清らかな情死
とあるホテルの一室で不倫カップルの心中遺体が発見された。
最初は単なる心中事件と思われたのだが、捜査が進むにつれ
さまざまな不審点が浮かび上がってきた。
殺人? 密室殺人? 犯人は? 犯行方法は?
(ストーリーの進行上、情交に関する描写やセリフが出てきます。
良い子の皆さんは読まないようにしてください・・・(笑))
「心中事件ですか。」
日野は矢崎と顔を見合わせる。
「それはまた古風な話ですね。」
一之瀬も頷いたままだ。
朝読新聞甲府支局の一番の若手記者、日野悠太が、何かネタは無いかと、甲斐警察署に顔を出したら、顔見知りの一之瀬からそんな話を聞かされたのだ。
ちょうど一緒に居たのが、いつもあちらこちらで一緒になる甲斐日報の矢崎で、三人でお茶を飲みながらの雑談になったところだ。
お茶とは言っても、署の一階ロビーの自販機で買った紙コップのコーヒーを持って、外に有る灰皿のまわりでの立ち話だ。
「それって、借金か何か問題の有る夫婦が、この先に絶望して心中したっていうような話ですか。」
「それがな。夫婦じゃなくて不倫のカップルなんだよ。」
「いまどきなら、不倫はしても心中までしないでしょう。簡単に離婚しちゃうようなご時世なんだから。」
「そうですよ。別れてすぐに別の相手と一緒になっても、世間の目だって厳しくないでしょうしね。」
「まあ、お互いに惚れあった二人が、一緒に死んだのだから、事件性は小さいんだけどな。」
「小さいって事は、まったく無いっていう話でもないんですね。」
「ああ、ちょっと腑に落ちない事がいくつか有るんだ。」
一之瀬の話はこんな内容だった。
一昨日の朝、高速道の甲斐インター近くのホテルで、男女の遺体が見つかった。
二人は全裸で浴槽に浸かり、お互いの左手首の動脈をナイフで切って失血死していた。風呂の湯は二人の流した血で赤く染まっており、翌朝、部屋から応答が無い事を不審に思い、様子を見に来たフロント係と掃除婦がそれを発見した。
現場は昔ながらの郊外型のホテルで、昔ならモーテルとかラブホテルとか呼ばれたようなものだ。下がガレージになっていて、そこに車を停めて部屋に入るタイプの宿で、隣の部屋との行き来は従業員が通る通路側からしか出来ないし、そこは常時施錠されている。ガレージ側ドアはセンサーが付いていて、フロントで開閉がモニターされている。
誰かが入り込んで、殺したという可能性は考えられない。
所持物から二人の身元が確認されたが、それぞれ別の相手と結婚している、いわゆる不倫カップルと判った。おそらく、不倫の末の思いつめた心中だろうというのが、関係者の意見だ。
「それで、一之瀬さんは何が腑に落ちないんですか?」
「いや。一応、変死事件だから、遺体は解剖にまわったんだがね。情交の痕跡が無いんだ。」
「それが不審なんですか?」
「そうだよ。お互いに不倫の立場のカップルが、死ぬ前に一戦交わしもしないで、裸で死ぬだろうか。そこが気になるんだ。どうだね、君たちなら。」
「そうですね。処女と童貞ならともかく、もう経験済みのカップルならば、死ぬ前に一発やってから、って、そう思いますよね。」
「矢崎君なら、一発どころか、それこそ死ぬまで何度でもやるんじゃないか。」
一之瀬はそう言って笑う。
「鑑識の誤鑑定ってことは無いんですか。湯船に一晩浸かっていたんでしょう。」
「死亡推定時刻は午前一時頃だし、発見は朝の八時だから、まあ七時間位は湯に浸かっていたんだ。それだけ時間が経つと、男のモノをあそこに入れたとか入れないとかの判断は難しいかもしれないんだが、解剖医の話では、女の体の中に精液は無かったっていう事だ。」
「コンドームを使ったんじゃないんですか。」
「今から死のうっていう人間が避妊をするかな。それに部屋の中からそういうものは発見されていないんだよ。」
「まあ、死ぬ前にしなくても、今までに飽きるほどしてるかもしれませんしね。」
「それとな、血液中から睡眠薬成分が検出されたんだが、その薬のパッケージも無かったんだ。
医者が言うには、こんなに大量に飲めば、手首を切るよりも眠り込む方が先じゃないかって言うくらいの量だ。」
「コンドームも無い、薬の瓶も無い、ですか。確かに変って言えば変ですね。」
「そうは言ってもな。セックスしなかったのは本人達の意思だから何とも言えないし、薬だって家に有るものを、ティッシュにでも包んで持って来たって言えば、それまでだからな。」
「そうですね。まあ、気にかかる事は有っても、心中事件なんでしょうね。」
「そういうのは、記事として書き難いんだよな。」
矢崎がぼやくように言う。
「女性雑誌の三面記事ならともかく、新聞に書くような話じゃ無いでしょう。ホトケさんの名誉にも関わりますし、残された家族にも影響しますからね。」
「まあ、警察としても心中事件として幕引きをするんだと思うよ。騒ぎ立てても良い事は無いからな。」
「一応、それぞれの旦那と女房にも話は聞いたんだけどな。どちらも夫婦二人暮らしで子供は無し。浮気なんか気付きもしなかったって、あっけに取られてたよ。そういう意味では似たような立場の二人だったんだろうな。」
「二人の関係とかはどうなんです。」
「それも判らんのさ。仕事の上でも、過去の経歴でも接点は無さそうだ。住んでるところも離れてるし、どうやって知り合ったのかも、どの程度の頻度で会っていたのかも不明だ。心中しなきゃならないような動機も無い。」
「まったく関わりの無い二人が、誰にも知られずに知り合って、深い仲になって、心中までしたってことですか。まあ、美しいって言えば美しい純愛物ですね。」
「一之瀬さんが気になってるなら、ホトケさんと関係者の顔ぐらいは拝みに行きましょうかね。まあ、記事には成りそうもない話ですけど。」
「ああ、今晩の通夜くらいは顔を出して、線香の一本もあげてこようとは思ってたんだ。一緒に行くかい。」
日野は今日の予定を思い浮かべ、一之瀬の言葉に頷いた。矢崎も同行すると言う。
事件が事件だけに、通夜の参列者もまばらだった。
一緒に死んだからと言っても、世間に認められていない関係で起こした事件だ。それぞれ別々のセレモニーホールで葬儀が行われる。同日の同時刻に式が行われるのが、死んだ者に対してのせめてもの慰めだろう。
二人はまず、岩佐哲也の通夜に向かった。
遺影の顔は、二枚目の優男だった。いかにもこんな事件を起こしそうという感も有る。
喪主を務める奥さんの弓子の方が、今で言う肉食系というイメージだと、日野は思った。
会社関係の弔問客が主なのだろう。数人のグループでひそひそ話をしている者も居る。
奥さんは、事情聴取に当たった一之瀬の顔は覚えていたらしいが、礼をしただけで何も話さなかったし、日野と矢崎もあえて自分の身元を明かさず、一之瀬の部下のような顔をして焼香を済ませた。
その後、ちょっと離れた別のセレモニーホールへと向かう。
「通夜のハシゴなんていうのも、嫌なものですね。」
「そうだな。まあ、大きな事件や事故で、合同葬儀なんていう話になると、それはそれで嫌なものだけどな。」
一之瀬も過去にはそういう場に顔を出したことも有ったのだろう。暗い表情になる。日野はあえてその事には触れないように言葉を選ぶ。
「あの奥さんも、いきなり旦那に死なれると大変でしょうね。」
「まあ、俺たちの仕事柄、いきなり人生が変わる場面は見てるけど、あの奥さんなんかはまだ良い方じゃないか。」
「そうなんですか。」
「やっぱり、生きてくには先立つものが必要だからな。一番困るのは、子供を抱えた専業主婦だよ。それも、生活レベルがギリギリで保険なんかに入ってる余裕が無いような若い連中だ。旦那の稼ぎで食ってたけど、いきなり事故かなんかで死んじまって、小さな子供を抱えたシングルマザーが路頭に迷うってケースだな。」
「交通事故で被害とかなら賠償金も出るでしょうけどね。」
「自損や加害の事故、喧嘩なんかの暴力事件。保険なんか出ないケースもあるしな。労災でも小さい会社じゃ何十万か香典だしてそれっきりだ。すぐに金に困る羽目になる。」
「あの奥さんは大丈夫なんですか。」
「ああ、きちんとしたところにお勤めだそうだよ。子供も居ない事だし、すぐにでも次の男を見つけるんじゃないか。生命保険も有るらしいから、金にも困らないだろうしな。」
「自殺でも保険って降りるんでしたっけ。」
「たしか、一年以上すれば大丈夫じゃなかったかな。こういうケースではどうなるか知らんが、自殺と同じ扱いになるんじゃないか。」
水村真紀子の通夜は、岩佐よりもっと閑散としていた。結婚と同時に退職し、専業主婦をしていた真紀子は、仕事上の付き合いなども無かったのだろう。夫の勇二の関係者が多い様子だった。
「旦那は運送関係の会社をやっててな。最初は奥さんもその会社で事務を手伝ってたらしい。
まあ、規模が大きくなって、手伝い程度じゃ間に合わなくなって、専門の事務員を入れたんで、専業主婦になったらしいよ。」
「そうですか。旦那もいかにも運送屋っていう身体つきですね。ラグビーとか格闘技とかやってそうな感じで。」
「いまどきの事だから、運送屋って言っても、ハンドル握るのとフォークリフト動かすのが出来れば、体力は必要ないんだろうけどな。」
「それに、会社の社長なんでしょう。自分でも現場に出るのかな。」
「どうなんだろうな。人を使って、自分は仕事の手配だけしてれば良いのかもしれんな。」
水村勇二は、妻を失って悲しいというよりも、悔しいような表情を浮かべて、弔問を受けていた。妻を寝取られ、心中までされた夫としては、悲しみよりは怒りの方が大きいのも理解できる。
遺影の真紀子は、美人というよりは、可愛いと表現した方が良いような、清楚な女性だった。
「こんな可愛い女性が、不倫して心中までしちゃうんですね。人は見かけによらないですね。」
「ああ、旦那と並べたら本当に、美女と野獣のようだったらしいよ。小柄だからなおさら、そう見えたんだろうな。」
翌日、別の取材で出かけた日野と先輩の水谷は、心中事件の現場のホテル付近を通りがかった。
水谷には、一之瀬から聞いた話や通夜の様子を、道すがら話してある。
「記事にはならないんだろうけど、どうせここまで来たんだし、日野くんが首を突っ込んだ話だから、現場も眺めて行こうか。」
水谷はそんな事を言って、ホテルに車を向ける。
フロントを訪れると、こんな昼間に男二人が来たと一瞬不審な顔をされた。
新聞社の名刺を出して、事件の様子を聞きたいと言うと、第一発見者の掃除婦に合わせてもらえた。
掃除婦の三上和歌子は近所の主婦で、アルバイトとしてこのホテルの掃除をしているという話だ。もう一人の発見者のフロント係の岡村は、夜勤担当で、夜の八時からが勤務時間だと言う。
「こんなホテルだから、週末はにぎやかなんだけどね。あの日は三組しか客は居なかったって、岡村さんは言ってたよ。三号室と七号と八号だったね。
あの事件は七号室だったんだ。
岡村さんの話だと、三号室のお客は割と早い時間に来て、ご休憩だけで帰って、その後、十時過ぎに七号室に入ったらしいよ。そのちょっと後に、八号室も入ったって。
それで、八号室のお客は夜中の二時頃に帰ったけど、七号室は朝になってもそのままだし、岡村さんが内線で呼んでも出ないし、不審に思ったのさ。
あたしが来て、他の部屋の掃除も終わらせて、あとはあそこだけになっちゃったから、どうにかしてよって、急かしたのも有るんだけどね。」
「お客さんが、朝寝坊してのんびりしてるようなケースって無いんですかね。」
「全然無いってことはないけど、最近は珍しいね。日曜なら有るかもしれないけど、平日だし。それに、泊まりの時間は八時までで、それ以降は一時間あたりいくらって料金設定だろう。普通はその時間までには帰るからね。延長だったら、たいていは客の方からフロントに電話してくるんだよ。
ところがあのお客は帰る様子も無いし、フロントにもなんにも言ってこない。岡村さんが内線で呼んでも出ない。それも、時間をおいて、何度か掛けたらしいんだけど、ちっとも出ないんだって。」
「それで、二人で様子を見に行ったんですね。」
「そうだよ。あたしも岡村さんも、マスターキーは持ってるから、どこの部屋でも入れるんだけど、お客さんの居る部屋にやたらに入るわけにもいかないしね。
岡村さんが鍵を開けて先に入って、あたしも続いてったんだよ。ベッドのシーツはそれなりに乱れてたし、服もその辺に脱ぎ散らかしてあったけど、本人達が居ないじゃないか。かくれんぼじゃないんだから、残る場所は風呂だろう。そっと覗いたら、お湯が真っ赤になってたんだよ。お湯って言ったって湯気も出てないような冷めたお湯だろう。声をかけても返事もしないし、顔色を見てもこれは駄目だなって思って、警察に電話したんだよ。」
「じゃあ、見つけた後は手も触れてないんですね。」
「ああ、もちろんさ。何かの事件だったら困るし、死体に触るのも気味悪いしね。」
「やっぱり思いつめた挙句の心中なんでしょうかね。」
「そうなんだろうね。ドラマなんかで手首を切るっていうのは見たことあるけど、実際にあんな風に死ぬ事があるなんて、考えた事も無かったね。死に顔は綺麗だったよ。
こう言っちゃなんだけど、あたしにしてみれば、後片付けも楽だったから助かったよ。浴槽を洗うだけで済んだからね。絨毯の上で首でも吊られれば、大変だろうからね。」
「大変って言うと。」
「ほら、そういう死に方すると失禁するって言うじゃないか。あたしも実際に見たことは無いんだけどね。大きい方も漏らすって聞いた事が有るよ。そんなのを二人分も片付けるよりはずっと楽だろう。」
「確かにそうですね。」
水谷がそう言って苦笑する。
「でもね、死に顔は綺麗だったけど、覚悟の心中をするんなら、もうちょっとあれこれきちんとしておけば良いのにね。」
「きちんとですか。」
「そうだよ。ベッドも乱れっぱなし。服だって脱ぎ散らかしたまま。いくら死に顔が綺麗でも、脱いだパンツが放り出したままで、他人様の目に付くところに転がってるんじゃ恥ずかしいだろうに。そういう事は気にしないのかね。」
「ベッドも乱れてたんですか。」
日野は不思議に思って聞き返す。
「そうだよ。服の散らかりようも、ベッドの乱れ方も、やる事はやりましたっていう感じだったよ。」
「おかしいな。検死の結果だと、やる事をやらずに死んだような事を言ってたんだけどな。」
「そんな事は無いだろう。ここに来る客なんてそれが目的なんだし、ましてこれから死にましょうっていう二人なんだから、この世の名残にって思うのが普通だろう。」
「ゴミ箱の中に、コンドームとかは無かったんですよね。」
「ああ、部屋に入って、いきなり死体を見つけちゃったんで、掃除も何もする暇は無かったからね。警察が来て、部屋中の指紋を取ったり、ゴミ箱から服から全て調べて行ったから、有れば警察が見つけてるだろう。」
「お客にもいろいろ居るからね。きちんとベッドの乱れを直して帰る客も居るし、中にはゴミ箱の中のゴミまで持ち帰る客も居るんだよ。そういう客は使用済みのコンドームなんかを見られるのが嫌なんだろうね。まあ、ベッドも風呂やトイレも散らかしっぱなしっていう客も多いけどね。
死んじゃうんならゴミを持って帰るわけにはいかないだろうけど、せめて脱いだ服くらいはきちんと畳んでからにしたいよね。」
そんな話を聞かせてもらって、二人は現場を後にした。
ホテルから出る時に、水谷は振り返って首をかしげた。
「おかしな点がいろいろと有るよな。」
「セックスの痕跡とかですか。」
「それも一番の疑問なんだけどね。」
そう言いながら、現場の全景を指す。
「さっきの話だと、三号室に客が入って帰った後で、七と八に続けて客が入ったんだって言ってたよな。」
「そうですね。」
「このホテルは全部で十室有る。客は勝手に入ってきて、どこでも好きな空室に車を停めて部屋に入る。フロントで部屋を指示されるわけじゃないし、入口からなら、どこの部屋が空いているか一目で判る。」
「そうですよね。車が停まっていれば、そこは先客が居る部屋ですからね。」
「お前が彼女を連れて、ここに来たとしよう。十室有る中で、七号室以外はすべて空室だ。どこの部屋に入る。」
「そうですね。三号室辺りかな。」
「そうだろう。まあ、三号室は先客が帰った後で、入り口には看板が立っているから、他の部屋を選ぶ事になるが、それでも、二とか四とかを選ぶだろう。」
「確かそう言ってましたね。平日は客が少ないから、掃除はまとめてあの人がやるって。使用済みの部屋の前には、『清掃前ですので、他のお部屋をお選びください。』っていう看板を出すんでしたっけ。」
「そうだな。この場合、選択肢から三と七が消える。でもやっぱりお前は八号室には入らないだろう。」
「まあそうでしょうけど。どうしてです。」
「こういうところに来るのは、ちょっと後ろめたい思いのあるカップルだ。出来るだけ他人の目を避ける。心理的に、もう入っている部屋の隣を、わざわざ選ぼうとはしないんだよ。」
「そう言えばそうですね。トイレで便器が並んでいても、たいていひとつ置きに使いますからね。」
「ああ、隣のヤツのを覗くわけじゃないけど、自由に選ぶ余地があるなら、ひとつくらいは間を空けるよな。」
「こういうホテルで、わざわざ隣の部屋に入るのはおかしいですかね。隣の声が壁越しに聞こえて来るとかっていう事も無いでしょうけど。」
「実際に声が聞こえるようじゃ、ホテルに対して苦情が出たりするだろう。あくまでも心理的なものだよ。」
「それとも隣の部屋を盗聴して楽しむような趣味の有るカップルかな。」
「そういう趣味だとしたら、もっと混んでいる週末とかの方が良いんじゃないか。両隣に入っていれば両方から盗聴出来る。今回のケースなら、平日に来て偶然一室は入っていたけど、誰も居ないっていう可能性だって高いだろう。」
「そうですね。わざわざ尾行して来たんでも無ければ、客が居るかどうかも判りませんよね。」
「そして、その盗聴カップルの隣の部屋で、心中事件が起こる。そんな偶然はまず無いだろう。
まあ、人の行動なんて解らないからな。俺のラッキーナンバーは八だから、必ずそこを選ぶんだ、なんていう他愛もない理由かもしれないしな。」
「そうですね。」
結局、この事件は記事にする事も無く、そのままになってしまった。
その後、連続盗難事件などが起こり、一之瀬もそちらの件で多忙になったらしい。
この事件がふたたび話題になったのは、およそひと月後、やはり最初の三人の顔ぶれが甲斐署の玄関脇の灰皿を囲んでの事だった。
矢崎がこんなことを口にしたのだ。
「そう言えば、この前の心中事件って、結局あのままなんですよね。」
「ああ、何にも進展は無いよ。どうかしたのか。」
「昨日、街で一組のカップルを見かけたんですけどね。どこかで見覚えが有るなって思ったんですよ。
男の方はスポーツ選手のようながっしりした体格で、女の方はどっちかと言うと肉食系って言う感じの派手目な感じでしたね。」
「おい、それって。」
「そうなんですよ。あの時の心中事件の残された旦那と奥さんなんです。なんだか仲良さそうに、話をしながら歩いてましたよ。」
「一之瀬さん。こういう事件って遺族どうしを引き合わせるなんて、警察ではしないですよね。」
「そうだね。そこまではしないな。まあ、被害者と加害者っていうわけじゃないから、住所や名前くらいは教えるだろうけどね。」
「じゃあ、どちらかがコンタクトを取ったってことでしょうかね。」
「ああ、それは考えられるな。」
「でも、そういうのって、どちらかと言えば敵対関係になるんじゃないですか。『お前の亭主がウチの女房を盗んだ。』とか『あんたが女房をしっかり捕まえとかないから、こんな事になるんだ。』とかって」
「まあ、それは有りそうだな。どちらも悔しい思いは有るだろうからな。そこまでは警察も関与できんよ。」
「でも、昨日矢崎君が見かけた二人は、仲良さそうにしていた。ちょっと変じゃないですか。」
「置いていかれた者同士が、お互い同じ立場で心が通じ合うっていう話だって、無いとは言えんだろう。」
「それにしたって、まだ事件からひと月ですよ。そんなに簡単に変わりますかね。」
「じゃあ、あの二人は以前から何らかの関係が有ったとでも言うのかな。」
「お互いのパートナーを交換するような、夫婦交換でもしていたとか。スワップって言うんでしたっけ。」
「まさか。事件の聴取ではそんな事は一言も言ってないぞ。」
「そりゃあ、そういう話なら警察に聞かれても話さないでしょうね。よっぽど自分が容疑者になって、アリバイを証明しなけりゃならないような状況でもなけりゃ。」
「矢崎君の目撃証言だけじゃ、事件は動かないよな。もう心中として片付けられてる話だしな。」
「不自然っていえば不自然かもしれないけど、状況証拠にもならんだろう。」
「そう言えば、水谷さんもなんかそんな事を言ってたな。」
「どんな話だい。」
「七号室に客が居て、他の部屋は自由に選べるのに、よりによってすぐ隣の八号室に入る客っておかしいって。」
「なんだ、日野君。そんなところまで取材してるのか。」
「たまたま、話を聞いた次の日に近くを通りがかったんですよ。そしたら水谷さんが覗いていこうって言いだして。
現場のホテルを外から眺めて、第一発見者っていう掃除のおばちゃんに話を聞いたんですよ。」
「それで、何か気が付いたのかな。」
「掃除のおばちゃんは、シーツも乱れてたし、服も脱ぎ散らかしてあって、あんなままで死ぬんじゃみっともないって言ってましたね。」
「どういう事かな。」
「脱ぎ捨てたパンツなんて、自分で拾ってもう一度履くなら問題ないでしょうけど、死ぬってことは、第三者の誰かが見つけるって事でしょう。せめて脱いだ服は畳んでまとめておくくらいしないと恥ずかしいって。」
「確かにそう言われればそうだな。さすがに、女性の考えは違うな。」
「水谷さんの方は、別の事でおかしいって言ってましたね。」
「それが、隣の部屋っていう話かい。」
「そうです。ああいうホテルに来る客は、なるべく他人を近づけたくないから、部屋を選ぶんでも、心理的に、隣には入らないだろうって。」
「どうして。別に隣でも良いじゃないか。」
「そうだね。実害が有るって言う話じゃないから、あくまでも心理的なってことだけどね。」
「心理的ねえ。」
「そう。例えば高速道路のパーキングとかでトイレに入る。小便しようと思ったら、沢山の便器が並んでるだろう。そこで、俺一人が用を足していて、残りは誰も居ない。そんな時にお前はどこで用を足す。俺のすぐ隣に来るかな。」
「いや。普通ならひとつ間を空けて隣とか、まったく反対側とかに行くだろうな。なるほど、そういう事か。」
「ホテルの部屋も便器も、隣だって実害は無い。満員に近い状況でそこしか空いて無ければ、そこに入るだろう。でも、ガラガラに空いていて、どこでもお好きなところにどうぞって言われれば、すぐ隣に客が居るところには入らないだろう。」
「そうだな。ファミレスなんかで飯を食う時もそういう事があるよな。」
「お前の場合、ファミレスって言うより、ラーメン屋か牛丼屋じゃないのか。」
一之瀬が笑いながら止めに入る。
「まあ、良いだろう。牛丼屋でも高速のトイレでも。確かに言われてみればそんなものだな。」
「おかしいとか不自然だとか言いだすと、今回の心中は気になるところがいろいろと出て来るんだよな。」
「いくつ有るんだっけ。数えてみようか。」
そう言って、矢崎は指を折って数え始める。
「まず、セックスをしたのかしないのか。部屋の様子なんかはしたっていう状況なのに、精液やコンドームは発見されていない。これがひとつ目。」
「二つ目は、脱ぎ散らかした服かな。死に方はきれいだけど、服やシーツが乱れたままなのがおかしい。」
「三つめは、二人の関係や動機が判らないってことにしてくれ。どこで関係を持ったのか全く手掛かりが無いんだ。」
一之瀬も口をはさむ。
「四つ目は、隣に入った客かな。」
「そして五つ目が、残された方の二人の仲の良い様子か。」
「それは、とある新聞記者のあいまいな目撃証言だけだけどな。」
日野はそう言って笑う。
「あいまいじゃないぞ。あんな目立つカップルを人違いするはず無いし、腕を組んだりして仲良く歩いてたのは間違いないんだから。」
「ほう、そんなに親密なようすだったのか。」
「そうですよ。そのままホテルに行ってもおかしくないくらいね。」
「それから六つ目には、睡眠薬の出どころかな。結局、どこから入手したのかも判らないままだ。」
「どちらかの家に有るんじゃないんですか。」
「家宅捜索するような事件じゃないから、いまいち曖昧なんだが、どちらも残された旦那と奥さんは否定してる。見つかったら教えてくれとは言ってあるが、何も連絡は無い。」
「薬局で買って、全部飲んで、瓶は捨てちゃたんじゃないんですか。」
「市販のものかどうかは知らないが、どうしてそんなややこしい事をする必要があるんだ。脱いだパンツさえ片付け無いのに。」
「それもそうですね。」
「たとえばですよ。これが本当の心中じゃなくて、事件だとします。やっぱり一番怪しいのは、隣の部屋に入った客でしょうね。」
「そうは言っても、隣の部屋から盗聴するくらいは出来るかもしれないが、殺すのは無理だろう。」
「そうですよね。超能力でも有るんならともかく。隣の部屋に勝手に入るなんて出来ませんからね。」
「第一、盗聴だって出来るかどうか判らんよ。壁にコップでも押し当てて、声を聞くなんて、それこそ映画か漫画の中だけだろう。いまどきのホテルで、そんな事はまず考えられないよ。」
「まして、襲ってナイフで刺すんじゃともかく、睡眠薬を飲ませるなんて無理だろう。」
「やっぱり、いろいろとおかしな点は有っても、心中なんだろうな。これが殺人事件だって言うんなら、密室殺人って事になりかねん。」
「あそこの廊下側のドアって、どんなドアなんです。」
「ごく普通のヤツだよ。部屋の内側はロックするつまみが有って、それを回すとロックが掛かる。外側からはキーを差し込んで回せばロックが解除できる。フロントや掃除の係はマスターキーを持っていたらしいな。」
「内側からは開くんですね。」
「ああ、一応火災やなんかの時の避難経路っていう事になってるらしい。客が自分で開けられなくちゃ、避難も出来ないからな。」
「密室トリックって言うのなら、侵入経路はそのドアが一番怪しいでしょう。外から開く方法があるとか。」
「そうだな。ああいうホテルだから、外が見えるような窓なんかも無いだろうし、下の出入り口はセンサーも付いてるし、記録もされてるんだよ。」
「記録も有るんですか。」
「ああ、経営者がチェックするためだそうだ。以前の従業員で売り上げをごまかしたヤツが居たらしい。客が入ったのに、来なかった事にしてな。確かにドアの開閉をチェックすれば、客が入ったかどうかも判るし、何時間居たのかも判るからな。だからそっちの可能性は無いだろう。」
「まあ、廊下側のドアのマスターキーを持っているとか、合鍵を作っているとか、推理小説ならいろんな手段が出てきそうだけどな。」
「それにしたって、どうやって作るんだ。あの二人がいつもあのホテルのあの部屋に行くのなら、出来るかもしれないけど、フロントだって、そんな話はしてなかったしな。確か初めての客だって言ってたよ。」
「記憶に無いだけで、何度も来ているとか。」
「いや。客に記名させる代わりに、車のナンバーを控えているそうだ。来客記録としてな。それもパソコンにデータが入ってるから、検索すれば一発で過去数年の来客記録は出て来るよ。」
「それに、合鍵を作るとなれば、元の鍵を盗み出さなけりゃならないだろう。そこまで手間をかけるかな。」
「じゃあ、内側から開けさせるとか。」
「内側から開けるかな。たとえばあの旦那が女房の浮気に気付いて尾行をした。まあ、探偵に尾行させたでもいい。浮気の現場を突き止めて、その隣の部屋に入る。女房の携帯に電話する。『隣に居る。話がしたいからドアを開けろ。』はたして開けるだろうか。」
「そりゃ踏み込まれたら修羅場ですね。」
「俺なら絶対に開けないな。」
「それは奥さんが亭主を尾行したんでも、やっぱり同じだろう。」
「あの旦那に睨まれたら、優男なら怯えて死にたくなるんじゃないか。」
「それで思い余って、二人で心中したとか。」
「おいおい。睡眠薬はどうするんだ。やっぱり辻褄が合わないだろう。」
「そうですよね。たとえドアを開けて修羅場になったとしても、その場で『これを飲め。』って言われて薬を渡されても飲まないでしょうね。」
「第一、修羅場になるんなら、パンツも履いてないような格好で、亭主や女房とは顔を合わせないだろう。せめて服を着てお話し合いのテーブルに着くだろう。」
「やっぱり事件って考えるのは無理ですかね。」
「まあ、事件って考えれば、脱ぎ散らかした服の話とか、使用済みコンドームや睡眠薬の瓶が無い事も納得できるんだけどな。」
「それって犯人が持ち去ったっていう事ですか。何の為に。」
「それは犯人に聞いてくれ。探偵が犯人で、使用済みのモノは依頼主への証拠の品だったとかな。」
一之瀬はそう言って苦笑した。
日野は社に帰って、雑談の合間にそんな話が合った事を水谷に告げた。
水谷はしばらく考え込んでいたが、ポツンとこんな言葉を漏らした。
「なあ日野くん。その七号室のドアは本当に閉まってたんだろうか。」
「どういう事です。」
「あんなホテルの通路側のドアなんて、客は気にしないだろう。使うのは従業員が掃除に入るくらいだものな。従業員側だって、客の居る間に入るなんてことは無いんだから、鍵なんて気にしないだろう。
そういう意味では、だれも使わないドアなんだよな。」
「まあ、そうですね。」
「ついうっかり鍵をかけ忘れたとか、閉まっているつもりでも開いていたとかは無いんだろうか。」
「それは偶然そういう事も有るかもしれませんね。でも、その偶然を利用して、隣の部屋に乗り込んだっていう話ですか。タイミングが良すぎるんじゃないですかね。」
「そうだな。出来過ぎた話だな。まあ、機会が有ったら、今度は管理人にでも話を聞いてみれば良いかもしれん。」
日野はその数日後に、今度は夜勤の管理人の居る時間にホテルを訪ねた。岡村は暇を持て余している様子で、珍しい話し相手として現れた日野を、管理人室に招き入れ、お茶まで出してくれた。
「こういう仕事は、時間を潰すのに苦労するんだよ。客を待ってるのが九割で、なにか自分でするってわけじゃないからね。」
「そうでしょうね。普段はどのくらい客が来るんですか。」
「そうだね。一晩に五組くらいかな。まあ、週末なんかはやっぱり多いんだけどね。」
「じゃあ、あの日は普段よりもお客は少なかったんですね。」
「まあな。日によっては本当に一組も来ない日も有るんだけどね。多くても、平日に全室が埋まるようなことは無いかな。」
「じゃあ、あの掃除前の看板を立てておけば、客室には入らないんですね。」
「そうだね。まあ、あんまり看板だらけでも困るから、半分以上看板が立ったら、一つか二つは掃除して使えるようにするんだけどね。」
「それも岡村さんがやるんですか。」
「そうだよ。手順は決まってるし、他にやる事も無いし、暇つぶしには良いからね。」
「掃除をしない時は何をしてるんです。」
「客が来たら内線で対応して、車のナンバーを控えて、帰る時に料金を貰うくらいかな。」
「料金は直接受け取るんですか。」
「いや、各部屋にエアシューターが有ってね。カプセルに金を入れてもらって、ボタンを押してもらえば、ここに届くのさ。折り返しで領収書を送りつける。まあ、領収書なんか置きっぱなしで帰る客が多いけどね。」
「他には用は無いんですか。」
「ああ、こういう処だから、客にお茶を出すわけじゃないしね。たまにコンドームのお代わりを要求してくる客が居たり、テレビが映らんとか、風呂のお湯がぬるいとか、文句を言ってくる客の相手をするくらいかな。」
「お代わりなんてする客も居るんですね。」
「ああ、ベッドの枕元に二個置いておくんだよ。ひとつだけ使って残りは置いてく客もいれば、もう一つは持って帰っちゃう客もいる。箱ごと置いておけば箱ごと持って帰るヤツも居るだろうから、二個くらいがいいんだ。」
「それで、三ラウンド目に挑む客は足りなくなるっていう事なんですね。」
「ああ、そういう元気なヤツもたまには居るんだよ。珍しいけどな。そういうヤツには、エアシューターで送ってやるのさ。」
「ところで、お聞きしたいのは通路側のドアの話なんですが。あそこの鍵って掛け忘れる事って有りませんかね。」
「営業が始まる時間には無いよ。」
「それは確かですか。」
「ああ、私が出勤してきたら、全室鍵を確認して回っているんだからな。」
「それはどうしてです。」
「以前悪ガキのカップルが来てな。ちょうど掃除婦が鍵をかけ忘れてたんだけど、隣の部屋まで入り込んで、悪戯されたことが有ったんだ。それ以来、皆にも気をつけるように言ってるし、私も確かめて回るようにしたのさ。」
「掃除婦さんが忘れるんですか。」
「まあ、ああいう仕事も、ごみを出して、シーツ類を出して、新しいシーツを入れて、掃除機を出し入れしてって、何度も出入りするからな。ついうっかりする事も有るだろう。」
「そうですか。鍵は確かに掛かってたんだ。」
「どうかしたのかい。」
日野はあまり詳しくない程度に、いままでの一之瀬や水谷と話した不思議な点を語った。
「まあ、客室側から開くのは簡単だけど、通路側からは、鍵が無きゃ開かないだろうね。誰かが二人に危害を加えるんなら、鍵を開けさせる方法を考えなきゃいけないな。」
「ところで、二人の遺体を発見した時も、鍵は掛かってたんですよね。」
「あの時は、三上さんが急がせたから、マスターキーはここに置きっぱなしで行ったんだ。どうせ三上さんも持ってるからね。三上さんはドアの前で待っていて、私がドアノブを握ったら開いたよ。三上さんが鍵を開けておいたんじゃないかな。」
「あれ、三上さんはあなたが先に入ったって言ってましたけど。」
「そうだよ。入ったのは私が先だったけど、鍵を開けたのは私じゃないんだ。」
日野は考え込んだ。もしかしたら、鍵は開いてたんじゃないか。夜には確かに閉まっていた鍵が、朝には開いていたのか。単に掃除婦の三上さんが、入る直前に開けたのか。どの時点で、誰が開けたのだろう。
「ところで、あの時、隣の八号室にも客が居たんですよね。」
「そうだよ。あんたが言う通り、こういう処ですぐ隣に入るっていうのは珍しいかもしれないね。まあ、満室だったら選り好みは出来ないけど、たいていは一つ置きくらいに埋まっていくものだよ。」
「その八号室の方は、警察も調べてないんですね。」
「そうだね。一応、七号室は室内の指紋やら遺留品やら調べて行ったけどね。通路側のドアも指紋は取って行ったんじゃないかな。」
「でも、隣の客は疑わなかった。指紋も遺留品も調べてないんですね。」
「そうだな。あれを見たら、心中としか思わないからな。隣の客の事までは、誰も気にしないだろう。」
「車のナンバーとか、入退室時間とかは記録に残ってるんですよね。教えてもらっても良いですか。」
「本当なら、そういう事はしちゃいけないんだけどな。警察に捜査だって言われれば別だが。まあ、新聞記者さんだし、私もそう言われれば気になるからね。なにか面白い話だったら後で教えてくれよ。」
岡村はためらいながらも、パソコンのデータを引き出し、それを日野に見せてくれた。日野は自分の手帳に、そのナンバーと時刻を書きとめた。
翌日、日野は甲斐署の一之瀬に電話を掛けた。
「来た時間は二人のすぐ後、帰った時間は死亡推定時刻の一時間程後。偶然かもしれないですけど、怪しいと言えば怪しいですよね。この車の持ち主を調べられませんかね。」
「日野くん。君はそうやって、解決した事件をもう一度掘り返して、警察の手間を増やすのかい。」
そう笑いながらも、一之瀬は調べてみると約束してくれた。
「だけど、緊急の用件じゃないからな。後回しにされるかもしれないぞ。」
「ええ、どうせ一ヶ月も前の事件なんですから。このまま幕引きでも構わないんですけどね。ちょっとだけ好奇心が騒いでるだけですよ。」
だが、その数日後に、一之瀬から掛かってきた電話は興奮した口調だった。
「日野くん、瓢箪から駒だな。大当たりだよ。あの車の持ち主はな、とある運送会社の社長だったのさ。」
「って言うと、あの旦那ですか。」
「いや、そうじゃないんだが、同業者で年頃も同じくらい。かなり親しい付き合いのある友人らしい。それでな、ちょっとその持ち主のところに寄って、立ち話程度に話をしたんだ。そしたら、車の貸し借りもけっこう頻繁にやってるっていう話だったんだ。仕事上でトラックを貸したり、借りに来るとその時に乗ってきた乗用車を、代わりにそこに置いて行ったりとかな。
あの日もその車は、水村の会社に有って、自由に乗れるようになっていたらしい。」
「つまり、その車を使って水村があのホテルの八号室に行った可能性は高いっていう話ですね。」
「そうなんだ。これからもう一度水村にお話を聞いてみようと思うんだよ。」
「で、どうでした。水村は何か言ってました。」
「ああ、あそこに行った事は認めたんだがな。」
「それ以上の事はしていないっていう事ですか。」
「そうなんだ。女房が外出するのは今までも有ったらしい。自分もけっこう付き合いなんかで遅くなるし、女房も程々に飲みに行ったりするのは、当たり前だと思ってたんだそうだ。あの日も、飲みに行くって女房には伝えてあったっていう話だ。
ところが、急に車が使える事になった。3ナンバーの外車だ。飲むよりもこれでどこかに走りに行こうと思って、いったん帰宅したんだそうだ。」
「普段乗ってるのは、国産車でしたっけ。」
「そうだよ。それだって俺なんかにしてみれば高級車の部類なんだけどな。」
「それで、どうなったんです。」
「帰ったら、女房が出かけるところだった。いつもの車と違うから、女房もそこに停まった車に亭主が乗ってるとは気づかない。窓を開けて声をかけてびっくりさせてやろうかどうしようかと考えてたそうだ。女房の友達にも見せびらかしたかったんじゃないか。そこに男が車で迎えに来て、二人っきりで親密そうな様子だ。これは怪しいと思って、そのまま後をつけたそうだ。そしたら、あのホテルに入ったんで、隣に入ったんだが、隣の部屋から何か出来るわけじゃない。悔しい思いのまま、泣く泣く帰って来たそうだ。女房が帰ってきたら問い詰めてやろうと思って待ってたんだが、朝になっても帰って来ない。そのうち警察から連絡が有ったっていう話だ。」
「まあ、話の辻褄は合ってますよね。」
相変わらずの甲斐署の玄関脇の灰皿を囲んでの三人の顔ぶれだ。
「事情を聴かれても、内容が内容だけに話し難かったって。」
「まあ、気持ちは解りますよね。浮気をされた。尾行した。何も出来ずに帰って来た。その挙句、心中されてしまったじゃあ。」
「そういう話なら、八号室の客の件は疑問解決だろうな。尾行したんなら、なるべく近くまで行こうとするだろうからな。」
「やっぱり、そんな密室殺人なんて現実には起こりませんよね。」
「事件が起こっていいのは、小説やドラマの中だけだよ。実際に起これば警察だって余計な苦労をするからね。」
「そうですね。警察や消防なんてのは暇な方が良いですよね。」
「でも、そうなると俺たちの仕事のネタも、その分少なくなるけどな。」
矢崎はそう言って笑う。
帰社して、水谷にそんな話を聞かせたところ、水谷はまた首を傾げて考え込んだ。
「お前もまだまだ甘いな。一之瀬さんも楽をしようと思ってるのかな。手抜きじゃないか。」
「どういう事なんです。」
「あの旦那が尾行したのは解った。八号室に入ったのも納得できる。そこで手も足も出ないって判ってから、ホテルを出る午前二時まで、何をしてたんだ。隣の部屋ではその間に二人が死んでるんだぞ。」
そして、一之瀬に電話をして、なにやら話しこんでいた。
一之瀬が、朝読新聞社の編集局に飛び込んできたのは、その二日後だった。
「いや、水谷さんのおかげで助かったよ。」
「どうしたんです。」
「事件の種明かしをしてもらったんだ。おかげで殺人事件が一つ解決出来たよ。お礼が言いたくて来たんだ。」
その騒ぎで、編集長をはじめ全員が集まってくる。
「じゃあ、ウチの特ダネっていう事で、種明かしを聞かせてもらいましょうか。」
編集長が一之瀬に椅子を勧める。
「いやね、日野くんが隣に居た客にこだわったんで、事件の起きた部屋の隣に、関係者が居た事は判ったんだ。しかも、そいつは隣のカップルを殺したいくらいに思っていた。でも、隣の部屋に侵入する事は出来ない。鍵を開けさせるのもたぶん無理だろうし、睡眠薬を飲ませるのも無理だろう。単純に言えば密室殺人だ。
だけど、日野君が第一発見者の二人の証言を聞き比べてくれてね。どうやらどちらも相方が鍵を開けたと思っていたらしい。自分が開けたんじゃないって言ってるんだよ。つまり、密室はある時点で破られていたんだ。
そうなると、どうやって鍵を開けたかっていう方法が解れば良いんだ。」
「どうやったんです。携帯で脅しつけて開けさせたくらいしか、思い浮かばないんだけどな。」
「そこで水谷さんがヒントをくれたんだよ。犯行は単独犯ですかってね。」
「ということは、共犯者が居たって事ですか。まさか死んだ女房が共犯者で、旦那と一緒に男を殺そうと思っていたんだけど、ついでに自分も殺されちゃったとか、そんな話ですか。」
「それだったら、女房のほうは睡眠薬を飲んではいないだろう。そうじゃないんだよ。」
「実際に不倫をしていたのは、水村の夫の方と岩佐の妻の方だったんだ。
二人はそれぞれ夫や妻と別れたかったのだが、こちらが不貞を働いた挙句の離婚では、裁判などで財産分与の話も不利になるし、世間でも冷たい目で見られる。いっそのこと二人とも死んでくれないだろうかと思って、偽装心中の計画を立てたって言うんだ。」
「偽装心中ですか。いっぺんに二人を殺して、心中に見せかけたんですね。」
「どうりで、死んだ二人の接点も無ければ、今までの密会の痕跡も無かったわけだ。そんな事実は最初から無い、赤の他人だったっていう事なんだな。」
「二人は計画を立てて、同じ日の同じ時刻に、あのホテルの隣り合わせの部屋に、パートナーを連れて入った。そして睡眠薬をたっぷり飲ませた上で、一戦交えて疲れさせ、パートナーを眠らせた。」
「その辺りの行動は確かなんですか。」
「ああ、もう二人とも自供している。まあ、内容が内容だからあんまり具体的な描写は出来んだろう。新聞記事にするんなら、殺人事件だと判明したくらいかな。」
「そうですね。一発やって眠らせてから殺した。なんて書くわけにはいかないでしょうね。」
「睡眠薬はすりつぶして粉にして、スタミナドリンクに混ぜて飲ませたらしい。」
「それで、薬の瓶とかパッケージとか、無いんですね。」
「前もって用意しておいて、二人とも同じドリンク剤を飲ませたそうだ。」
「それならその瓶を転がしておけば、薬に関しては疑問を持たれなかったでしょうにね。死ぬ前に同じドリンク剤で睡眠薬を飲んだなんて、仲が良い証拠になるでしょう。」
「瓶に指紋が残っているのが怖かったらしいよ。それから、死んだ奥さんの体内から精液が出なかったのも同じ理由だ。もしも遺伝子分析のような事をされて、これは一緒に死んだ男のものじゃなくて、旦那のものだって事になれば、まずいからな。しっかりコンドームを使ったらしい。」
「そして、見つからないように持って帰っちゃったんですね。」
「ああ、それだって、ゴミ箱にでも入っていれば、疑問を持たなかったかもしれないんだがな。遺伝子分析なんて最先端技術だろう。単なる心中事件だったらそこまでやるかどうか。たぶんやらないんじゃないか。」
「そういう意味では、証拠を消し過ぎたから、疑問に思われちゃったんですね。」
「で、実際の犯行はどうやったんです。」
「それぞれのパートナーを眠らせてから、お互いに連絡を取って、ドアの鍵を開ける。水村は裸の女房を抱きかかえて隣の部屋に運ぶ。岩佐の夫と水村の妻を湯船に入れて、手首を切って失血死させる。」
「そんなに簡単に殺せるんですかね。」
「ああ、睡眠薬がかなり効いていたらしい。あんまり暴れもせずおとなしくなったって言ってたな。」
「そうやって二人を殺した後、八号室に有る女房の服を持って来て、いかにも情事の跡のように、七号室に散らばせておく。」
「きちんと畳んでおかなかったのも、甘かったですね。」
「それは掃除のおばちゃんが言いだした話だろう。男なんてそういう部分は気にしないものなんだな。」
「その後に、犯人二人は八号室に移動する。七号室の鍵は外からじゃ掛けられないけど、そこまで気にするヤツは居ないだろう。死んだ二人のどちらかが、何かの理由で開けた事にでもすれば良い。どんな理由かは死人に尋ねてくれ、俺は知らない、ってな。そして何食わぬ顔で、二時頃にチェックアウトして帰って行くんだ。」
「なるほど、それなら鍵は開きますね。」
「友人の車を使ったのは、もしもチェックされた時の用心と、女房を連れ出す口実に都合が良かったからだそうだ。」
「ホテルに入った時と、帰る時には、助手席は別の女だったんですね。」
「ところで、筋書きは判りましたけど、証拠は出てるんですか。」
「それなんだがね。なかなかこれという証拠が無かったんだ。」
「じゃあ、あの二人がしらを切れば実証は難しかったんですか。」
「それで、唯一出たのは、七号室のドアの外側に指紋が残ってたんだ。内側やドアノブは拭いたんだろうけど、通路側だから焦ったんだろうな。」
「だって、そこまでは八号室から行けるでしょう。押し入ろうとしたけど、鍵が掛かっていて入れれなかったとでも言えば言い訳出来るでしょう。」
「先に証言させたのさ。あの部屋から出なかったって言ったから、七号室のドアに指紋がって言ってやったら、急に、そう言えば、なんて言いだしてね。」
「でも、証言を覆すなんて、よくある話じゃないですか。」
「いや、水村の指紋も出たんだけどね。実は岩佐弓子の指紋も出たんだ。」
「そっちはアリバイ証言とかはどうだったんです。」
「別に。アリバイが有るわけじゃない。あの晩は一人で家に居たって言うだけさ。」
「じゃあ。あのホテルに指紋が有ったなんて言えば、落ちたでしょう。」
「それが、なかなかしぶとくてね。知らぬ存ぜぬ、何かの間違いだ、って言うんだよ。」
「そこを、どうやって落としたのか。一之瀬さんの腕の見せ所ですね。」
「おいおい、ドラマじゃないんだからな。容疑者にカツ丼食わせれば、泣きだして自白するなんていうストーリーにはならないんだよ。」
「どうやったんです。」
「いや、ちょっとだけフェイントを掛けたんだ。七号室の遺留品の中には、ベッドの上の陰毛も残っていた。これを遺伝子分析すれば、誰のものかはっきりと判るけど、そこまでしても良いかってね。」
「比較するために、あなたのあそこの毛をください、なんて言ったんじゃないんですか。」
「なんならこの場で採取しましょう、とかね。」
編集室の男ばかりの輪で、そんな話になり、笑いが起こる。
「馬鹿言うなよ。遺伝子分析なんて髪の毛だってなんだって良いんだからな。被疑者に陰毛の提出を要求したら、人権問題で大騒ぎされるだろう。」
一之瀬も笑いながら答える。
「まあ、そこまで言ったら、落ちて自白を始めたからな。実際に分析には廻さなくて良かったんだ。実際に分析に掛けたら五分五分の確立だっただろう。上手く行ったよ。」
「どうしてです。五分五分って。」
「だって、それが女の陰毛だなんて一言も言ってないだろう。死んだ旦那のものかもしれないじゃないか。殺された水村真紀子のではないだろうけどな。」
「そうか。上手く騙しましたね。」
「ああいう連中は、テレビの情報でいろんな事を知ってるからね。指紋だとか遺伝子分析だとか、きちんと結果が出て犯人は間違いなく特定出来るものだと、信じ込んでいる。まあ、それが現場とドラマの違いなんだがね。」
「検死だとか分析だとか、やれば解る事でもなかなか予算も手間も無くて、出来ないケースも有るって聞きますからね。」
「犯人にそう思わせたら、まずいだろう。警察はきっちりやる事をやるって思ってくれた方が、犯罪防止になるよ。」
「今回だって、コンドームやら睡眠薬やら、疑問な点が出てきたから掘り返したけど、そうでなきゃ、不倫の末の心中事件で幕引きでしたからね。」
「ああ、好奇心旺盛な新聞記者さんのおかげだよ。」
「それで、立件は出来たけど、どうなるんですかね。犯人の二人は。」
「それがね。お互いに相手が筋書きを考えた主犯だって言って、罪のなすりつけ合いをしてるよ。」
「犯罪者も、そこまで落ちると哀れなもんですね。」
「証言は弓子の方が積極的で、具体的な話がいろいろと出てくるんだ。水村の方は具体的な証拠は、ドアの外の指紋だけだからね。あまり喋ってはいない。まあ、車の話も有るから無関係だとは主張出来ないけどな。」
「一緒にホテルから出てきたんですから、少なくとも共犯にはなりますよね。」
「よし、これはローカル版の特ダネだ。明日の朝の記事にするぞ。甲斐日報の矢崎を悔しがらせてやろう。」
編集長はそう言って日野の肩を叩く。
「それなんだがね。矢崎くんはさっきうちの署に来て、皆から話を聞いてったんだよ。」
一之瀬は、すまなそうな顔で告げる。
「だから、ここに来たんだ。水谷さんのヒントで解決した事件なのに、こっちの報道が甲斐日報より遅かったんじゃ済まないからな。」
「なんだ。矢崎もそういうところはタイミングが良いんだな。」
「意外と侮れない怖いやつかもしれないぞ。」
「そうそう。怖いと言えば、あの晩の行動証言で怖い話を聞いたよ。」
「なんですか。怖い話って。」
「二人は一緒にホテルを出て、水村の自宅に行ったそうなんだ。証拠の品を片づけたり、話のつじつまを合わせたり、いろいろと有ったからな。そして、その最中に、水村宅の寝室で一戦交えたそうだよ。」
「人を殺してきた後で、ですか。」
「女房が帰って来る心配は無いからな。」
「それにしても、どういう神経なんだかね。さっき殺したばかりの女が、日々寝ていたベッドで、だろう。」
「そんな状況だと、神経が高ぶって、冷静になれないのかもしれないな。」
「殺された二人は、顔も知らない相手と一緒に、お互いに交わる事も無く死んじゃったんですね。
清らかな情死とでも言うんでしょうかね。」
「まあ、被害者の二人が一番哀れだな。冥福を祈ってやろう。」
了
清らかな情死
「失意の報復」に続く日野悠太シリーズの二作目です。
こちらの方が、余計な個人的感情が絡んでいない分だけ、
エンターティメント要素は大きいかな。
推理内容もけっこう本格的かな、と、自画自賛しています。(笑)
情死、心中なんていうのは、今どきでは時代がかっていて
現実味が薄いですが、過去の文学ではけっこう出てくるテーマです。
江戸時代の近松から渡辺淳一辺りまで、いろんな人が書いています。
水につけた手首を切っての自死なんていうのも、古き良き時代の
パターンですね。こちらは漫画なんかで良く出てきそうなシーンです。
この二つが複合した死のシーンですから、ある意味では、
私の憧れの死に方の一つでもあります。(笑)
ストーリーは密室殺人なのですが、シュチエーションが情交後ですし、
それに絡むセリフや描写も出てきますので、子供は読まないように!
まあ、こんなストーリーを読むような子供は、(中学生か?小学校高学年か?)
実践はしていないにしても、それなりの知識は有るのでしょうけどね。
(私もませガキで、そのくらいの頃からこんな描写は読んでいましたからね・・・)
やはり素人ですから、警察や鑑識の動きなどは、かなり実際のものとは違っていると思います。
関係の方が居ましたら、そこは目をつぶって読み飛ばしてください。
(もしも親切な方が居ましたら、ご教授頂けるとありがたいです。)
「それだけ時間が経てば、入れたかどうかは・・・」などというセリフは
書いている自分でも、突っ込みを入れたくなるような代物です。
キャラの色付けも、一作目よりはっきりしてきました。
記者三人のチームプレイですけど、名探偵役は水谷さんでしょうね。
第三弾もすでに用意してあります。乞うご期待!
シリーズ一作目の「失意の報復」はこちらです。
よろしかったら、こちらも読んでみてください。
この作とはちょっと雰囲気が異なる作品です。
http://slib.net/32540
20140802
三作目「身元不明の死体」もアップしました。
こちらは推理と言うより、人間ドラマに近いお話です。
よろしかったら読んでみてください。
http://slib.net/34169