上海往来
上海往来2000-1
毎年上海経由で義烏まで買い付けに行きます。もうかれこれ6年くらいになります。今では年2回夏と冬にほぼとんぼ返りですが、何とか人的交流も始まりました。時間があると近郊の水郷めぐりをしています。こうなったいきさつと、現状。これからの希望あふれる将来を旅日記風に書き綴ってみました。
上海往来2000-2
2000年12月27日
朝6時皆で家をでる。曇天でまだ真っ暗だ。
京都駅から関空行きの”はるか”に乗る。
息子が「見てみい、朝焼けがごっつう綺麗や」
と窓の外をさして言う。薄明かりの雲の切れ間から、
朝日がご来光のように光の筋を出して昇り始めた。
すばらしく美しい。娘と妻と、4人がしばし見とれていた。
何よりもあの息子が「見てみい」と言ってくれた事が、
ことのほか親父としてはうれしかった。
関空→上海は、2時間そこそこ。あっという間だ。
あわただしく食事が出て、それでも息子と
隣りあわせで、卓上のゲーム機を扱う。
息子が将棋の画面を見せてきた。おどろいた。
いつの間に憶えたのだろう。教えた記憶はさらさらない。
そういえば三国志とか方針演技とかずいぶん詳しい。
中一13歳。今まで忙しすぎてほとんど話したこともない。
いつのまにかちゃんと大人になっていくんだ。
娘もそうだろうか?
長年の罪滅ぼしの家族旅行。実りあるものにしなければと
親父は心に決めていた。娘は小六12歳。年子なのだ。
この十年ほど、子育ては全部妻任せで、大変だったと思う。
必死で頑張った挙句会社は倒産。意を決して独立した。
そしてやっと勝ち得たこの旅行だ。親父の思い入れは
相当なものだった。
息子とはなん手もささないうちに上海に着いてしまった。
新空港浦東空港に降りる。日差しは明るくほこりっぽいが
暖かそうだ。
まだできたばかりの空港を歩く。ほとんどの店舗が
まだ開業していない。だだっ広い新空港だった。
功夫茶
出口でツアーの現地ガイドに出くわす。
後二組、名古屋からの母娘とおばちゃん二人
たった8人のツアーだ。
ガイドはミニバンの中でしきりにだだっ広い
浦東地区の説明をしているが、それがどうしたという感じ。
快晴だがとてもほこりっぽい。この地域は日常的にこうなのだろう。
1時間ほどで南京路裏の2流ホテルに着く。
2泊3日のかに食の旅1人3万円。小休止してかにを食べに向かう。
途中土産物屋に立ち寄るがベらぼうに高くて品揃えも少なく、
店員もぶっきらぼうで8人とも手持ち無沙汰だった。
やっと目的のレストランに着いた。
丸テーブルを囲んでかに食が始まった。
辮髪の若者が60cmはあるかと思われる長い注ぎ口の
金属製の急須を器用に使いこなす。
丸テーブルの上に置かれた湯飲み茶碗に1人ずつお茶をついで周る。
的確に小さな茶飲みに茶を注ぐ。
首の後ろに急須を回し持ち、背中越しに長い注ぎの先から
勢いよく茶が注がれる。
かなり高度な技術がいる。失敗すれば卓上は水浸しだ。
1人注ぎおわると功夫のポーズをとりながらまた、
背中に急須を回して次の客に茶をそそぐ。
そのたびに歓声が湧き上がる。
とても楽しいひとときだった。
夜、南京路でシャンプーを探す。
百貨店でやっと見つけたが、
べらぼうに高くでかく粗悪であった。
雲南夜市街を探したが見つからず、
ケンタッキーフライドチキンを食べて帰った。
豫園界隈
朝タクシーで豫園へと向かう。
頑丈にガードされた運転席に驚いたが、
中国ではどこでもそうみたいだ。
まずは豫園に入る。外人観光客も多い。
石と樹木の有名な庭園だ。
庭園内には土産品店がいくつかあって
いかにも老獪そうな老人が客を呼び込んでいる。
中国語、日本語、英語、韓国語で声をかけてくる。
先の二人はドイツ人だったのでとまどっていた。
出口の篆刻屋からゆっくりと店頭だけを見て歩く。
小さな店がぎっしりと連なっていて下町情緒たっぷり。
竹細工がちょっと目を引いたくらいか。
後はいわゆる中国物。
豫園の北側卸問屋街に向かう。
狭い通路にびっしりと品物が置いてある。
あっとけつまづいたら誰かのどんぶりだった。
足早に立ち去ったがおばさんの
まくし立てる声が後ろから聞こえた。
大変なのはトイレ。嫁はんと娘は大型貴金属店の
2階に列を作って並ばねばならなかった。しかも
そこは日本とは比較にならないほど汚かったとのこと。
両替はここが中国銀行?と思うほどのコンクリートガレージ。
入り口にガードマンが一人立っていて、入ると
鉄格子の中に一人職員がにっこり笑って座っていた。
豫園の路地裏を歩く。薄汚れた古いおお造りのアパート。
瓦礫の山。どこもほこりっぽい。
向こうからおじさんが歩いてきた。手に持っているのはぶたの足。
嫁さんと娘は思わず吐きそうになったみたいだ。
アジアの裏通りは女達には無理かなと思う。
露店から小さな店舗がずっと切れ目無く続いている。
「ライライライ!」といって荷物いっぱいのリヤカーが通る。
ミェンパオ
問屋街のはずれに日本のアニメのパクリポスター屋があった。
これはたぶん無許可だと思うが・・・・。
ひときわ人の出入りが激しい店がある。
小さな入り口を何とか分け入ると
そこはおもちゃ問屋だった。
倉庫がそのまま店になっている。
皆持ちきれないほどの荷物を抱えて出て行く。
昔懐かしいブリキのおもちゃもある。
結局たくさんの荷物を抱えて出て行くことになった。
どこかで食事を、下町の庶民的なところを探して
テント村みたいな食堂に入った。
もう完全に日本語も英語も通じない。
料理をあれこれ指差してやっととりあえずそろえた。
「ミェンパオ?」としつこく言うから「ヤー」
と言ったら、小さなパンが10数個出てきた。
でも安っすー!たらふく食べた。
食後一旦ホテルへ引き上げ、小休止して、
日暮れ前に外灘へ向かった。
泥色のゆったりとした川の流れの向こうに、
上海の象徴明珠塔がそびえている。
外灘は舗装されたプロムナードで観光客でいっぱいだ。
富士カラーがいたるところにある。
外白渡橋の手前の公園で写真を撮る。
南京路
日が暮れてきて向こう岸がライトアップされた。とても美しい。
向こうからのこちらのライトアップもまた美しいと思われる。
しばし見とれて完全に暗くなってから南京路へ向かった。
途中から歩行者天国になっていて広いプロムナードに
観光用のミニ列車がゆっくりと走っている。
南京路を端から端まで急いで歩いても30分はかかる。
二手に分かれて親父と息子はおもちゃを買いに、
母と娘はブーツを買いにデパートへ入った。
後で聞けば、ブーツのほうは身振り手振りで大変だったそうだが、
ちゃんと値切って好みのブーツが買えたとか。
息子はだだっ広いおもちゃ売り場をくまなく見て周って、
日本ではもう売られていないレア物のガンダムを見つけた。
意気揚々と待ち合わせの日本レストラン前にて母娘を待つ。
変な目つきのおじさんが、
「ペンイー、ペンイー、オンナノコ」
確かペンイーは安いと言う意味だ。
そこへ母娘が現れた。
屋上の日本レストランでハンバーグを食べる。
日本にいるのとちっとも変わりはしない。
それでも家族。とても楽しく幸せだった。
げっぺいを頬張りながら帰る。第一百貨でお土産を買う。
シルクのハンカチと梅干とお茶を買ったら、梅干はカチンカチン
でペットボトルのお茶は砂糖で甘くてとても飲めなかった。
上海コネクションの始まり
12月29日
朝フロントに集合。
又8人揃って帰国の途に着いた。
だだっぴろい浦東空港で待つ。
「ドンジンカイシ」
アナウンスを聞いた。
「金吾、ドンジンカイシて搭乗開始のことやな?」
「そや、ドンジンカイシや」
X X X
あっという間の3日間だったが最高の思い出になった。
後は自分のミッションとして、
「あてにすな何にも気にせず考えず、
毎年中国それでいい!」
中国との人脈作りに一生をかけようと決めた。
海外と言うことで過去を振り返ってみると。
20代→ヨーロッパ
30代→インド
40代→ハワイ
50代→東南アジア
となる。よくまああちこち行ったものだ。
ところが残念なことがひとつある。それは、
どの国とも人脈がつながっていないということだ。
今からでも遅くはない余生をしっかりと
人脈作りにかけようと思う。
そこで60代以降は死ぬまで中国と決めた。
中国は広くかつ奥深い。じっくりと構えて、
あせらず、点から点、線から線、そして帯になるまで、
手作りの人脈の橋をかけ通すのだ!
と言うわけで、上海経由で毎年仕入れに行くことにした。
『上海コネクション』
はじめのうちは各都市を巡る旅のエッセイになるだろうが、
必ずや数年後にはすばらしい人脈を作り出すぞ。
さあ、『上海コネクション』のはじまりはじまり!!!
上海コネクション2006
2006年12月船の上海経由で義烏まで仕入れに行きました。
その旅日記です。
上海コネクション2006-1
20061205
還暦。6年ぶりの旅だ。
阪急で三宮へむかう。出航は12時。十分間に合う。
と思っていたら、ポートターミナルには誰もいない。
道順にそって歩いているとガードマンが、
「上海行きですか?もう皆さん乗ってますよ」
えー?まだ1時間前なのに。走り走り窓口へ向かった。
「お店のほうにも電話しました10時に」
「ハア10時?」
2時間前じゃんと思いつつ時計を見ると11時30分。
出国審査、税関と駆け抜けて乗船口へと向かう。
「そんなに走らなくてもいいですよ」
「急いで急いで」
係員が勝手なことを言う。
やっと横付けされた船に着いた。まさかここを登るの?
はしごのような階段を1階から3階ぐらいまでよじ登る。
「ほんとに気をつけてくださいね」
片言の日本語。クルーの人だ。
「いつもこんなんですか?」
「今日は100人ほどの女学生さんが先に上がりました。
この時期はとても少ないです」
12時。船は静かに出帆した。
メロディーが流れる。それは『北の春』だった。
見送りもドラもテープも何もない、静かな旅のスタートだ。
夕食まで時間があるのでインスタントらーめんを自販機で買った。
湯を入れて食べようと思ったら、箸がないスプーンもない。
服務員を呼ぶと、隣のおじさんはお酒が出ないと叫んでいた。
中国的旅遊の始まりである。
上海に着いたらすぐに杭州から義烏へ高速バスだと思って
インフォメーションで聞いた。
「私は汽車で行くからバスの事は知らない」
片言の日本語。後は知らん振り。
『ここ案内所だろ?』
言おうとしたが諦めた。
『上海について聞けばいいのね、はいはい』
「そうそう」
彼は笑顔でそう答えた。
中国的旅遊は笑顔が全てだ。
やっと夕食になって400円のマーボー豆腐をたのんだ。
出てきたのは小さな皿に大きな金属のスプーン。
せめてレンゲならとは思ったが、全くの不釣合い。
しかしもうここは中国。『中国的旅遊は笑顔が全て』
好!好!好!
上海コネクション2006-2
一日中船の中。二等船室は二段ベッドの8人部屋でなかなか快適である。
隣の部屋は華僑や酔っ払いがいたりして夜遅くまで騒いでいたようだ。
朝6時、まだ真っ暗だ。大庁に出てテレビを付けるとNHKが映った。
もうすぐ黄海だ。朝7時半。大声で船内放送がなる。
おかゆとザー菜、焼きそばとお菓子。お代わり自由で無料。
今日はとても穏やかでこんな日は珍しいと同室の人が言っていた。
案内所で上海の軽軌道のことを聞いた。英語も日本語も片言で、
結局筆談が一番効果的だった。
午後2時デッキに出るいい天気だ。見渡す限りの水平線。
昔の人はこうしてずっと沈む夕陽を追いかけていったのだ。
逆に、稲作も漢字も仏教も昇る朝日を目指して伝わっていった。
黄砂の影響か沈む夕陽はことのほか大きく美しく沈んでいった。
上海コネクション2006-3
いよいよ60歳、還暦の朝だ、上海が近い。
多くの小船が浮んでいる太陽が左手に輝いているという事は、
船は大河を南下しているということだ。
両眼はクレーンとドック。多くの船が接岸し又行き来している。
それが延々と続く。大きく大河を曲がってやっと都会が見えてきた。
さらに1時間。船が速度を落とす。上海のシンボル明珠塔だ。
間近で対岸にゆっくりと接岸する。
ターミナルは大掛かりに工事中だ。船の上から現場が丸見えだ。
プレハブで工人たちが洗濯やら顔洗ったりやら大勢いる。
皆農村からの出稼ぎでこれらの人たちが興隆中国の大底を支えているのだ。
農村戸籍と都市戸籍にはっきりと分かれていて自由に居留はできない。
これらの人々が盲流となって反政府運動になることを当局は恐れている。
相当な数の人たちが農村から都会に流れ込んできている事は間違いない。
やっと上陸して南站に向かった。中国元にはいつでもどこでも
換金できると思っていたのが大間違い。
タクシーを拾ってまずは銀行へ。ところがどこも数時間待ち。
番号札を取って待たされる。
これじゃいかんとビッグホテルで換金と思いきや、
どこのホテルでも断られる。空港は遠い。
どうしたものか?
郊外のすいてそうな中国銀行(換金はこれのみ)を探す。
やっと1時間で換金できた。これがなけりゃ何にも始まらないのだよ~。
メーターを見ると2元が95元に跳ね上がっていた。
仕方がないか、最悪のスタートだ。さあ、これからがんばろー!
上海コネクション2006-4
宇宙船のようなどでかい南火車站内に入る。
当天售票処、ここで当日分が買えれば運がいい。
でなければ長距離バスだ。
「義烏、特快、1帳」とメモに書く。
「特快、没有、快速、好?」
「OK」
「42元」
安い!少しついてきたぞ。
4人がけの窓際に座った。
向かいの男はむしゃむしゃとパンをかじっている。
そこにビジネスマンがやってきて席が違うぞという。
横の学生風の男と3人皆一斉に切符を見る。
パン男が私の横に座りなおした。ごめんともなんとも言わない。
ビジネスマンはあからさまにいやな顔をして向かいに座った。
テーブルにはパンくずと紙袋、ペットボトル。ビジネスマンは
「ふん」という態度を示したままケータイでしゃべり始めた。
パン男はパンを食べ終わりくずを袋に乗せる。
学生はケータイでメールしている。
あっちこっち、ケータイでしゃべっている。
そのうち列車は動き出した。
車内販売が次から次へと来る。新聞、お菓子、果物、飲み物。
何度も来る。そのうちビジネスマンが梅の実を買った、
すると学生も梅の実を買って二人ともぼりぼりとかじり始めた。
二人とも種をパンの紙袋の上に次々と捨てていく。
パン男はちまきを食べ始めた。笹の葉が1枚1枚
その上に捨てられていく。
ビジネスマンは新聞を読みながらぼりぼりと梅を食べ続けている。
パン男も新聞を買って読み始めた。そして2時間後。
杭州の駅で皆降りてしまった。
テーブルの上には紙袋を大きくはみ出しててんこ盛りの梅の種と笹の皮。
シートには新聞が散乱し学生が座っていたところはシートがめくれていた。
上海コネクション’06-5
外はもう真っ暗だ。
杭州から又人が乗り込んできた。
多くの荷物を抱えたおじさんが何か言った。
「我不知道」
と答えたらどっかに行ってしまった。
テーブルとシートは散らかったまま火車は動き出した。
『あと1時間くらいか』と一息ついたとき、
黒ぶちのめがねをかけた青年がシートのめくれを直しながら、
向かいに座った。何かつぶやいたが分からなかった。
青年は散らかった新聞を手にとって読み始めた。
『もうすぐ義烏かな?この青年に聞いてみたいが』
なかなか取り付く島がない。
思い切って切符を示して、
「義烏下次、阿?」
通じたか?何か答えてくれた。
どうも本人も義烏で降りるらしい。
メモに、
『木彫工芸品、猫』
と書いて示すと。彼は名刺をくれた。
『木製民芸品 費衛』
とある。メモに”包装盒”と書く。
ケータイで動画を見せてくれたが、ちょっと違う。
『木彫猫、梟』と書いてスケッチをすると、
あっちからこっちから人が覗きにきた。
「トンヤン!」と叫んで一人が、
『東陽、吴宁鎮』と書いてくれた。
上海コネクション’06-6
真っ暗闇の義烏駅に降りる。
件の青年がバスが安いからと言って、
車掌に何か言っている。
2元(約30円)。席を譲ってくれたりベビーを
皆であやしたり、なごやかな乗り合いバスだ。
30分ほどして、
「あの三元里賓館がそうだよ」と下ろしてくれた。
信号のない道路。結構車がスピード出してる。
皆すいすいと渡っている。真っ暗なのに。
不屈の愛国の村三元里にちなんだ賓館、とはいっても、
かなり3流のビジネスホテルだ。1泊80元に値切って、
とにかく2泊することにした。
気が付けば昼も夜も何も食べてない。
もう夜9時だ。荷物を置いてすぐ外に出た。
中国人向けの安宿や羊肉屋が暗がりの中に何軒か見える。
羊肉屋に入って隣の人が食べてるのと同じのを頼んだ。
おいしそうな羊耳妙肉唐辛子がピリッと効いてて、
きくらげがいっぱいでとても美味しかった。
さあ部屋へ戻る、もうくたくただ。
部屋は古いがカードロックでセミダブル。水洗トイレシャワーつき。
11時、エアコンは点けたままテレビを消してさあ寝るぞ。
ところがいきなりドアがノックされた。何事だ?
念のためにドアチェーンをかけて少し開けた。
「マッサージ?」
「呼んでないよ。メイユ、メイユ」
扉を閉めると又激しく叩く。
ドアチェーン越しに見ると若い女二人だ。
「マッサージ?」
「メイユ」
と言うと、
「ユ!」といって無理矢理開けようとする。
あぶないあぶない。あの時とっさにドアチェーンをかけたが、
もしそうしてなければと思うとぞっとする。
12時。やっと還暦の夜は更けていった。
上海コネクション’06-7
午前7時起床。熟睡。が、まだ船に乗ってるように
時折ゆれる。
シャワーはやっぱりいつまでたっても水しか出ない。
洗面台で顔を洗って、靴下を洗濯していたらガタンと音がして、
下の管が外れて水が足元をぬらした。裸足でよかったが
ここは中国、万事この調子と思っててちょうど良い。
タクシーで東陽へ向かう。もうすぐもうすぐといってから30分。
結局100元(約1500円)取られた。
それでも木雕街を探してくれた。
50店舗以上の木彫りの店が軒を連ねている。
全てが伝統的な古木の木彫ばかりだ。
確かに猫や兎もありはしたが。
それはまさに古典的な芸術品だった。
チェンマイにあった様な現代アート猫を探していたのだが、
これは全くお呼びでない。
すぐさま引き返し、義烏国際商貿城へ向かった。
義烏にある3大バザールの中でも一番でかい。
どういうわけかS字型のビル、福田(フーデン)Ⅰ期とⅡ期という。
福田Ⅰ期は10年前にできたビル主に宝飾、雑貨、玩具など。
1階玩具だけで3000ブース。2階宝飾で3000ブース。こんな調子。
福田Ⅱ期は数年前にできた新館で工具、時計、めがねなどでⅠ期の10倍規模。
この夏博覧会が開かれ、さらにいま福田Ⅲ期を建築中だ。
世界の中国雑貨はここから全世界へ発送されるという。
値段は交渉次第だが10分の1、20分の1はざらで。
ものによっては100分の1。ここがバイヤーの腕の見せ所だ。
とにかく立ち止まらず歩いていくだけで1日はかかる。
近代的大バザールといったところだがそこは中国、
赤子がいたり、脇でご飯食べたり、サトウキビの皮を放ったり。
唾はいたり。しょっちゅう掃除はしているのだが、
歩きつかれて炒飯を食べてホテルに帰る。
卵炒飯5元(75円)スープ付きで大盛りでおなかいっぱい。
上海コネクション’06-8
もう足が棒のようだ。チェンマイ風の木猫が見つからなければ、
賓王市場と篁園市場を当たってみよう。
賓王市場はいわゆる古いタイプのバザールで日用品ばかり。
早めに切り上げ、人力車に乗って篁園市場に向かった。
ここは半分がブースで後は古い形のバザールと露店がわんさか。
思えば今まで世界中の色んなバザールを見てきた。
超特大はイスタンブールのグランバザール。屋根つきドーム内に迷路のように
古典的なブースが続く。アフガンコートにパズルリングをたくさん買った。
カイロもでかかった。香水と象嵌。露店バザールではマドリードの蚤の市。
火縄ライターをたくさん買った。チェンマイの夜市。木猫、シルバー。
インド、更紗、バチック、銀指輪。バリ島のろうけつ染め、などなど。
よく考えると義烏の国際商貿城いかにでかいかがよく分かる。
ここはひとつ腰をすえてかからねば。目的は木猫と鎖だ。
上海コネクション’06-9
朝は鶏蛋拉麺、昼は羊炒飯。
老板は回教徒で青い目のウイグル族。
蘭州拉麺はどの町にもある安くてうまい店だ。
店頭の串焼きがとても美味。
キオスクもあちこちにあるので義烏の地図を買った。
今年の博覧会の地図で詳しく国際商貿城や他の市場の
内容が詳しく書いてある。これは宝物だと5冊買った。
今日はとても寒い。間違いなく零下だ。
なのに物乞いが結構いる。凍死しないか心配だ。
バスセンターの近くのキオスクでゆで卵を買った。
100元をくずす。多分じっと見られていたんだろう。
子供の物乞いが来た。仕方ないので1元やると。
どこで見てたのか次々と幼子が現れて、
腰に抱きつき押し競饅頭、離れようとはしない。
「わかった、わかった。1元づつやる」
幼子達は笑って、「勝った!」というような顔をした。
上海コネクション’06-10
午前中は福田Ⅰ期の西側にある長春区を探ることにした。
長春区は1Fが店舗で2、3、4階が住居になっている。
まだ新しい店舗ビル街だ。
水晶、陶器、金工、造花、ぬいぐるみ。やっと木工芸品。
見つけたあの魚釣りをしている木猫。ここで作ってるんだ。
ものすごい数のバリエーションがある。林明工芸。
一つ一つ確認して床においていく。
いくつかは在庫がないとかで戻された。
結局値切りに値切って1個10元(約150円)。
ひとまず木猫は見つかったがチェンマイほどではない。
福田Ⅰ期でチェーンを探すことにした。
福田Ⅰ期は2階がズーとアクセサリーのブースだ。
金属チェーンだけで数千軒はある。
小豆チェーン43cmもある。
さらに絞り込んで100軒ほど。
どこも大体2.3元(35円)位までは下げる。
しかしこれでは話にならない。
明日は朝からチャレンジだ。
上海コネクション’06-11
朝から昼過ぎまで歩きに歩いて59件ほどのブースで
値段交渉をする。1000本2000本3000本と
まとまるとやっと1個1元。これが限界か?
歩き疲れてベンチで休んでいると、又一軒見つけた。
客がいる。ベンチの裏側だ。この客がいなくなったら
覗いてみるかと思っていたら、
一人の女が近づいてきて「いくら?」えっ?日本人?
黙って成り行きを観察していた。
「前とおんなじ」
「じゃあ、3000本ね」
「OK!」
なるほど日本人の行きつけらしい。
一回りしてここを最後にチャレンジしてみよう。
「称好。これ3000本いくら?」
「1個0.3元」
ええっ?1個0.3元?紙に書いてもう一度確認する。
1個0.3元だから3000個は900元。
「間違いないか?」
「間違いない」
0.3元て1個4円50銭。やったー!
小売値の100分の1だ。卸値の10分の1。
ここに決めた。
1袋120個36元。30袋3600個1080元。
即金で払ってざっと検品する。
ずしりと重い。20kgはありそう。
又来年くると言って出た。ここは英語も日本語も通じない。
筆談がベストの商談だった。はたして毎年こうなのかは
全く分からない。ここは中国何が起きるか分からない。
上海コネクション’06-12杭州
朝、少年チャンピオンを持って羊肉屋へ行くと、
とても喜んでくれた。日本にはラーメンあるかと聞く。
見渡す限りラーメン屋ばかりだと言うと、ウソ付けという。
長春二区林明工芸を再訪する。特大の木猫を買うためだ。
一個50元。二個で50元に?と言うと、だめと無愛想に言う。
取って置きのビッグコミック、表紙が可愛い猫。そっと手渡す。
ぱらぱらとめくって、
「わからないから、いりません」
全く無愛想な女だ。結局45元で二つ買った。包んでもくれない。
大きな木猫を抱えてバスターミナルへ。
高速バス、53元。1時間半で杭州に着いた。
近くの賓館に泊まろうと思ったら、外人お断り。
日本人が泊まれないホテルや旅館は結構あるみたいだ。
上海に行くなら東駅のほうがいいと言うわけで、
タクシーに乗った。東駅の近くで100元くらいのホテルを、
と頼んだのに。1泊300元。ポーターがさっさと荷物を運んでいく。
「ままま、まてーっ!」
「?」
「日本円しか持ってないから両替してくる。荷物を返せーっ!」
もとのタクシーに飛び乗る。
「旦那中国銀行でっか?」
しばらく黙って走らせて、
「いかんでええ。金はある。100元までのとこいうたやろ。
うまく見つけたら、そのまま西湖まで乗るから」
「ほなあちこちさがしてみまひょ」
てなわけで、東駅の近くに110元のシャワーエアコンつき
それ以外は最低のホテルが見つかった。
あちこち建設ラッシュの凸凹道を走って西湖。
白蛇伝で有名な『断橋残雪』の断橋を渡った。
上海コネクション’06-13骨董街
20061213
杭州汽車東站から2時間で上海南站に着いた。
東台路骨董街付近で安宿を探そう。
タクシーを拾うと女の運転手だ。
「東台路」と紙に書いて渡したら、
知らないと言う。
何とかあちこち探しながら着いた。
重い荷物を抱えて骨董街を歩いていると、
変なおじさんが話しかけてきた。
「どこから来た?」
「日本だ」
「なにする?」
「100元の安宿探す」
「150元ならある」
彼の後についていくと、近くの飯店の裏のホテル。
まあまあだ。3日泊まるか。
150元X3日=450元。まあいいか。
ところが「押金50元」と紙に書く。
押金?なにこれ?
担保金のことなのだが、これが分からずに散々もめた。
とにかく後から帰ってくることが分かって
500元払う。残金は100元しかないが
まあ何とかなるだろう。
眼鏡を修理。80元残金20元。
あと二日半。1日8元でやれるか?
ミネラルウォーター1元。
蛋炒飯4元。
小龍包3元。
ここは中国何とかなるだろう。
14ぶらり上海
20061214
朝食に街角で包子を3個。1個0.6元(9円)。
中に青野菜が入っていてとても美味しい。
9時にホテルへ戻ると、昨日のおじさんが立っている。
横に大風呂敷を抱えた人がいる。
とにかく見てくれと言って中に入ろうとする。
入れたらお仕舞いだ。ホテルの入り口で押し問答。
そのまま包みを開けさせた。
なんだか分からない骨董品がいくつか出てきた。
仏像みたいなのもある。昨日木工芸品を探している
と言ったのがまずかったようだ。
「とにかくもう日本に帰るところだからお金はない
アイハブノーマニー!」と叫ぶと、二人は去っていった。
さあ今日は上海を歩き回ろう。西へ一大会址、周公館、芸術街。
東へ豫園。あちこち掘り返していてとても歩き辛い。
数年前に家族で来たときはほんの1時間だったが今回はゆっくりと。
福祐商城の2F東巴の工芸品があった。
買いもしないのに丁寧に教えてくれた。
向かいの福源商城の二階は漢方薬ばかり。
沈香閣周辺の露店はおもしろい。毛沢東語録50元。
超一等地に松林茶店という店があった。
老街の南角に骨董市場と言う古い二階建てがあって
木の小物の猫と梟を見つけた。白檀の根付らしい。
一日中歩き疲れてぐっすりと休んだ。
15魯迅公園
20061215
虹口足球場で軽軌道を下りて魯迅公園に向かう。
途中で3回も道を聞かれた。中国人に見えるのか。
いい天気だ。公園に入るとこまを放り回していた。
広島の鉄ゴマの要領だ。赤いこまで音がする。
公園は老人の憩いの場。バドミントンに足での羽球。
太極拳。将棋。マージャン。胡弓の合奏。ダンス。
色んなことをやっている。
広い公園だ。池や起伏もあって癒される。
魯迅墓をやっと見つけてお題目を三唱した。
これからは毎年来ますと誓った。
魯迅公園をまっすぐ下って多倫路文化名人街まで歩く。
日式食堂や旅館が多い。日本租界だった所だ。
プロムナードに銅製の人形像がぽつんぽつんと
たったり座ったりしているおしゃれな道だ。
路地の入り口に昔ここで活躍した文化人の大きな銘板が
立ててあった。魯迅を始め10人ほど。
16興龍
20061216
孫文が民主革命を起こし、
毛沢東が共産化を実践し、
鄧小平が改革開放路線を実現した。
この勢力争いを調整したのが周恩来だ。
劉少奇は走資に走って謀殺された。
極左と走資の力比べ。
走資の鄧小平は何度も殺されかけたが
周恩来の計らいで生き延びた。
毛周亡き後ついに改革開放路線が確定していく。
文革から天安門にかけて国連加盟をはさんで
それをピークに世界を呑み込む大型爆龍タンカーは
ゆっくりと大きく右に舵を切った。それが定まった今、
中国は大きくゆっくりと全てを呑み込んで
その方向に確実に進んでいく。
年々加速度がついてくるはずだ。どの都市に行っても
どこもかしこも工事と建設の槌音が響いている。
地方や田舎にもテレビと携帯が行き渡ってきた。
ということは中央の情報が広大な中国の隅々にまで
確実に行き渡るということだ。場所と時間に関係なく
大中国は進化の情報を瞬時に地方と中央、老若男女をとわず、
全世界と共有し始めた。ちょうど45年前、日本でテレビが
全国に行き渡った直後と同じだ。追いつき追いこせ、
世界に負けるな、がむしゃら日本、小柄な日本。
今大柄な巨大タンカーが何もかも呑み込んで加速し始めた。
もうどうにも止まらない。この10年でものすごいことになる。
それが中国とインドだ。
17税関
20061218
いよいよ入国。最後の難関税関だ。
何度も犬がぐるぐるとまとわりつく。
「何の目的でいかれたのですか?」
「観光と嫁さんの趣味の買い物です」
リュックを開ける、
「これはなんですか?」
「置物の木の猫と暖簾のような飾り
を作る嫁さんの手芸の材料です」
係員は黙々と探っている。
「全部でいくらでした?」
「9000円くらいです」
係員は荷物をしまいながら、
「酒タバコ麻薬はありませんか?」
「全くありません」
「出口はあちらです」
と言いながら他の係員もじっと見張っている。
出てしまうまでは安心できない。
出口を出て足早にターミナルへ向かった。
ー完ー
上海コネ’07-1義烏
20071216
蘇州号、雑魚寝でいく。
新鑑真号と全く雰囲気は似ている。
同じくらいの大きさだ。
上海2年目の上陸だ。
南站汽車站(高速バスターミナル)から
義烏行き直通高速バスに乗る。
97元。乗ったバスはボロボロで運転席の
デジタル時計は10分も遅れている。
ずっとこのまま行くのだろうな。
重油の匂いが充満していて気分が悪くなりそう。
誰も文句を言わないのだろうか?
バスは料金所で料金を払って高速に入る。
できたばかりで、どこもかしこも真新しい。
ところが立ちションしている人がいる。
大きな荷物を置いてガードレールに腰掛けている
人がいる。日本では考えられない!
いくつかの事故を見ながらガンガンぶっ飛ばして、
約3時間、義烏に着いた。
三元里賓館、もう段小姐はいない。隣の羊肉屋に
行くと若主人が覚えていてくれた。うれしいものだ。
さあ早めに寝よう。ところがやはり11時過ぎた頃。
「マッサージ?」
「プヨンプヨン」(いらない)
今回は2度とかかってこなかった。
上海コネ’07-2重い?
20071217
羊肉店で鶏炒飯をたのんだのに涼麺が出てきた。
やはり指差すか書いたほうがいい。
国際商貿城(ゴージーシャンムーチャン)も
福田Ⅰ期(フーディエンイーチー)も通じない。
タクシーで相乗りするのはほんとに気分が悪い。
シートの背もたれに星期1(月曜日)とカバーに書いてある。
毎日なん曜日かよく分かっていいと思う。が、
割り込み、クラクション、Uターン。なんでもありで危険
この上ない。センターラインオーバー。人は
信号や横断歩道に関係なくすいすいと渡る。
今年も同じ店で6000本注文した。
他の客が目を丸くしていた。
不良品の交換。不行(プシン)できませんの一言。
重いリュックを担いでホテルに戻る。
鍵の調子が悪いので部屋を変更になった。
荷物は運びますと言うことだったが、いつまでたっても
持ってこない。もとの部屋に行くとそのまま荷物は置いてある。
重い!多分重くてもてなかったのだ。
上海コネ’07-3烏鎮1
20071218
杭州経由で烏鎮へ。杭州は何かと気をつけなければいけない。
南站から北站へ。ところが発音が悪くどこかの名所へ行こうとする。
待て待て、北站だ。紙に書く。ところが烏鎮へは東站からだった。
結局烏鎮行きに乗り遅れて2時間待ち。
相性の悪い町とはあるもので杭州は上海並みに物価も高く、
あちこち掘り返していてほこりっぽい。
杭州東站から烏鎮間では1時間あまり。
座席は壊れているしカーブは転がりそうだし、
やっとの思いで曇天の烏鎮に着いた。
泥んこのバスターミナル。着くと人々が前から
バスを押して止めていた。
下りるとわいわい声をかけてくる。さっぱり分からない。
ペンション風の旅館に泊まった。見栄えは若者向けのおしゃれな
ペンションなのだが、やはりそこは中国、
隣のテレビはまる聞こえ。熱水も出なかった。
ま、いいか。「ランボー怒りのアフガン」を見て寝る。
上海コネ’07-4烏鎮2
20071219
蘭州拉麺で蛋拉麺をたのんだら玉子焼きが別に出てきた。
それを乗っけて食べる。ところ変れば変るものだ。
炒飯は皿からはみ出るほどの特盛りだった。
景観区に何とか入ろうとあちこち見て回ったが、
どこのゲートも係員が見張っている。
土地の人は自由に出入りしているのに。
諦めて100元払って観光券を買う。
8箇所の博物館の入場券も一緒だ。
明清時代の建物石畳が続く。染物工房。漢方薬工房。
古銭館。百床館や双橋等。水郷の水も緩やかで
とても風情がある。逢源双橋には何かいわれがありそうだ。
由緒ありそうなお寺があって、古い舞台で誰かが民謡を歌っている。
幾人かの人が聞き入っているがどうも地元の人らしい。
影絵館などもあって今でも催しがあるみたいだ。
庶民の憩いの場として今も色々な芸能をやっているのだ。
景観区内でも人々は普通に生活をいている。
時折中国人の団体が行く。シーズン中はもっと多いはずだ。
日が暮れて子供たちが食べ物に群れている。あったかそうだ。
おでんである。串にさしたミニおでん。美味しかった。
上海コネ’07-5明堂ユース
20071220
6時おき。上海行きのバスに乗る。
遅れてきた運転手がさらに遅れてきたおばさんを怒っている。
やっと出発。しばらく行くと運転手の携帯がなって停車。
鶏と荷物を路上で受け取る。
運転手も助手もタバコはスパスパ、携帯は掛けっぱなし。
なんといい加減なバスだ。ついに反対車線を爆走して。
10数台抜いてしまった。
途中の大きな町で40分停車。もちろん暖房などはついていない。
体はすっかり冷え切ってしまった。やっと出発。
上海ナンチャンの手前でほとんど降りてしまった。
一応聞いてみた。
「上海南站(ナンチャン)行くよね?」
「うん」と若者はうなづいた。
とにかく無事到着。腹ごしらえを済ませて東台路骨董街に向かう。
するとあのおじさんに再会した。抱き合って喜んだがすぐに、
「今日は何を買うのか?」
と聞くので、眼鏡を直しに来たと言った。
明堂ユースに泊まることにした。後で船長ユースにも行ってみたが、
シングル400元、ドミトリー70元だった。
明堂シングル180元。まだましか?
ところが部屋は別だがトイレとシャワーは隣と共有だった。
外灘まで歩く。物乞いの少女が信号待ちを追ってくる。
いざりながら台車を押してくる。声をかけられる手前で信号が変った。
気付いてはいたが無視して足早にわたる。
帰りに又出くわしそうになった。小銭を用意して、
通りがかりにすっと缶に放り入れた。上海福州路にて。
上海コネ’07-6朱家角
20071221
今日は有名な水郷、朱家角へ行くことにする。
体育館前の旅遊バス乗り場から周遊券つきで往復80元。
霧雨の中、国道で急に下ろされて朱家角に着いた。
朱家角も烏鎮のように景区になっていて券がないとは入れない。
各ポイントで穴を開けてもらうのも同じだ。
明清時代の建物が3メートルほどの石畳の両側に軒を連ねていて、
とても風情がある。中でも北大街というところには小さな店舗が
びっしりと連なっていて活気がある。
絹、綿、布団、漢方、砂糖、鶏、民芸、木彫り、染物、などなど。
なべの蓋に彫り物をしている。じっと見つめているとそれらしく
気合を込めて彫っているのが分かる。
職人気質というのは多分どこでも共通していると思われる。
目が合うと、うんうんと共にうなづいて微笑んだ。
ゴンドラのような木船が行きかい、烏鎮よりはこじんまりとしていて
放生橋からの眺めは最高、これぞ水郷という感じなのだが、
次々と金魚や亀を売りにくるのに閉口する。
生き物を水に帰すという橋なので彼らも諦めない。
食堂でワンタンを食べた特大餃子が8個も入っていておなかいっぱい。
8元(120円)。散髪して10元(150円)。
ゆっくりとくつろいで帰りのバス停を探す。なかなか見つからない。
そのはずだバス停の標示は林の中に倒れていた。
時間前なのにバスが来た。あちこちから何人か走ってくる。
そのままバスはすぐ発車した。多分乗り遅れた人がいると思われる。
これだから油断はできない。それが中国だ。
文句を言っても始まらない。それが中国だ。
上海コネ’07-7上海博物館
20071222
雨だ。上海博物館に行くことにした。
明堂ユースから歩いて20分の所にある。
地上5階建てくらいの大きな建物で、
吹き抜けになっていて京大病院か平和堂か
といった造りだ。
団体とか観光客が多く、レンブラント展も
やってはいたが年配者が多かった。
トイレはとても綺麗で快適。
古銭、陶器、石像、民族服、青銅器。
ゆっくりと見て周った。
昼食に青菜米粉を食べて蚤の市で有名な
瀋陽礼品市場を目指したが、その広大なエリアは
取り壊されて巨大な空間になっていた。
南京西路に出ると恒隆広場があった。
何のことはない高級ブランド専門店街で
庶民には全くなじみのないところだ。
明堂に戻る。この界隈は江陰路といって
金魚、ペット、こおろぎなどを売る店が多い。
人民広場の地下街には小さな店舗がぎっしりと
集まっていて、義烏の木猫もここで見つけた。
こんな所で売ってるんだ。
上海コネ’07-8ひたすら歩く
20071223
今日はひたすら上海市内を歩き回ることにした。
淮海中路をひたすら西へ向かう。泰康路芸術街、大公館、
上海図書館を過ぎるとやっと宋宅があった。
古北路へ向かう。巨大な国際トレードセンターを過ぎた
あたりから、クラブえれガンと、まーさじとか変な
ひらがな文字が目立ってきた。食事処や赤提灯があったりして、
このあたりは日本人が多いのがよく分かる。
歩き疲れておなかが痛くなってきた。なかなか公衆便所が
見つからない。中山公園へ向かう。やっと見つけたトイレ。
日曜のせいか服務台はいない。そのまま身障者用に入ると、
洋式でこぎれいだったがやはり手紙はなかった。
ティッシュは必ずもっとくこと、これ鉄則。
一息ついて南京西路を東進。呉江路美食街を通りかかる。
全ての店に行列ができている。ここに来るときはまず
ひたすら並ぶことだ。
そのまま明堂に向かう実に6時間。20km歩いた。
あーしんど!
上海コネ’07-9
20071224
どうも数を間違えたようだ。去年3600本だったのを
どこでどう間違えたのか6000本。重いはずだ。
とにかく重い理由が分かった。今日は上海駅と国際埠頭
午後から外灘、文廟路に行ってみよう。
上海駅のバスターミナルは駅裏にあって西側から遠回りしていった。
あとで地下から行けばすぐ地下鉄につながっていることが分かった。
駅の周りはあちこち工事中で世界博までは大変だと思える。
クリスマスイブなのに南京路は静かで。有名な和平飯店などは
もう外壁がボロボロで建て直している。どこもかしこも工事中。
国際埠頭もまさに工事中であと3年で上海は大きく衣替えをするだろう。
豫園を抜けて文廟路へ向かう。100年前の竹下通りという雰囲気で
少年少女でいっぱいだった。12円のタイヤキを食べながら、
40円の串勝をほおばりながらゆっくりと歩いた。
そのまま旧市街に迷い込んでくねくねと食材市場を歩く。
なまず、鯉、フナ、うなぎ、かに、えびなどなど。
新鮮で豊富でとても安い。もうこのような場所もなくなっていくのか?
上海コネ’07-10靴磨き
20071225
8時半に明堂ユースを出る。押金100元が返ってきた。
早速タクシーに乗り20元で港まで行けるかと聞いたら、
30元はかかるという。
何のことはない20分で16元でついた。20元払うとつりを渡さない。
なんて奴だ。文句を言うとまくし立ててくる。何もいわずに乗れば良かった。
中国銀行で200元を日本円に換えようと思ったら、1000円札が2枚
しかないという。結局2000円分だけ両替して近くでラーメンでも食べようと
歩き出したとたん、靴磨きのおばちゃんが近寄ってきてしつこく磨けと勧める。
ふと見ると靴に白い磨き粉がついている。コラッと振りほどいて
ラーメン屋に入った。鶏蛋ラーメン5元、量が多くて途中で汁を
足してくれるものだから、もう十分腹いっぱいになった。
船はガラガラ。だが港使用量22元はきっちりと取られた。
上海コネ’07-最終回
20071227
丸一日船の上である。黄海はゆれにゆれた。
げえげえあげながら、中国の将来を考えた。
2008年北京オリンピック。2010年上海万博。
までは成長は拡大し続けるだろうが、その後はどうなるか?
ケータイが大普及している。個人、人脈マンツーマンの
この国では最も有効なツールなのかも?
10人に一人でも1億3千万個。日本の人口を抜いている。
まだまだこれからだということはよく分かる。
車も家電も建築もとなると相当の前代未聞の大成長と、
その負の遺産も前代未聞になってしまう。
省エネ、環境、公害対策などの最先端技術、これは日本の得意分野。
人間のほんとの幸せとはをもう一度問い直す時期かも知れない。
展望室でまどろむ。遠くに船影が見えたが近づくまでに
相当時間がかかる。かつてこの日本海を、
ロシアのバルチック艦隊が通過した。船影を確認してから
相当の時間を掛けて戦いは始まったと思われる。
今も昔もあいも変わらず世界の各地で殺戮が続いている。
-完-
上海’08-2蘇州の林さん
20081218
林さんの荷物を担いで上海火車中央駅から蘇州へ向かう。
船の中で知り合って、南京へ行くなら蘇州の家へ
寄って行けということになったのだ。
あとで理由が分かった。高級マンションの5階。
格安の吹き抜けの2階屋。唯一の難点が、
エレベータがないことだった。
年寄り二人で重い荷物を休み休み5階まで運んだ。
林さんの家族は北京に住んでいて、ここは別荘だそうだ。
北京、上海、神戸を行ったりきたりしている。
林さんは林(りん)氏を束ねて、各地で老人会や交流会に
顔を出している。留学生や企業支援などもやっている人だ。
一段落して明日の切符の予約と郵便局をさがして
バスで繁華街まで出た。バスは若者が多く満員だったが、
ちゃんと二人の老人に席を譲ってくれた。
湖の郊外は今建設ラッシュ。新幹線や上海の
ベッドタウンになろうとしている。
帰りに大型スーパーで食材を買う。
ロ-ラースケートで店員が走る。
カートも特大だ。
林さん手製のえびの蒸し焼き。白玉汁。
えびは生焼けで、白玉はとろけてなくなっていた。
中国人より中国的な林さんだった。
上海’08-1三度目の黄海
20081216
新鑑真号のほうが蘇州号よりゆったりしているようだ。
しかし蘇州号には展望室と展望風呂がある。
新鑑真は2段ベッドの8人部屋。蘇州号は雑魚寝だ。
それが又いい。色んな人と知り合いになれる。
さて今回は新鑑真。向かいのおじいさんがテレビとパソコンを
ずっとつけっぱなしにしている。秋葉原で色んなものを買い込んで
アダプターでつけっぱなしにしているのだ。
夜の12時を過ぎてもそのままで本人はいびきをかいて眠って
しまったので、こっそりと電源を全部切って真っ暗にしてやった。
真夜中過ぎ、隣の部屋が騒がしい。酔っ払いが騒いで眠れない
ということで、何人かが部屋を替わったそうだ。とにかく
瀬戸内は静か。ゆれる黄海に備えて寝とくことだ。
上海’08-3南京
20081219
蘇州から鉄路で南京へ向かう。新幹線そっくりの列車だ。
1時間半で巨大な南京駅に着いた。
林さんに言われたように南京から義烏行きの夜行寝台列車を予約した。
次は地下鉄だ。2元を入れると丸いプラスチックのチップが出てきた。
「なにこれ?」
改札口をよくよく見ていると、これをぺタッとやって上海と同じように
通っている。なるほど、これでいいのだ。
夫子廟平江府路68号にユースはあった。繁華街孔子廟付近の真ん中だ。
ホテル風でバストイレつきでシングル100元(1500円)。
安いなと思ったら、やはり水はなかなかお湯にならず、テレビは映らず、
空調もすぐに止まってしまった。
上海’08-4記念館
20081220
今日は一日虐殺記念館に行くことにした。
正式には侵華日軍大屠殺記念館という
すこぶる芸術性にとんだ建物だった。
黒と白を基調にした鎮魂の巨大空間だ。
地下がメインで万人坑まで入れると
ゆうに3時間はかかる。
荷物を3元で預けて後は無料だ。
実物骨群発掘現場がそのまま残されていて、
その時の亀が2匹、水槽に飼われている。
長寿亀と名付けられて、お賽銭のように
小銭がたくさん入れられていた。
万人坑は数層にも折り重なっていて3m以上はある。
その広さとその深さに圧倒される。
館内ではとてつもなく大きな写真が展示されていて
いずれも中国語と英語と日本語で解説されている。
福沢諭吉の思想から日本軍国主義の侵略に到る歴史が
詳細に示されている。300000人の数字が何度も
大きく標示されている。
百人斬りの二人の将校が雨花台で処刑される。
南京市民の敵討ちがなったのだ。
血の色をした石を今でも雨花台で売っている。
中華門まで歩いて地下鉄で南京駅へ。
今夜は夜行で義烏へ向かう。
上海’08-5紹興
20081221
2等寝台89元。23時発温州行き。翌朝7時50分に義烏に着く。
切符は車掌に預けて朝起こしてもらう。これで乗り越しはなさそう。
夜中に小銭を床にこぼして大変だった。なんととなりは女子大生。
義烏まで一緒だったが皆すぐに寝静まって、おならもコケやしない。
8時半他の店はもう開いているのに周さんの店はまだ開かない。
9時を回って不安になる。9時10分周さんが現れてほっとした。
引き出しから手紙を出してみせた。こちらから送った手紙はちゃんと
届いていたのだ。34袋4080本しっかりと受け取った。
賓王汽車站から紹興行きのバスに乗る。ターミネーターを見ながら
2時間で紹興に着いた。小雪交じりでとても寒い。
火車站近くの雪花賓館に泊まる。80元でとても快適。
熱いシャワーを浴びて『渡る世間は鬼ばかり』の
中国語版を見てぐっすりと眠る。
上海’08-6寧波
20081222
粉雪交じりの北風が吹いてとても寒い。
周恩来故居から青年旅舎。魯迅故居界隈を歩いた。
このエリアは景区になっていて昔の風情がそのまま残っている。
あちこち写真を撮って八字橋へ向かった。
今にも崩れそうな八方形の石橋。南宋の頃と言うから
日本では平安時代かも。思ったより小さく、
小川沿いの石造り白壁の民家で、この寒空の中川で洗濯を
している母がいた。零下数度℃だとは思うのだが。
昼から寧波に向かう。高速で1時間半。暖房がなくてとても寒い。
駅前のちょっといかがわしい旅館に泊まる。
隣が理髪店で、なぜか化粧の濃い女の子が客引きをしている。
公安の車がそれを見張っている。ナにこれ取り締まり?
旅館から繁華街まで有名な月湖を渡ってすぐだ。
この寒いのに物乞いが多い。さらに角々におばさんが
編み物をしている。「ほう?」と見ていると、
結構客がセーターやら衣類を持ち込んできたり
もって行ったりしている。なるほどリホームおばさんか?
広い歩道で女の子が自転車のサドルのようなものを手で回している。
金入れ箱がおいてあるから何かやるのだ。遠くから眺める。
誰もこの寒さの中では立ち止まりはしない。彼女はサドルの端を
口にくわえたかと思うとえびぞりブリッジになって
ぐるぐるとサドルごと回転した。
回転が止まって一応周りを確かめはするが誰もいない。
しばらくすると又回転を始めた。何故この寒さの中で?
家族は?ルーツは?色々考えながら遠くから写真を撮った。
一度通り過ぎて帰り際に小銭を全部箱に入れた。
結構入っている。なんだかほっとして帰路に着いた。
上海’08-7寧波2
20081223
朝食を食べに向かいのモダンな店に行く。
どこにもマグドナルドとケンタッキーがある。
その並びにあるおしゃれな店。ところが店員が
とても無愛想。マグドナルドと同じように中華を
注文するのだが、面前で店員が交代。いらっしゃいませ
もありがとうございますもなく、無愛想にメモを渡し
お金を受け取るだけ。何これ?
まずかったら絶対もうこないぞと決めて席に着いた。
ところがものすごい量でとてもおいしい。しかも安い!
安くてうまくて量があってすぐ出てくる。
庶民にはそれで十分だ。
繁華街を歩く。大きな中華飯店の入り口。赤絨毯が敷いてあって
そこだけ日があたってあったかそう。そこに浮浪者が寝そべっている。
少し置いてものもらい。さらに少し置いてクリスマスのサンタの帽子を
小さなダンボールの上に乗せて売っている。
人はたくさん通るのに誰もそのおじさんを起こす人はいない。
格差共存。ここにリムジンが着いて着飾った貴族が現れても
きっとこのままかもしれないなと思える。
上海’08-8夜中のノック
20081225
できたばかりの杭州大橋を渡る。
寧波から2時間半で上海に着く。
30分かけて橋を渡りきった。
黄色く濁った遠浅の海が続く。
すぐに眠たくなってきた。
上海には5つのユースがある。
船長(キャプテン)。明堂(ミントン)。
易途(イーヅー)。白蘭(バイラン)。
藍山(ブルーマウンテン)。
白蘭路の青年旅舎に泊まる。
8人部屋のドミトリー、1泊60元(900円)。
年10泊以下だったらメンバーにならないほうが得だ。
年齢に関係なくいろんな人が泊まりに来る。
消灯して夜中にノックの音が聞こえた。ここはユースだ、誰だ?
安ホテルでは絶対に開けてはいけない。鉄則だ。
又ノックの音がする。恐る恐る明かりをつけてドアをあけた。
そこにはパンツ一枚の男の子が立っていた。
なるほどフロントは女の子ばかり。ドアはプッシュロック。
そのまま閉めてシャワーを浴びに行ったのだ。
上海’08-9魯迅記念館
20081226
魯迅公園の魯迅記念館に行く。記念館の文字は
周恩来が書いたそうで公園の入り口にもあった。
記念館の入り口ではまず金属探知機。
ペットボトルは飲んでみろといわれた。
民族魂と大きな字で書かれた布に覆われた棺。
民族魂!当時西欧に虐げられていた中華民族に
目覚めよ!プライドを持て!と彼は叫び続けた。
その通り!私も人間として私としての使命を果たすのだ。
魯迅公園に回るとご老人達がダンスやバドミントン、気功、
太鼓踊り、筋トレ、ジョギング、こま回し、手風琴、胡弓
や歌。いろいろあって面白い。
道路で水で字を書いている人が二人。字はすぐに消えるのだが、
なかなかの達筆なのだ。ぞろぞろと観客が付いていく。
そのまま北へ抜けると上海外大。留学生特訓棟というのがあって
多分ここで中国語の特訓をするのだ。
夕食後曹楊路駅に向かった。露店が出ていておもしろい。
バイタクが串焼き屋の前をふさいでけんかしていたり、
公安のパトカーがやってきてみんなクモの子を散らすように
いなくなったり、又すぐにどことなく元通りになったり
庶民はいつでもどこでもたくましい。
上海’08-10おわりに
白蘭ユースで上に寝ていた人と港で一緒になった。
お互いに日本人じゃないんではと思っていたみたいだ。
こういうことはよくあることであいさつが大事だと思う。
この船には上海に奥さんがいて毎月行き来している人と、
こんにゃくを上海で売ろうと言う父子と、
長旅で再就職をしようという青年と話した。
世界同時不況のさなか中国はどう切り抜けるかと言う話になって、
おじいさんが一人加わった。この人は鎮江で会社をやっていて、
この不況で50%の人員削減をしたところだと言う人だ。
しかしこの半年で必ず復活できると楽観的だ。その理由は
今回の大全中で60兆円の内需拡大予算が計上されたからだと言う。
この予算は農村を中心に広く土地私有を債権化し、金融を活性化し、
内需を中国全土、農村を中心に拡大しようと言うわけだ。
公共事業に関してはもうすでに大都市周辺の大開発、高速道路等が
大掛かりに展開されているから外需が落ち込むぶんを見越して、
大規模な内需拡大に資金を振り向けると言う訳だ。国の施策なので
なんとしてでも成功させねばならない。つまりこの10年で起きた
大都市バブルを地方で起こそうと言う狙いである。必ず半年以内に
成功例があちこちで紹介されて国を挙げて最貧農民層の底上げがなされる。
世界は中国とインドの内需拡大をじっと見守っていると言う状況なのである。
これがみんなの結論であった。船内放送で船がちょっと遅れると言っている。
そのちょっとは実は6時間おくれであった。
-完-
上海’09-1
2009.9.1
今回は1週間の買い付けだけだから、
小さなリュック1つだけである。
いつもどうりに船は出た。
夜、自販機のラーメンを食べていたら、
ラテン系の若い娘がラーメンを食べようとしている。
ここのカップラーメンは、
1、220円きっかりでないと出ない。
1、お湯はマトモに出ない。
1、箸はフロントまで取りに行く。
丁寧に教えたら愛想良く話し込んでしまった。
彼女はメキシコ政府お墨付きのNPOアクアカルチャーの
メンバーで中国名愛麗星さん。名刺をもらった。
GOVENMENT OF MEXCO 水産部と書いてある。
れっきとした政府の人だ。けれども、
英語も中国語も非常に分かりにくく、どうも杭州の
西湖を調べに行くところらしい。
話し疲れてしまった。
上海’09-2
20090902~3
冷房がよく効いていて船内は寒いくらいだ。
剛治(ガンジー)と言うおじいさんがいた。
毎年ウズペキスタンやキルギスを旅していると言う。
名刺には”ちょっとそこまで一杯やりに”と書いてあった。
相当なのんべえだ。やはり寝言といびきがすごかった。
潮の関係で6時間遅れるらしい。展望室でじっと海を眺める。
中国大陸に近づくと、次第にその一部が泥色に濁ってくる。
濁りはどんどん広がってついには全面が泥色になる。
長江が大陸の泥を運んでくるのだ。
午後3時に上陸。南站からバスに乗ると
若い黒人のビジネスマンが二人乗ってきた。
美人のキルギス娘もいて国際色豊かなバスだった。
上海’09-3
20090904
手紙はちゃんと届いていた。にもかかわらず、
「準備するから1時間待ってくれ」
ここは中国、苛付いてはいけない。
ずしりと重い20kgを背負って上海へ戻る。
交通渋滞でもう3時間は経っている。
今回はリュックを底扉に預けた。南站手前で停車、
数人が下りた。白人の男がはっと気付いたように
しばらくして下りて戻ってきた。あ、そうか?
荷物を持っていかれないように確認していたのだ。
しまった。バスは動き出した。もう確認のし様がない。
次ぎ止るまではどうしようもない。
油断大敵だ!もし荷物がなくなっていたらどうしよう?
不安がつのってくる。その時はまず届けを出して、
日本に連絡をして、残りのお金で買えるだけ買って、
次の便で帰るしかないな。ああ、やっぱり命より大切な
仕入れは手元から絶対に離してはいけない、これ鉄則。
バスは渋滞の中4時間を越えて走り続ける。
やっと着いた。そこは上海火車站。あれっ、さっきが
南站だったのだ。荷物は?あった、ああよかった!
毎日きちっと心構えをして当たらなければ
ちょっとした油断が命とりになるぞ!!
上海’09-4藍山ユース
20090905
魯班路の藍山青年旅舎(ブルーマウンテン)ユースに泊まる。
周君という片言の日本語を話す青年がいて、愛想はよかったが、
予約が要るほどこの時期は込んでいるそうだ。
このユースはいきなり急な階段で引けてしまうが、外壁は工事中。
それでも西洋人で一杯だった。どうもしっくりしないと思っていたら、
退房時にシーツとマットと枕カバーを抱えてくること、
ここはもうやめよう、白蘭路が一番いい。
さて、時間は十分あったのに地下鉄の出口を間違えて、
楊樹浦路に出るのを平涼路に出た。ずいぶん歩いて、
電視塔がどうも後ろにあるのでおかしいとやっと気付いて、
大急ぎで引き返した。油断大敵!
ここ数年のスローガンは、
『油断大敵』だ!!!。
上海’09-5
20091218から19
夏に引き続きとんぼ返りの義烏行きだ。
帰ると翌日が娘の結婚式だ。
何があっても無事帰らなければ。
蘇州号、出航してすぐに展望風呂に入り
デッキの洗濯室で洗濯をする。
新鑑真号は室内だが蘇州号は外なので
風が強くてとても寒い、危険だ。
扉を開けると卓球をしていた親子ににらまれた。
ベテランの老人が始めての若者にアドバイスをしている。
こちらでは二人のおじさんが大量の商品を
運ぼうとしているみたいだ。
個人旅行の若者はチベットへ行くらしい。
なんと自転車で!無謀というか若いというか。
出稼ぎ娘の団体がいつものようにたくさんいた。
荒天で船はゆれに揺れ続けた。
まる一日展望室でうとうとしながらゆれ続けていた。
上海’09-6
20091220
定時に船は上海に着いた。夏は6時間も遅れたのに。
新しい乗り場が完成して、より南京路に近くなった。
義烏まで96元。3時間半、5時過ぎに到着。
ところが少し様子が変だ。福田Ⅰ期が暗い。
電気がついてないのだ。日曜だからか?
明日来るしかないな。バタンコで三元里賓館に向かった。
小銭がない。おおもめにもめて20元札をもぎ取られた。
油断大敵!明日は全て歩きで闘争。
1泊80元。押金120元。
エレベータが故障中で5階まで歩く。
ついてない時はほんとについてない。
もう疲れてバタンキュー!
上海’09-7
20091221
9時、安心した。周少姐はこころよく1000元を
受け取った。ところがあとのお客二人の相手ばかりして
なかなか商品が出てこない?
しばらくして少姑娘が手に重そうな紙包みを持って現れた。
それから袋詰めが始まった。30分、おしゃべりしながら
120本づつ小袋に詰めていく。
事前にはがきはちゃんと届いていたのに、
いつも大体この調子だ。日本では考えられない。
ずしりと重い鎖を背負って上海への高速に乗った。
上海に入って事故渋滞。2時間おくれだ。
魯迅公園から上海外大の構内に入る。
もう日が暮れて暗くなってしまった。
学生に聞くと幸い丁寧に日本語学科を教えてくれた。
日本語学科の学生が間に入ってくれて6Fの
教務課まで連れて行ってくれた。
2教官はもう帰った後だということだったので、
主任に新聞を手渡した。
「謝先生と顧先生がここに載っています。
私は毎年来ますのでよろしくお伝えください」
周総理との会見30周年記念の写真に主任はとても驚いていた。
さあ今回の使命は果たした。ユースでゆっくり休もう。
20キロを背負って宝山路から歩く。30分で
易途ハイカーユース。なぜか解体中!
さらに30分南京路を歩いて明堂へ。まさか?
ここも満室!最後の望みで白蘭路へ。
油断大敵!!!やっと泊まれた。来年も来るぞ!
上海往来