吹雪となれば 終章

吹雪となれば 終章

九藤 朋

禊の時を終えた若雪と嵐、そして周囲の人々がその後どう生きたか、最後までお読みいただければ幸いです。

吹雪となれば

人と神の
願いを織り込めて
流れる時は見ていた
血も涙も
瞬きの笑顔も


終章   吹雪となれば


 周りに満天の星が埋めくような空間の中で、自分の意識だけが浮遊しているような感覚を若雪は感じた。
 真白が遠ざかる――――――。
 瞬く星々の中に、門倉真白として過ごした十五年の生涯が紛れ、見分けもつかなくなる。
 成瀬荒太の生涯も同様だろうか。
 嵐が今、自分の近くにいるのかどうかも解らない。ただ手に、彼の掌の温もりを感じて、それだけはホッとする。
 ぐるぐると、満天の中を回って廻って―――――――。
 …――――ああ、あの童歌が聴こえる。

 
 回れば廻る
 廻れば逢える
 回る輪の内出でぬなら
 輪の内回ってまた逢える……
 

やがてその歌声さえも遠くなるころ、若雪の頬に雨が一滴落ちた。
やけに温かな雨だ。
 一瞬、怯む程の白くまばゆい光が閉じていた瞳を差した。
 ゆっくりと瞼(まぶた)を開く。
「…若雪どの………」
 泣いている嵐が、そこにいた。若雪は仰向けに倒れるような状態で、彼の腕に抱かれていた。宙を向いた眼は、天から舞い降りて来る風花を背景に、嵐の顔を見ていた。
 雨と思ったのは、嵐の落とした涙だった。
(嵐どのが…泣かれている)
 荒太の身体から抜け出た時は、平気そうに見えたのに――――――。
 堪えていたものが、こちらに戻り改めて溢れ出たのか。
 初めて目にする嵐の涙を、若雪はどこか信じられない思いで見ていた。
 涙が幾筋も辿った跡のある彼の頬に、右手を柔らかく添える。
「…戻って参りました。嵐どの。迎えに…参りましたでしょう?私は、あなたの手を取りましたよ。この上は、もういずこたりとも参りません。ずっと共に。嵐どののお傍におります。それが私の幸いです」
「――――――」
 嵐が、若雪の首筋に顔を埋めた。血で汚れた青紫の打掛ごと、若雪を強く抱き締める。
 もうどこにも行かないよう、引き留めるかのように。
 若雪が、自ら雪華で確かに切り裂いた筈の首の傷は、跡形も無く消えている。
 その白い首筋の、消えた傷跡を、それでも指で何度もなぞるようにして嵐は言う。責める口調だった。
「――――信用出来ひん。あんたは俺を、二回も置いて行ったやないか」
 それを言われると若雪としても辛いものがあった。
 解って欲しい、と思い、口を開いた。
「それは――――――共に永く在る為です。どうか、そうお責めにならないでください。それに、嵐どのに出会えない世で、幸せになることがいかに難しいか私は知りました」
 この時点で、二人の脳裏からは門倉真白も成瀬荒太も、痕跡を残しつつ、記憶の後方に退いた。
 若雪は嵐の腕から身体を起こし、その場に佇む尊い二人の姿を見据えた。
「理の姫様……。吹雪は、確かに光の吹雪へと変じましたか?私たちは無事、禊の時を終えることが出来たのでしょうか」
 錫杖(しゃくじょう)は既に持つべき主である、理の姫の手に戻っている。
 理の姫は、心底安堵したような微笑みを浮かべ、頷いた。
「はい、姉上様。全ては万事、滞り無く。―――――もう摂理の壁の崩壊は始まっています。間も無く、壁は跡形も無く消え去るでしょう」
「理の姫様、若雪どのの病はどうなるんや?このままか?」
 既に涙顔を消し去り、嵐が真剣な顔で理の姫に迫った。
 水臣が少し眉根を寄せる。
 理の姫は顎に手を添えて少し思案する様子を見せたあと、ただ事態を見守るしかなかった智真を振り返った。
「雷神の申し子よ。あなたのその雷の力、姉上様の病を焼き尽くすものとして使って良いだろうか。引き換え、あなたはもう二度と雷雲を呼ぶことも雨を降らせることも出来なくなるけれど―――――それでも?」
 自分の力が若雪の病を治せる――――――?
 願っても無いことだった。
 智真は一も二も無く頷いた。コクリ、コクリ、と大きな動きで首を二回振る。
「はい!はい。どうぞ―――――どうぞ、使ったってください」
 理の姫はふわりと笑んだ。
 手に持つ錫杖の先で智真の姿を丸く囲むように円を描くと、それを勢い良く振りかぶって若雪のいる方向に振り下ろした。シャン、と大きな音が鳴り響く。
 それと同時に、若雪の身体の周囲を金色の細い糸のようなものが一廻りし、消えた。
 その際、パリリ…、という微かな音が聴こえた。
「あ……」
 若雪の自覚は顕著だった。常に身体につきまとっていた倦怠感(けんたいかん)と熱っぽさが消え、喉ももう苦しくない。咳をする気配すら、今では全く消え失せている。
「嵐。姉上様より病魔は去った。安心すると良い」
 若雪はどこか呆けたような顔をしていた。嵐は今聴いた言葉が確かに真実かどうか、確認でもするかのように若雪を見、理の姫を見て再度若雪を見た。問いかけるような彼の眼差しに、若雪は一つ頷いてみせた。唇には微笑を乗せて。
 嵐は気が抜けたように座り込むと両手で頭を抱えた。その周辺には引き千切った数珠の水晶玉が、あちらこちらに散らばっている。この在り様に、普段は温厚な明慶寺住持はどれ程の癇癪(かんしゃく)を起すだろうか。
「は……は…」
 軽い笑い声が嵐の口から洩れる。目元を右手で覆う。
「ああ。ああ、さよか…………。……ほんなら次は、祝言やな……―――――」
 それが、交わした約束だった。
「嵐どの…。太郎兄が、謝っておいででした。嵐どのに悪いことをした、と――――――。兄たちを、お許しいただけますか?」
 請うように問う若雪を、嵐は見た。吹雪のことだと、察しはついた。
「うん。若雪どのが、今、ここにおるしな……。なんも思わん訳やないけど、もうええ」
 その言葉に若雪が、ホッとした笑みを浮かべた。
 冬の雲間から、陽が顔を出した。
 その時、一陣の強い風が風花と共に強く吹き付けた。
 狂い咲きの、満開の桜が豪勢に散ってゆく。
(ああ――――これは)
 冷えた空気の青空にひらひらと、はらはらと、勢い良く散ってゆく。
 惜しげも無く、一気呵成(いっきかせい)に。
(潔いこと。これではまるで――――――――)
 光溢れる中、黒髪を手で押さえ、舞い散る花びらを見ながら若雪は思った。
(吹雪は吹雪でも、花吹雪だ―――――――――――)
 爛漫(らんまん)の光の中で、確かに吹雪は成ったのだった。

 摂理の壁が崩れて行く。
 巌の聳える陰鬱な空間に、一条、二条と光が差す。
 頑健に見える巌が、足元からボロボロと音を立てて崩壊する。
 理を促す、或いは強いる巌の、呆気ない崩壊。
 暗き海原を背景に、それは無残で、そしていっそ爽快にも取れる光景だった。
 老翁たちはこれを嘉(よみ)した。
「壁が崩れる…なんと」
「赤色と吹雪を示すのみではなかったか――――――」
「崩壊にまで、至るとは」
「我ら、壁の守り手もこれでようやく解放される―――――嬉しや」
「ようやっと」
「嬉しやのう」
「ようやっと」
「理の姫様の真の狙いはこれにあったか」
「有り難い……」
「皆、言祝(ことほ)げよ、歌えよ、これ程の吉祥(きっしょう)がまたとあろうか」
「嬉しや」
「嬉しやのう…」

 桜屋敷に住まう人間たちは、理の姫らの手によって眠らされていた。
 青紫の豪奢な打掛を血で汚した若雪を見た志野は卒倒しかけたが、若雪本人には傷一つ無いばかりか、なぜか労咳の兆候まで消えていることに対して、蓬と共に涙を流さんばかりに喜び合った。
 嵐は成瀬荒太として生きていた間、理の姫から吹雪や壁の崩壊等に関する話を聴いていたらしく、大体の事情は若雪と同じ程度に把握していた。
 けれど理由があったとは言え、若雪が自ら命を絶ったという事実は彼の心に浅くない傷を残した。今となって見れば、自分が成そうとしていた運命違えの術の罪深さも解る気がしていた。

 年が明け天正十一(1583)年、睦月に吉日を選び、嵐と若雪は祝言を挙げた。
 嵐下七忍や茜ら身内だけを招いたその祝言は、ささやかながら心の籠ったものとなった。
 それでも宗久には祝言のことを知らせてあったので、納屋からはこれでもかと言わんばかりの豪華な祝いの品々が贈られて来た。嵐と若雪は、宗久のことも重ねて祝言に招いていた。当初はこれを固辞していた宗久も、娘の花嫁姿を見たいという欲求には勝てなかったようで、途中から祝言に参加する意向を伝えた。
 幸菱(さいわいびし)が浮き織りになった白綾の被衣を被った若雪が、これまた純白の打掛姿で座敷に姿を見せると、その美しさに場は一瞬静まり返った。何もかもが白い装束の中で、唇に注した紅だけが赤く、花嫁の清かな顔立ちを引き立てた。
 宗久は涙こそ見せなかったものの、目を細くして感無量の様子でこれに見入っていた。
 対する嵐もこの日ばかりは侍烏帽子(さむらいえぼし)に縹(はなだ)色の直垂(ひたたれ)の、若雪も初めて目にする凛々しいばかりの正装だった。
 智真は祝言の場にいなかった。

 それは若雪と嵐が祝言を挙げる前日のこと――――――。
「なんやて?」
 嵐が穏やかでない声で、智真に訊き返した。
「せやから、私は明慶寺を出て、陣僧(じんそう)になる」
 改まって話がある、と智真が言うので聴いてみると、智真は真面目な顔でそう言った。
 陣僧とは、戦場に赴き、和平の使者に立ったり、首実検や首供養を取り仕切る役割を果たす僧侶のことである。
「…安全が保障された役目やないで。運が悪ければ、死ぬことかてある。解ってんのか?」
「――――――嵐。私は、たまたま悪うない家柄に生まれたお蔭で、喰うにも困らず、死の危険にも遭うこと無う生きて来た。けど、本当に僧侶を必要とするところは、実は日の本中に転がってるんや。私は、必要とされる場所で、お前が背負うて来たような罪業から目を逸らさんと生きて行きたい。…もう、あの厄介な力も無い。これで剃髪(ていはつ)して戦場に赴いたかて、なんも差し障り無いやろ。どこぞの武将に、力の為に目を付けられる心配も消えた。和尚さんにも、もうお許しをいただいとる」
 若雪は、話の間何も言わなかったが、顔には智真の安否に対する不安が浮かんでいた。
 嵐がふー、と溜め息を吐く。
「お前…。それこそ剃髪したかて良うなったのなら、僧としての位階を極めればええもんを。…止めても聴かんのがお前や。この強情め。若雪どの、こいつ、ほんまは俺より余程強情やねんで」
 若雪はいつも通りの良く澄んだ目で、智真を見た。行かれるのですね、とその目は物語っていた。名残惜しそうに。
 それだけで、もう智真は満足だった。
「……うっかり死んだりすんなや。…俺がお前を守ってやる訳にもいかん。七忍にお前を守らせたりもせんぞ。楯も無く、命を危険にさらす覚悟があるんなら、好きにしたらええ」
 厳しく突き放すような嵐の物言いに、智真が朗らかに笑った。
「お前は若雪どのを守ってたらええんや」
「…どちらに、行かれるのですか?」
 初めて若雪が口を開き、智真に具体的なことを尋ねた。
「越前の、北ノ庄へ行こうと思うとります」
「北ノ庄…」
「出来れば小谷の方様にお口添えいただき、柴田様にお雇いいただけたら、と」
 北ノ庄は市の夫・柴田勝家の居城の一つだ。近く戦が起こるかもしれない、とは嵐も若雪も懸念していたことだった。
「いつ発つんや?」
 智真はどこまでも和やかに答えた。
「もう身支度は済んでるんや。せやから、今日にでも発とうと思うとる」
「―――――祝言には出てくれんのか」
 嵐の言葉に、智真はふっと笑った。
「あまり綺麗な若雪どのの花嫁姿を見てまうと、堺を離れ辛うなるからな」
 智真には珍しい軽口だったが、嵐は笑わなかった。

 智真との遣り取りを、嵐は思い出していた。
 目の前では今、嵐下七忍の一人・山尾が高砂を舞っている。

 その晩――――――。
 枕が二つ並んだ夜具の前に、嵐と若雪は座していた。
 二人共、白い小袖を着ている。ともされた灯が、その白を暖かな色に染めていた。
「ふつつかものではございますが、幾久しくよろしくお願い申し上げます」
 若雪が三つ指を突いて頭を下げる。
「――――俺もふつつかもんや。若雪どの。…せやけど、頼む。俺と共に生きてくれ」
 嵐が真摯な声で、率直に返した。
 頭を上げた若雪の顔に笑みが広がる。
「はい――――――――共に」
 そして伸ばされた嵐の手に、若雪は目を閉じて全てを委ねた。
 灯りの揺らめく中、二つの影が一つになった。
 嵐は若雪を慈しみ、敬うように指先に、唇に、小袖をずらして露わになった白い肩に口づけを落とし、どこまでも彼女を強く深く、ただひたすらに求めた。若雪もまたその求めに応じ、夜は静かに更けて行った。

 喜びがあれば、悲しみがある。
 天正十一年卯月、柴田勝家と羽柴秀吉の衝突した賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いにおいて、勝家は敗れ、妻である市もまた自害したと言う報せが届いた。市は自ら、三十七年の生涯に幕を閉じたのだった。
 その報告を黒羽森から受けた時、若雪は変わらぬ表情のままで、特に何を言うでもなかった。
 そして無言のまま、市から受け取った扇を胸に押し戴くように抱えて広縁に座り、自室の前に広がる庭を暮れゆくまでただ一人、じっと眺めていた。
 ピクリとも動かない若雪の前に、小さな灯が飛んできて、彼女の周りを舞った。
 それは一匹の蛍だった。
 蛍はしばらく若雪の周囲を飛び回ると、若雪の、胸に抱かれていた扇の先端に留まった。
「―――お市どの…?」
 優しい仄かな明滅は、まるで若雪を慰めるようで、若雪の頬をするりと涙が滑り落ちた。
「…お市どのは、ずるうございますね……。御自分だけ、この乱世を早々とあとになさるとは。―――――――私を置いて―――――」
 続きは言葉にならなかった。
 市はどうして自害を選んだのだろう。まるで、これ以上利用されるのは御免とばかりに。
(逝ってしまわれた…)
 いずれまた、市枝には逢える時が来るだろう。
 けれどだからと言って、悲しみが薄まる訳ではなかった。
 もう今生において市と会うことは叶わないのだ。
 蛍の留まった扇を、若雪はぎゅっと胸に抱き、肩を震わせた。
その後ろ姿に声をかけられる者は誰もいなかった。嵐でさえ、そんな若雪の姿を遠くから見ているだけだった。
〝遺命じゃ――――若雪を守れよ。良いな?〟
(わかっとります、お市様。せやから、…安心してください)

「さらぬだに 打ちぬるほども 夏の夜の 別れを誘ふ ほととぎすかな」

 市の辞世の句である。
〝そうでなくとも臥して眠る頃合いなのに、短い夏の夜に別れを誘うように鳴くほととぎすであることよ〟
 短い夏の夜の別れとは誰とのものであったのか。確かに知る者はいない。

 若雪は翌年、女児を産んだ。
 子供は小雨(こさめ)と名付けられた。
 
智真は陣僧として各戦地に赴いたのち、堺の町中に質素な居を構え、明慶寺に戻ることなく市井の中で、人々と交わりながら生きた。その弟弟子(おとうとでし)だった蒼円は第二十一代明慶寺住持となり、のちのちまで智真への尊敬の念を忘れなかった。
 生涯を独り身で通した智真は、寛永五(1628)年、周囲の人々に見守られ七十二歳で没した。孤独と諦観の中で生きていた少年僧は、その臨終の時を、温かな涙で送られながら迎えたのだった。
今井宗久は文禄二(1593)年に七十四歳で没した。
 今井兼久は今井宗薫(そうくん)として豊臣秀吉の御伽衆(おとぎしゅう)となり、関ケ原の戦いののちは徳川家に仕え、寛永四(1627)年に七十六歳で没した。
 茜は堺の商家に嫁ぎ、三男四女をもうけて夫と共にたくましく店を切り盛りし、江戸の世となってからも長生きした。

 若雪と嵐は桜屋敷で主に着物を取り扱う商売を手掛け、生業とした。
 今では遠い記憶となっているとは言え、禊の時を生きた二人には、人の生き死にに関わる勤めに抵抗感が芽生えていたのだ。
 天正十八(1590)年、若雪は再び労咳に罹った。
 今度ばかりは、理の姫による特別な計らいも無いようだった。
 桜舞う卯月のある日、若雪は単衣を羽織り広縁に嵐と並んで座っていた。
「嵐どの…。禊の時のことを、覚えておいでですか」
「ああ…ぼんやりとやけどな」
 二人共、はらはらと舞う桜を見ていた。
「私たちの名は、残っておりませんでした」
「……うん」
「織田様は言うべくもありませんが、養父上の名は残っておりましたね。さすがです」
「…名が残らんかったから言うて、俺らの働きが叔父上に劣ってた訳やない」
「私もそう思います。今まで、それは必死に生きて参りましたが……、」
 そこまで言うと、若雪はついと顔を上げて蒼天を見た。
今日の空は晴れ渡っている。実に良い日和だ。
そう思いながら若雪は目を細めた。
胸には満ち足りた思いがある。
「名が残らずとも、嵐どのと生きた歴史が私の内にあるだけで、もう十分だと思えます。私は今井若雪も、望月若雪も、精一杯生き切りました。…嵐どのと共にいられた、どちらの若雪も幸せでした」
「………」
 嵐の横顔は僅かも動かない。
 そんな嵐を、若雪は優しい微笑と共に見つめた。
「―――――小雨を、あの子をよろしくお願いします。本当なら、もう少し傍にいてやりたかったけれど―――…。そうしてこの乱世の果てを、見届けてください。嵐どの」
 若雪が去っても、嵐は生きて乱世の果てを見届ける。
 それもまた二人が交わした約束だった。
 一度はそれを放棄しようとした嵐だったが――――――――。
 嵐は若雪の顔を見ようとしなかった。
 また自分を置いて行くのか、とも言わなかった。
 目は意地のように桜だけを見て、固く握った拳が何か物言うようだった。
 嵐は一瞬、覚悟を決めるかのように、目を閉じた。そして、静かに口を開いた。
「ああ―――――――。ああ。わかった」
「あの平穏な世で、またお会いしましょう」
 だから泣く必要は無いのです、と最後にもの柔らかに加えられた言葉に、嵐は何も答えなかった。

 若雪はその年の秋、三十三歳で没した。
 嵐は商いをしつつ、家事全般を仕込みながらも男手一つで小雨を育て上げ、無事、嫁に出した。
 そして慶長五(1600)年、関ケ原の戦の終結後、世の行く末を見届けたとばかりに病で没した。四十一歳だった。

望月嵐の名も、若雪の名も、後世に伝えられることはなかった。彼らの知己(ちき)が亡くなったのちはその名を覚える者も消え、歴史の渦に呑みこまれて消えて行った。戦場を駆け、知略を巡らし、商いの世界においても豪商たちに一目置かれた彼らの名は、欠片も歴史に残ることはなかったのである。



「……………」
 嵐の目の前を、櫛の付喪神(つくもがみ)がちょこまかと歩いている。
 嵐を振り返っては、そのきょろりとした目で、ついて来ていることを確認しているようだ。
振り返っては「よし」と言わんばかりに一つ頷き、また歩き始める。
(相変わらず忙しないやっちゃ。けどなんや、お前…。小雨の嫁入り道具に入って行ったんとちゃうんか。こんなところで何しとるんや)
 若雪の母の形見の品だった、桜の彫り込みが施された柘植(つげ)の櫛は、若雪の娘である小雨に引き継がれた筈だ。小雨が嫁ぐ前の晩、嵐が彼女に手渡した。
 そう思いながら、ついつい、嵐は付喪神のあとを追っていた。
 もう数十年も昔の、春の日を思い出しながら。
 今、嵐は見たことも無い竹林を歩いていた。どことなく、霞がかっている。
 竹林の中だと言うのに、桜の花びらが時折風に乗って流れて来る。
 ひら…、と流れるそれを時折目で追いながら、嵐は付喪神のあとを追った。
 付喪神はまだ、歩き続ける。
「どこまで行くんや」
 嵐はいつの間にか、二十代のころの姿に戻っていた。
 浅葱(あさぎ)色の上衣に紫紺の袴。
 付喪神を追いながら、嵐には予感があった。
 流れる桜の花びらが、その予感を助長させた。
(逢えるんや。また)
 自然と早足になる。
 不意に追っていた付喪神の姿が消えた。
 そして、長いこと待ち侘びていた、懐かしくも慕わしい声が嵐を呼んだ。
「嵐どの!」
 ゆっくりと、声のしたほうを振り返る。
 そこには、真っ白な打掛を羽織った若雪が立っていた。
 優しい微笑を浮かべて。微笑の色は、紅(くれない)に染まっている。
 それは嵐の紅(べに)だ。嵐が染めた、紅(くれない)だ。
 祝言を挙げたころから、少しも変わらない姿だった。
「……………若雪どの」
 見つけた、とばかりにその身体を引き寄せ、抱き締めた。
 ようやくまた逢えた。
「若雪どの。……若雪どの。若雪どの。若雪どの」
 咒言(じゅごん)のように、飽きることなく何度も何度も名を呼ぶ。
それは確かに、一つの咒言だった。逢えなかった時間に呼ぶ筈だった名を取り戻すかのように、呼ばれる名は繰り返された。
「はい、嵐どの。お傍にいると言ったのに、少しの間寂しい思いをさせてしまいました。申し訳ありません」
 嵐の腕の中で若雪が詫びた。
「………少しの間やない」
 拗(す)ねた子供のようなこの言葉に若雪が笑った。
「そうですね、申し訳ありません」
「―――――このまま、一緒におられるんか?」
「はい。次の世に移るまで、私たちには時間があります。ですからここで、嵐どのと共に」
 嵐は若雪の身体を放すとにっこり笑った。
「ほな、行こか。俺はこの世界のことはよう解らん。若雪どのが案内してくれ。なんせ俺の嫁御は天女やからな」
 そう言って嵐が差し出した手を、きょとんとした顔で若雪は見て、それから一笑した。
 何度も、何度でも、この手は自分に向けて差し出されるのだ。そして自分もまた、何度でもこの手に自らの手を重ねるだろう。当然在る場所のごとく。
 ずっと―――――――――。
 手を繋いだ二人の姿は、竹林の中に漂う、淡い霞に紛れて消えて行った。
 二人の去ったあと、風に乗ってどこからか童歌が微かに聴こえて来た。

 
 回れば廻る
 廻れば逢える
 回る輪の内出でぬなら
 輪の内回ってまた逢える
 雪と光は姉妹
 金銀砂子の見守りて
 廻りを待てとや歌いけり
 廻りを待てとや笑いけり

吹雪となれば 終章

初の長編小説、しかも自分で望んだとは言え入り組んだ話を、何とか着地させることが出来ました。読者の方には、読みづらい点、解りづらい点など多々おありだったと思います。ここまでお付き合いくださった方には、感謝の念しかありません。この物語はフィクションですが、嵐や若雪のように、懸命に、必死に乱世を生き抜いた、名も無い人たちが数えきれない程にいて、泣き、笑い、怒り、喜び、そして生涯を閉じていったことに、少しでも思いを馳せていただければ嬉しく思います。ありがとうございました。

吹雪となれば 終章

禊の時を終えて、物語の主軸は再び若雪と嵐に戻ります。彼らと、その周囲の人々がその後どう生きたのか、最後まで見守っていただければと思います。ここまでお読みくださった方には、本当に感謝申し上げます。 「人と神の 願いを織り込めて 流れる時は見ていた 血も涙も 瞬きの笑顔も」

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  • 短編
  • ファンタジー
  • 恋愛
  • 時代・歴史
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-07-23

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