吹雪となれば 短編
今井兼久を主人公にした短編です。
第六章から第七章のくだりを読まれた方は、よろしければお読みください。
彼がその後、どう生きようとしていたか、を綴りました。
第七章で、嵐が兼久の邸から去ったあとの物語です。
金の露
短編 金の露
嵐が去り、兵庫と、そして物言いたげな様子の智真が去ったのちも、兼久は畳に座り込んでいた。半ば忘我(ぼうが)の境地だった。
「……………」
外では僅かに降っていた氷雨(ひさめ)も止み、とうに傾きつつある日が顔を再び覗かせているようだった。そして漂う空気は少しずつ、夜の厳しい冷え込みを予感させるものに変わっていった。長い時間、兼久はピクリとも動かなかった。
兼久は今日、死ぬつもりだった。
それが何の間違いか、まだ生きている。息を、している。
(――――――なんで生かした、由風)
傍から見ていても、お世辞にも人に優しいと言えない嵐が、若雪をどれだけ大事に想っているかは十分に解った。
その、若雪の情を利用して、死病に罹(かか)らせたのは兼久だ。
何をどう言おうと、問答無用に斬られるだろう。
覚悟は、出来ていた。
兼久は、現(うつつ)を生きることに倦(う)んでいた。
嵐は宗久が兼久を世俗から遠ざけようとした、と指摘したが、その逃げ場所となった茶道も、所詮は俗事から無縁ではいられない。
むしろ商いのしたたかさ、戦の浅ましさを、狭い茶室の中で目の当たりにすることが多かった。
純粋に、茶の道を究めんとする人間の、何と少ないことか。
兼久は、長らく失望の中にあった。
しかし若雪は、茶に純粋に向き合う数少ない内の一人だった。
元来、探究心の強い気質なのだろう、兼久の指導にひたむきに、真剣に耳を傾ける姿に兼久は心慰められるものを感じた。
――――――――それだけであれば良かった。
茶の道に関する理解者が、己の義理の妹であったことをただ喜ぶことが出来れば、兼久はもっと楽に息をし、今後の生涯を歩めたかもしれない。
若雪に、恋慕の情など抱かなければ。
(若雪…………)
白い雪。清らな微笑。憂いを含む顔の美しさ。
手に入れられなくとも良かったなど、嘘だ。
本当は誰よりも何よりも、兼久は彼女を欲していた。
けれど若雪の澄んだ眼は、いつも、嵐を映していた。
それゆえの、彼女の変化を、どうしても兼久は許せなかった。
理想とする美の体現者であった若雪を、変えてしまった嵐を憎んだ。変わってしまった若雪を憎んだ。
若雪は兼久を救い、そして突き落としたのだ。
奈落の底へ。
兼久はふと、今はもういない幼い少女のことを思い出した。
―――――――――自分が見殺しにした。
労咳(ろうがい)と解っていながら、何の手当ても施さず揚句(あげく)、納屋に、若雪のもとへ行くように差し向けた。
きっと今頃は、冥途(めいど)で自分を恨んでいるに違いない。
そう、思いながら倒れた障子戸の向こうに見える庭を見た。
そこには、小雨(こさめ)が立っていた。
蘇芳(すおう)の着物を着て、きょとんとした顔で。
兼久は、今自分が目にしているものが、理解出来なかった。
翌朝、兼久は軽い頭痛と共に目が覚めた。
夜具から身を起こし、昨日の出来事を回想する。
嵐が来た。腰刀を手に。自分は死ぬものと思っていた。しかし智真と、あとから現れた忍びらしき男が嵐を止めた。
そして自分は今、拝む筈では無かった朝日を拝んでいる――――――。
しかしあらかた呑み込めた一日の中に、明らかに異物が紛れ込んでいると兼久は感じた。
死んだ筈の小雨が、庭に立っていたという夢だ。
そう、夢が現と認識される物事の中になぜか入ってしまっている。
クックッと兼久は笑ってしまった。
自分は相当に、小雨へした仕打ちの罪悪感を強く抱いているらしい。
らしくもない。
笑いは中々収まらなかった。
すると部屋の隅に、赤い色を見た気がした。
ようやく笑いを喉の奥に引っ込め、兼久はその赤をまともに目に捉えた。
それは蘇芳の赤だった。
小雨が、ぽつんと座っていた。
兼久と目が合うと、大きく澄んだ目を細めてにっこり笑った。
(ついてきよるな…)
兼久は、その日納屋へと赴き、父・宗久に若雪の労咳に罹ったことの理由、そう仕組んだのは自分であることなどを洗いざらい打ち明けた。
宗久は、話を聴いて蒼白になった。
そうして何も言わずに立つと、よろめきながらも兼久の上衣を掴み、その胸に拳を打ちつけた。
無言のまま、何度も何度も、強く打ちつけた。
兼久は、されるがままにしていた。
父親の気が済むまで胸を殴らせておいて、その居室から退出しようとした時、宗久が一言、訊いた。
儂(わし)のせいか、と。
兼久も一言だけ答えた。
それは違う、と。
その、納屋への道中も、帰路も、小雨はトコトコと兼久のあとをついて来た。
有り得ないことだった。小雨は確かに自分の腕の中で事切れていた筈だ。
あの、死者特有のずしりとした身体の重みは、今でも忘れられない。
(ほんまに化けて出よったか)
他の人間には見えていないらしいところから、やはり小雨は幽霊と称されるものの類だろう。頑なな現実主義者の兼久も、最早認めない訳にはいかなかった。
それにしても、この小雨からは、恨みや怨念といった負の気配が感じられない。
時折兼久がちらりと目を遣ると、そのたび嬉しそうに笑うのだ。
歩いていて距離が開きそうになると、慌てたように小走りになって駆けて来る。
(…足があるんやな)
妙なことに兼久は感心していた。
自邸に戻った兼久は、茶室で茶を点てた。
毎日のように点てていた茶だが、随分と久しぶりに茶道の世界に浸った気がした。
茶室から出ると、待っていたように小雨が駆け寄る。
まるで生きていたころと同じ在り様に、兼久は混乱した。
(小雨は死んだ。もう、生きてる人間やない)
なのにこの、活き活きとした様子はどうだろう。
兼久は、自分のほうが余程虚(うつ)ろな塊(かたまり)だと思った。
小首を傾げて兼久を見上げる小雨の目はどこか悲しそうで、兼久はつい尋ねた。
「――――――なあお前、どないしたんや。ちゃんと明慶寺で、経も上げてもろうたやろう?まだなんか足らんかったんか?……私を恨んで、出て来たか?」
この言葉に小雨はフルフルと首を横に振った。
そして、小さな人差し指で、兼久を指差した。
あなたが心配なのだと、そう言いたげな仕草だった。
兼久はふと優しい気持ちになって、やんわりと小雨に語りかけた。
「お前は私が、とうに虚ろなことを解ってるんやな。……その通りや、私にはもう、なんも残されてへん。もう―――――――なんも。やつしの美すら、今や見出せへん」
小雨は悲しそうな目で再び首を横に振った。
何か、言いたいことがあるのだろう。
「堪忍な。お前がなんか言いたい思うても、私は信心の少ない人間やさかい聞き取ってやれへんのや。恨み言を聴いてやることも出来ひん。すまんなあ」
小雨は眉根を寄せて、今にも泣きだしそうな顔をした。
「…おいで。茶を点ててやるさかい。飲めんかて、見るだけでもええやろ」
自分でも驚く程の穏やかな口調で、兼久は小雨を茶室に招いた。
翌日も、その翌日も、小雨は兼久の前に姿を現した。
物言わぬ小雨の存在は、次第に兼久の癒しになりつつあった。
(自分で見殺しにした小雨に、私は救われてるんか……)
滑稽(こっけい)だ、と思った。
自分は無様(ぶざま)で、醜(みにく)い虚ろだ。
若雪と嵐が、桜屋敷に居を移すことを、偶然納屋の人間から聞いた。
それを聞いて、虚ろだと思っていた胸が痛むのを感じて、兼久は驚いた。
まだ、自分は若雪に囚われているのだ。
自室の外側の縁に座っていた兼久は、両手で顔を覆った。
空からは、音も無く雪が落ちて来る。
(私はこの手で、雪を散らしてしもたんや。雪の華を……)
胸の痛みを感じる資格など、自分には無い。
けれど優しげな白い塊は、兼久を許すように膝に、肩に、降りてきた。
そして兼久の中の時は止まったままで年を越し、睦月を迎えた。
気付けば三十の歳を数えていた。
小雨は相変わらず、兼久の近くにいた。
兼久も今ではその存在に、すっかり慣れてしまった。
睦月を過ぎれば春も近付く。
けれど兼久の中は相変わらず虚ろで、がらんどうとしたままだった。
睦月も半ばを迎えたころ、兼久は織田家の武将と会合衆を客として、自邸の茶室で茶を点てることとなった。
「ほう…、これが宗薫(そうくん)(兼久)秘蔵の茶室とやらか。また随分とその…、趣があるの」
織田家中でも近畿方面を任されている、明智日向守光秀(あけちひゅうがのかみみつひで)がそう、感想を漏らした。
言葉とは裏腹に、よく解らない、と当惑したような思いがその表情に出ている。
「まこと。ちと…、狭いがこのささやかさもまた一興と言うものであろう」
同じく織田家中の武将である筒井順慶(つついじゅんけい)がそれに続くが、教養人で知られた彼の顔にも、光秀と似たような当惑の表情が浮かんでいた。
(解る筈も無い)
兼久は冷えた心で、その言葉を侮蔑(ぶべつ)しながら聴いた。
宗久からの厳命でなければ、誰がこんな俗物たちを自らの茶室に招き入れるものか。
「納屋さんは、情趣いうもんを、よう心得てはりますから」
「せや。私ら凡人とは、茶に向かう姿勢からして違いますのや、明智様」
会合衆の二人、油屋常琢(あぶらやじょうたく)と天王寺屋宗及(てんのうじやそうきゅう)の言い様は、兼久への、ひいてはその父・宗久へのあてこすりだった。
天王寺屋も油屋も、会合衆の中でさえ一目置かれる豪商だが、近年になって台頭してきた織田信長に重用されている今井宗久の存在は、あまり愉快なものではないのだ。
天王寺屋は三好氏とも縁があり、心中では三好と敵対していた信長に加勢した納屋を忌々しく思うものがある。
「……数々の名物道具を持ってはる油屋さんにお見せするには、お恥ずかしい程のみすぼらしさですやろ。せめて私の点てる茶でも飲んで、無聊(ぶりょう)を慰めたってください」
油屋の所有する曜変天目茶碗(ようへんてんもくちゃわん)を宗久が欲しがっていたことを、兼久は知っている。
「はてさて、慰める程の茶であれば良いが」
光秀がちらりと嫌味を言う。
「まあまあ、明智様。宗薫さんは、それは茶の道に熱心でいてはりますのや。私が名物を多く持つ、言わはるんも御謙遜(ごけんそん)の一つ。御自身かて、珠徳茶杓やら定家色紙やらの名物を、ちゃんとお持ちなんでっせ。なあ、宗薫さん?」
「それらは父の持ち物ですよって」
「同じことや」
取り成すように言った油屋に答えた兼久の言葉を、天王寺屋が冷たい口調で両断した。
要するに今日、ここに集ったのは、いずれも信長や納屋に対して一物ある面々なのだった。一見、兼久を取り成したように見える油屋の、〝茶の道に熱心〟という言葉も、それ以外には能が無い、という嫌味が込められている。
彼らを招いて茶会を行え、という宗久の命には、納屋の存在に反感を持つ勢力の機嫌を取っておけという意が含まれている。無論宗久は、兼久がその茶会において少なからず苦痛を味わうであろうことは承知している。その上での、命令である。
その事実からは、兼久が若雪に対して行った仕打ちを、未だ許し難く思う宗久の怒りが感じられた。
(思惑通りやな―――――――)
宗久が兼久に課した罰は実に効果的だった。
顔には出さないものの、まだ茶を点てる前から兼久は早くも疲労を感じていた。
「そう言えば宗薫。そなたの妹御が病に倒れたと聞くが、まことか?」
光秀が言った時、兼久は危うく茶杓(ちゃしゃく)を取り落しそうになった。
「―――――――若雪を御存じでしたか」
「おお、そうじゃ、若雪と申したな。大層、美しい娘であったが…。病は重いのか」
兼久は内心の動揺をどうにか堪(こら)えた。
「……明智様がお気にかける程のものでは。遠からず、回復しますやろ」
「ふむ、左様か。それは重畳(ちょうじょう)」
それきり、若雪の件は話題に上らなかったが、まだ寒気の強い季節だというのに、兼久は背にじっとりと汗をかきながら茶を点てた。まさか光秀が、若雪のことを見知っているとは思わなかった。
平静な振りをすることに骨が折れ、茶会が終わり客人たちが帰ったあとも、兼久は茶室の中で放心したように端座(たんざ)したままだった。
油屋や天王寺屋は、若雪の病が労咳であることを恐らく知っていた筈だ。それをあの場で光秀に言わなかったのは、せめてもの配慮といったところか。
何にせよ、こんな茶会はもうこりごりだ、と兼久は思った。
(この世は俗だらけや。人も、物も、俗の醜さに満ちてる。私自身も)
それにつけても、そんな俗事に関わりつつ一向に清らかな風情を失わない若雪が、兼久には不思議でならなかった。
(―――――泥中(でいちゅう)の花、か…)
兼久は視線を下に落とした。
けれど疲れた。俗事の醜さを間近で見ることにも、若雪を死病に追いやって尚、執着する自分にも。
何もかもに、兼久は疲れ切ってしまった。
もう、全て終わりにしてしまいたかった。
いつの間にか小雨が茶室の入口に立ち、首を斜めに傾けてそんな兼久を見ていた。
ある日、雪が浅く積もった朝、目を覚ました兼久は小雨が庭に自分を手招くのを見た。
「なんや?どないした?」
そう訊いても、良いから来い、と言うように手招きするばかりだ。
「…………」
その動作に常にも増して強い小雨の意思を感じ、招かれるまま胴服を羽織り、白い息を吐きながら草履を履いて庭に降りる。
小雨が指差した先に、育てていた福寿草が見事に花開いていた。
それは美しく、強い金色の花だった。
今の兼久には、眩(まぶ)しい程の金だった。
明るく、且つ容赦ない力でその生を、活力を見せつけられている心地がした。
花自体がまるで光を放っているかのようで、兼久は目を細めた。
「……これを、見せたかったんか?」
小雨は大きく頷いた。そうして、ホッとしたような笑みを浮かべた。
役目を果たした、とでも言うかのように。
「…小雨。私は、こない綺麗に完璧に花開いたものはよう好まんのや。この花は、私の目にはあんまり美し過ぎる。完璧過ぎて、むしろ無粋(ぶすい)や……」
だが言う端から、自分の双眼より涙が滴(したた)り落ちるのを、兼久は信じられない思いで見ていた。
何だ、これは。
ポタリ、と落ちた涙の一粒は雪の中に咲く福寿草の上に留まり、福寿草自身が露を含んでいるように見えた。
真っ白な雪に包まれ、露を置いた福寿草は満ち足りた美しさだった。
白雪に咲いた花の完璧さ。
それはまさに、欠けの無い美だった。
人を冷たく弾くのではなく、むしろ安堵させる完璧さに兼久は胸を打たれた。
自分は今までこれを忌避(きひ)していたのだ。
不足の美、余白の美こそが至上だと信じて。
兼久は思った。
けれどこの涙は何だ。心底からせり上がって来る、熱は。
この完璧さに救われるような心地は、何なのだ。
(――――まだか。まだやと言うんか。―――――まだ生きろと、そう言うんか。私に)
震える手で、兼久は福寿草に触れた。金の花弁は柔らかく、兼久の手が触れると小刻みに揺れた。
「こんなものが。こんなものが…。この、俗世にも、―――――こんなものが」
今であれば満ち足りたものも、素直に祝福出来る気がした。
若雪の、花がほころぶような笑顔も。
けれど全ては遅過ぎた―――――――。
兼久は雪の上に両手両膝をついて号泣した。
手放しで、声を上げて泣いた。
涙は次から次に溢れ出て雪の上にこぼれ落ち、ささやかに雪を溶かした。
雪を、溶かした。
もしも若雪が労咳を克服してくれるなら、きっとその時こそ自分は自分の歩みを過(あやま)たず、やつしの美も、満ちたものの美も認めながら生きることが出来るだろう。
雪の中、露を宿した金の花を見つめながら、兼久はそう思った。
小雨は、それきり現れることは無かった。
吹雪となれば 短編
今井兼久は、史実の人です。
彼はこののち豊臣にも徳川にも仕え、家庭を持ち、残りの生涯を精力的に過ごします。
そうなるまでに、どのような心境の変化があったのか、考えてみました。
もちろんフィクションですが。