白い現 第三章 惑乱 四

それまで遭遇した魍魎とは異なる敵に、真白は戦い続けるかどうかの選択を迫られる。

第三章 惑乱 四

       四

 真白は、今日はもう送らないで良いと言ったのだが、荒太は家の前まで送ると言って譲らなかった。彼は結局、シャツを裏返した上に、更に後ろ前にしてタクシーに乗る羽目(はめ)になった。返り血は、シャツの裏側まで浸透(しんとう)していたのだ。当然、タクシーの運転手には好奇の目で見られた。不審者(ふしんしゃ)として通報(つうほう)されるよりはましだが、苦渋(くじゅう)の表情でじっとタクシーの座席に座る荒太を、真白は申し訳ないような思いで見ていた。荒太にとっては、みっともない格好(かっこう)を真白に晒(さら)している、という事実が最も耐(た)え難(がた)いものだった。タクシーに乗っている間に、怜のアパートの最寄(もより)にある電車の駅名とアパート名を荒太に教えると、あとはスマートフォンを見ながら行くと荒太は言った。それでもアパートに辿(たど)り着(つ)けない時は、怜に電話するという手もある。
(…意地でも電話しない気がするけど―――――……)
 荒太は怜に、怜は荒太に、弱みを見せたがらないだろうと真白には思えた。
 荒太にタクシーで送られ、帰宅した真白は風呂に入り、一息ついた。
 風呂上りには、そろそろ冷房を入れたくなる季節だ。窓を全開にして、少しでも風で涼(りょう)をとろうとする。しかし吹き込む風はもったりとしていて、やや生温(なまぬる)い。
「―――――…」
 脳裏(のうり)に蘇(よみがえ)る、魍魎の息遣(いきづか)い。
 チャコールグレーのスーツを纏(まと)った男の、笑み。
(彼らでも、暑いと感じることはあるんだろうか)
 苦悶(くもん)に歪(ゆが)むあの表情。――――――まるで人間のような。
 真白は目を閉じた。
(あれと、この先も戦っていかなくてはならないんだ)
 それは魍魎との戦いと言うより、自分との闘いになるように感じられる。
 開いた瞳には、静かな光があった。
(―――――そうしなければ、守れないと言うのなら)

 部屋の戸がノックされる。
「真白ちゃん、ちょっといいかしら?」
「塔子(とうこ)おばあちゃん?どうぞ」
祖母が顔を覗(のぞ)かせた。
「剣護が会いたい、って言って来てるんだけど、どうする?もう夜も遅いし、追い返しても良いけど」
 同じ孫でも、女の子と、もう図体(ずうたい)の大きくなった男の子では、扱いに差が出るようだ。
 真白は部屋の時計を見た。時計の針は午後九時過ぎを指していた。
「ううん、会うよ」
 恐らく剣護の話とは、魍魎に関するものだろう。
「大丈夫?何だか、少し具合悪そうに見えるけど」
 真白の顔を覗(のぞ)き込(こ)み、眉根を寄せる。梅雨入(つゆい)りの頃に真白が熱を出して寝込んでから、祖母は真白の健康をいつも以上に気に掛けるようになっていた。
「大丈夫。今日は、ケーキと焼肉食べて来たから、何だか食べ疲れしちゃっただけ」
「そう?じゃあ、さっぱりするように、レモネードでも作りましょうか」
「あ、嬉しい。ありがとう、塔子おばあちゃん」
 真白は、祖母に要らない心配をかけないよう、わざと無邪気(むじゃき)な声を上げた。
 
「悪いな、しろ。遅くに」
 部屋に入った剣護は、まずそう言って真白に詫びた。
「大丈夫。………もしかして、次郎兄から今夜の話を聞いて来たの?」
「まあな。―――――顔色、あんまり良くないな。大丈夫か?」
 カランカラン、とレモネードの入ったガラスコップを揺らしながら、剣護が尋ねた。
 ――――――気遣(きづか)わしげな表情をしている。
(…こんな風に)
 守られているんだな、自分は。
 真白は改めてそう思う。
〝真白さんは、何もしないで良いんだ〟
 荒太がそんな申し出をしても、おかしくはない素地(そじ)があるのだ。
「うん――――。ねえ、剣護」
「何?」
「私ね、状況を単純に見過ぎていたみたい。私たちは戦(いくさ)をしてるんだって、次郎兄にも前もって念を押されたのに――――――解ってなかった。戦って、殺し合いのことなんだよね。魍魎を倒すってことは、人一人を殺すっていうことと、すごく近い行為なんだって、改めて思い知らされた――――――――――。人と魍魎の違いは、実は紙一重(かみひとえ)なんだね」
「………嫌になったか?」
 そう問う剣護の顔は、真白を包み込むようだった。
 その顔を見て、真白の胸には不意に突き上げるものがあった。
(―――――この問いに、どう答えても、この人は私を許すんだ)
「…嫌に、なった――――けど、今更引き返せない。……引き返さない。今でも、守るか守らないかって訊かれたら、やっぱり守るほうを私は選ぶ。私は、自分が甘かったんだって、すごく痛感(つうかん)してるの。もう、捨てるよ」
 甘さを。
「―――――……」
 剣護は複雑だった。
(そう言って、簡単に割り切れるものじゃないだろうが……)
 状況の厳しさに突き当たったところで真白の戦意が萎(な)えるようであれば、戦線離脱(せんせんりだつ)させる道もある。しかし真白はここに来て、元来持つ芯(しん)の強さを発揮(はっき)した。前生(ぜんしょう)において、剣を取った若雪に、太郎清隆(たろうきよたか)も次郎清晴(じろうきよはる)も敵(かな)わなかった。天賦(てんぷ)の才は、恐らく真白にも備わっている。大蛇(だいじゃ)の魍魎と戦った時の真白の手際(てぎわ)は、怜から聞いていた。
(神の眷属(けんぞく)としての、成(な)せる業(わざ)か……)
戦力としては頼もしい限りだが、真白の心に負荷(ふか)がかかり過ぎるのではないか、それが気がかりだった。
剣護は、改めて妹をつくづくと眺める。
 薄手のカーディガンを羽織っただけのパジャマ姿で、大人しくレモネードを飲む真白は、華奢(きゃしゃ)な少女にしか見えない。
「―――――髪、伸びたな」
 唐突に話題を変え、自分と同じ焦(こ)げ茶色(ちゃいろ)をした、真白の髪の毛先をチョイと触る。
 剣護が触れた箇所(かしょ)に手を遣(や)り、真白も気付く。
「ああ………」
 真白として目覚めてから、まだ一度も美容院に行っていない。
 適当に伸ばしていたショートヘアが、今では辛うじて結べる程度に伸びていた。
「うん…。切りに行かなくちゃ」
「伸ばせよ」
「剣護はすぐ、そう言う」
 真白が笑った。
 その顔を、剣護が真顔で見る。
(しろを戦わせたくない…。戦わせるのが辛いと、むしろ俺たちのほうが思ってるんだな)
〝太郎兄、次郎兄、待って!待って!〟
 それが、幼いころの若雪の口癖(くちぐせ)だった。兄二人がどこかに行こうとすると、必ずあとをついて追って来た。その姿が可愛(かわい)くて、わざと次郎と出かける素振(そぶ)りをしたりした。そうして色の白い頬を赤く染めて走って来る妹を見て、弟と顔を見合わせ、笑(え)み崩(くず)れるのだ。
〝剣護、待って!待って!〟
 今生では自分が独(ひと)り占(じ)めにした。
 剣護は息を吐いた。
(逃げんな)
 意識を切り替える。
「真白、俺は表看板を背負うと言った時、当面はこちらから何も仕掛けないとも言った。覚えてるか?」
 真白は頷いた。
「うん、魍魎たちの出方を待つって」
「実は俺は、明臣と一緒にいる時に、奴らをわざとおびき寄せたんだ」
「―――――どういうこと?」
「言うまでも無く、明臣は花守(はなもり)だ。魍魎が敵視し、警戒する存在だ。そこに、戦線に加わることを決めた俺も共にいれば、必ず妖(あやかし)が寄って来ると思った。その読みは当たったよ。そしてそれと同時に、俺は以前より感じていた、俺やお前への執念(しゅうねん)じみた敵意を向ける相手の存在を、確認したかったんだ」
 真白は怖い眼をして剣護を睨(にら)んだ。レモネードの入ったコップを握る両手には、力が入っている。
「ルール違反(いはん)だよ、剣護。私たちに黙って、一人で危ないことするなんて」
「――――解ってるよ…。悪かった」
「もうしない?」
 俺は子供か、と思いながら剣護は両手を上げて降参(こうさん)のポーズを取る。
「もうしません。………多分」
 ここで妙に正直に答えてしまうのが剣護だった。
「――――――」
 忽(たちま)ち怖い顔に戻る真白に、若干本気で慄(おのの)きながら早口に言う。
「あ、うそうそ。もうしない。絶対しない!真白ちゃんは今日もかわいーねー」
 調子の良い言葉に、真白が白(しら)けた目を向ける。
「同じ言葉、C組の佐藤君にもよく言われる」
 陶聖学園でチャラ男(お)として名を馳(は)せている一年男子の名を聞き、剣護の眉間(みけん)に皺(しわ)が寄った。
「何だと、あいつ。今度締めたろか」
「あと、この間の水曜日に、クラスの武井君に告白された。……断ったけど」
 剣護が勢い良く立ち上がる。
「はあ――――――!?んな話、聞いてねーぞ!荒太や怜は何やってんだよ!!近くにいて気付かなかったのか、情けないっ」
「次郎兄は知ってたよ」
 真白からの冷静な追加情報(ついかじょうほう)が入る。
「のおおおお!なんっで言わねーんだ、あいつ。一人でこそこそ秘密にしとくとか、有り得ねー!!」
 頭を抱えて叫ぶ当人だけが、自分が口走る内容を把握出来ていなかった。
「…………剣護。その言葉、鏡に当たってはね返ってるからね」
 ――――――話が著(いちじる)しく脱線(だっせん)している。
「ああ、何かすごい不毛(ふもう)な会話になっちゃった。……それでその、相手の存在の確認って、どうやって?」
 真白が額(ひたい)に手を当てて反省し、剣護も狂乱(きょうらん)する兄馬鹿(あにばか)の顔を引っ込めて再び座った。
「――――呪詛返(じゅそがえ)しの秘言を、襲ってきた妖に向けて唱えた。…そいつは消えたよ。恐らく、呪詛を行った相手のもとに返ったんだろう。……スーツの男は、近々、お前に恨みを抱く奴が現れると言ったと次郎から聞いた。再会、だと。そいつは呪詛を行った奴と見て間違いない。真白、お前はそいつに心当たりはあるか?」
 問われた真白は口元に手を添(そ)え、思考の淵(ふち)に沈む。
 再会。恨み。呪詛。
 それらの言葉が導き出す相手――――――――――。
「…もしかして――――――――」
 真白の声に、剣護が頷く。その目に宿る暗い色。
「ああ。あの男だろうな」

 坂江崎(さかえざき)碧(みどり)は、小さな手に青いゴムボールを持ち、リビングの端に座り込んでいた。
 先程(さきほど)から右に、左に頭を傾(かたむ)けている。
 彼には最近、非常に気になることがあった。
 坂江崎家のリビングの窓からは、向かいに建つ二軒の門倉家(かどくらけ)が見える。両隣(りょうどなり)が同じ名前の表札(ひょうさつ)を掲(かか)げている状態は、近所の人間を多少混乱させた。ただ、片方の門倉家の手作りめいた木の表札には、名字の他に、ピーター、千鶴、剣護、と家族のファーストネームが記されており、訪れる人間に隣家(りんか)との区別をつけさせていた。
「あら、碧ちゃん。まだ眠ってなかったの?早く歯を磨いて寝なさい。明日も幼稚園(ようちえん)のあと、空手(からて)のお稽古(けいこ)でしょう?」
 じっとして動かない幼い息子に、リビングに乾(かわ)いた洗濯物(せんたくもの)を運んで来た母親が声をかける。
「ねえ、ママ、真白お姉ちゃんの家にね、最近、剣護お兄ちゃんじゃないお兄ちゃんたちが来たりしてるんだよ。……新しい、お友達かなあ?」
「真白ちゃんちに?――――あら、もしかしたら真白ちゃん、彼氏が出来たのかしら?可愛(かわい)いものねえ、あの子。剣護君とは仲良いけど、彼氏って感じじゃなかったし。良いわねえ、青春だわ」
 碧の母が、洗濯物を畳(たた)みながら遠くを見るような目をする。
「ねえねえ、カレシってなあに?」
 母親の服の袖(そで)をつんつんと引っ張り、碧が尋ねる。
「うーんとね、家族以外で、いつも一緒にいて、とっても仲が良い男の子のことかな」
 洗濯物を畳む手を休めることなく、母親が考え考え、答えた。
「お友達とは違うの?」
「そうね。もっと、特別かも」
 言いながら、母親はちらっと笑う。
「……真白お姉ちゃんは、僕よりカレシのことが好き?」
 碧の眉尻(まゆじり)が下がり、いかにも悲しげな顔になる。
「―――――そうねえ、どうかしら?…あら、このシャツ襟元(えりもと)のところが黄ばんできてるわ。あなた、ちゃんと毎回、着たあとに汚(よご)れ落(お)としの洗剤液(せんざいえき)、塗(ぬ)ってる?」
 ソファに座り、黙って新聞を読んでいた父親が目を上げ、肩を竦(すく)めた。
「あー…、最近、忘れてた。かも」
「もう、駄目(だめ)よ。面倒(めんどう)でも小まめにしないと。一度黄ばみが染(し)み付(つ)くと中々落ちないんだから。特に今からの季節は。これじゃ何の為にあの洗剤液買ったか、解らないでしょう?」
 パパ怒られてる、と思いながら碧は母親の剣幕(けんまく)を見ていた。
 パパは「会社で戦うヒーロー」なんだから、それを怒ることの出来るママは、きっとすごく強いのだ―――――――――――。
「ああ、うん。すまん、すまん。これからは気をつける。―――――しかし、あれだな。碧はまるで、真白ちゃんのお父さんだな。娘に悪い虫がつくのを警戒(けいかい)する、父親みたいだ」
 父親は、妻の勘気(かんき)を避(さ)けるべく、話題を移した。
 それを聞いて碧は、「悪い虫」って何だろう、と首をひねった。
 少なくとも真白の家に出入りする男子たちは、虫ではなく人間に見える。
(それとも、本当は虫なのに、人間に変身してるのかな…。テレビで見る、悪い奴(やつ)みたいに)
「…カレシがいても、真白お姉ちゃん、僕と結婚してくれる?」
 大真面目(おおまじめ)に訊いてくる幼い息子に、父親は思わず笑った。
「難しいなあ、それは。碧は、真白ちゃんと結婚したいのかい?」
 年の差カップルだな、と思いながら尋ねる。
「うん!僕、真白お姉ちゃんのこと、大好きだもの」
 碧の頭を撫(な)でながら、父親は言った。
「じゃあ、空手でも何でも、一生懸命頑張って、真白ちゃんに振り向いてもらえるようにしないとな。剣護君や、そのお友達に負けないように」
「僕、頑張るもん」
「よーし、それでこそ男だ」
 生真面目(きまじめ)な顔で言い切った息子に、父親が破顔(はがん)して頷いた。
 前生で小野三郎(おののさぶろう)と呼ばれた魂は、今はまだ幼く、優しい庇護下(ひごか)のもとで微睡(まどろ)んでいる。
「やれやれ。さすがは若雪どのだな――――」
 再び新聞に目を落とした父親がこぼした呟(つぶや)きは小さく、碧の耳には届かなかった。

 剣護との通話を終えた怜は、冷蔵庫の中を覗き込んだ。
 荒太は夕食を済ませているのだから、今日の食糧を考える必要は無いが、明日の朝食はこちらで食べるかもしれない。荒太とは浅い付き合いだが、自分以上に大喰(おおぐ)らいだということは解っている。
 大喰らいだしドケチだし細かいし、おまけに二面性(にめんせい)もある。若雪も真白もあれのどこが良いのだろう。取(と)り柄(え)と言えば、顔と頭と運動神経(うんどうしんけい)と家事全般(かじぜんぱん)その他―――――…ぐらいではないか。
 要するに器用貧乏(きようびんぼう)だ。
(まあ、根性(こんじょう)も甲斐性(かいしょう)もあると言えばあるけど。……家のエンゲル係数(けいすう)高(たか)そう…)
 あれを養(やしな)うのは大変だろうな、と荒太の両親に同情する気持ちが湧(わ)いた。
 加えて荒太は、自分に対してあまり遠慮(えんりょ)が無い。
パンや牛乳くらいは、買い足して置いたほうが無難(ぶなん)だろう。ついでに、他にも色々きれそうな食材を買って来よう、と思う。
(さすがのあいつも立場上、朝は和食じゃないと嫌だとか言ったりはしないよな)
 これでもし、「俺、朝は和食党なんだけど」などと抜(ぬ)かすようなら、部屋からほっぽり出そう――――――――――。
 財布とエコバッグを手に、ビーチサンダルを引っかけ外に出た。
 夏祭りはまだ続いているようで、明るい音楽が聴こえて来る。
 公民館を通り過ぎざまに覗(のぞ)くと、結構な人で賑わっていた。
(活気(かっき)があるな。蒸(む)し暑(あつ)いのに…)
 公民館前の広場には、焼き鳥や金魚すくいなどの出店(でみせ)も並んでいる。
 中には、親に連れられた小さな子供の浴衣姿(ゆかたすがた)もあった。
 若雪の子供時代を思いだし、怜は目を細める。
 
前生で、元服名(げんぷくめい)も付く前、太郎はただ太郎、次郎はただ次郎とだけ呼ばれた幼い日々があった。
 太郎は八歳、次郎は六歳、若雪は五歳、三郎は三歳。
 ある日、太郎は父に連れられ、小野家と同じく大社神官の家への用事に付(つ)き添(そ)いで赴(おもむ)き、家を留守にしていた。
 兄たちに懐(なつ)いていた若雪は太郎の留守を寂しがり、残った次郎のあとをついて離れなかった。次郎は困った顔を表面上して見せたが、内心では若雪が自分一人にまとわりついて来ることが嬉しかった。
 けれど次郎もまた、近くの知人の家への届け物を母に頼まれた。
〝次郎兄、待って!私も行く〟
 家を出た次郎を、幼い若雪が追って来た。
 まだ次郎より小さな手足を、懸命(けんめい)に動かして。
〝若雪、そんなに走ったら転ぶよ。歩いておいで〟
 次郎が言った瞬間、若雪は見事(みごと)に転んだ。
 あ、と次郎は思った。
 道に座り込んだ若雪は、しばらく呆然(ぼうぜん)としていたかと思うと、大声を上げて泣き始めた。
〝わあああん、わあああん〟
 次郎は急いで来た道を戻り、若雪の傍(そば)にしゃがみこんだ。着物の裾(すそ)から覗(のぞ)いた膝小僧(ひざこぞう)には、血が滲(にじ)んでいた。
〝ああ…、すりむいて、血が出てるじゃないか〟
 もっとゆっくり歩いてやれば良かった。
 泣き続ける若雪を見て、次郎は強く後悔(こうかい)した。
〝若雪、泣かないで。…泣かないで…〟
 結局、届け物を後回しにして、次郎は若雪を背負って家に戻ったのだ。
 背負うと言っても、五歳と六歳の体格はそこまで変わらない。
 届け物もあったので、結構、重くて苦労したのを覚えている。
 
「……………」
思い出す怜の口元には、笑みが浮かんでいた。

スーパーからの帰り道、公民館にもうすぐ差(さ)し掛(か)かる、というところで、怜は異変(いへん)に気付いた。雑多(ざった)な人の賑わいの空気に混じって、彼のアンテナに引っかかるものがある。
「―――――――?」
 それは今までに感知(かんち)したことの無い気配だった。
(何だ、これ。汚濁(おだく)ではない…。もっと純粋な、清らかさを伴(ともな)う、敵意)
 暗く、人気の無い横道に入ると、それは立っていた。
 半透明の身体に、清い空気、無邪気な笑みの―――――――魍魎。
 一目瞭然(いちもくりょうぜん)だった。
「…お前が、真白たちを襲った奴の同類か?」
 相手は微笑むと、次の瞬間加速して怜に迫った。
 エコバッグを放り投げながら叫ぶ。
「虎封(こほう)――――!」
 折角買(せっかくか)った卵が台無(だいな)しだ、という嘆(なげ)きが頭の隅(すみ)をよぎった。
 鋭い音を響かせて、一の太刀(たち)、二の太刀、と刃(やいば)を交(か)わしながら怜は思う。
(成る程…。やりにくいものだな)
 明確(めいかく)な命の息遣(いきづか)いが感じ取れる相手、というものは。
 今から自分は相手を殺すのだ、と嫌でも思い知らされる。
 ―――――殺す覚悟を、試される。
(その上、速い―――、強い)
 真白たちは、これを二体相手にして無傷(むきず)で済んだのか。
(こちらから先手(せんて)を打たないと、不利(ふり)になる)
 続いて鋭利(えいり)な小刀(しょうとう)が飛来した。
 虎封で打ち落とすが、仕損(しそん)じた一本が腕をかすめた。
(大した傷じゃない、このまま攻める―――――)
次なる一撃を魍魎に加えようとした時。
「ママ………?」
 怜の耳に、あどけない女の子の声が飛び込んできた。
 振り向けば横道の入口に、浴衣姿の小さな女の子が立っている。
 目は赤く充血(じゅうけつ)し、頬(ほお)には涙のあとがある。
(―――母親とはぐれたのか――――!?)
「逃げろ、早く!」
 怜が叫ぶが、女の子は硬直(こうちょく)したように動けない。
 これまでに見たことも無い魍魎の姿に、茫然(ぼうぜん)としているのだ。
 魍魎は女の子の姿を見ると、惹(ひ)かれたようにそちらに向かう。
 最悪の状況が怜の頭に浮かぶ。
(駄目だ―――――!)
 ダッ、と怜が地面を蹴(け)った。頭の中では、間に合え、とそればかりを念じていた。
(間に合え。間に合え。間に合え―――――――――)
 一秒でも、一瞬でも早く、足を動かさなくては――――――。
(間に合え………!)
魍魎が、女の子に向かって刃を振り上げる。
 その動きも、自分の手足の動きも、全てがやけにゆっくりと感じられた。
 ――――――刀で受ける余裕(よゆう)は無かった。
 瞬(またた)きの間に怜は選択(せんたく)した。
 手を伸ばしてその子の腕を掴(つか)むとグイッと自分のほうに引き寄せ、小さな命の塊(かたまり)を抱(かか)え込む。
 ほぼ同時に、妖の刃が怜の左肩を深々と刺(さ)し貫(つらぬ)いた。
「―――――――!!」
 形容しがたい痛みに、怜が目を見開く。
「あ………」
 女の子が目を丸くする。
 そのまま、怜の腕から抜け出て、泣き始めた。
 ズルッ、と無造作(むぞうさ)に刃が引き抜かれ、再び走る激痛に怜は呻(うめ)いた。
「…――――う、…ぐぅっ…」
「ママー、ママー、うわああああん」
 その時既に、怜の意識は朦朧(もうろう)としていた。
(痛い。熱い。熱い。…寒い…?―――――泣いてる…誰……若雪…、真白?)
女の子はそのまま、泣きながら逃げ去った。
 あとには、魍魎と怜が残った。
 魍魎が、刀を振り上げる。
 それを気配で感じても、避(よ)ける力が、怜には残されていなかった。
 ただ、彼の耳には女の子の泣き声がいつまでも鳴り響いていた。
(――――……真白。泣かないで―…。真白が泣くのは、嫌なんだ。―――――――こんな俺でも、真白が泣くと、胸が痛くなるんだよ…――――――――)
 それが怜の、最後の思考の欠片(かけら)だった。
 意識が遠ざかり、瞼(まぶた)が閉じられる。
 横たわる地面には、赤いものがゆっくりと広がりつつあった。

 

白い現 第三章 惑乱 四

白い現 第三章 惑乱 四

新たな姿を持った魍魎を倒した真白だったが、今後の戦いに対する戸惑いはあった。一方、真白から知らせを受けた怜は、荒太を家に泊める準備を整えるべく、外に出る。彼がそこで遭遇したものは―――――――――。

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 青春
  • アクション
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-10-04

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