白い現 第四章 再会 三
ちょっとドタバタとしております。
第四章 再会 三
三
三人が打(う)ち解(と)けた雰囲気の中で紅茶を飲んでいると、玄関のドアが開く音がした。
「ただいまー。要、あの子の様子はどう?トマトホール缶が安くなってたから、買って来たわよ。ついでにスポーツドリンクとか、梨なんかも買ってみたわ」
元気な声で喋(しゃべ)りながら、リビングにドカドカと豪快(ごうかい)な足取りで入ってきたのは、大きくあちこちにカールした長い金髪に、豊満(ほうまん)な胸、そばかすの散った色白の顔の女性だった。Tシャツにジーンズというシンプルな格好だが、白いシャツには所々、絵の具で出来たような染(し)みがついている。
何気(なにげ)ない顔で彼女が、真白たちのほうに目を遣(や)った。
「あ、しもた」と、要が小さく呟(つぶや)く。
次の瞬間。
「きゃあああああああ」
女性が叫んだ。
何事(なにごと)、と思った剣護が、椅子(いす)から立ち、身構(みがま)える。
そんな彼には脇目(わきめ)もくれず、彼女は一直線に真白の目の前に迫(せま)った。
「かっわいいいいいいい!!何、この子。誰、この子!?肌、すべすべ、髪、サラサラ。やだ、睫(まつげ)長いわ!要、あんた、中々彼女を作らないと思ったら、こういうのが好みだったのね、このロリコン!でも、趣味は悪くないわよ!!むしろ、良いっ!ねえ、あなた、私の絵のモデルになってくれない!?」
「姉さん、ひとまず落ち着いて……」
息継(いきつ)ぎせず言い切った女性を前に、目が点になっていた真白は、その言葉で我に返った。
「…お姉さん?」
要が、やれやれ、という顔で紹介する。
「彼女は僕の姉で、柏木・クラーク・舞香(まいか)。聖ヨハネ大学院でステンドグラスと油絵を勉強してます。二人でルームシェアして暮らしてるんです。姉さん、彼女は門倉真白(かどくらましろ)さん。こちらがその従兄弟の門倉剣護(かどくらけんご)君(くん)。上で寝てる彼、江藤怜君(えとうりょうくん)て言うそうやねんけど、彼の、友人やそうや」
スーパーの袋を置いた舞香は弟の説明に、初めて剣護を見た。
おや、他にもいたの?、という顔をした彼女は、剣護を吟味(ぎんみ)するような目でジロジロと眺めた。そうして悲しげな顔をして、おもむろにふう、と息を吐く。
「…残念。ちょっと好みと違うわ。ハンサムだってことは認めるけど。ごめんなさいね。私は、上で寝てる…怜?や、この子…真白、みたいな、ジャパーンって感じの、繊細(せんさい)なタイプの美形が好きなのよ」
「いえ、どういたしまして」
剣護が変な受け答えをする。
(―――――テンションの高いお姉様だな)
〝ジャパーンって感じ〟とは何(なん)ぞや、とも思う。
「ステンドグラス…。じゃあ、あの立てかけてある作品なんかも、舞香さんが作られたんですか?」
真白が、リビングの窓辺に置かれたステンドグラスを指差した。
舞香がに、と笑う。見ていて気持ちの良くなるような笑みだった。
「ええ、そうよ。興味ある?ちょっと来てごらんなさいな」
舞香の手招(てまね)きに、真白が立ち上がる。
男性二人は、キッチンにポツンと置き去りにされた。
およそ一メートル程の高さの、長方形をしたそのステンドグラスは、光を受けてきらきらと輝いていた。
竹林の黄緑と若緑に、桜のピンクと白、ごく薄い紫。青く透き通った空を背景に、白い蝶が舞っている。
色彩(しきさい)の妙(みょう)に、真白は魅了(みりょう)された。初めて市枝の家を訪れた際、玄関扉に嵌(は)め込(こ)まれたステンドグラスの鮮やかな色使いに、見入(みい)ってしまった時のことを思い出す。
「これは、私が大学の卒業制作(そつぎょうせいさく)で作ったものよ。ステンドグラスなんだけど、全体に和を題材として取り入れてるわ。我ながら気に入ってるの」
「はい、とても綺麗……」
真白の素直な賛美(さんび)に、舞香は嬉しそうな顔をした。
「こんなのもあるわよ。取り寄せたガラスの、サンプルなんだけど」
そう言って舞香が近くの棚から、四角い小振りな段ボール箱を、重そうな手つきで取り出した。その箱を受け取った真白の細い腕に、思いの外(ほか)ズシリとした重みが加わる。
ナンバー1、と記載(きさい)されたシールが貼(は)ってあるその箱の中には、小さな正方形のガラス板がぎっしり詰まっていた。
「どうぞ、手に取って見て良いわよ。あ、でも、ちゃんと元の場所に戻してね。一応、並べる順番があるから」
真白は、中の一枚を手に取った。
その一枚は濃いミントグリーンで、表面が微かに波打(なみう)っている。
もう一枚、と手に取る。
次の一枚は蜂蜜(はちみつ)のような琥珀色(こはくいろ)で、表面はミントグリーンの一枚とは比較(ひかく)にならない程デコボコしている。
次の一枚、更にその次の一枚、と真白は取り出しては眺め、ガラスの多様(たよう)な美しさに見惚(みと)れていた。
舞香はそんな真白を見て微笑みながら、口を開いた。
「――――私はウィリアム・モリスに傾倒(けいとう)していてね。知ってるかしら?アーツ・アンド・クラフツ運動」
「ええと、確かイギリスで起こった、美術工芸運動(びじゅつこうげいうんどう)…」
イギリスで勤務する両親から、その名称(めいしょう)は聞いたことがあった。
「そうそう、十九世紀にね。ウィリアム・モリスは、その中心にいた人。思想家であり、政治活動家であり、詩人であり、デザイナーであり…、とにかく多方面(たほうめん)で活躍した人なんだけど、私が最も注目するのは、やっぱり芸術家としての彼だわ。特に彼の、モリス商会の仕事として、イギリスの各地に残っているステンドグラスの数々は、素晴らしい!私と要の母はイギリス人で、私たちも子供時代を向こうで過ごしたの。ウィリアム・モリス・ギャラリーや、美術館が所蔵する作品はもちろん、オール・セインツ教会の窓ガラスの作品なんかが、とりわけ私は好きだわ。彼の作品に感銘(かんめい)を受けて、今の学科を選んだと言っても過言(かごん)ではないわね」
長々と語る舞香自身の目も、まるで子供のように輝いていて、真白は圧倒(あっとう)された。
肺活量(はいかつりょう)もさることながら、何ともエネルギッシュな女性である。
(何と言うか――――すごく、情熱的。好きなんだなあ、本当に……。木臣と気が合いそう)
見ていて眩(まぶ)しいくらいのひたむきさだ。
舞香が視線を真白に戻した。
「良ければ今度、何か作ってみる?私で良いなら、時間のある時に教えるわよ」
「え…、私でも作れるんですか?」
「作れる、作れる。但(ただ)し、私の絵のモデルになることが条件」
舞香がにかっと笑って言った。
「……ええと、はい。私でよろしければ。放課後や、休日なら。良いかな、剣護?」
そう言って、完璧に置き去りにされていた従兄弟を振り向いた。
要は、大体この展開(てんかい)を予想していた顔だった。
「それは、真白の自由だ。…まあ必然的(ひつぜんてき)に、俺も付き添うことになるわけだけど」
剣護の言葉に、舞香が首を傾げる。
「何、あなた、真白の恋人?」
「いえ」
「じゃあ、あの怜って子が真白の恋人?」
「いや、それも違います」
ふうん?と舞香が、不思議そうな顔になった。
「すごく仲良さそうなのに」
「ああー、それはですね、家族みたいなもんです」
面倒(めんどう)になった剣護がいい加減(かげん)に答える。
「真白。放課後、市枝ちゃんを送ったあとで、荒太もこっちに来るって言ってる。良いか?」
荒太、と聞いて、真白がほんの少し頬を染めて頷いたのを見て、舞香が納得する。
「成る程。その子が真白の恋人か。やれやれ、今日は千客万来(せんきゃくばんらい)ね」
子供時代をイギリスで過ごしたと言う割には、舞香は日本語の語彙(ごい)が豊富(ほうふ)だ。
「いえ、恋人という訳では……」
「ありていに言えば元旦那(もとだんな)です」
剣護が、場を著(いちじる)しく混乱させる爆弾(ばくだん)を落とす。
「荒太」が、嵐の現在の名前と知らされている要は、紅茶を噴(ふ)き出(だ)しそうになるのを堪(こら)えた。
(間違うてへんけど―――――――)
「剣護おっ!!」
真っ赤な顔をした真白が、声を荒げた。
「あら、そうなの?」
「違います、違います!剣護は若い身空(みそら)で、最近ぼけてきてるんですっ!不憫(ふびん)な人なんですっ!!」
前生までカウントに入れれば、出産経験までありということになってしまう。
真白に殴られた頭をさすりながら、剣護が付け加えた。
「市枝ちゃんも来たがってたらしいんだが、期末試験まで門限(もんげん)が早めに設定(せってい)されちゃって、来ることが出来ないって嘆いてたとさ」
「ああ………」
中間試験の結果が悲惨(ひさん)なものだった市枝は、両親に相当絞(しぼ)られたとこぼしていた。
真白はそのあとも二階に上がり、眠る怜の傍を離れようとはしなかった。
剣護が様子を見に行った時には、真白は丸椅子にも座らず、直接床に座り込み、怜の眠るベッドの端に顔を埋(うず)めて寝ていた。すうすうと、安らかな寝息(ねいき)が聴こえる。緊張(きんちょう)の糸が切れたのだろう。目元は泣いたあとで腫(は)れている。
「……………」
それを見た剣護は、要に頼んでタオルケットをもう一枚借り、妹の肩にかけてやった。
昼食はトマトとウィンナー、ローズマリーを使ったパスタだった。
舞香がパスタを茹(ゆ)で始めるころを見計(みはか)らって、剣護は真白を起こしに行った。
二階の部屋のドアを軽くノックして開けると、真白はまだ眠り込んでいたが、怜の目は覚めていた。身体をベッドの上方(じょうほう)にずらし、枕の上に頭を起こした状態で、優しい手つきで眠る真白の髪を撫(な)でている。
「―――――太郎兄、目が怖いんだけど」
「うるせー、黙れ。真白、お前にずっとべったりじゃねーか。独占(どくせん)しやがって…。この、怪我(けが)の功名野郎(こうみょうやろう)め」
「男の嫉妬(しっと)かあ……」
そう言う怜は、楽しそうだった。
それから剣護は、要との話の内容を手短かにまとめて伝えると、昼食をとらせるべく、真白を起こして一階に降りて行った。
舞香の作ったパスタは美味だった。
(美味しい…。これなら、次郎兄も食欲出るかも)
「舞香さん、このパスタ、とっても美味しいです。じろ…、江藤君にも食べてもらって良いですか?」
「ふふ、ありがと。たくさん作ったから、良いわよう。梨と一緒に、持って行ってあげると良いわ。それにしても甲斐甲斐(かいがい)しいわねえ、真白。本当に恋人同士みたい」
「はははは。舞香さん、そういう事実は一切ありませんから。ええ、もう、欠片(かけら)も」
乾いた声で笑う剣護を横目で見遣(みや)り、舞香は微妙な顔をした。
「…良く解らないわ、あなたたちって」
昼食後は、梨を剣護と真白のどちらが剝(む)くかで揉(も)めた。
「私が剝くから剣護は黙って見てて!」
キリリとした表情も勇(いさ)ましく言う真白に対して、剣護の声はどこか悲鳴じみていた。
「無理だって!お前に任せたら、もれなく喰える実の部分が半減(はんげん)するっつー、不思議現象(ふしぎげんしょう)が起きるだろうが。梨さんが可哀(かわい)そう!これが黙って見てられるかっ」
真白が皮を剝こうと試みた果実(かじつ)が、皮ばかりか実の部分まで、ごっそり削(けず)り取られた悲惨(ひさん)な有り様になるまでの過程(かてい)を、剣護はこれまでに何度も目撃(もくげき)してきた。ここは兄としての踏(ふ)ん張(ば)りどころと譲(ゆず)らず、真白の手から梨をもぎ取る。
真白は拗(す)ねた。椅子(いす)の背もたれにしがみついて、私だってやれば出来るのに…、とぶつぶつ言いながら、剣護が手際良(てぎわよ)く梨を剝いて、六等分に切るのを横目で見ていた。
「拗ねた真白もかわいいいいっ」と叫ぶ舞香に、要はただ沈黙(ちんもく)を守る。
「こら、真白、待て。一人でさっさと行くな。俺も行く」
六切れに切った梨と、パスタを盛った皿をトレイに載(の)せ、真白はまだ少しふくれた顔で二階までの階段を上がり、剣護もそれに続いた。
梨のほうは横になったまま、六切れ全て軽く平(たい)らげた怜だったが、パスタの皿を前にしては、戸惑(とまど)う表情を見せた。
「…気持ちは嬉しいけど、ちょっとまだ起き上がれないから、これを食べるのは無理だよ」
頭を起こすのがせいぜいである。
(それに、オリーブ油の匂いが、今はきつい――――――)
まだ熱がある怜がそう思っていた時、真白が決然(けつぜん)と言った。
「じゃあ、私が次郎兄の口元まで、パスタを運ぶよ」
梨で活躍(かつやく)し損(そこ)ねたぶんを、名誉挽回(めいよばんかい)するのだという並々ならぬ思いが、そこにはあった。
真白の発言後、部屋がしん、と静まり返った。
静かになった室内に、蝉の鳴く声がやたら大きく響く。
何も言わない怜の顔が、少し赤くなっている。
「―――――いや…いや待て、早まるな、真白。それは俺がやる」
狼狽(うろた)えた様子の剣護が早口で言う。
「え、どうして?……早まるな、ってどういうこと」
今度は怜の表情に、「男に食べさせてもらうなんて」という苦情(くじょう)がありありと浮かんだ。
「良いよ、私がやる。剣護は、下に戻ってて。次郎兄、食べられるだけで良いからね。無理はしないで。―――――はい」
そう言って差し出された、パスタのからまったフォークを、怜はパクリと口に入れた。
「………」
モグモグと口を動かし、嚥下(えんか)するとしばし沈黙する。
「どうしたの、次郎兄。…きつい?」
「ううん。今、生きてることの幸せを噛み締めてる。…俺、可愛(かわい)い妹がいて良かった」
微(かす)かに赤い顔で、怜が言った。
(成瀬が見たら憤死(ふんし)するかもな)
「――――次郎。お前、絶対今度、荒太と一緒にイジワルしてやるからな。覚えてろよ」
剣護の大人気(おとなげ)ない宣言(せんげん)に、怜が呆れた目を向ける。
実際に、そういう構図(こうず)が容易(ようい)に思い浮かんでしまうところが、何とも言えない。
「……その組み合わせは面倒臭(めんどうくさ)くて嫌だな」
「うるさい、ばーか。このばーか」
「剣護、もう。子供じゃないんだから。次郎兄を苛(いじ)めちゃ駄目だよ。はい、次郎兄、もう一口」
パスタを怜の口に運ぶ真白は、至って真剣な顔だ。その目に、不意にじわっと滲(にじ)むものを見て、怜も剣護も驚いた。
「…真白」
真白も、すぐに気付いて自分の目元(めもと)を押さえる。
「あ…、何か、ホッとしちゃって。次郎兄、無事で本当に良かったなーって。今更(いまさら)、こんな…ごめん、ごめん」
そう言って笑いながら目尻(めじり)を拭(ぬぐ)うと、またフォークにパスタをからめた。
剣護は、それ以上はもう何も言わずに、階下に降りて行った。
夕刻(ゆうこく)になると、荒太が見知らぬ男子中学生を連れて、風見鶏の館にやって来た。
これまでの経緯(いきさつ)は、剣護から既にメールで知らされている。
荒太が二階の、怜が寝ている部屋に入り、まず最初に目にしたのは、近くにある丸椅子(まるいす)にも座らず、直(じか)にペタリと床に座り、ベッドの端に腕を置いて怜を見守る真白の姿だった。
(―――――――江藤の奴(やつ)、呑気(のんき)に寝とるし。しかも、真白さんを枕元(まくらもと)にはべらして)
怜が非常に危険な怪我(けが)を負った、という事実を束(つか)の間(ま)忘れ、なんやこいつずるい、と思ってしまう。
こっちは怜を探して、彼のアパート近辺(きんぺん)を夜中に捜索(そうさく)したり、血溜(ちだ)まりを消すべく人手(ひとで)を呼んだりして、ろくに寝てもいないというのに。一徹(いってつ)、二徹(にてつ)してもそう響かない頑丈(がんじょう)な身体とは言え、決して消耗(しょうもう)していない訳ではないのだ。
「理性を保てよ、荒太」
後ろからついて来た剣護が釘(くぎ)を刺(さ)さなければ、嫉妬丸出(しっとまるだ)しの言葉を真白にぶつけていたかもしれなかった。
そんな醜態(しゅうたい)を彼女に晒(さら)す訳にはいかない。
「荒太君…」
そう言って、振り向いた真白が微かな笑みを見せた。
その笑みで、荒太の強張(こわば)った感情がやや緩(ゆる)んだ。
「ありがとう。昨日の夜、次郎兄の為に、色々頑張ってくれたんでしょう?剣護に聞いたよ」
感謝の念が滲(にじ)み出るような、柔らかい声だった。荒太は、その声と言葉で、だいぶ報(むく)われた気がした。
「―――――ああ、大したことやないよ。…江藤、無事で良かったな」
口ではそう言いつつ、怜の姿が消えた時はそれなりに心配もした荒太だったが、むしろ今は首を絞(し)めてやりたい気分だ、と頭の中で考えていた。
「うん」
コクン、と真白は童女(どうじょ)のように頷いた。
(……くそ。ええな、江藤は。心配してもらえて。無事を、こない喜んでもらえて)
果たして自分が怪我や病気をした時も、同様にしてくれるだろうか、などと不謹慎(ふきんしん)な考えが頭に浮かぶ。
「若雪、じゃなかった、真白様―――――!!昨夜は僕も頑張ったんですよ、褒(ほ)めてくださいーっ!」
そう言って、真白に抱きつこうとしたのは、陶聖学園中等部(とうせいがくえんちゅうとうぶ)の制服を着た男子だった。
剣護たちに比べると体格もまだまだ華奢(きゃしゃ)で、目はぱっちりとして可愛(かわい)い。
「こら待て、ガキ」
彼が真白に飛びかかる前に、その首根(くびね)っこを剣護が掴(つか)んだ。「うぎゃっ」と、猫が尻尾(しっぽ)を踏まれた時のような声が上がる。
「…おい、荒太。何だ、この図々しくて騒々しい小僧(こぞう)は?」
「どうもすんません。こいつは嵐下七忍(らんかしちにん)の一人で、今生では来栖遥(くるすよう)って名乗ってます。前生では――――」
「―――――凛(りん)?」
真白が呟いた。
「あなた、もしかして、凛?よく、嵐どのにうるさいって言われて、拳骨(げんこつ)を貰(もら)ってた……」
凛は嵐下七忍でも最年少だった。忍びの中においてもひどく身軽で、小刀(しょうとう)の扱(あつか)いに長(た)け、無邪気(むじゃき)で明るい少年―――――――。多少、賑(にぎ)やか過ぎる嫌(きら)いがあったが。
再び遥のテンションが上がった。ぱっちりした目は若干(じゃっかん)、涙目(なみだめ)になっている。
「うわーん、真白様、判(わか)ってくれたあ―――――!!思い出され方がいまいちだけど――…!そうです、僕、凛です!」
言いながら再び真白に抱きつこうとするのを、今度は荒太の手が遥の頭をガッと掴(つか)んで止めた。
遥の両手が空しく宙(ちゅう)を掻(か)く。
「お前な、大概(たいがい)にせえよ」
「だって荒太様ってば、いきなり夜に連絡してきたと思ったら、血溜まりを消せとか無茶振(むちゃぶ)りするし――――僕、まだ中学生なんですよお?」
「お前、そないな小細工(こざいく)は平気でしてのけるやろが。真白さんの前やからいうて猫を被(かぶ)るな」
「猫被りは荒太様の専売特許(せんばいとっきょ)ですよーだ」
「……血溜まり?」
その言葉に、真白が過敏(かびん)に反応した。
眉間(みけん)に皺(しわ)を寄せている。
遥の頭を、荒太の拳骨(げんこつ)が襲う。
「いったあ~~~~!」
あ、この光景、デジャヴだ、と思いながら、聞(き)き逃(のが)せない言葉を真白は追及(ついきゅう)した。
「荒太君、血溜まりって…」
荒太が苦(にが)りきった顔で答える。
「………江藤の出血のあとや。でももう、心配無いんやろ?過ぎたことや」
真白が剣護の顔を見た。ほぼ同時に剣護が顔を他所(よそ)に向ける。
「黙っていたな」と言わんばかりの真白の視線を、剣護は極力避けた。
一つ溜(た)め息(いき)を落とし、真白は眠る怜の顔をちらりと見る。
ともかくこの騒がしさでは、彼を起こしてしまいかねない。
「―――――あの、ごめんなさい。とりあえず、皆、部屋から出て。あまり騒ぐと、次郎兄が起きちゃうかもしれないから」
「――――――」
荒太はその言葉に複雑そうな表情を見せたが、黙って従った。
部屋が再び怜と真白の二人になったところで、怜の目がパチリと開いた。
「あ……、ごめん、次郎兄。起こしちゃった?」
「いや……専(もっぱ)らうるさかったのは、成瀬の連れて来た中学生だけだったから。真白が謝ることじゃない。やたらテンションの高い奴だったな。――――真白、今日、ずっとここにいるつもり?」
「うん。おばあちゃんたちに言い訳が通る時間まで。本当は、ここに泊まりたいくらいなんだけど」
今の真白には、傷を負った怜しか見えていない。一心(いっしん)に見つめてくる瞳は、怜を失いかけた不安を、まだ引(ひ)き摺(ず)ってのことだ。
怜はそんな真白を見て、それから天井(てんじょう)を見た。
(………そんなにしがみつくなよ、真白)
荒太に向けて、手放(てばな)しにくくなる。
「…真白、成瀬にはあとでもう少しフォローしといてあげなよ。あいつは多分、昨夜長い間、俺の為というより、真白の為に動いてたんだ。魍魎(もうりょう)とも、戦ったあとだろう。体力馬鹿な奴でも、身体的に結構(けっこう)きつかったと思うよ。そうまでしたのは、俺と同じように、成瀬も真白の泣き顔を見るのが嫌だったからだよ――――――。だからもう少し、労(いた)わってやったほうが良い」
「――――――私の言い方、きつかった?」
心配そうに真白が尋ねた。
怜が優しく目を細める。
「そうじゃないよ。ただね、あいつは真白の言葉一つに、莫迦(ばか)みたいに一喜一憂(いっきいちゆう)するところがあるから」
「……そんなこと、ないと思うけど」
怜が微笑む。
「あるんだよ」
一階のキッチンに置かれた椅子に座る荒太は、ひどく不機嫌(ふきげん)だった。彼を取り巻く空気全体が、「面白くない」と強く叫んでいる。
ちなみに荒太の顔を初めて見た舞香は「惜(お)しいっ。ちょっと甘過ぎる!」と唸(うな)り、遥に対しては一瞥(いちべつ)をくれただけで「育ちが足りない…。評価基準(ひょうかきじゅん)を満たしてないわ」と呟(つぶや)いていた。
剣護は向かいの椅子に座り、そんな荒太を困ったもののように眺めた。
「おい、荒太。機嫌直せよ。――――今の真白は、しょうがないよ。……あいつは前生でのトラウマで、身内を亡くすってことにえらく敏感(びんかん)なんだ。今朝もひどい取り乱しようだった。だから、次郎が生きてるって解って、今はその事実で頭が一杯(いっぱい)なんだよ。他に対応する余裕(よゆう)が無い。お前と次郎のどっちが大事とかいう話じゃなくてな」
「…………」
頬杖(ほおづえ)をつき、剣護の取(と)り成(な)しにも何も答えない荒太に、舞香が唐突(とうとつ)に話しかけた。
「ねえ?あなたの誕生日って、もしかして九月?」
「―――――?はあ。そうですけど」
無愛想(ぶあいそう)に答える。
「ははあん?」
「何ですか」
訝(いぶか)しむ表情の荒太に対して、舞香がにやにやして腕を組む。
「真白にね、ステンドグラスの作り方、教えてあげるって言ったの。絵のモデルになってもらう代わりにね。そしたらあの子、九月までに作れるものってあるだろうか、って私に訊いたのよ。さて、これってどういうことかしら?」
「――――――……」
それを聞いた荒太の顔から、明らかに険(けん)が取れた。釣り上がっていた眉が下がる。
〝た、宝物だから〟
荒太から貰(もら)ったブレスレットを指し、そう言った真っ赤な顔の真白が蘇(よみがえ)る。
(冠婚葬祭(かんこんそうさい)…)
ついでにその四文字熟語も思い出し、荒太はうっかり笑いそうになった。
剣護たちが自分の様子を窺(うかが)っている気配を感じたので、表情が緩(ゆる)まないように努める。
そして首を巡(めぐ)らせ、静かに立っている要を見て、声をかけた。
「……久しぶりやな」
「―――ああ―――――――」
言葉だけ見れば実に素(そ)っ気無(けな)い。
要は、荒太が家に入って来た時から話しかける機会を窺(うかが)っていたのだが、荒太はそれどころではない様子で、素知(そし)らぬ顔をしていた。荒太は剣護から、彼が智真であるということを予(あらかじ)め聞いていた。
――――――――聞いていたからこそ、安心してぞんざいな態度が取れたのだ。
智真は嵐にとって、気の置けない唯一の友人だった。
「なんで元僧侶(もとそうりょ)が、ミッション系の大学院生になってんねや。生まれ変わったら宗旨替(しゅうしが)えか?」
荒太の突っ込みに、要が苦笑じみたものを見せた。
「ハーフに生まれついて、イギリスで子供時代を過ごしたんや。しゃあないわ」
「お前、応用(おうよう)が利(き)き過(す)ぎやろ」
「まあな」
そこまで言葉を交わすと、立ち上がって拳(こぶし)で軽く要の胸元(むなもと)を突き、荒太はにやりと笑った。要も、荒太に対しては悪戯(いたずら)めいた笑いを見せた。
要の姉である舞香は、この会話が理解出来ていない。そもそも関西で暮らしたことのない弟が、なぜ関西弁を喋(しゃべ)るのか、という疑問は昔からあった。弟のこんな表情は初めて見た、とも思う。
その時、真白が二階から遠慮(えんりょ)がちな足取りで降りて来た。
荒太と目が合うと、少し気まずそうな顔をする。
「…あの、荒太君…、ごめんね」
「何が?」
「……次郎兄の為に頑張ってくれたのに、部屋から追い出しちゃって。…感じ悪かったよね」
荒太が笑顔を向ける。
「そないなこと、ええよ、別に。全然気にしてへんし」
荒太の鷹揚(おうよう)な言葉に、剣護が呆れた表情をした。
(嘘つけこいつ。―――――案外、現金(げんきん)な奴だな)
「でもさ、真白さん、大丈夫?」
「何が?」
「いや、最近色々あったし、五行歌(ごぎょうか)、あんまり詠(よ)めてないんやない?」
五行歌を嗜(たしな)む真白は、新聞の投稿欄(とうこうらん)の常連(じょうれん)であり、学校でも「女流歌人(じょりゅうかじん)」のあだ名で通っている。確かに最近、他に気を揉(も)むことが多く、新聞への五行歌の投稿も止まっていた。
若雪は、和歌も連歌(れんが)も今様(いまよう)も、教養(きょうよう)として身に付けていた。
真白が「女流歌人」と呼ばれることは、荒太にとっても心楽しいことだったのだ。
「あ―――――…うん。でも、今日、舞香さんの作品とか見せてもらって刺激を受けたから、良い歌が作れそうな気がする」
そう言って真白が無邪気(むじゃき)に笑う。
その笑顔は、怜が無事であった為に生まれた笑顔だ。それでもまだ、ちらりと真白の面(おもて)をかすめる憂(うれ)いを、荒太は見逃さない。万が一、怜が命を落とすようなことにでもなっていれば、彼女の笑顔はきっと永遠に失われていただろう。
(そんで、見てるほうがしんどうなるくらい、泣くんや。ずっと、ずっと)
――――――――それは嫌だ。
怜のことは正直、虫が好かない奴だと思っている。
そこは多分お互い様だろう。
だが、泣き続ける真白など見たくない。
真白が、剣護や怜に向ける親愛(しんあい)の情の深さを思い、荒太は微妙な気分だった。
(男として負けてるとは思うてないけど)
真白と、その兄たちとの絆(きずな)の強さには、時々入り込めないものを感じてしまうのは事実だった。前生で突然に引き裂かれたからこそ、今生で強まる連帯感(れんたいかん)もあるのだろうが。
(俺がしがみつくとこて言うたら、前生で若雪どのの亭主(ていしゅ)やったことと、娘がいたこと、くらいやもんな。―――――――いや)
若雪は、嵐と出会い続ける為に、神として在る道を捨て、苦悩(くのう)を抱きながらも人として転生し続ける道を選んだではないか。これ程確かな、愛情の証(あかし)は無い。
〝また逢えて、嬉しい〟
今生において、初めて真白にそう言われた時の喜びは、今も胸にある。
また逢えて嬉しい――――――。
それは、荒太自身にも当てはまる言葉だった。
この先何度でも、生まれ変わるたびに、逢えた喜びは互いの心にきっと刻(きざ)まれてゆく。
(俺にとっての一番は真白さんで…真白さんにとっての一番は俺や。自信、持て――――――)
「そういや荒太、お前、結局昨日はどこで寝たんだ?」
「江藤のアパートですよ。にこにこコーポ。ついでにあいつの服も借りました。あとシャワーも。…ああ、あいつ、もうちょっと冷蔵庫に食い物入れとくべきですわ」
剣護の疑問に、荒太があっさり答える。最後の言葉に、剣護は不穏(ふおん)なものを感じた。
そして根本的(こんぽんてき)な疑問が浮かぶ。
「……鍵(かぎ)はかかってなかったのか?」
「まさか。かかってましたよ」
剣護がますます怪訝(けげん)そうな顔になる。
「…お前、あいつの部屋の合鍵(あいかぎ)でも持ってんのか?」
荒太が顔を顰(しか)め、目の前で手を振る。
「やめてくださいよ、気持ち悪い。鍵がかかってたから、開けて入っただけですよ」
「いやいや待て待て、どうやって開けたんだよ、鍵!」
「―――――剣護先輩、俺、これでも忍びやったんですよ?」
「だから?」
胡散臭(うさんくさ)いものを見る目で、剣護が訊く。
「そんなん企業秘密(きぎょうひみつ)に決まってるやないですか」
「荒太様、ピッキング得意ですもんねームガッ」
「…お前、そこまで口が軽いて、忍びとしてどうなんや」
身(み)も蓋(ふた)もないことを言った遥の口を、乱暴に塞(ふさ)いだ荒太が睨(ね)め付(つ)ける。
真白が、目を丸くしている。
「うわー。こえー。お前、一歩間違えば犯罪だからな、それ。俺はコソ泥に妹を任せたりはしないからな」
こっち来なさい真白、と彼女の両肩に手を置き、剣護が一歩、二歩と荒太から遠のいた。
「今回みたいな非常事態(ひじょうじたい)やないとやりませんよ」
しれっとした顔で荒太が言う。
「どうだかなー」
そう言って剣護が荒太を見る目は、疑惑(ぎわく)の眼差(まなざ)しだった。
白い現 第四章 再会 三