モザイクフレア 完結
* ******
私の日常は変わらない。白い部屋に居て、仕事をする。
私の仕事は画面を見ること。
目の前の画面を見る。立ったままじっと見る。画面が消えると横へ移動して見る。座って見る。画面は動く。右には右の画面、左には左画面、真上には上画面。
触れると弾け消える。消えた画面は新しい物を写す。触れる。消す。現れる。また触れる。
この空間に不満を持ったことはない。
目の前にある仕事を熟す。時間がくればオメガがやってくる。
オメガは私に言う。
「次のシステムに移る」
私は立ち上がりオメガの後に従えば、明るい空間が更に明るい空間に繋がっていく。
この日、人の姿を見た。それが人の姿だと感じた。それは疑問だ。今まで人を感じたことがなかった。他人を見たことがなかった。今、突然現れた人。人は何なのか。その疑問は私の中に残らなかった。何故か、人だと感じ、人は言葉を持つのだと知っていた。
人は、私の部屋に居た。私の部屋なのだろうか。そうでは、なかったのだろう。明るい空間は私が仕事をする部屋と同じ白いだけの空間だ。
部屋を間違えたのは案内役のオメガだ。
オメガは部屋の入り口まで送るといつものように居なくなった。
「ゴメンなさい。部屋を間違えたみたいです。私のアンドロイドが‥」
他人の個室に足を踏み入れた過ちを詫びる言葉を発したのは私だ。だが、自分で自分の言葉に驚いていた。
私のアンドロイド――その言葉は何?と言葉を無くした私に、そこに立つ男は突然の訪問者の私に振り向きもせずに言った。当然の様に。
「私の意識が貴方を呼んでしまったのだろう。私と共鳴したのなら、君には見えるはずだ?探してくれないか。文字だ」
と太くはっきりした声が頭の中に響いた。
男の人だと、頭の中で何かが揺らめいた。
「緑色の文字が壁の何処かに隠れているはずだ。一緒に探してくれ。アートの裏か、ピアノの後ろ。そのベッドの壁かマットの下だ。見るんだ」
見る――その言葉が頭の中の何かを拭い取った。そう感じた。すると、はっきりと見えた。姿だ。男の人のその屈み込んだ後ろ姿がはっきりと見えた。
白い繋ぎのルームスーツ姿だ。ウエストに黒いベルト、大きな黒い靴、触れたくなるような金色の長い髪。白い大きな手が整えられているベッドを乱していく。
その広い肩に触れたい、何故かそんな心地が胸に沸き上がってきた。腕を伸ばしその肩に触れたならその胸は、私を抱き締めてくれる。そんな気が胸を占めたが、そんな浅はかな行為は出来ないと分かっていた。だから見ていた。
男の気が収まるまでと思い、見ていた。すると入り口のドアが開いた。
「ジル!大丈夫ですか」
オメガは一人ではなかった。後に続く二人を伴っていた。二人は男の腕を掴むと唖然とした表情の男を連れ去って行った。
「あれは、誰?」
私はオメガに聞いた。
「侵入者です。貴方の部屋に入り込んだ」
「ここは私の部屋だったのですね。オメガが間違えるはずない。あの人が間違って入っただけなのね」
「そうです。ですから安心して眠るのです。間違いはもう起きない。システムを改善した。貴方を悩ませることは起きない。眼を閉じて、静かに眠るのです」
「そうするよ。オメガ、貴方も安心して」
私は大丈夫、また同じ空間が私を向かえてくれるから――。
** *****
同じ空間は同じ日常を見せる。しかし、男の姿は頭の中から消えてはいかなかった。
色だ。人を認識した時から頭の中に色が溶け込んでいた。金色の髪が美しいと思った時から、その色が頭の中から消えなかった。
白い空間に、金色が鮮やかに張り付いていた。白一色の中の金。『他に色は?』と、ふっと頭の中に想いが過った。
緑色の――。
そうだ、緑。それはどんな色だろう。そう思った時、白い空間の一部から黒い塊が現れた。黒い塊、それは言葉を放った。
「痛いわ。ジル。ちゃんと前を見て歩いてよ。人にぶつかりに来るなんて無作法過ぎるわ」
声音は身近にいる女性だと私に告げていた。すると脳裏は自然と言葉を吐き出した。
「ごめんよ。サワイア。なぜか、ぼんやりしてしまった」
黒い塊は人型を呈し笑い声で言葉を放った。
「最近、おかしいわ。ジル。季節病、それとも恋」
「恋?新しい病気?」
「ジルは物知りなのに、その言葉を知らないなんて‥」
そう言った声は笑った。笑われたからなのか私は胸に詰まる不満に声を上げた。
「貴方は知っているの?サワイア!」
すると、ムキになった言葉が返ってきた。
「私は知っているわ!女の子は何時でも恋しているわ。私だって女の子よ。素敵な男の子に恋するわ」
強い言葉だった。心に刺さるほど鋭い言葉と感じたのは何故?と、自身に問う不思議を感じた。
『素敵な男の子――』
心がふわりととろけそうな、そんな気がした。
『男の子』その言葉が、ざわめく心地を感じさせた。その言葉を知っていた。そして『恋』は誰もが知っている言葉だが、誰でもが使わない言葉だと感じた。
単純な言葉が変に心を騒がす理由を、知ってはならないと感じた。そう思うと何故か心が弾けてしまう。胸を押さえた。すると目の前に人の姿が現れた。
天上から溢れる光がその子を照らす。白い肌と黒い瞳が輝き笑みを浮かべていた。
「サワイア‥」
私は彼女の名を口の中で呟いた。まぶしすぎる毅然とした少女が目の前に立つ。三つ編みを動物のたてがみのように立ち上げ先端に煌めく白い飾り紐で括っている。その色がいやに眩しく感じられた。
「今日は日曜日よ。公園は人であふれるわ。ぼんやりしていたらまた人とぶつかるわよ。ベンチに腰掛けて日光浴しましょう」
「日光浴‥」
それが習慣だと頷いた。するとそこに白い三人掛けのベンチが現れた。ここは公園だと思うと青々とした草地が遥か先まで続く広い草原が見えた。
風が穂先の長い草地を揺らす。音の無い大地が風のうねりに色を変えながら山手の方から押し寄せ、足元を滑り後方へ消え去った。広すぎる大地に人の姿は無い。風のうねりが草原の色を変えるだけだ。
私は長い間、白いベンチに座って居た。
横にいるのは黒い髪を腰まで伸ばした少女から乙女になったばかりのサワイアだ。彼女の上に光がある。降り注ぐ光は空と同じ青色だ。
*** ****
青い零れ日が空から落ちていた。
ここの空間は青だった。
青い空から青い光が注ぐ。青い幹が空高く枝を伸ばして水色の葉を溢れんばかりに揺らしていた。何時か何処かでその光景を見た気がした。
白と青の重なりあう中に光が溢れる。それが風になる。風が影を見せた。重なり揺れる影を何処で見たのだろうと自身に問いかけても答えは無い。分からないのだ。
幼い頃に追い掛けた夢なのだろうか。
幼い‥時って、何だとまた自身に問いかけた。
すると明るい色の髪をした小さな子が突然、座るベンチの前に飛び出してきた。
赤い風船を持った男の子だ。白いTシャツと黄色い半ズボンの男の子は私に笑いかけると駆け出した。青い草地を円を描いて走る。私達の座るベンチの周りを赤い風船を高く上げて走った。
サワイアが笑った。嬉しそうに笑った。私も笑っていた。心が少年と重なり走っていた。走れる。私は走れると草地を蹴った足を高く上げていた。風を全身に感じた。これが走る事だと声を上げた。
「走れる。私、走れるのよ!」
ベンチの座ったまま両手を上げてそう叫んだ時、胸に強い刺激が走った。
痛み――と感じた。胸に何かが刺さる感覚だ。初めて感じた感覚だった。胸に残る違和感を取り去ったのは、サワイアの熱い手だ。私を気にすること無い細い手が、肩に張り付く。
その手は熱い。全ての苦痛を取り去る様に柔らかで暖かい手だと感じた。するとまた、穏やかな時がまた戻ってきた。私の瞳は幼い子どもの仕草を追う。
幼い子どもは走る。声を上げ飛び跳ねる姿が少年になったと気づいた。更に走る事を止めない少年は直ぐに青年の姿になった。瞳を凝らして見つめると、その髪は明るく輝く金色の長髪だと分かった。
金色の髪――。何時か何処かで見たと感じただけで心には残らなかった。それよりもその人の身体は痩せこけていた。
長身の痩せた男は私の前で立ち止まった。その顔は振り返る。輝く様な白い肌を見せたその顔が笑みをつくると、長い手を差し出した。私では無い、隣に座るサワイアに、だ。
サワイアも長い金髪をした青年が差し出す手に、指を絡ませた。二人はお互いを見ていた。
私は二人を見ていた。惹かれ合う二人の姿を穏やかな心地で見ていた。嫉妬する心地も、怒りも悲しみも無かった。湧き上がる物が無いのかと思えばあった。
胸の鼓動が、強かった。何か新鮮な感覚が生まれていると、感じていた。だから、しばらくこの気持ちを抱いていたいと思った。
三人はしばらくの間、そのままいた。
静かに座るその中に、言葉は流れるように生まれた。
「ドームが閉じるわ。部屋に帰る時間よ」
サワイアがそう言った。すると二人きりで居ることに気づいた。二人でベンチに座り空を見ていた。
青い空間に暗さを感じた。空が紫色をしていた。
綺麗だ、なんだか懐かしいと感じた。心はその色を求め、何時までも見ていたいそんな気になっていた。見ていれば何かが起こる、そんな予感がした。しかし横にオメガが立った。オメガの指示に従う。決められたことのように従う私は、紅みを帯びた紫色の天上を何度も振り返った。
惹かれる。何故かその色に惹かれた。戻ってその色がどんなに変化するか確かめよと、不穏な心地が胸を湧かす。
その日から不思議な心地が胸の奥を占めていたが、変わらない白い空間が私を待っていた。
何事もないように月日が流れていく。
「朝ごはんを食べていないでしょう」
ある日、サワイアが突然目前に現れたかと思うとそう言った。私が悪いことをしていると強い声で言う。私は両手にランチプレートを抱えていることに気づいた。プレートの上の彩りの食彩が眼を刺した。
白プレートを飾る、赤と黄、緑に茶色の鮮やかな色が眼に眩しい。これは何と思う私はそれでも次の動作をしていた。目の前に椅子に腰掛けたのだ。
斜め横にサワイアが座る。
残さず食べなさいと、白い空間が語りかけた。
これは朝食だ。黄色と赤は私の好きなオムレツだ。茶色に焼けたトーストとサラダ。片手がグラスを握る。オレンジジュースだと、喉がなった。しかし、プレートの鮮やかな色に手が出せなかった。
「今は良い。心が、満たされているから。心が乾いたら自然と求めるようになるわ」
オメガの声が柔らかに流れる。オメガの声は女性なのと聞きたくなる様な澄み切った響きだ。そう思うと色が見えた。オメガの色が見えた。白い服を着た女性。サワイアより少し年上だと分かる面差しがゆっくりと形を表した。黒い髪と白い肌が印象的な女性だ。
綺麗な人なのだと捉えると、胸が急に高鳴った。顔が熱くなった。今まで人と思わずに接していたから、急に恥ずかしさを覚えた。
「ゴメンなさい」
私はそう呟いた。何に対して誤ったのか分からない。すると暖かな手を感じた。肩を抱く柔らかな手は頬ずりしてきた。
「大丈夫よ。私が貴方を守るわ。貴方が大好きだから‥」
守る――、そうだ。その言葉を何度も聞いていた。この人は私を愛している。私は愛されている。そう思うとまた色が見えた。水色の瞳だ。透き通る水色の瞳は黒く長い睫毛を濡らしていた。
「私のために泣いているの?」
「そうよ。貴方がいなくなったから、悲しくて泣くのよ」
「私?私はここに居るのに‥」
**** ***
「夢を見ていたの?」
女性の声がそう聞いた。
「笑っていたわ。とても、嬉しそうに‥」
「ボク、笑っていた?」
と、その人に聞いた。
「ええ、とても嬉しそうな顔だったわ。起こすのが悪い様な気になったわ」
赤いと感じた口元が動く。疲れを見せた顔が頷く。この人は誰と自分に問いかけた。
答えはママだ、僕のママ。
白い部屋に白いブラインドが光の反射を見せる。明るい光が部屋に溢れている。ここはボクの部屋だ。白いシングルベッドに横たわったボクは黄色いポロシャツと黒いズボンを履いていた。机がある。ベッドの横に勉強をするための机が並ぶ。机の上には本とノートと鉛筆がある。
また勉強の途中で居眠りしてしまったのだと分かった。でもママは叱らない。ボクのすることを何でも許してくれる。欲しい物を与えてくれる。でも夢の世界は違う。ママには届かない。
「そうだ。夢を見ていたよ。たくさんのゲーム画面を叩いていた。PC画面が幾つも出てきて‥。たくさんの文字を呼んで、答えを入れる‥それが僕の仕事だった。それから、アンドロイドがいた。女の子も‥何かを言われた。でも忘れちゃった」
「夢は忘れる物よ。だからたくさん見ることが出来るのね。さあもうお昼よ。嫌な時間だと思わないでよ。今日は頑張って食べてくれるでしょう?それとも注射にするの」
「ママは何時も意地悪だ。嫌いな人参とトマトを必ず入れてる」
この人は特別な人だと、頭の中が理解していた。ママという特別な人だ。特別の人は特別に温かく受け止めてくれる、だから言葉が飛び出る。
「それはママに対する意地悪よ。パパに言いつけるわ。要がママをいじめるってね」
かなめ――。その言葉が不穏な感覚で胸に刺さった。
「要‥僕って、要って言うんだよね」
「どうしたの?食事だけで無く、自分の名前も嫌いになったの?」
「違う名前で呼ばれていたような気がした。違う名前‥」
「違う・・名前。どんな名前?」
「覚えていない。でも、呼ばれていた気がする」
「要って、パパがつけたのよ。」
「知ってるよ。パパが教えてくれた」
そうだ。パパがそう教えてくれた。そのパパは何処・・。
「パ‥パ。僕、パパの顔、忘れた‥」
顔を背けたママの顔が曇っていた。僕ははっきりそう感じた。言ってはいけなかったと思ったがはっきりと言葉に表したほうが良いと心の奥で何かがそう言った。しばらくの無言の間があった。
「そうね。パパに会いに来てって、電話を入れるわ」
「忙しいって、会いに来てはくれないよ。半年ぶりに会いに来てくれた時だって、風邪をひいたからって大きなマスクして、顔をチラって見ただけで行ってしまった。パパは僕に会いたくないんだよ。僕の事、愛していないんだ」
その時何故かムキになって言い放っていた。そんなボクをなだめるようにママは優しく言った
「そんな事ないわ。この時は、本当に風邪をひいて熱があったのよ。ドクターに止められていたのよ。本当よ。パパも要に、風邪がうつってはいけないと‥。残念がって‥いたわ」
慌てた声はわがままを言う僕を責めてはいない。僕を傷つけないように気遣う声が、涙で消え入りそうに細くなった。
「要に会いたがっているわ」
分かっていた。パパが僕に会いたくても会えない事は分かっていた。
三年前、外国に転勤になったと電話で言われた。賑やかなは場所にいるパパの声が良く聞き取れなかった。見送りに行きたかったが行けなかった。来なくても良いと言われた。今直ぐ発つと。
その後、帽子が送ってきた。サイン入の帽子。強くなれって、手紙が添えられていた。
「僕は弱虫だから、パパは強い男の子が欲しかったんだろうなって思うよ。パパのように強くなりたい」
「人は強いだけでは生きていけないこと、パパに聞いているでしょう。人は一人では生きていけないのよ。二人で手を取り合って人よ。大勢の人と手を取り合えるから人なのよ。誰かを支えるために生きる。要も何時か誰かを支えて生きるわ」
生きる――、その言葉は辛い。ママのほうがその言葉を言うのが辛いと分かっていた。ママは支える人を持たない、パパは遠い外国にいるからだ。パパと別れて暮らす様になってからママの耳に飾りが消えた。長かった髪がどんどん短くなった。パパは長い髪の女の人が好きだ。スリムなグラマー美人のグラビアが書斎の机を飾っていた。
笑っている女の人を見ると心が踊る。何故だろう。パパと一緒に椅子に座りページをめくると胸が高鳴る。見ていく内に全身が心臓の一部になったような鼓動に包まれてしまう。
ママは怒らない。綺麗な女の人に嫉妬しない。服や靴の色や形に意見しても、雑誌を見入るパパに意見しない。それと同じ服を買ったわと言う。パパは僕の頭を撫でながら笑い声を上げる。
あれから何年経ったのだろう。
頭を撫でて貰ってから、声を聞いてからもう三年は経つ。本当に顔を忘れてしまいそうだ。ママは最近良く涙を見せる。僕だって泣きたいんだよ。だから泣かないで、ママ。ママも忙しいから、毎日会いに来てくれない。僕は本当に寂しい。友達もいない。白い部屋で、たった一人で画面を見ているだけ。テレビ画面のゲームとニュース。一日の退屈な時間を過ごすために見ているテレビは部屋の中央にデーンとある。何時も、何時も見ている訳ではない。一日四時間と制限があった。パパとママのために言いつけは守った。勉強もする。本も読む。時たま昼寝になることもあったが、僕はいい子だ。僕は本当にいい子だよと涙を拭くママに呟いた。ママは頷く。鼻を啜りながら頷く。
「写真、持ってきて。ママとパパの写真」
その言葉でママの顔が明るくなったと感じた。
「ええ、持ってくるわ。要の写真も一緒に‥。そうだ。去年の正月に撮った写真があったわ。あれがいいわ。ママが着物を着ている写真。要の笑った写真があったわ」
そうだ、その写真なら見たことがあると僕は思い出した。その時は半年ぶりに会いに来てくれたパパがいた。サンドイッチを食べた。トマトが挟んであったけど食べた。トマトの味がしなかった。マヨネーズの味も、ゆでたまごの食感も無かった。タバコの臭いだけが鼻をついだ。パパのタバコの臭いと手の感触が嬉しかった。パパは僕を空に放り出す。空が景色を変えて回る。パパが僕を呼ぶ。
***** **
誕生日を前に新しいパソコンが、部屋にやって来た。たくさんの人が押す寄せ、あっという間に居なくなった。使い方は画面が教えてくれるとママが言った。ママの頬にくちづけした。今までそんな事はしなかった。初めて抱いたママの肩は細かった。大きいと思っていたママが何故か小さいと感じた。陰りを帯びた顔が僕を見上げ、肩を落とした。
僕が大きくなったのだと分かった。大きくなる、それはママの心を曇らせると知っていた。僕が大きくなってはいけないのだ。大きくなると生きるとは違っているから、ママは僕に大きくならなでと言い続けた。
僕は十三になった。窓に外は雪が降っていた。パパのいない誕生日はもう四回目だ。今年もパパは帰っては来ないと悟る僕は聞かなかった。
ママは何年かぶりに、イヤリングを付けて赤い口紅を塗った。もう大きくならないでとは言わずに、ケーキを食べた。僕はケーキが苦手だ。ママの手作りケーキだったが下半分を食べて後は残した。ママは何も言わずに片付けると今まで閉じていた口を開いた。
「パパが帰って来るわ。クリスマスの日に‥、大切な話があるの。とても大切な話よ。要」
大切な話――。僕はビクリとした。大切な――とは、僕が聞きたくない話だ。パパとママと僕、三人居なければ進まない話だ。僕は耳を覆った。
「お願いよ。どうしても今度は聞いてほしいの」
「ママ!僕は怖い。嫌だとパパに、言うよ。言っていいでしょう」
「要。ママはもう待てないのよ。毎日、毎日、一人で考えていると心が壊れそうなの」
ママは泣く。何時も一人で泣く。でも今日は、僕も泣く。ベッドの中で声を殺して泣く。泣きすぎると息が苦しくなった。
苦しい、苦しいとママを呼ぶ。ママは誰を呼ぶ。喘ぐ僕を見て誰を呼ぶのだろう。パパを?ううん、違う。パパを呼ばない、だって、来ない。遠い所にいるから。
でも今日は来てくれた。お土産はジャンパーだ。僕の好きなプロ野球選手のサインが入ったお土産を手にしたパパは笑顔だ。
「パパ、大好きだよ」
とボクが言うと、パパの顔が揺れた。
愛してしているよ。要、お前は強い子だ。パパの自慢の子だと――。
ゆらりと薄らぐ影絵は、金色の木漏れ日の中に立つ。日差しの眩さが幻を揺らす。ボクは泣いていると気づいた。
ボクは幻のパパを見るために、キーボードを叩く。新しいPCはたくさんの画面を見せる。ボクが描く画面を作る。心を踊らせてくれる、でも楽しいとは感じない。これは幻だと分かっていてもキーボードを叩く、更に新しい画面を開く。それがボクの日常生活。
ボクは何時からこの習慣を覚えたのだろう。この白い部屋に住み始めた頃からだ。パパの指がそれを教えてくれた。公園で赤い風船を空に飛ばしてしまってから、ボクは部屋に閉じこもった。
空は青かった。緑の芝が一面を覆うあの公園は、ボクの遊び場だった。ボクは駆けた。思い切り駆けた。そして風船を無くした。あの日からボクの周りは変わった。ママは涙をパパは後ろ姿を見せるようになった。パパとママの間が開いたと、感じるようになった。
ボクは部屋に篭もる。
あの日から何年立ったのだろう。パパの顔を忘れるぐらい遠い記憶、そうだ、遠い記憶だ。
「良く寝ていたわね」
女の人の声が、ボクを起こした。その声はママだ。ボクのママは言う。いつもの言葉を。
「起こすのが悪いぐらい良く寝ていたわ。でも、薬の時間よ」
****** *
「新しいプログラム?」
サワイアの声が後ろからそう言った。私は振り向くこと無く、そうだと、答えた。
いつもの場所でいつものように、椅子に座った私に気づいた。霧が立ち込め床も見えない狭い空間にいる私の前に、はっきりと見える大きな画面がある。
心惹きつけられる画面が目の前に広がっているから、手を止めたくは無いと思った。だが言葉が、手を止める。
「綺麗な色ね。たくさんの色が重なりあうの、初めて見たわ」
そう言ったサワイアは、私の横に座り顔を寄せてきた。彼女の髪が頬をくすぐる。その感触はそこにある横顔を確かめた。何時もと違う真剣な横顔が見えた。肩を覆うストレートの黒髪がそうみせるのか、その顔は私のプログラムを睨んでいた。
彼女は問う。この女性が着ている、これは何と。
「民族衣装だ。この国の女人の礼装だと思う」
考えること無く言葉が口を吐く。何故、そんなことを知っているかと謎解く心はない。画面が眼を惹き付ける。
私等を惹き付ける画面は、髪を結い上げた女性の写真だ。色鮮やかな模様の柄が描く、独特な衣装が眩しく目前にある。その衣装を身に付けた女性は、華やかな模様とは違いどことなく悲しげに見えた。何がそんなに悲しいのですかと、私は無言で聞いていた。答えは返っては来ないと分かっていたから。
「はっきりした色が使える国って、素晴らしいわ。私も着て見たい!」
弾んだ声が心に響いた。その時初めて惹きつけられる心に気づいた。
『美しい物を身に付ける』
サワイアの瞳の輝きとはっきりとした言葉が、美を求める女心を表していた。その心と私の心は重なった。胸が弾む。装いたいと指が動く。
「では、貴方の顔をここに合わせると‥、ホラ出来上がった」
確かにPC画面は、簡単に人の姿をすり替えた。幾つも垂らした三つ編みの髪型を瞬時に変えた。長い髪を頭上で結い上げた髪型は清楚に見えた。
正面を向いたサワイアの人型は民族衣装を着て微笑む。
私の指は自然とキーボードを叩く。新しいいプログラムが立体に立ち上がったのだ。部屋の中央に立方体が
立ち上がった。サワイアが綺麗と、声をあげた。そして人型のその周りをゆっくりと歩くと、霧がゆらりと流れ銀色の床が現れた。狭い空間が広くなった。
民族衣装のサワイアがそこに立つ。
「黒い髪に赤い髪飾りは眼を惹きつける花の様な感じね。ジル。ねえ、ジル!」
ジル――、言葉が胸に刺さる。私の名前はジルだと、連呼されて理解する。私の名はジルだと、顔を上げてプログラフィーを一周したサワイアを見る。彼女は私と違うため息を漏らした。
「そうね。そこに色があるだけで、胸がどきりとするわ。唇にも赤い色を差して。そうよ。それ!それも、花を感じるわ。服の模様は白に薄紫の羽ね。飛んでいきそうだわ」
そう言ったサワイアは声を上げてはしゃぐ。そして背を向けてPC画面を見入る私の肩に触れた。
「この人は誰?」
その言葉より手の温みが痛いと感じた。肩を覆う手が燃えるように熱いと感じた。身を捩る私からその手は離れた。すると何故かその温かさが欲しいと感じながら口を開いていた。
「少年の父親だろう。白いマスクと白い帽子白いガウン。黒い瞳以外は何も見せたくないのだろうか?」
「取ちゃいなさいよ。貴方のプログラムでしょう。変えるのは貴方よ!」
強い言葉がサワイアだ。彼女は強い人だと感じさせる言葉が指を動かせる。
「出来た。これで良い。父親の瞳は鳶色、大きくてはっきり見開いている。鼻は鷲鼻で肌の色は白より紅みをさしている。髪の色はストロベリーゴールドだ。珍しいね。私もこんな髪色になりたい」
「まあ、何言っているの。貴方は特別珍しいゴールドの髪をしているのに!混じりっけなしのゴールドよ。皆がどれほど貴方の髪に触れたがっているか分からないの?」
「エッ、私に髪があるの?そんなはずないよ。何時も帽子で頭を隠していたのに」
私は自分が発した言葉に、そうだと頷いた。はっきりと脳裏が覚えている。私の頭には髪はない。マルハゲの醜い子どもだ。だから部屋が与えられたのだ。四角い部屋、白いブラインドで窓を覆った部屋が。
「貴方が個室に移った時、どんな大騒ぎになったか忘れたの!女の子だけじゃ無く男の子も個室の前に並んだじゃないの!皆、貴方を見るためよ。貴方の髪に触れたがったからよ。あの大騒ぎで、オメガが貴方を部屋まで送ることになったのよ!」
私は覚えていない。私の記憶を探す。しかし、白い空白が見えるだけだ。両手が頭を抱えた。するとそこに短い髪がある。指は髪を確かめるためにやたらに頭を撫でた。
髪がある、ふさふさとした髪だと感じながら手を動かす。嬉しい、何故か涙がこぼれ落ちた。
「嬉しいの。ホント?」
サワイアの声がそう言った。
「私も嬉しいわ。今日からアナタと同じ個室フロアに住めるのよ。個室よ。大人よ!私、成人よ!」
「個室フロア?大人?」
「そうよ。私、貴方と同じフロアに移ったのよ!」
サワイアが何を喜んでいるのか、分からなかった。
「大人のフロア?大人‥‥、私は大人なのね」
大人と言う言葉が胸の中で異物を作っていた。異物は何を表すのか分からなかった。
「一緒の部屋になるの?」
私は聞いた。たくさんの疑問が頭の中を占めていた。だからきっぱりと言葉を括る、彼女に教わりたかった。しかし、はっきりと分かる曇った顔が下を向いた。
しばらくの沈黙の後、サワイアはくちごもるように言った。
「貴方が望むなら‥、そうなりたい」
「私‥?」
私が何故と聞きたかったが、俯いたサワイアが急に顔を上げて言った。
「この衣装で‥、この模様を全て無くして、純白の衣装で‥、貴方とメゾンへ移りたいわ」
サワイアは目の前に立つ民族衣装のプログラフィーを指差す。その紅潮し揺れる視線の意味が分からない。
疑問は私を包む。しかし、気づいた。
「メゾン‥?ファミリーメゾン!」
個室から家族で住む家へ移る。それは夢だ。たくさんある夢の一つ。私の夢が頭の中で列を成した。すると、私の目の前の空間に色が見えた。
白色の空間に、灰色の塊が見えた。灰色の塊は器具だと分かった。繰り返す小さな音があった。音はゆっくりと重く部屋に響いていた。そこは幾台ものPCが並ぶ。時を刻む音と光の点滅がある。
部屋は広い。白い壁の四角な部屋だ。窓は無かった。しかし、天上も床も明るい光を放っていた。そこに人の気配は無かった。
* ***** *
ボクの日常は変わらない。白い部屋に居て朝を迎え重い瞼を擦り与えられた役目を熟す。
ボクの役目は、この部屋に居ること。与えられたPCを見ること、答えることだ。
目の前の画面を見る。立ったままじっと見る。ゲーム画面が消えると制御室へ画面を切り替える。画面は線を写す。上へ上がり下を向き横へ移動する。ジッと見る。座って見る。画面は動く。右には右の画面、左には左画面、真上には上画面。飽きるまで見る。上へ下へ波打つ線を見る。繰り返されるモニター画面。数字が繰り返す音に変化する。頭の中に数字は残らない。残したくない。
ボクはこの空間に不満を持ったことはない。
時間がくればアラームが鳴る。食事の時間を教えてくれた。排泄の時間も眠る時間も教えてくれる。ママがやって来たことも教えてくれる。
この日、人の姿を見た。それが温みを持つ人の姿だと感じた。それは疑問だ。今まで人の温みを感じたことがなかった。今、突然現れ人と感じる者は何なのか。その疑問は私の中に残った。何故か、人と触れ合える喜びを感じた。
人は、ボクの部屋の前にいた。
ボクの部屋には小さな窓があった。廊下に面した本当に小さな覗き窓だ。何時もは閉まっていた。しかし、この日は開いていた。
十三の誕生日を迎えたその日だった。昼食を終えやっと食器をカウンターに返し振り返った時、気づいた。窓の外から誰かが覗いていた。確かにその目はボクを見ていたのだと分かった。
窓の横に入口の扉がある。使用される事のない扉だ。その横には使う事のないメールボックスが付いていた。利用する事のないボックスが鳴った。
コトンと音が鳴った。
ボクは午後の眠りから覚めた。ママの声ではない音に起された。
重いと感じる身を起こして音の元を探した。手紙だった。
『私、飛鳥。中3よ。たぶんアナタより二つ年上だと思う。毎日、アナタの部屋の前を通ります。いやじゃなければ顔を見せて』
手紙を見た瞬間、胸がなった。直ぐ胸を抑え呼吸を整えた。そうしなければアラームが鳴る。線が乱れる。ママが金切り声を上げてボクの名を呼ぶ。
ママを呼びたくはない。静かに横になった。身体が熱いと感じる胸の高鳴りが全身を包み込む。白いはずの天井が青く見えた。赤い風船が天井に揺れる。無くした赤い風船を、取り戻した気がした。ボクの風船が帰って来た、そんな気がした。
その手紙を受け取った一時間後、窓がノックされた。ボクはカーテンを開けられなかった。気弱なボクが出来たのはノックを返すことだけだった。
飛鳥、その子はとても強い子だと分かった。ボクの心が分かるのか、扉から声が飛び出した。
開けることのない扉にはインタホーンが付いていた。
顔を見せて――、飛鳥は言った。
ボクは自分の顔が醜いと知っていた。部屋に鏡はない。ママがそうした。ボクが鏡で傷つかないようにと。
ボクは唇の上に手術した傷跡が残る。顎が小さく短い、だから耳が大きく異常に下付に見えた。
その事を忘れたボクは、相手の顔を見るためにカーテンから覗いた。
壁を隔てたそこに活発な少女がいた。短く切った髪と真っ白い肌をした少女だ。ボクの胸は強い鼓動を感じた。褐色に近い醜い肌色ではない飛鳥は、手を振って笑った。ボクもつられて笑った。小さく静かに笑った。
この日から僕らはゲームのように窓と扉を往復した。話をするために扉の前に立った。顔を見るために窓を覗いた。飛鳥は良くボクを叱った。ボクはうまく発音できない悩みを持っていたから。
「違うわ。飛鳥!アスカじゃ無くて、アソカよ」
アソカは自分の名前を、間違えられるのを嫌った。
「沢井、アソカ。間違えずに言って、サワイアソカよ。サワイ‥」
「サワイアすカ、アすカ‥、サワイ・ア‥」
アで、詰まった。スと発音できても、ソの音がうまく出来ない。ボクは生まれた時に唇が裂けていたから手術した。口をすくめる音が苦手だ。それでも飛鳥は名前を読んでもらいたいのだ。何度もボクに言い直させた。でも長くは続かない。そのうち飛鳥は口を抑えて窓から消え去る。片手で口を抑え、片手をボクに振る。数日すると、飛鳥は帽子を被るようになった。ボクも禿頭を隠すために帽子をかぶろうかなと思ったがやめた。被っても見てくれるのは飛鳥だけだ。その飛鳥が窓に立たなくなった。しばらくは手紙だけが届いた。
その中に来月の誕生日にプレゼントをちょうだいと書かれて手紙があった。
『十二月二十日、飛鳥の誕生日』
でも、ボクは何も出来ない。花一輪用意することも出来ない。誕生日おめでとうとキスすることも出来ない。彼女もそれを知っていた。
貴方は何が欲しい?と聞かれた。ボクは黙って考える。ボクの欲しい物は全て両親が用意してくれていた。温かい部屋、PC、ゲーム、食事。今何がほしいと言われたとしても望む物は無い――、わけでは無い。ある。あふれるほどにある。頭の中がそれを描くと涙が止まらなくなった。
飛鳥も同じ思いを持っているのだと、その時感じた。
窓ガラスに掌を置いた飛鳥は涙を溜めていた。ボクはそこに片手を重ねた。触れあえない。分厚いガラスは永遠に触れ合う事が出来ないとボク等は分かっていた。
「星が見たいわ」
「星!」
「流れ星」
知っている。PCが見せた流星を思い出した。暗い夜空を流れる一瞬の幻影。飛鳥は幻を追う。彼女は言う、
一緒に生きたいと。
** **** *
草原のベンチに、私は何時も座っていた。そこには光溢れる大地が色変わりを見せてくれていた。今は桜色の光が降り注ぐ白い大地を見ていた。桜色は灰色に変化したと私の目は捕らえた。と、天から白い物が落ちてきた。ひらりと差し出した掌に落ちてきた。後から後から落ちてきた。
白い物は舞い散る。動かず座る私を包み込むように降り注ぐ。それは雪だと分かる。
雪を見た。何時か何処かで同じ光景を見たことがあると、ぼんやりとした感覚が頭の奥にあった。それが記憶なのだと眼を細めて天を仰いだ。顔に雪はかからない。
隣に座るのはいつもの様にサワイアだ。彼女は動かずに前を向いたまま座っていた。黒い髪や長い睫毛に白雪が積もる。それでも彼女は動かず雪に埋もれる大地を見続けていた。
雪を見る、それもここの習慣なのだろうと私も動かずに雪を受け止めていた。
雪色は美しいと感じた。美しい景色が奇妙に変化していく光景を私はサワイアの肩に手を回して見ていた。頬を寄せあって見ていた。
白色に染められていく大地は、ゆっくりと変化を見せた。地面がこんもりと盛り上がり小さな茂みが現れたかと思うと、白い枝を伸ばし四方へ広がっていった。茂みはいつの間にか太い幹になり、しっかりとした枝を生み、そこから次々と細長い枝を伸ばしたと見ると、雪を受け止めて白い花を咲かせた。
純白の林でベンチに座る二人は雪に埋もれても動かない。雪は二人の身体を包む。
「何故、私達は雪を見るの?」
私は問い、サワイアは答えた。
「雪の日に、終わったからよ」
私の胸がドキンとなった。
『雪の日』、その言葉で胸が高鳴った。雪は何を終わらせたのかと私は私に問うた。しかし答えは分からない。答えを知るのはサワイアだけなのか。頭の中に霧がある。どんよりとした重い脳裏は、それを思い出そうとしたが思い出せずに、心が焦る。
思い出せない疑問で胸がざわめき立ち、言葉を放つ。
「何が終わったの?」
「少女の恋が終わったの」
少女とは、誰。と思う心に、何故か恐怖がはりついた。私は少女を知っている。それは大切な事だ。大切な事は遠い日の記憶にあるのだろうか。遠い昔の記憶だから、忘れているのだろうか。それでも少女のイメージが昨日の事の様に、鮮明に感じられるのは何故と私は私に聞いた。するとサワイアが呟く。
「星は見えない・・」
その言葉に私の胸が、また波打った。
「星!」
頭に夜の景色が浮き上がった。『その日が雪の日よ』と頭の中で誰かが言った。あの日も並んでベンチに座り風に舞う小雪を見ていたと、頭の中の誰かが言った。
それは何時だったのかと、喉を鳴らした。その音を聞き取ったのかサワイアが口を開いた。
「夕方の空に星は一個だけ。後は雪が空を隠した・・。空は私の心を感じ取ったのね、きっと」
サワイアは笑った。ふふふっと声を出して笑った。広げた両手を見る顔は喜色に満ちていた。両手の中に大切な物を抱いているように笑う。私は笑えなかった。ひんやりと冷える感覚が心を覆っていた。
「私はまだ妹に、誤っていない。でもあの娘は怒らない・・」
「謝る‥妹に?貴方の妹‥」
「オメガ。貴方がそう名前を付けたわ。何時も貴方の世話を焼く子よ」
「あの娘が妹。それでは私はずいぶん年上のお姉さんなのね」
その私の言葉でサワイアは驚いた顔で振り返った。
「まあ、違うわ、貴方は妹と同じ年よ。貴方は忘れてしまったの?それとも、私が嫌いだったの?」
「私は‥誰?」
「貴方は貴方よ。私に希望を与える男(ひと)‥。貴方は夢の続きを見るわ。この世界で‥」
夢、私の夢?私は夢を見ない。そう決めたと、はっきりと感じた。何故そう決めたのと、私は私に聞いた。
幼い頃の記憶よと、私は答えた。
白い部屋に私達はいた。その部屋に泣きじゃくる少女がいた。
隣のベッドに横たわった少女の涙の訴えを聞いてから、かなわない全ての夢を捨てると決めた。決めたのは私、私は少女の隣で虚ろな時を過ごしていた。確かに少女の暖かい手を握って何かを約束した。それは霧に包まれた言葉だ。言葉を思い出せない。
「少女はもう泣かない。慰める少年を手に入れたから、幸せな夢は続くわ。約束の指輪も貰った。貴男の涙が光る指輪。でももう、泣かなくても良いのよ。貴男はもうあの部屋には帰らない。貴男の命は終わるわ。そして貴方はメゾンで暮らす‥ここで永遠の住民になるのよ」
「命、永遠の住人?」
私はここで暮らしてきた、はずだ。長い時をこの場所で、ここの住民達と一緒に過ごしてきたはずだが、脳裏の記憶には人の姿は無い。
「ここには何故、人が居ないの?」
「居るわ。貴方の周りにはこんなに人が溢れて居るのに‥。感じないのね。でも直ぐに、皆の心を感じ取れるわ。雪に埋もれ私を悲しむ貴方は、私の後を追って来る‥必ず。そうしたら、ここで暮らす全ての人と触れられる‥。直ぐに、貴方はここへ来る‥直ぐよ」
「直ぐ‥」
その通りだった。足元に黄色い花が見えた。すると白い蝶が膝に止まっていた。白いズボンの上から蝶は飛び去った。私はその膝を撫でた。白いズボンを撫でた。それが私だと分かった。隣に白いワンピースを着た女性が座っていた。明るい笑顔を見せたこの人はサワイアだと私は頷いた。サワイアは私の肩に持たれてきた。その手が私の手に絡む。
私の目は人の笑顔を見た。私を取り囲む笑顔が「おめでとう」と言った。私は「ありがとう」と答える私に気づいた。
私は何をしているの?私は誰‥、私は私‥、そうだ。私はボクだ。ボクは十五歳になった。もう、白い部屋にはいない。
** *** **
ボクは雪の舞う町に立った。十二月の街だ。サンタクロースがいた。白く長い顎鬚は付け髭だと分かったが、それでもボクは真剣にその人達を見ていた。
飛鳥に背中を押されても、人の流れを止めて見ていた。それほど、昼過ぎの雑踏の町は興味深かった。ボクにとっては美しい景色に見えた。それは飛鳥も同じだったと後から分かった。だから飛鳥はひったくりにあったのだと。いや、これはボクが悪かったのだ。ボクが先を急ぐ飛鳥を苛つかせたから、彼女の注意がボクだけを見ていたからいけなかったのだと分かっていた。
ボクは町の景色を人の笑顔を貪るように見ていた。聞こえてくる賑やかなメロディを楽しんだ。飛鳥が必死でコートを引っ張っても彼女の後に従いたくなかった。
「夕暮が近づいているから急ごう」
飛鳥の声がやっと耳に届いた。その時だ、飛鳥がキャアと声を上げた。男の身体が飛鳥に大きくぶつかってきたのだ。道路になぎ倒された飛鳥の肩からショルダーバックが消えた。
立ち上がれない飛鳥は逃げる男に声を発する事は出来ない。ボクも声が出なかった。PC画面で見たことのある場面だ。それまでのボクは、何時も傍観者だった。だが今は違う。目の前で横暴を見た。ボクが触れた温かい人が痛みを受けた。
どうすれば良いの?ボクは何をすれば良いのと、眼から涙が零れた。
うろたえ泣くしかないボクに飛鳥は言う。
「大丈夫よ。財布は胸のポケットよ。お金はあるわ」
お金があれば電車に乗れる、温かい飲み物も買えると、飛鳥は言った。確かにボク達は電車に乗った。温かい飲み物も買った。しかし飛鳥は大切な物を無くしていた。金では買えない大切な物を。
ボク等二人に、必要なのは薬だ。飛鳥が薬を盗られた事をボクは知らなかった。
言われたようにカプセルを四つ持ってきた。一日分の薬だ。日に四回飲む時間薬を部屋にあるだけ持ってきた。飛鳥に言われるままに飲んだ。薬は疲労と眠気を与えてくれる。飛鳥の肩で寝入ったボクは気づかなかった。バックを無くした彼女が何を決意したのか。
我慢できない吐き気がボクを襲う。電車の揺れが不快な気分をなお不快にさせた。
人気の無い駅のホームに立ったが、歩けなかった。ボク等は吹き曝しのホームのベンチに倒れこんだ。そこに夜空がある。天井に小さな星の輝きが無数見えた。指がそれを追う。笑っている飛鳥に気づいた。飛鳥はボクの心を知っている。どんなに孤独なのかを。だから今ここにいる。あの白い部屋を逃げ出して、外の世界を彷徨っている。
さ迷う世界は寒い。膝を抱えると急に悲しくなった。すると、眼が熱くなった。涙がじわりと溢れてきた。それを拭く手がかじかんで震えだした。
「もうすぐ、二時間になる。時期、助けが来るわ。貴方の身体にはチップが埋め込まれているから‥。貴方のパパは必死で貴方を助けるわ」
誰かに助けてもらわないと生きられない。それがボク。熱さにも寒さにも耐えられない、それがボク。
毛糸の帽子と分厚い外套を着込んでいたが寒さが手足を凍らせた。凍える身体を寄せ合い飛鳥と二人抱きしめ合った。
「私ね、妹が居たの」
飛鳥は星を見上げながらそう言った。
妹かとボクは手を取り合える相手を思った。小さく愛くるしい姿を思った。
「ズッーと前、小学校の時に・・手術を受けた・・。何度も、何度も・・。針を刺された。横向きで腰を丸めて、泣いたしわめいた。痛い痛いって、抵抗した。妹は何も言わずに絶えたのに、それを知らない私は・・何時も暴れていたわ」
ボクの知識に間違いなければその言葉の意味が分かる。ドナーだ。妹は彼女のドナーだった。辛い、生きるって辛い。他人を犠牲にして生きていく。そうしなければ生きられない。死ぬのが怖いから生きている。ボクの心は脆いから生きている。
「ボクも暴れた。麻酔するだけと言われても嫌だ。いやだ、と言った。ママに‥」
ボク等は同じ仲間だと震える腕を絡ませた。その身体は温かい。とても暖かいと感じた。
それからどれほどの時間をそこで過ごしたのだろう。覚えているのは自分の事を語る飛鳥と星空だ。
「カナメ、私、たくさん、夢を持っている‥毎年、叶えるわ。大人になるの‥そして」
飛鳥はたくさんの事をボクに話した。だけど、ボクは直ぐに朦朧とした世界に入った。生き苦しいわけでも胸に痛みが走っているわけでも無い。時々そうなるのだ。こういる時はアラームがなる。こんなに離れていたらPCは気づかないだろうなとただぼんやりと考えた。
「妹はね。検査で、半身不随になった。それで、自殺した‥、私に、ごめんねって‥言った。ごめんねって‥言うの、私なのに‥」
飛鳥の声は耳元で掠れて消えた。飛鳥は泣いている、ごめんねって、泣いている。大きく息を吸いながら空を見上げた。星も駅の景色も、見えなかった。見えるのは飛鳥の青ざめた顔だ。鼻を拭くその手袋が鮮血で染まっていた。
「鼻血‥、もう、しゃべらな‥いで‥」
ボクは手を差し出す。その血を止めるために、でも指は、震えて流れ落ちる物に触れられなかった。ボクは苦しい息を感じていた。ボクの肩を抱いた飛鳥の腕が落ちていく。
「眠いわ。辛くなってきた‥重いね、身体‥」
その通りだ、身体は寒さで凍ったのか動けない。飛鳥の言葉が聞き取れない。聞き取れるのは叫び声だ。人がいる。沢山の人の気配が赤い光を見せたと感じた。名前を呼ばれていると感じた。
だけどボクは、答えられない。暗い闇の中にどんどん沈んでいくボクの身体を感じるだけだ。
** ** ***
私の前には銀色のPCが並ぶ。私は触れる。幾列も並ぶPC全てを一台ずつ触れていく。広い部屋に何百もの画面の明かりに語りかけた。すると心が溶け込む感じを受けた。懐かしいような、安らぐような心地が私を包んだ。
安らぐ心地は白い空間にいた。真っ白い霧が立ち込める中で一人、当て所もなく進む。上から光が落ちる雲の中を歩く。決して心を乱してはいない。その先に心躍らせる空間が待つ胸が高まった。胸騒ぐ心地だ。心地は、少年が持つ好奇心を満たす。見果てぬ扉を開ける時のキラキラした好奇心は両手で空間を押し開けた。
開けた扉の先に見えるのは、緑色の草原だ。
いつもの公園だと分かった。サワイアと過ごす午後の公園だが、いつもと違った。ベンチに腰掛ける私の前に佇むサワイアがいた。
白い民族衣装に身を包んだ彼女は私に微笑む。
何故私に微笑むの?と私は問う、何かに。何かは私に答えを返す。
それがプログラムだから――。
プログラム?プログラムは赤い色を教えていると感じた。緑色の世界に赤い線が現れた。それは二人が歩く幅を真っ直ぐに染めていた。私は歩いた。サワイアと腕を組んでその先に何があるのかを確かめるために歩いた。人の波があった。十二月の町だ。にぎやかな音楽が流れていた。はしゃぐ子ども達がいる。着飾った大人の男女がいる。犬を連れた老人も、腕に赤ん坊を抱いた婦人もいた。彼等は笑っていた。これ以上に幸せはないと言う顔を見せて手を振る。その手に雪が舞う。白い雪が天から舞う。いや違う。雪ではない。これは冷たくはない。暖かな心のシャワーだ。
「今日からメゾンに住めるのよ」
嬉しいとサワイアは呟く。何が嬉しいのと私が私に問う。するとサワイアは答える。
「私達、大人になれたのよ」
「大人 !!」
はっとした私の腕を掴んだサワイアの、その唇が気づかせた。
私の頬にはヒゲがある――と。
サワイアのその指は、私の口髭を撫でた。私は大人の男だ。
逞しい男の人だと、黄色い髪の少年が私を見ていた。黄色い半ズボンをきた少年は赤い風船を持っていた。私は少年の時に失くした赤い風船だと気づいた。
少年の小さな手はそれを私に差し出す。受け取る私の手は震える。しっかり掴まなければ飛んでいってしまう。慎重に紐を掴んだ私は気づいた。少年の小さな手は大人の太く堅い指に変わったと瞳が捕らえた時その姿は一瞬で掻き消えた。
太い指だった。見たことのある年を重ねた節くれだった大人の指だ。
パパと、心が震えた。
顔を上げた私の前に人はいない。少年の姿も大人の男の姿も無かった。唖然と立つ私の指は赤い風船を持つ。赤い風船は小さく縮むと、赤い一輪の花になった。その花を私は私の胸に差す。
真っ白い服の上で真っ赤なバラが色鮮やかに揺れた。白い民族衣装を着たサワイアが身を躍らせて縋りつく。
「ダメだ。パパに言わなければ」
と、私は夢中に言った。それをサワイアが止める。
「貴方のパパは怒っているわ。私達がしたこと」
「私達?何をしたの?」
「逃げ出した‥あの部屋から。貴方のパパのシステムを壊したわ」
「システム‥」
「そうしなければ、逃げ出せなかったから‥、」
逃げ出した。そうだと、私は思った。システムはいつも完璧だった。ロバート・ウェルズのラボシステムは完璧だった。
完璧なシステムにモザイクが掛かった。少女に知恵でモザイクが掛かった。あの日、少女が死んだ。辺鄙な駅のベンチで少年を抱き締めながら少女は息を引きとった。
「PC、ラボ‥、私の管理下」
管理――、制御だ。制御システムは、私の統治下だ。私は何?と私は、考えた。ふと考えこんだその時明るい世界が終わった。明かりを落とした薄暗いにいた。私は監視室にいた。
子どもを守るために作られたシステムだ。
少年と少女を守る監視室の‥制御機器。酸素・温度管理を行うコンピュータだ。私は少年のPCとつながっていた。昨日まで私を相手に遊んでいた少年は消えた。消える。ここで存在していた記録も消える。私は誰。私は何のためにシステムを起動させた。少年の世界を記憶するためだ。少年の世界を記憶する?記憶ではない。作り上げるのだ。世界を、彼が望む世界を、彼のために。
一緒に作り上げる。私達の心はひとつになった。夢を作り上げる事が心を合わせた。その少年は今何処を彷徨っているのだろう。あの少女と出会えたのだろうか?
私は真剣に少年の姿思い起こした。そして、一枚の写真を継ぎ接ぎした。家族の写真を画面一杯に広げた。それは少年と抱きあう父と母の笑顔の写真だ。そこに少女はいない。
** * ****
本当にクリスマスにパパは帰って来た。部屋の大きなメッセージ板が十二月二十四日を表していた。時刻は十時、一年前と同じように白いマスクを付けてボクの部屋へ入ってきた。
「パパ、ありがとう。PCが新しくなった。ボクの思い通りにアンドロイドのアプリが出来た。名前も付けた」
ボクがそう言いたかった。元気な笑顔を見せたかった。ボクは動けない。横たわったまま、パパを見た。
それでもパパは抱き締めてくれた。腕の温かさがパパだと分かった。やはりパパは特別だと感じた。温かいと感じた。包み込む広い胸と大きな腕はパパ以外にはあり得ない。胸に詰まっていたパパへの不満がいっぺんに消えうせていた。
「ボク、パパのように大きくなりたい。パパのように研究所で働きたい!」
そうはっきり言いたかった。でも、口が動かなかった。腕も指もしびれていた。
毎日の様にパパへ送っていた強気の言葉が言えなかった。
PC画面を睨み毎日送った傲慢な言葉を、温かいと感じた身体にぶつける事は出来なかった。皮肉れたボクの心は、マスクと帽子で顔を隠したうえに眼を反らすパパに、意地悪な言葉を吐きつけたいと何時も、何時も考えていた。ママには、そうした。ママが泣くまで、キーボードを叩き続けた。
画面の中のママが取り乱し泣き崩れ、居なくなった。何度それを繰り返しただろう。その度、ボクは反省していた。心の奥からゴメンなさいと泣いた。
ごめんなさい。ママ、わがままなボクを許して――。だからパパに伝えるよ。
「外の世界は怖く無かったよ。楽しかった。メリーゴーランドに乗るってあんな気持ち。人が沢山いていろんな色がゴチャゴチャと混ざっていて機械の様に通り過ぎて行く‥の、面白かった。パパ、遊園地に行きたい。ボクが手術を受けるって言ったら、約束してくれる?連れて行ってくれるって。もうピエロになるって言わない。パパになる。パパのような医者になるよ。パパがナサに行ったのはボクのためだって知っている‥。ママが一緒に行きたがっていたと、分かっていた。だから、ママにいじわる言った。ごめんなさいって、ママに伝えて‥パパから」
白いマスクと帽子で顔を隠しても、メガネの下のパパの表情は感じ取れた。泣いていると分かる。ボクが居なくなったら悲しむ。ママはもっと悲しむ。ボクはパパとママを悲しませるために生まれたのだと分かっていたから、だからお願いボクを忘れてって言いたい。でも、今は言葉が出ない。やっと眼を開けていられるだけだ。
白い世界がボクを呼んでいる。オメガがボクの世話をしたいって呼んでいる。オメガは飛鳥の妹だよ。彼女は姉のために何十回もの検査に耐えた強い人だ。ボクの面倒を見てくれる。だから心配しないで、パパ。
パパの手がボクの頬を撫でていると感じた。ボクの顔を包み込んだと感じた時、ボクの心は熱くなった。
言わなければパパに大好きだって言わなければ、パパに・・思いを。
パパの反応は早かった。ボクの唇の動きが分かったのだ。直ぐにボクを抱き締めてくれた。だからボクは言えた。
「すきだよ」
と、言えた。聞き取れたの、パパ?
「ワタシも、ジルがダイスキだ」
詰まる声が、言葉を返してくれた。
嬉しい‥、パパ――その言葉が聞きたかった。パパが側に居てくれたら、怖くない。ママの言う通りにするよ。そうしたらボクは走れる。あの広い草原を赤い風船を持って掛けていける。一人じゃないよ。パパとママと‥、もう一人。
小さな手を繋いでボクは走りたい。
「パパ、ママに、アリガト‥イッテ」
言えた。そう言えたボクは暗闇ではない光の中にいた。
「ここは何処?」
ボクは、私に聞いた。
「仮想世界」
私はボクに答えた。
「誰の?」
心の疑問は言葉を操れなかった。目の前にあるのは三枚の写真だ。父親と母親と少年。画面の中に別々に浮いた写真。
この少年はボクだ。今、ボクは一つを願う。家族を一つにと願う。頑なな表情のボク、悲しそうな顔のママ、パパだけが笑っている。皆で笑いたい。これはボクの世界だから、ボクとママを笑顔に出来る。
家族の抱き合う姿が満面の笑みに変わった。お正月の記念写真が出来た。
光あぶれる未来は笑顔の家族だ。その顔を見るボクの心も変わった。
光が降り注ぐ明るい街角を願った。だからここにいるのだと青い空を見上げた。茜色の雲がオレンジ色に染まる。それは直ぐに白い筋雲に変わった。
ここは誰の夢の世界。誰かの夢を叶えている。誰かはボクだ。
ボクが描く夢の世界。ボクは大人になる。大人の私だ。私は大人の部屋で仕事をする。それでもオメガはやってくる。仕事を終えた私を迎えにやって来る。
オメガは送り届ける部屋を間違えた。今度は本当に間違えた。私はメゾンに住むのだ。サワイアと同じメゾンで暮らす。しかしオメガは個室に私を送りとどけた。あの部屋だ。一人暮らした個室は変わらずそこにあった。
個室で暮らした記憶を持たない。私はここで何をして暮らしてきたのだろうか。
すると、金色の髪の男の影が揺れた。何故か、彼の言葉が蘇った。
「私と共鳴したのなら、君には見えるはずだ?探してくれないか。文字だ」
「文字?」
文字――、それが何かを私は知っていた。白い部屋の文字だ。
私の中の私は思い出した。霧をはらったように思い出した。緑色の文字は壁にある。見慣れた白い部屋の壁に緑色の文字は隠れていた。
私は光のシャワーを浴びたように思い出した。
文字は少年と彼のパパとママの心を繋ぐものだ。少年の心は私だ。父親と同じ金色の髪をした少年の私は、私の世界で大人になった。
少年の心は、クリスマスの夜に死んだ。
少年の私は、クルスマスの夜に生まれた、少年のPCの中で。だから、私と少年の心は一つだ。一つに混ざった心は、白い部屋の仕切る壁に埋め込まれている文字盤に触れた。
少年と彼のママが部屋越しに会話するために、パパが付けてくれたボードは文字が点滅するメッセージボードだ。それはPCと繋がっている。その文字は緑色だ。
ママはそこに言葉を送る、抑制されたボクのために。
今は文字はない。日付だけが大きな文字に光っていた。
そこへ、私は文字を打つ。
『シルベスター・要・ウェルズ――』
それがボクの名だ。父が名付けた名前だ。
ジルとパパは呼ぶ。
愛しているよ、パパはいつも、そう手紙に書く。
小さな私は、世界中の誰よりも大好きなパパへと書く。そして、大きくなれるの?と書く。パパの様な大男になれるの?と書く。ボクはチビだ。二つ年上の飛鳥より頭ひとつ小さい。彼女は笑う。チビは大人になれないと、笑う。
ボクは大人になる。パパの様な強い大人に、大きな男になると白い部屋に住むまではそう思っていた。でも大人になれないと分かっている。ボクは外へ出られない。ボクは大人になるまで生きられない。分かっている。飛鳥もそうだ。何度も何度も血を貰っても治らないと分かっている。
誰かに頼って生きるのって、悲しい。
ボクはもう手紙を書けない。書きたくない。だから、終わらせてって書いた。希望がないから、違うよ。今日があればそれで満足だから、明日を描かない。
「今があれば、明日なんか‥、いらない」
だから、ボクの世界は終わった。パパとママの泣き声を聞いた。
パパがボクを呼んでいた。ジル、生きろと強い声がボクを呼ぶ。
「死んじゃダメよ。貴方は強い子。病気などに負けやしない」
男と女の怒鳴るように強い声が白い世界に響く。でもボクは死んじゃいないよ。生きているんだよ。このシステムの中で。
だから見て、メッセージボードの緑色の文字を。
「メルークリスマス。私の名はジル。私のメッセージを読んで下さい」
私は私の部屋の制御室に居た。
白い部屋から出た私は外から自分の部屋を見ていた。
「今日から新しいシステムが可動する」
オメガが言った。これが私達の形のない世界、光がシャワーの様に降り注ぐ世界。描く現実のその中で赤い風船を持った幼い子を肩車する私がいた。その横に母の顔をしたサワイアが公園のベンチにいる。
人は溢れる公園に光が降り注ぐ。草地は風が流れていく。それは色を変えていく。ゆっくり穏やかに時が過ぎていく。
モザイクフレア 完
モザイクフレア 完結