吹雪となれば 第九章

吹雪となれば 第九章

作品全体を見ると、日本史中世時代劇ですが、この章はやや風合いが異なります。ネタバレになるので詳しくは書けませんが、興味を持たれた方はお読みください。

月下行

「 あなたは私の大切な
息吹、風、…嵐。
そして私は雪、あなたを追う。
どこまでも舞い、飛び違い、
あなたを迎えに参ります   」







「やめろ、やめるんや、嵐(あらし)!その数珠(じゅず)放せ!」
狂い咲きの桜の下、流れた鮮血が一人の男をも狂わせた。
風花(かざはな)と桜の花びらとが、入り乱れ舞い踊る。
どこまでも。
嵐と呼ばれた若者の腕には若い女が抱かれている。身にまとう打掛(うちかけ)は血まみれで、眠るように目を閉じている。
女の身体を抱いたまま、天を仰(あお)ぐ若者の目には、途切れることのない涙があふれていた。その瞳はまるで洞(ほら)のように虚(うつ)ろで、どこも見ていない。
もうどこも見ていない。
何事かを低くぶつぶつ呟いているようだが、内容を聞き取ることはできない。
雷鳴が遠く聞こえる。
彼が手に持つ数珠の糸を引き千切(ちぎ)ると、連(つら)なっていた水晶玉が一斉に弾(はじ)け散った。緋色(ひいろ)を
映し花びらや雪片(せっぺん)の舞う中を、踊るように水晶の一粒一粒が、あるいは跳ねて、あるいは転がり、きらきらと輝く。
それは禍々(まがまが)しさを孕(はら)んでいながら、息を呑むほど美しい光景だった。
(若雪…)
(若雪…)

「やめろ―――――――っ!!」






第九章 月下行

それは私の一歩で
それは私の道で
けれど陽の下にいる私に
静かに頭(かぶり)を振るのは
鏡の中の私
  
     一

「禊(みそぎ)の時を過ぎれば?」
「ええ」
「光の吹雪に?」
「ええ、きっと」
「―――――ならば私は参りましょう」

天女の姉妹は約定(やくじょう)を交わし、そうして彼女の心の臓は動きを止めた。
これはそののちの物語。


智真が庭先の三人に気付いた時、場はやたらと静かだった。
風花が音も立てず舞っていた。桜の花びらと共に。
狂い咲きの庭にいるのは、変わった着物を着て錫杖(しゃくじょう)を持った美しい女性と、これも変わった着物を着た長い髪の男。見ただけで、人ならぬ、尊き身だと察せられた。
そして、嵐が座り込んだ背中が見えた。
よく見れば、彼の腕には若雪が抱きかかえられているようだ。
「嵐…………」
 智真の声に振り返った嵐は、驚くべきことに涙を流していた。
 それは嵐の両の目から溢れ、止まることを知らず流れ出ていた。
 どんな時であってさえ、泣かない彼の涙を、智真は初めて目にした。
「―――――どないしたんや。何があった?若雪どのは…、気を失うてはるんか?」
 この智真の問いに、流れる涙もそのままに、嵐が小さくクスリと笑って答えた。
「いや―――――――――――死んどる」
「阿呆言うな!」
 反射的にそう言い返しながら、智真はもう解っていた。
 嵐の胸に抱かれた若雪の傍に転がる抜き身の懐剣。
 彼女の纏う、美しい青紫の打掛を赤く染めたものの正体。
 何より――――――――嵐の涙。
(あかん――――――――)
 このままでは、自分は衝撃のあまり雷雲を呼んでしまう。身に着けた呪符も、この状況の前では物の役にも立ちそうにない。目眩がして、踏んでいる地面が急に柔らかで頼りないものになったように感じた。
「……なんでや、若雪どの。約束したやないか。――――――――答ええ、なんでや!!」
 嵐が涙を撒き散らしながら叫び、懐から数珠を取り出した。
 智真はハッとする。
〝鬼封じの数珠〟。
 そして足元には、子守明神像の絵がなぜか置いてある。

 それからのことは、よく覚えていない。まるで智真の理解を超えた展開が繰り広げられたからだ。けれど智真はなぜか、嵐がこれから成そうとしていることを止めなければ、と思った。彼が何か、ひどく不穏なことをしようとしている気がした。そして聞こえてくる雷鳴を、抑えなければとも思った。
 嵐は若雪の亡骸を抱き上げ、子守明神像の絵を持って注連縄を巡らした結界内に入った。
 次の一言は、虚ろな瞳の静かな宣言だった。
「天地は、もう無い」
 咆哮(ほうこう)を、天に向けて放つ。
「ああ…あ…あああああああああああああ――――――――!!」
そして泣きながらに〝鬼封じの数珠〟を引き千切った。数珠に封じられた霊力が溢れ、乱れるまま結界内に四散する。
「若雪……」
 嵐が呟く声を智真は聴いた気がした。胸が切り裂かれるような響きだった。
 自分の胸にある思いと同じ響きに感じて、息が出来ない程に苦しかった。
 千切られた数珠から解放された水晶玉は、至る所に飛び散った。
 それはきらきらと輝いた。
 きらきらと。
 嵐が何か唱え事を終え、ふっと身体から力が抜け落ちたように倒れた。

 そして激しい風のような透明な力の塊が、その場に顕現(けんげん)した。
 在るもの全てを押し流すかのような、圧倒的に甚大な霊力――――――。

 ―――――吹雪―――――――――――。

 訳が解らないながらも、智真はとにかく顔を庇い、吹き飛ばされぬよう、両足に力を籠めて必死で踏ん張った。
 そんな中、視界に入った長い髪の男と、女性の顔には隠し得ぬ驚愕があった。
 男が呻(うめ)く。
「なぜだ……。片方が既に死んでいるのに、呪法を成し遂げ得るなど。有り得ない」
「姉上様。姉上様――――――…」
 なぜか若雪に対して姉と言い募る女性の顔には、涙があった。
 ああ、と女性が悲嘆の呻き声を上げる。
 ああ、これで吹雪が成った、と智真の耳には聞こえた。
 次いで、けれどまだ…、とも聞こえた気がした。

 

桜の花はほとんど散ってしまった。
 朝まだ早く、キッチンカウンターの椅子に腰かけて、門倉真白(かどくらましろ)は庭にある桜の木を見ていた。
 北欧調のシンプルながらシックな掛け時計は、現在、午前六時を指している。
 同居している祖母二人は、まだ起きて来ない。
 生徒の自主性を尊重する、という校風のもと、朝課外も無く、部活動にも所属していない身としては、する必要の無い早起きを真白は高い頻度でしていた。ブレザーの制服にも、もう既に着替えてある。
 しばらく散った花の名残りに見入ると、真白はガスコンロの前に立ち、湯を沸かした。
 コン、と鳴ったリビングの扉を振り向くと、ジョギング帰りと見える門倉剣護(かどくらけんご)が姿を見せた。片手に着替えを持ち、もう片方の手に持ったペットボトルの水を飲み干すと、真白に催促する。
「しろ、俺にもコーヒーな」
 真白を略した「しろ」と言う呼び方は、剣護とその家族だけが使う愛称だ。
「…ミルクとお砂糖入れる人には淹れたくないな」
 女子には珍しく、真白はブラック無糖に拘(こだわ)りを持っていた。
「渋いマスターみたいなこと言ってねーで、頼むよ。俺、シャワー浴びて来る」
 そう言うだけ言うと、隣家に住む従兄弟は堂々と真白の家の浴室に向かった。
 彼はたまにジョギングをした朝、着替えを持ち込んで真白の家でシャワーを浴び、真白の淹れるコーヒーの御相伴に預かるのが習慣化していた。
「………」
(今年から受験生なのに、余裕なんだから)
 尤も、剣護の成績を鑑みれば、大抵の難関大学でも合格する確率は高いだろう。
 多少胡坐をかいても許される程度の実力が、彼にはある。
 溜め息を一つ吐くと、真白はペーパーに入れるコーヒーの粉の量を、計量スプーン一杯分追加した。自分は一人で二杯飲むつもりだったから、これで淹れるコーヒーの量は合計で三杯分となる。
 淹れたコーヒーを、丁度マドラーで撹拌(かくはん)する頃合いを見計らうかのように、剣護がリビングに入って来た。上下共にスウェットを着ており、制服に着替える気はまだ無いようだ。ガシガシ、とタオルで濡れた髪を拭いている。水滴が二、三滴、焦げ茶色の髪から床に落ちる。
「はい」
「お、サンキュ」
 コーヒーを受け取った剣護はミルクと砂糖をたっぷりと入れ、実に美味しそうにこれを飲んだ。
 複雑な目でそれを見る真白には構わず、尋ねる。
「伯父さんたちから連絡あった?」
「うん、丁度昨日。来月末には帰れるだろうって」
 に、と剣護が笑う。
「娘のバースデーに間に合う訳だ。良かったじゃん」
 真白の両親は共に海外勤務で多忙だ。その為、日頃は二人の祖母と、隣家に住まう叔母夫婦の世話になっていた。
 また、従兄弟で二歳上の剣護も、昔から何くれとなく真白の面倒を見てくれた。真白同様一人っ子だが、基本的に兄貴体質だ。
「んで、これが今日の弁当な」
 トン、と可愛らしい黄色の弁当袋をカウンターの上に置く。「よくそれで足りるね」と言いながら。剣護の弁当箱は、真白の弁当箱の軽く二倍の大きさがある。
「あ、ありがとう」
「どういたしまして」
 家事全般に有能なこの従兄弟は、こうして時々真白の弁当まで作ってくれる。
 毎日のことでは無いとは言え、早朝、ジョギングに行く前に手際よく冷蔵庫にあるもので二人分の弁当を作ってしまう従兄弟を、真白はこの点においてはひどく尊敬していた。
 本人は、自分の分を大目に作り、余りを真白の弁当に回しているだけだと言うが、中々高校生の男子に出来ることではない。
 例え丁寧に淹れたコーヒーに、ドポドポとミルクや砂糖を注がれようと、文句は言えない弱みがこのあたりにあった。
 剣護、という仰々しい名前は、アメリカ人である彼の父がつけたものだ。彼の父は日本マニアでサムライマニアだった。自分の大事な人を守れる男になるように、という願いを込めて名付けたと聞く。本人は別段、名前に関して思うところは無いらしい。
「親父がつけたかったんだから、いいんじゃねえの?」
 一度訊いてみたら、そうあっけらかんと答えた。
 叔父のマニアックなところはその謝罪の言い方にも表れていて、叔母を怒らせた時などは、決まって「ワタシ、切腹するくらい、反省シテマス」と言った。本人としては至って真面目なその発言が、ますます叔母の怒りに火を注ぐことになるのだが―――――。
 剣護の顔立ちは、やや彫りが深く整っている。加えて灰色がかった緑の目が、彼がハーフであることを強く物語っていた。焦げ茶の髪は真白と共通するものであり、これはアメリカ人の父の遺伝ではない。
 気質としては自由奔放、俺様主義なのだが、カリスマ性があり成績優秀、スポーツ万能で人への気遣いも忘れない為、高校では前期生徒会長も務め、校内で教師を含め知らぬ者の無い人気者だ。
 実に派手な従兄弟である。
 他方、真白はと言えば―――――――――。
「真白、お前、また五行歌が新聞に載ったって?」
「ああ、うん」
 去年の誕生日プレゼントに両親から贈られた、青い花模様の描かれたウェッジウッドのコーヒーカップを両手に、ふーっと息を吹きかけながらあっさり答える。
 五行で歌を詠む他は基本的に自由に創作して良い、とされる五行歌を、真白は祖母の影響もあって小学生のころから嗜んでいた。
 それが今では新聞の投稿欄の常連になり、五行歌に堪能な女子高生、として知られている。小さいながらも一度新聞記事に取り上げられたことが、周囲にその存在を印象付ける決定打となった。
 加えてどこか凛とした容姿から、入学してからまだ間が無いのに、高校では「女流歌人」のあだ名で通っている。本人はそのことに何ら頓着していない。
 剣護共々、男女に限らず人気があるが、本人は従兄弟程には騒がれることを好まなかった。静謐な空気を纏い教室に佇む彼女は、特に男子生徒から、憧れを持った目で遠巻きに見られる存在だった。そしてあまり物事に動じない姿勢は、同性の女子生徒から頼られることが多かった。
 今はまだ一年だが、学年が上がると、後輩の女子たちから「お姉様」呼ばわりされるのではないかと剣護は睨んでいる。
 カチャン、とコーヒーカップをソーサーに置く。
「ごちそーさん。じゃ、俺戻るわ。またあとでな。バスの時間に遅れないようにしろよ」
「わかってる。タオルも、洗濯機に放り込んでおいて」
 ジョギングの際に着ていた上下は、既に洗濯機に沈んでいる。
「ん、よろしく」
 首に髪を拭いたタオルを掛けた剣護は、そのまま、リビングのドアを開けて、ピタリと止まった。首をこちらに巡らして、顔だけを真白に向ける。
「真白さ、」
「何?」
「お前、今、楽しい?毎日」
 深い緑の目が問いかける。胸の奥、底の底のほうで、真白は微かにヒヤリとした。
 時々、この従兄弟はこうして不意を突いてくるから油断ならない。
 戸惑いが露骨に出ないように気を付けつつ、当然の答えを口にする。
「え、うん。楽しいよ。…どうしてそんなこと言うの?」
 友人にも家族にも恵まれ、学校生活も順調だ。
 妬みから同級生に嫌がらせを受けたこともない。
 おまけに五行歌という趣味の世界でも認められている。
 そう、楽しいと、幸せと感じなければおかしい。
 かすめるような笑みを浮かべて改めて真白は言った。自分にも言い聞かせるように。
「私、楽しいよ、剣護」
 けれど緑の目は安堵に緩まなかった。
「――――――なら良いけどね。お前時々、すごく何かが足りない、って顔してる時あるからさ。あれ、見てるほうがきついんだよな」
 そう言って剣護はパタンとドアを閉めた。

 ばれていたな―――――――。
 教室の窓から青い空を見上げて真白は思った。
 こんな空を見ると、なぜか鷹の飛ぶ様を連想する。
 悠々として蒼穹を力強く飛翔する―――――――。
 厳しくも美しい、その飛翔に憧れる。
 昔から真白は、鷹の写真や、飛ぶ姿を映した映像を好んで見た。
 部屋にも鷹が空を飛んでいる写真が飾ってある。
 剣護などはこれを見て、首を傾げるものだが。
「ブラックコーヒーといい、お前、渋い趣味してるね」と。
 あんな風に自由に飛べれば良いのに、と思う。
 学校も家も決して嫌いではないけれど。
(鷹が自由に飛び続けると言うのなら、私も一緒に飛ぶ身となりたい)
 真白には、最後のこの感覚が、自分でも理解出来ない。
 今のこの、穏やかな生活を置いて一体何と、誰と飛びたいと言うのか。まさか本物の鷹ではあるまい。
 ―――――――剣護だろうか。
(剣護は優しい)
 子供のころからずっと、お互い一人っ子で、両親が留守がちな真白をいつも構ってくれる。守ろうとしてくれる意識を感じるのは、温かい毛布にくるまれた時のように安心するものだ。
(剣護は優しいけれど―――――けれど)
 ―――――――けれど寂しい、と自分の心が叫んでいる。
 あの灰色がかった緑の目では埋められない何かが、自分の中にはある。
 ぽっかりと空いた、向こう側の見えない穴のようなものが。
 一緒に飛べるものならと願う相手は、彼ではない。
 真白は随分前から、そのことに気付いていた。
 そして、若干の罪悪感を感じていた。

「こら、こおーら、女流歌人!戻ってこんかっ」
 担任の倉石の呼ぶ声に、真白ははっとした。
 教室にどっと笑いが起こる。
 今は朝のホームルームの真っ最中だった。
 転入生の紹介をしていたのだ、と真白もやっと思い出した。
 黒板には「江藤(えとう) 怜(りょう)」と書いてある。
 倉石の癖字より数段は達筆なところから見て、転入生本人が書いたのかもしれない。
 その顔を見て、真白は僅かに目を見張った。
(綺麗な顔――――――)
 男子生徒だが、女子と比べても遜色無いような端整な顔立ちをしている。
 色白の顔に薄く笑みを浮かべ、すらりとした立ち姿は見栄えがして、いかにも秀才肌という印象だ。優等生を地で行くタイプにも見える。
 基本の青地にインディゴブルーと茶、グレーの主な三色で構成されたチェックのブレザーが良く似合っている。ブレザーとはかく着るべし、というお手本のようだ。
「江藤怜です。趣味は護身術。よろしくお願いします」
 物静かそうな外見に似ず、意外にハキハキとした自己紹介だった。表情にも頭が切れそうな感に加えて、活発な色がある。
 きゃー、護身術だって、かっこいー、と黄色い歓声があちこちから上がり、クラスの女生徒からは拍手喝采だ。一部、興味を示す運動部男子もいたものの、当然ながら男子生徒はほぼノーリアクションだった。いくら綺麗な顔立ちでも男子は男子だ。これで女子だったらどんなにか、と言ったところか。
(ふうん、見かけによらないな。どう見ても文化系一筋な感じがするのに)
 自己紹介の時、一瞬目が合ったと思ったのは、真白の気のせいだったのだろうか。

「ここが視聴覚室。英Bの時の授業では、結構良く使うよ。この部屋は効きの良い空調がついててね、夏でも職員室なんかより涼しいの。休み時間なんか、こっそりここに避難する人もいるくらい」
 クラス委員の立場上、その日の昼休みに、真白は江藤怜に学校を案内する役目を倉石に任された。男子のクラス委員は、今日は部活動のほうに顔を出さねばならないとかで、案内出来なかったのだ。
 連れ立って歩く二人を、時折、ちらりちらりと通り過ぎる生徒が見ている。
 新顔の怜が珍しいのだろう。しかも容姿が容姿だ。
「へえ、良いね」
 この言葉を聞いて真白はクスリと笑う。
 怜は確か、都内でも指折りの新設校から来た筈だ。
「前の学校のほうが、設備は進んでたでしょう?」
「うん、でも広すぎた。俺はこの学校くらいの規模が良いよ。移動教室のたびに走り回るのは結構うんざり」
「足腰を鍛えられてたってわけね」
 笑って言いながら真白は、どこも善し悪しだと考えた。
 怜は頷きながら、肩を竦めて見せた。
 丁度視聴覚室を出て、次は体育館にでも案内しようかと真白が思っていたところに、剣護と出くわした。最初見た時は、それが剣護とは判らなかった。彼は顔が隠れるくらい大きな模造紙を丸めたものをいくつか抱え持っていたからだ。前が見え辛いらしく、多少ヨロヨロと蛇行運転になっている。
「剣護。どしたの、それ」
「あー、しろか、その声?いータイミングだ。助けてくれ。さっきアゴ崎に捕まって、生徒会室まで運べって言われた。重かねーけど視界を邪魔して歩きづれーったら。俺はもう役員でもなんでもない一般ピープルだっての。よいしょっと…」
 掛け声と共に、視界が効くように模造紙を持ち直す。灰色がかった緑の目が、やっと真白たちのほうを向いた。
「いつまでも雑用扱いされちゃたまんねー…って。真白、そいつ誰?見ない顔だけど」
 胡乱な目付きで怜を見遣る。声が途端に低くなった。
「ああ、転入生の江藤怜君。江藤君、こっち、門倉剣護、三年で前生徒会長。ついでに言うと私の不肖の従兄弟」
「お前、説明がなってないぞ」
 当然のことながら剣護から苦情が出るが、真白は何も聞こえなかった振りをした。
 怜が興味深そうな顔で、軽く頭を下げた。
「こんにちは、初めまして。江藤怜って言います。俺、今日この学校に来たばかりで、門倉さんに今、校内を案内してもらってたんです」
 にこやかな怜の挨拶を、剣護がどこか値踏みするような目で聞いていた。
「初め、まして――――江藤君?」
 不自然さのある、固い声で剣護は応じた。
「剣護。江藤君、護身術が趣味だってよ」
 に、と口角を上げて真白が剣護に言う。
「へえ?そりゃ面白い」
 剣護もニヤリ、と笑った。どこか野性味のある笑みだった。
 遣り取りの事情が解らない怜は、少し首を傾けて黙っている。
「しかし随分とまあ、中途半端な時期の転入だな。うちに中途編入なんざ、勉強は出来るって証拠だろうが。よし。江藤君とやら、丁度良い。これ運ぶの手伝え」
 この言葉に真白は呆れた。
「よし、とか言って。模造紙運ぶのに、成績優秀なことのどのへんが丁度良いのよ。脈絡が無さ過ぎ。最初からそのつもりだったでしょ。怠慢だよー、それって。今からそんな先輩風吹かせちゃって良いの?」
 真白の苦言に、剣護がしかめっ面をする。
「うるさいよ。お前は黙ってなさい」
「良いですよ」
 相当にざっくばらんで強引な剣護の態度を気にする風でもなく、怜はにこやかな顔であっさりと模造紙の半分以上を請け負った。
「え、案内は?」
 慌てた真白にさらりと答える。
「ここまでしてもらえたら、あとは大体判るよ。ありがとう、門倉さん」
「うん。俺、お前みたいに殊勝な奴、好きよ」
 性懲りも無く、剣護がそう評し「感心、感心、」などと言っている。先程までとはだいぶ態度が違う。
 そういう次第で怜は剣護と連れ立って、生徒会室に向かって歩いて行った。
(目立つだろうな、あの二人)
 容姿の良い男子が二人、連れ立っていれば女子が目を向けるのは、自然の摂理だ。
 ふと真白は、案内などされなくても、怜は校内図の把握ぐらいしていたのではないか、という気がした。特に根拠などはなく、何となくそう思ったのだ。それくらいの周到さは、持っている男子に見える。
(さっきのあっさりした引き際とか…)
 けれど、あえて怜が真白の学園案内に付き合う理由も思い当たらず、この件は真白の中で保留となった。

「真白!私と誓い合った仲でありながら、今日来た転入生と浮気したって本当!?」 
 下校のチャイムが鳴るなり、息せき切ってやってきた親友の三原市枝の、やや古風な言葉を使った剣幕に、真白は何だそれは、と脱力してしまった。昼ドラか、と思う。〝常に優雅に〟を身上とする市枝が取り乱して走る姿は、あまり見られない貴重な光景ではある。
「………誰と誰が、何をいつ誓い合ったって?」
 真白には、今度ケーキバイキングに行こう、と市枝と〝誓い合った〟ことくらいしか記憶に無い。その大事な〝誓い〟は、真白とて忘れてはいない。
 仲がどうのこうのと、こういう発言が誤解を呼ぶんだろうなあと思いながら、真白は些か醒めた目で力無く突っ込んだ。使う言葉をもっと選べば、かなり聡明であることが周りにも知れるだろうに、勿体無い、と市枝について考えを巡らせる。
他のクラスメートは部活動やら帰宅やら、早々に教室をあとにしてしまい、結局真白だけが市枝と残されることとなった。
 まだ昼ドラの余韻を引き摺り、この裏切り者、と言わんばかりに唇をへの字にして睨んでくる市枝の顔は、整っている。例え睨み顔であろうと美人は美人だ。加えて華がある。しかし数知れない男子に言い寄られる市枝は、少しも彼らに興味を示さず、中学で真白と知り合ったのちは、真白に過剰な程の友情を示してくる。これを本人は愛情だと言い張って譲らない。
 先程の第一声もその表れの一つだ。
 ちなみに対照的な雰囲気の整った顔立ちと空気を持つ市枝と真白、二人のペアの隠れファンは、実は多い。ユリ族という人種である。陰では二人をモデルにした漫画やら小説やらも校内で密かに出回っていると聞いた時には、真白も呆れを通り越して何も言えなかった。一度、まだ剣護が生徒会長だった時に、世間話程度に相談してみたことはあるが、彼はむしろ面白がるばかりで、笑いながら「まあ、いいじゃん別に」と軽くいなして話題を終わらせた。
確かにどんな趣味嗜好も、当人たちの自由ではある。行き過ぎ、と自分が感じるまでは看過しておこう、と真白は決めていた。ちなみに当の作品類は何となく怖いものがあり、まだ読んだことは無い。この件に関しては、市枝は全くの無関心を貫いた。彼女にとっては真実がどうかが問題であって、フィクションはどうでも良いのだそうだ。
「とにかくね、別に何も、市枝と誓い合った覚えは無いですけどね、浮気も本気もしてないよ。ただ、学校を案内しただけ。クラス委員としての義務」
 呆れ顔でそう説明してやる。ついでにその形の良い額にピシ、とデコピンする。
 市枝は額をむしろ嬉しそうにさすりながら唇を尖らせた。
「なんだ~…。また剣護先輩にからかわれちゃった」
「からかい甲斐あるリアクションするからよ。大体剣護、何て言ってたの?」
「〝面白い奴見つけた、あれなら真白の傍に置いて良いかも〟、って」
 真白は眉を顰めた。その言葉がどう転じれば、自分と怜との〝浮気〟になるのかも不可解だが、剣護の言動も多少不可解だった。
 剣護は、男女共に好意的に接するが、真白に近付く男子には一転シビアだ。それが、「傍においても良いかも」とは。
「よっぽど気に入ったのかな…」
 右手で頬杖をついた真白の独り言に、市枝も頷く。
「珍しいよね、剣護先輩がそこまで真白の近くにいる男子を見込むなんて」
「護身術やってるらしいから、そのへんから来てるのかも」
「あーなるほどねー。剣護先輩、格闘技が趣味だものね。そこに関しては熱血」
 市枝がクスクス笑う。
 二人は放課後の教室で、真白の机に向い合せに座って話していた。
 教室の片側一面の窓から、夕日の一歩手前の陽光が燦々(さんさん)と差し込んでいる。
 その陽に透けて、市枝の髪が金色に光る。笑みの名残りのある睫も金に染まっている。
 純粋に、その様子は綺麗だな、と真白は目を細める。
 成績さえ優秀であれば、他は生徒の自主性を重んじる、というこの学校は、風紀にもさほど厳しくない。むしろ名門校としてはかなり緩いほうだろう。
 それを良いことに市枝は、高校入学と同時に髪を金茶色に染めた。下手をすれば下卑た印象になってしまうその色合いは、華やかな顔立ちの彼女に良く似合い、むしろ風格さえ与えていた。長い金の髪をかき上げる仕草は、大人びて色っぽい。恵まれた容姿を持ち、寄って来る男子はことごとくあしらい、思うままに振る舞う市枝の評判は、しかし同性にも悪いものでは無かった。真っ正直さと素直さが、好ましく思われているのだ。
 対する真白は焦げ茶色の地毛をそのままに、肩くらいまで適当に伸ばしている。美容院で多少すいてもらっているので、市松人形のようにパッツンともならず、無造作に伸びたショートヘア、といったところである。瞳の色も焦げ茶で、しかし透けるような白い肌や淡く色づいた唇など、一つ一つの要素はそれ程の印象を受けないのに、全体的に見るとどこか和風の品の良さを思わせるから不思議だった。ふとした目の動きなどに、そこはかとない色気を周囲が感じていることなど、真白は気付いていない。
「女流歌人」に加えて、「陶聖の白雪」などというあだ名が最近広まりつつあることなども、本人はまだ知らない。
 私立陶聖学園の門倉、と言えば今や剣護を指す代名詞だが、近い内に真白のことも代名詞に入るようになるのではないか、と市枝は予想していた。懸念していた、と言ったほうが正しいかもしれない。
 あまり要らない人間が寄って来なければ良いのだけれど、と頬杖をついてぼんやりしている真白を見ながら、市枝は今から気が気ではなかった。親指の、長い爪を軽く噛む。
 真白はおっとりしたところがあるので、例えば自分のように押しの強い人間にはうっかり接近を許してしまうところがある。それは、良くない。自分のことは都合良く例外として、そんな輩への警戒を怠らないことが、目下の市枝の課題だった。

       二

 放課後のチャイムが鳴った。
 集団がどっと動き出す時の、独特の気配がする。若いエネルギーの渦巻く熱気が、チャイムを合図に一斉に溢れ出る。
 目を覚ますと、若雪は見知らぬ所にいた。
「―――――――?」
 漆も塗っていない固い木製の、背の高い文机のようなものに俯せて寝ていたらしい。
「…嵐どの―――――――――?」
 改めて周囲を見回し、ぎょっとする。
 身に着けた衣服、部屋、何もかも見覚えが無い。
 確か自分は、嵐と共に石見から堺へと戻る旅の途中だった筈だ。
 明日には堺に着けるもの、と思い懐かしくも楽しみな思いで早々に眠りについた。
 それが――――。
 ここは、宿ではない。
 それに、ついさっきまで、周囲は夜の闇に包まれていた。なぜ未だに夕日があたりを照らしているのだろう。
「あ、嵐どの。どちらにおいでですか。嵐どの?」
 きょろきょろとあたりを見回す。
 どこにも、誰もいない。
 若雪は恐慌状態に陥った。
 身に着けているものを見下ろす。おかしな格好だ。
それに何より――――――寸鉄一つ帯びていない。
 ここがどこかも解らない状況で、丸腰とは――――――。
 じわり、と額に汗が滲む。
 緊張しつつ長い廊下に出るが、やはり誰もいない。
 誰も。
 走って階段を上がり降りしてみる。
 けれどやはり。
 嵐が、いない――――――――――。
 息を切らして茫然とする。足元がふらつく。
 いつから?
 考えてみれば、もう随分長く嵐に会っていない気がする。
 それこそ十年以上は―――――。
 でも、先程までは確かに宿で一緒だったのに?
明日には堺に着くと言うのに。
 若雪は混乱の極みにあった。
「おい、真白」
 突然、呼びかけられてビクッと振り向いた。
 南蛮人のように、灰色がかった緑の目をしている若い男が立っていた。
 年は嵐と同じくらいだろうか。
(誰…?)
 見知らぬ顔に警戒する。
 そんな彼女に、どこか相手の顔は苦々しげだった。

「しろ……お前、なんつー顔してんの。それじゃ迷子になって泣き出しそうな子供だぞ」
 それから自分の両肩にそっと手を添え、訊いて来るのは―――――――。
「――――真白。…俺が、判るか。判るな?」
剣護だ。
 見間違えようの無い緑の目が、ひどく気遣う様子でこちらを見ていた。
「――――――?」
 パチパチ、と瞬きを繰り返す。
 なぜなら、今まで自分は見知らぬ和風旅館のようなところにいたからだ。
 そこでも、誰かが自分を心配そうに見ていた。それもやはり見知らぬ誰かだったが――――――。真白に害意が無さそうな点では、剣護と一致していた。真白は白い着物を身に着けていた。そこで自分の両の掌を見て、―――――そうして気が付くと学校に戻って来ていた。思い返せばその時に見た掌は、色こそ白いものの、固く、マメやタコだらけで、自分のものとは到底思えない程、何らかのスポーツ、或いは武術などに打ち込んだ人間のものだった。
 思わず自分の両の掌を見る。
 ――――――まっさらで、剣護に言わせるなら軟弱な掌にホッとする。間違いなく自分の手だ。
 良かった。いつもの場所に帰って来れたのだ。
 目の前にいるのは、剣護だ。――――懐かしい―――――――。
 そう。懐かしい。
 やっと会えた。この人に、また逢えるとは思っていなかった。
 涙が溢れて来て、うん、うん、と真白は、子供のように二回頷いた。
「判る。剣護――――…良かった」
「うん。俺は、ここにいる」
 剣護が、一言一句、明快に言った。真白の心の奥にまで、滲み込ませるように。
「剣護。私、今まで違うところにいたの。こことは違う地名の、知らない場所。知らない人と一緒だった。関西弁で、向こうはこっちを知ってるみたいだった。でも、私には全然判らなくて―――…」
 真白は混乱するままにまくしたてた。
 剣護は一瞬だけ目を鋭くした。けれどその直後には、真白を包み込むように柔らかく抱き締めた。真白は驚いたが、すぐに彼の体温にホッとした。
(温かい…)
幼い子供にするようにポンポン、と頭を優しく叩かれる。ほとんどの生徒が部活動に向かい、或いは帰宅したあとだったので、校舎内はがらんとしてどこか物寂しげだった。通行人がたまたま無人だったのが幸いしたが、誰か他に人がいても、剣護はこの場合同じようにしたかもしれない。これ以上に無い、優しい声を出した。
「ああ、大丈夫だ。もう、大丈夫だよ、しろ―――――真白。それは、夢だから。今はほら、俺がここにいるだろう?」
 うん、と真白がまた子供のようにコクン、と頷いた。両手は剣護のブレザーを、まるでそれしか縋りつくものが無い、とでも言わんばかりにしっかり握り締めている。これではあとで皺になってしまう、と頭の隅で思うが、手に籠めた力を緩めることは出来ない。
 廊下の奥からこちらに向かう足音が聞こえてきた。
「剣護先輩、門倉さん見つかったんですね」
 怜の声だ。走って来たようで、少し息が弾んでいる。心配をかけたようだ。真白は声を聴いて思う。何やら面倒をかけてしまったらしく申し訳ないと思うし、こんな所を見られるのは恥ずかしいが、今はそれどころではない心情だった。まだこの状態から動くことが出来ない。親鳥にひっつく雛鳥のように、真白は剣護にしがみ付いていた。剣護も突き放したりはしなかった。依然、子供をあやすように真白を両腕で包み込んでいる。
 そのままの状態で、何も恥じらうこと無く怜に顔を向けて答える。
「うん、いた。悪かったな、お前にも捜させて」
「いえ、いいんですけど…」
 剣護の腕の中で泣く真白を、怜が心配そうに見つめていた。
 その視線と真白を剣護はちら、と計るように見比べる。
「――――うたた寝で少し夢を見て、ナーバスになっただけだ」
 疑問の声を上げる余地を与えない程、剣護が素早く一息に説明した。
「……そう、ですか」
 今一つ納得していないようだったが、剣護が有無を言わさない口調で言い切ったので、怜もそれ以上の追及はしなかった。けれど探るような目で、剣護を見ていた。
 こののち真白は、自分がこの時考えたこと、思ったことを、ある時に至るまで思い出すことが無かった。

真白の知らない間に、剣護と怜は随分意気投合したらしく、今では時々真白の家で二人そろって武術について熱く語ったりしていた。自宅と違い大人がいることがほとんど無いので、居心地が良いようだ。怜は親と離れて一人暮らしをしているそうだが、それでも寂しいと感じること無く、大人のいない解放感を満喫しているらしい。今ではすっかり門倉家にも入り浸っていた。それぞれ武術にのめり込んでいるとは言っても、二人共、学校で剣道部や柔道部といった部活に所属するわけでもなく、本人たち曰く「もっと実践的な格闘術」を身につけたい、と考えているそうだ。その為に個人的に通う教室を持ち、日々鍛錬しているということだ。怜は転校してこれまで通っていた教室に通えなくなった為、今後独学で続けるか、剣護が時々通う格闘技教室に通うか、思案中だと話していた。
そろそろ日も暮れようとするのに、話が尽きる様子も無い。
多分、今日はそれぞれ人に習い事を教えている真白の両祖母が、普段より遅くなることを知っていて気を回しているのだろうとも思われた。若い男二人が、いつまでも娘一人しかいない家に居座るのもそれはそれで問題かもしれないが、この二人からは危険な気配は微塵も感じられず、真白も全く警戒していなかった。むしろ二人からは、真白の警護役を務めようという意気込みが感じられた。
とは言っても女子高生の話し相手をするでもなく、ソファに腰かけた彼らは、真白にとっては果てしなくどうでも良いことを、延々議論している。
「――――だから、最初の構えが既に大事なんだよな。相手の攻撃を受ける面積が最も少なくなるような姿勢に身体を保つことが重要なんだ」
「それで、あの半身の姿勢が生まれた訳ですよね。そして腰を落とす。俺、あの腰を落とす所作を一定時間続けられるようになるまで、大分かかりましたよ」
 解る解る、といった顔で剣護が笑いながら答える。
「あの姿勢、きっついからなー。腹筋とかも、もろに使うし。両膝なんかも最初のころはしんどくてプルプルするし。でもあの基本の構えで武術続けてたら、おっさんになっても確実に腹は出ないぜ。ビール腹にでもならなけりゃなー」
 かっかっ、と剣護が笑っている。
「剣護先輩、今度稽古つけてくださいよ」
「謙虚な言い方するね、お前。俺に負けてると思ってない癖に。まー良いけどさ。稽古するんなら、防具が要るなー。お前、膝につける奴持ってる?俺の奴、もうボロボロでさ」
 白熱する話し合いの中、真白が紅茶カップをそっと二人の前に置き、急に夢から覚めたように二人が口を閉じた。やはり自分の存在は途中から忘れられていた、と確信した真白は当然面白くなかった。こういう時には如才無さそうな怜も、話に熱中してついうっかりしてしまったらしい。
「…………」
 御機嫌斜めになった女子を前にさすがに二人共、やや気まずそうな顔を見せる。
 互いに、相手がどうにかしてくれないものかという思いが、表情に出ている。
 ささやかな腹いせに、紅茶カップに注いだのはローズヒップティーである。美容と健康に良く、甘酸っぱい香りのする、ルビーのように赤い色をした女性向けのお茶だ。
 怜は平気で飲んでいるが、剣護は渋い顔をしている。口に合わないらしい。
(―――よし)
 真白はそれで少し、溜飲が下った。
 それにしても――――――。
 溜め息を吐きながら言う。
「二人共、どうしてそんなに格闘技が好きなの?剣護なんて、本当に子供の時からだけど。私にはよく解らないなー…。男の子ってそんなもの?」
 理解出来ない、という響きの籠められたこの真白の問いに対して、少し空白の時間があった。
 カチ、コチ、カチ、と掛け時計の音が大きく響く。
 剣護も怜も、妙に通じ合った沈黙をした。
 そろそろ真白が訝しく感じてきたころ、剣護が口を開いた。
「そらお前、男のロマンだよ。俺、守りたいものがあんの。今度こそ、ね」
 剣護は沈黙ののちそれだけを軽い調子で言い、怜は無表情で何も答えなかった。
「…何か少年漫画みたいだね」
「うるせー」

「門倉さん、ずっと気になってたんだけど―――――」
 翌日、学校の教室で怜が休み時間に、響きの良い声で真白に訊いて来た。
 クラス委員として学校案内をして以来、怜は解らないことは真白に訊いて来るようになった。男子のクラス委員はあまり面倒見の良いタイプではなかった為、怜がこの学校に慣れるまで、自然と真白が彼の世話を引き受けることになっていた。クラス委員という立場上、それは不自然なことではなく、怜が真白に何かを訊くこと自体がそうは無いことだったので、妙な女子のやっかみも起こらなかった。
「あの、一ヶ所空いてる席さ、誰の席?ずっと空席になってるけど」
 そう言って、怜は教室の最前列の窓際の席を指した。
 ぽつんと忘れられたように、誰も見向きもしない空席は、気付いてしまえば気になるだろう。
「ああ、あれ…」
 真白は頷き、痛ましそうな表情を浮かべた。
 その席にも、座るべきクラスメートはいるのだ。
 重い気分で口を開く。
 入学試験の成績によって振り分けられた一年A組特別進学クラス。通称「特クラ」と呼ばれるこのクラスのクラスメートは、まだ全員揃ってはいない。
「入学式前にね、交通事故に遭ったらしいの。それで今、入院してる子の席なのよ。……早く退院して、あそこも空席じゃなくなれば良いんだけど」
 聞けば彼はまだ眠り続け、目を覚まさないと聞く。
 両親や他の家族は辛いだろう。
 我が身に置き換えてみると、よりその思いは強くなる。
 恐らく怜も、自分と似た思いだろうと考えながらその顔を見ると、彼は眉根を寄せ、やや厳しい顔つきで立っていた。
「江藤君?大丈夫?」
 どこか辛そうにも見えるその表情が心配になり、真白が声をかけると、怜は我に返ったように頷いた。
「ああ、大丈夫。…何でも無いよ」
 そう言って浮かべた微笑は作り物だと、真白にも解った。

 放課後、剣護は寄る所があるからと言って、先に帰った。
 ほとんど毎日登下校を真白と共にする剣護には、珍しいことだった。
途中で駅の花屋に立ち寄る。春の花々が所狭しと並んでいるが、剣護にはどれがどれやらさっぱりだった。薔薇やカーネーションくらいしか見分けがつかない。
 ガリガリと頭を掻く。
 忙しく行き交う人の中、足を止めている客は剣護一人だった。
「すみません」
「はい、何でしょう」
 自分ではどんな花を選んで良いのかわからず、店の女性に声をかける。
 笑顔で振り向いた女性は恰幅が良く、赤い頬でいかにも健康そうだった。青緑色のエプロンを着け、忙しそうに立ち働いている。
「あの、お見舞いに持って行く花って、どんな花が良いんでしょうか」
「そうですねえ。やっぱり香りのきつい花や、血を連想させるような真っ赤な花なんかは、避けたが良いでしょうねえ。柔らかい色合いのものを選ばれると良いですよ」
 にこやかな説明に頷き、目の前に置いてあるフラワーアレンジメントを指差した。
「これなんかは?」
「ああ、良いと思いますよ」
 にこにこと女性が頷く。
 剣護が選んだアレンジメントは、ガーベラとカーネーションの組み合わせだった。
「いくらですか」
「千二百円になります」
 尻ポケットから迷彩柄の薄い財布を取り出してベリッと蓋を剥がし、千円札と小銭を取り出した。

 剣護が向かったのは、市内でも大きな総合病院だった。
 ナースステーションを通り過ぎ、目当ての部屋番号に辿り着くと、返事は無いだろうと思いながらも軽くノックし、フラワーアレンジメントを手に部屋のドアをそっと開けた。
 剣護が静かに室内に入ると、ベッドに横たわった少年は、左腕に点滴を注した状態で眠っていた。
 少しだけ開かれた窓から穏やかな風が吹き込み、ミントグリーンのカーテンをふわりと揺らした。
 ―――――――――穏やかな風も、少年の深い眠りまでを揺らすことはない。
 それが現実だ、と剣護は思う。
 コトリ、とベッド脇の小テーブルに持って来たフラワーアレンジメントを置く。
 小テーブルには他にも果物の盛られた籠やらがあり、花が追いやられてテーブルから落とされはしまいかと、剣護はやや不安に思った。
 それから、眠り続ける少年の、まだあどけない顔を見た。
 その顔を見て僅かに、剣護は眉間に皺を寄せた。彼の目は普段よりずっと大人びて、まだ十七年しか生きていない人間の眼差しとは思えない程に深かった。
「なあ。お前さ―――――俺のこと…、俺たちのこと、恨むか?」
 答えることの無い相手に、話しかける。
 読み取り難い色を宿した瞳で。
 少年はピクリとも動かず眠り続けている。
 それをじっと見て、剣護は目を伏せる。
「………悪い、な」
 それだけを言うと、剣護は黙って眠る少年の顔を眺め続けた。

「さっき来た男の子、可愛かったわね。ハーフかしら」
「前にも来てたわよね」
「ああ、あの、南棟のお見舞いの」
「207号?まだ目が覚めないの?」
 昼下がりのナースステーションで、気ままな会話が交わされる。
「そうみたい―――――まだ十五歳よ」
「スリップ事故で…かわいそうに」
「高校の入学式も、間近だったんですって。有名な進学校らしいわ」
「まあ……」
「早く目覚めると、良いわね。―――――ご両親を見るのも痛々しくって」
「そうね」

「真白お姉ちゃん!」
 学校からの帰り、剣護と別れ自宅に入ろうとした真白は、元気な声に呼ばれて振り返った。向かいの家の子が駆けて来るところだった。小さな身体に、少しブカブカした空手の稽古着を着ている。満面の笑みだ。
 そうだった、ここにも小さな格闘家がいたな、と釣られるように笑みを唇に浮かべながら、真白は言った。
「碧(みどり)君、こんにちは。今から空手のお稽古?」
 屈み込んで、目線を相手の高さに合わせて話しかけると、碧は勢い良く頷いた。
「うん!僕ねえ?強くなって、おっきくなったら、真白お姉ちゃんのこと守ってあげるからね!」
 意気込んでそう言う幼い碧が可愛くて、真白はその頭をくしゃくしゃと撫でた。
「ありがと。待ってる」
「うん!待ってて!」
「……ませガキだな、こいつ」
「うわ!剣護、家に入ったんじゃなかったの?」
 背後から急に聞こえた声に、真白は飛び退いた。
 心臓に悪い。
「いや、お前の名前が聴こえたから」
「剣護兄ちゃん、こんにちは!」
「はい、こんにちは」
 ませガキと言う言葉の意味が解る訳でもないだろうが、碧は剣護にも至極素直な挨拶をした。何とも屈託が無い。これには剣護も苦笑しながら応えてやる。
「ねえねえ、剣護兄ちゃん、また今度お稽古つけてよ」
 碧が瞳を輝かせながらねだってくる。右手は剣護の制服のズボンの裾をぐいぐいと引っ張っている。
「んー、良いけどママには内緒にしとけよ?」
「何で?」
 きょとんとした顔で碧が尋ねる。
「大人には色々あんの」
 碧の母親が、剣護が碧の稽古相手をしてやっていると知ると、それについて心配だの謝礼だの、余計なことに気を遣いかねない。その為の口止めだが、まだ幼い碧には理解出来ないらしく右に左に首をひねっている。
「碧ちゃん!行くわよー!」
 その内、碧の母親が黄色い軽自動車の窓から声を上げ、碧は「じゃあね!」と言う元気な掛け声と共にそちらに飛んで行った。
 何となしにその小さな後ろ姿を剣護と共に見送った真白は、碧の母親の会釈に会釈を返しながら剣護に訊いた。
「剣護、碧君、強くなりそう?」
「なるね」
 振り向きもせずにあっさりと断じる。剣護はおだてやお世辞は言わない。
「…………ただ、才能だけで言うと、碧はもちろん、江藤より俺より強くなりそうな奴を、他に俺は知ってるけどな」
「え、誰それ。そんな人いるの?」
 初耳だ。
 驚いて訊き返した真白に、剣護が笑った。それから、さっき真白が碧にしたのとそっくり同じようにくしゃくしゃとその頭を撫でた。
「冗談だよ。そんな奴いてたまるか、ばーか」
 そう言うと、さっさと自宅の扉を開けて中に入って行った。
 
(…もうすっかり元気だな)
 家に入り私服に着替え、祖母の淹れてくれたお茶を飲みながら、真白は剣護の様子を思い返していた。
 剣護は小学校低学年の一時期、ノイローゼに罹ったことがあった。
 原因は解らない。
 ただ、気付けば血まみれの死体に囲まれている夢を見るのだと訴え、不眠症になった。
 叔母夫婦も医者も、まるで心当たりの無い夢に苦しむ彼に、困惑するばかりだった。
 なぜか真白と一緒にいる時だけ辛うじて睡眠がとれていたので、叔母夫婦の懇願の末、真白はしばらくの間隣家に泊まり込み、剣護と同じ布団で眠った。剣護は、他に縋るものが無いかのように、真白を毎晩両腕でしっかり抱きしめて眠りに落ちて行った。真白も、子供ながらに、この従兄弟に何か緊急のことが起きていると察し、毎晩剣護の体温に大人しく包まれていた。そうすることが、彼を守ることにも繋がるのだ、と子供心にも真白は察していた。
 あのころの剣護の、目の下に濃く出来た隈と、やせ細った腕を今でも真白は覚えている。
 三か月程その状態が続き、自分で希望してなぜか格闘技教室に通い始めてから、少しずつノイローゼ状態から脱していった。それと共に一人でも睡眠をとれるようになり、真白は自宅に帰って眠る、普通の状況に戻った。
 今では剣護にそのころの面影は全く無い。彼は昔よりずっとたくましく、しなやかに強くなった。それこそ高校の生徒会長になるなど、あのころは予想だにしなかったものだ。
 ただ、当時の剣護に関する記憶で、真白にも印象深く残っているものがある。
 格闘技教室に通い始めたころ、剣護は真白の手を握って言ったのだ。

〝今度こそ、ちゃんとお前を守るから〟

 あの言葉と、先日家で聞いた、どうして格闘技が好きなのかと言う質問の答えが、重なって蘇る。

〝守りたいものがあんの。今度こそ、ね〟

 小学生時と同じく、守りたい対象が自分のことと考えるのは、自惚れが強過ぎるだろうか―――――――――。
 二回も繰り返された「今度こそ」とは、どういう意味なのだろう。
 まるで昔に守れなかったことがあるかのような。――――――小学生が?
 そう考えながら、真白は剣護の言葉を反芻していた。
「どうしたの、真白ちゃん。物思うお顔しちゃって。お年頃ねえ」
 真白が座るソファの正面に座り、自らもお茶の入った湯呑を持つ父方の祖母はもう六十をとうに過ぎているが、ダンス教室の指導をしている影響か、プロポーションも肌の色ツヤも、到底そうは見えない。
 深い色をしたルージュをつけて艶然と微笑む様は、老紳士方相手でなくともさぞモテるだろう、と思う。膝丈のスカートからは、ダンスを続けている恩恵か、年齢を感じさせない見事な脚線美が覗いている。
 自分などよりもずっと色気がある、と真白は密かに以前から羨ましく思っていた。
 けれどその色気は、市枝の持つような若さと容姿、個性ゆえの色気とは違い、年齢を熟成させるように重ねることに成功した人間だけが持てるもののような気もする。
 だとすれば、自分が祖母のような色香を持てるようになるには、少なくともあと数十年はかかるということだろう。気の長い話だ、と思ってしまった。
「何でも無いよ。塔子おばあちゃん」
「真白ちゃん、そう言えば最近、五行歌作らないわね。どうかした?」
 尚も心配そうに訊いて来る祖母に、真白は少し言葉を詰まらせた。
「五行歌……。いや、作ったと言えば作ったんだけど………」
 はっきりしない物言いで口籠る真白に、祖母はあっさり要求した。
「あら、見せてちょうだいよ」
「うん――――」
 まずかったかも、と思いながら、のろのろと一冊のノートを、部屋に置いた鞄の中から取り出して来る。真っ正直が過ぎるのも、考え物だ。
 真白は五行歌の創作ノートをいつも持ち歩いている。思い浮かんだ時に、忘れないように書き留めて置く為だ。
 差し出したダークグリーンのノートを祖母が開く。見た目が若くても、これだけは手放せない老眼鏡をかけ、声に出して詠む。
「――――桜よおまえ
 咲き誇れよ―――」
 そこでふ、と祖母の眉が曇った。
「……この目(まなこ)が消えても…
 残酷なほど健やかな
 理のもとに――――――」
 詠む祖母の顔には翳りがある。
 見せるべきではなかったか、と真白は今更ながら後悔していた。
 決して心配させたい訳ではなかったのだ。
「もう一首あるのね」
 もう止めようか、と真白は後悔と共に思った。
 けれどその思いを他所に、祖母は既にノートの頁を繰っていた。
 その顔は最初にノートを開く前よりも真剣だ。詠み上げる。
「はらり花びらと共に
 去りし人
 みるみると
 溢れゆく水
 面影の沈む底―――――…」
 ノートを静かに閉じると、祖母はどこか物思うように二回呟いた。
「…良い歌だと思うわ。…うん。……良い歌だと思うわ」
 そう口では言いつつ、けれど、どこか悲しそうに首を傾げた。
「良い歌だけど。何だか――――、何だか悲しい気持ちになるわ、この、二首とも。とっても綺麗なんだけど、惜別の歌よね。まるで泣きながら詠んだ歌みたい――――。真白ちゃん、本当に最近何も嫌なこととか悲しいこと、無かったの?」
 祖母が老眼鏡を外し、真白の目を覗き込むようにして訊いてくる。
 真白は、それに対しては力強く頷いた。両掌をぶんぶんと振る。
「うん。全然。全然無いよ―――――。毎日は、順調過ぎるくらいだし。…――――でもこの二首は、気付けば詠んでいた、って感じなの。ノートに自分の字で書きつけてあるのを見て、自分自身、驚いたくらい―――――。昔、こんな思いをしたことが、あったのかな、私?」
 けれど子供の思いの反映された歌としては、大人び過ぎている。
 祖母はしばらくそんな真白を心配そうに見つめていたが、やがて頬に手を遣り溜め息を吐いた。
「やっぱり俊也たちがずっと家を空けてる、っていうのは考えものかもしれないわね。両親の不在は、まだまだ影響が大きい年頃ですもの。日本で勤務出来ればねえ………」
 祖母は息子夫婦が若い娘を置いて海外勤務していることを、快くは思っていない。
 無論、真白の為を思ってのことである。
 そこに話が繋がってしまったか、と真白は慌てて言った。
「違うの、そんなんじゃないよ。確かにお母さんたちがいないのは寂しいと感じることもあるけど、私には塔子おばあちゃんも絵里おばあちゃんも、叔母さんたちや剣護もいる。十分過ぎるくらい、周りには親しい人がいてくれる――――――。だから私は、全然大丈夫なのよ、おばあちゃん」
 しかし力説したその先は、口に出してはとても言えなかった。
 ただ。
 ただ時々、どうしようもない寂しさと悲しみが、餓えた獣のように自分の中を徘徊(はいかい)する。
 泣きながら、徘徊する。
 自分でも、その獣を抑えきれない。宥めきれない。
 じっと、獣が大人しくなるのを待つ他に無い。
 堪えていれば、やがて獣は眠る。
 その獣が、自分の中の一体どこから来るのか。
 こんなに平穏な日々の中に、どうしてあの人がいないの。
 そう、理屈にならない思いがどこから来るのか。
 叫びたくなるような強い思いが。
 考えても答えは出ない。
 きっとそんなのは思春期特有の妄想に過ぎないのだ。
 なぜなら自分は今、幸せな筈なのだから――――――――。

       三

五月も半ばに差し掛かった。
新学期にやっと慣れてきた生徒たちが、昼食後の休み時間にそこここで群れ集い、語らっている。前期試験ももう終わり、生徒たちは今、解放感に浸っている最中だった。
張り出された成績順位表の、一年と三年のトップを同じ門倉性が占め、多少話題になったりもしていた。また、一年の成績二位に転入生の名が載ったのも、生徒の注目を集めた。
晴天の下、市枝の、金茶の長い髪がザアッと吹く柔らかくも強い風に流されて、きら、と光る。
陶聖学園自慢の、カフェテリア近くにある欅の下に置かれた白塗りのベンチに腰かけて、市枝は短めのプリーツスカートから出たスラリとした足を組んで頬杖をついていた。
絵になる佇まいに目を奪われはするものの、しかし男子生徒たちは気後れして、ただ彼女を遠巻きに見て通り過ぎていた。
そこに、声をかける恐れ知らずがいた。
「改めて考えると」
 怜がベンチの後ろに立っていた。手を後ろ手に組んでいる。
「どうお呼びすれば良いのか、迷ってしまいますね、あなたの場合」
 後ろから呼びかけた怜を、市枝はちらりと横目で見遣る。その目の動きすら、品を失わない色気がある。
「なぜ?」
「日本史の教科書やドラマで、複数の呼ばれ方をされていますから。とてもメジャーな方ですから、呼び名が多くても無理ありませんが。どうお呼びすれば?」
 改めて尋ねる怜から、ふい、と目を逸らす。
「好きに致せ。決められぬならば市で良いわ」
 そう、そっけなく告げる市枝の目は女子高生のものではなかった。
 無邪気に真白に戯れかかる三原市枝は、どこにもいない。
 その違和感を完全に無視し、にこやかなまま怜が尋ねる。
 それはそれで普通ではなかった。
「ではお市様。僭越(せんえつ)ながら隣に座っても?」
「許す」
 市枝はあっさり答えた。
 まるで冗談のようなこの遣り取りは、この場、この二人においてはごく自然なものであった。
「失礼します」
 そう断って市枝の右側のベンチに腰かけた。
「――――遠くはないのであろう?」
 だしぬけにそう言った市枝の言葉に、怜は目を丸くした。何の話か、掴めなかったからだ。けれど、すぐに思い当たり、頷く。
 同時に彼の表情は、少し沈む。
「そのようですね。…理の姫様も、元々そう仰っておいででしたし」
 これに対し市枝は、やや鼻白んだ様子で答えた。
「理の姫なぞはどうでも良い―――――――最近の若雪は見ておれぬ。あれは、既にもう真白ではない。若雪としての己を取り戻しておる。ただ記憶が、戻らぬだけ。…求めておるわ。妾には解る」
 眉を顰めて、市枝は憂い深げにそう評した。
 誰を求めているかは言わなかった。双方共に承知していることだ。
「―――――告げること、あいなりませぬ」
 解ってはいるだろうが、と思いながら念の為にと怜が戒める。
 市枝は心外とばかりに答える。
「ふん、言われずとも。若雪が妾を思い出す時は、自力でなければならぬ。思い出して…もらわねば。妾の、白雪に。…尤も、その時会い見(まみ)えることが叶うかは、また別の話じゃがの」
 少し寂しげに、市枝が言い添えた。
 気ままに吹く風に、市枝の金茶の髪が再びザッと靡いた。
 きらきらと輝く髪に、尊大な表情を湛えた市枝は、さながら外国の王侯のようだ。
 眼差しに宿すのは、王者の煌めき。
 高慢・傲慢・不遜。そうした言葉がこれ程似合う女性を、怜は他に知らない。
 現世においてはただの一般人に過ぎない。
 だが、抑えても隠しても、表れるものはある。表出を防げないものは。それは真白にも言えることであった。市枝は随分と上手く、自ら作ったキャラクターの影に隠れているので、高貴と威風を兼ね備えた空気に気付く人間はそういないだろう。
(信長公譲りか――――――――)
さすがだな、と怜は思う。思わず感嘆の吐息が漏れる。
さすがの威厳だ―――――――――小谷(おだに)の方。
怜の賞賛の眼差しを一顧だにせず、市枝は何も塗っていないのに艶めく唇を開いた。
「さてもがんじがらめに定めで縛り、散々に人も神をも苦しめてきた摂理の壁―――――。吹雪による力を神つ力として利用し、壁そのものの負う罪悪を浄める、禊の時を経る力に変換するとはの。今で言うところのエネルギー変換じゃな。――――壁には良い気味じゃ」
 市枝はそう言うとクッと小さく笑った。
 怜も頷く。
「はい。禊の時を経る、つまりそれは、今の若雪と嵐の在り様を指します。現に起こり得なかった筈の外法が成ったのは、ひとえに吹雪の力を利用したが為。若雪と嵐は今、運命違えの法を犯していることになります。その年数が長引けば、摂理の壁はその性質ゆえに、その事象に耐え得ることが出来ない。許されてはならない事象が放置され続ける、という事実に耐えられないのです。然るに――――――」
「摂理の壁が、崩壊する。自滅する、という訳じゃな」
二人はそこまで話すと、どちらともなく沈黙した。
それぞれに、知らされた知識に思うところがあった。
「しかし解らぬな」
 市枝が言う。
「何がですか?」
「摂理の壁の崩壊後も、真白と嵐が運命違えの術を犯しておることには変わり無かろう。運命は入れ替わった、そのままなのじゃから。新たに築かれる摂理の壁に、支障は無いのかえ?」
「一度崩れたものが再生すると、それまでよりも強固なものとなります。壁も、それと同じだと理の姫からは伺いました。以前崩れた同じ原因により、再び崩壊することはないだろう、と」
「都合の良いものじゃな」
 市が鼻で笑う。
 怜は少し思案したのちに、自分の見解を述べた。
「……そのぶん、次の新たな摂理の壁が、理の姫たちの意図にそぐわない反応を示した時は、より厄介なことになるのでしょうね」
「それはもう、妾たちの知る所ではないわ。それこそ神々の領分と言うものであろ。捨ておおき」
 市は神々の心情に、少しも思い遣るもののない様子で言い放った。
「―――――しかしそなた。いくらそなたであろうとも、軽々しゅう若雪と呼びつけにすること、妾は気に食わぬわ」
 次に口を開いた市枝は、やや苛立ち混じりの声で怜を咎めた。
「若雪を呼びつけに出来る者は、限られておる。例えそなたが若雪の何であろうと、若雪が神の眷属たること、ゆめ忘れるな」
「……申し訳ございません」
 市枝自身、若雪を普通に呼びつけにしており、その口にする理屈には横暴なものが無いでも無かったのだが、怜は大人しく侘びの言葉を述べた。市枝は若雪を独占したいのだ。呼び方も含め、他人に何一つ譲りたくないと思っている。
 その心情に、怜は譲歩することにした。
 市枝は少し、気が鎮まったようであった。
「―――――そも吹雪は、なにゆえ成ったのであろうの」
 いかにも今思いついた、と言うように市枝が言った。
彼女は頬杖をつくのを止め、右肘をベンチの背に預け、上目遣いに怜を見ている。
 怜の眉がピクリと動く。ベストを脱いだアイスブルーのシャツの肩のあたりには、欅(けやき)の葉の黒い影が風の動きと共に揺れ、躍っている。
「成り得ない条件の中で、生じた甚大な力。数多の流れがなぜか吹雪を呼ぶかのように動いた。神と呼ばれる存在にすら、それは防げず。欠かせぬ条件を欠かしたままで、それでも吹雪は成り、外法は成った――――なにゆえじゃとそなたは思う、怜?いや、――――――――」
 市枝の問いかけの最後の、名前の部分はザザアッと突如強く吹いた風の為、言葉として怜に届かなかった。
 そして怜は市枝の問いかけに何も言わず、不可解な笑みをもって答えた。
 
(摂理の壁の崩壊こそは、理の姫の真の願い)
 愛剣・雪華をもって自らの手で死にゆく覚悟を定めた若雪に、理の姫は告げた。
 若雪が命を賭しても尚、万一吹雪が起こってしまったからには、必ずそれを災いを呼ぶ禍つ力の吹雪ではなく、光の、希望をもたらす吹雪とする、と。
 その力で摂理の壁は破壊され、神々が、もっと先んじて現に救いをもたらすことの出来る新たな摂理の壁が創られる。壁が不在の間は猶更、神は自由に力を振るうことが出来る。
 それ程までにも、摂理の壁は理の姫を中心とした神々に、その意図や希望、そこから生じる動きに縛りを与えていたのだ。
 壁を破壊する為にも、転生する筈だった先の世で、禊の時をしばらくの間過ごして欲しい―――――――。
 それは理の姫から若雪と嵐への要請だった。
 そうしてそののちには、きっと若雪として、また嵐として、元の時代に戻り、生きてもらうから、と。
 若雪と嵐が禊の時を経て帰った暁には、両者必ず息を吹き返す――――――――――。
 理の姫はどうあってもそれを成し遂げて見せる、と誓った。
新たな摂理の壁のもとでならば、それが可能。
壁が崩壊状態にある時には猶更、神の自由にそれを成すことが可能だからだ。
ゆえに―――――――――――。
 
若雪と嵐が理の姫と交わした、それが約定だった。
尤も嵐のほうは事後承諾になったようだが。
若雪は嵐を守る為に、また、光の吹雪を招く一縷(いちる)の望みにも賭けて、その命を散らした。
 そしてその内情は、理の姫が必要、と判断した者にのみ明かされた。

 市枝は、必要と判断された者の一人だった。
(若雪は、嵐の為に命を手放した……嵐め)
 そう考えたところで、市枝の表情は俄然、険しいものとなった。
 憎らしい奴、と思う。
 守れよ、と言い置いたものを、自分の為に死なせるとは不手際も良いところだ。
 彼女は頭上の緑を見上げた。
 若々しく、瑞々しい。葉の合間を縫って天からこぼれる光に、市枝は目を細めた。思わず掲げた手を見る。若い、華奢な手だ。まだこれから先の幾多の経験を知らぬ手だ。
 壁の崩壊ののち、市枝の記憶がそのままなのか、それともお市の方としての記憶は消えて行くのか、理の姫は教えなかった。どちらでも良いと、市枝は思っていた。どちらにしろ、自分は真白の傍にいる。
 若雪は帰るが良い。あの乱世に。あの男と共に、生きれば良いのだ。
(帰って幸せになるが良い)
 市枝は優しい眼をして、愛しい雪よ、と胸中で呼びかける。
 若雪が消えても、真白は残る。記憶があろうが無かろうが、真白は真白だ。
 若雪であり、真白であり、自分は……。
 自分は自分だ。市であり、市枝であり。
 魂は、変わらず同じものだ。
 彼女と笑い、悲しみ、喜び――――――、今度こそ、共に生きるのだ。
 透明な雫が、一粒だけポタリと市枝の下ろした手の上に落ちた。
 この手に、皺が刻まれていくまで。
(この、手に)
 蛍の迷い込んだ夏の宵、手に入れたい、と語った自分の言葉を、果たして真白が思い出す日が来るだろうか。
〝誓い合った〟という記憶は確かに無いだろうが、自分は若雪に宣言した。
 次は手に入れて見せるから、忘れるなよ、と。例えその記憶が若雪の、もしくは真白の奥底深くに埋もれて表面化する時が来ないとしても。
(されど、今生こそは)
 目を閉じ、耳を澄ます。
 学生たちの笑い声、叫び声。喧噪が聴こえてくる。
 今もまた、ある意味乱世であると市枝は正しく悟っていた。
「…あの時代よりは、僅かばかりましかもしれぬがの」
 薄く目を開け、誰にも聴こえない声で市枝は囁いた。

怜が校舎に入った時、壁にもたれるようにして剣護が立っていた。両手はズボンのポケットの中だ。
外の暖かく柔らかな空気に比べると、コンクリートの校舎内の空気は肌にひんやりと触れてくる。
ここからは一年の教室が近い。偶然ではなく、意図して怜を待っていたようだ。
市枝との遣り取りを見られたかな、と思う。
それにしては普段通りの顔をしている。
「なあ、江藤」
「――はい」
「俺さ、お前には記憶が無いって思ってたよ」
「…………はい」
 怜の顔が強張る。話を聴いていたのか。聴かなくても既に察していたのか。
「責めてねえよ。んな顔すんな。俺だって、聞かなかったしな。言わなかった」
 そこから剣護はちょっと間を置いた。
「―――――お前んとこの担任の、倉石が話してんの聞いた。お前、ちっちぇーころ、ノイローゼやってんだって?俺と一緒。言った言葉も似てるな。〝血の海に囲まれてる〟。お前もそこから、護身術なんて興味持ち始めたんじゃないのか?」
 灰色がかった緑の瞳が、まっすぐに怜を見ていた。
 怜もまた、視線を逸らさずに剣護を見た。一切、誤魔化そうとは思わなかった。
 そんなことをしてはいけない相手だ―――――出来ない相手だ。
 不意に懐かしい、という思いが怜の胸に溢れた。慕わしい、という思いも同様に。
 彼は昔も真剣な話をする時、射るように人の瞳を見据えて話した。今のように。
 普段の朗らかさが、そんな時にはまるで一変するのだ。
「はい――――その通りです、先輩」
 もうお互いに、お互いが誰だか、解っていた―――――――――。
 それは、懐かしいという言葉では到底言い表せぬ程に、感慨深い邂逅だった。
 両者の間に響き合う、目には見えない共鳴のような空気が確かに芽生えていた。
 共に命も預け合ったことある者同士。かけがえのない、唯一の存在を守ろうとした者同士。
 はるかな時の河を超えて、二人は再び巡り合った。
 剣護は、怜の顔をじっと見たまま言った。
「再来週には、真白の親が帰国する。あいつの、誕生日が近いから。きっと、タイムリミットはもうすぐ近い。……お前も俺も、覚悟が必要ってことだ」
 制服のズボンのポケットに両手を突っ込んだまま、試すような視線で剣護は怜を見据えた。
 その試す眼に、怜は静かな刃のような声音でもって答えた。
「…解ってます――――――――、もう、思い出した時から解ってました。若雪が大事なのは、あなただけじゃないんです、先輩」
 その言葉に、剣護が目を細めた。
「―――言ったな、名前。お前、――――――本当にあいつなんだな。口調が、そのまんまだ」
 口元には意外にも嬉しそうな笑みが浮かんでいる。
「……いけませんか。俺が若雪の名を、語っては」
 怜にしては、そつのない態度とは離れた、挑戦的な口調だった。
 市に対してして見せた譲歩とは、まるで違っていた。それは相手が、若雪にとって自分と同等に近い存在だからでもある。
 剣護はポケットから出した右手で顎のあたりを撫でながら、まだ少しニヤニヤしていた。
「…いや?ちょっと、自分でも驚くことに割と嬉しい。俺の他にも、――――若雪を知ってる奴がいるってことが。お前が、あいつだってんなら、尚のこと。若雪を…覚えていてくれる奴がいるってことが、嬉しい。そんなもんなんだな。変だな、人間って」
 率直なその言葉に、怜もちらりと笑いを見せた。
「解る気が、します」
 怜は小さく頷いた。
「なあ?若雪は綺麗だったよなあ」
「はい」
 唐突な剣護の問いかけに、思わず、と言ったように怜は微笑んで答えた。否定しようも無い。
「情にもろかった」
「はい」
 これも否定しようが無かった。
「料理以外は、何でも出来た」
「そう。覚えてます」
 怜はそこで少し苦笑してしまった。完璧な彼女にも、出来ないことはあった。
「寂しがり屋なところがあって」
「ええ。けれど怒ると怖かった」
 最後の怜の口調は、少し茶化すようだった。
 そこまで言うと、二人して笑み崩れた。
 確認した事柄は、全て真白にも当てはまる。
 けれど二人の語る人物は、真白ではない。
 確かに、と怜は思う。分かち合う人間のいる喜びは、確かに言葉に出来ない程の充足感を胸にもたらす。
 そうして、少しの間二人で共通の記憶を確認した。それは言葉によるじゃれあいだった。
 まあ何にせよ、と剣護が会話を締め括るように言った。
「最後に選ぶのは若雪だ。どちらを選ぶか、もう見当はついてんだけどな、これが。腹立つことに」
 剣護は唇を拗ねたように歪めて、そう言った。
 怜もまた頷いたが、彼の顔にはどこか諦めのような色があった。

 その週の日曜、真白、剣護、市枝、怜は連れ立って買い物に出かけた。
 真白の誕生日プレゼント選びだ。
 本人には知らせず、三人で小遣いを出し合って買う、という怜と市枝の案もあったのだが、やはり皆でわいわいと買い物を楽しんだほうが良いのでは、という剣護の案に最終的には落ち着いたのだ。
「しかしなあ…」
「何、剣護?」
 些か乗り気でない剣護の声を、真白が聞き咎めて振り返る。
「いや、高校一年にもなった奴が、クマのぬいぐるみとか欲しがるか?しかもシュタイフとかのじゃなくて、ふつーの奴」
 知名度の高いブランドの名前を挙げた剣護を、呆れた眼で真白が見る。
「剣護が買えもしないって解ってるのに、欲しいなんて言える訳無いじゃない。第一、ブランドもののクマには、そんなに興味無いもん…。て言うか、良くシュタイフなんて名前知ってたね、剣護。クマのプーさんくらいしか知らないかと思ってた」
 なにおう、と剣護が応じる。
 シュタイフはテディベアで有名なドイツの人形メーカーである。
「そうねー。テディベアって色々なブランドが出してるけど、そういう高級志向じゃないのよね。そもそもこっちが求めるのは。もっとこう、郷愁?っていうの?そういうツボにグッとくるものでなくちゃ。そういう点ではまだアンティーク物のほうが味わいがあって良いよね」
 市枝が「解る」、という感じに頷きながら真白の意見を支持する。
「そうそう。さすが市枝、女の子。良く解ってる」
 俺だって、そういう機微(きび)が全然わからない奴じゃないもん、と拗ね気味になる剣護の肩をポンポン、と取り成すように怜が叩いた。
 四人は今、市内のデパートに来ていた。ハイブランドから安価な物まで取り揃うファッションビルより、老舗デパートのほうがありきたりなぬいぐるみコーナーを見つけやすいだろう、という考えのもとだ。「あ、でもあとであっちのビルにも入りたいかも」「はい!私、夏物の服、チェックしたい!!」とは、女性陣の意見だ。これに対し男子二人はやや警戒する顔つきになった。ファッションビルに寄れば、二人の、特に市枝の荷物持ちになることが目に見えているからだ。加えて、女子が試着だのするのを待ったり、試着した服について意見を求められたりするのを想像すると、少なからず想像するだけでげんなりするものがあった。とりわけ剣護は、そういう遣り取りが苦手だった。
「そっちは俺が付き合うんで、剣護先輩は先に帰りますか?」
 察したように、気を利かせて怜が言う。
 彼ならば、嫌な顔もせずスマートに女子をエスコートしそうではある。
 その言葉に甘え押し付けてしまいたい、とは思うものの、剣護は些か力無く首を横に振った。
「いや…、俺も付き合うよ。今日は、お嬢さんたちのエスコートってことで、親父たちから昼飯やらの軍資金も出てるしな」
 気を遣った怜の申し出を、今から疲れた顔で剣護は遠慮した。
デパートまでの道のりを歩く四人を、すれ違う歩行者がちらちらと見ては通り過ぎる。それぞれ整った容姿の彼らは周囲から浮き、多少目立っていた。服装はそれぞれ、市枝
を除いてはあまり飾らないものしか身に着けていないが、そこは問題ではなかった。
 市枝は品の良い若者向けブランドの服を、見事に着こなしていた。
 それはそれで、浮いている集団の中で更に浮いてはいたが。
 上質な物を着ていれば、それは自ずと周りにも知れるのだ。一見すると市枝を姫としてそのお供たち、という構図に見えるが、彼らの中心にいるのは真白だった。
「そういえば江藤君と市枝って、いつ知り合いになったの?市枝、この間は随分息巻いてたけど」
 この真白の疑問に、怜と市枝はちらりと視線を混じらせる。
「うん、真白に近付くのなら、剣護先輩だけじゃなく、私にもちゃんと顔を見せなさい、って言っておいたの。彼、中々素直な性格だよ。ちゃんと私にご挨拶して来たもの。だから私も、認めてやった」
「…………」
 得意そうに言う市枝だが、真白は怜の表情を見て、どこまでが本当なのか、いまいち掴みかねた。怜はポーカーフェイスが基本らしく、何を思うのか周囲に悟らせないところがある。けれど朗らかに良く笑うところが、彼に冷たい印象を与えなかった。
(ご挨拶って…)
「それ本当?無理したんじゃない、江藤君。大丈夫?市枝、ちょっと強引って言うか、わがままなところがあるから」
 市枝の言い様に心配になって、ぼそぼそと彼女には聞こえないように真白が確認すると、怜はにっこり笑って頷いて見せた。
「うん。彼女、ああ見えてそんなに無理言う子じゃないよ。大丈夫」
 それは確かにその通りなのだが、真白は怜の笑顔に、相手を気遣っての作為的なものを感じた。
 普段から周囲の空気を読み、それに合わせて対応する、人付き合いの良い子なのだな、と改めて怜に対する認識を持つ。少し醒めている、とも取れる。
 全体的に見ると、かなり大人びていると言えるだろうか。少なくとも、一般的な高校生よりはずっと大人だ。
 何となく誰かに似ている、と思ったが、真白はその似ている誰かを思い出すことが出来なかった。
 心地良く空調の効いたデパートに入るとエレベーターに乗り、おもちゃ売り場のある6階のボタンを押す。
 目当てのフロアーに着くと、やはり男子二人はどこかそわそわと気恥ずかしげだ。
 子供の喜びそうなおもちゃに囲まれて、視線を上下左右に落ち着きなく彷徨わせている。
 6階に着くまでとは打って変わった力無い歩みで女子二人について来る。二人共容姿が良いので注目を浴びやすいのも、この場合には気の毒だった。
「ママー、あのお兄ちゃんたちもおもちゃ買うのー?」と言う、小さな女の子の声にも、少なからずダメージを受けたようだ。
 真白はどこか名曲、「ドナドナ」の物悲しい旋律が流れるのを聴いている気分になった。
 ぬいぐるみ売り場に着くと、早速商売のカモ、とばかりに化粧が濃いめの女性店員が足早に近付いて来た。昨今は老舗デパートも経営が楽ではないのだ。その目は主に市枝を捉えている。
「いらっしゃいませ。どなたかへの贈り物ですか?」
 マネキンのようなにこやかな笑顔に気圧されつつ、真白がぎこちなく進み出る。
「クマのぬいぐるみを探してるんですけど…」
 おや、こちらのお嬢ちゃんか、という顔で女性店員は真白に向き直って、改めて商品を勧め始めた。真白にも育ちの良い空気はあったので、これはこれで良し、と思われたようだ。
「まあ、それでしたら、こちらのシュタイフのテディベアなどは、定番ですが大変人気があり、お勧めですよ」
 女性店員は濃い色のルージュが引かれた唇の、両の口角を上げ、にっこり、微笑む。
気のせいかシュタイフ、という単語が強調して発音されたように聞こえた。
「いえ、別のものが良いんです。出来れば有名ブランドの出してるようなものじゃなく…」
 ちょっと怖い、と思いつつ真白ははっきりと言った。
 それを聞いた女性店員は、態度に出さないように、それでも0・5度ほど発する空気の温度を下げた。しかし尚もにこやかに商品を勧めて来る。客商売である。
「ではこちらなどはいかがでしょう。最近流行りの作家さんの手作りです。一点物ですよ」
 次に出されたクマのぬいぐるみは、成る程、大層独創的ではあったが、いかんせん奇抜過ぎて部屋に置いて寛げる思いが真白にはしなかった。しかも値段はシュタイフに劣らない程に高価だった。それを見て剣護が無言で首を横に振る。
 却下、という意思表示だ。
 だろうなあ、と思いながら、真白は顔を巡らせる。
 その時真白の目に、ぬいぐるみコーナーの端のほうにぽつねんと座っている、薄い茶色のテディベアが飛び込んできた。やや前屈みに座るそのベアは少し小振りで、紺色のビロードの細いリボンを結び、つぶらな一対の瞳は赤味がかっている。愛嬌がある顔つきなのに、どこか哀愁を帯びても見える。
 ちょこん、と座るその姿が愛らしい、と思って黙って見ていると、怜もそのテディべアを見ていた。
 そのテディベアを指差して、形の良い唇に微笑みを浮かべて勧める。
「あれなんか、いいんじゃない?門倉さん」
 自分以外にも共感してくれる人がいた、と思い、真白は嬉しくなって強く頷いた。思わず笑顔になる。
「うん。私も、実は今そう思ってたの」
「あー、俺もそう思ってた」
 気の無い剣護の言葉は、確実に便乗だった。
 彼の顔には「どれも似たようなもんじゃねーの」と書いてある。
「どれ?あれ?へえ、うん、かわいいじゃない。真白らしいよ」
 こちらは本気で市枝が言った。
「――――あちらでございますか」
 応じる女性店員の声はにこやかだったが、どこか冷ややかでもあった。
 あまり大きくないカモだったことに落胆しているのだろう。
そのテディベアの値段は、真白以外が考えていたプレゼント予算よりずっと安かった。
 けれどリボン付きで、可愛くラッピングしてもらったその包みを持った当の真白が、傍目にはっきり解る程嬉しそうだったので、他の三人からの、甲斐が無い、と言う不満は上がらなかった。誕生日の主役が喜ぶのなら、それが一番なのだ。
 真白は年齢にしては大人びているので、テディベアに喜ぶ年相応の姿を見て、剣護たちもそれなりに満足だった。
 そろそろ時計が正午を回るころだ。昼食をとるには良いタイミングである。
 四人はデパート最上階にあるレストラン街に向かっていた。混み合い過ぎる前に行かないとひどく待たされることになるので、心持ち四人共早足になる。
(テディベア抱えた女流歌人…)
 剣護は真白を見てこっそりそう思った。
 しかし真白の、「何て名前にしようかなあ」の声に、剣護は後ずさった。
 ちょっと待て、と言わんばかりの声を出す。
「真白お前…、買うだけならまだありとして、女子高生が、ぬいぐるみに名前までつけちゃうんかよ、そりゃ無しだろ。引くわJK~」
 同意を求めて「なあ?」という風に怜の顔を見るが、彼は肩を竦めただけで、賢明にも特にコメントしなかった。
「JKって…。剣護、おじさんの言う言葉だよ、それ。良いじゃない、別に。ありだよ。それこそJKなんだから、テディベアに名前つけるくらい」
 ちょっと気分を害したように真白が反論する。
「何てつけるのー?どうせなら可愛いのにしようよ」
 こちらは女子らしく、真白の気持ちがごく普通に汲み取れる市枝が、にこやかに尋ねる。
「そうね…」
 真白がラッピングされた包みをじっと見て、考え込む顔をする。
「太郎とか」
 にこ、と笑いながら真白は皆に提案してみた。
 自分では、シンプルで悪くないネーミングだと思っている。
「……………………」
 レストラン街へ急いでいた皆の足が一瞬止まる。歩みはすぐに再開されたが、彼らの間には沈黙が満ちた。
 市枝も怜も黙っている。言う言葉がちょっと見当たらないのだ。なまじ良い笑顔で言われてしまっただけに、突っ込みもしづらくなった。
 ここで突っ込めた剣護は、さすが付き合いの長さだけあって、果敢だったと言えるだろう。彼の言葉には遠慮が無かった。
「泣きたくなるようなネーミングセンスだな、しろ。お前実は、女子高生の着ぐるみ被ったばあちゃんだろう。ファスナーどこだ?ファスナー」
 そう言って真白の背中のあたりをじろじろと見て、ファスナーを探す振りまでする。
むっとして、真白が隣を歩く剣護に代替案を出す。
「じゃあ、次郎とか」
「……いい加減に日本昔話から離れろ」
 似たり寄ったりじゃねーかと呆れながら剣護が言った。
 この次は三郎、と言い出しかねないことはその場の流れから明白だった。
 五行歌などを嗜む割に、ネーミングに関する真白の語彙はあまり豊富でないことが、この時点で判明した。
 結局、デパートにいる間に、テディベアに名前が付けられることはなかった。
(早いとこ、何か良い名前を考えてあげよう)
 そう思ったところで、真白の足が止まった。
(――――あれ?)
 早く、良い名前を――――――――あの、美しい、…何にだっただろうか。
 昼食をとるべく、デパート最上階に向かっていた他三人が、それに気付いて振り向いた。
「どうかした、真白?」
「あ……、ううん。何でもない」
 咄嗟に笑顔でそう答えた歩き出したものの、真白は今感じた違和感に当惑していた。
(前にも、思った…。いつ、何に対してだか覚えてないけど。そう。その時は誰かに頼まれて、名前を付けると約束した―――――――確かギリギリで、その約束は果たせた。直前で、間に合ったなと、安心したのを覚えてる。―――――何の直前だった?)
 それは、あの赤い滴を飛び散らせる前の。
「………」
 今自分は、何を考えた?
 真白は背筋がすう、と冷たくなった気がした。
(なんか、記憶が混乱してるな…。思ったより私、テンション上がってるのかな)
 自分で自分を取り成すようにそう思う。思い込もうとする。
 そんな真白を、他の三人は三様、見守るように眺めていた。
 その時の三人は、それぞれが子供ではない目をしていた。
 誰一人として高校生らしい瞳を持たず、皆が黙って真白をじっと見つめていた。
 
四人はその後イタリアンレストランで散々飲み食いとお喋りを楽しんだ。
 主に男子が飲み食い担当、女子がお喋り担当である。
 男子二人の食事量に、女子二人は圧倒されていた。
 剣護の食べっぷりは真白も知っていたが、怜もそれに負けていない。端整な容貌と食欲には別段何ら関連性は無いらしい。どちらかと言えば細身の身体の、どこにそれだけの食事量が吸収されるのだろう。
「―――――あれだけ食べて太らないって、どう思う?真白」
 市枝がこっそり訊いてきた。彼女が近付くとふわり、と香水の良い香りがする。
「……ずるいよね。食費、かかりそうだけど。恐るべし、成長期」
 もちろん、男子二人が気兼ねなく育ち盛りの食欲を満足させることが出来たのも、剣護がスポンサーである両親から頂戴して来た軍資金のお蔭だった。
 心ゆくまで腹を満たした怜と剣護は、意外に機嫌良くファッションビルにも付き合った。
 怜は最初から女性陣に付き合うつもりだったようだが、あわよくば途中で逃げ出そうと目論んでいた剣護も、腹がくちた余裕からか、快く真白たちに付き合った。真白はともかく、市枝の買い込んだ服の量は相当なもので、予想通り、男子二名は荷物持ちとなった。

 勢い込んだ市枝と一緒の買い物に疲れはしたものの、十分に楽しんで帰宅した真白は、今日買ってもらったテディベアを膝に置いて、夕食が出来上がるのをリビングで待っていた。鼻歌混じりで機嫌が良い。
 頭の中では、相変わらずまだテディベアの名前を考えている。
 ちなみに現在、キッチンで甲斐甲斐しく夕食を作っているのは、剣護だ。
 活動的な祖母二人が、今日は揃ってかたやダンス教室の、かたや書道教室の用事で遅くなる、ということで、剣護は母から「あんた、しろちゃんに何か作って来てやんなさいよ」と仰せつかった次第だ。こんな時の為に、真白の家のキッチンには剣護専用の黒いエプロンまで常備してある。
 中華鍋を片手に、ジャッジャッと炒め物をする立ち姿は堂に入っている。
 オイスターソースの美味しそうな匂いが鼻を突く。
 その後ろ姿を見ると、真白にはぼんやりと羨望の思いが湧く。
 真白は料理が昔から苦手だった。家庭科の調理実習の日を仮病で欠席したいと考える時もある程である。苦手意識が強過ぎるのも上達出来ない一因だ、と剣護からは指摘されていた。もっと楽に構えてみろ、と。
「…剣護、何で料理が出来るの。ずるい」
 食事を作ってもらいながら言うには理不尽な言葉ではあったが、炒め物しながらでも真白の不満そうな声は耳に届いたらしく、剣護は笑った。
「これからの時代は男も料理の一つや二つ出来ねーとな。モテないでしょ」
「………料理出来なくたって、剣護ならモテるよ」
 割と本気で言った真白に、剣護が笑う。
「ははっ、そりゃ光栄。お前だって料理出来なくてもモテるだろ。別に良いんだよ、不出来なものが人間一つくらいあったって。―――――真白、テーブル拭いて皿出しといて」
「はーい。でも今度、また料理教えてね」
 食器戸棚から二人分の平皿を出しながら言う。付け合せに野菜スープも出来ているので、スープ皿も取り出す。カチャカチャ、という音を背景に剣護がからかい混じりに応じる。
「はいはい。教え甲斐があるくらい、上達してくださいね」
「意地悪いこと言うなあ」
 真白はむくれる。
 その様子を笑いながら剣護が、そら出来た、と言った。

 四人はそれからよくつるんで行動するようになったが、女子二人、男子二人という釣り合いのとれた人数にも関わらず、誰かと誰かが付き合うようになる気配は全く無かった。
 どちらかと言えば自然と真白を中心に、彼らのグループは動いていた。

 ある晩、真白は夢を見ていた。
 それは時々見る同じ夢で、誰にも話したことは無いが、真白はその夢を見るのが好きだった。目覚めた途端に詳細は忘れてしまうのだが、真白は夢を見ている間、夢に出て来る青年に、少女らしい憧れを抱いていた。

 真白は飛び起きた。
 起きた瞬間、悠長に寝ている場合ではないのだと、なぜだか思った。
 その途端に、くらりと目眩がした。
「無理すな、若雪どの」
 柔らかい声で誰かに言われる。
 声をかけた相手は優しげな顔で、腕組みをして立っていた。
 どこか古風な着物を着て、障子戸にもたれかかっている。
 その瞳は、真白だけを真っ直ぐに見ている。
 優しさが溢れるような顔と声に、真白は無性に泣きたくなった。
(ああ、会えた――――――会いたかった)
 例え夢であっても。
 もうどれだけの間、会っていないことか。
 彼はゆっくりとこちらに向かって歩いて来る。
 そして、真白の傍で片膝をつく。
 彼がいる。すぐ近くに。
 少し手を伸ばせば、届くところに。
 実際、そうして手を伸ばそうと思った。
 触れようとして。

そこで、目が覚めた。

(久しぶりに見たな……)
 この夢から目覚めるといつも幸福で、それでいてひどく切なくなる。
顔は朧でよく思い出せないが、〝彼〟は相変わらず、優しかった。
(厳しいところもあったけど優しかった…――――いつも、肝心な時には)
 そう考えた一瞬後、真白は今自分が何を思ったかを忘れた。
 夢の中で感じたこと、考えたことも全て忘れた。

「かくまで深き恋慕とは
 わが身ながらに知らざりき
 日をふるままにいやまさる
 みれんを何にかよはせむ
 空ふくかぜにつてばやと
 ふみ書きみれどかひなしや
 むかしのうたをさながらに
 よしなき野べに落つるとぞ」

 詠み上げると国語教師は、カッカッとチョークで黒板に書き留めた。
「これは佐藤春夫の『殉情詩集』に出て来る詩だ。七五調は文学界に根強く残っていて、例えば斉藤茂吉や芥川龍之介なんかも、その影響を受けている。門倉のやってる五行歌は、比べると更に縛りの無い境地の歌、ということになるな」
 佐藤春夫の詩に気を取られていた真白は、急な名指しに虚を突かれた。
 大層ロマンチックな詩だと思う。
(これほどに好きだったとは自分でも思わなかった―――――、か)
 そこまで詠ませる程の情熱など、自分はまだ知らない。
 窓ガラスの外の晴れた空を見ながら、右手で頬杖をつき、詩の前半部を胸の内で復唱してみた。

「かくまで深き恋慕とは
 わが身ながらに知らざりき
 日をふるままにいやまさる
 みれんを何にかよはせむ」

 いつか自分も五行歌で、こんな情熱的な歌を詠むようになるのだろうか。
 今はとてもではないが、想像もつかない。
 少なくともこの時は、真白はそう思っていた。
 次の満月の晩までは。
 しかし結局この詩が一つのきっかけとなり、彼女は目覚めることになる。
 時はもう、ほぼ満ちていたのだ。

 ――――――かくまで深き恋慕とは

       四

 そして満月の晩が来た。
 真白は陶聖学園の屋上に、制服姿のままで立って夜風に吹かれていた。
 今日は帰宅せずに、授業が終わってもずっとここにいたのだ。もちろん家には遅くなると告げてある。
 待ち人はまだ来ない。
 ――――――来ないほうが良いのかもしれない。
 一瞬、そう思う。
 彼が来ることは、一つの別れを意味する。大きな離別を。
(けれど――――――――――、嵐…)
 嵐。
 胸に抱き締めるように大切な言葉。何より大事な言葉を、もう思い出してしまったから。
 そうしてしばらく、フェンスに寄りかかって満月を見上げていた。
 満ちた月―――――。
 真白は瞼の裏にも月の光を感じるように、目を閉じた。
 しばらくそうしてから、再び目を開ける。
 満月は、変わらずそこにあった。
 ―――――――――満ちた時。時の、到来。
 真白には、もうそのことが解っていた。
 それが嬉しい。――――それが悲しい。
 時の到来は真白から、与えると同時に奪う。
 満月に、手を伸ばそうとした真白に、声がかかった。
「何やってんの、しろ」
 屋上に呼び出した待ち人が現れた。彼もまだ制服を着ている。
 真白は中途半端に伸ばしかけた手を、引っ込める。
「こんなとこで。もう夜も遅いってのに。危ねーだろ」
剣護の声は静かだった。いつも通りに、真白を気遣う言葉。
「剣護―――――…」
 そう囁いた真白の、哀しみと喜び、相反する感情に滲むような笑みを見て、剣護は時が来たことを悟った。
(とうとう、か)
 ずっと――――――――いつかは来ると、思っていた。
最近では、それがそう遠くないという予感もしていた。
当たってしまったな、と思う。胸に湧く寂寞の思いは、どうしようも無かった。
「しろ――――もう、解ったのか?」
 何をとも言わない剣護の問いに、真白はコクリと頷く。
「思い出して―――――、しまったのか?」
 この問いにも、真白はコクリと頷いた。
 剣護は笑顔を作った。作った――――――、つもりだった。
「………じゃあ、行ってしまうんだな?」
 この問いには真白は首を縦に振らなかった。
 ただ悲しそうな顔をした。彼女の綺麗な柳眉が悲哀に顰められる。
 ――――もうこの表情は、真白のものではない。
 痛切に剣護はそう思った。急に真白が遠のいた気がした。
 元々真白は大人びた少女だが、彼女は真白より更に大人びた表情をしている。
 大人びたと言うよりも、大人の女性の顔をしている、と言ったほうが正しいかもしれない。
「いつから、思い出していたのですか。あなたは」
 真白が、真白でない声で剣護に問いかけた。
(この、口調…)
「―――――――ノイローゼに、罹った時があっただろう。あの時だ」
「では、そのころにはもう既に――――――?」
 真白のこの問いに、剣護は微笑を返した。
「そうだよ。………真白」
 剣護はまだ、何かに抗うように彼女を本当の名で呼ばない。
 対して真白は深く息を吸って、静かに、そして慎重に彼のもう一つの名を呼んだ。
「―――太郎兄―――――――――――」
 声は、微かに震えていた。
〝太郎兄〟――――かつて自分のことをそう呼んだ人間が三人いた。かけがえのない、妹と弟たち。剣護にとって何より大切な記憶で、存在だった。
「……懐かしい、呼び名だな。俺はずっと、お前にそう呼んで欲しかった。――――あのクマに名前つけられた時は参ったけどさ」
 剣護はクスリと笑った。真白も釣られたように少しだけ笑う。
「それでもやっぱり、嬉しいものはあった。けど、そう呼ばれる日が、太郎兄と呼ばれる日が来ないようにと願ってもいたんだ。…来ちまったけどな」
 小野太郎清隆と、門倉剣護が混じっているような喋り方だった。
 真白がその場にしゃがみ込む。とても平静に立ってはいられなかった。
(もう―――間違いない)
 剣護は、太郎だ。小野太郎清隆(おののたろうきよたか)――――――――。
出雲大社神官・小野家の嫡男にして長兄だった人。享年十七で凶刃に斃(たお)れ、真白の前から姿を消した人。
 一人っ子なのに妙に兄貴体質だったのも、今では頷ける。
(こんなに近くにいてくれた――――――)
 懐かしい、という言葉ではとても足りない。
 真白はこみ上げてくるものを堪え切れず、顔を両腕に埋めて、泣き声で再び呼びかけた。
「太郎兄」
「うん」
「太郎兄?」
「うん」
「本当に?」
「うん」
「また……会えたのですね。まさか。まさかお逢い出来るなんて――――――」
「そうだよ、――――若雪」
 剣護は、ついにその名を呼んだ。繊細なガラス細工を扱うように、そっと。
 まるで触れれば壊れるのではと、恐れるように。
「―――――兄様にお会いしたら、私、ずっと謝らなくてはと思っていたのです」
 真白は重ねて確認したあと、改まってそう言った。
 それは罪悪感に満ちた、苦しそうな声だった。顔を伏せたまま言ったので、くぐもった声になる。
 え、と剣護が声を洩らす。ひどく意表を突かれた様子だった。
「謝る。お前が?何を?」
 心底心当たりが無い、という顔をする剣護を、真白が見上げた。眼は涙で潤んでいた。
「あの時。小野家が襲撃を受けたあの時、私はその場にいることが出来なかった……。皆と共に戦うことが、出来ませんでした。私とて、小野家の人間として研鑽を積んだ者の一人だったと言うのに。気付けば、全ては終わっていた………。私は一人、のうのうと生き延びた。―――――兄様たちの亡骸を、そのままにして逃げました。…保身の為に、亡骸を置き去りにしたのです。お許しください………」
 潤んだ目で必死に言い募った真白――若雪だったが、剣護は一笑した。
「何、馬鹿なこと言ってんの。死体なんかに執着して、あそこでお前まで死んでしまっては駄目だろう。本当は俺が、俺たちこそがずっと悔んでいたんだ。お前を、独りにしてしまったことを。守ってやれなかったことを。…死んだのちにも無念を残す程に…」
 その時、屋上と校舎内を繋ぐ扉がキイと重い音を立てて開いた。
「こいつもな。――――よう、次郎」
 立っていたのは怜だった。彼もまた制服のままで、静かな表情をしている。
「次郎兄……?」
 泣き顔のまま若雪は怜を見た。涙に濡れた目は見開かれている。
「俺が報せた」
 剣護が短く説明する。片手に持ったスマートホンを軽く振って見せる。
 呆気に取られている若雪に苦笑して怜が言う。
「気付くの遅いよ、若雪?俺、ずっと待ってたのに」
 その秀麗な容貌は確かに、小野家次男・小野次郎清晴(おののじろうきよはる)に通じるものがある。
 彼は十五で亡くなっている。数え年かどうかの違いはあるが、現在と同じ年齢だ。
「江藤君が、次郎兄――――。じゃあ三郎も、そこにいるの……?」
 これには剣護が首を振って答えた。こちらも苦笑しながら。
「いや、さすがに幼稚園児をこの時間には連れ出せない」
「?」
「碧だよ」
「え?」
「あいつが、三郎。まだチビだけどな。あいつの家が向かいに引っ越して来てから、俺はすぐに気付いた。まるで変ってなかったしな」
「碧君が…。…あの子、記憶は…?」
 剣護が再び軽く首を振る。
「まだ思い出してねーよ。――――――尤も俺は、ずっとそのほうが良いと思ってる。あの記憶は、剣戟の記憶は、……マジできつい」
 剣護の顔に、苦悶の名残りが微かに浮かんだ。怜の顔にも、似たようなものが浮かんでいる。血の、海――――――。忘れていられるなら、そのほうが余程良い。
「俺や次郎は何とか乗り切ったけど、あいつの精神が保たない場合だって有り得る。ただ、あれだけお前に懐いてるってことは、何か残ってるものはあるんだろうさ」
「私……、碧君のこと、判らなかった」
 自分を責めるように呟く若雪に、剣護が宥める口調で言う。
「仕方無いよ。俺たちには記憶があったけど、お前は禊の時を終えるまで、思い出さないようになっていた」
 だから、と剣護は続ける。どこか自分自身に覚悟を促す調子で。
「お前が思い出した、ってことは、禊の時が終わったってことだ。―――――耐えられなくなった摂理の壁が、崩壊する。―――――――お前は、若雪は元の時代に戻る。お前はそもそも、本当の意味では俺たちと違い、生まれ変わってさえいなかったんだ。ただ、吹雪の力を利用して、この時代に飛んだんだ―――――魂だけ。そして十五年の間、ここに留まった。だから真白は本当には、今はまだどこにもいない。そしてそれらのことは全て…嵐にも当てはまる。あっちも今頃思い出してるころだろうよ」
 剣護が口を閉ざすと、怜が代わって口を開いた。
「――若雪――――、あの襲撃より随分前から、俺たちは、お前が哀れで仕方無かったよ。鍛錬の刻限になるといつも、お前は俺や太郎兄に気を遣い、練習用の木刀に手を伸ばしては引っ込めて、それを繰り返していた。そのたびに父上に叱られていた。何をしている、早く木刀を取りなさい、と。……俺への父上の叱責すら、自分のせいのように考えていただろう?お前の天稟に、お前が引け目を感じる必要など無かったんだよ…」
 それは優しく、それでいて悲しむような口振りだった。
 その言い様を聴いて、若雪も、怜が確かに次郎だと今では確信を持った。
(次郎兄――――…)
 三兄弟の中でも優れて頭が良く、細かな気遣いが出来、繊細で努力家。けれど朗らかな笑い方は太郎とそっくりだった。
 ガシャン、と言う音に目を遣ると、剣護がフェンスに両手を叩きつけたところだった。
 苦しそうな顔をしていた。
 金網を握り締めるようにしたまま、吐き捨てるように叫ぶ。
「おまけに―――――、あの剣だ!父上がお前に教え込んでいた闇の剣。俺も次郎も、お前にそんなものを覚えて欲しくなかった。父上に何度も進言したが、容れられなかった。このままではお前を闇に染めてしまう――――。そう、焦っていた時だ。あの、惨劇が起きたのは。多勢相手とは言え、俺たちは、あまりに非力だった。呪ったよ、自分たちの不甲斐無さを」
「――――――――――――そんな、それは」
 自分の大事な兄二人が、苦しみ、憤っている―――――自分の為に。
 若雪は堪らない思いで叫んだ。その事実こそが看過出来ないものと感じた。
「あの剣は、兄様たちのせいじゃない!誰にも、どうしようもなかったのです、仕方無かった!だって私たちは、まだほんの子供だったではありませんか。母様でさえ、どうにも出来なかったものを。誰にも、兄様たちを責めることなんて出来ない!――――そんなこと、私が許さない。…あの惨劇にしろ、同じです。あの父様までが血の海に沈まれたと言うのに、兄様たちが抗い切れず斃れたことを、一体誰に非難出来ますか!」
 若雪は立ち上がって必死にそう訴えた。誰にともなく怒るかのように。
 そんな若雪を、剣護はひどく優しい眼で見た。
「……お前ならそう言うだろうと、次郎も言ったよ。若雪。さすがに解ってるな」
 若雪は怜を振り返る。
 怜は頷く代わりに微かな笑みを浮かべた。
 若雪は俯いて、心なし小さな声で言った。自分の右の掌を見る。柔らかくて白くて、傷一つ無い。何の苦労も知らない代わりに何の力も無い掌。若雪の掌とはあまりに違う。
「私――――、私は、山田正邦の足の腱を切ってからも、本当は時々考えました。…殺めるべきだったのかもしれないと。兄様たちのことを思い出すたびに。正邦はそれ程大きなものを、兄様たちからも私からも、奪った。兄様たちには、まだこれからの、全うすべき長い生涯があったと言うのに」
 それなのに、喜びや悲しみや、経験する筈だった人生の全てを若くして奪われた。
 斬るべきだったかもしれない、という迷いは若雪の脳裏をかすめる程度の思いで、決して確固としたものではなかったけれど。
「………お前が正邦を殺さずに終わらせた時、俺たちはホッとしたよ。お前の手ばかりが、血で染まる必要など無かった。たった一人、生き残ったというだけの理由で――――――。お前を業垢(ごうく)にまみれさせるなんて、考えただけでも耐え難い。もしお前が正邦を殺めていれば、俺たちの後悔はこんなものじゃ済まなかっただろう。お前という存在は、俺たちにとって聖域みたいなもんだったから――――――――――」
(ずっと見守られていた?)
 剣護の言葉に若雪は思った。
(私は、あの惨劇の直後も、そののちも、どこまでも独りという時はなかったのだ――――――――)
「けど、けどな、若雪――――――」
 剣護がフェンスから向き直り、自分の前髪をくしゃりと掴んで辛そうに口を開いた。
「それだけじゃないんだ。俺たちがお前に感じてる負い目は」
「――――――?」
「吹雪だよ」
 どこか自嘲気味に、剣護が若雪を見た。
 若雪は意図していなかった方角から物を投げられたように、目をしばたたいた。
「吹雪が―――何?あれは、私と嵐どのの出会いの果て生じた現象。兄様たちには関係無いでしょう」
 怜が苦く笑う。
「いや。本来なら成る筈の無かった吹雪を招いたのは、俺たちだったんだ。俺と、太郎兄と、そして三郎。俺たちの………罪」
「意味が、解らない」
 困惑顔の若雪を、諭すように優しく怜が語った。
「水臣から聴いただろう?運命違えの法は、二人の当事者のどちらかでも欠けると成立しないと。その為に。嵐の為に。――――お前は自害の道を選んだ。けれど、それでも呪法は成った。他にも、全ての出来事が、偶然が、流れが、花守たちの奮闘にも関わらず吹雪が成立する方向に動いた。嵐の、一人の人間ごときの暴走にさえ、神々が干渉出来なかった理由。なぜだと思う?」
 若雪は目を見開いたままだ。
 見当もつかない。
「…解らない」
 若雪は繰り返し、言った。
 次の言葉を発したのは剣護だった。
「吹雪の始まりは、俺たち三兄弟の無念だよ。まるで呪いのような…、想いの力の結集だ。理の姫たちでさえ、吹雪が成るまでそのことに気付かなかったんだ」
 剣護の真上から、月の光が狙いすましたかのように降り注いでいた。
 舞台の上で、台詞を読み上げる役者のように、剣護は語った。
「俺たちには、死にゆく時に強い未練があった。若雪、お前だ」
 この言葉に若雪が一つ、瞬きをした。
 剣護は月光の下、微笑んで続けた。
「お前一人、残して逝くのが忍びなかった。お前を守ってやりたかった。それを叶える為にも、もう一度、どうしてもお前に会いたかったんだ。それは俺も、次郎も、三郎も同じだった。俺たち三人の無念が全ての引き金となり、事態は吹雪に向けて動き出したんだ。ただの人間である俺たちの、遺恨にも似た思いが、神々の意向にすら勝った。俺たちにとっては、運命違えの法は、ぜひとも成立して欲しかった。そうでなければ、お前は病室のベッドに縛られたまま、十五で死ぬ筈だったから。死んだのち、お前に執着の残る霊魂となって初めて見えたそんなお前の運命を、何とか変えてやりたいと」
「待って!」
 剣護の言葉を遮った若雪は、青ざめていた。
 何より優先すべき事柄を、彼女は思い出していた。
「待って…嵐どのは、今どこにいるの?私が今ここにいるのは、運命違えの法の結果。私の背負うべき運命を、彼は肩代わりした…。彼の居場所を、知っているでしょう、太郎兄?――――私、行かなくちゃいけない」
「あいつ。嵐と一緒に――――――戻りたい?若雪」
 怜の声だった。若雪は一瞬言葉に詰まった。息を整えて、言葉を口に出す。
「次郎兄……。真白も、悪くありませんでした。年相応に、屈託なく生きる心地良さを、私は知りました。でも―――――」
「俺たちを、選んではくれないの?」
 怜は悲しそうな顔をしていた。嘗て次郎が、悲嘆をそれ程露わにすることは稀だった。
 その顔を見るだけで若雪の胸が痛んだ。
(兄様。兄様。そんな顔をしないで―――――――)
 若雪は下を向いた。
 それだけで、怜には伝わったようだった。
「――――――運命もえこひいきするよね。太郎兄は生まれてからずっと若雪と一緒にいられたのに、俺はつい最近になってやっと会えた。我ながら、何で思い出すのがこんなに遅かったんだか―――――記憶力が、悪いのかな」
 自嘲するような笑みを怜が見せた。
「理の姫に三人の居所を教わり、この学園に編入したいって親にごねて何とか説得して、ここまで来たんだ。母親には親不孝者、って泣かれちゃったけど。若雪や太郎兄たちに会えるのなら、この年で一人暮らしすることくらい、何でもなかった。俺は結構、器用なほうだったし。……これで若雪があの乱世に戻るって言うんなら、何の為にここまで来たのか解らないよ」
 怜の言い様は、今の家族にやや冷淡だった。
(次郎兄はまだ、江藤怜ではなく、小野次郎清晴を生きておられるのだ。そちらの記憶のほうが、次郎兄にとっては余程に重い、大切なものなのだ………少なくとも、今はまだ。……記憶の重みや、その受け取り方は人それぞれに違う。それでも、私は)
「次郎、あまり苛めるな。―――――――――矢立総合病院、南棟二階の207号室だ、若雪。……そこに嵐はいる」
 剣護が怜をたしなめ、病院の一室を若雪に告げた。
 若雪の頬に滴り落ちる涙を見て、怜も言葉を止め、後悔の念を顔に浮かべた。
「どうして?……どうして、どちらかを選ばないといけないの?私は、嵐どのも、兄様たちも、どちらも大切なのに―――――――」
「それが理の姫との、約束だろう?」
 剣護が優しい声で、若雪の涙を手で直に拭ってやりながら言った。ハンカチを使わないところが彼らしい。若雪は頷いた。
「ええ、厳しい選択をすることになるだろうと、言われた……。でも、こんなことだなんて」
 若雪は両手で顔を覆った。
 満月が皓々と照るのをふと見て、柄にもなく、若雪はかぐや姫みたいだな、と剣護は思った。
 月の満ちる晩、嘆きながらも家族を置いて天に昇る高貴の人―――――――。
 但し、若雪には道行を共にする人間がいる。これからを一緒に生きて行く人間が。
「若雪、泣くな。良いことを教えてやるから」
 涙の溜まった瞳で、若雪が剣護を見た。
 にっこりと包み込むような笑顔を見せると、剣護がゆっくりとした口調で語りかける。
「お前はまた、ここに戻って来ることが出来る。今からお前が中世に飛ぶことで、真白の人生は一旦途切れる。門倉真白は少しの日数、眠り続けるだろう。そして、目覚めたお前は、若雪としての生を全うしたあとのお前だ。新しい真白だ。お前は若雪の生を全うしたあと、また真白として俺たちと生きることが出来るんだよ」
「兄様たちと……、嵐どのにも逢える?」
 ここですかさずその名が出ることに、剣護は苦笑するしかなかった。うん、と頷いてやる。
「ああ、嵐にも逢える。あいつの未来は今回の壁の崩壊で変わる。嵐は死ぬことなく、再びお前の前に姿を現すだろうよ。お前と同じ、嵐としての生を全うしたあとで、新しく目覚めるんだ」
「あの窓際の空席が、埋まるってことだよ、若雪」
 補足した怜の言葉に、若雪は驚いた。
交通事故に遭い、今もって入院し、欠席を続けている成瀬荒太(なるせこうた)という名のクラスメート。
彼が、―――――嵐だったのか。
 若雪が自ら命を絶つ前に、理の姫に尋ねたことも、今剣護に尋ねたことと同じだった。水臣の言うように、神の位を得たとして、嵐とまた出会うことが出来るかどうか―――――――。
 答えは「否」だった。
 神と人とは本来交わることの出来ない存在。
 神となってしまえば、もう嵐と話すことも、触れることも出来なくなる。
 だから決めた。
 人としての転生を重ねながら生きて行くと。
 人としての生を選んでも神の力を取り去ることは不可能、と理の姫は告げた。それは若雪自身の魂の成り立ちに深く根付くものだから出来ない、と。
ならば神の力を持った人間という歪な形で、今後も生き続けて行く。
 嵐と共に。
 そのように歪んだ存在では、また人の世で苦労するだろう。
異端視され、迫害されるかもしれない、とも言われた。
 ―――――それでも良い。
 理の姫に忠告めいた言葉を語りかけられた時、若雪は微笑んだ。
 それでも良い。

 〝 かくまで深き恋慕とは わが身ながらに知らざりき 〟
 
 恋慕を貫くことを、若雪は選んだ。
(何度生まれ変わっても、苦しい生になったとしても、またお逢いしたい。あの、猛る風に)
「太郎兄、次郎兄。…私、行って参ります」
 そう告げる若雪の瞳は決意の色に澄んでいた。
 こんな瞳を見せる時の若雪の決意は、誰にも阻めるものではないことを、二人の兄は良く知っていた。
怜が顔を伏せた。逆に剣護は、しっかりと若雪の顔を見つめた。
「ああ。行って、そしてまた戻って来い。今度は、俺たちは真白を待ってる。……嵐には、悪いことしたな。謝っといてくれ」
「…俺は謝らないよ。そもそも、嵐が望んだことでもあるんだ。それに―――――、結局あいつは、若雪を持ってっちゃうし」
 いつもは柔軟で冷静な怜の言葉とも思えず、剣護が可笑しそうに笑った。
「おいどうした?子供みたいだぞ、次郎」
「それはまあ、子供だよ。俺はまだ前も今も、十五までの人生しか知らないからね」
 開き直る怜に、剣護が尚も笑いながら言う。
「なあ次郎、ちゃんと見送ってやれよ。俺たちには、吹雪を招いた負い目があるだろう?若雪を引き留める権利など、本当は最初から無いんだよ」
「……解ってる。若雪。俺も、―――――お市様も待ってる。再びお前と見(まみ)える日を」
 これを聞いて、若雪は微笑んだ。懐かしげに。
「ええ。…お市どのに、よろしくお伝えください。今度は真白としてお会いします、と」
 気付いていたのか――――――。思い出すと同時に。
 怜は思った。市枝は喜ぶだろうか、悲しむだろうか。
 自分でも意識しない内に、怜は若雪の手首を掴んでいた。
 剣護はそれを見てちょっと片眉を上げたが、何も言わなかった。
「…俺には何も?」
 若雪は笑った。手首を掴んだ怜の手に、残る片方の手を優しく添える。
「次郎兄。秘密にしてたんですけど、実は私…、幼いころは太郎兄か次郎兄のお嫁さんになるんだって、思ってたんです」
 怜が目を丸くしつつ尋ねる。
「――――どちらかと言えば?」
 今度は若雪が少し目を見張り、クスリ、と笑う。少し茶目っ気の入った笑いだった。
「次郎兄でしょうか」
 怜も悪戯っぽい笑いを返した。若雪の手首から、ひどくゆっくりと手を放す。
「…そう来なくちゃね。じゃあ。――――――また、な」
「若雪、今度真白になって戻ったら、髪、伸ばせよ」
 不意に剣護が言った。剣護は前から真白に髪を伸ばさせたがっていた。そのほうが似合う、と言って譲らなかったが、実際のところはどうだったのだろう。単に、若雪の面影を追っていたのではないか。
 若雪が笑って答える。
「それは、真白に考えさせてください――――――兄様たち、大好き。お会い出来て、本当に嬉しかった。――――――本当に、本当に、嬉しかった―――――…」
 若雪の頬を新たな涙が一粒伝い落ち、彼女の身体は崩れ落ちた。
 剣護がそれを抱き留める。
 彼女の身体から金粉のような輝きが抜き出たかと思うと、それは宙を飛んで行った。
 向かう先は、矢立総合病院だろう。
 天女は去った。
 
剣護も怜も、二人揃って黙ったまま、満月の浮かぶ夜空をしばらく眺めていた。
 愛しい妹の去った夜空を。

 どのくらいそうしていたのか―――――――――。
 剣護が複雑そうな声でぼそりと呟いた。
「―――――大好きとか言われちまったぞ、若雪に。どうする?」
「そうだね。俺も驚いた。そんなこと、簡単に口に出来る娘(こ)じゃなかったよね」
「真白として十数年生きた影響か、―――――誰かさんと過ごした影響か。うあ、でも、嵐にまで同じこと言ってたら超複雑」
 それにさ、と剣護は続ける。妙に口数が多いのは、彼なりに、妹であり、大事な従兄妹であり、幼馴染でもあった存在との別れに思うところが大きいからだ。
「〝どちらかと言えば次郎兄〟って何?俺、釈然としないんだけど」
 怜が苦笑する。
「案外拘るね、太郎兄」
 不満そうな剣護に、満月を見上げながら付け加えてやった。
「慰めだろ、若雪の」
「そりゃ解ってるけど、面白くねー。あーあ、伯父さんたちは間に合わなかったな」
 そう言って真白の身体を抱え上げる剣護を見て、彼も相当シスコンだな、と怜は思った。
「ねえ、太郎兄。俺たち、十四までの若雪しか知らないんだよね」
「だな」
「それからあとの若雪は、どんな風に成長していったんだろうな」
「…嵐は知ってるだろ」
 剣護がむっつりした顔で言う。
 怜はそうだね、と頷く。
「でもちょっと悔しくない?それって」
「――――めちゃくちゃ悔しい」
「――――だね」
 結局のところ怜もシスコンなのだ。
真白と嵐が戻って来たら、嵐は、いや荒太は相当苦労するだろう。
ほんの少しだけ、怜は、良い気味だと思った。

 矢立総合病院・南棟・207号室。
「成瀬 荒太」のプレートが表示してある病室内に、若雪は佇んでいた。
 青紫の打掛姿。錫杖を右手にしている。
「…あらし、…どの………」
 自分を見ながらポロポロと、その白皙(はくせき)の頬に静かに涙をこぼす尊い人の姿を、荒太は夢見るような思いで眺めていた。ぼんやりと、半ば見惚れてもいた。
 涙を拭いてやりたいが、手が思うように動かない。
 彼は、長い眠りの間中、彼女が自分を迎えに来てくれる夢をずっと見ていた。
 そしてそれはきっといつか現実になる、と、夢の中ながらに確信していた。
 待つ時が報われる日が、やっと来たのだ。
 理の姫の、言った通りだった。
 荒太は――――嵐は今や全てを思い出していた。
 点滴の管に繋がれた彼の腕は細り頬はこけ、いかにも弱弱しかったが、若雪を見る瞳だけは綺麗に澄んでいた。
(来てくれたんやな…)
「…嵐どの……」
 自分のよく知る彼とはあまりに違う、変わり果てた姿に若雪は最初言葉が出なかった。
 顔立ちだけは、ほとんど変わらず優しげに整っていた。
(自由に空を舞う気性のこの方を、こんな境遇に追い遣ってしまっていたのか。そして、この先長い月日、儚くなるまで何も思い出さずにいるところだったなんて)
若雪はそう考えるとゾッとした。
 禊の時の終焉は、冷や汗をかくようなタイミングだった。
 もう一歩遅ければ、嵐は荒太として亡くなっていたかもしれない。
(自分一人、兄様たちの庇護下で安穏として。何と罪深い。取り返しのつかないことに、なるところだった――――――こんなものは、嵐どのの在り様ではない)
 泣きながら彼女は口を開いた。ポタリ、と青紫の打掛にもその雫は落ちる。
「………お判りですか、私です。若雪です。迎えに、参りました。…随分遅くなり、申し訳もございませんでした……。共に、堺に帰っていただけますか、嵐どの」
 涙に濡れた声で、若雪は問いかけた。
 その時、荒太の意識は消え、彼の身体からふうわり、と嵐の姿が出て来た。すっきりした色合いの上衣に、袴。優しげな顔に、勝気な瞳。
 いつも通りの、彼の姿だ。
 荒太の身体から抜け出て真っ先に嵐がしたことは、若雪の頬の涙を拭うことだった。若雪は目を閉じて、されるままになっている。素手で拭うあたりが剣護と同じだ、と若雪はされながらに思った。
 どことなく憔悴(しょうすい)しては見えるものの、嵐は、いつかの風の晩と同じ、当たり前の顔で当たり前のことのように若雪に答えた。
「泣くなや、若雪どの。…もう全部、終わったんやろ?桜屋敷に、俺らの家に帰ろ。俺は最初からそのつもりや」
 そう言って、改めて若雪に、その涙を拭いた手を差し出す。
 若雪は泣き笑いのような顔で、その手に自らの手を重ねた。
「白王丸、赤王丸、青王丸、赤王丸、黄王丸」
 嵐が呼ぶと、彼の式神たちが次々と姿を現した。久しぶりの主との再会に、皆千切れんばかりに尾を振っている。
「俺の魂を、若雪どのの導きに従って運べ。出来るな?」
 嵐は、今だけ神つ力を行使する若雪と違い、自力で時空を飛ぶことが出来ない。
 その命を聞くや否や、大柄な体躯の犬たちが嵐を取り囲み、中央に押し上げ乗せた。
「では、嵐どの―――――」
「ああ、帰るで」
 若雪が理の姫から借りた錫杖を一振りすると、一瞬の間に彼らは既に中空にいて、眼下に病院を見下ろしていた。

 その翌朝、前日の満月の晩に、矢立総合病院の窓の一つから五色の光が飛び出すところを見た、と言う人が何人かいた。
 けれど満月の光のもと、五色の犬に守られた大事な魂を運び、豪奢な青紫の打掛を羽織って錫杖を持った天女が、宙を歩む姿までを見た者は誰もいなかった。
 もしも目にした者がいれば、それは美しい道行を拝むことの出来た幸運な人間だったろう。
 しかしその幸運を得た者は実際には存在せず、ただ錫杖の澄んだ音だけが、彼女の歩んだあとにシャランと言う響きを残して、五色の残像と共に天に昇って行った。

吹雪となれば 第九章

吹雪となれば 第九章

若雪が、自らの命を賭して防ごうとした呪法は成ってしまったーーーーー。 嵐の絶望の先には何が待つのか。 この章で、「吹雪となれば」はほぼ完結を迎えます。近く掲載する終章は、エピローグのようなものです。 第九章の作品画像には、「夢の通い路」と名付けたビーズ作品を載せました。ピンブローチです。 内容をお読みになってもらえれば、ご納得いただけるかと思います。 「それは私の一歩で それは私の道で けれど陽の下にいる私に 静かに頭(かぶり)を振るのは 鏡の中の私」

  • 小説
  • 中編
  • ファンタジー
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-07-21

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