口君よりも魅力的に感じられた。

 黒板に書かれた字に興味が向かなくなったのはこの時が初めてだったと思うし、先生の言葉が私の耳に届かなくなったのもこの時が初めてだったと思う。私が窓から眺める、雪の降る真っ白な空はとても静かな世界で、それこそこの学校という日常の中に訪れた一種の脅威のようにも思えた。でも、幼い私はそれが何か悪いものではなく、とても良いもの、例えば天使のお迎えのような、高潔なものと感じ取ったのだ。

 そしてその中に浸るようにして、ずっと空から降り続ける雪を見ていた。

 「高倉?」と先生が私を呼ぶまで私はその中に籠っていて、先生の言葉で我に返り、驚いて教室を見渡すとクラスの皆が笑っていた。隣に座る坂口君もいつもの素晴らしい笑顔で私を笑っている。
 「三回も呼んだぞ」と先生が言うと、生徒達はまた笑った。少し恥ずかしい気持ちを隠しながら下を向いて、授業が再開されてからは、もう窓の外は見ていない。
 チャイムが鳴り、授業が終わった頃にもう一度外を見たその時には、雪は既に止んでいた。

   *

 春真(はるま)、という人に出会ったのは雪の降る夜だった。

「高倉さんは、どういう関係なんですか?」
まだ子供のような笑顔を向ける春真に、母性とでもいおうか、そんな感覚を抱いた事をよく憶えている。

 会社の後輩の絵美が結婚した。
 その式場で春真はずっと年上である私になんのなしに声を掛けてくる。もちろん、その時に何かしらの意味を伴った言葉だなんて思っていなかった。それはただ日常に行われる一つの些細な会話に過ぎないと思っていたけど、結局そうではなかったと後になって知ったのは「あの時から、僕は美鈴さんに興味があった」とベッドの上で裸のままの彼がそう言った時だった。
 薄暗い部屋で見る彼の背中は、まだ幼い子供のようにも見えて、私の心はまた少し痛くなった。


 私たちはその式場でいくつかの言葉を交わし、式が終われば共だって会場を出た。外には雪が降っていて、なぜこんな寒い時期に式なんて挙げるのだと絵美に対して少し嫌悪の念を持った。私はもう昔のように雪を愛する事ができそうにない。
「雪ですねー。僕名前が春真って言うんですけどね……季節の春に、真実の真で。なんだかそんな名前だから、春以外の季節がどうも居心地が悪いんです」
そう言って彼は照れるように笑った。
「ましてや雪なんか降られちゃうと、冬って感じを全面に押し付けられている感じがして、どうも苦手で……」
「それじゃ、生まれたのは春なのかしら?」
春真は少し笑ってから言った。
「いえ、二月なんです」
「え?でも春がつくの?」
「ええ。どうやらうちの両親が春が好きだったのと、予定日は四月だったみたいで、最初から名前は決まってたみたいなんですよ」
春真は頭を掻きながらそう言い終えると、言葉を続けた。
「春は始まりの季節だから、何事にもどんどんチャレンジして欲しいっていう意味もあるって言われた事あるんですけど、なんだか後付けにも感じられるんですよね。結局の所、どれが本当の理由かなんて分からないんですよ」
「全部が本当の理由なんじゃないの?」
「そうかもしれませんね。でも、全部を背負うのは僕には重すぎるんです」
雪を踏んだ靴がしゃりっと音をたてた。後ろには私と春真の足跡があてのないどこかから、今私たちのいるところまで続いていた。
「じゃあ、今月が誕生日なのに居心地が悪いの?なんだか可哀想ね」
私は冗談めかしてそう言った。まんざらでもないように彼が肩をすくめたので、すかさず私は言葉を続けた。
「でもね、私も雪はあまり好きじゃないのよ」
「そうなんですか?」
「うん。どうも苦手っていうか、見ててあまりいい気分にはならないの」
「北の方のご出身ですか?昔、雪で苦労していたとか?」
春真は探るように私の顔を覗き込んだ。彼の目が寒さのせいか少し濡れ、泣いているようにも見えた。
「いいえ。生まれは東京で、育ちもずっと東京」
「じゃあ……なんで」
「これと言う理由がある訳ではないのかもしれない……」
「昔からあまり好きじゃなかったんですか?」
「……あまり、憶えていないけど……そうかもしれないわね」
春真は何かを言いたげな顔を残したままだったけど、雪のたてるしゃりっという音の中で、その言いたげだった言葉は吸い込まれていった。私たちは無言のまま、駅まで歩いて行き、その場で別れた。

 別れ際に「また連絡してもいいですか?」と春真は自分よりずっと年上の私に尋ねた。私は静かに笑って、首を縦に振った。連絡先を交換して、春真が改札を通り抜け、人の波に呑み込まれていく後ろ姿を見送っていた。

――


 昔、雪(ゆき)という女の子がこの世に存在していたのは確かな事実なはずなのに、よくよく考えてみればそれは長過ぎる夢だったのかもしれないと感じる事がある。
 夢のように感じたと思えば、突然私の目の前に姿を現し、夢だと思っていたその雪のいる世界がまた夢であって、現実では小さな笑顔を振りまく雪がいるのではないかとも思ってしまう。
 そうして、ようやく私は雪のいない現実が確かな事実である事に気付き、気持ちを塞いだまま、意識のない涙がただ無情に頬を伝っている。

   *

 珍しくたくさんの雪が振ったその日、雪は三歳だった。彼女に雪という名を与えたのは私の意思で、父にあたるその人はそれに対して何も言わなかった。
「君は本当に雪が好きなんだな」
そう言っただけで、生まれたばかりのその女の子の名前はすぐさま雪に決まった。雪のように儚げで、弱い印象など突っぱねてしまう程に、彼女は元気に少しずつだけど成長した。とてもよく笑ったし、とてもよく泣いた。雪の流した涙は、それこそ不純物など一切含まれていない、透明で純粋な涙で、私はそれが愛おしくてしょうがなかった。
 また、雪の笑うその顔も、ただ純粋に嬉しい事だけに反応したそれだと分かっていたから、私は雪の笑顔を見る度に、これ以上ないくらいの幸福に包まれていた。
 三歳になった時、彼女にとって初めての雪が降って、朝目を覚ました時には、辺り一面が真っ白な見慣れない風景へと変貌を遂げていた。雪は絶え間なく降り続き、窓辺に立った雪が、とても不思議そうな顔のまま空を見上げている。
「ママ!ママ!」
興奮した雪を後ろから抱きしめ、私は自分の大好きな、その降り続ける雪の事を教えてあげた。
 そして、彼女の名前が雪になった事、その私の大好きな降り続ける雪と今抱きしめている私の大好きな娘が同じ名である事を説明した。彼女がそれら全てを理解していたのかどうかは分からないけど、
「雪もママが大好き!」
と言ってくれたその言葉で十分だった。
「お外に行こうか!」
私は雪にそう提案し、雪も
「行く!」
と元気に声を上げた。暖房の効いた暖かな部屋の中で、モコモコとしたダウンジャケットを雪に着せ、マフラーを巻いてあげた。ボンボンのついた真っ白な子供用のニット帽を被せてあげると、彼女は外に広がる白銀の世界へと早く飛び出してしまいたいとでも言うように、飛んだり跳ねたりしていた。
 私もベージュ色のダウンコートを羽織って、手を繋いだまま雪と外へ出ると、体中を痺れるような冷気が包み込んだ。彼女が私の手を強く握り返し、私も雪の手を強く握り返した。
 アパートの階段を注意しながら降りて、彼女は恐る恐る、初めてみるその真っ白な絨毯に足を踏み入れた。まだそれほど嵩のない雪の絨毯は、彼女の小さな足跡を残すばかりで、彼女を危険にさらす事はない。それを楽しいと判断した彼女は、私の手を離れ、雪の絨毯の上を駆け回った。涙など、彼女には存在していないのではないかと思うくらいの笑顔を振りまきながら、「ママー!」と楽しげに走り回る。
 
 私は彼女を優しく見守り、私の大好きな空から降る雪と、活発に走り回る雪とを感じ、私の望む事はもう何もないのではないかと感じていた。今この瞬間があれば、それこそこの先どうなってもいいのではないかとも思ってしまったのだ。

 それがいけなかったのだ。だから雪が死んでしまったのは私のせい。

――

 楽しそうに駆け回る雪を私は見失ってしまった。降る雪がさっきより少し強くなり、風も勢いをあげていた。
 彼女に「もうおうちに戻ろう」と言おうとした時には、彼女は私の確認できる所にはいなかった。きっと、はしゃぎながら、少し遠くへ行ってしまったに違いない。私はただ焦った。降り続ける雪の中で、笑顔のままはしゃいでいる雪を探した。

 雪は、すぐに見つける事ができた。本当にすぐ近くにいた。私たちの住むアパートのある路地から少し広い通りに出た、その場所で雪は倒れていた。路肩に乗用車が停まり、ハザードランプを焚いている。
 車は斜めに停まったままだった。私は自分の鼓動の早さについて行く事ができず、今にも心臓が口から飛び出してしまうのではないかと心配になるくらいに、真っ白な呼吸が繰り返された。

 遠目に見える彼女の倒れている雪の絨毯は、じんわりと赤く染まり、それは徐々に広がっていった。硬直していた自分に気付き、私は慌てて彼女の側に駆け寄り、彼女を抱いた。彼女の顔はとても奇麗なままで、その透明な肌も保たれたままだったけど、首は異様な方角を向き、頭からは大量に血液が溢れ出していた。私の着ていたベージュのダウンコートが一瞬にして赤く染まり、その場所に敷かれている絨毯も、とうに白である事なんて忘れていた。

 斜めに停められたままの乗用車から男性が慌てて降りてきて、
「きゅ、急に飛び出してきて……!雪で……全然止まれなくて……!」
男性は、ただそういった類いの事を繰り返し、繰り返し述べていた。私は小さな雪を抱いたまま、あてのない涙がひたすらに流れた。赤く染まった絨毯に落ち、その涙は一瞬にして、その中に溶け込んでしまっていた。

 雪の父だったその人とはそれから間もなくして別れた。別れる事になったきっかけ、それは雪の死に間違いはないけれど、別れを決定的なものにしたそれは、結局の所何だったのか分からない。
 雪を亡くしてから、私は生きる気力を失い、ただ呼吸を続けるだけの置物のようになった。一日中家に閉じこもり、口から言葉を発する事もなくなった。

 雪が降れば、震えたまま、部屋のもっと奥の方へ閉じこもった。その人はそんな私を案じ、いろいろと尽くしてくれていたけれど、私は彼に全く応える事がなかった。応える事ができなかった。彼は罪を自分の物と感じ、そして次第に彼自身も真っ暗な底の渦へ呑み込まれていったのだ。私たちはそれが最初から決まっていたかのように、離婚届に印をした。

酷く簡素に、簡潔に執り行われ、あっさりと私たち夫婦は別れ、個人の人へと戻ったのだ。
「……ごめん」
と最後に彼は言った。私は何も応える事ができなかった。

 結局私は何に対してこれまで塞ぎ込んでいるのか分からなかったし、事実、雪がもうこの世にいない事はどうしようもない現実だった。私は無言のまま、彼の前から去り、”もう一人の自分”として生きていこうと、小さな決心を胸に抱いていたのだ。

――

 一年。
 私はたった一年で別の人間を創り出す事が出来た。雪が死んだ日から一年後のある日に、また雪が降った。

 私は雪に対する恐怖で震える体を耐えながら外に出た。真っ黒なダウンコートを着ていた。降り始めたばかりの雪はコンクリートの地面に落ちては、すぐに姿を消す。すぐに止むだろうし、積もる事もなさそうな程、弱い雪だった。

 それでも、小さな木々に微かに積もる雪を見ると、私は一年前のあの日を思い出さずにはいられず、体は寒さとは違う別の事に大きく震えていた。そこにうずくまり、また意識せずとも涙は流れた。真っ赤に染まった、白であるはずの雪が私の脳裏によぎり、強い吐き気を感じていた。ふと、涙が止まったかと思うと、傘も差さずに家へ駆け出し、いつから家にあったのかも分からない赤ワインのボトルを開けた。それをグラスに注ぎ、体に流し込んだ。
 それこそ意識の上ではなく、本能的に、昔少なからず持っていた母という血が踊りだすように私はワインを体の中に流し込んでいた。彼女の、雪の血液を私の中で生かしてあげるように、私は何度も何度も流し込んだ。
 雪の全てを私の体に溶かしてしまうように、溢れる涙など無視したまま、私の喉は赤いアルコールでべったりと濡れた。そのまま、ベッドへと倒れ込み、深い、芳醇な眠りの中へ私自身が溶けだしていったのだ。

 目が覚めた時、私の気持ちは入れ替わっていた。雪は私の体の中で確かに生きていたし、これで永久に私と雪が離れてしまう事はなくなったのだった。雪を忘れた訳じゃない、むしろ、ずっと想っている事ができる。私が何か別の事を考えていようと、雪は確実に私の中で呼吸をしているのだから。

 雪が死んでしまってから、一年が過ぎていた。

   *

「私たち、このままじゃよくない」

そう春真に言った。彼はまだベッドの中で裸のまま薄いシーツにくるまっていて、私は薄手のロングシャツだけを纏って、二つのカップに暖かいコーヒーを入れた。

暖かな部屋とは対を成すように、外には雪が降っていて、窓はうっすらと曇ったままだった。雪が死んでから何年たったのだろう、と私の中にいる雪に問いかけた。雪は何も応えず、ただ笑っているだけだった。
「え、じゃあ結婚する?」
子供のような笑顔のまま、彼はそう言った。結婚。もう随分と私とは別の物のような気がする。一体結婚ってどういう物だっただろうか。
「無理よ。あなたと私じゃ二十歳も歳が離れてるのよ」
「そんな事ないさ。歳が離れた夫婦なんて今はもう当たり前だろ?」
彼の好意は純粋に嬉しかったけど、でも、その嬉しさを受け止める事がどうしてもできなかった。私は一人の女という前に、雪の母親なのだ。
「春真君は、今いくつだっけ?」
「今年二十四だよ」
「まだまだ、これからじゃない」
「これからかどうかは俺自身が判断するよ。それに結婚したら、人生が終わる訳じゃないだろう?」
彼の言う事はもちろん分かるし、反対する気もない。でも、やはり私は相手がたとえ同い年の春真であったとしても、そうはできないのだろう。
「そうじゃないのよ」
「分からないよ。だって俺は美鈴さんが好きなんだ、もうどうしようもないくらいに好きなんだ」
私に求められる資格なんてあるのだろうか。求められる事自体が既に罪のように感じてしまう。嬉しい、でも、悲しい。その二つの感情は常に私に同時に襲いかかってきた。
「いけないのよ。私たち……別れましょう」
私がそう言うと、部屋を静けさが覆った。カップに注がれたコーヒーから湯気が舞い、時折、シーツの擦れる音が静かに響いた。
「……嫌だよ」
やっとの思いで春真がそう言った。また、私には嬉しさと悲しさが同時に被さる。
「私ね……」
曇った窓を通して、外に降る雪を見ながら私は話し始めた。
「昔、子供がいたのよ」
知らなかった事実を知ったのだから当たり前かもしれないが、春真は驚きの表情を私に向けた。それでもその事実を呑み込んでしまおうと必死になっている様が伺える。そんな所も彼の可愛らしい一面だった。
「……それでも」
彼の弱い言葉が部屋に響いた。
「聞いて」
彼の言葉を制すように私は言葉を続けた。
「でもね、もう死んじゃったのよ。今日みたいな……雪の日だった。まだ三歳のその子に雪を見せてあげたかったから、一緒に外に出て遊んでいたの。そこで、目を離してしまったのよ、私は。一瞬だった、本当に一瞬の出来事だった。彼女は私の前から姿を消して、彼女を捜して大きな通りに出たら、そこで車に轢かれていたわ。もう血が辺り一面に広がって……即死だったみたい……」
春真は黙ったまま、私の話を聞いてくれた。だから私はまだ言葉を続ける事にした。
「一台の車が停まっててね、とても嫌な予感がしたの。見覚えのある車だったから……。少しして、車から一人の男性が降りてきたわ、その人は謝らなかった。ただひたすら飛び出したとか、雪で止まれなかったとか言ってたわ。もうその時の顔なんて思い出せないけれど……」
春真が消え入りそうな声で言った。
「そんな雪の日に車に乗るなんて間違ってる」
私は外の雪を眺めながら続けた。
「そうね……。でも、私が言ったのよね。チェーンも巻いたしきっと大丈夫よって。それにその人の職場は駅から少し遠い場所にあったし、その日車以外で職場に行く方法なんてなかったのよ」
彼は私が何を言っているのか分からないとでもいうように首を傾げた。
「その人ね、私の旦那だったの。彼が仕事に行くのを見送った後に、私と子供で外に遊びに出たの。そして、その人は外で遊ぶ私たちの子供を轢いてしまったのよ」
「そんな事……」
「信じられなかったわ。たくさんの事が信じられなかった。でも、事実なのよね、全て。全てが本当にあった出来事なのよ」
また部屋に静けさが顔を出した。私の中にいる雪も一言も喋らないまま、ただ静かに私の中で呼吸を繰り返していた。
「私は、もう子供も産めないし、産もうとも思えない。誰かと結婚する事もできない。もう、何もかもが怖いのよ。また繰り返されてしまうのではないかって思っちゃうのよ。それに、私にはもうかけがえのない一人の子供がいるの。ずっと私の中で生きてるの。私はただその子と一緒に生きて、ただその子の母親でいれればそれでいいの。他には何も望まないし、望んではいけない身なのよ……だから、ごめんね」
私はそう言って、部屋に散らばった自分の下着と服を身に着けた。春真はシーツにくるまったまま、何も言わずただ俯いている。身支度を整えて、部屋を出ようとした時に、
「……ありがとう」
と一言だけ置いていった。春真は俯いたままで、聞こえているのかいないのかも、私には分からなかった。

 外には冷気が充満し、私の体を震わせた。今はもう、純粋な寒さでの震えだった。
 私は私の中にいる雪を想いながら、春真の住むアパートの階段を下り、まだ誰の足跡もついていない真っ白な絨毯の上に、ただ一人分の足跡を残しながら、自分の帰る場所へと歩いていった。



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芳醇な血

芳醇な血

私は無性に赤ワインが飲みたくなる時がある。 その理由を私はまだ知らない。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-11-01

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