ぶれいくあうと
6稿 20140928
初稿 20140808
午前五時。
私は、カーテンを開けて外を見つめた。うっすらと東の空が明るく、静かな朝だ。
窓を開けて外の空気を吸い込む。今日も始まる憂鬱な一日に、私はため息をついた。午前六時には母が私を起こしにやってくるだろう。そして、熱いシャワーを浴び、髪の毛を乾かしながらの朝ごはん。身支度を整え、午前七時には家を出る。
夏の暑い陽を浴びて、いつもどおり、二十分程度の緩やかな坂道を下り学校へ向かう。教室では、自分の席で教科書を開き、先生の話をノートに書き写す。新しい知識を繰り返し頭に叩き込む作業の連続だ。休み時間には、友達と当たり障りのない話題でおしゃべりし、週に三度は、学校帰りに学習塾。家に帰れば、どっと疲れて寝るだけだ。
唯一の楽しみは、ずっと家を空けている父とのメッセージでのやりとりくらい。
私は、父からもらったスマホを握り締め毎日をすごしていた。
~ 遭遇 ~(マナブ視点)
暑い、暑い、暑い……。
俺は、うだるような暑さの中、目を覚ました。ボロアパートの窓のカーテンがフワリと動き、陽の光がチラチラっと差し込んでいる。風で舞い上がった部屋のホコリは、まるでダイヤモンドダストのようにキラキラと反射している。
そっと額の汗を拭うと、昨晩はずし忘れた腕時計に目が止まった。
「うお! 八時半! ヤバイ、九時から大手のお客さんのところで商談があったんだ!」
飛び起きると、台所で顔を洗う。ともかく会社に連絡をしなければ……。
「携帯、携帯……おい、どこいった!」
上着のポケットを探し、携帯電話を取り出したが電源が入らない。
「バッテリー切れ? マジか!」
慌てて充電コードを携帯電話に繋げると会社に電話を入れた。
「マナブくん! あんた、今どこにいるの?」
社長の甲高い叫び声が耳をつんざいた。たしか、今回は大事な案件とのことで、社長と八時半に事前打ち合わせすることになっていた。
「すんません。今、起きたところで……」
「はぁ? あんたまだ家なわけ? 何考えてんの!」
滅多に大声を上げない冷静な社長が、今朝は、まるで別人のような取り乱しようだ。
こ、こりゃマジでヤバイ……。
「実は、昨晩っつうか今朝まで、オクヤマの社長に連れ回されまして……」
「言い訳なんていいから、とっとと早く会社に来なさい! イロハさんの件は、私、一人で行くから! ったくもう!」
「す、すいません」
「あんた、社会人としての自覚がなさすぎよ!」
「俺、クビですか?」
「クビ? 何言ってんの! 二倍働いてもらうから覚悟しときなさいよ!」
社長の絶叫が響き、ブチっと電話が切られた。
「ついてねぇ……。今回は、でかい案件だったのに……」
俺はため息をつくと、急いで身支度を済ませ、六畳一間のボロアパートを後にした。
ともかく、会社に急がなくては……。
◆
七月中旬になり、梅雨も明けて夏もいよいよ本番といった感がある。早足でアパートから五〇メートルほど行った大通りにでた。
「ちっ! 赤信号……急いでるんだって! 早く変われよ!」
イライラしながら赤信号を見つめていると、対向車線を駅へ向かうバスが通り過ぎて行く。
「ったく、ついてねぇなぁ、今日は歩きかよ……」
俺は、走っていくバスを恨めしく見送った。駅までは、歩いてもたかだか十五分の距離だ。ただ、冷房の効いたバスに五分間揺られるのと、炎天下を十五分歩くのでは、天国と地獄ほどの違いがある。しかも、バスは十五分に一本。結局、歩くしかない。
カチっと信号が青に変わると、俺は、覚悟を決めて大通りを渡り駅に向かって歩き始めた。
去年までは、沿道の並木が適度な日陰をつくって涼しかったのだが、この春からこの大通りの拡幅工事がはじまり、並木が根こそぎ移動されてしまっていた。おかげで素晴らしい太陽の恵みを遮るものは何もない。
俺は、太陽を睨みつけると黙ってアスファルトのゆるい坂道を登り始めた。
坂道を登り切ると、前方から制服姿の女子高生が一人歩いて来るのが見える。見覚えのある制服だ。あれは、ウチの近所の有名私立校のものだろう。
「学生か……もう夏休みだろ? うらやましい」
去年まで学生だった俺には、社会人一年生で迎えるこの夏のキビシサは実に堪える。
「くっ、プールで泳ぎてぇ」
俺は、学生時代の夏休みを思い出しながら、思わずつぶやいた。そして、何気なく前からやってくる女子高生を観察してみた。
背格好は低く、長いツヤツヤ光る黒髪を後ろでまとめている。大きなショルダーカバンにはマスコット人形が二つぶらさがり、肌が陽に焼けているところをみると運動系の部活でもやっていそうな感じだ。
しかし、いつも思うのだが、女子高生はどうして挑発的なミニスカートなのだろうか。おまけに夏場は、ブラウスも薄手で下着が透けてしまっている子までいるからたまらない。まぁ、当人は涼しくてよいのだろうが、こっちは目のやり場に困ってしまう。
「ああ、あの学校は、進学校だから夏休みも特別講習会とかあるんだろうなぁ……御苦労なこった」
ところが、徐々に彼女に近づくにつれ、彼女が眉間にシワを寄せ今にも泣きそうな表情で歩いているのに気がついた。
「ははぁ、あいつも遅刻か? まぁ、そんなこともあるさ、ガンバレよ」
思わず連帯感的なものを感じて、ニヤリと笑った瞬間、彼女と目が合った。彼女は、俺をキッと睨み眉間のシワをさらに深くする。そして、フンッとあからさまに俺から視線をズラした。
「あ」
彼女とすれ違った瞬間、フローラルないい香りが俺の鼻を刺激した。おもわず、大きく息を吸い込みその香りを確かめ、ハッと我に返った。
「な、何してんだ、俺……」
おもわず、しょうもない自分にツッコミをいれると背後で「ドサッ」という音がした。
驚いて振り向くと、今さっきの子が歩道に倒れているではないか。
「コケた?」
俺は、彼女が起き上がるのを期待して見守ったが、いっこうに動く気配がない。
「マジかよ」
急いで彼女に駆け寄ると声をかけてみた。
「だ、だいじょうぶ?」
「暑い……」
彼女は意識がもうろうとしていた。とっさに額に手をあてるとかなりの熱がある。その割りに汗はかいていない。
「熱中症?」
俺は、慌てて周りを見回したが、こんな時に限って、人っ子一人見当たらない。
「よりによってこんな時に、俺しかいないなんて……」
俺は、彼女をゴロンと仰向けにすると両膝を立てさせた。チラリと太ももが見えてドキっとしたが、今はそれどころじゃない。俺のつま先と彼女のつま先を合わせてしゃがみ、彼女の両手を交差させて手首を持った。そのまま斜め後ろに引き上げると、彼女の身体がグニャリと立ち上がった。すかさず、クルリとまわって彼女を俺の背中にのせた。
あのフローラルな香りが俺を包み込む。そして、背中にボリュームのある胸を感じる。おもわず冷や汗が出てくる。
「うお、かわいい顔して、発育はいいんだ……。しかし、女の子ってこんなに軽いのか……」
突然、喉の奥がヒリヒリとし始めた。
「頼む、こんな時に発作かよ。俺は女子校生には興味ないって! 勘弁してくれよ」
俺は、必死に自分に言い聞かせた。
発作。
俺が中学生の入学式の時だった。急にクラスメートの女の子が大人びて見えた。ついこの間まで、普通にじゃれ合っていた幼馴染の女の子でさえ、ジッと見つめられて話しかけられると、なぜか、喉がヒリヒリし始めたのだ。
最初は気のせいだと思っていたが、次第に身体がこわばるようになり、冷や汗がポタポタと落ちたかと思うと、声すら出せなくなってしまうようになったのだ。
唯一の救いは、相手が自分の恋愛対象にあたらない女性に対しては、発作はおきない。要は、俺が相手を恋愛対象とみなすと、途端にこの異様な状況におちいると言う事だ。
俺は、背中に女子高生を背負っていることを意識しないようにと懸命に前を向いて走った。しかし、彼女の長い髪の毛が、俺の首元にパサリと掛かると、喉のヒリヒリ感がどんどん増し、冷や汗が落ちてきた。
駅へ向かい三百メートルほど進むと緑の公園が見えてきた。
「もう少し、俺の身体動いてくれ! あそこなら、日陰もあるだろう」
公園につく頃には、俺は汗だくになっていた。木陰のベンチを探し、彼女をゆっくりおろすとゴロリと彼女が仰向けになった。
その姿に、俺の身体は硬直状態となった。
ピキッ
慌てて目をつぶると意識を集中した。そして、自分の手を強く握り締めた。
「ち、ちきしょう。動け! この子の身体を冷やすんだ……」
必死に、身体に命令を送ると、なんとか身体が硬直状態から解放された。
公園入口の自動販売機まで急いで戻ると冷たいペットボトルを四本買って戻り、彼女の両脇に一本づつ、首の後ろにハンカチを巻いて一本を当てて様子を見ることにした。
「だ、だいじょうぶ?……」
俺は彼女をなるべく視野にいれないようにつぶやくと、彼女が手を動かした。
「あ……あの……」
「あ、そのまま……しばらく横になっていたほうがいいかも」
「あ、はい……」
俺は、残り一本のペットボトルをコキっとあけると、水を口に含んだ。そして口の中を充分冷やしてからゴクリと飲み込んだ。涼しい風がサラサラと木々を揺らしている。
「具合が良くならないようなら、救急車を呼ぶよ。熱中症だとおもう」
「だ、大丈夫です……」
「そう? キミのカバン、ここにおいとくね」
「あ、すみません」
彼女は、申し訳なさそうな声でつぶやいた。
俺は、チラッと彼女を見てみた。長い黒髪が木洩れ陽にキラキラ輝いている。さっきまで、眉間にシワを寄せていた彼女の顔もだいぶ和らいできたようだ。
しかし、このままこの子を置いていくわけにもいかない。仕事の件は、社長がキッチリとまとめてくれていることだろうし、もう少し様子を見ることにした。
「あの……ご迷惑をかけてしまったみたいで、すみません」
突然、彼女が、パッチリ目を開けて、俺を見据えるとしっかりした口調で話しかけてきた。
風が彼女長くキラキラひかる黒髪を揺らす。
ピキッ
「ア……ア……」
せっかく呪縛から解かれたというのに、再度硬直状態になってしまった。俺は、ふたたび、懸命に目をつぶると両拳を強く握り締め、声を振り絞った。
「ヨカッタ。もう大丈夫だな。起き上がれるようになったら、その水をゆっくり飲むといい。急いで飲むと気持ち悪くなるから」
「あ、はい……」
俺は、彼女から目を逸らして空を見上げた。
「まぁ、夏場は、水は持って歩いたほうがいいかもしれないね。じゃ、俺、仕事があるんで……」
「え? あの……」
彼女は、何か言いかけたが、俺が彼女に手を振り微笑えむと、可愛い笑顔をみせて手を振ってくれた。
俺も彼女に「気をつけてね」と言いたかったが、もう、喉がヒリヒリして声が出せなかった。俺は逃げるようにその場から立ち去るのが精一杯だった。何とも自分が情けない。
~ 約束 ~(サオリ視点)
私は、ぼんやりと木々の間から見える青空を見つめていた。涼しい風が木々を揺らしている。
「私……しっかりしなくちゃ」
ゆっくりと身体を起こしてみた。
涼しい風が髪の毛を揺らす。思わず手で髪の毛を掻き揚げると、あのヒトが置いていってくれたペットボトルに手を伸ばした。一本目のキャップをコキっと開け、ゆっくり水を口に含んでみる。
「冷たい……」
ゴクリと飲み込むと、潤いが喉から体中に広がっていくのがわかる。
私は、目を閉じその感覚をゆっくり味わうと、今朝の出来事が頭をよぎった。
学校に出かけようと玄関で靴を履いていると、スマホに父からのメッセージが入ってきた。私は、そのメッセージに呆然となった。
(ゴメン。サオリの誕生日には、帰りが遅くなるかもしれない)
私は、震える指でメッセージを入れた。
(絶対に休暇をとるからって……ちゃんと約束したじゃない!)
(ゴメン。急な仕事の約束が入ってしまってね)
(そんな……)
(すまない。どうだろう、お祝いの日は延期できないかい?)
(もう、いい! もういいよ。お祝いなんて、しなくてもいいから……)
私は、スマホの電源を切ると、玄関を飛び出した。
「あれだけ……約束していたのに!」
私だって分かってる。もう子供じゃない。高校一年生になって、親に誕生日を祝ってもらうような年齢でもない。
「分かってるわよ! でも……」
私は、思わず自分に言い聞かせた。でも、どうしても今回は、父と一緒に祝ってほしかったのだ。
父は、大きな身体でやさしくて、小さい頃から私の憧れだった。些細な事でお母さんと喧嘩をしたときも、しっかり私の言い分を聞いてくれ、いつでも私を応援してくれた。だから、幼い頃からそんな父が大好きだった。
私が中学に入学した頃からだろうか。父は、仕事の関係で、単身赴任やら、海外への長期出張等が続き、家で合う事は、ほとんどなくなってしまった。年に数回、空港や駅で出張の合間に顔を合わせることはあったけれど、ゆっくり話すことなどできなかった。
何度か父の携帯電話へ連絡をしたこともあったが、いつも決まって「ただいま電話に出ることができません。メッセージをどうぞ」の無機質なアナウンスが流れるばかり。
父もそんな私の事を心配してか、中学のはじめての夏休みにスマホの契約をしてくれた。それ以来、私は、父と頻繁にメッセージのやり取りをするようになった。返事は直ぐにもらえるわけではなかったが、父とメッセージのやり取りができるのがなによりも嬉しかった。
そして、高校入学の日「仕事もひと段落したから、高校入学のお祝いも兼ねて、今年のサオリの誕生日に合わせて休暇をとって一緒にお祝いをしよう」と提案をしてくれたのだ。
私は、嬉しくて嬉しくて、何度もメッセージを読み直し、夏の私の誕生日がやってくるのを心待ちにしていた。
「大人って、勝手だよ! おかしいよ。いつも約束は守れって言っているのに、自分はすぐ破るなんて!」
私は、大きくため息を着いた。
とはいっても、父とゆっくり色々な話がれきればそれで良かったのではないか。なにも、誕生日にこだわる必要なんかないのだ。それなのに、なぜか今朝の私は、かたくなに自分の誕生日にこだわってしまっていた。
「うーん……お父さんに悪いことしちゃったかなぁ……いや、でも今回はお父さんの方が絶対に悪い!」
大人の勝手な都合への憤りと自分のマガママに対する罪悪感が、私を何度も苦しめる。
何度も考え直し、揺れる思いの中、学校へ向かって歩いていた。そのうち、フッと意識が途絶え、気が付いたら公園のベンチに横になっていたのだ。
私は、二本目のペットボトルを飲み干すと、ゆっくり深呼吸をした。
「ともかく、学校に行かなくちゃ……」
私は、ゆっくり立ち上がると、首元にある最後のペットボトルにハンカチが巻かれているのに気がついた。
「あ、このハンカチ……さっきのヒトの? ちゃんと、お礼して返さなくちゃ」
私は、そっとそのハンカチをカバンにしまうと学校に向かうことにした。
~ 誤解 ~(マナブ視点)
結局、会社についたのは十時。
汗だくで、ポケットからハンカチを取り出そうとしたがみつからない。
手で顔を拭うと自席に座った。
「マナブ、あなた、何してたのよ」
隣のケイコがパソコンのモニターを見つめながらボソっとつぶやいた。
ケイコは、俺と同期入社の体育会系女子で、スタイル抜群、性格も明るく、仕事もテキパキこなす……まぁ世間一般では「イイ女」と呼ばれるにちがいない。ただ、俺の中では、恋愛対象に彼女はいない。
もちろん入社した当時は、俺も彼女を意識し、しゃべることはおろか、近くに彼女の存在を感じるだけで、喉がヒリヒリし、身体もこわばっていた。そんな彼女は、入社時は、社内男性の注目の的で、毎日のようにデートに誘われていたようだ。
ところが、彼女とデートした男が、皆口をそろえて「アイツとはもうゴメンだ」と漏らしているのを耳にしたのだ。当初は信じられなかったが、噂の真相を目の当たりにすることになった。ある日、偶然にも同期の集まりで飲み会をすることになり、メンバーを募ったところケイコも手を上げていた。そしてなんと、俺の目の間に彼女が座ることになったのだ。最初は、この場から逃げ出したかったが、その噂の真相も気になり少しの間ガマンをした。そして俺は見た。
ズバリ、彼女は酒癖が悪い。乾杯の頃はいいとして、一定量のアルコールが入ると、相手が誰だろうと豹変し、人に酒を注ぎまくりはじめるのだ。それを断ろうものなら、暴言を浴びせ強要してくる。さらに、あまりのチープなギャグで一人盛り上がり、まわりの空気も全く読もうとしない。極めつけは、勝手な思い込みで後先考えない軽率な行動で、店にクレームし放題。もうその姿は酔っ払って勝手し放題なオッサンそのものだったのだ。
彼女もその事を認識しているのか、最近は、随分と自主規制をしているようだ。ただ、一度あの姿を見てしまったら恋愛対象にはなりえない。
「ああ、俺、昨日オクヤマの社長に連れまわされて、帰ったのが朝の三時だ。そんで、朝起きたら八時半。しかもバスに乗り遅れて、道端で倒れた女子高生をかついで公園に行くことになって……」
俺が今朝の話をし始めると、ケイコがすごい形相で俺の襟首を掴んで首を締めてきた。
「ちょっと! あんた、朝から何やってんのよ」
「うぐぐ……」
俺は、両手でケイコの手をパンパンたたいてギブアップのサインを出した。彼女が手を緩めると、一気に血液が頭に流れ込みめまいがする。
「げほげほ……ケイコ! お、落ち着けよ! 俺、いまなんか変な事言ったか?」
「私には、『女子高生を公園に連れ込んで』って聞こえたけど……」
「ち、ちがうちがう! かついで公園って……ああ誤解だよ」
俺は、首筋を擦りながら今朝のことを話した。
「朝、駅に向かう途中ですれ違った女子高生が、いきなり熱中症で倒れちゃったんだよ」
「はぁ?」
「そのまま放置するわけにもいかないから、公園のベンチまで運んだってわけ」
「で、その子、どうなったの?」
「ああ、少し休んだら動けるようになったよ。自分でも驚いていたみたいだ。まぁ、ペットボトル三本を置いていったし、調子がよくなければ病院へ行くようにって話もしたから、たぶん大丈夫だろう」
「で?」
「で? ってなんだよ」
ケイコはニヤニヤしながら、俺の肩を叩きそっと小声で話した。
「窮地を救った王子様は、お姫様のメルアドを聞き出したんじゃないの?」
俺は、呆れてケイコを睨んだ。
「しない、しない! 俺はお子様には興味ないんだよ。もっと、落ち着いた大人の女性がいいんだよ」
「ああ、そうだった。どっちかというと、マナブは、熟女趣味だったっけ?」
ケイコは、一瞬、俺を睨みつけるとニヤリと笑った。
「まぁ、熟女趣味なマナブには、私の魅力なんてわからないだろうし……」
「ケイコの魅力? 酒を飲まなきゃ、そりゃ魅力的だろうけど……」
「言ったわね! そんなの私の勝手でしょ! そうそう、前から気になっていたんだけど、あんた、社長を見る目……何かちょっとアヤシイよ……」
「はぁ? ば、バカなこというなっ!」
「あれ? あれ? あれれ? 冗談で話したんだけど?……何、反応しちゃってるわけ?」
「うるさいっ……」
ケイコは、バシバシと俺の肩を叩き、ゲラゲラ笑いはじめた。そこに、社長が戻ってきた。
「やばっ」
ケイコはすばやく自分の机に戻ると、何事もなかったかのようにパソコンに向かっている。
「あ、社長、今朝はどうもスイマセンでした」
社長は、俺をキッと見つめると、こちらへやってきた。
当然のことながら社長も、俺の恋愛対象ではない。
社長は、女手一つでここまで会社を大きくし、男勝りの行動力と鋭い感性で関係先の社長を唸らせる姿は、尊敬に値すると思う。また、ご自身も、ビジネスには、最低限の化粧で十分だし、チャラチャラしたアクセサリーの類なんかジャマだというポリシーの持ち主なのだ。
俺は、そんな四十代後半の豪腕社長は、憧れの存在であって、到底恋愛対象にはなりえない。
「ったく、ちょっとマナブくん! 会社で寝ててもいいから、どんなに遅く帰っても、朝は遅れない事って言ったでしょ!」
「はい……」
「今日の穴埋めは、ちゃんとしてもらうから、いいわね」
「え? 穴埋めですか?」
社長は、カバンからイロハ物産の資料を取り出すと俺の机の上にドンと置いた。結構なページ数がある分厚い資料だ。
「いい、コレを読み込んで、今晩のイロハ物産との顔合わせ会に出席してらっしゃい」
「え? 今晩? また飲み会?……ですか?」
社長は、ニヤっと笑うとつぶやいた。
「マナブくん、頼むわよ! 若いんだし!」
そういうと、社長はそそくさと自分の部屋に戻って行ってしまった。
「嘘だろ。き、きついなぁ……」
結局、その日は夕方六時まで、資料の読み込みに時間がかかってしまった。会社の概要に、取り扱い商品、そしておおよその財務の数字とここ数年の業績は頭に入った。後は、スムーズな話をするために、社長や取締役等の役員についてのネタが欲しいところだ……。
インターネットでイロハ物産をしらべてみると、社長や役員の顔写真が掲載されている。さらに、ブログやSNSから顔写真を頼りに本人確認をする。最近は結構掲載している方も多いので、どんなことに興味があるのか、どんな趣味にハマっているのかをあらかじめ調べておくと、なにかと都合がいいのだ。
なかでも目を惹いたのは社長のSNSだ。ともかく、仕事の話ばかりでプライベートなことは一切掲載されていない。しかも、毎週のようにゴルフ三昧のようだ。
「ゴルフかぁ。しかし、これじゃ社長の家族も大変だろうなぁ。うちの親父もこんなんだったなぁ」
突然、パソコンのスケジュールアラートが鳴り響く。
「いけね、そろそろ、出かけねーと!」
俺は、必要な資料をカバンに詰め込むとイロハ物産の打ち合わせに出かけた。
~ 回想 ~(サオリ視点)
私は、満員電車の中にいた。眼鏡女子のシズカも私の横にピッタリと張り付いている。
「サオリさま、いつもながらスゴイ混みようですね」
「ほんと、みんな良く我慢できるわよね。……あ、その『サオリさま』って言うのはやめてくれない?」
「でも、クラスのみんなもそうお呼びになってますし……」
「サオリでいいから! ったくぅ」
私はシズカを睨みつけたが、当人は全く気にもしていない様子で、吊り広告に目をやっている。
週に三回、学校を終えてから、電車で五つ先の駅前にある学習塾に通っている。シズカは、その学習塾ではじめに話しかけてきた子だ。同じ学校の制服とは思えないほど、モデルのようにスラリと背が高く髪はショートカット。とっても明るくて楽しいのだけれど、私のことを『サオリさま』と呼んでいる。
「シズカも、皆と一緒なのよね。私のこと……」
「一緒?」
「なんでもない……」
私は、ため息をつく。突然、急カーブで電車が大きく揺れた。
「きゃぁ」
私は、思わず近くにいた見知らぬおじさんの腕をガッツリ掴んでしまった。
「あ、すみません」
「あ、ああ、お嬢ちゃん、気をつけなよ」
おじさんはニヤニヤ笑いながら手を振った。すかさず、シズカが私の腕を取り引き寄せた。
「サオリさま、私の腕におつかまり下さい」
「あ、ありがとう」
学習塾の帰りの時間帯が、丁度、帰宅ラッシュの時間と重なり、いつも帰りは満員電車に乗らなくてはならない。
いつもなら、シズカと話をしたり、好きな音楽を聴きながらお父さんのメッセージを確認したりするのだが、今日の私は、今朝出合ったあのサラリーマンが乗っているのでは? と、ずっと車内を見回していた。
今まで、気にもしていなかったけれど、会社勤めの大人は皆、大きな重そうなカバンを抱え、不機嫌そうな顔で混雑に耐えている。座席には、スマホを片手にもったまま眠りこけている若いサラリーマンや、お酒を飲んで赤ら顔でヨレヨレなおじさんもいる。
「ねぇ、シズカ、会社勤めってどんな感じだとおもう?」
「どうでしょうね? 勉強勉強って言われず、言われた事だけしていればいいから楽かもしれませんよ」
「そうなの? ウチのお父さんなんか、いつも会議か出張ばかりで忙しいみたいだけど」
「サオリさま、そりゃ社長ともなれば、いろんな会議で指揮をしなければなりませんし、関係先ともお付き合いが必要です。それなりにお忙しいのは当然かもしれませんね」
「だから、『サオリさま』ってやめてよ! 『サオリ』でいいってば」
「そうは、参りません。サオリさまが大企業の社長令嬢とあれば……」
シズカは、そこまで言いかけて、慌てて口を閉じた。
「失礼しました。公言すべきことじゃありませんでした。注意しなければ……」
「何を?」
シズカは、周りをキョロキョロ見回し、小声でつぶやいた。
「身代金目当てで誘拐でもされたら大変です。内密にしないと」
「はぁ?」
私は、呆れてシズカを見つめたが、彼女は大真面目の様子だった。その様子を見て、私はため息をつくと話をもどした。
「まぁ、でも自分の生活のために、自分の時間を仕事に使うってよくわからないのよねぇ」
「まぁ、アルバイトとかと一緒じゃないでしょうか?」
「うーん、私、アルバイトなんかしたことないし……」
シズカは、思わず納得という表情を浮かべると口を閉じた。
父も同じように各地を飛び回り、関係先のヒトと合っては交渉をして仕事をしているのだろう。でも、その割りには、私とのメッセージには仕事に関する話題はでてこない。まぁ、娘に自分の仕事の話をしたところで仕方がないのだろうが、今朝に限っては『仕事の約束』とあった。
「仕事の話って……今朝、初めてだったんだ」
私は、ハッとした。
まぁ、娘との会話に仕事の話をしても仕方がないことを父はよくわかっていたのだろう。それにもかかわらず、今朝は仕事の話をしたのだ。よほど急で重要な仕事だったのではないだろうか。
ますます、私は罪悪感に襲われた。
「ああ、馬鹿馬鹿……」
私は、父に謝るメッセージを考え込んでしまった。
ピッ
駅の改札口を降りたところで、シズカの声がした。
「サオリさま、私はコチラですから。また明日、ごきげんよう!」
あまりに突然のことだったので、私は驚いて飛び上がってしまった。
「だいじょうぶですか?」
「あ、大丈夫、ちょっと考え事してたから……。また、明日! ごきげんよう!」
私は、駅前でシズカに手を振ると、無理やり笑顔をつくった。シズカは、心配そうに私をみつめ手を振っている。
くるりとシズカに背をむけると、大通りを歩きながら、父へのメッセージを考えはじめた。
「でも、あんなこと書いちゃったし、手の平を返したようなのも変よね」
急に風が吹き、木々がガサガサと大きな音を立てた。
「あ、公園……」
私は、おもわず立ち止まり、緑の公園の入口付近を見回した。そして、今朝倒れてここへ運ばれた時の事を思い出すと、思わず苦笑いをした。そして、何気に自分が横たわっていたベンチに腰掛けてみた。やさしい風が吹き、私の髪の毛をサラサラとゆらす。
ふっと、身体の力がぬけ、頭の中にメッセージが浮かんできた。
(お父さん今朝はゴメン。お楽しみは後にとっとくから心配しないで)
「これでよし!」
私はメッセージを完成させると送信ボタンを押した。スッと胸のつかえが取れた感じがしておもわず微笑んだ。うれしくなって、ふと、ベンチに座ったまま夜空を見上げてみた。
「そうだ、朝のあのヒト……。お礼をいわなくちゃ。でも、この辺に住んでいるのかしら」
夜空は晴れて、満点の星空が広がっている。私は、あまりの美しさに、驚いてしばらく夜空を見上げていた。やがて、ベンチにゴロンと横になり星を眺めた。
徐々に目が慣れてくると、見える星がどんどん増えていく。さらに不思議なもので星空との距離感がだんだんなくなり、手を伸ばせば星がとれそうな気がした。
「あ、 流れ星……」
夜空にスッと軌跡が走る。
「今朝のあのヒトにまた会えますように……」
私は、思わず星に願っていた。
~ 挽回 ~(マナブ視点)
イロハ物産との打ち合わせ会では、俺一人の独壇場だった。対する先方の担当者は、資料をひっくり返しながら俺の質問に対応するのに大あらわだった。少しばかりやりすぎたかと反省したが、このくらい「御社の事は理解してますよ」という印象を見せ付けないと契約まではこぎつけない。
一時間ほどの打ち合わせが終わると、社長が「一杯やりに行こう」とニコニコしながら誘ってくれた。
それからというもの、五~六軒、社長の馴染みの店を梯子し、すっかり酔っ払ってしまった。
「マナブくんだっけ? キミはウチの会社のことを良く知っている。感心したよ」
「ありがとうございます」
「もう一軒、行こう」
社長は上機嫌だ。だが、連日連夜の飲み会では、俺の体力がもたない。チラっと腕時計をみると深夜一時を回っている。
「社長、すみません。だいぶ飲みすぎたようです。今日は、もう勘弁してください」
「そ、そうか。それは残念だ。たしかキミの家はウチの近所じゃなかったか? 車で送るよ」
俺は、サッと流しのタクシーを止めると、社長を奥へ押し込んだ。
「あ、私は、駅で大丈夫ですから……」
「駅? 電車は動いていないだろう……」
「駅から歩けますから心配御無用です。今日はかえってご馳走していただいて……」
社長は、ニッコリほほ笑むと手を振った。
「こちらこそ遅くまでスマンな。今日は楽しかったよ」
「はい、こちらこそ、どうもありがとうございました」
まぁ、見栄を張ったわけではないが、うちのボロアパートの前まで送ってもらうのも気恥ずかしい。それに最寄り駅なら運転手も勝手はよくわかっている。俺は、真っ暗な駅前で車を降りると、タクシーが走り去るのを見送った。
ウッと胃酸が上がってくるのを懸命に堪え、近くの自動販売機でペットボトルの水を買った。
「昨日今日と、まったく俺もどうかしてる。今日の最後のワインがいけなかったか……」
例の緑の公園でしばらく休憩をしようとベンチに腰掛けた。
「そういえば、今朝のあの子、大丈夫だったかなぁ。しかし、俺も、エラそうなことを言ったけど、人のこと言えたもんじゃないなぁ……」
大きく深呼吸をし、ベンチに仰向けになる。空には満点の星空が広がっていた。
木の枝がジャマだが、時より、涼しい風が、俺の頬を優しくなぜてくれる。しばらく天然のプラネタリュウムを楽しみながら水を飲んだ。
しばらく休むとだいぶ気分が良くなってきた。
「帰るかな。明日は遅刻しないようにしないとな……」
勢いをつけてベンチから立ち上がると、カバンを拾い上げ我が家に急いだ。
~ 再会 ~(サオリ視点)
七時半。
私は、朝早めに家を出ようと、玄関のところで、懐かしい父のオーデコロンの匂いがしたのに気がついた。スマホのメッセージをみると、昨晩は帰宅していたが早朝に出かけたとのメッセージが残っていた。
(サオリ、いつものとんぼ返りですまない。そうそう、メッセージありがとう。お祝いは、なんとか調整はしてみるよ)
(お祝いのことは気にしないで仕事がんばってね)
私はため息をつくと、メッセージを入れた。
あのヒトも近所に住んでいて通勤の途中だったはず。もしかしたら、バスに乗り込むかもしれない。バス停のあたりで待ってみよう。
たくさんの人が学校や会社へ向かうため、駅に向かって歩いていく。
私は、自分の記憶を頼りに、あのヒトを探した。昨日、あのヒトに言われたとおり、ペットボトルの水を少しづつ飲みながら、十分、二十分とバス停を中心に行ったり来たりしてみた。
でも、あのヒトの姿は見えず、時間ばかりが経っていく……。
八時半。
とうとう一時間が過ぎてしまった。
もしかしたら、あのヒトは、この近所に住んでいるのではないのだろうか? それとも時間帯がちがうのだろうか? 私はどんどん不安になってきた。
突然、スマホに父からのメッセージが着信した。私は、驚いてスマホを取り出した。
(サオリ、ありがとう。仕事がんばるよ)
私は、画面を見つめながらニッコリ微笑んだ。
(お父さん、ほんと無理しないでね)
(ああ、お前と話すのが楽しみだ……)
懸命にメッセージを入れていると、突然、前方でバスのクラクションが聞こえた。私は、驚いて顔をあげると、あのヒトが、こちらを見つめながら、バスに乗り込んでいるところだった。
「あ! 待って!」
私は、叫びながら手を振り、バスの方へ走り始めたが、バスは、扉を閉めると発進してしまった。
「そ、そんな!」
私は、走るのをやめ、こちらへ近づいてくるバスを見つめた。
フロントガラスに、あのヒトの姿が見える。私は、懸命に手を振り、ペコリと頭をさげた。すると、あのヒトも私に気がついていたようで、昨日と同じやさしい笑顔で手を振ってくれた。
私は、バスが見えなくなるまでジッと見守った。
「いっちゃった……」
私は、ガッカリしながら、バス停のところまでもどってみると、真新しい黒い名刺入れが落ちているのに気がついた。
「さっき、乗り込んだのは、あのヒトだけだったような……これってあのヒトの?」
私は、とりあえず拾い上げると大事にカバンにしまった。
~ 遭遇 ~(マナブ視点)
「うぉ、また八時半……」
俺は、自分の姿に驚いた。どうやら、昨晩は、着のみ着のまま寝てしまっていたようだ。俺は、替えの下着だけカバンに突っ込むと、そのままアパートを飛び出した。
「とりあえず、会社で着替えればいいだろう」
まぁ、グシャグシャの頭を手櫛で整えると、ヒステリックに叫ぶ社長の顔が浮かんだ。
大通りの信号は、青。サッと渡り切ると、丁度バスがやってくるのも見える。俺はニヤリと思わず微笑んだ。
「よし! 今日は、ついてる!」
俺は、何気なく駅の方に目をやった。するとゆらめく坂の上に女子高生がスマホをいじっているのが見えた。
「あ?……あの子か?」
俺は目をこすってよく見てみた。
「あの子だ」
ちゃんと手には、ペットボトルを持っている。俺は、おもわず微笑んだ。なかなか素直な子だ。
突然、バスのクラクションが鳴った。
「お客さん! 乗るの?」
「え?」
俺は、驚いて声の方を向くと、すでにバスが到着し、運転手のイラだった顔がみえた。
チラリと彼女をみると、彼女も俺に気がついたようだ。突然、彼女が俺に向かって手を振ってコチラへ走り出した。
彼女には悪いと思ったが、あわててサイフから小銭をだすとバスに乗り込んだ。
プシュー
扉が閉じ、バスが発進した。
俺は、バスの窓から彼女を探した。すると、彼女は走るのをやめ、肩で息をしているのが見える。そして、バスが彼女の前を通過したとき、彼女は、俺に向かってペコリと頭を下げニッコリ微笑んでくれた。俺もフロントガラス越しに、彼女に手を振った。
◆
「マナブくん! いい加減にしなさいよ! 今何時だと思ってんの!」
「すいません……また、十五分、遅れちゃいました」
社長は、俺の肩をポンと叩くとジロっと睨みつけてきた。
こ、これは、もしかして肩たたき? いよいよクビか? ここんところ、飲み会の次の日は、ほぼ百パーセント遅刻しているし……まずい!
俺は、ドキドキしながら社長の顔を伺った。
「ふふ、イロハ物産、契約もらったわよ!」
「はぁ?」
「まぁ、遅刻は困るんだけど、先方の社長がやたらマナブくんのことを高く評価してたわよ。一緒に仕事をしたいからってことで今朝、返事をもらったところなのよ」
「そ、そうですか」
社長は、俺の肩を揺らして、ニコニコ微笑んだ。
「ま、そういうわけで、オクヤマ商事と、イロハ物産の担当はマナブくんに任せるからがんばってちょうだい」
「はい……ありがとうございます」
なんだか、キツネにつままれた感だったが、とりあえずは、クビにはならなかったのでホッと胸を撫で下ろした。
「そうだ、今度のウチのゴルフコンペにイロハ物産の社長にも声をかけてみよう」
ともかく、せっかくつなげた案件だ。イロハ物産についてはちょっとチカラを入れていかなくてはならない。何が何でもコンペに参加してもらえるようにしなくては!
さっそく、社長秘書に電話を入れてみる。
「ああ、その日は、ハヤセは休暇をいただいております。念のためハヤセにはお伝えいたします」
「急なお話なので、ご無理は承知しておりますが、なにとぞお願いしますとお伝えください」
「そのようにお伝いたします」
電話を切ると、俺は、念のためイロハ物産の社長宛にゴルフコンペの招待状を作り始めた。
「これで、よし!」
~ 検索 ~(サオリ視点)
私は、学校へ到着すると、例の名刺入れをカバンから取り出した。
勝手に中をしらべるのも悪いかなとも思ったが、本人の名刺さえ見つかれば、会社に届ける事はできるはず。
「サオリさま、それは?」
「これは、昨日話してた私を助けてくれたヒトが落としたものなのよ」
シズカは、私から名刺入れを奪うと、十数枚の名刺を机に並べ始めた。
「ほほぉ、モリタマナブ氏というのがこの名刺入れの持ち主ですかね。同じ名刺が十枚もありますから」
私は、並んだ名刺のうちの一枚を見つめて驚いた。そして、慌ててシズカから名刺入れを奪い取ると机の上の名刺をかき集め片付けた。
「サオリさま、どうされました?」
「な、なんでもないわ。っというか、その『サオリさま』っていい加減やめてよ」
「あ、ごめんなさい。ついクセになってしまって……」
「っんもう!」
学校が終わり、例の名刺入れから、『モリタマナブ』とある名刺を一枚取り出した。
そして、その名刺にある会社を訪れてみることにした。
◆
住所を頼りにスマホで地図を検索をすると、いつも通っている学習塾へ向かう途中のビルだということがわかり、少しだけホッとした。
そのビルは、小奇麗なガラス張りのビルで、三階にそのオフィスがあるようだ。
私は、エレベータに乗り込み、ドキドキしながら三階へ向かった。そして、トビラをノックしドアノブを回した。
「あ、いらっしゃいませ」
ハキハキした若い女性が微笑みながら挨拶をしてきた。
「あの、こちらにモリタマナブさんっていらっしゃいますか?」
「あ、おりますけど……。どちら様でしょう?」
なんとも心地の良い応対に、私は思わず感激してしまった。
「あ、実は今朝ほど、このモリタマナブさんの名刺入れを拾ったものですから」
そういいながら名刺入れをカバンから取り出した。
「あ、モリタのですか! それは、わざわざありがとうございます。どうぞこちらへ」
女性はニッコリ微笑むと、手招きをした。そして、会社の奥に透明なパーテーションで区切られた部屋に案内された。
「社長、こちらのお嬢さんが、モリタの名刺入れを届けにいらしてくれたんです」
「あらあら、こんな暑い中、わざわざ届けていただいて、ホントありがとう。ケイコちゃん、何か冷たいものでもお持ちして」
「はい」
案内をしてくれた女性は、サッと会釈をすると部屋から出て行った。
「実は、この名刺入れに、私の父の名刺が入っていたものですから……」
「え!」
社長と呼ばれていた女性の顔色がサッとかわった。
「わたし、ハヤセタカシの娘のサオリといいます」
女性は、いきなり背筋を伸ばすと、私のことをジッと見つめた。
「え! イロハ物産さんの? そうでしたか! わざわざ届けていただいて、大変、申し訳ございません」
「あの、モリタマナブさんは?」
女性は壁に掛かっている時計をチラリとみた。
「今、出かけておりますが、もう戻ってくる時間ですから、よろしければ、こちらで涼んでお待ちいただけますか」
「あ、はい……」
私が、うなづくと、女性は慌てて電話をかけ始めた。
~ 接触 ~(マナブ視点)
俺は、ダラダラと流れる汗をタオルで拭った。
「マナブくん、ありがとう。これで終わりだ。助かったよ」
「いえいえ、じゃ、俺、会社もどりますんで」
「ほい、これでも飲んで」
真っ黒に日焼けしたユメニシ倉庫の専務から、キンキンに冷えた缶コーヒーを手渡された。
「ありがとうございます」
俺が頭を下げると、専務はニコニコしながら事務所へ戻っていった。俺は、風がそよぐ倉庫前の日陰に腰掛け、コーヒーを開けて、ゴクリと飲んだ。
「ふぅ。毎度のことだけど、ここの作業はキツイなぁ。エアコンぐらい入れたっていいのに……。しかし、ケイコのやつ、なんだって俺とのジャンケンじゃ必ず勝つんだ? 俺の心が読めるのか?」
ユメニシ倉庫から連絡がはいってきたのは、昼過ぎだ。人手が足らないから応援を出してほしいとの要請で、いつものようにケイコとジャンケンをすることになったのだが、結局、俺が負けてこの場所にいるわけだ。
このユメニシ倉庫は、エアコンがない灼熱地獄。夏場は、へたすると室温が三十八度近くまであがることがある。覚悟をきめてタオルを首に巻いて出かけたのだが、ことのほか作業は順調に進み、予想以上に早めに片付いたのは助かった。
突然、携帯電話が鳴り響いた。
「あ、社長……」
「あ、マナブくん? そっちが済んだら直ぐに会社に戻ってきてくれないかしら」
「はい。もう、戻るところです」
「そう! なるべく急いでね」
「はぁ」
なんとなく社長の声のトーンがおかしい。
「こりゃ、また何かあったのか?」
俺は、嫌な予感がよぎり、慌てて会社に戻る事にした。
◆
「ただいまもどりました……」
俺が、会社にもどると、ケイコが、あわてて唇に人差し指を当てて、小声で話しかけてきた。
「ちょっとぉ……」
なにやら怪しげな雰囲気だ。俺はケイコを見つめた。
「ねぇ、あんた、名刺入れ落とした?」
「俺?」
「何、あんた気づいてないの?」
俺は、ケイコに言われて、慌てて上着のポケットを確かめた。
「ない……」
ケイコは、ガラス張りの社長室で、社長の脇に座っている制服姿の女子高生を指差した。
俺は、ケイコが指差す方向を見て驚いた。
「え! なんで、あの子がいるんだ」
「あの子? 彼女が、あんたの名刺入れを届けてくれたのよ」
ケイコが腕組みをしながら、不思議そうに俺を見つめた。
「え! あの子、昨日の朝、熱中症で倒れた女子高生なんだよ」
「ああ、あんたが公園に連れ込んだ?」
「連れ込んだんじゃないって言っただろ……」
「てへっ」
ケイコは舌をペロリと出すと、俺の背中をバシっと叩いた。
女子高生は、ガラス越しに俺に気がつくと、椅子から立ち上がってペコリと頭を下げた。
俺は、ケイコに、どういうことなのか聞いてみた。
「三時過ぎだったかな、あの子が『モリタマナブさんっていらっしゃいますか?』っていきなり来たのよ」
「ああ、ユメニシ倉庫に俺が出かけたあと?」
「そうそう、それで、あんたの名刺入れを拾ったからって……で、社長にその旨伝えたら、しばらくして社長が真っ青な顔になってひきとめてるってワケ」
「真っ青? なんで?」
「知らないわよ。ともかく会ってきたら?」
俺は、ケイコに背中を押されて、社長室へ向かった。
しかし、どうして彼女が俺の仕事場を知っているのか不思議だ。交わした言葉もさほどない。ともかく、首に巻いたタオルで顔を拭くと社長室の扉をノックした。
「社長、倉庫からもどりました」
「ああ、お疲れ様。ねぇ、このお嬢さん、知ってるわよね」
俺は、チラリと彼女を見ると、喉がヒリヒリしはじめた。おもわず拳にチカラが入る。
「ええ……昨日、熱中症で倒れた子なんですが、どうして彼女がココに?」
社長は、彼女の方を見ると、うなづいた。
「あの、私、ハヤセサオリといいます。昨日は、本当にありがとうございました」
張りのある声だ。ベンチに横になっていたときとはまるで印象がちがう。彼女は、俺をジッと見つめると会釈した。すると長い髪の毛がキラキラと輝きサラサラ揺れている。
「ア……ドウモ……」
やばい。冷や汗がでてきた。喉もヒリヒリもかなり酷くなってきた。これは、発作の前兆だ。
「えっと、これをお渡して、昨日のお礼を言いたかっただけですから」
そういうと、カバンのなかから、ハンカチと名刺入れを取り出して机の上においた。
「アリガト……」
「はい。あのバス停に落ちていたんです」
俺は、ぎこちなく机の上のハンカチと名刺入れを受け取り、会釈した。そして、この場から早く逃げ出さなければとオロオロしはじめたところで、突然、社長が、俺の腕を引っ張り社長室の外に連れ出してくれた。
「イタタタ……なんですか?」
「あんた、何、その態度。もっと誠意をもってお礼を言いなさいよ! あの子、ダレだか知ってるの?」
「知りませんよ、道端でバッタリ出合って、ドサって倒れたんですから」
社長は、ため息をつき、耳打ちをしてきた。
俺は、驚いて、なるほど、社長が真っ青になった理由を理解した。
「え! マジっすか?」
「本人に聞いてみれば?」
俺は、慌てて名刺入れからイロハ物産の社長の名刺を出して、彼女の前に置いた。
「ハヤセタカシ……って、キミのお父さん?」
「あ、はい……父は、イロハ物産の社長をしています……」
「……イロハ物産の社長のお嬢さま?」
「あ、はい……そうです」
彼女は悲しそうにうつむいた。俺は、慌てて、深々と頭を下げると大きな声で叫んだ。
「いろいろ、乱暴な事をして申し訳ありませんでした」
俺が彼女をチラリと見ると、彼女はじっと唇を噛み締めてジッと震えている。ついさっきまであんなにニコニコしていたのに……俺が何か気にさわることでもしたのだろうか。
社長は、すかさず俺をフォローしてきた。
「ともかく、ちょっと二人でお茶でも飲んできたらどうかしら? マナブくんも、ちゃんとお礼をいいなさいよ。今日はもう上がりでいいから」
社長が、俺に目配せをする。俺は慌てて彼女に声をかけようと前に出た。
その時だった、社長が俺の背中をトンと叩いた。
ノドの痛みをガマンしながら声を絞り出した。
「あ、ケーキでも一緒に食べにいかない? 美味し……」
「結構です! お会いして昨日のお礼をしたかっただけですから……失礼します!」
彼女は俺の声をさえぎるとキッと睨み叫んだ。そして、サッと立ち上がったかと思うと、社長と俺に一礼すると部屋から出て行こうとした。俺はどうして彼女が不機嫌なのかさっぱり分からない。ただ、この状況はかなりマズイことだけはわかる。咄嗟に、彼女の前に立ちはだかっていた。
「通してください」
彼女は、俺を見上げると今にも泣きそうな顔になっていた。
俺はどうしていいかわからなかった。
「サオリちゃん! 勝手なお願いだけど、俺といっしょにお茶してください!」
俺は、深々と彼女に頭を下げ、大声で叫んでしまった。
あ、あれ? 普通に声がでる。だが、いくらなんでもお嬢様の名前を気安く呼びかけちゃまずかったか?
俺は、チラっと彼女を見ると、彼女は、目を大きく見開いたまま驚いた表情で俺を見つめている。
なんだろう、俺は今まで経験をしたことがないほど心臓がバクバクしはじめたが、もう、こうなったら破れかぶれだ!
「ゴメン! ちょっとだけでいいんだ。時間をもらえない?」
「……えっと……」
「お願い、サオリちゃん、この通り……」
俺は、高校の演劇部時代に演じていたロミオとジュリエットを思い出し、片方のひざをついて彼女に手を伸ばした。
「……あ、はい……」
彼女は、クスクス笑いながら、俺をジッとみてうなずいてくれた。
「ありがとう!」
彼女の背後では、社長が親指を立てグッジョブと口を動かしている。
◆
不思議だった。
社長から背中を叩かれてから、目の前のイロハ物産のお嬢様と普通に話ができている。
ということは……つまり、俺の中で彼女を恋愛対象の女子として認識しなくなったと考えるしかない。俺は、自分の考えをジックリ分析してみた。
「そうか!」
俺は、静かな店内で、おもわず大きな声で叫んでしまった。
「え?」
「あ、ごめん! ひとり言」
俺は慌てて、頭を掻いた。クスクス笑う彼女を見つめながら考えをまとめた。
目の前にいる女子高生は、俺的には大事なお得意様のお嬢様。つまり、単なるかわいい女の子というよりは俺にとってのVIP扱いといっていいだろう。ということで、無意識のうちに恋愛の対象からはずれたというわけだ。
しかし、彼女はかわいい女の子だ。VIP扱いだからといって恋愛対象からはずすほど俺は冷静な男だっただろうか。
注文したケーキのセットがテーブルに並ぶ。
かわいいウェイトレスさんの横顔を見ると、喉の奥がヒリヒリし始めた。
俺は、慌ててコップの水を一口飲んだ。
彼女は、嬉しそうにケーキを小さく取ると口に運んだ。
「どう? ここのは美味しいって評判なんだけど」
「はい……美味しいですね」
大丈夫だ! 嬉しそうに微笑えむ彼女の姿を見ても何も起こらない。
彼女の長い黒髪がサラサラと流れる度にフローラルの香りが俺の鼻を刺激する。
ドキン……
げ! 発作か? 俺は、一瞬焦ったが、その後も知る限りの情報を選んで、最近流行りのドラマ番組や、ファッション記事、今流行りの音楽について、普通に話を続ける事ができた。
最初は、固かった彼女の表情も徐々に和らいでくる。そして、彼女は、堰を切ったように色々な話をし始め、和やかな良い雰囲気になってきた。
俺は、話を聞きながらも、ジッと彼女の綺麗な瞳を見つめていた。
ドキン……ドキン……
今まで経験をしたこともないほど心臓の鼓動が、早くなってきた。
もっと、彼女の笑顔を見ていたい……そんな気持ちが頭一杯になり、もっと彼女と話をしたいという衝動に駆られた。
「ところでサオリちゃん」
「あ、はい……」
「昨日、倒れちゃったときさ、なんだか悲しそうな顔してたけど、なんかあったの」
「……」
彼女は、急に口をつぐむと、フォークをお皿に置き、目を伏せた。
し、しまった。俺は、またなんか地雷を踏んだのか? いきなりフォーク置いちゃったし、きっと彼女なりの理由があるんだ。ウカツだった。
「ご、ごめん。立ち入った事聞いちゃったかな」
「いえ……そうではないんですが……」
「実は、俺、あの日大事な打ち合わせがあるのに寝過ごしちゃって、焦ってたんだ。で、サオリちゃんも俺と一緒で、学校に遅刻して焦って歩いてるのかと思って、思わず笑っちゃったんだ」
彼女は、俺の顔を見上げると、クスッと笑った。
「それで、あのときニヤニヤしてたんですね」
「ああ、すれ違ったときにね。悪気はなかったんだけど、結構キツイ視線を浴びてちょっと凹んだよ」
俺は、アイスコーヒーを口にした。
な、なんとか、話をつなげた。あぶなかった。
「でも、驚いたよ。いきなり倒れちゃったから」
「自分でも、いきなり意識がモウロウとしちゃって……で、気がついたら公園のベンチだったんで、びっくりしました」
「ああ、三百メートルくらい運ばせてもらったよ」
彼女は、うつむいて赤くなった。
「す、すみませんでした」
「いやいや、直ぐに意識がもどってホントによかったよ」
「ありがとうございます。本当に助かりました」
そういうと、彼女はアイスコーヒーを一口飲んだ。
「実はあの朝、父と喧嘩してしまって……ちょっと自己嫌悪におちいっていたので……」
「え?」
喧嘩? 俺は耳を疑った。
イロハ物産の社長といえば、誰とでもニコニコしている穏和な方だ。とても言い争いをするようには見えないし、先日の飲み会でも嬉しそうに家族の話をしていた。
「でも、大人って勝手だとは思いませんか! 今年こそは、私の誕生日を祝ってくれると約束してくれていたのに、その日仕事がはいったって言われて、おもわず喧嘩したんです」
自分でも大きな声を出してしまって驚いたのだろう。彼女は慌てて口を押さえた。
「でも、父が忙しい事は分かっていたし、後になって大人気なかったと自己嫌悪に……」
急にヒソヒソ声で話をする彼女の仕草に、俺は思わず吹き出してしまった。
「なるほどね。サオリちゃんってお父さんのこと大好きなんだね」
彼女は、さらに真っ赤な顔になってしまった。
「うちの父は、仕事が忙しくて、中学生以降、まともに話はしてないんです」
「え? そうなの?」
「だから、父から誕生日のお祝いについて話がでたとき、すごく嬉しくて…… でも……また、ダメになっちゃった」
「ああ、それはショックだねぇ。ところで、誕生日っていつなの?」
「はい、八月八日なんです」
俺は、口に含んだアイスコーヒーを噴出しそうになり、むせてしまった。
「ゴホゴホっ 八月八日だって!」
俺は思わず大声を上げてしまった。彼女は、キョトンとして俺のことを見つめている。
まずい、まずいぞ! その日は、ウチ主催のゴルフコンペじゃないか。しかも、イロハ物産の社長は、俺の出した招待状にキッチリと返事をしてくれ、わざわざ参加をしてくれたのだ。俺は、背中に汗が流れた。
まいった……。ここは、なんとかしなくては……。
「マナブさん、どうかしましたか?」
「あ、いや……。そ、そうだ。一つ試してみて欲しいんだけど……」
「試すって何をですか?」
「後で、お父さんに『でも、やっぱり誕生日に、お父さんにいてほしい』ってメッセージいれてみてよ」
社長の事だ、娘から『やっぱり、お父さんにいてほしい』なんてメッセージが届けば、参加を取りやめるという判断にかわるかもしれない。
彼女は、俺の提案に目を見開き驚いた表情をしたが、大きくため息をついた。
「む、無理です! 朝、喧嘩したあと、父には、お祝いは延ばすって約束しちゃったんですから……」
「まぁ、『でもやっぱり、私の誕生日にお父さんがいないのは寂しいなぁ』とかメッセージを入れてみたらどうだろう」
「うーん」
「実は、俺もお父さんとはお付き合いさせてもらっているんだけど、お父さんはビジネスでは、スゴ腕だから、きっと、何かしら打開策を考えてくれるはずだよ」
「そうでしょうか?」
「やってみる価値はあると思うよ」
「マナブさんがそういうのなら、やってみます」
「大丈夫! いけるいける!」
その後、彼女とは好きな映画や漫画の話で盛り上がった。彼女の笑顔を見るたびに、俺はなんとも言えない幸福感に包まれていく。なんなんだろう。この感覚。ずっと、彼女と話していたい……。
話に区切りがついたところで、俺は、時計をチラリとみると、午後七時を回っていた。
「あれ、もう七時。すっかり遅くなっちゃってゴメンね」
「いえいえ、私、マナブさんと話せてよかったです」
彼女は、サラサラと長い髪の毛を掻き揚げるとニコっと笑った。
「あ、あの……」
「うん?」
「私、家族以外の人とこんなにお話をしたのは初めてなんです。で、よかったら、また、お話を聞いてもらってもいいですか?」
「あ? 俺? もちろん、いつでも大歓迎だよ。名刺に携帯電話とメルアドもあるから……」
「ありがとうございます」
「そういえば、この近所の学習塾に通っているんだよね? それなら、会社にもお茶でも飲みにおいでよ」
「はい!」
俺は彼女に満面の笑みを浮かべながらも、八月八日の件をどう対処すべきかで頭が一杯になっていた。どうしたもんだろうか。
~ 御礼 ~(サオリ視点)
私は、なんだか不思議な感覚に包まれていた。
ほとんど初対面の方と時間も忘れ、こんなに楽しく話をしたことは一度もない。もっとも、マナブさんが父と面識があることがわかったからかもしれないけれど、身内話までしてしまったのには自分でも驚いた。
「いろいろ、ご馳走になりました」
私が声を掛けると、マナブさんは振り向きざまにニッコリ微笑んだ。
「いやいや、こちらこそわざわざ名刺入れを届けてもらって助かったよ」
「あ、いえ、私が倒れてしまったのがことの始まりですから」
「いゃぁ、俺も女子高生を背負うのは初めてだったけど、意外に軽くてびっくりしたよ」
「え? 意外?」
私がマナブさんの顔を覗き込むと、マナブさんは、しまったという顔をして苦笑いをしている。私もつられて笑ってしまった。
「あ、なんでもない。そ、そうだ、俺も同じ駅だし一緒に帰ろうよ」
「はい……」
父親以外の男の人と並んで歩くのは、小学校の遠足以来かもしれない。中学生になってからは男の子と一緒に歩いた記憶がない。少し、緊張しながら歩いていると、マナブさんが私の歩調にあわせてゆっくり歩いてくれていることに気がついた。そんな優しさが嬉しくて、私は、ナゼだか胸が熱くなる。
「だいじょうぶ? なんか、顔赤いけど」
「へ、平気です」
電車はかなり混んでいた。私の後にマナブさんが乗り込んだが、あとから人が乗り込み私とマナブさんは奥へおしこめられてしまった。
「混んでるね。サオリちゃんだいじょうぶ?」
「はい……」
マナブさんは私が押しつぶされないように懸命に腕を伸ばして吊革に手を伸ばした。扉が閉まり、電車が動き出すと、私は思わずマナブさんの胸に頭を押し付けてしまった。私は、急いで離れようとしたけれど、身体が動かない。
「ゴメンなさい……」
「ゴメンね……」
私が声をかけるのと同時に、マナブさんも私に声をかけてくれた。思わず二人で顔を見合せて笑ってしまった。
「実は、昨日、帰り道に、父になんて謝りのメッセージを入れようかと悩んで電車を降りたんです」
「ああ、お父さんとの喧嘩の件?」
「ええ、それでなぜかあの公園のところで、思わず、この間のこと思い出して、あのベンチに座ってメッセージを考えていたんです」
「え? そうなんだ……」
「それで無事にメッセージを送れて、ホッとして空を見上げたらキレイな星空にびっくり。思わずベンチに横になって空をみてたんですが、そしたら……」
「そしたら?」
「流れ星が見えたんですよ。思わず、マナブさんに会ってお礼が言えますようにって祈っちゃいました」
「そうなんだ、奇遇だなぁ……」
「え?」
マナブさんは、うつむいて恥ずかしそうに話を始めた。
「実は俺も、昨晩、酔っ払ってあのベンチに横になって空を見上げていたんだ」
「そうなんですか?」
マナブさんは、微笑みながら話してくれた。
「あの晩、実は君のお父さんと会ってお酒を飲んでてね、帰りが深夜一時くらいになっちゃって……」
「そうなんですか……父はどんな感じでした」
私は思わず気になっていた父の事を聞いてみた。
「ああ、君のお父さんは、すごいよ。仕事の姿勢は、もちろん素晴らしいし、こんな若造の俺なんかの話も真面目に聞いてくれたんだ。俺の頭の中の回路がビシビシ音を立てて繋がっていくような感じかなぁ。ほんと会えて話せて光栄だったよ」
私は、嬉しくなった。まぁ、ヒトの父親のことを目の前でヒドく言う人はいないだろうが、お世辞でも嬉しい。
突然、カーブで電車がゆれた。私が態勢をくずすとマナブさんが私を引きとめてくれた。
ドキン……。
しっかり太い腕は、私をしっかり捉えてくれる。今までに味わったことがないなんとも言えない安堵感が私を包んだ。
どうしたんだろう。私……。
最寄り駅を二人で降りると、マナブさんは私の家の前まで見送ってくれた。
「それじゃ、おやすみ!」
「あ……おやすみなさい! あの……」
「うん?」
「メール必ずいれますから!」
マナブさんは、少し照れながら頭を掻いた。
「俺、時々、携帯のバッテリー切れになったりするんだけど、そのときは許してね」
「あはは、はい!」
マナブさんは、手を振ると、公園の方へ戻って行ってしまった。
私は、その姿が見えなくなるまでジッとマナブさんを見つめていた。
~ 作戦 ~(マナブ視点)
八月八日がやってきた。
天気は快晴。今回は、山間の山岳コースで、高度も高いので、思ったほど暑くはない。俺は、朝早くから受付などの準備のため前泊し、ゴルフ場で待機していた。結局、イロハ物産の社長からの参加取り消しの連絡は入ってこなかったが、俺は、そんなこともあろうかとプランBも準備をすすめていた。
初めてサオリちゃんと話をしてから、毎日のようにメールのやり取りをしていた。普通の女子高生とはこんなものかとおもうこともあったが、父親の話と、学校の話になると、なぜか歯切れの悪い返事になってしまうのが気になる。
朝七時。
続々とやって来るコンペ参加者の受付をしているとイロハ物産の社長が見えた。
「おはよう」
「あ、ハヤセ社長、おはようございます」
「マナブ君、悪いんだが、コンペ後の表彰式は、先に失礼するよ。実は娘の誕生日と重なっていてね」
「そうでしたか……」
俺は、驚いた表情を社長に見せたが、内心微笑んだ。
「社長、それでは、表彰式を早めに開始しますので最初だけ残っていただけませんか?」
「そうかい? それは悪いね……」
「社長に残っていただかないとウチの社長に叱られますんで」
「それなら、少しだけ残るようにしよう」
「ありがとうございます」
俺は、ホッと胸をなで下ろした。
後は表彰式で勝負だ!
◆
先頭の組がコースアウトするのが午後二時半。最終組があがるまでは一時間以上はかかる。その間に表彰式の準備を手配した。ちょうど、イロハ物産の社長がホールアウトして一風呂浴びたところで表彰式となる計算だ。
午前中のハーフを終了した時点で、今のところ予定通りだ。イロハ物産の社長もドラコン賞を取ったとの情報もあり、ますます表彰式に残ってもらう理由もついた。
午後三時。最終組にはシャワーも浴びずに表彰式に参加していただくことになってしまったが、予定通り表彰式を早めにはじめることにした。
司会のケイコがテンション上げて、賞の説明をし、いよいよ成績発表の運びとなった。
ニアピン賞に続き、ドラコン賞の発表が始まる。
「よし、ここでプランBだ」
プランBは、特別賞だ。
この特別賞には、彼女とのメールのやり取りから念入りにリサーチした好みの小物類、縫いぐるみを袋に詰めてあるのだ。
「ドラコン賞の三本目は、イロハ物産ハヤセ社長です。壇上へどうぞ!」
ケイコがニコニコしながらハヤセ社長に商品を手渡した。
俺はすかさず、マイクを取るとプランBを実行した。
「ハヤセ社長、ドラコン賞おめでとうございます。これは、ウチの社長からの特別賞ですので」
「おやおや、そんなものまであるのかい?」
「今朝ほど、ハヤセ社長のお嬢様のお誕生日が今日と伺いまして、急遽用意させていただきました……」
「おどろいた! 娘も喜ぶよ。ありがとうマナブ君」
早めに表彰式を終えると、俺はイロハ物産の社長をクラブハウスの玄関まで見送った。
これで、彼女もお父さんと誕生日を楽しく過ごせることだろう。俺は、密かにガッツポーズを取った。
「ちょっと、あんた何やってんの? マナブ!」
「ああ、ケイコ。飲もうぜ!」
「なんか、嬉しそうな顔してるわね! ちょっとキモイ」
「うるせー」
懇親会の会場へもどると、冷たいビールに口をつけた。
一仕事やり遂げた感があり、ゴクゴク飲むビールは最高に美味かった。
~ 驚愕 ~(サオリ視点)
午後六時。
玄関のチャイムが鳴った。そして一階の台所からお母さんの声が聞こえてきた。
「サオリ! ちょっと出てくれない? お母さん今手が放せないから」
「はーい」
私は、玄関の扉を開けた。
「ただいま! サオリ!」
真っ黒に日焼けした父がニコニコしながら立っているではないか。
「あれ! お父さん……」
私は、ぽかんと父を見上げ、固まってしまった。
お父さんは、私の頭をポンポンと叩いた。
「久しぶりだな! もう、立派な大人の女性だな」
「お、お父さん、仕事は?」
「大丈夫、いろいろやり繰りしてなんとか間に合わせたんだよ」
私は、なんだか照れくさくてリビングへ逃げ込んでしまった。
「お母さん、お父さんが帰ってきた」
「あら!」
母も呆然と父のことを見ていた。
「おいおい、お前まで……あ、そうだ、コレはサオリのお土産だ」
そういうと父は、大きな包みをそっと私に手渡した。
「今日の仕事先のゴルフコンペの特別賞だ。主催者担当が気を使ってくれてね。お嬢さんの誕生日ならこれをってね」
「え、今日って、ゴルフだったの?」
「そうなんだ。いろんな会社の役員がやってくるから、いろいろと付き合いをしなくてはならなくてね。サオリには、申し訳ないとおもったんだけどね」
父は、私をジッと見つめ、頭を下げた。
「ごめんな。お父さんからのプレゼントはまた別に準備しておくから」
私は、大きな包みを開けてみて驚いた。私が大好きなキャラクターの縫いぐるみやら色んなものが入っている。
「これって、私の好きなものばかり……」
「そうかい! それはよかった!」
父は、驚いた様子で私を見て微笑んだ。
「お、これは美味そうだ!」
父は母にニコニコ微笑むと椅子に座った。
テーブルには、母の自慢料理がズラリと並んでいる。父と三人で一緒に食卓を囲むのは何年ぶりだろう。
私は、食事の最中、ずっと中学の頃の話から、高校入試の話などメッセージでは話せなかったいろんな話を父に聞かせた。父は、ニコニコしながら私の話にうなづいてくれる。
そして、夜九時過ぎ、お祝いのメインのケーキにナイフが入った頃、つい先日、熱中症で倒れてしまったときの話をしはじめた。
「サオリ、それで大丈夫だったのか?」
父は、身を乗り出して心配そうに私を見つめている。そして、通りかかりのサラリーマンに助けてもらったこと、そのヒトが名刺入れを落とし、その名刺入れに父の名刺があったこと。そしてその持ち主に会いに行ったことを話した。
「その方、モリタマナブさんって言うんだけど……」
私が話をすると、父は目を丸くして驚いた。
「そうか、マナブくんが助けてくれたのか。これは、私からもお礼を言わなくちゃならないな」
「お父さんからも、今度、合ったら……」
「いや、実は、今日、朝からずっと一緒だったんだよ」
「え?」
父は、ケーキを食べ終え、紅茶を飲み干すと話はじめた。
「実は、今日は、マナブくんのところの会社が主催のゴルフコンペだったんだ。関連している会社の役員も楽しみにしててね。随分前だけど、マナブ君から是非参加をお願いしますって頼まれてね……」
「え! そ、そんな!」
「だけど、今朝、娘の誕生日だからと話をしたら、さっきの包みをわざわざ準備してくれたんだよ」
私は、頭が真っ白になった。そして、唇を噛んだ。
「どうしたんだ? サオリ」
私は、マナブさんとの会話を思い出していた。
初めて一緒にはいった喫茶店。マナブさんは、私の誕生日を聞いて少し驚いていた。
「マナブさんは、今日の事を初めから知っていたんだ。しかも、主催者担当……」
なんで! どうして! 本当の事を言ってくれなかったんだろう。やっぱり、マナブさんも私の事……。
「サオリ、どうしたんだ」
「ゴメンなさい。お父さん、ちょっと出かけてくる」
「おい、サオリ、もう遅い時間だぞ」
私は、縫いぐるみの入った袋を手に取ると家を飛び出した。
外はヒンヤリして、パラパラと冷たい雨が降りだしていた。
「マナブさんも、やっぱり他のヒトと同じ? そんなことない! 絶対ない! 絶対に!」
私は、あの緑の公園を目指して走り続けた。いつしか、雨は本降りになっていた。
そして、公園の例のベンチに腰掛けると、なぜだか涙が溢れ出てきた。
~ 告白 ~(マナブ視点)
ほろ酔い加減で、最寄の駅に着いたのが深夜十時。ボストンバックをもって改札を出ると、雨がパラパラと降りはじめた。
「雨か……」
俺は、カバンから傘を取り出し広げると駅前の噴水広場を抜けて、真っ暗な大通りを歩いた。
「サオリちゃん、喜んでくれたかなぁ……」
俺は、彼女の満面の笑みを想像しながら一人微笑んだ。
今回は、カンペキにリサーチしたはずだ。俺には自信があった。
学習塾の帰りに待ち合わせをして、何度かウィンドウショッピングをしていたときの彼女の笑顔。学校で話題になっているドラマの話で、登場人物の好き嫌いを語るときの彼女の笑顔。俺は、ジッと彼女を見つめていた。
好きな色合い、好きな音楽、好きな言葉……。
いつの間にか、俺の頭の中には、彼女の存在が大きくなっている。
「だいじょうぶ……あとでさりげなくメールをいれておこう」
俺が、ニヤケながらいつもの公園の前を通り過ぎたときだった。
「マ、マナブさん!」
突然、呼び止められ、驚いて声の方を振り向くと、サオリちゃんが、あのベンチにポツンと一人座っていた。
「え! サオリちゃん?」
彼女は、公園の街灯に照らされ、びしょ濡れのまま、ジッと俺のことをみつめている。
「どうしたの? こんな時間に一人? 傘も持たないで、びしょ濡れじゃないか」
俺が急いで駆け寄ると、彼女は、目に涙をいっぱい溜めている。
「え?」
彼女は、スッと立ち上がると黙ったまま、手に持っていた袋を俺に突き出した。その袋は、俺が表彰式で社長に渡したあの特別賞の袋だ。
「これ、マナブさんの仕業なんですね……」
「仕業?」
彼女はそのまま泣き崩れてしまった。俺は、さっぱり意味がわからなかった。
「ごめん。サオリちゃんに喜んでもらえるかとおもって」
「ひどいです。マナブさんもグルだったなんて……」
「グル?」
「だって、そうじゃないですか。私の事、特別扱いしているじゃないですか」
「特別扱い?」
彼女は、ベンチに座り込むとうつむいた。
「わたし、嫌なんです。イロハ物産の社長の娘だからって特別扱いされる事……」
「な……なんだって?」
「私、小さな頃からずっと嫌だったんです。保育園でも幼稚園でも、私がイロハ物産の社長の娘だとわかると大人は皆、まるで腫れ物にさわるかのように私を特別扱いするんです。中学生になってからは、クラスメートも先生も誰もが、そんな態度になって、私は、いつも一人ぼっちになるんです。私、そんな毎日が嫌で嫌で仕方がありませんでした」
「……」
「私、マナブさんだけは違うって思っていたのに……」
そう言うと、涙がポロポロと落ちている。
俺は、無言で彼女の隣に座り、傘の中に彼女を入れた。
雨がポツポツと傘に当たる音がする。彼女は、うつむいたままつぶやいた。
「私が、名刺入れを届けたとき……」
「うん?」
かすれた声が震え、彼女は、両手をひざの上で握り締めた。
「マナブさんは、イロハ商事の社長の娘だとわかっても、そんなの関係なく、強引にお茶に誘ってくれて、正直びっくりしたんです」
「へ?」
「私、あんな風に二人っきりでお茶を飲んで話したことなんて一度もないんです」
「はぁ?」
俺は、呆れて彼女の顔を覗き込んだ。
「あんなに楽しい時間をすごせたのは初めてだったんです。マナブさんは、私のこと普通に扱ってくれるんだと思って、ものすごく嬉しかったんです」
「……」
「でも、やっぱりウソなんだ。ウソ……」
彼女は、俺を睨みつけて大声で叫んだ。
「ちょっと待って! 確かにイロハ物産はスゴイ会社だよ。でも、それはサオリちゃんとは関係ないじゃない。俺は、単純に名刺入れを届けてくれたお礼がしたかったし……」
「ウソ!」
「あの時、誕生日の事をきいて、俺が、社長のスケジュールに無理やりコンペをねじ込んだ事に気がついて申し訳ないと思ったんだ。事情は知らなかったとはいえ、サオリちゃんをなんとかしてあげなくちゃって思ったんだよ」
俺は大きく息を吸い込んだ。
「ゴメン。この袋は、事前に準備しておいたのは確かだ。でも、社長には、ともかく早めに帰ってもらえるように仕込んだのも事実。それは認めるよ」
「やっぱり特別扱い?」
「断じてそんな特別扱いしたわけではないよ」
「してます!」
「マイッタなぁ。ただ、サオリちゃんが笑顔でいて欲しかったってだけじゃダメなの?」
彼女は立ち上がると、大きな声を張り上げた。
「もう、いいんです。私、イロハ物産の娘なんかに生まれなければよかった。私のことはほっといてください……」
俺も立ち上がると、彼女に向かって大きく叫んだ。
「イロハ物産の娘だろうがなんだろうが、そんなの関係ないじゃないか! キミは、キミだしとってもいい子だよ。イロハ物産のことを持ちだしているのは、むしろキミのほうじゃないのか!」
「そんなことありません」
「じゃ、イロハ物産の娘なんかに生まれなければよかったなんて言うんだよ。なんでもそういう理由をつけて、逃げているだけじゃないか?」
「に、逃げたりはしません」
「周りがどう反応するなんて関係ない! 人がどう思うのなんか関係ないんだよ」
「でも……」
彼女は、俺の顔を見上げた。
「もっと自分の事を知らなくちゃダメだよ」
俺が大きな声で話をすると、彼女はキッと俺を睨んだ。
「言われなくても、自分のことは自分が一番知っています。マナブさんに何がわかるんですか! 今、こうしてマナブさんに大声を上げている私も大嫌い。もう、どうでもいいんです」
突然、雨が一段と激しく降り始めた。
「ダメだ! 自分を嫌いになったらダメなんだよ!」
彼女はビクンと震えると、俺をジッと見つめた。そして眉尻がさがり、大粒の涙が溢れてきた。
俺は、ニッコリ微笑むと優しく彼女の頭を引き寄せ抱きしめた。彼女は、耐え切れず肩を震わせると泣き出してしまった。
俺の胸が、彼女の涙で熱くなるのを感じる。
「俺は、キミに出会えたことに感謝しているんだ……」
俺がそっとつぶやくと、彼女は、俺のポロシャツをギュッと強く握りしめ、俺の胸に頭を付けてきた。
雨で濡れてしまった彼女の髪をそっと撫でると、彼女が長いこと一人で耐えてきたことを解放させてあげなくては……と決心した。
かつて、自分が解放された時と同じように……。
「あのさ、俺……中学の時、自分の事が大嫌いでさ……ひどく親を困らせた事があったんだ」
俺は、彼女をベンチに座らせ、隣に腰掛けると、大きくため息をついた。
◆
俺は、親父との楽しい記憶といえば、小学校の時ぐらいしか思い出せない……あの頃は、夕暮れまでキャッチボールをよくしてたものだ。
小学校の頃までは、ともかく親が喜ぶことなら何でも頑張ってやってみた。自分で言うのも恥ずかしいが、「自慢の息子」なんていわれるのが何よりも誇らしかったんだ。
親から言われるがままに、勉強も、運動も、英会話なんかの習い事もこなしていた。もちろんそうしたことは俺にすごく役立った。でも、その当時は、親の期待にどう答えるかが俺の課題だったんだ。ともかく、親がニコニコしてくれることが何よりも嬉しかった。
ところが、中学生になったある日、親がポツリと言った。
「これからは、お前が好きに何事も自分で決めてやりなさい」
俺は、混乱した。
好きにやる? 自分で決める? 今まで、親が喜ぶことだけが自分の行動の原動力だったのに、いきなりそのスイッチを切られてしまった? 親に見捨てられた? コイツじゃダメだと思われた? なんで? どうして?
俺は、悔しくて悔しくて頭にきた。今まで親のために自分がどれだけ頑張ってきたと思うんだ! どうして、それがわかってくれないんだ! 俺は、必死に親に食い下がった。しかし、親はただ、同じ言葉の繰り返しだった。
「これからは、お前が好きに何事も自分で決めてやりなさい」
そして、俺は、今までの親依存の自分をぶっ壊わすしかないと思った。今まで自分が信じてきたことすべてが嫌になり、徹底的に自分を叩き壊すしかなかった。今から考えれば酷いことをしたと思う。部屋はバットを振り回して、メチャクチャになっていたし、大事にしていた本も破り捨てた。そして、なにもかも破壊しつくした後、酷い虚無感に襲われた。
俺は、何をすればいい? なんで今ここに存在してるんだ? なんでこんな世界があるんだ?
来る日も来る日もそんなこと考える日々が続いた。
学校へ行くのもバカらしくなったし、面倒だった。友達がせっかく届けてくれた連絡帳も破り捨てた。そんな日々を続けているうちに、最後の最後まで心配してくれた幼馴染とも絶交してしまった。
自分が嫌いだった。
こんな自分が存在することが許せなかった。
こんなつまらない世界もいらないと思った。
俺は、もがき苦しみ、家に閉じこもった。
そんな毎日が苦痛の日々だったある日、中学の担任の先生が家にやって来た。俺は、また説教かと思っていたが、先生は意外な話をしたんだ。
『お前は自分が嫌いだそうだが、いったい自分の事どのくらい知ってるんだ? 先生なんか未だに自分の事がわかんないというのに、お前、生意気なこと言うなよ』
俺はすぐに言い返した。
『バカじゃねーの! 自分のことは、自分が一番知ってるに決まっている……』
って叫んだんだよ。そうしたら先生がいきなり俺に鏡を突きつけてきた。
『じゃ、こいつは何が気に入らないのか説明してみろ』
俺は、鏡に映った自分の顔を見て呆然となったんだ。
そこには、不機嫌そうに怒りの表情の俺がいた。ものすごい怖い目でジッと俺のことを見つめていた。
『いいか、この不機嫌なコイツを理解してやれるのは、世界でおまえたった一人なんだよ』
そういうと、先生は、部屋から出て行った。
俺は、呆然となった。『コイツ、何で怒ってるんだ? 何が気に入らない? いったいどうしたいんだ? コイツはなんなんだ』って思えてきた。
それからしばらく、自分がどうしてそんな風に考え、行動をするのかをじっくり考えてみたんだ。そして、何気ない仕草や、ヒトに対する対応の仕方を観察してみたんだ。
で、結果わかったことは、自分がいかに親のために自分の存在を消して生きてきたって事だった。もちろん、その過程で勉強したことはたくさんあるんだけど、親のためにやっているのだから、その結果、成功しようが失敗しようが、すべて親に責任があると考えるのが当たり前だったことだったんだ。
その時、親が話した『これからは、お前が好きに何事も自分で決めてやりなさい』っていう意味がはじめて理解できた。つまり、最後は『親とか、ヒトから褒められたり、罵倒されようが自分が信じる道を歩いて行くしかない』ってことだったんだよ。
それに気がついて、自分で、自分を変えようとやってみたんだ。
だけどね、頭でわかっていても、行動しようとすると、今までの自分が新たな自分にブレーキを踏んでくるんだよ。で、そのとき、ルールをきめたんだ。『せっかくこの世に生まれたんだから、できるだけ気楽にやろう』っていうルールをね。
◆
「気楽に……ですか? でも、そんなに急に自分を変えることなんでできないんじゃ?」
「ふふ、それが、変われたんだよ」
彼女が目を大きく見開いて俺をみつめている。
「簡単さ、『自分はこうなるんだ』って決めるだけだよ。ともかく、今までの自分のプライドもなにもかもバッサリ捨てて、手本になる人格に成りすます事から始めたんだ」
「成りすましですか?」
「まぁ、アニメや漫画のキャラでもいいし、ドラマの主人公でもいいんだけど『こうなれたらいいなぁ』って思える人を探して徹底的になりきってみたんだ」
彼女が、少しだけ微笑んだ。
「うふふ」
「え?」
「それって、中二病ってやつじゃないんですか?」
「そうそう、そうかもしれないね。でもね、自分ですべてを決め、その結果がどうであれ、それはすべて自分の責任ってことだけは守った。まぁ、今思えば、魔法や神がかりなパワーを使えればもっと楽だったかもって思うけどね」
俺が、おどけて話をすると、彼女が、クスクス笑った。
「その頃のマナブさんに、会ってみたいですね」
「いやいや、恥ずかしくて見せられないよ。でね、そんな新しい俺になりきって久々に学校へでかけたんだけど、散々アチコチから陰口を叩かれたよ」
「でしょうね」
「でも、俺には関係なかった。なりきっているキャラクターなら、どんな風に話をするんだろうかってことばかり考えた。まぁ、そのキャラは自分の知らない事は誰にでも聞くってキャラだったから、手当たり次第に『俺、休んでたからサッパリわかんないから教えてよ!』ってニコニコしながら誰にでも話しつづけたんだ。まぁ最後まで『へんなヤツ』って思われたかもしれないけどね。そのうち『しょうがねぇーな』って言ってくれる友達ができた」
彼女は、困ったように顔をしかめた。
「でも、私、そんなこと、できません」
「まぁ、今まで積み上げた自分をすべて捨てるって、ものすごい勇気がいるからね。でも『できるだけ気楽にやればいいや』ってルールを決めたらなんでもできたよ。まぁ、今から思えば、相当周りのヒトには迷惑をかけていたかもしれないけれどね」
「勇気……ですか」
彼女は、うつむいた。
「私も、親が失望しないようにって、頑張っていたところはあります」
「そうだよね。でも、誰かのためにじゃなくて、自分のためにって考えることが必要なんだよ。今、自分に必要なことなら、真剣になるし、手に入ればものすごい達成感がある。その結果、親が喜んでくれればいいじゃない」
「でも、それって自分、自分ってあまりに身勝手じゃないですか」
「そうだね。でも、その時には、それは周りの友達が注意してくれるから大丈夫」
「友達……いないんです。みんな私のこと避けてるし……」
彼女は、グッと拳をにぎった。
「あのさ、イロハ物産の社長の娘なんて気にしているのは、世界中でキミ一人だけだよ。キミは、すごく魅力的だし、キミ自信がそんなの関係ないって思えば周りは変わってくるさ」
俺は、ベンチから立ち上がると、ボストンバックにある未使用のタオルを彼女に渡した。
「実は、俺は、キミに出会えた事にとっても感謝してるんだ……」
「え? どうしてですか?」
俺は、目を閉じると、自分の発作の話をし始めた。
「俺、自分が好きになりそうな女の子と話すのが苦手でね、喉がヒリヒリしてそのうち体が硬直してしまうんだ」
「え?」
「最初、キミをこの公園まで運んだときもそうだった。全く情けない話だよ」
「でも、今さっき自分を変えたって……」
俺は、彼女をジッと見つめた。
「キミは、俺を変えてくれたんだよ。キミの笑顔をいっぱい見たくて、そのためには発作なんかどうでもいいやって思えるほど自分を変えることができたんだ」
「笑顔?」
「最初は、お得意先のお嬢さんだからって思っていたんだけど、そんなこともどうでもよくなったんだ。いままでの発作なんてウソのようだよ。だから、キミの笑顔に感謝してるんだ。ありがとう」
「マナブさん……」
彼女は、俺の肩に頭をもたげた。俺は優しく彼女の肩を抱き寄せた。
「さぁ、帰ろう! ご両親も心配してるし、風邪ひいちゃうよ!」
「……私、私……」
彼女は、ジッとして動かない。
「勇気を出すんだ。いままでの嫌いな自分なんかすべて忘れて、全然違う自分を見つけ出すんだよ! 俺もキミを応援するよ!」
彼女は、俺をジッと見つめると、唇を噛み締め、立ち上がった。
「私……やってみます」
俺は、彼女にニッコリ微笑んだ。
◆
「サオリ! おまえどこへ行ってたんだ! あ、マナブくんじゃないか! どうして一緒に?」
玄関先でタカシ社長は、真っ赤になって怒鳴り声をあげた。
俺は、傘をサオリちゃんに渡し、社長の前に土下座した。社長は驚いて声をかけてきた。
「なんだ? マナブくん、どういうことなんだ?」
「社長、夜遅くまですみませんでした」
俺は、七月終わりの熱中症で彼女と出会った事、落とした名刺入れをわざわざ会社に届けてくれた事、そして彼女が社長のお嬢さんのであることを知り、彼女が誕生日に父親とすごすことを楽しみにしていた事、彼女の誕生日が八月八日だと聞気き、自分が社長を無理にゴルフコンペに誘ってしまい、なんとか償いをしなければと、あらかじめ本人からリサーチした特別賞を準備していた事、その事を彼女が知り幻滅した事等、洗いざらいすべてを話した。
雨は、激しく俺の背中をに突き刺さった。頭から雨がしたたり落ち、土の匂いが広がっている。
その時だった。
フワッと傘が地面に落ち、フローラルな香りが漂った。
「え?」
そして、俺の隣にサオリちゃんがひざまついたのだ。
「お父さん、ゴメンなさい。私の勘違いなの。マナブさんは関係ないんです。心配させてごめんなさい……」
俺は、彼女が頭を下げている姿をみて呆然としてしまった。
突然、頭上から豪快な笑い声が聞こえてきた。
「呆れたやつらだ。心配して損したな。ともかく、早く家に入りなさい。マナブくん、ありがとう」
そういうと俺の肩をポンと叩いた。
~ 挑戦 ~(サオリ視点)
午前五時。
私は、カーテンを開けて外を見つめた。うっすらと東の空が明るく、静かな朝だ。
窓を開けて外の空気を吸い込む。
「今日は、どんなことになるんだろう」
私は、次第に興奮してきた。今までの自分とは違う事に先生や友達はどんな反応をするのだろう。
次第に明るくなる町並みを見つめて、私はドキドキしてきた。いつものように、午前六時には母が私を起こしにやってくるだろう。そして、熱いシャワーを浴び、髪の毛を乾かしながらの朝ごはん。身支度を整え、午前七時には家を出る。
「いってきます!」
相変わらず、ギラギラと陽の光が差し込む暑い日。
でも、今日の私は、何を見ても新鮮だった。いつもの制服にいつものカバンをもって、いつもの学校への通学路を歩いている。でも、どこかワクワクして、思わず笑みがこぼれてしまう。
昨晩、マナブさんとお父さんは、夜遅くまでお酒を飲み話をしていたらしい。そのまま、リビングで酔いつぶれてしまい、朝方、お母さんに二人とも叱られ、正座させられていた。
そんなお父さんの姿なんて、今まで見たことがなかったので、驚いて笑ってしまったが、お母さんの話では、私が産まれる前にはよくあったんだそうだ。
「サオリちゃん!」
声におどろいて振り向くと、いつの間にか着替えたのパリッとしたスーツを着こなしたマナブさんが立っていた。
「着替えてきたんですか?」
「当然さ、ウチの社長は、身だしなみにはうるさいし、今日は遅刻しないようにしないと」
私が微笑むとマナブさんは、私の背中をトンと叩いた。
「世界が新しく見えてる?」
「ええ、これから学校に行くのが楽しみです!」
「それでよし! もっともっと、たくさんいろんなことが待ち受けているよ。自分の気持ちに正直に……何もブレーキを踏まずにどんどんやっていこうよ」
私がニッコリ微笑むと、マナブさんが叫んだ!
「今の笑顔、世界で一番素敵だよ」
そして、そっと私のおでこにキスをしてくれた。
(了)
ぶれいくあうと