吹雪となれば 第八章
日本史中世戦国時代を舞台にした、ファンタジー要素ありの時代劇です。様々な研究論説を参考にしたフィクションです。よろしければお楽しみください。
逝く花
第八章 逝く花
はらり花びらと共に
去りし人
みるみると
溢(あふ)れゆく水
面影の沈む底
一
ざらざらと耳触りな笹の葉擦(はず)れが光秀の耳を打つ。
よもや秀吉があれ程の大軍で、信じられぬ速さで中国より取って帰すとは。
大きな誤算だった。
目前に立つ、自分とは親子程も年の離れた若い男の顔を、光秀は良く見知っていた。今は野良着だが、常には品の良い上衣と袴姿で信長のもと、働いていた。卑しい身分の癖に涼やかで有能で、光秀には何とも目障りで仕方無かった男。あの若雪と言う美しい女に近付こうとした時、さりげなくそれを阻んだ男。にこやかな顔の中で、目だけが笑わずに光秀を牽制(けんせい)していたことを今でも覚えている。なんと無礼な。なんと小癪(こしゃく)な。自分はただ、あの女と言葉を交わしてみたかっただけなのに。
表向きの顔は商人だが、その実の顔は――――――――――。
夜の闇に混じった、黒に近いような緑の竹藪に立つ嵐は、冷ややかな目をして光秀を見下ろしていた。嘲笑(ちょうしょう)混じりの声で、光秀を揶揄(やゆ)する。
「残念やったなぁ、光秀。所詮、秀吉とは器が違うたようや。――――俺としてはあんたを傀儡(かいらい)にする、いう手もあったんやけどな。せやかて、あんたにはでかい貸しが二、三、ある。やっぱりそっちの支払いを、きっちりしてもらうことにするわ」
錯乱状態にある光秀に、嵐の言葉は届いていない。
ただ目の前に嵐がいる、という事実だけが頭にあった。嵐下七忍を殲滅(せんめつ)する為、桜屋敷を襲撃させたことも、今や彼には忘却の彼方だ。
そう――――織田家の誇る精鋭の忍び集団・嵐下七忍。その頭目。
優秀な忍びの顔をも持つ嵐の助力があれば、命拾いすることも有り得るかもしれない。
この窮地(きゅうち)を脱することが出来るかもしれない。ここをしのげばきっと再起も不可能ではない。
都合の良過ぎるその考えに、光秀は縋(すが)りついた。
そんな光秀の思惑には御構い無しに、嵐は無造作に白刃を抜く。光秀にはそれすらも目に入っていない。とにかく命を繋ぐには、ここでこの男の力を借りねば―――――――。
「後生じゃ、助け―――――」
紺地の空と対のような濃緑の竹藪が一際大きくざわめいた。
「暑い―――――――」
嵐が、若雪の部屋の内、最も温度の低そうな隅でうだっている。
その手がはたはたと動かす団扇(うちわ)の風は、自分にではなく若雪へと向けられている。しかし、鈍色(にびいろ)の生絹(すずし)の几帳を隔てた風が、どの程度若雪に涼を運んでいるかは甚だ疑問だった。もっと若雪に近付けば良いのだが、室内で最もひんやりとした箇所を動きたくはない。自分の涼も若雪の涼もとろうと両方欲張るあまり、どちらも功を奏さないという状況を呈している。
「御自分を仰いでください、嵐どの」
献身的なのかどうか、今一つ判じかねる行動を見かねて言う若雪の額には、汗一つ浮かんでいない。白い顔は見るからに涼しげだが、若雪は明らかに暑さに体力をへずられていた。それは食欲の無さに顕著に表れている。
嵐は若雪の言葉に顔を上げる。その右頬にはまだ火傷の為の膏薬が貼ってある。最近は治りかけたその火傷がかゆいらしくて、よく右頬を掻いている。
結局嵐は観念したように、生絹の几帳を過ぎ若雪の近くに座ると、改めてはたはたと若雪に向かい団扇を動かした。―――――――若雪の涼を優先する覚悟を決めたようだ。
「本能寺の変からこっち、急に暑うなりよったさかいな。信長公の怨念ちゃうか」
「……聞けば明智様は、落ち武者狩りの百姓に襲われて落命されたとか」
若雪は言いながら嵐を見る。
本当は誰が光秀を殺害したのか。そう問いかける目つきだった。
「ああ。まあ、因果応報っちゅう奴やろ」
嵐は全く意に介さない風に答えた。気付いていないのか無視しているだけか―――――。
「―――――けど、当面は、猿やな」
「猿…、」と呟いてから若雪が応じた。
「そうですね」
本能寺の変から嵐が帰還したあと、若雪らと話し合った末、彼らは当分の間事態を静観することに決めた。斑鳩を除き堺を離れている他の七忍には、その場を動かず次なる命を下すまで待機せよ、との命令を伝えた。その際、兵庫と片郡の訃報も同時に伝えた。
明智光秀の謀反には、緻密な計画性が感じられなかった。この先天下の形勢がどう動くものか、迂闊(うかつ)に動くのは命取りになると考えられた。
要らぬ世話かとも思ったが、納屋の宗久にも、その旨を書状をもって進言しておいた。
果たして天下を手中にしたかに見えた光秀は、味方すると踏んでいた細川忠興・筒井順慶等諸将がこの予想を裏切り、羽柴秀吉の中国大返しによって、呆気なく天下人の座から転がり落ちたのであった。
主君・織田信長に謀反を起こした大悪党・明智光秀を見事討ち取った羽柴秀吉――――。
しばらくは、大義名分のもと上手く立ち回った彼が政局の主権を握ることであろう。
そよとも風の吹かない中、嵐が何の気なしに口ずさんだ。
「心しらぬ 人は何とも 言はばいへ 身をも惜まじ 名をも惜まじ」
「……信念に生きた方の歌、と見受けられますが。どなたの歌ですか?」
若雪が心動かされた様子で訊いて来た。
「明智光秀の、辞世の句やと。大層なもんやないか?どうやら歌と人柄が一致するとは、限らへんようやな」
畳に指を滑らせ、ごく僅かに付いた埃(ほこり)をふっと一吹(ひとふ)きしながら嵐が答える。眉間に皺を寄せ、掃除がなってへんな、とぶつぶつ言っている。
「…………」
なぜそれを知っているのか、とは若雪は訊かなかった。
文月に入って、市が桜屋敷を訪れた。
虫の鳴く音の聞こえる、夕暮れ時のことだった。
本能寺の変ののちも市の無事であることは確認していたものの、その姿を見るとまた改めて若雪の胸に安堵がこみ上げた。市は淡い浅葱(あさぎ)色の小袖に、滅紫(けしむらさき)の絽の打掛を纏っていた。涼しげで、加えて市にしてはやや控えめな装束だった。
「お市どの……、御無事で。息災の御様子、何よりです。このたびは…」
頬を緩ませてまず安堵を示し、次いで単衣姿のまま、両手を慎ましくついて悔やみの言葉を述べようとした若雪に、手に持った扇を振ってそれを制した。
几帳の内に、悠然と脇息にもたれる姿は以前と何ら変わりない。
「ああ、良い、良い。若雪。それよりも今日はな、鰻(うなぎ)を持って参ったのじゃ。そなたが、この暑さでやつれておるのではないかと思うての。思うた通りじゃ。志野やら嵐やらが、良きように料理してくれよう程に」
そう言って、華やかな顔に優しげな笑みを浮かべた。
嵐は遠慮して席を外している。今頃、厨で鰻と格闘しているのかもしれない。
そうして二人して虫のすだく音色にしばらく聴き入った。
若雪は真っ白な単衣のみを身に着け、半身を起こして障子戸の開け放たれた外を見遣っていた。元々清かな顔立ちの若雪である。本人はどうか解らないが、見る者の目には非常に涼しげな光景であった。
そんな若雪を見ながら市は、まこと白の似合う女子よ、と目を細めて思った。名に相応しい。
「若雪…。兄上はな、あれで良かったのよ」
市が広縁のほうに目を遣り、ぽつりと言った。若雪が市を見る。
「―――――あれで良かったのよ」
繰り返して市が言い、若雪の顔に向け、笑みの欠片らしきものを見せた。
「世の者はあれこれと、信長兄上の無念を言い立てよう。悪行の報いよと、口さがなく申す者も数多おろうて。致し方あるまい、兄上が選ばれたはそういう生き方じゃ。じゃが、周りが憶測する程には、兄上に無念の思いは薄かったであろうよ。お好きなように、生き抜かれたゆえにな……」
そうかもしれない、と若雪は思った。故人が死の直前に何を思ったかは、結局のところ本人以外には解らない。
「―――されどそなたらにはすまなんだな。あれ程の助勢を受けながら、最後の最後で報いてやることが出来なんだ。世は再び…乱世の坩堝(るつぼ)へと逆戻りじゃ」
「…………先の見えぬ、世の中でございますれば」
若雪は辛うじてこれだけ言った。自分や嵐の受けた痛手を、市が理解してくれていることが有り難かった。自らも兄を亡くした中で、自分たちの心情を察してくれることに、感謝の念を抱いた。
「のう、若雪」
「はい」
「妾は、柴田勝家に嫁ぐこととあいなった」
「―――――――」
口を開いたまま言葉の出て来ない若雪を、市は深い色の瞳で見た。
「御家中の方々に、無理を言われたのですか。よもや御本意では、ありますまい」
「誰に何を強いられた訳でもない。妾が、選んだことじゃ。知っておるか?若雪。勝家の北ノ庄は、天下に誇る名城だそうな。彼の信長兄上の、安土城にも勝ると聞くぞ」
「――――納得致しかねます」
気楽そうに、他人事のように話す市に、低い声で、若雪にしては強い口調で言った。市がどう言おうと、ゆくゆくは信長の後釜を狙う者たちの意図したことであるのは明白だった。私心の為に市を利用しようとする輩に、若雪は強い憤りを感じた。
「詮無いことよ」
市が微笑んだ。大輪の花ではなく、風に揺れる野の花のような微笑だった。
その微笑みに、若雪は何も言えなくなった。
ただ言うことを思いついた訳でもなく、お市どの、と呼びかけようとする若雪の視界が、広縁のほうから飛び込む小さな光を捉えた。淡く、小さな幽けき光。それは若雪の部屋の中で、心許無くふわりふわりと飛び回った。
「おや、蛍かえ。かような時分に」
市が意外そうな声を上げる。蛍が飛ぶには随分と遅い時節である。
若雪の部屋に飛んで来たのは、季節外れの一匹の蛍だった。
外は既に日が落ちて暗くなっており、部屋には灯がともされているが、たった一匹、迷い込んできた小さな蛍の灯は、それとは異なる情趣を部屋にもたらした。
市が、つと手を伸ばす。彼女の伸ばした白い人差し指の先に、魅かれるように小さな灯がポツリと止まった。
光っては闇に沈み、沈んではまた光る。
市の指先に繰り返される、淡い、命の明滅。
「迷い違えた小さき命よ。妾に慰めは不要ぞ?」
蛍が発する光の明滅と共に、市の華やかな顔が照らされて輝いては沈んだ。
絵のように美しく、けれどなぜか胸が締め付けられるような光景だった。
(この、痛いような切なさは)
どこから来るのだろう。
その光景を見ていた若雪は理由も無く不安を覚えたが、それを呑み込むように強いて気を鎮め、平静を装って言った。
「お市どのが虫愛ずる姫君とは存じ上げませんでした」
市がククッと笑った。
「たまにはの。妾とて、小さき命を愛でたい心持ちにもなるものじゃ。その、儚さを慈しんでやりたい思いにもなるものよ。――――そら、お行き」
市が宙の高いところに手を伸べると、淡い光は再び飛び立ち、開け放たれた障子戸の向こうへと微かな光跡を残して去った。
若雪はそれを見送り、なぜかしら胸がホッとした。
「若雪…」
灯がともるのみに戻った室内に、市の声が優しく響いた。その響きの優しさに、若雪の胸が再びざわりと騒ぐ。
「そなたはまさに雪よ、汚れ無き白よ。妾がこの現にて見(まみ)えた、唯一、清浄の華よ。されば今生にては叶わずとも、妾はその華を手に入れたい。この、手に」
熱情の籠った言葉の羅列に、若雪が目を見張る。
市の白い手が若雪に伸びる。
「お市どの…」
市がそっと若雪の片頬に手を添える。
「男であろうと女子であろうと。嵐や、他の輩と競い、争いて妾の清浄を必ずやこの手にし、共に添い遂げてみせようぞ。ゆめ忘れるな、若雪。それが妾の、来世にまでかけた願いじゃ。良いな。………忘れてくれるなよ」
市の手が添えられた若雪の頬の目から、一筋の涙が伝い落ちた。
「来世などと……………なぜそのような。今生の別れのようなことを仰るのです」
市は答えず更に深く微笑むと、若雪の涙の一粒を、含むように口づけた。小鳥が花の蜜をついばむような、そんな仕草だった。
「若雪。そなたに、これをやろう」
そう言って市が差し出したのは、彼女が常に手にしていた扇だった。
金地に、雪中に咲く大輪の牡丹が描かれている、市愛用の品だ。
「この雪洞(ぼんぼり)(扇)を、でございますか?」
「うむ。妾に近く接したことのある者は、それが妾の物と知っておる。知る者が見れば、それを持つそなたを、あだやおろそかにすることもそうはあるまいて。持っておおき」
まるで形見の品のように渡された扇を、若雪は複雑な表情で胸に抱いた。
若雪との対面ののち、市は桜屋敷にある客室の一つで、嵐を前に脇息にもたれていた。
脇息に上半身の体重を預け斜めに横座りして、足を乱暴に投げ出した市の眉は険しく顰められていた。若雪に見せていた優しげな顔とは真反対だ。嵐は黙って座している。
「……いつにもまして白い顔であった」
「…はい」
「病は、いか程に進んでおるのじゃ。腹蔵無(ふくぞうな)く申せ」
嵐は市を見た。それから、その斜め後ろの床の間にある桔梗の花を見た。
志野か蓬が活けたものだろう。
嵐は意を決した。
「―――――お市様やから、率直に申し上げます。少しずつ、せやけど確実に悪うなってます。薬が、その悪化を若干緩める役割しか出来てません」
市は険しい顔のままそれを聞いていたが、聞き終わると長い溜息を吐いた。
「延命の、呪法のほうはいかがなのじゃ」
「…密教修法による護摩法で、如来を招請した息災法を行いましたが、効果はありませんでした」
「他には」
「……同様に密教系の、大歓喜天(だいかんぎてん)による命続祈祷法も行いましたが、これも同じく、……」
「さても、修法と申すはかほど頼りなきものか。嵐。そなた、陰陽師としても有能なのではなかったのかえ。それが若雪一人救えぬとは、なんたる体(てい)たらくじゃ」
虫の音の響く中、嵐は市の勘気を甘んじて受けるようにしばらく沈黙した。
「…俺も、ここまで祈祷がなんら効果を発揮せんいうんは初めてのことなんです、お市様。特に大歓喜天の命続祈祷は、寿命の尽きた人間の延命さえこれに縋る、言う程の利益があるもんです。―――今まで何度か修してきたことがありますけど、いずれも延命は叶いました」
「では若雪に限ってはなにゆえにそれが叶わぬ」
睨みつけるようにして言う市に、嵐は大きく溜め息を吐きながら首を横に振った。
「それが解ったら苦労しませんわ」
少し黙ってから、市が、嵐を斜め下から掬い取るように見遣り、言った。
心持ち、声を潜めて。
「蘇生法……は、どうなのじゃ、嵐」
しかし嵐はこれにも首を振った。
「呪術の方面で、確たる蘇生法、いうもんは存在しません。紛いもんばっかしで信用出来る文献も無いんです。お市様。完全な死人を生き返らせる、ということは出来ひんのですよ。どんな陰陽師にも高僧にでもね。それこそ、神仏でもないと無理でしょうね」
それからまた沈黙が続いた。
ちなみに、若雪が労咳に罹ったことに兼久が関与したことは、市にも茜にも伏せてある。
言えば余計な騒動が起きることは目に見えているからだ。
「ああ、そうじゃ。嵐。妾は柴田勝家に嫁ぐぞ」
物のついでのように言った不意の市の言葉に、嵐は目を丸くしたが、納得したように頷いた。
「さよですか。…御家中の御存念ですね」
「ふん…。妾の意思で、嫁いでやるのよ」
些か痛ましい思いで言った嵐に、市は勝気な言葉で返した。
「お市様らしいですね」
笑ってしまった。この高慢な姫君の、愛すべき小気味良さだ。
思えば嵐にとって、市の第一印象は最悪だった。
初めて会った時、市が嵐にかけた第一声は、
〝これ、そこな小童(こわっぱ)。若雪のおる部屋はいずこじゃ〟
と、いうものであった。気位の高い嵐が内心憤慨したことは、言うまでも無い。
市は市で、若雪の周りをうろついている嵐が目障りだったらしい。
今となっては笑い話だ。
「のう、嵐。――――若雪を頼むぞ」
唐突に言った市に、嵐は驚いた。しかもその言葉は、宗久が嵐に言った言葉と酷似していた。何だか気付けば去り行く周囲の人間に、嵐は若雪を託されていっている気がする。嵐としては他の人間に若雪を任せるつもりなど全く無く、望むところではあった。
言われずとも、という思いである。
「そない遺命みたいなこと仰らんかて」
「遺命じゃ」
苦笑交じりの嵐の声に、ピシリと市が斬って捨てるように言った。
「嵐。今後妾がどうなろうと、少なくともそなたは、妾の今申した言葉を遺命と心得よ。若雪を守れよ。良いな?」
市が、これ以上ない程真剣な目と声で告げた。
嵐は言葉を返せず、市の面を凝視した。
すると市が、一瞬後にはその真剣さをあっさり霧散させて、思い出した、という顔で「おお、」と声を上げた。
「そうじゃ。忘れるところであったわ。嵐。〝雪に嵐では吹雪となろう。吹雪となれば、荷が重かろう〟。この言葉の意味をな、信長兄上の生前、問うてみたのじゃ。兄上は、ただこう申された。〝天女の頼みを、聴いてやったのよ〟とな」
市が去ったのち、嵐は一人自室に座り込み考えに耽っていた。
〝天女の頼みを、聴いてやったのよ〟
そう言ったと言う信長の、言葉の意味が解らない。天女―――、天女とは何だ。まさかそのままの意味でもあるまいが――――――…。
そして、若雪に対する祈祷が効かない理由も解らない―――――見当もつかない。
嵐は、若雪の病の発覚したのち、効能ありと見込まれる修法を行った。
しかし、果たしてその効果は皆無と言って良い程見受けられなかった。
これには、呪術に携わる者としても異常な事態だと感じた。
まるで天が、若雪を生かすことを拒んでいるかのような―――――――。
(天が)
天があるとしたら。
嵐は今、天を呪っていると言って良かった。
若雪の病を間近に見ながら、ずっと理不尽な思いに駆られて来たのだ。
なぜ、若雪なのか―――――――――。
自分ならばまだ解る。
嵐は、己の罪業をよく自覚した上で、生きて来た。
戦場で数多の命を奪った。それも望んで赴いた戦場だった。中には気の進まぬ戦もあったが、勤めと割り切り参戦した。
取った敵兵の首を、乗っている馬の鞍の両側にぶら下げて、戦場を駆けたことも多くある。戦場においては珍しい光景ではない。首実検に用いる為、効率良く首を運ぶ必要があるのだ。しかし、若雪などには決して見せられない姿だった。
戦の混乱の中、非道を成す兵士をそのまま見過ごしにしたこともあった。
女子供を見殺しにせざるを得ない時もあった。
自分に向けられる、助けを求める声を聴きながら。
可能な限りのことをして生きるしかないのだ、戦場では。
情に流されてしまえば、自分の命が危うくなる。
そうして、罪業を重ねた。
いつかその報いを受ける時が来るかもしれないと覚悟の上で。
だがそれが。
(なんで若雪どのなんや……!)
嵐は両手を広げて床板につけ、胡坐をかいた姿勢のまま前傾して俯いた。床を、睨みつける。
「………おかしいやろ…」
どう考えても。
血を吐いて倒れるのなら、それは自分で然るべきではないのか。
嵐には、自分の罪業を若雪が肩代わりしたように感じられてならなかった。
その上、延命はならぬと言わんばかりに祈祷は功を奏さない。天は、まるで若雪に恨みがあるかのように、彼女にばかり辛く当たっている。
今では彼女が山陰へと発ち、離れていた三年間がひどく惜しいものに思えた。
(もっと早うに、迎えに行ったら良かった)
未だ童のままの自分でも、なりふり構わずすぐに連れ戻せば、共に過ごせる時間も増えていた筈だ。
しかしあの時点で、それは有り得ない選択だった。何より若雪が、首を縦に振らなかっただろう。
そうと頭では解っていても、それでももし―――――、と思わずにいられなかった。
時間は、無尽蔵にあるものでは無いのだ―――――――――――。
必ず尽きる瞬間は来る。
生は掌から呆気なく転がり落ちて、そうして二度と戻ることは無い。
母を亡くした時でさえ、そんな当たり前のことが、幼かった自分には理解出来ていなかった。ただ亡くした事実を受け容れるのに必死で、時間が過ぎ行くことがどういうことなのか、そこまではまだ考えようともしなかった。
(今になって……ほんまに解るやなんて)
随分と手厳しい形で思い知らされるものだ。
また、嵐は呼召印を結んで咒言を唱え、若雪の未来を夢で見るという試みを、未だに諦め切れない思いで度々試していた。しかし結果はいつも同じ、若雪によく似た面差しの少女が、寝台の上、動かないまま儚くも亡くなるというものだった。
そして試しに自分の来世も夢で覗いてみた。果たして嵐の来世は、何の不足も無い、極めて穏便で充足したものだった。これには驚いた。伸び伸びと、健やかに生まれ変わった自分が生きていた。今よりもずっと自由に、周囲の万事に恵まれて。嵐は若雪の来世の夢との落差に唖然とした。
重い罪業を負った身でありながら、平穏な未来の約束された自分。
果たして罪があるのかどうかすら判然としない身で、あっさりと命が摘まれる未来が待つ若雪。まるで神仏が取り間違えたかのような、性質の悪い冗談であるかのような、二人の運命の皮肉。
それら全ての事柄に、嵐の精神は次第に追い詰められようとしていた。
長く猛るような暑さをしのぎ、月の美しい長月になった。
やっと風が涼しさを思い出したように、季節は若雪の身体に優しく接するころとなった。
若雪の食欲も少しずつ回復していた。それでも、咳き込む回数、微熱の出る日数などは呆れるような律儀さで、病は緩やかに進行することを忘れなかった。
皓々と月の照る晩、屋敷の廊下を歩いていた嵐は、美しく幽けき歌声を耳にした。
声は若雪の部屋のあたりからだった。
歌声に導かれるように足を向けると、白い単衣を着た若雪が自室前の広縁に座り、月明かりを浴びながら、童歌と思しき旋律を細く高い声で口ずさんでいた。童女のように無垢な横顔をしている。
回れば廻(めぐ)る
廻れば逢える
回る輪の内出(い)でぬなら
輪の内回ってまた逢える
雪と光は姉妹(あねいもと)
金銀砂子の見守りて
廻りを待てとや歌いけり
廻りを待てとや笑いけり
ずっと聴いていたくなるような、優しく、柔らかい声だった。
紡がれる音色は美しいが、嵐に聞き覚えは無かった。
(……輪廻転生(りんねてんしょう)を歌うた童歌か?)
今の若雪が歌うには、些か洒落にならない。
それでも体力を損なう程の歌い方ではなかったので、嵐は黙って聴き入っていた。若雪の歌声はまるで、聴く者を深く包み込み、慰撫(いぶ)するかのようだった。気付けば腕組みをして目を閉じ、全身をその旋律に委ねていた。
「嵐どの…」
気付いた若雪が歌うのを止め、旋律は途切れた。微笑を浮かべたのが気配で解った。
我に返った嵐は、歌が途切れたことを惜しいと思いつつ、彼女の微笑みに何かを許された気がした。広縁の、若雪の座るその横に、自分も無言で座る。
座った隣に、互いの体温を感じた。
生きている温もりを。
嵐は、若雪の着る単衣の奥に、彼女の微熱を持った素肌が隠されているのだと思うと、妙に落ち着かなかった。
若雪の白い肌の全てに、隅々まで、直に触れたいと思う欲望が溢れて、処置に困った。
このような欲望はたまに前触れも無く嵐を襲い、彼を悩ませていた。
流されて我を忘れないよう、嵐は下ろした腰を少しずらして、若雪から距離を空けた。
聖人君子とは程遠いことを自認する嵐だが、常に清浄な気配を纏う若雪に対して、そんな欲求を感じる自分が罪深い俗人であるように思え、気が咎めた。
「単衣を羽織らんで大丈夫か?」
重ね着してくれたら、自分への予防線にもなる。
「大丈夫です。今日は、丁度良い風の心地です」
嵐の心中など知る由も無く、そう言う若雪は実際気持ち良さげだ。言葉を証し立てるように、さらりと一陣の風が若雪の黒髪の一房を流した。
「―――今の歌はなんや?」
「ああ…」
問われた若雪が、遠い昔を懐かしむ顔をした。
「…出雲で、小さなころ、母が子守唄によく歌ってくれたものです。あのころは輪廻のことなど解りもせぬ子供でしたが…。母が、私には意味が解っていないながらも、例え母と離れることがあっても、必ずまた逢えるから、時がかかっても逢えるから、とまるで念じるように教えながら………歌ってくれたのです。けれど離れる、という言葉が死を意味するものと知るまでには、少しばかり時がかかりました」
それではその歌は、若雪の母が亡くなったのち、きっと若雪の心の慰めとなったのだろう。今生では無理でも、いつかまた逢える、と。その話は微かな痛みを嵐の胸に与えた。
「ふうん…」
「由来については母も詳しくは知らないようでした。ただ、古くから伝わる歌だとだけ言っていました」
嵐も知らない歌だった。一体、いつごろから歌い継がれて来たものだろう。
そのまま、二人は並んで月を見ていた。
「――――俺とも、また逢いたい?」
「え?」
月光の下、突然尋ねた嵐に、若雪がびっくりしたように訊き返した。
「若雪どのは、もし死に別れても、俺と、また逢いたいか?」
言葉を明確に区切りながら、嵐は再び言った。
現状でこの問いを投げかけるのは、自分にとっても若雪にとっても酷なことかもしれない、と思いながら、それでも訊いた。現に死が一歩一歩と近付きつつある若雪にとって、それは決してただの例え話では済まされないからだ。
それを聞いた若雪の顔はやや青ざめ目は悲しそうだったが、その唇には、滲むような笑みが刻まれた。
そして目を閉じ、静かに首肯した。
「――――はい。きっとまた私は色々と至らず、怒られてばかりで、嵐どのにはご迷惑をおかけするでしょうが―――――――私は、また、お逢いしたく存じます」
〝私は、また、お逢いしたく存じます〟
若雪ははっきりそう言った。
それを聴いた嵐の胸に、じわりと喜びが湧いた。
再び逢いたいと、彼女もまた思ってくれている。――――――自分と同じように。
――――――――――それが叶うか叶わないかは別として。
喜びをそうとは悟られないように、懐から何かを取り出す。
「さよか…。なら、これやるわ」
この言い方では交換条件のような渡し方だ、とそう思いながらもトン、と広縁に置いていた若雪の指先に押しやられたのは、蛤だった。
中身は訊くまでも無く、紅だろう。しかしなぜ。
「―――――そろそろ、注してくれてもええんやないかと思て。前のは―――――、もう随分時間が経ってもうたやろ?まだ使えるか判らんさかい、新しゅう買うてきたんや」
あっさり言うが、ひどく高価な買い物だった筈だ。
しかもおよそ五年もの月日が、かつて嵐に貰った紅を若雪が注すこと無く、経過していた。
それは、若雪も実は気詰りに思っていたことだった。
それらの事情を鑑みると、〝そろそろ〟という嵐の表現は非常に寛容だ。
若雪は恐る恐るその蛤を手に取る。貝殻は掌に心地良い冷たさで、以前貰った物と同じように光沢が艶やかだった。
若雪が病となってから、嵐も色々と腹が決まった。若雪が自分を縛るものになるのでは、と恐れるくらいなら、所詮自分はそこまでの男だ。枷となるかもしれないと思うなら、その枷ごとひっくるめて共に空を舞えば良いのだ。その枷が、愛しいものであればこそ、自分にはそれだけ飛翔する力があると信じて。若雪は、自分が枷となったままで良しとする女ではない。嵐の想いに想いを返し、必ずや共に羽ばたいてくれるだろう。
「あ、――――ありがとうございます。実は、あの、以前いただいた紅は、つ、使えなくなってしまっていたので………注したくとも、注せなかったのです」
真っ赤になって、若雪は珍しく口籠りながら言った。後半の声は小さ過ぎて、嵐は聴き取る為に、耳を若雪の口元近くまで寄せなければならなかった。
「―――ん?使えなくなった?」
聴き取った言葉に、嵐は怪訝な顔をする。
若雪の眉尻が、情けなさそうに下がる。
「はい…。あの、実はあの紅をいただいてから、注す日を楽しみに、時折貝の蓋を開けて紅を眺めていたのです。男装のままでは使えませんから。…そうしたら。そうしたらある日――――――……」
「………………黴(かび)が生えてた?」
「お恥ずかしい話です。まことに…、あいすみません。私の不注意で」
嵐の指摘に、若雪が小さく頷いた。申し訳なさそうに肩を竦めている。
(――――――――そういう落ちか)
度々外気にさらすことで紅に湿気が付き、黴が生えてしまったのだ。
これでは注したくとも注せない筈である。嵐にも言いにくかったことだろう。
長らく謎だったことが一つ解明され、嵐の心は少し軽くなった。自分への拒絶の思いから注さずにいた訳ではなかったのだ、ということも、猶更嵐の心を軽くした。
「そんなら、近い内紅を注したところ、見せてくれるか?」
長年待たされたのだ。ここでしっかり言質を取って置かなければならない。
こうした催促も、やっと素直に出来るようになった。
やっとだ。
「はい―――――」
月光に照らされた頬をこちらに向け、恥じらうようにしながらも、若雪はこっくりと頷いた。
二
人の心は知らず季節は移ろい、秋が過ぎ、もうすぐ本格的な冬が訪れようとしていた。
今では若雪の頬は透き通るように白く、ほんのりと朱が差して、病身ながら美しいことこの上無かった。しかしそれは病の経過をも物語るものでもあった。
「若雪様―!!」
朗らかな声を上げながら、部屋に入って来たのは嵐下七忍の内でも最年少の凛だ。まだ顔立ちはあどけなく、若木のような立ち姿の十四歳の少年だが、忍びの中でも極めて身軽な部類に属し、小刀の扱いに長けていた。今は斑鳩と共に桜屋敷の警護に就いている。
明るい気性で口数が多く、たまに嵐からうるさいと言われ、軽い拳骨を貰っていた。
「どうしました、凛」
「ほら、見てください、これ」
自らは薄着の凛が、「この部屋暖かいなあ」と言いながら若雪の掌に差し出したのは、膨らんだ桜の蕾の、二つついた小枝だった。
「まだ冬も始まったばかりだって言うのに。おかしいと思いませんか?」
そう言って、コトリと首を横に傾げてみせる。瞳にも「不思議だ」と書いてある。
神無月に桜の蕾を見るのは、確かに異様なことではある。
間近にある火鉢に目を遣りながら、若雪も確かに、と頷く。
「ええ………狂い咲きになるかもしれませんね」
狂い咲き。花が、季節外れに咲くこと。本来守られるべき、天の理からはみ出した、その在り様。有り得べからざる………。
「狂い咲き…ふうん。よく解んないけど、なんか風流な感じですね」
若雪が物思いに沈みそうになったのを、凛の邪気の無い声が破った。
その蕾を見ながら若雪は、春を越せない自分を、桜が憐れんで花を見せてくれようとしているような気がした。けれどそんな考えはもちろん気のせいでしかなく、弱気になってはいけない、と思う。
「――――凛。小枝と言えど、容易く手折るものではありませんよ。樹とて、痛みは感じるのです」
そうたしなめると凛は少ししゅんとして、しおらしく頷いた。
「はい…すみません」
元来素直なこの少年の頭を、若雪は笑みながら撫でた。
その晩のことだった。
床に横たわっていた若雪は急に咳き込んだ。
いつになく止まらない。
しばらくの間、これまでに無い激しい咳が続いた。
実際はそうでもなかったのだろうが、若雪本人にはひどく長い時間に感じられた。
(苦しい――――――)
目に、涙が滲んだ。
そうする内、コフ、と喉の奥から生温かいものが滑り出し、若雪の掌に赤い花が咲いた。
(―――――――)
その赤い色彩―――血を、目が認めた瞬間、若雪の中に押し込めていた死への恐れが、切迫したものとして感じられた。
表出する生々しい恐怖。
兄弟が。
父母が。
浮かんでいたあの血の海に。
自分も浮かぶのだ。
そう、思った。
血の花を握り締めた手が震える。
若雪の全身が、恐怖に震える。
(死が、私を捕らえに来る)
「あ……嫌。嫌だ。助けて、かあさま――――――――助けて」
夜具に俯せて震えながらか細い声で若雪が言った時。
部屋の障子戸が、開いていることに気付いた。数冊の書物を手にした嵐が、立ってこちらを見ていた。激しい咳の音は、部屋の外まで響いていたのだ。障子戸を閉め、そのまま若雪の傍近くまで音を立てずに歩いて来る。書物を几帳の後ろに置き、間近に座る。
「嵐どの………」
このような醜態を、晒したい相手ではない。むしろ一番見られたくなかった。
何とか取り繕おうと狼狽える若雪の細い手首を、嵐がぐいと掴んだ。力を籠めて掴んではいないようで、手首に痛みは無い。嵐はそのまま持っていた手拭で、ゴシゴシと若雪の掌の血を、綺麗に拭き取ってやった。赤い花は元から無かったもののように消え失せ、若雪は、つい縋るような目で嵐を見た。けれどその顔はなぜか若雪を責めるようで、両目から注がれる眼差しは痛いくらいだ。
「俺がここにおるやろ」
「え?」
「母君に助けを求めんかて、俺がここにおるやろ。…俺がなんとかしたるって、言うたやないか。俺に助けを求めればええやないか。………俺を母君の代わりとでも思えばええ」
目を逸らさないまま、嵐がそう言い切る。
「けれど…母様は、女子です」
「…そこは目を瞑れ」
「嵐どのは、男です」
「せやからそこは目を瞑れ」
「それに、――――」
「ええから目を瞑れ」
嵐の言葉の勢いに押されるまま、若雪はつい目を閉じた。
唇に、違和感があった。
カプリ、と何かに唇を覆われたような。
目を開けると、これ以上無い程間近に嵐の顔があり、そして離れた。
口づけされたのだ、と認識するまで若干の間を要した。
実際それは口づけと言うより、唇に軽く噛みつかれたようなものだったのだが、問題はそんなことではなかった。
ゴッ、と嵐の頬を若雪の拳が襲った。
「嵐どの。何ということを。何ということをなさるのです!正気ですか!?御自分まで労咳に罹るおつもりですかっ!」
若雪は、不動明王もかくやという程に怒っていた。その背中に憤怒の炎が見えるようであった。先程まで見せていた弱弱しさは、最早どこにも見受けられない。
(やっぱ、そこに怒るか…)
切れた口の端を手で拭いながら、嵐は冷静に思った。若雪は唇を奪われたことに対して怒っているのではない。労咳の身である若雪に、嵐が、その病が自らうつるような真似をしたことに対して、怒っているのだ。目前の若雪は、嵐でさえ中々に怖いと感じる迫力があった。だが後悔は無い。若雪の唇を奪ってやりたいと、自分が何年前から思い続けて来たか、若雪は知らないのだ。か細い声で、頼りない今にも泣きそうな顔で、死に怯える若雪を見たら、もう抑制が効かなかった。
例えそれが血の味の口づけであっても構わない。
欲しい、と思った。
「――――言うたよな。若雪どの」
「何をです!!」
若雪は怒りのままに問い返した。
こんな時だと言うのに、頬は激情に常よりも尚赤く色づき、怒りの籠った目は黒曜石のように艶めいた輝きを放ち、ひどく美しい。怒りが若雪を活き活きと彩っているのだ。
「あんたがおらんようになったら、俺の居場所はこの世のどこにも無うなる」
それは、兼久を嵐が殺めようとしたあとに、若雪に言った言葉だ。
その時受けた衝撃が、はっと若雪に蘇った。怒気が少し弱まる。
「まだ…、そのようなことを言っておられるのですか?私が死ねば嵐どのが生きて行けなくなるなど、そんなことはありません。あなたは、御自分が強いことを御存じの筈です。嵐どのはお一人でも空を舞える方です」
「若雪どのこそ解ってへん!!」
嵐が初めて強い声を出した。
若雪がたじろいだ。
「俺はあんたが思う程、俺自身が思う程、強うはない。あんたがおらんなった世の中を生きる自分を、よう想像出来ひんのや、若雪どの―――――」
若雪はしばらく嵐をじっと見て、小さく言った。怒りは、既に鎮まったようだった。
「約束していただけませんか、嵐どの」
「……なにを」
相手の目を貫くように見る、自分の眼の強さを、彼女自身は知っているのだろうか。
思いながら嵐は訊き返す。
その強さが、誓言(せいごん)を語る。形の良い唇から、焔(ほむら)のように熱い意思の言葉が流れ出る。
「私は、決して生を諦めず戦います。力の及ぶ限りどこまでも、死に抗うでしょう。けれど、それが叶わず世を去ることになっても――――――、嵐どのは、生き抜いてください。生きて、この乱世の果てを見届けてください」
嵐は若雪の言葉を聞いたあと、黙った。
しん、としてその場が静けさに支配された。
嵐は黙って、それから目を閉じ、緩く首を横に振って言った。
「―――それは―――――――――――――――……約束できん」
本気で思案したあとの、嵐なりに正直で誠実な返答だと解った。
だからこそ、その言葉に何か言おうとした若雪に、嵐は続けた。
「せやけど―――――――、若雪どのが、俺の嫁御になるて約束してくれるんやったら考えたってもええ」
我ながら小ずるい取引のような物言いをしている、と嵐は思う。まっとうな商人は、こんなあこぎな契約の持ちかけ方はしない。
「―――――嵐どの?」
若雪が、眉根を寄せている。求婚された女子の表情ではなかった。
ここに至るまでの流れを考えると、無理も無いかもしれない。
「なんや」
「…どうも、先程から勢いのままに物を仰ってませんか」
「まあ、こういうのは勢い半分で言わんと、いつまで経っても話が進まんしな」
少し開き直って言った。
今は病のせいでも怒りのせいでもなく、若雪の頬は紅潮していた。
それを見てもう一度口づけしたい、と嵐は思ったが、さすがに自制した。さっきの口づけは、奇襲だから成功したようなものだ。二度目を許す若雪ではない。
「…嵐どの」
呼びかける声は先程までとは一変して、おずおずとか弱かった。
「なんや」
平然と応じたように見える嵐だが、実のところ脈は普段より数倍速く打っていた。
若雪からの返答に、緊張しているのだ。
「……病が治ったら、私を、嵐どのの嫁御にしてくださいますか」
若雪の問いかけを模した返事に、その意味を呑みこんだ嵐が、心底ホッとしたような優しい笑みを浮かべた。これ程優しい嵐の笑みを、若雪は今まで見たことが無かった。
「――うん―――――――」
嵐にとって若雪の言葉は、自分への肯定だった。
一拍の間を置いて、改めてこみ上げる強い安堵感と満足感と、何より喜びを同時に噛み締めながら、嵐は、もうずっとこの遣り取りをする時を待ち望んでいた気がした。
今この瞬間、とうとうその時が来たのだ。
(どえらい長かった気いするな)
同じ屋敷に何年もの間住まい、互いに意識しつつも触れ合うことの無かった年月の、何と長かったことか。それも、専ら覚悟の定まらなかった自分が元凶ではあったのだが。
「…病が良うなったら祝言やな」
微笑みながら言う。
「約束ですよ。もし、私が病に打ち勝てずとも―――」
気の早い嵐の言い様に、若雪が不安を覚え念を押す。
「ああ、俺は一人でも生き抜く」
多分な―――――、と心の中で舌を出しながら付け加えた。
「せや。そうと決まれば、許嫁どのに、結納の品代わりの貢物でもしよか」
にこ、と笑いながらの嵐の発言に、若雪が首を傾げる。
「?」
上機嫌の嵐が、几帳の後ろから何やら書物の束を若雪の目前の畳に置く。それは、嵐がずっと若雪に渡す頃合いを見計らっていたものだった。
「六韜」と題された書物に、若雪の頬がそれまでとは違った意味で朱に染まる。
「どうやってこれを……」
嵐は勝ち誇った顔で胸をそらした。
「ふふん。蛇の道は蛇、てな。俺は商人としても有能なんやで。見直したか?」
結納の品代わりとしては甚だ色気の無い物だったが、果たして若雪の喜びようはそんな常識とは無縁のものだった。
「…いただけるのですか?」
「せやから貢物やて。…読むんは一日二冊までやぞ。内容がきつそうやしな。ほんまは一日一冊て言いたいとこやけど……」
それを聞いた目の前の若雪は、観音菩薩に対するかのように、必死に手を合わせて嵐を拝んで見せた。両の瞳は縋るような上目使いだ。先程見せた不動明王のような面影は微塵も無い。これが女子の怖いところかもしれない、嵐はそう思いつつ簡単にほだされる自分を感じていた。
(―――――めっちゃかわええ。…これは、ずるうないか)
計算された上での仕草でないところが、猶更見る者の心を突く。
「………まあ、二冊まで読んでええわ。けど無理はすなよ。あ、あと読み終わったら貸してな。俺も読みたいし」
「はい。……ありがとう、ございます」
礼を言う若雪の目は、先程とは異なる色合いできらきらと輝いている。何だか紅を渡した時以上に喜んでないかと思い、嵐は本当に少しだけだが、複雑な思いで気を悪くした。
「―――――なあ、智真」
「ああ。なんや、嵐。また書庫か?」
小雪がちらつく昼下がり、明慶寺鐘楼の近くで智真を見つけた嵐は、逃すまじ、とばかりに駆け寄った。智真はそれに対し、逃げるでもなく小首を傾げて近付いてくる嵐を眺めながら、こいつも忙しい奴やと思う。尤も、今の忙しさの目的の為には、智真とて協力を惜しむつもりは無い。だから大人しく待ってもいるのだ。
最近では、嵐は自前の蔵書に飽き足らず、明慶寺の書庫にまで足を運んでいた。
薬湯作りの他に、何か出来ることはないかと、とにかく必死なのだ。病が治った暁には若雪と夫婦になれるのだ、という希望も今の嵐を動かす原動力となっていた。
「書物やなくてもええんや。祈祷の強い助力になりそうな、呪具の類の話を聞いたら、教えてくれや」
ここは下手に出る口調で頼む。
「呪具…」
ふと智真が考え込む様子を見せた。一瞬のことだったが、嵐は見逃さなかった。
「なんや。心当たりでもあるんか」
智真が眉を軽く顰めてそんな嵐を見る。腕組みをして、どうしたものかという顔をした。
「ん……む。本来なら、秘された寺宝として他言は禁じられてるんやけどな」
つまり智真が今口に秘めている言葉は、嵐には聞かせてはならないのが本当なのだ。
「頼む。若雪どのの為や」
ちなみに、若雪と婚約を交わしたことは智真にはまだ言っていない。彼が若雪にずっと寄せる想いを知るだけに、言いにくいものがあった。気を回してのことか、智真は嵐の左頬の派手な青あざにはまるで興味の無いように振る舞った。有り難い。そう考えていたら、智真のほうから、いずれ話すことがある、と言ってきた。
「なんや。いずれって…いつや?」
「…若雪どのの、病が癒えたらな。ほんまは、もっと早うにお前と若雪どのには話すつもりやった。けど、あんなことになったさかいな………」
あんなこと、とは、兼久のことも、若雪の病のことも含んでいる。
「…………」
「嵐」
少し物思いに沈んだ嵐に、智真が呼びかけた。
「呪具のことやけど」
「おう」
智真はまだ逡巡しているようだったが、やがてそれを振り払うかのように告げた。
柔和だが理知的な印象の強い横顔が、降ってくる小雪を見ながら口を開く。息が白い。
黒よりは優しい色合いの栗色めいた髪にも、白い小雪が舞い降りている。
「明慶寺には、〝鬼封じの数珠〟と〝浄玻璃鏡(じょうはりきょう)〟言われる寺宝が二つある。この存在を知るのは、明慶寺でもごく僅かな人間や。言い換えるなら、それ程の呪具なんや」
「…へえ、成る程。俺でも聞いたこと無かったわ。どんな呪具なんや?」
「〝鬼封じの数珠〟は、名の通り、鬼の持つように強大な霊力を封じ込めている、言う水晶の数珠や。これを仲立ちにして、叶わん呪法は無いて言われとる。〝浄玻璃鏡〟は、当たり前やけど普通に言われるような、生前の悪行を映し出す冥府の鏡とはちゃう。うちにあるのは、心に思う人間の、未来がわかる、いうもんや。――――うちの和尚さんは、幼い私の奇怪な力の話をまだ聴いてしかおらんかった時、この浄玻璃鏡で、両親に手を引かれてこの寺に来る私の姿を、実際にそうなる一年前に見たて言うてはった」
智真の説明を聞いた嵐の顔が、みるみる真剣なものになった。瞳は輝きを放っている。とりわけ〝鬼封じの数珠〟は、若雪を救う上で極めて有効な物だと知れたからだ。〝浄玻璃鏡〟は自分が夢で見る未来の、正誤を判じてくれるかもしれない。
「……その二つ、持ち出すことは出来んか?」
「せやから――――、自分が何言うてるか解ってるか?――――――秘された寺宝やで?」
智真が、正気を疑う、という顔で嵐を見た。特に語尾の声は潜められた。
言いながらも周囲をきょろきょろと窺う。もしこんな話を兄弟子にでも聴かれようものなら、一大事だ。
「解っとる。自分がどんだけ無茶言うてんのかは。けど――――――他に、もう打つ手が無いんや。――――――――――………若雪どのが、血を吐いた」
真顔で告げた嵐の言葉を聞いて、智真がさっと青ざめた。
「もう、あまり時間が無い。智真。頼む」
智真は、今聞いた事実に狼狽えるような顔をしたあと、何かを決めかねるかのような沈黙の間を置いた。その間にも、小雪は天から降ってくる。
そして一度瞑った目を、決意と共に開いた。
「…――――解った。私に出来るだけのことは、やってみよう」
智真と別れて明慶寺の総門へ向かう途中、嵐は木枯らし吹く境内に見知らぬ長身の男の立ち姿を見かけた。ふ、とそちらに目が行ったのだ。風変りな格好に、一つに束ねたやたらと長い黒髪を、小雪の舞う中に靡かせている。
(女子みたいな長い黒髪――――いや、青?まさかな)
青い髪の人間など、南蛮人にも聞いたことが無い。
しかし髪を含めた風貌さえ見れば、明臣と似たような異相ではあった。
何だか、やたら冷たい瞳で見られているように思うのは気のせいか。
と、一瞬目を離した隙に男の姿は煙のように掻き消え、そこにはただ小雪だけが舞い降りていた。
そこは大和国、吉野の山中奥深く――――――。
蔦植物の絡まり繁った岩窟の入口に、嵐は立っていた。
あたりは鬱蒼とした山の真っ只中であり、まず初めて訪れる者が辿りつける場所ではない。そこここにはまっさらな雪の塊が居座り、気を抜くと足を取られ滑りそうだ。その冷たい白と共に、物騒にも髑髏(しゃれこうべ)が二、三個コロコロとあたりの地面に転がっていたりもするが、嵐は全く気にする様子もなく平然としていた。大方、盗賊あたりの成れの果てだろう。まだ冬眠前の蛇の、シュルル、と足元の草むらを這う姿が見え隠れする。嵐はそれをちらりと視界の端に捉えた。そちらのほうは、目にするなり表情をやや険しくする。
物言わぬ骨より毒蛇のほうがずっと始末に悪い。
「東山つぼみがはらのさわらびの思いを知らぬか忘れたか」
白い息を吐きながら、三度、繰り返し唱える。蛇の害を受けない為の咒言だ。
ちなみに山に入る前も、神言を唱えてある。
「三山神三魂(さんさんじんさんこん)を守り通して、山精参軍狗賓(さんせいさんぐんぐひん)去る」
山の怪異を避ける神言だ。これを山に入る前、麓で山に向かって唱えておいた。
山入りする前の基本である。
「ししょー。おししょ~。いてはりますかぁ~~」
今の嵐の装束は、若武者の旅装と言うよりは、野良着をより動きやすく、且つ多少見目良くした忍び装束に近い。ここを訪れるには、それ相応の覚悟が必要だった。
嵐が岩窟の中に向けて一歩踏み出した途端、頭上から苦無が雨あられと降ってきた。
(そら、おいでなすった)
身を縮めて地面を転がり、素早く体勢を立て直す。すると次は左右から矢が勢い良く飛んで来た。上半身を反るように仰向け、これもなんとかしのいだところで、嵐はやってられるか、とばかりに口を開いた。
「掛けまくも畏き伊邪那岐大神(いざなぎのおおかみ)筑紫の日向(ひむか)の橘の小戸(おど)の阿波岐原(あわぎはら)に御禊(みそぎ)祓え給いし時に生(な)り坐(ま)せる祓戸(はらえど)の大神等諸(おおかみたちもろもろ)の禍事(まがごと)、罪穢(つみけがれ)有らむをば祓え給い清め給えと白(もう)す事を聞食(きこしめ)せと恐(かしこ)み恐みも白す!」
祓詞(はらえことば)を口早に唱えた途端、四方八方からの攻撃はピタリと止んだ。
ざり、ざり、と足音がして、岩窟の奥から見事な白髪、白髭、白眉の、仙人のような風貌をした老人が出て来た。その痩身には薄い灰色の装束の他、飾りと言えるような物は何一つ身に着けていない清々しさだ。
それでも、只者ではない風格だけは、相対する人間に嫌でも感じさせるものがあった。
老人がにこにこと言う。
「祓詞を忘れる程には、性根は腐っておらぬようじゃな、嵐よ。山入の神言と蛇除けの咒言も怠り無く唱えた様子。まずは及第点と言ったところかの」
温和な風貌に反して、初っ端から言うことがきついのは相変わらずだ。
「御無沙汰しとります、おっしょさん。あいっかわらず、手荒い歓迎ですね。お元気そうで何よりですわ」
老人が一笑する。
「ふほ。〝こんちくしょう〟、と今心の中で付け加えたじゃろう?」
「いえいえ、決してそないなことは」
相手の顔を鏡で映したように、にこにこ笑う。
嵐に陰陽道の基礎を教えたのは、目の前の臥千上人(がせんしょうにん)だ。読心の術に秀でる、と言うより、人の思惑を推し量るのが何より得手なのだ。そしていかなる霊験をもってか、上人の有する情報は多岐にして、膨大なものであった。その身は臥していながら、千里先までも見通すと称されるゆえ、誰からともなく臥千上人と呼ばれるようになった。その為、この師匠の前に出る時は普段より一層心を平らかにすべく、嵐は心がけている。今現在考えていることももちろんのことながら、心の果ての、千里先まで読み取られることのないように。
「ま、心がけるのとそれが成るのとはまた別での」
嵐が決意した途端、それを読んで茶々を入れる。この師匠の前に、最初から円滑に話が出来た例は無かった。
「おっしょさん、ちいとそのお口を閉じてもらわんと、いっこも話が出来ませんわ。ちゃんと手土産もありますんやで。堪忍したってや」
若干辟易した笑いを浮かべながらそう言って、嵐は持参してきた瓢箪(ひょうたん)をチャポン、と揺らす。
上人がにこりと笑う。
「清酒か?」
「もちろん」
ここで「いえ、濁り酒です」とでも答えようものなら、即追い返される。悟りきった仙人のような顔をして、気難しくもあり、子供のようでもあるのが嵐の師匠だった。
「良かろう、お入り。はてさて俗世は何やら、忙しないことになっておるようじゃの。信長公の天下も、光秀公の天下も、一夜の夢か。実(げ)に儚きは、人の世よな」
サク、サク、と岩窟の奥に歩を進めながら昨今の俗世についてさらりと述べる。
一夜の夢も、儚き人の世も、この仙人のような老人の口から出る言葉ゆえの重みがある。
そしてまた、これ程山深くに住まおうと、世情には著しく通じているのだ。
導かれた岩窟の奥には、蝙蝠でも密集しているかと思いきや、乳白色の水晶で出来た卓と数個の椅子が地面から生えるように据えられてある。
天井の岩には穴が穿たれ、陽光が燦々と降り注いでいる。
薄暗い岩窟の中に注がれると一層眩しい日の光に、嵐が目を細めた。陽に温められたせいだけでもあるまいが、外の凍りつくような寒さがここでは緩み、過ごしやすいくらいの空気がまったりとたゆたうようだ。
「ふむ。もうかれこれ十五年程前の話になるか。お前を弟子とした一年は―――――。以来、お前が顔を見せるのは三度目じゃな。先だっては、若雪様が石見にて消息知れずになった時であったかの」
持参した酒を上人の持つ厚い玻璃の盃に注ぎながら、嵐は師匠が記憶をなぞらえるのを大人しく聞いていた。千里眼の持ち主、とも噂されるこの師匠が、自分の今回の来訪の目的を、知らぬ筈が無いのだ。
チ、チ、チ、と小鳥の囀る声が天から降ってくる。
その内、二羽の小鳥が穿たれた穴から岩窟内に降りて来たかと思うと、一羽がたちまち薄桃色の肩巾(ひれ)を纏ったふくよかな天女の姿と変化し、上人と嵐に酌をする。上人の使う式神だろう。嵐はまだここまで自在には式神を行使出来ない。もう一羽は瑠璃色の小鳥の姿のままで、嵐の肩にちょこりと留まった。男の常と言うか、小鳥はまあどうでも良いが、天女の酌には嵐も少しばかり相好を崩す。自らの玻璃の盃に注がれた酒を、悪くない気分で呑む。臥千上人は豊満な美女を昔から好み、そしてその点においては弟子と仲良く意見が一致していた。但し何事にも例外はある。
(若雪どのは細身やからなあ)
全体に、もう少しくらい余分に肉をつけても良いのでは、とは、実は病になる前から思っていた。口が滑って、うっかり茜に以前そんなことを言ったら、虫を見るような目で見られた。男心を理解しない奴めと思う。
訪問の本題に入る前に、そんなしょうもないことを嵐が考えていると、ふわり、ふわり、と金色の蝶が卓の周りを舞い遊び始めた。胡蝶の舞い―――――――。
どこからか、水琴窟の音色を大きくしたような、清らかで快い響きが聞こえてくる。
この冬空の下、咲いている姿も見えないのに、甘い花の香がする。
相変わらずだな、と嵐は半ば呆れながら思う。
現から隔絶された世界だ。まさに桃源郷のような――――――。本来なら、若雪の住まうに相応しいのは、このようなところであるのかもしれない。
「しかし天女自らが、お前と共に在ることを望んでおられるからな。のう?色男」
心を読んだ臥千上人の言葉に一瞬ついていけず、嵐は戸惑った。
「は…ああ…若雪どのですか。以前も、天女て言うてはりましたね。まあ、そんな風な容貌ですけどね」
上人は美女と見るとすぐに、「弁天様」だの「女神」、「天女」だのと言う癖があった。
基本的に女性賛美の老人なのだ。
「それだけではない」
「と、言わはりますと?」
上人は盃を傾けてその問いには答えなかった。
「嵐。お前、近頃面白き方々にお会いしておるの」
急にそう言われて明臣のことを思い出す。肯定しようとして、ふと止まる。
〝方々〟?
なぜ複数形なのだ。
ちらり、と真っ白な眉の下の、上人の目が動き嵐を窺う。
「ほ。気付いておらなんだか。まだまだじゃのう。で、あるからにして、理の姫にお会いした際にも気付かなんだのじゃ。やれ、未熟、未熟」
白く長い髭をしごきながら上人は不肖の弟子を見遣る。
「理の姫とやらを御存じですか!?」
「陰陽道―――――…そして神仙に関わる者にとって、理の姫の存在は周知の事実じゃ。世の理の、根幹を司るお方ゆえ。……まあ、それは良い、嵐。それよりもお前な、雷神の申し子にした頼みごとじゃがの、あれは取り消せ」
そう言ってクイッと盃の酒を呑んだ。
「は?」
全てを見透かすような目で、上人は言う。
「〝鬼封じの数珠〟と〝浄玻璃鏡〟じゃ。お前がここに来たは、それらを―――…、とりわけ〝鬼封じの数珠〟を用いて若雪様の延命祈祷が成せるか否かを儂に尋ねる為じゃろう。それだけならば良い。しかし、お前は儂がその問いに否と答えし時、一体何を仕出かそうと考えておる?」
臥千上人はそこでギロリ、と嵐を睨んだ。
「〝運命違(さだめたが)えの法〟―――――――それについてこの儂に訊こうと、しておるのではないか」
嵐の肩がピクリと揺れ、張り詰めた空気に小鳥がパタパタと飛び立つ。
「言わでも解っておろうが――――外法中の、外法じゃな。儂の千里眼が、そこまでは見抜かぬと思うたかよ。侮るな若造」
嵐はぐ、と奥歯を食いしばった。
(さすが千里眼の臥千――――――)
冷徹な目をして、上人は嵐に告げた。
「帰るが良い。外法に手を出そうと考える輩など、最早弟子でも何でもないわ」
「これは貰っておく」とちゃっかり瓢箪を傍に引き寄せ、再び盃の酒をあおりながら、しっ、しっ、と手で嵐を追い遣ろうとする。
上人の軽くあしらうような態度に、嵐はカッとした。
「なんであかんのです!若雪どのが、どんだけ苦境の中を生き抜いて来はったか、おっしょさんならご存知でしょう!?それが、あの若さで死病を患い、恐らく来世でも生は長うない。なんで若雪どのばかりが、そんな目に遭わなならんのです。それを変える手立てに縋ろうてする俺は、そないに滑稽ですか!?」
必死の形相で吠えるように叫ぶ嵐は、臥千上人が見たことの無い姿だった。術を教えた時はほんの童だった弟子は、上人にとっては瞬く間に大人の男になっていた。どれだけの年月を生きようと、子の成長には感慨深さを感じるものだ。
上人は目を細くした。
「………懸命に生きながら、相次ぐ災難に不運にも立ち会う者など、五万とおるぞ、嵐よ。――――――苦境を生き抜く?珍しい話でもない。尤もらしいことを抜かしおるが、お前が今しておるそれは、単に命の選り分けじゃ。えこひいきじゃよ。お前のその偏った熱が。心が。もし外法に手を出させるのであれば、その時出現する力である〝吹雪〟は恐らく禍つ力となりて、世に災いを招くのじゃ。その災いがどれ程のものか、お前に想像がついてか?」
上人は盃の縁をトントン、と人差し指の先で叩いた。
「…それを喰い止めんと、またはその力を光に満ちた神つ力として救済の道を手繰(たぐ)ろうと、動いておられる方々がおる。……されどその方々にとってさえ、お前の心の熱には手出しすること、ままならぬのじゃ。それがなにゆえかは、誰にも、神々にとて解っておらぬ。お前は、その点においては、人としては確かに異端なのじゃ」
「神が、俺の行動を止められへん―――――――?そんな阿呆な」
嵐は歪んだ笑いを浮かべた。
「けど―――――、せやったら、俺は俺の企てを全う出来る、いうことですね。神に止められんもんを、他の誰が止められよう筈も無い」
上人は、厳しさと諦観の相半ばした面持ちで口を開いた。
「嵐―――――、その前によく考えよ。お前が若雪様を救う為に、無残に毟(むし)られる命があるかもしれぬことを。若雪様は、自らの災難を避ける為に、それを望むお方か?」
「俺はまだ、延命祈祷を諦めるとは言うてません。けどおっしょさんは、若雪どのに延命祈祷が効かない理由を知ってはりますね」
唐突に、嵐が問いに対し、切り込むように問いでもって答えた。
確信を持った問いかけだった。
「………若雪様は、徒人ではないからの」
臥千上人が、それだけを小さく言った。
延命祈祷さえ効力を発揮するなら、運命違えの外法に手を出す必要も無い。けれど延命祈祷が無効となる理由を、激しく外法を非難する上人は話さない。
何かあるのだ。嵐に明かすには、都合の悪い事情が。それも、若雪に関して。
嵐はそれを問い詰めることはなかったが、揺らぎもしなかった。
「師匠。俺は、若雪どのに会った最初から、一番近うで彼女を見てきました。なんでやろな、あのお人は、いつもほんの小さい幸せしか望まへんのです」
そう語る嵐の顔は妙に寂しげで、その癖、口元には優しい笑みが仄かに浮かんでいた。その様子は、上人の心さえ僅かながら切なくせずにはいなかった。
(小さく、ただ利かん気の強い童だったお前が、そんな顔をするようになったか)
上人は改めて流れた歳月を感じた。自分も老いる筈だ。
目の前に立つのは、最早小さな童ではない。
文字通り嵐――――――激しい風の奔流のような男だ。
そして自分には、この奔流を和らげることも止めることも出来ない。
ただ流れを見守るだけだ。
「あんだけの力がありながら、昔っから、そうでした…。せやから俺はずっと、それを叶えてやりたい思うて生きてきたんです。これからも―――――共に空を、舞い続けたいんです」
例えそれが今生でなくとも。共に飛ぶことが叶わぬのなら、白雪だけでも舞えば良い。
空を―――――――――――――。
静かにそれだけを最後に言うと、嵐は桃源郷のような岩窟を、少しも未練を見せずに出て行った。
臥千上人は盃を握ったまま、静止した状態で動かなかった。
(意思は変わらぬか。……愚かな奴よ)
「愚かな奴よ………」
顔を伏せて胸中の言葉を、再び口に出して繰り返した。苦く、寂しげに。
運命違えの法を行えば、嵐とて死ぬことになる。
(師の心すら、解らぬか。弟子の死を願う人間などおるものか、馬鹿め)
「………申し訳ありませんな。理の姫様。あの馬鹿弟子には、儂の説得も、もう耳に入らぬようです。神々の面子さえ考えなければ、若雪様のことを話してやっても良かったかもしれませぬが」
ふわり、と背後に現れた高貴な存在に対して、上人は空しさを噛むような口調でそう事訳した。微かな悲しみが、その表情から漏れ出ていた。
「人の心は神の力をもってしても変えることの叶わぬことが多い。心ばかりは、私たちとて容易には踏み込めぬ領域。臥千上人、気に病まれるな」
理の姫は達観した言葉でそう告げた。
上人に、己を無力と嘆くなと、慰めるような柔らかい口調だった。
そして嵐の去った方向を眺めやりながら、凛として言った。
「私が…行く」
きっと結果は変わらないだろうけれど、それでも、と視線を落とし呟く声で付け加えた。
その晩は、輝く月さえ凍てつくような寒い夜だった。
だというのに、桜屋敷の桜は蕾が膨らみに膨らんで、今しも開花しようという在り様だ。それは、見る者に異様な印象を抱かせた。
――――――――――鼓の音が、鳴った。運命の音色が響いた。
カポン、ポンポン
ポポン、ポン…
出でよ
眠りをぬけて我のもとへ
さあ出でよ…出でよ
遠ざかり、近付き、再び遠ざかる。
外で鳴るその音色は、夜具の中横たわる嵐の耳に、なぜか確かに届いた。
誘うように。
嵐には、既に予感があった。
(来たか――――巫女よ)
嵐は夜着の小袖に胴服を羽織り、桜屋敷を出て、音の鳴るもとを追って歩いた。
草履を引っ掛けた素足が、寒さでかじかんだ。
大小路通りの十字路で、一人の老婆が嵐を待っていた。
盲目で、鹿皮を敷いた上に座り、首には長い数珠をかけ、鼓を手にし、髪は蓬髪―――――。
十余年前と、全く変わらぬ様相であった。
やはり、生きていたのだ。人の寿命としては、随分と長く生きていることになるだろう。
「また…お会いしましたな、忍びの若様」
「………?」
最初、嵐には彼女が何と言ったか解らなかった。風の鳴るような音が、夜の闇にただ響いたように感じた。
それを巫女は、嵐の表情から悟ったのだろう、今度は正しく、嵐にも解る言葉で同じ内容を繰り返した。
「…現の言葉に調節するのを、うっかり忘れていた。やはり明臣とは勝手が違うな」
そして今では嵐にも、ガラリと口調を変え、苦笑しながらそう言うこの老巫女が誰なのか、やっと解っていた。
〝明臣とは勝手が違うな〟
「理の姫様…か?―――――あんたやったんか…」
老巫女が皺だらけの顔で微笑んだ。見えない筈の目は、確かに嵐を捉えていた。
明臣の言っていた「無礼」の内容がようやく解った。
それは確かに、仮初めの姿とは言え、高位の神の胸倉を掴むのは「無礼」としか言いようが無い。水臣とやらが怒るのも道理だ。理の姫当人が根に持っていそうにないぶん、救いではあったが、嵐は胸の内で密かに反省した。
その反省には少しも興味無さそうに、彼女は嵐の目の前で変貌しようとしていた。
老巫女の姿が、するすると、呪術の解けでもしたかのように変わっていく。
皺だらけの顔が真白く滑らかになり、蓬髪は豊かに波打つ、真っ直ぐな黒髪となる。
光を宿していなかった筈の両目が、宝玉のように薄青い輝きを放つ。
姿を変じていく巫女の周りに、金の粉が眩しくもちらちらと舞う。
彼女の右手には錫杖が現れてシャランと涼やかな音を立てた。その先端をトン、と地に降ろす。衣服さえ変化し、物珍しい、けれど美しい着物となった。それは、ただなよやかに女性らしいだけの衣装ではなく、女性と男性が身に着ける衣服の、丁度中間のような雰囲気の着物だ。たおやかでありながら、中性的な美しさを湛えた面を持つ彼女に、良く似合っていた。
そうして月下に凛と立ったのは、錫杖を手にした美しい天女だった。
いや、天女と称するのが正しいのかどうか、嵐には解らない。
ただ、そう称するに相応しい、美しさと気高さであった。そして彼女はなぜか、若雪に面差しが似ていた。
嵐は、自分でも意外に思う程冷静な声を出した。
「あなたに…、訊きたいことが仰山あるんです」
理の姫が、承知している、とばかりに頷いた。
「答えよう。その為に、私はここへ来た。私は、理の姫。摂理の壁を守る神。ゆえに理(ことわり)の姫、理(り)の姫と呼ばれる者。私はあなたの問いの多くに、答えることが出来るだろう」
淡く色づいた唇が咲きほころぶように動き、嵐に答えた。
嵐は一度、深く息を吸い、そして問いを発した。
「信長公は、なんで〝吹雪となれば〟の言葉を、叔父上に伝えはったんですか。あの方は、一体何者やったんです?」
「彼は―――――信長は、巫(かんなぎ)だった。何を用立てることもなく、無作為に神の声を聴き、それを人に伝えることの出来る資質を持つ者は極めて稀。信長は、その稀なる資質の持ち主だった。自在に私たちの言葉を聞き、それを他者に語る能力を有した。貴重だが、己以外に容易に従う男ではなかったため、私たちの言うことの全てを、聞いてくれる訳でもなかった」
明臣と話した時と同じく、理解し辛い言葉が、彼女の伝えるものにはあった。けれどそこを、嵐は明臣と話した時と同様に、自分の知る言葉で推し量った。
「それゆえ頼んだ。せめてあなたたちに伝わるように。外法による悪しき吹雪が起きぬよう、密かに符牒を伝えてくれるよう。あくまで摂理の壁が許容する――――、目こぼしする範囲内で。その為に、すこしばかり彼の天下不武とやらに力も貸した。大局に影響は無い、と判断した限りであれば、それも可能ゆえ」
「なんでもっとはっきりと!外法のことや兼久どののすることを、前もって忠告してくれなかったんです!!」
嵐は怒鳴った。尊き身の彼らがそうしてくれていれば、避けられていた多くの災難があった。不幸があった。それなのに。
「それは……不可能、だったから」
ぽつりと言う理の姫は、表面上は平静に見えた。しかし言葉を紡いだ唇は微かにわななき、潤む瞳が、嵐の胸を打った。
「は?」
今、何と言った?
目の前の神が、まさか〝不可能〟と言ったか?
理の姫は、シャン…、シャン…、と錫杖を地につけながら、今立っている箇所を、円を描くようにしてゆっくりと歩いた。そうしながら、自らの気を鎮めようとしているようでもあった。そして、そのゆっくりとした歩みに合わせ、語った。
「…嵐よ。あなたにとって、神とは何だ?神は、決して万能ではない。私は花守を束ねる理の姫と呼ばれる存在だが、私自身、摂理の壁という森羅万象の柱石に縛られている身の上。摂理の壁は、私たちが物事を先んじて行うことを決して許さない。摂理の壁とは文字通り、天と地の理を正しく示し、導く巌を指す。理正しく世が動いていれば青色を発し、そうでなければ警告の赤色を放つ。……私たちに予告のみを与え、動くことは許さない彼の巌の存在の為に、私たちは容易く予測出来る哀しみや不幸に、前もって手出しすることが出来ない。ゆえに、若雪どのを救えなかった。信長を救えなかった。あなたが神と呼ぶ存在の、―――――それが実態だ」
嵐は茫然とした。信じられない。万能の、力を持つゆえに神ではないのか。それでは、何の頼み甲斐あって神を称するのか。多くの、無力な人々をそのままに捨て置きながら。
「毘沙門天やら、八幡神やら、仏も同じですか」
シャラン、という音と共に、理の姫が動きを止める。嵐を見て、首を振った。
「いや、彼らは私たちより下位の、異なる領域に属するゆえに、より自由だ。皮肉なことに。動きに多くの制約を受けるのは、摂理の壁に近しい神々。私たちは、――――――私は神々の中でも、ただ高貴と呼ばれる置き人形のようなもの」
理の姫の、美しい唇が歪む。苦痛を感じながら、無理やり微笑むかのように。
それは見る者の胸にも苦痛を与える、笑みとは言えぬ笑みだった。嵐も、ぐっと息を飲んだ。
そんな嘆きを、聴きたい訳ではなかった。若雪に似た面差しで。
「嵐よ。あなたのすることを、私たちは妨げることが出来ない。それは、臥千上人より聴いただろう。それでも、運命違えの外法を、行うか――――――?」
「……行えば、どんな禍つ力が振るわれると?」
理の姫は、宙を見据えた。その先には、嵐には夜闇しか見えない。彼女には、一体何が見えているのか。透徹とした眼差しだった。そうして、シャラリ、と錫杖の輪っかのついた上部を嵐に突きつけ、歌うように諳(そら)んじた。
「―――――火の手が人家を舐めるだろう。水が橋を押し流すだろう。地割れが村を割くだろう。津波が人里を吞むだろう。山が一つ消えるだろう。川が一つ干上がるだろう。島が一つ沈むだろう………。…―――――――そうして全てで、現の世を襲う災いは、大小合わせて百八つ。それが、吹雪が禍つ力を発揮した時に生じる災厄の真の姿」
言い終ると理の姫は静かに錫杖の先を戻した。
予想をはるかに超えた災いの予言に、嵐は言葉を失った。
「―――――必ず?」
理の姫は、軽く頭を横に振った。艶のある黒髪も、それに伴って微かに揺れる。
「いや……、いや。そうさせない為の未来を、今私たちは探っている。光の、吹雪を。それを手繰り寄せることが出来れば、或いは禍つ力は変じて神つ力となり、そうして――――…………まだ、この先は言えない」
「…ちゅうことは、俺が運命違えの呪法をやったかて、なんも災いが起きんのかもしれんのですね――――?」
「………そう聞けば、あなたは躊躇いを振り切るだろうと思った。どうしても、外法に手を出すことを、断念してはくれないのか」
悲しげな瞳を向けられたが、嵐は首肯した。
「…若雪どのに似とるあなたに言われると、ぐらりとしますね。けど、譲れんわ。俺は若雪どのに、光の未来をやりたいんです。この命と、それから俺の来世と引き換えにしても」
遠い昔、まだ若雪に警戒心と敵愾心を抱いていたころ、こんな言葉を自分の口から言う日が来るだなんて、まさか欠片も予想していなかった。
運命違えの呪法とは、畢竟、光と闇の交換。そういう呪法であった。
もとは訪れる方向に差し障りがあり、とされた際に行われる方違(かたたが)えの呪法から来たとも言うが、定かではない。
その内容とは、二人の人間の、互いの来世の運命を入れ替えるというものだ。相手の幸を自分へ、自分の災いを相手へ。その入れ替えの多くは、自らの幸福のみを願い、呪法の相手を不幸に陥れることが多い為に禁忌の外法とされた。しかも呪法が成された時点で、呪法の対象者となる二人は両者共に落命することが定められていた。そして違えられた来世へと、魂が飛ぶのだ。
但し嵐が行おうとしているのは、本来使われるこの外法とは、逆の目的を持った入れ替えである。
すなわち若雪の災いを自分へ、自分の幸を若雪へ。
神さえ他に例を知らない、相手の幸福を願う来世の入れ替え。
嵐は今、若雪の病が癒えないものならば、この呪法を若雪の為に使おうと考えているのだった。それには、大きな霊力が必要だ。智真の言っていた〝鬼封じの数珠〟は、必ず役に立つだろう。
もうこれ以上話すことは無いと、立ち去ろうとした嵐に、理の姫の呟きが聞こえた。
「なぜ…?」
嵐は振り向く。彼女は細い肩を落とし、悄然と打ちのめされているように見えた。
「私たちは、先んじて人に降りかかる災いを教えることが出来ない。防ぐこともまた出来ない。それは、私たちの罪と言えば罪だろう。責める声には、返す言葉も無い。あなたに吹雪のほぼ全貌を今語ることが出来たのは、吹雪を左右する事象のほとんどが、既に起こっているからだ。それでも語るのに、ここまでの時を要した」
語る理の姫は、まるで人間のように必死の形相をしていた。
なぜ解ってくれない?
表情はそう問いかけているように見えた。
「…けれどこれも他に例の無いこと。多くの場合、私たちは予見出来る災いを前にして、更に無力だ。だからせめて、告げるに可能な範囲で、予言し、託宣する。人に、成してはならぬことを成そうとする者あらば、思い留まれと言う。けれど聞かないのだ。聞いてくれないのだ、誰も彼もが皆。耳を貸してはくれない。…嵐。あなたのように。なぜなのだ?」
この理の姫の、哀しみの吐露を聴いた時、嵐は人と彼ら神々の力関係が、まるで逆転しているかのような錯覚を覚えた。彼らの哀願に、人は振り向かない――――――――――。
〝彼女が、大事だろう?それなら決して、人の分を超えた術などに手を出してはいけないよ〟
(明臣が言わはったのも、運命違えの法のことやったんやな)
けれど嵐には、理の姫の言葉も、明臣の言葉も届かない。
神仏に比べ、極めて無力でか弱い筈の存在である人間が、他ならぬ神に己の無力を思い知らせる。
目の前に降臨した神を、むしろ憐れむような思いで見つめ、嵐はそっと答えた。
自分に語ることの出来る、真実を。他に言い様の無い言葉で。
「………理の姫様。それは、人が、人やからです」
智真は、翌日、桜屋敷に自ら赴き、〝鬼封じの数珠〟と〝浄玻璃鏡〟を密かに持って来てくれた。
嵐の私室で、誰も近付かないよう人払いしてから、二人は件の呪具を広げた。
「…住持はご存じなんか?この二つが、今ここにあること」
数珠が入っているという桐の箱を慎重に開けながら、嵐が智真に声を潜めて尋ねた。
紫の絹の敷き詰められた桐の箱に入れられ、護符の張られた水晶の数珠は、僅かな曇りさえあるものの、箱から取り出すときらきらと光り美しかった。
「……いや。お話しようかとも思うたけど、それでもし持ち出しを禁じられたらどうもこうもならんさかい…」
嵐につられたように小声になった智真は口籠った。要するに、無断で拝借して来たのだ。
もう一方の浄玻璃鏡は、目立たぬように持ち出す為か、藍染めのくたくたになった布に包まれていた。
包みを開くと中からは、青銅鏡が出て来た。鏡の裏には青龍、白虎、朱雀、玄武の四神の浮彫が施されている。これまた慎重な手つきで手に取る。
「これが浄玻璃鏡――――――?ほんまか?」
思わず声を上げた嵐に、智真が頷く。
「そもそもは、いずこかの由緒ある古い社に奉納してあったものやそうや。――――…?嵐、どないした?」
嵐は、手にした青銅鏡が、見る間に曇るのを見た。そして智真も見守る中、鏡には一つの光景が映し出された。
それは嵐が何度も夢に見た光景――――――――。
呼召印を結び、夢に見た若雪の来世そのままだった――――――――――。
若雪とよく似た少女の、長い、寝台の上での深い眠り。そして目覚めぬままに訪れる早過ぎる死。
静かに流れた光景に、長く、二人共言葉を発さなかった。先に口を開いたのは、茫然とした智真だった。
「…―――――嵐。今のは、何やったんや?あの、若うして亡うなったのは、………まさか、若雪どのか?」
「―――――――……」
やはりそうか、と嵐は苦く思っていた。自分が夢に見た若雪の未来は、〝浄玻璃鏡〟によって裏付けされてしまった。外れていてくれればと、願っていたものを。
嵐は智真に話した。
神霊のこと、〝吹雪となれば〟の言葉の意味するところ、理の姫の存在、摂理の壁の存在
呼召印を結び見た若雪の来世を含め――――――――。
〝運命違えの法〟に関することを除いて、全てを語ったのだ。
全てを聴いた智真は、苦しげに顔を歪めながら訊いた。
「――――なんで延命法が成らんのや?」
「…解らん。それについては、理の姫もなんも仰られんかった。臥千上人も。知っとる風ではあったけどな。せやけど、〝鬼封じの数珠〟があれば、きっと――――――――」
〝若雪様は、徒人ではないからの〟
臥千上人の言葉が一度蘇ったが、嵐はそれを振り払う。
徒人でないなら、何だと言うのだ。若雪の真の姿が例え何であれ、膨大な霊力を有すると言う〝鬼封じの数珠〟があれば、延命法も効果を表わすのではないか?嵐が、外法に手を出すことも無く――――――――。知っていた筈なのに、理の姫は、何を要らない危惧をしていたのだろう。
嵐は、智真に頷いて笑いかけた。大丈夫だ、と言うように。
しかし、延命法は成らなかった。
嵐の祈祷する段において、護符の剥がされた〝鬼封じの数珠〟は、霊力を微かにも発動させることはなかったのである。
三
「明臣」
その声を聴くたび、明臣はいつも深い水を感じる。冷たくて、あまりにも清らか過ぎるゆえに、生き物の住まうことの叶わない湖のような。
本人を表わしているよなあ、と思う。
訊かれることの予想はついていたが、しれっとした顔で彼を振り向いた。
「何?水臣」
「お前、私に何か隠していることは無いか」
水の音は、明臣に静かに問いかける。
きょと、とした顔を明臣はした。それらしい表情を作るのはお手の物だ。
「隠し事?無いよ?何のことを言ってるのさ」
「……知らぬなら良い」
「僕のことより、君――――――、勝手に現に降りたりして、一体何考えてるのさ?姫様はそのこと、御存じ無いだろう?」
水臣は、声だけでなく涼やかな眼差しで明臣を見た。
「………お前には、関わり無い。姫様にも、申し上げるな」
「ふうん。――――良いけどさ」
全くこの二人は複雑だ、と明臣は思う。
理の姫と水臣、二人が互いを好いていることは明らかだ。特に水臣のほうは、盲目、と言って良い程に理の姫に心酔し、恋情に身を捧げんばかりだ。
けれどその一点が、理の姫にも、そして傍から見ていて明臣にさえも危ういものを感じさせる。
だから吹雪に関する降臨も、理の姫は水臣には秘した。自分以外の存在に、水臣が一切の温情も容赦も成し得ないと知っているからだ。下手をすれば嵐にも若雪にも、何をするか解らない―――――――。そういう怖さが、彼にはあった。
そしてまた水臣も、理の姫の慈悲の深さを知るゆえ、その深さの結果生じるであろう障害は予め排除しようと考える。
想い合いながら、互いに相手を警戒し、秘密を隠し持っている。
(…水臣の動向に、しばらく目を光らせておく必要があるな)
明臣は思った。先の理の姫の降臨について、口止めをされるままに従い、彼は水臣に何も知らせる気は無かった。
霜月に入り、桜屋敷の桜は、緩やかにほころんでいった。
嵐は何やらそれまで以上に忙しく立ち回り、一日に一回、若雪の顔を見るとすぐまた立ち去った。口では何も言わないものの、若雪は内心寂しく感じていた。
何かの儀式の準備をしているらしいが、詳細は訊いても教えてくれなかった。
だが若雪は、思い詰めたような彼の顔が気になった。
ある夜、顔を見に部屋を訪ねて来た嵐に、若雪は思い切って訊いた。
「嵐どの……。今、一体何を考えておいでですか。何か…剣呑なお考えを抱いては、おられませぬか」
嵐は、何も言わずに若雪を見返した。
「黒羽森(くろうもり)に仰ったそうですね。自分に万一のことあらば、残る嵐下七忍を束ねよと――――――――――――。どういうことですか?」
(黒の奴―――――――――)
若雪の顰めた柳眉に、嵐は内心舌打ちする。
内密の話ゆえ、誰にも漏らすなと言っておいたのに。お蔭で若雪が要らぬ心配をしているではないか。いや、〝要らぬ〟心配、とは言えないか。
「新しい命続祈祷法の準備で今、忙しいんや。今まで以上の規模の呪法になるさかい、大根やら酒やら香油やらそれ以外にも色々と要りようでな。若雪どのが心配するようなことはあらへん。黒に、黒羽森に言ったのは、本当に万一の時の場合の話や。忍びだけが命懸けなんやない―――――陰陽師かていつでも、命懸けで呪法に臨まなあかんからな」
もちろん嵐が準備しているのは、禁断の外法・〝運命違えの法〟であった。それを行えば自分の命も無いと知った上での、黒羽森への七忍を委ねる言葉だった。
志野へも蓬へも、二人の下男へも、自分たちがいなくなったあとの支度金は用意してある。尤も彼らは、嵐たちが消えても納屋という奉公先が残っている。それは嵐を安堵させる事実だった。一旦雇ったからには、彼らの今後の身の振り方についての責任がある。
まだ、納得したとは言えない顔を若雪はしている。
白い顔の中の澄んだ瞳は、心許無い色を宿している。
溜まらず、嵐はそんな彼女を抱き締めた。
強く、強く――――――――――――。
(約束を守れへんな。堪忍―――――――――――)
「嵐どの、痛い――――――、」
身じろいだ若雪にはっとして、嵐は彼女の身体を放した。
以前の抱擁とは異なる、力の限り抱き締めた嵐に、若雪の細身が耐え切れなかった。
腕を解かれた若雪の顔は仄かに火照っていた。乱れた黒髪を、恥じらう風情で整えている。
その若雪の両腕を掴み、両目を見つめて、嵐は熱の籠った低い声で問う。
「若雪どの。紅は、―――いつ注してくれる?」
今までの時間を取り戻そうとするかのような、性急さだった。
仄赤い顔のまま、若雪は目を右に、左にしながら答える。
「……では、桜が咲いたら」
「…待っとる」
そして、桜屋敷の桜が満開を迎えた。
それは霜月のこと。狂い咲きの極致、であった。
「ほんなら、ちょう、行って来るわ。若雪どの――――」
「はい、大人しくしております」
嵐の言葉を先取りし、若雪は桜屋敷の上り框に両膝をつき微笑んだ。
普段は若雪がわざわざここまで見送りに来ることは有り得ないのだが、桜が満開に花開き、いよいよ嵐のくれた紅を注す日を迎え、小さく弾むような心持ちの若雪は、嵐を見送りに小袖を羽織り起きて来たのだった。
嵐も今日ばかりは、身体に障ると言ってそれを注意することはなかった。
「―――風花になりそうやな」
嵐が薄暗い色の空を見上げて言う。
例によって、祈祷法の為の大事な呪具を受け取りに行く、ということだった。
「帰ったら―――――」
「はい。紅を注して、嵐どのをお出迎え致します」
花のような笑顔でそう言った若雪に、嵐も「楽しみにしとるわ」、とにこやかに頷いた。
そして加えられた言葉は、自信ありげだった。
「若草の間に置いてある衣桁(いこう)に、打掛を掛けてある。良かったら、それも羽織ってくれ。
俺が見立てた。きっとあんたに良う似合う筈や」
そんな物までいつの間に用意していたのか、と若雪は目を見張った。嵐は、紅を注した若雪が着飾った姿を、余程楽しみにしているようだった。まるで嫁入り仕度を待つかのようだ。そう感じさせる程、どこかそわそわとしていた。それは嵐が、自分がこの世の最後に見られる若雪の艶姿を心待ちにしているからだったが、もちろん若雪がそれを知る由も無い。
嵐は、何気なく腰刀に手を遣った。
手に馴染む、慣れ親しんだ感触。
(………こいつとの長い付き合いも、これまでか)
そう思うと、さすがにしんみりするものがあった。
せめて最後に、名付けてやりたいという思いが湧いた。
「……若雪どの、それからこいつに、ええ加減名前をつけたってくれや。ああ、まあ、急がんけど――――、そっちも楽しみにしとるわ」
「――――はい」
そうだった。ずっと前に交わした約束を、まだ自分は果たしていない。嵐は急がないと言ってくれたけれど、長く待たせてしまっているあの美しい腰刀の名を、今日こそはつけなくては―――――――――。
若雪は嵐を送り出す笑顔の中、そう思った。
嵐の遠ざかる背中を見ながら、突然若雪は心の中で「行かないで」と声を上げた。
行かないで―――――行かないで行かないで。
もう、二度と会えはしないかもしれないのだから。
両手で口を覆い、目を見張る。
(―――――――――なぜ?)
全く脈絡の無いその思いに、若雪自身が一番驚き、彼女の胸をひどく強くざわつかせた。
部屋に戻る途中、若雪は寒風の中咲き誇る桜の大樹を見た。
(どうしてだろう――――)
やはりどう考えても、早過ぎる開花だ。花の命を、無理にねじ曲げているような印象を、若雪は受けていた。まだ風が、こんなにも冷たいのに。
(これではお前とて辛かろう)
「お前は、なぜもう咲いてしまったの?」
哀れを感じて、つい戯れに、桜に話しかけた。
無論、答えなど返る筈も無い。
しかし。
「それは、あなた様の為の早咲きゆえにございます」
水のように涼やかな声が、それに答えた。
桜が答えたのではない。
驚き、声のしたほうを見ると、若い男が立っていた。
裏山の裾野に繋がる開けた庭には、四本の桃の木の枝が立てられ、それらには注連縄(しめなわ)が張り巡らされている。注連縄には紙垂(しで)が垂れ下がり、風に靡(なび)いていた。
嵐が祈祷法の為に整えた結界だった。
その横、この寒気の中涼やかに佇む男に、若雪は見覚えがあった。
しかしそれは夢の中のことだ。随分前に見た夢だが、印象が強かったので覚えている。あれもやはり春、桜の咲くより前の季節のことだった。
思い出しながら若雪は、目の前になぜかゆっくりとひざまづく男を改めて眺めた。
彼の髪の色は、どこか青味がかっており、やはり夢と同じ風変りな着物を着ている。
「私の為―――――――?」
問いかけた若雪に男が答えた。
「はい。もう間もなく、命を終えられようとするあなた様を見送らんが為、それに間に合わせんとして、桜が急ぎ咲きましてございます」
そう言って顔を上げた男は、魅惑的な微笑を唇に刻んでいた。
魅惑的で―――――、どこか不吉な匂いのする酷薄な笑みだった。
「明臣、水臣を見なかったか?」
やや困惑気味に理の姫が明臣に尋ねて来た。
「いいえ?いないのですか?」
「そう。先刻から、姿が見当たらない…。少し、気になるのだ」
これを聞き、明臣もふと懸念する表情になった。
「僕も探ってみましょう」
「ええ…。頼む」
「…お立ちください。察するところ、神に属す方でございましょう。なにゆえそのようなお方が、私などにひざまづかれるのです」
若雪の、戸惑いの中からこぼれる言葉に、男はさらに恭しく答えた。怖いような笑みは既に収められ、思索的に整った風貌が見る者に強い印象を与える。
「それはあなた様が――――、本来ならば私などよりも高位の神であらせられる身であるゆえに。名乗りが遅れましたことを、お詫び申し上げます。私は湖より成りました神の一柱、世の摂理を司る理の姫様をお守りする花守が一、水臣と称される者でございます。この、佳き日に、雪の御方様の御尊顔を拝し奉りますこと、恐悦至極に存じます」
この大袈裟な口上に、若雪はつい笑ってしまった。
「私が神とは―――、なにゆえ左様な御冗談を仰るのです。私を、おからかいですか?」
水臣は真面目な面持ちを僅かも崩さなかった。
「そのような不敬など、致す筈も無い―――――――。あなたは、御自身を、真実人であると、徒人(ただびと)であると今までお思いでしたか?多くの付喪神に慕われ、あなたが近くにおられれば人の霊力も増幅される―――――。人を圧して有り余る文武の才、芸能の才。その、身に余るお力全てが、まことただの人間の女子によって成し得るものであるとでも?徒人には入ることの叶わぬ禁域、摂理の壁近くまでもあなたは参られた。ご自身を人ならぬ身であると、これまでに一度も疑ったことが無かったとは、よもや仰いますまい」
若雪は耳にしたことが理解出来なかった。
いや、理解は出来たが、すぐに納得出来るものではなかった。
自分を神と呼ぶなど――――――、この青年は本当はただの物狂いなのではないだろうか。狂乱して、桜屋敷の庭に迷い込んでしまったのだ。彼の話は、あまりに突拍子が無い。さては狂い咲きの桜に、彼も惑わされたか―――…。
けれど―――――――――――――。
付喪神の話は解らないが、若雪が傍にいれば霊力が増す、とは嵐も確かに以前言っていなかったか。
それに。
若雪の胸に苦いものが蘇る。
(なぜそれができる)
(なぜそれがわかる)
(恐ろしい子だ。近寄らないでくれ)
(お前のような子供など有り得ない)
幼いころより、自分を異形の者でも見るような目で見、遠ざけた大人たち。
様々な機会に自分を斬りつけた「有り得ない」という言葉。
〝若雪…。そなたのその、人の身に過ぎる程の力は、神よりの賜りものなのやもしれませんね……〟
悲しげにそう告げた母の言葉。
頑なに認めまいとしていた若雪の心から、ふ、と力が抜けた。
目を逸らすのは限界だと、解ってしまったのだ。
(なんだ…)
若雪はクスリ、と笑った。
そうか。
目の前の青年の表情は、どう見ても狂った人間のものではない。
むしろ理性に裏打ちされた怜悧さが感じられる顔だ。
そうか。
そうだったのか…………。
やはり自分は徒人ではなかったのか。
人々の畏れは、自分への疎外は、実に当然のものであったのだ。
認めてしまえば心の一部がやはり、と頷き、楽になるものはあった。
若雪は自分でひどく腑に落ちて、そして同時に孤独を感じて悲しくも思った。
(私の居場所は、最初からこの人の世のどこにも無かった――――――――――)
その時、ぐるぐると駆け巡る数々の心当たりの記憶の中、一条の光のように嵐の声が脳裏に差し込んだ。
〝当たり前や。なんで俺が、若雪どのを恐れなあかんねん〟
きっぱりと、彼はそう言ってのけたのだ。
そうだ。いつもいつも、彼は――――――――…。
(嵐どの――――――……嵐どの)
胸の中で、呼びかける。宙に向けて、届けとばかりに。
(私はやはり、人外でありました)
自分が徒人ではなかったと知っても、彼は同じことを言ってくれるだろうか。
(嵐どの――――――……)
なぜ今ここに、彼がいてくれないのだろう。
神であるこの男の瞳は、とても怖い。一人で対峙することを、恐ろしいと感じる。
容赦が無い――――――温かみが無いのだ、その薄青い瞳には。
「…―――――――」
ふ、と誰かに呼ばれたような気がして、嵐は目を上げた。
「どないしはりました?嵐さん」
「ああ…いや。それで?これが?」
「はあ。子守明神像の絵です。これは質の良い逸品ですよ、由緒ある物やと聞いとります」
小袿を着た女性が赤子を抱いた子守明神像は、〝運命違えの法〟に欠かせない物とされる。その所以は定かではない。子を授かることを願う像が、本来は宿るべきではない、運命を入れ違えての子でさえも、母胎に宿るようにと、そう導く為かもしれない。言わば術の介添えのような物か。
「ははぁ。値段がかさむ筈やな。もう少し、まからんか?」
像の描かれた絵を抜け目無い眼で検分しながら、嵐は商いの交渉に入る。
「そうですなあ…。嵐さんは、お得意さんですさかい。これでどないです?」
心得ている店の主の動かしたそろばんの目を見て、嵐は「ふむ」と声を上げ一つのそろばん玉をピン、と人差し指で弾いた。
「これで頼むわ」
嵐がに、と笑う。
「いやあ、かないませんなあ」
苦笑いしながら、店主は頭を掻いた。
「私が―――、もしも私があなたの言うような神の力を持つ者であるとして、あなたはなぜ私に会いに参られたのですか?」
若雪の黒々とした瞳には、正面から水臣の姿が映し出されている。水臣はその問いを契機に、ゆっくりと立ち上がった。
「…それを申し上げる前に―――――――、私に何かお尋ねしたいことがおありでは?」
「尋ねたいこと?」
「私はそれを、教えて差し上げることが出来ます。例えば、嵐などがあなたに遠慮して言わないことなどを―――――。これは私の、言わばせめてもの罪滅ぼしです」
罪滅ぼしと言う言葉の意味は解らなかったが、誘導するようにそう言われて、若雪はずっと問いたかった疑問を思い出した。しかしそれは、口にするには胸の痛む疑問だった。
「兄様は…、兼久兄様は、なにゆえ私を殺めたいと思い詰める程、私を憎まれていたのでしょう………」
気付けば、水臣の差し向ける通り、ほろり、とその問いを口にしていた。
それは確かに水臣の言う通り、嵐に尋ねたところではぐらかされるのが落ちの問いだった。けれど若雪には、ずっと疑問だった。兄と慕っていた兼久が、自分に殺意を抱いた理由が―――――――――。死病に罹らせんと意図した訳が。
胸に重しを載せた心地がして、思わず顔を俯けた若雪の耳に、予想だにしない答えが降ってきた。
「それは……、兼久が、あなたを慕っていたからでございます。無論、恋慕の情、という意味で」
驚きに若雪が面を上げると、水臣は少し苦々しい表情を浮かべていた。
「あれは、今にして思えばそう、神の誤算と言うべきものでありました」
(神の誤算――――――?)
「我らは、兼久が吹雪の鍵となる者と知っていた。吹雪とは、あなたの為に嵐が行う外法のせいで起きる、多大な災厄を示す符牒です。…専らの意味では、ですが。〝雪に嵐では吹雪となろう…〟。お聞き覚えがございますね。信長は、それを伝えた巫だった。兼久は茶道の中に自らの孤高の世界を見出し、やつしの美にとりつかれた男でした。そしてあなたはそのやつしの美、欠けたるがゆえの不足の美を、生きながらにして体現する者、と兼久の、―――あの男の目には映っていたのです。長い間、ずっと」
若雪には兼久の考えもまた理解出来なかった。
意表を突かれた顔になる。
(やつしの美?不足の美?――――…私の何が、そう思わせたのだろう)
「我らは、あなたを満たすべく、嵐や、市の方たちに働きかけました。それは先んじて行動を起こすことの出来ない我々に成し得る、ほんの僅かなものではありました。摂理の壁の目を盗むようにして、夢や、他の偶然を装った、力の行使。嵐たちはあなたの心の穴を少しずつ塞ぎ、兼久の言葉を借りて言うなら、満たしていきました」
虚ろにも傷ついた心が、次第に満ちて行くような感覚。充たされることの温もり。
それは、神々にも望まれたことだった――――――――。
(…いや。仕組まれただけのものではない。私が望んだことだった。私も、求めたことだった。少しで良い、普通の、幸せが欲しくて)
「あなたが満たされれば、兼久はあなたから関心を失くすと思っていました。さすれば吹雪が起こることも無い。けれど――――――――、兼久は、やつしから離れゆくあなたを憎むようになってしまった。恋着の強さは、そのままに。我らの、計算違いが引き起こした、それは悲劇でした」
若雪は何も言うことが出来なかった。立っているのがやっとだった。
今、水臣が語ったことの、全てを理解することはやはり出来ない。
だが経緯はどうあれ、自分はやはり兼久に憎まれていた。
そのことに違いは無かったのだ――――――――――。
(兼久兄様…………)
朗らかで率直な、実の兄弟だった者たちとはまた異なる、繊細な気遣いを見せる兼久を、若雪は確かに兄として慕っていたのだ。
その、兄から真に憎まれていたのだという事実は、若雪の心を改めて深く、鋭く傷つけた。胸から血が流れ出るような錯覚を覚えながら、若雪は兼久に心の内で問いかけた。
(兄様、それでは私はどうすれば良かったのですか。嵐どのや智真どの、お市どのや、茜どのたちに囲まれ親しくさせていただいた―――――――その喜びを、知らなければ許されたのでしょうか?)
人と関わらず孤独のまま。過去の痛みをいつも抱えながら。常に変わらぬ、冷えた面で。
決して溶けることのない雪のように、ずっと凍てついたままで?
―――――――――そんなことは、出来なかった。
それでは到底、自分は生きて行くことが出来なかっただろう。
結局のところ自分の望む在り様は、兼久には受け容れられなかった。水臣は神の誤算だと言った。しかし神々が関与しようがしまいが、若雪が若雪である限り、兼久が兼久である限り、いずれ兼久は若雪の存在を忌み、憎まずにいられなくなっただろう。
(詰まる所、今の在り様は私の避けられぬ運命だったということか)
茫漠(ぼうばく)とした頭で若雪はそう思った。
「我々はまた、兼久が嵐に確執の念を抱かないようにも、働きかけました。全ては吹雪を起こさない為だったのです。しかし、人の心を変えるのは、神とて容易ではない――――。
兼久は、嵐への確執とあなた様への歪んだ恋慕の念。その二つに囚われてしまったのでございます。そしてあなたは死病に罹り、……吹雪は成ろうとしてしまっている。今やその、一歩手前まで来ているのです、雪の御方様」
相次ぐ事実の発覚に、若雪は目眩を覚える程混乱していた。
吹雪の指すものが、小さくない災いであるということだけは何とか呑みこんだ。
詳細は解らないが、恐らく嵐は吹雪の何たるかを知った上で、人として成してはならない禁忌を犯そうとしている―――――。
小袖の上に更に重ねて羽織った小袖が、風に揺れた。
寒い――――――――――。
先程から、身体の芯が凍えるように寒いのだ。
それは冷たい空気のせいばかりではなく。
若雪は、自分の身体が小刻みに震えていることに気付いていない。
一度だけ唾を飲み下し、乾いてカラカラになった口の中から、若雪は言葉をひねり出した。
「嵐どのは、一体どのような外法を行うおつもりなのです」
水臣が目を細めた。その質問をこそ待っていた、とでも言うように。
「〝運命違えの法〟と、それは呼ばれています。外法の最たるものに属するゆえ、それに手を出す者はこの数百年、現れたことも無い――――――。呪法を行うその時をもってして二人の人間の、来世を入れ替えるのです。右を左へ、左を右へ…。水は火に、火は水に。属性を変えることが根幹となっている術です。すなわちあるべき魂二つを、逆の場所へと。当然、呪法が成った時点で、それら二人の人間は落命します。この場合は嵐と、雪の御方様のお二人ということになります」
「馬鹿な……」
「そう、愚かな行為です」
然り、と水臣が首肯する。
「なぜ、嵐どのは、そんなことを………?」
水臣が若雪の瞳を見つめた。その、薄青い目で。
そうして、長いこと何も言わなかった。
答えはあなたの中にある、と。そう言われているように若雪は感じた。
そしてそれは実際そうだった。
「…私の為、ですか。先程、そう仰いましたね」
水臣は一つ、瞬きをした。
「これまでにも苦行のような生を歩んで来られたあなた様の、悲しい来世を彼は知ってしまった。自らの平穏な来世と共に。彼にはそれが許せなかったのです。……この心情につきましては、些か同情の念を禁じ得ないものがありますが……」
「そ―――――――、」
それは違う、と若雪は思った。心に突然、強い風が吹いたように。
もし嵐が本当にそう考えているのだとしたら、彼はとんだ心得違いをしている。
「私は――――――、私の生は、苦行ではなかった。…それはもちろん、辛いことはあった。耐えられぬ程の苦しみも、悲しみも知った。そうして今は近付く死に怯え、恐れてもいる。けれど、決してただ不幸なだけではなかった―――――…そう、不運では、あったかもしれないけれど。それでも大事と思う人たちと、触れ合うことが出来、彼らの幸を祈ることが出来た。嵐どのにも会えた―――――」
(あなたに逢えた―――――)
この胸の温もりを、熱を、今、嵐にも知らせたかった。
嵐がそれを十分には解っていないと言う事実を、自分もまた迂闊にも知らずに来た。
伝える言葉は、足りていなかったのだろうか。
自分の心を表わす言葉の拙いことを、若雪は昔から自覚していた。滑らかに、自らの思いを滔々と語るような芸当は、若雪の苦手とするところだった。それでもとりわけ嵐には、思いを告げる言葉を惜しまずに、努めて今まで接して来たもりだった――――――――。
知って欲しくて。
「なのに、それなのに、何を指して私の人生を悲しいものと思われたのか。嵐どのは、私にとって御自分がどれだけ大きな存在なのか、解っておられないのです。その点のみにおいても、嵐どのは間違っておられる。御自分の尺度だけで、私の幸・不幸を測るなど」
言い募りながら若雪は悲しくなった。
嵐は十二分に、あらゆるものを若雪に与えてくれながら、それを自分では些細なものとしか捉え切れていないのだ。あれ程賢明な人が。
全てを凍らせるような冬の風が吹き、若雪の黒髪をザアッと大きく靡(なび)かせた。
嵐の作った結界の、注連縄(しめなわ)から垂れる紙垂(しで)が千切れんばかりにはためくのが、視界の隅に見える。
泳ぐ黒髪の合間から、若雪は何一つ飾らない本音を口にした。――――静かに、真実を。
「逢えただけで……共に時を過ごせただけで、私は良かったのに」
その為だけではないにしろ、今生は確かに価値あるものとなったのに。
彼にはそれも解らなかったのだろうか。伝わらなかったのだろうか?
嵐は若雪に様々な心の色をくれた。それらは鮮やかで、濁り、暗く、明るく、深く、浅く、若雪の心を彩った。だからこそ、思いもしたのだ。恩を返したい、と。出来ることなら自分の手で守ってあげたい、と。
けれど嵐は若雪のそんな思惑の、はるか上、高い空を飛んでいた。
軽々と、若雪に与え続けながら。
(嵐どの―――――きっとあなた御自身が一番、それを御存じではなかった)
そんな嵐が若雪には一層愛しく、また悲しくも愚かに思えた。
「教えてください。どうすれば、どのようにすれば、嵐どのを止めることが出来ますか?病で寿命を終えるのは、私一人で十分です。苦しい来世が待っていようと、そのようなこと、今はどうでも良い。私の運命に、嵐どのが身を挺して巻き添えになる必要などありません――――――」
「それは―――――――」
水臣が唇を動かしかけた時、シャラリ、という澄んだ音色が、咎めるように大きく鳴り響いた。
「水臣っ!!」
天女の降臨だった。
四
天女の発した声は悲鳴だった。
「…―――――理の姫様…。……明臣か」
水臣が苦く呟いた言葉で、若雪は空間を割って出現した女性もまた、神であることを悟
った。そして、瞠目した。
理の姫と呼ばれた神が水臣と同じく、若雪にひざまづいたからである。水臣が敬称で呼んだことから、彼女が水臣より高位の神である察しはついた。その神にさえひざまづかれる自分とは――――――――――――。思わず怯んで一歩、後ずさる。
理の姫の右手には、先程の音の主であろう、錫杖が握られている。彼女がひざまづいた動きに合わせてシャン、と鳴った。
彼女は初めの一声を放ったあと若雪にひざまづくと、肩で息をしつつも、水臣を一睨みしたのち、水臣と同様な口上を述べた。
「この、佳き日に――――――御尊顔を拝し奉り、光(こう)は嬉しく存じ上げます、雪の姉上様―――――――」
声には敬意と好意と、なぜか悲しみが宿っていた。長い黒髪が数束、一礼と共に地をかすめる。
「姉?」
若雪は怪訝さを通り越した表情で、小首を傾げた。
最早何と答えて良いのやら解らない。
自分に神の妹などいない。その筈だ。
何やら――――――――――。
何やら色々なことが、随分とおかしくなってしまっている。
若雪は笑い出してしまいそうだった。
気付けば耳に入るのは、奇怪な作り話のような語りばかり。
いつから自分は、夢物語の世界に迷い込んだ?
しかもこの夢は、吉夢と言うよりはむしろ―――――――――――。
(あらちをの かるやのさきに たつ鹿も ちがへをすれば ちがふとぞきく)
若雪はぼんやりとしながら、胸の中で縋るように夢違誦文歌(ゆめちがえじゅもんか)を詠んだ。
そうすればこの悪夢から、誰かが助け出してくれるのではないかと思った。
嵐が助けてくれるのではないかと、そう思った。
けれど彼らの話では、助けが必要なのはどうやら自分ではなく、嵐のほうだ。
(―――――そうなのか。……ならば、お助けしよう。今度こそ私が、嵐どのを)
若雪は、そこだけは得心する気持ちでそう思った。水臣の語るところでは、今の嵐の先には深い闇が待ち構えているような気がする。
けれど若雪は、そうではなく。闇ではなくて。
(光の未来を)
嵐にあげたい。
幸せになって欲しい。
それが無理ならせめて、絶望や不幸からは隔たったところにいて欲しい。
(知らなかったな…)
若雪は自分の胸の底から、滾滾(こんこん)と湧き出る泉のような想いがあることを感じていた。
自分は嵐に関わることなら、こんなにも貪欲になれるのだ。
(常に助力をいただいてきた嵐どのを、今度は私がお救いせねば。その為に出来ることは、きっと全て、成し遂げて見せよう………………)
若雪の双眼に、強い光が生まれた。
理の姫は挨拶の口上を述べたあと、流れるような動きで立ち上がると、そんな若雪の思惑を読み取るように、彼女をその薄青い瞳でじっと見ていた。親しみの籠った、労わりある眼差しだった。反対に水臣は氷のような眼で二人を見ていた。
理の姫は、それから若雪の瞳にそれまでに無い光が宿るのを見て取った。若雪の考えが一段落した頃を見計らい、彼女は自らと、若雪の知られざる素性を美しく響く声で物語った。
「…姉上様。私は光。――――陽の光にして、月の光。大日如来とはまた別に、それらの神格化した存在にございます。あなた様は、私が慕い、自らの光を投げかけた峰の白雪であられました。惹かれずにはいられない程、それは尊い、清らな白き光でございました。私よりもお早く神の位を得られ、―――――だのになぜか、人の世に彷徨い出てしまわれた……。塵芥の中へと。よりによって、かほど清浄なる姉上様が。思えばそれが悲劇の根源でした」
「峰の、白雪」
「はい」
現れた当初からどこか悲しげな面持ちでいた理の姫が、初めて微笑した。憧れのようなものが、その微笑からは感じられた。
自分は、それ程に清らかなものから生まれたのか。けれど聴いたからと言って、すぐに実感の湧く話ではなかった。あまりに、大仰過ぎる。自分はこの手で人を殺めたこともあると言うのに。
それに―――――。
悲劇?水臣も悲劇と称した。しかしここに至って―――――悲劇とは一体何を指すのか。
家族が惨殺されたことか。自分が死病に罹ったことか。尽くした信長が死んだことか。
兵庫らの死んだことか。もしくはそれら全てと、今の、これからの嵐の在り様か――――――――。
若雪には判別がつかなかった。
「それが無ければ、摂理の壁が警告と反発を示す赤色を表わすこと無く、また、吹雪が生じる苗床さえ無く、物事も万事平穏に過ぎたでしょう」
「………平穏、に」
しかしきっと、嵐に出会うことも無く。
若雪はそうと察した。
「けれど、姉上様は人界へと迷い降り、人の蠢く渦中に混じってしまわれました。お恥ずかしい。神の、天の失態にございます。私は理の姫・摂理の壁の番人となってのちもあなたをお捜し申し上げ、ついに行方の知れたその時より、見守らせていただいて参りました、ずっと。…見守ることしか、叶いませんでしたが。吹雪に関わる数々の不思議は、姉上様が関わられたゆえによるところが、大きいのでございます。私は巫女姿で、あなたにお会いしたこともあるのですよ」
若雪の頭に、初めて桜屋敷に赴いた日のことが思い出された。
(…もしやあの、盲目の老巫女が―――…?)
けれどそんなことは、もうどうでも良い、と若雪は思った。今、肝心なことはただ一つだ。
「私は……、どうすれば良い。どうすれば、嵐どのを救えるのですか」
「それは…」
言い淀んだ理の姫に代わり、水臣が口を開いた。
「簡単なことでございます」
「黙りなさい、水臣!」
理の姫の叱責をあっさりと流し、水臣が冷ややかに言った。
「外法の対象者が、いなくなること―――――――すなわち、嵐が死ぬか、あなたが御自ら命を絶たれることです、雪の御方様」
若雪は目を大きく見開いた。
(嵐どのか、私が、死ぬ――――――――――――?)
「水臣!!」
苦く、口元に笑みを浮かべながら水臣が理の姫に言った。
「外法を成そうとする嵐が、その阻止の為にみすみす死ぬ筈も無い。また雪の御方様が、嵐の死を望まれる筈も無い。嵐を死なせない以上、選べる手立ては雪の御方様の御自害しかございません。理の姫様、お解りの筈でございましょう」
「いいえ、他に」
理の姫が首を横に強く振る。
唇を噛み締め、目を険しく細めて伏せ、足元を見据えて言った。
そこに答えを求めるように。
「何か他に、手立てがきっと」
「ございません」
水臣はにべもなく言い切った。解りきったことに対して、それでも嫌だと駄々をこねる子供に対するように、少しの苦さと、笑みを含ませた声で。
「…あなた方は、神であられるのでしょう?なにゆえ、嵐どのを止めてくださらないのですか」
若雪の当然の質問に、水臣も理の姫も黙った。
「―――――私たちには、それが不可能なのです、姉上様。嵐の行動を阻むことが、出来ない。彼はなぜか、私たちの力の干渉を受け付けないのです。ゆえに……」
そのまま口を閉ざした理の姫を、若雪は信じられない思いで見た。
理の姫を庇うように、水臣が再び声を発し、話を元に戻した。
「そも、今の在り様が雪の御方様におかれては間違いなのです。神の力と資格を持った、されど人としての歪な一生を終えられたのちは、改めて神の位に封ぜられることになるでしょう。過ちが正されるだけです。雪の御方様は、正しきお姿に戻られるのです。それが今、成されるとして、何の問題がありましょうや?」
キッ、と理の姫が水臣を睨むが、水臣の苦い笑みは深まるばかりだった。
「神が神の寿命に通力で干渉すること自体が不可能なのです。だからどんな延命祈祷も効かなかった。如来にしろ歓喜天にしろ、人として生きておられるとは言え、やはり神の属と称されて然るべき雪の御方様の寿命への関与は、僭越(せんえつ)というもの。しかし運命違えの法ならば神仏の力を必要としない。ただ膨大な霊力さえあれば良い。建前として神への供物やらは用意するが、真に要るのは呪具と霊力、そして呪法の対象となる人間二人の魂のみ。主なる通力を得る為神仏の力を借りる、という手段の枠外にあるゆえに、嵐が選び取り得る唯一の呪法なのです」
そこまで言って水臣は、嫌悪感から顔を歪ませた。
「愚かにも人の生み出した、神仏に頼ることの無い、実に不遜で忌まわしい外法。それが運命違えの法。彼は止まりますまい。そうして、止まらぬとあれば必定取れる道は一つ」
静謐を象(かたど)ったような声で、水臣が断じた。その目は若雪を捉えている。
運命違えの法を行えば、若雪はおろか嵐も死に、大きな災いが世を襲う。嵐は享受する筈だった平穏な来世の代わりに悲運を背負う。若雪に代わって。
しかし呪法の成立前に若雪が死ねば、失われる命はその一つだけ。嵐の来世も安泰なまま、世を災いが襲うことも無い。
それでは今、自分が選べる最善の行動とは。
若雪は白い面を固まらせていた。
嵐を助けたい。
自分の為に、外法に手を染めようとする彼を、思い留まらせたい。
自分の為に、自らの生を投げ出そうとする嵐を救いたい。
嵐に自死など、あまりに似合わない。
この先、自分の身がどうなろうと、嵐には生を全うして欲しいのだ。
最早、病を治して二人で祝言を上げる未来が潰えたのだとしても、そんな事柄とは関係無く生き続けて欲しい。
(例え私が倒れても、と――――――――そういう、約束の筈)
けれど、約束だからと言って簡単に聞く嵐でないことは、誰より一番よく若雪が知っている。嵐は時々、嘘を吐く。それは概ね若雪にとって優しい嘘を。
運命違えの法を行うと決めた時点で、彼は若雪との約束を破る覚悟をしていたのだ。
ならば若雪が先んじて動く他無い。
(水臣どのの仰る通り、私が選べる最善の方法とは、ただ一つだ)
「………嵐どのに、重ねた借りを一遍にお返し出来る、ということですね…」
そう静かに、穏やかに言った若雪を、泣きそうな表情で理の姫が見た。
そんな天女をあやすように、優しい声で若雪が問う。
「理の姫様…一つだけ、お伺いしたいことがございます」
若草の間には、嵐の言っていた通り打掛が衣桁に掛けてあった。
それは白と紫に、金糸銀糸の織り込まれた、格調高く品のある打掛だった。
手の込んだことに、美しい青紫の竜胆の柄が浮き出ている。特に注文して誂えたのだろう。竜胆の花を若雪が好むことを、よく覚えていたものだ。嵐らしい濃やかな気遣いだった。
(高価だっただろうに……)
締まり屋の嵐が、紅にしろこの打掛にしろ、一体どれだけの大枚をはたいたのだろう。
若雪自身、御師としてはもちろんのこと、納屋においても商いに携わる身の上だった為、品の価値はおおよそ解る。だからこそ、嵐が行ったであろう散財には目を見張るものがあった。
竜胆の柄の部分を愛おしむように撫でながら思う。
まるで城に住まう高貴な姫君が、纏うような衣装だ。
自分には不相応な品に思う。
同時に竜胆の花を菊と紅と共にもらった、富田林での旅路を思い出した。
あのころはまだ、兵庫もいた。欲しい物を尋ねられ、六韜と答えた時の嵐の固まった笑顔。その話を聞いた兵庫の、遠慮の無い大笑い――――――――――。
懐かしい。
あの日々から、今では随分遠いところへ来てしまった気がする。
――――自らは不相応と感じる物であろうと、品物を見定める目の、誰より確かなことを堺中の商人に認められる嵐が求めた品だ。その確かな見立てによって、この美しい打掛が若雪に似合う、と判断して誂えてくれたのだ。そのことが、若雪はとても嬉しかった。自分のことを、これ程美しい打掛に見合う女子だと、嵐が思ってくれたということが、くすぐったいような喜びを若雪にもたらした。
若雪は今着ている小袖の上から、そっとそれを纏った。肩に落ち着くと重くて、暖かい。纏った瞬間、嵐にふわりと抱擁された気分になった。それは幸せで、悲しい感覚だった。
それから、袂に大切に仕舞っていた蛤の紅を、取り出した。
紅筆が見当たらないので、少しだけ濡らした薬指で紅を取り、唇の縁をなぞるようにして生まれて初めての紅を注す。微かに、手が震える。鏡立(かがみたて)に置いた鏡を見ながら注してはいるのだが、上手く出来ているのかどうか、自分ではよく判らない。ぎこちなく、覚束ない手つきだった。
紅を注し終えたあと、鏡に映る自分の顔は、見慣れないものだった。
(唇が、赤い―――――)
当たり前のことではあるのだが、若雪はその鮮やかな赤に戸惑った。これまでの自分の顔には縁の無い色だったからだ。どうにも恥じらう気持ちが拭い切れないのは、自分が化粧することに慣れていないせいだろう。
嵐は紅を注したこの顔を見て、綺麗だと思ってくれるだろうか。
こぼれた涙を拭う。
(嵐どの…。初めてお会いしたころから、あなたは私の中に吹く嵐でした。初めは小さかった嵐が、やがて私の中でどんどん、どんどん、大きくなって――――。私の中の嵐が大きくなるにつれ、実際あなた御自身も、軽やかでありながら強く、猛々しく荒れる、鮮やかな嵐となられた。いつのころからか、私はそんなあなたに惹かれるあまり、あなたを縛ろうとしてしまうのではないかと、自分が怖かった……。私は、自分の恋慕の情の強さに驚き慄いていました。嵐どのの恐れは、正しかったのです。…私は、今からあなたを助けに死出の旅路へと参ります。そして万一、光の吹雪となった暁にはあなたとの約束を守ります。…―――――私が自ら命を絶っても、運命違えの法は成ってしまう気がする。なぜだろう。その、確信のようなものが私にはある。なれば吹雪は光の吹雪へと、きっと理の姫が変じてくれるだろう。そののちの約定も、きっと守ってくれるだろう)
だから若雪は約束を破るのだ――――――――――約束を守る為に。
待っていて欲しい。
力の及ぶ限り、死に抗うと言った誓いは果たせないことになるけれど。
彼は怒るだろうか。悲しむだろうか。……泣くだろうか…。いずれにしろ、きっと嵐は自分を許すまい。
(…許されずとも良い)
彼の目論見を防げるならば。若雪の瞳には、固く、揺るがぬ決意の色があった。
若雪は傍らに置いた雪華を見た。自ら命を断つ得物として、慣れ親しんだこの懐剣以上の物は無いだろう。病に侵されながらあれ程に恐れた死が、不思議と今は怖くない。
「―――――――」
雪華に伸ばそうとした手が、一瞬止まる。
そのようにして使う為に渡した懐剣ではないと、亡き両親は嘆くだろうか。そんな思いがふと若雪の胸をよぎった。
嵐が子守明神像を手に戻った時、出迎えは誰もいなかった。志野も、蓬も。
桜屋敷全体に、人の気配がしない。
不思議に思いながらも若雪の姿を探して若草の間に行くと、文机に一枚の紙と、その押さえのように蛤の紅が置いてあった。
紙には流麗な筆跡で、〝飛空(ひくう)〟と書いてあった。若雪の手だ。
腰刀の銘であることにはすぐ気付いた。
白紙の上の文字を指でなぞりながら、自然と口元に笑みが浮かぶ。
良い名だ。まるで嵐の生き様そのものを表わすような。
若雪の懐剣の銘・雪華と対になっているようなところも気に入った。
衣桁から打掛が消えている。
蛤の紅を使用した形跡もある。
それでは今若雪は、清らかにして、目も綾な艶姿の筈だ。
嵐は楽しみな思いで若雪の部屋に向かった。
鮮やかな打掛のお蔭で、嵐は若雪の部屋の前庭にいる彼女の姿にすぐに気付いた。
礼節を重んじる彼女にしては極めて珍しいことに、咲き誇る桜の大樹のたもとに、もたれかかるようにして眠っている。その近くには、嵐の拵(こしら)えた結界がある。
いつの間にか天からは、風花が舞い降りて来ていた。
白いそれを目で認めた瞬間、嵐に強い焦りが生じた。
(早う起こさんと)
病が悪化する。慌てて自らも庭に降りた。大人しくしていると言ったのに、こんなところで眠りこけるなんて何をやっているんだ。志野たちも志野たちだ。若雪をこの状態で放置したままとは。打掛を羽織っているとは言え、外気に晒されて寝て良いような季節でも体調でもない。若雪を起こして暖かい場所に移動させたら、また小言をやかましく言わねばなるまい。
そんなことを一瞬にして忙しく考える。
けれど。
眠るように目を閉じた若雪の唇は美しい紅(くれない)だ。
彼女の注した初めての紅が、若雪の形の良い唇を色鮮やかに彩っている。
唇そのものが、まるで白い顔の雪原に舞い降りた、ひとひらの赤い花弁のようだった。
その唇は静かな微笑みを湛えていた。
白と紫を基調にした打掛が、思った通り、いや、思った以上に良く似合っている。
なぜか赤い色味が混じっているところが、自分の注文と異なり気に入らないが、その点を除けば文句無しの出来栄えだ。
眠る彼女の姿全てが、人ならざるもののような美しさだ。
そして彼女を飾る品々は、嵐が選び抜いて用立てたものなのだ。嵐はその事実に満足しつつ、若雪に見惚れていた。
(綺麗やな…)
今は俯いている長い睫(まつげ)が上を向き、若雪の瞳が自分を捉える瞬間を、嵐はぞくりとするような喜びと共に思い描いた。
嵐は若雪の美しさに打たれながら、厳かにも感じる思いの中で、彼女を起こそうと歩みを進めた。
「お頼み申します。もし!」
智真は桜屋敷の玄関口で首をひねった。
先程からおとないを告げているのだが、一向に誰かが出て来る様子が無い。
実は明慶寺住持に寺宝を持ち出したことが発覚し、すぐに返却させるようにと、きつく厳命されたのだ。嵐の行う呪法に必要らしいのは解っているのだが、住持の剣幕では、一旦は何が何でも寺に持ち帰らないと、ことが収まりそうになかった。
しかし幾ら待てども嵐はおろか、家人の出て来る気配が無い。
智真はなぜかふと、嵐の手から兼久の命を守る為に、兼久の邸を訪れた時のことを思い出した。あの日は、兼久が前もって奉公人に休みを取らせていた為無人だった、とのちに兼久に聞いた。嵐が来るであろうことを、予測していたからだ。
(…なんで、今になって)
あの日のことを思い出すのだろう。
確かな根拠は無いのだが、どうにも嫌な予感がする――――――――。
「……お邪魔さしてもらいます」
智真は小声でそう言うと、草鞋を脱いで桜屋敷の中にそろりと足を踏み入れた。
吹雪となれば 第八章