失意の報復

失意の報復

ネオテック工業甲府工場長が、勤務時間内に工場内で撲殺死体となって発見される。
この工場は、会社全体の赤字のしわ寄せで閉鎖される事になっていて、従業員側と会社側の話し合いが行われている最中だった。
会社側の代表として工場閉鎖の先頭に立っている工場長は社員から恨みを買っている。
容疑者は当日勤務していた三百人!

「おい、田原が殺されたって。すぐに現場に行ってくれ。」
キャップが日野の肩を叩く、というか後頭部を殴り倒すようにして、そんな事を叫ぶ。
パソコンに向かって記事をまとめていた日野は、その勢いに驚いて振り向く。
「お前、あそこに情報源を持ってるって言ってなかったか。」
「何の話です。だいたい田原って誰なんですか。」
「おう、そうか。田原だけじゃ判らんか。ネオテック工業甲府工場の田原工場長だ。すぐ現場に行って来い。」
「ネオテックの工場長ですか。そりゃ大変だ。で、現場ってどこなんです。」
「会社の中だってよ。製造ラインの近くの倉庫のようなところで、発見されたらしい。」
「殺されたって、はっきりしてるんですか。そういう処で首を吊ったなんていうんじゃないんですか。」
「全身ボコボコにされた撲殺だそうだ。自分じゃ出来ないだろう。」
「で、犯人は。まだなんですか。」
「ああ、就業時間内に、会社の中で殺されたんだが、容疑者は何百人も居て、誰が犯人やらまだ目星も付いていないらしい。」
「そりゃスクープですね。さっそく行って来ます。」
「いいネタ拾って来いよ。」

朝読新聞甲府支局の記者、日野悠太。入社五年目、この支局に来て二年になる。
朝読新聞は全国紙なので、地方支局っていうのはマイナーな部署だ。
紙面のトップ、政治経済面、文化スポーツ面などは本社から送ってくるのがそのままで、地方版の二面程を使ってローカルの記事を並べるのが、日々の役目だ。
県知事や県議会の動向、地域の文化祭、高校野球の地区予選、そしてちょっとした事件など、オールラウンドで担当する。
支局には支局長はじめ五人の人間が居て、日野は一番の若手だ。
もちろん、支社全体ではもっと大勢の人がそれぞれの部署で仕事をしている。製版印刷部門から、地方版の広告を取ったりする営業部門など様々だ。

「これって大騒ぎじゃないですか。」
「ああ、全国版のトップになってもおかしくない話だな。」
先輩の水谷と、現場に向かう車の中で、そんな話をする。
「同じ殺人事件でも、工場のトップが勤務時間内に職場で殺されるなんて、相当な話だろう。」
「そうですね。」
「お前は、以前からネオテックに情報源が有ったのか。どういうコネクションなんだ。」
「いや、情報源って言っても、大したつながりじゃないんですよ。この前の工場閉鎖騒ぎの時に、従業員の話を聞きに来たんですけどね。その時に名刺を渡したら、向こうから電話してきたのが居たんですよ。まあ、会社に対する不満やうらみつらみを話して、同情的な記事にでもして欲しいような事だったんですけどね。」
「そうか。一時は全国レベルで騒いだネタだったけどな。」
「その後、何と言って派手な動きは無いでしょう。なかなか記事にも出来ないままなんですよね。」


ネオテック工業は、全国に十数ヶ所の工場を持つ、一部上場の電気部品メーカーだ。様々な電気部品を作って、家電メーカーやら自動車メーカーやらに供給している。
だが、ここ何年も業績不振が続いて、生産規模の縮小を余儀なくされている。中国などの安い部品メーカーの攻勢にたちうちできないのだ。
何度かリストラが繰り返され、ニュースにもなった。そしていよいよ生産拠点の大幅な再編成を行うと、この夏発表になったのだ。
その再編成によって、閉鎖される工場がリストアップされた。その一番目に載っていたのが甲府工場だったのだ。

発表直後は、県知事や県議会なども大騒ぎをした。従業員数五百名を超える大手企業なのだ。地域住民の雇用の話も有るし、地元に落とす税金も大きい。
だが、周囲が何を騒ごうが、ネオテック本社としては、赤字の工場は潰す、の一点張りだった。

当然、労働組合も素直に承認出来る話では無い。だが、ネオテック労組も、会社全体での組織なので、甲府工場を助ける為に、会社全体が潰れてしまうようでは、元も子もない。
本社の経営陣と労組本部の役員での交渉が続けられている状況のまま、事態は膠着していた。

日野は発表直後に、工場前で従業員を捕まえて話を聞いた事があった。
十人のうち八人はノーコメントで、避けるようにして日野の前を通り過ぎたが、何人かは心境を語ってくれた。
「こんな景気じゃ、再就職は難しいでしょう。会社が行けって言えば、九州でも北海道でも、会社の言う処に行きますよ。」
と言う者。
「子供の学校も有るし、親の介護もあるから、県外へ行けって言われてもね。前回のリストラじゃ、三十ヶ月分の退職金の上乗せが有ったから、あの時に辞めてりゃ良かったんだけどね。」
などと言う者。
会社の上層部の決定には、逆らいようがないことが判っているのだろう。

そんな話を聞かせてくれた者の中に、岡田も居たのだ。
どうにもならないという諦めの感想を聞かせてくれた後、日野の名刺を受取って行った一人だったが、翌日、名刺に書いた携帯番号に電話してきたのだ。
「職場で仲間と話をしたんですけどね。甲府の工場だけでストライキでもなんでもやって、こちらの要求を呑ませれば良いって。」
「そんな事が出来るんですか。」
「ええ。甲府でしか作っていない製品が有るんですよ。
自動車向けの特殊コンデンサーなんですけどね。車載部品はお客がうるさいから、きちんとここのラインで作るって言って、実査を受けて認定してもらわないと、やたらに作れないんですよ。
そういうものを作らないって言い出せば、会社全体にとってダメージは大きいでしょう。よその工場で認定してもらうにも何か月もかかるし、お客に物が届かなければ、信用失墜ですからね。」
そんな事を興奮したように日野に語った。

「それで、私にどうしろと言うんですか。」
「そういう話を記事にして欲しいんですよ。
従業員はここまで腹をくくっている。きちんと交渉に応じないと、会社全体が潰れるような事になるって。退職金の上乗せを前回以上に出すとか、転勤希望者は希望するところに優先的に配置するとか、約束をさせたいんですよ。」
「新聞記事でその交渉の後押しをしろっていう事ですか。」
「まあ、そうですね。私たちだって、本当に会社をつぶしたいわけじゃない。そういう脅しをして、会社が応じてくれれば、それでいいんだ。その為に世間の声を味方にしたいんですよ。」
「お気持ちは解りますが、お約束はできませんね。私も地方支局の一記者ですから、支局長も居るし、その上の本社の意向も有るので、出来るかどうか、今は何とも言えませんよ。」
「そうでしょうね。新聞社とは言っても、さまざまな利害関係も有るでしょうしね。ともあれ、こんな話があるって気に留めておいてください。そのうちに、うちの会社に関して何か記事を書くときに、思い出してくれればいいんです。」
そんなやりとりをした記憶が有る。電話で会話したのも、その時一度だけだった。
一応、今後何か有った時にまた話を聞こうと思って、岡田の携帯番号はメモリーに入れてある。


現場は大騒ぎだった。パトカーが何台も回転灯を回したまま停まっているし、野次馬も多い。
工場の入り口の守衛室前には黄色い立ち入り禁止のテープが張られているが、その前に何台もの車が停まっている。
何やら薬品を積んだタンクローリー、工事業者の作業者と資材を積んだワンボックスなど様々だ。入り口を固めている制服警官と押し問答をしている。

「横浜からここまで運んで来たんだぞ。早く荷下ろしして帰りたいんだよ。何とかしてくれ。子供の使いじゃあるまいし、持って帰るわけにはいかないだろう。明日の予定だって有るんだよ。
仕事が出来なくたって、その分警察が日当払ってくれる訳じゃないだろう。」
「こっちだって今日ここの現場を仕上げなきゃ、困るんだよ。明日から別の現場に行くんだからな。何とかしてくれよ。」
「事情は解る。でも、殺人事件が起きたんだ。現場はそのまま保存して、鑑識が証拠品を集めてるんだ。部外者を立ち入らせるわけにはいかん。」

またスーツ姿の者が数人、その脇に立っている。他の工場からの出張者か、取引先の会社の者だろう。こちらは文句も言わず、警察の指示に従っている。
パトカーに驚いて集まった近所の住民は、それらを遠巻きにして眺めている。

日野はその人ごみの中に、甲斐日報の矢崎を見つけた。
甲斐日報は、県内では一番の地方紙だ。地元のニュースに特化していて、紙面でもローカルなニュースが多く、お悔やみ欄なども細かい情報を載せているので、地元では大きなシュアを取っている。
矢崎は日野と年代も同じで、あちらこちらの現場で顔も合わせるので、親しく話をする機会も多い。ライバル新聞社とは言っても、県内のローカルのニュースなど、他社を抜け駆けして独占報道をするほどのネタが有るわけじゃない。知事の定例会見を一緒に取材して、それを三段の記事にするか、五段で書くかの違い程度のものだ。
そして、矢崎と話をしている男にも見覚えは有る。たしか甲斐警察署の刑事課の一之瀬という刑事だ。
水谷は、二人の顔を見ると日野の背中を押した。
「お友達が居るじゃないか。お前、上手く話を聞いて来いよ。」
「水谷さんは。」
「俺は、ご近所の評判やら何やらを聞きまわっておくからさ。」
そう言って、集まっている野次馬の群れの方に向かう。

矢崎は日野の顔を見つけると、軽く片手を挙げて挨拶する。一之瀬もそれを見て苦笑いを浮かべる。
「さすがに記者さんは鼻が利くんだな。」
「どういう事件なんです。」
日野は素直に質問をぶつける。どうせ、何らかの発表はしなければいけないのだ。
捜査上の極秘情報など、まだ警察自身も手に入れていないだろう。

「被害者はここの工場長、田原繁雄、五十八才。
死因は解剖結果が出てないから、まだはっきり言えないが、発見された様子だと撲殺。顔から始まって身体中ボコボコにされていたそうだ。
発見場所は、工場の二階の予備資材倉庫に使っている部屋だが、犯行現場がそこなのか、どこか別の場所なのかは判らん。」
「それで犯人は。」
「まだ容疑者も絞り込めてないんだよ。」
「逃げちゃったって事ですか。」
「いや、この中に居るんだろうけどな。だれも、私がやりましたって言っては来ないし、さて誰でしょうっていう処だな。」
「動機とかの面でも絞り込めないんですかね。」
「ここはこの前の工場閉鎖の騒ぎが有っただろう。はっきり言って従業員の大部分は、出来る事なら一発殴ってやりたいくらいの事は、思ってたんじゃないか。なにせ、裏では潰し屋ってあだ名で呼ばれてたそうだからな。
こいつが居なけりゃ、俺が工場長っていうような、単純な動機じゃ無いだろう。」
「それで、この中に何百人かの人間が足止めされてるんですか。そりゃ大変だ。」
日野はそう言って時計を見る。もう夕方の五時を過ぎた頃だ。一人ずつ取り調べをするって言っても、何日もかかるだろう。

「中にはどのくらい居るんです。」
「今出てる数字は三百十八人だな。二百七十四人が従業員、後は外部の取引業者、社員食堂の従業員、構内の掃除を請け負ってる会社の社員なんかだ。」
「お掃除のおばちゃんも食堂のおばちゃんも、一応容疑者のうちですか。それだけの人数をどうしてるんです。」
「全員を社員食堂に押し込めてるんだよ。そこが一番広いからな。食堂の隣のトイレまではフリーでうろつかせてる。食堂内には自販機もあるし、喫煙コーナーも有るからな。」
「それにしたって、そろそろ仕事が終わって帰る時間でしょう。もう二時間もすれば、晩飯食わせろって、大騒ぎになりますよ。」
「そんなことまで俺には解らんよ。署長以下、ウチの署の大部分がここに来てるんだ。お偉いさんが何か考えるだろう。」
「それにしても、三百ちょっとって、意外と少ないんですね。ここの従業員って、五、六百人は居るんじゃなかったんですか。」
「ああ、その中の半分以上は交代勤務っていうやつでね。ひとつの班が百人ちょっと居て、三交代で勤務してるらしい。今非番の連中はラッキーだったって事だな。」
「捜査する方は多すぎてたまらんでしょうけどね。」
「ああ、まったくだ。」


その頃、食堂内では、拘束された人達の不平不満が飛び交っていた。
苦情の受け皿にされたのは、甲斐署の若い女性警官二人と、その上司の名取巡査長だ。署の大部分のメンバーも駆り出されて、それぞれ会議室などを使って、一人ずつ取り調べをしている。
取り調べと言っても、まだ解剖の結果なども出ず、死亡時刻も判らないので、ピンポイントでのアリバイの聞き取りなども出来ない。本人確認、指紋の採取、一日の行動や一緒に居た者の聞き取りくらいだ。
「まいったな。こういう工場ってのは、一斉にチャイムで皆が同じように動くんだと思ってたんだが、どうやら認識が甘かったようだな。」
「ベルトコンベアの前に皆で並んでっていうのとは違いますからね。」
署長と刑事課の課長がそんな話をしている。そこに名取巡査長がやって来る。
「署長。もうこれ以上全員を拘束しておくのは無理です。」
「どうしたんだ。」
「主に女性社員ですが、帰らせろと言ってるのが何人も居ます。」
「どういう理由だ。殺人事件よりも大事な事か。」
「子供を保育園にお迎えに行くんだそうです。あんな奴が死んだのなんてどうでも良いから、子供を何とかしろ、ここにいつまで居させるんだ、帰らせないならパトカーで保育園まで子供を迎えに行ってここに連れて来いって言ってます。」
「ホトケさんも、あんな奴扱いか。工場長になっても人望は無いんだな。」
「後は、家族の夕食の支度、寝たきりの舅の介護なんかですね。まあ、今晩の連続ドラマが観たいなんて言ってるのも居ますが。
 掃除のおばちゃんなんかは、パートの仕事時間は三時までなんだから、それ以降の分は残業代出せって言いだしてますしね。」
「それから、部長クラスの者も文句を言っています。ラインを停めると生産予定が狂うから、作業員には仕事をさせろって。
作業員の方は、製品をエッチング液に浸けたままでもう何時間も放っておいたから不良になってるって言って、これで俺が不良を出したようにカウントされたんじゃ堪らないって文句言ってるやつも居ますよ。」
「工場長が死んだ事よりも、生産の予定の方が大事なんだな。」
「まあ工場長なんて言っても、中間管理職って事なんでしょう。いや、会社全体がそんなもので、社長が殺されても同じなんでしょうね。」
「そんなものなのかな。」
「社長って言っても雇われ社長でしょう。株主が首を横に振ればすぐに別のに取って代わられる。今や日本中がそんなものですよ。」

「よし。文句を言ってるやつから先に聴取して、帰らせてやれ。どうせ全員を拘束しておくのは不可能だ。」
署長が指示を出す。
「幹部社員は残らせろ。会社の全体像をもう一度説明させないと、理解できないような事ばかりだからな。」
「それから、現場は当面立ち入り禁止。操業も認めん。まだ犯人も凶器も見つかって無いんだからな。」
「七時を過ぎると、夜勤の人員が来るって言ってますよ。」
「そいつらも構内に入らせるな。今日は臨時休業だって言って帰らせろ。」
「工場の幹部連中が騒ぎますよ。工場長が死んだ事より、生産の方が大事なんだから。」
「じゃあ、犯人が名乗り出たら、操業再開しても良いって言ってやれ。全員を集めて、社の為に名乗り出るように説得してくれるかもしれんからな。」
そう言って苦笑いを浮かべる。
「警察の捜査よりも、会社の為って言う方が効くかもしれんな。殺人事件より生産を優先する連中なんだから。」
「それから、食堂のおばちゃんたちに頼んで、飯の支度をさせろ。どうせ夜勤の連中の食う飯の支度をするんだろう。
今夜の夜勤は居ないんだから、今居る連中の夕飯に食わせてやれ。人間、腹が減ると凶暴になるからな。食わせればちっとはおとなしくなるかもしれん。」


結局、聴取は深夜までかかり、全員が署に戻って捜査会議を開き、状況がまとまったのは、もう日付が変わってからかなり過ぎてからだった。
日野、水谷、矢崎のように、最初から張り付いていた者の他にも、ローカルの甲斐テレビ局の報道、そして全国ネットのキー局のテレビクルーまでが、署に詰めかけていた。

「では、事件の概要をご報告させていただきます。」
「被害者は田原繁雄、五十八才。ネオテック工業甲府工場の工場長。
死因は撲殺。顔面や四肢を凶器で殴打された傷と、胸部、腹部、股間などを安全靴のようなもので蹴られた痕跡が有り、その際の内出血等により失血死したものと推定されます。死亡推定時刻は午後一時頃。但し、犯行の時刻はその直前なのか数時間前なのかは判明しません。発見は午後三時過ぎです。最終目撃証言は午前十時、製造部の朝のミーティングに出席して、事務所の工場長室に戻ると言って会議室を出たのが最後です。」
「じゃあ、会社の中で工場長が五時間も行方不明なのに、誰も騒がなかったんですか。」
「そういう事になりますね。」
「被害者は、何かトラブルに巻き込まれていたんですか。」
「トラブルと言えばトラブルですね。皆さんもご存知でしょう。この工場が来年には閉鎖される計画が有るのを。
もちろんそんなのは被害者が決めた事じゃない。本社の経営陣の決定だ。だが、会社側の代表として、工場閉鎖を進め、社員に説明会を行ったりする先頭に立っていたのは被害者だ。恨みを買う事も想像は出来ますね。」
「では、そういう恨みによる犯行なんですか。」
「動機に関しては、まだ何とも言えません。状況から推測しているだけですから。ただ、よくドラマなどに有るように、次の工場長の椅子を巡っての争いというような話では無さそうですね。
従業員の中には、機会さえあれば一発ぐらい殴ってやりたいと思っている者も多いようですし、私ならそんな椅子には座りたくないですよ。」
署長の言葉に、報道陣からは乾いたような笑いが起こる。

「犯行現場と言うか死体が発見されたのは、工場の二階の予備部品倉庫として使っている部屋です。そこが犯行現場だったのか、どこかで別の場所で犯行が行われて、そこに運んでこられたのかは、まだ判っていません。」
「血痕とかは無かったんですか。」
「先ほども言いましたが、蹴られて内臓出血したのが死因です。もちろん顔面も殴られてましたから、鼻血程度の出血は有りましたが、辺りが血の海っていうような状況じゃ有りませんでした。そのため犯行現場が特定できないのです。」
「被害者の家族とかはどうなっています。」
「自宅は関西で、単身で甲府に来て社員寮に入っていたそうです。奥さんはこちらに向かっています。
もう成人した息子と娘が居て、どちらも既婚です。娘も関西に居て母親と一緒にこちらに向かっています。息子は商社勤務で、現在はシンガポールに赴任中。連絡は入れてありますので、急いで帰国するところでしょう。」
「犯人の目星は全く無いんですか。」
「残念ながら、容疑者が多すぎますので、まだ絞り込めていません。
当日勤務していた社員含め、三百十八人が犯行可能でした。アリバイを証明するにも、時間に幅が有りすぎます。それに、会社敷地の出入りに関しては、オートゲートなども有りますから、非番の従業員でも、入ろうと思えばいくらでも会社内に入り込めるんです。そこまで含めると、容疑者の範囲は六百人以上になります。」
「では今後の方針は。」
「現場の物的証拠を集めて行って、そこから犯人への手掛かりを絞るしかないでしょうね。」



「これは厄介そうだな。」
水谷が日野にささやく。隣に居る矢崎の耳にも入ったのだろう。同意して頷いている。
記者会見も終わって、それぞれに報道陣も散って行く。
すでに取材で得た情報は、社に報告してあるし、この時間からでは朝刊に間に合わないから、あわてて記事にする必要もない。
捜査員も夜通し捜査をするわけでもないから、帰ってひと眠りして、明日の捜査にかかるのだろう。署の玄関から散って行く。
日野はその中に一之瀬の姿を見つけた。矢崎と水谷に目配せして、一之瀬に声をかける。
「大変でしたね。殺人事件なんてめったにない話でしょう。」
「ああ、そうだな。たとえ殺しが有っても、喧嘩でかっとなって刺したとかいうような事件ばっかりだしな。」
「このままお宅に帰るんですか。どうです、帰りがけに一杯。」
「そうだな。どうせ帰っても家族は寝てるし、俺だって布団にもぐりこむだけだからな。」
「じゃあ、ちょっとだけ。とは言っても、この時間じゃ、居酒屋も開いてない時間だな。」
「俺がいい店を知ってるよ。女の子が居るようなところじゃなくて、旨いつまみで飲める店だ。」
矢崎がそう言って促す。
「そうだな。そういう処の方がいい。どうせ俺に話をさせたいんだろう。」
一之瀬もそのつもりだ。


水谷の運転する車で店に向かう。店の前で三人を降ろした水谷は、近くの駐車場に車を置き、店に入って来た。
「まあ、とりあえず、殺された田原さんに献杯だな。」
一之瀬がそう切り出し、四人で日本酒の杯を挙げる。
「まったく、推理小説にでも出てきそうな事件だよ。動機を持った容疑者は山ほど居るし、犯行現場は会社の中だし。」
「現場ってどんな感じなんです。」
「そうだな。まずそこからだ。」
そう言って、テーブルの上にこぼれた水滴で図を描き始める。

「あの工場は、工場棟の建物が三階建て。隣に二階建ての事務棟が有る。
工場棟も全部が生産現場じゃなくて、現場を取り巻くように、いろんな部屋が有る。現場の会議室とか事務所とか倉庫なんかだな。
一階は作業者が出入りする事務所とか休憩室。二階には今回の現場の倉庫や、コンピュータシステムの中枢なんかが有る。三階は製造部の会議室やら生産進行のコントロールをしてる連中の部屋になってる。社員食堂は事務棟の二階だ。
組織としては、総務部、技術部、製造部の三つかな。総務の中には経理課とか庶務課とか、どこの会社にでも有るような課が含まれる。
技術部って言うのは、本社から送って来た図面をどうやって現場で実際のモノにするか考える技術課、機械の故障だの新規導入だのを受け持つ装置管理課、そして情報関係を受け持つ情報管理課の三つだな。
製造部ってのは、製作課っていう文字通りモノを作る連中がメインで、生産管理課って言って、お客の要求を順番付けして製品の優先順位を決めたりする連中と、品質管理課っていう処も製造部の中だ。」

「部が三つ。その中にそれぞれ三つくらいの課が有るんですね。」
「そうだ。但し、同じ部だからと言ってもそれぞれの課の有る場所は違うし、人数もバラバラだ。
総務部長の部下は五十人居ないし、製作課長は三百人からの部下を抱えてる。」
「まあ、交代勤務で各シフト百人も居ればそうなりますね。」
「交代勤務をやってるのは、製作課だけだからな。他の連中は日勤で、朝八時半から夕方五時までの勤務だそうだ。」
「それで容疑者が三百人も居るんですね。」
「そうなんだ。現場は工場棟の二階の予備資材倉庫っていう処なんだが、鍵が掛かっているわけじゃなくて、誰でも出入り出来る。主に装置の消耗品とか予備部品とかが置いてある場所だ。被害者が入り込むような場所じゃない。
被害者は、朝、事務棟で総務部の連中に顔を見せた後で、工場棟の三階の製造部の会議室に行って、会議に出ている。そして会議が終わって事務棟に向かう処までは確認されている。おそらくエレベーターで一階まで降りて、玄関に出て事務棟に向かうつもりだったんだろう。」
「それが二階で見つかったんですね。エレベーターで何か有ったんですかね。」
「それは判らん。もしかしたら階段を使ったかも知れないしな。」
「エレベーターと階段が有って、階段を使いますかね。」
「さてどうかな。ちなみに被害者は登山が趣味だったそうだから、考えられない事でも無い。」
「エレベーターがおかしな位置に有るんですね。普通は壁際とかじゃないんですかね。」
「そうそう、このエレベーターは廊下側から人も乗るが、生産ラインの製品を運ぶための目的も有るんだ。それで、ドアが両側開くようになっている。生産ライン側から台車にモノを乗せて各階へ行き来が出来るんだ。」
「それでこんな処なんですね。」

「一番考えられるのは、その会議後の時間に犯行が起こったという話だ。ボコボコに殴られて人気のない倉庫に転がされている。自分では動く事も助けを求める事も出来ない。内出血で体力は低下して数時間してから心臓が停止する。
死亡推定時刻は十三時だが、それは体温の低下などから推定する時間だから、心臓が止まった時間であって、犯行時刻じゃないっていう事だな。」
「でも、時間ははっきりとは判らない。今のところ推理の域を出ないですね。犯行可能な人間は、どのくらい居るんです。」
「基本的には誰でも出入り出来るからな。事務棟の庶務の女性や食堂の担当なんかで、事務所から一歩も出ていないっていう証人が居る者以外は可能だ。もっと言えば、そういう人間でも、トイレに行くとか言って五分も抜け出せば、犯行は出来る。
製造部と装置管理課、情報管理課は居場所が工場棟内だ。ああ、品質管理課は事務棟だな。」
「被害者の行動パターンとかは、決まってたんですかね。毎日この会議に出るために来るとか。」
「いや、出席した会議は製造部長主催の生産会議で、毎週火曜と木曜にやってたそうだが、工場長が来るかどうかはその時にならなきゃ判らなかったそうだ。他のスケジュールとの兼ね合いや、その時に抱えてる問題なんかで、来たり来なかったりだったそうだ。」
「居なくなったって、誰も騒がなかったんですね。」
「それも偶然の話だが、この日は夕方まで予定が入っていなかったそうなんだ。そういう時は工場長室に籠っている時もあるし、生産ラインの中をうろつく事も有ったっていうから、誰も気にしなかったんだろう。」
「それで、発見状況は。」
「第一発見者は二人居る。装置管理課の中込っていう奴と、製作課の班長の岡田っていう奴だ。
装置の調子がおかしいので、部品を交換しようと思って倉庫に取りに来たら、ホトケさんが転がってたって言ってる。それが三時ちょっと過ぎた頃だ。」

岡田という名前が出た時に、日野はあの時の男を思い出していた。あの岡田なのだろうか。同姓の別人だろうか。
明日にでも電話してみれば良い。話を聞きたいと言えば、あれこれとしゃべってくれるだろう。
「第一発見者に疑いは無いんですか。」
「まあ、単独ならともかく二人だしな。そこに行った理由もおかしな事は無い。装置の付属ポンプを交換しようと考えて、それを取りに行ったって言う話だ。ちょっと重い物だから、台車を押して行って、乗せるのに二人でやるつもりで、一緒に行ったという事だ。」
「凶器とか、現場の遺留品とかは見つかって無いんですか。」
「それは鑑識が調べてるよ。なにせ誰でも入れる場所なんだから、指紋もべたべた、髪の毛やなんかも山ほどある。そんなのをいちいち調べても、犯人を割り出せるとは思えないけどな。
凶器が見つかれば良いんだが、そちらはまだだ。
解剖の話だと、何かスパナのようなもので殴った形跡が有るらしい。傷が同じ幅で並んで居るのが、何か所か有ったって言う事だ。サイズとダメージから考えると、モンキーレンチっていう奴じゃないかって言ってるよ。」
「それは確かな話なんですか。」
「ああ、幅一センチや二センチのレンチで、重さが何キロもあるようなのは無いだろう。モンキーを閉じていたっていう方が有りそうな話だ。」
「じゃあ、その凶器さえ発見すればいいんですね。」
「あのな、あんな工場の中に工具箱がいくつ有ると思う。修理屋は一人ひとつ持ってるし、装置一台につき付属の工具セットが一式有るんだぞ。そのセットにモンキーレンチが有るかどうかもはっきりしないし、こちらの箱から出してあっちに戻すような奴も居る。簡単じゃないよ。」
「工場って言っても、ベルトコンベアの脇に人が居て、何かをやってるような処じゃない。生産ラインの人間も、それぞれ担当する部門の仕事をそれぞれのペースでやっている。ひとつずつプレス部品を作ってる奴も居れば、百個まとめてメッキ槽に入れて、一時間後に引きあげるような事をやる奴も居る。休憩も飯も、基本の時間は決まってるが、けっこういい加減なんだ。修理屋や管理部門だって、それぞれのペースで自分の担当業務を進めてる。とても把握出来んよ。」
四人は次第に無口になり、それぞれの思いに没頭しながら、黙って杯を重ねるだけになってしまった。



翌朝の新聞では、全国紙でも大きく殺人事件として報道された。テレビのニュースにもなり、ワイドショーでも盛んに取り上げられた。
報道では、やはり工場閉鎖の問題と絡めて、職を失う従業員の怒りの犯行という見方が多かった。
被害者の田原は、幹部として、あちらこちらの工場を転々としてきた人間だ。おそらくこの工場が閉鎖されても、次の席も有るのだろう。一方で平社員は、どこに飛ばされるのか、首を切られるのかも決まっていない。地元採用の者が多く、生活基盤もこの土地に有るから、簡単にどこかに行く事も出来ない。
そんな事情を取り上げて、格差による恨みという説を作り上げる局も有った。
ワイドショーが掘り出した、被害者の過去の情報も有った。
田原は以前、どこかの子会社に出向していて、そこでも工場をひとつ潰しているという話だ。やはり赤字操業で規模を縮小しなければならなかったのだが、三つ有った工場のうちひとつを潰し、従業員を多数、首にしていた。残る意思を示した者は、わざと遠方の工場に配置換えをしたり、系列の他業種の肉体労働の現場に行かせたりして、自発的に退職させるような事もやったそうだ。
その頃の関係者から、証言を引き出し、会社の為のコストカッター、従業員を使い捨てにする冷血漢というイメージを定着させた。


日野はさっそく岡田に電話をしてみた。
「参りましたよ。僕と中込さんで、見つけたんですけどね。第一発見者だからって、容疑者のようにしつこくあれこれ訊かれて。」
「それは大変でしたね。今はご自宅ですか。」
「ええ。今日は休業になりました。上司はラインを停めたくなかったようですけどね。
警察が立ち入り禁止だって言って、それを解除してくれなかったので、従業員は全員自宅で待機ですよ。まあ、それもちょっと揉めたんですけどね。」
「自宅待機の話でですか。」
「そうなんです。会社側としては、有給休暇扱いで休みを取らせたかったらしいんですけどね。組合がそんな事は認めないって言ったら、それじゃ、ライン閉鎖だから無給の休業扱いだとか、いろいろと言いだして。結局は出勤したのと同じ扱いで自宅待機っていう事になったんですよ。
実際に会社まで行って、守衛室前で追い返されたのも居るから、通勤手当分まできちんと出すっていう話で組合側が押し切ったらしいですけどね。」
「そんな事でも揉めるんですね。」
「ええ、何百人も居る工場だから、一日分の給料でも全員分だと大きいんですよ。」

「それで、あなたが死体を発見した状況を教えて頂けませんか。」
「いいですよ。
倉庫に入って行ったのは、僕の方が先でした。台車が有ったので、中込さんがドアを開けてくれて、僕が台車を押して入ったんです。
ポンプの置き場はあの部屋の中の中ほどで、五番目の棚の辺りです。入って行くと二つ目と三つ目の棚の間に、誰かが倒れてたんです。
まさか死んでるとは思いませんでしたし、それが工場長だとも気付きませんでしたね。
装置課の連中は、この倉庫に隠れて昼寝をしてるっていう噂も有ったんで、それかなとも思ったんです。でも、三時過ぎでしょう。それに、床の上に直接だったし、うつ伏せだったから、寝てるんじゃないんだろうと思って、声をかけてみたんです。
でも、ピクリとも動かないでしょう。揺さぶってみても動かない。ひっくり返して顔を見たら、工場長じゃないですか。顔の前に手をやってみたけど息もしていないようですし、それからは、大慌てですよ。
二人で部屋を出て、部屋の前から課長に電話したんです。班長は構内PHSを持ってますからね。中込さんも、装置管理の課長に電話しました。それからしばらくしたら、課長と部長がやって来て、後は総務やらなにやら入り乱れて大騒ぎですね。」
「じゃあ、死体を見つけたら、その部屋から出てしまったんですね。」
「そうですよ。死体と一緒のところに居るなんて、気味が悪いじゃないですか。部屋のドアの前に居たから、誰も出入りはしてませんけどね。」
「ドアはひとつだけなんですか。」
「両側に有りますよ。でも突き当りの廊下の向こう側だから、そこからでも誰か出入りすれば、確実に気が付きますね。」
「それで、課長や部長と一緒に、もう一度部屋に入ったんですね。」
「そうです。私たちが先頭になって、棚の処まで行って、あれですって指差して。もしかして、さっきのは幻覚かなにかで、もう一度行ったら、死体なんて無かったなんて事にならないかと思ったんですけど、きちんとそこに有りましたね。まあ、二人揃って幻覚を見るなんていうのも、考えられませんけどね。」
「そうですか。それは大変でしたね。死体の様子はどうでした。」
「ちょっとしか見ていないんですけど、顔は目の辺りを殴られたのかなって思いました。
瞼が切れてるように見えましたから。鼻血も出てたかな。印象が薄いから、あんまり派手には出てなかったんでしょうね。とにかく、ひっくり返して顔を見たら工場長でしょう。それに驚いちゃって。」

「世間では、従業員の恨みによる犯行だって言われてますけど、どう思います。」
「そうですね。やっぱり会社側の人間ですし、工場の責任者ですからね。恨んでいた奴は多いと思いますよ。それで殺すっていう処まで行くかどうかは判りませんが、
僕だってチャンスさえあれば、一発ぐらい殴ってやりたいと思いますよ。」
「でも、工場長って言っても中間管理職でしょう。」
「いや、本社での仕事の取り合いで、工場長の責任は大きいでしょう。この工場を閉鎖するっていうのは、他所と比べて、甲府工場が赤字だからなんですよ。どうして赤字なのかって言えば、生産が少ないからなんです。もっと沢山製品を作れば、黒字になるんですよ。生産ラインの能力はもっと有るんですからね。
ところが本社が仕事を回してくれない。ここでしか作れない製品はここに来るけど、どこの工場でも作れるものは、よそに取られてしまう。製品が来ても、利益率が悪い物ばかりを押し付けられる。そういう事に対して、工場長が文句を言わないから、この工場が赤字になって潰されてしまうんですよ。」
「やっぱり工場長レベルでの力関係なんですかね。」
「まあ、本人は潰すつもりで居たんでしょうね。
会社内で公平に仕事を分け合っていれば、どこも一斉に赤字になってしまう。どこか弱いところを作って、そこを潰せば、他のところは生き残れる。
会社全体の理屈はそういうものですよ。最初からそれをやるつもりで、あの工場長がここに送り込まれて来たんじゃないかって、会社の中では言われてますよ。潰し屋とか死神とかね。」
「そうですか。じゃあ最後にひとつ。犯人に心当たりは有りませんか。あの工場長が死んで得する人とか。」
「そうですね。まあ、死んで得するって、普通で言えば、次の工場長だろうけどね。
今なら、総務と製造と技術の部長ですか。その三人の誰かが次期工場長っていうのが一番有りそうなパターンですね。まあ、他所の工場からの横スライドっていう事だって十分有るんだけど。
でも、こんな時期に工場長にはなりたくないでしょう。それこそ、同じように恨みを買って同じように殺される可能性だって有るでしょうからね。」
「じゃあ、工場長が死んだ事で、全員が何か得するような事は。」
「そうですね。今は未だ労使で、いつまで生産を続けていつ閉鎖するんだっていう話を交渉している最中ですから、その交渉の一方の責任者が居なくなれば、多少は時期がずれ込むかもしれないっていう処ですかね。
もっとも、かもしれないだけで、実際には変わらないとか、あんな事件が有ったんだから、一刻も早く潰せっていう話も出るかもしれない。判りませんね。」
「そう考えると、やはり恨みですかね。」
「そうですね。恨みだけは沢山有るでしょうから。ここが無くなれば単身でどこかに行く者、家庭の事情でそれも出来ずに辞める者、どちらにしても苦労させられますからね。
去年リストラされた連中でも、退職金の上乗せに釣られて辞めたけど、まだ再就職が出来ないで、ハローワークに通ってる人も多いって聞きますよ。そういう連中からの恨みも合わせれば、相当な数になるでしょう。」
「そうですか。ありがとうございました。また何か有ったら、お話を聞かせてください。」

やはり恨みによる犯行なのだろうか。世間一般で流れている情報が正しいのだろう。日野は、原稿をどうまとめようかと、考え込んだ。



事件から一週間しても、捜査に進展は見えなかった。
工場は一日立ち入り禁止で封鎖されただけで、翌日からは生産が再開された。
会社は異例の事態に対応するため、本社の専務だった野村を工場長に就けた。だが、野村は今までの業務の片づけをするという理由で、工場には赴任していない。あそこに行けば次は自分が殺されると言って怯えているんだと、噂が立った
技術部長だった二木が、野村から工場長代理という役職に指名され、実際の工場長の業務を代行している。

田原の遺体は司法解剖後に家族に引き取られ、実家の関西に戻された。
葬儀の式場前にも、報道のカメラが並んだが、事件の被害者という面と、工場を潰し従業員から恨みを買った悪役という面との両方を、社会的背景まで含めて、ワイドショーで取り上げられていた。



その後の捜査で、容疑者が絞り込まれたのは、事件発生から十日後の事だった。
鑑識が採取した靴の痕跡から、犯人の靴のサイズが特定され、それに合致した靴を履く従業員が調べられた。その中の一人、荒木祐介の靴が、犯行に使われた靴と断定されたのだ。
荒木は現場の作業員の一人だった。担当する作業現場は二階の外函製造機だ。材料をプレス機で決まった形に成型する仕事だ。一定数の数を作ったら、それを通い箱に入れ、三階の中身を充填する工程に台車で運ぶ。一人でやっている作業だし、エレベーターで二階と三階を行き来もする。現場に一番近い処で仕事をしている作業員だった。


容疑者逮捕の情報は日野にも届いた。
甲斐署に行って、一之瀬に話を聞く。やはり甲斐日報の矢崎も一緒になった。その頃には、報道も一段落して、署に集まったのは、地元のメディア関係者だけだった。
「一之瀬さん。これで一件落着になるんですか。」
「いや。俺は違うような気がするな。まあ、警察としてはそんな事は言えないんだけどね。」
「じゃあ個人的なカンだとどうなんです。」
「あいつが単独でやったにしては、おかしな部分が多すぎるんだよ。
まだマスコミにも出してない捜査情報なんで、ここだけの話にしておいてくれよ。あんまりリアルな事を報道すると、気分が悪くなるやつも出て来るからな。
凶器で殴られていたのは主に手足だ。顔も目の部分を狙って、目玉を潰そうとして殴ったような感じだ。手足も痛みを与えるのと同時に、二度と使わせないようなダメージを与えているようだ。骨がバラバラになるくらい手の甲を殴ってあったり、膝を砕いたり、脛を折ったりしてある。」
「かなり残酷なやり方ですね。」
「ああ。だけど、それは被害者が一生目も見えず、自分で歩く事も出来ず、手も使えないようにはなるが、命には影響ないんだよ。」
「殺人じゃなくてあくまでもダメージを与えるためにやったっていう事ですか。」
「そうだな。殺人じゃなくて暴行傷害だ。
でもやられた方は、一生不具者として生きなければならない。恨みとは言っても、良く計画された、残忍と言えばこれほど残忍な事は無いという犯罪だ。」
「そうですね。本人も家族もそんな状況じゃ、いっそ死んだ方がましって思うかもしれませんね。」
「ところが、被害者は死んじまった。腹を蹴られて内臓出血してたからな。この蹴った靴痕が今回逮捕した荒木のものだ。でも、荒木が蹴ったにしてもそれだけじゃ死なないんだ。病院に連れて行けば十分に助かる程度だ。それをあんなところに放置して、何時間も放っておいたから、結果としてひとつの殺人事件になったんだ。」
「じゃあ、犯人は複数居るってことですか。」
「そうだな。でも、こんなにバラバラな行動は、計画して行われたんじゃ無いような気がする。それぞれが、別の事を考えてやったんじゃないかな。」
「最初から複数で襲う計画じゃ無かったっていう事ですか。」
「そうだな。連携プレーと言うか、リレー犯罪と言うか、何人かが順番に関わっているような気がするんだよ。」


逮捕された荒木は、犯行を否認した。
靴の痕跡は確かに荒木の物と一致した。靴底で一部欠けていた部分までピタリと合ったのだが、荒木は犯行を認めなかった。そして、こんな事を言った。
「俺が犯人だとしたら、こんな靴履いてるわけがないだろう。すぐにでも買い替えて、そんなものは捨てちまうよ。だいたい、靴だけで他の凶器はどこに有るんだ。それに俺はあの日、飯と休憩以外は、生産ラインから出ていないぞ。飯と休憩も、隣の装置担当の石井と一緒に行ったからね。」
確かに、荒木の作業現場にはモンキーレンチのようなものは置いてなかった。また、同僚等の証言から、もともとそんなものが無かった事ははっきりしている。
さらに、死体の見つかった予備資材倉庫からは、荒木の指紋なども見つかっていないのだ。靴痕の一致だけでは、証拠としては不十分だ。

だが、取り調べを進めると、荒木の証言は次第に変わっていった。
靴の痕に関しては、言い逃れが利かなかったのだ。
荒木は、エレベーター内で、被害者を蹴ったという事実は認めた。
「通い箱を台車に乗せてエレベーターで三階に運ぼうとしたんだよ。ドアが開いたら、あいつがエレベーターの壁にもたれるようにして、床に腰を下ろしてたんだ。
誰なんだろうと思ったけど、すぐに工場長だと判ったよ。怪我してるんだか二日酔いなんだか、目も開けずにぐったりしてるんだ。
台車を載せるにも邪魔だし、もとから気に食わない奴だったし、目を閉じて寝てるんだかなんだか判らない。具合が悪いように唸ってた。
いい機会だから、ちょっとやってやれと思ったんだ。腹の辺りを二三回蹴飛ばしてやったんだ。それでも動く様子が無いから、ちょっと怖くなって、廊下側のドアを開けて、そっちに蹴りだしたんだ。それだけで、その先は知らないよ。
俺は台車を押して、三階に部品を持って行って、そのまま仕事の続きに戻ったからね。昼飯時に廊下に出たら、もう居なかったから、自分で起き上がってどこかに行ったんだろうって思ってたんだ。それだけだよ。
蹴飛ばしたのは悪かったけど、死ぬほどボコボコにしたわけじゃない。」


署内では、荒木のこの証言に嘘は無いだろうという意見が大勢を占めた。
本当に荒木がやったのならば、凶器だけを隠して、靴はそのまま履き続けるのはおかしいという見解だったのだ。
だが、そうなると、被害者の荒木との接触前後の状況が判らなくなってしまう。
誰がエレベーター内に被害者を放置したのか。廊下に出された被害者を倉庫まで移動させたのは誰なのか。また、エレベーターにも廊下にも、血痕などは何一つ残っていなかった。それはどうしてなのか。
あまりにも謎が多すぎる。


ワイドショーの話題も政治家のスキャンダルや芸能人の死去の話に取って代わられ、容疑者逮捕と、小さく扱われるだけになっていた。

ところが、荒木逮捕の三日後、事件は意外な展開を見せる。
甲斐署宛に、一通の匿名の手紙が届いたのだ。
宛名まで全てプリンターで打たれたその手紙の内容は、関係者に衝撃を与えた。


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甲斐署 ネオテック工場長殺害事件 捜査関係者の皆様

日々の捜査、お疲れ様です。
このような事件でお騒がせしている上に、さらに混乱させるような事をして申し訳ないのですが、ひとつお願いが有ります。

先日逮捕された荒木は、犯人ではありません。少なくとも、最初に凶器を使って襲った犯人ではありません。
犯人は私です。モンキーレンチと手ぬぐいを使って、私がやったのです。

私は以前から、この犯行を計画していました。
工場長が憎かったのと同時に、会社幹部への憎悪も有りました。
この工場に働く地元の人達の日々の暮らしを、あっさりと打ちこわし、家族をばらばらにしたり、職を失わせたりする会社が憎かったのです。
たとえ工場長を殺しても、それで工場の閉鎖は止められない事は解っています。しかし、何も手を出せず、意見さえ聞いてもらえず、なすがままに路頭に放りだされる身としては、なにか一矢報いたかったのです。
幹部にも、地元従業員はこんなにも怒っているんだと、アピールしたかった。
そのターゲットが、田原工場長だったのです。

遺体解剖などでもう意図は解っているかもしれませんが、私も殺人を犯すつもりは有りませんでした。
工場長に同情したのでは有りません。
逆に、最も残虐で、しかも私がもし捕まっても罪が軽くて済むように、殺さずに、一生回復しないダメージを与えようと計画したものです。
眼を潰し、耳を潰しました。可能なら話も出来ないように、舌を切る等もしたかったのですが、そこまでやれば死んでしまいそうでしたし、困難でもあったので、それは止めました。
歩けないようにして、手も使えず、一生そうやって生きろと思っていました。
おそらく、ひと思いに殺すよりも、本人は苦しむでしょう。
それが何百人もの従業員とその家族から、平穏な生活を奪った罪の代償なのです。

ところが、その計画を完璧に実行した後で、思いがけない展開になりました。
私の計画だと、午前中、犯行から間もなく、誰かが工場長を発見し、病院に担ぎ込むはずでした。
エレベーターの中にいた工場長を蹴ったのは荒木かもしれません。
でもそれは、ちょっとした日頃の感情が暴発したにすぎません。
殺意を持って、罪を犯したのとは違うでしょう。
強いて言えば、喧嘩して相手を殴ったら、打ちどころが悪くて死んでしまったくらいの罪でしょう。
荒木を殺人犯に仕立て上げないでください。私としても後味が悪い事になってしまいます。

私の思惑では、工場長は生きてはいるが、二度と仕事には復帰できない、という事態になるはずでした。
そんな状況になれば、会社幹部はどうするのだろう。業務上災害というわけにもいかない。籍を置いたまま長期療養とするのか、あっさりおはらい箱にするのか。どうするのか見てみたいという好奇心も有りました。
また、今行っている工場閉鎖の条件闘争も、そのやり方次第では、従業員が有利になるかもしれない。工場閉鎖の交渉自体が進展しなければ時期も先送りになるかもしれない。などという考えもちょっと有りました。

このような不測の事態を招いたのは、全て私の計画段階での未熟さが原因です。

実際の犯行はエレベーターの中で行いました。
工場長に後ろから近づき、顔を見られないように、いきなり手ぬぐいで顔を覆い、そのまま眼を潰しました。そして痛みで苦しんでいるところを、手の甲の骨を砕き、膝と脛を折れるまで強打し、そこに放置して、手ぬぐいと凶器のモンキーレンチを持って立ち去ったのです。
凶器のレンチと手ぬぐいは、工場内のあるところに隠してあります。
この手紙だけで信用してもらえなければ、第二弾の手紙でその在り処も明かす必要も出て来るでしょう。

この手紙は新聞社とテレビ局にも、同時に送付してあります。
どうか、荒木の事に関しては善処をお願いします。

            真犯人より

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この手紙が、甲斐署と同時に、朝読新聞の甲府支局、甲斐日報、甲斐テレビなどに届いたのだ。
もちろんマスメディアは大きく騒ぎたてた。文面が一字一句残らず紹介され、その内容により、好意的に受け止められた。
同僚をかばう礼儀正しい犯人、現代の仕事人などと呼ばれ、一方では、従業員を切り捨てるような会社側の方針が、バッシングされた。

警察もさらに犯人を追及したが、結局新たな証拠も凶器も発見されず、この事件は迷宮入りとなった。

ネオテック工業は一時期、悪評で株価までも落ちたが、その後は業績も持ち直した。
噂では、営業部門はあの事件を話題にして、
「これ以上製品が売れなければ、工場閉鎖なんて騒ぎになって、また殺人事件が起こるかもしれません」
と言って営業しているとも囁かれた。
だが結局は、甲府工場は事件後一年半で閉鎖された。
野村工場長は最後まで甲府に着任せず、必要な時にだけ本社からやって来てすぐに帰ってしまうような行動を繰り返していた。二木が最後まで、実質の工場長としての仕事を行った。
従業員は全員がそれぞれに次の赴任先を示され、家庭の事情で転勤を拒む者には、三十ヶ月分の基本給を上乗せして、退職金が支払われた。

荒木以外には逮捕者も出ず、荒木も暴行傷害で起訴されたが、罪状を認め反省もしているという事で、執行猶予の付いた軽い判決が出た。

甲府工場の敷地は、長い事買い手も付かず、廃墟のようになって放置されていたが、五年ほど後に、外資系の商業施設の用地として買い取られた。



日野はまだ甲府支局勤務だった。
ネオテック工業の甲府工場が買い取られた話はニュースにもなったし、その跡地が大規模な商業施設になる事も公表されていたので、廃屋の撤去作業の様子を眺めに来ていた。
あの事件から八年が過ぎていた。
工場の建屋は解体が進み、周囲に植えられた樹も、専門家が根回しをして、移植の用意をしていた。
その時、歴代工場長の就任記念の記念樹を釣り上げる作業をしている業者が何かを見つけた。
「なんだ、これは。」
最後の一本、それは田原工場長が植えた樹だったのだが、その根元から見つかったのは、手ぬぐいに巻かれたモンキーレンチだったのだ。

日野はすぐに事件を思い出し、それを甲斐署に届けた。
だが、赤く錆びついたレンチからも、どこにでもある日本手ぬぐいからも、犯人につながる新たな証拠は発見されなかった。
手ぬぐいの記憶を聞いて回るにしても、当時の従業員はそれぞれ遠方に単身赴任しているか、会社を辞めている。その後、行方が分からなくなっている者も居る。
すでにマスコミも、この話題を取り上げようともしなかった。
結局、事件は未解決のままで幕を閉じた。



事件から三十八年後。
末期癌病棟での小沢康(当時、ネオテック工業装置管理課勤務)の証言。死亡三日前。
「あの時、エレベーターの前に誰かが倒れてるのを見つけたんだ。助けてやらなきゃと思って起こそうとしたら、工場長だった。こんな奴を助けてやることはない、って思ったのさ。皆があいつの事を憎んでたからね。
だから、そのまま資材倉庫に放りこんだんだ。自分で何かやったわけじゃない。ただ、廊下の邪魔な荷物を、倉庫に片づけたくらいのつもりだったのさ。
ところが夕方になったら大騒ぎだ。殺人事件だ。工場長が殺されたって言うじゃないか。
すっかり怖くなってね。誰にも何も言わず、それっきりだよ。
だって、俺が何かしたわけじゃないし、警察が犯人を見つけてくれるだろうと思ってたからね。もしも俺に容疑がかかって、やっただろうって言われたら、その時には、あっちのモノをこっちに移しましたって、正直に言うつもりだったんだけどね。
それっきり何も言われなかったし、犯人も捕まったようだし、知らん顔で今まで居たんだよ。」


事件後十二年。
掃除婦、山本和江(当時、株式会社ニュークリーン勤務)の同僚との会話。
「そうそう、あの殺人事件の日。あたしもあそこに居たんだよ。会社があそこの工場の掃除を請け負ってたからね。おかげであの日は夜まで帰らせてもらえなくて大変だったんだよ。
会社の同僚と二人で行って、同僚は事務棟の担当、あたしが工場の担当だったんだよ。
事務所や生産ラインの中は範囲外で、社員がやってたよ。あたしはトイレと廊下と休憩室の掃除さ。
月に一度、廊下にワックスをかける事になっていてね。ちょうどあの日がワックスの日だったんだ。お昼頃から始めて、一階から三階まで全部の廊下にワックス掛けてポリッシャーで磨いたんだよ。エレベーターの中もついでに掛けといた。
そしたら、なんだか事件だなんて言って警察が来ただろう。せっかく磨いた床だってドカドカ踏み荒らされちゃうし、まいっちゃったよ。
腹が立ったから、何にもしゃべらなかったのさ。ワックス掛けて磨いた事もね。
血痕は無かったかなんて言われてもね。そんなものいちいち気にしてるわけじゃないしね。ポリッシャーで磨けば、血だろうが髪の毛だろうが、たいていのものはきれいになるよ。でもそんな事言って、じゃあ証拠を探すからなんて言われてポリッシャーを取り上げられでもしたら、会社から文句を言われちゃうだろう。仕事するのにも困るし。
良いんだよ。あんな奴が殺されたって。あたしだってあの工場の担当だから雇ってもらってたようなもので、あそこが無くなったら、あの時居た会社を首にされちゃったんだからね。ここに雇ってもらうまで、大変だったんだよ。
自分の工場を潰して、社員を首にしようっていう工場長なんて、殺されてあたりまえさ。」


                             了

失意の報復

初めて推理物を書いてみました。いかがだったでしょうか?
内容は完璧にフィクションです。

但し、私のプライベートをご存じの方なら解ると思いますが、このストーリーには
実際のモデルが有ります。私の勤務するR社の甲府工場がそれです。
画像もその工場画像を使用させてもらいました。(笑)

本当に殺人事件が起こったわけではありませんが、恨みを買う工場長、
従業員の葛藤と諦めなどは、ほぼリアルなものです。

このストーリーのような事件は起こりませんが、今年の10月には工場が閉鎖され
全ての人員は県外への転勤か退職かの選択を迫られています。
もしも会社の関係者、工場長や幹部がこのストーリーを目にすることが有れば、
こんなにも恨まれているんだという事を、認識して欲しいと思っています。

新聞社や警察の内情などは全く判りませんので、あくまでも
私の頭の中で思い描いたものです。
デスク以下五名なのか五十名なのか、規模感も知りませんし、
警察の関係者と記者が、どんな砕けた会話を交わすのかも想像です。
実体をご存じの関係者は異議も有るでしょうが、ご容赦ください。

某新聞社の記者さんを勝手にモデルに使わせていただきました。
ここでお礼を述べたいいと思います。


この作品は「小説推理」という雑誌の賞に応募したものです。
残念ながら入賞しませんでしたので、ここで公開することにしました。

日野や矢崎、一之瀬などのキャラが良いので、シリーズとして
二作目、三作目も書きました。
近いうちに公開したいと思っています。


シリーズ2作目「清らかな情死」公開しました。
こちらの方が、推理物の王道のトリック崩しの話で、純粋に楽しめるかと思います。
よろしかったら読んでみてください。               2014//07/06
http://slib.net/33160

三作目の「身元不明の死体」も公開しました。
こちらは推理というより、人間ドラマに近い内容です。
よろしかったらこちらもどうぞ!      2014/08/02
http://slib.net/34169

失意の報復

ネオテック工業甲府工場長が、勤務時間内に工場内で撲殺死体となって発見される。 この工場は、会社全体の赤字のしわ寄せで閉鎖される事になっていて、従業員側と会社側の話し合いが行われている最中だった。 会社側の代表として工場閉鎖の先頭に立っている工場長は社員から恨みを買っている。 容疑者は当日勤務していた三百人!

  • 小説
  • 短編
  • サスペンス
  • ミステリー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-06-19

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

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