パパ、タバコ。

パパ、タバコ。

パパとタバコと......。

パパ、タバコ。

 私の思い出の中に描かれるパパは、いっつもタバコを吸っていて、太い指に挟まれたフィルターの茶色いタバコがゆらゆらと退屈そうに煙を吐き出している。煙は一度パパに吸われ、やがてその口からまた退屈そうに洩れ出していた。



 そのせいか私は、男の人は皆タバコを吸っているものだと思っていた。
 もうずっと昔の話。
 今だったら、もちろん皆が吸っていない事くらいわかるんだけど。でも、その時は大真面目にそう思っていたんだ。

 

 今からずっとずっと前......。パパがタバコという得体の知れないものを吸っているという認識をした頃だったと思う。
 私はパパに

「どうしてタバコを吸っているの?」

と聞いた。パパは口に含んだ煙を口から勢いよく吐き出してから言った。

「大人になったら皆吸うんだよ」

私はパパの言ったその言葉を素直に受け入れる事が出来なかった。それはなんでだろう、そう考えている内にママは”タバコ”というものを吸っていない事に気付いた。だから私は言った。

「ママは吸ってないよ」

「ママは大人じゃないんだ」

パパは嘘つきだった。それでもその嘘に気付くのはもう少し後の話で、子供だった私はパパの言ったその言葉を鵜呑みにした。ずっとママは私のママで、”大人”って事をどういう人の事を言うのかさえよく分かっていなかったけど、私の中でママは、それまで”大人”として認識されていた。

 でもパパのその言葉を聞いてから、しばらくの間ママは私にとって子供だった。子供だったからといって、何がどう変わる訳ではない、ただ私がママの事を”子供”だと思っていただけで、普段過ごす生活での役割は何一つ変わらない。
 しいて言うなら、ママは”子供”のくせに料理が上手だった。



 どのタイミングでそうなったのか分からない。制服を着て中学校に通うようになってから、私の中でずっと眠っていた何かが急に目を覚ましたように、私はパパの吸うタバコの煙が急に嫌になった。それと合わせてパパの事も嫌いになった。パパの何が気に食わないのだろう......。私の中にはそんな疑問がずっと浮かんでいたけれど、そんな理由などどうでもよくって、”とにかく”パパが嫌いになった。

 あまりにも突然だったから、パパが嫌いな事に気付いた自分を少しばかり褒めてあげたいくらいだ。

「家の中でタバコ吸うのやめてよ!」

タバコを吸っていたパパに対して言った言葉は、まるでパパ自体の存在にも言っているようだった。私はその境目を見失って、だけど、それでもいいやという簡素な考えで、そのもやもやを消し去った。とにかく私は”パパ”に言ったのだ。

「それは......無理だ」

私の方をちらりと見てから、パパはそう言った。無理という言葉と、その態度に余計腹が立って、私はその怒りをそのままパパにぶつけるように言い放った。

「無理じゃないでしょ!外で吸えばいいじゃない!」

でも少し感じていたのは、パパが吸っているタバコに対しての怒りなんてあったのだろうか、という事。私はきっとただパパにぶつかっている事に満足していたような気もする。

 私がそう言い放つと、パパはまた私を少しだけ見てから黙りこくってしまって、吸っていたタバコを灰皿に押し付けた。

 次の日から、パパはベランダでタバコを吸うようになった。真冬の凍り付きそうな時期に、パパは相変わらず退屈そうな煙を弄びながら、ゆらゆらと夜空に消えて行く煙を吐き出していた。



 どのタイミングで変化が起きたのか、ずっと分からないままだけど、いつの間にかパパはまたリビングで煙を吐き出していた。それは真夏でも真冬でも肌を伝う風が気持ちいい季節であろうと、そんな事は関係なく、パパのタバコを吸う位置が、数年前のあの位置にぴったりと戻っていたのだ。

 私だって、もう何も言わなかった。あれだけ爆発しそうだった感情が嘘のようにすっかりなくなり、許すと言えば聞こえがいいかもしれないけれど、許すって言うよりは、”気にならなくなった”という方が正しいのだと思う。パパの吸うタバコの煙も、パパという存在も。

 考えてみれば、部屋がタバコ臭いのも、パパがタバコを吸っているのも、生まれた時から当たり前の事で、むしろその方が自然だった。こんな言い方は可笑しいかもしれないけど、それらは私の人生の一部だった。



 パパは突然こんな事を言った。たしか家族ですき焼きをつつき、片付けられたテーブルの上に置かれた灰皿に、灰をトントンと落としていた時じゃないだろうか。私はといえば、ただ夢中でテレビを見ながら馬鹿みたいに笑っていただけだと思う。

「タバコはパパ自身だ」

中学生の頃の私だったら、無視を決め込んでいたに違いない。でもそれから少し大人になった私は、そんなパパを哀れだと思うようになっていた。決して可愛らしいとは思えない、ここで無視をしてしまったら、可哀想だと思うくらいで。

「バカじゃないの」

だから、私は冷たくそう言った。一々パパの方なんか向かずに、私はテレビに視線を向けたままで。

 パパが突然変な事を言い出すのは、おそらく彼の性質なのだろうと思う。私は昔からずっと父の意味不明な言葉を聞かされているから、既に慣れてしまったし、飽き飽きもしていた。たぶん、まだずっと小さな頃はそんな事を言うパパの相手をしていたのかもしれないけれど、もちろんそんな事私は覚えていない。

 冷たく言い放ったし、パパの方に顔も向けていないけど、何か言ってあげるだけのそれだけで、その時の私はそれが父に対する優しさなのだと思っていた。

「タバコがないと生きていけない」

私の冷たい対応には何の反応も示さず、続けてそう言った。

 だろうね。と心の中でだけ言って、今度は口に出さなかった。しつこいと思ったし、これ以上パパの無駄な会話に付き合うのが面倒にも感じたからだ。

 私はテレビに出ているお笑い芸人のボケに大きな声で笑っていた。笑いながらもさっきパパが言った「タバコはパパ自身だ」という言葉がねっとりとした煩わしさを備え、私の頭の中に居座っていた。

 この人からタバコを取ったらどうなるのだろう。ふとそんな事を思った。

 たぶん、パパにとってタバコは、私以上に人生の一部なのだろう。私以上に、身近で気が置けない相手なのかもしれない。私は頭の中で、自分とタバコを天秤に乗せてみて、パパにとってどちらが重要になるのだろうと考えてみた。でも、結局それはすぐにやめてしまった。どちらが出ても、私はその答えにうまく満足できそうにないような気がしていたからだと思う。

 そういえば、昔なんの拍子か、私はママがこう言っていたのを思い出す。「昔は吸ってなかったのよ、タバコ」



「やめるか」

私たち家族三人で食事をしているところだった。スーパーで買ってきた刺身を醤油につけて、ご飯にのせようとした正にその時だった。早くからビールを飲んでいたパパは、皆で食事を始める時には、既に顔が赤らんでいる。

「何を?」

私は刺身を白米の上にのせ、真っ白なご飯と一緒に刺身を頬張った。一口食べて、スーパーの刺身の味がする、と思った。

「タバコ」

パパがそう言った瞬間に、私の持っていた箸が一瞬だけ止まった。そして、少し動揺した自分もいた。

 でも私はすぐに思い出す。この人はいつだって意味不明な事を言っていたし、てきとーだったし、嘘付きだった。

 無理に決まってる。という意味合いを込めて

「やってみれば」

と心を全く込めずに言った。心を込めていない事が相手にも分かるような言い方で。

 ただ、少ししてから私はやっとそれに気付いた。茶碗の白米がすっかりなくなった頃だと思う。

 パパが、今まで一度でもタバコをやめるなんて言った事あっただろうか?タバコが大好きで大好きでしょうがない人だから、死ぬまで吸い続けると私は思い込んでいた。

 「最後の一本」

と大きな声で言ってから、パパはその最後の一本を吸った。リビングで退屈そうな煙を私はぼんやりと眺めていた。

 タバコをやめるなんて初めて聞いたから、もしかしたら本当にやめるのかもしれない。今となっては、別にどちらでも構わないと思うけど、体の事を考えれば、吸わないに越した事はないのだ。「そうか、これでこの煙も見納めか」そう心の中で呟きながら煙を眺めていると、少しだけ、ほんの少しだけ寂しささえ感じた。

 次の朝、私は大きな失望の念と共に目を覚ました。それは部屋に流れてくるタバコの匂いのせいだ。もちろん匂いが嫌だった訳じゃないし、たぶん、結局タバコを吸っている父への失望でもないと思う。一瞬でも、パパがタバコをやめるのかもしれないと思った事、そして偽りの最後の一本からゆらゆらと立つ煙を見て少し寂しさを感じていた自分に失望していた。

「おはよ」

リビングに行くと、いつもと全く変わらない風貌の”タバコを吸っているパパ”がいた。全ていつも通りだった。

 何も言う気にもならなかったし、ママも別にパパに対して何も言っていないようだったので、私もいつも通り目の前でタバコを吸うパパに何も言わなかった。言わなかったけど心の中ではとても大きな声で叫んでいた。
”やっぱりパパは、意味不明で、てきとーで、嘘付きなんだ!!”

 私はそうやって心の中で何度も叫んで、自分への失望の念をゆっくり許してやる事にした。



 パパは入院した。

 癌だった。肺に悪性の腫瘍が見つかったのだ。

 やはり。私はそうとしか思えなかった。いつかこんな日が来るだろうとずっと思っていて、そんな日は私の予想通りに訪れたのだ。あまりにも突然だったけれど、私は特に動揺する事もなく、その事実を受け入れた。

 もう十分に大人になっていたし、人は皆いずれ死ぬものだから、それがパパには少し早く訪れたってだけの事で。いや、少し早いなんて表現は可笑しいかもしれない。だって、タバコなんて一本も吸っていなくたって、死は突然訪れたりするじゃない。

 でもパパは、そのタバコ以外の突然訪れる死を交わして、それは最初から約束されていた事のように、タバコが原因で癌になって、そうして死んでいくのだ。パパらしくていい。そうとさえ思える。

 入院した初日に、医師にタバコを取り上げられ、パパはしょうがなくタバコをやめた。あれだけ、仲のよかったタバコと強制的に縁を切られてしまった。きっと私よりも仲のいいタバコと。

 だけどパパはそんな簡単に諦めはしなかった。医者の目の届かない場所で、静かにタバコとの密会を重ねていた事を私はよく知っている。

 たまに医者に見つかって、何度注意されようが、そこの関係を断ち切ることはできないように思えた。だって、自分自身の生を蝕んでいるその事実だってパパ自身は分かっているはずなのに、それでも、離れる事ができなかったのだから。

「タバコがないなら死んだ方がマシだ」

そう言いながら、パパは今日も煙を吐き出していた。私はそれを横で見ながら、昔リビングでタバコを吸っていたパパの情景を頭の中で描いてみたけど、あの時とは違う、今はもう痩せ細って貧弱な体の父がとても哀れに見えて、少し悲しくもなった。



 やがて、私は結婚した。

 私が結婚したその人は、パパと同じで、いつもタバコを吸っている人だった。

 彼が家でタバコを吸っているのを見る度に私はパパを思い出している。既に死んでしまったパパを思い出す事はあまり良いものではなくて、私は少なからず悲しみの念に取り憑かれてしまうのだけれど、彼が、私の中にいるパパの役割を担ってくれているように思えた。そう思うと、私の悲しみも少しは和らいだりもした。

 私はタバコ自体が嫌いではなかったし、むしろタバコを吸っている男性にばかり惹かれた。

 パパと重ねる訳じゃないけれど、きっとそれは私の無意識の中にあって、もう絶対に変える事ができないくらいにすり込まれてしまっていたみたい。私はまだ一本もタバコを吸っていないけど、タバコの匂いは既に私の一部になってしまっていた。

 彼は、毎日けむりをぷかぷか浮かべていた。退屈そうに、天井目指してゆっくりと浮かんでいく煙を見ながら「この人もきっと癌で死ぬ」私はそう思わざるを得なかった。

 彼はきっと、いや、間違いなく、癌で死ぬんだ。でも、私は彼にタバコをやめてなんて一言も言った事がないし、たぶん、これからも言う事ができないのだろう。



 私たちの間に一つの命が誕生した。まだ喋る事もできない、立つ事もできない、笑っているか、泣いているかのどちらかの選択肢しかない、とても愛おしい命だった。

「子供の前ではタバコを吸わないで」

私が彼にそう言うと、すぐに承諾し、それから外で吸うようになった。

 そして私はまた昔の情景を思い出した。夜空に向かって退屈そうに浮かび上がる真っ白な煙は、パパを思い出すには十分過ぎる程の存在だった。

 数年がたって、子供は驚くべき早さで成長していた。その頃には彼も家の中に戻ってきていて、どのタイミングで彼が家の中で吸うようになったのか覚えていないのだけれど、割と最近の出来事のように思える。

 まだ外で吸っていた時期があっただけ、パパよりは随分とマシだった。

 リビングでタバコを吸う自分のパパに向かって、子供は聞いた。

「どうしてパパはタバコを吸っているの?」

 ”タバコ”という言葉を教えたのは彼だろうか。私はそんな事を教えた覚えはなかった。そして、私はいつから、あれが”タバコ”という存在だと知っていただろうか。そしていつから、あれが体に良くないものだと知っていたのだろうか。

「タバコはお仕事で疲れたパパを元気にしてくれるんだよ」

彼はまだ小さな子供に向かってそう答えた。噓でもなく、テキトーでもないだけパパよりはまともだった。

 子供は首を横にかしげていたままだったけど、その煙を嫌がる風は見受けられなかった。

 いつかもっとタバコという存在を知るだろう。きっと、それは意識もしない内に、勝手に自分の中の一部となってしまう事だろう。



 結局、私の旦那だったその人は癌で死んだ。

 肺癌。パパと全く同じ末路を辿った事になる。それでも救いだったのは、娘はもう随分立派な大人になっていて、人生におけるおおよその事はしっかりとやり遂げた後だった事だと思う。

 彼の葬式を済ませ、自宅に戻った時に娘は私に向かって言った。

「パパ入院中止められてるのに、隠れてタバコ吸ってたよ」

 もちろん、私はそれをよく知っていた。彼がタバコを吸っている事を、あえて知らないように振る舞っていたくらいなのだから。

 パパも、彼も、一緒だった。私の中に住むタバコの匂いも、その二人にはよく重なって、娘が家に帰った後、私は彼の写真の前で随分と久しぶりに涙を流した。

 パパが死んだ時だって流れる事のなかった涙なのに、彼の写真を見ていると、止めどなく涙は溢れて、私は彼の写真を抱きながら静かに床に就いた。

 そんな事ある訳ないのに、彼の遺影からはほんのりとタバコの匂いがしていたような気がする。

 ......そんな事ある訳ないのに。
 


 私ももう先が永くはない。そう感じさせるのは、この病院の空気と私の回りにいる医者の態度、それと私の身の回りにいたパパや彼から感じ取った雰囲気、そしてまだ一度も吸った事のないタバコの匂いが私に纏わり付いているという事実だった。

 病院のベッドは思っていたよりも随分と寝心地が悪い。もうすぐ死ぬのであれば、もっと快適な睡眠を与えてくれてもいいように感じる。

 私は屋上に行き、生まれて初めてのタバコを吸っていた。見慣れた煙が青空目掛けてゆらゆらと浮かんで、その内風に流され消えてしまった。

「また、ここにいた」

娘は右手に小さい子を連れて、私の所まで来た。「随分と探しちゃったじゃない」と付け加える。

 可愛らしい女の子。ママである私の娘の手をしっかりと握って、私の今までの思い出を全て見透かしているかのような、純粋で真っ直ぐな視線が私に向けられていた。

 私は癌だと、先ほど医者から聞かされた。しかも肺癌だった。

「タバコはもう吸っちゃいけません」

医者は私が入院する時にそう告げた。私は生まれてから一度もタバコを吸った事がない。これは紛れもない事実であって、吸いたいという興味すら湧く事がなかった。あれだけ、生活の中に当たり前のようにタバコは存在していたのにも関わらず、自分がタバコを吸う姿など全く想像できなかった。

「吸っていません。今まで一度も吸った事がないのですが......」

医者はポリポリと頭を掻き、少し考えてから

「ご主人は吸っていましたか?ヘビースモーカーではなかったですか?」

”ああ、そうか。”私はそう感じたのだ。パパが肺癌で死んでから、いつもタバコを吸っている彼を見ていてきっとこの人は病気にな
るんだと思っていた。そしてその通りになって、私は彼を失った。でも、それは私がタバコを吸っている姿を想像できないそれと似ていて、私が肺癌になるという事など想像もできていなかった。

 ”ああ、そうか”

 私はもう一度心でそう呟いた。想像もできていなかった事なのに、妙に納得している自分がいる事もまた事実だった。

「ええ。そうです。父もヘビースモーカーでした」

私はパパを想い、そして彼を想った。



 全然おいしくない。それが私が初めてタバコを吸った時の感想だ。ただ、もうこの世にはいないパパと彼を思い出す事ができた。まだ随分と長さのあるタバコを屋上にある灰皿に押し付けて日を消した。

「おばあちゃんはどうしてタバコを吸っているの?」

ママと手を繋いだ可愛らしい女の子は私に聞いた。くりんと丸いその目が私に向けられ、自分の不思議に感じた事を噓偽りなく聞いているという純粋な質問だった。私もいつかそんな事をパパに聞いた事があるような気がする。でも、もう全く覚えてなんていない。その時にパパがどう答えたのかも思い出す事はできなかった。

 なんだか、ふいに笑みがこぼれた。

「ひいおじいちゃんとおじいちゃんが吸っていたからだよ」

青い空の下で、私は女の子にそう答えた。私の吐いた白い煙は、今では完全に姿を失ってしまっていて、タバコの匂いだけが、まだじんわりと口に残っている。

 女の子は私の答えに不思議な顔を向けていたけど、それ以上何かを言う事はなかった。

”私もあともうちょっと。”

目を閉じて、残りの生と口に残ったタバコの匂いを静かに感じている。



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パパ、タバコ。

パパ、タバコ。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-09-05

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