身元不明の死体
高速道路のサービスエリアで、トラブルになり亡くなった一人の男。
身元を示すものは何も持たず、ポケットの中には帯封のついた一万円札の束。
いったい、彼は何者なのか?
新聞記者トリオの推理は?
新人記者、日野悠太くんの登場するシリーズの三作目です。
いつものように、朝読新聞甲府支局の一番の若手記者、日野悠太が、甲斐署に顔を出すと、おなじみの一之瀬が困ったような顔をしている。
「どうしたんですか。また難事件ですか。」
「いや。事件そのものは難しくもなんともないんだがね。」
そんな話をしていると、これもおなじみの甲斐日報の矢崎が顔を見せる。
いつものように、署の一階ロビーの自販機で買った紙コップのコーヒーを持って、外に有る灰皿のまわりでの立ち話になる。
「事件自体は大した話じゃないんだよ。被害者の身元が判らなくて困ってるのさ。」
一之瀬の言う事件の内容はこういう話だ。
高速道路の甲斐北サービスエリアで、喧嘩があった。トイレの入り口でちょっとぶつかっただの何だのというトラブルで、一方の男がもう一方の男に腕を取られたのを振り払ったところ、そのはずみで転倒、打ち所が悪くて死んでしまったという事件だ。
「加害者は山岸澄夫。二十七歳、独身。隣の県からこちらへ遊びに来てトラブルに巻き込まれたんだ。被害者は七十歳くらいの年輩者なんだが、これの身元が何も判らないんだ。」
「所持品とかは無かったんですか。」
「それがな、財布だけは持っていたんだが、中身は現金だけ。身元を示す手がかりなんかは、一切無いんだ。」
「高速のエリアなら、免許証は持っていてもおかしくないんですけどね。」
「それで、持ってた現金というのがな。諭吉さんの束、百枚に帯封が付いたやつなんだ。もちろんその他に何枚かと小銭も持ってたんだがね。」
「それは豪快ですね。何者なんでしょうね。」
「連れとかは居なかったんでしょうかね。」
「どうも単独行動らしいな。倒れて頭を打って唸ってるから、救急車を呼んだそうだ。けっこう騒然としたから、野次馬も多かったらしい。連れなら名乗り出るだろう。」
「救急車とか騒ぎに気付かなかったとか。」
「それにしたって、一緒に車で来て、居ないのを気にもせずに、行ってしまう事は無いだろう。」
「そうですよね。」
「その場で即死では無かったんですね。」
「ああ、救急搬送されて、病院で何時間かは生きてたんだけど、脳挫傷で死んだという話だ。」
「加害者も驚いたでしょう。いきなりそんな事件に巻き込まれて。」
「そうだよ。いい迷惑さ。どちらかと言えば、被害者の方が言いがかりを付けたらしい。目撃者の証言も有るんだ。」
「言いがかりですか。」
「ああ、加害者の山岸はトイレで用を足して出てくるところだった。連れが居てね。これが美人の彼女なんだ。トイレの外で、その彼女が待っていたので、ついそっちを見ていて目の前に注意してなかった。そこに、被害者がぶつかるような形になったのさ。」
「それだけの話なんですか。」
「そうなんだ。山岸は『失礼』とか呟いてそのまま行こうとしたら、腕をつかまれて『ちょっと待て。ぶつかっておいて逃げるのか。失礼な奴だ。』とかって言われたらしい。」
「車同士の衝突でも無いんだし、大げさですね。」
「そうなんだ。どちらが悪いわけでもないし、転んで怪我をしたってわけでもない。山岸も彼女の見てる前で、言いがかりを付けられて、ムッとしたんだな。」
「それで、つかまれた腕を振り払った。という事ですか。」
「そうなんだ。そうしたら、相手はあっさりと手を放して転倒してしまった。しかも、場所が悪くて、建物の角の部分に後頭部をぶつけたんだ。」
「それで救急車の騒ぎですか。」
「ああ、山岸が助け起こそうとしたんだが、なんだか様子がおかしい。彼女っていうのが機転が利いて、救急車を呼ばせたりして、二人で病院まで付き添ったそうだよ。」
「警察への連絡は。」
「それは売店の従業員が救急車を呼んだ後で、警察にも一報入れたんだ。野次馬の中には、最初からの様子を見ていたやつが居てね。警察が行った時にまだ残っていて、証言してくれたんだ。じいさんの方がぶつかって行って、一方的にいちゃもん付けた挙句、振り払われて転んだ。ってね。」
「じゃあ、その加害者は迷惑かけられた立場じゃないですか。彼女とのデートが病院まで行く羽目になっちゃって。」
「そうなんだよ。結局身元も判らず、身内にも連絡の取りようがないから、ずっと付いてたらしい。死に目にも立ち会う事になったんだから、迷惑って言えば迷惑な話だ。」
「まあ、そんな話で、事件って言うほどのものでもないし、一応死んだ方だから被害者、その相手だから加害者って呼んでるけど、その山岸っていう男を犯罪者にしようっていう話でもないんだ。」
「じゃあ、問題は無いんでしょう。」
「そうなんだけどね。死んだじいさんの身元が判らないっていうだけで。」
「それっていつの話です。」
「昨日なんだよ。」
「じゃあ、その身元不明の死体は。」
「ああ、まだ病院の霊安室に預かってもらってる。身内に知らせずに処分するわけにもいかないからな。」
「身元が判らなけりゃどうなるんですか。」
「それは、火葬して無縁仏としてそういう関係の寺にでも入れてやる事になるんだけどな。」
「そういう事になる期限って有るんですか。」
「いや、特に決まっては居ないよ。重大事件ならもっと詳しく解剖するとか有るだろうけど、経緯がすべてはっきりしてるからな。まあ、病院だって預かっても一週間位が限度じゃないか。」
「ニューヨークあたりだと警察署の中に霊安室が有って、引き出し式の冷蔵庫の中にいくつも死体が入ってるって話を聞きますけどね。」
「日本じゃそういうのは無いよな。」
「そんなものが必要になるようじゃ困るだろう。病院の霊安室だって、こんな例は無いんだからな。」
「そうですよね。身元不明なんて日本じゃ考えられないですからね。」
「まあ、全国ニュースになるようなレベルだな。身元不明の白骨死体が見つかったとか。」
「大抵は犯罪絡みなんでしょうね。」
「ところがそうでもないんだ。最近多いのは孤独死ってやつさ。身寄りが無い一人暮らしの老人が、最近ご近所で顔を見ない。お隣さんとか大家さんが行ってみると、死んでた。ってね。」
「でも、そういうのは無縁ではあっても身元不明じゃないでしょう。」
「そうだな。遠い親戚とは友人とか、どこかに連絡してそれなりの後始末は着くからね。」
「まあ、連絡されても迷惑かもしれませんけどね。」
「それもケースバイケースだな。死んだ人がどういう状況だったかにもよるんだ。けっこう金を持ってる年寄も多いからね。そういうのが病気かなんかでぽっくり逝くと、親戚が沢山集まってくる。」
「一文無しで餓死なんてのは、そうそう無いでしょうからね。」
「まあ、年金なり生活保護なりあるから、それなりには金は持ってるんだ。それが数万円なのか数千万円なのかは違うけどね。」
「葬式なんてどうするんでしょうね。」
「あんなのは坊主に頼めば高くつくけど、埋葬許可を貰って火葬場で焼くだけじゃ、数万円程度で済むんじゃなかったかな。」
「骨と灰にしてしまえば、それを寺に納めるか、海にでも行って撒いてしまうかは、それぞれの思惑で自由だ。住んでた部屋を片付けて、金目のものは売る、ゴミは捨てる。現金が出てくれば手間賃や火葬費用くらいにはなる。」
「そのくらいは出てきそうですね。」
「まあ、そのくらいの方がいいんだよ。住んでる家が売れて、土地だけでも高い値段が付いたり、残された預金が高額だったりすれば、親戚の間で争いが起こるからな。」
「でも、そういう相続をする係累が居ないから、ひとり暮らししてるんじゃないんですか。」
「まあ、直系は居ないにしても、相続権を主張できるくらいの係累は居るものだよ。六十年前に嫁に行って、二十年前に亡くなった妹の孫とかな。」
「そういう意味じゃ、今回の被害者もそんな立場なんでしょうかね。大金を持ち歩いてるなんて。」
「どうなんだかな。ともかく身元が判らんことには、何とも言えないがね。」
「車のキーも持っていなかったんですか。」
「そうなんだよ。財布以外何も無し。財布の中身も現金以外は無し。」
「手がかりは何も無しですか。」
「高速のサービスエリアって、けっこう車は多いですよね。その中の一台が、被害者の乗って来た車なんじゃないですか。」
「それはもう考えてある。昨日から今日まで停めたままになってる車を当たってるよ。今朝の時点で十台ほど有ったそうだ。ナンバーを照会して持ち主を確認してるところだ。」
「上手く身元が判りますかね。」
「どうしてだい。」
「そのじいさんは車のキーを持っていなかった。つまり、キーは車に付けっぱなしだ。高速ではエンジン切らずに一休みする奴も多いですからね。きっとそんな処でしょう。そうすると、ドアロックしてある車は、今回の話とは無関係ですよね。
一方でエンジンが掛かったまま何時間も放置されている車が有る。ドアロックもされていない。悪戯や盗難の可能性だってあるでしょう。」
「まあ、盗難はともかく、ドアロックの話はもっともだな。あいつら、そこまで気がまわったかな。」
一之瀬は同僚の行動を心配してる様子だ。
そこにタイミング良く、同僚が一之瀬を探しに来る。
「やっぱり、手がかりは有りませんでしたよ。」
「今、この記者さん達とその話をしてたところさ。」
「対象の車両は八台。二台は県内のナンバーで、問い合わせたところ、家族が対応に出ました。年格好も違いますし、行先も判ってます。」
「どうしてあんなところに車を置いて行ったんだ。」
「あそこから高速バスに乗ったらしいですよ。行先は東京、仕事だそうです。自分の家からバスに乗るまでの足が不便だから、いつもそうやってるそうです。」
「それなら、東京まで車で行けば良いのにな。」
「ガソリン代や高速代、向こうでの駐車料金を考えると、バスの方が安いでしょう。次のインターで出て、Uターンして家に帰れば、数日分の駐車料金が数百円で済むって言ってましたよ。」
「まあ、サービスエリアで長時間駐車は禁止とは言えないだろうな。車を停めて仮眠するような連中も居るんだから。」
「それぞれのいろんな使い方が有るんですね。」
「九州ナンバーの五台も、同じような話です。九州のとある企業の従業員なんですが、関東近辺に出向させられてるらしいんです。茨城と神奈川と山梨かな。そいつらが有給休暇を示し合わせて取って、帰省してるそうです。」
「ここで待ち合わせて、乗り合わせで行くのか。」
「そうですね。やっぱり九州まで各自で走るより安いし、交代で運転すれば楽でしょう。」
「それにしても、何故ここで待ち合わせなんだろうな。どこか別のところでも良いんじゃないのかな。」
「それが、ちゃんと理由が有るんですよ。」
「なんですか、理由って。」
「サービスエリアも最近は新しくなって、上り線と下り線が別々に造られてるところが多いじゃないですか。ところがここは、上りと下りのエリアが隣り合わせになってる。」
「そうか、帰って来た時に、反対車線のサービスエリアからすぐにこっちに来られるって事か。」
「そうですよ。場所によっては、同じ名前のエリアでも、上りと下りが何キロも離れてるところも有りますからね。」
「高速バスの連中もそういう意味では使いやすい場所なんだろうな。」
「それで、最後の一台ですが、これはもう何か月も放置されてる様子です。車も違法改造車ですし、ナンバーも剥ぎ取ってある。どうも、暴走族が盗難車で遊んだ挙句、ここに捨てて行ったようですね。」
「そういうのは処分しないのかな。」
「道路公団の方で、確認中らしいですよ。まあ、あの死んだじいさんが乗ってたとは思えないような車ですね。」
「じゃあ、放置車両で手がかりは無しか。やっぱり日野くんの言うように、盗難かなんかで無くなってるのかね。」
「盗難じゃなくて犯罪絡みかな。」
「どんな話なんだい。」
「たとえば、窃盗団の仲間で移動中、メンバーの一人がトラブルになった。あいつは死んじゃったけど、今、連れですって名乗り出れば、どういう関係だとか、警察に疑われる。いいや、どうせ死んじゃったんだし、そのまま捨てて行ってしまおう。とか、考えられませんかね。」
「そうだとすれば、財布の中に大金が入ってるのも納得ですね。」
「そういう連中なら、余計に名乗り出るんじゃないか。懐の大金なんて身元不明で調べたから判ったんだし、友人とでも何とでも名乗ってそいつの身を確保する方が良いだろう。事件の時点で死ぬかどうかなんて判らなかったんだしな。死んじゃったなら、捨てて行っちゃっても良いだろうけど、生き延びたら自分を捨てた仲間の事を話すかもしれないじゃないか。」
「そうですね。それに、懐の金をみすみす諦めるとも思えませんよね。」
「最初から車は無かったとか、考えられませんかね。」
「高速道路で車が無いって言うと、交通手段はバスかな。まあ、ヒッチハイクっていう可能性も無いわけじゃないけど。」
「あそこのバス停で降りたとか、あそこで今からバスに乗るところだったとか。」
「トイレ休憩とかで停まるバスも有るだろう。そういう便の乗客かも。」
「そういうのは、きちんと乗務員が人数を確認してから発車するから、一人居なくなれば気付くだろう。」
「これから乗るんだとしたら、チケットくらいは持ってるだろう。」
「最近は、携帯でチケット代わりになるような事も出来ますよ。」
「でも、携帯も持ってなかったんだよ。」
「チケットも無し、携帯も無しか。バスを降りてきて、そのまま使用済みのチケットはゴミ箱に放り込んだか。」
「降りるときに、乗務員がチケットを回収するのかもしれませんね。」
「そうだな。ともかく、あそこを通るバスの会社に問い合わせてみるか。乗降客やら異常の有無とかな。」
翌日、日野が甲斐署を訪れると、一之瀬は相変わらず難しい表情だった。
「どうでした。死体の身元は判りましたか。」
「それが、全く駄目なんだよ。」
「駄目ですか。」
「ああ、あの日あそこのバス停での乗降客は一人もいなかったそうだ。トイレ休憩で立ち寄ったバスの乗客が居なくなるような事件も無し。乗る予定だった客が現れないっていうのも無かったそうだ。」
「そうですよね。高速バスなら席の予約をしてから乗るのが普通だから、そこまで判りますよね。」
「まあ、空席なら、いきなり客がバス停に来て乗せてくれって言っても、乗せるらしいんだがね。そこまでは判らんよな。」
「やっぱり、車は持ち主が居なくなってから、盗難にでもあったんでしょうかね。」
「高速のパーキングでの車両盗か。無いとは言えんな。でもそうなると発見は難しいだろう。」
「被害者がこういう車だったって、届け出をすればともかく。乗ってた車の車種もナンバーも判らないんですからね。」
日野は帰社して、先輩の水谷にその話を告げた。身元不明の死体。所持していた大金。手がかりは一切無し。
水谷はしばらく考えていた後で、にっこり笑って言った。
「意外と盲点かもしれないな。」
そして、一之瀬に電話をしてなにか話していた。
一之瀬がにこにこしながら朝読新聞の編集室にやってきたのは、その翌日だった。
「いや。また水谷君に助けられたよ。」
「と言うと。あの爺さんの身元が判ったんですか。」
「そうなんだ。盲点だったよ。」
「いったいどういう話だったんです。」
編集室にいた数人が集まって来る。
一之瀬は話の初めから、かいつまんで説明を始める。
「まあ、そんな話でね。犯罪事件っていうわけじゃ無いんだけど、身元が判らん遺体に困ってたんだよ。」
「それで、どうやって身元を調べたんです。」
「水谷さんがヒントをくれたのさ。車でなくてもあそこには来られますよってね。」
「高速のサービスエリアにですか。」
「そうなんだよ。高速道路だから、車か何かで走ってあそこに来たと思うのが普通だろう。でも、上り線と下り線のエリアの間は、行き来が出来る。あそこの売店なんかの従業員だって、高速道路で通勤してるんじゃないだろう。歩いて来れば、簡単に入って来られるんだよ。」
「なんだ。そんな話か。」
「あのサービスエリアから歩いて行ける範囲で、地元で聞き込みをしたらどうですかって。水谷君にそう言われてね。」
「それで、探し出せたっていう事なんですね。」
「そうなんだ。一番近くのアパートで、一人暮らしをしてる人だったんだよ。」
「じゃあ、親戚か知人かに連絡を取って、葬式も出してっていう段取りが出来たんですね。」
「それが、ちょっと珍しいケースでね。そういう世話をしてくれる人が誰も居ないんだよ。」
「まあ、ありえない話じゃないですね。」
「ここからが、ちょっと面白い話なんだ。新聞のコラムくらいにはなりそうなネタだね。」
「なんですか、もったいぶって。」
「あの爺さん、寺山祐一さんっていうんだがね。生まれは東京なんだが、仕事の関係でこちらに来て、そのまま定年後もこちらに住みついたんだそうだ。奥さんも居たが定年するちょっと前に亡くなっている。子供は居ない。結婚後すぐに産まれた子が有ったんだが、数か月で亡くして、それ以来子供は出来なかったそうだ。親戚と言っても、本人も奥さんも一人っ子同士での結婚だったそうだ。いとことかは居るらしいが、何十年も音信不通だ。」
「じゃあ、本当に係累は居ないんですね。」
「それどころか、ご近所付き合いも無い。友人も居ない。本当に孤独な人だったんだよ。」
「どうしてそこまで解ったんです。」
「アパートの住人に聞いて、この部屋だって確かめた上で、不動産屋と一緒に部屋に入ったんだよ。年よりの一人暮らしだけど、妙にさっぱりしてる部屋でね。有るのは本棚と机とテレビ、パソコン。ベッドや衣類もきちんと整頓されていた。
そして、机の引き出しを開けてみたら、一番目立つところに遺言状が入ってたのさ。」
「それに、今までの人生の経緯とか、書いてあったんですね。」
「ああ、長い話だったんだが、何度も書き直したんだろうな。きちんと筋道の通った解りやすい文章だったよ。」
「人生の回顧録ですか。」
「そんな処だな。」
「寺山さんは現役時代は、大手企業の営業畑の人で、最終的にはこちらの支店の支店長にまでなった人だ。当然、いろんな人付き合いも多かった。立派な自宅も持っていて、客を招いたりするような事もしていたんだ。それは、内助の功が大きかったと本人は書いている。本当はそうやって人と会うのは嫌いなんだが、仕事上、嫌な顔は出来なかったってね。取引先はもちろん、部下を招いて飲ませるのだって、役目柄やってるだけだったそうだ。
そして、定年も間近になって、ようやく安心できるっていう頃になって、奥さんが亡くなった。普通ならそういう役職までなった人だから、子会社に天下りとかも出来るんだが、きっぱりと退職したそうなんだ。
退職金は入った、奥さんの生命保険は入った、家ももう必要ないから売り払った。死ぬまで金には困らないくらい財産は有る。でも、それを使って一緒に過ごそうと思っていた相手はもう居ない。
仕事上での知り合いは多いが、本当の友達付き合いをしたいと思うほどの相手は居ない。けっこう、客の接待なんかで奥さんに苦労をさせたんじゃないかって、負い目も有ったらしい。それが原因で死んだわけでもないだろうにね。
住むのはアパートの一室で十分だ。三度の飯も贅沢をしようと思えば、いくらでも贅沢は出来るが、一人では虚しい。
そんな人だったらしい。」
「なんだか寂しい話ですね。」
「そんな人だから、電話や携帯も持っていない。一人でふらふらとどこかに出かけて、部屋を空ける事も多かったらしいよ。」
「旅行が趣味って事ですかね。」
「本人は放浪って言ってたらしいけどね。」
「行く当ても無く、彷徨ってるんですね。」
「まあ、そんな人間嫌いのような人で、人付き合いも無く放浪してる人だから、変わったところも有ったんだ。」
「どんなところです。」
「身元を示すものは何も持たず、現金だけ持って、放浪していたところなんかだね。」
「わざわざ、何も持たずに出かけたんですね。」
「そうらしい。本人は旅の途中で、身元不明のまま死ぬのも良いなんて、書き残しているよ。」
「実際、それに近い状況だったんですけどね。」
「銀行の口座には金が唸るほど有って、部屋には通帳やキャッシュカードも有ったんだけど、当面使う分だけを現金で持って、出かけていたんだな。」
「当面使う分で百万ですか、豪快ですね。」
「本当に何も持たずに出かけて、数か月とか半年とか放浪して帰ってくるらしいんだよ。旅の土産も買わず、記念写真も撮らず、気が向いたら自分宛ての絵葉書を書く程度だったらしい。常に身の回りの物は最小限に抑え、いつぽっくり逝っても良いように、心がけていたような感じだな。」
「じゃあ、あの日も放浪に出かけるところだったんですかね。」
「どうも、そうらしいな。行先を決めずに、乗せてくれる高速バスにそのまま乗って行く事も多かったらしいから。」
「それじゃ、足取りは判りませんね。良かったですね、バスに乗ってからの出先でのトラブルじゃなくて。」
「ああ、そうなればどこかで私と同じように慌てる警察官が出るんだろうな。まあ、そのときにはバスのチケットくらいはポケットに入ってるかもしれないけどな。」
「そうすれば、結局こちらに問い合わせが来て、一之瀬さんが身元を探し回る事になったんじゃないですか。」
日野はそう言って笑う。
「部屋の鍵は郵便受けに入っていて、その郵便受けはナンバー式の鍵が付いていたんだ。本当に何も持たずに出かけたんだな。」
「それで、ここからがちょっと良い話なんだがね。」
「なんですか。」
「そうやって自分がどういう死に方をするか、いろいろと考えていた人だから、遺言状にも、こういう場合にはどうすると、事細かに書いてあったんだ。
部屋の中で誰にも見られず逝った場合とか、旅先で身元不明のままで無縁仏になって、部屋に戻って来なかった場合とかだね。」
「身内とか相続人が居ないと、残された財産は国庫金になるんでしたっけ。」
「そうなんだけどね。本人もそう書いてる。まあ、遺体が有るなら、埋葬もしなければならないから、その場合には火葬にして奥さんの入ってる墓に一緒に入れてくれって話で、その世話をしてくれた人に、いくらかの謝礼を出すって書いてある。墓は永代供養というのになっていて、寺にももうその分の金は払ってあるらしいんだ。
手間をかけさせた謝礼って言っても、あの持っていた一束くらいの金額なんだけどな。結局、そういう迷惑をかけるのは大家だろうから、部屋の片付けだけじゃなくて、死体が見つかった部屋っていう事での、賃貸物件としての価値が下がる分の補償のようなつもりも有るんだって書いてあった。そして残りは国庫金に入れるって。」
「じゃあ、今回の場合も、大家さんがお礼を貰って後始末するんですか。」
「ところがな、今回のように誰かが立ち会って死に目を見届けた場合には、その人に全財産を譲ると書いてあったんだよ。
どういう人か判らないが、最期に立ち会うのも何かの縁だから、葬儀なんかの世話もお願いしたいと。その代り、全財産をその人に譲るってね。」
「また思い切った遺言ですね。」
「ああ、近所のスーパーのレジ係のおばちゃんかもしれないし、旅先で知り合った誰かかもしれない。その相手が、寺山さんの素性を知っているか、知ろうとするか、そのまま面倒だから警察にでも任せてそれっきりになるか、すべては偶然の結果になる。」
「素性を知ろうとして、アパートの部屋までたどり着けば、遺言状が有って、遺産にありつけるっていう話なんですね。」
「じゃあ、この話でその遺産を相続する人っていうのは。」
「そうなんだ。加害者って言われていた山岸くんとその彼女っていう事になる。」
「一之瀬さんには分け前は無いんですか。」
「馬鹿言うなよ。こんなのも仕事のうちなんだからな。きちんと彼らに連絡を入れて、遺言を伝えるのが職務ってもんだ。」
「彼らが、関わり合いになりたくなくて、そのまま逃げちゃっても、犯罪にはならなかっただろう。目撃証言も有るんだからな。でも、その相手を助けて、救急車を呼んで、病院まで付き添って、死に目にも立ち会った。そういう善意に対してのご褒美って事なんだろうな。」
「なるほど。そういう言い方をすれば、良い話ですね。」
「もう彼らには連絡を入れてあるから、大慌てでこちらに向かってるかもしれないな。」
「ところで、残された遺産ってどのくらいあるんですか。」
「驚くなよ。死んだ時の所持金の百倍位は有るんだ。」
「ってことは、億ですか。それは慌てるでしょうね。二人で奪い合いにならなきゃいいけど。」
「それも無いだろう。近々結婚するって言ってたから、予想外の結婚祝いってところじゃないか。」
「まあ、死んじゃった年寄の代わりに、若い夫婦が金を使ってやるんなら、それも供養ですかね。」
「そうだな。何人も子供を作って、そいつらを連れて墓参りでもしてやれば、死んだ寺山さんも喜ぶかもしれないな。」
「孫のような気になりますかね。」
「どうなんだろうな。寺山さんの気持ちは誰にも解らんけど、そんなもんなんじゃないかな。」
翌日、山岸たち二人の他に、アパートの大家と一之瀬が立ち会って、寺山の遺体は荼毘に付された。寺山の妻の眠る寺の僧侶が経を上げ、遺骨は妻の隣に埋葬された。その後、僧侶と立ち会った四人で、精進落としの意味も込めた食事の席を囲んだ。
「部屋の片付けって言っても、物もあまりないし、きちんと片付いているから、大したことは無さそうだな。」
「そうですね。衣類や家具類は、処分しようと思っています。」
「そうだな。そんなものは持っていても邪魔になるばかりだろうからな。」
「でも、本棚の本や机の中の日記なんかは、持って帰って読んでみようと思ってます。寺山さんっていう人が、何を考えてどんな生き方をしてきたのか、辿ってみようと思うんです。」
「それに、パソコンの中にもいろんなデータが有るようなんで、それも大切に保存しようと思います。昔の旅先の写真なんかも沢山入っていそうですから。」
若い二人は、一之瀬たちにそう告げる。
「死んじゃって、財産以外何も残すものは無いと思っていたのかもしれないけど、そうやってちょっとでも生きていた証拠を残すことが出来たんだから、それを受け取ってやるのも供養かもしれんな。」
一之瀬はそう答える。
「思い出すだけでも、仏壇や位牌じゃなくて、今居るそこで手を合わせるだけでも、それが供養なんですよ。」
僧も、二人にそう話す。
大家もニコニコと無言で頷いていた。
了
身元不明の死体
日野悠太シリーズの第三弾です。
一作目は状況描写に重点を置いて、結局犯人は不明なままの結末となり、
二作目は犯人は捕まりますが、冷たい人間性が描かれ、感情的に救いがあまり無いままでしたので、
今回は「いい話」を書いてみました。
これもまた、実状などは空想でストーリーを進めていますので、
捜査方法などは、実体を知る人が読めば噴飯ものかもしれません。
その点はご容赦ください。
世間では「終活」などという言葉も聞かれますが、人生の最後に
どのような終末を迎えるのか、どんな終わりかたをしたいのか、
それぞれ思うところは有るでしょう。
今回の主人公の生き方などは、ある意味で私の理想かもしれません。
事件らしい事件でも無く、トリックらしいものもあまり出てきませんので、
長さ的にも前の二作より短いものになってしまいました。
本格的な推理マニアには物足りないかもしれません。
でも、事件というよりはそこにある人間ドラマを描いてみたいと思ったのです。
とりあえず日野悠太シリーズは、この三作で終わりです。
トリックを思いついたり、シュチエーションが浮かんだりしたら
次作を書くかもしれませんが、今のところネタ切れです。
出来れば、三つの色の異なる作品を、並べてお楽しみください。
「失意の報復」
http://slib.net/32540
「清らかな情死」
http://slib.net/33160