センター街の魔女

 昔誰かが歌っていたように、青春というものは所詮は年寄りの懐古話に過ぎない。大人になると言うことは、大切な何かを失いながら、別の守るべき何かを見つける旅だと俺は思う。
 2008年10月。それは俺がまだ高校生だった頃の話だから、いまから7~8年は前の事である。
 当時まだ、スマホなどというのも珍しく、自分たちはみな、いまではガラケーと呼ばれている携帯電話を持っていた。渋谷や新宿界隈には「カラギャン」と呼ばれた、ストリートギャングの生き残りが幅を効かせていた。そしてそう、今でいう「危険ドラック」のはしりが流行し出した時代でもあった。
 これは俺と「渋谷のクィーン」あるいは「センター街の魔女」と、呼ばれた少女の話である。
 大人への階段を上る決意をした子供たちの甘くて切ない物語でもある。

女王との邂逅

 俺たちがその日渋谷へ出掛けたのには、大した理由があった訳ではない。
 就学に用いるバックが古くなったかので、東急ハンズにでも買いに行こうかと思っただけである。別に吉祥寺の丸井で買ってもよかったのだが、相棒の将介がたまには違うところで買い物をしようと提案したものだから、井の頭線に乗ってわざわざ渋谷まで出向いたという次第であった。
 たまには新宿、渋谷あたりの繁華街をブラつく俺らとは違って将介の野郎は大変な出不精だから、ほっとけば一生吉祥寺から出ないかも知れない男である。そんな彼が何を思ったか急に渋谷に行こうと言い出した。
 どういう気まぐれかは知らないが、丁度退屈していたところだし俺に反対する理由もなかったわけである。

 おっと自己紹介が遅れた。俺の名前は佐々木重吾(ささきじゅうご)(ささきじゅうご)、相棒は御門将介(みかどしょうすけ)(みかどしょうすけ)。共に吉祥寺にある武蔵野工業高校の2年生だ。
 自慢じゃないが俺たちは、地域の出来損ないが集まるムサコウの中でも特に出来の悪い部類に入る。とりたて将来の希望も見出せないまま、その日暮らしのメランコリックの中に「若さ」という名の燃料を無駄に消費し続けている。
 最も俺にだって希望がなかったわけじゃない。
 中学の時は陸上の中距離でかなりイイ線までいったこともある。推薦でいまより少しはマシな高校にも決まりかけていた。
 ある理由で陸上を辞めなくてはならなくなったのだが、それはこの物語には関係がない。
 神様は弱いもの味方では決してないことだけは告げておこう。

 とにもかくにも、俺たちは東急ハンズでの買い物を終えてセンター街をぶらぶらしていた。
 中肉中背の俺とは違って将介のヤツは身長188センチ、体重だって100キロを下らない。人ごみの中では確実に頭一つ抜きん出ている。
 そのうえ体格もいいから、大抵の男どもは自ら進んで道を譲る。
 かと言って特段腕っ節が強いというわけでもなさそうだ。
 なさそうだというのは、俺は奴が喧嘩をしているのを見たことがないからだ。多分見掛け倒しなのだと思う。
 大抵の奴はその雰囲気に押されて手を出しては来ないし、たまに現れる勘違い野郎からは三十六計を決め込むことにしている。
 ただひとつ俺が知っているのは、奴がとびきり逃げ足が早いということだ。
 弱っちいクセに妙に好奇心が旺盛で、そういう現場には必ず顔を出したがるが、その逃げ足のお陰で修羅場になった記憶はない。
 陸上の中距離で関東までいった俺と比べても遜色のない走りをする。いやスタミナだけなら俺よりあるかも知れない。

 そんな俺たちがスクランブル交差点あたりをふらふらしていると、金髪に制服の渋谷ギャルたちが2~3人、向こう岸から凄い勢いで駆けてきた。
「やばいことになった。姐さん達に知らせなくちゃ」
「あいつらどこのモン?」
「大宮だって、リカさんが言ってた」
「キショイ! なんでウチらが埼玉の田舎モンに舐められなきゃなんないのよ」
 そんな会話が聞こえて来る。
 いやな予感がした。案の定将介は満面の笑みをたたえて俺を振り向いた。
「面白いことになっているようだぜ。なあ、行ってみようか」
 これは一種の病気である。

 彼女たちの跡ををつけて
辿りついたのは、ガード下の寂れた駐輪場である。センター街の近くにこんな場所があるなんて、俺は今の今まで気づきもしなかった。
 駐輪場の中程に先ほどのギャルの仲間らしい女の子が4~5人、輪になって座っている。その周りを取り囲むのは、見るからに田舎者丸出しの10人ほどのヤンキーたちだ。
 中には殴られたのか目の辺りを青く晴らした子もいる。
「ちょっとあんたたち、こんなことをしてタダで済むと思ってるの? 渋谷はね、姫姐さんの縄張りなんだよ」
 駆けつけた金髪ギャルが威勢のいい啖呵を切った。
 部外者の俺らは取り敢えずチャリンコの陰から様子を見ることにした。
「聴いてるよ、渋谷のクィーンの噂はな。いいからここに連れてこい。俺らが可愛がってやるからよ」
 耳から鎖のようなイヤリングを垂らしたハゲ坊主が木刀を肩に担ぎながらせせら笑った。
「ふざけんない! 姫姐さんの手を煩わせるまでもない、あたしがやってやるよ」

 金髪は学生鞄からカッターナイフを取り出すと、ハゲ坊主に突っかかった。
 ハゲ坊主は身を翻すと、カッターを持つその手を木刀でしたたか殴りつけた。
「つう」
 金髪が膝を着いた。右手首が嫌な方向に折れ曲がっている。
 輪になった女生徒達の間から悲鳴が聴こえた。
「ちっ。美人なら可愛がってもやるが、ブスじゃどうしょうもねえか。お前、死んじゃうかァ」
 ハゲが木刀を振り上げた。
 金髪の少女が悲鳴を挙げて頭を抱えた。
 その時。

「おいおいそこのハゲ。可愛いい女子高生に向かって、そんなにブスブス言うもんじゃねえぜ」
 ひどくのんびりした声が響いた。見ると俺の隣に身を隠していた将介が、いつの間にかチャリンコの陰を離れて集団のほうに歩いて行く。
 うずくまった金髪の肩に手を置いて、人懐っこい微笑を浮かべる。
「そう言うてめえだってハゲじゃないか、なあ」
「て、てめえ何者だ?」
 将介の体格は確実にハゲ坊主より一段階でかい。ハゲ坊主がビビるのが手に取るようにわかった。
 しかし、ハッタリの利く連中とも思えない。俺も思わずチャリンコの陰から飛び出して将介の腕にすがりついた。
「おい将介、何やってんだ。こいつらヤバイぜ」
「そうかあ、ま、本格的にヤバクなったらいつもの手があんだろう」
「そういう問題じゃない」
 将介は相変わらずのんびりしたものだが、俺は気が気じゃない。
 それは俺だって逃げ足には自信があるが、こんな修羅場は一刻も早くおサラバしたいところである。
「ちょっと待てや」
 野太い声が集団の後方から聴こえた。
 人混みをかき分けてひときわ大きな人影が現れた。
 身長体重ともに明らかに将介を上回るそいつは、仲間たちを突き飛ばす勢いで集団の先頭に躍り出た。
 短髪髭ズラ、そしてビヤ樽の様うな体躰。体重は有に180キロを超えているだろう。
「ありゃりゃ。こりゃまた、大変なおデブさんが現れたもんだねえ」
 さすがの将介も呆れて言った。
「おい、重吾。こいつは本格的にヤバイかも」
「だから言ったろ。トンズラこくなら今のうちだぜ」
 俺たちが行動に移すより早く、心得たものでデブの部下たちが周囲を囲って退路を塞いだ。
 これで俺たちに逃げる場所はなくなったわけだ。俺は生きた心地がしなかったが、将介は相変わらずのんびりとした目つきで周囲の連中を眺めている。
 こいつあまりの出来事に頭がおかしくなったんじゃないか。俺は本気で心配になった。
 もっとも他人の心配をしている場合ではないのだが。
「おい、誰だこいつら?」
 デブがハゲに聴いた。
「さあ、どこの間抜けですかね」
「ちっ、面倒くせえ。いいからヤッちまえ」

 デブの怒号で周囲の男たちの目つきが変わった。今にも飛びかかってきそうな雰囲気だ。
「ちょ、ちょっと待て」
 しゃがみこんでいた金髪ギャルが声をあげた。
「こいつらは関係ないだろ。やるんならあたしをやれよ」
「関係なくはないんだよ。俺らに逆らうヤツらは誰だって容赦しねえ」
 デブが吐き捨てるように言った。
 男達がジリジリと包囲網を狭めてくる。
 金髪のギャルが慣れない左手にカッターを握って、のろのろと立ち上がった。
「コイツに手出しはさせない・・・」
「へえ~思ったより義理堅いんだな」
「あたしを可愛いいなんて言ってくれた男は、あんたがはじめてだからな」
 金髪は痛みを堪えてニヤリを笑った。その笑顔は見掛けに反して妙に無邪気に見えた。
「ま、無理すんなや・・・」
 いいながら将介は左腕を持ち上げた。
 奴の身に纏う独特の雰囲気がそうさせるのか、いまにも飛びかかろうとする集団の動きが一瞬だけ停止した。
 しかし将介はただ単に腕時計を眺めただけだった。
 そして時間を確認してから呟いた。
「さて、そろそろかな」
 正にその時だった、金髪ギャルの甲高い声が駐輪場に響き渡った。
「来たァ!!!」
 そしてモーゼの十戒さながらに人垣が割れ、その女が現れたのであった。


 人垣の中から現れたのは3人の少女たちだった。
 右端の少女は金髪のボブカットで、銀縁のメガネの下に理知的な瞳が輝いている。
 すらりとした中背。ミニの制服に身を固め、意志の堅そうな唇を噛み締めている。
 左側の少女は身長が150センチにも満たない。ボサボサの黒髪、顔には鼻の中程まで黒い革のマスクを付けている。
 制服の上から何故か黒いマントを羽織っている。
 そして真ん中の少女。
 一目見てハッと二度見するような途方もない美女だった。
 身長は165センチは有にあるだろう、女性にしてはかなりの高身長だ。踵の高い靴を履いているから170センチくらいには見える。
 クセのない漆黒の髪が肩のあたりで揺れている。切れながの目力に溢れる瞳。形の良いバラ色の唇。抜けるような白い肌。
 そして制服の上からでもはっきりとわかるスタイルの良さ。制服のリボンを跳ね返すような弾力にあふれる胸。しなやかに締まったウエスト。膝上の制服のスカートから除くすらりと長いふくら脛。・・・
 どこをどうとっても、アイドルクラスの美少女だった。
「ひゅ~」
 少女が横を通り過ぎるとき、堪らず将介が口笛を吹いた。
「あんたが姫姐さんかい?」
「どこの誰かは知らんが、時間稼ぎ感謝する」
 涼やかな瞳を将介に向けてクィーンが言った。
「あとは私たちに任せてほしい」
 それでようやく理解した。
 いままで将介がのんびりやり過ごしてきたのは、このクィーンが現場に駆けつける時間を稼いでいたせいか。
 そういえば先程現場に駆けつけようとしたギャル達が「姐さん達に知らせなくっちゃ」と叫んでいたことを思い出した。
 しかしたったそれだけのことで、クィーンがここに来ることを確信したと言うのか?
 同時に俺は思いついていた、柄にもなく将介が渋谷なんかに来たがったのは、このクィーンに会うためではなかったのか。
 確かに渋谷のクィーンの名は俺たち不良仲間のあいだではちょっとした有名人だ。だがしかしわざわざ将介が出向くほどのものとも思えない。一体将介の目的はどこにあるのか?
「言われなくてもそうするけどな。・・・それにしてもあんた、実にイイ女だねえ」
 左のチビ女がもの凄い目つきで将介を睨んだが、クィーンが目配せをすると黙って正面の集団に視線を戻した。
「トモミ」
 クィーンは目の上を腫らしている少女に目をやり、それから手首を砕いている金髪ギャルに目を戻した。
「マキ。済まなかった・・・遅くなったな」
「姫姐。・・・」
 金髪の瞳から一筋の涙が溢れた。
「任せろ。カタはつけてやる」
 金髪は涙を拭って将介に笑いかけた。
「無敵の渋谷クィーンズ三巨塔のお出ましさ。あんた、口の聞き方に注意しないと潰されるわよ」
「そいつは楽しみだな。んじゃ、俺らは高見の見物と洒落込むか、なあ重吾」
 俺と将介は囲みを外れて児童遊園のベンチに腰を下ろした。
 クィーンたち三巨塔は十人ほどの大宮連合と睨み合っている。
 先頭に立つのは身長190センチ体重185キロはありそうな髭面のデブだ。
 身長ではふた回り、体重では4倍以上は違いそうだ。
 これだけの体格差を、しかも女の身でありながらどうやって克服しようというのか。
 心配になった俺は将介に囁いた。
「おい、勝てるのか? クィーンは」
「さあなあ、まともにやったら勝てないだろうな」
 人ごとのように将介は言う。
「おいおい、どうすんだよ。クィーンが負けたら俺らもヤバイんじゃないか」
「だからぁ、まともにやんなきゃ勝てるってことだろうがよ」
「まともにやんなきゃってどうすんだよ」
「知らないよそんなこと。だから面白いんじゃないか」
 将介はクックッと楽しそうに笑った。なぜか知らないが将介はクィーンの勝利を確信しているようだ。
 そのクィーンは後ろ手に組んで一歩前に進み出た。
「薫。いちか。手を出すな。ここは私がやる」
 ふたりがスーっと後ろに下がる。
「ひとつだけ気になることがある」
 将介が独り言のように呟いた。
「あいつ、なんで後ろに手を組んでいるんだろう?」

戦慄の魔女


「へええ」
 髭のデブが下碑た笑いを浮かべる。
「お前が渋谷のクィーンか。噂で聴くより、ずっといい女だな。いいだろう。今日からお前は俺の女だ」
 突然、将介が笑い出した。
「おいおい聴いたかよ。あのデブがクィーンと付き合うだって? 月とすっぽんどころか月と団子虫くらい差があるってえのによ。なあ、重吾。実に傑作じゃんか。笑ってやれよ」
 折角俺らの存在を忘れかけていたのになんてこった。俺はやれやれと頭を振った。
「俺を巻き込むなよ」
 案の定デブは怒りに満ちた顔でこちらを睨んだ。
「やかましい、黙ってろ。こいつを俺の女にしたら、すぐに殺してやっからよ」
「だから俺らを巻き込むなっての」
 俺のツッコミに将介は更に爆笑した。
「待ってやってもいいけどな。永遠に俺たちの番は回ってこないんじゃないか」
「ねえ、ちょっといい」
 クィーンが俺らの会話に口を挟んだ。黒目がちの鋭い瞳がデブの瞳を射抜いている。
 思いがけない美女の視線にデブは少しドギマキした。顔が朱に染まったように赤くなる。
「あなたのボスは承知しているのかしら?」
「な、なにをだよ」
「だから、私があなたの女になることをよ」
 クィーンははっきりそれを口にした。
「な、なんだって」
「あら、私をあなたの女にしてくれるんじゃなくって? でもあなたのボスがそれを承知してなければ、あとで揉め事になるでしょ。それは私、ちょっと嫌だな」
 後ろ手に組んだ上半身を、イヤイヤをするようにくねらせて拗ねてみせる。

 渋谷のクィーン。
 センター街の魔女。

 わかっていてもその仕草は男心を蕩かすほど愛らしい。
「そう来るか」
 何事かを納得したかのように将介は楽しそうに頷いている。
「そりぁ勿論、納得してるさ。俺がこの渋谷をものにすればな」
 デブが真っ赤な顔で言い放った。
 馬鹿なブタだ。・・・俺は心底思った。
 クィーンの色香に惑わされて、最も重要な情報をあっさり漏らしやがった。
 一番始末に負えないのは未だにそのことに気付いてないことだ。
「そう。じゃ安心したわ」
 クィーンが更に一歩二歩近づく。もう殆ど手を伸ばせば届く距離だ。
「ねえ」体が触れ合うほどに近づいてクィーンが囁く。憂いを帯びた瞳に淫乱な炎が宿る。
「あたしを抱きたくない?」
 デブが舌なめずりをした。股間が大きく膨らんでいる。
「ああ、今すぐ抱きたいぜ。思い切り抱きしめて、おまえのあそこに俺様のものをぶちこんでやる」
「いいわよ。好きにして」
 デブが吠えた。
 耐えられないとでもいうように両手を広げて、目の前の美少女を思い切り抱きしめた。
 次のデブの叫びは獣の咆哮となってこだました。
 クィーンのしなやかの身体を抱きしめたはずの両腕は大きく広げられ、後ろにたたらを踏んで尻餅を着いた。
 見るとその両の前腕に細身のナイフが柄まで突き刺さっていた。
 ナイフの切っ先が丸太のような腕を突き抜け、向こう側に飛び出している。
 何が起こったのかは誰の目にも明らかだった。クィーンは抱きしめに来るデブの力を利用して、隠し持ったナイフを腕に突き刺したのだ。
 同時に彼女が後ろ手に組んでいた理由も明らかになった。後ろに回した手に2本のナイフを隠し持っていたのである。
 尻餅を着いたデブは、呻きながら起き上がろうとするのだが、なかなか起き上がれない。両の腕が使えない上にこの体重では、起きれるわけがなかった。
 クィーンはそんなデブの悶える様子を冷たい瞳で見つめながら、スカートの裾をめくってスラリとした素足を覗かせた。
「観て、私の脚。綺麗でしょ」
 細く白く弾力に富んだ、みずみずしい太ももが顔を見せた。
 その芸術品ともいえる美しさにその場にいる全員、男も女も腕を貫かれているはずのデブさえも一時息を飲んでその光景に見とれていた。
 しかし俺は見た。
 その白くしなやかな太ももに巻いた朱色のガーターベルトに、白銀に輝くナイフが仕込んであるのを!
 ふた筋の閃光が瞬いた。
 ふたたびデブの絶叫が響き渡った。
 ノーモーションで放たれた光線は紛う事なく、デブの両肩を貫いたのだ。
 デブは悲鳴をあげて立ち上がろうと喘いだ。
 うつ伏せになって身体を起こそうとするが、両腕が使えないので身体を支えられない。
 尻だけを持ち上げて無様な格好で悶え苦しんでいる。


 デブの仲間たちが見かねて駆け寄ろうとするのに、三巨塔をはじめとする少女軍団が立ちふさがって乱闘がはじまった。
 ハゲが木刀を振り上げて、「薫」と呼ばれた三巨頭のひとり、メガネの少女に殴りかかった。
 前に出した左足を軸に少女の身体が回転する。半身になったその横をうなりをあげて木刀が駆け抜けた。
 ミニスカートが舞い上がり、細くしなやかな脚が宙に舞い上がった。
 自分の頭より遥かに高く伸び上がった脚先は、ハゲの顎先に見事にヒットし頭を回転させた。
 ハゲは声もなく膝から崩れ落ちて動かなくなった。
 少女たちは血みどろになりながらも必死に戦った。
 右手を砕かれたマキという名の少女も、左手にカッターナイフを握って果敢に切りつけていった。
 中でも最も目覚しい活躍を見せたのは、「いちか」と呼ばれたチビの三巨頭だった。
 彼女がコマのように回転するたびに周囲の男たちは声もあげずに次々と倒れていった。
 特別身体が触れたとも思えないのに、まるで魔法でもみるかのようであった。
 結局、彼女ひとりで屈強な男どもを5人も片付けてしまった。
 残りの3人を薫が、あとのふたりを残りの全員で倒した。
 乱闘が収まる頃にはクィーンとデブとの勝負も方がついていた。
だらしなくアスファルトの地面に顔を付けたデブの頬にクィーンのヒールが食い込んでいる。
「どうしたの? 私を抱いてくれるんじゃなかったっけ。・・・ああ、そか。その腕じゃ抱けないか」
 クィーンは氷の瞳でデブを見下ろしている。
 ヒールに体重を載せ抉るように責め続け、デブは涙を流しながら喘ぎ続けていた。
「さあ仰言い。あなたのボスは誰? この渋谷で何をするつもりなの?」
 デブは必死で何かを伝えようとするのだが、ヒールの切っ先が頬を突き抜け言葉にならない。
「・・・姫姐・・やりすぎ・・・」
 チビの三巨塔が腕を抑えた。歯車が軋むような声だ。
 ボブカットのメガネが横に並ぶ。
「これじゃ、ウタいたくとも声が出せないわよ」
「そうか。・・・引き上げどきだな。そろそろマッポが来る」
 彼女の口調はいつの間にか、元の冷静で冷酷なクィーンのものに戻っている。
 そういえば耳を澄ますと微かにサイレンの音が聴こえてくるようだ。
「このデブ拉致したいとこだが、この体重じゃ無理だな。まあ、いい。そこのハゲを抑えておけ。・・・さあ、引き上げだ」
 さすがにクィーンズ引き際も鮮やかだった。
 その時パチパチという大きな拍手の音が聴こえてきた。
 一同が振り向くと将介が大きな手を叩きながら満面の笑みで近寄るところであった。
「いやあ、流石だねえ。実にいいものを見せてもらったよ。最もそのナイフは俺には届かないがな」
「そういえばあなた、まだ名前を聴いてなかったわね」
 クィーンが冷たい視線を向ける。
「おれか? 俺は御門将介、こいつは連れの佐々木重吾だ。吉祥寺から来た。よろしくな」
 将介は握手を求めるように右手を差し出した。
 その手を避けるようにクィーンの右手が翻った。
 白銀の閃光が将介の頬に伸びる。
 その閃光は頬に届く前に散り散りになって胡散した。
 将介がナイフを握ったクィーンの手首を掴み、強く引き寄せたからだ。
「おっとっと、あぶ・・・」
 握った手首に二つ目の閃光が瞬いた。将介は手首を離し、後方にバックステップを取ってかわした。
「・・・ねえなぁ」
 三巨頭のふたりが殺気を纏いながらクィーンの前に立ちはだかる。
 その肩をクィーンが抑えた。
「いい。私が試したんだ。・・・悪かったな、将介」
 姐さんが男の名前を憶えた? それだけでも十分に異常なことだったらしい。金髪のマキは目を見張っていた。
「なあ、あんたの名前を教えてくれないか? いつまでも姫姐じゃ、あんただってやりにくいだろ」
「私は姫崎鈴音(ひめざき すずね)。このふたりは水咲薫に冴木いちか」
「なるほど、それで姫姐さん、か」
 納得したように頷く。将介は鈴音の攻撃を意にも介していないらしい。
「じゃ、姫姐でいいか」
 名前を教えた意味がない。
 サイレンの音が近づいてくる。クィーンズは意識を失ったハゲを担いで引き上げていった。
 あとの連中はほっといても駆けつけた警察が何とかしてくれるだろう。
「さて、俺れらも引き上げるか。グズグズして巻き添えを喰っても損だからな」
 将介は両手を挙げて大きく伸びをした。
 俺はそんな相棒の横顔を見つめながら、ずっと感じていた違和感を口にした。
「なあ、将介」
「なんだ?」
「おまえ、本当に御門将介だよな」



 以前から得体の知れないものを感じなかったわけではない。
 御門将介についてである。
 街のチンピラ。横暴な警官。札付きの不良ども。果てはヤクザの集団の中にあっても、いつだってこの将介は落ち着いていた。
 平気で軽口を飛ばし、おちょくっている。
 その度に俺は肝を冷やし、この無鉄砲な相棒と連んだことを神に呪うのだ。
 度胸がいいと言えばそれまでなのだろうが、俺は底抜けのおっよこちょいだと思っていた。
 しかし今回のことではっきりした。この将介はクソ度胸の持ち主でもなければ、おっちょこちょいでもない。得体の知れない何かだ。
 改めて考えてみれば俺は将介について、殆ど何も知らないことに気がついた。
 毎日のように授業をサボり、井の頭公園でヒマを潰し、サンシャイン通りのゲーセンでハメを外し、南口前のマックで夜遅くまでダベっている。
 同じ時間を同じように過ごし、同じ話に腹を抱え涙を流しあった仲間なのに、俺は奴の私生活については何も知らない。
 彼がどこに住み、どのような家族と暮らし、俺と出会う1年半前までどんな生活を送ってきたのか、俺はまるで知らなかったのだ。
 また、知る必要もないと、俺は思っていた。
 だから事さら聞こうとはしなかった。俺たちの過去がどうであれ、俺たちの未来がどうであれ、いまのこの時は永遠に変わらない。俺はずっと思い込んでいた。
 だけど・・・
 今日みせたあの動き。あれは俺の知っている将介では決してなかった。得体の知れない怪物だ。

 帰りの井の頭線の車内で、俺は思いの丈をぶっつけていた。
 彼は難しい顔をして俺の話を聞いていたが、やがて顔をあげにこりと微笑んだ。
 その顔は紛れもない御門将介のものだったので、俺は心の底からほっとしたものだった。
「済まんな、重吾。別に隠していたわけじゃないんだが」
 将介は困ったように頭を掻いた。俺に理解しやすく話すには、どう切り出せばよいのか迷っているようだ。
「クィーンのナイフに関しては、あれは俺がそうなるように仕向けたんだ」
「仕向けた?」
 いきなり将介が、俺の顔面に手を伸ばして来た。
 殴られる。
 俺は反射的に目を瞑り、肩を竦めた。
「ほら、いきなり目の前に手を出されると、誰だって思わず防御の体制を取るだろう? ましてや出入りの後で気の立っているクィーンのことだ、ああいう攻撃的な行動に出るのは最初から分かっていた。わかっている攻撃なら、どんなに速くてもよけられる」
「わかっていて、やったのか?」
「ああ、あわよくばどさくさに紛れて唇でも奪ってやろうかとも思ったんだけどな。なかなか上手くは行かないものだ」
 電車の中もお構えなしに大声で笑う。
「そういう家庭に育ったんだ。特別じゃない」
「家庭?」
「あとで話す。別に隠すことじゃない。今の話だって誰に話しても構わない。特別なことじゃないんだ」
 特別ではないというが、俺にとっては十分に特別だ。
「だが、クィーンは、私が試したと言ったぞ」
「ああ、向こうもそのつもりだったんだろうな、たまたまタイミングが一致したってわけだ」
「タイミングね。そういうものか」
「奴らにとっちゃ、俺らは得体の知れない異端者だ。取り敢えずの敵ではないにしろ、いつ驚異になるとも限らない。どの程度の実力なのか、あらかじめ知って置きたいと思うのは、むしろ当然だろ」
「なるほど」
「どうせやることになるなら、先手をうってこちらの有利な状況に持ち込んだほうが得だと踏んだんだが、向こうも同じことを考えていたらしい。それでタイミングが重なった」
「クィーンはその事に気付いているのかな?」
「それはない。俺の技は相手の深層心理に仕掛ける技だ。スタートを待つ選手の肩を軽く押してやるようなものだ。きっかけに過ぎない。向こうはあくまで自分の意思で動いたと思い込んでいるだろう」
「・・・」
 ふたりの攻防は高度過ぎてとてもついていけない。
「しかし、クィーンのあの2度目の攻撃な。まさかあそこで2発目が来るとは思わなかった。肝を冷やしたぜ」
 将介は真剣な顔で頷いている。
「ありゃコンビネーションだな」
「コンビネーション?」
「ほら、ボクシングとかでよくやってるだろ。左ジャブから入って、右ストレート。そして左フックとかに繋げるやつ」
 拳を握ってシャドーの真似事をする。その仕草が妙に様になっていた。
「クィーンのあれもそれと同じだ。最初の攻撃を避けられた時を想定して、あのようなプログラムを組んだんだろう。一つ目の攻撃が外れても、自動的に二つ目の攻撃が命中する」
「・・・」
「何十回も何百回も練習して身につけたものだ。・・・あいつ」
 将介は宙を睨んで言った。
「ホンマもんの殺人マシーンだぜ」

「金剛心法」

 道玄下のカラオケボックスに顔を揃えたのは、クィーンズ三巨塔の3人であった。

 断っておくが、俺は最初この物語を1人称の形で書き進めようと思っていた。しかし話が進むに連れ、1人称ではどうしても書き足りない部分や、説明に窮する部分がでてくることに気がついた。
 そこでこれ以降は自分が直接目にした事柄と、クィーン側の目線とを交互に書き進めることにする。なおクィーン目線の話は、後に俺がクィーンズのメンバーや将介から直接聴いた事柄が元になっている。

 カラオケボックスのパーティルーム。20畳ほどの広い部屋の一角に、3人は額を揃えて言葉を交わしている。
 部屋の隅には本来のカラオケの他にも、様々な遊戯類が揃っている。
 ピンボールマシーン、デジタルゲーム機、一方の壁にはダーツの的も掛かっていた。
「なあ、薫。お前は私のナイフを避けれるか?」
 クィーン鈴音は、色鮮やかなデコレーションを施したネールを、ライトの光に透かせてみた。
 細くて長い、芸術品のように美しい指だ。
 その手首には白いサポーターが巻かれている。前回将介に掴まれた箇所が紫色の痣になっているのだ。
 掌が返ると、いつの間にか指の間に細身のナイフが握られている。あの大宮のデブを突き刺したのと同様のナイフだ。
 手首のスナップのみでナイフを放る。
 ナイフは数メートル先の、ダーツの的の真ん中に突き刺さった。
 戻した指先には、再び新たなナイフが握られている。熟練のカードマジックをナイフで行っているのだ。
 それも同じ場所に突き刺さる。
 それを繰り返し、最終的に5本のナイフを正確に同じ場所に突き立ててみせた。
「姫姐の「風斬り」は手首のスナップのみで切りつける技です。技を知っている私は、余程のことがなければ交わせるでしょうが、初見の人間では、例え何かの格闘技を身につけた者でも難しいでしょう」
 メガネの美少女、水咲薫は応えた。
「だろうな。しかし、あいつは苦もなく避けてみせた」
「御門将介とかいう男のことですか? 確かに卓越した反射神経の持ち主ですね。しかし、それだけとも思えない。特にあのふたつ目の攻撃・・・」
「・・・二段斬り・・・」
 チビの冴木いちかが口を挟む。相変わらずの歯車のような声だ。
「二段斬りはオートマチックです。最初の攻撃が交わされた瞬間、ふたつ目の攻撃が相手を切り裂きます。その二つを同時に交わすのは、プロのボクサーにも難しいはずです」
 格闘オタクで、自ら総合格闘技のリングに立つ薫のいうことには説得力がある。
 事実、鈴音は過去にボクサー崩れのヤクザ者の顔面を、この技で切り刻んだことがあるのだ。
「無論、本気で当てるつもりはなかったんだがな。・・・で、薫はどう思うんだ?」
「思うに・・予測・・ではないか、と」
 薫は考え考え言った。
「私の攻撃を予め予測していたというのか? 私とあいつとは、あのときが初見だぞ」
「・・・1度見てる・・デブへの攻撃のとき・・・」
 いちかが言った。
「まさか、あれだけで私の二段斬りを予測したというのか。・・・そんなことは不可能だ」
 珍しく鈴音が動揺している。
 薫は首を振った。
「いえ、初見と思っているのは私らだけで、向こうは違うかも知れません。向こうに何らかの思惑があれば、事前に調べた上で乗り込むのは当然でしょう。姫姐の技も調査済みかも知れません」
「いちか」
 鈴音の瞳に強い光が宿った。
「あいつを調べろ。どんな些細な事柄でもいい。徹底的に調べ尽くせ」
「・・・了解」
「姫姐、いつになく楽しそうですね」
 薫の言葉に思わず唇を緩ませる。
「久しぶりに骨のある男が現れた、というところかな」

 その時表の扉が開いて、メンバーの少女が顔を覗かせた。
「失礼します。捕虜の男がうたいました」
「リカ、報告しろ」
 薫が立ち上がった。
「大宮のバックにいたのは、やはりブクロのようです」
「池袋から埼玉にかけて締めているのは豊島連合か・・・」
 薫が呟いた。
「本郷南高校の、金村剛一という男の指示で動いているようです」
「金村? 聞いた名だな。豊島連合のトップか?」
 鈴音が記憶を辿るように長い黒髪を撫でる。
「違うようですね。私の記憶では、本郷南は豊島連合には属してません。むしろ対立しているようです」
「思い出した。金村組というのは、広域暴力団極城会の下部組織だ」
 鈴音が髪を撫でる指を止めた。
「はい。金村剛一というのは、金村組会長の息子です」
 リカという報告係の少女が言った。いちかが口を挟む。
「・・・本物は厄介・・・」
「で、そのヤクザの息子が、この渋谷で何をしようというの?」
「わかりません。ただ渋谷にはクィーンいう生意気な女がいるから、締めてやれと命令されたようです。姫姐さんの噂も、大宮までは届いていないようで・・・あ、済みません」
「それだけか? 他になにか理由があるのじゃないか?」
「本当に知らないようです。いちかさんの指導のもと、相当厳しく締め上げたんですが」

 雷鳴のいちか。

 その異名の通り、彼女は電撃を操る。その拷問は辛辣を極めるだろう。
「下っ端ではどうしようもありませんか。やはりデブの方をさらうべきでしたね」
「デブをさらっても同じだろう、どちらもザコだ。それよりも問題は金村組のほうだ」
「表向きは不良学生の縄張り争いに見せてはいるが、その実、裏ではヤクザ組織が動いていると?」
 鈴音は指を噛んで何やら考え込んでいる。
「・・・吉祥寺がどう絡んで来る・・・?」
 いちかが薫に問うた。
「わからん。あの男がヤクザとかの抗争に係わるとも思えないし・・・」
「仕方ないな」
 鈴音が膝を叩いて立ち上がった。
「気は進まんが、オヤジに会ってくるか」


「心法?」
「心に法律の法と書いて心法と読む。「金剛心法」というのが技の名前だ」
 吉祥寺南口のドトールである。
 3階の窓際に将介と向き合っている。
 窓の外の狭い駅前通りを、大きな路線バスが行き来する。
 その度に駅前を行き交う人々が、右往左往する様を見下ろしているのだ。
「まあ、なんだな。古くから伝わる武術の一派だ。なんでも奈良時代に、役の小角が創始したとも言われているが、俺はその方面には疎くてな。よくは知らないんだ。いずれにしても、俺んちはその宗家の家系で、うちのジジイが何十代目かにあたるらしい。だからそういう技術は、自然と身につけたってわけさ」
「で、それはどういう武術なんだ」
「うん、なんて言うか、闘いの中で相手の動きをコントロールする技術、とでもいえばいいかな」
「相手の動きをコントロールする? そんなことが出来るのか?」
「まあ、そうだな。催眠術の一種と思ってもらえばいいかも知れない」
 将介は考えながら言った。普段何気なく行使している技術を、言葉でわかりやすく説明するのは中々難しいものである。
「催眠術って、戦いの最中にそんなものをかけられる余裕があるのか?」
「重吾。催眠というのはな、意識が狭窄され、外界からの刺激や意識の概念が、表層意識から締め出された状態をいうんだ。闘いの最中は相手の意識は、戦う相手の一手一足に集中しているだろう。つまり闘いの状況そのままが、一種の催眠状態にあるとも言えるのだよ」
「へえ、そういうものか」
 喧嘩とか格闘とかには、まったく縁のない俺には、理解しがたい話である。
「わからんか。では、実際にやってみようか」
 将介は不敵な笑みを浮かべていった。
「お前がテーブルの上に置いている左の手なんだけどな。それはもうテーブルから離れないぜ」

 ・・・何を言ってるんだ。

 俺は何気なく、左手を持ち上げようとした。
 えッ? えッ? 何? なんで?
 動かない。
 俺の左手は接着剤にでも貼り付けられたように、テーブルに張り付いてピクリとも動かないのだ。
「ちょっと待て、将介。なんだこれは、左手が動かないぞ」
 焦れば焦るほど掌はテーブルに強く張り付いていく。
 額に汗が滲んだ。
 掌にもの凄い力が加わっているのだろう、テーブルがギシギシと軋む。
「だからこれが心法さ」
 将介が両手をポンと合わせると、張り付いたはずの左手は嘘のように自由になった。
「驚いた、一生離れないんじゃないかと思ったよ。本当に催眠術のようだな。一体いつ術をかけたんだ?」
「お前が俺の話を聞いたからだよ。聞いてそれを信じたからだ。この術はな、相手がそれを知ってるほうがかかりやすい」
「?」
「術は呪いと一緒なんだ。人は呪われているとわかっているから呪いにかかる。知らなければ何でもない些細な出来事を、呪いのせいだと思い込んでしまう。それが呪いの正体さ」
「俺がそう思い込んだと?」
「お前さっき座っている時、やや左側に傾いて座っていたろ」
「そうなのか?」
「だから右手より左手に多く体重が掛かっていたんだ、ほんのわずかだがな。もちろん、通常ならその程度のことは問題にもならない。だけどお前は俺の話を聴いた。だからほんの少し重くなった左手を、ことさら動き難いもののように感じたんだ。一度思いこんでしまうと、あとはどんどんエスカレートする。剥がそうと焦れば焦るほど体重は左手にかかり、更に強くテーブルを押さえつけるってわけさ」
「マジか?」
「うちの家族は普通にこれをやるんだ。うっとおしいだろ? まあ、人によってやり方は色々だがな。俺の兄貴なんかは、眼球の動きだけで術にかけることが出来るが、俺にはとてもそんな技術はない。俺は声の強弱や抑揚で、相手を暗示にかけるのがやっとだな」
「・・・」
 俺は黙って首を振るよりなかった。
「クィーンのあの二度目の攻撃もそうだ。俺はあの時「お前のナイフは俺には届かない」と言ったはずだ。覚えているか?」
 そういえば児童公園から出て行くとき、そんな話をしていたような気もする。
「あの攻防の最中、彼女の頭の中に一瞬、無意識のうちにそのことがよぎったのだろうな。ほんのわずかだが、ナイフの切っ先が乱れた。だからよけることが出来たんだ。それがなければこの手首も無事では済まなかったかもな」
 将介は右の手首を抑えて言った。
「いずれにしても途方もない話だな。とても付いて行けないぜ」
 俺は頭を抱えた。
「本当に済まない」
「別に気にしてはいないよ。それより普段は出不精のお前が、なんで突然、渋谷なんかに行こうと言ったんだ? あれはクィーンに会いに行ったんじゃないか?」
 俺はずっと気になっていた事柄に言及した。将介は微笑した。
「するどいな。その通りだよ」
「何故クィーンを?」
「う~ん。ま、バイトかな」
「バイト!?」
「俺には面倒くさい兄貴が居ると言ったろ。兄貴は六本木で探偵のマネ事をしてるんだが、俺はたまに頼まれて仕事を手伝ったりしているんだよ」
「仕事? どんな仕事だ?」
 将介はちょっと言い淀んだ。どこまで話していいか迷っているようだった。
「ある高名な代議士がいる。名前を出せば、お前でも知っているくらいの代議士だ。その代議士の高校生の娘が、1ヶ月程前に渋谷で行方不明になったそうだ」
「行方不明?」
「名前は確か、西脇・・・」
 将介はポケットから手帳を取り出して名前を確認する。
「いいよ、そこまでしなくとも。俺には関係のない話だ」
「まあまあ、何かの役に立つかも知れないし・・・、ああ、西脇鮎夢というそうだ。センター街で友達と別れたところまでは分かっているが、それ以降の足取りがまったく掴めない」
「警察には届けたんだろう?」
「そうだな。捜索願は出したが、事件性がなければ、警察は中々動いてはくれないものだ。単なる家出くらいにしか思ってないんだろ」
「しかし代議士なんだろ? その気になれば警察を動かすことくらい、何でもないんじゃないか?」
「まあ、本妻の娘が行方不明になったとなれば、当然そうするだろうな。しかし娘は愛人の子供なんだ。下手に警察が動いて、騒ぎになるのも避けたいらしい。それで兄貴の所へ話が回って来た」
 回って来たと簡単に言うが、そんな話が来るほどの男なのか? 将介の兄貴とは。
「で、まあ兄貴としても高校生は高校生同士とかいう可笑しな理由から、俺の所へ話を持ってきたってわけさ」
「それって、相当ヤバイ話じゃないのか?」
 俺は眉を潜めて言った。
「だよな。俺もそう思ったんだが、渋谷にはクィーンといわれているイイ女がいるらしい。見学がてらに行ってみたらどうかと勧められた。俺は美女には弱いからね。しかしまあ、あんな女とは思わなかった」
 将介は可笑しそうに笑った。
「そのクィーンズだがな。どういう連中なんだ? お前知っているんだろ?」
 抜け目のない将介のことだ、何の用意もなく敵地に赴くまいと踏んだのだが、案の定やつは頷いた。
「まあな。一応は前もって調べた。渋谷クィーンズは3年ほど前に出来た総勢20人ほどの女性のみのチームだ。神代女学館高校3年の姫崎鈴音をリーダーとして、同じく3年の水咲薫。青山誠大付属高校2年の冴木いちか。こいつら幹部3人で他の渋谷地区のほとんどのチームを壊滅に追い込んでいる。事実上、渋谷最強のレディーズだ」
「そこまでは俺も噂で知ってるが」
「問題なのはこのチームが他の男性のグループに異常な程の敵愾心を持っていることなんだ」
「敵愾心ねえ」
「リーダーのクィーンを初め、チームのメンバーそれぞれが、男性に対して異常ともいえる憎しみを抱いているようだ」
「ふうん」
「逆をいえばそういう連中の集合体がチーム・クイーンズってわけだ」
「それが、女子校生誘拐とどう関わるんだ?」
 将介はニヤリとした。
「わからんか? 男が憎いということは、逆に女性には同情的ってことだよな。ましてや「男によって誘拐されたという女子」という話を聴かされては、連中にしてみれば黙ってはいられないだろ?」
「それを利用して連中に探させようというのか? 悪党だな」
 そう、うまい具合にいくのだろうか。
「まあな。自分で探すのは面倒だ」
 ふふふ~ん。悪い顔を、将介はした。
「で、これからどうするんだ?」
「そうだな。取り敢えず、向うからの接触を待つか」
「接触して来のかな」
「そりゃ、来るだろう。そのためにわざわざあんなパフォーマンスをやって見せたんだからな」
 将介はぼんやりと窓の外を見つめて言った。

 それから一週間ほど経ったある日曜日、例のカラオケボックスのパーティルームに、クィーンズの三巨塔が顔を揃えた。
 前回と違うところは、クィーンズのメンバー数名が後方のソファーに腰を下ろしているところだ。
「その後、大宮の方はどうだ」
 三巨塔を代表して、薫が口を切った。
「いえ、特別な動きはありません。奴らのグループは事実上解散で、学校側も内心ほっとしてるんじゃないですか」
 メンバーのミカが答える。
「あのデブ・・・名前は覚えてないが、あいつはどうなった?」
「はい。生命に別状はないようです。まあ、多少の障害は残るそうですが」
 鈴音は特別関心はなさそうで、ぼんやりと携帯をいじっている。
「ユミカ。池袋のほうの動きは?」
「いえ、目立ったものはありません。本郷南は相変わらず西池あたりで好き勝手やってますし。金村の方にもおかしな動きはありません」
「組のほうはどうだ?」
「さあ、表向きは平静ですが、内情はウチらには分かりかねます。そちら方面は姫姐さんのほうが詳しいのでは・・・あ、すみません」
 鈴音が冷たい瞳を向けたので、ユミカは肩を潜めた。
「それにしても、おかしいですね。仕掛けてきた割には反応が薄すぎます」
「そうだな」
 なぜか鈴音の反応も薄い。
「向こうがこちらに何を期待しているのか、それが解かれば対処のしようもあるのですが」
「それより、いちか。吉祥寺のほうは何かわかったか?」

「それは私より報告します」
 リカが立ち上がった。
 冴木いちかは幼少の頃から養父のDVを受け、精神的にも肉体的にも深いトラウマを受けた。
 その結果部屋に閉じ篭り、公共機関にハッキングしたり悪質なウィルスを送りつける生活を続けていたのだが、鈴音に外の世界に連れ出されて 以来彼女を崇拝し、そのハッキング技能を活かしてチームの情報担当を引き受けている。
 トラウマから言語障害に見舞われた彼女には、常に後輩のリカが通訳として寄り添っている。
「御門将介は、吉祥寺の武蔵野工業高校の2年です。あの高校を締めているのは、3年の神崎史郎という男です。ボクシング部の主将で、個人では都大会まで行った実力者です。人望も厚く、三多摩同盟の誘いから地区を守っています。しかし御門自体はチームには、属していないようですね。毎日、あの佐々木という男と連んでブラブラしてるようです。かといってチームと対立しているようにも見えない。神崎と個人的な付き合いはあるようですが、抗争とかに参加した形跡はありません」
「ふうん、それも妙だな。あれほどの腕の持ち主を、その神崎という男が放って置くとも思えない」
 薫が考え込む。
 鈴音は興味を失ったように再び携帯に眼を落とした。
「はい。喧嘩にならないそうです。あの御門が係わると、何故か喧嘩が収まってしまうとか」
「ほう」
「吉祥寺七不思議のひとつだって、みんな言ってます」
「それで、私生活のほうはどうだ」
「自宅は武蔵野市境北町です。祖父と二人暮らしのようです。両親はおりません」
「亡くなったのか?」
「両親は行方不明のようです。死んでいるのか、生きているのか、詳しい事は分かりません。近所の人も知らないようです。もともとあまり近所付き合いはないようです」
「祖父とふたり暮らしといったが、収入はどうしているんだ?」
「祖父の年金と兄の仕送り・・・あ、申し遅れましたが、別居している兄がおります」
「兄がいるのか? 何をしている」
「普通の会社員です。住所は祐天寺です」
「普通の会社員が、祐天寺になんか住めるのか?」
「いま流行のIT企業とかに努めているようです。ちなみにオフィスは六本木です」
「それで将介が渋谷に現れた理由はなんだ?」
 リカは困った顔をしていちかを見やる。いちかは知らん顔をしている。
「それが誰に聞いても、はっきりしないんですよ。元々あの御門という男は、地元からあまり出ないようで、いつもは吉祥寺で遊んでいるようなのですが。・・・まあ、気まぐれな男のようで、たまたま気まぐれで遊びに来たんじゃないですか?」
「たまたま、・・・ねえ」
 鈴音が言った。たまたまなんて話が信じられるかといでも言いたげだ。

「姫姐。そういえばオヤジに会いに行ったとか」
 薫は先日の集会で漏らした、鈴音の言葉を思い出していた。
「ああ」
 渋谷道玄坂一帯を締めるのは、広域暴力団住島連合会系一心会。そこの統括本部長桜木晃一郎という男が、鈴音の養父であり彼女のバック。いわいる「ケツ持ち」である。
 クィーンズはバックに一心会を付けていることもあって、警察に眼を付けられる事もなくこの渋谷で急速に力をつけてきたのである。
「オヤジの話では極城会に最近不穏な動きがあるらしい」
 一心会の属する住島連合会と極城会とは、古くから激戦地・新宿を挟んで縄張り争いを繰り返す敵同士でもある。
「詳しい話は聞けなかったが、傘下の組を使って、新宿渋谷周辺に何かを仕掛けようとしているらしい」
「すると金村組も、そのひとつですか?」
「そうかも知れないが、金村組は極城会の中でも弱小の組だからな。どこまで知っているかだな」
「その何かというのは、なんなのですかね」
 リカが口を挟んだ。
「よくは分からんらしい。上でも必死に探りろうとしているらしい。ひょっとしたら、今回のことが突破口になるかも知れない。オヤジは金村組に探りを入れるらしい」
「ではそちらは任せましょう。餅は餅屋といいますから」
「私たちの出る幕はないよ」
 鈴音が言ったとき、薫の携帯が鳴った。ふたことみこと言葉を交わして、薫が鈴音を見やった。
「センター街を警戒していたメンバーからの連絡です。吉祥寺が来ているそうです」
「将介か?」
 パーティルームがざわめき出す。
「いえ。連れの男のほうです。・・・なんて言ったか」
 薫は名前も思い出せない。
「どうしますか。さらいます?」
「いい、放っておけ。・・・いや、ちょっと待て」
 何かを思いついたように鈴音が顔を上げた。その形のいい唇に不適な笑みが浮かんでいた。
                                                        

デリヘル嬢「サユリ」

 渋谷道玄上の三叉路にある、ホテルグランデールの最上階のスィートルームである。
 俺は何故かこの部屋の窓から、渋谷の町並みを見下ろしていた。
20畳はあろうかという広い部屋。窓際のソファと大きな観葉植物。壁には100インチのモニターTV、反対側のサイトには小さなバーカウンターまでが据付られている。
 それよりも何よりも俺の視線を遮るのは、部屋の中央に陣取る天幕付きの大きなダブルベット。
 ここで何をするのだろう?
 おまけに隣にもうひと部屋。会議室のような部屋まである。
 こんなところで、一体何をしているのだ?
 ぼんやり霞む思考の中で、俺は必死に思い出そうとした。

 そう、俺はこの日一週間ぶりに渋谷を訪れた。
何をするという目的があったわけじゃない。いつも連んでいる将介が、兄貴の用事とかで留守だったため、何となく手持ち無沙汰だったのだ。
 それで気がついたら、渋谷行きの井の頭線に乗っていた。
 クィーン姫崎鈴音に会いたかったのかも知れない。
 鈴音は怖い。
 血みどろにされた大宮のデブ男の顔が浮かぶ。正直二度と関わりたくはなかった。
 しかし、あの凛と引き締まった横顔。
 風になびく長い黒髪。
 しなやかな指先から放たれる銀色の閃光。
 眼を瞑っても、まぶたの奥に浮かぶ美しい光景。
 一目だけでも観たいと思った。会うのは怖いが、遠くから観るだけなら。・・・
 それに彼女は俺のことなど、覚えてはいないだろう。
 そう思って渋谷までやって来たものの、考えてみればディズニーのパレードではないのだから、クィーンズが徒党を組んでセンター街を練り歩いているはずもない。
 何をやってんだ。
 自重の苦笑が浮かぶ。
 マイシティ内のエクセルシオーヌ。
 確かに俺は、その時そこにいたはずだ。
 そして、そう。あの男がやって来たのだ。

 それはキッチリとしたスーツに身を固めた紳士だった。
「失礼ですが、佐々木重吾さまでいらっしゃいますね?」
 男はうやうやしく頭を下げてそう言った。
「はい、そうですが。あなたは?」
「こちらをお預かりしております」
 問には答えず、男は一通の封筒を手渡した。淡いピンクの封筒である。
「確かにお渡し致しました」
「あの・・・誰から?」
 男は一礼をすると無言で去っていった。
 なんだろう?
 心あたりはなかった。
 何気なく封筒を開くと、そこには同じ色の便箋が一枚。中にはきれいな女性の文字で、050から始まる電話番号が書かれていた。
 ????
 頭の中がパニックになった。ピンクの便箋、女性の文字。・・・
 間違いはなかった。
 これはクィーンズからのメッセージである。
 背筋に冷たいものが走った。
 あのクィーンズが接触して来たのだ。
 頭の中に将介の言葉が蘇る。

 ・・・ま、接触してくるのは、十中八九俺のほうだろうがな。

 残りの二か一に当たったってわけだ。
 どうする。どうする?
 俺は暴風雨のように頭の中で必死に考えた。
 逃げるか?
 しかし存在が知られている以上、簡単にこの渋谷から出られるとも思えない。
 それにこんな時でも俺の頭の片隅には鈴音の面影が宿っていたのだ。
 俺は大きく息を吸った。
 とりあえず電話を掛けてみることだ。これがクィーンズの罠とは限らない。
 050から始まる電話番号はインターネットテレホンの番号だ。
 俺は携帯のボタンを押した。
「はい。お電話、ありがとうございます」
 通話口の向こうからは明るい女性の声が聴こえた。
「あの・・・誰?」
「は?」
 女性が訝しげな声を出した。
「あ、済みません。間違えました」
「あッ。あの・・・失礼ですが、佐々木さまではございませんか?」
 慌てて電話を切ろうとする俺を、女性の声が引き止めた。
「はい、佐々木ですが」
「ありがとうございます。お話は伺っております。では只今よりホテルグランデールにお越し下さいませ。フロントでタカハシと仰っていただければ、わかるようになっております」
「え、何のことです?」
 しかし女性は事務的にこう付け加えるだけであった。
「それでは佐々木さま、ごゆっくりお楽しみ下さい」
 そして、こういうことになったのだ。

 俺は何がなんだか分からないまま、ダブルベットに腰を下ろしていた。
 あの電話は一体何だったんだ?
 これはクィーンズの罠なのか?
 その時、来客を告げるインターホンの音が聴こえた。
 来客? 俺に?
 何気なく扉を開いて、俺は魂が喉元から飛び出すくらいに驚いた。
「ご指名ありがとうございます。サユリです」
 鮮やかなオレンジのスーツを身につけた美女が、満面の笑みを浮かべて立っていた。
 姫崎鈴音であった。

 見間違いかと眼を擦ったが、スーツ姿とはいえ紛れもなく渋谷のクィーンと呼ばれた美少女である。
「あ、あなたは、もしやクィーン・・・?」
「失礼しまーす」
 少女はボリュームのある胸で、押し出すように部屋の中に踏み込んだ。
 殆ど抱き合う形で後ろ手にドアを締める。
 オートロックがカチャリと音をたてた。
「その名を呼ぶな。今の私はサユリだ」
 耳元で囁くその冷たい声は、やはりクィーンのものだった。
 思わず背筋に冷たいものが流れた。
「こちら初めてですわね。お名前伺ってもよろしいですか?」
「あ、佐々木重吾です」
 知っているはずだ、と思った。そうでなければ自分を呼び出せない。
「重吾クンか、いい名前だね」
 そう言って鈴音、いやサユリは上着を脱ぎだした。
「やっぱ、まだまだ暑いよね」
 男物のワイシャツの胸が大きく膨らんでいる。やっぱり巨乳なんだと、こんな最中でも思ってしまう自分が哀しい。
「なんで、こんな所にいるんですか? クィ・・・いえ、サユリさん。・・・あ、ちょっと、ちょっと!」
 俺は慌てて声を挙げた。
 サユリが上着に続いて、当然のようにズボンを脱ぎ出したからだ。

「やっぱり、ちょっと太ったかな。ねえ、どう思う? 重吾クン」
 ズボンの下から剥き出しにされた真っ白なナマ脚を目にして、思わず顔を赤らめた。
 スラリとした右の太ももの付け根に、小さなホクロがあるのが妙に印象深かった。
 とびきりの美少女が、裸に男物のワイシャツという、妄想男子垂涎の格好でダブルベットに腰を下ろしている。
 あまりの非現実さに俺の思考回路は崩壊寸前だった。
 サユリがニコニコしながらベットの隣をポンポンして、ここに座れとばかりに合図をする。
 俺は夢遊病者のようにフラフラと、彼女の隣に腰を下ろした。
 彼女のしなやかな腕が俺の腕に絡みつき、柔らかなバストが押し付けられる。たちまち俺のアソコが大きくなる。
「ちょっとサユリさん。何ですか? これは」
 必死に妄想と戦いながら、俺は言った。
「何って、決まってるじゃん。デリヘルだよ」
「は?」
「はい?」
 二人は申し合わせたように顔を見合わせた。
「デリヘル、知らないの? 重吾クンだってエッチな雑誌くらい読むでしょ」
 それはこの世にデリヘルと呼ばれる怪しい天国が存在することは知っているが、まさかこれがそうなんて・・・
 えっ? エッ? ってことは?
「私、デリヘル嬢だもの。デリヘル嬢のサユリ。よろしくね」
 何がどうして、どうなった? 
 俺の頭はますます混乱した。
「ねえねえ、重吾クンって、もしかして童貞?」
「な、なにィ」
 図星を刺されて赤面した。
「あはは、やっぱそうか。私、童貞見るの初めてかも」
 あのね、この世代の男子は、大抵が童貞なんですよ。言ってやろうかと思ったが、喉がカラカラで声にならない。
「ねえねえ、今日は何をしてもいいのよ。ゆっくり楽しも」
 耳元で甘えるように囁く。そのあまりの可憐さに思わず押し倒しそうになった。

 私を抱きたくないの?
 いいわよ、好きにして・・・

 そう囁いた鈴音の誘惑が蘇った。
 血に染まったデブの顔が、脳裏をよぎった。
 恐怖が、今にも沈みかけた自我を呼び起こした。
 俺は悲鳴を挙げて、腕を振りほどいた。
「どうしたの?」
 サユリが驚いた瞳を向けた。
 俺は肩で息をしながら、何とか平静を保とうとした。
「サユリさん。何か聴きたいことがあって、俺を呼んだんでしょ。俺に分かることなら、なんでも話しますから。もう辞めて下さい」
「・・・」
 将介の言葉が思い出された。

 ・・・誰に話しても構わない。特別なことじゃないんだ。

 将介はこうなることを予見して、俺にあんな話をしたのか。俺がここから無事に帰れるように。
 まてよ、奴はもうひとつ重要な事を言っていた。
「将介のことを知りたいのでしょう?」
「ふうん」
 サユリの大きな瞳がクルクルせわしなく動く。
 観察しているのだ。俺の言おうとしている事が真実か否か。
 そして俺が何を企んでいるのか。
「ねえ、私のこと怖い?」
「そりや怖いですよ。あのデブがどうなったか、見てましたからね」
「そうか。・・・そうだよね」
 サユリが寂しそうに呟く。
「でも、キミは怖がっている割には冷静だよね。自制心もある。状況を判断する力にも優れている」
 手首を捻ると白い指先に、魔法のように鋭いナイフが出現する。
「もうこれはいらないかな」
 斜めに閃光が走って、数メートル先のソファのクッションに突き刺さる。
 改めて背筋が寒くなった。
「あはは、ウソウソ。冗談よ。私はデリヘル嬢だもの、そんなことはしないわよ。さて、それじゃ改めて、そこに座って」
 俺は再びサユリの横に腰を落とした。
 今度はサユリも不要に身体を寄せてこない。膝を付き合わせて、代わりに手を握ってきた。
「じゃ、聞かせてもらおうかな。私の知りたいのは、将介の技よ」


 道玄坂上のホテルのスィートルームである。
 俺はデリヘル嬢のサユリと名乗るクィーン鈴音と、ひょんなことからダブルベットに並んで腰を掛けることになっている。
 サユリは裸に男物のワイシャツという、夢のようなシチレーションだ。
「いま、見たでしょ、私のナイフ。彼はあれを難なく避けてみせた。普通の人間に出来ることじゃないわ」
「心法のことですか?」
 俺の言葉にサユリは眼を見張った。
「心法?」
「金剛心法です」
「聴いたことないわね。何それ、古流柔術の一種?」
「さあ、俺も最近聴いたばかりでよく知らないけど、何でも奈良時代に役の小角という人が始めた武道の一派らしい」
「役の小角」
「って誰ですか?」
 恥ずかしながら俺は、小角の事を知らずに将介の話を聴いていたのだ。
「役の小角というのは奈良時代の超能力者よ。修験道の開祖とも忍者の先駆者ともいわれている。前鬼後鬼という2匹の鬼を使役して、様々な呪術を駆使したと言われているわ」
「へえ、アニメみたいだね」
「まあ、あくまで伝説の域を出ないのだけどね」
「でも、その呪術を駆使したというのは、まんざら当たってないこともないぜ。あいつは闘いをコントロール出来るといっていた」
「闘いをコントロール?」
 サユリは眼を見張った。
「逆に聞きたい。そんなことが可能なのかな」
「無理でしょ。そんなことが出来たら、ボクシングでも柔道でも、その競技性を失ってしまうわ」
「でも、奴はやった。君の放った2発目の攻撃。あの直前、奴は「君のナイフは届かない」と言ったんだ。覚えてないか」
「ああ、・・・なんか言ってたかな。それで、ちょっとムッと来て、思わず力入っちゃったのよね」
 サユリは思い出しながら言った。
「その言葉が潜在意識に残って、君の手元を狂わせたらしい」
「ふうん。信じられないな」
「嘘じゃないよ。事実、俺は掌をテーブルに貼り付けられて、動けなくなった」
 俺は必死で説いた。
 信じてもらえなければ、この先何をされるか解らない。
「俺は将介が喧嘩をしているところを見たことがない。今にして思えば、喧嘩をしないんじゃなくて、喧嘩にならないんじゃないのかな。俺は奴が殴られるのを見たことがない。殊更よけているふうもないのに、誰のパンチも奴には当たらないんだ。でも今ならハッキリ言える、あれは当らないんじゃない。当てられないんだ」
 サユリはキラキラ光る大きな瞳で、俺の眼を覗き込んでいる。
 それにしても美人だよな。
 こんな場面なのにそんなことを思ってしまう。まったく男ってやつは仕方がない。
「信じるよ。嘘はついてないみたいだし。彼のそれはまあ、催眠術みたいなものかな。それにしても、そんなことで私のナイフが避けれるのかな? ・・・って、あれ?」
 そこまで言ってから、サユリはふと気がついた。
「ねえねえ、そんな事バラしちゃっていいの? 友達なんでしょ、キミたち」
「ああ。多分、大丈夫だよ。誰に喋っても構わないって言ってたから。・・・それより」
 ちょっと言い淀んだ。
「ん? どうした?」
 こんなことを話して、彼女は気を悪くするんじゃないかと、ちょっと迷った。
 しかしそのきれいな瞳を見ているうちに、隠し事をするのがひどく恥ずかしいことのように思えたのだ。
「こんな事を言うと気を悪くするかも知れないけど、将介の術は相手がそのことを知っているほうが、かけやすいのだそうだ。あいつはいずれ君達が俺に接触することを予想して、こんな話をしたんじゃないかな。いつか君と対決するとき、自分の有利になるように」
「・・・・」
 サユリは驚いて眼を見張った。
「ごめん。気を悪くした?」
「ううん。そんなことない。・・・ありがと。正直に話してくれて」
 サユリは再び腕を引っ張ると、自らベットの上に倒れ込んだ。
 反動で俺の身体もサユリの横に倒れこむ。
「ねえ、折角ベットにいるんだし、もっとリラックスしよ」
 サユリは左手で自らの頭を支え、半身に横たえて、仰向けになった俺の顔を真上から見下ろした。
 サラサラの髪が顔に降りかかり、シャンプーのいい香りが鼻をくすぐった。
「電気も絞ってムードを出すわね」
 室内灯を絞り、ブラックライトを灯す。
 部屋が薄暗くなって、彼女の白い顔が怪しく輝きだした。
「ち、ちょっと・・・」
 起き上がろうとする胸を抑えて起こさない。
「うふふ。じゃ、話の続き。将介はなんで渋谷にきたの?」
「将介には兄貴がいるんだ。なんでも探偵をやっているらしい」
「探偵?」
 それはいちかの情報にはなかった。
「なんでもある有名な代議士の愛人の娘が、渋谷で行方不明になったらしい。奴は、兄貴に頼まれて彼女を探しているらしい。・・・って、ちょっと、ちょっと・・・」
 俺は焦って、サユリの手を止めた。
 サユリが胸のシャツのボタンを外し、中に手を入れて来たからだ。
「あ、ごめん。なんかしてないと手持ち無沙汰なんだよね。職業病かな? 気にしないで」
 気にしないでと言われても、そういうわけにはいかない。
 ひんやりと冷たい、柔らかい指先は例えようもない快感を伴って、体中を這い回るのだ。
「それで、その娘見つかったの?」
「まだみたい。手掛かりが全然ないみたいなんだ。・・・あ、ダメ」
 乳首をいじられ、跳ね上がった。背筋を電流のような快感が走り抜ける。
「あ、すごい。大きくなってるよ」
 サユリがテントを張った股間に手をやった。
「苦しそう。出してやらないとね」
「だ、ダメです。サユリさん」
 サユリは無視してズボンのファスナーを下ろした。
 途端にバネ仕掛けの人形のように、俺自身が跳ね上がる。
「すごッ。普段、私の相手はおじいちゃんばかりだから、キミのような若いコは新鮮だよ」
 そう言って細い指先で撫で上げる。
「あッ、ダメ!!」
 戦慄が全身を駆け抜けた。
 身体が硬直し、気づいた時には爆発していた。
 花火のような噴出がしぶきを舞い上げ、ブラックライトに反射してキラキラと輝いた。
「すごーい!」
 サユリが少女のような声をあげた。大きな瞳がうるうると光っている。
「ねえねえ、も一回あれやって!」
 身体を押し付けて、甘えた声を出す。
「無理無理、いま出したばっかりだから」
「嘘、嘘。絶対出来るよ。もう大きくなってるし」
「いやいやいや、そういうことじゃなくて」
「だせー」
「ムリー」
 ふたりはベットの上を子犬のように転げ回った。そこに居るのは冷静で冷酷な渋谷の女王でもなければ、妖艶でキュートなデリヘル嬢サユリでもなかった。
 そこに居たのは、ただの18歳の女子高生、姫崎鈴音であった。
 やがて時間を告げるベルが鳴り、ふたりは身支度を整えて、迎えの車が到着するまでの時間を待っていた。
「あー、笑った。笑った。何年ぶりだろう、こんなに笑ったの。・・・お母さんが死んでからだから、もう5年も私、まともに笑ってなかったんだ」
「・・・」
「私ね。13の時からこんな仕事してるんだ。多いのよね、私みたいな女の子を好きにしたがる変態って。最初はね、嫌で嫌で仕方がなかった。だから必死でナイフを覚えたのよ。私をこんな目に合せた奴らを、いつか見返すために。でも2年も経つ頃には、自ら進んでするようになったわ。何故かわかる?」
「・・・いや」
「ナイフじゃ、あいつらに勝てないって分かったからよ。奴らの武器は1にお金。2に権力。私にはそのどちらもないわ。だから私は、私にしかない武器で大人達と闘うの」
「サユリさん・・・」
「ナイフもデリも、私にはとっては同じものだもの」
 うふふ、とサユリは可笑しそうに笑う。
「ねえ私って、綺麗だと思う?」
「そりゃもう、メチャクチャきれいですよ」
「ありがと。お世辞でも嬉しいわ」
「いや百人が百人、綺麗だといいますよ」
「でもね、私。この顔が嫌いなの」
 こんなに綺麗なのに、なんで嫌いだなんていうのだろう。
「何でですか?」
「私、13歳からデリやってるって言ったでしょ。もちろんやりたくってやったわけじゃなく、ある人に言われてやることになったんだけど」
「誰ですか?」
「怖い人。殺されちゃうから」
 クスリと笑う。
「でね。私がデリでひどい目に遭うのは、みんなこの顔のせいだと思ったのよね。もう少し人並みの顔に生まれていたら、・・・あ、これ自惚れじゃないから」
「分かってますよ」
「指名だって掛からないし、誰も私なんか抱こうとはしない」
「・・・・」
「でもね、ある日気づいちゃったんだ」
 急にサユリは嬉しそうな声をあげた。彼女は何を言おうとしているのか。
「中学3年の頃かな、ある日TVでお笑い番組を観ていたのよね。そこでは太った女芸人が、司会者をはじめとするひな壇芸人たちに、容姿のことで散々けなされていたの。そりゃーもう酷いもので、しねーブスとか」
「今だったらセクハラもんだね」
「そうね。私だったらキレて、ほら、例のナイフでズタボロにしているところだけど」
 こわっ。
 やっぱこの娘、メッチャ怖いわ。
「でも、何故だかその女芸人さん、散々言われても少しも怒らないの。もちろん少しは嫌そうにしてたけど、あれは演技。むしろ嬉しそうにしていた」
「なんで?」
「と、なるよね。だから私、ネットで調べてみた。そしたらその女芸人さん、並み居るアイドル、美人歌手、モデル等を押さえて人気No.1だった。それで私、ハッと気がついたのよ」
「何に?」
「太った体型も、決して綺麗とはいえない容姿も、彼女にとっては大切な武器なの。人に笑われ馬鹿にされることが、彼女にとっては生活の糧だった。そのためには心の痛みも屈辱感も何でもない。彼女はその武器で、並み居る強敵を押しのけていまの地位を築いたのよ。ねえ、これってすごい感動じゃない」
 俺は驚いた。当時わずか15歳かそこいらの女の子が、そんな発想に気づいたというのか。
「すごいね、その人。自分の弱点を見事に武器としているんだね」
「だからね。私はその時、この顔も、この身体も、すべてを武器にしようと思った。この身体が欲しいのなら、いくらだってくれてやる。その代わり、私は私の欲しいものを手に入れる」
俺は頭をハンマーで殴られた気がした。
 なんと、なんと哀しい女の子なんだ、君は。・・・
「・・・サユリさん。俺、俺、・・・」
「どうしたの?」
 堪らなかった。胸の奥に熱いものがこみ上げて、そして何ていうか、サユリに申し訳がなかった。
「俺は取るに足りない人間だ。頭も良くないし、力もない。将来の希望なんて何もない。それでも、・・・なんて言っていいか、わかんないけど」
「いい男だね、キミは」
 サユリは何ともいえない哀しげな顔をして言った。
「重吾クン。私のために泣いてくれた人はキミが初めてだよ」
「泣いてなんかないけど」
 サユリは冷たい手を、俺の頬にあてた。
「やっぱり泣いてるよ。・・・そんな顔しないで、私まで切なくなっちゃうよ」
 やがて迎えの車がやってきて、俺たちはホテルの玄関に向かった。
「今日は済まなかったな、重吾。礼を言う」
 いつの間にかクィーンに戻った鈴音が言った。
 こちらこそいい思いをさせてもらって、と言おうと思ったがやめにした。
「行方不明の娘の件だが、こちらでも当たってみる。名前はわかるか?」
「確か西脇鮎夢といったかな」
「何か分かったら連絡する」
 黒塗りの豪華なベンツが滑り込んでくる。
「わかっているだろうが、このことは他言無用だぞ」
 ベンツに乗り込みながら、鈴音が言った。
「あれは俺にとっても屈辱だ。とても人に話せることじゃない」
 一瞬、女子高生の顔に戻った鈴音だが、すぐに引き締めると車に乗り込んだ。
 車は静かに走り出した。
 これで終わりかなと思ったところで、車は急停車した。
 後部の窓が開いて、鈴音が顔を出す。
「将介によろしくな」
 そう言い残して再び車は走りだした。
 走り去るベンツを見送って、俺は鈴音の最後の言葉の意味を考えていた。
                                         

渋谷クィーンズ

 俺がデリヘル嬢サユリことクィーン鈴音にあった2日後のことだ。
 例のカラオケボックスに、鈴音以下クィーンズの主だった者たちが集まっていた。三巨塔の薫といちかは勿論のこと、情報班のリカ、戦闘班のヒロミ、探索班のユミカというメンツであった。
「今日、お前たちに集まってもらったのは他でもない。実は1月ほど前、センター街で西脇鮎夢という女子高生が行方不明になったそうだ」
 一同が揃うと、鈴音がゆったりと口を開いた。
「行方不明?」
 少女たちの間からざわめきが漏れた。
「静かにしろ!」
 サブ・リーダー格の薫が鋭くたしなめる。
「どういうことですか? 姫姐」
「リカ」
 それに応えず、鈴音は情報班のリカに発言を即した。
「はい。西脇鮎夢、立川の私立霞台女子高の2年生です。先月の13日、渋谷に友達と遊びに来た後、行方不明になっています。センター街のカフェで友達と別れたことはわかっていますが、それ以降の足取りはまるで掴めません」
「立川警察署には確かに西脇鮎夢の捜査願いが提出されていた」
 鈴音が補足した。
 姫崎鈴音は不思議な少女であった。
 警察や地元のヤクザ、果ては区議会議員にまで強力なコネクションを持っているらしく、様々な情報をもたらしてくる。時にはその強大な力の一部を駆使することも出来るようであった。
 地元や近辺のチームとの抗争にも係わらず、クィーンズのメンバーが一度も検挙されたことがないのは、そのせいだともいわれている。
 また、だからこそ彼女のチームが、事実上渋谷のトップに立っていられるのである。
 その理由を誰も知らない。
「それがどうかしたんですか?」
 薫が首を捻った。確かに女子高生の行方不明は重大事件だが、だからといってクィーンズが首を突っ込む事案ではない。そんなことは警察の仕事なのだ。
「わからんか、薫。この渋谷で女子高生が消えたんだぞ。私たちにとっても他人事ではない」
 珍しく鈴音は雄弁である。それも薫には気にかかる。
「行方不明なんて珍しくはないでしょう。渋谷に何人の家出少女がいると思っているんです」
「実はな、少し気になっていちかに調べてもらった」
 鈴音が促すと、いちかはポツリと言った。
「・・・この1ヶ月あまり道玄坂の周辺で4人の女子高生が終息を絶っている」
「道玄坂?」
 鈴音は頷いた。
「クラブ「マリンフォース」、知ってるな?」
「あまりいい噂は聴きませんね。ヤンキー連中のシャブの取引に使われているとか」
 薫は考えながら言った。
「その件にブクロが絡んでいるとしたら、どうだ?」
「まさか?」
 薫の頭の中でいくつかの事象が繋がった。
「調べてみる価値は十分にあるだろう」
「その前に聞かせて下さい。姫姐はその情報をどこから仕入れたんですか?」
 強い眼で鈴音を観る。
「それは言えんな」
「御門将介ですか?」
「ふふッ」
 可笑しそうに口元を押さえる。そんな鈴音を見るのは、薫にしても初めてだった。
「あの男に関わるのは反対です」
「将介だけではなく、お前は全ての男と関わるのに反対なんだろ」
 鈴音の応えに思わず力がこもる。
「姫姐もそうなのではないですか」
「私は全ての男たちを憎んでいるわけではない。私が憎むのは女を蔑む男だ」
「だから・・・」
 薫は言葉に詰まった。ここで鈴音と言い争っても仕方のないことだ。
「・・・わかりました。西脇の探索をはじめます」
「たのむ」
 そう言って鈴音は静かに席を立った。
「待ってください、姫姐。その前にひとつ聞かせてください。あなたは私の過去を知っています。私がどうして男を憎むようになったのかも。そしてこのいちかや、ここにいる皆もそれぞれ男にはひどい目に合わされた者ばかりです。あなただって、それは同じでしょう。だから私たちはクィーンズを作った。違いますか?」
「お前の言うとおりだよ」
「だったら何故?」
 フッと鈴音はため息を吐いた。
「なあ薫。この際、将介のことは関係ない。お前が何を危ぶんでいるかは知らんが、西脇鮎夢という少女が消息を絶ったという事実は動かせない。彼女が不埒な男どもにひどい目に合わされているのなら、それを何とかするのが私たちの使命なのではないのか」
「・・・・・」
 そう言われれば返す言葉がない。
「それに情報の提供者は御門将介ではないんだ」
 鈴音は愉快そうに言った。

 現在はなきクラブ「マリンフォース」は、渋谷道玄坂の半ばあたり、脇道に反れてしばらく行った場所にあった。当時渋谷では1・2を争うビッククラブであった。毎晩数十人もの渋谷ギャルや、それを目当てに集まって来るギャル男達でごった返していたものだった。
 この事件の後さしもの勢いは衰え、やがて巻き起こる東西やくざ同士の大抗争、いわいる「渋谷抗争」のあおりを受けて店を畳むことになる運命にあった。
 そのマリンフォースを正面に捉えるカフェの窓際の席に彼女たちは居た。クィーンズ探索班のユミカであった。
 彼女は後輩のトモミとマリンフォースに出入りする人たちに鋭い視線を向けている。夜間はあれ程賑わうナイトクラブだが、真昼間のいまは建物前もガランとして侘しいばかりである。
 鈴音たちクィーンズの幹部連中が探している、西脇鮎夢という女子高生が消息を絶ったのが、このクラブ・マリンフォースであった。センター街で友人と別れた彼女は、ひとりでマリンフォースに来ていたことが、近辺の聞き込みで分かったのだ。この周囲では彼女の他に、ここ1月程の間に4人もの学生が姿を消しているという。
 ただ事ではない。
 もちろん警察でも動いてはいるのだろうが、その行方はようとして知れないようだ。クィーン鈴音の話では、警察としても何度か立ち入り捜査はしたそうなのだが、行方はもちろんその痕跡さえも掴めなかったという。
 クラブ自体の経営には問題がない。
「警察でも分からなかったんでしょ。私たちが調べてどうにかなりますかね」
 レモンスカッシュの薄黄色の泡をストローでかき回しながらトモミが言った。左の目には大きな眼帯を当てている。例の大宮軍団との死闘で負傷を負ったのだ。
「そんなことは問題じゃないわ。姫姐さんがやれと言った以上はやるだけよ」
ユミカは鈴音と同じ神代女学館高校の2年である。学年こそ一緒ではないが、校内でも女王の雰囲気を持つ鈴音は、入学当時から憧れの存在であった。その彼女が鈴音と知り合う切っ掛けになったのは1年ほど前、当時付き合っていた彼氏との別れ話のもつれが原因だった。
 別れる別れないのトラブルの結果、元カレはストーカー化した。ケータイや家電への嫌がらせ電話に始まり、学校への行き帰りに後を付けられたり、夜中に拉致されそうになったりした。
 ユミカは毎日男の影に怯え、精神的な破綻を来す手間まで追い込まれていた。そんな彼女の窮地を救ったのがクィーンこと姫崎鈴音だったのだ。
 鈴音はどこからかユミカの危機を聞きつけ、彼女を近くのカフェに呼び出した。
「話はわかった。安心しろ、私が何とかしてやる」
 憧れの女王様に優しく声を掛けられ、それまで溜まっていた想いが込み上げ、ユミカは鈴音の前で泣き崩れてしまった。
 もちろん鈴音の言葉は単なる優しさのみに留まらず、強力な実行力を伴っていた。彼女とそのグループはストーカー化した元カレを追い詰め、2度と彼女には手出しを出来ないようにしてくれた。具体的にはどうしたのかは彼女は知らない。
 そんなことはどうでも良かった。ただ、ユミカにとっての鈴音は恩人であるとともに崇拝の対象であったのだ。
「うちのチームは、お前のような、男どもの理不尽な行為に苦しむ女の子を救うためにあるんだ。ユミカ、お前の力を貸してくれないか」
 そう言われれば拒むことは出来ない。かくしてユミカはクィーンズに身を投じ、献身的なまでの働きの結果、探索班のリーダーにまで登り詰めたのであった。
 だから姫姐さんの命令は何としてもやり遂げなくてはならない。
「ああ・・ユミカさん。あれ」
 不意にトモミが声を上げた。指差す方向をみると、マリンフォースの裏口あたりに3~4人程の男たちがたむろしているのがみえる。頭を異様な形に刈り上げた者や、派手な色のサングラスを掛けた者など、どう見てもまともな連中とは思えない。しかしどいつもこいつもがひどく若い。彼女たちと同年の高校生と思える。
「あの刈り上げの男、覚えがあります。私をこんな目に合わせた大宮のひとりです」
 トモミは眼帯に覆われた左眼に手をやって悔しいそうに言った。
「なんだって」
「間違いありません。あいつ、まだこんな場所に・・・」
「他の連中もそうなの?」
「いえ、他のやつらは見覚えがありません」
 観ているとトモミが指摘した大宮の刈り上げは、他の仲間にペコペコと頭を下げている。どうやらこのグループの中では彼が一番下っ端らしい。
「もしかしたら、やつらが本郷南の連中なのかも知れないわね」
「姫姐さんの言う通りブクロの連中が絡んでるんっすかね」
 トモミの言にユミカは大きく頷いた。
「姐さんの言うことは絶対よ」
「あっ、ユミカさん。連中、動き始めましたよ」
 中での用事が済んだのだろう、連中は裏口を閉めてゾロゾロと通りの方に歩き出した。
「どうします?」
 トモミが尋く。咄嗟にユミカは決断した。
「トモミ、薫さんに連絡を取りなさい。私は連中を追うわ」
「ユミカさん、危険ですよ」
「大丈夫。こうみえても私は、渋谷クィーンズの幹部なのよ」
 そしてユミカはトモミを残して、たったひとりで連中の後を追ったのである。

 この先のことは、すべての事件が終わった後、メンバーのユミカ自身の口から直接聴いたことだ。将介が何気なく依頼した事柄からこのような事になるとは、さすがの彼も想像しなかったに違いない。
 連中は細い小道を通ってホテル街のほうに向かう。
 この辺は昼間でも人通りは少ない。時折ホテルの出入り口から出てくるのは、デリヘルなどを利用した人間なのかも知れない。如何にも高校生前としたユミカに胡散臭い視線を投げかけてくる。
 もの陰から眺めていると、彼らはとあるホテルの中に入っていった。
 男同士でラブホへ?
 訝りながらも後を追うと、どうやら中までは入らないらしい。入口のすぐ横の植え込みに隠れるように車座に座り込んでいる。
 ややあってホテルの自動ドアが開き、ひと組のカップルが出てきた。女のほうはひと目でデリヘル嬢と分かる派手な化粧の女だった。相手の客は、とその顔を視てハッと息を呑んだ。
 ユミカはその顔に見覚えがあった。
 熊のような大きな頭。冷酷そうな小さな瞳。遠くからもわかる獣臭にも似た雰囲気。・・・
 この探索を命じられた時、情報班の冴木いちかに見せられた本郷南高校のアタマ、金村剛一の写真そのものだったからだ。
「金村。こんな所に・・・」
 金村は女を返した後、笑いながら連中に何やら渡している。
 薬剤シートに包まれた白い薬のようなもの。
 あれは・・・
「まさか、シャブ(覚せい剤)?」
 ユミカの心臓はドキドキ鳴り出した。
 確か金村剛一の父親は暴力団の組長だといっていた。やつはオヤジ絡みのドラックをこんな場所で捌いていたのか。
 親父が親父なら、子も子だな。
 金村からドラックを受け取った男たちがそれぞれの方向に散っていく。手にしたクスリを捌きに行くのか。
 男たちが散ってしまうと、当の金村もゆっくりとホテルを後にした。ユミカは息を殺しながら跡を付けていく。
 ホテル街を2ブロックほど進んだところで、金村は細い路地に足を向けた。手前のラブホの前には、如何にもという感じの黒塗りのベンツが停まっている。
 さしものユミカも少しためらったが、すぐに意を決したように路地に入り込む。その瞬間、ハッと息を飲んだ。先に入ったはずの金村の姿が消えていたからだ。
 尾行がバレていた?
 慌てて引き返そうとするユミカだったが、その退路を後から入ってきた男たちが塞いだ。ひと目でスジ者と知れる3人の男たちだ。
 先頭はパンチパーマに眉を剃った男で、その横にいるのは坊主頭の巨体である。さらにその後方には、高級そうなジャケットにサングラスの男が控えている。どうやらこの男が首領らしい。他の連中とは貫禄が違う。
「なんだ、誰かと思ったら可愛い女の子じゃねえか」
 後方から声がかかり、振り向くと金村がニヤつきながら立っている。
「お前、クィーンズか?」
「・・・・」
 ユミカは蒼白になった。罠に掛かったことを理解した。
「渋谷のクィーンズというレディースが、近辺のチームをことごとく潰しているという。女だてらに大したもんだ。まあ、それはどうでもいいんだが、俺らが渋谷で仕事をするのにはちょっと邪魔なんでな」
 仕事? シャブのことか?
 ユミカはヤンキー達に渡していた白い粉を思い出した。金村剛一がヤクザの親分の息子であることは聴いている。
 そんなことはお構いなしに、金村は淡々と話を続ける。
「それでまあ、先手を打って大宮の連中に潰すように言ったんだが、返り討ちに合っちまってよ。まったく使えねえ野郎どもだよな」
「それで?」
 ユミカは精一杯の虚勢を張って言った。
「ふん、いい度胸してんじゃねえかよ。だからよ、俺様がこうして直接出向いたってわけだ。・・・お前、クィーンズの何だ? 姫崎とかいうアタマはどこに居る?」
「知らないわよ。知っていても、お前らなんかに教えるか」
 ははは、と金村は大声で笑った。
「まあ、いい。ここじゃ何だ、場所を変えるか」
 パンチパーマの剃眉に腕をとられ、坊主と金村に囲まれて路地のさらに奥に連れ込まれた。そこは小さな空き地になっていて、駐車区域を示すロープが地面に這っている。
「仕事って何よ、シャブでも売るつもり?」
 男たちに囲まれてもユミカは頑として前を向く。
 こんなやつらに負けるもんか。負けたら姫姐さんに合わす顔がない。
「へえ、あの現場を見たんだ。じゃ、ますます帰すわけにはいかんな。お前さんにも実験材料になってもらう」
「実験?」
「お前さんで6人目だ」
「6人って、やっぱり道玄坂で行方不明になったって女の子は、お前らの仕業なのね」
「ほう。そこまで知っているとはな。そうだよ、あいつらも実験材料さ」
「だから何の実験よ」
「シャブとか言ったな、しかしあれはシャブじゃない。合法的なハーブだ。「お香」だよ・・・」
「坊ちゃん」
 サングラスの男が金村の言を遮った。
「そこいら辺で・・・」
「そうだな。おい、こいつも例の地下室へ閉じ込めておけ。・・・だが、その前に」
 金村は下卑た笑みを浮かべた。
「お前結構、可愛い顔をしているじゃねえか」
 ズボンの前を緩めながら近づいて来る。ユミカは身の危機を感じた。脳裏に元カレの顔が浮かぶ。
 あの時と同じだ。あいつもこうして嫌がる自分を押し倒した。
 ・・・お前が悪いんだぞ。俺たちは付き合っているんだ。それなのにお前が拒むから・・・
 なにを言っている。そんな男どもの勝手な理屈が通用するか。
「な、何をする気だ」
 身をよじって逃げようとするが、パンチパーマが羽交い締めにして動けない。
「うへへへ。いい身体だ。坊ちゃん、次は俺にやらせて下さい」
「わかってる。しっかり押さえておけ」
 金村は腕を延ばしてユミカの胸を握った。
 ヒッ。
 と、彼女は声にならない悲鳴をあげたが、大きな叫び声を上げて除けったのは金村の方だった。
 固く閉じていた眼を開くと、だらしなく尻をついた金村の左腕から銀色の棒のようなものが生えていた。
「で、例の地下室ってのは、どこなんだい?」
 駐車場の入口に純白のスーツに身を包んだ少女が立っていた。長い黒髪が秋風になびいている。
 張りのある漆黒の瞳がユミカを見詰めていた。
「ひ、姫姐さん・・・」
 潤んだ瞳でユミカが呟いた。

 どこから現れたのか、クィーン鈴音が微かな笑みを浮かべて立っている。
 夢かと思ったがそうではなかった。その証拠に金村は、いまにもレイプしようとしていたユミカを無視して鈴音に向かっている。
 鈴音のスーツ姿を目にするのは初めてだった。軽く両足を開いて、両手をパンツスーツのポケットに入れている。女性物のスーツ特有の腰周りのくびれが、女であるユミカの目にも眩しかった。
 まるで宝塚の男役のようではないか。
「あんたが渋谷のクィーン、姫崎鈴音か? なるほど、噂にたがわぬいい女だな」
 金村はナイフの刺さった腕を抑えながら言った。坊主頭に手伝ってもらって、何とかナイフを抜くことが出来たのだ。
「私と初めて会った男たちは、みんなそう言うわ。そして次にいうセリフが・・・」
 鈴音はうっとりとした眼つきで、長い黒髪を手ですいた。夕映えの空に銀の粒子が飛び散った気がした。
「・・・俺のおんなにならないか?」
「あははは。違いねえ」
 金村は笑おうとしたが、ナイフが刺さった腕が痛くてうまく笑えない。
「とりあえず、その子を離してもらおうか。話はそれからだ」
「そうはいかねえ、こいつは人質だ。お前が代わりになるってなら、話は別だが・・・」
 金村がそう言った時、ユミカを押さえつけていた男が悲鳴をあげてひっくり返った。その両肩に銀色に輝くナイフが刺さっている。
 いつナイフを抜いたのか、それをいつ投じたのか、まるで気がつかなかった。魔法のように、男の肩からナイフが生えたとしか思えない。
 そういえば鈴音はテーブルマジックの天才だと聴いたことがある。
「ユミカ、こちらへこい」
 自由になったユミカは泣きながら鈴音の背後に身を隠した。鈴音はそれを一瞥すらしない、冷たく冴えた瞳はジッと男達に向けられている。
「て、てめえ」
 痛みを堪えて金村が呻いた。その肩を抑えて、サングラスの男が前にでた。
「坊ちゃん。ここは自分が」
「黒田」
 金村やパンチパーマのチンピラとは違う、やばい雰囲気をまとった本物のヤクザ者だ。
「本職相手に舐めすぎだよ、お嬢ちゃん」
 男はジャケットの内側に手を入れた。その瞬間、銀色の光線が走って、金属が弾ける音が響いた。
 鈴音のナイフが回転しながら舞い上がっていた。
「クッ」
 2投目を繰り出そうとした手が止まった。男が銃口を向けていたからだ。
 彼は飛んできたナイフを、抜き放った銃口で弾き返したのだった。
「甘いな、お嬢ちゃん。あんたが銃を抜いた腕を狙ってくるのはわかっていた。わかっているなら、それを弾くのは簡単だ。ナイフを使うなら、ためらうべきじゃない。最初から殺す気でやらなければ、な」
「なるほど。次からはそうするか」
 銃口を向けられても鈴音は、相変わらずの涼しい瞳を向けている。
「そこが甘いというんだ。次なんてないんだよ、俺らの世界ではな。・・・両手を上げろ、ゆっくりとだ」
 鈴音は焦れったくなるほどゆるゆるとした動作で両手を上げた。しかし背後に回ったユミカには見えていた。彼女の開いた手の甲に、一本のナイフが張り付いているのを、だ。
 鈴音はナイフに細い釣り糸を結びつけ、中指の間に引っ掛けていたのだ。物を宙に浮かすマジックで、良くつかうテクニックだった。
「ところで話の続きがしたいんだがね、金村さん」
 最強の黒田を無視して、臆面もなく鈴音は金村に相対した。一群の大将は金村と判断したのだろう。
 いずれにしてもとんでもない度胸だ。
「何をだ?」
 腕の痛みを堪えながら金村が応じた。こうなればこちらのものだ、という余裕を見せたつもりなのだろう。
「拉致った女の子の監禁場所だよ。例の地下室とはどこのことだ?」
「馬鹿か、お前。そんなの言うわけないじゃないか」
「大体はわかる。女の子とはいえ複数ともなれば、そうやすやすと移動も出来ないだろう。マリンフォース近辺の貸しビルといったところか」
「て、てめえ・・・」
 金村は真っ赤になった。鈴音はクスクスと笑った。
「ほう、アタリか。お前、意外と正直なんだな」
「やかましい。黒田、やっちまえ」
 怒り狂った金村が命令した。
「可愛そうだが仕方ない」
 引き金を絞ろうとした黒田の指が停まった。いつの間にか鈴音の背後に、黒服の男たちがふたり、音も立てずに忍び寄っていたのだ。ひとりは190センチはあろうかという長身、もうひとりはガッシリとした壮年の男だ。ふたりとも拳銃を構えている。
「遅かったな。ひとりで片付けてしまうところだったぞ」
 鈴音は壮年の男に言った。男は小さく頭を下げてから、相対する男達に顔を向けた。
 強がりではなく、例え男たちが現れなくとも鈴音には自信があった。黒田はまだ鈴音が隠し持ったナイフを知らない。彼が銃を発泡する前にそれを投じることができれば、相手の機先を制することが出来るだろう。
「金村組の黒田尚季だな。久しぶりというのも何だが、まあ、そこまでにしておくことだ」
 壮年の男が落ち着いた声でいった。左の頬に大きな傷跡がある。
 一同に比べても段違いの貫禄をまとう男であった。あの黒田が気圧されて一歩も動けない。同時に坊主頭のほうには、長身男の銃口が向けられ、こちらも身動きが取れなくなっている。
「時任・・・」
 どうやら時任という壮年の男とは顔見知りのようだ。黒田は唇を噛み締めて肩で息をしている。
「どうしてもやるってんなら、相手になってもいいぜ。そうしたらお前、こりゃ戦争だ。お前さんにその度胸があるのか? え、黒田さんよ」
「なんで貴様が・・・」
 黒田は時任と鈴音の顔を交互に見比べていたが、やがて何かを納得したようにフッと笑った。
「坊ちゃん、引きましょう。・・・相手が悪い」
 黒田は銃を閉まって背を向けた。
「おい、黒田。どうした? あいつは一体、誰なんだ?」
 慌てて金村が跡を追う。ふたりのチンピラもそれにならって姿を消した。結局あの坊主頭の巨漢は一言も発することなく退場した。
 ユミカは呆然としてその場にしゃがみこんでいた。
 こんなことって、こんなことって・・・
 あまりに現実離れした出来事に声もでない。その彼女に鈴音が囁いた。
「私のことは誰にも口外するな。例え、薫やいちかにでもだ。わかったな」
 その氷のような口調にユミカの背筋は凍りついた。
 こわい。
 金村よりも、あのヤクザ達よりも、いまの鈴音の言葉はなによりも怖かった。あの連中とは住む世界が完全に違う。そんな世界で生きている鈴音は、もはや憧れの対象ではなく、むしろ恐怖の対象となったのだ。
 鈴音はふたりの男たちに挟まれるように去っていった。
 それから暫くして、トモミの急を受けた薫たちが駆けつけた時、ユミカは呆けたようにしゃがみこんでいた。
 その後、ユミカは精神を病んで病院に入院した。あまりの恐怖に声を無くしたのである。彼女が平静を取り戻し、俺のインタビューに応えたのは、すべての事件が終わったずっと後であった。
 あの時、どうして鈴音が現場に現れたのか、ユミカはずっと不思議に思っていたようだが、いまならその理由に思い当たる。そこがホテル街の近くであるということ。そしてユミカの目撃したという黒いベンツの存在。
 鈴音はサユリになった時、黒いベンツで現れた。恐らく彼女は、サユリとしての「仕事」の行きか帰りに、ユミカの危機に遭遇したのだろう。そして彼女の養父が、渋谷最大の暴力団・一心会のトップであることを知って、この時のあらましが理解できたのである。
 一心会と金村組とでは、恐らく暴力団としての格が違うのだろう。
 しかし、このときのことが、後の一心会と金村組との抗争に繋がり、果ては鈴音さんや俺をあのような目に合わせることになろうとは、神ならず俺の知らないことであった。

 それから3日ほど経った日の夕暮れ(つまり俺がサユリとなった鈴音と会った5日後だ)、俺たちは渋谷のカフェにいた。
 学校からの帰り道、将介の携帯にメールが入ったのだ。送り主はクィーンズの水咲薫であった。
「ほう、ようやくおいでなすったか」
 将介は嬉しそうに言った。
「何でお前のメールを知ってるんだろうな?」
「調べたんだろ。俺は有名人だからな」
「ほう」
 俺は考えていた。

 ・・・行方不明の娘の件だが、こちらでも当たってみる。

 鈴音はそう言った。
 もしかして、娘の居場所が分かったとでもいうのか?
「なあ、将介。例の行方不明になった娘の件だがな、あれから何か分かったのか?」
「いや、まだだが、・・・それが、どうかしたのか?」
「うん、ちょっとな」
「ふうん」
 将介は探るように俺の顔を覗き込んだ。
「なあ、お前。最近ちょっと顔つきが変わったな。大人っぽくなったぞ。何かあったのか?」
「い、いや。何もない」
 不意を突かれてドギマギした。
 少女のように瞳を輝かせた、鈴音の顔が浮かぶ。
 俺はまだ、鈴音に遭ったことを、将介に話してはいなかった。
「じゃ、また明日な」
 駅前で将介は言った。
「将介はこれから渋谷へ行くつもりなのか?」
「ああ、そのつもりだが」
「俺も行くよ」
 思いのほか強い声がでた。
 将介が驚いた顔をした。
「やめておいたほうがいい。これ以上は危険だぞ」
「そうも言ってはおれない。もう係わってしまっているんだ」
「どういう意味だ?」
 俺は決心した。
 どもみち、もう引き返せないし、引き返す気もなかった。
「お前には言ってなかったが、あの後クィーンに会っているんだ」
「なんだって」
「詳しくは後で話すよ」
「そうか」
 将介は妙に納得した表情をみせた。
 そして二人は、渋谷に向かったのである。
 センター街のカフェの2階である。
 将介に先日の話を終えたところだ。
 もちろん、鈴音がサユリというデリヘル嬢であり、そこで何があったかということは一切喋っていない。
 ただ、鈴音に話したこと、鈴音から聞いたことは、包み隠さず全て話した。彼女に拉致されかけたと嘘までついた。
 それが彼女の望んだ事だと俺なりに解釈したからだ。
「すまん、将介。お前の技のことを喋ってしまった」
「いや、前にも言った通り、俺の術は相手が知っているほうがかかりやすい。それより、謝るのは俺のほうだ。俺はこうなる可能性を考えてお前に心法の話をした。・・・俺はお前を利用したんだ」
「うん」
「わかっていたのか?」
「わかっていたよ。そして、今度はクィーンに利用されているのかも知れない」
「・・・済まん」
 将介が柄にもなく神妙な顔で言ったものだから、俺は思わず吹き出してしまった。
「冗談だよ。俺は利用されたなんて思ってはいない。お前にも、クィーンにもだ」
「重吾」
「話はこれまでだな。来たぜ、クィーンズ」
 水咲薫が2名の部下を伴って現れた。
「御門将介」
「よう。久しぶりだな」
 将介はニヤリと笑った。
 先日は超絶美女の鈴音と一緒だったからそう目立たなかったが、こうしてみると薫も中々の美形だ。どちらかといえば、中性的な美少年系だからチームの中にもファンは多いだろう。
 一方の薫はきつい眼をしている。敵意むき出しといったところか。
 先日から感じていたが、どうもこの子は男たちに対する敵意にも似た感情を持っているようだ。
「うちらクィーンズは、あんたらと手を組むことにした」
 薫は苦虫を噛み締めるような声で言った。
「へえ、そいつは有難い話だな」
「姫姐の指示だ」
「あんたは、納得出来ねえって顔をしてるぜ」
「ああ。正直、納得できない」
 薫は固い表情で言った。
「話は聞いた。あんたは闘いをコントロールするんだってな」
「まあ、そんな所かな」
「それは不可能だ。格闘技をやっている私にはわかる。そんな事は出来っこない」
「ふうん」
 将介は薫に向き直った。椅子に腰掛けたままだ。
「じゃ、やってみせようか?」
 場が凍りついた。目に見えない殺気が周囲に充満した。
 薫が動こうとした瞬間。
「水咲薫」
 強い口調で将介が言った。
 薫の動きが、一瞬停止する。
「あんた、「二枚刃の薫」って言うんだってな。見たいもんだな、その技を・・・」
「シャッ」
 将介が話終わる前に薫の呼気が疾った。
 しなやかな腕が将介の顔を襲う。
 殊更よけたとも思えないのに、その腕は彼の額をかすめて遥か上方に舞い上がった。
 殆ど同時にミニスカートの裾を跳ね上げ、薫の膝が横腹に突き刺ささる。
 その膝頭を将介の大きな掌が包み込んだ。
 将介が立ち上がった。
 薫に身体を密着させ、その耳に悪魔の言葉を囁いた。
「動けない」
 あ、あッ、・・・あ。
 動かない。
 薫は右手を高く持ち上げ、左の膝を曲げたまま銅像のように動けなくなった。
「うッ、グッ・・・あ」
 口も満足に動かないらしい。薫の身体がブルブルと震える。もの凄い力が加わっているらしい。
 あの時と同じだ。
 俺は思った。吉祥寺のカフェでテーブルに掌が吸い付いた時と。・・・
「薫さん!」
 事の異常さを察した部下達が駆け寄ろうとした。
「動くな!」
 腹の底に響くような声で将介が命令した。
 その途端、見えない手が出現し、俺の両肩を押さえつけた。
 薫の部下も同じようにその場で動けなくなった。
「ふうん。それで「二枚刃」か」
 将介は薫の右手を観て言った。
 薫の右手の指の間には、2枚のカミソリが挟まれていた。
「これで相手の瞼を切るって訳か。如何に格闘のプロでも、所詮力では男には敵わない。だからあんたは、まず瞼からの血で相手の眼を潰す。どんな屈強な男でも、眼が見えなきゃ勝負にはならんからな」
「・・・」
 薫はもの凄い瞳で睨みつけている。身体が動かないなら、視線で将介を睨み殺そうとするかのようだ。一方の将介は涼しい顔で、屈辱に染まる薫を見やる。
「それもご丁寧に2枚。同じ箇所を2度切りつけることにより、ますます血が止まり難くなる」
「グッ・・・」
 薫の瞳に血筋が滲む。その表情は殆ど恐怖に近い。
「クィーンのナイフといい、いちかの電撃といい。あんたらはよく女性の弱点を考えている。まったく見事なものだぜって、おい」
 薫は唇から血の泡をふいていた。そこで初めて将介は彼女の異常を察知した。
 あわてて指を鳴らす。
 途端に全身を押さえつけていた力が、嘘のように消え失せた。
 薫の身体がぐらりと揺れて、その躯を将介のたくましい腕が支える。残りのクィーンズも、糸の切れたマリオネットようにその場に座り込んだ。
「薫さん」
 クィーンズのメンバーが正体をなくした薫を心配して声をかける。その薫は将介の腕に抱かれて、グッタリと気を失っている。
「どういうことだ? 将介」
「わからん。俺の心法にはそこまでの効果はないはずだが・・・」
 俺の問いに将介は首を捻った。
「・・・う、ううん」
 やがて薫が眼を覚ました。ぼんやりと将介の顔を見やった後、ハッとしたように飛び退った。
「よう。大丈夫か? 済まなかったな」
「き、貴様」
 薫は傷ついた獣のような眼で睨んでいる。将介は考え込むように、
「お前、過去に何かあったのか?」
 と訊いた。それに対して薫は唇を噛み締めている。
「知らん」
「ふん、ならいいけどよ。過去に同じような目にあったことがあるんじゃないかと思ってよ」
 俺は驚いて将介の顔を見た。こいつは薫の何を知っているのだろう。
 しかし当の薫は眼を閉じて横を向いた。頑として口を割らない意志の硬さを感じた。
「まあ、いいか。じゃあ、本題だ。詳しい話を聴かせてもらおうか」
 それ以上の追求を諦めた将介は、椅子に腰を下ろしながら言った。

 渋谷からの帰り道。井の頭線の先頭車両に、俺と将介は並んで腰を下ろしていた。
「しかし、あのクィーンがお前に協力を求めて来るとはな。お前も随分と信用されたものだ」
 俺が言うと、将介は怪訝な面持ちで俺を見つめた。
「それは違うだろう、重吾。信頼されているのはお前のほうだ。信頼するお前の友達だから、俺のことも信用して構わない。クィーンはそう思ったんじゃないかな」
 俺はドキリとした。
「お前とあの姫姐との間に何があったかは知らんが。まあ、結果的には思った通りになったってわけだ」
 そういって将介は俺に頭を下げた。
「改めて謝らせてもらう。済まなかった。お前を巻き込むつもりではなかったんだ」
「だから、もういいって。結果が良ければそれでいいだろう」
「それにしてもお前。良くあのクィーンの信頼を勝ち得たな。一体どうやったんだ?」
「・・・別に何も。ただ、鬼ごっこをしただけだ」
 ベットで転げまわる鈴音の肢体を思いだし、思わず赤くなった。
「鬼ごっこ?」
「そんな事より、どう思う? 薫という子の話」
「クラブの一件か?」
 将介が言った。
 薫の話によると、鮎夢の捜査の過程で、ちょっと気になる出来事に遭遇したという。
 最近、道玄坂のあるクラブで、複数の少女達が行方不明になっているという。
 もともとこの近辺のクラブでは、ちょっと変わった「お香」が流行していた。
「スパイス」というこのお香は、ある種のハーブを乾燥させたもので、煙を吸うと麻薬のように、興奮、幻覚・妄想作用を発生させるという。
 現在でいう「脱法ハーブ」あるいは「危険ドラック」のはしりであった。
「そのお香と少女たちの失踪には、何らかの関係があるのか?」
「わからん。あとは姫姐たちに任せるしかない。しかし相手が麻薬絡みだとすると、俺たちの手には負えないかも知れないな」
 将介はしみじみと言った。

 薫は鈴音に報告を終えたところであった。
 鈴音は大した関心を示さず、背を向けてネールの手入れをしている。
「そうか、やはり本物だったか、あの男。お前を行かせて正解だったということか」
「姫姐」
 薫は硬い表情で言った。
「あの男に係わってはなりません。あれは危険な男です」
「ふん」
「いまだに信じられませんが、あの男が声を掛けると全身が硬直して動かなくなるのです。私だけではありません、彼の連れというあの男も含めた、あの場にいた全員がです」
「連れ? 重吾が居たのか?」
 そこで初めて鈴音は振り返った。薫は微かな違和感を憶えた。
 あのクィーンが男の名前を憶えた? それも将介のみならず、連れの男の名前まで?
「ご存知でしたか?」
「ああ、あのあと会って少し話をした。将介や西脇も情報やそのとき手に入れたものだ。お前には話してなかったか」
「そのようなことなら、私らがやりましたものを」
「それは、そうだが・・・まあ、気紛れだな。それより将介のことだが、確かに敵に回せば厄介な相手かも知れんが、味方にすればこれ程頼もしい味方はいないとは思わないか?」
「味方にですか? なりますかね。あの男が」
「味方というのに語弊があれば、友達くらいにならなれるだろう。なんと言っても、あの重吾の親友だそうだからな」
「友達?」
 鈴音の口からそんな言葉が出るとは信じられなかった。
「姫姐が友達と言うのを、初めて聴きました」
「そんなことはないだろう。お前、私を何だと思っている」
「姫姐」
 薫は乾いた声を出した。
「どうした?」
「少し変わりました?」
「何を言ってる。私は何も変わってはいないよ」
 鈴音は笑ったが、薫はしばらく前からそれに気づいていた。鈴音の周囲をまとわりつく、触れればビリビリとくる殺気のようなものが、少し前から綺麗に消え失せていることに。
「それより、クラブの方はどうだ。何か動きはあるか?」
 
 西脇鮎夢をはじめとする女子高生拉致事件、それには本郷南高校の金村一派が絡んでいることが分かってきた。金村一派の背後には指定暴力団金村組が潜んでいることもわかった。金村剛一は金村組々組長の実子なのである。
 そして女子高生たちは「お香」という新型ドラックの実験台にされているというのだ。
 それを探り出したのは探索班のユミカであった。情報を掴んだまでは良かったが、その直後彼女は金村組に拉致されかかった。
 同行していたトモミからの急報で現場に駆けつけた薫たちが見たものは、地面にうずくまり惚けた様に泣き叫ぶユミカの姿だった。彼女は途切れ途切れに、それまでの成果を報告したあとは貝のように口をつぐんだ。
 特に彼女が誰に助けられたのかという点に関しては、頑なに口を開こうとはしなかった。
 やがてユミカは精神に異常をきたし、病院に入院することになった。
 その後もクィーンズの探索は続いていた。
 特に探索班は班長の敵を取るつもりで、血眼になって渋谷中を歩き回った。
「例の本郷南の金村剛一の姿が、あの辺りで度々目撃されているようです。メンバーが周囲を張ってますから、何かあれば報告が入るでしょう」
 その探索班の報告を受けて薫が口を開いた。
「オヤジの話では、極城会は本気で渋谷への進行を考えているらしい。その先方が金村組ということなのだろう」
「大分繋がってきましたね」
「引き続き監視を頼む。どうやら娘たちはクラブ近辺の貸しビルに閉じ込められているようだから、しらみつぶしに探せばすぐに割れるだろう。彼女らの居場所が分かったらすぐに行動に移るぞ」
 もちろん鈴音はあの日のことを誰にも告げようとはしない。だから、何故彼女がいろいろな事を知っているのか不思議ではあった。もっとも彼女の不思議はいまに始まったことではない。彼女には彼女にしか理解できない情報網があるのだろうと了解していた。
 とは言っても、正直いって薫はあの将介らに協力する鈴音には賛同できなかった。というか彼女は男そのものを信頼しない。男であるというだけで、将介のことを信用できないのだ。
 あの姫姐がなんでそんなに簡単に「男」を信用するのか。
 普段の鈴音を知り尽くしている彼女にとって、それもまた謎であった。
 とはいえ拉致されたという少女には同情の余地がある。彼らの言うことが真実ならば、是非とも救ってやらねばならない。
「わかりました」
 薫は頭を下げて部屋を出て行った。
 鈴音は再びネールの手入れに戻った。その表情は、薫に対した時のものとは違って、ひどくやさしいものであった。

 そしてその数日後の深夜に、薫からのメールが届いたのである。
 深夜とはいっても、俺たちはまだゲーセンでたむろしていた時間だったから、すぐに渋谷に駆けつけた。
 薫たちとはセンター街の入り口で待ち合わせた。
 目的のクラブ「マリンフォース」はこの街の中程にある。
 クィーンズ側は、水咲薫と冴木いちか。
 あとはそれが彼女達の戦闘服なのだろう、黒いレザーの上下を身につけた少女達が10人ほど。
 格闘オタクの水沢薫が直々に鍛え上げた、生え抜きの戦闘員達だ。
 そういえば薫自身も、いつもの制服のミニスカートではなく、黒のホットパンツに同色のライダージャケットを着込んでいる。
 何故か冴木いちかのみは、いつものマント姿のままだった。
 ふたりが近づくと、スッと薫が身を寄せてきた。怒りにも似た強い視線で将介を睨んでいる。
「勘違いをするなよ。私はまだ、あんたを信用したわけじゃない」
「クィーンの命令だからか?」
 殺気すら感じるようなその瞳を、将介は平然と眺めている。
「知るか」
「そんなに憎いか? 男が、よ」
 将介の言葉にビクリと身を震わす。
「いろいろとあったんだろうな。お前もクィーンも、あのいちかって女もよ」
 そのいちかはどういう表情も見せずに二人の顔を眺めている。
「ふん。貴様に何がわかる」
「まあ、分からんが、世の中の男がすべてそうとは限らんだろ?」
 この男、どこまで知っているんだ。改めて薫は、目の前の男に不気味なものを感じた。
「いろいろとあるだろうけどよ、今はお互い敵じゃねえ。わかるだろ?」
 頭のいい薫のことだ、言われなくとも分かってるだろう。
「金村達は、いま店の中だ」
 薫はひとつ大きく息を吐いて言った。
「娘達はどうした?」
 将介が尋ねた。
「店の裏の事務所に監禁されているらしい。調べはついている」
「何故、彼女達が監禁されているんだ?」
「奴らが下ろしているハーブには、トリプタミン系の化合物が含まれている。マジックマッシュルームに含まれているものと同じだ。彼女たちはそれを強制摂取され激しい中毒症状を起こしている。奴らはその存在が知られる事を恐れたのだろうな」
「とんでもない話だ」
「灯台下暗し。まさか、自分達がクスリを売っているすぐ側に、監禁しているとは思わなかった」
 そうこうしているうちに、一行は店の前にたどり着いた。

「さてと、どうする?」
 将介は言った。
「取り敢えず、重吾は別口に回ってもらう」
 えっ、と俺は薫を見た。
「ここから先は危険だ。この二人について行ってくれ」
 薫はふたりの少女を引き合わせた。そのうちの一人は、以前大宮のハゲ男に手首を砕かれた、マキという名の金髪の少女だった。
「よう、久しぶりだな」
 手首にギブスを巻きつけた痛々しい姿で、将介に笑いかけた。
「お前、大丈夫なのか?」
「この程度で弱音を吐く、マキさんじゃないよ」
 薫は俺に向き直った。
「では、行ってくれ。向こうでは姫姐が待っているはずだ」
「クィーンが!?」
 胸が早鐘のように高鳴った。鈴音さんが、俺を待っている?
「将介」
 俺は将介を見上げた。うん、行け。というように将介は頷いた。
 それで俺の腹は決まったのだ。
 俺達がその場を離れると、薫が素早く残りのメンバーに指示を出した。
「お前たち二人は、いちかに付いて事務所へ向かえ。娘たちを救出する。私たちは正面からの陽動だ」
 薫がクィーンズのメンバーに指示を出している間に、俺は将介の腕を引いて物陰に誘った。
「さっきの話、どういうことだ?」
「さっきの話?」
「あの薫って子が男を憎んでいるってことだよ。薫だけじゃない。いちかって子も、あのクィーンも、男を憎んでいるみたいなことを言ってたじゃないか。そんなことをなんで知っているんだ?」
 実をいうと、他のふたりはともかく、クィーン鈴音だけは男を憎む理由に思い当たる点がある。それは彼女の過去を聴いたからだが、将介はそれを知らないはずだ。ましてや他の子のことなんか分かりようがない。
「別に彼女達のなにを知ってるってわけじゃない。あいつらの俺らを見る目に、なにやら憎しみのようなものを感じるんだ。だから、過去に男に関する何かがあったんじゃないかと思ったのさ」
「何だ特別な理由があるわけじゃないんだな」
 俺は少しホッとしていた。鈴音さんは、誰にも自分の過去を知られたくはないはずだ。
 将介はそんな俺を興味深そうに見ていた。
「前にあの薫に心法を掛けた時、彼女の反応が異常だった。あれは心法どうのこうのより、男によって身体の自由を奪われることに対する恐怖から生じたものだと俺は思う。だから彼女の過去に、それと似たことが起こったのじゃないかと想像したんだ」
「それって、つまり・・・・」
「それ以上は口にするな。まあ、そういうことだ」
「そうか・・・彼女も」
 鈴音のことを考えていたせいか、思わず口にしてしまった。
「彼女も?」
 案の定、将介は耳をそば立てた。
「彼女も、ということは、他にも何か思い当たるフシがあるってことか?」
「い、いや別に・・・そういうこともあるかな、と思っただけさ」
「ふうん」
 怪しい微笑を浮かべて俺の顔を覗き込む。
「お前、クィーンと何の話をしたんだ?」
 将介がそう訊いたところで、打ち合わせを終えた薫が近寄って来た。
「なにをしている。そろそろ始めるぞ」
 こわい眼をして言ったが、俺は正直助かったと思った。
 後年、彼女自身が語ったことだが、水咲薫は中学3年の時に、ある男によってレイプの被害を受けている。
 その頃より彼女は空手を習っており、腕にはそこそこ自信があった。道場でも同年代の男子には引けを取らない実力があった。ある意味、男を舐めていたのかも知れない。
 それで当時頻発していた暴行魔を取り押さえようと、無謀にも自分自身が囮になり、犯人を誘い出した。そこまでは良かったが、結局その男により彼女の自信も誇りもズタズタに切り裂かれたのだという。
 いまでこそクィーン鈴音を凌駕する長身の薫だが、当時は160センチにも満たない身体であり、特別な格闘技を知らないとはいえ、180センチを超える暴行魔とでは体力的に大きな差があった。習い覚えた彼女の技も、圧倒的な暴力の前にはまるで無力だった。
「その男に押さえつけられて、わたしは何も出来なかった」
 数年後、久しぶりに再会した俺に、当時を思いを彼女はそう語っている。
 身体能力にも空手の技にもそれなりの自信を持っていた彼女は、暴行魔の体力に圧倒され何もできないままに犯された。それは身体の傷にみならず、彼女の精神に多大なるトラウマを残すことになったのだ。そして同時に、所詮女の力ではどうあっても男には適わない現実を思い知らされたのだった。
 水咲薫が2枚のカミソリを持ち歩くようになったのはそれからだといっていい。
 将介の心法により身体の自由を奪われたとき、本能的にその時の恐怖を思い起こしたのだろう。
 数年の年月を経て、何とか当時を振り返る精神的強さを身につけた彼女だったが、いまでもその時のことを夢にみて夜中に飛び起きることがあるという。
「当時のクィーンズのメンバーたちは、多かれ少なかれそういう経験をしてきた者が殆どだった。鈴音はそういう無力な女の子たちの希望でもあったのさ」
 プロの格闘家になっていた水咲薫は、当時を振り返って懐かしそうに語ったものだ。

「すまんな。で、俺はどうするりゃいいんだ?」
 将介がのんびりした口調で言った。
「お前は私と一緒だ。文句があるか?」
「いや、了解した」
 薫がきつい眼をすると、将介は肩を竦めてみせた。薫はチビのマントへ眼をやった。
「では、いちか頼むぞ」
「・・・わかっている・・・」
 そう言い残して、冴木いちかは建物の裏側へ消えて行った。                       

乱闘の宴

 マリンフォースは巨大なホール付きの建物の1階だ。
 その周辺には多くの若者達がたむろして、あちらこちらで奇声が上がっている。
 とても近づける雰囲気ではない。
「どうする? まともに行っても中までは辿り着けないぜ」
 薫の耳に囁いた。
 薫はあからさまに嫌な顔をして身を引いた。
「だから、そう嫌うなよ」
 将介は苦笑するしかない。
 その時、店の中から3人ほどの金髪ギャルが飛び出して来た。
「薫さん、奴らは中です。密かにクスリを捌いています」
 さて、どうするか。
 薫は迷っていた。薫たちの目的は陽動である。いちか達のグループが少女たちを救出するまでの時間を稼ぐことだ。下手に手を出せば連中に用心させることになる。とはいえクスリの密売を放っておくわけにはいかない。
「俺が行こうか?」
 将介がニヤリと笑う。
「お前ら面が割れているだろう。俺なら問題なく入れる。そうは思わないか」
 薫は将介の顔をみた。将介は相変わらず邪気のない笑顔を向けている。
 こいつは、他の男たちとは少し違うんじゃないか。
 ふと、そんな事を想ったりもする。
「・・・分かった。お前に任す。但し、携帯は常にオンの状態にしておけ。何かあったら、すぐに駆けつける」
 薫は少し考えてから言った。
「ふうん」
 将介は珍しいものでも観るような眼で薫の顔をみた。
「な、なんだ?」
「いや意外だなと思ってよ。俺のことなんか、ハナから無視してるかと思ったぜ。心配してくれるとは意外だ」
「別に心配しているわけじゃない。お前がヘタを打てば、拉致されている娘達が危険だからだ」
 薫は少し赤くなって言った。
「なるほどな。ま、心配するな。ん、じゃ、行ってくる」
 いつもの通りにひょうひょうとして歩き出した。近所のコンビニにでも行ってくるような気安さである。
 
 店のエントランスでIDのチェックを受ける。
 IDは予めいちかが手に入れていた。
 2000円のドリンク券を受け取り、ロッカーでジャケットを脱ぐ。
 ホールの扉を開けると、叩きつけるようなクラブ・ミュージックの圧力が身体を抑え付ける。
 巨大フロアの中央に大きなダンスステージが設置してあり、その周囲には何十人もの若者達が狂ったようにステップを踏んでいる。
 DJボックスが繰り出すミックス・テープは、「ピット・ブル」や「ジェイ・ショーン」そして「ショーン・キングストン」といった定番ばかり。
 まるで、どこかの宗教の集会みたいだ。
 色とりどりのスポットライトが、信者達の周囲を駆け巡っている。
「これも、まあ。心法の一種かな」
 そんなことを思う。
 半裸の女性達や派手なスーツの若者達が踊り狂う横を、華麗なステップで交わして行く。
 DJボックスの陰や、2階のブースへと上がる螺旋階段の隅は、格好のナンパスポットだ。
 2階のブースはVIP席。
「金村が居るとすれば、あそこかな」
 廊下に出たところで、金髪のヤンキーが女の子に声を掛けている。
 どうやら只のナンパとは違うようだ。
 女の子を壁に押し付けて、ビニール袋に入った何かを手渡そうとしている。
「おい、そこのアンちゃん」
 声を掛ける。
「お香ってえのを探してんだが、あんた知んねえか?」
「なんだ、てめえ」
 金髪はこちらの体格を観てビビったようだ。その隙に女の子に逃げられた。
「何者だ?」
「だから客だよ。持ってんだろ?」
「なんの話をしてんだ」
 無視して行こうとする金髪の前に立ちふさがる。
「ケチケチすんじゃねえよ。ポケットから出すの観たぜ」
「これのことか?」
 金髪はポケットから、飛び出しナイフを取り出した。

「ふざけたことを抜かすと、ブッ殺すぞ」
 金髪の目つきが変わった。
 刃物を持つと性格が変わるタイプらしい。
「あんたバカだろ」
 言ってやった。
「なんだと?」
「そういう物はチャラチャラ見せびらかすもんじゃない。俺の知ってる女は、相手の身体にそいつをブチ込むまでは、そんな物を持ってるなんてオクビにも出さないぜ」
 そう言いながら、平然と歩みを進める。
「ふざけやがって!」
 ナイフによる脅しが効かないと思ったのだろう、泣きそうな顔をして切りつけてきた。
 ビビっている相手を術にはめるのは、赤子の手を捻るより簡単だ。
 よけるまでもなく、ナイフを握った男の肩を軽く叩く。
「がっ」
 金髪の身体が下方に崩れた。
「重くなったろう。俺が肩を叩くたびに、ナイフは重くなっていくぜ」
 男が歯を食いしばる。
「何故だ? ・・・ナイフが重くて、腕が上がらない」
 ナイフが重くなった訳じゃない。
 肩を叩かれた衝撃で、身体が流れただけだ。
「重くなったろう」と言ったせいで、ナイフが重くなったものと勘違いをしたのだ。
 これを「後付け」という。
 心法の基本中の基本だ。
 魔法でも何でもない。
 肩を叩く。
 耐えられないように、男は膝をついた。
「ナイフを離す事は出来ねえぜ」
「ち、ちくしょう」
 更に叩く。
 金髪は床に這いつくばった。
「次のひと叩きで肩が外れる。どうする?」
 焦れば焦るほどエスカレートする。
 それが暗示というものだ。
「わかった。ブツは渡す。助けてくれ」
 金髪は片手で、ポケットから乾燥ハーブを取り出した。
「こいつを捌けと命令したのは、本郷南の金村だな」
 男は情けない声で、簡単にうたった。
「ああ」
「奴は2階か」
「そうだ。これを何とかしてくれ」
 男が悲鳴を上げた時、フロアの扉が開いて数人の男達が飛び出してきた。
「前島さん!」
「てめえ、何者だ!?」
 金村剛一の部下たちなのだろう。クラブの中で怪しい人物がいないか警戒していた男たちだと思える。
「おい、みんな来てくれ。おかしな奴がいるんだ」
 男たちは入り口の方に声を掛ける。それに呼応して外を見張っていた十人近くの男たちが、慌てて飛び込んできた。
 面白くなってきたじゃねえか。
 思わずニヤリとした所へ、後方からも声が掛かった。
「ずいぶんとお楽しみではないか、将介」
 振り向くと水咲薫を先頭にクィーンズのメンバーが顔を揃えていた。将介が見張りの連中を引きつけたお陰で、彼女たちはやすやすと忍び込めたようであった。
 どうやら役者は揃ったようだ。


 マリンフォースの裏側。人々の喧騒を一歩外れ、裏路地を入ったこの辺りは嘘のように静まり返っている。
 目的の貸しビルはこの奥だ。
 その一室に少女達は監禁されているらしい。
 沢木いちかは二人の部下を連れて、その裏路地に入り込んだ。
 ひとりはリカという彼女の直属の部下で、情報収集係である。極端に無口な彼女の通訳係でもある。
 もうひとりはヒロミという戦闘班の少女である。
 高校3年生でありながら、身長178センチ、体重は73キロを誇る。こと格闘に関しては水咲薫に次ぐ実力者である。学校では元アマレス部に属していた。
 事務所の前には、ふたりの男たちがたむろしていた。
 ひとりは身長が168センチくらいのニヤケた男だ。
 頭を短髪に刈り上げ、キツネのような目尻には真珠のついたピンを刺している。首からは金属性のネックレスを垂らしており、腰パンのベルトがだらしなく地面を這っている。
 もうひとりの男は、明らかにヒロミより身長でも体重でもでかい。
 180センチ以上はあろうか、頭をモヒカンに刈って、見るからに凶悪そうな面構えだ。金属バットを肩に担いでいる。
 モヒカンが表通りから入って来る、いちか達に気がついた。
「なんだ、お前ら」
 とでも言いたげに、上から睨みつける。
 あまりの凶悪さに、リカとヒロミは一瞬たじろぐが、いちかはまるで気にした様子もなく近づいていく。
「なんだ、チビ。ここは立ち入り禁止だぞ」
 モヒカンは金属バットを振り上げるようにして睨みつけた。
「・・・じゃまだ、どけ」
 歯車が軋むような声。モヒカンは耳を疑った。
「何だと、このガキが!」
「消し飛ぶぞ」
 身長180センチのモヒカンと、身長145センチのいちかが真っ向から睨み合った。
「おい、ちょっと待て」
 短髪のキツネ目が、モヒカンを抑えた。
「革のマスクにマント。間違いない。このチビ、渋谷クィーンズの「雷鳴のいちか」だ」
「何だと?」
「噂では調布の族「イエローバディ」を、たったひとりで壊滅させたという」
 キツネ目のほうが少しは見識があるようだ。
 その時、表通りで歓声があがった。
 クラブのほうが騒がしい。
「・・・始まった、か?」
 いちかが後方のリカに囁いた。
「何ビビってんだ。こんなチビに何が出来る!」
 モヒカンが金属バットを振り上げた。
「なにが雷鳴だ。俺様がブチ殺してやる」
 もの凄い勢いで、いちかの頭上に叩きつけた。
 確かにまともに当たれば、頭蓋骨は陥没するだろう。生命も危ないかも知れない。
 しかし、いちかはマントを振り上げ、左腕を掲げて金属バットを受け止めた。
 ガツン!
 金属同士がぶつかりあう音が響いた。
 金属バットを受け止めたいちかの左腕は、肘から先が合金性の義手であった。
 しかもその先端には、強力なスタンガンが仕込んである。
 バチッ!!
 火花が散って、モヒカン頭は声もなくその場に倒れた。
 雷鳴のいちか。
「あきゃ、ひゃ」
 目の前で腕自慢の相棒を倒され、キツネ目の目尻がなお一層吊り上がった。腰パンのケツからバタフライナイフを取り出すと、やたらめったら振り回す。
 いちかの義手がその先端に触れると、キツネ目は一声上げて動かなくなった。
「・・・雷に刃物を向ける。愚の骨頂・・・」
 倒れ伏すキツネ目を平然と見下ろして、いちかはそう呟いた。
「なんだ、何だ。何事か!?」
 事務所の扉が開いて、3人ほどのヤンキー達が飛び出してきた。外の騒ぎを聞きつけたのだろう。
 しかしいちかにとっては、これほど都合の良い事はなかった。
「てめえら!何やってんだァ!!」」
 地面に倒れた仲間を観て、事態を把握したのだろう、3人の目の色が変わった。
 先頭の長髪が鉄パイプを振り上げた。
 いちかがそれを受ける。
 体格のいいジャージ姿の男は、何かのスポーツをやっているのだろう、素早い動きでヒロミの前に立ちふさがった。
 ヒロミは頭を下げて、強烈なタックルに行った。
 男が脇を締めてタックルを切る。
「むうッ!」
 ヒロミの全身に力がみなぎる。
 二度三度、男の身体をコンクリートの壁にぶち当てる。
 男は動かなくなった。
 その間に残りの一人が、リカを抑えつけていた。
 ヘビのように長い舌先にピアスを刺した、爬虫類のような男だ。
 臭い息を吐きながら、その舌先をリカの唇に押し付けようとしていた。
「いゃあ!」
 リカが悲鳴をあげた。
「げッ」
 同時に男も呻き声をあげた。
 いちかが後方から、男の急所をケリあげたのだ。
 更にヒロミがチョークスリーパーに極める。
 これで全員おとなしくなった。
 事務所の扉は開いたままだ。
 いちか達は事務所の中を覗き込んで息を飲み込んだ。
 飲み物のボトルや、カップ麺、弁当の食べ残し、様々なゴミが散乱した部屋の片隅に、毛布を被った4人の少女達が肩を寄せ合って震えていた。
 トロンとしたその瞳の焦点があっていない。
 何らかの幻覚症状を起こしているようだった。
 部屋の中からは、微かにハーブの香のかおりが漂っている。
「・・・リカ、救急車」
 いちかが言ったとき、ドンという腹の底に響く音が聴こえた。
 ドン、ドン、ドン!
 ・・・銃声?
 クラブの方から聴こえる。
 大丈夫か? 薫の奴。


 乱闘が始まっていた。
 クラブ「マリンフォース」のダンスフロアである。
 舞台はエントランスの廊下から、フロアに移っていた。
 十数人の本郷南高校の不良達に相対するのは、渋谷クィーンズの精鋭6名である。
 格闘オタクの水咲薫が、特別に鍛え上げた戦闘エリート軍団だ。
 ダンスフロアに一般の客はもはやいない。怒号と肉体を打つ音だけが響いている。
 薫のしなやかな腕が踊るたびに、男たちの額から血煙が舞い上がる。

 二枚刃の薫。

 これが薫の戦闘スタイルだ。
 人差し指と中指、中指と薬指の間に2枚のカミソリを挟んで、それで相手の瞼の上を切りつけるのだ。
 傷口から流れ落ちる血液は目に入り、敵の視力を潰す。
 瞼の上の傷は小さくとも、簡単には塞がらない。
 ボクサーの傷口を塞ぐ、カットマンという職業が存在するくらいだ。
 ましてや2枚のカミソリで、同一箇所を抉られては止血できるわけがない。
 薫は過去の経験から、男性と女性の体力の相違については、嫌というくらいに理解している。
 どんなに虚勢を張っても、所詮女性の力では男性には勝てない。
 相手が素人ならばともかく、同じ格闘技を身につけた男性には絶対に勝てないのだ。
 では、どうするか?
 薫が辿りついた結論は、相手にハンデを与えることであった。
 如何に屈強な男性といえど、目が見えなくては勝負にならない。
 事実今回の闘いでも薫は真っ先に相手の眼を潰し、それによって味方の戦況は圧倒的に有利なものとなった。
 眼が見えなくなった相手に対して、味方のパンチやキックは面白いように決まる。
 特に薫のシュート技術は芸術品だ。
 将介はフロアの中央のテーブルに腰掛けて、格闘アーティストのような薫の動きをうっとりと眺めている。
「おい、将介。少しは手伝わんか」
 乱闘のけりがついてきた所で、薫が話しかけてきた。
「俺は喧嘩はしないんだ。基本的に平和主義者なんだよ」
「平和主義が聞いてあきれる」
 薫が笑いもせずに言った時である。
 パン!
 耳をつんざく銃声がフロアに響き渡った。

 その威圧感は圧倒的だ。本能的に身の危険を感じて、敵も味方も身を固くして一斉にその場に伏せた。
 どこ吹く風で、のんびり椅子に腰掛けているのは将介くらいなものか。
 見上げると、2階のブースに続く螺旋階段を、もの凄い眼をした男が拳銃を構えて降りてくる所であった。
 金村剛一である。
 ヒグマが後ろ足で立ち上がった印象を与える。見るからに凶悪そうな面構えだ。
 金村は左腕を肩から吊っている。道玄坂で鈴音のナイフに貫かれた傷跡だ。右手に構えた拳銃をこれみよがしに振り回している。
「どいつもこいつも俺の邪魔ばかりしやがって、ブチ殺されたいのか!」
 ジロリと階下の一同を見回すと大声で笑い始めた。ドラックでもやっているのか、焦点が定まらない。
「これはこれはクィーンズさんのお出ましじゃあねえか。クィーンはどこだ? 鈴音を出せよ、この俺様がぶち殺してやる」
「クィーンはいねえよ。今頃デートで忙しいいんだろ」
 シンと静まり返ったフロアに大きな声が響き渡った。金村の猛獣のような眼がジロリと動いた。
 その銃口がのんびりと足を組んで、椅子に腰を掛けている将介に向けられた。
「何だ、てめえ。その態度は」
 俺様が拳銃を向けているんだ、もう少しビビったらどうだ、とでも言いたげであった。
「お前さんが金村剛一かい?」
「なめてんのか、てめえ」
 ふふん。
「親父がヤクザだと、買ってもらうオモチャも物騒だな。え、金村よ」
 将介がゆっくり立ち上がる。
「死にてえのか、てめえ」
 目が血走っている。今にも引き金を引きそうな勢いだ。
「おい、将介。挑発はやめとけ、あいつ相当ヤバイよ」
 見かねた薫が声を掛けるのへ、将介は鮮やかに笑いかける。
「心配はいらねえよ、薫。お前だって知ってるはずだ」
 そしてフロア全体に響く大きな声で、金村に向かってこう宣言した。
「お前の弾丸は、俺には当たらねえよ」
 金剛心法。
 まさか、この状況でも通用するのか?
 将介は口元に微笑を浮かべながら金村に近づいていく。
「てめえ、マジか?」
 金村の顔からうすら笑いが消えた。目の前に突きつけられた銃口に一切ビビらない将介に異様なものを感じたのだ。
「正気か? てめえ、チャカが目に入らないのか?」
「だから、お前の銃は当たらねえって言ってるだろ」
 将介は悠々と螺旋階段を登り始めた。まるで自宅の2階にでも上がるような気楽さだ。
「なめやがって・・・」
 金村の頬に引きつったような笑みが浮かんだ。
「そんなに死にたきゃ、殺してやんよ」
「やめろ!」
 引き金に掛かった指に力がこもる。薫の絶叫が轟いた。
 バン!
 空気を切り裂く炸裂音。同時にきな臭い火薬の臭いが鼻をつく。
 思わず閉じた瞳をあけて、薫は呆然と佇んだ。
 階段の上から銃を構える金村剛一。下から階段を登り始めた御門将介。
 ふたりは停止した動画のように向かい合っている。
 金村の手にした銃からは火薬の臭いのする煙が立ち登っている。
 将介は人差し指で自らの頬を撫でる。そこには一筋の血筋が滲んでいる。
「へえ、思ったよりいい腕してんじゃねえか」
 将介はとろけるような笑みを浮かべて言った。
 金村の放った弾丸は、将介の頬をかすめて後方に飛び去ったようだ。その頬からは一筋の血筋が滲んでいる。
 将介は汗でも拭うように指先で血痕を絡め取る。
「だけど、あたらない・・・」
 将介は指先に付いた血液をペロリと舐めたあと、再びゆっくりと登り始めた。
「よせ、やめろ。俺に近づくな」
 金村は拳銃をまるで怖がらない将介に不気味な恐怖を覚え、浮ついた声をあげた。
 ・・・なんだ。何なんだ、こいつは。チャカが怖くないのか? 死ぬことが怖くないとでもいうのか?
 額にビッシリ汗が浮かんでいる。
「どうした金村、暑いのか? そんなに汗をかいて」
「やかましい」
 金村が吠えた。
 将介の巨体がゆっくりゆっくり近づいて来る、その頬に涼しげな微笑を浮かべたままで。
「やめろ、来るな」
 金村の目は完全にイッている。危険だった。
「いいぜ、射ってみろよ。どうせ当たらないしな」
 やめろ!
 薫は声にならない叫びをあげた。
 これ以上やつを挑発するな。
 金村は泣き出しそうな表情で引き金を引いた。
 パン!
 薫は思わず眼を閉じた。
 しかし将介は平然と歩き続けている。
「ほらな、当らないだろ」
「よせ、将介。危険だ」
 薫が叫んだ。
 金村はパニックに襲われたように、滅茶苦茶に銃を振り回した。
 しかし。
 当らない。
 弾丸はまるで将介の身体を避けるかのように、右に左に逸れていく。
 なんだ、何んなんだ。これは?
 拳銃を持って追い詰めているのは、金村のほうなのに、まるで奴のほうが追い詰められているようではないか。
 薫は眼を見張っていた。
 ・・・と、いうことはつまり。
 つまり、心法の正体とは。・・・
 とうとう将介は、階段の踊り場にいる金村のところまでたどり着いた。
 金村の手を取って、銃口を自分の胸にあてる。
「ほら、これなら外さねえぜ」
 金村は恐怖の絶叫をあげた。
 最後の引き金を引いた。
 弾丸は出なかった。すでに全ての弾丸を撃ち尽くしていたからだ。
 金村はその場に崩れ落ち、座り小便を漏らし始めた。
「無茶しやがって」
 薫が言った。
「別に無茶でも何でもない。そもそも素人が銃を当てようとしても、そうそう当たるもんじゃねえ。ましてやこいつみたいにビビってれば尚更だ。銃身がブレまくるからな」
 そんな事はわかっている。
 しかし、たまたまということもある。兆弾ということもある。百%当らないとは、誰にも言い切れない。
 つまり心法とは、究極のハッタリのことなのだ。
 しかし、そのハッタリを支えるのは超人的な度胸と、何事にもブレない精神力の強さだ。言い換えれば勇気といってもいい。
 少しでも自分自身に迷いが生じれば、たちまちのうちに術は解け窮地に立たされる。
 自分には出来るのか?
 薫は自問する。
 あの銃口の前に立ち、絶対に当たらないと言い切ることが出来るのか?
 出来ない。出来るはずがない。
 敵わない・・・
 そう思うことが、すでに奴の術にはまったということなのか。
「ふん。喧嘩にもならん、か」
 薫は惚れ惚れとして、将介の姿を見上げていた。

さよならの挽歌

 そんな事が起こっていたとは、夢にも思って居なかった。
 センター街でタクシーを拾い、クィーンの待っているという目的地に急いでいた。
 マキと名乗る金髪のヤンキー少女と、マナミという黒髪の少女と一緒である。
 マナミは、如何にもヤンキー然としたマキに比べれば、何でこの子がクィーンズに居るのだろうというくらいのおとなしめな少女であった。
 どちらかと言えば、図書館で難しめの本を選んでいるほうがふさわしい。
 それぞれに事情があるのだろう。
 俺はマナミの横顔を眺めながらぼんやり考えていた。
「将介の奴、今頃どうしてるかな」
 マキがしきりに話しかけてくる。
 彼女とは前回、渋谷に来た時に出会っている。
 大宮のハゲにカッターナイフで向かって行って、木刀で手首を折られたのだ。
 今でも手首のギブスが痛々しい。
 将介に庇ってもらってから、彼には好意を抱いているらしい。
「さあな、奴は喧嘩が苦手だから、大方みんなの後ろで尻込みをしてんじゃないか」
「そんな風には見えんけどな。なあ、お前あいつの親友なんだろ?」
「まあ、そんなとこかな」
「どういう奴なんだ? あいつ」
「さあ」
 考えてみれば、どんな奴かは釈然としない。特にこのところは驚かされることばかりだ。
 もしかすると、親友と思っているのは、俺だけなのかも知れない。

 タクシーは南青山を目指していた。
 後で知ったことだが、そこは暴力団一心会のいくつかある事務所のひとつだった。
 一心会は広域暴力団住島連合会の傘下で、渋谷から青山、神宮前周辺を締めていた。
 クィーンこと姫崎鈴音は、暴力団一心会の統括本部長桜木晃一郎の養女であった。これも後で知った事実である。
 12歳の時、不慮の事故で両親を亡くした鈴音が、どういう経緯で桜木の養女になったのかは未だに解らない。
 やがてタクシーは古びた貸ビルの前に滑り込んだ。
 このビルの一階に一心会の事務所はある。
 警察の眼を逃れるかのように、路地の片隅にひっそりと佇む貸ビルである。
 角部屋の一角に明かりが灯っている。
 あそこに鈴音さんが居る。
 そう思うだけで胸が高鳴る。
 もう久しくその顔を見ていないような気がしていた。
 俺は二人の誘導で、裏口からビルの中に入り込んだ。
「姫姐さんはこの部屋で待っている」
 マキがスチール製の扉をノックした。
「入れ」
 中から聴こえたのは紛れもなく女王鈴音の声だった。
 ドアを開けると、携帯をいじっていた鈴音が、無表情のまま顔を上げた。
「重吾さんをお連れしました」
「ご苦労。下がっていいぞ」
 マキとマナミが席を外すと、無表情だった鈴音の顔が、蕩けるような笑顔に変わった。
「待っていたわ、重吾クン。会いたかったわよ」
「鈴音さん?」
「私ね、話したいことがいっぱいあるの・・・」
 花のような笑顔で立ち上がった。
 フワリ。
 柔らかい弾丸のように、鈴音の身体が飛び込んできた。えもいえぬ香りが周囲を包む。
 これは本当に渋谷の女王、クィーン鈴音なのか?
「ちょ、ちょっと鈴音さん」
「ウフフ」
「あなたは鈴音さんですか? それともサユリさん?」
「どっちだと思う?」
 首に抱きついたままそう尋ねる。そして顔をあげて、しげしげと俺の顔を見詰める。
「重吾クンはどちらの私が好き?」
「どっちって・・・」
 そんなの決まっている。
「僕が好きなのはクィーンでもサユリでもなく、素の姫崎鈴音さんですよ」
「ふうん」
 鈴音の顔から笑顔が消えた。
「ねえ、キミって本当の鈴音の何を知ってるっていうの? そんなもん、本人の私だってとうの昔に忘れているのに」
「知ってますよ、僕は」
 そう、俺は知っている。本当の姫崎鈴音を。
「あの日、僕と一緒に笑い転げた。ベットの上で追い駆けっこをした。あの時のあなたの笑顔、あれこそが本当の姫崎鈴音だと、僕は思います」
 鈴音は暫くジッと俺の顔を見ていた。そして耐えかねたというように、プッと吹き出した。
「ごめん、ごめん。キミならきっとそう言うと思っていたわ」
 それからふたりは窓際のソファーに並んで腰を下ろした。
「ごめんね、重吾クン。今日だけ、・・・今日だけ私に肩を貸して」
 そう言って、俺の肩に頭を乗せる。フワリと黒髪が頬をくすぐる。なんともいえない甘い香りがした。
 俺は緊張で動けなかった。女の子ってなんでこんなにいい匂いなんだろ。
「あの・・・鈴音さん?」
「ダメ。もう少しだけ」
 横目で顔を見る。鈴音は俺の肩でうっとりと瞳を閉じている。
 これは、もしやチャンスでは?
 不埒な想いが脳裏をかすめた。ファーストキスのチャンス。しかもあの姫崎鈴音と。
 心臓がドキドキと鳴っている。
 出来るか? 出来るのか? 
 鈴音さんだって、俺のことをまんざらとは思ってないのに違いない。好きかどうかまでは分からないが、少なくとも嫌ってはいないはずだ。ここで彼女の唇を奪うことが出来れば。・・・いやいや、もしも俺の勘違いだったらどうする? いまはサユリモードだけど、クィーンのモードが目を覚ましたらどうなる。
 俺はブルッと身震いした。
 それでもうっとり目を閉じる鈴音は、この世のものとは思えないほど美しい。
 ええい。ままよ・・・
 俺は唇を近づけた。俺の唇が鈴音の頬に触れる瞬間、ハッと彼女が眼を見開いた。
「いや!」
 思わず両手で突き放す。しまった! しくじった。俺の完全な勘違いだ。やばい、怒られる。
 しかし鈴音は怒らなかった。恐る恐る目を開けると、なんともいえない悲しげな眼で俺を見詰めている。
「ごめん、重吾クン。そんなつもりじゃないの」
「いいです。わかってますから。俺なんかじゃ鈴音さんの相手にはなりませんよね」
「違うの、違うの。私、・・・悪いのはわたし、重吾クンは悪くない。相手にならないのは私のほう」
 その目が必死だった。俺のほうが驚いてしまったほどだ。
「なに言ってるんです?」
「私は汚れている。私みたいな女の子、重吾クンにはふさわしくない」
「デリヘルのことですか? そんなことは気にしてませんよ。だってあれはサユリさんであって、本当の鈴音さんではなく・・・」
「違うの、違うのよ。本当はわたし・・・」
 その悲しげな顔が、みるみる鬼の形相に変わる。
 扉の横に小さな洗面台があり、その上に鏡が設置されている。
 鈴音はその中に何かを見つけたのだ。
「危ない! 重吾!!」
 鈴音が飛びついて来たのと、
 パン!
 という炸裂音。ガラスの砕ける音が同時に聴こえた。
 眼の前が真っ赤に染まる。

 鈴音が撃たれた?

「どうしました?」
 ドアが開いて、ふたりが顔を出す。
「馬鹿。隠れてろ」
 パン! パン!
 銃声と共に蛍光灯が砕け、周囲が漆黒の闇に包まれた。鈴音がナイフで蛍光灯を打ち抜いたのだ。
 鈴音は左腕を抑えてうずくまっている。
 パン! パン! パン!
 暗闇の中を刹那の火花が明滅する。
 襲撃者達は、盲滅法攻撃しているらしい。

 どうする? どうする?

 このままじゃ、みんな殺される。
 せめて鈴音だけでも何とかしなくてはならない。
 俺は即座に決断した。
「俺が囮になります。鈴音さん達はその間に逃げて下さい」
「何を言ってる。お前、死ぬぞ」
「平気です。俺、逃げ足だけには自信があるので」
 そう言い残すと、迷うことなく片方の窓を開けて外に飛び出した。
「馬鹿! よせ。戻れ、重吾!」
 鈴音の金切り声を背中で聴きながら、俺は走った。
 走って、走って、走り続けた。
 全盛期の俺だって、こんなに真剣に走ったことはない。
 ああ、そうだ。
 生命がかかっているのだったな。
 身体中が熱い。脚が鉛のように重い。
 それでも走るのは止めない。
 そうだ。諦めなければ、国体だって夢ではなかったのだ。
 国体、行きたかったな。
 いまからだって遅くはない。
 努力をすれば、出来ないことはないんだ。
 ゴールはどこだ?
 微かに明滅するパトランプの明かりが見える。
 あれがゴールか? ゴールなのか?
 俺は希望へ向かって走り続けた。

 ・・・ご。重・・吾。
 眼を開ける。
 目の前に、涙でぐしゃぐしゃになった鈴音の顔があった。
 ・・・折角の美人が台無しですよ、鈴音さん。
「死ぬな、死ぬな。重吾」
 何を言っているんです。折角会えたのに、死ぬわけないでしょう。
 手を延ばして、頬の涙を拭う。
 ただ、ちょっと休ませて下さい。久し振りで全力疾走したので疲れました。
 ああ・・やっぱり、トレーニングしない・・と・・いけ・・・


 病院のベットで眠っていた。
 渋谷区内の病院の一室だ。
 両腕には何本もの点滴ライン。輸血の赤いライン。
 胸には心電モニター。顔には酸素マスク。
 そして腹には溜まった血液を抜き取る、チューブまでが埋め込まれている。
 銃弾云々より、血を流しすぎたのだ。
 出血多量で、病状は全く予断を許さない。
 従って、これから先の出来事は、後に将介から聞かされたことである。
 耳元でそんな会話があったなんて、俺は全く気づかずにいたのだ。

 ベットで眠る俺の枕元には鈴音が座っている。
 将介はドアの横に立って、ふたりを見つめていた。
「私のせいだ。私が調子に乗ったせいだ」
 鈴音は静かに泣いている。
 鈴音は左腕を肩から吊っている。
 幸い弾丸は上腕部をかすっただけだった。
 しかし俺は全身に数発の銃弾を受け、生死の境を彷徨っていた。
「お前さんのせいじゃないよ。男は惚れた女のためには、平気で生命を投げ出すものだ」
 将介は言った。
「こいつも男だった。ただ、それだけのことだ」
「馬鹿か。男はみんな、馬鹿なのか」
「そう言われると、身も蓋もないけどよ」
「こいつは私やあんたとは違う。こいつはこんな所にいていい奴じゃないんだ」
 鈴音の小さな肩が震えている。
「それを私が、こんな場所に連れ出してしまった。私の責任だ」
「姫姐・・・」
「私はな、将介」
 鈴音は涙に濡れた顔を向けた。
「今まで多くの人間を、このナイフで倒してきた。障害が残ろうが、死んでしまおうが構わない。そう思ってやってきた」
「・・・」
「私には、人の死がよく解らない。両親が死んだ時も・・・殺された時も、特別どうという思いはなかった。ただ笑えなくなった。それだけだ。私は他人とは少し違うのかも知れない。・・・だけどな、将介」
「・・・なんだ」
「重吾がこんなになって、私は初めて胸が苦しいんだ。・・・人の死がこんなに辛いのものだとは知らなかった。ふん、これはバチだな。私は罰を受けたんだ。だけど、こいつには関係ない。死ぬんだったら、私が死ねばいいんだ」
「姫姐」
 鈴音は耐え切れずに、肩を震わせて泣き出した。
「こいつが死んだら、私は・・・。私は・・・」
「心配することはねえよ。こいつは死なねえ」
 えッ。と鈴音が振り仰いだ。
「俺が術をかけておいた。お前だって知っているだろう」
 何とも言えない笑みを浮かべる。
「俺の口にしたことは、必ず実現するんだよ」
「それも心法か?」
 涙のなかで苦笑を浮かべる。
「そうだ。これが俺の心法だ」
「不思議だな。お前にそう言われると、なんか救われた気になってくる」
「心法は人を倒すためにあるんじゃない。人を救うためにあるんだからな」
「ふふふ。まるで真逆だな。私のナイフと」
 思わず吹き出した。
「なんだい。出来るじゃねえか。いい笑顔だったぜ」
 将介が笑いかける。
 ・・・そうだ、私だって心の底から笑うことが出来るんだ。
「ああ、重吾のお陰だ。こいつがくれた笑顔なんだ」
「良かったじゃねえかよ。お前ら、お似合いだぜ」
 ふっ。と、鈴音が寂しそうな笑顔をみせた。
「私とこいつとは違う。もう、こいつとは逢うことが出来ない」
「そんなこともねえだろ?」
 のほほん、と言う将介に鈴音はムッとしたように語調を強めた。
「お前には分からん。私とこいつとでは住む世界が違うんだ」
 やれやれというように将介は首を振った。
「お前さんが何を得る代わりに、何を捨ててきたかは知らんがよ。こいつがお前の所へ行けなければ、お前がこいつんとこまで降りてくりゃイイ話じゃねえかよ。クィーンなんてくだらねえもんはとっとと捨ててよ、ただの女子高生として付き合えば、それでいいんじゃねえのかい?」
「そういう問題じゃない。私の身体は汚れているんだ。こいつに合わす顔がない」
「身体の汚れなんて、シャワーでも浴びときゃ綺麗になんだろ。ま、俺は1週間くらいシャワーを浴びてなくても平気だが、見たところお前さんは綺麗好きみたいだからな」
「馬鹿を言うな。私はな、目的のために、この世で最も汚い男の精を受け入れた女だぞ。そんな私にまともな恋愛ができるか」
 目を剥いた鈴音に真っ向から将介が詰め寄る。
「出来るんだよ、馬鹿。人のな、一番大切なのはここなんだよ」
 そして分厚い胸をドンと叩く。
「ここが汚れていなければ、身体の汚れなんていくらでも落とせるんだ」
 将介の剣幕に押されて、鈴音は呆気にとられた。こいつ、他人のために何を熱くなってんだ。いくら化物じみた強さを持っていても、所詮は青臭い高校生というところか。
 そう思うとおかしくなった。
「よう。また、笑ったな」
「ふん。お前があまりに青臭いことを言うからだ。しかし、まあ、お前の言う通りなのかも知れんな」
 それから声を潜めて、
「だから汚れているんだよ。・・・魂のそこまで・・・」
 鈴音はいつまでも俺の頭を撫でていた。

 目が覚めたとき、目の前には将介の笑顔があった。
「よう。目が覚めたか」
「ここは何処だ?」
「病院だよ。覚えてないのか?」
 俺は目だけを動かして、部屋の中を確認しようとした。
 少しでも身体を動かすと、腹の中を激痛が駆け巡る。
「銃弾を受けたんだ、無理はするな」
 ああ・・・
 思い出してきた。
「鈴音さんは、・・・みんなは無事なのか?」
「ああ、みんな無事だ。お前が敵を引きつけてくれたお陰だな」
「西脇鮎夢はどうした?」
「心配ない。無事保護した。他の女子高生たちも一緒だ」
「そうか、良かった」
 ホッとした。
「あいつらは一体何者なんだ?」
「金村組の連中だな。渋谷侵攻を目論む極城会の尖兵として、金村組が脱法ハーブをまき始めたんだ。それで一心会が追い込みを掛けたのを逆恨みして、報復に出たんだろうな。一心会の事務所は幾つかある。たまたま、そのひとつにお前らが居たってわけだ」
「ヤクザの抗争か。映画の話だな。お陰で死ぬところだった」
「ああ、クィーンズのみんなが交代で、輸血をしてくれた。そのお陰で助かったんだ。感謝するんだな」
「クィーン、鈴音さんは?」
 将介は枕もとのイスに目をやった。
「たった今まで、そこに座っていた。一睡もしないで看病していたんだが、お前の容体が安定したのを見極めて帰って行ったよ。お前に合わせる顔がなかったんだろう」
「鈴音さんが・・・」
「お前に感謝していた。笑顔を取り戻すことが出来たってな」
「そうか」
 俺は眼を閉じた。何故かひどく満たされた気分であった。
 彼女に会うことはもう二度とないだろう。
 そんな確信めいた予感があった。
「俺は夢を見ていた。天使が俺を抱いて、頭を撫でる夢だ。凄く幸せな気持ちだった」
「そうか」
 将介は俺を見つめて、しみじみと言った。
「実を言うと、俺もお前には感謝しているんだ」
「何を言い出すんだ急に。俺の何に感謝してるっていうんだ?」
「お前が、俺の親友でいてくれることにだよ」
「馬鹿か」
 そして真面目な顔でこういった。
「お前は大した男だ。重吾」


 ここから先は後日談になる。
 幸いにも大した後遺症も残らず、3ヶ月後に俺は退院した。
 一心会と金村組の抗争はその後も続き、新聞紙上を賑わす事件に発展した。その事件は後に「渋谷抗争」と呼ばれ、東西ヤクザ組織の代理戦争にまで発展していくことになるのだが、それはまだ暫く先の話だ。

 誘拐された西脇鮎夢は、冴木いちからの手により無事保護されたが、ひどい中毒症状をおこしており、今は専門の施設で療養中と聴く。
 あれだけの事件を引き起こしたのだから、当然のように警察の捜査は俺たちの周囲にも及んだ。
 金村剛一のグループは逮捕され、鑑別所に送られた。
 裁判の結果では、少年院送りになることは間違いないところだ。
 クィーンズにも捜査は及んだが、彼女たちのお陰で行方不明の娘たちの無事が確認されたこともあって、特にお咎めはなかった。
 噂では裏で、鮎夢の親の代議士が手を回したらしい。事が公けになって自分の立場が危うくなるのを嫌ったのだろう。

 クィーンズは解散し、メンバーはそれぞれの居場所に戻った。
 冴木いちかや他のメンバーがどうなったかは俺は知らない。
 ただ、それから数年後、女子格闘リーグ「01レディース」のトップ選手に水澤カヲルという選手がいるのを知って、一度試合を観に行ったことがある。
 それは確かに逞しさを増した水咲薫であった。
 花道で目が合った時、目の奥で微かに頷いたような気がした。
 クィーン・姫崎鈴音は姿を消した。
 通っていた高校も辞め、完全に行方をくらました。
 養父である桜木晃一郎からは、特別失踪届のようなのもは出されなかった。
 彼女が桜木の養女でありながら、同時に愛人のような存在であったことは、ずっと後になって知らされることになる。
 サユリの所属するデリヘルにも捜査が及んだが、その顧客リストの中には洒落にならない政財界の大物や、更には渋谷署の幹部まで含まれていため、警察本部では慌ててその事実を隠蔽し何もなかったことにした。

 俺たちは事件後、一度事情聴取を受けただけで、その後は特別に何を訊かれることもなかった。
 拍子抜けするほどあっけなかったが、考えてみれば俺たちが知っていることなんか殆どなかったのだ。
 1年後、俺たちは無事学校を卒業することが出来たが、案の定決まった就職先などなく、その日暮らしのバイトで毎日をブラブラ過ごしていた。これでは学校にいた頃と変わらない。
 それから半年が経った頃、突然将介の祖父が亡くなった。
 そして俺は、将介の兄・御門龍介と出会うことになるのである。
 その男は黒い衣装を纏っていた。
 喪服というよりは、神官の着る衣冠に近い。これがこの家の喪服なのであろうか。
 御門家は古くからある家のようだ。
 中央線武蔵境駅の駅前、杵築神社に隣接するうっそうとした雑木林に埋もれるようにして、それは広大な敷地を誇っている。
 屋敷も古風で大きい。小金井公園の江戸東京建物園が知ったら小躍りするだろう。
 将介の祖父の死を知ったのは、バイトの最中であった。
 コンビニの冷蔵庫の後ろ側に商品を補充する仕事であった。メールが鳴ってそれを知った。
 何を置いても駆けつけねばならない。
 それで俺は初めて御門家の門をくぐった。
 考えてみれば同じ市内に住んでいながら、将介の家を訪ねるのはこれが初めてだったのだ。
「よく来てくれたな。重吾」
 将介が笑って出迎えた。
 考えてみると、学校を卒業してから将介に会うのはこれが初めてだった。あれほど年中一緒にいたのに一旦離れてみれば驚くほど疎遠になってしまうものだ。もっとも俺にもいろいろと家庭の問題があって、結局は家業のバイク屋を継ぐことになったのだが。
 将介のやつはこの半年の間に一回り大きくなったように感じた。実際、高校3年の一年間に3センチ伸びた身長が、更に2センチ程伸びたと彼は笑った。
 体重も増えて、いまでは身長は193センチ。体重で114キロはあるんじゃないか。ますます化物じみてきたという事だ。
 将介は祖父の死にもことさら落ち込んではいなかった。
「まあ、年が年だからな。よく生きたほうじゃないか」
 俺は焼香を済ませるために母屋へ向かった。
 そして、喪主の席にその男は居たのだ。

 夜だというのに漆黒のサングラスを掛けている。
 身長は将介よりやや小柄。180センチくらいか、細身でありながら、鋼のような印象を受ける体躯であった。
 横にはハッとするくらいの美女が寄り添っている。
 長い黒髪。後方で束ねて縛っている。
 細面の白い顔。
 何故か姫崎鈴音の面影が浮かんだ。
「兄貴の奥さんか?」
 後で将介に聞いた。
「いや、秘書だそうだ。俺もよくは知らない、愛人かもな」
 焼香の後、庭先でぼんやり将介を待っていると、話しかけてくる人物があった。
「失礼だが、佐々木重吾君かな」
「はい」
「将介の兄、龍介です。君の噂は弟から聴かされているよ」
 黒衣の男がにこやかに言った。
「一度君には謝らねばならないと思っていた。弟が迷惑をかけたようだな」
「いえ、迷惑だなんて」
「済まなかった。君を危険な目に合わせたのは、すべて私の責任だ」
「あれは自分から望んでしたことです。誰の責任でもありません」
「ふむ」
 サングラスの奥の瞳が一、瞬輝いたような気がした。
 背筋にぞわッとした悪寒が走る。背中の体毛が逆立つような感じだ。
 どこかで味わった事のある感覚。
「いや失礼した。将介の言っていた通りのようだね」
「?」
「将介の奴は、ああ見えて中々に人付き合いが苦手でね。もしも迷惑でなければ、これからも良き話し相手になってはくれないか」
「もちろんです。彼は俺の親友ですから」
「そうか、ありがとう。礼を言うよ」
 瞳の中にやさしい光をたたえていた。
「羨ましいな。将介が」

 後日、将介にその話をした。
 井の頭公園の七井の池のほとりである。
 凍てつくような寒空の中、ふたりは公園のベンチに腰をおろして池面を見詰めていた。
 オオバン、ノガモ、キンクロハジロ。水面では春を待つ多くの渡り鳥たちが羽根を休めている。
「で、どうだった。兄貴の感想は?」
 将介は鏡のような水面から目を離さずに言った。
「うん。何か、庭先で放し飼いの虎と遭遇したような感じだった」
「ほう」
 飼われている虎ならそれほど危険な事はないのだろうが、それでも虎は虎である、何が起こるか解らない。そんな感覚であろうか。
「言い得て妙だな。お前、文才のほうがあるんじゃないか。そっちの道に進んだほうがいいかもな」
 そう言って青空を見上げた。澄んだ蒼穹にカワウの黒い影が舞っている。
「俺な、海外へ行こうと思う」
「海外? どこへだ?」
「さあな。風まかせ、足任せってやつだ。昔TVのバライティであったらしい。お笑い芸人がヒッチハイクで、ユーラシア大陸を横断するってやつだ。ああいうやつをやってみたいんだ」
 とんでもないことを言い出す奴だ。
 しかし将介らしいと言えば、将介らしい。
「じじいが死んで、家のあったところにマンションが建っただろう」
 兄の龍介は御門家の広大な敷地の跡に、巨大なタワーマンションを建設し、そこから得られる家賃収入の半分を将介の口座に振り込んでいる。
だから、普通に生活するには困らない。
「だからさ。居るところもなくなっちまったし、少し外の世界を観てこようかと思う」
「ふうん、それもいいかもな。ずっと思っていたんだが、お前にはこの街も、この国も狭すぎるような気がする」
「お前なら多分、そう言ってくれると思っていたよ」
「寂しくはなるがな」
「寂しくなるか」
 将介はしんみりと言った。

「そうそう。その後、姫姐とは連絡をとったのか?」
「いや、多分携帯番号は変わっているだろうし、探しても向こうはいい気持ちではなかろう。会いたくなったら、向こうから連絡してくるだろうから、今はそれでいい」
「なるほど、お前らしいな。重吾」
「クィーンだけじゃない。お前も一緒だ、将介。俺はどうやらお前ら化物たちに好かれる体質らしい。だけど俺は化物じゃない、普通の人間だ。だからお前ら化物たちの跡を、追い掛け回すような真似はしないよ。何かの気まぐれで会いに来てくれれば、それでいいんだ」
「そうか・・・」
「そうだよ」
 暫く池面の水鳥たちを眺めていた将介が、ふと思い出したように言った。
「ああ、そういえば姫姐がひどく残念がっていたな」
「鈴音さんが?」
 そして可笑しそうにクスクス笑う。
「いやね。お前の童貞を奪いそこなったと、本気で残念がっていたのだよ」
 馬鹿野郎。
 俺は思い切り、将介のケツを蹴り上げた。


                        この物語はフィクションであり、実在の人物・団体とは一切関係ありません。


                                           完
                                           

センター街の魔女

センター街の魔女

「金剛心法」というのは、闘いの最中、相手の行動をコントロールする技である。俺と、親友で「心法」の達人・御門将介は、「渋谷のクィーン」と名乗る美少女と出会う。やがて俺たちは渋谷の覇権を競うヤクザ組織の抗争と、女子高生失踪事件に巻き込まれていくのだ。これは俺と「渋谷のクィーン」あるいは「センター街の魔女」と、呼ばれた少女の話である。

  • 小説
  • 中編
  • 青春
  • 冒険
  • アクション
  • 青年向け
更新日
登録日
2014-10-06

Copyrighted
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  1. 女王との邂逅
  2. 戦慄の魔女
  3. 「金剛心法」
  4. デリヘル嬢「サユリ」
  5. 渋谷クィーンズ
  6. 乱闘の宴
  7. さよならの挽歌