白い現 第二章 布陣 二
人の心は難しい、というお話。
第二章 布陣 二
二
(あ…、門倉さんだ)
秋山耕平(あきやまこうへい)は、登校して来た真白にすぐ気が付いた。
取り立てて派手な言動をする訳でも無いのだが、真白には黙って座っていても、周囲に清涼な空気が行き渡るような、不思議な雰囲気があった。
「女流歌人(じょりゅうかじん)」、「陶聖の白雪」とあだ名される彼女に、耕平は仄(ほの)かな憧(あこが)れを抱いていた。
尤(もっと)もそれは耕平に限った話ではなく、一年A組の男子の多数に当てはまることだった。
けれど、凛として、どこか軽々しく近寄り難い雰囲気を持つ真白に、積極的に近付こうとする果敢(かかん)な男子はいなかった――――――――つい最近までは。
そう考え、耕平はちらり、と二つの方向にこっそり視線を向ける。
一方は、季節外れの転入生・江藤怜(えとうりょう)。
そしてもう一方は、交通事故に遭(あ)い、一月以上の入院とリハビリを経て、先日から登校し始めた成瀬荒太(なるせこうた)。
成瀬荒太が初めて登校し、改めてクラスで自己紹介した時、彼の優しげな顔立ちに女子生徒がざわついたのを覚えている。
「うちのクラス、イケメンが二人もいてラッキーだねー」と言う声が聴こえたのも。
その時、耕平はつい真白の様子を窺(うかが)った。彼女は他の女子とは違い、浮ついた態度は見せないだろうと思っていたが、やはり気になったのだ。
荒太が自己紹介した時、真白は別段変わりないように見えた。
けれどほんの一瞬、荒太が真白の席に目を遣(や)った時、彼女は顔を伏せた。その直後に顔を上げた彼女はもういつも通り平静だったが、耕平にはぴんと来るものがあった。
成瀬荒太は、門倉真白にとって特別だ―――――――。
真白は江藤怜とも親しいようだったが、荒太との間に流れる空気は、また違った意味で親密なもののように、耕平には感じられた。
三人はいつもベタベタと一緒にいる訳では無いようだった。しかし、整った容姿、クールな雰囲気、優秀な頭脳、という共通項により、周囲の人間にはどこか一括(ひとくく)りにして見られる傾向があった。
彼らは特別なんだ、と耕平は思っていた。怜や荒太ならば、真白にさえ近付ける。
真白も、二人を受け容れる。
耕平も勉強が苦手ではなく、特別進学クラスである一年A組の一員ではあったが、彼らに優秀さで敵(かな)うとは少しも思えなかった。
少しでも真白に近付きたくて、勇気を奮(ふる)って初めて挨拶(あいさつ)した時には、緊張で身体が固まるようだった。
〝お早う、門倉さん〟
そう声をかけた時、もし真白が自分の名字を覚えていなかったらどうしよう、と思った。
耕平は取り立てて何に秀でる訳でも無い、ただ少しばかり勉強が出来るだけの平凡な男子生徒だ。容姿も、格別優れてなどいない。
けれど真白は、挨拶(あいさつ)を返した。
〝お早う、秋山君〟
静かな微笑と共に。
クラス委員になったとは言え、まだ同じクラスになって一月も経たないころだった。
しかし真白は、耕平の名前を記憶していてくれた。耕平はそれだけで浮き立つような気持ちになった。
真白が怜と荒太と共に話しているのを最初に見た時は、なぜか裏切られたような気がした。
所詮、自分はそちら側には行けないのだ、と宣告された気分だった。
―――――――以来、耕平は真白に挨拶をしていない。
それに耕平は、成瀬荒太と江藤怜が苦手だった。
彼らは、何もかもを見透(みす)かすような目をする時がある。自分の卑小(ひしょう)ささえ見抜かれそうで、耕平は極力(きょくりょく)、二人の視線を避けていた。
「え、今日は剣護先輩は一緒じゃないの?」
下校を知らせるチャイムが鳴り、一年A組にやって来た市枝は意外そうな声を上げた。
「うん。何か、寄るところがあるんだって」
市枝の問いに、真白は軽く肩を竦(すく)めて答えた。
「怪(あや)しいわね」
市枝の目がきらりと光る。
「いや、別に怪しくないでしょ。ただの寄り道でしょ」
「剣護先輩って好きな女の子とかいないの?」
「え、知らない。聞いたことないけど。いないんじゃない?」
市枝の問いに、真白は戸惑いながら答えた。
「だって太郎兄だよ?」
この理屈に、怜が笑った。
「根拠になってないよ、門倉さん」
「うーん。でも俺も、剣護先輩に好きな女子とかって、あんまりイメージ出来ないというか……」
「まあねえ、そうねえ。真白ばっか構ってて、将来、婚期を逃しそうな感じもするし」
荒太の意見に、市枝も同意する声を上げる。
「それは言えてる」
「他人事(ひとごと)じゃないぞ、江藤」
頷く怜に、すかさず荒太が突っ込む。
本人のいないところで、真白たちは割と好き勝手なことを言っていた。もし剣護がここにいれば、お前ら、俺を何だと思っていやがる、と喚(わめ)きそうなところだ。
「…まあ、とりあえず帰ろうか」
真白の言葉で、四人は教室をあとにした。
魍魎との戦に加わると決まってから、学校から帰宅する時には、必ず真白は剣護に、市枝は怜か荒太にそれぞれ家まで送ってもらうことになっていた。尤(もっと)も真白は家が隣同士ということもあり、つい最近まで日常的に剣護と二人で登下校を共にしていたので、その点は今までと変わりなかった。しかし今日は剣護がいないので、怜が真白を、荒太が市枝を送ることになった。怜も荒太も、家の方角は真白の家とかなり隔たっているのだが、ジャンケンの結果決まったこの組み合わせに、満足げな表情を示したのは怜だった。
「悪かったわねー、真白じゃなくて」
市枝は皮肉な口調で荒太に言った。
荒太はしばらくの間、自分の出したチョキの手を、恨めしげに見つめていた。
帰りのバスに乗り込もうとした時、真白はクラスメ―トの秋山耕平の後ろ姿を見つけた。
確か彼は、放課後の時間を専(もっぱ)ら塾通いに費やしているという話を聞いた。今日も塾に行く途中だろうか、どこか力無い足取りで、真白たちの乗ろうとするバスの進行方向とは逆に歩いている。
(……最近、挨拶してくれなくなったんだよね)
真白がお早うと声をかけても、ぼそぼそ、と口籠(くちごも)るだけで真白を避けているようだ。
(―――――これが初めてじゃないけど)
耕平のように、最初は気安くしてくれても、時が経つにつれ、真白から遠ざかって行く同級生はいた。
〝住む世界が違うから〟、などと言う真白には不可解な理由で。
「真白、バスが行ってしまうよ?」
バスの運転手が、乗るのか乗らないのか、という焦(じ)れた顔で真白と怜を窺(うかが)っている。
声をかける怜に、真白が耕平を指差した。
「次郎兄、あそこ、秋山君がいる。……何だか、様子が変じゃない?」
真白の指の示す方向を見た怜の顔つきが、厳しくなる。
結局、バスは二人を置いて遠ざかって行った。もうもうと立つ排気ガスから、顔を背けるようにして真白が尋ねる。
「どうしたの、次郎兄?」
首を傾げる真白を促すように肩に手を置くと、怜は走り出した。口早に言う。
「―――――――汚濁(おだく)の気配だ。秋山の行く方向。このままだと、あいつが危ない」
それを聞いた真白は顔色を変え、慌(あわ)てて怜に続いた。
塾までの道のりを歩いていた耕平は、ふと、周りに誰もいないことに気付いた。
(あれ………?)
本屋やコンビニ、スーパーにスポーツ用品店などがひしめき合う通りは、いつもはもっと喧噪(けんそう)がうるさいくらいなのに。
普段は煩(わずら)わしく思える音が、今は一切皆無(かいむ)だという事実を、耕平はむしろ不気味に感じた。自分以外の人間の気配が全く感じられないことが、これ程不安なものだとは思わなかった。
まるで、世界で一人ぼっちになったかのような心許無(こころもとな)さ。
(どうして、こんなに人がいないんだ?)
誰でも良いから、自分の前に姿を現して欲しい――――――――。
胸に沸き起こる不安から、耕平がそう念じた時。
ふわり、と風に乗って、何とも生臭(なまぐさ)い匂いが鼻をついた。
(何だ、この匂い――――――)
耐(た)え難(がた)い悪臭(あくしゅう)に、思わず鼻を手で覆う。
ずる、ずる、と何かが地を這(は)うような音がする。
ずる、ずる、ずる。
音のする方向を見遣(みや)った耕平は、悲鳴を上げた。
「ひ…………っ」
そこにいたのは、醜(みにく)く大きな蛇だった。その口で、耕平を一呑(ひとの)みすることくらい、余裕であろう巨大さだ。その身体は、濁(にご)った赤や青、緑など様々な色合いに変じ、一時(いっとき)として単一の色に落ち着かない。
爬虫類(はちゅうるい)特有の目が、まるで獲物(えもの)を見つけた喜びを表すかのように、にい、と細まる。
(なんだこれなんだこれなんだこれなんだこれ)
逃げようにも、足が竦(すく)んで動かない。身体が、金縛(かなしば)りに遭(あ)ったかのように硬直(こうちょく)している。
大蛇が、鎌首(かまくび)をもたげ大きな口をゆっくりと開ける様子が、まるでスローモーションのように見える。
嘘だろう、と耕平は思った。
(嘘だ、こんなの、どうして、嘘だ)
なぜ自分が、こんなところで蛇に喰われなければいけないんだ。
大きく開かれた口中に踊る、先が二股(ふたまた)に別れた真っ赤な舌が耕平の眼前(がんぜん)に迫る。
(喰われる…………!)
恐怖に耐え切れず、耕平はぎゅっと目を閉じた。
「雪華(せっか)―――――!」
「虎封(こほう)!」
その時耕平の耳を打ったのは、聞き覚えのある男女の声だった。
耕平の脇を、軽やかに駆け抜ける風が、二つ。
彼らの通り過ぎたあとには、不思議と清涼な空気の気配が満ちた。
駆け抜ける合間(あいま)にも、真白は胸中で恐怖と闘っていた。
(大きい。醜い。それに、何て悪臭。――――怖い。けど)
戦わなくてはならない。
(私が、自分で決めたことだ)
誰に強(し)いられた訳でもなく。
守る為に。
心の底から湧き上がる恐怖を、真白はねじ伏せた。
その瞳が強い色を湛(たた)え、雪華を握る手に力が籠(こも)る。
狩りを邪魔された怒りに、大口を開けて向かって来る大蛇をひらりとかわす。
かわした勢いのまま頭の後ろに回り込み、首の付け根と思しきあたりに雪華を突き立てた。ビシャッという音と共に、鮮やかに赤い血飛沫(ちしぶき)が上がる。
(――――――)
魍魎は、体臭ばかりか血までがひどく生臭く、雪華を蛇の肉深くに埋(うず)めた感触は、決して快いものでは無かった。
大蛇が大きな悲鳴を上げのたうち回る。
あまりの動きの激しさに、真白は雪華を持ったまま、弾(はじ)き飛ばされた。その身体を辛(かろ)うじて受け止めた怜が、真白を背後に押(お)し遣(や)る。
そして自らはトン、と地を蹴って身軽に蛇の背に飛び乗った。その身体の中程(なかほど)まで走り、虎封を閃(ひらめ)かせる。ギギギ、と刀身で深く身を抉(えぐ)ると、虎封の白刃(はくじん)もまた赤く染まった。
怜は再び地に降り立つと、真白と耕平を庇(かば)うように大蛇の前に身を置き虎封を構えた。
しかし雪華と虎封の二撃は、既に魍魎(もうりょう)に十分な致命傷を与えていた。身をよじって苦しむ蛇には、もう抗(あらが)う力も残っていないようだった。
あたりが再び濃い悪臭で満ちる。
大蛇は、断末魔(だんまつま)の叫びと共に消えた。
一部始終を見ていた耕平は、放心状態にあった。
(門倉さんと…江藤が、蛇を斬った。あの化け物を、倒した………?)
あんなにおぞましく、醜い怪物を、平然と。
怪物を、平然と屠(ほふ)る存在――――――それは既に、怪物と同義ではないのか。
彼らは自分と何かが違うと思っていた。
違う世界の人間だ、と。
自分がどう足掻(あが)いても近付けない場所に立っているのだと。
当たり前ではないか。
当たり前ではないか。
―――――――彼らは、化け物だったのだから。
門倉真白(かどくらましろ)は、清らかな仮面を被り、周囲を騙(だま)していた化け物だ――――――――――。
真白はへたり込んでいる秋山を見返った。怪我(けが)の無い様子を見て、ホッとする。
(良かった。秋山君を、助けることが出来た)
真白の胸は安堵と達成感に満ちた。
(良かった――――――)
「秋山君、大丈夫?」
その言葉に、耕平はハッと我に返る。
地に膝(ひざ)をつき、まだ乱れた呼吸のままで心配そうに尋ねてくる真白の顔には、蛇の返り血がついていた。
まるで何かの刻印(こくいん)のように、白皙(はくせき)の頬に刻まれた赤。
「―――――化け物」
「え?」
小さく発せられた声を、聴き取れなかった真白が訊き返す。
たまらず、闇雲(やみくも)に手を振り回しながら耕平は叫んだ。
「来るなよ、俺に近付くな、……この化け物!!」
「――――――――」
真白は茫然(ぼうぜん)とした。
耕平は取り落していた鞄(かばん)を震える手で拾い上げると、真白たちを振り向きもせずに走り去った。
恐ろしい脅威(きょうい)から逃げるかのように――――――――――。
(化け物)
地に膝をつけたまま、動けないでいる真白に怜が声をかけた。
「真白。まだ気を抜いちゃいけない。伊吹法(いぶきほう)を行うんだ。汚濁がひど過ぎて、空間が正常に戻らない。…このままだと秋山も、外に出られないだろう」
真白がぎこちなく顔を怜に向ける。その顔は青ざめていた。
「………次郎兄」
「…出来るね?」
「……うん」
ふらりと立ち上がる真白の姿を、怜は痛ましい思いで見ていた。
「神の御息(みいき)は我が息、我が息は神の御息なり。御息を以て吹けば……、」
(―――――無理か)
声が途切れ、泣き出しそうな顔になった真白を見て怜は思った。
しかし真白は、グッと両の拳(こぶし)を握り締めると震える息を吸い、祓詞(はらえことば)を続けた。
「穢(けが)れは在(あ)らじ。残らじ。…阿那清々(あなすがすが)し、阿那清々し」
唱え終ると、大蛇が倒れたあたりに向けて息を強く吹きかける。
清(きよ)らな風が空間を洗い浄める。満ちる、清水の気配。
日常の喧噪が戻って来た。
チリンチリン、というベルの音と共に、自転車が二人の脇を通り過ぎる。
道の真ん中で動かない真白と怜に、買い物帰りの主婦や同じ陶聖学園(とうせいがくえん)の生徒らが、訝(いぶか)しむ眼差(まなざ)しを送りながらすれ違った。
「…………」
「真白」
「…………」
「終わったよ」
言いながら、ハンカチを取り出して真白の頬についた血を拭き取る。
そして、その頬に手を当てると「穢れは在らじ。残らじ」と略した伊吹法を唱えて浄(きよ)めた。真白はされるがままになっていた。
壊れ物を扱うように、そっと声をかける。
「真白。…―――もう、泣いて良いんだよ」
「……ううん、泣かない」
真白が耕平の走り去った方角に視線を据えたまま答えた。
奥歯を噛み締めて、続ける。
「泣かないよ。…だってね、次郎兄。これから、もっと辛いことが起こるかもしれない。もっと悲しいことが起こるかもしれないでしょう?だから私は、このくらいでは泣いていられないんだよ。この道を選んだのは私だもの。……だから泣かない」
真白は心に鎧(よろい)を纏(まと)ったのだ。
怜は彼女の言葉を聞いて、そうと察した。
(―――――泣かれるほうが、まだましだったな)
それとも自分が荒太であれば、真白は泣けたのだろうか。
「これであと七十九体だ――――真白。この戦(いくさ)、早く終わらせよう」
真白の心が凍りついてしまう前に。
怜の言葉に、真白は微笑を向けた。
どこか虚(うつ)ろで、儚(はかな)い微笑だった。
「…そうだね。次郎兄。……ああ、降り始めちゃった」
真白たちが戻った通常の空間には、雨粒(あまつぶ)が落ちて来ていた。
白い現 第二章 布陣 二