吹雪となれば 第七章

吹雪となれば 第七章

九藤 朋

日本史中世戦国時代を舞台にした、ファンタジー要素ありの時代劇で、様々な研究論説を参考にしたフィクションです。よろしければお楽しみください。

桜屋敷

第七章    桜屋敷

桜よおまえ
咲き誇れよ
この目(まなこ)が消えても
残酷なほど健やかな
理(ことわり)のもとに

 嵐の顔はひどく静かだった。
 身体のどこにも力みが感じられず、手にした腰刀が無ければ、いっそ和やかとさえ言える程の立ち姿だ。
 凪いだ海のような嵐の目は、これまでに智真が一度も見たことの無いものだった。
 しかしその凪ぎは、今からまさに荒れ狂わんとする海を思わせ、智真の背には戦慄(せんりつ)が走った。
 耳を打つ緩やかな雨音が、どこか遠い世界のもののようだ。
 嵐が身に纏った上衣は蘇芳の赤で、袴は墨染をやや薄めたような色合いだった。
 妙に派手なその色合わせは、返り血が飛んでも目立たないように、予め計算して選ばれたもののように智真には感じられた。ぞくり、と背中に再び嫌なものが走る。
「嵐―――――、いつから、聞いてた?」
 嵐の凪いだ瞳が智真を捉えた。
「小雨がこの家の庭に入り込んでた、っちゅうあたりくらいから。…お前がおるとは思わんかったわ」
 あっさりと答える。
 それでは話のほとんどを聴いていたも同じだ。
 気が付けば智真は、嵐から兼久を庇うように両者の間に身を割り込ませていた。
「どき、智真」
 言ったのは嵐ではなく、兼久だった。
「私は由風と話さなあかんことがある。…私に色々、訊きたいこともあるんやろ。そうやな、由風?」
 嵐は変わらぬ静かな表情で、兼久を見た。
 それから右手で懐から何かを取り出すと、無造作(むぞうさ)に畳の上に放り投げた。
 カチャン、という音を立てて畳に落ちたそれは、白い紐(ひも)で括られた二つの鍵だった。
「……嵐、これは?」
「ああ、智真は見たこと無いやろな。納屋の裏口の門の、外にかけられた錠前(じょうまえ)を開ける鍵や。叔父上が随分前に、阿波(あわ)の職人に特別に作らせた、からくり錠を開ける鍵がこれなんや。この二つの鍵を使わな、開かん仕組みになってんねや。尤もそれ以前に、普段は見えへんようになっとる錠前の鍵穴を見つける為の、面倒なこつがいるんやけど。納屋が扱う商品は手広いし、中には危険な武器の類も多い。そういう品を仕入れるとこは、あまり人目につかんほうがええ。そんな時の為の裏口なんや。その門の守りは頑丈(がんじょう)なんに越したことない。普段は外から錠前がかかっとるさかい、裏口を使うこた無い。どうしても裏口と外を出入りしたり、なんかを出し入れしたりする必要がある場合は、予め外から錠前を外(はず)しとく、ちゅう手間をかけなあかん。まあ俺なんかは、手傷でも負うてなければ裏口の塀を超えるくらい出来るけどな。裏門のからくり錠の鍵を持つ人間は、納屋でも限られとる。叔父上、俺、若雪どの、そして―――――兼久どの」
 智真が振り返って兼久の顔を見る。
 名指しされても、兼久の表情は相変わらず穏やかだ。
「これは、俺の鍵やのうて、兼久どのが小雨の亡骸(なきがら)を明慶寺で弔ったあと、住持に預けたもんや。さっき、小雨の墓を確認したあとに、借りて来た」
 それでは明慶寺に行くという言葉そのものは、偽りではなかったのだ。
 智真は思った。
 嵐はそれから少し首を傾けて兼久に尋ねた。解(げ)せない、という顔をしている。
「なあ、兼久どの。あんた俺に、殺されたかったんか?」
 兼久はじっと嵐の話を聴いていた。
 口元には笑みが浮かんでいるが、目は笑っていない。
「―――――あらかたの見当は、もうついてるんやないか。この上私に、何を訊く」
 首を傾けたまま、嵐は続けた。
「……小雨が、若雪どのに病をうつしたんやないか。そう思うた俺は、考えた。小雨は気付けば中庭にいたんやと、若雪どのは言うとった。表の入口にはいつも店の誰かがいてる。そんなら小雨は、どないして中庭まで入り込んだ?裏門を通って来たとしか思えん。なら裏門の錠前は、どないして開けた?鍵を、小雨は持ってたんや、最初から―――――――――兼久どのから渡された、鍵を。どこの鍵やと解ったとしても、たまたま拾っただけで開けられる代物(しろもん)とちゃう。開けるこつを教わらな、あの錠前の相手は無理や」
 嵐は畳の上の鍵に視線を落とし、そこに小雨がいるかのように言った。
「…小雨は頭のええ子やったんやな。七歳やそこらの子供に、なかなか理解出来る仕組みの錠前やない。よう教え込みましたね、兼久どの。…誰にも見咎められることの無いよう、錠前を開けて邸内に入り、出る時にまた錠前をかける。門の内側から錠前をかけることは出来ん。けど、錠前を開けたままにしとる間に、納屋の誰かが裏門を使おうとせん限りは、その出入りに気付かれることも無い」
 謎解きと言う程でもない、嵐にとっては簡単に行き着く答えだ。
 若雪もまた、この答えに難無く行き着いたであろう。
 行き着いて、そして、口を噤(つぐ)むことを選んだ―――――――――。
 兼久の表情も、嵐の表情も変わらない。
 表向きは、極めて穏やかに話をしているように見える。
 しかし、それは本当に表向きだけだと知る智真は、固唾(かたず)を呑(の)んで二人を見守っていた。
 嵐の左手に握られた腰刀は、いつ鞘(さや)から抜かれてもおかしくはなかった。
「明慶寺の和尚さんに、言ったそうですね。もう自分はこの鍵を使うことは無いやろうから、寺に置いといてくれと。納屋との縁を切る覚悟、いや、死ぬ覚悟が出来てたいうことですか?」
 兼久は何も言わない。口元の笑みも、そのままだ。
「――――答えろや。望み通りに、殺したるさかい」
 抑えていた嵐の、赤黒い殺気が噴出(ふんしゅつ)した。
 ただ表情だけが、変わらない。
 瞳には爛々(らんらん)とした光が宿っていた。
「あの子…小雨は、なんで私のとこに戻って来たんやろな……」
 兼久は嵐の問いには答えず、独り言のように言った。
 嵐の片眉が跳ね上がる。右手は今にも刀の柄に伸びそうだった。
「若雪のところに、行ったっきりでええて言うたんや。母親と慕う人間の傍で死んだほうが、小雨も幸せやろ。けどなんでかうちに戻ってきてそのまま寝付いて、………血を仰山(ぎょうさん)吐いて死んだ」
 嵐が刀を抜いた。
「あかん、嵐!」
「どけ」
 短く言うと、嵐は智真を加減の無い力で押し退けた。体勢を崩した智真は吹っ飛び、障子に背中から倒れ込んだ。紙が破れ、障子の桟(さん)が折れて派手な音を立てる。
「……なあ、由風。なんでや?」
 その成り行きに頓着することなく、兼久が問いかけた。
「なんでお前は、若雪を満たそうとした。…稀なるやつしの美を、壊そうとした?」
 嵐が眉を険しく顰めた。
 兼久は、何の話をしている?
「昔の若雪は、私の理想とする美をそのまま顕(あらわ)してた。心に傷を負い、頑なで、清らかで、歪(いびつ)で。痛々しい程に、美しかった。そのままの美を、ずっと保(たも)ってゆくもんやと、私は思うてた。その姿をずっと愛(め)でてゆけるもんやと。それを眺めてられるだけで、私は満足やった。――――私のものにならんでも、良かったんや。けど――――、若雪は変わった。次第に、満ちていった。……私には、それが解った。そんな若雪は望んでなかった。不足の美、欠けた美を備えた若雪を、――――お前が台無しにした。若雪を変えてしもうたんは、お前や。由風」
「―――――あんた、自分が何言うてんのか、解ってんのか?」
 兼久の言葉は、嵐には狂人の独白(どくはく)にしか聞こえなかった。
 倒れた障子戸から起き上がった智真も、唖然(あぜん)とした表情で兼久の語る声を聴いていた。
 確かに若雪は変わった。
 昔は凍てついたようにほとんど動かなかった表情が、次第に豊かになった。
 温かな湯に浸かった氷が溶けるように、喜怒哀楽が顔に滲(にじ)み出るようになり、何よりよく笑うようになった。静かだが、こぼれるような笑みを見せるようになった。
 それらの表情は常人よりは控えめだったが、明らかな変化だった。
 更に若雪は、以前よりも自分の望みを少しずつながら、口に出せるようになってもいた。
 小袖姿に戻り、茜や市と笑いながら言葉を交わす姿は、一人の若い女子そのものだった。
 兼久が口にした「満ちる」という言葉が、それらのことを言い指しているのだとしたら。
 それが、兼久には許せなかったというのか――――――――。
(話にならん…)
 歪だったのは兼久の目のほうだ。
 嵐には、兼久の身勝手な理屈としか思えなかった。
 兼久は答えずに続けた。
「若雪の変化が、私ゆえのもんならまだ許せた。けど、そうやなかった。――――――なんでや?父上の信頼も、若雪の心も、なんでお前にばかり向かう!」
 初めて、兼久が怒鳴った。
 その叫びは痛手を負った獣の叫びのように、智真の耳を打った。
(兼久どの…。あなたもまた、傷の痛みに耐えてはったんですか―――長いこと、独りで)
 癒す術(すべ)も知らぬまま、蹲(うずくま)っていた。
 なんと不器用で悲しい心か、と智真は思った。
(納屋を離れるべきやなかったんや―――――――)
 兼久自身は、恐らく納屋と距離を置くことで、自らの心の均衡(きんこう)を図ろうと試みたのだろう。けれどむしろ若雪たちから遠ざかることで、兼久は一層の孤独と狂気に苛(さいな)まれてしまった。彼が愛した孤独が、彼を追い詰めた。
 誰かが兼久を、振り向いてやらねばならなかったのだ――――――――。
「父上は、私を茶の道以外に関わらせなんだ。私には、それだけしか才が無いと見切ったからや。お前や若雪に父が寄せる信頼が、妬ましかった。お前に傾いてく若雪の心が、耐えられんかった。若雪を死に追いやって、お前が私を殺したら、父上はお前を憎むやもしれん。そう思うた。――――お前から、全てを奪うてやりたかった」
 兼久の内に籠められていた憎悪が、今、嵐に向けて剥(む)き出しになっていた。
 嵐は微動(びどう)だにしなかった。
「………せやから、若雪どのを殺そうと?…そうして俺に、殺されようとした言うんか」
「―――――麝香(じゃこう)の香りも、もう消えた……。この上、やつしの美から遠ざかる若雪を見続けるくらいなら、いっそ、私の手で壊してしもうたほうがええ………」
 兼久は微笑みながらそう言い、緩々と畳に座した。
 嵐の刃が、その身を斬るのを待つかのように。
 嵐はその姿を見て少しの間黙ったが、小さく言った。
「あんた、思い違いしとるわ」
 兼久が顔を上げる。
「……叔父上はな、俺より若雪どのより、兼久どの。あんたがいっとう大事なんや。昔っからな。せやから、俺らが関わる血生臭(ちなまぐさ)い俗事(ぞくじ)から、あんただけは遠ざけておこうとした。世相(せそう)から切り離された、静寂に満ちた茶室に押し込めることで、あんたを守ろうとしたんや。――――――――――――――賢いあんたに、なんでそれが解らんかった?」
 一瞬だけ、嵐はひどく苦しそうに顔を歪めた。
「…若雪どのについてあんたが言うてることは、俺にはよう解らん。俺が関わっても関わらんでも、若雪どのはいずれ自力で満ちていったやろう。切り開く強さを―――――元々持っとるお人や。あんたの言う通り、あんたを斬ったら叔父上は俺を許さんやろけど、俺もあんたを許せん。……若雪どのの望みはな、ただ家族を守ることやった。あの、才覚の塊(かたまり)みたいな若雪どのが望んだんは、誉(ほまれ)でも身分でも銭でも無い。…ただそれだけやったんや。信長公の為に働いて、乱世を鎮めて――…、そうやって俺らを、守ろうとしてた。そないまでして守りたい家族にはあんたかて―――」
「―――――――――兄と慕われて、何が嬉しい」
 嵐の言葉を遮るように兼久が低い声で言い捨てた言葉の意味は、嵐にも解った。
 歪んだ形ではあったが、決してまっとうとも言えないものでもあったが、兼久は確かに、若雪に狂おしい程焦がれていたのだ。

「……もうええやろ、嵐」
 ずっと二人の傍らに立っていた智真が言った。
 ひどくやるせない表情をしていた。左の目からは堪え切れなかったもののように、涙が一筋流れ落ちている。墨染の袖でぐい、とそれを拭(ぬぐ)った。
 しかし嵐は構わなかった。
「智真、見たないなら外におれ」
 智真が止める間も無く、嵐が白刃を振り上げた。
 そこに、一つの影が躍り込んだ。
 ガキンッという金属の打ちつけ合う音が鳴った。
 場違いな程、明るい火花がパッと散る。
 左右の手にそれぞれ持った鎌で、ギリギリと嵐の刀を押し戻そうとして、兵庫が歯を食いしばっていた。
「どういうことや、兵庫」
 刀に籠めた力を緩めずに嵐が険しい顔つきで問う。
「……若雪様の、命令です」
 嵐の刃を渾身の力で押し返しながら、兵庫が答えた。
 一見拮抗(きっこう)しているような力の押し合いに見えたが、実際は兵庫より細身に見える嵐のほうが優勢であることは、傍目(はため)にも明らかだった。
 嵐は冷たい目で兵庫を睨んだ。
「ほだされたか」
「―――いえ、兼久どのを嵐様が殺めれば、納屋が分裂する、と若雪様に言われました。それは嵐様の為にならないと。その理(ことわり)に、納得しただけです。あの身体で、俺が行かなければ自分が行くとまで言い張られては、動かざるを得ませんでしたしね」
「言いくるめられたな。…ええからどけ。―――お前かて、殺すぞ」
 ぎらりとした目で睨(ね)め付ける嵐の言葉は、誇張には聞こえなかった。兵庫は我知らず唾を飲む。背中をつう、と汗が流れた。それでも、鎌を握る手には渾身の力を籠めたままだ。例え殺されようと譲れない一線の上に、兵庫は今、立っていた。兵庫を怒鳴りつけた若雪の黒い瞳の輝きが、兵庫の脳裏を支配していた。
「―――――退(ひ)けません。……若雪様が、泣きますよ。あなたの為に。いいんですか」
 嵐の表情が変わった。眉が歪む。
 ギリ、という歯軋(はぎし)りの音がその唇から洩れ聞こえた。
 兵庫が全身で受け止めていた力の圧迫が、ふっと緩んだ。
 すかさず兵庫は後ずさり、兼久を後ろに庇う体勢で、再び鎌を構えた。
 嵐は追撃することをせず、暫くの間静止していた。
 その場にいる誰にとっても、永遠のように感じる沈黙の時が過ぎた。
 長い、長い沈黙ののち、誰の目も見ずに、嵐は口を開いた。
「――――俺は、絶対に諦めん。若雪どのを、必ず治してみせる。けど、それでも万一若雪どのが死ぬようなことになったら、兼久どのを殺す。今度こそ、誰にも止めさせん。止める奴に手加減する気も無い」
 そう言い放つと、一切振り返ることなくその場から立ち去った。

 嵐が去ったあと、智真は全身の力が抜けて、その場に膝をついた。
 激しい動悸はまだ治まらず、こめかみからは汗が伝い落ちている。
 当面の、最悪の危機は去ったのだ、とようやくの思いでそれだけ認識した。
 さすがに消耗した様子の兵庫が、無言でその腕を取り、支え起こす。
 そんな二人の耳に、座り込んだ兼久の声が聞こえた。
「…由風も、存外に甘いな…………」

「摂理の壁は既にして、赤色しか示さぬ」
「此(こ)はなんとしたことぞ」
「まさに。いやまさに――――なんとしたことか…」
「ことここに至っては青を取り戻すこと、最早叶うまいて」
「いや。…まだ、理の姫は諦めておられぬご様子」
「どうであろうな。―――実のところは、望み通りになったと、お思いではないのか」
「滅多なことを言うものではない」
「しかし、雪と嵐が」
「然り」
「――――――吹雪となってしまうのか」
「恐らくは」

 そして神命(しんめい)は下される。
「明臣。人界(じんかい)へと、行ってくれないか。人の世へと。あなたも、もう彼の地で現身(うつしみ)を取れるだろう。―――――嵐に、会って来て欲しい」
「はい、承知しました」
 たおやかな風情で、背を向けたまま言う彼女に明臣は答える。
 靡(なび)く黒髪が、その背を覆っている。
 上方を仰いで、呟くように彼女は続けた。
「頼む。私も、そう遠くない内に赴(おもむ)くから」
 その眼差しが向かう先を、明臣は知らない。
「―――――御自(おんみずか)ら、降りられるのですか」
「そう………。私にはそうするだけの、責(せき)がある」
 その言葉に籠る悲しみに、明臣はつい声を上げる。
「姫様に、何の罪科(つみとが)があるというのです」
 緩く、彼女は首を横に振る。解っているだろう、と言う様子だった。
「力が及ばなかった。神の身なれば、それは十分な罪悪となる筈」
「ですが」
「…明臣。あなたでも、思ったことはあるだろう。―――――なぜ、もっと早く、富が亡くなる前に救いの手を伸べなかったのかと。荒ぶる御霊となったあなたを、そうなる前に救おうとしなかったのか、と。…私に対して。また、他の神々に対して。そう思っただろう。当然だ。当然の憤りなのだ。人の、思いとして」
 その声は柔らかく、己以外の誰を責めるものでもなかった。
「―――しかしそれは、摂理の壁ゆえに―――――」
「そう。けれどまだ、それを言ってはならない。明臣。後手(ごて)にしか回ることの出来ない私たちに、変革の時が訪れるまで」
「……降臨(こうりん)は、水臣も承知のことですか」
 くるり、と彼女が初めて振り向く。悲しげに微笑んだ。濡れた花のように。
「言っていない…。だから、あなたも言わないで」
「――――はい」
 逡巡(しゅんじゅん)ののち、明臣は承諾した。

 次第に日が傾いてきた。
 冬の昼間は少しずつ、だが確実に短くなっている。
 若雪は床に半身を起こした状態で、固く両手を組んで祈っていた。
 兵庫が、智真が、嵐を止めてくれるように。
 嵐が、兼久を殺さないように。
 兵庫が指摘した通り、若雪の祈りはその大半が情から来るものであった。
 あとから加えて考えた理屈で、何とか兵庫を動かすことが出来た。兵庫の示した兼久への憤りが、若雪の為のものだということは解っていた。怒鳴りつけたことを済まないとは思うが、あの場では何としても彼を説(と)き伏(ふ)せねばならなかった。感情に理屈がついていったのは、今考えても幸いだった。ここに来て宗久と嵐が対立するのは避けるべき事態と思ったのは事実だが、若雪はただ単純に兼久の命を救いたかったのだ。
 例え、殺したい程に彼が自分を憎んでいたのだとしても―――――――。
 例えこれより先、嵐と共にいられたのかもしれない時間を奪われたのだとしても。理由の解らない兼久の自分に対する殺意に、深く傷つかずにはいられなかったけれども、それでも兼久という存在の哀しさを知っていればこそ、むざむざと殺させたくはなかった。
 障子戸が開き、閉まる音にはっとする。静かで速やかな気配だった。
 若雪の顔を見ようとせず、面を伏せた嵐がそこに立っていた。
 若雪はその着物に返り血が無いか、一瞬、その全身に忙しく目を走らせた。
 だが、着物の色合いが色合いの為、よく判別出来ない。
「――――嵐どの」
 室内に座った嵐は、若雪の固い呼びかけに顔を上げた。
 彼女の、きつく組まれた白い両手に目を遣る。
 そのまま目を逸らし、言う。
「…殺してへん」
 若雪の身体から、目に見えて力が抜けた。
 微かな安堵の吐息が嵐の怒りを刺激した。
「―――――なんで兵庫を遣した?――――納屋が分裂するとまで言うて。そこまでして、兼久を死なせたくなかったんか。自分を労咳になるよう仕組んだ奴を」
 最後の言葉は、切っ先の鋭い刃のように、改めて若雪の胸を突いた。けれど、努めてそれを感じないように自分を律し、若雪は言った。
「――――――兼久どのは、私の兄です。養父上のお子で、嵐どのの、従兄弟です」
 しかしその言い分は、嵐の怒りを助長させただけのようだった。
「それがなんや。いつまであんたはそんな繋がりにしがみついとる。身内言うたかて、一つの塊(かたまり)やない。それぞれが別個(べっこ)の人間で、それぞれの思惑で動いとる。若雪どのはそれを、無理やり一つに括(くく)って考えてんねや。俺も叔父上も、自分の考えに従うて生きとる。例え意見が割れて違う道を辿ることになっても、それはもうしゃあないんや。少しも、おかしなことやない。それが俺らの人生で、生きる道筋や。家族一つと拘(こだわ)るばっかりで―――――いつになったら、そんな当たり前のことが解る?」
 嵐の滔々とした理屈に、若雪はそれでも一歩も退くまいとした。
「各々の信念のもとで、いずれ異なる道に離れ行くことがあるのなら、それは確かに詮無いことでしょう。最早、私の口出すところではありますまい。…………けれど道をただ違(たが)えることと、互いに反目し憎み合うことでは、全く話が異なります。納屋は、私の居場所である前に、嵐どのの居場所でもあるのではないのですか」
「……………………解ってへんな。若雪どのは、いっこも解ってへん。今では、この邸は若雪どのがおるからこその、俺の居場所や。あんたがおらんようになったら俺の居場所は――――――――、この世のどこにも無(の)うなる」
 横を向いたまま、嵐は一息に言った。
 かつて嵐は実際にその絶望を、身を以て経験した。
母が死んだ時。
子供心に、これで天も地も消えてしまった、と確かに感じた。
 その時は何とか踏(ふ)み止(とど)まって生きた。
 そして今がある。
 しかし、次の絶望には耐えきれる自信が無かった。
 若雪は、嵐の言葉に衝撃を受けた。狼狽(うろた)えながら口を開く。
「そのような―――――そのようなことはありません。嵐どのは、強いお方です」
 嵐が若雪を見た。
 嵐はそれまでに見たことの無いような、哀しみに歪んだ顔をしていた。
 濃い、悲嘆の色がその目にはあった。
 その顔を見て、若雪は言葉を失った。
 何か言わねばと思い、しかしどんな言葉も、ついに口にすることは出来なかった。

 翌日の晩、嵐は宗久に呼ばれた。
 いつもの宗久の居室ではなく、釈迦如来立像(しゃかにょらいりゅうぞう)を安置してある小部屋に来るように、とのことだった。
「――――叔父上、嵐です」
「入り」
 灯明(とうみょう)だけが照らす室内に、宗久が釈迦如来立像に向かって座っていた。目を瞑(つむ)り、静かに合掌(がっしょう)している。
 釈迦が座る蓮華(れんげ)を模した蓮台(れんだい)を含め、身の丈十寸程の釈迦如来立像は、右掌を前に向けた施無畏印(せむいいん)、左掌を前に向けた与願印(よがんいん)という立ち姿で右腕は上を、左腕は下を向いている。施無畏印は人々の恐れを取り除き和(やわ)らぎの心をもたらす印、与願印は人々に慈悲を注ぎ、願いを叶え成就させる印とされる。金色の釈迦如来は、光背のみならずその全体が灯明の明かりを受け、柔らかな金色に輝いている。
 横目にそれを見遣った嵐は、静かに中に入り戸を閉めた。
 祈ることで報われるものなら、幾らでも祈ってやる。肝心な時に神仏が、結局はどんな救いをもたらしてくれると言うのだ。
 若雪が労咳に罹るのを、ただ安穏と見過ごした癖に。
 仏像が目に入った瞬間、嵐自身さえ思いも寄らなかった強い反発心が、唐突に嵐の中に沸き起こった。今となっては、陰陽の道を修した嵐であっても、そんな疑念や腹立ちを覚えずにはいられないものがあった。
 板張りの床に、宗久と嵐の二つの影が揺らめき、静まった。
 時折、こうして宗久が一人この部屋で仏と向き合うことを、嵐も家の人間も知っている。
 それゆえ宗久もまた、自分と同じく己の罪業を自覚する人間なのだと、嵐は思っていた。何の痛痒(つうよう)も感じずに嵐の母を救わずにいた訳でもなく、人を殺す武器の多くを売り捌いている訳でもないのだ。
御仏に縋(すが)ろうとする気持ちも、人並みに持ち合わせている一人の人間だ。
(――――老いたな)
 唐突に、嵐は思った。畏敬する叔父を、突き放した目で見ている自分にも驚いていた。
 いつの間にか、宗久は随分と白髪が増えた。
 目の前の背中からはいつもの覇気(はき)が感じられず、どこか力無い印象を受ける。
 宗久が合掌していた手を解(と)き、口を開く気配がした。
「……嵐」
「はい」
 呼びかけのあと暫く、宗久は沈黙した。言うべき言葉を、探しているようでもあった。
「………………お前は。お前は、儂の期待する以上の男に育った。お前の才覚は、若雪に比べてもいっこも引けをとらんと儂は思う。儂の自慢の甥や。……もう、納屋を離れても、十分に生きていけるやろ」
 宗久が普段より嗄(しわが)れた声でそう語るのを聴いて、嵐は察するものがあった。
「兼久どのが、来たんですね」
 宗久は背中を向けたまま答えた。
「ああ………。――――――――話は、全部聴いた」
 宗久の背中が、より小さくなったように見えた。
「………………さいですか」
「嵐。お前と若雪に、桜屋敷をやる。今までそなたらが働いたぶんの、まとまった銭も支度して渡す。これまでそなたらにしてもろたことの、それに見合う報酬になるか解らんが―――――――。儂はもう十二分に、そなたらに助けてもろうた。せやから、もうこれ以上はええ。――――――この邸を、去れ。そして二度と、納屋に関わるんやない」
「……………」
 それが宗久なりの償(つぐな)いなのだ、と嵐は悟った。
 嵐も若雪も、今では宗久の懐刀(ふところがたな)と呼ばれる程に、会合衆の間にもその名は知れ渡っていた。二人を同時に手放すことで納屋が受ける痛手は、小さなものではないだろう。しかし宗久は決断した。そうすることで、兼久の父としてのけじめをつけようとしている。
「納屋にも今井の名にも縛られんと、好きに生きや。そなたらやったら、出来るやろ」
 半ばこの展開を予想していた嵐は、取り乱すこともなく話を受け容れた。
「……はい…。叔父上…………これまで長らく、ありがとうございました。俺を納屋に置いてくれたこと、感謝しとります」
 嵐は宗久の背に、深く頭を下げた。
 母への仕打ちを恨んだこともあったが、思えばこの叔父には、実に多くのことを教わったのだ。商いのいろは、駆け引きや交渉のこつ、情報を握ることの重要性、洞察力の磨き方など、数え上げればきりが無い。納屋にいたからこそ、若雪にも出会えた。
 宗久の意向に沿って動くことが、喜びの全てと感じた時期もあったと、嵐は懐かしく思い返していた。
 けれど、これで別れだ。
「…儂も感謝しとる。嵐。お前が、……兼久を殺さんといてくれたことに」
 宗久の言葉に、譲れない一線を匂わせる声音で、嵐がはっきりと言った。
「若雪どのは、まだ生きてはりますから」
「………………」
 嵐が言葉に籠めた意味に気付かなかった訳ではないだろうが、宗久は何も言わなかった。
 部屋を出ようとした嵐に宗久が、これだけは、と言うように声をかけた。
「嵐、若雪を―――――――――――、頼む」
 苦渋(くじゅう)の中から絞り出された声だった。
 嵐は当然という口調で答えた。
「はい、解ってます。俺がついとります」
「必要なもんや、手に入らんもんがあったら知らせえ。儂が、何とかする。必ず」
「はい」
 兼久は若雪を失い、若雪は兄を失い、宗久は甥と娘を失った。
 嵐もまた納屋と叔父を失ったのかもしれないが、若雪は残った。
 まだ、残っている。
 それで良い、と思った。
 宗久は最後まで背を向けたまま、一度も嵐の顔を見ようとはしなかった。
 
       二

 師走に入るころ、若雪は嵐と共に桜屋敷へと居を移した。
 必要な家財道具、それぞれの私物を運び入れたのち、小雪のちらつく中を、嵐は十分に厚着させた若雪の手を取り、傘を差しかけながらゆっくりとした足取りで桜屋敷まで導いた。嵐は当初、駕籠(かご)に乗るよう若雪に勧めたのだが、桜屋敷までの道のりを、自分の足で歩きたいと若雪が言ったのだ。次にその機会がいつ来るか判らないから、と。
 静々(しずしず)とした道行(みちゆき)は、まるで若雪の嫁入りのようであった。
 小雪の舞う中を、嵐と若雪は無言で進んだ。
 その道のりは、嵐に過ぎた春の日を思い出させた。
 遠い過去の、桜屋敷での遣り取りが脳裏に浮かぶ。
(姉みたいに思うてくれ言われて、手ひどく突っぱねてもうたんやったな……)
 そのくらいの頼み、聞いてやれば良かったのに、と過去の自分に対して思う。
 嵐は苦い笑みを浮かべた。
 三郎の身代わりはごめんだなどと、今考えても酷い言葉をぶつけたものだ。
 それ程までにあのころは幼く、余裕が無かった。突然現れた若雪に脅威を感じ、敵愾心(てきがいしん)を抱いていた。しかし弟と見られることにあれ程反発したのは、恐らくはそれだけが理由ではなかった。
 今、同じことを再び頼まれたとしても、やはり承知することは出来ないだろう。
(…そうか…。もうあのころからか)
 横を歩く若雪をそっと見る。
 ―――――――今にして思えば、ということが、あまりに多い。
 天より降ってくる小雪を見ながら、嵐は痛切にそう感じた。
 諦めないと言った筈なのに、若雪が消える未来を、自ら進んで認めようとしているかのようで、嵐はそんな自分を不甲斐無(ふがいな)く思った。
「―――嵐どの、手が」
 気が付くと若雪の手に添えた右手は、力を籠めて彼女の手を握り締めていた。
「あ、堪忍―――」
 慌てて力を緩める。
 若雪は何ともない、と言うように首を振った。
 納屋から去れ、という宗久よりの通告を、若雪はどう思っただろう、と嵐は考えた。
 彼女の横顔はいつもと変わらず静かだ。
 若雪は、叶うことならずっと、納屋にいたかった筈だ。納屋を自分の生涯の居場所であると、思い定めていた筈だった。
 けれど、兄と父を失くし、納屋も既に若雪の帰る場所ではない。
 兼久の命を繋ごうと、変えられない流れはある。今井家の人間たちは、心情の面においても離散してしまった。
 若雪は家族と居場所を再び失くしたのだ。
 今度こそ守り通そうとしていたものを。
 嵐は若雪が残ればそれで十分だったが、若雪はきっと今、辛く寂しい思いをしているに違いなかった。
「……すまんな、若雪どの。俺しか、傍におらんようになって」
 ぼそぼそと詫びた嵐の顔を、驚いた表情で若雪が見上げた。
 その表情のまま、暫く嵐の顔を見ていたが、前に向き直って口を開いた。
「嵐どのは……………、いつも私が、いてくだされば、と願う時に、傍にいてくださいます。私を助ける言葉を、知らず与えてくれる。そのことで、私がこれまでどれ程救われて来たか、あなたはご存じないのです。―――――――そうして今もこうして、敵地や戦場に赴くでもなく、隣にいてくださいます。…私はそれで、十分です」
 その言葉の全てを本心と受け取ることは出来ず、嵐は黙り込む。
 そんな嵐の目を覗き込んで、若雪が念を押した。
「本当ですよ?」
 目を見れば自分の言が真実と解るだろう、という仕草だった。
 曇りの無い澄んだ目は嵐の疑念を溶かす一途さで、根負けしたように嵐は穏やかに微笑んだ。
「―――ああ………。信じるわ」
 
 桜屋敷には志野も同行していた。
 志野には若雪の傍を離れるつもりは、この先も一切無かった。
 そして納屋から、蓬(よもぎ)という名の若い侍女もついて来た。
 やや大柄で男勝(おとこまさ)り、はきはきした気性の蓬は、かねてより若雪と仲が良かった。納屋では嵐も若雪も人望があり、他にも同行を望む者はいた。だが嵐には大所帯を抱える気は無く、養える人数にも限度があり、納屋の為にも、桜屋敷に伴う人数は極めて少数に絞った。
 共に病と闘う、と言った頼もしい女子衆二人と、嵐が信用出来ると見込んだ下男二人、それに嵐と若雪の合わせて六名が桜屋敷に起居することとなった。

 若雪の部屋は、桜屋敷の桜の大樹が最も良く眺められる部屋に定められた。
 気候が穏やかなものになれば、部屋の障子戸を開けて広縁で過ごすことも出来る。
 しかし師走の、しかも山裾に立つ屋敷では、寒気を入れる隙さえ無いようどこもかしこも閉めきられていた。
 若雪の部屋はとりわけ、怠りなく寒気を遠ざけるべき対処がしてあった。
 火鉢(ひばち)の火により十分に暖められた部屋は暖かく、若雪の眠気を誘った。
 夜具の足元にある、志野が作ってくれたあんかの温もりも、眠気に拍車をかけた。
 嵐は基本的には常日頃から締まり屋で通っていたが、自らが必要、と判断した時には使う銭を惜しまなかった。
〝そういう時の為に使うてこその、銭なんや〟
(よく、そう言っておられたな…。炭も、随分と贅沢に使われている……)
 思いながらも、若雪の意識はだんだん、溶けていくようだった。
 誰かが声をかけ、部屋に入ってくる気配がした―――――――――。

 呼んでいる。
 誰かが、自分を。
 ああ、彼だ。ふ、と心が緩む。
 答えなくては――――――――――――。
 目を覚まして、返事をしなくては。

「しろ。おーきーろ。おい、しろ!」
 これまでに呼ばれたことが無いような、乱暴な呼び声がする。
 けれど声音には気安い親しみを感じた。
(私のことか―――――――?)
 思いながら、口は勝手に動いていた。
「……どこの犬…?真白(ましろ)だってば……。ああ、眠かった」
 どうやら剣護を待つ間、教室の机に俯せて寝ていたようだ。
 目をこする。身体がすっかり冷えている。
 今年は暖冬だと言うものの、冬は冬だ。
「――――――剣護、遅過ぎ」
 待たせた当人に向けて、ぼそりと文句を言う。
 剣護はそれを全く相手にしなかった。逆に灰色がかった緑の目を細めて、呆れたように言う。
「おっまえ、このくそ寒い中、良く寝れるなあ。風邪ひくぞ。勉強ってとこだけ見りゃ、馬鹿でもねーし」
 剣護はいつもこうだ。言うことに遠慮が無い。
「どうしてそういう、いちいち引っかかる言い方するかなぁ」
 言葉が言い終わるか終らないかの間に、小さくくしゃみをする。
「ほれ見ろ、馬鹿。帰るぞ」
 慌ててコートを羽織ると鞄を手に、剣護のあとを追いかけた。
 
 目を開けると、格子(こうし)状に組まれた板が見えた。
 桜屋敷の、若雪の居室の天井だ。納屋の邸で自室として使っていた部屋の天井と、似ているがやはり細部は異なる。
 ゆっくりと、瞼(まぶた)を上下させる。
(……。微睡(まどろ)んでいたのか)
 よく思い出せないが、妙な夢を見ていた気がする。
 上半身を起こし、頭を緩く振りながら夢の内容を思い出そうとして、室内に嵐の姿を見て驚いた。
 嵐は八畳程ある部屋の隅に、腕組みして立ち若雪を見ていた。
 なぜ、いつものようにもっと近くに来ないのだろう、と不思議に思う。
「――――嵐どの、いつからそこに?」
「…少し前」
 答える声は、冷たい目をした顔と同じく不穏だった。
「なあ、若雪どの」
「…はい、何でしょうか」
 背筋を正して答えてしまう。今の嵐は、そうせざるを得ないような雰囲気を持っていた。
「けんごって誰や?」
「けんご?」
「目が覚める前に言うてた。待ってよけんご、って」
「――――――すみません、解りません。まるで覚えが無いのです」
 若雪はどこかおろおろする気持ちでそう述べた。
 どうやら嵐は、その名前の為に気分を害しているらしい。
 嵐は横を向いて尚も言った。
「随分親しげな呼びかけやったけど」
「……………」
 責める響きで言われようと、解らないものは解らない――――――――。
(……けんご?)
 どこかで聞いた名前のような気もする。
 記憶の海のどこかで、誰かにもやはり似た指摘を受けたようにも思う。
 けれどやはり、思い出せない。どこか心細い思いで問う。
「…夢違誦文歌を、詠んだがよろしいでしょうか」
「悪夢やったらな。けど、覚えてへん程度の夢なら、詠むこともないやろ」
 嵐はそっけなくそう言うと、そのまま黙り込んだ。
 特に何か失態をした訳でも無いのだが、若雪はなぜか取り成さねばならないような気がした。
「―――嵐どの、もう少し火鉢に近付かれてはいかがですか。そちらは、冷えるでしょう」
 自らの側近くに置かれた火鉢を指して呼びかける。
 嵐は少し考える素振りを見せたあと、火鉢を挟み、半身を起こした若雪と差し向かう形で座った。それでも若雪からはまだだいぶ間がある。かろうじて、綾(あや)の練絹(ねりぎぬ)の、几帳の内側にはいる。不機嫌な顔だが、必要なことは言う。
「横になり。ならんねやったら紙子(かみこ)を羽織り」
「あ、はい」
 言われて若雪は紙子を白小袖の上に重ねた。紙子とは文字通り柿渋(かきしぶ)を引いて紙で作られた衣服で、軽くて保温性に優れており、寒い時期には重宝される。今は何時(なんどき)だろう、と思う。夕餉が済んでから寝入ったのなら、もうだいぶ夜も更けたころかもしれない。
 灯りに照らされた嵐の顔をそっと盗み見る。
 整っているな、と思う。
 兄の次郎清晴は端正な女顔だと言われていたが、嵐の顔はそれとはまた違った趣で優しげに整っている。そのぶん、きつい気性との落差の大きさに、驚かされるのだ。

〝若雪。桜屋敷に、行くんや。そうして、もうここには戻って来るんやない。小笠原様との銀の取引は、他の者に引き継がせる〟
 宗久にそう告げられた時、若雪は息が止まる思いだった。
〝私が―――――労咳に罹ったからですか。もう、お役に立てないからですか〟
〝せやない。――――兼久が、儂の息子やからや。あれの親として、そなたの養父として、儂がもうそなたに合わす顔が無いからや〟
〝そんなことは――――――――〟
 宗久は頭(かぶり)を振った。もう決めた、という顔だった。
〝そなたは織田様の為に働くことも、ほんまはしんどいて思うてたやろ〟
 図星を指され、たじろいだ。
〝儂は、それを知らん振りしてきた。…堪忍な。才覚に反して、そなたは気が優し過ぎる。その才を儂は随分利用させてもろたし、助けてもろたけどな、若雪。もうええんや。…もうええ。………病を治し。そんで自分に辛くないように、これからはただ一人の女子として生きや。――――――――嵐は多分、そなたと一緒に行くやろ〟
〝……養父上…〟
 若雪を見た宗久の目には、慙愧(ざんき)の念と慈愛が混在していた。
 若雪は、再び居場所を失くした、と思った。それが無性(むしょう)に悲しかった。けれどそのことに対して、思った程の打撃を受けずに済んだのは、宗久の最後の言葉があったからだ。

 嵐が自分と共に桜屋敷に来る、ということは若雪にはあまりぴんと来なかったが、事実嵐は当然のように納屋の中で自分の身の回りの整理をし、送るべきものを桜屋敷に送ると、若雪と連れ立って桜屋敷に来た。今もそのまま、住み着く構えを見せている。
 そうして信長の為に立ち働く様子も見せない。若雪は、嵐が桜屋敷に移るということを、宗久と距離を置く為、単に活動の拠点を納屋から桜屋敷に移す、という意味として捉えていたがどうやら違うらしい。
(良いのだろうか…)
 自分は選択の余地も無い立場なので動けずにいるが、嵐はまだ自由に、乱世を駆け抜ける力を持ったままなのに、ここにいる。
 相変わらず、薬湯作りだの延命祈祷法だの、死病を患った自分の看病に明け暮れている。
 自分が何とかしてやる、と言った手前、その言葉を貫くつもりでいるのだ。
(しかし…言った言葉に責任を持つ嵐どのゆえ、いらぬ重荷を背負われているのでは)
 嵐の言葉は、若雪にとっては嬉しくも有り難いことではあったが、このままでは、歴史に爪痕を残したいと言った嵐の願いは叶わなくなるかもしれない。嵐が自分の為に奔走(ほんそう)することを、当初はただ感謝していた若雪だったが、いつまでも現状が続くようではいけない、と思い始めていた。
〝歴史に爪痕(つめあと)を残したほうが、時代の勝者や〟
 彼はそう言っていたではないか。若雪は嵐に望みを成し遂げて欲しかった。
 今では若雪のほうがもどかしいような気持ちで、桜屋敷に泰然(たいぜん)と構える嵐を見ていた。 
「……なんや」
 若雪の視線を嵐が見返す。
「…いえ」
 若雪は視線を逸らして口籠(くちごも)った。
「言いたいことがあんねやったら言えや」
 今は言葉程には、声の調子はきつくない。不機嫌そうだった顔も、ほぼ普段通りに戻っている。
「………今のままで、よろしいのですか」
「は?」
 嵐が、何を問われているのか解らない、という顔をした。
「――――嵐どのは私の病が発覚してからというもの、忍びとしても陰陽師としても、商人としてさえ何の働きもしておられない。ただ、私の為だけにこれまで培われてきた技と知識を使っておられるではないですか。もう織田様のお役にも、立たないでいるおつもりですか?―――――――それでは、何の爪痕も残せません」
 ようやく、若雪の言わんとしていることが解ったらしく、ああ、と嵐は得心が行ったという声を出した。
「――――俺が傍におるんは迷惑か?」
「……いいえ。いいえ、嬉しいです。…とても」
 誤魔化すことなく真っ直ぐな目で答えた若雪を、嵐は少し驚いた目で見た。
「けれど、それゆえ嬉しいと感じる自分が怖いです。あなたが本望を果たせないかもしれないのに、今の在り様をどこかで喜ばしく思っている自分の心が、とても罪深いものに思えてなりません」
 苦しげに、そう告白した若雪の顔を嵐はじっと凝視していたが、ふと視線を宙にずらした。気のせいか、少し顔が赤い。
「――――――――――――爪痕、か」
 どこか苦い笑いの混じった響きで嵐が言った。
「………せやな。うん、そんなんに拘(こだわ)ってたころも、…あったな」
 遠い昔を思い出すような口調に、若雪は瞬きする。
「―――今は、違うのですか」
「……そもそもは、親父を見返してやりたい気持ちから思たことやった。ろくに俺や母親のこと顧みらんような奴やったけど、忍びとしての腕は確かやったみたいで、名は通ってた。あいつを凌ぐような大物になったろて、子供心に思たんや。叔父上に引き取られてからは、叔父上に自分のことを認めさせたあて仕方無かった」
 冬の夜の静寂(しじま)に、嵐の淡々とした声が響く。
「……歴史に名を刻むくらいの人間にならなあかんと、そう思うた。忍びをしてたら、今、どこの連中が武器を欲しがってるんか、情報も入ってくる。商人としても都合が良かったんや。忍びに商人、陰陽師。三つも生業を掛け持ちしてたら、どれか一つくらいは名が残るんやないかとも思てな。忙(せわ)しないのは俺の性に合うとるから、別に苦にもならんかったし。…そんで若雪どのと会うて、若雪どのが山陰に行って……、」
 そこで嵐は言葉を切った。目は、夜具の上に置かれた若雪の白い手を見ていた。
「…それからは…俺は、あんたと一緒に歴史に爪痕を残そうて思てた」
 若雪が目を見張る。
「自由に空を舞うように生きながら―――――叶うことなら若雪どのと一緒に、名を刻みたかったんや」
 手を取り合い競い合うようにして、若雪と共に歴史に名を残す。生きた証を残す。
 若雪に囚われることを恐れながらも、それは変わらない嵐の願いだった。
 嵐は微笑みを若雪に向けた。
 静かに明るい微笑みだった。揺るがぬ思いを、確固と胸に抱いた人間の笑みだった。
「今もまだ…、そう思てる。諦めてへん。七忍を使うて情報は集めてるし、いつでも動ける態勢は、一応整えてある。まあ尤も…、もうすぐ乱世そのものが終わるやろけどな。俺や若雪どのの名が残るかどうかは、後(のち)の世の人間が決めるやろ。けど、今は若雪どのの労咳を治すんが一番大事や。譲れん」
 若雪が案じる物事くらい、嵐はとうに考慮したあとなのだ。その上で、今は現状の在り様が最善と思い若雪の傍にいる。若雪は己の浅はかさを恥じた。
(私は―――――ここまで嵐どのに思い遣られている)
 知っていたつもりで、本当には解っていなかった。
「――――――申し訳ありません」
「なんで謝るんや」
 笑いながら、嵐は若雪の頭にポン、ポン、と手を置いた。
 合わせる顔が無い、というように両手で顔を覆って若雪は俯いた。
「申し訳ありません…」
 そのまま再度謝る若雪を、嵐は困ったように見つめた。

 師走も暮れが迫って来て、嵐は焦っていた。
 若雪が咳き込む回数が増えた。
 本人は隠そうとしているようだが、隠しきれるものではない。
 微熱が続く日も多い。
 病が呈する症状による焦りは、若雪当人より先に、むしろ嵐を蝕(むしば)んでいた。
(回春湯、通聖散、防己湯、人参養衛湯、人参清神湯、調気散、助気湯…)
 嵐は、急ぎ早に人々が行き過ぎる大小路(おおしょうじ)通を歩きながら、頭の中で数え上げた。
 これまで治療の為に調合した薬湯の名前だ。
 一見、労咳には直接の効果が無いように思える薬湯でも、少しでも可能性のあるものは全て試してみた。
 高価で希少な朝鮮人参は嵐一人では入手困難で、宗久に頼み用意してもらった。しかし試みた薬湯は、どれも目覚ましい効果を発揮してはくれなかった。
 宗久が懇意にしている医者も頻繁に若雪を診に来てくれたが、やはり嵐同様、どうにも手を打ちあぐねている様子だった。

「手立てが限られているというのは、辛いことだね」
 この寒い中にも賑わいを見せている、茶屋の横を通り過ぎようとした時に誰かが言った。最初にその言葉が聞こえた時、嵐はそれが自分に向けてのものだとは思わなかった。
 ただ軽やかな風のような声に、覚えがあると思い足を止めた。
 振り返る。
 若い男がにこやかに嵐を見ている。
 紅の上衣、紅の袴、南蛮人のような赤毛はやたら短く、束ねられてもいない。顔立ちは柔和に整った日本人のそれだが、その全身が人目を引くことこの上無い見かけをしている。
 だがなぜか、彼に注目する人は少ない。南蛮人に慣れた堺の人間と言えど、彼の異相(いそう)はそれとはまた種類が違うものだ。
 まるで何かの術でもかけられているかのように、人々の目は派手な身なりの男を素通りしていく。茶屋の者を含め、誰一人気に留める様子が無い。
 ――――術――――――――。
 聞き覚えのある軽やかな声――――――。
「あんたまさか――――――――…。あん時の神霊、か……?明慶寺で、俺らを閉じ込めた――――――」
 もう五年も前のことだ。
 信じられない思いで、嵐は問いかけた。
 にこり、と彼が笑う。
「その節はどうも」

「立ったままでいないで座りなよ、嵐。通りを行く人の、邪魔になるよ?」
 そう言って男は、自分が座る茶屋の腰掛(こしか)けの隣を指差した。
「……男の隣に座る趣味は無いんで」
 嵐が固い表情で言うと、彼は面白そうに笑った。
「まあ、解らないでもないけど―――――。ほら、これでも僕は、神の端くれだ。それなりに敬意は払ってもらわないと。ね?」
 言いながら、愛嬌のある様子で小首を傾げる。
 それでも動かない頑固(がんこ)な嵐に呆れた目をして、有無を言わさない口調で命じた。
「良いからお座り、君に話がある。僕だって、こうして現身を取れるようになるまで少しばかり時がかかったんだ。君も多少の譲歩はして、それに報いるべきだろう」
「少しばかり?」
 渋々(しぶしぶ)その隣に腰を下ろした嵐は、警戒した顔つきだった。
 今、自分の横にいるのは、人の形を取りながら、人ならざるものだ。
 その気配は人でないことの証のように清浄だが、ひんやりとして冷たくもあった。
「百年くらいかな」
 さらりと返って来た答えに、言葉を失う。
「僕はそれでも、早いほうだ。―――――…そもそもが人だったからね。現身にも、そのぶん馴染(なじ)みが早い。僕がこうして君に会う役割を仰せつかるのは、花守の中でも最も人の心を解(かい)し、人語に長(た)けているからだ」
 茶の入った椀を左手に持ち、右手は握ったり開いたりして、何かを確かめるようにそれを見つめながら、神霊と思しき男は自らの出自をことも無げに明かした。
「人―――――?」
「うん。僕のことは、明臣と呼んでよ。神の位を賜った時に、同じく頂戴した名前だ」
「明臣……様?」
 相手が神であるにしろ、変わった名前だ。名前一つをとっても、神道で崇める神々とはまた別種の存在であるように感じられる。
 くすり、と明臣が笑う。
「意外に律儀だね。様はいらない」
「――――そんなら明臣。話っていうんは、吹雪となれば、いうあの言葉のことですか」
 嵐は率直に切り込んだ。
「そう。今回は、この間よりは話せる。既に現象の一端は起きてしまっているから」
(この間よりは)
 つまり、まだ全ては話せない、ということだ。なんとも勿体付(もったいつ)けた話だ、というのが嵐の正直な感想だった。神の身でありながら、一体どれだけの制約があると言うのか。
 明臣がまた少し笑った。
「そんなに不満そうな顔をするものじゃないよ。人には人の、神には神の、それぞれ事情があるということさ。―――――雪に嵐では吹雪となろう。吹雪となれば、荷が重かろう。この言葉はね、――――端的に言うならば、君と彼女が共に在ることで起こり得る力のうねり、ひいては災厄(さいやく)を指し示す符牒(ふちょう)なんだよ。……尤も、必ずしも災厄となるとも限らない…―――大きな神(かみ)つ力(ちから)の顕現(けんげん)として、これを捉える見方もある。吹雪が避けられないものであるならば、そこにこそ姫様と僕らは活路(かつろ)を見出そうとも考えている」
 拍子抜(ひょうしぬ)けする程にあっさりと長年の謎だった言葉が解き明かされたが、それはそれでまた別の多くの疑問を生じさせるものだった。何より明臣は、まだ謎の言葉の全てを明瞭にしてはいない。何も解らずにいたこれまでに比べると、多くの情報を得られたと言って良いのだろうが、明臣の言葉は聞く者にとって決して親切なものではなく、嵐の理解を置き去りにしていた。
 耳慣れない言葉も多い。
 明臣は自らを人語に長けていると言ったが、彼の語る言葉はどこか風変りで、まるで異国の言葉を無理に日本の言葉に置き換えたかのようだ。そこは嵐なりに解釈していくしかないのだろう。
 惑わされず慎重に、自分の知りたいことを、求める答えを、明臣から引き出さねばならない。
 嵐は商談に臨むような思いで明臣と対峙した。
「なんで、こないだはそれを教えてくれなかったんですか」
「兼久がいたから」
 嵐が、解らない、という顔をする。
「兼久は、吹雪を招く鍵となる者の一人だった。それを、僕の作った領域に入れてしまった。僕は君のみに限り、符牒を明かすつもりでいた。先の世を知らせることの出来る時、場所、相手は極めて限られる。あの場に兼久を入れたのは、僕の失敗だった。おまけに智真までいただろう。あれでは、僕は君に何を教えてやることも出来ない」
 嵐は何とか意識を切り替え、吹雪の一連の言葉が指し示す符牒に、話を戻そうとした。
「俺と彼女が共におることで起こる災厄……。彼女―――は、若雪どののことですよね。力のうねり?災厄て、なんの話ですか。俺と若雪どのが一緒におったら、一体何が起こるて言うんですか。俺らは、ただの人間ですよ?」
 ここは肝心なところだ、と思いつつ嵐は矢継ぎ早に尋ねた。
「……………」
 唇を笑みに形作ったまま、明臣はこの問いかけを、吟味(ぎんみ)するように目を細めた。
「ただの人間、ね…」
 意味ありげにそう呟くと、持っていた茶碗を脇に置く。
「…―――――少し前までは、僕もただの人間だったんだよ、嵐。けれどそれも、人の世においては遠い昔の物語だ。…………君には良い教訓(きょうくん)になるかもしれないな。昔話を、してあげようか」
 そう言うと明臣は、嵐の返事も待たずに語り始めた。
 空に向けられたその薄青(うすあお)い瞳は、はるか時の彼方を見ているようだ。
 つられるように、嵐も冬の空を見上げた。空気は澄んでいるが雲は低く、どこか寂しい灰色の空だった。
「昔々、まだ京の都が、応仁の大乱で荒れていたころの話だ。当時、管領家(かんれいけ)の家督争いについで起こった室町幕府将軍家の後継争いは、実に迷惑な代物(しろもの)だった。それぞれの将軍候補に有力者がつき、守護大名を従えて膨大(ぼうだい)な兵力をぶつけ合い、戦いは泥沼化した。――――――それは君も知っているだろう?」
 確認するように明臣に目を向けられ、嵐は頷く。
 随分と話が遡(さかのぼ)ったな、とも思う。
 応仁の乱は、今ある戦国乱世の発端となったとも言える権力闘争だ。
「僕は山城国の地侍(じざむらい)の一人として、現世に生きていた。国人(こくじん)、とも言うね。仲間と共に一揆(いっき)を組み、僕らが被る被害もお構いなしに戦をしようとする東軍も西軍も、自分たちの土地から締め出そうとして戦った」
 嵐の脳裏に在りし日の明臣が浮かんだ。この顔立ちだ。緋威(ひおどし)の武具を身に着け、太刀を手にした明臣の姿は、さぞ見栄えがしたことだろう。
 語る明臣の目に、柔らかなものが漂う。
「……僕には許嫁(いいなずけ)がいてね。富(とみ)という名前の、とても愛らしい娘だった。その、時の足利将軍の正室と同じ名前と、容貌が、仲間の一人の気を引いた。そいつは僕らを裏切り、秘密裡(ひみつり)に管領家家臣に僕らの土地を明け渡そうと企んでいた。……そいつはね、―――――――あろうことか富も一緒にその家臣に差し出そうとしたんだよ。土地を売り渡そうとする相手に、更に取り入る為にね」
 予想だにしない昔の話に気を取られていた嵐だったが、明臣の声が暗いものになったことは敏感に悟った。世が終わるような、絶望を知る者が抱える闇の暗さだ。嵐は引き摺られないよう、その暗さに心構えをしなければならなかった。幼いころ、自らも味わった闇の暗さだったからだ。まして明臣の抱えた深淵は、それ以上の暗さであったように思える。
「…富はそれを拒んだ。僕が戦いから引き揚げて帰った時には、もう彼女は自害して果てたあとだった」
「――――――――」
 その時に明臣が浮かべた笑みは、嵐にも理解出来ない暗いものを、奥深く孕んでいるように思えた。絶望すらやすやすと突き抜けた、そのはるか先にある笑みだ。それは見る者を震撼(しんかん)させるような微笑で、出来ればそれを生じさせるような感情を、理解する時などが今後訪れないように嵐は祈る思いだった。その瞬間は、目の前にいるのが神だということさえも忘れた。
「僕は絶望し――――――怒り狂って、我を失くした。裏切り者を殺してその家に火を放ち、自らも焼け死んだ。闇夜に赤々と燃え上がる炎は、そこら一帯を照らすようだった。―――――僕の名前にある、明るいという一字の由来だ。神と言えど、かつて犯した罪を忘れてはならない、という戒(いまし)めを兼ねた名前を頂いたんだ。死んだのちも僕は怨霊となって、富を殺した一族に祟(たた)りを成した。……見かねた姫様が僕の魂を救い上げ、神の位に封じてくださるまで。そして僕は、花守の末席(まっせき)に名を連(つら)ねた」
 凄まじい話だ、と嵐は思った。
 この神霊は、元来は荒ぶる御霊(みたま)だったのだ。
 怒りと嘆きと憎しみに猛(たけ)り狂った、一つの魂の辿り着いた末が、今目の前にいる明臣なのだ。先程のぞっとするような微笑の所以を、嵐は思い知った気がした。
「………姫様いうんは、以前言うてはった、俺らが会ったことあるていう方のことですか。花守って何なんです」
 明臣は嵐を流し目で見遣ったが、何も答えなかった。
 代わりに空を見上げて一首の歌を詠んだ。
「――――汝(なれ)や知る 都は野辺(のべ)の 夕雲雀(ゆうひばり) 上がるを見ても 落つる涙は――――……」
 風のように軽やかで、透き通るような儚さをも含んだ声だった。それを聞いた嵐の胸が、なぜか少し痛んだ。
明臣は、詠み終えると嵐に笑いかけた。
 その笑いは和やかさと悲しみが微妙に入り混じっていた。
「…美しい歌だと思わないかい。これは、彼(か)の大乱で荒れ果てた都の有り様を嘆いて詠まれた歌だ。雲雀が空に舞い上がる光景は、本来心躍るものの筈なのに、それを喜ぶことさえ出来ない。それ程の悲嘆が、この歌には込められている…。美しいけれど、悲しい歌だ。けれど実際に、そういう時代だったんだよ―――――あのころは。それは今も、乱世という点では同じなんだろうけどね……」
 どこか物思うように明臣は語尾を濁した。
 それから彼は、少し口調を切り替えた。
「ねえ嵐、君は陰陽師でもあるよね。陰陽師とは、天地の理(ことわり)を弁えた存在だ。それが本分(ほんぶん)というものだろう。そうであれば、超えてはならない線を、他の誰より心得ている筈だ。彼女が、大事だろう――――?それなら決して、人の分を超えた術などに手を出してはいけないよ」
 思い遣(や)るような光をその目に宿して、真摯な声で明臣が嵐に告げた。
「………どういうことですか」
「……人は簡単に堕ちるものだ。兼久を愚かと思うなら、君も軽はずみな真似を慎むようにと、そう言ってるんだよ。僕はこれでも、もう随分と踏み込んだことまで言ってしまった」
 言いながら後悔するかのような口振りだった。
 そして、ああ、と気が付いたように言い添える。
「水臣(みずおみ)には気をつけて。花守の中でも、姫様と共に長く在る者だけどね。彼は姫様のことしか頭に無い――――――ちょっと危険な奴だ。君は以前、姫様に大層な無礼を働いたしね。水臣がそれを面白く思っている筈も無いんだ」
(水臣?…大層な無礼?)
 やはり何のことか解らない。解らない上では気をつけようも無い。なぜこう情報が小出しなのか。これが神の流儀(りゅうぎ)とでも言うのか、と焦れながらも、嵐はかろうじて思ったことを口にした。軽い意趣返(いしゅがえ)しのつもりもあった。 
「………あなたの話を聞いてると、神も人も、そう大差無(たいさな)いような気がしてきますね」
 うっすらと、明臣が微笑む。
「神には心が無いとでも?それは君たちの、考え違いというものだ。案外、僕たちと君たちの存在は、薄皮一枚隔てた程度のものなのかもしれないよ?」
 それじゃあね、と立ち去ろうとした明臣を嵐は引き留めた。
「待ってください!」
 ん?と明臣が振り返る。
 次に神霊に会ったら訊きたいと思っていたことは多くあった。自分たちに同じ言葉を伝えた信長と神霊は、どういう間柄なのか。自分が再三見る夢に、神霊は関与しているのか。未だに知り得ないことだらけだ。しかし嵐が口にした問いは、訊きたいと考えていたことのどれでもなかった。
「………明臣。あなたは、神とならはって、富さんのことをもう忘れることが出来たんですか」
 明臣が意表を突かれた顔をする。
 空白の時が流れたあと、見開いた瞳のまま、明臣の唇だけが動いた。
「………………………僕は今でも、彼女の転生した姿を探し求めている」
 それが答えだった。
 今度こそ、明臣はその場をあとにした。
 茶屋の人間が今になって思い出したように嵐に注文を尋ね、その脇に置かれた空の茶碗を目にして首をひねった。

 派手な装いを誰の目にも留まらせること無く、緩やかな足取りでぶらぶらと堺の雑踏(ざっとう)を歩きながら、明臣は胸の内で、未だ再会の叶わないかつての許嫁の笑顔を思い浮かべていた。
 忘れるどころか、胸に留まる彼女の面影は、年月を追うごとにますます鮮やかなものになっていく。神である身は忘却(ぼうきゃく)とは無縁なのだろうか、と我ながら考えた。
 その面影に、そっと優しく語りかける。
(ねえ、富―――――…どうして、死んでしまったの?自ら命を絶つなんて――――――、そんな悲しい選択を、お前がする必要は無かったのに。生きてさえいてくれたら、僕は何をどうしたって、きっとお前を取り戻していただろうに。どうして死んでしまったの……)
 嵐はこの話を、どのように受け取っただろうか。
 このまま事態が進めば、恐らく若雪もまた自ら命を絶つことになる。
 そうなればきっと――――。明臣はピタリと立ち止まり、視線を落とす。
「…吹雪はもう、止められない」
 神の呟きを聞いた者は、誰もいなかった。
 
       三

 若雪と嵐が桜屋敷に居を移した話は智真にも届いていたが、年の暮れは何かと忙しく過ごしており、屋敷に足を向ける暇も無かった。やっとのことで智真が桜屋敷を訪れたのは、年が明けた天正十(1582)年の、睦月に入ったころだった。
「智真どの」
 床から半身のみを起こし白小袖の上に紙子を羽織り、嬉しそうな笑顔で彼を出迎えた若雪の笑顔は、以前と何ら変わり無いものだった。
 ただその輪郭(りんかく)には若干の変化が見られた。
(…痩(や)せはった……)
 智真は軽く眉根を寄せた。
 去年会った時よりも、僅かだが線が細くなっている。あまり良くない兆候(ちょうこう)だと思えた。
「……若雪どの、お久しぶりです。お加減はどうですか。…ちゃんと食べてはりますか?」
 開口一番の智真の問いかけに、若雪が少し笑った。
「膳に乗ったものを全て食べ終わるまで、嵐どのにじっと見張られているのです。食べない訳には参りません」
 その光景がありありと目に浮かぶようで、智真の頬も少し緩んだ。
「さよですか。…うん、そんならええんです」
 一人頷く智真を、若雪が見る。
「…?どないしはりました?」
 思うところのありそうなその視線の意味を、尋ねる。
「…智真どの」
「はい」
「小雨は、亡くなったのですか?」
 突如(とつじょ)として尋ねられ、智真はすぐには何も言えなかった。
 その様子を若雪が、これまでに見たことのないような深い瞳で、ひたと見ていた。
「………やはり、そうなのですね」
 智真の反応に確信を得た様子で、下を向いてぽつりと言った。
「…―――――私と和尚さんで弔い、経を上げました。……兼久どのに、頼まれて」
 最早隠し立ても出来す、智真が告げた言葉の最後に、若雪は軽く目を見開いた。
「そうでしたか…。嵐どのからは、遠い親戚に引き取られて、快方に向かっていると聞いておりました。……けれど私には、それが本当のこととは思えなかった。私を気遣って、偽りを仰っているように感じてなりませんでした。…………可哀(かわい)そうに。小さな身体で、きっとひどく苦しんだ筈です。――――――私が気付いてやらねばならなかった。あんなに近くにいたというのに」
 若雪の目はいつになく澄んで、ここではないどこかを見ていた。
 涙も無く、平淡な表情だったが、それでも若雪の悲しみと後悔は、智真に切々(せつせつ)として伝わってきた。
 その時智真の胸に、若雪は既に生を望んでいないのではないか、という疑念が湧いた。
 艶やかな黒髪に縁取(ふちど)られた、いつにも増して儚い面立ちは、忍び寄る死の影を従容(しょうよう)として受け容れているようにも見える。
 死んだ小雨に呼ばれ、若雪もまた彼岸に惹かれているとしたら―――――――――。
(このまま失うんか。私も、嵐も―――――――)
 若雪を。
 ざ、と世界が墨で塗り潰されたような気がした。
 矢も楯(たて)もたまらぬ思いで、智真は若雪の両手を握り締めた。白い手はひんやりと冷たい。
 それを額に押し戴くようにして、焦る思いが高(こう)じるままに、口を開く。
「――――若雪どの、生きてください。どうか」
 何かを悟り、もう生も諦めているかのように見える若雪に、堪らなくなって智真は言った。前置きも何も無い、半ば叫ぶような懇願の声だった。
「…死なんといてください。嵐の為にも、……」
 私の為にも。
 その一言は、口に出来なかった。
「智真どの…」
 常に朗らかで動じない智真の、取り乱すような激しさに若雪は驚いた。
 智真は震える右手で顔を覆った。
「…嵐の―――――――嵐のお母上は、労咳で亡くなってはるんです。この上あなたまで同じ病で亡(の)うなったら、――――――――」
 声は涙で途切れ、最後まで言うことが出来なかった。
 若雪は愕然(がくぜん)とし、腑(ふ)に落ちた。
(そうだったのか)
〝俺の居場所は、この世のどこにも無うなる〟
 嵐にとっては、既に一度味わった絶望なのだ。
 必死の思いで、若雪は智真の肩に自由なほうの左手を添える。右手はまだ智真の左手に囚われたままだ。いつも穏やかな智真をこれ程嘆かせる自分が、酷い仕打ちをしているような気がした。
 胸が痛み、自分のほうが泣きたくなった。
「智真どの…。どうか、そのように泣かないでください、智真どの……。私はこれでも、ひどく往生際が悪いのです。まだまだ諦めてなどおりません。…私は死にません。必ずや生きるように、そう努めます。生を諦めたりは、致しません。―――だから泣かないでください」
 言いながら優しく、智真の肩を揺する。
 智真は顔を伏せたまま、何も答えなかった。何を否定したいのか自分でも解らず、ただ首だけを横に振り続けている。自分が今、若雪の為に泣いているのか、嵐の為に泣いているのか、それとも自分自身の為に泣いているのかさえも解らなかった。
 そうして何も言葉にすること無く、涙を落としていた。

 若雪の部屋の手前、広縁で茶を載せた盆を手に立っていた嵐は、静かに踵(きびす)を返した。

 その夜、微熱にぼんやりとした頭で若雪は考えに耽っていた。
(嵐どのにも、智真どのにも――――…、私はひどく申し訳ないことをしている気がする)
 病に罹ったことが若雪の本意ではないとは言え、彼らに要らない苦悩を与えているのは事実だ。気を遣わせ、振り回している。彼らの歩むべき人生の、足を引っ張っている。
(…解っている。私に何一つ非が無いとは、とても言えないということは………)
 誰が悪かったのか。
 兼久か。小雨か。
(違う。それが全てなどではない。こうなる前に、こんなことになる前に、成り行きを喰い止める選択をする余裕が、私にはある筈だった。私はそれを見過ごしにしてしまった)
 感傷に流されて注意を怠った、自分の落ち度だ。
 兼久が心底から、確実に若雪を殺そうと考えたなら、他に幾らでもやりようがあっただろう。
 彼の抱いた淡い目論見を、最後の一石を積むことで成し遂げさせたのは、他ならぬ若雪自身の手だ。
 自分がもっと用心していれば小雨の病に気付き、救うことも出来たかもしれない。兼久に罪を犯させることもなく、済んだかもしれない。ほんの一時(いっとき)、小雨の母親代わりになったつもりで一人満足して、肝心なことには何も察してやれなかったのだ。
(そんなことで――――――仮初めにでも母親のつもりになど)
 よくもなれたものだ、と思う。
(なぜ、気を抜いた。油断すれば容易く平穏は崩れ去るものと、知っていた筈なのに――――――――――)
 穏やかに過ぎて行く日々に、いつの間にか危機感を麻痺(まひ)させてしまっていたのではないか。
(気を緩めてはならないと、次は自分の命さえ損なうことも有り得るのだと、昔はあれ程強く戒(いまし)めていたというのに)
 その自戒(じかい)を忘れた結果が、今の状態である。
 若雪はそう思い、激しく自分を責めた。
 けれど今更どう思おうと、ことここに至って若雪に出来ることは、極めて限られている。
 もどかしくて仕方無かった。
 剣を振るって病を断ち切れるものなら、幾らでも振るっただろう。
 手の皮が剥け、血が流れ出してでも振るっただろう。
〝焦るんやないで。焦って自分を追い込むんは、病に一番良うない。余計なことを考えんと、食うて、寝ろ〟
 嵐は若雪の心情を先回りするように、ばっさりとそう言い切った。
(仰ることが正しいのは解る。けれど――――)
 目を閉じて、一つ息を吐く。
 それを実行するのは、至難の業だ。
 そんなことを考えながらも、いつの間にか若雪は苦悶(くもん)の渦(うず)の中、眠りに落ちていった。

 荒れた波の音がする。
 打ち寄せては引き、うねっている。
 まるで泣いているかのような波音だ。
 海そのものが、激しい悲嘆に暮れているようだ。
 見上げれば、暗く、こちらを圧するような天がそこにある。
(……そうか。ここには人はいない。一人も。存在出来る筈も無い場所なのだから、ここは―――)
 誰に教えられるでもなく、若雪はそう悟っていた。
(―――――けれども。それでは、今、ここに立つ私は一体何なのだろう……)
 目の前には、大きな巌(いわお)が聳(そび)えている。
 不可解なことにその全体が、赤い光に覆われていた。
(これは………?)
 天の果て、地の果てとも思える荒涼とした景色の中、その赤だけが妙に明確で、不吉だった。
 気配を感じて若雪が振り向くと、そこには若い男の姿があった。
 変わった着物を身に纏い、長い、青味を帯びても見える黒髪を、後ろで一つに束ねている。
 いかにも思慮深そうな面立ちだ。
 驚愕(きょうがく)に見開かれた双眼は、うっすらと青い。
 その唇が、動いた。
「なぜ、あなたがここに」
 問いかける声は水のように涼やかだ。
 しかし答える言葉を、若雪は持たなかった。

 そこで目が覚めた。

 そして季節は春、桜咲く卯月を迎えた。
 桜屋敷が最も華やぐ時期である。
屋敷名の由来ともなった、樹齢三百年とも言われる桜の大樹の花が、町中の桜より遅れて盛りを迎える。花はまるでこの春を嘉(よみ)するかのように、次々と咲きほころんでいった。
 毎年このころには桜屋敷で行われていた、宗久を主催者とした会合衆の集う茶会も、今年は無い。堺の商人衆の間では、若雪が病を得て桜屋敷で療養しており、嵐がそれを看病しているという事実が既に知れ渡っていた。中には見舞いに訪れる者もいたが、嵐は彼ら全てに自分一人で対応し、直接若雪に会わせようとはしなかった。
 尤も、中には例外の見舞客もいた。
 智真は暇を見つけては頻繁に桜屋敷を訪れたが、睦月に訪れた時以来二度と涙を見せることは無く、始終穏やかな佇まいを保った。
 若雪の病を知った茜も、ごくたまには市も顔を見せた。
 初めて桜屋敷を訪れた時、茜は若雪の夜具に突っ伏して泣いた。
「嘘!嫌や!死なんといてよ若雪さん!!」
そう泣きながら叫ぶ茜を、嵐が無理やり引き剥がす、というひと騒動があった。
 市は涙を見せることこそ無かったが、若雪を見る目に宿る憂いは、茜に劣らず深かった。
 それから彼らは見舞いのたびに、必ずと言って良い程、滋養のある食べ物を土産に持参した。
 若雪は食が細くなっており、今では嵐の見張りもあまり功を奏していなかった。
 志野も嵐もそれぞれに趣向を凝らして、様々な料理をこしらえて何とか若雪に精をつけさせようと必死だった。彼らの尽力を知るだけに、ものを食べられない自分が、若雪にはひどく歯痒(はがゆ)くまた、申し訳なかった。
 そんな中で、咲きほころぶ桜が、若雪の目の慰めだった。
 嵐たちの目を盗んで、単衣を羽織り、そっと庭に下り立っては大樹の幹を愛おしむように撫でた。そんな若雪の頭上から、ひとひら、ふたひら、慰めるかのように桜の花びらが舞い落ちる。それを見上げてふ、と目を細める。
(私がこの世から消え失せても、お前は咲き続けるだろう。それは何の不思議でもない、残酷な程に健(すこ)やかな、世の理だ。……けれど私は、未だ諦めるつもりは無い。来年も、再来年も、その次の年も、きっとお前が花開くところをこの目で見てみせよう―――きっと)
 春の日差しの中で、若雪は桜にそう誓った。

「若雪どの、なんか食べたいもんはないか。欲しいもんはないか」
 このところの嵐は、常にこの言葉を繰り返していた。若雪に少しでも栄養を摂(と)らせようと躍起(やっき)になっているのだ。それに対して困ったように若雪が微笑を浮かべるのも、また常のこととなっていた。
 食べることに関して大いに執着のある嵐に反して、若雪はあまり食に強い嗜好(しこう)を持たない。それでも強いて挙げるなら、と若雪は考えて答えた。
「――――白湯(さゆ)、でしょうか」
 ぼんやりと言ってから若雪はしまった、と思った。
 嵐から、それでは滋養が摂れない、と怒られそうな答えを口に出した自覚があった。
 案の定、嵐の眉間には皺が刻まれている。
 慌てて言い訳をする。
「滋養のあるものを拒んでいる訳ではありません。………初めて納屋を訪れた、あの春の日にいただいた白湯を思い出しただけです。あの白湯は…この世のものとは思えぬ程、甘露(かんろ)でした――――――」
 そう言う若雪の唇には笑みが浮かんでいる。
「あれ程に、何かを美味だと思ったことはありませんでした」
 それは、もう十年は昔の話だ。その言葉を聞いた嵐の顔からふと力が抜ける。
「あの白湯の温もりに、…自分はまだ生きているのだと、生きていて良いのだと、そう教えられたのです」
嵐が若雪の身を気遣い、差配(さはい)してくれた白湯だった。
 今日は比較的暖かいので、若雪の部屋の障子戸は開かれ、外の明るい陽射しと桜の淡く優しい彩(いろどり)が垣間見(かいまみ)える。
 若雪の床の前に置かれた几帳には、鶸色(ひわいろ)に花鳥文様の施された生絹(すずし)が掛けられている。
 鶯(うぐいす)の鳴き声がどこからか聞こえ、微睡むような春の午後だった。
「…不思議なものです。――――――出会ったころから、私は随分と嵐どのに救われてきました。ですからその御恩を、返していきたかった。あなたを、私の手で守って差し上げたいと、そう思っていたのです。それなのに、嵐どのは昔よりも随分と大きくなられて――、私に守られてくださるような方ではなくなった。今では私のほうが庇護(ひご)を受ける身です。こんな筈では、無かったのですが――――――…」
「―――――ああ、ざまあないな。若雪どのにも、見立て違いはあんねや」
 外の景色に目を遣る若雪の、視線を追うように嵐も桜の大樹を見ていた。
「どうやらそのようです」
 そう言って若雪は薄く微笑んだ。

 嵐は火をおこし、小鍋に注いだ水をゆっくりと温(あたた)めた。
 桜が咲いてから、ずっと以前に若雪と桜屋敷を訪れた際のことを、嵐は思い出していた。
(怜(あわれ)むべし―――――)
(なんという禍星(まがつほし)の下にお生まれか)
 鼓の音で自分たちを誘い、そう告げた口寄せ巫女がかつていた。
 あの時、巫女は確かに言ったのだ。
 若雪の身内は凶刃に斃(たお)れたが、若雪自身は病を得ることになるだろうと。
 そして更に。
〝絶望につぐ絶望が、あなた様を襲いまする〟
 その様は、さながら打ち寄せる波のごとくでありましょう―――――――――。
 そうも言っていた。あの託宣も、やはりその通りになってしまうのだろうか。
(―――――まだ判らん。言うたことの全部が必ず当たるとは、限らへん)
 嵐は彼女の言葉を途中で遮ったが、振り返ってみれば巫女の託宣(たくせん)の前半が、現実のものとなっている。
 あの巫女の行方を今、水恵と斑鳩に捜させているが、十年以上も前の話の為か芳(かんば)しい報告はまだ入ってきていない。老齢だったこともあり、既にこの世の人ではないと言うことも十分に有り得る話ではある。しかし、もし未だこの世に在り、あれ程に先の世を言い当てる巫女であれば、どこかで噂になっていてもおかしくはない。だが、ちらりともそれらしい巫女の話は聞かないのだ。
 例え存命だとして、世に名高い嵐下七忍の情報網に、これだけ引っかからないというのはどういうことか。やはり既に冥府へと旅立ったと考えるのが妥当なのか―――――――。
 取り留めの無い考えが、嵐の頭の中を廻(めぐ)った。
(来世がどうの、とも言いよったな)
 嵐の知る呪術には、未来を知る手立ても無いではない。
 また、嵐は未だに桜の舞い散る中、若雪がどこかへ過ぎ去ろうとする夢を、相変わらず見続けていた。若雪の病が発覚した時は、てっきりそのことを示唆する夢だったのだと思ったが、夢の訪れが絶えない今となっては、一体何を、あの雅な悪夢が告げようとするものなのか、見当もつかなかった。まさか病の果ての死までを予告するものとまでは、思いたくない。
 考えながら、出来上がった白湯に落雁(らくがん)を添えて若雪のもとに運んだ。
 それを見た若雪は顔をほころばせ、嵐に礼を言った。
 白湯が効いたのか、その晩は若雪は夕餉を全て平らげ、志野や蓬を喜ばせた。

 その夜、嵐は眠る前に呼召印(こしょういん)という印を結び、咒言を唱えた。
「オン・クチグチ・グヤリ・シャリシャリ・シャリレイ・ソワカ」
 これを百八遍唱えれば、未来に知りたいことが夢の中で知れるという、密教系の呪術だ。
 嵐は陰陽師ではあったが、この呪法に関しては胡散臭(うさんくさ)いものを感じて、これまでに行ったことは無かった。
 けれど今では、藁(わら)にも縋りたかった。
(若雪どのの、今後を知りたい)
 この呪法でめぼしい情報を得られれば、何か現状を改善させる方法も見えてくるかもしれない。
 春の宵、嵐は一人咒言を唱え続けた。

 気が付くと、白く四角い部屋がそこにあった。
 窓と思しき透明な壁の側近くに、寝台らしきものが置かれている。
 どうにも馴染みの無い雰囲気の、妙な部屋だ。寝台の脇の小さな台の上には、見たことも無いような果物らしき物の入った籠やら何やらが、所狭しと置いてある。
 一人の少女が、その寝台に横たわっていた。
 眠る面立ちは若雪に似ているが、髪は今よりもずっと短い。
「―――――まだ十五歳よ」
「スリップ事故で…かわいそうに」
「高校の入学式も、間近だったんですって。有名な進学校らしいわ」
「まあ……」
「早く目覚めると、良いわね。―――――ご両親を見るのも痛々しくって」
「そうね」
 そう話す、何人かの女たちの声が聞こえた。
 青白い顔をした少女は、来る日も来る日も眠り続け、ある日あっさり事切れた。
 まだ若い命が、あっと言う間に散る様を嵐は成す術も無く見ていた。

 目覚めた時、嵐は茫然としていた。
 見た夢は、若雪の来世ということになるのだろうか。
 では、今この時、病と戦う若雪はどうなるのか。
 まさか残された時間が少な過ぎて、夢にも現れなかったというのか。
 強く頭(かぶり)を振る。
(――――夢は所詮夢や)
 そうは思うものの、若雪に似た、横たわった少女の面影は、嵐の中でいつまでも消えなかった。

       四

「明智様のご家来?」
「はい、そう言わはってお越しです。どないしはりますか」
 桜も散り際になって、予期せぬ客が桜屋敷を訪れた。
 取り次いだ蓬は、やや困惑顔だった。
(明智が俺になんの用や。しかも納屋やのうて、桜(こ)屋敷(っち)に来るなんて)
「…座敷のほうにお通しせえ。―――粗相(そそう)のないようにな」
「はい」

 座敷で対面した男の顔を、嵐は知らなかった。
「そんで、本日は何用で来はったんでしょうか」
 上座に座る男は、光秀よりも礼儀正しく嵐に接した。侍烏帽子(さむらいえぼし)を被り、優美な精好織(せいごうおり)の直垂(ひたたれ)を隙無く着こなして、改まった身なりで頭を低くしている。
「――――突然の訪問、ご容赦くだされ。我が主・明智日向守光秀より、貴殿に言伝(ことづて)を仰せつかって参った」
「言伝?」
「は。主は、今井嵐どの、若雪どの、御両名(ごりょうめい)に是非とも旗下(きか)に入って欲しいとお望みである」
「さて―――――俺も若雪どのも、一介の商人ですけど」
 そう言い、見下していたのは光秀のほうではなかったか。
 嵐は少し意地悪な思いで、首をやや大仰(おおぎょう)に傾げて見せた。
「したが――――――、嵐下七忍を束ねてもおられよう」
 男の声が、低くなる。
「………仰る意味が、解りませんね。ああ、陰陽道のことなら、多少嗜んでますよ。そちらのご依頼の話やったら、お聞きします」
 表面上はにこやかな顔を装いながら、やはり戦場で派手に動き過ぎたか、と嵐は内心省みていた。兵庫が聞けば、それ見たことかと言いそうだ。
「織田家中におれば、自(おの)ずと耳に入ることもあり申す。その上での、主のご所望である」
 とぼけようとした嵐に、強い目で男が迫った。
 逃(のが)さじ、としている様子だ。
「―――――例えそうやとしても、俺ら信長公に直属の身ですさかい――――明智様のご要望には、お応え出来ませんわ」
 柔らかだが、いなす口調で嵐は答えた。
 男の身体から、一瞬殺気が揺らめいて、消える。
 嵐はそれを平然とした目で捉えていた。
「…そのようにお伝えして、よろしいのでござるな」
「はい」
「――――――後悔されるぞ」
「……お帰りください。信長公には、このことは言いませんよってご安心を」
 男もそれ以上は言わず、黙って桜屋敷をあとにした。
「蓬、塩まいとけ」
「はい」
 光秀はどうも、何か思い詰めているようだ。
 面倒なことが起きなければ良いが、と嵐は思った。
(………まさかな)
 嵐は今思いついた考えを、自分で笑った。よもやここにおいて、光秀が信長に反旗を翻すなど有り得まい。
 正直なところ、今は光秀の相手をしている余裕は無いのだ。

「明智様が?」
 若雪にも報告しておこうと思い、嵐は若雪にことのあらましを伝えた。
「ああ。せやけど俺の一存で断った。良かったか?」
「はい、それはもちろん。けれど………そうですか」
 若雪は唇に手を当て眉を顰(しか)め、何やら考え込んでいる様子だった。

          

 少年は待っていた。
 彼の眠るベッドの脇には小さなテーブルがあり、大小様々な果物の入った籠と、色鮮やかなガーベラとカーネーションのフラワーアレンジメントが置いてある。小さなテーブルの上から、今にもどれかがはみ出して落ちてしまいそうな在り様だ。
 白く四角い病室の中で、昏々と眠りながら、彼は彼女の訪れをただ待ちわびていた。
「――――まだ十五歳よ」
「スリップ事故で…かわいそうに」
「高校の入学式も、間近だったんですって。有名な進学校らしいわ」
「まあ……」
「早く目覚めると、良いわね。――――ご両親を見るのも痛々しくって」
「そうね」

          

 皐月も晦日(つごもり)が近付き、食欲が回復してきたことも手伝ってか、若雪の体調も上向いていた。それは桜屋敷に住まう者皆にとって、喜ばしい状況だった。
 嵐は、やっと堺に着いたという荷を受け取りに、桜屋敷を留守にしている。
 油断は禁物と例によって嵐にやかましく言われ、若雪はいつものように床に就いていた。
 その耳に、鉄の打ち合うような音を聴いた気がして、床から起き上がると障子戸を開け、広縁に出た。
 再び、音が響く。
 間違いない。誰かが、この山裾の庭の内で刃を交えている。しかも複数。
 若雪は急ぎ室内に取って返すと、細帯を口にくわえ手早くたすき掛けにし、一瞬得物に迷ったが、刀を手にすると庭の奥に踏み込んだ。多勢相手であれば、雪華よりも間合いの取れる刀のほうが適している。
「―――――片郡!!」
 若い緑の萌えるような庭に、似つかわしくない暗い色の布を身に纏った男たちと、片郡がいた。
 多勢に無勢と見るより早く、若雪は刀の鞘を払い、片郡の背に自らの背を合わせた。
 口早に問う。
「―――この者たちは?」
「恐らく――――明智様の配下かと」
 答える片郡の息は荒い。
 忍びが持つには大振りな片郡の太刀は、既に血まみれだった。足元にはいくつかの躯が転がっている。
 若雪は素早く視線を巡らして、襲撃者の数を目で数えた。
残るは、十余名。
「若雪様、屋敷の内へとお戻りください」
 横目で片郡を見る。
「いえ。この人数では、さすがにあなた一人では荷が勝ちすぎる。どちらにしろここを突破されれば、私の命も、志野や蓬たちの命もありません。私も留まります」
 片郡にもそれは理解していたことのようで、それ以上は言わなかった。
 若雪は躍りかかってきた男の刃を、刀で受けた。
 澄んだ音が響いた。
 そのまま押し戻し、振り払うと相手の右肩を刀で薙(な)ぐ。
 深く息を吐くと、次の相手に対して刀を構える。
(これを、私の生涯最後の剣舞(けんぶ)とする訳にはいかない――――――。丹比道(たじひみち)を逸れたあの小川で、私は無音の剣の禊(みそぎ)を済ませた。なれば今こそ)
 剣戟の音を鳴らすのだ。
 袈裟斬(けさぎ)りに、逆袈裟に、胴斬りに。
 舞うように、若雪は刀を繰り出して襲撃者たちを斬り伏せていった。
 誇らしげにも聴こえる音を響かせながら、若雪はこれまでに無い解放感に酔った。
(これ程に、自由なものか)
 音を殺さない剣とは。
 目を見張る思いだった。
 まるで背中に羽根が生えたようだ。
 病の為に、もう長いこと鍛錬を怠っている。なのに、剣の音を殺すという縛りが外れただけで、有り難いことに鈍(なま)った手足も若雪の意図する通りに動いてくれる。
(今までの私の剣は、実に撓(たわ)められたものであったのだ――――――)
 これならば片郡の身も、自分の身も守れる。
 相手の命さえ、屠らずに済む。
 刀を自在に閃(ひらめ)かせる若雪の姿は、その時まさに一頭の神獣のようであった。
 髪を括っていた組紐は解け、広がり波打つ黒髪に、返り血を浴びた白い衣。
 肩幅に広げ、地を踏みしめた足の片方は袷の裾がめくれ、真っ白なふくらはぎまで覗いている。
 何より輝く両の眼(まなこ)が、純粋に戦闘に傾けた意欲を表わして美しかった。
 襲撃者が残り僅かな人数となり、若雪が相手の一人の肩を刺し貫き、返す刃でもう一人の脇腹を切り払ったところで兵庫が駆け付け、戦局(せんきょく)は決した。
 若雪は荒い息を吐いていた。
 自分で思ったよりも、体力が衰えていたことを痛感した。剣を振るっていた時は夢中で気付かなかったが、この戦いは若雪の身に残っていた余力を大きく削(そ)いだ。
 そして若雪はそのまま、気を失った。

 若雪の着ていた白い袷(あわせ)は返り血でひどく汚れており、兵庫らが担ぎ込んだその姿を見た志野は動転しながらも、蓬と共に若雪を着替えさせた。
 そのまま深い眠りについた若雪の傍に志野と蓬、少し離れて片郡と兵庫が沈黙のままに座っていたところに、嵐が帰って来た。
 何があったのだと問う嵐に、片郡はことのあらましを説明した。
「―――――明智が?」
 眠る若雪を横目に見ながら、嵐が抑えた鋭い声を発する。
「はい、間違いありません。私は若雪様の命に従い、明智様の動向を見張っておりました。襲撃をかけた者の中には、確かに明智様の配下の顔がありました」
「正気の沙汰とも思えんな。今になって、俺らを敵に回す意図が解らん。―――――――…相応の覚悟、あってのことか?」
 桜屋敷は、今では嵐にとって、若雪との日々を静かに過ごす為の、言わば聖域だ。
(それを侵すか、光秀)
 嵐の目に、青白い炎のような怒りがともった。
 良い度胸だ。
「――――嵐様は、どうして留守にしてたんですか」
 ぼそりと尋ねた兵庫に、嵐は目を向ける。
「……野暮用(やぼよう)や。ここで言う程のもんでもない」
「その野暮用の為に。一つ間違えていたら、若雪様は今ここにいませんよ」
 そう言う兵庫に、常の剽軽(ひょうきん)さは無かった。
「兵庫どの」
 片郡がたしなめる。
「俺のせいやと言いたいんか」
「―――――優先する物事の順を、間違いないよう心掛けておくべきだと言っているだけです。若雪様の為に動いた結果、若雪様の身を危険にさらしては、本末転倒でしょう」
 嵐は少し眇(すが)めるような目で兵庫を見た。兵庫もまた、目を逸らさずに嵐を見返す。
「……解っとる。今回のは、俺の油断や。片郡」
「はい」
「明智の見張りを続けろ。ここの守りは兵庫と斑鳩に任せる」
「承知しました」
 兵庫や志野たちが部屋から去り、嵐は一人若雪の枕辺に残った。
 しばし頬杖をついて受け取って来た荷を見ていたが、おもむろにその包みを解いた。
 六韜(りくとう)、と題された六冊の和綴(わと)じの本が中から現れた。何とか手に入らないものかと、懇意にしていた会合衆の面々のつてを辿り、ようやく今日、堺に届く運びとなったのだ。
 今の嵐は、若雪の生きる意欲が少しでも増す為になら、大抵のことはするつもりだった。
 長年探し求めていた品をやっと手に入れた、という安堵で、嵐の気が緩んでいたのは確かだ。何が起きていたのかも知らず、桜屋敷までの帰路、これを目にした若雪の喜びようを呑気にも思い描いていた自分に呆れ果てる。
 青白い若雪の顔を見て、嵐は息を吐いた。
 兵庫の言葉は的を射ている。
 危うく若雪を失うところだったと考えると、今でも冷や汗の出る思いだ。
 よくぞ急場(きゅうば)をしのいでくれた、と若雪や片郡に対して感謝ともつかぬ思いが湧く。だが若雪の体力は、この戦闘でだいぶ持って行かれてしまった。
 自分がいれば、襲撃者など皆殺しにしてくれたものを―――――――――――。
 暗い光を宿した目で嵐はきつく唇を噛んだ。
(――――常に無い生き方を選んだ女子やからか…。こんだけ守り難(がた)いんは)
 若雪はまるで大風の中の目だ。
 本人は至って静かなのに、その周りは荒い風の吹き荒れるように彼女に乱され、勝手に翻弄される。若雪本人にさえ、その余波は及ぶのだ。
(………俺もその一人か)
 若雪に惹かれ近付き、傍にいる。尤も、嵐には他の有象無象(うぞうむぞう)と同じ立場に甘んじる気は皆無だったが。
 稀に好意的な者もいたが、織田家重臣の中には、信長に重用される嵐や若雪を疎んじる者が多かった。
 出る杭は打たれるものだ。
 嵐も若雪も意には介さなかったが、これまでにも悪口(あっこう)雑言(ぞうごん)や嫌がらせの類はあった。
 しかし、このような蛮行(ばんこう)に直接打って出た人間は、光秀が初めてだ。
 無論、その報いは受けてもらわねばならない。
 険しい顔で、眠る若雪の顔を見ながら、嵐はそう結論付けた。
 若雪はそれからも深く眠り続け、次に目を覚ましたのは水無月朔(ついたち)日の早朝だった。
 
 若雪は覚醒と同時に、飛び起きた。
 その途端、くらり、と世界が回ったかのような錯覚に陥り、咄嗟(とっさ)に片手を床につき、身体を支える。――――――自分がどれほどの間眠っていたのか、わからない。
「無理すな、若雪どの」
 障子戸にもたれかかるようにして腕組みをして立っていた嵐が、穏やかな顔で言った。普段と変わらない足取りで、ゆったりと若雪に歩み寄る。
「気分はどうや?」
 歩みながら問う声の響きも、穏やかに優しい。
けれど若雪は、嵐の声の奥底に潜(ひそ)む怒りの気配を、敏感に感じ取っていた。
 自分の留守中に屋敷を襲った無法者(むほうもの)を、嵐が許(ゆる)し難(がた)く思うのは当然だった。
 嵐が若雪の顔色を窺うように、そっと傍らに膝をつく。
「急に動くんやないで。あんた、三日間も眠ってたんや」
「…嵐どの。三日?……ということは、今日は―――――」
 まだ目眩の残る頭に手を当て、若雪が尋ねた。
「今日は、水無月の朔日や」
「襲撃をかけた者たちは…」
「ああ、放り出した。どうせあの傷では、そう動けん。躯(むくろ)の始末は、町代(ちょうだい)寄合(よりあい)に任せた。いつまでも屋敷の庭に、死骸を転がせたないからな」
 答える嵐の顔が、少し険しいものとなる。
「……明智様の配下、と片郡が言っておりましたが」
 どこか納得出来ない風に、若雪が言った。
 嵐が軽く頷く。
「何を血迷うてんのか知らんけどな。旗下に入れっちゅう申し入れの話を、俺が蹴ったんが余程業腹(ごうはら)やったんか……」
 それを聞きながら若雪は、じわじわと信長や自分たちに関する良くない流れを感じていた。安心して乗っていた船の先に、大きな渦が待ち構えているかのような、不吉な予感がする。
「今、……織田様はどちらです?」
 鋭い眼差しで若雪が尋ねた。
「京都の、本能寺や。今日は茶会が開かれるらしいで」
 若雪の肩に単衣を羽織らせてやりながら、あまり興味の無い口調で嵐が答える。
「……兵を連れておいでですか?」
「いや、同行しとるんは近習(きんじゅう)くらいのもんやな。軍勢と言う程のものはおらん」
「明智様は今―――――」
「丹波(たんば)やろ」
「…………」
 では、京都への道のりも近い。
「……それがどないしたんや、若雪どの?」
 次々に問う若雪に、すらすらと答えて見せた嵐だったが、さすがにこれは何かある、と感じたらしい。
 しかし考え込む若雪の耳に、その問いかけは聞こえなかった。
 それでは今は、―――――――光秀が信長を討つには絶好の機会だ。
 光秀が、後先(あとさき)考えられなくなっているのであれば、尚のことだ。
 若雪は初めて明智光秀に会った時、善悪探知法(ぜんあくたんちほう)を行った。
 秘言を密かに唱えたのち、若雪の頭には警鐘(けいしょう)が鳴り響いた。
 決して用心を怠ってはならない人物だと―――――――――。
 だが、同じく光秀に対して善悪探知法を行った嵐は、特に警戒すべき予兆は感じなかったと言った。
 若雪は混乱した。呪術も万能ではない。
 そう思いながら若雪は、自分の感じた不吉なものを忘れることが出来ず、片郡に命じて光秀の身辺を探らせていた。病の身となってからも、探索の報告は続けさせた。
 彼の気質、織田家中における立場、信長との主従関係の在り方。
 そして、昨今の光秀の動きに危ういものを感じていた。
 光秀の動向に関する報告を受けるたび、謀反の二文字が若雪の頭に浮かんだ。
 光秀は今や、それを実行に移そうとしているのではないか。
 桜屋敷への襲撃も、そうと考えれば納得が行く。
 光秀の誘いを蹴った嵐下七忍が、光秀の目的達成の障害となる、と考えたのだろう。
 懐柔(かいじゅう)出来ないものならば、ことを起こす前に潰しておこうという腹積もりだったのだ。
 ――――――――信長をここで、死なせる訳にはいかない。
 それではこれまでの自分たちの労苦(ろうく)全てが、水泡(すいほう)に帰(き)してしまう。
 遠くを見据える眼差しで、若雪は口を開いた。
「嵐どの――――――。京都へ、本能寺へと、向かってくれませんか」
「―――――なんでや?」
 嵐はまず、理由を尋ねた。のっけから何を言う、とは言わない。若雪の言葉や要求には、いつも何かしらの意味があると知っているからだ。
「嫌な予感がします――――――――明智様の動きが、不穏です。以前にも申し上げた通り、片郡を明智兵の中に紛れ込ませています。彼と合流して、明智様の動向を見張ってください」
「……謀反を起こすとでも?」
 嵐も一度はちらりと考えた可能性ではある。
「――――有り得ないとは、言い切れません。嵐どのも、このところの明智様の行動には不可解なものを感じておられた筈」
 見透かすような若雪の言に、嵐は少し考える風だった。
「わかった。すぐに、堺を発つ。兵庫を連れて、片郡と落ち合う。万一に備えて、ここの守りには斑鳩を置いて行く。ええか、若雪どのは大人しゅうしとれよ」
 一旦決断したあとの嵐は行動に迷いが無い。
「嵐どの!」
 素早く部屋を出ようとした嵐に、若雪が声をかける。嵐が振り向いた。
「……もし万一のことがあっても、無理はなさらないでください。どうか、命を第一にお考えください」
 真剣な目をした若雪の、忠告とも懇願ともとれる言葉に、嵐は安心させるように笑いかけた。
「ああ、心配すな。解ってる」
 志野に、若雪の朝餉と着替えの支度を指示すると、自らは旅装束を整え、腰刀を差して桜屋敷を出た。

 その夜半ごろ、兵庫を連れて京都・本能寺へと向かう道中で、桔梗(ききょう)紋(もん)を掲げた軍勢を見た嵐は、目を疑った。
 桔梗紋は明智光秀の旗印(はたじるし)だ。
 彼らは皆一様に、本能寺のある方角を目指している。
 松明が道を照らし出す中、甲冑や馬の蹄の音が物々(ものもの)しく響く。
 嵐たちは、若雪の予感が的中したことを悟った。
「うわちゃー。…こりゃ間違いなく謀反ですね。明智様は、本気ですよ」
 軽く言っているように聞こえる兵庫の声にも、さすがに緊迫したものがある。
(馬鹿な――――――なんちゅう、短慮(たんりょ)を)
 嵐も表情には出さないものの、内心唖然(あぜん)としていた。
「どうしますか、嵐様」
 進むか、退くか――――――――。
〝無理はなさらないでください。どうか命を第一に―――――〟
 若雪の声が、谺(こだま)するようだった。
 だが。
「―――――このまま本能寺に行く。信長公一人だけでも、何とかして助け出すんや」
(すまんな、若雪どの。生きて帰るさかい堪忍してくれや)
 けれどもこののち、それどころではない状況だということを、嵐たちは思い知らされることになる。

 明智軍の目をかいくぐり、本能寺へと行き着いたのは二日の早朝だった。
 その時にはもう、明智の兵が本能寺を囲んでいた。
 嵐たちは展開の速さに置いて行かれまいと必死だった。
 嵐と兵庫は片郡と合流し、明智勢の一員のふりをして、囲みの中に入った。
 中では乱戦が繰り広げられていた。
 嵐たちも各々(おのおの)、得物(えもの)を手に明智の兵を斬った。
 それでも圧倒的な兵力差は、いかんともしがたい。
 およそ百名程度の信長の手勢を叩くのに、異常な数の兵を投入しているように見える。
 そうしている内に、本能寺の内から火の手が上がった。
(信長公――――――――――)
 そんな、と嵐は思った。
 ここで彼に死なれては、嵐の、若雪の、宗久の、信長に賭けた思いはどうなる。流れた血は、流した血はどうなる。
 嵐は、若雪が信長に尽くすことを苦痛に感じていると知っていた。それでも、乱世を終わらせる為にその苦痛をねじ伏せて、若雪は戦っていた。乱世の終結は、ひいては納屋の人間を、大事な身内を守ることにも繋がるからだ。それを嵐はずっと傍で見て来たのだ。自分とて、好んで人を殺めて来た訳ではない。中には救いたいと思っても、止むを得ず斬らねばならなかった者もいた。血に染まった手から、泰平の世を生み出すのだと信じてここまで来たのだ。功名心ばかりではやってはこられなかった。
 それらの思いも全て、ここで今灰燼(かいじん)に帰(き)すというのか。
 ようやく訪れる乱世の終結を、確信していた矢先だというのに。
〝そういう時代だったんだよ―――――――あのころは。それは今でも、乱世という点では同じなんだろうけどね……〟
 明臣の言葉が蘇る。
〝この世のあなたこなたに、無法など幾らでも転がっておるではないかっ!私だけが特別なことをしたのではない〟
 山田正邦の言葉が蘇る。
 人の世は、所詮このような在り様でしかないのか。
 嵐は茫然とした。
 いつの世も、時代は平然と、人に対して理に合わない仕打ちを行うものなのか。
 儚い一生を足掻(あが)きながらも懸命に生きる人間に、こんな時代だから、というたった一言で、どのような成り行きにも涙を吞んで耐えろと言うのか。
 時勢ゆえに止むを得ないのだと。
(冗談やない―――――――冗談やない)
 
 火の手が、とぐろを巻く蛇のように、本能寺の内に回りつつある。
 熱に炙(あぶ)られた風が、肌に痛い。
 本能寺の境内を駆ける嵐の目が、静かに閉められようとしている、奥まった部屋の障子戸を捉えた。
 開いた隙間から、白い布がひらりと見える。
 帷子(かたびら)の端だ。
 誰かが障子戸を閉め、身を翻らせようとしている―――――――――。
 考えるより先に口が動いていた。
「信長公――――――――!」
 障子戸の動きが一瞬止まる。
 けれど再び動き、僅かに開いていた隙間が閉じられる。
 白い帷子が、その奥にすうと消えてゆく。
 嵐の目に残像だけを残して。
 嵐は声をあらん限りに叫んだ。
「信長公――――――――――――――!!」
 障子戸は完全に閉まり、帷子の白は最早どこにも見出せない。
 乱世の果てが――――――――見出せない。
 やっと辿り着いたかに思えた終着の地は、今、嵐の目の前から消え失せた。

「女たちを先に逃がせ!上様の御座所(ござしょ)には一兵(いっぺい)たりとも近付けるな!!」
 揺らぐ炎の中、勇ましい響きで指示を飛ばす声が聞こえる。
 本能寺の回廊で知った顔を見つけ、嵐は大声で呼びかけた。
「成利(なりとし)どの!」
 声は届いたようで、斬り結んでいた敵の首を斬り払うと、相手はこちらを見た。
「――――嵐どの。参られたのか」
 そう言って、返り血を浴びた美しい顔で凄絶(せいぜつ)に笑って見せた少年は、森蘭丸成利(もりらんまるなりとし)だった。
 小姓として信長に重用(ちょうよう)され、十七歳という若さで既に城持ちの身だ。
 手にした刀を空(くう)にヒュッと一振りして、刃に付いた血を落とす。彼の立つ広縁には、敵味方知れぬ躯が、既に幾つも折り重なっている。
「貴殿は退(ひ)かれよ、嵐どの。上様は、貴殿らとの道行(みちゆき)は望んでおられぬ」
 信長も成利もここを死地と決めたのだ、ということをその言葉から嵐は察した。
 ここに至ってようやく、嵐も信長を生き永らえさせることを断腸(だんちょう)の思いで諦めた。
 今となっては自分の命さえ、どうなるのか知れたものではない。
「―――――長隆(ながたか)どのや長氏(ながうじ)どのも、同じお覚悟か」
「無論――――――。この敷地のどこかで、戦っておる。上様の、御最期(ごさいご)を守らんとして」
 坊丸長隆(ぼうまるながたか)も力丸長氏(りきまるながうじ)も成利の弟で、まだ年若い。だが戦場において年の長幼(ちょうよう)は関係ない。
「退かれよ、嵐どの」
 討ちかかってきた兵を繰り出す刃で串刺(くしざ)して、再び成利が言った。
 勢いつけて刀を引き抜くと鮮血が飛び散り、刺された兵がどう、と倒れる。
「貴殿が上様に再三(さいさん)お尋ねであった、吹雪がなんとかという言葉の意味、上様はお市様には何やらお答えのようであった。さればお市様に、訊いてみられるがよろしかろう」
 火勢と明智兵に押され、それ以上は成利も言う余裕が無いようであった。
 襲いかかる敵の、刃を受け止める。
 式神はとうに五体共解き放っている。今頃それぞれに明智の軍勢に牙を剥(む)いているだろう。
とは言え、押し寄せる明智兵、雲霞(うんか)のごとしである。
加えて火の勢いは増すばかりだ。
嵐がいる横手の部屋の梁(はり)が、メキメキという音を立てながら焼け落ち、激しい火の粉が勢いよく舞い上がる。燃え盛る火焔(かえん)の舞いは、こんな時でもなければ見惚れてしまいそうな程に華麗で豪勢だ。しかし炎が実際に振るう力の暴悪さときたら、とても始末に負えるものではない。障子戸は桟(さん)だけをかろうじて残し、和紙が張られた名残りは既に無い。その残った桟でさえ、今や巨大な薪(たきぎ)と化している。炎の熱は、嵐の総身を舐(な)めんばかりだ。
ここから生還出来るかは、さすがの嵐にも危ぶまれた。
(どんだけの兵を注(つ)ぎ込んでんねや……)
 現状で信長を討つ為だけなら、それ程多くの兵を割く必要は無い。
 光秀謀反の報せを聞いて駆けつける織田家諸将に備える兵力を、光秀は温存していないのだろうか。
〝闇夜に赤々と燃え上がる炎は、そこら一帯を照らすようだった〟 
 今は闇夜でこそないが、明臣の言っていた光景はこのようなものであったのではないかと、嵐は妙に冷静に考えた。
 世の無常と自分の無力を思い知らせる炎の煌(きら)めき。
 一切の生を否定するかのような激しい赤。
燃え盛る炎と共に落城する城を見たことも嵐にはあったが、今目にする炎はなぜか、それとはまた異なるもののようだと思った。
(信長を連れてく炎やからか)
 天下を手中にすることを間近にした男が、恐らくは例えようも無い程の無念を抱えて、この劫火(ごうか)と共に逝くのだ。
 行き着く先はどこだろうか。
 地獄だろうか。
 信長は、極楽も地獄も、己の罪業による報いも、およそ信じてはいないようだった。
(弥陀の誓ひぞ、頼もしき……)

〝弥陀(みだ)の誓ひぞ頼もしき 十悪五逆(じゅうあくごぎゃく)の人なれど 一度(ひとたび)御名(みな)を称(とな)ふれば 来迎引接(らいごういんぜう)疑はず〟
 
腰刀を持った手で明智の兵を斬り伏せながら、そんな今様(いまよう)があったなと、嵐は頭の片隅で考えていた。
どんな極悪非道の人間でも、心から「南無阿弥陀仏」と唱えたなら、極楽へ迎え入れられると言う。もしも一向宗徒の多くを殺めた信長さえも受け容れるとしたら、阿弥陀仏の寛容さとは大したものだ。人の身には到底計り知れない。
 しかし信長は、決してそれを唱えはすまい――――――――――。
 嵐は自分が埒(らち)も無い考えに気を取られていることに気付き、首を強く一振りした。
 今は目先の現実から逃げている場合ではない。 
(信長公とは、いつか冥府の暗闇ん中で再会するかしらんけど――――ここで、俺まで死ぬ訳にはいかん)
 成利に言われずともそう思いながら、腰刀を振るっていた。
 今ではその手にも足にも、嵐の身体のあちこちに小さな無数の水ぶくれが出来ている。
 着ている物は煤(すす)だらけとなり、見る影も無い。
 片郡も兵庫も、目前の明智兵と懸命に闘っていた。
 その中で兵庫がするりと嵐に近付き、言った。
「嵐様。俺と片郡で、退路を開きます。逃げてください」
 常と変わらない、あっさりした言い様だった。
 兵庫の顔も煤だらけで、色男が台無しだ。
 手にした二丁鎌は、元からその色であったかのように真紅(しんく)に染まっている。染まるだけでは足りぬようで、ぽたぽたと滴(したた)り落ちてもいる。
 片郡の握る太刀も、刃こぼれがひどい。
 嵐が刃を振るう手を止めて、兵庫の顔を見た。
「……自分が言うてることの意味、解ってるんか?」
「そりゃ解ってますよ」
 兵庫は軽く肩を竦めてそれだけを言い、少し笑った。
 脇にいた片郡も、小さく頷く。

 若雪は嵐を送り出したあと、横になることも出来ずに、単衣を肩にかけたままただまんじりと時を過ごしていた。
 今は水無月の四日。昼餉を済ませたばかりだ。嵐たちのことが気がかりで食欲も萎(な)えがちだったが、なんとか出された食事を胃に押し込んだ。
 嵐たちが京都へと向かってからおよそ三日が経過している。
 明智光秀、本能寺にて謀反、との報せは既に堺にも届いていた。
(納屋は。養父上はどうされているだろう)
 そんなことを思いながらも若雪はただひたすらに、嵐たちの帰りを待ち続けた。
 待つことしか出来ない身が、これ以上無い程に辛かった。苦行のようにさえ感じた。
 近くに侍(はべ)る斑鳩の顔も固い。
 本来であれば、若雪に横たわって養生するよう勧めるべきだが、若雪の気持ちが痛い程解るだけに言い辛いものがあった。また、明智の兵が今後どのように動くかもわからない今は、万一の襲撃者の再来に備え、若雪を守るべく身構えておく必要が斑鳩にはあった。
 その為、手に馴染(なじ)んだ剣は片時も離さずに傍らに置いてある。

「嵐様!!」

 蓬の声が響いて聞こえた時、若雪は床をあとにして駆け出していた。
 白い裸足が風のように駆けたのに、一拍遅れて斑鳩が続く。
 足元が覚束(おぼつか)ず、よろめいた若雪を支える。
 上り框(かまち)のところに、倒れ込むような嵐の姿があった。一見して、炭の塊のように見えなくもない。乞食よりもまだ酷い在り様だった。
「…………水…」
 かすれた声で一言それだけ言った嵐に、蓬が慌てて水を汲んでくる。
 嵐は柄杓(ひしゃく)を受け取ると、勢い良くそれを飲み干してまた柄杓を突き出し、無言のまま更に一杯の水を求めた。
 顔や手はもちろん、上衣や袴まで煤を被ったようで、あちこちにかぎ裂きや焼け焦げたあとがある。脚絆も手甲もボロボロで、最早その用を成していないものに見える。いかにも死地から生還した、という姿だ。身体の何箇所かに軽い火傷が認められるものの、大きな怪我は見受けられない。そのことに若雪はひとまず安堵する。
 しかし、顔色は悪かった。やや青ざめている。
 嵐はとりあえず湯で絞った布で身体を拭い、怪我の手当を受け、着物を着替えて食事をとった。

 それから斑鳩と共に若雪の部屋に集い、寝床に座った若雪と斑鳩に報告を始めた。
 几帳の手前に座した嵐は、既に平生(へいぜい)の顔色に戻っていたが、腕や目に見えるあちこちの箇所に布が巻きつけられ、火傷の手当が施されているのが目に痛々しい。右頬にまで膏薬(こうやく)が貼ってあり、優しげな顔立ちの中でそれがやけに目立った。
「―――――もう耳に入っとるやろけど、明智日向守光秀が謀反を起こした。それを受けて織田信長公は―――本能寺に火を放ち、自刃しはったようや。亡骸(なきがら)は明智が躍起になって探しとるようやけど、未だに見つかったっちゅう話は聞かん。近くの妙覚寺には信長公の嫡男・信忠(のぶただ)様も滞在してはったけど、――…恐らくは、もう亡(の)うなってはるな」
 若雪の部屋で、嵐は若雪と斑鳩に向けて淡々と語った。
 表情がまるで無い。
 予め知っていたことであっても、嵐の口から直接に事実を聞くのでは重みが異なる。
 若雪は改めて、これまでに積み上げてきたものが、脆(もろ)くも崩れ去る音を聞いた気がした。
 楼閣(ろうかく)の崩壊する音を聞いた気がした。
(私が――――私たちが今までに立ち働いてきた意味は――――――…)
 ぽっかりと足元に開いた暗闇に、身が吸い込まれるような思いだ。
「それから――――…」
 そこで嵐は初めて言い淀(よど)んだ。
 一瞬、若雪に視線を遣る。
「兵庫と片郡が死んだ。俺を逃げ延びさせる為に、明智軍の厚い包囲網を破ろうと戦うて―――――――」
 斑鳩が息を飲んだ。
 嵐は表情を変えない。声も全く変わらない。ただ必要な報告をしただけ、という様子だった。悲しみに揺らぐ気配は、少しも見受けられなかった。
 斑鳩は若雪の顔を窺うと、自らは静かに部屋を出た。
(兵庫――――――)
 あの気ままな男が、もうこの世にはいないと言うのか。
 若雪は茫然とし、いつか兵庫が言った言葉を思い出していた。
〝そして俺は多分、自分が死ぬ時も、きっと自分の判断に満足しながら死ぬでしょうね。あえて終焉(しゅうえん)の地を、自分で選ぶんでしょう〟
 彼は言葉通りに、終焉の地を本能寺と選んだのだ。
 片郡の、大柄な体躯に似合わずつぶらな瞳を思い出す。
 忍びに似合わぬ純朴さが、若雪には好ましかった。初めて顔を合わせた時、真っ赤になって口籠りながら忠誠の言葉を述べた様子を、今でも思い出す。
 驚愕に、未だ身動き出来ない若雪を、嵐は見遣った。
「私が――――――何も言わなければ、」
 低く、震える声で若雪が言った。顔は青ざめ眉間に皺を刻み、口角は低く下がっている。
 若雪はきっとそう言うだろうと、嵐は思っていた。
 容易く予想のつくことだった。
 だから素早く、叱るように否定した。
「ちゃう」
「けれど。私の言葉が、彼らを死地に追い遣ったようなものです。片郡も、私が命じなければ、本能寺に居合わせなかった筈です。――――私が、私の言葉が――――――…!」
 若雪はこんな時、ただ嘆きにのみ逃げたりはしない。自分の不手際に怒り、憤るのだ。
 潔く、物事の結果を自らの背負うべきものとして認めながら、人の命を慈しみ、惜しむ。
 嵐はそのようにあることが出来ない。
 兵庫と片郡は、若雪という仕え甲斐のある主人を持ったな、と嵐は心の隅で思っていた。本望だろう、と。
「それはちゃう。明智の謀反をこの目で確認した時、本能寺に向かうんを決めたんは俺や。若雪どのの事前の忠告を受けといて、下した判断の責は俺にある。片郡を撤退させんかったんも俺の判断や。それに…あいつらの覚悟を、そないして侮辱したらあかん。どないな命令を受けようと、最後には、あいつらが自分の意思で選んだことや。決めたことや」
 嵐はきっぱりと言い切った。
 若雪は、感情が溢(あふ)れ出す一歩手前の顔で嵐を見た。
(……泣くんやろな)
 たかだか一人や二人の、下忍の死に。
 尤(もっと)も嵐の心境も、実際のところ人のことを言えたものではなかった。
 嵐下七忍は嵐にとって配下であると同時に、苦楽を共にしてきた戦友でもある。
 片郡は、太刀を取れば心強いことこの上ない男だったが人柄は素朴で、そのぶん嵐や若雪に対する忠誠心は厚く、嵐も気を許すところが多かった。気の好い男で、他の七忍が逃げる中、うわばみの嵐に大人しく付き合い、朝まで呑み明かしたことも度々あった。
 兵庫は、七忍の中でも嵐と最も付き合いが長く、いつも嵐に対して物怖じせず意見を言う、片腕のような存在だった。遠慮の無い物言いにはたまに本気で腹が立ったが、それも、誰より嵐を含めた嵐下七忍と若雪を思うが為の言葉だと解っていた。
〝若雪様が、泣きますよ。あなたの為に。いいんですか〟
 そう言って、嵐を諭したのは兵庫だ。
 言った当人が若雪を泣かせてどうする、と思う。
 嵐を逃がす為に、兵庫が自らの命を引き換えたことへの、後ろめたさから来る腹立ちもあった。
兵庫も片郡も嵐下七忍として名が知られていた為、彼らの首を獲るにおいては激しい争奪戦が繰り広げられた。嵐は開かれた退路により逃げながら、その気配を背中で聞き取っていた。そして一生、その時のことを忘れまいと思った。命ある限り背負っていく。
しかし、それを若雪に告げるつもりは無かった。
別れる間際の、兵庫の言葉を思い出す。
〝俺はね、嵐様。嵐様が見たことの無い若雪様を知ってるんですよ。俺だけしか多分見たことのない、あの方の一面を。常には見られない美しさと、声を。だからその時の若雪様の姿くらいは貰って行きますよ。俺の、宝物として。それくらいは、許されるでしょう〟
 そう言って、にやりと笑った。
最期(さいご)まで、喰えない男だった。
あんな場面で言われては、許すも許さないも無い。
冥途(めいど)の土産(みやげ)と言わず、おどけたように、宝物と称したところがいかにも兵庫らしかった。
(女子やあるまいし、似合わん言い方しよって)
「……ことがこうなってしもたら、この先の方針を考える必要があるな。果たして明智の天下がいつまで続くもんやら、わからんけど」
 平静な顔を保ったままそう続ける嵐が堪らなくなり、若雪は気付くと両手を伸ばしていた。白く細い腕が、嵐へと向かう。
 目の前の鷹は、傷ついている―――――――――。
 癒されなければならない、と思った。
 嵐の頭を、引き寄せる。何の予想もしていなかった嵐は、呆気なくその頭を若雪の胸に収めた。火傷の痛みより驚きが勝った。瞬きする。若雪はそのまま、嵐の上半身を包み込むようにかき抱いた。
「良いのです、嵐どの。辛い時は、泣いてよろしいのです。――――泣かねばなりません。
生きて行く為に。あなたが私に、教えてくださったことです」
 そう言いながら、若雪の目はみるみる涙で潤(うる)み、滴(しずく)がこぼれ落ちた。
 淡々とした風情を崩さない嵐が痛ましかった。
 悲しみを切り離して前だけを見ようとする嵐の強さが、かえって若雪の胸を苦しくさせた。
 人は前を向いて進むしかない生き物だが、それでも失くしたものを思い、涙を落としもするのだ。
 落としても良いのだ。
 だが嵐は泣かなかった。
 忍びの墓標は心の中にのみ立つ。
「こんなんで泣いてたら忍びは務まらんわ。あいつらへの餞(はなむけ)は、若雪どのの涙で十分やろ」
 柔らかな腕(かいな)に抱かれて、嵐は乾いた笑いを洩らした。目に水の満ちる気配は無い。
「ですが――」
 言いかけた若雪の言葉を引き取るように、嵐は変わらない平淡な口調で続けた。
「……――せやけど、もう少しの間、このままでいてもらってもええか?」
「……………」
 若雪の細い腕に力が籠る。
嵐は優しい腕の中で目を閉じた。
そうして翼を傷めた鳥のように、身じろぎせずにいた。

 

吹雪となれば 第七章

吹雪となれば 第七章

若雪を労咳に罹るよう仕向けたのは兼久だった――――――。それを知った嵐は、刀を手に兼久の邸に向かう。 第七章も、目まぐるしい章となります。 「 桜よおまえ 咲き誇れよ この目(まなこ)が消えても 残酷なほど健やかな 理(ことわり)のもとに 」 作品画像は、昼の桜と夜桜の両方の要素を取り入れたブレスレットです。

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登録日
2014-07-08

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