白い現 第二章 布陣 三

剣護の画策により、事態が動きます。

第二章 布陣 三

       三

 剣護は公立琵山高校(こうりつびざんこうこう)の正門の門柱(もんちゅう)に寄りかかり、目当ての人物が来るのを待っていた。
 怪(あや)しくなってきた雲行きを見て、顔を顰(しか)める。彼には降水確率を確認して家を出るという習慣が無かった。朝はよく晴れていたので、傘を持つ必要性を感じなかったのだ。つい先日、気象庁が梅雨入(つゆい)り宣言を発表していたのを、遅まきながら思い出す。
(梅雨を舐(な)めてたなー)
 いざとなったらコンビニでビニール傘を買うか、と思う。出来れば待ち人が早く来て、雨が降り出す前に用件が片付けば良いと願っていた。
 スポーツの成績は今一つ振るわないが、勉学において優秀な生徒を多く擁(よう)する私立陶聖学園(しりつとうせいがくえん)とは異なり、琵山高校は文武両道(ぶんぶりょうどう)の伝統校として知られていた。正門に立っていても、運動部の活発なかけ声が大きく聞こえてきて、剣護を感心させた。
(陶聖は運動そっちのけのガリ勉が多いからなあ)
 そう考えながら、のんびり腕組みをして立つ剣護の姿は、かなり目立っていた。
 今は季節がら半袖シャツに黒いズボンを着用しているが、基本的に男子は学ランを制服とする琵山高校の正門で、チェックのネクタイにアイスブルーのシャツを着て、グレーのズボンを穿(は)いた格好からして既に浮いている。加えてハーフの目立つ容貌が、正門を通る琵山校生の注目を更に集めていた。
 洗練と優秀な頭脳を誇る陶聖学園と、伝統と文武両道を誇る琵山高校には、互いに張り合うような空気があった。
 しかし剣護に向けられる視線の多くは、羨望(せんぼう)の眼差しだった。特に女子たちは剣護の姿を見ると、必ず何事か囁(ささや)き合うような態度を見せた。「あの制服、陶聖よね」、「誰かの彼氏?」、
「目が緑だよ!ハーフかな」、「足、長ーい」等々。
(客寄せパンダじゃねーっての)
 目立つことがそう嫌いではない剣護も、しつこい注目を浴び続けることにはげんなりしていた。一旦(いったん)は正門を通る誰かに待ち人のことを知らないか訊こうとしたのだが、相手の名前を知らないことに気付き、自分にはただ待つしか術が無いことを悟った。物は試しと、「赤い髪の奴、知らない?」と通りがかりの男子生徒に訊いてみたが、何人もいるから誰のことか解らない、という返答が返ってきて、剣護は閉口(へいこう)した。陶聖以上に、風紀(ふうき)にはルーズな学校のようだ。
(まあ、待ってりゃその内来るだろ)
 それまでは向けられる好奇の目も遣(や)り過(す)ごそう。
 そう思っていたところに、件(くだん)の人物がやっと姿を見せた。
「おい――――――」
 明臣(あきおみ)、と続けようとしたが、彼の隣にいた女子の存在が、剣護に言葉を呑み込ませた。
 だが向こうは、剣護に気付いた。
 隣を歩く女子に声をかける。
「じゃあ、和久井(わくい)さん。またね」
「―――――――うん、バイバイ」
 その女子生徒は、剣護にもあまり関心を向けることなく正門を出て行った。
「―――――悪い、邪魔したか?」
「まあ少しね。でも君は、僕に用事があったんだろ?太郎清隆(たろうきよたか)」
 真っ赤な髪の明臣は、そう言った。
「…あの子、彼女?」
 明臣が笑みを浮かべ、得意そうに言う。
「かわいいだろう。でも、彼女じゃない。今度一緒に、メンタルクリニックにデートだけどね」
 なんじゃそら、と怪訝(けげん)な顔をする剣護に、で、と明臣が尋ねる。
「何か話があって来たんでしょ?どっか、近くのカフェに入ろうよ」

 剣護はファーストフードの店で良い、と言ったのだが、明臣が安っぽい味の店は嫌だと言い張った。結局、琵山高校近くのカフェの、趣(おもむき)ある木の扉を彼らは開いた。
「いらっしゃいませ」
 中年を過ぎた頃合いの、マスターらしき男性が穏やかに声をかける。店の中には落ち着いた音楽が流れ、煙草(たばこ)を吸う人間の姿は一人も見当たらない。カウンターやテーブル、椅子などは深い茶色で統一され、見る者に安心感をもたらす。よく見れば各テーブルの上にはささやかな野の花が飾られている。
(……真白が好きそうな店だな)
 今度連れて来てやるか、と考えながら、剣護は明臣と差し向かいで座った。重厚な皮張(かわば)りのソファの座り心地は、確かにファーストフード店では望めないくつろぎを与えてくれる。
「明臣って、学校では何て名乗ってんの?」
 明臣はクリームソーダを、剣護はアイスカフェオレをそれぞれ注文したあと、剣護が明臣に尋ねた。
「渡辺定行(わたなべさだゆき)」
「…意外にフツーだな。ちょっと、武将(ぶしょう)っぽいけど」
 明臣が軽く笑った。
「定行は、僕が人間として生きていたころの名前だよ」
 剣護が瞬(またた)きする。
「え、元人間だったの?」
「うん。……そっか。そのこと、荒太しか知らないんだっけ」
 そう言った直後、明臣が耳を澄ます素振(そぶ)りをした。丁度(ちょうど)、店に流れる音楽が切り替わったころだった。深く、激しいピアノの音色が流れる。
「――――――ショパンの幻想即興曲(げんそうそっきょうきょく)だ。良いね」
「神様は芸術に造詣(ぞうけい)が深いんだなー」
 感心するよりむしろ呆れた口調で剣護が評した。
「木臣(もくおみ)が好きなんだよ、音楽とか絵とか。色々味にもうるさいし」
「木臣…。あの、緑の髪の人か。ああ、それでマリアージュ…何とかの紅茶も知ってたのか」
 注文したものが、それぞれに運ばれてくる。
「人間だった時のフルネームは何て言うんだ?」
 シロップをアイスカフェオレに入れながら剣護が尋ねる。 
「訊いてどうするの?」
 そう返して、明臣はクリームを一匙掬(ひとさじすく)うと口に入れた。
「ただの興味だ。そっちばかり俺たちの、嘗(かつ)てのフルネームを知ってちゃ不公平だろう」
「――――古賀朱丸定行(こがあけまるさだゆき)。さっきの彼女は、当時の僕の許嫁(いいなずけ)の生まれ変わりだ。――――――…理由あって、非業(ひごう)の死を遂げた。僕は五百年の間、ずっと彼女を探していたんだ。……さあ、これで少しは公平になったかい?」
 明臣はソーダから目を上げずに淡々と語った。
 剣護は苦い顔をしていた。ここまで踏み込んだことを、訊くつもりは無かったのだ。
「……悪かった」
「良いよ、別に。確かに僕たち花守(はなもり)は、君の、前生(ぜんしょう)における成(な)り行(ゆ)きを概(おおむ)ね知ってる。君や次郎清晴(じろうきよはる)の前生での最期(さいご)も、立派に非業の死と言えるしね」
 明臣はちらりと笑った。
「…とりあえず俺たちの頭(あたま)は、俺が務めることになった。花守たちにも、そこんとこを了承(りょうしょう)しといて欲しくて話しに来たんだ」
「ようやく本題か。――――――うん、良いんじゃない?雪の御方様(おんかたさま)を前面に出すのは、避けたいだろう。花守としても、それはよく理解出来る心情だ。それに君には、実際大将(たいしょう)の器(うつわ)がある」
「……純粋に実力で言えば、荒太も次郎も俺に引けは取らないぞ」
 アイスカフェオレの二口目(ふたくちめ)を飲んでから、剣護が物申(ものもう)した。
 緑の液体に浮いていた白いクリームの塊(かたまり)を食べきって、明臣はにこやかに言う。
「資質(ししつ)の話をしてるのさ。次郎清晴も嵐由風(あらしよしかぜ)…荒太も、どちらかと言えば参謀(さんぼう)タイプだ。腹に一物(いちもつ)あっても、涼しい顔でそれを隠せる。―――――でも太郎清隆。将の器とは言え、君だってその点では負けてはいないよね」
 剣護が無表情で明臣を見返す。
「ほら――――――来たよ。解ってたんだろ?」
 次の瞬間、カフェの店内は様相(ようそう)をがらりと変えた。
 店の内側だけ、くるりと切り取って別の場所に貼(は)り付けたように。
 陰湿(いんしつ)な空間。満ちる悪臭。腐臭。理の姫の創り出した空間とはまるで対照的だ。
 そしてそこに待ち受けるのは、大きな一つ目を顔に持つ、泥のような皮膚の化け物。その数、四体。
「――――――次郎の言ってた奴だな。確かに、ひどい匂いだ」
 明臣は特に動揺(どうよう)もせず、剣護を見ている。
(お手並(てな)み拝見か―――――――?)
 見られるばかりでは癪(しゃく)に障(さわ)る。
「明臣、二体任せて良いか?」
「……良いよ」
 怜の言っていた通り、崩れ落ちた魍魎(もうりょう)の皮膚は、落ちた先にある地を音を立てて溶かした。大きな目は、明臣と剣護だけを映し敵意を剥(む)き出(だ)しにしている。
(――――――哀れだな)
 緑の目を細め、剣護はふとそう思ったが、喰われてやる訳にもいかない。
「しかしくま、つるせみの、いともれとおる、ありしふゑ、つみひとの、のろいとく」
 朗々(ろうろう)とした声で、唱え上げる。意図(いと)して選んだ秘言(ひごん)は、一体の魍魎の姿を瞬時に消した。もう一体が、警戒(けいかい)の構えで剣護から距離を取る。
「臥龍(がりゅう)、頼む」
 呼んだ一瞬後、金色の光が差す。
 掲(かか)げた右手には、黄金色(こがねいろ)に光る大振(おおぶ)りの太刀(たち)が握られていた。装飾性の高い、豪奢(ごうしゃ)な陣太刀(じんたち)に近い外観をしている。
怜の扱うやや細身の黒漆太刀(くろうるしたち)である虎封(こほう)とは異なり、見ただけで重量を感じさせるそれを、両手で握り直し、軽々と振り上げて下ろす。
 ――――――重く、厚い風が巻き起こる。
 最初の一撃を何とかかわした魍魎は、怖(お)じたのか、逃亡の気配を見せた。それは、明らかに臥龍と、その遣(つか)い手(て)である剣護を恐れていた。
(逃がさねえよ)
 今の剣護の目は、狩人(かりうど)のそれだった。
 素早く魍魎の行く手に回り込み、退路を阻(はば)む。
 一閃(いっせん)――――――――。
 袈裟(けさ)がけに斬ると、魍魎は真っ二つになって崩れ落ちた。その残骸(ざんがい)は塵(ちり)と化す瞬間、空間全体に汚濁を生じた。
 伊吹法(いぶきほう)の必要性を考えた剣護は、明臣のほうに目を遣(や)った。彼は何の武器も手にしておらず、笑みさえ浮かべ、迫り来る魍魎にもゆったりと構えていた。
「炎よ、炎、我が同胞(はらから)よ。回り回りて円を成せ。邪(よこしま)なるもの、禍(まが)つもの、汚(けが)れを囲みて眠りに就(つ)かせよ、永久(とこしえ)に」
 明臣が歌うように唱(とな)え、右手を悠々(ゆうゆう)とした動きで大きく旋回(せんかい)させると、その軌跡(きせき)を追うように美しい火焔(かえん)が現れた。それは二体の魍魎をすっかり囲い込み、抵抗する暇(いとま)すら与えず焼き尽くした。
 剣護は、ほう、と感心した。
(見事なもんだ―――――)
 さすがに、神を名乗るだけのことはある。
 明臣は、何事も無かったかのように剣護を振り向いた。
「伊吹法の必要は無いよ、太郎清隆。今の炎が、空間の汚れも祓(はら)った」
 実際、先程まで満ちていた汚濁は、剣護たちのいる空間から綺麗に消え去っていた。

 そして二人は、何事も無かったかのようにカフェの席に座り、それぞれの飲み物を手にしていた。
 流れる音楽は、ベートーベンの『月光』に変わっていた。
 物悲しく、憂いを含んだような美しい調べが響く。
「で、君は結局、何を確かめたかったんだい?……僕と一緒になって、自ら囮(おとり)になることで魍魎を呼び寄せ、倒す―――――――。それだけが目的って訳じゃ、無かったみたいだね。何なの、あの呪詛(じゅそ)返(がえ)しの秘言は?」
 アイスカフェオレをズズーッと飲んで、剣護は一拍(いっぱく)置く。
「…そうか。囮なのは解ってたのか」
 些(いささ)か、気分を害した表情を明臣が見せた。
「僕を何だと思ってるんだい?太郎清隆。裏表の無い、明朗快活(めいろうかいかつ)な男――――――。君は一見そういう印象を相手に与えるけど、案外にそれだけじゃない。今回みたいに、しれっとした顔で策(さく)を弄(ろう)することもある。腹(はら)に一物(いちもつ)って言ったのは、そういう意味だよ」
 眉間に皺(しわ)を寄せた明臣に、剣護は苦笑した。
「ああ、その通りだ。重ねて、悪かった。明臣。あんたの言う通り、魍魎の数を減らすと同時に、俺には確認したいことがあったんだ。――――――感じたことは無いか、明臣。魍魎の背後にある奴の敵意を。俺たちに対する、怨讐(おんしゅう)のようなものを」
 明臣が意表を突かれた顔をする。
 怨讐――――――――。
「…不穏(ふおん)な言葉を使うね」
「御指摘(ごしてき)の通り、さっき俺が唱えたのは、呪詛返しの秘言だ。みだりな多用を禁じられるくらい、取扱いには注意が要る。背後に魍魎を操る奴がいれば、秘言を唱えた対象の魍魎は、そいつに返る。背後に誰もいなければ、ただ塵と化すだけだ。―――――さっきの奴は、消えただろう。つまり、背後には確かに操(あやつ)り師がいるってことさ。呪詛返しをしたことで、消えた魍魎はそいつに返り、牙(きば)を剥(む)いた筈(はず)だ」
 明臣が、難しい表情を浮かべる。
「…――――単純に、透主(とうしゅ)と魍魎の集まり、というものではないと?」
 剣護がはっきりと頷いた。
「俺はそう見ている」
「操り師に、心当たりはあるのかい?」
「いや、そこまでは解らない」
「本当に?」
 明臣の薄青(うすあお)い瞳が、剣護の目を覗(のぞ)き込む。
「……前生で関わりのあった人間であれば、候補がいない訳でもないが――――――。まだ、確信が持てない」
 慎重に言葉を選ぶ剣護の顔を、明臣がじっと見ていた。
「惜しかったな、剣護。君が太郎清隆として大禍(たいか)無(な)く年を重ねていれば、あの戦国の乱世できっと頭角(とうかく)を現していただろうに」
 剣護が笑って横に首を振った。
「いや、俺はせいぜいこの程度だ。――――――若雪がもしも男に生まれていれば、天下さえ狙えただろうよ。そういう、大器(たいき)の見本みたいな奴が傍(そば)にいた時点で、俺には自分の限界が見えてた」
「雪の御方様は特別だよ。―――――嫉妬(しっと)するかい?」
 剣護が笑んだ。空になったアイスカフェオレのコップの氷が、カラリ、と音を立てる。
「大昔、まだ小野太郎(おののたろう)がほんのガキだった時は、それもあった気がする。あいつの天稟(てんぴん)を妬(ねた)んだり羨(うらや)んだりな。―――――けどそれも、ガキのころの話だ。そもそも嫉妬する以前に、真白は俺にとって大切な妹だ。……あいつが神(かみ)つ力(ちから)を持つ為に傷つくぶん、守ってやらなくちゃいけないと思う。そういう感情のほうが先んじて、競う相手として見ることも難しい。真白が男だったら、また違ったかもしれないけどな」
 それから、少し物思うように剣護は口を閉ざしてから、再び開いた。
「―――――光と影、影と光か…」
 独白(どくはく)めいた言葉に、明臣が怪訝(けげん)な顔をする。
「何だい、それ?」
「…俺たちが光に位置づけられるとしたら、魍魎たちは影の役割を振り当てられていることになるだろう。光が強い程に、影もまた濃くなる。…元来、光と影は裏表、紙一重(かみひとえ)の関係だ」
「……だから?」
 剣護は自分自身、首をひねりながら言葉を繋(つな)げた。
「だからどうと言うことでもない。ただ何となく、そう思っただけだ―――――――」
 その時、剣護のスマートホンの着信音が鳴り響いた。

「真白が寝込んだって?絵里(えり)ばあちゃん」
 怜から報せを受け、三十分後に真白の家に辿り着いた剣護は、カフェを出た直後に降り出した雨でだいぶ濡れていた。途中でバスを使うこともあり、面倒(めんどう)で結局傘を買わなかったのだ。濡れた前髪を鬱陶(うっとう)しそうにかき上げる。
 着物を着た、おっとりした風情(ふぜい)の祖母が、タオルを剣護に渡しながら答える。真白の両親は、娘の誕生日を祝ったあと、三日後には勤務先であるイギリスへと戻って行った。二週間以上休みが取れただけでも、奇跡のようなものだったらしい。
「そうなの。江藤君が送って来てくれたんだけど、うちに着いたころにはもう熱が出てて―――――。今、部屋で寝てるわ。悪いけど剣護、飲み物、持って行ってやってくれる?江藤君のぶんも」
 礼を言って受け取ったタオルで大雑把(おおざっぱ)に髪や制服を拭き、剣護が更に訊いた。
「怜はまだいるの?」
「ええ。心配して、ずっとついててくれてるわ」
 剣護は安堵(あんど)や心配の入り混じった、複雑な溜め息を吐いた。

冷えた麦茶のコップの載(の)った盆を手に真白の部屋に入ると、祖母が言った通り、真白はベッドに横たわり眠っていた。蒼白な顔色を見て、剣護が眉を顰(しか)める。雨の降りは強くなってきたらしく、ざあ、という雨音が、室内にも響いていた。
「一体何があった、次郎?この一年程は、真白はそうそう熱を出していなかったのに。雨にでも打たれたのか?」
 盆を小テーブルに置き、怜にコップの一つを差し出しながら尋ねる。
 怜は真白を守るかのようにベッドの前に胡坐(あぐら)をかき、腕を組んでいた。
 剣護の問いを受けて、ちらりと真白の顔を見て眠っていることを確認する。その眠りを妨げないように立ち上がってベッドから距離を取り、麦茶の入ったコップを受け取ると声のトーンを落として答えた。
「いや。俺も真白も折(お)り畳(たた)み傘(がさ)を持ってたから、濡(ぬ)れてはいない。……下校中に、魍魎に遭(あ)った。正確には、魍魎に喰われそうになっていたクラスメートを助けて、魍魎を滅(めっ)したんだけど――――――」
「けど?」
 自らも麦茶を口に含みながら、剣護が先を促す。
 怜が浮かない顔で続ける。
「―――――――…真白がそのクラスメートを心配して無事かと訊いたら、〝近付くな化け物〟と言われた。真白は返り血も少し浴びたし、精神的ショックと汚濁への拒絶反応が、併(あわ)せて発熱に繋(つな)がったんだろう。……本当は、真白には口止めされてたんだけどね」
〝お願い、次郎兄。太郎兄たちには言わないで〟
 それは秋山を庇(かば)う思いと、「化け物」と呼ばれたことを恥じる思いから出た言葉だったのだろうが。
 ――――――――そういう訳にもいかない。
(ごめん、真白)
特にこんな時の剣護はひどく勘が良く、怜が口を噤(つぐ)んだとしても誤魔化(ごまか)しきれなかっただろう。
「…………」
(近付くな化け物――――…)
 話を聴いた剣護は、額に手を当てて深い溜息を吐いた。
 暗澹(あんたん)たる思いだった。
「――――放っておいて良かったんじゃないか、そんな奴」
 低い声で言う剣護を、怜が見据えた。彼はコップを手にしたまま、まだ一度も麦茶に口をつけていない。
「出来ないよ。解るだろう?」
「――――――……」
 剣護も本気で言った訳では無かった。
 どうにも遣(や)り場(ば)の無い憤(いきどお)りが、彼に本心とは違う言葉を口に出させた。
 恐怖に駆られた人間が、怯(おび)えが過ぎるあまり他人を傷つけるのはよくあることだ。
 しかし。
 剣護は、眠る真白の青ざめた顔を見る。
(真白―――――――)
「…そいつが、学校で色々言いふらす、って可能性は無いか?」
 剣護が胸に浮上(ふじょう)した懸念(けねん)を口にする。
「それは無いだろう。……何か言っても、誰が信じるとも思えない。本人が白い眼で見られるだけだよ」
「そうだな…。不幸中の幸いってとこか」
 ハンガーにかかった、制服に目を遣る。怜もその視線を追って言った。
「真白の制服も、浄(きよ)めておいたほうが良いな」
「…次郎、覚えてるか?前生で、国造家に披露(ひろう)した奉納試合(ほうのうじあい)を」
「――――――覚えてるよ」
 それはまだ、小野家に惨劇が起こる前。
 小野太郎清隆は十六、次郎清晴は十四歳の年のことだった。
 出雲大社においては、大社を統括(とうかつ)する千家家(せんげけ)と北島家(きたじまけ)、両国造家に披露する奉納試合が催された。その試合に勝ち残る者は少なくない褒賞(ほうしょう)と栄誉(えいよ)、名声(めいせい)を約束される。出雲国一国のみならず、他国からも腕に覚えのある人間が、我こそはとこぞって参加した。そんな中で、腕自慢の武芸者を次々と打ち負かし、最後まで勝ち残ったのは若干(じゃっかん)十三歳の小野若雪(おののわかゆき)だった。華奢(きゃしゃ)な体躯(たいく)に白い肌、儚(はかな)げに整った顔立ちの年端もゆかぬ少女が、勝利者の栄光を掴(つか)み取(と)るとはその兄たちを除いて誰に予想出来ただろう。
「若雪が国造から賛辞(さんじ)を受けたあと、俺たちのところに来る途中、最後に若雪と立ち合った侍が言った。〝この化け物が〟と」
〝この化け物が〟
 国造家からの賛辞に頬を紅潮(こうちょう)させ、兄たちのもとへ駆けていた若雪は、憎々しげに吐き捨てられた言葉に、顔色を変えて立ち尽くした。思わず刀の柄に手をかけ、身を乗り出しそうになった次郎清晴(じろうきよはる)を止めたのは、太郎清隆(たろうきよたか)だった。けれど止めた本人が、一番怖い顔をしていた。見る者がたじろぐ程の。
「…覚えてる」
「……人は妬(ねた)み、嫉(そね)む。…怯(おび)える。それはどうしようもない感情なんだろうが…、何の落ち度も無い真白が、悪感情(あくかんじょう)に晒(さら)されるのは理不尽(りふじん)だ」
「俺たちでフォローしていくしかないよ、太郎兄。その為の兄妹だろう?」
 落ち着いた瞳で怜が言う。
「ああ…。確かにその通りだ。けど、それもいつまで続けられるものか解らない……」
「どういう意味?」
 剣護は、言うべきか迷うような表情を見せた。
「…俺たちが、この先何度生まれ変わっても、兄妹としての記憶を保持(ほじ)し続けられる保証なんてどこにも無い。今生でだって、いつまでこんな風に一緒にいられるか見通(みとお)しも立たないのに―――――――」
 廻(めぐ)る輪廻(りんね)の輪が、いつまで自分たちの絆(きずな)を許すものか――――――。剣護はそれを危(あや)ぶんでいた。
 怜の目には、静かな光と諦観(ていかん)のようなものが宿っていた。
「俺は、何があろうと真白や太郎兄、三郎との記憶を手放すつもりは無いよ」
 確固(かっこ)とした口調で言い切った怜は続けた。
「それでも、万一俺たちが離散(りさん)してしまっても――――――、成瀬だけは真白の傍にいる筈だ。俺たちのぶんも、あいつが背負って真白を守るだろう。若雪が人として転生し続ける道を選んだ時点で、嵐も相応の覚悟をして然(しか)るべきなんだよ。……若雪の選択は、嵐の存在があってこそのものだったんだろうから」
 神として転生の輪から外れるのではなく、人として転生し続けることを若雪は選んだ。そして今に至る。
 剣護が口にするまでもなく、怜は既にあらゆる可能性を考えていたようだった。
「苦労性(くろうしょう)だな、次郎。―――――俺は時々、お前が心配になるよ」
 思考の鋭さと繊細さが、怜自身の負担になるのではないかと。
 怜は微かに笑った。
「人のこと言えないよ、太郎兄。人が好(い)いところは昔から変わらないんだから」
「そうか?」
「そうだよ」
 剣護は窓の外の、降りしきる雨に目を遣(や)った。
「―――――…結界に揺らぎは無いようだな」
「それは心配無いよ。それにこの家は、神の眷属(けんぞく)である真白が長く住まう家で、言わば神域だ。清浄な気配が濃く満ちたここに、手出しする妖(あやかし)がいるとも思えない」
 それでも、事態が収束(しゅうそく)するまで真白たちに出雲へ行くよう勧(すす)めたのは、出雲大社を中心とした神域が広かった為でもある。真白の家が神域に等しいとしても、真白と市枝が長期間この家に籠(こも)り通(どお)しでいるには無理がある。
 戦端(せんたん)が開かれる前、透主(とうしゅ)より報せを受けた直後、剣護と怜は手分けして真白と市枝の家、荒太の入院する病室、そしてそれぞれの自宅に結界を張って回った。荒太が退院する際、彼の自宅にも結界を張るつもりでいたが、真白から魍魎にまつわる話を聴いた荒太は、既に独力(どくりょく)で結界を張っていた。それを見て取った剣護と怜は、さすがは元陰陽師、と二人して感心した。
 剣護は眠る真白の顔を見ながら思い返していた。
(身体に負う傷は、俺たちにも防ぎようはある。だが、真白が心に負う傷までは防ぎようが無い――――…。……――――戦の渦中(かちゅう)に身を投じる以上、それすら心構えをしておくべきなんだろうが――――――――)
「…真白は、このくらいでは泣いていられないって言ったよ。実際、泣かなかった。……涙を溜めこんで。こんなことになるくらいなら、無理にでも泣くように言えば良かった。相変わらず不器用なんだよ、この子は」
 怜が真白の顔を見つめたまま、静かな声で語った。
 雨はまだ降り続いている。
 怜の握るコップの麦茶は、既に温(ぬる)くなっているだろう、と剣護は思った。

白い現 第二章 布陣 三

白い現 第二章 布陣 三

梅雨入りのころ。剣護はある人物を待っていた。一方、同級生の言葉により、傷ついた真白は――――――。

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 青春
  • アクション
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-08-29

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