白い現 第三章 惑乱 一

白い現 第三章 惑乱 一

秋山の言葉に傷つき、未だそれを引きずる真白に、市枝がケーキバイキングの誘いをかける。

第三章 惑乱 一

第三章 惑乱(わくらん)

隔(へだ)てるものは
ガラスの一枚
たった一歩が
私を染める
白か黒

     一

 翌朝は晴天だった。
 雨の日の翌日特有の洗われたような空気が、清々(すがすが)しい一日の始まりを告げていた。
 だが、登校前に真白の様子を見に来た剣護は、真白の言葉に、清々しさとは正反対な、面白(おもしろ)くない冗談(じょうだん)を聞いたと言わんばかりの苦(にが)い顔をした。
「学校に行くだあ?」
 淡い水色のパジャマに、白い薄手(うすで)のカーディガンを羽織(はお)った真白は、ベッドに半身を起こし上目遣(うわめづか)いに頷(うなず)いた。ベッドに腰掛(こしか)けた剣護は、まじまじと真白の顔を見る。その目は「正気かこいつ」、と言っていた。目は口程(くちほど)に物を言う。
「うん。……駄目(だめ)、かな」
「駄目です」
 即座(そくざ)に却下(きゃっか)した剣護は、なぜか敬語になっていた。真白も無茶を言っている自覚はあるらしく、最初から態度が弱腰(よわごし)だった。
「お前、まだ熱(ねつ)もあるだろう。皆勤賞(かいきんしょう)だって狙(ねら)えないんだ。今日は一日、食えるもん食って大人しく寝とけ」
「熱なんて…、もうそんなに無いよ」
「――――――」
 目を逸(そ)らしながら反論した真白の額(ひたい)に、有無(うむ)を言わさず手を当てパッと離す。
 その手を振りつつ言う。
「熱(あつ)い。火傷(やけど)した」
 ご丁寧(ていねい)にも、フー、フー、と手に息を吹きかけるジェスチャー付きだ。
「大袈裟(おおげさ)だな……」
 呆(あき)れた顔をする真白に、剣護が輪をかけて呆れた顔をした。ジロリ、と一睨(ひとにら)みして遣(よこ)す。
「熱があるのは本当だろう。俺はもう行くぞ。――――――ついでに秋山の様子も見て来(き)といてやるから、お前はゆっくり休むんだ」
 秋山、と言う名前に、真白がぴくりと身体を揺(ゆ)らす。
「放課後、荒太たちに見舞いに来るよう言っとくよ」
 真白の動揺(どうよう)を見なかった振りをして、剣護がポンポン、とその頭を軽く叩(たた)いた。
 今日は祖母の一人が在宅(ざいたく)だが、茶道(さどう)や華道(かどう)の師範(しはん)を務める身では、稽古(けいこ)が無い日でも色々とすることに追われて、真白の看病(かんびょう)に専念(せんねん)することもままならない。学校が終わり、荒太たちが来るまで一人だと思うと、寂(さび)しいものがあった。長時間一人になるのが嫌で、つい我(わ)が儘(まま)を口にしたのだ。
熱があることも手伝い、真白は心許無(こころもとな)い顔になっていた。
その顔を見て、剣護が心中(しんちゅう)で唸(うな)る。
(全く…寂しがり屋なところは、若雪ん時から変わってねーな)
 剣護はうっかりほだされそうになる自分を戒(いまし)めた。
「―――――――荒太がな」
「え?」
「荒太が、秋山に対して随分(ずいぶん)腹を立ててたよ。お前に浴びせた罵声(ばせい)が、許せなかったんだろう」
「…それは、」
 真白が首を力無く横に振る。
「それは、秋山君が悪い訳じゃないよ…」
「ああ。あいつも理屈(りくつ)じゃ解ってるさ。それでも、お前が傷ついたことに変わりは無い」
「………」
 じゃあ俺は行くから、良い子にしてろよ、と子供に言うような言葉を残し、剣護は部屋から出て行った。

 一人になった真白はふう、と息を吐いた。
「………剣護のばかー。…あほー…」
 八(や)つ当(あ)たり以外の何物(なにもの)でもない言葉を、拗(す)ねた口調で言い放(はな)つ。
 言われた当人が聴けば、理不尽(りふじん)だと言って抗議(こうぎ)すること必至(ひっし)である。
 剣護が去ると、急に部屋が静かになった気がした。コロン、とベッドに仰向(あおむ)けに寝転(ねころ)がると、枕元(まくらもと)に座るテディベアが逆(さか)さまになって目に映った。
 身体を反転(はんてん)させ、腹這(はらば)いになる。
「…一緒にお留守番(るすばん)だね。小太郎(こたろう)」
 そう言って、その茶色い鼻をチョン、とつついた。
 剣護と怜、市枝の三人から誕生日プレゼントとして贈られたテディベアの名前に関して、真白と剣護は色々ともめたが、結局真白は「小太郎(こたろう)」と名付けた。それを聞いた剣護は、「ネーミングセンスが無い!!」と言って嘆(なげ)いていた。「小さい太郎兄」、という響きがして可愛(かわい)いじゃない、と真白は言ったのだが、「猶更嫌(なおさらいや)だよっ」と言ってそのフォローは一蹴(いっしゅう)された。難しいものだ。ぬいぐるみを愛(め)でるにはもういい年頃だが、真白は小太郎のつぶらな瞳に癒(いや)されるものを感じた。
(若雪として、労咳(ろうがい)で寝込んでいた時は、ぬいぐるみなんて無かったものね…)
 労咳、今で言う結核(けっかく)の初期にあった若雪は、まだ症状もそれ程顕著(けんちょ)でなく、かなり暇(ひま)を持(も)て余(あま)していた。嵐は彼女の性格を知り抜いた上で、無理をしないように常に目を光らせていたものだった。
「かわいいくまちゃんですわね。小太郎ちゃんって言うんですの?」
 いきなり耳横で聞こえてきた声に、ぎょっとする。しかしそれは、聞き覚えのあるものだった。一度聴いたら忘れられない、とろける蜜(みつ)のように甘い声。
 ふわふわとした若草色の髪を、肩程まで伸ばした女性が、にこやかな笑顔で立っていた。
「………木臣(もくおみ)さん!」
「はあい。御機嫌(ごきげん)よう、雪(ゆき)の御方様(おんかたさま)」
 そう言って甘い美貌(びぼう)の女性は、優雅にお辞儀(じぎ)をすると晴れやかに微笑んだ。

「どうして、ここに…?あ、結界内(けっかいない)なのに、よく入れたね」
 木臣はにこり、と笑う。
「理(り)の姫様(ひめさま)はもちろんのこと、私たち花守(はなもり)は、禍(まが)つものとは正反対の存在ですから。それを防ぐ為の結界は、用(よう)を成(な)しませんわ。それに、神域(しんいき)に神が歩(あゆ)み入(い)るのに、何の不思議がありましょう。それから真白様、私共のことは呼びつけで結構(けっこう)ですのよ」
 そう言って、木臣はその先を言おうとはしない。
 どこか催促(さいそく)するような、輝くような目で真白を見ている。
(ひょっとして)
「―――――…マリアージュ・フレールの、マルコポーロ・ルージュ?」
 パッと木臣が顔を輝かせた。
 明臣(あきおみ)に紅茶の味を教えたのは、どうやら木臣のようだ。そして真白の家でそれを飲んだ、と更に明臣が木臣に伝えたのだろう。
「まあ、いただけますの?そんな、悪いですわ、有り難く、頂戴(ちょうだい)しますわね?」
 殊勝(しゅしょう)なのか図々(ずうずう)しいのか、よく判(わか)らない言葉で、木臣は喜びを示した。真白はただ茶葉(ちゃば)の名を挙げただけなのだが、彼女の中では既(すで)に、紅茶を提供(ていきょう)してもらえるものと決まっているようだ。両親の帰国の為に買った紅茶の茶葉は、まだ残っている。
(うちは喫茶店(きっさてん)じゃないんだけどな…)
 そう思いつつ、祖母に頼んで淹(い)れて来てもらった紅茶に、木臣は相好(そうごう)を崩(くず)した。その顔があまりに嬉しそうだったので、真白も苦言(くげん)を呈(てい)する気を無くした。
 最初、真白は木臣の存在を祖母にどう説明したものかと頭を悩ませたが、どうやら祖母には木臣が見えていないらしく、部屋には真白一人と思っているようだった。
(やっぱり神様なんだなあ)
 熱でぼうっとしているのも手伝って、真白は変な感心の仕方をしていた。
ティーカップを見て、木臣が目を細める。
「ウェッジウッドですね。素敵(すてき)だわ」
「…詳(くわ)しいんだね」
「私、およそ芸術(げいじゅつ)の全般(ぜんぱん)に興味がありますの」
 指先を唇に当て、ふふふ、と笑いながら木臣は言った。
 そのティーカップは真白が、去年の誕生日にコーヒーカップと一緒に両親から貰(もら)ったプレゼントだった。
 優雅(ゆうが)な所作(しょさ)で紅茶に口をつけながら、木臣が本題に入る。
「雪の御方様におかれましては、御心痛(ごしんつう)と御発熱(ごはつねつ)の御様子、と理の姫様が大層(たいそう)案じられまして。それでお見舞いに私が参上しましたの」
「そっか……」
 木臣が口にする敬語の連発に、どこか落ち着かないものを感じながらも、そういうことか、と真白は納得した。
(光(こう)―――――…)
 守るつもりが、逆に心配をかけてしまった。
「ありがとう、木臣」
 胸をそらして、誇らしげに木臣が答える。
「いいえ。真白様が回復されるまでは、私、真白様のお傍(そば)を離れないように、御命令を受けておりますの。私がおりますからには、寂しい思いなどさせませんわ。ご安心を」
 上品な口調とは裏腹に、どこかパワフルなこの女性に、真白は思わず笑ってしまうような安心感を覚えた。
「ところで木臣、その服装って……」
 木臣が身に纏(まと)う服は、どう見てもハイブランドのものである。
「ああ、ファッション雑誌を参考に、いくつか見繕(みつくろ)いましたの。似合いませんかしら?」
 さらりと言うが、簡単に見繕えるような値段ではない筈(はず)である。一体どのようにしてその代金を用立(ようだ)てたのか、考えると妙に不安になり、真白は思考を途中で放棄(ほうき)した。
 実際、絹素材(きぬそざい)であろう品の良いベージュのジャケットと、同じ布地(ぬのじ)のふわりと広がるサーキュラースカートは、甘い美貌の木臣に似合っていた。ジャケットの下に着た、襟(えり)と、ボタンが並んだ縦線(たてせん)に控(ひか)えめにフリルが飾られたブラウスも、服装全体の調和(ちょうわ)を保っている。
「ううん。良く似合ってるよ」
 真白がそう言ってやると、木臣は嬉(うれ)しそうに微笑んだ。
 その微笑みを見て真白も口元を緩(ゆる)めたが、次の瞬間、コンコン、と咳(せ)き込(こ)む。やはりまだ頭が熱く、芯(しん)のほうがズキズキと痛い。
 木臣が真顔になり、ティーカップをソーサーに置くと、真白の額の前に手をかざした。椿(つばき)の花弁(かべん)のように色づいた唇が開く。
「癒(いや)し風(かぜ)の、そよそよと吹く」
 その言葉が唱えられた途端(とたん)、窓からではなく部屋の内側から、清涼(せいりょう)な一陣(いちじん)の風が生じ、室内を通り抜けて行った。
(あれ………)
 気付けば、喉(のど)と頭の痛みが随分(ずいぶん)楽になっている。何とはなしに両手を見る。身体全身を、涼しく、優しい風が廻(めぐ)ったような快(こころよ)さがあった。
「木臣。今のは――――?」
「言霊(ことだま)ですわ。真白様の、御身体の不快(ふかい)を和らげる唱(とな)え言(ごと)を、少しばかり施(ほどこ)しました」
「花守は、何でも出来るのね。荒太君みたい…」
 言う端(はし)から、真白の瞼(まぶた)は重くなってきた。
(…何だか、眠い……)
「この言霊には、弱った身体の回復の為の、眠りを誘(さそ)う効果もありますわ。今はお眠りなさいませ、真白様――――――――――」
 木臣の言葉が、遠ざかってゆく。

(また、泣いている……)
 暗闇(くらやみ)の中、密(ひそ)やかに涙を落とす気配がする。
 真白は声の主(ぬし)に向かい、手を伸ばす。
 けれど差し伸べた手は、払われる。
 強い拒絶(きょぜつ)の意思が闇を伝い、払われた手にまでビリビリと響いて痛い程だ。
 あなたではない、と。
 求めるのは、ただ一人だけ。
 あの人だけを、私は望む。
 あの人だけに、私は願う。
(――――何を?何を、彼に願うの?)
 その答えを、あなたは既に知っている。
 泣き声の主にそう言われ、真白は当惑(とうわく)した。
(私は知っている?…解っているのに、解らない振りをしているだけ?―――――私に、あなたを救わせてはもらえないの?)
 声は沈黙ののちに答えた。
 ――――私を救済(きゅうさい)することの意味を。
 あなたが思い出しても、尚(なお)そう言うのなら。
 尚、そう言うのなら。
 ―――――やってみると良い―――――――――。

「―――待って………」
 自分の声で、真白は目が覚めた。
「真白様、いかがなさいました?嫌な夢でも、ご覧になりまして?」
 心配そうな顔をした木臣が、真白の顔を覗(のぞ)き込(こ)んでいる。
「………悲しい夢でも、ご覧になりまして?」
 木臣がなぜそれ程、気遣(きづか)わしげな表情をするのか、真白は自分が涙を流していることに気付いてから、ようやく得心(とくしん)がいった。
「…あらちをの かるやのさきに たつ鹿も ちがへをすれば ちがふとぞきく」
 身を起こし、涙声(なみだごえ)で詠(よ)んだ言葉に、木臣は敏感(びんかん)に反応した。
「夢違誦文歌(ゆめちがえじゅもんか)ですわね」
「うん……。若雪が昔、嵐どのに教わったの」
 涙を拭(ぬぐ)いながら真白が答える。それは悪夢(あくむ)を吉夢(きちむ)に転じる呪(まじな)いだ。
「お辛(つら)い夢だったのですか?」
 木臣が、差し出すようにそっと尋ねる。
「ううん…。……辛いのは、私じゃなかった。私じゃ、なかった」
 けれどそう答えた真白の顔は、苦痛を堪(こら)えるように歪(ゆが)んでいた。
「私じゃない誰かが、とても、辛い思いをして泣いていた」
 苦しみよりも、悲しみよりも、更に深い暗闇に佇(たたず)む孤独(こどく)な魂(たましい)。
 真白が若雪だった時でさえ知り得なかった絶望(ぜつぼう)が、接するだけでひしひしと伝わって来た。
(あの人、あのままでは死んでしまう……)
 絶望に呑(の)まれて。
 何より本人が、それを望んでいるように思われた。
「―――――――助けたいと思ったの。何とかしたいと思って、手を伸ばして―――――。でも私には、何も出来ないと言われた」
 せめて泣いていた彼女の、苦しみが少しでも違(たが)えられれば良いと思って、夢違誦文歌を詠んだ。
「木臣。私、何も出来ないことが苦しい。力が無くて――――――悔しい。…ごめんなさい。ごめんなさい…………」
 誰とも知らない相手への謝罪(しゃざい)を、真白は繰(く)り返(かえ)した。
「真白様、大丈夫ですわ。真白様には、理の姫様も花守もついております。兄君方(あにきみがた)も、荒太どのも市枝どのも。何も、心配なさることなどございません」
 状況が掴(つか)めないままに、木臣は謝り続ける真白を抱(だ)き締(し)めた。そうしながら、真白の気性(きしょう)は危(あや)うい、と感じていた。
(誰かの強い思念(しねん)を受け取って、それに共鳴(きょうめい)された――――?……それにしても、情が深過ぎる―――――若雪様と、まるで同じ。そのことが真白様にとって、必ずしも命取りになると決まった訳ではないけれど………)
彼女の敬愛(けいあい)する理の姫の、姉である少女の嘆(なげ)きに震(ふる)える肩は、木臣から見ても華奢(きゃしゃ)で細かった。

 秋山耕平は魍魎(もうりょう)に遭(あ)った日を境に学校を休み続けた。
 そしてある日、担任の倉石(くらいし)が彼の転校したことを告げ、真白たちは二度と耕平と顔を合わせることは無かった。

 真白の体調が回復し、登校し始めてもどこか元気が無いことを、周囲の人間は心配していた。本人は大丈夫だと言い張るが、どう見てもそれは空元気(からげんき)だった。白い頬(ほお)は以前にも増して透(す)き通(とお)るようで、焦(こ)げ茶色(ちゃいろ)の瞳には憂(うれ)いがあった。
 こういう時、市枝の存在は剣護たちにとって頼もしいものとなる。
「ま、し、ろ!」
 昼休み、お弁当を片手にいつものように一年A組に顔を出した市枝は、もう片方の手にひらひらとチケットのような物を握(にぎ)っていた。外に面した教室の窓際中程(まどぎわなかほど)にある真白の席を挟(はさ)むようにして、前と後ろの席には荒太と怜が座っている。市枝は真白の隣の席に座ると、優雅(ゆうが)な仕草(しぐさ)で美脚(びきゃく)を組んだ。男子二人の視線がほんの一瞬、注(そそ)がれる。真白以外は、昼休みの間空く席を拝借(はいしゃく)していた。
「市枝、なあに、それ?」
 指差して問う真白に、市枝はにっこり笑いかけた。
「ケーキバイキングの券。やーっぱり、忘れてた!」
「あ……、ごめん」
 ずっと前に交わした市枝との約束を、色々あった出来事の為にすっかり忘れていたのだ。
 市枝は、あまり気分を損(そこ)ねた様子もなく答えた。
「良いわよ。……秋山のこととか、成瀬から聞いたわ。真白が気にすることなんか、全然無いのよ。真白は、何も悪くない。でさ、憂(う)さ晴(ば)らしにパーッとケーキバイキング、行きましょうよ。今度の日曜日。山盛りのケーキを見れば、嫌なことなんか吹っ飛ぶわ」
 カラッと笑いながら言う市枝の気遣いが、真白には有り難かった。
 口元に、自然と笑みが浮かぶ。
「そうだね、うん。行こう、行こう」
「決まりね。…今日も、剣護先輩が作ったお弁当?」
 市枝が、真白の弁当箱を覗(のぞ)き込(こ)みながら言う。
「うん。いつもは気が向いた時だけなのに、最近は毎日。…剣護も、気を遣(つか)ってくれてるみたい」
 真白の眉尻(まゆじり)が下がり、申し訳なさそうな顔になる。
 剣護は以前から、時折早朝ジョギングをしていて、大抵(たいてい)その日は自分の弁当と一緒に真白の弁当も作ってくれる。それが、耕平の一件以来、毎日真白の弁当を用意してくれるようになった。受験生でもある剣護の手を煩(わずら)わせていることに、真白は少なからず引(ひ)け目(め)を感じていた。
「…剣護先輩もやるなあ」
 真白の弁当箱を一瞥(いちべつ)して、左手で頬杖(ほおづえ)を突いた荒太が感心したように言う。弁当箱の中身は、男子高校生が作ったとは思えない程充実していた。
「ところで市枝さん、その券、余ってないの?」
 獲物(えもの)を狙う獣(けもの)のように目を光らせた荒太の言葉に、市枝が警戒(けいかい)の表情を浮かべた。自らも弁当箱を広げながら剣呑(けんのん)な目で荒太を見る。
「何よ、成瀬。あんたまさか、女の子のお楽しみについて来るつもり?」
「女の子二人で行動するって、今の状況下ではどうかと思うんだけど。ボディーガードが必要なんじゃない?なあ、江藤もそう思うだろ?」
 水を向けられた怜は焼きそばパンの最後の一口を食べ終わってから、ちょっと頭を傾(かたむ)けて考える顔になった。荒太は、重箱(じゅうばこ)の一段くらいはありそうな大きさの弁当箱を、既に空(から)にしている。退院直後には細かった顎(あご)も、成長期の男子相応に輪郭(りんかく)が強くなっていた。
「まあね。成瀬の言うことも尤(もっと)もだけど。女子同士の楽しみに水を差すのも、どうだろう」
「そうそう、そうよね、江藤。もっと言ってやって」
「真白はどう思うの?」
「え………?」
 怜の言葉に勢いづいた市枝が、発破(はっぱ)をかけたが、続く怜の真白への問いかけに、顔を顰(しか)めた。反対に荒太は、得(え)たり、とばかりに口の端を釣り上げる。
「――――――ちょっと、何でそこで真白に訊くのよ。真白がどう答えるかなんて、解りきってることじゃない!」
 市枝の尖(とが)った声に頓着(とんちゃく)することなく、怜が穏やかな声で妹に尋ねる。
「成瀬も同行して良いかい、真白?」
「私は……構わないよ」
 市枝が頬(ほお)に両手を当てて、頭をブンブン振りながら喚(わめ)いた。金茶色の髪が、忙(せわ)しなく乱れる。
「ほらあ、もう!案(あん)の定(じょう)!たまには私に真白を独占(どくせん)させてくれたって良いじゃないの。私にだって百花(ひゃっか)があるのに!!」
 魍魎(もうりょう)相手(あいて)の武器となる、扇(おうぎ)の銘(めい)を挙げた市枝だったが、この場での劣勢(れっせい)は明らかだった。
「仲良くしましょうよ、市枝さん」
 にこにこ笑う荒太を、市枝は恨(うら)めし気(げ)な目で睨(にら)んだ。

 梅雨(つゆ)が明けたあとの七月の空は明るく青く、晴れ渡っていた。蝉(せみ)がここぞとばかりに合唱(がっしょう)して、もうすぐ訪れる本格的な夏の気配を感じさせる日曜日。
 真白たちは、現地集合(げんちしゅうごう)や待ち合わせはしなかった。市枝や真白が単独になる時間が出来るのを防ぐ為だ。まずは荒太が市枝を迎えに行き、そのあと二人で真白を迎えに出向いた。バイキング会場は大きなホテルの一階なので、三人共、服装はセミフォーマルなもので揃(そろ)えている。真白は、パフスリーブの白ブラウスに、光沢(こうたく)のあるグレーのズボン、という格好(かっこう)を選んだ。目の肥(こ)えた二人に、自分の服装がどう映(うつ)るだろうかと密(ひそ)かに心配していたが、二人が家まで迎えに来てくれた際、市枝がこっそり「大丈夫、良い感じよ」と耳打(みみう)ちしてくれたのでホッとした。荒太と市枝は、さすがに隙(すき)の無い着こなしだった。
 真白の家からバスで駅まで行き、電車に乗って二駅目で、真白たちは降りた。
(確か次の駅で降りると、次郎兄のアパートが近い筈(はず)だ。……どんな部屋に住んでるんだろう―――――。次郎兄のことだから、多分、ちゃんと片付(かたづ)いてるんだろうな。一回、遊びに行ってみたいな)
 真白はそんなことを思った。
(それにしても、陽射(ひざ)しが強い…)
 ホテルまでの道のりを歩きながら、手をかざして目を細める。日焼け止めを塗っておいて正解だった、と息を吐(つ)く。コンクリートの照り返しも、真白たちの体感温度を上げていた。市枝は市枝で抜(ぬ)かりなく、布地全体に広がる刺繍(ししゅう)の美しい日傘(ひがさ)を差している。

剣護たちが小太郎を買った老舗(しにせ)デパートの近くにあるホテルは、青空の下黒々(くろぐろ)と聳(そび)え立っていた。巨大(きょだい)で無機質(むきしつ)な建造物(けんぞうぶつ)は、そこにあるだけで見る者を圧倒(あっとう)した。
回転ドアを通り抜け、フカフカとした絨毯(じゅうたん)に足を踏み入れる。入ってすぐ耳につく、建物内(たてものない)に流れるクラシック音楽が、ホテルの威容(いよう)を増していた。入口から見て右手にはロビーがあり、そこここに空間の余裕(よゆう)を持って配置されたソファやテーブルの向こうの壁には、大きなレリーフが施(ほどこ)されている。バイキング会場はその向かい、左手にあった。
 初めこそホテル内のひんやりした空気に心地好(ここちよ)さを覚えたものの、慣れてくると今度は空調(くうちょう)が効き過ぎて寒いと文句(もんく)を言っていた三人だったが、ケーキバイキングの会場に一歩入ると、そんな不満も消し飛んだ。
 重量感(じゅうりょうかん)のあるきらびやかなシャンデリアの下、ショートケーキ、ガトーショコラ、シュークリーム、スコーン等々ずらりと並んだ燦然(さんぜん)たるスイーツの数々に、真白たちは歓声(かんせい)を上げた。
 とりわけ荒太のケーキを見据(みす)える眼差(まなざ)しは真剣で、真白や市枝が一個のケーキを食べる間に、彼は二個のケーキを平(たい)らげていた。荒太がケーキバイキングについて来たがったのは、何も真白たちのボディーガードをする為だけではなく、ケーキそのものも目的であったことが窺(うかが)えた。
(うーん。さすがに苦しくなってきたな)
 真白がレアチーズケーキを食べながら思っていると、隣に座る市枝がスマートホンを見て眉根(まゆね)を寄(よ)せているのが目に入った。
「どうしたの、市枝?」
 目の前でシフォンケーキを食べていた荒太も、手を止めて市枝を見る。
「うん…。それが、信長兄上がね」
 市枝が、長い髪を耳にかけながら口を開く。
 信長、と聞いた瞬間、真白も荒太もやや構える気配を見せた。
「――――信長公が、何?市枝さん」
「成瀬は関係無いの、ちょっと黙ってて。真白、まだお腹に余裕(よゆう)ある?」
 市枝にそう訊かれ、真白は何となく荒太と顔を見合わせた。
「俺はまだ、全然いけるけど」
「あんたには訊いてないわよ」
「――――――私は、厳しいかも。でもどうして?」
 真白がお腹をさすりながら尋ねる。
 市枝が微妙(びみょう)な表情で口を開いた。
「今日の夜、焼肉でもどうかって。真白を呼んで」
「――――――市枝さんと真白さんだけ?」
「そう」
 荒太は少し考える素振(そぶ)りを見せた。
「両手(りょうて)に花と洒落(しゃれ)こむ気かな…。俺も行って良いかって訊いてみて?」
「――――――解った。……来るなってよ」
 スマートホンの画面に目を向けたままで、市枝が返事を伝える。
「ああ、解った。じゃあ一緒に行く」
 当然のように言った荒太に、市枝が不可解(ふかかい)、という顔をする。
「どういう理屈(りくつ)?兄上に叱(しか)られたいの?」
「いや、そんな趣味は無い。行っても良いか、ってこっちが訊いて信長公が来るなって言う時は、〝自分が来るなと言ったくらいで、すごすご引き下がるような奴に用は無い〟って意味だから。逆に来て良いって言う返事の時は、行かないほうが良い場合が多い。――――――――――相変(あいか)わらず面倒臭(めんどうくさ)いんだな、あの人」
「…………」
 荒太の展開させる持論(じろん)には、市枝も真白も覚えがある。
 信長は昔から、天邪鬼(あまのじゃく)めいた気質(きしつ)を発揮(はっき)して他人(ひと)を翻弄(ほんろう)するところがあった。今生(こんじょう)においてもそれは変わらないらしい。
「…でも、本当に言葉通りの意味だったらどうするの?」
「その時はその時。市枝さんのスマホが、電波障害(でんぱしょうがい)で信長公の返事を受信(じゅしん)し損ねたとでも、何とでも言えば良い」
 真白の懸念(けねん)に、荒太が軽い調子で答える。
 市枝が溜め息を吐く。
「…あんたが兄上に気に入られてた理由が、解った気がするわ。じゃあ、成瀬も行くって返事しとくわよ」
 スマートホンの画面に目を遣(や)る市枝に、真白が恐る恐る言う。
「でも市枝、私もう、お腹いっぱいなんだけど。…これ以上、お肉まで食べたら太りそうだし」
 夜までまだ時間があるとは言え、ケーキと焼肉の組み合わせはカロリー増量の最強タッグではないか、と真白は怯(おび)えた。年頃(としごろ)の少女が気にかける点としては妥当(だとう)である。
「真白さんは、もう少し全体に肉がついて良いと思う」
 荒太が真顔で断言(だんげん)する。
「やだ成瀬、何かその発言、エロい」
 市枝の言葉に、ムッとした顔で荒太が反論する。
「だって、今の真白さん、華奢(きゃしゃ)過ぎない?見てて不安になるんだけど」
「真白はあんたみたいに、何でもばかすか食べないの。まあそうね、でも確かに、もう少し太って良いわよ、真白。最近、またちょっと痩(や)せたでしょ。よし、兄上の奢(おご)りらしいし、この際焼肉まで行っちゃいましょうか」
 威勢良(いせいよ)く言い放つ市枝の、出るべきところは出て締まるべきところは締まった体型(たいけい)を、真白は眺(なが)め遣(や)る。彼女に比べると自分は、出るべきところが些(いささ)か寂(さび)しいという自覚はあった。
 二人の言い様に、もう少し食べる量を増やすべきだろうか、と真面目(まじめ)に考え込んだ真白は、次(つ)いで、信長の生まれ変わりと焼肉の網(あみ)を囲(かこ)む、という光景を思(おも)い描(えが)き、複雑(ふくざつ)な心境(しんきょう)に陥(おちい)る。
(どう考えても、シュールな光景のような気がするんだけど…)
 それでもやはり、背筋(せすじ)が伸びるような緊張感(きんちょうかん)を覚えることには変わりなかった。

白い現 第三章 惑乱 一

白い現 第三章 惑乱 一

秋山の言葉に未だ傷つく真白。そんな彼女を案じる剣護たちだったが、市枝が真白を気分転換に誘う。 作品画像のピンブローチは、「惑乱」のイメージで選びました。

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
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2014-09-14

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