デュッセルドルフの針金師たち

プロローグ

北陸福井駅前の西武デパート向かいの地下に、”ファンファン”という古風なジャズ喫茶がある。カウンターに2ボックスで京都のブルーノート風でとても良い。ひげを生やした中年のマスターも渋い。

ここで2001年3月某日23年ぶりに学生時代の悪友黒川明夫に再会した。仕事で北陸出張の折ひょっとしたらと思い電話帳をめくったら黒川明夫とあるではないか。確か福井の出身だったはずだ、劇団何とかと書いてある。まちがいない。奴はあの当時言ってた如く愚直に演劇活動を続けていたのだ。

少し興奮気味に電話をしてみた。やはり黒川だ。「若林?あの若林治か?」ということで、お互い生きてたのかと23年ぶりにその晩”ファンファン”で再会した。

白髪は増え、年はとりつつも不思議と23年前にタイムスリップして、しこたま近況を報告しあった後、黒川は若林に聞いた。

「1970年10月21日の国際反戦デーのあとお前は行方不明になった。海外に逃避したという噂はあったが、その数年間、何ヶ国回って一体何をしてたんだよ?お前の言う第三幕てなんだ?もうこんなに白髪交じりになって、さあこれからだなんてもう何かむなしく響く」

てなことを言ったので即答できず。

「その件に関しては後日手紙を書くから」

と別れて白樺湖にいる間の一ヶ月、いろいろと思い出して書き始めたらこんな長文になった。読むほうは大変だろうがこちらはわが青春の総括ができて大いに感謝している。持つべきものはやはり親友だ。共にさらに長生きをして頑張ろう。

「前略

黒川明夫へ。長い付き合いになりそうだ。23年ぶりの再会。縁とは不思議なものだとつくづく思う。お互いとにかく長生きしよう。

さて先日の黒川からの質問。あの頃何ヶ国回って一体何をしてたんや?さあこれからだの意味は何や?と聞かれて即答できなかったのでこれはいい機会だと、ここ白樺湖でわが来し方を振り返ってみることにした。

髪に白髪混じるともさあこれからだの意味は、青春という第一幕は当の昔に降り、還暦間近の今まさに第二幕最終場の幕がおりかかっていると感じる。

第三幕、人生最終章の幕開けとでもいった意味だ。一緒に演劇やってたとき、俺はとっつけの大道具だったが皆は真剣だったな。「どんなにごたごたがあろうとも、当日午後6時には幕が上がるんだ!」と叫んで皆はよく言い合いのけんかをしてたよな。

俺は部外者だったがうらやましかった。あんなことで真剣になれるなんてと。しかしよく考えてみると今なら分かる気がする。その時はいまだ!さあこれからだ第三幕が上がるのは!・・・というような意味かな。

さてあの年1970年8月から旅に出た。10.21反戦デーのデモを最後に、朝昼晩と必死にアルバイトをして金を貯めた。それから丸3年半、旧ソ連から北欧に入り西ドイツを中心にヨーロッパくまなく歩いた。

その後とにかく行った国まで含めると30カ国以上になる。その間何をしていたのかということになると、ちょっと一言では書けないので順を追って細かく思い出してみる。まあ、大変だろうがじっくりと読んでみてくれ。

                             敬具」

出航

1970年8月20日午前11時真夏の昼、
快晴の横浜第三埠頭のドラがなって、
白亜の客船ナホトカ号の出航の汽笛が長くボーっと鳴り響く。

色とりどりのテープがおびただしく投げ交わされて蛍の光のメロディーに
たくさんの叫び声がだんだんと絶叫じみてくる。とても暑い。
岸壁をゆっくりと船が離れていく。一杯に張ったテープは次々にちぎれ波に浮かんでいく。

暑い中だ。声も届かなくなり手を振る姿と何か叫んでいる口だけがむなしい。
ふと見ると埠頭の一番端の柵を乗り越える二人のカップルが見えた。勝秀とくるみだ。
「兄貴ーっ」と叫ぶ声が聞こえたような気がした。来なくていいとあれほど言っていたのに。

他人事のように船の出航のドラマを横目でクールに眺めていた治だったが思わず手を振った。
もう遅い。多分あの二人には分からなかったと思う。もうひょっとしたら
日本へは戻ってこないかもしれない。そんな気持ちも多分にあった。

京都の大学は2年前から全共闘に占拠されたままだ。
治は去年の10月21日の国際反戦デーでは東京の代々木公園にいた。
ここでばったりと義理の弟勝秀と出くわすのだ。

彼は東京の私大に入学したばかりで広島の親元には
ともどもに学園紛争は絶対参加しませんと宣誓しあっていたから驚いた。
とにかく親には言うなよ、絶対につかまるなよと言って分かれた。

日比谷公園までのデモ。四列縦隊に機動隊がびっしりとへばりつく。
「安保粉砕闘争勝利」うずまきデモ、ジグザグデモを繰り返す。
完全武装の機動隊が足で蹴ってくる。肘でどついてくる。

「ブタ!」と叫ぶ奴がいる。同じ年代の同じ日本人同士で何故こうなるのか?
鉄パイプに赤布をつけただけの赤ヘル軍団が駆け足で追い抜いていく。
機動隊が一斉に姿を消す。

シベリアの空

ナホトカ号は中型のソ連船でホテルで言えば三つ星クラスか。
夜になると生バンドとダンスパーティーがあってベンチャーズを弾いたりしている。
船が傾くたびに皆ぞろぞろと踊りゆれた。

当時はやりだしたヒッピースタイルの西洋人が数人
フロアの回りにしゃがみ込んだりしていた。

津軽海峡を抜けるとナホトカへ一直線だ日本のテレビも映らなくなった。
コンパートメントは二人一部屋で日大の落研と同室になった。
”走れコータロー”のマネがとてもうまくそれからずっとコペンハーゲンまで一緒だった。

食事は円卓で50代の小説家夫妻と東京からの女性二人に我々を加えての6人で上陸まで同席した。
初日とその翌日はまだまだ元気でトランプしたりうろうろしたりしていたが、
3日目日本海に出た頃から波荒く船酔いで食欲はなくなり皆一様に元気をなくした。

日本からかなり遠ざかるとさすがに真夜中に目が覚めたりして、
俺は今一体何をしてるんだろうと思ったりした。

治は首からいつもブルーのバスタオルをかけていたので”青タオル”と呼ばれていた。
同卓の女性の一人は元東京都の職員で”まめたん”
その名のとおり小柄でぴちぴちして元気一杯の娘だった。
JUST MARRIEDのTシャツをいつも着ていたので乗客にからかわれたりしていた。

乗客は200人くらいで半分以上が日本の青年でほかは欧米人だったようだ。
まだまだ日本語オンリーで欧米人と話すのは大変だった。それでももう後戻りはできない。
ファイト!何とか自分自身を元気付けていよいよ上陸間近。4日目になってやっとナホトカ港が見えてきた。いよいよ上陸だ。
コンパートメントで荷物をまとめ入国カードを書き上げてじっと待つ。
緊張のひと時、やっと入国審査官が来た。

5分ほど厳しい顔をしてパスポートと荷物を調べる。
最後に真正面からパスポートの写真と見比べている、怖い。
パスポートを閉じるととても優しい顔でにっこりと微笑んでくれた。

あー、ほっとしたがなんとも肩がこりそうな国だ。
アナウンスのあとやっと上陸だ。
船から見るとナホトカはなんとなく薄暗くすすけて見えたがその理由はすぐに分かった。

長い船旅ふわつく足でインツーリスト(国営旅行社)付のバスに乗り市内を一巡する。
全く看板宣伝広告と言うものがない。時々あるのはめちゃくちゃ大きなレーニンの肖像画、
しかもバックは赤だ。ほかは青もなければ黄色もピンクもない。

色彩というものがまるでないのだ。最新式の労働者団地と説明されても、
日本で言えば相当古い市営団地みたいなものだ。
平等を突き詰めていけばこうなるしかないのかという印象を強く感じた。

インツーリストのガイドさんはとても親切で日本語も上手だった。
モスクワ大学の日本語科を卒業したんだそうだ。
通訳ガイドと言うのはエリート中のエリートなのだ。

翌朝ナホトカ駅からシベリア鉄道でハバロフスクへ向かう。
大きな線路に大きな客車。東の窓から見えるのは時折白樺の林と、
いつまでもどこまでも続く荒野の大平原。

西の窓から見えるのは、これまたどこまでもつづく黒い山々。
ほんとに沈む夕日は馬鹿でかく圧倒的であった。

でかトイレ

ハバロフスク空港からイリュージンのジェット機で一路モスクワへ向かう。
十数時間の空の旅。時差の関係で一日が36時間もある。
沈む太陽をいくら追いかけていっても日は暮れずとても長い空の旅であった。

モスクワではウクライナホテルという市の中心にあるこれまた馬鹿でかいホテルに泊まった。
各階に大きなデスクがあり軍服のような制服を着た大柄なおばさんがでんと座っていた。
最初は怖かったが見かけによらずとても親切で何でも細かく教えてくれた。

我々東洋人は相当若く見えるらしく欧州ではどこの国でも10才くらいは若く見られてしまう。
このモスクワまでが団体のツアーになっていて皆と一緒だ。

我々食卓6人組は夜モスクワの地下鉄にチャレンジした。
何とか一駅無賃乗車をしてホテルに戻るべく地上に出てからが大変。
タクシーを止めても止まらず。

小説家のおじさんが轢かれそうになりながら強引に車を止めて
やっとホテルへ帰れた。ホテルの入り口付近でおまわりさんに
声をかけたらベトナムの子どもたちと間違えられた。

日本を何とか説明しようとしたがどうにも全く通じなかった。
翌日団体で市内観光。明日は鉄道でヘルシンキ組とポーランド組。
空路でのスウェーデン組とに別れてモスクワ出発だ。
インツーリストともお別れでいよいよ一人旅が始まる。

クレムリン、レーニン廟と見てモスクワ大学前で休憩。真っ青な空。
だだっ広いモスクワ。向こうに競馬場が見える”サウンドオブサイレンス”が聞こえてきそうだ。

そこで”ちょっとトイレ!”と言って青タオルとマメタンと落ち研は大走りして
モスクワ大学の構内をめざした。200メートルくらいは走った。

これがまた馬鹿でかいトイレでキリンが立小便をするような大理石男子便器であった。
バスタブ同様でかいだけがとりえのロシアと感じた。

チャップマン

空路ストックホルムへ。青タオルと落ち研、マメタンは一緒だ。
ストック着と同時に3人の珍道中始が始まった。空港バスで市内まで行く。
このバス代の高いこと。アンチョビオープンサンドはさらに高かった。

要するにスウェーデンは物価がものすごく高いのだ。欧州一だ。
ヨーロッパでは皆北で稼いで南でバカンス。我々貧乏旅行者もこれが鉄則。
スウェーデンは人手不足で期間(夏季)労働許可証が簡単に取れたのだ。

3人ともとりあえずチャップマンに泊まることにした。
チャップマンは帆船のユースホステルで有名だ。
船首のほうの雑魚寝でまずはストックの一夜をと思いきや
夜が白むだけで朝になった。白夜なのだ。

どうりで各家々の窓には分厚いブラインドとカーテンがあると思った。
ユースでバイト情報を古参の長期滞在者に聞く。
ヨーロッパ旅では各ユースでの情報が一番最新で確実なのはどこに行っても同じだ。

面倒見のいい古株が必ずいてその人が旅立つ時次の古株に情報を
伝えて旅立つというのがヨーロッパ旅の伝統になっていた。
広いようで狭い欧州である。ストックのだれだれ、コペンのだれだれ、
マドリのだれだれと、有名古株さんには本当にお世話になった。
そのうち自分たちもそうなるのだが。

北欧で有名なのはバイキング。水牛の角の帽子に丸たんぼう、
皮のふんどし金髪碧眼白い肌の大男。今でもその系統が一杯いる。

8世紀から11世紀にかけて全ヨーロッパの沿岸地域を遠くは地中海まで、
貿易を旨とはしていたが海賊行為のほうが目立ってバイキングと恐れられた。

ヒッチハイク

三人組は翌朝ストック郊外のミセスロビンソンが
聞こえてきそうなハイウェイの入り口付近で
生まれて初めてのヒッチハイクをした。

順番にCOPENHAGENと書いた大きな紙を持って、
右手の親指を立てて通る車通る車に合図する。
車はなかなか来ない。30分ほどして

マメタンのときにやっと止まった。
かなりの急ブレーキで先のほうからバックしてきてくれた。
とにかく止まってくれたよ、胸がどきどきしてきた。

どうもあとでよく考えると、スピードが出すぎるところ
だったので止まりにくかったようだ。ドイツの青年だ。
英語でしゃべってくる。青タオルと落ち研がのそのそとで出てくる。

よくあるパターンだ。二人しか乗れないということでじゃんけんになった。
西ドイツの学生君は3人のじゃんけんを楽しそうに見つめていた。
結局青タオルとマメタンが乗ることになった。

マルメの船着場で待ち合わせと言うことでいざ出発。
青タオルは後ろでずっと寝たフリをしていた。

スウェーデンも日本と同様南北に長い国だ。
人口は700万人くらいなのに空母まで持っている。
ボルボ、サーブの自動車も有名だ。

5時間ほどでマルメにつきドイツ青年と別かれた。グッドバイ。
あとであれほどドイツに馴染んでしまうとは、
アウフビーダーゼーエンもこの頃知らなんだ。

1時間ほど遅れて落ち研も現れた。それ以降、マルメ・ストック間のヒッチは3往復、
ドイツでのヒッチも入れて十分ベテランになった。
買い物ついでにちょっとヒッチ、そんなもんだここヨーロッパでは。

コペンに着いた

遅い日暮れ。多くのかもめに見送られながら、
フェリーはコペンハーゲンの港へ向かう。
白夜といえどもコペンは少し南に下って数時間真っ暗になる。

港に着いた頃はもうかなり暗かった。バスで市内へ。
チボリ公園のイルミネーションを通り過ぎて終点中央駅に着いた。
もう真夜中、3人はねぐらを求めて駅の近くの公園をさまよう。

初めての海外での野宿だ。何とか場所を見つけて眠った、
と思ったらすぐに朝、教会の鐘がこまめにガランがランと時を告げる。
ゆっくりと寝てなんかいられなかった。

朝早くに3人はもう起き上がってコペンの
有名なユースホステル、ベラホイへと向かった。

ベラホイのユースはとても大きくたくさんの旅人が、
チェックインのために並んでいた。日本人もかなりいる。
いろいろと情報交換をする。

ここコペンでもワーパミ(労働許可証)が取れるということや
夏は物価の高いストックが一番。朝昼のダブルもいける。

ドイツは仕事はあるが給料が安く、働くならスイスまでで、
あとの国ではとても賃金が安く働かないほうがよい、などなど。

ここで久しぶりにのびのびと一泊して、翌朝。
青タオルのオサムは車を買いにリューベックへ。

マメタンはコペンで職探し。落ち研は欧州一周の旅へ
列車で出発と、3人の珍道中もここでおしまい。

「リューベックで車買ったらベラホイに戻ります」(青タオル)
「職が見つかったら掲示板にメモしときます」(マメタン)
では一週間後にと言って掲示板の前で別れた。

いよいよほんとの一人旅。なけなしの300ドルで
ワーゲンの中古を買いにリューベックへと南下した。

ヒッチハイクはなれたもの、寝袋ひとつを肩にかけ、
青いタオルをなびかせて、サイモンとガーファンクルを聞きながら
青春真っ盛り、若林オサム23才の夏の終わりの頃でした。

ワーゲンを買う

デンマーク郊外は山地もなくなだらかな平野が続く。
ビートルズやサイモンとガーファンクルはこちらでも全盛だ。
ヒッチハイクでハンブルグ行きの学生に乗せてもらった。

ウッドストックの映画が大ヒットしていて
この国境のプトガーデンという小さな町で、
ウッドストック並みの野外コンサートをやっていた。

”行こう行こう”ヒッチの学生と一緒に乗り込んだ。
入り口らしき森のゲートで10マルクを支払い、
腕にスタンプを押してもらって森の奥へと進む。

駐車場は森の中どこでも自由に。遠くでサウンドが聞こえる。
森が途切れ視界が開けて、だだっ広い芝広場へ出ると、
もう大勢の人人人。若者、ヒッピー、軍服、テント。

トップレスにマリファナの香り。夜通しのロックコンサートだ。
真夜中のジョーコッカーが最高によかった。
ここでマリファナを初めて吸った。

独特の甘い香りですぐ分かる。
その香りがすると順に回ってくるのだ。
みんなのまねをして吸う。

光と音だけがすこぶる敏感になってくる。
吸いすぎると体が鉛のように重たくなってきて、
こんな時に尿意を催すと大変だ。

とても立ち上がれない。トイレに行くまでに、
あっちに取りすがり、こっちに倒れこみ、
わずか数メートルが地獄道。

つい最近コペンでマリファナの吸いすぎで
大きな交通事故を起こした日本人がいたと聞いた。
ああくわばらくわばら、悪いものには手を出すな。

さてさてリューベック。ハンザ同盟で有名なこの町は、
西ドイツ北の町、あるはあるはドイツ車。
ベンツ、ワーゲン、BMW、オペル、ポルシェ、アウディ。

やはりドイツでもベンツは高くて手が出ない。
やっと買えてワーゲンビートル1200。$300。

片言の英語と数字とジェスチァで
相当古いワーゲン第一号を買った。

”イエローサブマリン”を口ずさみながら、
さあヨーロッパ一人旅の始まりだ。

シャフトが折れた

もちろん左ハンドル右手にレバーがある。ところが、
バックミラーもサイドミラーもない。
いろいろ聞いたがどうも安い車はこれが普通らしい。

ラジオもクーラーももちろんない。ワーゲンは
ハンドルの切れがとても悪い。広い道でもUターンは至難の業だ。
坂は全然登らない。何という車だ!フォルクスワーゲン。

その名のごとき国民車。平坦な道をただひたすら毎時80キロ
で走るためにのみ作られた真に安価な国民車だったのだ。

だけどやはりあのビスビスビスの音だけは、
全てのマイナスイメージを覆させてくれた。

その後ワーゲンヴァリアント、ワーゲンポストワゴンと
乗り継いでいくがこの左ハンドルにビスビスビスは最高であった。

初めて走る右側通行、左折で何度も間違いかけたが、
ビッテシェーン(すんまへん)とベンツィーン(ガソリン)を憶えた。

全財産をつぎ込んで一文無しにはなったが、
さあ、コペンへ戻ってアルバイト探しだ。

天気もよく意気揚々と、旅だ!と叫びながら、
国境を抜けた頃から何か気になる音がしだした。

あとコペンまで20キロのところでついにガチガチと言う音がして、
車は止まったまま全く動かなくなってしまった。万事休す!
なんとクランクシャフトが折れてしまったのだ。

近くで修理屋を探し英語もドイツ語も片言で全く大変だったが、
何人かがかりで絵と図とを書いてやっと理解ができた。

しかし辞書にはないが非常によく使うカプゥト、カプゥト
(壊れた、駄目駄目の意)をこの時しっかりと憶えた。

しかし修理に3週間で300ドルはかかるということだった。
「2,3日待ってくれ。コペンの友人と相談して修理するか
廃車するかきめるから。必ず連絡する」

(ベック=捨てるという意味かよく使う)
ベラホイのユースにいる、と言伝してコペンへ向かった。
ヒッチでベラホイへ。

ユースに着くと真っ先に掲示板を見た。あった!
「青タオルへ、職見つかる連絡されたし東京館へ。マメタン」

あのコペンで有名な日本人レストラン
東京館で働けるようになったみたいだ。
早速電話してその晩中央駅で会った。

事情を話したところマメタンは、
「私は大丈夫だからこれ使いなよ」
と言って、300ドル。

まっさらのトラベラーズチェックにサインしてくれた。
全部10ドル札だったから30枚を
駅の銀行でサインしてくれた。

欧州まで来てまだ何もしていないのに、
さあこれからだという時に、
日本の女の子に世話になるとは情けない。

それでもありがたく300ドルを借りて
車を修理することにした。

翌日ユースで仕事ありませんかとたずねてみた。
幸い日本人が二人ほど働いていて、
もしここで働けたらユースで泊まれて一番良い。

はたして、もう一人の日本人がちょうど帰国していて
3週間の空きがあるとのこと。車の修理もそのくらいかかる。
グッドタイミング!ベラホイのユースで初めてのバイトが決まった。

とにかく一文無しでいきなり300ドルの借金。
前途多難な旅の幕開けにもわずかな光明が見えてきた。

デンマークは人口500万人の小さな国だ。
アンデルセンとフリーセックスで有名だ。
酪農豊かな高福祉国でもある。

税金がべらぼうに高くバイトでも半分は持っていかれる。
それでもなごやか子ども連れで週末ノーカットの
成人映画を楽しく見に行くような町だ。

さあこれから3週間、まじめに働こう。

ベラホイのユース

ユースの仕事はいわゆる皿洗いと雑役。つまりトイレ等の掃除、
ベッドメイキング、ジャガイモの皮むき等等。
かなり大きなユースなのでバイトが10数人いた。

そのうち日本人が4人。まだ来たばかりの画家のおじさん、
19才の留学生と長髪のギターリスト。
ギターリストが一番古株でその友人が今帰国中とのことだった。

ユースではとにかく盗難が多かった。
着いたばかりの日本人やカナダ人が狙われた。
あまりに頻繁に盗難事件が続くので皆で工夫して、

大きな張り紙を各所に貼り付け、
夜手分けして駐車場の見張りをした。

そうしたある晩、オサムは仲のいい黒人の留学生と二人で
車の中に隠れて見張りをしていると、ついに現れた。
カナダ人のツーリストナンバーのバンに人がいる。

ガサゴソガサゴソ間違いない。半ドアでダッシュボードをあさっている。
どうしよう?掴まえられるか。反撃されたら怖いな。
黒人学生がオサムの耳元で、

「アイハヴァアナイデア」(ええ考えがある)
「カムウィズミー」(ついて来い)
そっとこちらの車のドアを開け彼の後に着いていった。

彼は大柄だ。何かあったらすぐに逃げよう。
彼はバンの後方ではなく運転手側前方にそっと回った。
「ヘイユウ!」(てめえ!)

突然大きな声でフロントガラスに大型ライトをかざした。
キョを突かれた間抜けな顔。口を半開きにして、
目がまん丸。ほんとにびっくりしたんだろうな。

「アイノウユウ!」(お前知ってるぞ!)
再び大声。我に返って彼は大慌てで後方に逃げ去った。
黒人学生の大声が後を追う。

「ネヴァービバック!」(二度と来るな!)
それから急激に盗難が減ったのはいうまでもない。
見たことあるような口ひげのアラブ系の顔だった。

今でも時々思い出す。

アウトバーンでひっくり返る

生活も少し落着いてきて日本に電話を入れた。
広島の義兄の実家とくるみと勝秀に連絡した。その結果。
300ドルを持ってくるみがウィーンに来ることになった。

9月下旬だ。3週間のバイトも終わり、その日に合わせて、
修理した車に画家のおじさんに浮世絵のペインティングを
してもらい、そのおじさんと一緒にウィーンへ下ることになった。

出発の日、ユースの前で皆が見送ってくれた。
黒人学生とは「ヘイユウ!」と言っては大笑いをした。
マメタンには「必ずお金は返します」とみんなの前で誓った。

さよならまた帰ってくる。
快適なドライブで一路ハンブルグへと向かった。

ハンブルグは大きな港町。英語読みでハンバーグ。
そこのステーキはそうハンバーグステーキ?

ユースは町の中央、盛り場レーパーバーンのすぐ近くにあった。
欧州にはほとんどの国に公娼がいまでも健在だ。

画家のおじさんは金持ちだったので、
行こう行こうと誘われて一応一緒にのぞいてみたが
オサムは先に帰った。後で聞くと、

ぼったくられてバカにされて散々だったと、
画家のおじさんは目に涙して怒っていた。
やっぱり行かなくてほんとうによかった。

アウトバーンは快適だ。ハノーバー、ケルンとこのあたりは
車も多く工場地帯だ。ニーダーザクセンと言う。
ふと見るとホンダのN360が走っている。

アウトバーンでは日本の軽は無理だと思うが・・・?。
ハンドルを持ったおじさんの顔は真っ青だった。
よほどの日本ファンなのだろうな。

フランクフルト、ハイデルベルグ、シュトッツガルト、
アウグスブルグと下り、快適な全線無料スピード制限なしの
アウトバーンとユースホステルの旅。

と思いきや。アウグスブルグを過ぎてミュンヘンまで
あと20キロというところで、曇天の夕方、

緩やかな右カーブの下り坂、ゴトゴトという音と共に、
いきなり車体が大きく傾き右手に火花が見えた。

グリーンベルトにぶつかる寸前に急ハンドル、
車体は左に傾いて横転。オサムは助手席のおじさんの下敷きになった。
待つこと1,2秒。”俺は死んじまっただ”の歌が聞こえる。

とにかく一呼吸おいて、・・・助かったみたいだ。
「重いよ、おじさん外に出て!」

やっとの思いで上向きになった助手席のドアを開けて、
外ににじり出てみてびっくり。車はうまく路肩に横転。
向こうの方から男の人がタイヤを1本ころころと押してくる。

なんと右後部車輪がはずれ、車軸が路面とこすれて
火花を飛ばし、横転したらしい。

ドイツの人々は事故のときにすこぶる手際が良い。
発炎筒、事故表示板、パトカー連絡と速やかに
みんなしてさっさと処理をする。

このときもVWポルシェのハイウェイパトカーがすぐに来て、
皆でわっしょいわっしょいと車を起こしてくれた。
ど派手なヤーパンポップワーゲンでツーリストナンバーだ。

ハンドルが少しゆがみこの胸は痛むが何とか車は動きそうだ。
次のインター出口から修理工場までパトカーが先導してくれた。
ダンケ、ダンケ、フィーレンダンク(おおきに、おおきに)

ドイツの皆様方にあちこちでお礼を言いながら、
シュタルクヤパーナー(強き日本人)と胸を張り、
痛みを抑えて車を運転し続けた。

おじさん事故る

ミュンヘンは大きな町だ。ホフブロイハウスでは
朝から皆ビールを飲んでいる。
駅ではコーラよりビールのほうが安いのだ。

生水は硬泉で飲めないから喫茶店で日本のように
勝手に水が出てくるというような事はない。

もし初めてのドイツ人だったら、
私は水を注文していないとはっきりと断るだろう。

北のニーダーザクセンよりは南のバイエルンのほうが
小太りしたチロル風の人が多く人なつこい。

バイエルン方言でグリュースゴッド(まいど)
ビーダーシャウエン(さいなら)と言うととても喜ぶ。

ここから南、オーストリアとの国境付近一帯の山岳地帯を
チロル地方という。ザルツブルグ、インスブルグの町々
サウンドオブミュージックの世界だ。衣装も独特だ。

そういえばデュッセルドルフの東京銀行で、女子行員が
チロルの伝統衣装を着て仕事をしていた。
当時の日本ではとても考えられないと思う。

ミュンヘンのユースに泊まりつつおじさんが、友人が
ガルミッシュにいるということで、車を貸してあげたら、

帰りにバスに追突して、これが急遽裁判所に出廷ということになって
ユースにポリツァイの緑と白地のバンが到着、二人は連行された。

革ジャンに角ばったポリスの帽子。ドイツ人はほんとに
この軍服姿がよく似合う。必要もないのに
サイレンを鳴らしてひた走り、裁判所に着く。

小法廷で日本領事館の人を交えて裁判が始まった。
すぐに判決が下りた。おじさんに800マルクの罰金。
おじさんはお金持ちだったので即金で払って二人は釈放された。

ウィーン西駅

やっと古都ウィーンに着いた。
アウトバーンもミュンヘンまでで後は一般道。
ザルツブルグの美しいお城を見学してオーストリアに入る。

言葉はドイツ語だが貨幣はシリング。
スウェーデン、デンマーク、ドイツと物価は下がって
暮らしやすくはなるが、ここではさらに安く
トルコ人の出稼ぎが多く驚いた。

さあ、待ちに待ったくるみとの再会だ。
モスクワから列車で西駅に入るはずだ。
今日の夕方の到着。くるみと出会ったら、

早速おじさんと別れてくるみとコペンへ行こう。
と思いつつ待った。もう夜は寒い。
列車が到着したみたいだ、日本人の団体が降りてきた。

いよいよだ。一人一人じっと顔を見ていく。
何故だいないぞ、そんなばかな。
数十人の団体だ、もういないと分かる。

唯一のくるみの写真を手にして三々五々別れ始めた
グループに一つ一つ聞いて回る。

「この人見ませんでしたか?」
「ご存知ありませんか?」
「いませんでしたか?」

恥も外聞もなくとはこのことだ。何故だ?。
何度も手紙を交わし、広島の親元や
東京の勝秀とも協力してもらって、

彼女は間違いなくこの10日前まで、
間違いなく出発のはずだったのに。

画家のおじさんが慰めてくれたが何かの間違いだ。
もう一日待ってみよう。さらにもう一日。
三日目、5星の最高級ホテルから国際電話を入れた。

『1週間前に土壇場でキャンセル。どうしても行けないと、
くるみが泣きながら勝秀の所へ連絡してきたとのこと。
もうオサムはコペンを出た後で連絡も取れず、どうしたものかと』

相当苦しかったろうな。大きな賭けだったもんな。すまん。
『よく分かりました義兄さん。皆に心配掛けてほんとにすみません。
コペンの人には訳を言って半年待ってもらいこっちで稼いで返します』

当時300ドルの送金というのは全くもって困難を極めたのだ。
仕事はある。体力も気力も十分だ。さあ、おじさん!
一緒に仕事を探そうか。

ビートルズの”ロールオーバーベートーベン”をがんがんかけながら、
ポップアートのかぶと虫はとろとろとウィーンをあとにした。

チロルの山の中で

仕事仕事さあ仕事探しだ。
おじさんも罰金の元を取り返すと意欲満々。
物価の高いスイスでの仕事探しを決めた。

インスブルックからリヒテンシュタイン、
スイスへの山深い国境地帯、
列車で車を運ぶほどの険しい山なみ。

そんな中でもこの地方にすみつかれた日本人の婦人の方が
車の浮世絵ポップを見つけて、
おにぎりの差し入れがあったりした。

いつのまにかリヒテンシュタインを抜けてスイスに入っていた。
チューリッヒのユースでダボスの教会が人を
探しているという情報を得てダボスへ向かった。

日暮れてダボスに到着。相当の山奥だ。駅の近くで車泊。
朝、目が覚めてびっくり。なんと30センチの積雪でドアが開かない。

ほうほうの態で雪道を抜けて何とか教会にたどり着いたが、
もう仕事のほうは埋まっていた。残念遅かった。
大雪の中をノーマルタイヤでそろりそろりと抜け出した。

幹線道路にでると雪はなく360度アルプスが見える。
すばらしい大自然の中をベルンからジュネーブへと駆け抜ける。
ドイツ語からいつのまにかフランス語になっている。

スイスメイドのハイライト1カートンに1個おまけ付とか。
ユースで名物料理ホンデュとか、ちっとも腹はふとらない。
あちこち当たってはみたが仕事はなかなか見つからない。

本格的な冬が来る前に安くてもインスブルックか
ミュンヘンへ戻ったほうがよさそうだ。よし。
大急ぎでインスブルックへ引き返すことにした。

途中イタリア行きの有料道路に入りかかって、
バックバックまたぶつかりそうになる。
もう事故らんとこな、おじさん。

「イッヒメヒテアルバイト」(仕事ありますか)
何度も必死で練習する。さあインスブルックだ。
アルプスの少女ハイジが出てきそうな

山間の工事現場で声をかけてみた。
いきなりボスが出てきて明日からこいとのこと。
二人は跳び上がって喜んだ。

さあ仕事は決まったことだし、祝杯をあげよう。
その夜はインスブルック市内のヴィーネンバルト
(ウィーンの森)というファミリーレストランで乾杯。

すると、チロリアン風の生バンドが、スキヤキ
(上を向いて歩こう)を演奏してくれた。
どうして日本人と分かったんだろう?さて、

翌朝から猫車とセメントと穴掘りの毎日が始まった。
秋で大忙しの現場がいくつもあって、
毎日があっという間だった。

そうしたある晩、インスブルックの体育館に、
ウドユルゲンスという、当時西ドイツNO1の
ポップシンガーのライブを見に行った。

星散りばむチロルの山々、山深い谷あいの町に、
ともし火の集まりの如くウドユルゲンス。
すばらしい歌声とピアノの協奏曲。

日本ではドイツの歌手などほとんど知らないのではないだろうか。
森と泉に囲まれた”ブルーシャトー”が聞こえてくるようだった。

11月にはいるとチロルはもう冬の気配だ。
やっと1か月分の給料をもらう。
なんと数百シリング(日本円で3万円くらい)。

何じゃこりゃあ。早くミュンヘンへ行こう、おじさん!
ボスに丁寧に挨拶をし、トルコの口ひげ仲間たちにも
別れを告げてミュンヘンに向かった。

この頃わが愛車はもうぼろぼろでブレーキの利きも悪く
廃車寸前。なんとしてでもミュンヘンで、
仕事を見つけなければ、と必死だった。

バイト探し

肌寒い夕暮れ時になつかしのミュンヘンのユースに着いた。
翌朝からすぐに仕事探しだ。今日はゆっくりと休もう。

さて翌朝いよいよハウプトバーンホフ(中央駅)から
カフェ、レストラン、ホテルと片っ端から
「イッヒメヒテアルバイト」(仕事ありますか?)

で行けば40軒以内に必ず仕事は見つかるという法則。
誰がつけたか知らないが、この40軒ノルマの法則
を信じて中央駅のキオスクからスタートした。

十軒目におじさんが中華料理店に決まった。
さらに十軒目にオサムも中華飯店に決まった。
ここで愛車を廃車しおじさんと別れることにした。
(おじさんは1ヵ月後に帰国した)

オサムの中華飯店は折りたたみベッドで住み込み可。
3食付で月500マルク(約5万円)。ただし
労働許可証なしなので不法労働になる。

40軒ノルマの法則は真実だったが、半年間の幸運を祈るのみ。
天涯孤独。金もなく、ほかにすることもなかったので、
日本から持ってきたドイツ語の会話本をぼろぼろになるまで読んだ。

サイモンとガーファンクルを聞きながら、1歩も外に出ずに
ひたすらモグラのようなアルバイト生活を過ごした。

小さなレストランだったので、中国人のシェフが一人とオサムが助手。
ドイツ人のウェイトレスが一人とトルコ女のまかないが一人。
オーナーの女主人はドイツ人で頑固そうで明るくない。

皆との会話も少なく全てブスッとした感じだったが、店は繁盛していた。
ある晩など瞬く間に全テーブルが満席になり注文が殺到。

30代の無口なシェフとにわか助手のオサムとで、一気に
30食分のメニューを造り終えたときには、さすがに皆で
「ブラボー!」と拍手したことがあったが、

その時以外は、口ひげのような産毛がある小太りのトルコ女に、
あそこ磨けここ磨けプツェンプツェン(磨け磨け)といじめられた。

ドイツ人のウェイトレスはどことなく投げやりで恐らく20代半ば、
一度だけ「アーレスクラール?」(どう、元気?)と声を
かけたことがあったが、もうストレートにいやな顔をされた。

意味は通じたのだろうが、明らかに東洋人を毛嫌いしている。
同じ東洋人でも中国人と日本人とでは雲泥の差だ。
日本人と分かるととたんに愛想良くなる。

ソニーだホンダだトヨタだと畏敬の念が眼差しにありありと
表れてくる。東西ドイツ合わせても9000万人足らず。
国土も日本並み。人口なら英国も仏国も5000万人くらいだ。

日本は島国だがやはり大国なのだ。ところが中国はでかすぎる。
国土は日本の20倍。人口は10倍以上。ソ連やUSAが人口
2〜3億人で国土は広いが中国には及ばない。

ところが中国人はどこに行ってもチーノチーノとからかわれている。
何故だろう極端だ。

後日エジプトのカイロのバザールを3人で歩いていた時、
だんだんと人垣が増えてきて、最後はチーノチーノといって、

トマトを投げつけられほうほうの態でタクシーにかけ乗り、
逃げて帰った事があった。

誰かがあの時、日本人だと叫んで子どもたちに(大人もずいぶんいた)
それを説明していれば、トマトは投げられなかったと思うが。
子どもたちにはチーノもジャポネも同じ東洋人としか写らない。

一見して分かる差異で差別してくる。
最低限の初等教育は、ほんとにあまねく普遍的に、
最重要課題だと、どこの国に行っても感じた。

文盲、知識率は、開発途上国では80%以上なのだ。

シェフ

シェフは無口でほとんどしゃべらない。
ある時そのシェフが新聞を持ってきた。
『ヤパーニッシハラキリ!』

三島由紀夫が割腹自殺をしたのだ。
写真入で出ていた。このドイツでも
ハラきりのインパクトは大きかった。

どんな天才でも早死にすれば意味がない。
仏典には極めつめれば自殺か発狂かになるとある。
俺は長生きするぞゴキブリの如くとオサムは思った。

12月が来た。雪景色とクリスマスの飾り付けで
ミュンヘンの町はとても美しい。
ホワイトクリスマスそのものだ。

この頃オサムも一人前の助手として、シェフの部屋の
一室に折りたたみベッドを持ち込んで居候していた。

クリスマスのイブの晩、閉店後に無口なシェフが
珍しく声をかけてきた、三つ揃いのスーツを着ている。

「タンツェンタンツェン」(ダンスダンス)
「トリンケントリンケン」(ドリンクドリンク)
仲間が待ってる一緒に行こうという。

「着るものがない」
「イガール」(かまへん)
二人は外へ出た。とても寒い。

有名なミュンヘン通りのこれまた有名な建物の脇に、
大きな寒暖計があって、マイナス12度を示していた。

ホッホッと白い息を吐きながら、ハウプトバンホフ
(中央駅)方面へ向かう。すぐに着いた。
大きなフロアと吹き抜けのある大ホールだ。

シェフは2階席へと駆け上がった。
30人ほどのメンバーだろうか、中国系が多い。
年齢もさまざまでなんだかあまり上品そうではない。

シェフはオサムのことを自分の弟子のヤパーナー
と説明しているみたいだ。2,3人くらいがオサムの
方を見ている。上目遣いに会釈をする。

他の連中はもう飲み食いで完全に無視されている。
早めに帰ろう、一人浮いている。食うだけ食って
飲むだけ飲んだら、シェフに「ツリュック」(戻る)
と言って先に帰った。

にぎやかだけど孤独だった。真夜中の大通り、
誰もいない遊園地のようだ。イルミネーションは
こうこうと輝いているのに音が全く聞こえない。

人の姿はなくてとても静かだ。雪が道脇に積み上げられている。
超大型のサンタクロースが、おいでおいでをしている。

オサムが通り過ぎても、誰もいない空間に向かって
ずっと、おいでおいでをしている。とても孤独だった。

子どもの頃クリスマスツリーはとても大きかった。
だけど今はとても小さく見える。ビージーズを
聞きながら毛布に包まってとにかく眠った。

うとうとしたら向こうのベッドのものすごいきしむ音で
目が覚めた。シェフがドイツ女とやりまくっている。
酒のせいかとても激しい。何故ドイツ女と分かったか?

静かになってしばらくして金髪女がオサムの部屋を
トイレと間違えて侵入、オサムに”まあかわいいべビィ”
と頬擦りしてきたからだ。

ふけた女だったが、なぜか顔は涙で濡れていた。
自分にもこのくらいの子どもがいたのかも?

オサムはむしょうにハラが立って寝返りうって
知らん顔をしてひたすら眠った。

早く春になれ。借金返して、スウェーデンで稼いで
来年こそは絶対に最高のクリスマスにするぞ。

ホモおじさん

ついに春が来た。ドイツ語も語彙は少ないのに
なれなのかミョウに板についてきた。
中華料理はもうプロ並みだ。

一段とたくましくなったようだ。金もたまった。
自信満々、早くコペンに戻って300ドル返そう。
全てはそれからだ。

ミュンヘンのユースに『バイとあります』と
張り紙を出したらすぐに後釜は決まった。
あの助平なシェフともお別れだ。

別れ際にシェフが耳元でささやいた。
「パスポートを300ドルで売ってくれないか?」
「ナイン、イッヒカンニヒト」(あきまへん)

さいならシェフ。色魔(しかま)バイバイ!

再び青タオルを首にかけ寝袋をバックに
ヒッチハイクの再スタートだ。

何台か乗り継いで、
フランクフルトからデュッセルドルフへ、
ラストは高級ベンツのおじさんだ。

上品な感じ、60代か?お金持ちそう。
ドイツ語と英語を織り交ぜて、
最初の会話はいつも決まっている。

どっから来た?どのくらいいる?どこへ行く?
学生か?何してる?日本はどんな国か?
ドイツは好きか?生活はどうしてる?等等。

もう英語でもドイツ語でもペラペラだ。

ところがこのおじさん、運転しながら
オサムの膝をぽんぽんと叩く。
それがだんだんとさすりだす。

ちょっとおじさん止めてよ、と言うと、
すっと手を引っ込める。何か変だ。

デュッセルに着いた。オーバーカッセルの
ユーゲントヘルベルゲ(ユースホステル)、
ライン川沿いの橋向こうのユース。

以降このユースが拠点となるのだが。
おじさんもこの近くらしい。
面白いテレビがあるから是非見ていけと言う。

もし力ずくになったら勝てそうだから、
との思いでついて行くことにした。

北欧のノルマンやアングロサクソン系は皆、
背が高く金髪で目が弱々しいブルー、
病的な白い肌でそばかすが多い。

ドイツゲルマンはほぼ日本人並みの体型で、
栗色の髪にブルーの瞳。さらにラテン系フランス、
イタリア、スペインと、ずんぐりむっくり。

肌も黄白色から褐色へと変わっていく。
背も低め、だんだん黒髪、黒い瞳になっていく。

パリもロンドンも人種のるつぼだ。
かつての植民地時代の名残か、
衛兵にアジア人がたくさんいた。

ドイツ人は体型もほぼ日本人といっしょで、
カウホフ、ホルテンというデパートで
買い物をしても、服はぴったりとサイズが合う。

かえってラテン系、イタリア、スペイン、
フランス人のほうがずいぶん小柄な感じがした。

ドイツ人は信号をきちんと守るし、時間にも正確。
規律に従順で、皆で行進皆で合唱が大好きな国民性。

おせっかいなおばさんが子どもに注意する。
非常に日本人と気質が似ている。

フランス人、完全個人主義で流行に左右されず
全てマイペース、人当たりは良いが根は頑固だ。
フランス人はまるで京都人のようだ。

さて件のおじさんの部屋で二人並んでソファーに
座ってテレビを見ている。カラー画面に
美しい公衆トイレがバーンと映る。

肉体美の若者が現れ中に消えていく。また一人
キャミソール肉体美の若者が現れ、また中に消える。
隣のおじさんはだんだんと息遣いが荒くなってきている。

三人目が出てきた。褐色の美男子だ。
おじさんの目の色も変わってきている。
これはやばい!

そう思うや否やパッと立ち上がって部屋を飛び出た。
あえぎながらおじさんが手を伸ばし呼び止めている姿が
目に入ったが、そのまま走ってユースへ向かった。

ユース前のカフェテリアで名物の黒ビールを一杯。
うまかった。サイモンとガーファンクルの
ボクサーがかかっていた。

きっちり返す

七ヶ月ぶりの再会だ。マメタンはすっかり東京館の
ベテラン姉御になっていて、あれやこれや、
皆の面倒を見、今日は越路吹雪が来るわよとか、

厨房に指示したりとか、何か日本と変わりないじゃん、
と思いつつも、ありがたく三百ドルを、
ドイツ土産とをそえてお返しした。

「青タオルもウィーンではたいへんだったのね」
といいつつ、
「日本人ばっかりで、ひとつも語学は上達しないわ」
とか言っていた。

大使館や商社、芸能人が多く、全くの日本人村の住人だ。
本人も今、日本から柔道を教えに来た佐藤という
体育会系の先生とやらに熱を上げていて何かと大変らしい。

オサムは一週間ほどベラホイにいて、それからストックに
仕事を探しに行くということで、
なつかしのべラホイユースホステルに泊まった。

まだ欧州に着いたばかりの日本人がアラブのひげ男に
カメラを見せびらかしている。案の定翌日大騒ぎ。
いくら説明してもそんな男は宿泊していないとのことだった。

アラブを見たらドロボーと思え!
これは偏見でもなんでもない。
彼らムスリムは宗教的にそうなっているのだ。

持てる者から持たざる者へ
喜捨して平等と言う考え方なのだ。
アッラーの神のもとに平等。

ある日ユースのキッチンでマーガリンを開けて炒め物
をしていたら、きっちり半分となりのアラブに持っていかれた。
アッラーの名の元に半分喜び与えよこれ平等なり。

アッラーアクバル!イ二シャラー!(神の思し召すままに)
どこの国にも良い奴と悪い奴とがいる。しかし、
とにかく、アラブにだけは気をつけよう。

ヘルシンキ

ストックの職安にまず出向いた。さあどうしたものか?
仕事が決まればもう旅はできない。マメタンはまだ
ほとんど旅をしていない。

「フィンランドに行ってからでも良いのでは?」
一番金持ちのマメタンがそう言ったので皆賛成した。
「お金がなくなったら私が出してあげるわよ」

そしてこれが後で命取りになるとはつゆ知らず、
3人はフェリーでヘルシンキへと向かった。
フェリーは大型でとても豪華だった。

20年後、このフェリーが事故で沈没したとの
ニュースをみた時、あっ、あのフェリーだとても驚いた。

チュルクの港からヘルシンキまでは当然ヒッチハイクだ。
なぜかマツダの車ばかりでどこにいっても日本人受けが良い。

ヘルシンキのディスコで、食事中なのに気付かず踊りに
誘ったらいやな顔もせずにすぐ踊ってくれた。

いつもロシアにいじめられていたフィンランドは、
日露戦争で日本があの大国ロシアをやっつけたということで
とても日本人はもてるのだ。

ヘルシンキの郊外に大きな国際大会用スキージャンプ台
があった。ノーベル平和賞の佐藤栄作氏が作ってくれた
のだと誇らしげに語ってくれる。

サウナの本場LAHTI(ラッハティ)に向かう。Hをもろにハ
と発音するのだ。お金はクローネではなくてマルカ。
ドイツの息がかかっている。

着いたぞサウナの本場と思いきや、何の事はない
温泉プールのサウナ付、今日本のどこにでもある
温水プールと全く一緒だった。

暗く長い真冬を過ごすにはサウナとディスコが
北欧庶民のすばらしい娯楽なのだ。

さあストックホルムへ戻って働こう。
3人は再び大型フェリーに乗り込んだ。

とてもがらすきだったので、展望室の大きな窓の
フロアに寝袋を3つ並べてぐっすりと眠った。
サイモンとガーファンクルを聞きながら。

仕事がない?

職安にはなぜかアラブ系とトルコ系が多かった。
書類に書き込む。スベンスカランデ(スウェーデン語
できる人)がほとんど。ほかでも探す。

中央駅の近くにあるブルーハウス。ユースのチャップマン。
ガムラスタン(旧市外)のディスコ”ホワイトシープ”。
いろいろと情報を探る。ユースで知り合ったアメリカ

渡りが加わって4人で探す。オゾネは造園の技術を
生かして郊外の牧場へすぐに決まった。レストランに
欠員1名、先輩ずらしてアメリカ渡りに譲った。

やはりマメタンが決まらないと、オサムはその後だ。
この数日間の間に夏季労働協約というものが急遽締結され、
工場の期間労働者は全てアラブ系とトルコ系とに独占されて

あぶれたアラブとトルコに我々日本旅行者とが入り乱れて
仕事の奪い合いになった。カフェテリアもレストランも、
もう手遅れだった。歩き疲れて港にたたずむ二人。

オサムは意を決してマメタンに言った。

「俺にはまだ農場も土方もある。君はワーパミを持っている
んだからコペンに戻ったほうがいいのでは?」

ヒッチハイクでマルメまで送っていくからコペンに帰りな。
幸い東京館からは是非帰って来いという返事みたいだし。
しかし、それでも彼女は帰るのをためらった。

それにはやはり訳があったのだ。マメタンは静かに話し始めた。
”時には母のないこのように”、カルメンまきの透き通った
声が遠くに流れていくようだった。

マルメの別れー1

その男は佐藤武というそうだ。講道館柔道五段。
欧州に柔道を広めるべく日本代表としてコペンに派遣された。
世界柔道界のプリンス。もちろんパトロンやスポンサーが

かなりいて、その女性パトロンとマメタンとが人目も
はばからず派手に遣り合っていたのだ。佐藤はこれまた
相当のプレイボーイで他にもその手の話には事欠かなかった。

ところが今佐藤は日本に帰国中ということで、そこはそれ、一度
決着をつけて身を退いたが、悪く言えば負けて逃げ出したのに、
おめおめコペンへ帰れるか、ということだったようだ。

しかし今となっては、このピンチの中では、コペンへ戻るのが
一番だ。恥を忍んで東京館へ戻ろう。そうマメタンは決意した。

「はよコペンへかえり。ヒッチでマルメまで送っていくから」

二人ともなんとなく気が重い。口数も少なく元気が出ない。
負け戦だ。とにかくマメタンをコペンに返してすぐにストック
へ戻り必死で仕事を探そう、オサムもそう決めた。

さいわいヒッチハイクで乗っけてくれたご夫婦がとても良い人
たちでやっと少し元気が出てきた。マルメの北のほうの小さな
町で新聞社をやってるご夫婦で、是非泊まっていけと言う。

日本という国のことを取材させてくれということで一晩お世話
になった。

日本の言語は世界で一番難しく、漢字、ひらがな、カタカナ、
アルファベットとタイプも四種類あり、表意文字の漢字たるや
数万語。ひらがな、カタカナは各50文字。アルファベットは

わずか26文字とか、えらそうなことを一杯しゃべった。
ようやくマメタンもオサムも元気になった。

マルメの別れー2

後日、東京館に送られてきた新聞に、写真入で
この言語のことがそのまま紹介されていた。

さて、白樺に囲まれた広い邸宅。かなり歴史
のありそうな伝統的な造りだ。一部屋づつ時間
をかけて家具から小物まで詳しく説明を受ける。

お返しにヒデとロザンナの歌や、赤とんぼを歌い、
夕食をご馳走になり、マッサージをしてあげて、
すっかりと夜も更けてきた。

別宅の2階の寝室に案内された。子どもたちが
昔使っていた部屋だそうだ。本格的な山小屋風
ログハウスだ。その2階は屋根の傾斜に沿って

大きな出窓がある。星がとても美しい。ベッド
は引き出しのようにフロアに直接スライドして
くる。出窓をはさんでベッドが二つ。

とても星のきれいな初めての夜だった。
彼女は思い切り泣いた。悔しくて泣いたのか?

悲しくて泣いたのか?それはまさに、
訳の分からない青春の涙だったと思う。

翌日のマルメの港。小型のフェリーに汽笛がなる。
二度としたくはなかった船での別れだ。こんどは

送る側だ。船が見えなくなるまでずっと突っ立っていた。
何故だかとても悔しい。負け戦だ。今のところ負け戦だ。

「仕事が決まるまで毎日はがきを出すからね。
君もしっかりがんばれよ」

「私は大丈夫よ。コペンにいれば何とかなるから。
オサムも頑張ってね」

青タオルがいつのまにかオサムになっていた。
昨晩のヒデとロザンナの歌が、
あのほしぞらと共によみがえる。

『♪自由にあなたを愛して愛して二人は傷ついた♪』

コペンへ・・・・

とにかく真剣に仕事を探そう。オサムはストックに戻ると
まず。絵葉書を十枚買って東京館宛でマメタンの住所と
名前だけを書いた。毎晩書いて翌日出すことにした。

相変わらず職探しは困難を極め、必殺40軒ノルマも
途中で挫折し、郊外の牧場もくまなく回ったが・・・。

「おげんきですか?きょうもだめでした」

「お元気ですか?すばらしい大自然の中の牧場でしたが
トルコとアラブに占領されて駄目でした」

「はーい、お元気ですか?仕事なくともこちらは元気で
あちこち歩き回っています。足が棒になってます」

「スベンスカランデばかりで全く駄目です。空きも
なかなかありません。ドイツに戻ろうかと思ってます」

マメタンからユースに返事が来た。

「東京館で再び頑張ることにしました。
頑張ってください。     マメタン」

「明日仕事が決まらなければドイツへ戻ります。
デュッセルドルフかミュンヘンで、皿洗いなら
いつでもあります。     オサム」

「ドイツまで行かなくてもコペンに仕事があります。
トーマスペンションに部屋を借りました。マメタン」

「・・・・・・・オサム」

「近くに友人の操さん、あの大阪弁丸出しの美人が
住んでいます。彼女が勤めているノアポップカフェテリア
に空きがあります。厨房にはデンマーク人と結婚した

小林君もいます。是非コペンに帰ってきてください。
また一からやり直しましょう。     マメタン」

一番恐れていたことが起こってきたみたいだ。
不思議な魔力でコペンに吸い寄せられてしまう。
外国での日本人村にどっぷりだ。

ええもういい。天に向かってオサムは叫んだ。

「負けた負けた。悔しいけれど大敗北だ!」

コペンで、肩身の狭い思いで、一冬辛抱しよう。
冬は必ず春となる。いつか必ず皆を見返してやる。
特にあの佐藤武、今に見ていろ。

オサムはことさらニヒルになっていった。

トーマスペンション

ベラホイのユースは旅行者の情報拠点だったが、
トーマスペンションは在デンマーク長期滞在
日本人の情報拠点だった。しかもその中心的存在が

マメタンだったから人の出入りが多く大変だった。
彼女はちゃきちゃきの江戸っ子で東京都の職員を
3年で退職し追いすがるストーカーまがいの彼氏を

振り切ってとにかく海外へという履歴の持ち主だ。
目にあまるほど面倒見がよく、そこまでしなくても
というほど、よくこまめに動き回る。マメタンその

ものだった。昔甲状腺を患ったことがあるらしく、
ときどきじっとしておれなくなることがあるそうだ。
血液型0型のせいもあるやも?八方美人で何にでも

ちょっかいを出す。その半面読書し始めると没頭して
オサムの声も全く聞こえない。結局オサムはその居候
になった。新しい彼氏を一目見ようと何かといろんな
人が出入りした。

「どんな人?元全共闘?」
「長髪でヒッピー風、無口なのね」
「ロマンチストで詩人らしいよ」

日本の旅行社、レストラン、商社員、領事館員、銀行、
芸能人そしてあの柔道の連中。無口でニヒルなミスターオサムは
ただひたすら働いた。暗くて長い北欧の冬だ。暗いうちに

出かけて暗くなって帰ってくる。夜はいろんな人がやってきて
彼女に相談やら愚痴話やら色んな悩みを打ち明けている。
オサムは黙って横で本を読みながらじっと聞き流している。

まるでカリスマ教祖のように。トーマスペンションには
部屋が30近くあってその半分が日本人の長期滞在者だ。
あの柔道関係者も入れ代わりが激しく次々と挨拶に来る。

そしてとうとう、あの佐藤武とクリスマスイヴのディスコ
パーティーでばったりと出くわすことになったのだ。

『ヘイジュードー。ドントビーアフレイド!』
ビートルズが励ましてくれた。

一瞬の神がかり1

去年のクリスマスはミュンヘンでとても孤独な
一人ぼっちのホワイトクリスマスだった。
ビージーズを聞くと今でも涙が出てくる。

今年は、オサムとしてははなはだ不本意だが
マメタンにおんぶに抱っこ、いわゆるヒモだ。
彼女の面子をつぶさないように、いつもひかえめに、

無口で、じっと彼女の傍らに控えていた。
髪は肩までのびて口ひげを生やし、ジョンレノン風の

丸めがねをかけ、木靴を履いてジーンズのパンタロン。
顔青白くまるでカリスマ教祖だ。さて、

ノアポップでの仕事はテーブルのトレイをただひたすら、
一日中片付けるだけ。イエスキリストがおごそかに、民
の食したトレイとカップをひたすらもくもくと片付けている、

そんな感じで、それはそれで絵になっていた。
厨房の小林君が哲学者だったので、時折雲を掴むような
話をぽつぽつと二人で語り合ったりしていた。

小林君は眼差しの優しい仏様のような人だった。
神と仏がノアポップでいつもウィンクしあっていた。
長い長い冬の夜。年も押し迫ってきて、いよいよ、

クリスマスイヴの晩、コペン最大のディスコ。
東京館とノアポップ組みはフロア脇に陣取った。
数百人は入る大ディスコ。日本人もかなりいる。

アップテンポのハードロックで皆激しく踊りまくる。
ロッドスチアート、レッドチェッペリン、モンキーズ。
今はやりの強烈ディスコサウンドだ。

神も仏も時折厳かに踊った。

一瞬の神がかり2

宴たけなわ、突然音楽が止んで暗転。真っ暗になった。
すぐにスポットがフロアを照らし司会が英語でなにやら紹介。
最後にミスタージュードー、タケシサトーと叫んだ。

拍手と共にあの佐藤武が白のダブルスーツで、
パトロネアに腕を添えられて登場してきた。
三方向に手を上げて拍手が高まる。

次に二人はオサムたちのテーブルに近づいてきて
立ち止まった。そこはオサムのまん前だった。
思わず反射的にオサムは立ち上がってしまった。

しまったと思ったがもう遅い。きついスポットがオサム
と佐藤とに収斂されていく。拍手が収まっていく。
それはわずか数秒間の出来事。

オサムは木靴のおかげで佐藤より10cm上背があった。
佐藤は一瞬戸惑ってすっと右手を出した。
オサムはじっと佐藤を見下ろしてゆっくりと3度うなずき

おもむろに首を大きく横へ振った。司会がゴッドセイヴなにやら
と叫びオーッというどよめきと共に大きな拍手が起こった。佐藤
は思わず頭を下げて出した手を引っ込め拍手の中を去っていった。

スポットが彼とパトロネアの後を追う。再び強烈なサウンドが始
まり皆がフロアに飛び出してきて踊り始めた。イヴ再会だ。

オサムは冷や汗をかきながらどっかと椅子に腰を下ろした。
皆がvサインを送ってくれている。すごいサウンドだ。
マメタンが首根っこに抱きついてきた。

オサムはマメタンの手を引いてそっと店を出た。
寒い。すばらしい星空。凍てついた凍えるほどの
ホワイトクリスマス。マメタンはオサムの腕を取って

とても幸せそうだった。イエスタデーのメロディを
二人で口ずさみながら歩いた。その意味も深く考えずに。

さあ旅立ち?

外国に来て日本人村にどっぷりとはまっていると
語学も上達しないし、日本にいるのとちっとも変わらない。
何のための一人旅だったのかと非常に心が空虚になる。

春になったら旅に出よう。とにかくコペンを出よう。
一人旅でまた再出発だ。辛抱辛抱・・・・・。

少しずつ日が長くなり、とうとう春がやってきた。
ところが、マメタンの顔が最近とみに元気がない。
オサムは心を見透かされたのかなと思いつつ、

「なにかあるの?」
と聞いてみた。そしたらやはり何かあった。
前の彼氏が彼女に会いに来るという。

『なんじゃそれは?すごい奴だなそいつは、
俺なんか負けそう。何とかしなけりゃ、そいつ
無理心中でもやりかねないかも?』

そこでオサムは神の如く厳かに啓示をたれた。

「会ってあげなさい。思い切り諭してあげなさい。
私は一足先にドイツへと下って、デュッセルドルフ
あたりで職を探しておきます。連絡を密にしましょう。

態勢が整えば是非ドイツで一緒に暮らしましょう。
東京からの元彼には絶対に会っておあげなさい。時間
はいくらかかってもいい。我々二人はしばらく離れ離

れになりますが、お互いに努力しましょう。愛があれば、
二人に宿命的な愛があれば、また必ず結ばれるはずです。
誰人も不幸にしてはいけません。是非、ストックホルム
まで行って、昔の彼に会っておあげなさい。正直に素直

に自分の気持ちを伝えなさい。彼も成長しているはずです。
ひょっとしたら、今のあなた以上に成長しているかもしれ
ません。その時はその時です。ともにまだまだ若いのです。

悔いを残すなこの人生!!・・・・・アーメン」

金都(きんど)

オサムは髪をばっさりと切って再び青タオルと
寝袋バックにコペンを離れた。最近とみに増え
てきた大阪人たちが、オサムを見送ってくれた。

ほんとにどこにいても、普通の話が漫才になる。
大阪人はインターナショナルな不思議人だ。
大阪ヒューマニズムは体得したほうがいい。

デュッセルでは、すぐに仕事は見つかった。
ユースの川向こうケーニッヒアレの中華レストラン
金都(きんど)だ。ミュンヘンの中華飯店の倍の

大きさでコックは上海人のアミンと広州人のサミー。
その助手がスペイン人のアミーゴとオサム。ウェイター
はイタリア人のチャーリーとドイツ人のウルフガング。

オーナーファミリーは中国人で時々長期滞在の
正体不明な日本人の姐さんが手伝いに来たりしていた。

従業員宿舎は店から数百メートル。ちゃんとした個室で
屋根裏部屋ではあったがバストイレ付であった。古い
ビルの4階だ。住居食事つきで月5万円が手取りの給料

ではあったが、この頃は1ドル360円の固定相場で、
1マルク90円、物価も給料もほぼ日本並みというのが
ドイツの実情だった。人口8000万人国土も日本並み。

しかし水だけは飲めなかった。硬水のため飲み続けると
足元などがむくんでくる。だからドイツでは朝から
ビールを飲むのだろうか?

東京館に「職決まる」と手紙を出したらすぐに返事が来た。
「決心して昔の彼に会ってみることにします」
なるほど、オサムはしばらく手紙は出さないでおこうと決めた。

金都(きんど)2

金都(きんど)はとても楽しい所だ。
中年スペインアミーゴは小柄小太りで
両親と子どもたちをふるさとに残し、

一人出稼ぎに来ているそうだ。いつも歌を
歌っている。時折誰も聴いていないのに、
仕事の手を休めてまじめに大声で自分の歌

に酔いしれている。最初は注意されたの
だろうが、今は誰も何も言わない。わりと
歌はうまいので、テノールのいい声だ、

皆諦めて聞き流している。ウェイターの
チャーリーは典型的なイタリア青年で、
当時はやりのウルフカット。スマートで

おしゃれでとてもかっこよく、いつも他人
の目を気にしてポーズをとり、しなを作る。
家はとても不潔なぼろアパートに住みながらも、

おしゃれだけは世界一だ。パラピーラパラピーラ
とイタリアなまりのドイツ語で、女性には必ず
何か一言声をかけては笑わせている。ディスコでも

気をつけなければならないのがこのタイプだ。
踊っていようが食事をしていようが、すっと
彼氏と彼女の間に割り込んできて、彼のほうには

背を向けたまま彼女を誘っている。「無礼者め!」
肩を叩き。「ノー、イタリアーノ!」とにらみつけると、
すぐに退散するのが面白い。それが女性に対する礼儀だ

と思っているらしい。皆が楽しくなるから憎めない、
ゲーム感覚だ。ヒッチハイクで女性が手を上げると
すぐに車が3台止まるというお国柄がうなづける。

中年ドイツ人のウルフガングは、一見ヤクザの
用心棒風だ。

デスコテ

彼は厨房前の開きドアをいつも足でどーんと蹴って、
両手に銀盤を支えて入ってくる。いつもニコニコの
チャーリーとは対照的にむっつりでブスーッとしている。

ほんとにこいつはヤクザなのかもしれない。シェフの
上海アミンは長身で口の端にちょび髭があり、辮髪に
チャイナ帽をかぶれば清国の大臣様だ。陽気で仕事は

さすがの若きシェフだった。アミンアミンとチャーリー
が冷やかすと、フライパンを持っていつも二人でおっか
けっこをしていた。広州のサミーはサブシェフ。アミン

と同年代だが、ずんぐりむっくり丸顔で、どこかいびつ
だった。ドイツに来たばかりで言葉がまるで駄目。
「へーイ、リーベン(日本)」とオサムのことをこき使う。

ジェスチャーで指示をするが通じない時は、一人青筋を
立てて落ち込んでいたりする。あまり意地悪をすると怖
いので、オサムは何かと先回りして気を使ってやった。

一度このサミーと二人でディスコに行ったことがある。
給料日の翌日に三つ揃いのスーツを買ったサミーは、
「ヘイ、リーベン、デスコテ、デスコテ」とオサムに

声をかけてきた。何のことかと思ったら、今晩ディスコ
に行こうということだった。皆都合が悪くて仕方なく
オサムが付いて行くことになった。はじめはおとなしく

踊っていてくれたのだが、だんだんと調子に乗ってきて、
カンフーやら太極拳やら、最後は飛び上がってけりを入
れたりしてきたので、回りがしらけてきてしまった。

彼の手をすっと引っ張ってすばやく店を逃げ出した。
それでもサミーはオサムに深く感謝していた。
相当ストレスがたまっていたのだろう。

アルトシュタット

週末にはオーナー夫妻や息子たちがよく手伝いに来ていた。
唯一まともに話ができたのは大学生の長男だった。
みんなの通訳を兼ねて日本の話をよくした。

正体不明の小柄な日本女性は彼らの友人で相当長く滞在して
いるみたいだ。たまにはアルトシュタット(旧市街)に
行ってナンパでもしてきたらといわれていたので、

初めての給料をもらった日の夜にユースの日本人を誘って
アルトに出かけた。旧市街は金都から歩いて30分くらいの
ところにある石畳の古めかしい中世風の町並みが残る所だ。

所狭しとレストランや飲み屋、ディスコ、バー、クラブが
数百軒以上も迷路のような石畳の両側にひしめいている。
中央部の十字路付近にはハイネの家とか騎馬の領主の銅像

とかがある。何度もピザ屋の前に立ち止まりピザ皮作りの
曲芸に見とれる。クリームチーズというヒッピーの
たまり場のディスコに入った。入り口付近でさかんに

マリファナやハッシシを売りに来る。ものすごいサウンド
とマリファナの甘い香りがむんむんだ。これは強烈だ。
ユースの友人はかなりたじろいだので早々と出る。

十字路の向こう側の割と上品なディスコ街へと向かった。
同じ石畳なのだが店の間口が広く心持ちゆったりしている。
人通りも少なくとてもいい雰囲気だ。ところどころで、

ギターを弾いたり、パフォーマンスをやっている。と、
十字路の一番かどのところで3人のヒッピーが、
路上に布を広げて何かを売っていた。よくみると、

馬蹄釘だ。馬の爪に打ち付ける馬蹄釘を針金でうまく
縛り止め、十字架を作り皮ひもが付いている。
ヒッピー好みの馬蹄十字架だ。

「グッドビジネス?」
と聞いたら。
「ノーグッド」
と答えた。

十字架以外にははやりのピースマークが多かった。
価格は一個20マルク。隣はフレンチ女性ヒッピー。
小石に絵をペインティングをして売っていた。

三人目は銀メッキの針金ネックレス。うろこ状の
ネックレスで不ぞろいで何か不器用な代物だった。
『俺だったらもっとうまく作るのに』

そう思いつつ。
総じて作品の割には高い感じがする。ひとつでも
売れればという思いなのだろう。

上品なディスコでビールを飲み、ナンパはで
きなかったけれどほろ酔いで、
気持ちよくユースの友と別れた。

石松1

翌日午後の休みにユースへいってみた。
入り口右脇の広場の軒下で、がっちりした
口ひげを生やした日本人が膝を丸め、

間に平たいかなづちを挟んで口に針金をくわえ
右手でハンマーを持ってこつこつと叩いていた。
非常に細かそうな作業だ。

その作業がひとしきり終わると、今度はペンチと
ニッパーを持って銀メッキの針金の丸い束を50cm
位に10本ほど切ってまっすぐに伸ばしだした。

さらに細かくカットし針金の端を丸めだした。
ニッパーは両端とも丸で先細になっており大小
2タイプある。日本では見たことがないものだ。

銀メッキワイヤーの束も日本では見たことがない。
「やあ」
「はい」

一瞥して彼が先に声をかけてきた。
めがねの奥は柔和な眼だ。顔は日焼けしていてまるで
肉体労働者。この作業とは全くマッチしていない。

「みてもいいですか?」
「ああかまへん」
大阪弁だ。針金を手にとってよくみると細い銅線の上に

分厚い銀メッキがかかっている。直系は1〜2ミリくらいか。
彼は器用にニッパーの先で丸めパーツがどんどんできていく。
10本できたところでそれをつなげていく。なるほど手作り

ネックレスチェーンだ。今度は別の直線パーツを丸めだした。
先端がさっき膝をかがめてハンマーうちをしていたところの
だろう、涙型にさきが膨れていて平らになっている。

涙型の反対側は丸められている。さらに両端が丸められた半円形
パーツがたくさんできている。どちらのパーツもサイズ違いがい
くつもあって後でうまく組み合わせてつないで通していくのだろう。

オサムはじっと彼の作業を見つめ続けている。
「どこからきたんや?」
「京都です」
「近くやな。わしは大阪の池田や」
「・・・・・・・」
「どのくらいこっちにいてんの?」
「1年半くらいになります」
「・・・・・・・」

「来てすぐ車を買ったんですが3日で壊れて・・・
そのあとコペンやミュンヘンでバイトして、
先月から川向こうの金都で皿洗いやってます」

石松2

どう見ても先輩ベテランの風貌なのでこちらが丁寧になる。

「イスラエルのキブツで1年働いて先月デュッセルに来た
んや。日本を出てからもう2年になる。インド、中東、
アフリカ、エチオピアを回って何度も死にかけた」

という人だった。そのうち作業は大きな首輪になっていった。
この輪っかに半円形パーツを大中小4321とつなげていくと
うろこのような首飾りができる。もうひとつは涙型の直線パーツ

を一番長いのを中心に両側に少し短いのを順次つなげていくと
ジャラジャラと音がする感じの美しい首飾りができた。

『あれ、これは昨日の晩見たのとよく似ているが格段の差だ』
オサムがそう思ったとき、彼がポツリと語った。

「これが10マルクでよう売れるんやで。皿なんど洗っとらんと
はよこれし。おっとこれ内緒やった。縁日におこられる」

「これが売れると分かったら皆がまねをするからでしょう」

「そうや。今まで誰にも言わんかったのに言うてもた。
わしは石松というんやが、今んとこ日本人でこれをやっとるのは
縁日とよれよれとわしとの3人ほどや。皆平日作って土曜日の晩

だけ売りに行く。1晩で10万円以上は売れる。そうや、
よれよれはこないだ捕まって今刑務所や」

なんと、オサムは耳を疑った。1晩で10万円!。1ヶ月
皿洗って5万円なのに。刑務所?やばいことなのかこれは?
しかしとんでもないことをこの人は教えてくれたものだ。

「絶対誰にも言うたらあかんで」
どすの聞いた声で石松はオサムをにらんだ。
だがめがねの奥の目は笑っていた。

「そうや。時々ポリスがいきなり現れることがある。
この時は1番角の奴がパッとたたむと皆一斉にパッと
たたむことになっている。捕まったら最悪や。ポリス

どまりだったら罰金で済むけどイミグレーション
までいってしまうと、国外退去や」

「・・・・・・・・・」

「これさえ覚悟しとけばあんたもやる気があるんやった
らやんなはれ。わしが縁日に言っとくから」

「是非お願いします。また明日来ます」
「よっしゃ。ほなわっかった」

そして石松は再びオサムの耳元でこうささやいた。

「絶対にほかにしゃべったらあかんで」

ほんと?

翌日二人は縁日に会った。

「石松、あほやなおまえ。あれほど言うたら
あかんというてたのに」
大阪出身、縁日で盆栽や植木を売っていた。

テキヤタイプだがとても神経質そうだ。
石松はオサムを従えて神妙にしている。

「しゃないやないか、言うてしもたんなら。
もう絶対ほかにはばらさんといてや」

歳はオサムよりも少し下のはずなのに、
やはりテキヤのはったりがある。石松が、

「こいつは大丈夫や。わしが弟子として育てる。
もう絶対、他言はせへんからよろしく頼む」

深々と石松が頭を下げた。オサムも一緒に、
「よろしくおねがいします」
と頭を下げた。縁日のこめかみの青筋が強烈だ。

「しゃあないのう・・・・・・・」
と言って彼は背を向けて立ち去った。

石松とオサムは頭を下げて最敬礼したままだったが
縁日の姿が見えなくなると万歳と手を打って喜んだ。

「今度の土曜日アルトに来てみいや」

「はい、わかりました」

そして、それは真実だった。アルトシュタット、
土曜日。店が終わると大急ぎで十字路へ向かった。
午後11時過ぎ、すごい人だ。

たくさんのヒッピーが出ている。この十字路の一角だけ
が歩道の幅が広く、十数軒は楽に出せる。一番角は常連
のドイツ人、平日も出しているあの下手なケッテ屋だ。

(この針金細工のことを皆ケッテと呼んでいた)
とにかくすごい人だ。歩道からあふれて車道の石畳を
歩いている。確かに売れ行きはすさまじい。

飛ぶようにとはこのことだ。なかでも縁日の作品群はすこ
ぶる逸品ぞろいであった。指輪、ブレス、ペンダント、
そして例のうろことジャラジャラ。

イェーデ(どれげも)10マルクと値札がうってある。
ビニール袋に入れてポンポンと手渡しているので全く
挨拶している暇はない。

と、突然、人垣に変化が起きた。石松と縁日はすばやく黒布
の四隅を掴むと一瞬にして抱え上げそのまま大きな革鞄に
放り込むとバタンとふたをして何食わぬ顔で人ごみに消えた。

ほんの10秒だ。石松が鞄を抱えてオサムの傍へやってきた。
「オッス、よう見とれやあそこの角」
と言って十字路の反対角を指差した。

もうヒッピー達の姿はない。歩道は人であふれ立ち止まって
いる人達はニヤニヤしながら、一部その方角を見つめている。
現れました!ブルーのライトを天井につけた緑と白のツートン

ポリツァイフォルクスワーゲン!のろのろと現れるといったん
停止して左折しゆっくりと車道を遠ざかる。しばらくすると
ものの数分のうちにヒッピー達は路上に整然と再オープン。

こんがらがったケッテをほどくまもなく次から次へと売れていた。
『なるほどこれじゃ10万はいくわ・・・・・』
平日でも売れるだろうが製作が間に合わないのだ。

クリスマスの頃はどうなるのかと思うと身震いがした。
『よし、俺は絶対針金をやるぞ!デュッセル1の針金師になるぞ!
あの1番角を必ず取るぞ!』    と一大決心をした。

アンバランスの調和

早速石松にニッパーや材料のジルバードラート(銀針金)、
ビーズ玉などなどの仕入先を教えてもらい、製作に入った。
あの縁日が逸品渦巻き指輪の作り方を教えてくれた。

売れ筋のうろこ、ジャラジャラや指輪を部屋で黙々と作り
続ける。なかなか時間がなくて多くはできない。
久しぶりに東京館へ手紙を出してみた。

「どうも針金をやることになりそうだ」と。返事は来ない。
ケッテ作りはとても単調であきてくる。ひとつテーマを決
めて石松や縁日とは違うオリジナルを作ろうと決心した。

テーマは”アンバランスの調和”。大小の円形を主体とした
バランス作品が少しづつ増えていった。ひとつのケッテで
単価50円くらいでほとんどが手間賃。これが10マルク

約千円で売れればなんと粗利益95%の化け物だ。かならず
売れるはずだ。完成品が1ヶ2ヶと出来上がってきた。
そろそろこれを持ってユースに行ってみようか、自信作だ。

しかしデザインを盗まれるかも?とか思いつつユースに着くと
石松と縁日がこつこつと隠れて作品を作っている。
近づいていくと石松が気付いて、

「どうや?」
「まあまあです」
「いつデビューするんや?」
「次の次の土曜日くらいです」
「がんばりや・・・・・」

縁日は目もくれず黙々と作り続けている。石松もまた作業を始
めた。オサムはそーっと新作を袋から出しながら、

「こんなん作ってみたんですけど・・・・・」

二人は手を止めて覗き込む。石松が、

「なんやこれ?」

オサムは自信を持って答えた。

「アンバランスの調和というんですワ」

ところが二人は大声で、

「こんなん売れるかいな!」

縁日はさっさと作業し始める。オサムは納得いかない。

「売れませんかね?」

石松は確信を持って答える。

「売れへん売れへん。とにかく売れ筋を大量に作っと
かんと、ほんまに、すぐ売り切れてもうてどもならんで」

「そうですね。ようわかりました」

オサムは意をそがれてしょんぼりと新作を袋にしまった。
その日はアルジェリアの学生の団体が泊まっていて、
一週間ほどいるという。半分が女子学生で30人ほど。

ちょうど観光から帰ってきたところで作業に興味津々だが
もう昨日も散々とり巻いていたそうだ。石松も縁日も全く
相手にしないで作りまくっているから今日は近づいてこない。

中に母親が日本人というハーフ、黒髪でスタイルがよくて、
その娘がとにかく積極的にモーションをかけてくる。

「あんたに気があるんやであの娘、みえみえや」

石松が笑う。大阪弁につられてつい、

「わしフィアンセおるしええワ」

「ディスコくらいさそってやり」

「・・・・・そやな」

ちょうどそこにユース泊まりの日本人旅行者が3人やって
きたのでアルジェ娘を含めて10人ほどで今晩ディスコへ
行くことになった。オサムは仕事が終わって後から合流だ。

危険が一杯

夜10時オサムは店が終わってアルトに駆けつけた。
やはりものすごい人の波だ。やっと十字路付近の人
ごみの中で彼らの姿を発見した。

近づいていくと真っ先に黒髪の彼女がオサムを見つ
けた。とてもうれしそうな顔をして走ってくる。
石畳の上だ。人をかき分け走ってくる。

オサムは髪も少し長くなりだして、あのトレスコ
にジーンズのパンタロン、けつまずきそうだ。
彼女は止まらない。そのまま思いっきり、飛び上がって

オサムに抱きつき、さらにへビィなキスをした。周りに
人垣ができて大喝采。アルトは不思議な夢の世界だ。
何をやっても映画の中のようだ。切り絵師が出ている。

神技だ。どんな絵柄もはさみ一本で切っていく。
とんぼ返りの少年がいる。洗濯板とブリキのたらい、
板に一本のワイヤーを張っただけのガラクタバンド。

そしてあのモーレツな路上販売と一瞬のポリツァイ
パフォーマンス。あのワーゲンがすごく様になっている。
ところがこの日は少し様子が違った。すぐにポリスカー

が戻ってきたのだ。ひと騒乱の末何人かが連行された。
縁日はすばやかったが石松はかばんにしまいきれずに
ケッテごと押収された。本人は無事だったが・・・・。

「また作ればええやんか」
石松はいたって元気だった。さすが中東歴戦の勇者だ。
しかし危険は危険だ。もし捕まったらと思うとぞっとする。

オサム達はディスコで踊りビールを飲んでぺちゃくちゃ
おしゃべりしてたらもう朝が来た、徹夜だ。黒髪の彼女を
なだめて皆と一緒にユースへ帰す。さあ春巻きとご飯たきだ。

寝不足のまま金都に着くと実に久しぶりにマメタンからの
手紙が来ていた。なぜか1週間前のコペンからの差出しで、
東京から追いかけてきた元彼とはストックでとにかく会った、

一週間を二人で過ごしじっくりと語り続けるうちに二人とも
成長して大人になっていたんだなと気が付いて、元彼は納得
して元気一杯他はどこも見ずに帰国したとのこと。

すごい奴だ。彼女に会いたい一心だけで来たというのは本当
だったのだ。まあ結婚でもすればかなり疲れるだろうなとは
思ったが。そういうわけで、心の準備が整いました一週間後

の夕方にデュッセルドルフの中央駅に着きます迎えに来てく
ださいとのこと。一週間後てひょっとしたら明日じゃないか。
夕方迎えに行くのは何とかなるけど心の準備が、きょうあの

黒髪娘が私を部屋まで連れてってとたずねてくるし、明日
出発してアルジェに帰るそうなので、何かとても危険が一杯で
全く心の準備ができずに、寝不足で二日酔いでボーッとしてて

そのうちに午後の休憩時間が来てしまった。黒髪娘の声だ!

「へーイ!オサム!ウェアアーユー?」

不器用なタイミング

どうしよう、どうしよう。彼女を部屋に上げたら
何が起こるかわからない。その気がないといえば嘘になるし。
とにかく寝不足でボーッとしてて、明日マメタンが来るし。

昨夜のポリスは強烈だったし。これほどタイミングが悪いと
何がなんだか分からなくなってくる。それでも時は止められない。
彼女と腕を組んで歩いてはいたがオサムはひたすらブスッとしていた。

とうとうアパートについてしまった。エレベータが下りてくる。
オサムは半分眠ったフリをしていたが、彼女はキョロキョロ、
何もかもがものめずらしいのだ。エレベータの扉が開いて

狭い廊下をわずかに歩くと突き当たりがもうオサムの部屋だ。
いざ、オサムの部屋の戸を開ける。彼女は肩越しに興味津々
少女のようなその瞳に思わず吹き出しそうになった。

「オー ビューティフル!」
何がビューティフルだ。そこにはソファーとテーブルがある
だけじゃないか。右てに台所が見える。扉があってトイレット
とシャワーの絵。ソファーの左手の寝室はドアがなくて丸見えだ。

椅子と机があって作りかけのケッテが並んでいる。
「こうやって作るんだァ!すごーい!あなたも仲間なのね」
そんな感じを彼女はオーバーアクションでやる。

「そうそう、イエスイエス」
と言いつつ、どうしたものかと思いながらほんとに困った。
明日この部屋にマメタンが来る、しかもずっと留まる可能性が高い。

それは実際に本当なのだと思うとほんとに疲れた。オサムはソファー
で眠りかけた。と、その時。あちこち見回っていた彼女が隣に座った。
にじり寄ってきながら彼女はテーブルの上に置いてある茶色の土の塊を

手にする。ずっしりと重いその塊は、前にアルトのディスコで10
マルクで買った、わずかにその香りのするハッシシのまがい物だった。
「それ、ハッシシ」

「うそ」
「ほんと」

「これは壁土粘土でハッシシじゃないわ」
「すこしかおりがするよ」

「うそよこれ」

彼女は今までのあどけなさは消えうせて突然むきになって怒り出した。
「絶対これは偽物よ。あなたはだまされたのよ」

日本人的な繊細さはどこへやら、半分ハーフのアラブのかたくなさが
むき出しになってすっかりしらけてしまった。

「ああそうかそうか。俺はだまされたんだ。こんなの吸い過ぎて体を
壊さなくてよかった。君のおかげだありがとう。さあ仕事だ帰ろうか」
オサムはなんだかほっとして彼女をユースへ送った。

その夜はもう何も考えずにぐっすりと眠った。

デュッセルでの再会

朝だ、今日マメタンが来る。ほんとに来るのだ。
『俺の人生も決まったようなものだ』
オサムはそう思った。まだ心の整理がつかない。

昨日の黒髪よりも、おとといのポリスのほうが
強烈だった。空中に乱れ飛ぶケッテ、もみあう人ごみ、
叫び声、すごい緊迫感。オサムはやると決めはしたが

はたしてポリスに一度も捕まることなく無事やり通せ
るだろうか?大きな不安が心を覆っていた。

「俺のフィアンセが来る。しばらく一緒に暮らす。
それから二人で旅に出る」
と金都の皆に報告した。後釜はユースですぐに見つ

かるから皆フィアンセ大歓迎だった。小さい小姑娘、
クライネショウクーニャンだねとママも喜んでくれた。
そしてとうとうその時はきた。

定刻4時きっかりにマメタンは現れた。背中にでっかい
リュックを背負って、両手を挙げて改札口から出てきた。
オサムはいつものトレスコにパンタロン。手すりに片肘か

けてサングラス。とてもきざだがここは外国ヨーロッパ。
片手を挙げて、
「はーい!」

映画だったらここでひしと抱き合い、あいたかったと涙で
くれる場面だろうが、オサムは彼女の挙げた両手の右手だけ
をパタと叩いて、

「ついに来たか、ごくろうさん」

と言った。何かつっけんどんな感じだ。まだ心の準備ができ
ていないのだ。今はカリスマでもなんでもない。不安一杯の
針金師のひよっこだ。まだ一度も売ったこともない。自信も

確信もない。見れば背中に大きな”不安”の二文字がくっき
りと見えたかもしれない。サングラスをはずすと目の周りに
くまができている。疲れきっていたのだ。

「まあ、ゆっくり話すから」

彼女のリュックを担いでとにかく部屋へ。居間から寝室へ、
壁一杯のケッテ。

「ええっ、すごいじゃない!」

さすが、彼女も驚きの声をあげた。

「ところが大変なんだよ」

重いリュックをベッドの上におきながら、オサムは大きく息を吸った。

「おととい俺の目の前で皆ポリスに捕まった。日本人の縁日
と石松という人二人はうまく逃げたが、とにかくすごかった」

オサムは作業机の椅子に座り腕をかけ、ベッドに腰掛けている
マメタンの瞳をじっと見つめた。

「一晩で十万円も夢ではないと思うけど」

疲れた目でじっと見る。少しこえたかはちきれんばかりだ。

「一晩で十万円?」
「ああ、一晩で十万円」

彼女がいぶかしげに見つめ返す。

「ただし、一度つかまると罰金か刑務所行き。最悪の場合は
国外退去だそうだ」

オサムはタバコに火をつけた。

「現に今一人、よれよれというのが刑務所に入っている」

マメタンはじっとして神妙にオサムの話を聞いている。

「もっか、針金をやっている日本人はこの三人しかいない。
絶対秘密にしておこうということで俺が特別に今四人目に
なりかけている・・・・」

「・・・・・・・・」

「今週末に初めて売りに出るつもりだけど、君にも覚悟がいる。
とにかく一度売ってみたい。さっそくでなんだけど、
製作を手伝ってくれまいか?」

ねぎらいの言葉も優しい一言もなく、今後の厳しい見通しを
ただ淡々と述べるオサムの不安が伝染したのかマメタンは
視線をずらしてうつむいた。

「ま、ゆっくり休んで考えてて、俺店行くから」

オサムはタバコの火を消して立ち上がった。出掛けに足が
テーブルに当たって上の置物がガタンと倒れた。それはそう、
あのハッシシまがいの壁土の塊だった。

初めて売れた500マルク

夜11時オサムが部屋に戻ると、マメタンは
もくもくと針金を丸めていた。

「どう?」
「だって、もう来ちゃったんだもの。
やるっきゃないでしょ」

久しぶりに聞く関東弁だ。

それからの4日間作りに作って50本の完成品
ができた。うち10本はあのアンバランスの調和
だ。売れるやろか?

さあ土曜日が来た。店が終わって11時。90cm
x90cmの小さい黒べっちんと”各10マルク”の
札を用意して、とにかく1時間でも出してみよう。

アルトシュタットの十字路付近はもうものすごい人だから、
かなり離れた銀行の角の人もまばらなスペースで、
とにかく広げてみることにした。

なかなか、人目とポリスが頭をよぎって広げられない。
「えいっ!」
目をつぶって布を広げ一気に作品を並べた。

値札を置こうとしたら人だかりができて、
「ビーフィール?」(いくら?)
「ツェーンマルク」(10マルク)

たちまち売れ出した。ビニール袋に入れるまもなく
もう手渡すだけ。お金もかばんに投げ込む感じだ。
ああ、並べ終える間も無くわずか30分で売り切れ

てしまった。アンバランスの調和も完売だ。布を
すばやくたたみかばんにしまって立ち去った。
くしゃくしゃのお札たくさんのマルク。

部屋に帰りしわを伸ばしながら、真剣に数えた。
500マルクきちんとあった。30分で5万円。
皿洗い1ヶ月で5万円。やるべし針金!

なるべし!デュッセルドルフいちの針金師!
二人の心はこの時はっきりと決まった。

マメタン、涙で10kgやせる

ユースで後釜を探して金都をやめる準備をする。
有り金をはたいて材料を買い込み、布も買い足して
大きなかばんも買った。連日作りまくる。

次の土曜日また5万円だけ売って店じまい。金都
も円満に退職した。これからはユース泊まりだ。
石松、縁日に混じって金都の夫婦は製作に専念した。

次の土曜日石松と並んででかい布を広げる。もう
本格的だ。怖いのはポリスだけだ。売って売って
売りまくった。と、ポリツァイの叫び声。

なんども練習をしていたのでワンタッチで真っ先に逃
げた。そのままユースへ。なんと12万円の売り上げ。
石松が言う、

「あんたんとこの作品はなかなかのもんや。
あれやったらこれからもよう売れるで」

ユースに泊まり昼間作って、これからは毎晩出すことにした。
12月のことを考えるととても製作が間に合わない。在庫を
相当抱えていないとクリスマス前に売切れてしまいそうだ。

一番売れる時に在庫がないことだけはなんとしても避けたい。
とにかく材料を買い増し買い増しして必死で作り続けた。
そうした11月中旬のある日、マメタンはついにダウンした。

げっそりとやせている。もういやと言ってわんわんと泣き出した。
オサムは仕事の手を休め、マメタンを抱きかかえるようにして
外に出た。ユースの前にラインが流れている。大きくカーブして

オーバーカッセルの橋がかかっている。流れはゆったりだ。
向こうにアルトの灯が見える。その日はもう出すのを止めにした。
寒い中日が暮れてすばらしいラインのたそがれ。ベンチに腰かけ

オサムの膝にうずくまってマメタンはおいおいと泣いた。マメタン
はこの時過労とストレスから10kgもやせていたのだ。

次の日、ユースを出ることにした。アルトの近くでホテルを借りた。
一泊50マルクでちょっと高いけれどゆっくり休めるだろう。
とにかくクリスマスまで頑張るしかない。もう在庫はダンボール

5箱分はたまった。全部売り切って旅に出よう!よく考えたら
マメタンは北欧以外旅らしい旅は何一つしていないのだ。
まかせとけ。イスタンブールからギリシャ。スイスで1ヶ月

スキーをしてスペインでさらに一ヶ月休暇。大名旅行をさせてやる。
とにかくがんばろうクリスマスまで。

マメタンはすぐに回復した。さあクリスマスまであと一ヶ月。
金都の夫婦は益々その製作と販売とに執念がこもってきた。

デュッセルドルフの針金師たち

冬のアルトは日暮れが早い。場所取りは日暮れから始まる。
12月にはいると夕方4時半ごろから場所取りだ。あまり早
く行ってもまるで雰囲気が合わず。すぐポリスに通報される。

日が暮れて雰囲気ががらっと変わりどの店も忙しくなりかかる
直前がベストなのだ。一番角は常連のドイツ人3人のうちの一人
が必ず取る。両脇にイタリアンヒッピーとフレンチヒッピーが

定番なのだが、時々誰もいないことがある。縁日や石松がそれに
並び、あと入れ代わり立ち代りオランダやイタリア系フレンチや
アラブ系等全部で十数軒が並ぶ。金都の夫婦も顔なじみになって

きてすこしずつ一番角に近づいてきた。常連のドイツ人たちは古
くからのヒッピーらしく、マリファナ狂で作品も今ひとつだ。
なんどもつかまってはすぐに戻ってくる。ここは自国なのだ。

イタリア人は何人かいたが作品も販売パフォーマンスもとにかく派
手だ。可愛い子が来ると商売よりナンパが優先らしく、さっさと店
をたたんでディスコへ行くようだ。かなりいい加減で常連はいない。

キプロスという好青年がいて、彼はすぐいなくなったが、実にすば
らしい作品を作っていた。後日彼の作品のひとつをさらに改良して
超ヒットのベストセラー”太陽”が誕生する。

さて問題なのは、アラブとイスラエル。とにかくいつももめていた。
それがこうじてクリスマスの夜に大乱闘事件がアルトで起こるのだ。
これは新聞にもでかでかと載った。

デュッセルドルフの針金師は少しずつだが着実に増えてきて、
その国際色の豊かさと作品群のすばらしさとで
アルトの名物になってきた。

南フランスから来たおとなしい少女が時々小石のペインティングを
売っていた。ユースに泊まって一人こつこつとペイントをしている。
名前をパフという。彼氏はいないみたいだ。ある時朝目覚めてみる

と彼氏はベッドから消えていてそれっきり帰ってこなかったそうだ。
ヒッピー仲間の女性はこのパフとマメタンくらいだったので、時々
ホテルにも泊まりに来た。ダンボールで一杯の狭い部屋で二人は

おとぎ話をするようにぽつぽつとおしゃべりをしていた。この頃は
日本人グループは3つあって。石松縁日金都の夫婦組とよれよれ
ジャガー、日本館組。それにベルリン獣医組だ。

よれよれは刑務所から出てきてアルトに復活した。ある晩、一番角
をよれよれが取っていた。ドイツ人とは古株同士で顔なじみなのだ。
挨拶がてらその作品をまじまじと見つめたが、縁日のほうが上だ。

その日、日が暮れてしばらくして、さあこれからだという時に、その
よれよれが我々の布の上を跳び走って「ポリスや!」と叫んで消えた。
すぐにたたんで待つことしばし、確かにポリスカーはいつものように

来はしたが、緊迫感もなくのろのろと去っていった。刑務所帰りの彼
にはポリスカーの青ランプがよほど恐怖に見えたのだろう。

ベルリンと獣医はベルリンヒッピーの流れでいやな二人だった。かっ
てに5マルクに値下げしたりして皆からひんしゅくものだった。
どこにでも必ずいるなこんなやつ。

ついに取ったり一番角

ある晩、気が付いたら十字路にパトカー、
いつものワーゲンパトがさりげなく止ま
っているではないか。大急ぎでたたんだ

が間に合わなかった。近くに止まっていた
車の下に放り込んだかばん、よせばいいの
に誰かがポリスに指差している。石畳の

向こうでじっと見つめていると、とうとう
しゃがみ込んでかばんを持って行かれてし
まった。さあどうしよう?よれよれの話では

罰金を払わなかったら刑務所行きだそうだ。
初めてならそうきつくはない、せいぜい100
マルクくらいだろうとのこと。

オサムはポリスを追いかけて警察署まで行く
ことにした。現行犯で何人かが捕まっている。
駐車場から取調室に行くまでの間にあのワー

ゲンパトを見つけた。助手席に我がかばんを
見つけた。作品と布がはみ出したままポンと
置かれている。脇にいた若いポリスマンに、

「これはわたしのだ。返してくれ」
とまじめな顔をしていったら。
「あいよ」
という感じですぐに返してくれた。

両手でかばんを受け取ると、すぐさま、
オサムは足早にその場を去った。

今晩何故そうなったのかよく考えてみよう。
今日の一番角はあのマリファナドイツ人で、
その彼が見張りを怠ったのが原因なのだ。

それだけ一番かどの見張りの責任は重い。
なんということだ!次の日、石松や縁日と
相談してオサムは一番角を取る決心をした。

夕方かなり早めに一番かどの上にかばんを
置いて、常連が来るのを待った。

「いつも向こうの角を見ている。パッと
パトカーの青いランプが見えたら、ただちに
たたんですぐ逃げる。一番かどの使命は最

重要だ。君の昨夜のミスは許されない。私の
目はカメレオン、いつも片方の目は向こうの
角を見張っている」

とまくし立てるオサムの剣幕に常連のドイツ
人たちは皆納得してくれた。そしてついに、
オサムはアルトの一番角を取った。

オサムは深呼吸をして一番角に大きく布を広げた。
向こう角が奥までよく見える。販売しながらいつも
向かい角の奥を見張っている。なかなか大変だ。

責任重大。そしてその日もついに来たーっ!
青ランプが奥の暗がりに見える。まちがいない
パトカーだ。右隣のドイツ人にまず合図をして

「ポリツァイ!」
と叫んで1秒でたたむ。パタパタパタと最後の
一人がたたみ終えた頃、ワーゲンパトが現れた。

絶妙のタイミングだ。パトカーが去ってもすぐ
には広げない。オサムが広げるのを待って皆、

パタパタパタと再び広げだした。これはなかなか
骨が折れる、大変だぞ一番角は。

それから毎晩一番角を取った。

ある晩再び広げてすぐまたパトカーが現れた。
オサムは直ちに合図してすぐにしまった。すば
らしいタイミングでのダブルパフォーマンス。

観衆からは大喝采だった。無遅刻無欠勤、一番角
の金都の夫婦はまたまたカリスマになってきた。
スタイルも全く去年のジーザスクライストだ。

稼ぐぞ今年は!マメタンに一大旅行をプレゼントだ。
さらに製作に拍車がかかってきた。

神様からの贈り物

手作りのペンダントチェーンをニッケルチェーン
に変えてみたが、売れ行きは全く変わらず。
12月にはいると毎日50本60本と売れてゆく。

土日はその倍だ。在庫がどんどん減りだした。ジャ
ラジャラもうろこもよく売れるけど、製作は大変だ。
あのキプロス作品のひとつぶどう形の下部を取り除き

じゃらじゃら涙形5本をつるす。これだとチョーカー
でもペンダントでもいける。しかも比較的簡単だ。
ニッケルチェーンがぴったりで、すぐさまベストセラー

になった。皆がのぞきに来る。石松が、

「すごいの作ったな、きみは」
「よう売れますよ」
「そやろな。まねさせてもらうわ」
「どうぞどうぞ」
「太陽みたいやから、”タイヨー”て名付けよう」

おーマイゴッドの贈り物。”タイヨー”日本語が
作品名になった。神からのめぐみ、”タイヨー”
はほんとによく売れた。マネをはじめた皆からも

大いに感謝された。信頼度ナンバーワンの一番角、
売り上げもナンバーワンであった。またぞろ、
カリスマが復活した。

ところが、誰かが脚光を浴びると必ずねたむ奴が
現れる。これもこの世の鉄則だ。古今東西、
有史以前の太古から、人種、性別、年齢を問わず、

このジェラシーとの戦いがまさに人類史そのもの
といってよいだろう。これをコントロールできな
ければ世界平和など絶対に実現できないと思う。

ヒントは身近な足元にも転がっている。人類を信
じるという事は自分を信じることとも同じだ。
投げ出したらもうおしまいだ。これはまちがいない。

クリスマスが近づくにつれて不穏な空気が漂ってきた。
地元ドイツ人がヤクザを使ってフランス人やイタリア人
さらに日本人とアラブ人のヒッピー達を襲うという

情報が流れた。そういえばここのところドイツ人
ヒッピーは一人も見かけない。まことしやかにこの
情報が駆け巡った。

血染めのクリスマス1

発端はアラブのヒッピーというより、アラブの
出稼ぎくずれの口ひげおっさん達だった。いつも
場所だ商品だと地元の常連ヒッピーともめていた。

全くヒッピーらしからぬ自国のバザール感覚で、
色んなものを路上に並べて売りに来る。かごやら
衣類やらアクセサリーやら。自分達の母国のやり方で、

実際、欧米以外の国々ではどこでもそうなのだが、
それがここでも通ると思っているみたいだ。ところが
時代の最先端を行く格調高い芸術性あふれる我ら

ヒッピーとは相容れない。起こるべくして小競り合い
が起きてきだした。それがだんだんとエスカレートして、
ついに口ひげ出稼ぎアラブが数人でドイツ人の常連の

一人を殴って怪我をさせた。クリスマスの直前である。
そのドイツ人は地まわりのヤクザに何とかしてくれと
訴えた。地まわりはどれがアラブか犯人達かわからない。

とにかくドイツ人以外は全て襲われそうだと言う事に
なってきた。確認をしに行ったフランス人が逆に脅され
て帰ってきた。怪我をさせられたドイツ人たちは狂おし

く怒っている。それはそうだここは彼らの土地なのだ。
クリスマスを目前にしてアルトでいつ何が起こるかわか
らない。その日ユースのメンバーは皆で連絡を取り合って

ナイフやらパイプやらを近くに隠し持ち、フランス人とか
イタリア人とかとも連携して、次の晩は緊迫した一晩だっ
たが、やはりドイツ人は誰も出していなかった。アラブは

というと、全くいつもどおりに派手に販売をしていた。
オサムたちは、はじめこそ緊張と恐れとでビビってはいたが
あまりの人の多さと忙しさとで販売に夢中になっていた。

そしてその晩は何も起きなかった。

血染めのクリスマス2

さらに次の日、ユースも危ないとかで皆も
それとなく武装して緊張していた。
そして三日目、何も起きなかった。

もうものすごい人で毎日20万近い売り上げだ。
まさかこんなすごい人ごみの中では殴りこみもない
だろう。ポリスカーもこの三日間一度も来ない。

あまりの人の多さで車道も人であふれは入れないのだ。
売って売って売りまくろう、ダンボールもだいぶ片付
いてそのひと箱は一杯のマルク札だ。200万円以上は

あるだろう。イブに3000マルクの大売りを出して、
いよいよ最後の一日、クリスマスの当日だ。在庫一掃
山済み販売。さあラストだよ。メリークリスマス!

宴たけなわ午後11時頃、アルトは群衆で身動きでき
ないほどだ。ところがまさかのまさかのこの時に、
いきなり右のフランス人のほうから人が飛び込んできた

かと思うと、人垣が大きく二手三手と分かれ、こんどは
左手から石松が吹っ飛んできた。
「にげろ!なぐりこみやーっ!」

石松はめがねを吹き飛ばされ顔面に血しぶきがついていた。
オサムはとっさにワンタッチでたたんで全力で走った。
数十メートル走って、

『あっ、マメタン!』
かばんをその場に置いてすぐに引き返した。

あれだけの群衆はどこに消えたのか?皆柱の陰に潜んで、
石畳の車道、ケッテ、商品、くつ、カバンに黒ベッチン
が散乱した石畳をじっと息を潜めてうかがっている。

オサムもはだしだった。何人かがうずくまってうめいている。
女の子はいない。歩いているのはオサム一人だ。
うまく逃げられたか、マメタン?どこだ、マメタン?

歩道屋根の柱の影にびっしりと人々が押しくら饅頭のように
体をくっつけ息を凝らしてじっとこっちを見つめている。
遠くでサイレンの音が聞こえる。柱のほうにゆっくりと

近づくとみな視線をそらせて内側へ体を寄せ合っていた。
皆無言で息を凝らしている。すると、
「オサム」

右手の柱の群衆の奥のほうで小さな声が聞こえた。
「オサム」
おーっ。マメタンだ!オサムは近寄って彼女を抱きしめた。

「無事か?」
「ええ。だけど顔にスプレーをかけられてヒリヒリする」
よかった。火をつけられんでよかった。冷や汗もんだ。

あらためて、思いっきりマメタンを抱きしめた。
『彼女を忘れて先に逃げた。俺の愛って、そんなもんだった
のか。嫌われてもしょうがないな』

これを機に人々がそろそろと動き出し始めた。
パトカーと救急車がサイレンを鳴らしてやってきた。
かなりの数だ。

早めにこの場から退散しよう。全てを清算して二人だけで
約束の旅へ出よう。最後のアルトの夜、しかもクリスマス
の夜を二人はだしでホテルへと向かった。

オリエントエクスプレス

日本円で300万円ほどのマルクが残った。
石松も縁日もとにかく無事だった。石松の
真横のアラブ人がいきなり頭を殴られ、重体。

石松は返り血を浴びた。あと一人アラブ人が
ナイフで刺されて重体ということだった。
新聞にはアラブ人と地元のトラブルとだけ報じ

てあった。さあ旅に出るぞ。何もかも忘れて
マメタンと二人で、約束だ。とりあえず、
ドイツを出よう。石松はイスラエルへ、縁日は

スペインへ。別れのスキヤキパーティで醤油が
手に入らなくて水炊き、それもたれなし。
早く旅に出ろということだ。

オリエントエクスプレスにデュッセルの駅から乗る。
オーストリアを抜けるまではまさに定刻どおりに列車
は進んでいたが。ユーゴに入るともう1時間も遅れている。

関係ないところで列車はよく止まる。それでも二人だけと
コンパートメントでとにかく2日間二人ともぐっすりと眠り
続けていた。そしてついに着いたぞトルコ、イスタンブール。

1週間ほど大バザールの近くの安ホテルに泊まって、毎日
シシカバブとガラタ橋のいわしのから揚げなどをほうばり
ながら大バザールを歩き回った。チャイを飲み、毎日5回

のコーランのうめき声を聞きながら・・・・・・。
町中に毎日5回も突然と鳴り響くコーランのスピーカーから
の大声。イスラムはそのたびにその場に立ち止まりメッカに

向かって大地にひざまづき祈りをささげる。これではとても
かなわない。さすが砂漠の宗教だ。骨の髄までイスラムは
染み込んでいる。生活法でもあるのだ。

何でもありのイスタンブール

バザールで大量のパズルリングを買う。
3日間通い詰めてかおなじみになった店だ。
値段は3分の1まで下がった。

大量に買うからとさらに負けさせる。
この日は2階に上げられた。そこは薄暗く、
人間が一人入るくらいの大きな陶器のかめが

たくさん置いてある。中央に古いテーブルが
ひとつあるだけで、奥までびっしりとかめが
置いてある。そのひとつのふたを開けてみた。

組み立てパズルリングがびっしりと詰まっている。
同型同サイズのものだ。こちら側は太い型のもの。
向こう側は女性用の極細型だ。奥にあるのは純度

の高い高級品。手前にあるのは純度の低いシルバー
だ。メッキではないので表面がはがれるということ
はないが、日がたつと変色するが、まあいいか。

4枚組み、6枚組みとあって、一ヶ一ヶやすりで
削ってうまい具合に作り上げるのだ。極細の針金で
ばらけないように縛ってある。

一度ばらけると大変だ。3日間通って組み立て方を
なんども教わったが、なかなかだ。女性用には20
枚組の細いおしゃれなものもある。

我々の狙いどころは純度の低い黄色銀。店の在庫の
大半もこれだ。じっくりと身構えて交渉に入る。

数千個買うということにしたら価格は10分の1に
なった。米ドル即金が効いたのだ。一個10円!
どうみても1000円の品だ。サイズを決めて、

大きなかめから選りすぐる。暗い奥からも持ってくる。
どんどんポケットに入れながらテーブルの上に良い
のを並べていく。1000個といっても小さなダンボール

一個分もないが、重さはずしりと重い。よしオッケーだ。
お金を払って、サンキューべりマッチ。グッドバイ。
足早に店を去る。ヤッケのポケット、上も下もとても重い。

恐らく1000個以上はあるだろう。これって窃盗?
いやいやここは何でもありのイスタンブールであった。

アテネ、オリンポスの丘

情報を得てアテネへの学生フライトを買う。
往復料金が3分の1の値段で買える。
そのためには学生証を作らなければいけない。

早速英文で文書を作りタイプ屋にタイプを
打ってもらう。

『右のもには太陽大学工学部ギリシャ建築科
の三年生であることを証明する』

印鑑はもちろん十円玉の平等院だ。これには
算用数字が使用されていないのだ。

何の問題もなく学生フライトを買うことができた。
コーヒールンバを大声で歌いながら、意気揚々と
イスタンブールをあとにした。

ジェット機は小型で数十人乗り。機内から見た
エーゲ海の海の青さはすこぶる美しかった。
冬だというのに光がまぶしく感じる。

石造りの白さとのコントラストは一生忘れる事は
できない。昔からずっとこんな感じだったのだろう。

アテネの空港に降り立つと全てがギリシャ文字ばかり
でアルファベットが全くない。ここへ来るまではどの
国でも結構アルファベットは浸透していたはずなのに。

オリンポスの丘、パルテノンの神殿、このあたりから
夜空の星を見上げギリシャ神話が生まれたのか?
あのソクラテス、プラトンの哲学が語られ、民主政治

が生まれたのか。昔は皆暇だったんだろうか?今の世、テレビ
が普及してからというもの、夜の語らいの場はなくなった。
四大文明の地は近代史では今ひとつなのはどうしてだろう?

手塚治虫のアニメ”クレオパトラ”が上映されていたので
見に行ったら、なんと胸は黒ベタ、腰も黒ベタ。黒ベタ
だらけの厳しいアニメになっていた。

同じヨーロッパでも北と南じゃこうも違うのか。
昔のギリシャはもっとおおらかだったはずだ。

シンタクマの写真屋さん

ふと見るとショルダーバッグがない。
めったにバッグなんか使わないのに。
現金とパスポートは肌身離さずにが鉄則だったのに。

この日に限って新しいコットンパンツを買ったので、
まさかギリシャでと安心して気取ってみたのがミスだった。
パスポートと小銭の入ったバッグを盗まれた。

まいいか。旅慣れてくるとこのくらいの事には驚かない。
いろいろ書き込んでぼろぼろだったから領事館で真新
しいのに再発行してもらおう。うまくいくだろうか?

窓口の若き外務省の職員さんがとてもいい人で、すぐに
再発行してくれるとのこと。

「皆さんはいいですね、自由に旅ができて・・・・」

とめったに来ない我々みたいな旅行者にひとしきり
愚痴をこぼしていた。

「近くのシンタクマという広場に簡易写真屋さんが
ありますから、そこで写真を撮ってきてください」

二人でそのアテネ、シンタクマ広場へ向かった。
日本ではどこにでもあるような公園内の広場に、
あった、あった、簡易写真屋さん。

赤く塗った木製の脚立にジャバラ式の古い高級カメラ。
黒布にもぐりこんで、向かいの椅子にお客は座る。
ここまでは日本と一緒だ。

「はい、じっとして」

写真屋のおじさんはパッと天空を見上げると、
旧式写真機のレンズのふたをさっと取って一秒、
再びさっとふたをした。

「もういちど。ハイじっとして」

今度は二秒くらい。雲がかかったのだ。
どこにもフラッシュらしきものがないなと思ったら、
これだ。大丈夫かなと思いつつ出来上がりを見て一安心。

もし暗く曇っていたら、とおもうとぞっとする。
安くて楽しい写真屋さんだった。

ギリシャの太陽は真冬でも結構まぶしい感じ。
アランドロンの”太陽がいっぱい”の太陽と同じだった。

再びフライトでイスタンブールに戻り列車でウイーンへ。
すぐに乗り換えてスイスへと向かった。

アイガーの北壁

真冬のスイスはすばらしかった。列車はインターラーケンから
グリンデルワルドに登る。そこからはケーブルカーだ。
アイガーの北壁をくぐり抜けてケーブルカーはひたすら登る。

途中、北壁に窓がくり抜いてあってグリンデルワルドの村が
眼下に小さく見えた。『こんにちわ』と窓の外から岩盤の
ひさし越しに岩登りの登山者が今にも入ってきそうだ。

終点から徒歩で氷の洞窟アイスパレスをきわめてゆっくり
ゆっくりと歩き抜けて外の頂上に出る。すばらしい眺めだ。
東に4000m超えのユングフラウヨッホの雪峰。北に

メンヒと反対側に007の映画の舞台になったフィルスト
の山とすばらしい斜面。そして南にはイタリアへとつづく
大氷河。実にすばらしいアルプスの峰峰だ。

どうだ、すごいなマメタン。よかったな、ほんとにマメタン。
トニーザイラーの歌が聞こえてきそうだ(ふるいなあ)。

感激のアイガー山頂だったが、下る頃からオサムはだんだん不機嫌
になっていった。まだ一度もスキーをしたことがないのだ。マメ
タンは何度か信州にすべりに行ったとかで早く滑りたがっている。

とにかくグリンデルワルドのユースに長期滞在の覚悟で泊まる。
ここからのアイガーのながめは最高だ。三日に一度は出るホンヂュ
にうんざりしながら、今日も風邪気味と言いつつスキーを逃げていた。

4日目旅の日本人でスキーの初心者が来てくれて、やっと生まれて初
めてゲレンデに立つことになった。レンタルスキーもクナイセル、

ロシニョール、ヘッドばかりだ。日本にいるスキー好きにはたまら
ないだろうな。レンタル料1日千円、周りは全てゲレンデだ。

スキー三昧

駅前の池ではほうきで氷上を必死で掃きながら、
円盤型の重そうなおもしを滑らせている。

さて初心者二人、オサムともう一人、
着いたばかりの中年カメラマン、は一日千円の
インストラクターを雇って3日間特訓をやった。

マメタンたちは何人かで初級ゲレンデをすいすい
と滑っている。くそっ、そう簡単にはうまくなら
ないのがいやなんだよな、これが・・・・。

4日目から腰掛リフトを使う。これがまた難しい。
どうしても尻餅をついてしまう。Tバーのほうが
まだましだ。毎日くたくたで死にそう。それでも

1週間もすれば十分初級ゲレンデをボーゲンで
二人とも何とか滑れるようになった。こうなって
くると面白い。普通のリフトにもチャレンジして

上の上まで行く。もうがむしゃらスキーだ。
ごてごてになりながら家族ゲレンデに戻ってきた。
アメリカ人の老夫婦がレッスンを受けている。

恐らく一生に一度のスイス旅行なのだろう。
いでたちはアメリカの国旗をもじった派手な
ウエアだが、さすがにゆとり、ひょろひょろと

わずか数10センチすべるだけで、ほほえましく
支えあいキャーキャーと歓声を上げて、十分に
楽しんで見えた。

そうだここはスイスのグリンデルワルド。
がむしゃらはやめてゆとりを持って、
優雅に滑ろう。

もう一人早稲田の山男が加わって4人で
ツアスキーの企画を立ち上げた。
半日コースのフィルストにまずチャレンジだ。

海外青年協力隊

007のテーマが山一杯に響き渡る。
もちろんインストラクター付だ。
昼前スタート、2時間かけてロープウェイ

を乗り継ぎ乗り継ぎフィルストの頂上に立つ。
すばらしい眺めだ。まさにスイスアルプスの
ど真ん中。欧州大陸を見下ろす感じだ。

インストラクターの合図で下りスタート。
ひたすらシュテムボーゲンでのろのろと5人
連なって下りる。ヒュイヒュイと多くの人たち

が次から次へと滑り降りて来る。やっとなだらかな
下りにきた。数キロメートル一直線だ。
「ここからは好きに滑って下で待ってなさい」

やっほー!。みな好き好きに滑り出した。
再び007のテーマが山一杯に鳴り響く。
ところがオサムはバランスを崩してしまった。

直滑降だから最悪だ。バランスは戻らない。
中腰でどんどんスピードが乗ってくる。
倒れようにも倒れきれない。もう駄目だ。

ものすごい雪煙を上げて、左斜めにおおきく
スライドしてやっと止まった。冬のアルプスは
冷や汗一杯、死ぬほど暑い雪だった。

最後の週、皆ともお別れだ。我々も4週間目に
入った。もう二度と来る事はないだろう。

ユングフラウまる1日のツアーに、
最終すべり止めと決定した。
メンバーは例の4人だ。朝早く出てケーブル、

ロープウェイ、リフトと乗り継いで延々3時間。雪曇
るスタート地点に着いた。とてつもなく広い山一面が
スロープ。滑っているのは我々だけという心細さだ。

またもシュテムボーゲンで休み休みおりる。かなり
ガスってきた。こぶが見分けにくい。上のほうから
時折スキーヤーが降りてくる。その一人が女の子で

「こんんいちわーっ」といって通り過ぎていった。
何で我々が日本人て分かったんだろう?

山男の姿が突然消えた。こぶ裏の新雪の吹き溜まり
にはまったのだ。その後何度も皆この吹き溜まりに
はまった。何時間かかけてやっと中継地点に着く。

これから林間コースという所でマメタンがどうしても
足が痛いとリタイアした。皆と別れて一人ケーブルで
降りるマメタン。すばらしい林間コースだったが、

オサムは何で一緒に行ってやらなかったのだろうと
悔やんだ。イタリア人だったら『信じられない?
お前は男じゃない!』と言うだろうな。

次の日ユースに近くの海外青年協力隊のメンバーが
来ていて、一度是非とのことでマメタンと二人で
夜に訪問させてもらった。酪農実習生5名、2人が

女性だ。久しぶりの日本食。東北なまりがきつくて
さっぱり分からなかった。ここは外国か?
とてもうまいしゃぶしゃぶであった。

帰りの満天の星空は本当に今にも手が届きそう。
流れ星も一杯見られてたくさんの願いを掛けられた。
マメタンは一体何を願ったのだろう?

アイガーの北壁よさようなら!スキー特訓で
あちこちあざだらけ体くたくたのスイスであった。

バルセロナからアルハンブラへ

○あなたはもう忘れたかもしれないが

これで決まり!あなたを絶対に幸せにしてみせる。
心底そう思いました。ほんとです。

『全ヨーロッパを制覇するよ!この二人でOK?』
てな感じでした。

○あなたはもう忘れたかもしれないが

それからアルトシュタットの一番角を取るまでは
そう時間はかかりませんでした。

あなたは10kgもやせて、とてもスリムになりました。
ほんとに大変な日々でしたね、申し訳ありません。

憶えてますか?縁日、石松、よれよれ、獣医、日本館,
キプロスetc。太陽の大ヒット。

ジプシーの丘

アルハンブラの宮殿の谷を隔てて向かい側が
ソクラモンテの丘だ。ジプシーフラメンコの本場だ。
是非見に行こうとマメタンと丘を登った。

南向きのなだらかな坂道沿いに、白い漆喰壁の
銅食器店がニ三軒おきにずっと坂の頂上まで、
数十軒も連なっていた。店と店との間にには、

民家がある。大きな木の扉、銅製のガランガラン
が付いている。その間の路地か民家の庭先か、
おばさんたちが洗濯やらなにやらほんとの井戸端会議だ。

小さな子ども達がきゃっきゃきゃっきゃと走り回っている。
まさにジプシー風の黒髪と黒い瞳、褐色の量感あふれる
たくましい肌。覗き込んでいたらおばさんたちにじろりと

にらまれた。おーこわ、すごい迫力だ。一番若そうな、
といっても30歳くらいのソフィアローレンみたいな
お母さんが両手を腰に当てて仁王立ち。でかい!オサムは

思わず見上げてしまった。何か言わなくちゃ。

「あー。フラメンコ、フラメンコ。見たい見たいフラメンコ。
ビバ、フラメンコ!」

と踊る振りをして右手をおでこに当てて眺めるしぐさをした。

おばさんたちは大笑い。そのでかいおばさんは笑いながら
我々を隣の隣の大きな木の扉戸に導いてくれた。
黙って下方に指をさす。

『8:PM  OPEN 』

と小さく書いてある。あ、なるほど、この中がフラメンコの
会場なのか。オサムたちは納得した。夜8時にここへ、OK!
といって手を振って別れた。なだらかな坂を下る。

ニ三軒おきにある大きな木の扉の中は皆フラメンコの会場
なのだ。谷の向こうにアルハンブラの宮殿がすばらしく
かっこよく見えた。時を越えて今もそのままだ。

ソクラモンテの怪しい夜

夜が来た。まもなく八時だ。2人は坂を上り、
昼間とは全く雰囲気の違う怪しいジプシー
ムードの会場前に着いた。とても静かだ。

木の扉にはランプが灯りほのくらい中、
そこだけがボーッと明るい。

『確かここだOPEN 8:PMと書いてある』

ドアの金具をこつこつと叩く。重そうな木の扉、
ギーと音がして、隙間からフラメンコのギターの
音が聞こえてきた。

『あ、やっぱりここだ。フラメンコだ』

中は薄明かり。白い漆喰の壁と天井。
銅の食器がいくつも大小取り混ぜて
天井からぶら下がっている。

入り口からフロアで両壁に沿って、ぐるっと
半円形に座れるようになっている。入り口のドアの
脇で男の人2人がギターを弾いている。

おばさんが一人何かとても悲しげな歌を歌い始めた。
すごくジプシー風でいい。意味は分からなくても
泣けてくる。つめれば30人ほどは入れる広さだ。

二人はお金を払って、とにかく中に入った。
『あれっ?』暗くてよく見えなかったが。
『お客は?えーっ、俺達2人だけなの?ウッソー』

一番奥まった席に勧められるままに座った。依然として
おばさんが悲しい歌を歌っている。と、突然、
扉が開いてドヤドヤドヤと人々が入ってきた。

何かフランス語みたいだ。これがまたお年寄りばかりで
20人ほど。いっぺんに満席になってオサムはほっとした。
おばさんの歌が止んで、ガイドが何か説明を始めた。

ひとしきり説明が終わると皆で拍手した。オサムたちも
つられて拍手。そしてついに始まった。よく聞く
フラメンコのギターだ。二人掛け合いですごくいい。

がらっと曲が変わってさっき聞いていたあの物悲しい曲だ。
扉がゆっくりと開いてさっきの歌のおばさんが歌いながら
入ってきた。扉を開けておけば谷の向こうにアルハンブラの

宮殿のシルエットが美しく浮かび上がる。すばらしい
シチュエーションだ。

『しかも俺達は特等席だ。マメタンもしっとりと歌声に
聞きほれている。よかったなアルハンブラに来れて』

曲が変わって再び強烈なフラメンコギターの連奏。
早くなったりスローになったり弱くなったり強くなったり。
弱くスローになったところで、扉が開いて、かわいい

2人の子どもフラメンコが登場した。男の子と女の子。
それはそれは可愛いしぐさで一チョ前にカスタネット、
フラメンコを踊る。弱から強へ、パタと止まって

あごをカクンと上に上げる。また徐々に弱から強へ、
すさまじいフラメンコステップでラスト”オレ!”
で極めつきだ。大拍手と笑いとで大いに盛り上がった。

ビバ、フラメンコ、ジャポン!

何百年も前から続いているジプシー、
流浪の民のすばらしい本能芸術。
虐げられ追われ追われて・・・・。

それでも圧縮された人間根本のエネルギーは、全ての
ものを吹き飛ばす。悲しい哀愁を帯びた歌も真実だし、
激しいフラメンコステップの爆発も全て真実なのだ。

作り物ではない長い抑圧の歴史をオサムは感じた。
曲はさらに盛り上がって本命登場。カスタネットの
音がして重い扉がスーッと開くと、躍り出たのは

これまた妖艶な絵にかいたような絶世の美人ダンサー。
われこそはフラメンコの女王なり!顔をカクンと上に上
げて大きく胸を張る。すごい迫力だ。皆息を呑んでいる。

非常にスローなところからスタートしてすぐパタと止ま
って顔をカクント上に上げる。扉前から徐々にこちらへ
近づいてくる。何度目かのカクンで気が付いた。

この人昼間のママさんだ。あの仁王立ちででかかった
ソフィアローレンばりのママさんに違いない。急に
親しみを感じてにこりと合図をした。かなり近づいて

最後のカクンをしたとき、明らかに彼女は微笑んで
大きくオサムにウインクをした。くるりと反転して、
今度は周りのお客にカクンをしている。

ひとしきりカクンをし終わって、曲の強弱が激しく
なってきた。再び扉前から徐々に近づいてくる。
カスタネットと強烈なフラメンコステップだ。

ひたすら主賓席のオサムをにらみつけて迫ってくる。
『こわーい。飲み込まれそう!』

マメタンもオサムにしがみつく。がぶりとやられ
そうになったその瞬間にはたとまた急反転。
曲がかなりスローになってカスタネットが止んだ。

胸元から長めのスカーフを取り出す。軽いふわっとした
水色のスカーフだ。とてもなまめかしくスカーフを操っ
て踊る。おもむろに手前のおじいさんの首にふわっと

スカーフを回した。出てきて踊れというわけだ。
『ノン、とんでもない』

手を振って白髪のおじいさんは辞退した。次のおじい
さんはもう来る前から逃げ腰だ。・・やばいぞこれは。
フラメンコの練習をしとけばよかった。が、もう遅い。

左一列は皆辞退。
『さあ、俺の番か?』

と思いきや。
『ふん』

とやきもちを焼くように素通り。何これ?。オサムは
立ち上がりかけてまた座りなおした。

ビバ、フラメンコ、ジャポン!-2

右側の列に入ると最初のおじさん、若めのおじいさん。
よっしゃと踊り出て超スローで1,2,3。1,2,3。
とフラメンコステップをでかい彼女と肩を組んで、大汗

かいて踊った。よしあの要領だな。肩が組めるとわかって
後のおじさん3人が踊った。最後のおじさんなどは
”オレ!”までやって大うけだった。何か怖いなと思って

いたら案の定、マメタンが小声でささやく。
「くるわよ、覚悟して」
「よっしゃ、何でも来い!」

オサムは身構えた。ラストハイライトクライマックス。
彼女は来た。遠く離れた扉の前から再びクラリネット。
めちゃくちゃ激しい究極のフラメンコ。一直線に。

オサムをめがけてやってくる。このまま来るかとマメタン
は、オサムの体を突き放す。一歩手前で反転。曲がスロー
に変わり、またスカーフが出てきた。左側のおじさん達、

ラストチャンスだが迫力に圧倒されて皆しり込みした。
さあ最後の最後だ、くるぞーっ。ジェラシーに燃え狂った
ジプシーの女王がフラメンコに思いを込めてオサムと

マメタンとの仲を裂こうとやってくる。曲がスローから
徐々に盛り上がってくる。きたーっ!ああ、この力には
逆らえない許してくれマメタン。

ふわふわとなまめかしく舞う水色のスカーフ。
一直線にオサムをめがけてやってくる。
『絶対逃すものか。覚悟をおきめ!』

オサムは女王蛇ににらまれたカエルだ。
『思いっきり踊ってお帰り人生は1度しかないんだから』

そう言ってる気がしてスカーフとともに、もう、
オサムは立ち上がっていた。

肩を組んでステップ。離れてステップ。強弱、パタッ。
カクンと顔上げ。どんどん曲が速くなる。向かい合って
とにかくどキザに。思いっきりのフラメンコステップ。

ラストの”オレ!”が決まって、大拍手!
ブラボー!ビバ!フラメンコ!ジャポン!

北へ帰る

次の日マドリードへ向かう。フラメンコが
脳裏から離れない。快適列車の旅。風景は
どこものどかで日差しがとても暖かい。

オレンジが安くて美味しいのでおやつ代わりに
オレンジばかり食べていた。スペインの田園地帯、
山はほとんど見えずなだらかな丘ばかり。

ドンキホーテがいつ現れてもおかしくはない、
昔からの風景なのだろう。マドリードで
安アパートを借りた。毎日バザールとユースと

夕食のお買い物だ。蚤の市で大量に火縄ライター
を買う。珍しいし風が強い時に効果的だしかも
すごく安い。バザールはほんとに飽きないものだ。

広場で闘牛の練習をしていた。一人が木作りの
牛の頭を両手で頭上に掲げて突っ込んでいく。
日本人の闘牛士もいるらしい。こうやって

毎日練習をしているのだろう。さて、一人ぼっち
というのはよく聞くし、感じるときも多いが。
2人ぼっちというのが実際にあるんだと実感した。

マドリで数週間、仲間もなく二人だけで暮らした。
マメタンは語学の勉強。オサムは小説にチャレンジ
というずいぶん前からの夢の休日ではあったが。

とても寂しさがつのった。2人愛し合っても、どう
しても胸にぽっかりと空洞が存在している。かなり
それも拡大してるみたいだ。ふたりぼっち。彼女も

思いは同じだったろう。誰一人知り合いのいない
マドリード。ユースでも街中でもなかなか仲間が
見つからない。あれほど人の出入りが多かった

コペン。デュッセルでの針金仲間たち。皆どうして
いるだろう?仲間がたくさんいてこそマメタンは輝く。

「早めに切り上げてコペンに1度戻ろうか?デュッセル
で車を買ってコペンの皆に会いに行こう」

マドリ発の国際列車に乗る。陽気なスペインの人たちが
夜通し大声で歌を歌って我々を励ましてくれた。

だが今ひとつ、心の底から笑えない。将来の見通しが
立たないというのも大きな原因だったと思う。

サンセバスティアンで途中下車。有名な海岸線を二人で歩く。
アムステルダムを経て再びデュッセルドルフへ。アルトは
寂しく取締りが厳しくなってドイツ人しかやっていなかった。

日本人は皆エッセンへいったという。早速行ってみた。商店
街中央アーケードの中で10メートルおきに1人づつ日本人
がケッテを出している。5,6人ほどいた。全く知らない連中

だ。もう駄目だなここらへんは。早く車を買って全ドイツを回
ろう。今年のクリスマスのために。そして日本に帰ろうと決心
した。学園紛争も下火になり来春までなら復学できる。

マメタンも喜んで賛成してくれた。

コペンへ凱旋

デュッセルドルフでワーゲンのバリアント
というライトバンを買った。後ろで十分2人
寝れる。寝袋、アフガンコート、トルコリング、

火縄ライター、ケッテ道具と材料を積み込んで
コペンへ向かう。まだ半年しかたっていないのに
ずいぶん時が流れたような気がする。

東京館もベラホイもノアポップも健在だ。時間が
止まったように昔のままだった。マメタンが今
までのたまりにたまったストレスをわっと一気に

吹き出すように。何度も何度も同じことを喋り捲
っている。話す相手が変わればまた同じことを繰
り返すしかないのだがその情熱たるや一向に衰え

ない。デュッセルドルフでの出来事やイスタン
ブールからギリシャへの旅。スイスでの1ヶ月間
のスキーやスペインでのフラメンコなど。それは

それは話は尽きなかったのだろう。操さんも、
小林君たちも東京館の連中も、食い入るように
何度も同じ質問をさらに詳しく聞きこんでいる。

やはり血染めのクリスマスで彼女を置いて逃げた
こととツアースキーで彼女を一人で帰らせたこと
が悔やまれる。とにかく花のカップルの凱旋だ。

早く結婚式を挙げろとか芳しい。
「来年帰国する前にコペンで結婚式はあげるわよ」
「わーすごい。全員参加で盛大にやろうね」

勝手に先走って盛り上がっている。さあこれから
年末までドイツ全土を回って、各州ごとにアルバ
イトを使って12月に一挙に大勝負だ。

『1ヶ月に$1000のアルバイト。求む熱血漢』
11月に各ユースに張り紙を出して10ヶ所くらい
に区分けして、1エリア100万円を目標に、と

夢は膨らむばかり。そのためには事前に全ドイツを
くまなく回り、半年かけて商品を作りまくり、11
月から突撃だ。

さあ気合を入れて準備期間の戦闘開始!
全ドイツを駆け巡るぞ!

石松と再会

目標も定まりコペンでわっと全てを吐き出して、すっきり
したのかマメタンはとてもいい顔色に戻った。大阪漫才の
片割れが是非われもお仲間にと付いてくることになった。

彼の名はオオツキ。オサムに二つ年上だ。車の整備士でも
ありおもろい男でミュンヘンで車を買います是非と運転手
を買って出た。その運転手つき3人でコペンを出発する。

しばらくはユース泊まりでぼちぼちと南へ下ろうか。まず
はデュッセルへ戻ることにした。アルトシュタット。
あれ?石松がいるではないか。イスラエルも危険が一杯で

早めに帰ってきたとのこと。石松はかたくなにデュッセル
でやると決心していた。さあ、さらに材料を買い増しし、
商品製作に入る。まだ数十万円は残っていたのだ。

売り歩きながらひたすら作りまくって10月までに1万本
の商品をストックしなければならない。

大阪出身のオオツキさんは商品作りは全く不器用でやろう
としない。車の事は詳しいのに、販売だけを是非やらせて
くれという。初級ドイツ語のレッスンが始まった。

6ページほどのメモにまとめて、後々のためにさらに改良
し洗練されたものになった。ポリスの見つけ方から
ワンタッチ逃亡の要領。つかまった時の言い逃れの方法

とか、かなりユニークな極秘販売マニュアルだ。1週間
ほどで準備完了。久しぶりにアルトに出してみる。
オオツキさんが関西なまりのドイツ語で、

「ビッテシェーン。ツェーンマルク。
買わんかいな。これ。ダンケ」

と叫んでいる。300マルクを売る。
ポリスも来なかったが見知らぬ日本人が増えて、
もう第二世代という感じだ。

ケルンは絵になる大聖堂

翌日、いよいよデュッセルを出てケルンへ向かった。
ケルンといえば大聖堂。中世ゴシック建築の粋。
ひたすら天高くラインの脇に聳え立つ。

この日ラインは大雨で増水し広い川床スペースが濁流
で埋まり水の中に並木が林立していた。すごい水量だ。

大聖堂の正面は広いプロムナードになっていて、独り
ぽつんとドイツ人らしきヒッピーが座っていた。

「ビッテシェーン」(まいど)
「ビニッヒグートヒア?」(かまへんか?)

とジェスチャアすると、そのドイツ人は下目使いに首
を右へ傾ける。好きにしろって感じ。皮ひものビーズ
玉を売っている。

「ポリツァイシビア?」(警察厳しいか?)
「ヤー、ガンツシビア」(とても厳しい)

とその時ははっきりと答えた。しかし昼間から堂々と、
オープンできるとは幸せだ。デュッセルもエッセンも
夜だけだったのに。

「ヌア、アインシュトュンデ」(1時間だけ)
といってウインクをして、オサムはオオツキさんと
一緒に並んで黒布を広げた。いい雰囲気だ。

大聖堂をバックにすこぶる様になっている。もし、
”デュッセルドルフの針金師たち”という映画を
作るとすれば、ファーストシーンはここだ。

真っ青な空から大聖堂の見上げる十字架。カメラは
ゆっくりと大聖堂をなめるように下がってきて、
画面いっぱいの中世ゴシック建築の粋、大聖堂の

正面扉。さらに数十メートル望遠で前面の所、
我らの路上が徐々にアップで写る。背景は
ピンボケの大聖堂。

「ビッテシェーン、ツェーンマルク」
外人ヒッピーに混じって長髪のジャパン
ヒッピーと可愛い女の子が、

「ダンケ、ツェーンマルク」
「ダンケシェーン」
とケッテを売っている。すばらしいシーンだ。

その日は5本売っただけですぐにやめた。
「チュース、ビーダー、バイバイ」
といってドイツ人ヒッピーに別れを告げた。

地方ではすこぶる客の反応はよさそうだ。
ヒッピーも少ない。ケッテはまだまだドイツ
全土で十分売れそうだ。

ハイデルベルグのお城の中でー1

ハイデルベルクはこじんまりとした美しい
森と川とに囲まれたすばらしい学園都市だ。
ユースから川を渡り大学内の学生監獄を見る。

理論闘争のきわみ、つるし上げられた学生が
ここに軟禁された。学生達の格調高い落書き
が四方の壁にびっしりと書かれている。

さしずめ欧州全共闘のアジトみたいだ。
お城の道を登る。城の入り口。狭いところに
3人のヒッピーが広げていた。どの作品も今

ひとつだ。ケッテを出せば売れるのにと思いつ
つ場所もなさそうなのでそのまま城内に入る。
ハイデルベルクのお城の見晴らし場の広い

スペース。町並みが全貌できる。観光客で一杯。
「あ、ここいいじゃん」
すぐに広げた。すると突然。

「ナイン。ニッヒト、ベック!」(あかん、帰れ!)
と怖い感じでドイツ人が声をかけてきた。見ると
先ほど入り口にいたヒッピーだ。ずっと我々を

つけてきたらしい。雰囲気で分かるのだ。
「アッソウ!」(ああそう)
といってすぐにしまった。彼はいろいろと情報を

教えてくれた。ヒッピーにも礼儀がある。ここは
国宝級のお城なので城内での販売行為はまかり
ならん、とのことのようだ。なるほど、姫路城の

中でやるようなものか。すいませんでした。
どのお城にもこのような見晴らし広場がある。
下は石畳でいろいろなイベントがこの広場で繰り

広げられたのであろう。不思議なことに欧州で
中世の時は日本でも中世で、ほぼ同時期に同じ
ようなことが世界で進行しているということは

誠に不思議極まりない。何か目には見えないが
我々も含めて宇宙には何か生命の法則というか
宇宙の意思というか、そんなものが厳然と存在

しているような気がしてならない。日常性の中
に埋没していると考え付く暇もないが、大自然
の何かに触れた時や、すごく孤独を感じたとき

などには必ずこの疑問が命の奥底から湧きあが
ってくる。オレって一体何なんだ?

ハイデルベルグのお城の中でー2

中世のお城のこの石畳見晴らし広場にたたずんで
いると、いろいろな思いがよみがえる。
宗教改革もそうだ。マルチンルターは叫んだ。

「免罪符なんておかしい。それじゃあ金持ちしか天国
へは行かれない。修行せずしてお金で免罪できるなんて
絶対おかしい。本来の信仰に戻るべきだ」

先んずること300年。日本でも日蓮大聖人
という人が叫んだ。

「釈尊の教えとはひとつのはずだ。何故こんなに宗派が
別れているのだ?法華経にもどれ。南無妙法蓮華経!」

どちらとも坊主や聖職者は要らない民衆と直結すべきだ
といってるように思える。とにかく不思議なことに、
同じようなことが同じ頃に世界各地で起こる。

そして時の権力者とそれとくっついた既製の旧教団とに
大弾圧を受けるのだ。その繰り返しの中で、いまや当初
の改革エネルギーは完全に喪失してしまった。だから、

いまだに世界の各地で戦争や殺し合いの紛争が耐えない。
何一つ変わっていないのだ。誰かがどこかでこの負の
連鎖を断ち切らなければ21世紀、人類は生き残れない。

ハイデルベルク城の見晴台は居心地がいい。ネッカー川
が真下に見える。その向こうの丘の麓に小道が見える。
哲学の小径というそうだ。こんもりとしていて人影も少

なくかってゲーテも思索した。”若きウェルテルの悩み”
そしてこの頃からあの”ファウスト”の原型は彼の脳裏に
思索の中に生まれ出ていたのではないだろうか。

夕暮れのハイデルベルク、ものすごく哲学的な、
宗教的なゲーテの城であった。

マメタン医者にかかる

なつかしのアウグスブルクだ。おと年ここで
車の車輪が取れたっけ。町なかは石畳が多く
いい場所がたくさんある。

「グリュースゴッド!」(まいど)
「ビーダーシャウエン!」(さいなら)

の南ドイツだ。ポリスの制服も紺になったり
緑になったりと違ってくる。バイエルンは緑
だ。おまわりさんもおう揚で、

「ハーイ!ヤパーナー!」
と通り過ぎていく。これはなかなかいいぞ。
通りのど真ん中に出してみた。

数10本売れたところでマメタンの顔を見る。
様子がおかしい。顔真っ青で脂汗だ。

「だいじょうぶか?」
「おなかがいたいの・・・」

といって倒れこんだ。この時ばかりは、

「よし医者に行こう。何ぼかかってもいい。
オオツキさん、あとよろしく」

とほんとにそう思って内科医を探した。
運良く近くで産婦人科内科が見つかった。
日本と違って何か邸宅という感じだ。

マメタンを抱きかかえるようにして診察室
へ運ぶ。入ったきりなかなか出てこない。
なんぼかかるんやろうか?

1時間以上かかってやっと医者に付き添わ
れてマメタンが出てきた。

「かなりお疲れのようで、急性胃炎だと思
われます。薬を差し上げますからゆっくり
一晩お休みになれば大丈夫だと思います」

「ビーフィールコスト?」(で、いくら?)
「ナイン、カイネメア」(いりません)
「ほんま?」
「旅の方だから当然です。この薬を差し上げます」

やったー!ドイツ万歳!マメタンと小躍りして
オサムは心の底から喜んだ。

ミュンヘンでピストル向けられる

なつかしのミュンヘンだ。2年前ひたすら
働いた中華飯店にまずいってみる。シェフ
もウエイトレスも変わっていた。あのトルコ

女もいないみたいだ。少し寂しかったが、
とにかく腹いっぱい食べた。あの頃はほんとに
一人ぼっちで借金抱えて超貧乏だったなあ。

今年は優雅だ。来年の今頃はもっとゆとりが
あるはずだ。ユースに泊まって翌朝ホフブロイ
ハウスで朝からビールを飲む。

ドイツのビールはほんとに多種多様だ。日本の
お酒のように各地方都市に地ビールがある。
燗して飲むビールやタバコの香りがするビール

ジュースとシェイクして飲んだり器が決まって
いたり。ホフブロイやレーベンブロイなどは
日本人の口に合う。オサムはデュッセルの黒、

アルトビアが大好きだ。小型のタンブラーに黒赤
い苦味走った最初の一杯がなんとも絶対にうまい。
つまみはブラートブルスト(焼きソーセージ)と

ボックブルスト(煮ソーセージ)。たっぷりゼンフ
(からし)とケチャップをつけて。最高だ!

変な老夫婦がたかりにやってくる。ほかのおじさん
が彼らには気をつけたほうがいいと言う。それでも
ブンチャカブンチャカの演奏とともに、とても楽

しいホフブロイハウスだ。夕方、酔いが冷めてから
オサムとオオツキは大通りへテスト販売に
向かう。マメタンはユースで製作だ。

大通りの中ほどカフェテリア向かいの公園脇に
広げて数分、客の反応はすこぶる良い。人垣が
できてたちまち数本売れた。遠くでサイレンの音

が聞こえる。なにかあったのかな?人垣が増えて
忙しくなってきた。サイレンの音は間近に迫って
きた。すごくヤバイ!とうとうオサム達のまん前に

あの緑と白のパトカーバンが止まった。皮ジャンの
警官が飛び降りてくる。すばやくたたんでオオツキ
右へ、オサムは左へ。オオツキはすぐに捕まる。

オサムは2,3歩中腰から走りかけた。と、その時、

「ハルト!」(とまれ!)
と大声。もう一人の警官に。カチッとピストルを向
けられた。銃口は間違いなくこっちを向いている。

『わかった。間違っても引き金を引くな。降参!』
オサムはゆっくりと両手を挙げて立ち上がった。
カバンは足元に置いたままだ。カフェテリアあたり

から通報されたのだ。とうとうつかまった。2人
ともとても神妙にしていた。重犯罪者よろしくパト
カーに乗せられ、サイレンを鳴らして警察署へ。

ひょっとしてこれ、ミュンヘンで2回目?2年前の
裁判の時は確か参考人だったが、今度は現行犯だ。
マメタンすまん、つかまっちまったよ。

別室に通されて、
「パスポートは?何年旅してる?ヤーパンか?
街で販売しちゃいかんの知つとるか?」

くどくどと散々絞られたが、ひたすら恐縮していた
ので、無傷でパスポートも商品も返してくれた。
もうミュンヘンでは絶対にやらんとこうと決めた。

近くの小都市はまだまだ寛大なはずだ。ケッテは
絶対に売れる。周りの田舎を攻めよう!

二人は急いでユースへ戻った。マメタンは何も知
らずにもくもくとケッテを作っていた。

ダッホー、狂気の収容所

ミュンヘンの北にダッホーエルシュトラーセ
(ダッホー街道)というのがあって、
ダッホーて何?なにがあるの?ときくと。

とにかく行ってみろとユースの住人がいうので
オサムとオオツキは行ってみることにした。

ああ、近づくとすぐに分かった。ユダヤ人収容所。
ヒムラーが最初に作った思想汎用の収容所。後年
大量虐殺(ホロコースト)になるのだが、ポーランドのアウシュビッツ

と並ぶ規模でずいぶん大きい。大規模なパネル展示
と大部分の施設が当時のまま残されている。悲惨だ。
入り口に次のように書いてあった。

『歴史的反省の上に立ち過ちは二度と繰り返しませんから』

確か広島の原爆の碑にも同じ言葉が記されていたと思う。
あやまち、歴史的究極の過ち。20世紀は戦争と殺戮の
世紀だった。人類の幸福を追求すべき科学技術の進歩が

大量無差別殺戮兵器を作り出して、実際に使用された。
中世の合戦とか日清戦争まではまだ軍人と軍人との戦いだった。
日露戦争ごろから急に死者が増え始め、第一次世界大戦で

さらに死者の数は倍増。第二次世界大戦では空爆の激化とともに
桁違いでしかも軍人以外の民間の死者が無差別に激増。
原爆、二度までも一瞬にして10数万人の命を奪った兵器。

悪魔の産物。一体何のための科学だったのか?かたや、
ヒットラーの登場による狂気のユダヤ人大量虐殺。システム化
された大量殺人。つい60年前のことだ。

百万とも二百万とも言われている。現実にこの出来事はあった。
何故そうなったのだ?流れは暴走し始めるともう止まらない。
歴史が繰り返し示唆しているのに不可能なのだろうか?

この世界から絶対悪の戦争をなくすなんて事は?

ダッホーの村はとても商売をするようなところではなかった。

ロマンチック街道

大槻は憧れのカルマンギアを買ってオサムたちの
バンについてきた。バイロイトに向かう。
ワーグナーの音楽祭で有名なこの町の唯一の地下道

はほんとによく売れた。町の人もとても好意的で、
ポリスもフリー。とうとう新聞社がやってきて
写真取り。日本の芸術家の卵来る。すばらしき

ワイヤーワークという見出しだった。新聞に載る
のはこれで二回目だ。

ウルムという町で夜遅く着いて教会の前、ここの
教会はやたら天高くそびえていて、ちょうどいい、

寝袋に包まって車中泊。夜明けとともにひとのざわ
めき、なんと朝市のど真ん中に車を止めていたのだ。

ローテンベルクからフッセンのお城までを
”ロマンチック街道”という。なだらかな丘陵が続く
南ドイツの田園地帯だ。観光バスが結構走っている。

給油していた時大型バスが止まって、降りてきたのは
全部日本人の団体だった。

ローテンベルクはこじんまりとした、まわりを城壁で
囲まれた中世そのままの城塞都市だ。もちろん下は
石畳。町の中央時計台はからくり人形。回りには手作り

工房がたくさんあってバウムクーヘンとかを売っている。
城壁に登ってみると人がすれ違えるくらいの通路に、外向
きは凹型の戦闘用壁角部分は小高く見張り櫓になっている。

ぐるっと一周しても知れている。今でも中世騎士団ごっこ
がやれそうだ。ところが地下室に下りて驚いた。拷問部屋
がいくつもある。よくもこう考えられるなと思えるほど、

色んな責め器具が並んでいる。獄死した死人の絶叫が聞こ
えてきそうだ。そこらじゅうに血のりの痕が今でもこびり
ついていそうで息が詰まる。オエーッ。

ロマンチック街道2

ニュルンベルクはギルドの町。第二次大戦の裁判でも有名。
駅からすぐにギルド村だった。ドイツ固有のマイスター制度。
親方と徒弟との伝統技術熟練伝承制度。いろいろな分野がある。

皮細工、ガラス細工、ワイヤークラフト、からくりおもちゃ。
食品も多い。全てのハンディクラフトがギルドの名の下に
集約されていた。

この職人気質はドイツのいたるところで垣間見える。
それらしきオヤジさんに『はいマイスター』と
呼びかけるととても喜ぶ。

さて、のどかな田園地帯の中をチロリアン風の建物を眺めながら
フッセンのお城へと向かう。なだらかな丘を上ったり下ったり
くねくねと道は続く。フッセンは山岳国境のすぐ手前だ。

二つの美しいお城が森と泉に囲まれてそびえている。
観光客の団体に紛れ込んでガイドの説明を聞きながら
お城の中をめぐる。

バイエルン最後の王ルートビッヒ二世は少し変わった人で
妃をめとらず、ワーグナーのオペラとお城造りに全てをかけて
国の税金を注ぎ込み、最後は湖に身を投げて死んでしまった。

その分オペラとお城は後世に残った。バイロイトの音楽祭の
チケットは数年先まで予約済みだというし、フッセンのお城は
どんな角度から見ても美しく見えるようにと設計されているし。

こういう人が歴史にぽつぽつと現れてすばらしい作品を残した
のだろうか?人類のためにとか庶民のためにとかいう発想では
なさそうだし、いくら美を追及しても、宇宙のはてのように

突き詰めれば突き詰めるほど、狂おしく空虚になっていくのでは
ないだろうか?と思うのだが・・・・・・。
フッセンのお城はしかしヒッピーにはとても厳しい所だった。

フランクフルトはリンゴ酒で乾杯

ミュンヘンに戻る。車を真っ赤なワーゲン
ポストカーに買い換えた。床を二段にして
下にびっしりと在庫を入れるようにした。

サイドと後ろの窓を塞いだので外からは全く
中が見えない。簡易トイレもつけて優雅な広
い製作と寝室兼用のキャンピングカーになった。

オオツキさんは小銭がたまったので一度コペン
に戻りたいという。11月にデュッセルで再会
することを約して彼は北へと旅立った。

オサムとマメタンはひとまずフランクフルトに
材料を仕入れに向かった。フランクのユースは
マイン川沿いにある。繁華街にも近い。

川床が駐車場になっていてユースにはいつも
日本人が一杯。次の晩明け方に、といっても
午前3時ごろ。バンで熟睡していたら、

外で歌声が聞こえた。数十人で歌っている。
よく耳を澄ますとどうも日本語のようだ。
我々ものそのそと起きだした。

『戦争を知らずに僕らは生まれた 〜♪』
間違いない日本人だ。
「どうしたんですか?」

「到着が遅れてダブルブッキングになって、
ユースに泊まれなくなったんですよ」

誰かが味噌汁を持ってきてくれた。温かくて美味しい。

「今はやってるんですかその歌?」
「ええ、こういうのもありますよ。
「ゆかたの君はススキのかんざし〜♪」

「なんですかそれ?」
「よしだたくろう」
「知りません。ほんとにほんとです」

2年もたてばだいぶ変わってるだろうな。
二人は皆と一緒に朝まで歌を歌った。

ドイツは今選挙戦の真っ最中だ。キリスト教民主同盟
(CDU)と社会民主党(SPD)との二大政党に近い。
アメリカ並みに派手なコマーシャル選挙だ。

いたるところにCDUとSPDの大ポスターが貼ってある。
CDUの政治集会にユースのドイツ人と一緒に行ってみた。
バラエティあり歌あり踊りあり。アメリカの大統領選の

ミニミニ版だ。最後にフランクフルト名物アプフェルザフト
(りんご酒)が振舞われた。エレキバンドが登場してきて
ディスコに早代わり。若者狙いの大演出なのだろうが、

日本ではこれは選挙違反だろうな。政策論争皆無の
ドンちゃん騒ぎになった。バンドのボーカルが帰りがけに
ヤパーナー!と呼びかけてきて、楽屋まで来いという。

日本同様狭く汚い楽屋部屋でしつこくマメタンばかり気に
している。

「僕たちとこれから朝まで付き合わないか?」
と口はこっちへ向けて目はじろじろとマメタンを見ている。
オサムは頭にきてべらんめー調のドイツ語で叫んだ。

「ナインダンケ。ヴィアハーベンカイネツァイト。チュース」
(悪いな若えの。俺たちにはそんな時間はないんでね。あばよ)

チューリンゲンの森でUFO?

それは真夜中、12時ごろのフランクフルトの北方、
チューリンゲンの森の中のアウトバーンでの出来事だった。
パーキングエリアで仮眠している時だ。助手席のマメタンが、

「ねえ、オサム見て」
「・・・・・・」
「あの光へんよ。ねえオサムおきて見てよ、UFOかもよ?」
「えっ、UFO!うそー?」

オサムは身を乗り出してじっと暗い空を見る。
ここはかなり標高がある。谷間の村の灯火をはさんで向こう側に、
星空の中おおきな山影が見える。少し目が慣れてきた。

「どこ?」
「左の端の山の中ぽつんと灯が見えるでしょ。じっと見てて、
大きくなって動き出すから」

ほんまかいな。オサムはさらに身をせり出して助手席の窓に
額をくっつけた。

「ほんまや」

灯火が鼻炎カプセル大になった。かなり明るいオレンジ色だ。
と思うまもなくすすすーっと中腹を右に水平移動して、
頂上付近で止まって消えた。

「なんじゃ、ありゃー????」
「サーチライトじゃなさそうよ」
「飛行機?戦車?風船?ヘリコプター????
やはりサーチライトじゃないの?」

消えたあたりをじっと見つめる。あっ、また灯火が現れ
大きくなった。どこかから照らしているのなら光のライン
が見えるはずだが、それにサーチライトだったら、

楕円形が移動で変化するはずだが?その鼻炎カプセルは、
そのまますとんと下に下がりすすすーっと麓を左に滑って
いってふっと消えた。今度は左端上部から急に現れて、

スススーッと稜線沿いを進む。むむむっ?不可解なり。
不思議なことに山の上の空には飛び出さない。しかも絵に
描いたように我々の視界の範囲でしか移動しないのだ。

「なんじゃ、ありゃー????」

完全にからかわれている。約1時間ほどだ。そのあと
空へ向かって消えたきり、もう二度と現れなかった。
どっかへ行ったんだ。帰ってこないかなあ。さらに、

1時間待ったが、疲れて眠ってしまった。
朝、目が覚める。きのうのUFO?おおそうだ。
眼下に村があって向こうに山なみが見える。

何か研究所とか?飛行場とか?・・・・なにもない。
結局、やはり昨日の光物は、未確認飛行物体だったのだ。

メルヘン街道

その頃石松はデュッセル、エッセン、ケルンと売り歩いていた。
日本人がやたらと増えてマナーも悪くなったと嘆いている。
縁日は日本へ帰ったそうだ。石松はこの秋にはミュンヘンで

やるといっていた。オリンピックだ大挙してヒッピー達がやっ
てくるらしい。オサムはピストルに懲りて逆にその頃は、北に
いることにした。しばらくはデュッセル近辺を探ってみよう。

ハーゲン、デューイスブルク、ドルトムント、ボン、アーヘン、
ヴッパタル、ハメルン。徹底的にまわる。ハーゲンの地下道で
獣医と出くわした。ここでやってたのか!たしかに、夜だけの

デュッセルでやらなくてもドイツ各地の小都市ではどこでも売
れそうだ。ポリスには気をつけなければいけないが、通報さえ
されなければほとんどフリーだ。いい町を探し出すことに尽きる。

ウエストファーレン州から北方ドイツニーダーザクセン州に入る。
ブレーメン、ハノーバー、ハンブルク。そしてあのポンコツ車
を買ったリューベック。このあたりは工業地帯で町はごみっぽく

人々も気ぜわしい。少し方向を変えてブレーメンからメルヘン
街道にはいる。その中でもハメルンの町はとても心が和むのだ。
二つの川が町の中央で合流し中世の町並みが開ける。時計台の

からくり人形前に皆が集まる。時を告げると同時にハメルンの
笛吹きの物語がからくり人形劇で回り舞台よろしく展開する。
ボリュームたっぷりで、ついついじっくりと見とれてしまう。

さてドイツ西部。コブレンツからモーゼル川を遡る。一面の
ブドウ畑が続き。ビールからワインに変わっていく。
ザール地方に入る。アルザス、ロレーヌ。独仏がいつも奪い

合いをしたところだ。トリアーとかザールブリュッケンとか
ほど良い町がいくつかある。

オサムは町に着くとまず中央駅から販売すべき場所1,2箇所
までの地図を詳しく描く。テスト販売をして様子を見る。
ほとんどの町がものめずらしい感じで温かい。

もし万が一警察に捕まったら。ただひたすら謝って許して
もらうこと。そしてすぐに隣町へ移動することだ。

一エリア7,8都市。何とかドイツを5分割することができた。
あと行けてないのは、チューリンゲンバルトとシュバルツバルト
方面だ。

今は夏。ミュンヘンオリンピックをへてクリスマスまで
あと四ヶ月だ!

ローレライ

いったんデユッセルへ戻る。ユース前のラインの川床が
いつになくあわただしい。移動遊園地(メッセ)が来るという。
一晩でそれはそれは電飾鮮やかな遊園地ができていた。

お化け屋敷、メリーゴーラウンド、引き当てゲーム。
どこの国でも同じだな。昔はジプシーが色んな外道芸
や見世物小屋を繰り広げていたのかなと思う。

中にひときわ鮮やかな回転コースター”シンカンセン”という
のがあった。なんと日本の新幹線の超ミニ車両がぐるぐる回る
だけの、時々上がったり下がったりするだけのものなのに、

すごい人だかりだった。なんだか早く日本に帰りたくなる。この
晩は童心に返ってマメタンと遅くまで遊びまわった。次の日、
コブレンツからマインツへ向けてラインを北上する。

沈みかけそうな運搬船が行き来する。なかなか橋がない。左右の
崖がだんだんとそそり立つようになってきて、両岸を道路が走り
民家が点在する。コンバットの戦争映画で見たあの景色だ。

ローレライはあそこらしいと崖の上を指差しつついつに間にか、
通り過ぎていた。川幅は狭くなり確かに難所だ。そのうちラインの
流れが落着いてきてマインツに近づいた。この付近にはアメリカ軍

の基地があって、ギーセン、ハーナウ、ビースバーデン等いい町が
たくさんある。特にハーナウの陸橋は穴場だった。アメリカンが多い。
すらりと背の高い黒人の女性がパッとじゃらじゃらを手にとって、

すぐに首につけた。すごく似合っている。
「べりナイス!モーストビューチフル!」
「サンキュー!」
といって彼女は胸を張って消えていった。

さらに我々は駆け巡る。ハイデルベルクから南へ。マンハイム、
カールスルーエ。シュバルツバルトへ上る。スイス国境沿いの温泉
の町、バーデンバーデン、フライブルク等等、くまなく回る。

ゲナウゾーエッセンス?

フランクフルトへ戻り北を目指す。
チューリンゲンの森が国境沿いに続く。
西のシュバルツバルトはザールの工場煙

の酸性雨のために名物の黒きもみの木が
枯れかけてて頂上付近は苗木が育たず
誠に無残であったが、チューリンゲンの

もみの森林は実に見事であった。その中心
フルダの町、ここがよく売れた。我々一組
だけで全くのフリー。オートキャンプ場に

泊まり一週間ほど居座ってみよう、とても
良い所だ。夏のバカンスの時期でもあって
多くのファミリーがいた。キャンプ場は

車ごと乗り込んでテントを張ったり車中で
寝たり。大型キャンピングカーもたくさん
来ている。炊事場、シャワー、トイレが

完備していて、売店もある。イギリス人の
家族と仲良くなってご馳走するから来いと
言われていったら、ブラートブルストと

ポンフリだった。翌日焼き飯を持っていく
とものすごくうまいうまいと感激していた。
そういえば、トランプのカードをぱらぱらと

切ったら皆びっくりしてもう一度やってくれ
なんていうこともあったな。そうしたある日。
にんにくをいっぱいいれて、野菜炒めを作っ

ていたら、ドイツ人の高校生3人組が、ちょ
っと離れた所で肩を組んで、

「ゲナウゾー、エッセンス!」

と3回繰り返して、花いちもんめみたいな事をする。

『なんやそれ?文句があるならちゃんと言うてこい』

と思いつつ見とれていたら、さらに3回繰り返して
去っていった。いまだにその意味は分からない。

チューリンゲンの森で戦車と競争

さて、フルダを出てニュルンベルクへ向かう
チューリンゲンの森の中のアウトバーン、
このあたりは車の数が極端に少ない。

立派な高速道路をこの1台だけが走っている。
対向車もほとんど来ない。何でこんな所に
こんな立派な道路を作ったのだろう?

アウトバーン東北道といった感じだ。時速
100kmで淡々と走っていた。マメタン
は熟睡している。オサムも眠たくなってきた。

と、その時、何か後方に不穏な気配を感じた。
走りながらじっと耳を澄ます。何かゴーッと
いう音が近づいてきている。間違いない、

だんだんと近づいてきている。走りながらも
揺れを感じる。あーっ!大地が大きく揺れて
ものすごい音だ。見えた見えた!戦車だ!

1台の大型戦車がアウトバーンと並行して
続いている一般道路をものすごいスピードで
走り抜けてくる。ここは富士演習場でもなん

でもない、普通の道だ。ものすごい音とゆれ
の中で林ひとつ隔てて戦車が真横に並んだ。
でかい!白くNATOと真横に描いてある。

北大西洋機構軍の戦車だ。ドイツには兵役が
あって今ではNATOの元独仏軍は仲良く、
米軍ともども訓練を受けている。サッカー

やってるのがドイツ軍でキャッチボールして
いるのが米軍だ。小型戦車を列車で運んでい
るのを何回か見た。戦車と競争するなんて、

日本では到底考えられない。それほどこの国
の軍事情報はオープンなのだろうか?
そういえば、ここら辺でUFOを見たんじゃ

なかったか?チューリンゲンバルトは確かに
ミステリアスだ。山に登ると何とかの妖怪と
いうのが見えるのもこのあたりか?

(ブロッケン山の妖怪はも少し北方)

自動小銃向けられる

オリンピックが始まった。どこに行っても
その中継を皆で見ている。この2週間は仕事
になりそうもない。ミュンヘンへ行ってみるか、

ハイデルベルクでチャップリンの映画を見た後
オサムはそう決めた。アウトバーンに乗る。
うん?何か様子がおかしい。ラジオをつける。

何かあったんだ。いつもは流れている音楽番組
がなく、一方的に同じことばかり繰り返している。
アナウンサーの声が興奮している。ゲリラ、アラブ、

オリンピアード所々分かるオリンピック中継はない。
『マメタン、戻ろうか?』
しかしもう遅かった。

うん?と入り口で感じたのは、兵隊。しかも自動小銃
を引き金に手をかけてささげもっている姿、もちろん
ヘルメットをかぶっている。臨戦態勢の緊張感がある。

これは絶対に尋常ではない。シュツットガルトで出よう。
さあ出口だ。自動小銃が何人か見える。やばいな、この
荷物が没収されたらと思うと引き込み線から思わず、

再び本線に戻ってしまった。次、アウグスブルク、やっぱ
り駄目だ、諦めよう。アウトバーンはミュンヘンで終点だ。
マメタンとオサムは目で合図をして出口へゆっくりと向かった。

「ハルト!」(止まれ!)

またハルトや!ガチャと自動小銃の安全装置がはずされる。
またかいな、二人は下ろされてパスポートを取り上げられ、
両手を車のサイドに当てて後ろ向き。自動小銃を向けられた

ままもう一人が身体検査、さらにもう一人が車の中を調べる。
『なむさん、武器なんてあらへん。何とか見逃してくれ』
数分だったろうがすごく長く感じた。脂汗が出てきた、まだか。

やっとOKがでて、あのバイクについて行けと指示された。
パスポートは取り上げられたままだ。とにかく運転席に乗り込む。
BMWの750CCポリスバイク。革ジャンポリスの後を追う。

ところがすぐに見失ってしまった。なんてこった、パスポート
ないのに。その瞬間パッとバイクが現れた。そしてまたあの
警察署に着いた。3度目だ。もう絶対に来ませんからと、

ほんとに来なけりゃよかった。署長は怖い顔をしてこういった。

「今アラブゲリラがイスラエル人を射殺して、ミュンヘンは
非常事態であるからして、誠に危険が一杯である。すみやかに
ミュンヘンを立ち去るべし」

ということで、
「フェアシュテーン?」(わかったか?)

「ヤー、ガンツフェアシュテーン!ダンケシェーン。
アウフビーダーシャウエン!」

と南ドイツ方言で言ったら。署長は大いに喜んで、

「グーテライゼ!」(よい旅を!)

と言った。

バイロイト急変

ミュンヘンを出て北へ上る。新聞に載っけてもら
ったあのバイロイト。ワーグナーの音楽祭で有名な町。
地下道と駅前の橋の所と二手に別れて2時間だけ

出すことにした。オサムは地下道にマメタンは橋の所に、
比較的ゆとりがあって雰囲気がよかったからだが、
オサムは2時間後十分売れて戻ってびっくり、

マメタンの姿が見えない。あれ?どうした?
荷物も何もない。細かく痕跡を探すと、スチール製の
橋げたの裏に小さなメモがテープで止めてあった。

よくもまあこんなことができたものだ。赤鉛筆で、
『こないで、ポリス』
と書いてある。やばいな、安全な所だったのに。

どういうわけかマメタンはつかまってしまった。
警察署はすぐ近くにあった。こんな近くに?
これはうかつだった。どうしたものかと見上げて

いたらマメタンが出てきた。あっけらかんとしている。

「やられちゃった」
カバンを持っていないところを見ると没収か?
手に紙切れを持っている。

「たいへんだったな」
オサムが紙切れを受け取りながら言うと、マメタンは

「ううん、そうでもなかった。結構楽しかったよ。
身振り手振りで」
と強がりを言った。

紙切れをよく見ると、どうも3ヶ月以内に国外退去。
以後6ヶ月以内は入国拒否とのことらしい。同じ文章が
パスポートにもでんとスタンプしてあった。

商品は没収だ。ミュンヘンゲリラの後だから警察も
相当ぴりぴりとしていたんだろうな。オサムだけでも
つかまらなくてよかった。クリスマスは十分間に合う。

あと2ヶ月だ。そろそろ求人広告を出さなくちゃ。
決戦直前の2人には、こんなことくらいではちょっとも
へこたれない。クリスマス開けに大金を持ってドイツを

抜け出して、どこかの国でパスポートを再発行してもら
おう。ということでフランクフルトへ戻り、大募集の
原稿を考えながらさらにデュッセルドルフへと向かった。

俊足大募集!

ミュンヘン、ハイデルベルク、フランクフルト、ハンブルク、
デュッセルドルフ、この5つのユースの窓口脇掲示板に
あまり目立たぬよう張り紙を出した。

『1ヶ月で1000ドル稼げます。逃げ足の速いファイトマン
募集!針金細工の路上販売。全西ドイツ各地。面接、11月
20日12時デュッセルドルフのユース前にて』

全部日本語だ。11月20日まで掲示しておくように窓口で頼む。
「何が書いてあるんだい?」
「1000ドルのラッキーレターだ。11月20日までよろしく」
「OK!]

オオツキがコペンから2人連れて来ることになっていたから、
あと5人は欲しいところだ。

11月中旬、デュッセルドルフにオオツキたちがやってきた。
新人の一人はオガワというクールな男で、黒のタートルネックに
サングラス、ブラウンの革ジャン。低音であまりしゃべらない。

もう一人は京都出身のなよなよっとした大柄な見るからにボンボン。
2人とも一応ファイトだけは満々だ。他の面接を5日後に控え、
この2人をまず特訓しなければ。特訓はすぐに始まった。

「ビッテシェーン。ツェーンマルク。
ダンケシェーン。ツェーンマルク」

大声で何度も繰り返し、模擬販売から逃げる練習。ユース脇に
人垣ができてきて、これはもう早く現場へ出たほうが良い。
夕方から早速アルトに出す。

ドイツ人とフランス人との間にオサムとオオツキと並んで出す。
まだまだ売れるデュッセルドルフ。毎度おなじみポリツァイも来た。
パタパタパタのパフォーマンスも健在だが、とにかく店が増え

すぎて、あちこち反対側の角にまで出している。二人は次の日は
もう一人前の販売。三日目にはベテランの顔付きになっていた。

「どうもボンボンが逃げ遅れそうやな。つかまったらつかまった
時のことや。マニュアルをしっかり暗誦してすぐ釈放されなあかんで」

オサムは2人に念を押した。

面接!

さあ11月20日の面接当日になった。
ユースの入り口脇に『針金販売面接会場こちら→』
と日本語で書いたパネルを置かせてもらう。

面接会場は石松達がいつも製作をしていた右サイドの軒下だ。
長テーブルをひとつ置いて椅子を2人分、軒下に5人が座った。
11時半準備完了。誰も来ない。”逃げ足の速い”がまずかったかな?

それでも1ヶ月1000ドルは破格だ。ちょっとやばそうだけど
針金細工の路上販売ということでそれなりに想像は着くと思うのだが。
やはり面接に来るものはそれ相応気合が入ってなければ来れない。

12時を回った。やはり誰も来ない。パネルを見てこようかとオサムが
ユースの入り口に向かうと、3人ほどがパネルを見ている。

「面接?」
「ええ、受付どこでしょうか?」
「受付なし。そこで面接やってます。どうぞ」

3人の若者を案内してオオツキ達の待つテーブルにつれてきた。
オオツキさんが面接の主任で両脇がオガワとボンボンだ。
オサムとマメタンはちょっと離れて同じ軒下に座っている。

パネルの前に山男風の二人の若者が来た。こちらへ手招きし
オサムの横に座らせる。オオツキさんの説明にじっと聞き耳を立てる。

「いつ来たの?英語独語片言でもできますか?ま、特訓しますから
何とかなります。少しやばいですよ。実は・・・・・」

3人の若者の顔は真剣になってオオツキさんの説明を聞いている。
5分ほどの説明で、

「・・・ではその気になったら夕方5時にもう一度ここにきてください」

3人と入れ代わりに山男風の2人が立った。すでに次々と若者が増えて
なんとなく忙しくなってきた。ほとんどが着いて間なしの短髪の学生だ。
一人あるいは二人連れで3時ごろまでに20人ほどを面接した。

人が途切れてパネルをはずす。オオツキさんご苦労さん。

「さあ、5時に何人戻ってくるやろか?」

特訓

夕方の5時には10人が戻ってきた。大金を扱うので
みんなの意見を取り入れてさらに信用できそうな次の
5人に決定した。早稲田の山男。名古屋のひょうきん。

大阪のもじゃもじゃ。イスラエル帰りのイスラエル。
それに俳優志望の映画俳優。この新人5人を引き連れて
ユース前のバーへ。ここで初めて自己紹介をし、オサム

は再びカリスマになった。黒ビールで乾杯。極秘
マニュアルを各人に渡す。オオツキさんが、

「今晩中に丸暗記して置くように。明朝9時より
ライン河畔にて特別訓練を開始します。以上、解散」

オサムたちは解散後マンツーマンの組み合わせを決めた。
山男にマメタン。ひょうきんにオサム。もじゃもじゃに
オオツキ。イスラエルにオガワ。映画俳優にボンボン。

もじゃもじゃ大槻組は大阪人同士で漫才のようだ。早稲田
の山男は呑み込みも早くとても安心できる。名古屋の
ひょうきんは技術屋タイプ。くせがあるのはイスラエル。

旅慣れしてて頑固なところがある。熊本の出身だ。
映画俳優は京都生まれの美少年。身のこなしも優雅で
あか抜けている。ボンボンといいコンビだ。

午後からは模擬販売と逃げる練習。何度も繰り返し
だんだんと真剣みを帯びてきた。夜は本番だ。
ユースで夕食。緊張して皆食が進まない。

「ええやんか。つかまったらつかまった時のことや」

オオツキさんが何とかなごまそうとする。マメタンが、

「イミグレだけは行ったら駄目よ。とにかく謝って勘弁して
もらうことね。商品は自分の物だから必ず返してもらうこと」

経験者の言葉は重かった。外は真っ暗だ。緊張が高まってくる。

アルトのいつもの場所に昨晩同様ずらりと5人分のスペースが並ぶ。
いつものドイツ人に今日だけと耳打ちをして一番角をオサムが取った。
販売しながら常に十字路向かいの路地奥を見つめている。

各パートナー、始めは客の側に立っていた新人達ももう内側に入って
忙しく手伝っている。乱れ飛ぶお札とケッテとビニール袋。ならべる
暇もないほどの宴たけなわ、やはり来た。ブルーのライトがちらりと見えた。

「ポリツァイ!」

と叫んでオサムはベッチンをまたいで四隅を掴みすばやく持ち上げて
カバンにしまう。皆一斉にパタパタパタとしまっていく。実に鮮やかだ。
ワーゲンがのろのろと現れて去っていく。手ごたえは十分だ。

2時間ほどで各ペア5万円の売り上げだ。新人は皆興奮していたが、
面接で選りすぐり、今日の特訓のかいがあって大いにやる気満々。
どうだ!悪くても1ヶ月で1000ドルは稼げるってことだ!

戦闘開始

在庫はおよそ一万本。ダンボール40箱分。1箱250本。
一人当たり2箱くらいがノルマということになるが、早めに
売り切れるところも出てくるはずだ。何が起こるかわからない。

それでも、売り切らなければ意味がない。少々売れなくても
ひたすら無事を祈る。さて翌日最終エリア会議を行った。ペア
も一部変更。しっかりものの山男とひょうきんをペアにした。

ボンボンと映画俳優の京都組はあまり売れなくても良いから安全
な所ということで、ハイデルベルク、シュトットガルトから
ザールの西部方面へ。山男とひょうきん組は少し危険だけども

そこそこ売れるフランクフルト近郊からフルダの東部方面へ。
オオツキもじゃもじゃ組は非常に危険だがかなり売れそうな
北部方面へ。車があるのでまさかの時はかなり動ける。

偏屈ペアのオガワイスラエル組はデユッセルを中心に。そして
南部バイエルンをオサムとマメタンとで作りながら売りまくる
ことになった。完璧だ!とにかく無事であってくれと祈るばかり。

各連絡先はそれぞれの中心地のユース、募集の張り紙を出した所だ。
まずは前半2週間の滞在予定で、在庫をユースに置き近郊の町へ身軽
にして売りに行き、2週間後にデュッセルに1度集まるという寸法だ。

取って置きの各都市販売地図を各組に区分けして配った。今までの
データを記し続けてノート1冊分になっていたのをうまく区分けして
皆に配る。さあ出発だ!一生一度の思い出作りに頑張ろう!無事を祈る。

2週間後にこのデュッセルにひとまず全員集合だ。まずはオオツキ
もじゃもじゃ組がカルマンギアで北へ出発。デュッセル組のダンボール
を1個多めにおろし、オガワとイスラエルに見送られてほか全員は

バンに乗り込んだ。さあ南へ出発だ。フランクフルトで山男とひょうきん、
ハイデルベルクでボンボンと映画俳優を下ろす。いよいよ戦闘開始だ!
とにかくうまく立ち回ってくれ。ひたすら全員の無事を祈るのみ。

オサムとマメタンはバイエルンに入った。ローゼンハイム、ケンプテン。
午前中が製作で午後から売りまくる。毎日100本が目標だ。一週間後
ミュンヘンのユースへ行くとデュッセルとハンブルクから手紙が来ていた。

デュッセルのオガワからは売り切れそうなので次は多めに頼みますとのこと。
ハンブルクのオオツキからは喧嘩してもじゃもじゃとは別れたとのことだった。
オオツキには早めにデュッセルにもどれと指示を出して、製作にも力を入れる。

12月10日が集合日だ。12月7日はオサムの27歳の誕生日だった。
南ドイツの片田舎で二人だけの誕生会。チロル生バンドがハッピーバースデイ
と”上を向いて歩こう”を2人のために演奏してくれた。

前半終了!

12月9日の夕方早めに切り上げてアウグスブルクから
アウトバーンに入る。入り口ランプの緩やかなカーブで
日本人らしき若者がヒッチハイクをやっている。

懐かしき今では少ないカーキ色の登山用リュックだ。
背中に『世界広布』と書いてある。

「どこいくの?」
「あ、日本人の方ですか?デュッセルドルフです」
「OK。俺たちもデュッセルや」

ヒッチの会話はいつも決まっている。結局、独協大学の1年生で
着いたばかり、デュッセルドルフに会館があるのでそこに行くという。

「会館て何の会館なの?」
「S教団の会館です。昨日はフランクフルトの会館を訪ねました」

とても元気だ。質問をするととてもうれしそうにはきはきと答える。

「背中に世界広布と書いてあるけどどういう意味?」

と聞くと待ってましたとばかりしゃべりだした。長距離ドライブは
ヒッチハイカーがいろいろとおしゃべりしてあげるのが礼儀だ。
眠気覚ましにちょうど良いのだ。

「ふーん。法華経を世界に広めようって訳?」
「はい、そのとうりです」
「その会館に行けば、日本の本いっぱいある?」
「ええ、いっぱいあります。ぜひおこしください。ユースの近くです」

まだ一度も行ったことがないのにこの青年はもう自分の会館のような口ぶりだ。
夜の10時頃にユースに着いた。確かに会館はすぐ近くだった。
彼を下ろし久しぶりにユースの駐車場で眠る。

よく朝早くどんどんと車をたたく音に眼が覚める。オオツキともじゃもじゃだ。
けんかしている。

「分かった分かったとにかく清算しよう」

それでももじゃもじゃは手取り10万円はあったのだ。残った商品を受け取り
ここでもじゃもじゃはリタイアする。ほどなくオガワとイスラエルが来た。
追加分を含めてほぼ商品は売り切れ。すぐに清算する。なんとふたりとも

各1000ドル(36万円)をこえていた。すごい!オオツキもびっくりして、

「他のとこどこも行ってへんの?」
「ええ、ケルンやハーゲンもよう売れてるらしいんですが、我々2人は
デュッセルだけです」
「ほなわし、明日からそっち行くわ」

そのうちボンボンと映画俳優が現れた。すぐに山男とひょうきんがやってきた。
どちらも好調だ。フルダにはまだ行ってないという。もったいない気もする。

青い目の仏教徒

皆無事でよかった。さあこれからが本番だ。万が一の時は
すぐに隣町に移動すること。もう追加はできないから
売り切れそうになったら値上げして売ること。

絶対に値下げはしないこと。などなどを再確認して、各人
1箱ずつ多く在庫分を仕分けする。全部売切れたら相当なもんだ。

「ほな、12月25日ここでまた会おうな。絶対無事故、OK!」
「OK!]

とここでデュッセル3人組と分かれた。
売り上げは折半でオサムの手元には3万マルクの現金があった。
食事してから出発しようかとフランク、ハイデの4人と
相談してたら、件の青年が現れた。

「よろしければ会館まで行きましょうか?すぐ近くです」
「よっしゃ、マメタン行ってみよう」

食事の4人と別れてオサムたちは会館へと向かった。
何か見覚えがあるなと思ったら、あのホモおじさんの家の近くだ。
こぎれいな会館が見えてきた。前庭があって清楚な感じだ。

寺という感じでも教会という感じでもない。
母屋の入り口ドアを開けると、曇りガラス戸の向こうの仏間で、

「南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経、・・・・・」

と数人の元気の良い題目の唱和が聞こえる。青年が右手の居間を指差した。
あるある日本の雑誌、単行本、新聞などなど。長く欧州を旅していると
誰でも日本食が恋しくなる。と同時に活字にも飢えてくる。

あれば1ヶ月前の雑誌でもむさぼり読むのだ。ここの雑誌はまだ新しかった。
夢中になって二人で本を読んでいると、例の青年が管理人さんを連れてきた。

「やあごくろうさんでんな。はじめてでっか?」
「どっかでみたことありますね?」
「インマーマンシュトラセの日本食品店につとめてます」
「ああ、あの店の・・・。何か日本の本が一杯あると聞いてきたんですが、
2,3冊借りていっても良いですか?」
「ええ、どうぞどうぞ」
「じゃ、これとこれとをお借りします。12月25日頃に返しにきますので」

オサムとマメタンは挨拶もそこそこに靴を履きかけた。と、その時。
仏間の曇りガラスがすっと開いた。なんと驚いたことに。題目を元気
一杯に唱和していたのは3人のヨーロピアンヒッピー達だったのだ。

日本人かと思っていたが、青い目の長髪ヒッピーだったとは全く想定外だ。
オサムとマメタンは目でにこっと会釈をしてそろりそろりと外へ出た。

最後のイブ

さあ、最後の最後だ。フランクフルトで山男とひょうきんを下ろし、
シュトットガルトでボンボンと映画俳優を下ろす。
とにかくこの2週間無事終わってくれ。オサムとマメタンは

その足で思い切ってフルダに向かった。予想どうりだ三日間
すごい売れ行きだ。バイロイト地下道2日間。ニュルンベルク
2日間、その夜移動してミュンヘンのユースに入る。オオツキから

『追加頼む。不足間違いなし』・・・・返事を速達で出す。
『もう間に合わん。獣医から5マルクで分けてもらえ』

翌朝早く東へ、ドナウ川沿いの古都パッソウへ向かう。次の日、
南下してローゼンハイム、さらに西へケンプテン。いずれも虎の子
の小都市だ。もう昼も夜もなんだか分からなくなってきた。

毎晩バタンキュー、目が覚めるとここはどこ私は誰の朝が続いた。
あと二日だ。思わず夜中に”ナムミョーホーレンゲキョー”と
叫んでいた。そのまま眠り込む。もうどうでもいい。

いよいよ明日クリスマスイブ、ラストだ。商品1箱も残りそうにない。
思えば去年は血染めのクリスマスだった、あれから1年か。ヨーロッパ
最後のクリスマスイブはバイエルンの小都市ケンプテン。もうくたくただ。

そしてついにイブも終わった。もういいもういい。どうか皆無事で明日
デュッセルへ戻ってきてくれーっ。バタンキュー。翌日昼までひたすら眠る。

12月25日昼過ぎ、ボーっとしながらデュッセルへ向かう。ダンボールに
マルク札がびっしりだ。見る気も数える気もしない。夕方6時にデュッセル
に着いた。もう皆集まっていた。

「いやいや皆、ごくろうさん。それでは一人ずつ清算しようか」

各々、この2週間でさらに1000ドル以上を稼いでいた。この12月で
総売上は1200万円を超えオサムとマメタンの手取りは700万だった。
よくやった皆後は元気にまた旅を続けてくれ。イスラエル、映画俳優、山男、

ひょうきんの4人とここで握手して元気一杯別れた。あとにまた、オサム、
マメタン、オオツキ、オガワ、ボンボンが残った。オサムが、

「さあ、結婚式の準備や。ロンドンに花嫁衣裳を買いに行こう!」
「おお、そうやそうや、明日わしの車でみんなでいこう!」
カルマンギアのオオツキが言った。と、ボンボンが、

「ロンドンで残ったケッテ売ろうか?」
すかさずオガワが低音で、
「そうだね、やってみようか?」

もう、ゆとりの針金師たちであった。

だらけのアムス

さあ、カルマンギアに5人で乗ってデュッセルを出発。
オランダアムステルダムへ向かった。ちょっと不安だった
のが国境だったがやはりマメタンが引っかかった。

オランダに入国拒否とのこと。国境ゲート前で協議する。

「私いいわよ、列車で帰ってデュツセルで待ってるわ」
オオツキ「ほかのところぬけたらあかんかな?」
オサム「出れたとしてもまた入国不可やで」
オガワ「新しくパスポート作ったら」
ボンボン「あ、それええ考えや」
オオツキ「あほか、時間かかるがな。領事館は
     クリスマス正月は休みやで」
ボンボン「そんなあほな」
オオツキ「それに、せっかく取ったコペンのワーパミ、
     パーになるしな」
マメタン「私、正月開けにパスポートを再発行してもらうわ。
     要領分かってるし」
オサム「そやな。ワーパミもういらんやろ」

これで決まった。

マメタン「10日間ゆっくり羽を伸ばしておくわ」

またここでオサムはマメタンを残して彼らについていく。
スキーの時といっしょのパターンになった。

オサム「花嫁衣裳はコペンで買おう。俺のスーツだけ買ってくるわ」

国境の駅で彼女を皆で見送って4人でオランダへ入った。
ユトレヒトからもうすぐにアムステルダムだ。東京駅とよく似た
中央駅の近く、飾り窓の女で有名な一角にアムスのユースはあった。

旧市街のダム広場。石畳にやたら犬のくそが目障りだ。
いたるところ橋ばかり。ユースの前でもマリファナを売っている。
そういえばこの春先マメタンとパリからアムスに立ち寄った。

駅前通りの映画館でなつかしのサンダーバードをやっていたので
中に入ったらなんと灰皿つきの座席だった。あの時は2人ぼっちで
すぐ翌日デュッセルドルフへ急ぎ戻ったな。

夕暮れともなると2,3軒おきに大きな窓越しにそれらしき女の人
が窓際に腰掛けて、それとなくしなを作っている。とんでもない
年増さんもいる。若い娘は少ないみたいだ。ドイツよりもオープン

な明るい公娼制度、日本にはない赤線だ。我々へんにまじめな
グループは片目でそれをながめながらあちこち歩き回った。犬の
糞をふんずけながら。ほんまにアムスはくそだらけだった。

(マリファナ、ハッシシのことを”くそ”隠語でという)

ロンドン

ドーバーの白い壁とはよく言ったものだ。フェリーですぐに渡れる。
泳いでわたれるくらいだから近いのだ。すぐに水平線上に白い絶壁が
見えてくる。遠く一直線に見えてきたものがじわじわと帯状に、

さらに近づいて屏風上になったかと思うと数十メートル級の大絶壁
が思いっきり視界一杯に広がる。ナチスがフランスに攻め込んできた
時、多くのフランス人が数多くの小船に分乗して、この海峡をあの

白い壁を目指してせっせこせっせこ、漕ぎ出したのだ。その胸の内、
唯一の希望の白い壁だったのだ。まもなくこの下にトンネルが通る。

おっと!上陸と同時に左側通行だ。そこはカルマンギアのオオツキ
さん、心得たものだ。モーターウェイをひたすら北上する。

「制限速度40キロ?こんなハイウェイで?」

「いや、あれはマイルや。40マイル。1.6倍で時速54キロ。
イギリスはずっと伝統とかでマイペースでやってはんのや。欧州
大陸が右側通行でkm/時で統一されてんのに。左側通行でマイルや。
イギリスは取り残されてまうでこのままやと」

オオツキさんのご意見はもっともであった。

とうとう着いたロンドンや!あのビッグベンの時計が見える。
テームズ川。セントピーター寺院。大英博物館。バッキンガム宮殿。
さすが植民地の国。宮殿の衛兵にはアジア系もたくさんいた。

ハイドパークにオックスフォードストリート。ボンドストリート。
リージェントにピカデリーサーカス。ソフォー。カーナビーストリート。

ものすごく多人種の国。パリと同じだ。その中にオーソドックスな
丸帽とタキシードにこうもり傘を持った若いのが歩いていたりする。

パリには屋台のケッテ屋がたくさんいた。合法的で堂々とやっていた。
路上ヒッピーは全くいない。ロンドンにも路上ヒッピーは見かけない。
大通りに車輪つきの屋台で販売をしている。時々ポリス、馬に乗った

あのポリスが来ると。そろそろと屋台を引いて裏道へと逃げる。
ここも追いかけっこだ。馴れ合いで全く緊迫感がない。

命の泉はキスだらけ

今日はもう大晦日。ユースにチェックインして
カバンを持って4人はハイドパークに向かう。

日が暮れて人がどんどん増えてくる。
皆、噴水(生きる喜びの泉)に向かっているようだ。

「ここらへんええんとちゃいますか?」
「そやな」

オオツキさんとボンボンが場所選びをしている。
もう習性で人の流れを見ると場所を探している。
警官を見るとさっと逃げようとするのと同じだ。

「今度は英語やで」
「えー、プリーズカムヒア。えー、ハウマッチ?」
「なんやそれ」
「何ポンドで売るんや?」
「知らんがな。誰かちゃんと計算せえよ」
「5ポンドでええんとちゃうか?」
「マジックと紙かしてくれ。ポンドてどう書くんや?」
「これでいけるやろ」

さあ、布を広げケッテを並べて販売開始。オオツキさんが
関西なまりの英語で呼び込み。ボンボンがかた膝ついて、
「ハーイ!」とケッテを手にして人目を引く。オガワは

「ねえ?どう?」と立ったまま、ささやくように声をかける。
1時間ほどで10本売ってさあカウントダウンへ。大噴水の
ほうはすごいひとだ。寒いのに噴水の中に入ってるのがいる。

どこにでもいるなこのてのバカは。オサムも20歳の12月に
鴨川に飛び込んだことがあったっけ、若さと酒の勢いのせいだ。

できるだけアラブを避けて人ごみの中へ分け入る。さあ、
カウントダウンだ。50・・40・・30・・20・・
10、9、8、7、6、5、4、3、2、1、ゼロ!

パン!パン!パン!と花火が上がる。爆竹が鳴る。一斉に噴水に
飛び込みよる。肩を組んで踊りよる。あちこちキスしよる。

わしらも何かせなあかん!何か知らんバンザーイ!を三唱以上
何回も繰り返していた。1974年の幕開けだ。と、突然。
オサムに女の子が飛びついてきてキスをした。なにこれ?

つぎからつぎだ。ハッピー!オオツキさんもオガワもボンボンも
みんなハッピー!こんなん知らなんだ?
マメタン来なくてほんとによかった!

その頃マメタンは

カーナビーストリート、オックスフォード大通り、
ボンド大通り、リージェント通り。ぐるぐる歩き回って
皆ドレスアップする。オオツキさんは濃紺の3ピースに

かかとの高い黒靴。こうもり傘と山高帽をかぶれば、
まるでチャップリンだ。カーナビーで懐中電灯を探していた。
グラフィックデザイナー志望のオガワは、黒のタートルネックに

濃いブラウンの短めの革ジャン、同色のパンタロンに
セミブーツ。さすが芸大だが、何かパターンはいつも同じだ。
さて、ボンボンとオサムくんはハリボーンの三つ揃いを

なんとかレディーメイドで探そうと努力した。靴はこれまた
今はやりの丸先っぽかかと高い高いぽっくり靴。けつまづきそう。
下手な歩き方をするとめちゃくちゃ格好が悪い。とにかく皆揃った。

「オオツキさん、ひざ曲がってますよ」
「このくつ重い。なおらへんのや」

とバフバフ歩く。オガワ以外の3人は似たりよったり。
さあ、コペンに戻って結婚式を挙げるぞ。へんてこ4人組は
カルマンギアに乗ってロンドンをあとにした。

その頃マメタンは、若き弁護士の卵としりあって、なにかと
彼を使いまわしていた。彼も初めてのことなので、汗をかきかき
必死で努力していた。彼を前にマメタンはつぶやく、 

「えーっと、中央駅のキオスクでボックブルストとポンフリを
買って、その時ショルダーバッグをキオスクのテーブルの下に
置いたのよね。男の人が2人ほどビールを飲んでたわ」

「時間はいつごろですか?」
「確か夕暮れ時だったから5時ごろだったと思うわ」
「バッグの中身分かりますか?」
「えっ、そんなに詳しく書くの?」
「ええ、ここに中身という意味のことが書いてあります。
できるだけ詳しくとのことです」
「困ったわね。まずパスポートでしょ。住所録の手帳でしょ。
ハンカチ。ティッシュ。コンパクト鏡にお金が少し」
「何マルクくらいですか?」
「そうね?お財布は別だったから、硬貨だけ10マルクくらい」

ドレスアップ?

こうして紛失届けが出来上がって再び駅前の警察署へ出頭した。
写しにバーンとドイチェラントポリツァイアムトの赤丸スタンプを
もらう。これを持って領事館へ行けばOKだ。写真はもう撮ってある。

1時間もかからず真新しい再発行パスポートが出来上がった。

「ありがとう弁護士さん。5日後にコペンで結婚式を挙げて日本へ
帰ります。明日彼氏達がロンドンからデュッセルドルフに戻ります
ので、それから皆でコペンへ上ります。あれが私達が使っている

フォルクスワーゲンのポストワゴンです。赤い表面を磨き落とすと
黄色時に黒のポストマーク(ラッパのマーク)が現れるはずです」

「すごいですね!これで西ドイツ全都市をめぐられたんですね。
すばらしいご主人さんです」

それほどでもないわよ、と口には出さずマメタンは、
背のすらりと高くハンサムな若き弁護士の卵とラインの
夕暮れ河畔をふたりしずかに歩むのであった。

そして翌日、カルマンギアが到着して一人のきざな
革ジャン男と、3人のちんどん屋が登場した。デュッセル手前で
皆着替えなおして、それからおもむろに到着したのだ。

「あの真ん中の松田優作風なのが彼氏」
「なるほど・・・?」

弁護士はつぶやいた。3人とも歩きにくそう。

「ただいま、マメタン」
オサムは自信たっぷりに声をかけた。

「だれ?こちら?」
「ああ、こちら弁護士さん。今回お骨折りいただいて、
すごくスムーズに再発行パスポート取れたわよ。これがそれ、ハイ」

「どれどれ。おーっ、かっこいい。真っ白じゃん!」
「どうも」
弁護士君が会釈する。オサムはおもむろにサングラスをはずして
胸に手をやり彼に頭を下げた。

「サンキュー、弁護士君」
その顔にはロンドンの名残りのキスマークがばれないように、
ちらりとマメタンのほうに流し目をして、ニッと笑った。

『どうだ似合ってるか?この3ぞろいのスーツ。
結婚式はこれでいく』

ベストドレッサーのオサム君だった。

花嫁衣装

再びコペンハーゲン!車二台で5人での凱旋だ。
今度は結婚式付きだぞ。コペンのメインストリートに
ある教会で式を挙げることにした。

デュッセルドルフで買った結婚指輪だ。
皆たくさん来てくれた。あのジュードーの佐藤も
パトロネア同伴だ。小林君のカップルも。操さんも

東京館の連中も皆来てくれた。最高の結婚式だ。
メインストリートで記念写真を撮る。すごい人だかりで
まるで芸能人のよう。場所を変えて人魚姫の像へ向かう。

何度も記念写真を撮る。狭くて足場が悪い。マメタンを
抱えあげてもういちまい。早くも日が暮れてきた。急がなくちゃ。
しかしマメタンの体がとても冷たいのに気が付いた。

ウェディングドレスのままで下はほとんど下着だけなのだ。
やっと終わってホテルへ戻る。やはりその晩高熱が出た。
出発は明日の夕方。エジプトエアーで、

ローマ→カイロ→ボンベイ→バンコク→香港→羽田だ。
各都市3泊の新婚旅行そのものだ。格安チケットなので
キャンセルはできない。ま、いいか。どっと疲れが出たんだろう。

つききりで看病をしたかいがあって何とか翌昼までには熱も下がり
食欲も湧いてきた。よかった、何とかいけそう。さあ、最後だ。
お別れだ。いろんなことがあった。横浜を出てからの、目次を

めくるように、あっという間の3年間がよみがえる。ほんとにもう
最後の最後だ。しばらくはもうこれまい。皆に見送られて
コペンの空港から、ついに飛び立った。

ワゴンと在庫はオガワとボンボンに譲り。今ここに現金が600万円
もある。帰国して大学に復学したら、がむしゃらに勉強をしよう。今は
学問にとても飢えている。マメタンは運転免許を取ると決心していた。

そういえば、オサムがずっと一人で運転してたもんな。

「いまどこらへんやろか?」
「デュッセルの真上みたいよ」

オサムは心の中で南無妙法蓮華経、おおきにとお題目をあげた。

デュッセルドルフの針金師たち

デュッセルドルフの針金師たち

  • 小説
  • 長編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-07-05


  1. プロローグ
  2. 出航
  3. シベリアの空
  4. でかトイレ
  5. チャップマン
  6. ヒッチハイク
  7. コペンに着いた
  8. ワーゲンを買う
  9. シャフトが折れた
  10. ベラホイのユース
  11. アウトバーンでひっくり返る
  12. おじさん事故る
  13. ウィーン西駅
  14. チロルの山の中で
  15. バイト探し
  16. シェフ
  17. ホモおじさん
  18. きっちり返す
  19. ヘルシンキ
  20. 仕事がない?
  21. マルメの別れー1
  22. マルメの別れー2
  23. コペンへ・・・・
  24. トーマスペンション
  25. 一瞬の神がかり1
  26. 一瞬の神がかり2
  27. さあ旅立ち?
  28. 金都(きんど)
  29. 金都(きんど)2
  30. デスコテ
  31. アルトシュタット
  32. 石松1
  33. 石松2
  34. ほんと?
  35. アンバランスの調和
  36. 危険が一杯
  37. 不器用なタイミング
  38. デュッセルでの再会
  39. 初めて売れた500マルク
  40. マメタン、涙で10kgやせる
  41. デュッセルドルフの針金師たち
  42. ついに取ったり一番角
  43. 神様からの贈り物
  44. 血染めのクリスマス1
  45. 血染めのクリスマス2
  46. オリエントエクスプレス
  47. 何でもありのイスタンブール
  48. アテネ、オリンポスの丘
  49. シンタクマの写真屋さん
  50. アイガーの北壁
  51. スキー三昧
  52. 海外青年協力隊
  53. バルセロナからアルハンブラへ
  54. ジプシーの丘
  55. ソクラモンテの怪しい夜
  56. ビバ、フラメンコ、ジャポン!
  57. ビバ、フラメンコ、ジャポン!-2
  58. 北へ帰る
  59. コペンへ凱旋
  60. 石松と再会
  61. ケルンは絵になる大聖堂
  62. ハイデルベルグのお城の中でー1
  63. ハイデルベルグのお城の中でー2
  64. マメタン医者にかかる
  65. ミュンヘンでピストル向けられる
  66. ダッホー、狂気の収容所
  67. ロマンチック街道
  68. ロマンチック街道2
  69. フランクフルトはリンゴ酒で乾杯
  70. チューリンゲンの森でUFO?
  71. メルヘン街道
  72. ローレライ
  73. ゲナウゾーエッセンス?
  74. チューリンゲンの森で戦車と競争
  75. 自動小銃向けられる
  76. バイロイト急変
  77. 俊足大募集!
  78. 面接!
  79. 特訓
  80. 戦闘開始
  81. 前半終了!
  82. 青い目の仏教徒
  83. 最後のイブ
  84. だらけのアムス
  85. ロンドン
  86. 命の泉はキスだらけ
  87. その頃マメタンは
  88. ドレスアップ?
  89. 花嫁衣装