海岸の砂時計 -2011 SUMMER VACATION-

海岸の砂時計 -2011 SUMMER VACATION-

EPIGRAPH

足跡が
ずっと
つくだろ

うん

さっきから10分歩いたとして
10分間ぶんの
足跡が残る

時間が
目に見える
みたいだろ?

あっちが昔
こっちが未来
ここが 今

そう
そしてこの砂浜は「現実」で
よせ返す波は
夢や理想や空想とすれば
この狭い波打ち際こそ
我々の生きる細々とした
時間軸そのものである

榛野なな恵『Papa told me』(EPISODE.33 シーサイドダイアリー)

THE FIRST DAY

一直線の二車線道路に,1台の路線バスが走っている。その左側には,白色の砂浜に沿って青色の海原が広がっている。また右側には,灰色の岩壁に載って緑色の草葉が茂っている。快晴の南中から照りつける真夏の陽射し。この路線バスだけが,山際の海岸道路を通っている。
車内ではクーラーが効いている。海側の座席は日向,山側の座席は日陰。そして最後尾の中央に腰かける1人の青年。彼は一心にフロントガラスの隅を見つめている。他に乗客はいない。
停留所のアナウンスと同時に,運賃表が切り替わった。青年は小脇のスポーツバッグから財布を取り出すと,ひとしきり小銭をつつきだす――舌打ちと溜め息。車内に響く降車ブザー。間もなく路線バスは停まり,前方の折戸ドアが開いた。
青年は財布から小銭を掬(すく)いとると,運賃箱の口へ投げ込んだ。日焼けした中年の運転手が,運賃箱越しに彼を見守っている。
「おたく,旅行のひと?」
唐突に声をかけられて,青年はきょとんとした顔を擡(もた)げた。
「ええ,まあ……そんなとこです」
「大学生? 夏休み?」
「ええ,まあ……」
「海水浴?」
「ええ……」
運転手は青年のつれなさを悟って,にわかにばつの悪そうな笑顔を浮かべた。
「悪いな,引き止めて。ここの海,わりと危ないから気をつけて」
「ありがとうございます」
青年は軽く会釈したのち下車した。ドアをくぐる瞬間,たしかに彼の素肌は,内外を隔てるエアーカーテンを感じた。皮膚が焼け焦げ,血液が沸き立つような,あの感覚。おのずと彼は,眉に左手のひらを立てて,陽射しから顰(しか)めっ面を隠す。それでも眩(まぶ)しい。
海からは潮臭が漂い,山からは蝉吟(ぜんぎん)が轟(とどろ)く。まっすぐな道路には,後にも前(さき)にも車がない。人気のない炎天下の停留所。

海側には歩道が通っている。砂浜との間では白色の柵が隔てている。歩行者は,青年をおいて誰もいない。
青年はしばらくバス停で佇(たたず)んだあと,路線バスの去った方向へ歩みだした。ときどき彼は,スポーツバッグを投げ飛ばしたり,センターラインで駆け回ったり,青空へ喚(わめ)き散らしたりした。どうせ人は見ていないし,車は走っていない。
道路のはるか前方では逃げ水が揺蕩(たゆた)う。まるで高温の鉄板で踊り狂う水滴みたいに,青年は気力と体力をみるみる失う。いまや彼は,しきりに鼻梁(びりょう)を拭い,前髪を掻(か)き揚(あ)げ,Tシャツで煽(あお)いでいる。
「暑い……」
青年は呟(つぶや)くと,歩道柵に凭(もた)れて蹲(うずくま)った。

気がつくと青年は,どこか屋内の畳敷きに横たわっている。びっくりして跳ね起き,きょろきょろと身辺を見回す。
6人で使えそうな座卓が3基ずつ2列。その狭間を分かつのは,膝丈ほど低まった通路。その左端は屋外へ開け放たれている。現に電球は消えたままだが,差し込む日光で暗くない。窓のない壁には,横へ整然と垂れ下がる短冊の群。それらの下に,ビキニ姿でビールジョッキを握る艶女のポスター。
――なるほど,一目で粗末な飲食店だ。
突如,通路の右端にある戸口から,暖簾(のれん)を潜って人が現れた。赤銅色の肌に,真っ白のランニングシャツとすててこ。小柄で痩身の老人ながら,上腕には逞(たくま)しい力瘤(ちからこぶ)が浮かぶ。
「よう,目覚ましたか。お前さんがそこの道端でくたばってたから,ここまで運んでやったんだ」
「ありがとうございます! あのまま倒れてたら,自分,熱中症で死んでました」
青年はたちまち状況を理解し,老人に対して深々とお辞儀した。そして青年は,揚々と老人に訊ねた。
「ここって海の家ですよね?」
「――そういうことになってる」
「そういうことって……?」
「つまり入らないんだ,客が」
命の恩人の気分を害したことを察し,青年は軽率さを恥じた。老人は,茫然(ぼうぜん)と佇む青年の手首を引き,その場に坐らせた。
「ちょっと待ってな。すぐ冷たいもの出すから」
「あっ,いや,ちょっと待ってください!」
青年の呼び止める声に耳を貸さず,老人は再び戸口の奥へ隠れた。間もなく戻ってきたときには,老人は片手に1本のコーラ瓶を持っていた。シュポン,と栓抜きで外された王冠の音。
「実は自分,いま金持ってないんです! だから――」
「勘定は要らないから,遠慮せず飲め」
「で,でも……」
「いいから遠慮すんな。タダって言ってるんだから」
後ろめたさを拭いきれなかったものの,青年は目前の座卓に置かれたコーラ瓶を握った。冷たく湿った感触。そして瓶口に吸いつくと,喉元で炭酸の爆(は)ぜる刺激。ゴクリ,ゴクリ,ゴクリ……息継ぎしないで飲み干した。
「ありがとうございました。お陰で生き返りました」
青年はげっぷを堪えながら,改めて頭を下げた。老人は「礼には及ばん」と言いながら,空瓶を取り返した。
「申し遅れましたが,自分,国東(くにさき)勇往(まさゆき)っていいます。東京の大学に通ってて,いま4年生です。ちょっと人生に迷ってて,自分探しの旅に出てみたんです。あてもなく電車乗って,バス乗ってたら,財布の金尽きちゃって。ATMで下ろせばいいやって高を括ってたけど,一向にコンビニ見つかんないし。それに,移動中ずっとスマホいじってたから,充電なくなっちゃうし。どうやって帰ろうか,本気で悩んでたとこです」
勇往はここに至る経緯を滔々(とうとう)と喋った。老人から受ける親切によって,不安でいっぱいの気持ちが緩んだのだ。
「よくわからんが,後先考えないで道に迷うくらいだから,その人生とやらにも迷うじゃないのか」
老人は皮肉ってみせたが,その実,愉快そうに笑っている。勇往も嫌味に捉えず,むしろつられて照れ笑いしている。和やかな雰囲気だ。
「それで,ひとつお願いがあるのですが――」
「わかった,わかった。帰る金がないから,うちに泊めさせてくれって言うんだろ。そりゃあ,タダってわけにはいかんよ。うちは家内と小さな民宿も営んでるんでね。じゃあどうだい,うちで少し働くかわりに今晩泊めてやるよ」
「いや,その……」
勇往の思惑は外れた。もっとも近いATMまで,車に乗せてもらえればよかったのだ。または,そこまでのバス代を貸してもらえれば。勇往にとって老人の提案は意想外だったが,必ずしも不都合とは限らなかった。どうせ行き先のない一人旅,おもしろそうな出来事を予感させた。
「ありがとうございます。お言葉に甘えて,一日働かせていただきます」
「神谷(かみや)剛雄(たけお)だ。よろしく」
剛雄が右手を差し出す。勇往はそれを握り返す。彼の胸にこみ上げる興奮と幸福。

岬と岬の十数キロメートル間の海岸は,灰黒色の平坦な砂浜だ。そこで潮風に曝(さら)されて赤錆(あかさび)を呈する,唯一のバラック。軒先に掲げられた木板には,消えかけた墨汁で〈たいよう軒〉という揮毫(きごう)。その下で吊り下がる〈氷〉の旗が,微かに揺らめいている。
勇往は剛雄を手伝うことになったものの,海の家の内外に海水浴客は見当たらない。剛雄は特に仕事を与えないまま,奥の部屋に籠(こ)もったきりだ。手持ち無沙汰の勇往は,座敷に臥(が)して傾眠を貪(むさぼ)っている。扇風機のそよ風が,汗ばんだ素肌を撫(な)でて心地よい。
「どうだい,暇か?」
首に巻いたタオルで顔面を拭いながら,剛雄が姿を現した。勇往は上体を跳ね上げて正坐に居直った。
「すいません。でも,こんな海水浴日和で誰もお客さんがいないなんて,ちょっともったいないですよね。自分なんか,いますぐ海に飛び込みたい気分ですよ」
「じゃあ水着を貸すから,しばらく泳いでこいよ」
「いいんですか!?」
俄然瞳を輝かせる勇往。剛雄は彼を一瞥(いちべつ)したのち,奥の部屋へ引き返した。すぐに,透明のビニル袋に包装された海水パンツを持って帰った。
「ありがとうございます! それじゃあ,お言葉に甘えてちょっと海に入ってきます」
「溺(おぼ)れても今度は助けないから,そのつもりで」

萎(しな)びた黄緑色の海水パンツは,小学生が穿(は)くようなボックスタイプ。勇往は羞恥心を禁じえなかったものの,どうせ砂浜は無人である。たいよう軒から数十メートル全力で駆け抜け,その勢いに任せて波へ分け入った。
「うおーっ!! 冷てえーっ!!」
反射的に全身の筋肉が緊張する。そして,全身の骨髄に冷感が伝播(でんぱ)する。気持ちいい……これらの急峻な刺激反応が,火照(ほて)った勇往に快楽を滾(たぎ)らせる。
海は澄んでいないものの,波はさほど高くない。勇往は平泳ぎをして沖を目指す。口内に漏れ込んだ海水で,しだいに鹹味(かんみ)が染み渡る。波頭が陸の稜線を遮るあたりで,勇往は身を捩(よじ)って仰向けに浮かんだ――眩しい。思わず眉を顰(ひそ)めて瞼を細める。
不思議な心地だ。空と海の境界に秘められた宇宙。身体の上下左右に揺蕩う浮遊感が,まるで無重力空間を遊泳しているように錯覚させる。
ふと目を開くと,青空に立ち込める入道雲に気づく。勇往は一旦浅瀬まで戻り,今度は海岸線に沿って泳ぎはじめる。
相変わらず,浜辺に人影は認めない――そこに,奇妙な構造物が出現した。道路との境界で叢(くさむら)のなかに聳(そび)える,黒っぽい扁平な石柱。意図的な人工物であるのは明らかだ。
勇往はさっそく海から上がり,歩いて石柱のもとまで寄る。両腕を広げたくらいの幅,そしてその3倍の高さ。ゴツゴツとした粗削りの花崗岩だが,その前面だけはツルツルと矩形(くけい)に研磨されている。
〈水難者慰霊之碑〉
篆刻(てんこく)された文字を読み取った直後,半裸の勇往に鳥肌が立った。そう遠くない昔,この海で人々が死んだのだ。おそらくは,慰霊碑が建立されるほど甚大な事故または災害。
つと日が陰る。太陽を覆う入道雲の切れ端から,放射状に光芒(こうぼう)が広がっている。煌(きらめ)きを欠いた群青色(ぐんじょういろ)の海面は,冬季の不気味なそれにそっくりだ。
勇往は徒歩でたいよう軒へ帰った。

たいよう軒には,食思を唆(そそ)るソースの匂いが漂っている。勇往は恐る恐る,暖簾の奥の部屋へ踏み込む。そこは厨房だった。剛雄が鉄板の前で背を向けて,両手のステンレス製へらを威勢よく振るっている。
「どうだ,腹減ったろう。いま焼きそばができるから,あっちで待ってな。ビール飲みたけりゃ,お前さんの右手の冷蔵庫に入ってる。コップはその隣の棚だから,好きなの使え」
剛雄は体勢を変えないまま,背後に佇む勇往に話しかける。たしかに,全面ガラス張りの冷蔵庫内では,褐色のビール瓶が寿司詰めで冷えている。そしてワンルームサイズの食器棚のなかには,大小いろいろな陶製の皿とともに,グラスとジョッキが並んでいる。
「いただきます。ありがとうございます。
――あの,ひとつ教えてほしいことがあるんです。さっき泳いでたとき,たまたま海岸で,水難者慰霊碑ってやつ見つけちゃったんです。あれが建ってるってことは,ここで昔,そういうことがあったってことですよね?」
剛雄の手が止まる。一呼吸おいたあと,そばに準備した平皿に焼きそばを盛りつけた。剛雄が顧みると,その面持ちは厳かだ。
「悪かったな。別に,お前さんを危ない目に遭わせるつもりで,泳ぐのを勧めたわけじゃなかった。すまん」
「いや,あの……たんに自分は,興味本位で訊いてみただけなんです。こんないい海に人っ子ひとりいない訳は,もしかしたらこのせいじゃないかって」
剛雄の誤解を解くために,勇往は大仰に両手を振りながら応えた。しかし,剛雄はなお相好(そうごう)を崩さない。
「俺が23の年だから,いまから52年も前の話だ。戦後この一帯は米軍に接収されたが,返還後は海水浴場になった。県内は磯ばかりだから,数少ない砂浜として賑わったもんだ。毎年夏がくるたびに,寝そべるのも儘(まま)ならないぐらい客が押し寄せた。露店や海の家だって,何百メートルにも渡って軒を連ねてたよ。
忘れもしない52年前の8月11日,3時ちょっと前だったと思うが,でっかい地震が起きたんだ。ちょうど俺はこの店にいて,はじめは眩暈(めまい)か何かと思った。でも,壁やら皿やらガタガタ揺れてるし,こりゃ地震だと。店の客も頭抱えて天井見上げてたけど,外に逃げ出すような奴はいなかった。1,2分で揺れは収まって,外の様子を見に出ると,海水浴の客は何事もなかったみたいに遊んでた。しょせん,その程度の大きさだったんだ。俺は安心して店のなかに戻った。それから15分ぐらい経ったころ,足元に水が迫ってきたかと思うと,突然,メキメキと店が崩れだした。そう,津波だ。俺は一瞬で波に飲み込まれて,店の瓦礫(がれき)と一緒に押し流された。と言っても,不意な出来事だったから記憶にないがな。
あの津波のせいで,たくさんの人間が死んだ。地震の大きさのわりに,津波がでかかったんだ。その理由は要するに,遠浅の地形が災いして波の高さが増幅されたためらしい。結局今日に到るまで,この忌々(いまいま)しい海水浴場は再開されてない。
――これが,お前さんの知りたがってた慰霊碑の真実だ」
絶句する勇往。50余年とはいえ,剛雄は多数の死者をもたらした津波の一被災者らしい。その土地で海の家を営業しつづけているのは,愛着や鎮魂を内包する高尚な意地ゆえだろう。そして,剛雄が無知の青年に海水浴を促したのも,勇往は忖度(そんたく)することができた。若者たちで活気に満ちていたころの海岸を懐かしみ,ごく一部でもその光景を目の当たりにしたかったからだろう。
「自分の人生ちっぽけなんで,なんと言ったらいいか……すいません」
「いいさ,まだ若いんだから。それにお前さんは,人生に迷ってここに来たんだろう? ここは田舎だ,何もない。よくよく考えるんだな,その人生とやらを」
剛雄は豪快に笑いながら焼きそばの皿を取り,厨房から出ていった。

勇往は座卓で焼きそばを頬張っている。その斜向(はすむ)かいで,剛雄はグラスのビールを呷(あお)っている。
「お前さんは大学生って言ってたな。何を学んでるんだい?」
「自分は電気電子工学科の4年で,いまは制御工学研究室で卒研やってます。研究テーマは,まぁ一言でいえば,風力発電です。もともと自分は制御とか流体が好きでしたし,世の中的にも代替エネルギーが注目されてるじゃないですか。
風って文字どおり『風任せ』ですから,瞬間瞬間で向きも違えば速さも違います。そこで制御工学が重要になってくるんです。風力発電はヨー制御とピッチ制御っていう2つの制御技術を用いて,発電電力を最大かつ一定にしてます。自分の研究室では,新規のピッチ制御技術を確立して,風力発電効率をいまよりも向上させようと,大手重電メーカと共同研究をやってます。
――まぁ,わかりやすく説明すれば,こんなとこです」
剛雄は微動だにしないで聞き入っていた。ようやく空のグラスにビールを注ぐ。
「よくわからなかったが,前途洋々だな。それで,学生生活は楽しいかい?」
勇往は即答できなかった。高校生のときに思い描いていた生活とは,目下異なるものだ。一般教養の講義で知り合った男たちとは,いつも昼休みに学食へ行った。居酒屋のバイトで知り合った男たちとは,ときどき飲み会を催した。硬式テニスのサークルで知り合った男女とは,冬ごとにスノボへでかけた。インカレで出会った他大学の女とは,メル友のような仲になったものの,恋人にはなれなかった。
大学に入れば,毎日が充実感でいっぱいだと信じていた。しかし現実はつまらない。前日の生活が本日も維持されるように願うきり。その結果,人間関係は離れない程度に,バイト・サークルは辞めない程度に。それでも日々にゆとりはなく,退屈で無為な3年半を過ごした――
「3年の秋からは,本格的に就活が始まりました。来る日も来る日も説明会,エントリーシート,SPI,グループディスカッション,面接……ほんとに辛いです。もともと自分は行きたい企業があったわけじゃないし,本音を言えば,まだ〈働く覚悟〉みたいな気持ちもできてません。だからやる気が出ないんです。でも,周りに合わせて就活やらないと,いままでの生活が守れそうになくて,漠然と不安を感じますし。
もう30社近くは受けましたけど,なかなか決まらないです。友達のなかには内定取れた奴もいれば,大学院に進む奴もいて,それが自分にはものすごいプレッシャーで。いい加減就活のストレスに耐えきれなくなって,一人旅に出てみたんです。完全に現実逃避です」
勇往は自ずと身の上を打ち明けていた。今度は,初対面の剛雄にわからせようと意識的に語りかけた。すると,かえって勇往の胸中で,蟠(わだかま)りがすっきりしたように感じられた。
勇往の手元のグラスはずっと乾いたままだ。剛雄はそこにそっとビール瓶を傾ける。
「まぁ,飲めよ。今時の若者は大変だな」
「いえ,ありがとうございます」
長広舌で酸っぱく粘ついた口内に,ほろ苦く冷えたビールが染み渡る。ゴクリ,ゴクリ,ゴクリ……喉元の滑(ぬめ)りを洗い流すような,蘞辛(えがら)っぽくも快い喉越し。勇往は一気に飲み干した。
「俺の親父は漁師だったからな。昔から,漁師の息子は漁師って決まってる。漁期以外は民宿で生計を立てる。この海の家だってそうだ。生活は毎年ほとんど変わらないが,体は確実に老いていく。それでも俺は,人生を不自由に思ったことは一度もない。
気の毒だけど,お前さんがどんな生活を送ってるのか想像がつかない。その歳で,どうして人生に迷ってるのか理解もできない。悪いな。なにせここは,世間から取り残された片田舎。お前さんが生きてる時代とは違うってことだ」
剛雄は皿とビール瓶を持って立ち上がり,勇往に背を向けて厨房へ去った。

勇往がうたた寝から醒める。傍らでは剛雄が煙草を吸っている。
「起きたか。そろそろ家に帰るぞ」
たいよう軒の入口から,橙色の陽光が鳥の嘴(くちばし)状に射し込んでいる。夕暮れだ。
剛雄は,座卓の灰皿に煙草を押し拉(しだ)いたあと,おもむろに片膝を立てる。寝ぼけ眼の勇往が,躊躇(ためら)いがちに「あの……」と呼びかける。
「ちょっとその前に,シャワー貸してもらえませんか?」
勇往は依然,海水パンツ一丁だ。髪の毛から足の趾(ゆび)まで,ベトベトと鹹映(しおは)ゆくて気持ち悪い。
「悪いが,ここにシャワーはない。道路を渡れば家だから,少し辛抱してくれ」
スポーツバッグを担いで屋外へ出た瞬間,勇往は刮目(かつもく)する。昼間は,汀(みぎわ)まで50メートル足らずだったのに,現在は,ゆうに100メートルは退いている。わずかに覗ける海面が,右方の岬へ沈みかけた夕日に映えている。
「砂浜がめっちゃ広がりましたね!」
トタン板で入口を塞ぎながら,剛雄が「昔はこの倍は広かったよ」と応じる。
「40年前,川の上流にダムが出来たんだ。そのせいで土砂が堆積(たいせき)されなくなって,砂浜は浸食される一方。いずれこの店も海に沈むかもな」

たいよう軒から海岸道路へ直進し,そのまま横断したところに,剛雄の経営する旅館がある。2階建ての平凡な民家。錆びきったトタン板の外壁は,枯れた蔦(つた)で覆いつくされている。剛雄の結婚を機に建築されたのだろうか――勇往は想像を巡らす。
「これが,その旅館ですか?」
「そうだ。自宅を兼ねて家内とやってる。昔は夏に遊漁船を出して,主にその釣り客を泊めたもんだ。海水浴の客はあまり泊まらなかった。あいつらは日帰りだからな」
砂利の敷き詰められた,テニスコートほどの前庭。ぽつんと置かれた物干し竿を横目にして突っ切る。玄関に到ると,剛雄は鍵なしで引戸を開いた。
「母さん! 母さん! お客さんだ!」
玄関土間で叫んだあと,剛雄は勇往の眼下でビニールサンダルを脱ぎだす。勇往の眼前は一面の壁。間もなく,廊下の上手(かみて)から老女が現れた。くたびれた白いブラウスを着て,シミだらけのエプロンを巻いている。
「家内の淳子(じゅんこ)だ」
「いらっしゃいませ。神谷淳子と申します。どうぞ,お荷物をお預けください」
淳子はにこやかに微笑む。ふくよかな顔は深々と皺を刻み,頬を桜色に染めている。駄菓子屋の柔和なおばあちゃん――勇往の第一印象だ。
「こちらこそはじめまして。国東勇往と申します。荷物は大丈夫です。自分は全然客とかじゃないんで。道端で行き倒れてたところを,偶然剛雄さんに助けてもらったんです」
「そうなんだよ。助けてやったら,今度は金がないって言うもんだから,うちで働いて自分で稼げと。とんだ寸借詐欺に遭うところだったよ」
3人は一同に笑いあう。勇往がスニーカーを脱ぐために一旦スポーツバッグを置く。その隙に,淳子は黙って受け取る。
「さあ,お前さんの部屋は2階だよ」
剛雄に従って廊下の下手(しもて)へ進む。急勾配の階段を上がると,暗闇のなか一直線の廊下。辛うじて,両側の壁にいくつかのドアノブが視認できる。剛雄がそのひとつを手にかけた直後,廊下に茜色の扉が浮かび上がった。
日溜まりの和室。大人4人は宿泊可能だ。アメニティとしてテレビはおろかテーブルすらない。殺風景な床の間だけが,客室らしさを演出している。
「ここを使ってくれ。布団は襖(ふすま)のなか。便所は廊下の突き当り」
「困ったことがあったら,何でも言ってくださいね。遠慮は要りませんよ」
勇往は「ありがとうございます」とお辞儀する。剛雄と淳子は揃って退室した。階段を下りる足音――そして静寂。
勇往は窓際に立つ。屋外へ向けた眼球を徐々に擡げる。庭,車道,歩道,砂浜,海の家,海,岬,水平線,空,太陽,雲……風景の一角を写真で撮ったかのように,次々と勇往の脳裏に映る。通学中の見慣れた車窓では,体験することのできない恍惚感(こうこつかん)。日が沈むまで,勇往は無心で眺めつづけた。

「おい,晩飯だ」
剛雄が真っ暗な部屋に呼びかける。勇往は,スポーツバッグを枕にして寝ていたところだ。廊下の明かりに目を晦(くら)ませる。
「すいません……いま行きます」
勇往は剛雄を追って階段を下り,玄関を通り過ぎる。ドアの先がダイニングキッチンだ。中央で鎮座する食卓には,椅子が3脚・1脚・3脚・1脚と備わる。その上の半分は,新聞やチラシが散乱しているものの,もう半分は,茶碗や小鉢が配膳してある。
壁際のキッチンに立つ淳子が,笑顔で顧みた。
「みんな揃ったところで,お夕食にしましょう」
上座に剛雄が着き,その両角に淳子と勇往が着く。献立は家庭的な和食だ。ギンダラの煮付,マグロの刺身,シジミの味噌汁,ダイコンのマヨネーズ和え,絹ごし豆腐の冷奴,そして白米。
「自分,一人暮らししてるんですけど,自炊まったくしないんで,こんなちゃんとした食事,すごい久し振りです」
勇往は声音を弾ませて淳子に話しかける。
「あら,まぁ。ご飯のおかわりはありますから,いっぱい食べてくださいね。それでも,普段のお食事はどうされてるのかしら?」
「朝はパン食って,昼は学食で,夕は……冷凍食品が多いですかね。あとはレトルトだったり。夜遅くなった日はコンビニ弁当ですね」
淳子は〈その食事で人は生きられるものか〉と言わんばかりに,愕然(がくぜん)とした表情を見せた。もっとも,勇往はそれを察することができなかったが。
「ところで,主人に訊きましたら,国東さんは東京の大学生さんなんですって。ご立派ですね」
「いやいや,全然大したことじゃないですよ。自分の偏差値で受かった大学が,たまたま東京にキャンパス持ってただけですから。別に向学心とかあって大学行ったわけじゃないですし,自分はごくフツーの学生です」
勇往は大仰に左手を振りながら,自嘲気味に応えた。一瞬思考を掠(かす)めたのは,就活のこと。エントリーシートや面接で大学生活の充実ぶりをアピールしても,正直なところはこうだ。
「われわれはもう何十年と東京に出てませんもの。人も車もいっぱいいて,きっとこんな年寄りじゃ歩けないでしょうね」
淳子は気を遣って,さりげなく話頭を転じる。
「自分はあまり東京が好きじゃないです。東京の街並みって,まるで家がデパートのなかに入ってる感じなんです。だから東京の人って,常にお客様意識を持ってて,遊び好きだし,新しいもの好きだし,偉そうだし,キレやすいし――」
黙々と食べていた剛雄が,突然「ごちそうさん」と言い放ち,席を離れた。勇往は我に返り,その後はひたすら口に箸を運びつづけた。

生暖かいシーツのうえで,勇往は一向に寝つけなかった。入浴後,剛雄に誘われて,縁側で焼酎を酌み交わした。そして午後10時過ぎ,めいめい床に就いた。
部屋にクーラーはない。足元の扇風機から微風(そよかぜ)が吹く。全開の窓からは潮風が入る。枕元の蚊取線香からは燻煙(くんえん)が漂う。とにかく蒸し暑い。昼寝の心地よさとはほど遠く,ただストレスに苛(さいな)まれるきり。
手元の腕時計を確かめると,午前3時過ぎ。輾転反側(てんてんはんそく)して,ついに勇往は起き上がった。

スウェット姿のまま,勇往は屋外へ出た。煌々(こうこう)と照る道路灯のため,庭先はさほど暗くない。
海岸道路のセンターラインに佇む。白光のレールが闇の彼方へ貫いている。
歩道柵を跨ぎ,砂浜を歩く。たいよう軒の辺りでは,さすがに道路灯の明かりは及ばない。月明かりの下で,沖の水面(みなも)が油膜のように艷(つや)めく。そして天球を仰げば,星屑の夥(おびただ)しさ。勇往は不意にグロテスクに感じ,鳥肌を立てる。
おもむろに眼差しを下ろす――人影!? ぴくりと,勇往の腕と腿(もも)の筋肉が収縮する。ボクサーの体勢で,たいよう軒の陰を凝視する。月光に浮かび上がるガルボハットとフレアスカート――見紛(みまが)いなく女性だ。
だしぬけに鞭(むち)打たれて,痺れる勇往の脳味噌。日中,人っ子ひとりいない海岸に,なぜか深夜,女性が一人で現れる。その状況について,もはや勇往は理性的に判断できず,おのずと好奇心のまま行動していた。
女性に躙(にじ)り寄り,話しかける。
「あの――」
脱力していた女性のシルエットが,にわかに緊張する。
「こんなところで何してるんですか?」
「はい?」
妙齢の女声。
「いや,あの……驚かせちゃってごめんなさい。自分は決して怪しい者じゃありません。観光客……っていうか,この海の家でバイトしてる者です。もともと東京の大学通ってて,夏休みに一人旅してたんですけど,持ち金なくなっちゃって,そこの民宿に泊めてもらう代わりに,ここでしばらく働くことになったんです」
「はぁ……」
勇往は身振り手振りを交えて,自分が不審者でないことを必死にアピールした。一方,女性は即座に逃げ出さなかったものの,依然身構えたままだ。
「ホント,突然話しかけてごめんなさい。自分,今日の昼間もここにいたんですけど,海の家の爺さん以外誰にも会わなかったのに,こんなド深夜に女性一人が出歩いてるなんて,ちょっとびっくりしたんです。それで,つい……」
沈黙。勇往の頭から血潮が引きはじめる。この状況で初対面の人とコミュニケーションを図れるはずがない,とようやく悟る。
「――そちらこそ,ここで何を?」
恐る恐る,女性が訊ねる。項垂(うなだ)れていた勇往は,はっと面を上げる。
「散歩です。夜眠れなくて」
「わたしも散歩です。お互い様です」
通じた! 勇往はある種の納得とともに,再び胸を高鳴らせる。たしかに客観的には,双方,無人の海岸に出没した深夜の徘徊者だ。
「地元の方ですか? それとも旅行者ですか?」
「いえ……わたしはただ海を眺めてただけです」
「こんな夜更けに?」
「仕方ないんです。この時間にしか見られないんですから」
キャッチセールスを拒むように,女性は急に踵(きびす)を返して,勇往の前から去ろうとする。
「すいません。『この時間』ってどういう意味ですか?」
勇往は女性の後を追いながら,遠慮がちに訊く。
「何でもないです。失礼しました」
しばらく無言で歩いたのち,女性が立ち止まる。同時に勇往も立ち止まる。海岸道路の歩道柵。照明の下,女性は勇往の目に後ろ姿を晒す。腰まで艶やかな黒髪を伸ばし,白い木綿のワンピースを着ている。
女性が立ち往生した理由は明らかだ。自力で柵を跨ぎ越すことができないからだ。
「もしよろしければ,手を貸しましょうか?」
勇往は助走をつけて,軽快に飛び越えてみせる。そして柵越しに右手を差し伸べる。帽子の鍔(つば)の陰で,女性の表情はよく窺(うかが)えない。しかし,端正な小顔だ。
しばらく逡巡(しゅんじゅん)したのち,女性は勇往の手を取った。
「まずは,左足を真ん中の棒に載せて――」
勇往は女性の腰に腕を回し,歩道の側へ抱き寄せる。腕に感じる快い手応え。勇往は女性の細い腰回りに触れて,否応なく情欲を催す。
「失礼しました」
「ありがとうございます」
両者とも伏目がちに言葉を交わす。勇往は女性を引き止める方策を考えるものの,結局閃(ひらめ)かなかった。
「じゃあ,自分は宿に帰ります。明日も同じ時間に散歩しますから,もしよろしければ,またお会いしましょう」
勇往は女性の返事を聞かないうちに,海岸道路を渡りだした。小走りで旅館へ向かいながら,早くも次の午前3時に心を躍らせた。

THE SECOND DAY

瞼のくすぐったさで勇往は目を醒ます。いつの間にか部屋に満ち満ちる日光。ほんの一瞬,勇往は寝心地の悪さを感じる。普段の朝と異なるシーツの肌触り,空気の匂い,陽射しの傾き。
――そうだ,俺は他人(ひと)ん家(ち)に泊まってるんだ。
勇往は身支度を整えたのち,階下へ降りる。淳子がシンクの前で食器を洗っている。
「おはようございます。剛雄さんはどちらへ行かれたんですか?」
「おはようございます。主人はもう店ですよ」
淳子はエプロンで手を拭いながら,勇往のほうへ顧みる。
「国東さんはお朝食を召し上がるでしょう? すぐに用意できますから,おかけになってお待ちくださいね」
「いただきます。ありがとうございます」
勇往がダイニングの席に着く。ふと掛け時計を見上げると,午前11時の10分前。
「参ったな。いつもなら,こんな時間に研究室行ったら,教授に怒鳴られるわ……」
淳子が「夏休みなんですから,ゆっくりしてもいいじゃないですか」と労(いたわ)る。その間にも滞りなく,アジの干物が食卓に上る。続いて納豆,味噌汁,白米。
「国東さん,ごめんなさいね。主人が無理言って,こんなところにお泊めして。何にもない田舎ですから,若い方にはつまらないでしょうに。でも国東さんは,よりによってどうしてこちらへ?」
食後,淳子が焙じ茶を淹(い)れながら,勇往に語りかける。
「いえいえ,お気遣いなく。自分は人混みが苦手な質(たち)なんで,都会より自然のほうが好きですし。この町に来た理由は,本当にまったくの偶然です。適当に電車を乗り継いだら,たまたま行き着いただけです。放浪の旅をすることが目的でしたから,別に後悔とかしてません」
「それならよかったです。われわれは国東さんがいらっしゃってとっても嬉しいんですけど,もし国東さんのご都合が悪くなりましたら,遠慮なく申し出てくださいね」
淳子は幸せそうに微笑んだ。

たいよう軒の戸口からは,すでにトタン板が取り払われている。勇往は「こんにちはー」と声を発しつつ,店内へ足を踏み入れる。
「遅いぞ!! テメェ,居候の分際でふざけんじゃねぇぞ!」
不意打ちの怒号。勇往は卒然とネコみたいに身を竦(すく)ませる。
「すっ,すいません……!」
厨房の前で仁王立ちする剛雄が,ニヤリと相好を崩す。
「悪かった。いまのは冗談だ」
「やめてくださいよぉ……マジで心臓が止まりそうでしたよ」
ほっと溜息を吐(つ)く勇往。
「でも,神谷さんたちにはいろいろよくしてもらってるのに,自分が何もしないのは申し訳ないですね。イチオウ,こちらで働かせてもらう代わりに,泊めさせてもらってるわけですし」
「まぁ,その心遣いだけでありがたいよ。もしお客が来た日には,精一杯もてなしてくれ」
剛雄は厨房へ引っ込む。勇往は座敷に上がって胡坐(あぐら)をかく。しばらく思案に耽ったのち,立って厨房へ向かう。
剛雄は丸椅子に腰かけて,タバコを燻(くゆ)らせている。勇往に「手拭みたいなもの貸してもらえませんか?」と求められ,黙然と部屋の隅を指差す。折畳式のタオルハンガーに,干涸(ひから)びた数枚の雑巾。
勇往は濡らした雑巾で座卓を拭きはじめた。通路を挟んで3基ずつ,砂埃の積もった卓上を入念に磨く。すべて済むと,再度厨房へ赴く。
剛雄は勇往に「箒(ほうき)みたいなもの貸してもらえませんか?」と請われ,やはり無言で指し示す。食器棚と壁の隙間に,毛先の広がった1本の座敷箒。
勇往は箒で畳を掃きはじめた。塵取がないので,砂埃を左右の座敷から中央の通路へ払い除ける。全面を終えると,その場で大の字に臥した。
扇風機が回っているとはいえ,真夏の軽作業で汗だくだ。勇往は浅い呼吸をして,密かな達成感に酔い痴(し)れた。

「おい,いつまで寝てるんだ。そろそろ帰るぞ」
身体を揺さぶられ,勇往は目を醒ます。軽い眩暈を感じつつ,寝ぼけ眼を擦(こす)る。戸口の日溜まりは,すっかり橙色だ。
「すいません。何も手伝えなくて……」
結局勇往は,途中で焼きそばを食した30分間のほかは,ずっと惰眠を貪(むさぼ)っていた。せっかく恩返しを試みたのに,己の弱行を悔やんだ。
「なに,気にすることはない。どうせ客は来なかったんだから」
二人同時にたいよう軒を出る。本日も,水平線の間際まで海岸線が退いている。黒砂の渚は湿り気に従って,無彩色のグラデーションを描いている。
――今夜,あの女性はここに来るだろうか?
ふと勇往は,昨夜ここで出会った女性のことを思い出す。いな,この瞬間まで忘れていたのではない。頭の片隅で覚えていたものの,彼女との再会は望み薄と見なしていた。無論,約束の時刻に行ってみるつもりだが。
海を眺める勇往の背後で,剛雄が戸締りを始める。咄嗟(とっさ)に「手伝います」と言って,勇往は剛雄と一緒にトタン板を引いた。

宛てがわれた客室の窓辺で,勇往は暮れ泥(なず)む浜辺を望む。
今日は無為に過ごしてしまった。そして明日も,このままでは同じになりそうだ。旅行という非日常の時間がもったいない。きっとこの土地へは,二度と訪れることがないだろうに。そのような感覚は,東京の日常生活では生じなかった。
悲劇に見舞われて,人跡をなくしたままの海岸。そこで50余年,海水浴客を待ちつづける老夫婦。この町について,それ以外にまだ何も知らない。まっすぐな道路で自転車をかっ飛ばし,蝉吟を聞きながら潮風を切るのを想像する。
――そうだ,剛雄に相談してみよう。

「あの,もし自転車をお持ちでしたら,明日貸していただきたいんですけど」
三人で囲む夕食のテーブル。黙々と箸を取っていた剛雄が,怪訝(けげん)そうに勇往の顔を見遣る。
「自転車……? まさかそれに乗って,宿代を踏み倒すつもりじゃなかろうな」
「いえいえ,まさか! せっかく旅行に来たのに,一日ボケーッと過ごすのももったいないと思って,ちょっと近場に出かけてみようかと」
照れながら説明する勇往に対して,剛雄は「ふうん」と鼻先で頷(うなず)く。
「自転車なら,たしか物置の隣にありましたよ」
「あれは何年も雨曝しの状態だ。あのままじゃ使えんよ」
我勝ちに発言した淳子は,たちまち剛雄に否定されて膨れっ面を成す。その様子を認めて,勇往は「古くてもいいんで」とフォローを入れる。
「油を差してネジを締めれば,なんとか動くかもしれん。壊しても構わんから,好きに使いな」
「ありがとうございます!」
剛雄の厚意に感謝する勇往。傍らでは,淳子が幸せそうに目を細めている。
「それと,ひとつ教えていただけませんか? この辺でおもしろいところはありませんか?」
ご飯を口へ運びかけていた剛雄が,ぴくりと箸を止める。
「おもしろいところ? ないよ,そんなの。見た目のとおり,海と山だけの田舎さ」
自嘲気味の剛雄に,勇往はなお食い下がる。
「本当に何もないんですか? ローカルな史跡でも全然構いません。出かけるのに,どこか目的地が欲しいだけなんで」
「あるとすれば――隣町だな。あそこは温泉が湧いてて,昔は結構賑わった観光地だ。まぁ,いまでは見る影もなく廃れたがな。でもあそこまでは,片道20キロは下らんぞ」
「往復で50キロ近くですか……高校生のころはチャリ通だったんですが,自転車でそんな遠出したことないんで,あんま自信ないですね。でも,教えていただきありがとうございます」
勇往のしょげた表情に目もくれず,剛雄はご飯の載った箸先を口へ入れた。「そういえば」と,淳子が躊躇いがちに声を上げた。
「あさってですが,裏山のお稲荷様で夏祭りがあると思いますよ。われわれはもう何年も行ってませんが,いまでも多少は露店が出るかもしれません」
「夏祭り,おもしろそうですね! 是非あさって行ってみます」
勇往と淳子は互(かたみ)に微笑みあった。両者の間で,剛雄が口惜しげに「大したもんじゃないぞ」と呟く。
「いえいえ,自分には地域のお祭りってのが珍しいんですよ。東京でも,七夕とかお盆にお祭りはあるんですが,商店街主催のお金稼ぎって感じで,まったく風情がないんです」
熱弁を振るう勇往。剛雄は「そうかい」と無愛想に応じた。

床に就いても,勇往はまんじりとせず,寝返りを打ちつづけている。たしかに昼寝のせいもあるし,熱帯夜のせいもある。しかし,主たる理由は違う。
枕元の腕時計を鷲掴みする。この動作をほぼ30分おきに繰り返している。燐光の指し示す針先は,2時32分。俄然,勇往の好奇心が滾る――よし,行ってみるか!

たいよう軒の周囲に,目当ての女性はいなかった。月明かりに仄(ぼの)めく,青磁器のような海面。振りさけ見れば,威圧感のある巨大な山のシルエット。実際のところ,暗闇の砂浜で人影が出没しても,目視は困難だ。
勇往は軒先に腰を下ろした。そして無心で海を望んだ――人!? 間もなく,海面で浮彫りになった人影を見つける。無我夢中で駆け寄る勇往。足元で舞い上がる砂が,次第に水気を孕(はら)んでいき,靴底に粘りつく。
昨日の女性だ,間違いない。勇往は駆け足を休め,昂(たか)ぶる緊張を抑えつつ,忍び足で迫る。
「あのー……」
めんこのように,ぴしゃりと身を翻す女性。「ご,ごめんなさい」と慌てて詫びる勇往。
「昨日の者です。約束の時間に来てくれたんですね」
女性は胸元に両腕を折り畳んだまま,対応を考え倦(あぐ)ねているみたいだ。たっぷり十数秒間の沈黙。
「別に,待っていたわけじゃありません」
女性に期待を見透かされたようで,勇往は恥じ入った。女性とは裏腹に,勇往が〈待っていた〉のは事実だ。そこにナンパの明確な意志はないものの,男の本能的な欲望がないわけではない。
勇往は,しばらく二の句を継げなかった。どうすれば女性の警戒心を解けるのか,じっと知恵を絞った。
「どうやら,観光客じゃないみたいですね」
「どうしてそう思うんですか?」
「だって,夜にしか来ないじゃないですか。観光客なら,真っ暗な海を見ようとはしませんし」
「わたしも夜にしかあなたを見ません」
「それは違う。俺は昼間もここに来てるんだ。だから,海岸に人っ子ひとりいないのは知ってる」
「当然です。わたしはあなたに会おうとはしてません」
はっと我を取り戻す勇往。図らずも,女性にぞんざいな口を利いてしまった。
もう無理だ――勇往はとうとう観念した。わざわざ深夜に海岸を訪れるのだから,女性が人目を避けたいのは明らかだ。土台からして,コミュニケーションが成り立つはずがない。
それにもかかわらず,勇往は後悔を禁じえなかった。自分がもっとうまく振る舞えば,女性を惹(ひ)きつけたかもしれないのに,と。同時にまた,大学での女性との接し方を省みて,自分には不相応とも悟った。
「すいません……自分はただ,真夜中にここへ来るあなたが不思議だっただけです。昼間でさえ誰もいないのに,どうしてかなって。そんなあなたに興味を持ちましたし,お話してみたいって思いました。正直言うと,人気がなくて人恋しさもありました。だから――」
訥々(とつとつ)と,勇往は心中を吐露する。女性は胸元の両腕を下ろしながら,やおら彼の独白を遮った。
「わたしは……わたしは,ここに住んでるんです」
後ろめたそうに,女性は告げた。意想外の反応に,勇往は胸焼けのような高揚感に襲われた。
「地元の方だったんですね。散歩の邪魔をして,すいませんでした」
「わたしも,あなたが不思議です。何もない海岸で,旅行中の方が過ごしてるなんて」
勇往の頭から諦念(ていねん)は失せた。しかし,攻撃的なかけひきは目論まず,虚心で女性の疑念に応じた。
「傍から見れば不思議ですよね。たんにお金がなくて動けないのが理由なんです。でも,自分を助けてくれた老夫婦がいい人たちで,早々に別れるのが惜しくて。それに,誰もいないぶん,都会の喧騒を忘れられていい気分ですし。あと何日滞在するかわかりませんが,海水浴でもしながらゆっくり過ごすつもりです」
「海水浴,ですか……」
女性が不安げに言葉を呑み込んだ。それを察した勇往は,即座に「大丈夫です」と断る。
「ここが海水浴場じゃないことは,海の家の爺さんから聞きました。その辺の事情も,一緒に教えてもらいました」
「それなら,ここで泳ぐのはやめてください」
女性の口調は凛(りん)としていた。無作法に余所(よそ)の因習を破ってしまった――勇往はそう自覚して,不意に罪悪感に責められた。
「すいません」
女性が道路へ向かっておもむろに歩きだした。「あ,あの――」と,勇往が彼女の後背を追いながら呼びかける。
「もうお帰りになりますか? 自分,あそこの海の家でバイトしてるんです。よかったら,もう少しお話聞かせてくれませんか。何か冷たいもの奢(おご)るんで」
女性が立ち止まった。ちょうどたいよう軒の前だ。勇往は彼女の返事を確かめないうちに,戸口のトタン板を引きはじめた。
勇往は「どうぞどうぞ」と気前よく招き入れる。女性は二の足を踏んだものの,黙然とそれに従う。内心ガッツポーズをかます勇往。
月光の届かない店内は,座卓の輪郭さえ視認できないほど真っ暗だ。
「ここで待っててください。すぐ電気を点けますから」
勇往は脳裏に日中の店内を描きつつ,摺り足でまっすぐに進む。やがて顔面に,ふわりと暖簾の感触。双腕を左右へ伸ばして,厨房の壁面をまさぐる。ところが,一向に照明のスイッチが見つからない。
パチン――天井から垂れ下がる電球が,一斉に橙色に灯る。勇往が驚くと,左隣に女性が立っている。昨夜と変わらず,白のワンピースを着て,鍔広(つばびろ)のハットを被る。そして彼女の指先には,リングケース大のスイッチ。
「どうしてわかったんですか!?」
女性は耳を貸さないで後戻りする。勇往は茫然と彼女の後ろ姿を見つめる。美しい。バレエダンサーのように細く,靭(しな)やかな四肢。客座敷の中央で,女性が踵(きびす)を返す。小さな顔の大きな瞳。見蕩れていた勇往は,脱兎のごとく身を隠す。
ドクドクと脈打つ胸の疼(うず)き。それは紛れもなく,一目惚れの感覚だった。
勇往はガラス張りの冷蔵庫を覗き,コーラの瓶とオレンジジュースの瓶を1本ずつ選び出す。深呼吸。それらを両手に握り,女性のもとへ向かう。
「コーラとオレンジジュースがあるんですけど,どっちにしますか?」
女性は遠慮する素振りを見せる。勇往は「お代は頂きませんから」と得意げに勧める。
「――なら,オレンジジュースください」
「オレンジジュースお好きなんですか?」
「違います。わたし,炭酸が苦手なんです」
勇往は満面の笑みで,女性に片方の瓶を差し出す。そして気がつく。
「あっ! ごめんなさい,栓抜き忘れました」
慌ただしく厨房へ駆け込む勇往。しかし,栓抜きの置き場がわからない。きょろきょろと室内を探していると,女性が入ってきて,迷わず食器棚を開ける。取り出したのは栓抜き。
「よくわかりましたね!!」
素っ頓狂な声を上げる勇往。彼を尻目に,女性は食器棚から2客のグラスを持ち出す。
「ごめんなさい。気が利かなくて」
勇往は女性の後について,悄然と厨房を退く。二人は座敷に上がり,座卓の角を挟んで坐る。勇往が栓抜きでオレンジジュースの王冠を開け,両方のグラスに注ぐ。
「自分もオレンジジュースでいいです」
一気にグラスを飲み干す勇往。一方,女性は唇を湿らせた程度だ。
「申し遅れましたが,自分は国東勇往っていいます。大学4年です」
女性は寸秒逡巡したのち,渋々「上原(うえはら)瑞樹(みずき)です」と名乗る。
「自分は22歳です。上原さんも,大学生ですか?」
瑞樹は「いいえ」とだけ答えて押し黙る。
「じゃあ,高校生ですか?」
瑞樹は「はい」とだけ答えて押し黙る。
「3年生ですか?」
瑞樹は「はい」と……いい加減に,勇往は会話をやめてしまった。僅かに余ったオレンジジュースを,瓶のまま口に含む。
「ごめんなさい,なんか尋問みたいなことしちゃって。自分って,会話が苦手な人間なんですよ。サークルの飲み会とかで大勢人が集まると,会話に入っていけないんです。それに人見知りの性格だから,初対面の人とは何話していいのかわかんないし。親しい友だちと一対一で会話するのが,一番楽ですね」
勇往が腕時計を見遣ると,3時17分。厳かに「そろそろ帰りますか」と言って,重い腰を上げた。

「ここで結構です」
歩道柵越しに勇往が手を差し伸べたところ,瑞樹は憮然と拒んだ。
「失礼しました」
気まずそうに手を引っ込める勇往。「それじゃあ,おやすみなさい」と言い残し,車道を渡りはじめた。しかし,すぐに止まって振り向いた。
道路灯に照らし出される瑞樹。帽子の陰で表情は窺い知れない。
「そうだ。上原さんも,明日散歩しますか? 自分は,明日も3時頃に散歩します。気が向いたら是非」
勇往は旅館を目指して,全速力で駆け抜けた。不安が後ろ髪を引っ張るのを,振り切るかのように。

THE THIRD DAY

たいよう軒の厨房へ顔を覗かせる勇往。剛雄は奥で腰かけて,煙草を吹かしている。
「おはようございます」
「よお,今日は早いじゃないか」
「早いって言っても,もう9時過ぎですよ」
勇往はそろりと剛雄の前へ歩み出る。大人がやっと擦れ違えるだけの,細長い厨房。
「今日は自転車で,隣町まで出かけるとか話してなかったか?」
「まあ,その件は明日以降で……それより,剛雄さんに謝んなきゃいけないことがありまして」
シンクの蛇口を見つめていた剛雄が,勇往の顔を睨むように見上げる。
「実は,昨日の夜ここに来て,勝手にオレンジジュースを1本頂いちゃったんです。すいませんでした。もちろん,お代は支払いますから」
「それは別に構わんが――」
煙草を咥(くわ)えたのち,ゆるりと紫煙を吐く剛雄。室内に扇風機はなく,ふわりと勇往の鼻先に立ち昇る。
「どうして夜中に店に来た?」
「自分もその話をしたかったんです。でも,ちょっとここは暑いんで,あっちでビールでも飲みながら聞いてもらえませんか?」

勇往と剛雄は座卓に相対して坐る。そして勇往が,2客のグラスに瓶ビールを注ぐ。剛雄はその一方を差し出されても,ただちに手を伸ばさない。
「それで,話ってのは何だ?」
「はい。自分はおとといの夜,寝苦しくて散歩してみたんです。そのとき,真っ暗な海岸で一人佇む女性と出くわしたんです。真っ昼間でさえ人っ子ひとりいないのに,ド深夜の午前3時に女性一人ですよ!」
興奮気味に捲(ま)くし立てる勇往。剛雄は指に煙草を挟んだまま,微動だにしないで聞く。
「思い切って話しかけてみたんですが,案の定,警戒心バリバリで軽くあしらわれました。翌日の夜も同じ時刻に海へ行くと,やっぱり例の女性が立ってるんです。どうにかこうにか交渉して,ようやく海の家に連れ込むことができました」
勇往は「いえいえ,ミョーな下心はありませんでしたよ」と弁明しつつ,一気にグラスのビールを飲み干す。結露したグラスにくっきりと,勇往の五指の跡が残る。
「暑かったんで,冷たい飲み物を振る舞おうとしたんです。そのときですよ,女性が不思議な行動をとったのは。自分は電気のスイッチを見つけらんなくて手間取ってると,女性は暗闇のなかを一発で見つけたんです。それから,瓶の王冠を外すのに栓抜きが必要になったさいも,女性はなんの迷いもなく棚から取り出したんです。まるで自分ちみたいに自然な動きでしたよ」
勇往は「剛雄さんもビールどうぞ」と勧めながら,自分の空のグラスに注ぎ足す。勢いがよすぎたため,上半分が緻密な泡で満たされる。
「女性はウエハラミズキと名乗りました。あと,地元の高校3年生とも。不可解な点は他にもあります。例えば,真夜中なのにデカい帽子を被ってること。それと,『この時間じゃなきゃ海に来れない』みたいなことも口走ってました。
これは自分の推測に過ぎないんですが――剛雄さんなら,ウエハラミズキって子に心当たりありませんか?」
挑戦的な眼光を差し向ける勇往。剛雄は灰皿に煙草を押し拉きつつ,にべもなく「知らんな」と答える。
「この地区は老いぼればかりだ。俺の知る限り,高校生の娘がいる家はない。『地元』って言ってもどの辺まで〈地元〉なのか,人それぞれだろう。その娘がこの町のどこかに住んでるかもしれんが,さすがに俺にはわからない。
だいたい,お前さんはひとつ心得違いをしてる。この海は,俺と家内とお前さんだけの物じゃない。たまに人は来るんだよ,ちっとも珍しいことじゃない。真夜中ってのは少々怪しいが,しょせんお前さんだって同じだ。本当はその娘が何しに海に来たのか,詮索してもわかりっこない」
剛雄は,粘ついた口内をビールで潤す。コトリ,とグラスの底が座卓を叩く。勇往は,鼻孔から生暖かい溜め息を漏らす。
勇往は失意を禁じえなかった。瑞樹はたいよう軒に馴染みのある人物か,という当て推量は外れた。行旅人の勇往にとって,瑞樹本人に訊くほか手立てはなくなった。しかし,瑞樹に対する勇往の興味とは裏腹に,彼女は彼に無関心のようだ。たとえ今夜も出会えたとして,互いに打ち解ける見込みはなかった。
そもそも,と勇往は思う。どうしてこんなに瑞樹に心奪われているのだろうか。瑞樹が見せる容姿の美しさ,そして深夜の海岸に現れる怪しさ。これらが旅行中の昂ぶりと相俟(あいま)って,勇往を執着させる――朧(おぼろ)げな〈恋〉の予感だ。
「でも,また会いに行くんだろう? その娘に」
沈黙を破り,剛雄がいたずらっぽく質(ただ)す。
「ええ,まあ……」
「さながら恋煩(こいわずら)いだな」
 不意に頬を紅潮させる勇往。「そんなんじゃありません」と女々しく反駁(はんばく)する。
「まあ,どうでもいいけど,よく〈旅の恥は掻き捨て〉って言ったもんだ」
 やおら立ち上がると,剛雄は厨房へ姿を晦(くら)ました。勇往はグラスとグラスの間に視線を落としたまま,悄然(しょうぜん)と坐りつづけた。

深夜。旅館の前庭では,コオロギとキリギリスの鳴音が響(どよ)めく。そこへかすかに,裏山からアブラゼミの夜啼(やてい)が混じる。
庭砂利をおずおずと踏み締める勇往。本日の格好は,寝間着のジャージーではなく,外出着のTシャツ・ジーンズだ。海岸道路に到ると,通過する自動車がないのに,一旦立ち止まる。
深呼吸――今夜も上原さんは海に来るだろうか?
渚までは,けたたましい虫の音(ね)もさすがに届かない。轟然(ごうぜん)と砕ける白波が,仄かな月光に照らし出される。
勇往は振りさけ見る。たいよう軒の真っ黒のシルエット。その他に浮彫りの陰影はない。腕時計を確かめると,指針の蛍光は3時4分。
勇往は放心して砂浜を彷徨(ほうこう)する。不満と憤懣(ふんまん)が心肺を圧迫して,胸苦しく息苦しい。たしかに,勇往は瑞樹と再会を約束したわけではない。今夜はたまたま,瑞樹の都合が悪いのかもしれない。あるいは,瑞樹が勇往に危険を抱いたのかもしれない。
二人の出会いが,勇往にとって価値あることに対し,瑞樹にとってはそうでない――この気持ちのズレが,勇往を深く絶望させた。とりもなおさず,勇往が瑞樹と懇意になる可能性は稀有(きゆう)だからだ。
すぐに徒労を感じて,勇往は低徊(ていかい)を止める。たいよう軒の軒下で,ふてくされたように蹲る。膝の間に顔を埋(うず)めて歯を食いしばり,荒(すさ)んだ心が凪(な)ぐのを待つ。

朝……?
勇往が顔を上げると,辺りはオレンジ色の光で満たされている。厚い涙液が覆う目を,右手の甲で擦(こす)る――上原さん!?
蹌踉(そうろう)と立ち上がる勇往。いつものいでたちで,瑞樹が汀に佇み,朝日を浴びている。
気がつけば,勇往は砂浜を駆け抜けていた。瑞樹の背後に寄ると,彼女は悠然と顧みる。あらかじめ勇往の接近を推していたかのようだ。
「今日は遅かったですね」
勇往は湧き上がる情動を抑えて,努めて冷静に話しかける。一方で瑞樹は,無表情を装ったまま「わたしのこと,待ってたんですか?」と訊ねる。
「待ってました」
控えめに,しかし力強く答える勇往。
「でも……約束,しませんでしたから」
一瞬伏し目になった瑞樹は,声音に後ろめたさを孕(はら)ませる。勇往はそれを敏感に察し,「なら,約束してくれませんか」と切りだす。
「今日,ほんの少しの時間でもいいですから,昼間に会ってくれませんか」
勇往のだしぬけの要求に,瑞樹は気色を変えず,黙りこくってしまった。俯(うつむ)いて,帽子の縁で面持ちを隠す瑞樹。勇往は息を呑んで,じっと彼女を見つめる。
「――ムリです」
「どうして!?」
思わず,声を荒らげる勇往。
「わたしはもう,帰らなくちゃいけない時間です」
そう告げると,瑞樹は道路へ向かって歩きだした。
「ちょっと待ってください!」
勇往はとっさに回りこみ,行く手に立ちはだかる。瑞樹はおのずと立ち尽くす。
「お願いします! 自分はあと2,3日したら,東京へ帰んなくちゃいけません。けど,自分はあなたのことがどうしても気になるんです。たぶんこのままじゃ,あなたのことを忘れられないと思うんです。だから今日だけでも,自分とお話する時間をいただけませんか。お願いします!」
必死だった。なりふり構わず,勇往は深々と頭を垂れた。その間に何度も波が寄せては返した。ときどき足元の数歩前まで波が迫ったが,二人とも微動だにしなかった。
「――わかりました」
潮騒にかき消されそうな声で,瑞樹は言った。勇往は腰を屈(かが)めたまま,頭を擡げた。
「今日,この場所で,会いましょう」
「ここ,ですか?」
勇往は右手の人差し指で地面を示す。
「はい。この場所です」
すると瑞樹は,ミュールの爪先で地面に〈×〉印を刻んだ。
「ありがとうございます。自分はずっと,そこの海の家で待ってます」
「では,わたしは帰らなきゃいけないので」
瑞樹は進路を直角に曲げ,海岸線に沿って歩みだす。しかし,三歩進んだところで立ち止まり,肩越しの勇往に呼びかける。
「後悔,しないでくださいね」
「後悔……? どうして?」
勇往の反問には応じず,瑞樹はみるみる去っていく。早朝の眩(まばゆ)い陽に霞(かす)む瑞樹の後ろ姿。このまま海岸線を辿(たど)って,どこへ帰るのだろうか。勇往は見届けるのをやめて,山側の旅館へ向かう。

後悔はしたくない――その一心で,勇往は瑞樹に思いの丈を告白した。実際のところ,勇往の胸中では安心と疑心が混沌としている。
約束を反故(ほご)にされたときの〈後悔〉なのか? それなら,端から瑞樹は勇往を裏切るつもりである。勇往にとって,依然儚(はかな)い存在の瑞樹。いまはただ,信じるほかないのだ。

海岸の砂時計 -2011 SUMMER VACATION-

©2003,2012 SPECTRUM/Kanta Kimiyama

制作履歴
 2002年12月-2003年1月 初版
 2011年12月- 改訂版(未完)

参考資料
 榛野なな恵「Papa told meシーズンセレクション夏」YOUNG YOU特別企画文庫(1996)集英社

※表記について
 星空文庫で公開するのにあたり、テキスト入力の制約上、本文中の一部表記(空白・振り仮名・傍点など)が原稿どおりに再現されていません。正確な表記は、作者ウェブサイトで公開されているPDF版を参照してください。http://www.geocities.jp/spectrum_kanta/works/sunadokei2011_draft3.pdf

海岸の砂時計 -2011 SUMMER VACATION-

【2012.2.22第3章公開】 就職活動中の大学4年生・国東勇往は、夏休みに当てのない一人旅へ発つが、人気のない海岸で所持金を使い果たす。炎天下で途方に暮れていたところを、海の家の店主・神谷剛雄に偶然助けられて、数日間寄食することになる。海水浴を楽しんでいたとき、砂浜に建つ慰霊碑を見つけた勇往は、剛雄から海岸の悲しい歴史を聞かされる。およそ50年前の夏、海水浴客で賑わっていた海岸は、地震による津波に襲われて多数の犠牲者を生じたのだった。その夜、寝つけなかった勇往が散歩に出てみると、砂浜に一人で佇む若い女性と出会う。昼間でさえ無人の海岸にどうして?興味を抱いた勇往は、一方的に翌日の再会を約束する。 2003年作品の全面改訂版。全7章、各章を逐次公開する。

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2012-01-22

CC BY-SA
原著作者の表示・CCライセンス継承の条件で、作品の利用を許可します。

CC BY-SA
  1. EPIGRAPH
  2. THE FIRST DAY
  3. THE SECOND DAY
  4. THE THIRD DAY