玉ちゃんの華麗なる日々、誕生日記念 春日和シャイな事件
1、春です。休みです。旅行です~。にっこりで~す。
玉ちゃんは信じられないほどの、年寄りになったと思った。
「ただいま」と、玄関で小さくお辞儀をして家に入った。別にお辞儀をしなくてはならない訳では無い。
これは玉ちゃんの習癖だ。玉ちゃんには、たくさんに癖がある。これもそうだが、悪い癖では無いからと修正してはいない。
ドアを開けると何故か、「ただいま」と言ってしまう。
職場でも同じだ。朝、誰もいない職場に「ただいま」と、ドアを開けてしまう。誰も居ないから良いが、ここにお偉いさんがいたら物笑いの種だ。しかし、これの習性をバイト先でもやってしまう。でもバイト場のこの部所は玉ちゃん模様の部屋ゆえに、笑う者は誰もイナイ。
集うお姉さん方は玉ちゃんより十才年上か、年下だ。そして一番の在籍長老は、この玉ちゃんだ。
玉ちゃんが「ただいま」と声を掛けると朗らかな声が帰る。ただいまが当たり前と言う面々は、にこやかに「お帰り」と、言って向かえてくれる。
うん、今日も一日頑張ろうと、マイホームに帰ったような心地になった。
良い心地は、仕事が終わり「さようなら」と手を振る時も「行って来ます」の言葉が出ると、「はいはい」「お疲れさん」が返ってくる。
なかなか良い職場が出来上がったと、玉ちゃんご機嫌で帰宅。
食卓テーブルを見るとハリネズミが乗っている。いや、奇妙な棒が突き刺さった本体は白い物体だ。
『こりゃ、何だ?』と、玉ちゃんは首を捻り、蛮族の如く匂いを嗅ぐ。良い香りだ。
蛮族は玉気質に合っているのか、その物体は生クリームだと判定した。
生クリームのなかにスポンジケーキがある。
デコレーションの無いクリームだけのケーキ!
もしかしてこの棒は、ろ~そく?白じゃ無く黒だけど、匂いはロウでは無く香油!玉ちゃんの特別大事にしている香油の匂い。まさか三mlが消え失せているのではと頭を掠めた思いは現実だった。空の香油が引き出しにあった。あまりのショックで椅子から立てなくなった。
ハリネズミが巨大な毛虫に見えた。と思うと頭は、毛虫をイメージから消せない。
「わしゃ、クリームよりあんこが好きじゃ」
二人掛け椅子の片方にドシリと座ったミカさんは、隣の玉ちゃんを振り向くこと無くそう言った。見ると片手に丼鉢を持っている。茉莉さんから残りの生クリームを貰ったのねと覗きこむと白い陶器に黒い塊?その上にクリーム!!
《クリーム大福の求肥なしバージョン特大》――つまりあんこの生クリームがけ――を、一人で文句を言いながら食っていた。
ひえぇ~と玉ちゃん、目を剥いたが無言。ミカさんが美味しそうにスプーンを口に運ぶのを見ていた。すると、台所の奥から叫び声が上がった。
「クリームが無い!私の生クリームが冷蔵庫から消えた!」
――怪奇現象だ。魔物が出た。最近この家何が住み着いているのよ。除霊しなきゃ祟られる――叫びを上げる茉莉さんに、何食わぬ顔のミカさんはさっさと二階に上がって行った。
勿論、空の丼を流しに残して。
茉莉さんの方は冷蔵庫に顔を突っ込んだまま、がなっている。
やっと冷静を取り戻した茉莉さんは玉ちゃんに言った。
「五十本はどうにか突き刺さったんだけど、後の残り突き刺す場所がなかったから、考えてたの」
茉莉さんの手に数本の奇妙な形のろ~そくが握られている。ゆうに十本はある。
「玉は五十才だから、これ以上はいらない!」
「今日は記念日だから嘘を吐いてはいけませんの日よ。蝋燭を小さくするか、ケーキを大きくするか悩むよ~」
「女は五十才以上は年を数えないようになっているの!法律で決まっているわ。蝋燭は破棄。毛虫のケーキはそっちに置いて、夕食にして!」
と、玉ちゃんが叫んだ途端、茉莉さんが悲鳴を上げた。
「毛虫!!私が丹精込めて作ったケーキ蝋燭が毛虫なの!娘の手作りを貶しては行けない法律を知らないの!」
と、茉莉さんが腹を揺らしながら猛烈に怒りだした。
さあ、そこに登場するのは純くんです。
「すげぇねえちゃん。この蝋燭どうやって作った?」
何気なくやって来ては、重い茉莉さんを持ち上げる。今も真剣な眼差しでケーキ蝋燭を見入っている。
「まきまき蝋燭よ。溶かした牛脂を混ぜて匂いを付けて、糸を垂らす」
「すごいよ。姉さん。火を付けたら、菊の花のようになるよ。早くご飯食べてケーキに火をつけようよ」
と純君の褒め言葉に茉莉さん、すっかり上機嫌で夕食を終えた。
確かに明かりを消した部屋に灯ったケーキ蝋燭は、トテツモ無く綺麗に輝き部屋を別世界に変えた。まるでメリーゴーランドに乗った心地の玉ちゃんは、年甲斐も無くはしゃぎ声を上げた
「綺麗ね。茉莉さんにしては上出来だわ」
玉ちゃん感心するほどの素敵な蝋燭の炎を三人は長い間見続けていました。でも、玉ちゃん家(ち)はすんなりその日の出来事が終わるはずがなかった。
揺れる蝋燭の明かりを見ていた三人は何故か、気分が悪いよと二階から降りてきたミカさんに吃驚した。洗面所でゲロを吐くミカさんに食べ過ぎと、たかをくくっていた玉ちゃんも何故か吐き気に襲われた。
悪心が襲う。続いて純君、台所に走る。嘔吐!
原因は蝋燭!玉ちゃん、毛虫の様な蝋燭を吹き消した。炎が消えた蝋の匂いが異臭を発していた。眩暈が襲う匂いに頭を抱えながら玉ちゃんは必死に吹き消した。
ぽかんと見ているのは茉莉さんに、怒気が飛ぶ。
「あんた、蝋燭に何入れたの!」
「エッ、私、何って、油よ。‥うんと、豚と牛の脂肪‥スーパーでタダだったから。それに、臭い付けに玉ちゃんの香油を、ちょっと垂らした」
「ちょっと、垂らしただけで瓶が空になるか。アホ娘!それだけでは無いでしょう!」
「タコ糸がなかったから、外に捨ててあったビニールの紐を使った」
「ビニール!隣のハウスのゴミ場から拾ってきたの?」
うんと、頷く茉莉さんに褒め言葉を言えない純君は、窓を全開にすると蝋燭をまとめてゴミ箱に捨てた。
ここで一番可愛そうだったのは、嘔吐したミカさんや純君でも玉ちゃんでも無い。茉莉さんでもありません。スポンジケーキくんでした。彼は冷たさにも熱さにも耐え、食べられるのを待ち続けていました。しかし、誰にも食べられず天命をゴミ収集車の中で閉じたのです。
しかし、こんな事件も三日立てば忘れてしまう玉ちゃんは、春休みを向かえ花火のように輝いたケーキ蝋燭に感謝して家族旅行を決めた。
2、誕生日は危険な日
玉ちゃん一家は、家族五名。
誰も欠けること無く、文句も無く、速やかにマイカーに乗り込んだ。
目的は二泊三日の家族旅行だが、誰一人 何処に行くのか、何時帰って来るのかと尋ねる言葉は無い。ただ無言でCD を聞いていた。
只ひたすらおなじ歌手が同じ歌を歌い続けるこのCDを如何に玉ちゃんの機嫌を損なわずに交換できるかと、茉莉さんと純君は考えていた。だが、島流しから御赦免になった宗次郎くんは違った。すでに三十回繰り返し歌い続けるこの歌手は、良く喉が痛くならないなと感心していた。
車は高速道路を走る。
春休みだが平日のためか、車の数は少ない。玉ちゃんはご機嫌でアクセルを踏んでいる。
「ところで、あの蝋燭はなんで五十本もあったの?」
と、突然思い出したように後部座席に座る純くんが茉莉さんに聞いた。
「玉ちゃんの誕生日だったから!綺麗なもの送りたかったの‥」
その言葉に玉ちゃんの胸が、キュウンと締め付けられた。日頃は大馬鹿娘をやらかしてはいるが心根は優しいのよね。我が娘ですものと、ハンドルを握りアクサルを踏むたまちゃんは、良い想い出を創ろうと思った。
家族の想い出つくり――。玉ちゃんは胸踊らせて山の中に建つコテージを思い浮かべた。そこへ純君が声を上げた。
「綺麗な物‥そういえば一昨年の誕生日に、すごいプレゼントしたね」
何気ない純君のこの言葉は、玉ちゃんの未来を、楽しい旅行の前途を暗示する言葉だった。それを知らない玉ちゃんは、記憶の宮をすんなりと開いた。
去年の誕生日で無い五月の連休半ばの日、誕生日と勘違いした茉莉さんが、日中 密やかに創ったものを差し出したのだ。
「ジャスミンティを飲ませられた」
笑いながら一口で敗退した純君は言う。しかし、おかわりをした紅茶好きの玉ちゃんは、眉間にしわ寄せボソリと言う。
「ゲロした」
そうだ、そうだと、手を叩くのは純君だ。純君の隣の無言の宗次郎君は島流し中にて事を知らない。事を知っているはずのミカさんは、車に乗るや椅子を倒して寝ている。
「ちゃんと日陰干ししたのに変よね。本に書いてある通りにやったのに‥。おかしいな‥」
おかしいのはお前の方だと、玉ちゃんは助手席の茉莉さんをグッと睨んだ。
「ジャスミンって、白い花だと思っていたのに、なんで黄色かったの?」
純君は真ん中に座る宗次郎くんを押しのけ、身を乗り出して茉莉さんに聞いた。前を塞がれ座席に押し付けられた宗次郎くんは、この苦しい体勢を回避せねばと島流しで鍛えた頭脳を発揮した。
「黄色いジャスミンって!毒花だよね!」
と叫んだ。
そうだ、そうだと、純君は座席に戻った。開放された宗次郎くんは、隔離中に体重を増やした純君に押しつぶされては嫌だと、更に後部座席に移動し傍観を決め込んだ。
「あれって黄色だったかな~」
と、茉莉さんはミカさんの如くうそぶく。
「良く見たら黄色かった。ジャスミンが古くなって黄色に、変色したのかと思っていたのに」
もったいない精神で生きている玉ちゃんは、古い紅茶だと思い込んでいた。嘔吐の原因は夕食にあったと信じこんでいた。それが毒を飲まされたと知ると、長年積み上げてきた怒りが、茉莉さんに対する憤懣が、爆発したのだ。
怒りを表面に出した玉根性は叫ぶ。
茉莉さんに対して怒鳴った。
「この馬鹿娘!稼ぐ母に毒を盛るとは何事だ。玉ちゃんは、一晩中、吐きまくったのよ!その上に翌日は、日勤泊まり日勤をこなした!誰のお陰で生きているの!玉が稼いでいるからでしょう!」
不眠不休で稼いだ金を、その醜い腹に更に脂肪を付けさせたと思うと、玉ちゃんの怒りが収まらない。
「お前の腹油で蝋燭を作ってやる。お前の部屋も大掃除して、薄(・)く(・)て(・)高(・)い(・)本(・)をちり紙交換に出してやる。部屋も屋根裏に変える。夏は暖房、冬は冷房の利いた部屋にしてくれる!」
と、怒りを言葉にぶちまける玉ちゃんだが、ハンドルを握る身ゆえ何時までもそっちを見ている訳にはいかない。
怒りをアクセルにぶっつけ右側車線を突っ走ろうと構えた時、後ろから純君の声が飛んだ。
「一キロ先にパーキングがある。アイスクリームを食べようよ!」
アイスクリーム――!その言葉は魔法の言葉だ。玉ちゃんの怒りが霧散した。車は左車線からウインカーを点滅させた。
3、山道を行けばコテージです。
何やかんやと言いながら着きました。今宵、お泊りのコテージです。海が近いと言うのに何故か、細い山道をひたすら走り、また走りやっと林の中に立つホテルが見えた。
この道の細さは純君思うに、マノア【車の名前です】のナビが遠征を嫌がったのではないかと。
年寄りマノアのナビは更に年寄り、地図にない道を提示する。真新しい道路を教えてくれないのだ。だから古い道を提示してくれたのだろうと純君だけで無く宗次郎くんも思った。
宗次郎君は、日本国の南へ島流しの刑に服している。
ホントのことです。『宗次郎、島流し中学生日記』が書けるかもしれない。
日本地図の左下に幾つか点々と散らばる島の中の、更に小さな点に流されて三年間が過ぎた。刑期を3月末で終えて帰って来た、宗次郎君にとって旅行なんてどうでも良いのですが。
御赦免船に乗って、まる一日を費やしてやっと我が家に帰り着いた。その感動で胸を熱し、玄関ドアに手を掛けたその瞬間、玉ちゃんが叫んだ。
「旅行だ。山だ。コテージだ」
三学期終了、昨日はれて御赦免になった。
船、夜行バス、電車を乗り継いで本日午前十一時にやっと我が家へ帰り着いた。それを玉ちゃんは知っているはずだが、また家から追い出されたのだ。この春休み(宗次郎君の冬と春の休みはとても短い)はだらだらフニャリとナマクラで過ごすと決めていた宗次郎君は、玄関から自分の部屋へ一目散に駆け上がりベッドを目指すつもりだった。そうだ、寝て過ごすのだと決めていたのだ。
今日一日は寝ていたいよ――と、叫びたい宗次郎君は車の後部座席で寝るしか無かった。寝ようと思う宗次郎君は玉ちゃんに言わなければならない事があるのだ。
後一年刑期が延びたと言わなければならない。心の修行が足りないと宗次郎君は島に居座る覚悟を決めた。この事を玉ちゃんに告げなければならない。
玉ちゃんは、まだその覚悟を知らない。宗次郎くんには、お金が掛かるその決意を言えません。だって玉ちゃんは二泊三日のこの旅行に燃えていたからでした。
道は突然、高速並に広く立派になった。その道を行くと宿泊棟とコテージの表示があった。
純君は地図を確かめ頷いた。確かに玉ちゃんは遠回りの山道をヒタコラサッサとやって来たのだ。
それでも辿り着いたのだからと、運転手玉ちゃんに感謝、感謝のチシャネコ顔になった。
宿泊棟ホテルで鍵を受け取った玉ちゃんは林の中に車を止め、家族の大荷物を背負いミカさんをけしかけコテージへと向かう。
コテージの狭い玄関入り口をやっと抜け長椅子に座った玉ちゃんは、運転疲れで動けない。
ここから活動開始するのは茉莉さんだ。
ミカさんは寝場所を確保するためにウロウロと室内を見渡しはじめた。そして奥にベッドが二つ並んだ寝室を発見すると、そこから動かなくなった。食事に呼ばれるまで、また寝るつもりで篭もる。
宗次郎くんは冒険心を発揮し段梯子を登りそこに何が隠れているかを確かめた。板張りが立入禁止を告げていた。そこから更に上には行けない。残念とロフトを基地と決め、そこからターザン気分に地界に叫ぶ。
疲れた玉ちゃんはターザン宗次郎君の相手にせず、ホテル敷地内の地図を睨む。そして、叫ぶ。
「展望台がある。大浴場の帰りに寄るぞ!」
と、はしゃいだ。
だがこの夜、何時もあるアクシデントで玉ちゃんだけが行って来ますを言えなかったのだ。
この日の夕食を担当したのは、いつもの様に茉莉さんだ。しっかり者の玉ちゃんは高い夕餉など想い描くはずも無く、近くのスーパーへお買い物と決めていた。
玉ちゃんがコテージを宿泊場に選んだ理由は唯一つ、台所があることだ。そこを利用して豪華な(?)夕食を準備する。
「それが一番だ。田牧家の家風にあっている」
と、賛成する純君と茉莉さんの言葉を信じ買い物へと出かけた。
今度は道を間違えずに幹線道路を行く。すると、あった。大型スーパー。
チシャネコ笑いの純君と茉莉さんが一目散で、玉ちゃんお気に入りの買い物籠を持ち店中へと突進した。純君が目指すは菓子コーナー、茉莉さんは肉コーナーへと突っ走る。玉ちゃんは鮮魚コーナーへと向かうと、そこから離れない。
財布を握るは玉ちゃんなり。いつもの習慣で好きな物を両の手に一個ずつ持った茉莉さん純君は玉ちゃんの前にやって来た。
確かに玉ちゃんのお子さん達は賢い。予算金額を越えること無くレジ計算を終え、デザートのアイスクリームまで確保すると帰路に着く。
勿論、朝食もしっかり確保して、だ。
さあ帰り道を急ぐ玉ちゃんは無謀運転ながらも、黄昏時の町並みは綺麗だとしっかりと脳裏に焼き付けた。これから後、玉ちゃんを襲う悲劇など予想もせずに明日の日程を頭に描き、緑の林を迷うこと無くコテージへ帰り着いた。
さてさて、豪華な夕食は和食でした。炊き立て白米とアオサと豆腐の味噌汁、お刺身数種類盛りと生牡蠣。
割引シールが張られた新鮮な生物をスーパーにあるだけ買い込んだ茉莉さんは言う。
「さすがは海辺の近い半島の町だよ。私、こんな所に嫁に来たい」
「それは良いよ。毎日、お刺身が食べられる。大賛成!」
隔離解除の純君は、久しぶりに世の中の新鮮食品を目の当たりにして有頂天で声を上げる。そして島流しからご斜面になった宗次郎君は、腹を満たせばそれでいいとただミカさんと一緒に頷く。
「今夜の晩御飯の腕次第で考えましょう」
と、誰もお前を嫁になぞ貰いたがらないと言えない玉ちゃんは、無防備で茉莉さん料理に手を伸ばした。
4、旅にあっても吐くのです
田牧家一同は、温泉が大好きだ。時に大好きなのは茉莉さんと何故か純君だ。
夕食が終え温泉タイムとなった。それでは行こうと、お風呂大好きの純君がゴゾゴゾと大荷物の中から取り出したのは風呂道具だ。
それは掌サイズより大きいボディシャンプー、ヘアシャンプーとリンス、ボディタオルに櫛が一つ、それと化粧水が入った四角い赤い籠だ。
玉ちゃんの生まれた所は温泉町。家の風呂に入るより銭湯へ行くのが当たり前の玉ちゃんです。一家の車には必ず風呂道具が積んであったと茉莉さんと純君の記憶は刻んでいた。温泉町から遠く離れ、車もマノアちゃんになってから風呂道具は無くなった。代わりに別の物が乗っているが――。
玉ちゃん一家が都会でもド田舎でもないこのシティに移り住んですでに十年になる。純君が小学生で茉莉さんが中学生だった。そして何時も後ろに控えている宗次郎君は小さく可愛い幼稚園生だった。
さて、夕食後一服した玉ちゃん、風呂道具片手に叫ぶ。
「行くぞ。温泉だ」
だが、家族揃って玄関を出ようとした時、嫌な感覚が玉ちゃんの背に走った。本当に嫌な感覚が腰から肩に掛けて押し寄せたのだ。玉ちゃんは踵を返した。行き先は洗面所だ。
昨年のジャスミンティ-以来の大騒ぎが、今ここに始まったのだ。
風呂にも入れず呆然と見守る者達の中を、トイレとソファーを行き来するのは玉ちゃんただ一人だけだった。余りの苦しさにマノアちゃんに助けを求めた玉ちゃんは口を片手で押さえ、駐車場から幹線道路へと突っ走る。
行き先はスーパー隣の薬局だ。
時間はすでに閉店時刻をまわっていた。
やはり、スーパーは閉まっていた。しかし、日頃の玉ちゃんの行いが良いのであろうその隣、すでに閉まっているはずの薬局は開いていた。中にまだお客さんがいたのだ。
「ありがとう。先客さん」
と、玉ちゃんは二人組のその人達に頭を下げて、中に飛び込むと買った。
特即効薬ムカつき止め胃薬と砂糖と塩だ。水はタップリとあった。玉ちゃんは温泉セットの代わりに水を座席の下に積んでいる。もしものためにと言い、飴と水は家の中にも車にも常時物品として置いていた。
玉ちゃんの車も座席の下にはいろいろなものが並んでいるが今は省略しておこう。この時、運転は出来ないが茉莉さんが一緒に付いて来ていた。
財布を忘れたとレジで悩む玉ちゃんに、茉莉さんは無言で差し出した。自分の財布ではない玉ちゃんの財布を――。
嬉しいけれど悲しいと、玉ちゃんは茉莉さんを睨む。具合の悪い母のためにお金払えと言いたい玉ちゃんは、我が財布を両手で抱えたこの娘は、何処の娘と考える。
それは二十年前にさかのぼる。
親になれば誰でもバカになる。親ばか。
我が子は天才と思ってしまう。だが、茉莉さんを子の持つ玉ちゃんは親ばかになれず、教育ママにもなれず、ぼんやりと見詰めるだけだ。
それは過去の出来事――。
台所に立つ玉ちゃんは驚いた。
二階で寝ていたはずの一歳児の笑い声が、隣の居間から響いてきたのだ。
お料理真最中の玉ちゃんは青くなった。ここは一階、風呂と台所と居間がある
一歳児が狭いハイツの階段を、一人で降りて来られるはずがない。最近やっとつかまり立ちで歩きを覚えたばかりの重い身体の茉莉さんが、一階の居間で笑い声に上げた。
背後から響いたその声に恐怖を覚えた玉ちゃん恐る恐るそちらを見た。
いた――!
玩具を手に階段下に座る一歳児の茉莉さんがいた。今も昔も変わらない巨体の茉莉さんが嬉しそうな笑顔で玉ちゃんを見たのだ。
そのまま玉ちゃんは、気を失ってしまった。
それから二十年がたった今も、あの時の奇怪な出来事を誰にも言えずにいた。
玉ちゃんはたえず、茉莉さんを観察する。尻尾が無いかと――。
その頃、暮らしていたのは田舎町のマンモス団地の端っこだった。盆地を開発して十年を掛けて整備された団地は、元は山だ。狸が居てもおかしくないと思う玉ちゃんは茉莉さんのたっぷりの腹肉を見る。
ジッと見て考える。
狸のようなお腹をした娘はもしかして!
玉ちゃん、二十年来、狸に化かされていたらどうしようと青くなった。支払いを終え、空を見た。
今宵は満月。娘の尻が気になる母も何者と我が身も疑ってしまう。
翌日、やはり食事担当は茉莉さんだ。
玉ちゃん以外の家族は、朝食を楽しんだ。しかし玉ちゃんは絶食を決め美味しそうにアツアツご飯を頬張る茉莉さんに冷たい視線を送るだけだ。
体内の毒気を抜くために、砂糖と塩で作った大量の水と胃腸薬を飲んだ玉ちゃんは復帰した。
元気一杯の玉ちゃんに戻ると、声を上げる。
「風呂だ。温泉!」
出発前に温泉を味わうと、一家総出で宿泊棟に向かった。歩く道すがら、展望台を通り過ぎた。純君と宗次郎君の眼が茉莉さんを見た。その眼は冷たい。
昨夜は温泉帰りに星を見るはずだった。ここを泊まりに選んだのは安さだけでは無い。展望台があったからだ。夜星を、何百年彼方の星を見る。それが純君と宗次郎君の願いでした。しかし、それは悲しく消え去った。昨夜の騒ぎで消え去った。
皆無言で温泉施設に向う。それしか無いとただ歩く。
毒気を抜いた玉ちゃんは思う。丈夫に生まれすぎたと思う。もっとひ弱に艶めかしく生まれてきたら、素晴らしい幸せが待ち構えていたのではないかと、思う。
ゲロをはいても自力運転する玉ちゃんは、やはり人で無くマ・者なのか?
一夜で復活した玉ちゃんはコテージに言う。また帰って来ても良いかと、丁寧にお掃除を終えた。鍋釜を洗いゴミをまとめベッドを整えた玉ちゃんは次の宿泊場所へと車を走らせる。
5、茉莉さんはやはり人間ではない
清々しい朝を迎えた玉ちゃん一家。旅館の朝食を頂くと温泉を楽しみ、旅館敷地から繋がるアスレチックへと出かけた。もちろん、居残りは茉莉さんのミカさんだ。
ミカさんはもう一度風呂をたしなもうと、タオルを片手に浴場へ向かった。茉莉さんはミカさんと二人きりで風呂場に居たくないと、「読書する」と決め、ロビー待合席でドテンと座り分厚い本を広げた。
玉ちゃんはそれを確かめた。そして純君と宗次郎君を連れて、アスレチック登山へ出発した。
さて、ターザン本性と玉ちゃん根性がミックス合体した超張り切り玉ちゃんは、純君と宗次郎君よりも猿もどきを発揮した。日頃のしとやかさは何処へ行ったかと思う豹変ぶりを見せた、魅せた。
ロープを握り綱渡りアミを潜り迷路を脱出、垂直板をよじ登り丸太を走る。
頂上まで続く斜面に設置された障害物をことごとく制覇した玉ちゃん一家は登り二時間と帰り道の遊歩道を三十分で駆け下った。三人は山遊びを十二分に楽しみ、旅館へ帰って来た。
昼食をレストランで摂りもう一回温泉に浸り、ゆっくりと出発する予定の玉ちゃんは旅館前に止まる救急車とパトカーに驚いた。
何があったかを即座に見に行くのは宗次郎君だ。彼はそそくさと情報を選ると青ざめた顔で帰って来た。
「お姉さんが、掴まった――」
玉ちゃんと純君は顔を見合わせ、
「??」となった。
「お姉さんが――警察に‥」
と、宗次郎君は声を上げて泣き出した。
「警察!」
玉ちゃんと純君は当然ながら走る。旅館ロビーは人だかり。祭りの様な賑わいだと浮かれる場合ではない。
茉莉さんは何処だと、玉ちゃんは探す。すると、居た。ロビー椅子に座っていた。周りは制服の男がズラリと並んでいる。おまけにミカさんもいた。
いったい何があった。いや、二人は何をしたと玉ちゃんは叫ぶ、しかない。
「殺人事件!!」
と純君は声を上げた。
「ハアッ」
と玉ちゃんは口を開けた。
はっきり言って、ここは安宿だ。高級ホテルではない。おまけに、ド田舎だ。交通の便の悪い、山間地だ。こんなところで、殺人事件??
「ちなみに殺されたのはどんなおばさん?」
と、玉ちゃんチョロリンにセーターを編んでくれそうな人を想像してそう言った。するとやっと涙の止まった宗次郎くんは首を振る。
「違うよ。男の人」
「男!いくら茉莉さんが怪力の持ち主だからって、男を殺す?相手は爺さん?」
すでに玉ちゃんは、茉莉さんを殺人犯人に仕立てあげていた。殺された相手に深く同情する素振りがある。そう感じた宗次郎君が声を上げた。
「違う、違う。姉さんじゃない!その人は、五十代の男性だよ」
宗次郎くんは大きく首を振りおまけに両手まで振って答えた。しかし、茉莉さんを犯人に仕立てあげたい人物がもう一人いた。
「絞殺じゃないの。あの茉莉さん、山に来たからクマ退治と間違って人間を食い殺した」
「クマか。考えられる」
と、玉ちゃんは純君の意見に大きく頷く。
「新聞に乗りますね。もしかしたらテレビにでられるのではないの」
テレビと聞いた宗次郎君、顔が綻ぶ。
「姉さん、有名人になるね」
「殺人容疑者の姉がテレビに映って悲しくないの、宗次郎君」
と玉ちゃん一家はすでに茉莉さんを殺人容疑者に決めていた。
その家族会談中を聞き耳立てていた茉莉さんが怒気を上げた。
「私、喋っていただけ!何もしてない。触れてない!陰謀よ。謀略よ!」
「じゃ、なんで疑われているの?」
そうだ、何故疑われるのと、玉ちゃんだけではない宗次郎君も純君も疑心の視線を送る。冷たく刺さるような視線を送るのは、茉莉さんの周りを囲む黒服の男達も、だ。その場は言葉を発してはならない特別の場となっていたが玉ちゃん一家は空気を読む気も無く妄想にふける。
「姉さんの迫力で、心臓発作を起こしたってことないよね」
宗次郎君真面目顔でそう言った。玉ちゃん、純君、宗次郎君は顔を見合わせた。
「考えられますね。姉さん、笑いすぎで部屋の酸素を全部、一人で吸ってその人は酸欠で死んだとか?」
「考えられる!大口開けたら吸い込まれそうだもの」
と、周囲を取り巻く冷たい視線を感じない玉ちゃんは、声を上げて笑ってしまった。するとそこに魚にされた茉莉さん反撃せんと前を固めた制服男達を押しのけて声を上げた。
「わたしゃ、何なの。人じゃなくて妖怪か。それとも物の怪か、魔性の類か。しっぽでもあると思っているの!」
その言葉に玉ちゃんは言葉を返した。
「あるでしょ。しっぽ、隠さず出せ」
「あるわけ無いでしょ。そんなもの!」
茉莉さん、怒っていると分かるドスの聞いた声を放った。
6、殺人事件、犯人は茉莉さん?!
喋り放題の一家の前に黒服のおじさんが立つと、申し訳なさそうに言った。
「この席に座っていた五十代の男性が突然死されたのですよ。死因がはっきりしないので‥。そこで一緒に座って話をされていたのが茉莉さん、娘さんですね。詳しいいお話を伺っている途中でして」
「殺人ですか?」
「いや、なんとも‥。殺人と自殺の両方で調べていきます。ご協力願えますか?亡くなられる前に紀本(きもと)大(だい)吾(ご)氏と一緒に二時間過ごされていたのは娘さんただ一人です。できればもっと詳しくその時の事を聞きたいのですが良いですね」
優しい口調のおじさんは強い眼差しを玉ちゃんに向けた。やっと玉ちゃん一家はその場の雰囲気を掴んだのだった。しかし、一人ミカさんだけは違った。玉ちゃんのその袖を引っ張って言った。
「あたしゃ、腹が減ったよ。アイスクリームが食べたい。買うとくれ。食べなきゃ、死んじまうよ」
その言葉を聞いた玉ちゃん、ウッと息を詰めた。
右前方角度九十度、視線がゆっくりとスローモーションでミカさんを向く。口の周りに黒い物体を口紅の如く塗ったミカさんを睨み付けた玉ちゃんは怒鳴る。
周囲の視線が玉ちゃんを注目している現実を、玉ちゃんは脳裏から消した。
「今朝あげた、小遣い五千円は何処に行ったの?五千円だよ、五千円!私の一ヶ月の小遣いだ。何に使った!」
怒りに変化した顔が、火山噴火の勢いで叫んだ。叫びをもろに受けたのは黒服のおじさんだ。
ミカさんと茉莉さんは椅子に仲良く座っていた。その前に玉ちゃんと純君は立っていた。そこに刑事であるこの黒服のおじさんが割り込んで来ていたのだ。
ちなみにおじさんは、後で名刺を出した。その名刺には大石蔵之介と書かれていた。そのまま呼んではいけない。
大石蔵(おおいしくら)之(ゆき)介(すけ)さんだ。発音に間違いがあってはならないと、苗字と名の間は確かに空欄がありフリガナもふってあった。
名前は大事だ、と玉ちゃんは知っているが、今大事なのはお金の行方だ。
金は何処へ消えたと怒鳴る玉ちゃんは、ハイヒールを履かない。背が高いからだ。大女と言われたく無いとスニーカを履く。今も履いていたが、それでも大きい。この大石蔵のおじさんは背が低い。はっきり言って百五十センチ+αであろう頭ひとつ玉ちゃんが勝っていた。横幅はおじさんの勝ち。
その大石蔵氏の頭の上から玉ちゃんは怒鳴る。
「その口の周りに付いているのは、チョコレートでしょう!チョコアイスを幾つ食べたの?この二時間で何十個食べたの!今日は日曜日よ!腹壊しても、病院は締まてるわ」
「この山の中に病院って、あるの?ここ僻地よ。あっても診療所よ。週一回の診療だわ」
と、茉莉さんがにぎやか声で言う。そこに純君が割り込む。
「週三はあると思う」
そんなのでは病気になった人が困ると宗次郎くんが玉ちゃんに歩み寄っていった。
「毎日午前だけはやっているよ。島もそうだもの」
「それじゃ、島よりここが僻地って事!」
何故か満面の笑みでいられる茉莉さんが言った。
「いや、ここの方が都会。アイスクリームが何時でも食べられる」
悲しい顔を作った宗次郎君はそう言った。その言葉に驚いた皆の視線が宗次郎君を向いた。その視線を代表して玉ちゃんが口を開いた。
「ヘッ、島ってアイスクリーム屋がないの?」
「あるよ。ある。船が着いた時、皆で自動販売機まで買いに行く‥」
すごい僻地に住んでいると感心したのは、玉ちゃんでは無かった。黒服の団体さんもホテルで働く人も同じだった。彼等は口には出さなかったが宗次郎くんに同情の眼差しを送った。そしてラッキーな宗次郎君は参考人茉莉さんとその母親が事情聴取をうけている間に無料のアイスをしっかり頬張ったのだった。
さて、刑事さんの名刺を見た玉ちゃんは大石蔵刑事の事を、何故か十津川刑事と脳裏にインプットしてしまった。
「二時間も仲良く喋っていたと言うことは、お知り合いだったのですか?」
大石蔵氏はそう茉莉さんに聞いた。ついでに玉ちゃんも茉莉さんに聞いた。
「あんたって、おっさん好きだったの?」
「たまたま、同じ椅子に座っただけよ!」
「それだけで二時間も二人ですごしたの」
玉ちゃん呆れ顔で茉莉さんを見た。茉莉さんしおらしく肩を落として坐わり俯いた。
「どんな話をされましたか」
と大石蔵刑事が言うと玉ちゃんが通訳に入った。
「何喋った?」
「野草の話。おじさん頷いて聞いていた。それから缶詰の話をして、バター、ヨーグルト、チーズの作り方、ご飯の炊き方、水スパゲッティのやり方とか色々‥」
「それって、あんたが一方的に喋りまくっていたんじゃないの!」
と、玉ちゃんは怒鳴った。
「そうかもしれない」
と、茉莉さんは少ししょげた。
「良くまあ、初対面の人とそんなに喋れたわね」
呆れたと玉ちゃんは茉莉さんを鋭く睨んだ。すると茉莉さんはボッソと言った。
「初対面じゃないよ。前に合った」
「会った?私、知らないよ!紀本大吾、五十前後の恰幅のいい中流家庭の男の人って、記憶の宮に存在しない」
ミカさんの居なくなった席に座った玉ちゃんはきっぱりと言った。すると茉莉さん真っ直ぐに玉ちゃんを見つめると真剣な眼差しで言った。
「一昨日の夜に会った」
7 やはり、茉莉さん人ではない
「わしゃ、腹が減った。飯にしてくれ!」
広いロビーは、静まり返っていた。その中で、奇声に近い叫びを上げたのはミカさんだ。
ロビーに休憩用の長椅子が小さなテーブルを挟むように幾つが並んでいた。天井の高い明るいフロアだ。角の二面のガラス窓から殺風景な緑の中庭が見えた。そこから遥か遠くの春の山並みがすっきりと見渡せた。
茉莉さんとミカさんが座る長椅子は一番奥のガラス窓の前にあり外からの光で溢れていた。そこから玄関、フロント、売店と一望できた。
玉ちゃんはミカさんの叫びを無視すると、何時までも立っていたくないと直角に置かれた椅子の端に座った。そこから真っ直ぐに前を見ると、黒文字でフロントとカタカナ文字の大きな銀色プレートが眼を惹く。見たくないのに勝手に目に飛び込んできたその文字の下に立つ人の姿を数え、瞳を右に四五度ずらした。そこに玄関入り口がある。人の黒い塊があった。野次馬だと玉ちゃんは理解した。更に眼を四五度動かすと売店が見えた。今度は眼だけでは無く身体全体を店の方に向けると、店前にソフトクリームの看板が立っていた。
一個三百円成。バニラ、チョコ、ストロベリー、抹茶。定番が文字となって並ぶ札も掲げてある。
「ソフトクリームは、どれが美味しかった?」
と玉ちゃんは隣の長椅子に座る茉莉さんに聞いた。
「抹茶!」
と、茉莉さんは答え、ミカさんは全部美味かったと言った。
「そうかい。所で紀本さんとポテちゃんは、何時あったの?」
ポテちゃんとは玉ちゃんが付けた茉莉さんのあだ名だ。ぽってりし過ぎた身体を似合う名が良いとそう呼んでいた。だが茉莉さんの方はワテちゃんと言っている。
「一昨日、玉ちゃんが吐いた日。大きな道路の薬屋さんにいた。トレーナーの上下と黒い革ジャンを着てた」
「へっ、覚えているの?ポテちゃんらしくない。空想世界に住んでいる貴方が人間社会を理解できているの?」
「私は妖精です。全て見えます!日頃見ようとしないだけ」
ヘッと玉ちゃん息を飲む。
「妖精って小ちゃいんだよね。掌サイズ」
と、純君が玉ちゃんの横に座ると言った。
「突然変異の妖精っているのよ。いた方が良いでしょう」
と夢見心地で茉莉さんは言う。
「誠に申し訳ないのですが、妖精さんともう少し話をしたいのですが‥」
やはり申しわけなさそうに大内倉刑事がまた茉莉さんに声を掛けた
「一昨日の夜に会ったと言われましたが、そこで会話されましたか?その時の事をもっと詳しく教えてください」
大内倉警部は丁寧な言葉を使ってはいるがその顔は眉間にしわ寄せ奥歯を噛み締めた声を出している。
玉ちゃんは気づく。タマ家の会話にしびれを切らしたと。
「では、本題にはいりましょうか!」
玉ちゃんは鋭く言った。そして、玉ちゃんから離れた人混みに紛れて立つ宗次郎君を呼んだ。アイスクリームを両手に持った宗次郎君は満面の笑みを浮かべて玉ちゃんの前に立つと、貰ったと言った。
タダ好きの玉ちゃんはにっこり笑う。そしてアイスクリームを美味しそうに食する宗次郎君は情報もしっかり貰ってきていた。
「隣棟の湯治宿で一週間の連泊している五十歳の男性。何時も一人で、年に四回は宿泊する常連客。玉ちゃんが座っている席で倒れた」
「ここ!」
玉ちゃん慌てて立ち上がったおしりの下に白い紙が貼ってあった。玉ちゃんは何気ない顔で純君と席を交代すると、眉を逆立て茉莉さんを睨む。
そこへ腰を屈めた大内倉警部が身を乗り出して茉莉さんに聞いた。
「今日の九時から十一時まで、紀本大吾氏と一緒でしたね。その時、紀本氏はどんな感じでした?」
「感じ?感じは聞いてないけど、黙って聞いて頷いていた」
ゴホンと咳払いした大内倉警部、それからと聞く。
「一昨昨日の夜はポロシャツだった。ピンク色の綺麗なシャツ。色の黒い人ってピンク色が似合うんでよね!」
と、デカイ声で笑った茉莉さんは、警部の渋面が眼に入らない。
「一昨昨日も合われたのですか?紀本氏はどんな会話をされましたか?言葉です。貴方を見て挨拶されましたか」
う~んと、答える茉莉さんを見ていた玉ちゃんは大内倉警部を鋭く睨んだ。警部はその視線を鋭く察知すると身を引いた。警部の五感が寒気を感じたのだ。はっきり言って、ビビったと純君は思った。純君も玉ちゃんの睨みには身が凍る。それは茉莉さん似の性格にあるのだ。
「相手のおじさんは今、純君が座っている所にいたのね。では、おじさんは何時からそこに座っていたの?」
玉ちゃんは険しい視線が警部を睨む。そのまま身を引く警部に玉ちゃんは言う。
「十津川警部!」
大内倉警部、何故か返事した。大きな声でハイと。
「私がここで本を読んでいたら、おじさんが座った。おじさんはおはようございますって言った。ございますって、いわれたから私も、おはようございますって答えた。おじさんはそこに座ると何もせずにジッと座っていた。だからおしゃべりした」
フンフンと玉ちゃんは聞く。茉莉さんの隣に座るミカさんは静かに座っているかと思えばもう寝ていた。その姿を一瞥した視線が警部を見た。警部はゴクリと唾を飲んだ。
「と言うことは、紀本氏は自分の足で歩いてここまで来た。挨拶もできた。と言うことは、十津川さん!」
と玉ちゃんは考える。大内倉警部も十津川さんになって考える。
「持病を抱えていたか、自殺ですか?」
「所持品に薬系統の持ち物は無かったので、自殺の可能性があると‥」
「だが動機がない‥。それも、こんな所で、変な女の子の前で死ぬか?考えられない」
「考えられます。くまのように迫力ある妖精に睨まれたら恐怖にかられ、絶えられなくなった。心臓が苦しいと」
純君が胸を掴み断末魔を演じたが、冷たい皆の視線が降り注ぐ。寝ているミカさん以外の視線が。
「座っているのが嫌なら、なぜそこに座っていたのよ。他にもたくさん椅子はならんでいるでしょう。歩いて来た人は歩いて場所を変えるわよ。なぜ、最後までそこに居たの。変だわよね、十津川さん」
その通りだと言いたい人達が必死の形相で真実を知りたがっていると、宗次郎君は玉ちゃん達から離れた長椅子で一人座った。そして静かに、聞き耳を立てていた。
「確かに変です。明日まで連泊の紀本氏が背広姿でここに座っていた。何処かに出掛けていくのかと思えば、タクシーを呼んでもいない。フロントも外出の予定も聞いてなかった。誰かを待っていたのだろうかと思ったが誰も訪ねては来ない。この騒ぎだ。驚いて帰った可能性もあるが‥」
「家族の方は?」
「連絡は取れました。不動産業を営んでおられる息子さんが、駆けつけてくれるとのことですから‥。ここからでしたら、五時間ぐらいの距離ですから夕方までには来られますかな。我々もそれまでに各自の事情聴取を終えて病院へ向かわなければなりません」
「えっ、十津川さん行ってしまうの?」
と、玉ちゃん悲しそうな顔を作った。
「解剖所見を聞きに行かなければならないので‥。これで失礼します。え~と、タマキさん‥」
「タマ・タマです。十津川さん」
「あの~、十津川では無くて大石蔵ですが‥」
「警部さんでしょう?」
「はあ、警部ではありますが‥十津川では‥」
と言いながら大石蔵警部はフサフサではない髪を掻きながら頭を下げた。
玉ちゃんは十津川警部を知らない。テレビは見ない。本は読まない。ただ、趣味の様に仕事を毎日休まずにする。休みは子ども達のためにとると決めていた。
お父さんのように家庭サービスをするこの玉ちゃんの頭に十津川警部が入り込んだのは玄関入り口から真っ直ぐにフロントに続く壁に本棚があったからだ。その本棚には、シリーズ物が並んでいた。昨日の到着時にしげしげと本棚を見入った玉ちゃんは、物珍しげに本の色合いを楽しんだのだ。その時から事件物のその似顔絵が頭に張り付いたのだ。そしてここに現れた警部さんとシリーズ物の警部をいとも簡単にすり替えてしまったのだ。
ちなみにこの旅館、名を売るためにその本を置いていたのだがこれ以後別名が付いたのだがそれは恐ろしくて誰も言えない。しかし、客足は増えたのだ。それは‥‥。
大内倉警部、ため息を付きながら踵を返す。玉ちゃんは立って見送った。茉莉さんも純君も立ち上がると、その揺れで眼を覚まさなくても良いミカさんが眼を覚ましてしまった。それに気づいた玉ちゃんはしまったと思ったが遅かった。ミカさんは玉ちゃんが想像した言葉を、周囲を気遣うこと無く言い放った。
「飯はまだか。ハラ減ったぞ」
周囲の人が振り返る大声を上げたミカさんを玉ちゃんは肩を怒らせて睨む。だがミカさん、平然と玉ちゃんを睨み返した。
あだ名が十津川さんになった警部さんは、こことばかりに退散の合図を送ると玄関へそそくさと向う。
黒服を着た集団は玉ちゃん一家が持つ独自性を理解出来ずに立ち去ったのだが、それから一時間後Uターンして帰って来ることになるのだ。それを知らない十津川さんを見送る玉ちゃんは何故か心が悲しい。ミカさんの腹減ったと繰り返す音響など耳に入らず見送る。
警部の足は軽い。やっと奇妙な雰囲気から開放されたのだ。二度と絡まれてはならない今は立ち去るが一番と、猛スピードで山間を走り去るがまた玉ちゃんの前に立つのだ。
そんな事など予期しない茉莉さんは玉ちゃんの服を引っ張った。
「玉ちゃん、さっき思い出したんだけど‥」
と、茉莉さん小さな声で言った。
「昨夜もレストランで見た」
「レストラン!」
玉ちゃんは眉を上げた。その意味は、茉莉さんは食べる事が大好きだ。異常なほど、食べ物に集中する。食べ物以外に興味を示さないのだ。それが周りの事を覚えているとは不可解だと玉ちゃんは思ったからだ。
「どういうことよ。貴方が死んだ人をそこまで覚えているって、どういうこと!」
玉ちゃんは声をあげる。
8 植物は毒物
「一昨日の夜に会った。レストラン」
と言った茉莉さんは、フロント横にある入口を指しポツリと言う。
「一人だった」
その言葉に、玉ちゃんの脳裏がピクリと波打った。茉莉さんの呟きが何故かノイズのように響いた。
すると、ここで宗次郎くんが登場する。アイスクリームを二個もごちそうになった宗次郎君は、温泉町の陽気なオバ様方とすっかり意気投合して紀本氏の情報を聞いてきていた。
「そう、なんだって。湯治棟の連泊のお客様で一人は珍しいんだって」
と、茉莉さんと玉ちゃんの間に入り込んできた宗次郎君、いつもはとてもおとなしいのだ。が、今は違った。アイスクリームで酔っ払ったように陽気に喋り始めたのだ。
「湯治棟の男性一人客って、珍しいんだって。たいていは夫婦二人か、女同士のお客さんが二泊か三泊ぐらいで帰るけど紀本さんはいつも一人で一週間は泊まっているんだって」
一週間のお泊り!――金持ちだ!と、玉ちゃんの眉宇が大きく動いた。
玉ちゃんは金に執着しないが金持ちは好きだ。顔がほころんでしまった。しかし、直ぐに現実に戻ってしまう。金に執着が無いので今日があれば、明日を夢見ない玉ちゃんは昨日を振り返る。
玉ちゃんの聞き間違いでなければ、一昨昨日茉莉さんの手料理で大変な目にあったあの夜、紀本氏は薬局にいたはずだ。それも女連れで。いや、女性と一緒だった。茉莉さんの眼がマトモならばだが‥。
人の認識が丸だったり白かったり黒かったりと表現する茉莉さんは、人を物体と間違っている時が常だ。玉ちゃんの事をなんと認識しているのだろうと聞いたみたいが、人参と言われたらどうしようと思うと聞けない。
「昨日の夕食は、八時がすぎていたよね。レストランは空いてたけど玉ちゃんが荷物片付けるのに遅くなったから、入り口の椅子で座って待ちましたね。オジさんにそこで話をしたの?姉さん」
「見ただけ。私達が店に入る時、お金を払っていた」
「それだけで覚えていたの?違う人じゃなかった?」
と、玉ちゃんは言うと茉莉さんむっとした顔つきで言う。
「臭いが同じだった。石鹸の臭いじゃない、玉ちゃんと同じ臭いがした。線香の臭い」
「線香臭い!線香じゃありません。アターです!」
玉ちゃんは気を悪くせずに、堂々と頷きながら言う。すると、そこで声を上げるのはミカさんだ。
「わしも、線香より団子が良い。それより腹減った。蕎麦が食いたい。ここの蕎麦は美味かった。早く昼飯にしてくれ」
「エッ、蕎麦!お小遣いでアイスだけでなく、蕎麦も食べたの!」
と、大声を上げたのは茉莉さんだ。
あんた側に居たのに気づかなかったのかと、玉ちゃんは冷たい視線を茉莉さんに向けると立ち上がった。そして向かったのは昨夜も食事をした和風レストランだ。そしてメニューも見ずに日替わり定食五人分を注文した。それから宗次郎くんに聞いた。
「不動産業を営んでいる息子さんが一人。隣棟の湯治宿で一週間の連泊している五十歳の男性。何時も一人で、年に四回は宿泊する常連客。明日まで連泊の紀本氏は背広姿でここに座っていた。何処かに出掛けていくのかと思えば、タクシーを呼んでもいない。フロントも外出の予定も聞いてなかった。誰かを待っていたのだろうかと思ったが誰も訪ねては来ない」
「この騒ぎでもの、びっくりして帰ったんじゃないの」
「知り合いが死んだと知って帰っていくか。気になって名乗り出るさ」
そうだねと頷く、宗次郎君は更に言う。
「あのオジさんね、いつもは朝食だけはレストランですませるんだって」
「朝食!昼と夕は自炊なの?」
「そうだってさ。湯治棟は自炊出来るように設備があるって聞いた。いつもは自炊で、昨夜だけは珍しくレストランを使った」
「昨日だけ?」
「昨夜は食事とビールとつまみを頼んで、飲んで帰ったって。具合悪そうには見えなかって、おばさん達が言ってた」
ランチを前にして手を合わせる宗次郎君から視線を向けた茉莉さんに玉ちゃんは囁いた。
「どうして、紀本さんと同じ椅子に座ったの」
「あそこの席だけが入り口を向いていたからよ。言っとくけど、私の方が先にあの席に座ったのよ。オジさんは後よ」
「紀本さんの方が貴方に話しかけてきたの」
「そうよ。おはようございますって言って、座った」
玉ちゃん達、食事を終えて再びロビーに戻ってきた。紀本氏が座っていた場所に再び座った玉ちゃんは、宗次郎君の情報を聞いる
「おじさんの所持品は財布と腕時計と携帯電話。お荷物はボストンバック一つにお着替えたっぷり。洗濯物は一切なかった。財布の中身はたっぷり五万二千七百三十二円。(玉ちゃんの財布は、二千円と小銭が三十二円―。献血カード一枚。)レシート三枚、昨夜のレストランと売店と近くの食料品店、それぞれ一枚ずつ。クレジットカード四枚。キャッシュカード三枚。献血カード一枚。診察券が二枚、写真が一枚。後名刺入れ‥」
「常備薬は無かったのね」
と、玉ちゃん。
「でもね。姉さんが欲しくなりそうな本が二冊あった」
「エッ、何!植物図鑑?それとも毒薬の作り方」
玉ちゃんは横にデッデンと座った茉莉さんをチラリと見て言った。毒薬と聞いた宗次郎君はびっくりして日頃イベリコ豚だと思っている茉莉さんを見て叫ぶ。
「ひえっ、毒薬!姉さん、玉ちゃんにゲロしたのって毒薬を試したから?」
「もしかして、あのジャスミン茶って、動物実験?もしかしたら玉ちゃんの事、ネズミとまちがえてない」
と、純君が嬉しそうに茉莉さんを見た。
「そんな事ありません。それに市立図書にある毒物、毒薬の本は中学時代に読破したわ。今はマトモよ。決して人間の脳みそが食べたいなんて言いません!ビデオの見過ぎと言われるの、嫌だから」
「脳‥」
宗次郎君は絶句するが、純君は至ってまともに茉莉さんの会話についていける。口を開けたままの玉ちゃんを挟み純君と茉莉さんは賑やかに語り合う?
「そうだよ。姉さん。なんとか教授の心理は根が深くて分からないし、それにキモいよ。猿の方が良いよ。コザルの脳みそ。あれは何のビデオだったかな。見るんだったら単純な明解が良い」
「単純だったら、面白くない。血肉踊る、心が凍りつく複雑ドロドロが良い」
その言葉を聞く宗次郎君はもしかしたら殺人犯人は存在して、目の前に居るのではないかと茉莉さんを見詰め喉を鳴らした。そしてこれから連続殺人事件へと、発展するのではないかと背を震わせた――。
「ホラーを見るんだったら深夜だよ。電気を消して服を脱いでシーツ被って、一人で観る。良いよこれ、背中がゾクゾクなる。宗次郎もやってみろよ」
と、純君が宗次郎君に寄り添い声を絞っていった途端、宗次郎君は耳を塞ぐ悲鳴を上げミカさんの背に隠れた。ミカさんの座高は低いが横幅は十分にある、宗次郎君の顔は安全地帯に完全に隠れた。その姿に純君は更に叫ぶ。
「帰ったら一緒に見ような。起こしに行くよ」
宗次郎君はヒエェ~と声を上げた。それを面白がる純君にミカさん言う。
「来るんだったら、わしの部屋にしな。ベッドは広いぞ」
その言葉が無言の場を作った。広いロビーはしばしの沈黙となった。
ホラーが怖い宗次郎君ではないと、玉ちゃんは知っていた。
怖いのは真夜中に出没する裸体のシーツ男のほうだ。音もなく廊下を歩き、他人の部屋を覗く白い物体が春と夏と正月に出没する。
玉ちゃんでも確かに恐ろしいと思っていた。かの厳かな名前の寮の夜半はどんな者が出没するのか、十月の寮を体験したいと玉ちゃんは心密かに想い巡らしていた。そこへまた茉莉さんのデカイ声が響く。
「オジさんは春の山歩きが気に入ったって!春の野草の本を見ながら薬局で言っていた。おばさんが草アレルギーを起こしたから、薬を買って帰った」
すると、玉ちゃんはそのデカ声を避けるように聞いた。
「そう、昨夜は何を持っていた?」
「イヌサフランの葉っぱ」
「エッ!! 」
玉ちゃんは弾けるように立ち上がるとフロントに向かって叫んだ。
「直ぐに十津川さんを呼び戻して!」
9、奇妙な災難にさよなら完結
フロントの人は即座に電話を掛けた。だが、フロントの人も玉ちゃんの真剣な顔に十津川警部、カムバックと言ってしまったのだ。
それでも田舎派出所は、敏腕おまわりさんが居るのだ。指名された存在しない警部を探したのだ。そうだ、十津川警部ではない大内蔵警部を探し当てた。
あっぱれな田舎派出所職員は、そしてラブコールを送ったのだ。
怪事件新たな展開があったと――。
大内蔵警部にとってこの日は厄日であったことを玉ちゃんは知らない。偶々の偶然で田舎警察署を訪れていた彼は奇妙な事件と聞いて駆けつけた。だが、奇妙な難事件を解決するはずが奇妙な災難を、解決しなければならなくなったのだ。
大内藏警部は眼下を見下ろす山道が大嫌いだったのだ。玉ちゃんは大好きだが、悲しいとも言えるホテルからの緊急連絡は大内倉警部を不幸に追いやったのだ。やっと抜け出た、曲がりくねった素晴らしく眺めの良い崖道は、再び彼を招いたのだった。
幹線道路に出たとホッと息をついた時だった。携帯がなったのだ。カムバック指令が下りた大内藏警部は、狭い断崖コースをまた泣かなければならなかった。だが素晴らしいことに大内蔵警部が玉ちゃんの前に立った時事件は解決していた。
「洗濯物を届けに、行かなくても良いのですか?」
玉ちゃん沢山あるロビーの長椅子に、一人座る女性の横に腰を下ろすとそう言った。両手に白い手袋をはめ、膝に荷物を抱えた玉ちゃんより若いその女性は、丸顔のふっくらとした顔を上げた。怯えたような瞳が何かを言おうとしたが言葉は無かった。
「ここに居るより行ったほうが良いと思いますよ。紀本氏も貴方が来られるのを待っています」
「私を‥」
「今,、紀本さんは背広を着てはいませんよ」
「!」
「お付き合いは、長かったのですね」
玉ちゃんは横に並んだ女性をちらりと見た。女性は俯いたまま、紙袋を抱え込んでいた。
「紀本氏は貴方に逢うためにここに来ていた‥そうですね」
一瞬動きを見せた女性はそれでも口を開かず、何も語らない。すでに騒ぎの収まったロビーの長椅子にちらほら人の姿があった。
玉ちゃん達はすでに帰路につく時刻だ。早く帰りたい純君はフロアを歩き回っていた。ミカさんは入り口に近いソファーでボォーと座っていた。荷物を抱えた茉莉さんがドカリと玉ちゃんの隣に座ると直ぐに口を開く。
「山歩きって気をつけないと色々な物にかぶれるから、ワテは行きたくないのよ。純君たら、いつも半袖だから草負けしてるのよ。伝染らない?」
「伝染りません!うるさいです」
あっそうと言うように茉莉さんは立ち上がりかけた女性を見た。そして大声で叫んだ。
「あっ、薬局で白い腕になった人!」
そう言った茉莉さんを睨むしかない玉ちゃんは言葉を続けた。
「人生は柵が多い、ですね。ふたりとも独身でも、同じ道を歩けない。お子さん達に反対されていたのですね。だから、合図を作った。背広を着ている時は、誰かが来るから会えないとか、普段着でも腕時計をしていない時は他人のフリをしろととか‥」
俯いたままの女性は、ハイと言った。そしてゆっくりと言葉を放つ。
「ええ、そうです。今日は朝から、逢う約束でした。でも、いつもの席に座る姿が背広姿だったので息子さんが来ると思って帰りました。でも、騒ぎが‥、近所の人達がホテルで殺人があったと、騒いでいたので来たのです。やじうまに紛れて‥、帰れなくって‥、あの人が死んだなんて、信じられない‥」
「昨日は一緒ではなかったのですね。紀本氏は一人で山歩きに行って、野草を採って帰って来た」
「はい、美味しい野草があったから今日は一緒に行こうって、携帯がありました」
「美味しい野草‥か。天国に行ける野草‥、そう願ったのかもしれませんね」
「願う‥、あの人が、自殺‥」
「事故ですよ。でも、心臓が悪かったはずですよ。そろそろ薬を飲んだ方が良いと言われていたのではないのですか。臭いアレルギーの娘が側に座っていられたと言うことは、紀本さんは喫煙者ではないと分かります。それに用心深い人の様子、健康管理はきちんとやっておられたでしょうに」
「はい、運動と食べ物には特に気をつけてました。私にも何を食べろとか、これが身体に良いとか‥言って、買ってきてくれて‥一緒に‥」
涙声が涙にまみれて言葉を失くした。
「彼が待っていますよ。行って下さい。息子さんはもう何も言いませんよ。だって、紀本氏はあなたの事だけを考える人になったのですから」
これで息子さんは赤の他人に財産を奪われる心配をしなくても良くなったのだ。文句を言わずに彼女を紀本氏に合わせてくれるだろう、今日だけはと玉ちゃんは思った。
玉ちゃんは正面入口に立った大内藏警部の姿を捕らえると大声で、十津川さんと叫んだ。
「直ぐにこの方を紀本氏が収容された病院へ連れてあげて!」
その言葉に、大内藏警部の顔が青ざめた。再び絶壁断崖の細い山道を走らなければならない、そう思った大内藏警部は全身が凍りついた。しかし、玉ちゃんにはその表情は感じ取れない。それに気づいた宗次郎くんだけが刑事さんにはならないと心に決めた。変人を相手に辛抱強く根気よく振る舞う仕事には就かなと固く決めた。
「今病院から電話が入りました。紀本氏は中毒死だそうです」
気をとりなおした大内藏警部はそう言った。
「そうでしょうね。具合が悪いのをおして、このロビーまでやってきた。大切な人が入ってきた時、直ぐに見える場所に座ったが動けなくなった。もともと心臓疾患のある方だ。手足がしびれて動けなくなった、そしてパニック、心発作」
大内藏警部は何も言わず、玉ちゃんの言葉に頷いた。そして立ち上がると行きましょうかと、覚悟を決めて言った。そして、踵をかえした。もちろん玉ちゃんに、深々と頭を下げてだ。
玉ちゃん、 誕生日記念 春日和シャイな事件 完
玉ちゃんの華麗なる日々、誕生日記念 春日和シャイな事件