吹雪となれば 第六章

吹雪となれば 第六章

日本中世は戦国時代の時代劇です。様々な研究論説を参考としたフィクションです。よろしければお楽しみください。

雨音

第六章   雨音 

さぁ始まる
紅に染まれよ
縁どられた
命の競演
カーニバル

       一

日も暮れるころ、明慶寺をあとにした嵐、若雪、兼久の三人は、若雪を間に挟み、納屋までの帰途についていた。
 兼久の手には、智真の手による絵が巻かれた状態で、大切そうに抱かれていた。智真が兼久にそれを手渡す前、兼久が出来栄(できば)えを確認した際、嵐も若雪もその絵を見ていた。
 それは墨のみで描かれた、やや欠けた月と雲、そしてそれを下界より隠者が眺めているという簡素な構図の絵だった。絵を目にした若雪は、智真の画力に感嘆した。
 墨一色で、見事に幽玄の美しさが表わされている。
(…美しい。智真どのの、お手は確かだ。―――けれどなぜだろう、どこか物悲しくも思えるのは……)
 兼久が心惹かれるのがこの絵に表わされるような世界ならば、この現(うつつ)を生きることは彼にとって辛いことなのかもしれない。
(――――――――兼久兄様の在り様は、哀しい)
 兼久は、己を誰かに理解されたいとは願っていない。
 最初から、ただ独りの生を貫くであろうことを、承知しているのだ。
 自らの気質と共に。
 美しい水墨画は、その美しさゆえに、若雪の気持ちに痛ましいものを感じさせた。

 堺に数ある商家の中でも、納屋は聞こえた大店である。堺の町に生きる人間の多くは、今井家の人間の顔を見知っていた。
陰では男装の若雪を数に入れて、「今井家の若様三人衆」と女性たちに呼ばれ関心の的だった。三人三様、趣の異なる整った容貌は、堺の女性の目を十分に楽しませていた。
 丁度その三人が揃(そろ)い踏(ぶ)みしている様子は、そうそうお目にかかることの出来るものではない。通りがかりに、彼らに気付いた娘が頬を染めて、「なあ、ちょっと、あれ…」と連れの娘の袖を引いていた。他にもちらほら数人の女たちが、道を行く若雪たちにこっそりと注目していた。

「嵐どのは、明慶寺に何用(なによう)で参られたのですか?」
 若雪の問いに、嵐は兼久のほうをちら、と見た。
 彼が嫌う方面の話をすることになるからだ。
「―――智真の部屋に雷(かみなり)除(よ)けの護符を張りにな。先日会うた時、またあいつ黒雲呼びよったし、身に着けとく呪符も一緒に持ってったんや」
 兼久は黙って聞いている。
「…―――ええと、護符と呪符は、違うのですか」
「ああ、ちゃうな。大きゅう分けたら、呪符は災厄を取り除くことが目的、護符は防ぐことが目的で、別もんなんや。霊符言うたらその総称やな」
 疑問を持ったら聞かずにはいられない性分の若雪に、嵐はもう少し踏み込んだ話をしてやった。兼久の耳にはどう届いているやら、と思いながら。
「…若雪。天(あめ)切る、地(つち)切る、八方(はっぽう)切る、…って言葉、知っとるか?」
 兼久の静かな問いかけに、若雪がことも無げに頷く。
「呪詛返しの秘文ですね。呪詛に限らず、相手のかけた術を解くものでもあると聞きます。魔を祓(はら)う効果もあるそうですが、実際に使われることはそうそう無いものです。――――なぜ兼久兄様が、神道の秘文をご存じなのですか?」
 神官家に育った身として、若雪にはごく当然に心得ている秘文のようだった。
 嵐と兼久の二人が黙り込んだ。
 二人共、つい今しがた、「実際に使われることはそうそう無い」秘文の実用する状況を経験したばかりなのだ。
「…少し耳にすることがあったさかいな。…由風は、呪術全般を嗜(たしな)んどるんか?」
 間を置いて若雪に答えてから、そのあとに続いた言葉は、兼久からの歩み寄りだった。
「……全てを完璧にとは言えませんけど、可能な限りは頭に叩き込んでますよ。いつ何時(なんどき)、役立つかわからしませんから」
 嵐もまた、それに応じた。
「相変わらず、忙しない奴やな」
 その言葉には、今は刺も毒も無かった。
 兼久が嵐を厭(いと)う理由には、茶に対する嵐の姿勢にも原因があると、嵐は解っていた。
 嵐は茶をそつなく点てることも出来るし、客としての作法も申し分無い。だが、器用過ぎるのだ。茶とは本来、形ばかり押さえれば良い、というものではない。嵐が茶道に対して見せる奥行の無さ、茶への愛着の無さが、兼久には我慢ならないのだった。
 しかし、闇の空間で演じて見せた大人気(おとなげ)無いいがみ合いには、嵐も兼久も互いに恥じるところがあり、悔いてもいたのだ。
 若雪を間に挟み、無言の内に二人はとりあえずの和睦(わぼく)を結んだのだった。

 ――――――それは、摂理の壁に縛られた神々の囁き。
 世の行末を見定める、老翁(ろうおう)たちの声。
「花守がしくじったとな」
「なんと。それではやはり、摂理の壁は」
「うむ、赤色(せきしょく)よ」
「年若(としわか)の者に行かせたが、そも間違いであったのだ!」
「理の姫のお見立てと言うが」
「…それにつき、容易ならざることを耳にした」
「何だ」
「………理の姫は、心底からは吹雪を忌避(きひ)なさるものではない、と」
「―――馬鹿な。聞き逃せぬ。聞き逃せぬ話ぞ、それは」
「…ご真意が、計り知れぬ」
「しかし、お任せするしか我らに出来ることは無い」
「なんともはや、思うようにことが進まぬものよ……」

「大事無いか、明臣(あきおみ)」
 闇の中、光の檻(おり)に閉じ込められた相手が、軽く身じろぎした。
「――――なんだ、水臣(みずおみ)か。無いよ。そもそもこの檻が、僕を御老翁(ごろうおう)たちの手から守る為のものだってことくらいは、君だって解ってるだろう。姫様の光は、何人(なんびと)にも破れない」
「…なぜ、しくじった」
 涼やかな声は平淡で、責める響きは無かった。
「………創り上げた空間に、入るべきでない者を入れてしまった。僕の、落ち度だ。術式に不慣れなのは言い訳にならないな――――――これでよく、神を名乗れる」
 その言葉には自らに対する強い嘲りがあった。
「―――明臣、我らはそもそも、そのような存在なのだ。万能を自らに期待することは、間違っている。………神の、傲慢(ごうまん)だ」
 最後にぽつり、と言い添えられた言葉は、ひどく明臣の気に障った。
「ああ、ああ、元々は水の塊(かたまり)、湖だったような者に、僕の気持ちなど解らないさ!自らも、恋着(れんちゃく)に囚われた身であるくせに!!」
「明臣。お前もしや、嵐に同情しているのではないか?」
 苛立ち紛れの叫びに対して、揺らぐことなく返って来た冷静な言葉に、明臣は一瞬口を噤(つぐ)んだ。力無く、低い声で答える。
「―――――――――解らないだろうよ、君には」

 多少の問題はありながらも、天下は勢い留まることを知らぬ織田信長の手中に向けて、転がり落ちてゆくようであった。納屋も、宗久も嵐も若雪も、時局を慎重に見極めながら信長の助力となるべく、それぞれに立ち働いた。その間、若雪は七忍らの助けも借りつつ、宗久と嵐の間に起こる対立の予兆を見逃さぬよう、息を凝(こ)らして見守っていた。
 信長が朝廷から授かる官位も、天正五(1577)年霜月には従二位・右大臣、天正六(1578)年睦月には正二位にまで昇った。
 そしてその年の弥生には、決定的な出来事が起こる。
 上杉謙信が、死んだのだ。
 嵐は、これで信長は天下を獲(と)った、と確信した。
 そののち起こった上杉家の後継争い・御館(おたて)の乱に乗じて信長は越中国に侵攻、上杉軍を破る。
 同じ年には、ついに嵐たちの待ち望んだ中国侵攻が始まった。
 また、中国侵攻のころと時を同じくして、石見に残した宗久配下の護衛だった者たちから報せが届いた。その内容は、山田正邦が御師職と室を大社国造家に返上し、その職権が滞(とどこお)りなく小野氏に移ったというものだった。報せには、正邦は御師職と室の返上後、身内と少数の家臣のみを連れ、ひっそり出雲を去ったともあった。
その報せを受けた若雪はしばし目を閉じ、それから深く、安堵の息を吐いた。朝拝を止めたのちも若雪の部屋には神棚がそのままにあったので、それを亡き家族に見立てる思いで手を合わせ、正邦の件を報告した。
(父様、母様。太郎兄、次郎兄、三郎。…これをもって終わりとすること、お許しいただけるでしょうか………?)
ようやく本当に、あの惨劇に区切りがついた、とそう感じて、若雪は人知れず少しだけ涙をこぼした。
 
そして時は移り、天正九(1581)年、信長は時の正親町(おおぎまち)天皇(てんのう)より左大臣に推任される。同年皐月、納屋においては、昨今(さっこん)の信長の形勢に浮足立つような空気が流れていた。
「今の織田様の勢いをもってすれば、中国を掌握されるんも、そう遠い話ではないやろ」
 宗久がゆったりと満足げな響きを持たせた声で語る。長の労苦が報われる時の近いことへの安堵が、その顔に滲(にじ)み出ていた。
 信長の天下は、もう、すぐそこまで来ている。
「さいですね…。今んとこ、そう見えますねえ」
「――――はっきりせん返事やな、嵐」
 おや、という声で宗久が聞き咎める。嵐は、ちらりと歯を見せて笑った。
 今年で二十二歳になる嵐の今一つ不明瞭な答えに、宗久は眉根を寄せた。
 やんちゃな面立ちの抜けた嵐の顔つきは、年相応に落ち着き、一層大人びたものとなっていた。その顔には、慎重を期そうとする思慮深さが浮かんでいる。
「若雪、そなたはどう思う?」
 煮え切らない嵐を置いて、宗久が若雪の意見を求めた。とかく情勢の先を読む洞察の鋭さにおいて、この養女より勝る者を宗久は他に知らない。納屋における女軍師だ。
 宗久の問いに微笑を浮かべた若雪は今や二十四となり、清らな花が静かにも咲き匂う風情を湛えている。髪の長さが追い付いた為、今では男装も解いて小袖姿だ。ともすれば殺伐(さつばつ)とした空気を帯びる遣り取りの中、若雪の存在は、場に優しさと、華やいだ落ち着きを添えていた。
 首を傾けた拍子に、濡れたような黒髪がさらりと揺れる。
「…嵐どのは、ご懸念を抱いておられるのではありませんか。勢い盛んで、今一歩で念願に手が届く、という時は油断や隙の格好の温床(おんしょう)とも成り得ます。最も用心すべき時、と言っても過言ではないでしょう。私たちは、今まで以上に息を詰め、織田様の近辺や他の勢力の動きに気を配る必要があると存じます。毛利はまだ――――――粘(ねば)りを見せるでしょう」
「…ふん、二人共、可愛げが無いな。もう少しはしゃいで見せればええもんを」
 その言葉に嵐と若雪が顔を見合わせ、どちらからともなく笑み交わした。
 口では不満げな宗久が、頼もしい甥と養女の冷静な反応に満足していることは明らかだった。わざと作ってみせた宗久の渋い顔の目の奥には、笑みがある。
幸い、幾度かひやりとした場面はあったものの、若雪の懸念したような嵐と宗久の対立、という展開を迎えることなく、今日(こんにち)に至っている。そうした経緯もあった為、宗久の部屋で、嵐、宗久と共に地図を中央にして車座になっての天下の情勢の話し合いは、若雪にとって気の休まるものだった。二人と共に手を取り合い戦っている、という実感が湧くからだ。
 このころにはもう、宗久の息子兼久は他所に邸を構えて独立していたが、相変わらず若雪への茶の指南だけは続けていた。
 
自室に戻った嵐は、一人、腕組みをして考え込んでいた。
信長の天下統一に向けての動きが順調であるのは良しとして、他にどうにも腑に落ちない悩みが嵐にはあった。
 ―――――――それは、雅やかで美しく、しかしどうにも悲しい夢に関するものだ。
思い返してみればもう何年も前、若雪が堺を離れ、山陰へ向かったころより見ていた。数えてみると随分長い期間ということになる。
その夢には嵐の他に、若雪一人が現れる。
桜の花びらが、彼女の周りをはらはらと、静かに舞う。
その幻想的な美しさの中、若雪は嵐を置いてどこか遠いところに行こうとしている。どこに行くとも知れず、しかし嵐には追って行けない場所に向かうのだということだけは、なぜか解った。
小袖姿に美しい打掛を羽織り、嵐をただ一度だけ振り返る。
その顔は別離の悲しみに満ちていた。
本意ではないが、行かねばならないのだという思いが双眸(そうぼう)に溢(あふ)れていた。
そして前に向き直り、歩み去るのだ。
嵐は一人、散った桜の花びらと共に取り残される――――――――。
こんな筈は無い、と茫然としながら。
(………………あんな顔、見たないな)
 夢は未来を告げるもの、何らかの啓示、神仏との交流の場、と捉える見方がこの時代の社会通念であった。ましてや嵐は陰陽の術をも習得した身であり、夢を軽んじるものではない、という感覚は人並み以上にあった。
夢を見始めた当初は、若雪に置いて行かれた自分の心情が、そのような夢を見せるのだろうと思った。状況が状況だっただけに、そう納得出来た。しかし若雪が堺に戻ってからも、同じ夢は度々嵐を訪れた。夢の中の若雪は、実際の彼女の年齢を追って成長していった。
 遠ざかる若雪に向けて必死に手を伸ばすが、届かない。
 いつも、一度として、彼女に伸ばした手が届いた例は無い。
もどかしさと別離の痛みに呻くような思いを抱え、しかし目覚めた途端に焦燥感(しょうそうかん)は消える。若雪が同じ邸内にいる、彼女を失ってはいない、という事実を思い出して安堵する。
(―――俺も大概、柔(やわ)やな)
 石見で若雪に夢違誦文歌を教えたのは、嵐自身が夢違えの呪法を多用していたからでもある。悪夢を吉夢に転じるという呪法の効能に、縋(すが)っていたのだ。
 しかし若雪にかつて教えたそれも、今もって続くこの夢の前では心許(こころもと)無かった。
(現になる夢とも思えんけど……。神霊の仕業、ちゅうことはないやろか)
 五年前に明慶寺で起こったような奇怪な出来事は、あれ以来無い。しかしそのことが嵐には、かえって不気味な沈黙に思えてならなかった。
〝その暫くの間で僕たちに出来ることは、あまり多くは無いんだ〟
 神霊が言っていた「暫くの間」、とは今現在を指すのではないだろうか。
「僕たちに出来ること」というのが、嵐に夢を送り込み、何らかの警告、もしくは啓示を知らしめようとしているとは考えられないだろうか。
 それはあながち的外れでもない疑念だと、嵐には思えた。
 また、近頃ひっきりなしに舞い込んでくる、若雪の縁談話も悪夢の原因の一つかもしれない、とも密かに考えていた。若雪が嵐の手の届かないところに行く、という比喩の示すところに、嫁入り以上のものは無いだろう。
 人目を引く端麗な容貌に納屋という大店の娘ときては、多少年嵩(としかさ)であっても縁組をして損にはならない。何の思惑からかは解らないが、それらの打診(だしん)を片(かた)っ端(ぱし)から断っている宗久の対応は、嵐にとって実に有り難かった。
 何一つ確かな約束の出来ない今の自分には、若雪を引き留める権利が無いと、嵐は縁談にしても若雪に接するにしても、彼女の婚儀に関しては何の口出しもするまい、と強く自制していたからだ。
「…………」
 若雪本人は、どこへも嫁ぐ気は無いのだと周囲に明言していた。
 宗久が許すなら、生涯独り身で通すつもりのようだ。それは立場その他から考えてみても異色のことである。
 若雪の言葉を洩れ聞いた嵐の心境は複雑だった。
(…なんでやろか)
 そう疑問に思う自分もまだ独りではあるが、若雪に嫁ぐ意思が無いことの理由が嵐には解らなかった。しかし、その理由を正面切って聞くことは自分の胸の内を明かすようで、ためらわれた。どうにも動きようが無く、嵐は日毎(ひごと)花開くような若雪の容貌を前に、一人じりじりとしていた。
(―――――紅も注してくれへんし)
 若雪が小袖を着られるようになれば、きっと注してくれるだろうと思っていた、いつかの紅も未だ注す気配が無い。小袖姿に戻れば、注したところを披露してもらえるものとばかり思い込んでいた嵐は、当てが外れた思いだった。多少、拒絶されたようにも感じた。
 けれど紅を注すことを催促したり、注さない理由を尋ねたりすることには、ためらいがあった。どうしても手放せない意地があるせいだ。尋ねてしまえば何かに負ける気がした。結局のところ嵐が若雪に取る対応は、年月を経た今でも、若雪が石見より戻ったころとあまり変わらないままと言えた。多少穏やかに外見が大人びたからと言って、中身までそれに伴うものとは限らないようだった。

「――――そうですか、特に変わりは無い、と」
「はい」
 嵐が一人自室で考え込んでいるころ、若雪は中庭に畏(かしこ)まった嵐下七忍の一人、片郡(かたごおり)の報告を聞いていた。
 その後ろには兵庫もいる。両腕を頭の後ろで組み、中庭を気ままに歩き回っている。
「当面は山陰・畿内の指揮を任されるご様子です。――――明智様が、気になられるのですか」
 大きな体躯に似合わずつぶらな瞳をしぱしぱさせて若雪に向けながら、片郡が不思議そうに尋ねた。若雪が長い睫(まつげ)を伏せる。
「そう――――…少しばかり。……けれど、きっと私の、思い過ごしでしょう」
 唇をやや苦笑気味に形作り、穏やかな声でそう言う若雪だったが、彼女に限っては、〝少しばかり〟がそのままで終わらないことを、片郡は経験から知っている。
「引き続き、探ります」
「ええ、―――――気を付けて」
 片郡が去ったあとも、兵庫は何か物言いたげにうろうろと中庭に留まっていた。
「どうかしましたか、兵庫」
 顔を向けた若雪を、兵庫は少し眩(まぶ)しそうな目で見た。
「聞いてもいいですかね、若雪様」
「何でしょう」
「どうして嫁に行かないんですか」
 心構えをする隙も無く兵庫にいきなり問われ、若雪は面食らった。
 相変わらず遠慮や躊躇というものを知らない。
「……兵庫には、関わりの無いことです」
「つれないですねー。まあ俺はともかくとして、少なくとも嵐様には関わりのあることです」
「嵐どのが何か―――――」
 問う若雪を、兵庫が横目で見遣る。皮肉げな眼差しだった。
「言いませんよ。あの気質、知ってるでしょう。若雪様は若雪様でそんな調子だから、俺としてはまだるっこしくて仕方ない訳です。全く。いい大人が二人揃って、何をしてるんだか。…嵐様が他の嫁御を貰っても、若雪様は平気なんですか?」
 歯に衣着せぬ物言いだが、腹は立たなかった。若雪は柔らかく目を細めた。
「嵐どのは自由なご気性です。誰に囚われることも良しとなさいません。もちろん、私にも。……私は、私の誇りにかけても嵐どのの生きる枷(かせ)になりたくはない。ですから迎える嫁御が、嵐どのが空を舞う妨げにならないのであれば、私はそれで構わないのです、兵庫」 
 兵庫はそれ以上続ける言葉を失くし、沈黙した。若雪が緩く握った白い拳を、彼は目の端で捉えていた。空からぽつり、ぽつりと水滴が落ちてきた。
 
「降ってんな」
 兼久の邸に備えられた茶室で、若雪が主、兼久が客としての稽古を終えた時、兼久が言った。稽古が終わったとは言え、兼久が茶室で私語をするのはあまりあることではなく、若雪は少しばかり驚いた。
 茶室は、宗久の邸にあるものに比べると極めて慎ましく、貧しいような風情だったが、茶道具から掛け軸から隅々に至るまで、ひっそりと枯れゆく花のような趣があった。掛け軸の絵は、五年前に智真が描いたものだった。
(……兼久兄様は、ずっとこのような世界に身を置きたかったのだろう…)
 初めて兼久の茶室を訪れた際、若雪はそう思った。兼久が納屋から離れ、自分は少し寂しいような気持ちだったが、兼久の願いが叶えられたのならそれで良かったとも感じた。兼久は兼久なりに、心穏やかに幸福であってくれるなら、それで良いと思えた。
「若雪は、雨は嫌いか?」
「――――いいえ。雨には雨の、風情があります」
 続けて問うた兼久に戸惑いつつも、若雪は答えた。
「ああ……。その通りや」
 兼久は、満足そうな表情をした。
 そのあとは沈黙が続いた。
「そなたは随分と、変わったな…」
 雨音だけが響く長い沈黙のあと、兼久が、掛け軸の水墨画を眺めながら呟くように言った。
「そうでしょうか」
「ああ。自分では解らんか。…女子とは、そんなもんかな」
 静かに降り続く雨の音に、茶室全体が包まれているようだった。
「若雪。そなたにとって、由風とはなんや?」
「―――――――」
 急襲、のような兼久の問いかけに、若雪は一瞬詰まった。
 何も答えることが出来ず、ただ兼久の静かな顔を凝視する。
「―――強うなってきたな。今日はもう、帰り」
 五月雨(さみだれ)の季節の到来だった。

 数日後、目まぐるしく動く戦局の中、安土に帰城した信長に呼ばれ、嵐と若雪は近江にいた。
 石見銀山に関するこれまでの報告と、今後の方針を信長に説明する必要があった為だ。加えて鉄砲補充の算段も打ち合わせなければならない。地上およそ六階建てにもなる安土城の、天守に程近い部屋で信長に拝謁(はいえつ)したのち、嵐と若雪は揃って信長の前より辞去(じきょ)した。
 信長は、先頃堺に製法が伝わった金襴(きんらん)の衣を纏い、至極(しごく)満悦(まんえつ)の様子だった。信長の注文を受け、宗久が手配した品である。
 嵐はここぞとばかりに「吹雪となれば云々」の言葉について信長に尋ねたが、信長の反応はそれまで何回か繰り返されたものと同様、素知(そし)らぬ顔で「さて、左様なことを言うたかな」というものであった。
 そんなことより、折角来たのだから城を存分に見学して行け、と言われ、二人して眩しいような金箔(きんぱく)の壁や障壁画を物珍しげに見ながら、稀に見る壮麗な城の内部を巡り歩いていた。主も金襴なら城も金襴である。若雪は素直に感心して見入っていたが、嵐は正直、やたら派手過ぎて自分の好みではない、と思った。信長はそれなりに茶道を重んじるよう振る舞ってはいるが、およそ侘びさびとは遠い城の在り様だった。こちらが信長の本音だろうな、と嵐は思う。兼久あたりが見れば目を背けそうだ。
そうして呑気に城を見て回っているところに、神経質な面持ちの男と出くわした。
明智日向守光秀(あけちひゅうがのかみみつひで)だった。
 嵐も若雪も、回廊(かいろう)の端に身を寄せ頭(こうべ)を垂れる。
 それを見る光秀の顔に、不快な色が走った。
「――――たかが商人(あきんど)の分際で…、上様にたかる蠅(はえ)共が」
 すれ違いざま、そう憎々しげに吐き捨てると、光秀はそのまま去り行こうとし、しかし果たせなかった。
「待ちや、日向守」
 市が、行く手を阻(はば)んだ為である。怒りが籠った声は、いつになく居丈高(いたけだか)に響いた。
「これは―――…、お市の方様」
 さすがに光秀が辞を低くして、頭を下げ神妙な態度を取る。
ついと顎(あご)をそらせた市は、それを、冷たい光を宿した目で上から睨み据えた。
「はて、そなたともあろう男が、随分と礼儀を弁えぬ物言いじゃな。―――――信長兄上と妾の大事なる客人に、大層な無礼をしてくれおるものじゃ。妾は告げ口は好かぬが、品の無い雑言(ぞうごん)は尚好かぬ。なんなら若雪らとそなた、果たしてどちらがより兄上のお役に立っておるか、今からでも妾自らお伺いして来て良いのじゃぞ?」
「いえ、左様なことは――――――…。失礼をば、致しました」
 光秀はあくまで市に対してのみ恐縮の体で畏まると、嵐たちには目もくれずに立ち去った。
 光秀の背中の消えた先を見遣り、嵐が溜め息を吐く。
「やれやれ………。だいぶん、ご機嫌ななめですね。お市様も、あんまり苛めが過ぎんのはようないですよ」
「光秀には、あれくらい言うて丁度良いのじゃ。あの男、自分以外が間抜けにしか見えぬような奴ゆえ。己の何が信長兄上のご勘気(かんき)を蒙(こうむ)っておるのか、まるで解らずに戸惑うておるのよ。―――些か、哀れとは思うがの」
 自らの辛辣(しんらつ)な物言いを省みる気はさらさら無い様子で、市はふん、と顔を背けた。若雪たちが安土を訪問する日に、市も安土城にいたのは示し合わせた訳では無く、偶然だった。
 光秀はいつ見ても神経質な面持ちだが、今日はいつにもましてピリピリしており、彼の周囲の空気まで不穏に尖っているかのようだった。信長に難題を言われたのか何なのか知らないが、八つ当たりは迷惑だと嵐は考える。
 とは言え、若雪も嵐もこの手の見下され方には慣れており、光秀に何と罵られようと、顔色一つ変わるものではない。
 たかが商人。それで結構である。
 光秀の去ったあとをじっと若雪が見つめていることに気付き、嵐が声をかけた。
「どないした、若雪どの?」
「――――いいえ、何も」

 光秀の暴言(ぼうげん)に一矢報いてやったのだから少しばかり付き合え、と市に言われ、嵐は安土城下の楽市に来ていた。
 信長の保護下、年貢や債務から解き放たれた商取引が行われる楽市には、堺とはまた違った気風の賑わいがあった。
 中には、女だてらに大きな荷を担いだ行商を業(なり)とする連雀商人(れんじゃくしょうにん)の姿もある。
 一方、若雪は市からあっさり放免(ほうめん)され、堺への帰途に就いた。
「…そのように怖い顔をするでないわ。同じ邸に住まう同士、若雪とはいつでも会えるであろ。たまには妾の機嫌をお取り」
 市は品の良い一枚の単衣(ひとえ)を両手で抱え持ち、被衣(かづき)としている。しかし、身に纏う小袖は紛れも無くそこらの商家の奥方よりも豪華であり、いかにも貴人のお忍びといった風情であった。
 晴天の下、安土城下に賑わう楽市には爽やかな皐月の風が吹き抜け、人々の顔を和やかなものにさせていた。
 だが嵐はその例外だった。
「そんなら、それこそ俺やのうて若雪どのと楽市を満喫するなり、されたらええやないですか。俺になんぞ御用ですかね、お市様?」
 嵐は仏頂面のまま、しかし目は本人が意識するより前に、至る所に置かれた反物や多彩な品を見定めている。商売人の性(さが)だった。
「ふむ。用と言えば用」
 艶(つや)の光る唇で、歌うように言いながら市は紅(べに)の入った貝を、何の気なしに手に取る。
 嵐は黙ってそれを見ていた。
 振り返った市は、晴れやかな声で告げた。
「嵐、反物を幾つか見繕っておくれ。そなたが品定めをした打掛は、色柄共に、いつも申し分無い。義姉上(あねうえ)も、よくお喜びじゃ。もちろん、姫たちもな。姫たちの土産に、何かここでしか手に入らぬような品が欲しいと思うてな」
 そんなことか、と嵐は思ったが、先に若雪を帰らせたことの得心は行った。品物の目利きは嵐のほうが得手であり、慣れてもいた。品定め兼、護衛役という訳だ。
(この方も、人の親ではあるんよな…)
 多少、失礼な感心の仕方をする。
 普段の市の自由気ままな言動からは、子の親という印象があまり窺えないのだ。
 それは年齢を感じさせない美貌のせいでもある。
「ご依頼があれば、納屋で請け負いますけど」
 この言葉に市が唇を尖らせた。
「解っておらぬな。妾が直々に出向き、姫たちの顔を思い浮かべながら検分した品である、ということが肝要なのじゃ」
 一理あると思い、嵐は楽市の中で、反物を豊富に取り扱っていそうな店の集まりに目を留めた。布や織物を売る市屋と米・魚鳥を売る市屋とは異なる。さりげない動きで、道を乱暴に行き過ぎる交通人から市を庇いつつ、反物が多く並べられた店の前まで移動する。
 市はそれに対し当然、という顔つきではあったが、その目はどこか嵐を観察しているようでもあった。赤ん坊を背負って楽市にやって来たらしい女が、市の華やかな装いに目を丸くしている。
 市の視線を意に介さず嵐が尋ねた。
 顎に手を当て、目はじっと反物を見ている。
「上の姫君は、おいくつでしたっけ」
 市が目を細めて答える。口元は優しげにほころんでいた。
「茶々(ちゃちゃ)か。十四になった。あれは妾に似て美しゅうなるぞ」
「ああ、さよですか」
 親馬鹿と自分の美貌を誇る物言いに、嵐は気の無い相槌を打った。
「なんじゃ、そなた。興味無いのか」
 どうでもいい、と言わんばかりの嵐の返事に市が鼻白むと、嵐はげんなりして答えた。
「お年を訊いたんは、反物の色柄との兼ね合いを判じる為ですよ………。俺が姫君方に興味持ってどないするんですか。身分違いにも程があるでしょう。年かて俺より下過ぎますわ。それに俺は、自分より年下は女子に見えませんよって」
「……左様であろうな」
 多少無礼な言い様ではあったが、被った単衣を心持ち上げ、嵐の顔を見上げながら市は首肯した。一瞬、「確かそなたは、若雪よりも二歳年下の男であったな」という意地の悪い言葉が市の頭をよぎったが、口に出すのは控えた。言えば嵐は大いに気分を害するだろう。もとよりそれを気遣うつもりなど市には毛頭無いが、その相手をするのは面倒臭い。
 嵐があまり頓着しない様子なのを良いことに、見定める目付きで、市は嵐を尚もじろじろと眺めた。やや奇怪な生き物を見る目付きだった。
 自他共に剛直(ごうちょく)を認める市にとって、そこまで若雪に惚れ込んでおきながら、未だ何の行動も起こしていない嵐は謎でしかない。
(そなたらには想う者と添えるだけの、自由があるではないか)
 それは自分にも、そして恐らくは娘たちにも、得ることの出来ない自由だ。
 浅井長政は市にとって決して悪くない夫であったが、焦がれる程の想いを抱ける相手でもなかった。市が嵐や若雪の持ち得る自由を、どれだけ羨望(せんぼう)の思いで見ているのか、嵐は解っていないのだ。
 市の胸中を知った訳でも無いのだろうが、嵐はどこか物思う顔つきだった。
 その目は、ここに無いものを見ているようだ。
 心を遠くに飛ばしているような嵐の横で、市は手近にある濃い色の布地に手をかける。
「…のう、嵐、これはどうじゃ?唐紅(からくれない)の華やかな色が、茶々にはよう映えるのじゃ」
「ああ、ええんやないですか」
 次の反物を手に取る。
「ではこれは?金糸と若竹のような色合いは、素直な初(はつ)の気性に相応しかろうて」
「ええんやないですか」
「………………いっそ江(ごう)には墨染(すみぞめ)でも買うて帰ろうか」
「ええんやないですか―――――は?何考えてはるんですか、お市様」
 それはこちらの言葉だ、と市は白い眼をする。
「やっと我に返ったか。……妾は疲れたぞ」
 もちろんその言葉は、どこか休めるところに案内しろ、という意味の要求だった。
 嵐ははっとした様子で、さすがにばつが悪そうに詫びた。
「ああ、すんません。ちいとばかし、考え事してたもんで。どこか、休める店で茶でも飲みましょか」
 我に返ったあとの嵐の動きは、手慣れた風情で無駄が無かった。
 市が腰掛けてもくつろげる程度には品の良い店を探し出し、楽市に溢れる人混みの中を、歩きやすいよう気遣いながらそつなく導いた。
 懐から出した手拭(てぬぐい)を腰掛けに敷くとその上に市を座らせ、若干の距離を置いて自分も腰を下ろす。茶を二人分注文するが、運ばれて来た茶に市は目もくれなかった。
「やれ、疲れた。されど、人の活気は心地好いわ。これが、兄上の創り出そうとしている国の在り様か。―――――悪くない」
 市は通りを見ながら穏やかに評した。
 そんな目でこの往来を見ていたのか、と嵐は意外に思いながら自分の茶を口に運んだ。
「して、そなたら、なにゆえ未だ祝言(しゅうげん)を上げぬのじゃ?」
「―――――」
 今、茶を口から噴き出さなかったのは、日頃から自制心を培っている鍛錬の賜物だと嵐は思った。そして鍛錬を欠かさなかった自分に感謝した。
 ごくり、と慎重に茶を飲み下すと、さりげなさを装いながら訊き返す。
「念の為に伺いますけど、それは俺と若雪どのとのお話ですかね?」
「当然じゃ。他に誰がおる」
 そなたは馬鹿か、と言わんばかりの冷たい眼差しを受けて、嵐は返す言葉を探した。
「―――――若雪どのは、一生嫁ぐことなど無い、お心積(こころづも)りのようですよ」
 我ながら逃げを打つ返答だ、と嵐は言いながら思った。
「………して、その理由が、そなたには解らんのじゃな」
「お市様にはお解りですか?」
 嵐は横に座る市を見遣った。被(かづ)いていた単衣は、今は横に置いてある。
 華やかな面をさらした市のほうを、通りを行き交う男たちがちらちらと見ていた。
 市はふう、と息を吐く。
「愚問じゃ。――――若雪らしいわ。知りたいか、嵐?」
「はい」
「教えぬ」
 間髪入れぬ嵐の返事に、市はにっこりと笑って答えた。
 嵐の顔つきが不穏なものになるが、知らぬ顔をする。
 意地悪ではない。
 これは嵐が、自分で到達しなければならない答えだからだ。
「―――嵐よ」
 市が低い声で呼ばわる。厳かな呼びかけは、信長を彷彿させるものがあった。
「そなた、この世に大切なものがどれ程ある?それらを、たった一つの為にどれ程捨てられる?選ばずとも済む、とは言わせぬぞ。捨てざるを得ぬ、この乱世ゆえに。――――妾はな、叶うことなら若雪のみを選び、共に生き、死にたかった。………若雪の為に、死にたかった。されど、妾にはそれが出来ぬ。姫たちを置き、ただ若雪の為だけに生きるも死ぬるも、妾には許されぬのじゃ。―――――そなたに解ろうか。かような、無念が?この、口惜(くちお)しさが。――――――妾はこの時代の、僕(しもべ)ではない」
 いつもの市とは、どこか人が違ったかのようだった。神妙な口振りで、真摯に紡がれる言葉の奥には、隠し得ぬ憤怒(ふんぬ)とやるせなさがある。とりわけ低く語られた最後の言葉には、底光りしそうな怒りが籠っていた。市の双眼の奥には、揺らめく炎の影があった。その射抜かんばかりの眼差しは、真っ直ぐに空へと向けられている。
 そして嵐は思い至る。
 市は、天に対して怒りを抱いているのだ。若雪と共に在ることを許さぬ、天に対して。
 そして天という大きな器の中には、この時代をも含まれている。
 市の怒気(どき)を和らげんとするかのように、控えめに吹く風がその髪を揺らした。
 市は少し口調を抑えた。厳しかった声音には、ごく僅かにだが諭すような色が加えられる。
「嵐。妾は飛ぶことが叶わぬ身なれど、そなたはいかようにも飛べよう。…例え掌中(しょうちゅう)の珠(たま)を抱いたままであろうと、そなたの飛翔を妨げるものではあるまいぞ。いつまでも選ぶ手前で足踏みしておるようでは、決して若雪を得ることは無かろうよ。――――――心決めた時には、手遅れになるやもしれぬぞ」
 真摯な口振りで話し終えると、独り言のように付け足した。
「…のう、嵐よ。思えば、妾たちは随分と、若雪に囚われておるな………」
 その声はそれまでの厳しさとは打って変わって、吹き過ぎる薫風(くんぷう)のように、あたりの柔らかなものだった。
 けれどその柔らかさに、嵐は何の返答も示さなかった。
 市も、返事を期待してはいないようだった。
市の瞳に悪戯っぽい光が戻った。にやりと笑うと、嵐の顔を覗き込む。
「若雪と出会うこと無く、そなたが今少し早うに生まれておれば、妾はそなたに惚れておったやもな。いや、そなたが妾に惚れておったかな?」
 笑いを含んだ声に、嵐は再度、口に含んだ茶を噴きそうになる。
 今度は茶が喉の変なところに入り、軽くむせてしまった。
(有り得ん…)
 互いの心の中枢に、どこまでも揺らぐことなく若雪がいる二人だからこそ、嵐と市は年齢や身分、性別をも超えた友誼(ゆうぎ)を培(つちか)うことが出来るのだ。
 それを承知した上での、市の軽口だった。 

       二

 さらさらと、優しい雨音が響いていた。
 若雪は店の帳簿を読んでいた目を上げた。
 障子戸を開けて、廊下に立つ。中庭に植わった草木から、濃い水の匂いが発散されているかのようだった。その匂いを深々と吸う。
(万物(ばんぶつ)を育む、天(あま)つ水(みず)……)
 落ちてくる雨粒を受け止めるように右手を伸ばし、天を仰いで考える。
 兵庫も兼久も、なぜあのようなことを言うのだろう。
 今のままでは、自分に出来ることは何も無い。
 嵐に嫁ぐこと、添うことは出来ない。ただ共に、この戦乱を生き抜くだけ――――――。
 唇から吐息のような微笑をふ、と漏らす。それで十分ではないか。
 若雪は俯いて思った。
 彼らは解っていない。
 嵐の恐れが。若雪の恐れが。
 その時、小さな、幼い声が響いた。
「―――母様(かかさま)?」
 若雪は驚いて中庭を見渡した。
 庭に植わった松の木の影から、蘇芳の着物を着た七歳程の女(め)の童(わらわ)がそろり、と出て来た。
 髪を、肩につく程の長さで切り揃えている。同じく真っ直ぐに揃った前髪の、下にある目は大きく、くるりと澄んでいる。愛らしい少女だ。
「母様――――――、見つけた」
 子供はそう言い、嬉しそうに満面の笑みを浮かべて、と、と、と、と小走りに駆けて来ると、細い両腕をいっぱいに広げて、若雪の胸に躊躇(ためら)いなく飛び込んできた。
 反射的に子供を抱き留めて、その温かな感触に若雪は戸惑う。
(なぜここに、こんな子供が?)
 さらさらと降る雨は柔らかいが、そのままでは風邪をひく。
 若雪は慌てて子供を部屋に招き入れた。
 それが二人の出会いだった。

 名を尋ねると、子供は小雨(こさめ)、と名乗った。
 一向宗の門徒であった二親(ふたおや)を亡くしたのち堺に流れ着き、今はたまたま拾ってくれた人の下で働いているという。それを聞いて、若雪の表情に翳りが落ちた。
(一向宗―――――)
 それは、織田信長が成して来た華々しい戦績の、暗部だ。
 一切の躊躇も無く、女子供の弱者に至るまで、信長は一向宗門徒を根絶やしにしようとした。信長を影で援助してきた、今井宗久の養女である自分もまた、その殺戮(さつりく)に手を貸したも同然なのだ。
 信仰に身を捧げる人々を、情け容赦無く踏みにじる信長の在り様は、かねてより神官の家に生まれ育った若雪を慄然(りつぜん)とさせるものがあった。
 それでも若雪は、宗久らと共に、彼に賭けた。
 天下を平(たい)らげる力があると見込んで、信長の冷酷な面を含めて、彼の成す所業全ての清濁(せいだく)を併(あわ)せ呑んだのだ。
(例え天つ水に打たれようと、私の罪が浄められることはあるまい)
 そのことを理解する年頃になれば、小雨は自分を恨むだろうか、と若雪は思いながらその髪を優しく撫でていた。座る若雪の膝にもたれかかったまま、心地好いのか、小雨は身じろぎもせずうっとりと目を細めている。
(世が鎮まれば…)
 若雪は口を引き結んだ。
 信長が天下を平定し、乱世が終着を見たならば、その時には小雨のような子供も減るだろう。
 世が鎮まれば。
 世が鎮まれば―――――――。
 若雪は信長の為に働きながら、その言葉を呪文のように心の内で繰り返していた。
(小野家を襲ったような惨劇は、もうあってはならない。その為にも)
 今も流れているだろう他者の血が報われるよう、祈るばかりだった。
(あと少しで、それも終わる。この、何がどうなってもおかしくはない世の中で、嵐どのや養父上たちを、私の家族を、失くすような恐れも無くなる筈だ。今度こそ、きっと―――――――――――――――)
 果て無き乱世の、終わりが訪れるのだ。
 自分の一生は、それを見届ける為にあるのかもしれない。
 そんなことを考えていた若雪の顔を見る小雨は、あどけない様子で小首を傾げた。
 どこまでも可愛(かわい)らしい仕草だった。 

小雨の顔色が良くないのを見て取った若雪は、雨に打たれて風邪をひいたのかもしれないと思い、志野に相談した。微弱ながら熱もある。
その結果、体調が整うまでは若雪が部屋で面倒を見ることにした。
 そうとなれば、小雨の雇い主には連絡の必要がある。
 しかし小雨は、自らの主人の名前を知らないようだった。
 どうやって中庭にまで入り込んだのか訊いても、「母様がそこにいるって教えてもらったから」の一点張りだった。
「ただの風邪やろうとは思いますけど、何も姫様のお部屋に置かれんでも―――――。奉公人の部屋で、面倒見ますよって」
 若雪は、志野の言葉に対し静かに頭(かぶり)を振った。
 小雨が、若雪を母と慕って離れなかったのだ。若雪がどこへ行くにもあとをついて来た。
 哀れだと思った。
 幼い童(わらべ)が、ただひたすらもういない母親を恋い慕う様が切なかった。
 亡き母を切望する思いは、若雪も身に染みて知っていた。
仮初(かりそ)めでも母親になってやれれば、恐らく子を産むことなく生を終えるであろう自分の、慰めにもなる―――――。
(この先、子を持たぬであろう私の寂しさと、母を亡くしたこの子の寂しさが、きっと呼び合ったのだ。私たちは互いに、心に空いた隙間を埋め合うことが出来る………)
 小雨が「母様」と言って若雪に抱きついて身体を預けて来る時の、得も言われぬ充足感は、若雪の心をしみじみと満たした。
 若雪は数日の間、一切の勤めを一旦棚上げし、小雨の世話にかかりきりで過ごした。
 共に食事をとり、同じ寝床で眠った。
 嵐がその話を聴きつけ、小雨を見ようと若雪の部屋を訪れた時には、小雨の姿は既に邸内のどこにも見当たらなかった。
(――――――行ってしまったのか…)
 若雪は寂しく思ったが、体調が回復して雇い主の下へ戻ったのだろうと考えた。
 仮初めの母娘(おやこ)ごっこが、終わったのだ――――――――。
 若雪の感傷を他所に、嵐の顔つきは穏やかでなかった。
 おもむろに、若雪に問う。
「若雪どの。その小雨とやらに会うた時、善悪探知法(ぜんあくたんちほう)はちゃんとしたんか?」
 善悪探知法とは、神道系の秘言を唱えることによって、対面する相手が自分にとって危険な人間かどうか判(わか)る、というものである。
「神火清明(しんかせいめい)、神水清明、神心(しんしん)清明、神風(しんぷう)清明、善悪応報(ぜんあくおうほう)、清濁相見(せいだくそうけん)」
 この言霊(ことだま)による人間の判別は、嵐と若雪の常であった。とりわけ初対面の相手には、必ずと言って良い程、この探知法の秘言を密やかに口ずさんだ。
「――――いいえ。嵐どの、相手は子供ですよ?」
(女子っちゅうんは、子供に弱いな…)
 どちらかと言えば子供が嫌いな嵐は、醒めた目で思う。
 とりわけ若雪はその傾向が強い気がする。
(―――――――三郎のせいかな……)
 そんなことを考えながらも、嵐は厳しい表情を緩めなかった。
「…何も解らん子供のほうが、かえって性質(たち)が悪い時もある。自分のしてることを、よう理解してへんからな」
 久々に顔を合わせたと思えば、話す内容はこれだ―――――。
 そう思いながらも、嵐は注意深く言った。
「若雪どの―――。自分に近付く人間に、もっと注意せえとあれ程言うてるやろ。あんたは慎重なくせに、相手によってはたまにえらい無防備が過ぎるんや」
 久しぶりに聞く嵐の小言に、若雪は少し笑った。
 小雨を危険な者と捉える考えは未だ若雪には無かったが、自分が気を許した相手には途端に無防備になってしまうことは確かだった。
「今後は気を付けます、嵐どの。ご心配かけてすみませんでした」
「うん。そんならええ」
 神妙に謝る若雪に嵐もそれ以上は言わず、そっと伸ばした手で若雪の髪を軽く撫でた。若雪は初めこそびくり、と身体を揺らしたが、あとは身動きせずに沈黙していた。さらさらとして艶(つや)やかな髪は触り心地が良い。
 髪にあった嵐の手が、嵐本人の意思に反して若雪の白い頬に触れそうに動く。
 指は頬に届くほんの寸前で、静止する。触れぬまま輪郭(りんかく)をなぞるように下降し、それから拳を形作ると、ぎこちなく手は降ろされた。
 若雪は嵐の手の動きをじっと目で追っていたが、何も言わなかった。
 嵐も何も言わず、そのまま踵(きびす)を返した。
 
 巌の赤色(せきしょく)は最早、点滅どころではなく、巌全体を覆うかのようであった。
「ああ………」
 深い悲嘆を窺わせる呻き声を洩らし、彼女は耐え切れずその場にくずおれた。
 それを支え上げる腕に縋り、ようよう顔を上げる。二対の薄青(うすあお)い双眸が視線を結ぶ。
 触れ合いに、互いの温もりは無い。
 神の属する世において、神に確たる肉体は無く、表わす姿は霞のようなものだ。
 温もりを知らぬ神が、人の世を見定めることの疑問を、理の姫はもうずっと前から感じていた。
(知らぬままで、人の嘆きを、祈りを、判じることが出来る筈も無いものを)
「――――水臣」
「はい」
「…私は、彼らを助けたい。だから彼らを助ける為に、あなたの力も貸して欲しい」
「…はい。それは無論」
「そうして私を―――助けて。老翁の中には、全て見捨てよと申す者もいる。……私に疑念を抱く者もいる…。さもあろう。…吹雪は、私の手には余るものなのかもしれない。しかし私は、どうしてもやりおおせなければならないのだ。我らに関わる全ての存在にとって、残された希望はあまりに少ない…。―――――そうであったとしても」
 絶望と希望の混在する闇を切り開き、希望のみを招き寄せようとすることが、果たして可能かどうか――――――――問うよりも先に、動かなくてはならない。
「……申すまでもございません。理の姫様の御身は摂理の壁の為に、我ら花守の身は姫様の為にあるものです。――――けれど姫様がお望みとあらば、壁に仇(あだ)なすこととて、厭(いと)うものではありません。御老翁の言葉などに、お心を悩まされませぬよう」
 ――――明臣は間違っている。
 自分は明臣の心も、嵐の心も解らない訳ではない。解りはしても、その為に揺らぎはしないだけだ。嵐や明臣の心を理解はするが同情はしない。
 それが自分と、彼らの違いだ。
 水臣は自らの冷徹をとうの昔に認めていた。
 理の姫は、水臣にとって尊い光そのものだ。その存在はどこまでも至高だ。
彼女の前では、全ての物事は些末事(さまつじ)に過ぎない。
 問題は、その些末事に関して、彼女が深く拘泥(こうでい)し苦しむことにある。
 自分が動く必要性を、水臣は感じていた。
「水臣」
 至高の存在が彼の名を呼ぶ。どこか忘我の境地にあるような顔だ。
「はい」
「…神とは何だ……。神とは、一体何なのだ―――――…かくも無力な身でありながら」
 
「え?若雪さんは今、寝込んでんの?」
 相変わらず五月雨の降りしきる中、納屋を訪れた茜が嵐に言った。
 今年で二十となるのに、一向に嫁に行く気配も無い。
 容姿のみを見れば愛らしい顔立ちをしており、近付く男もいない訳では無いだろうに、と嵐は冷静に異母妹の佇まいを判じながら答えた。
「ああ。珍しいこともあるもんや。あんな顔立ちで、身体はえらい丈夫なほうなんやけどな。せやからお前、見舞うのはええけどあんま騒々しゅうすな」
「失礼やな。あんたに言われるまでもないわ」
 そう言って茜は嵐の部屋を見渡した。
 自室に他者が入ることをあまり好まない嵐だが、茜は比較的出入り自由だった。
(相変わらず、呆れるくらい整頓された部屋やな)
 嵐は邸内にもう一室、部屋を持っており、その部屋には薬草の束やら山と積まれた書物やらがあるらしいが、起居するこの部屋はちり一つ無い程に片付いていた。
「ほんなら、ちょっと見舞うてくるわ」
 部屋を出る素振りを見せた茜に、嵐が声をかけた。
「――――茜。お前、なんで嫁に行かへんのや?」
 茜が足を止め、嵐を見た。
「お前んとこは、商売もようやっとる。父親は町代(ちょうだい)寄合(よりあい)やし、縁談の一つや二つ、話が来てるやろ」
「……あんたには関係無いやろ」
 嵐は真顔で茜の顔をじっと見ると、一つ息を吐いた。
「智真か」
「―――――」
「……あいつはやめとけ。――――僧侶やからとかやなくて、智真は多分、一生誰も娶(めと)る気は無い」
「若雪さんがおるから?」
 切り込むように茜が言ったので、嵐は驚いた。茜がそれを察しているとは思っていなかった。
(女の勘は、怖いな)
 密かにそう思いつつ、言葉を返す。
「―――せや」
「……けど、若雪さんには嵐がおるやろ?」
「…………」
 どいつもこいつも、と嵐は思う。
 人の気苦労も知らないで、好き勝手なことを言う。向けられる言葉が、なまじ見当違いでもないだけに厄介だった。
「……嵐って、割と遠慮無しに若雪さんの部屋に入るよな。普通は、女子の部屋に入るんは、もっと気い遣いそうなもんやのに。――――――若雪さんを、試してんの?どこまで自分が近付くのを許してくれるか、確かめたいん?」
 嵐はそれには答えず、少し声音を変えて宥(なだ)めるように言った。
「――――――なあ、茜。…俺はな、誰にも、何にも縛られとうはない。死ぬそん時まで、自由に駆け抜けて生きたいんや」
 市には気後れして、言えなかったことだ。
「……若雪さんに縛られとうないって、言うてんの?」
「…ああ」
「若雪さんが、嵐を縛るって、そう思うてんの?」
「………」
 本人にその意思が無くても畢竟(ひっきょう)そうなるだろう、と嵐は考えていた。
 茜は面を伏せて黙り込んだ。
「…あんたがそんなことやから」
「え?」
 茜がくぐもった声で言う言葉を、嵐はよく聞き取れなかった。
 勢い良く、茜が面を上げる。目にはきつく、強い光があった。
「あんたがそんなんやから、若雪さんが一生独り身で通すなんて言うんや。嵐はな、怖いだけやろ。一人の女子に囚われることで、自由を自分から捨てるような気がして怖がってんねや。――――今までに無い、自分に変わることに怖気(おじけ)づいとる。変わっていく自分を認める覚悟が、出来てへんのや。せやないと、若雪さんが嵐を縛るとか、そんな阿呆なことよう思いつかん筈や。あんたは結局、まだ若雪さんを信じられんのやな。―――――――――――――――――――若雪さんが、可哀そう」
 茜は切れ味の良い刃物のような口調で言うだけ言うと、嵐を置き去りにしてさっさと部屋を出て行った。
 残された嵐の顔には、苦いものが浮かんでいた。
 襖(ふすま)を背にしてずるずると座り込む。
 隠してきた、あるいは見ない振りをしてきたあれやらこれやらを、ものの見事に看破(かんぱ)されてしまった気がする。茜に比べると、市はまだしも手心を加えてくれていたということか。女たちの持つ千里眼のような洞察力に、嵐は慄(おのの)いていた。
(あいつももう、子供やないんやな…)
 普段のような言い争いをしているとつい忘れがちになるが、茜は昔から明敏(めいびん)な性質だった。
 実際、嵐は若雪によって変化する自分を恐れていた。若雪は、嵐にとって大事な一人の女子だ。それはもう随分と前から、そうだと自分自身認めるところだった。共に乱世を生きる同志であると同時に、若雪は仄白(ほのじろ)い花びらを纏う花のように、極めて大切な存在だった。歴史に爪痕を残す、という嵐の野心に支障をきたさない限りにおいて、若雪の為に様々な便宜を図った。自分の手が必要かどうかに関わらず、彼女を守ってやりたいと思い、望みを叶えてやりたいとも思った。気付けば、自覚した以上に若雪にのめり込んでいる自分がいた。嵐はそのことに危ういものを感じた。
自分は、若雪に囚われ過ぎてはいないだろうか。
このままでは、己の自由が若雪に奪われるのではないか。
 ――――――――――彼女の存在が、鷹のごとく自由に生きる妨げになるのではないか。
生涯、誰にも嫁がないと言った若雪の真意が、今なら少し解る気がした。
嵐が恐れるものを、若雪も察している。
しかし嵐は未だ、覚悟を決められないままでいた。
床に座り込んだまま、途方に暮れるような思いで、そのままじっとしていた。

「若雪さん、嵐はやめとき!」
「はい?」
部屋に入るなり、憤然とした顔で言い放った茜に、若雪は思わず訊き返した。
「あいつ、とんだ臆病もんやわ。あんな阿呆やとは思わんかった、情けない!」
ひどく腹を立てた様子で尚も言い続ける茜の言葉を、若雪は大人しく聴いていた。
いつもの兄妹喧嘩にしては、茜の腹立ちの度合いが並みではない。
上半身だけを床から起こし、小袖を肩にかけた姿で、若雪は茜が鎮まるのをただ待った。
「若雪さんなら、他にいくらでもええ人がおるやろ。よりによってあんな面倒臭い奴、選ぶことないわ」
若雪には返す言葉が見当たらない。嵐は一体、何をしでかしてこれ程までに茜を怒らせたのだろう。何となく、茜が自分の為に怒ってくれているらしいことだけは解った。
「………嵐どのは、器用そうに見えて案外に不器用なところがおありなのです」
 若雪がそっと口を開くと、茜も心当たりが無いでもない、といった顔で黙った。
「…気ままに生きとるだけや」
 そう言った茜の声には、先程までの勢いが無かった。
「若雪さんも、あいつの半分くらいでええから、もっと身勝手に生きたらええのに」
 その言葉に若雪は軽く笑った。
「――――頑固な性分なのです。我ながら」
 そう簡単には、変えられるものではなかった。
 それに、と続ける。
「私はこれでも、随分と身勝手ですよ。茜どのに、そうと知られていないだけで」
 茜は腑(ふ)に落ちない、という顔をした。
 若雪は微笑を浮かべ、そんな茜を見ていた。

 五月雨の名残りと言わんばかりに激しい雨が降る中、明慶寺の仏殿の隅に敷かれた畳の上で、智真は座禅を組んでいた。外の雨音の激しさが遠く感じ取れはするものの、仏殿の中は森閑(しんかん)とした空気に満ちていた。それは智真自身が、雨音から遠い境地に心を浮遊させているからかもしれない。激しい雨音からさえも遠く離れて、智真の心はひたすら虚となっていた。
 随分と長い時間を、そうとは気付かぬままその姿勢で過ごし、うっすらと目を開ける。
 今後の身の在り様について、智真にはこのところ考えていることがあった。
 恐らくそれを打ち明ければ、嵐も若雪も反対して智真を止めるだろう。自分でさえ未だ決心するまでには至っていない考えだ。
 けれどその道を選ぶことが、智真には最善の道と思えた。その為に自分は明慶寺へと来たようにも思えるのだった。
(それが私の、踏み出す一歩になるやろう)
 そう考えていた。
 仏殿の入口付近で雨音とは異なる物音を聞いた気がして、視線をそちらに向ける。
そして瞠目(どうもく)した。
 いつから立っていたのか、仏殿入口より外の、雨が降りしきる中に兼久の姿があった。
 全身が水を被ったように濡れている。この雨の中、傘も差さずにいたのでは無理も無い。
 その様相は、まるで幽鬼(ゆうき)のようでもあった。
「兼久どの――――――」
 どないしはったんですか、と智真が続けようとしたが、それより先に、伏せていた面を上げて兼久が口を開いた。静かな声は、しかし雨音にも負けること無く智真の耳に届いた。
「智真…。頼みがある」

       三

「さても忌々しきは信長よ。彼奴(あやつ)め、どこまで図に乗りおるか」
「やはり鳥取城(とっとりじょう)開城は、痛かったな」
「兵糧攻(ひょうろうぜ)めの末、よく保ったとは思うが――――――――」
「羽柴何某(はしばなにがし)とやら、何とか討ち取り意趣(いしゅ)を返したいものよの」
「ともかく我ら、輝元様をお支えするのみ。むざむざと、織田に敗れてなるものか」
 
 毛利家中の重臣たちが交わすこれらの会話を、嵐は彼らの床下より聴き取っていた。
 床下隠れと呼ばれる忍びの基本の術の一つだが、正確に会話を聴き取れる代わり、地を這(は)いずり回る様々な虫に耐えねばならず、好き好んで行うものではなかった。勤めとあらば止むを得ず、という意識の切り替えを嵐は心がけた。この間は食糧も満足に得られない為、持参した飢渇(きかつ)丸(がん)を飲み下す。
 中々進まない中国攻略に焦(じ)れて、他の七忍にばかり任せておくことが出来ず、自ら毛利氏の領地に赴いた嵐だったが、労苦の割にあまり益のある情報は得られなかった。
(結局、無駄な足掻きをまだまだ続けるっちゅう訳や。――――人死にが増える一方やな)
 会話に出て来た鳥取城の兵糧攻めの言葉に、嵐は眉を顰めた。
 羽柴秀吉(はしばひでよし)が攻めた鳥取城においては、およそ四ヶ月に及ぶ兵糧攻めの末、城内は味方が共に人肉を喰らい合う光景、地獄絵図もさながらであったと聞く。修羅場を見慣れた嵐であっても、現状に立ち会わなかったことを幸いと思わずにはいられなかった。
 
 季節は天正九(1581)年の霜月に移っていた。
 神無月のころより安芸(あき)国の毛利輝元(もうりてるもと)の居城・吉田郡山城(よしだこおりやまじょう)に潜入していた嵐だったが、そろそろ引き上げ時だと考えていた。
 有益な情報を得ることは叶わないままだが、敵地に長居は無用だ。
 人目を避けて床下より這い出て、城外に出ようとしたその時――――――。
「待て、そこの。どこへ行く」
 カチャカチャと具足の音を響かせながら近くを見回っていた兵の一人に、見咎(みとが)められた。嵐は足軽の扮装をしていた。
 胸の中で舌打ちする。
背を屈(かが)めて、いかにも百姓上がり、といった風体(ふうてい)を装い答えた。
「はあ、見張りの手伝いをするように、言われましたけん」
 相手の身に着けている胴と袖が、松明(たいまつ)の明かりを照り返して光っている。その身なりから判断するにただの下(した)っ端(ぱ)ではない。適当にあしらう訳にもいかず、面倒だった。
「…見ない顔だが、誰の家中の者か」
「はあ、吉川のお殿様のぉ、ご家来の、そのまたご家来の太田様に仕えとります」
「元春様の?左様か…。ふむ、行け」
「はあ」
 毛利輝元の叔父・吉川元春(きっかわもとはる)の名を出し、その場を立ち去ろうとした嵐に、再び声がかかった。
「もしや太田とやらは、佐原田どのの配下か?」
「―――――はあ」
 嵐は足を止め、一拍置いてから答えた。
 鎌をかけられた、と感じた瞬間、この状況を穏便(おんびん)に遣り過ごすことを、嵐は断念していた。相手が刀の柄に手をかけるよりも早く、動く。
 振り向きざま、腰に差していた刀を抜き放ち、高々とした跳躍と共に相手の頭上から一刀の下に切り下げた。

兵士を斬ったのち、嵐は疾風(しっぷう)のごとく駆けた。先に仕掛けておいた、小さな爆竹を紐と火縄で連結させた百雷銃に、素早く火をつけ轟音(ごうおん)を起こす。敵兵の群れが現れたかのような錯覚に陥った毛利兵が、そこに殺到(さっとう)した。その隙に自分はその反対方向から、敵の陣中を突っ切るようにして逃げた。逃げるついでに後ろに鉄菱(てつびし)もばら撒いておく。これを菱撒(ひしま)き退(の)きと言う。予め退路を確保し、このように忍術を駆使はしたものの、強行突破だったことに違いは無く、無傷という訳にもいかなかった。左肩に矢傷(やきず)を負いながら、その三日後になんとか堺に帰着するに至った。
 逃げる間に多くの人間を斬った為、刀は今やなまくら同然に成り果てている。
 荒い息を吐きながら夜も更けたころに納屋の裏口の門を開けて邸内に入り、自分でとりあえずの傷の手当を施すと、そのまま泥のように深い眠りに落ちた。

 夢の中に、桜が舞っていた。
 ひらり、はらり、と幾枚もの花びらが足元に落ちる。
 目を遣る先には、打掛を纏った若雪の後ろ姿がある。
 花びらは、若雪の黒髪に戯れかかるように、舞い、滑り落ちる。
 その光景はまさに、夢幻(ゆめまぼろし)の美しさだ。
 若雪が、嵐に別れを告げるように、ゆっくりと振り返る。
 その双眸に宿る悲しみに、嵐の胸までが痛む。
 そんなに悲しいのなら行かなければ良いのに、と思う。
 ずっと自分の傍にいれば良いのに、と手を伸ばす――――――。
しかし手が届くよりも先に、若雪は前に向き直る。
 そして、淡い桜色の霞の彼方へと、消えて行く。
 嵐は一人で、残される――――――――。

目が覚めたのは、嵐には極めて稀なことに翌日の昼頃だった。
血と、汗や垢(あか)の混じった臭(にお)いが、つんと鼻についた。
(ああ、臭(くさ)いな。誰の臭(にお)いや……。…俺か)
 基本的に、忍びに体臭はご法度である。加えて嗅覚は敏感に出来ている。どうしてこんな在り様になってる、と嵐は寝惚(ねぼ)けた頭で考えて、横に座る若雪に気付き驚いた。
 心許無い顔つきで嵐を見ている。
 柳眉(りゅうび)を、顰めていた。
 元々儚げな顔つきが、今においては露を含む花の風情だ。
(……夢の続き、やないよな。――――…なんで、そんな顔……)
 彼女が悲しみを露わにした顔を見るのは、随分と久しぶりな気がする。
(あれ…。俺、またなんかやらかしたか?)
 若雪を悲しませるような言葉を、吐いたりしただろうか。
 一瞬、嵐は記憶が混乱し、今がいつで、自分がどこにいるのか忘れた。
 目を、右に左に動かす。
 左肩が痛い。
「…嵐どの。傷は、痛みますか」
 自分のほうが怪我を負っているかのような、憂いある声で若雪に尋ねられ、やっと毛利の領地より堺に戻って来たことを思い出した。極度に疲労していた為、傷の手当をして身に着けていた物だけをかろうじて袷(あわせ)に着替えると、そのあとは身体を拭うことも無く寝入ってしまったのだ。それでこの悪臭(あくしゅう)か、と自分で納得した。転がしてあるボロボロになった足軽の装束は、左肩の箇所が裂けて血が滲(にじ)んでいる。これで若雪にも怪我が知れたのだろう。 
それから、少しの良心の呵責(かしゃく)も無く嘘をついた。
「いや?」
 言葉を裏付けるように半身を起こして見せたが、やはり傷は痛んだ。
 表情には出ていない筈だったが、若雪の顔の曇りは晴れない。
若雪は、嵐が毛利の本拠地まで赴くことを、危険過ぎると言って反対していた。しかし言っても聞かないのが嵐だった。家人の一人も起こさないように邸内に戻ったつもりだったが、若雪はなぜか嵐の帰着を察知したようだ。それだけ心配して、嵐が戻る気配を見逃すまいとしていたのだろう。昔から気配には敏(びん)だった。
「―――――若雪どの。それ以上、俺に近寄るんやないで」
 言いながらじり、じり、と嵐は若雪から距離を取った。清涼な佇まいの若雪に、この悲惨な体臭に気付いて欲しくも、馴染んで欲しくもなかった。
(床下隠れの術は、これがあるから厄介やな…)
 ただでさえ臭いのつきやすい忍術であるのに、今回は多量の血の臭いまで加わっている。
 自ら進んで敵地に赴いた以上、自業自得ではあった。
 若雪は、瞬きして、聴いた言葉が理解出来ない様子だった。
「……身体拭うさかい、人、呼んでくれんか」
 視線を合わさずに言う嵐の言葉を訊いて、ようやく得心したようで、「少々お待ちください」、と言うと部屋をあとにした。

 嵐はとりあえず、一晩で体臭の滲み付いてしまった夜着を脱ぎ捨てた。それから身体の隅々まで、家人が運んでくれた湯で絞った布で、しつこいまでに拭き上げる。仕上げに、傷の痛みをこらえつつ髪まで洗い、いつもの上衣・袴に着替えた。そうしてやっと落ち着いたところで、再び若雪が部屋を訪ねて来た。このまま部屋にいても良いかと尋ねるので、嵐は首をひねりつつも頷いた。―――――身なりはもう整えた。臭いも全て落とした筈だ。
「のちほど、お医者様が来てくださるそうです。きちんと手当を、お受けください」
 そう言って若雪は少しだけ咳(せ)き込んだ。そして、嵐がかきこむように勢い良く昼餉をとる間自分も隣で昼餉をとり、そのあとも、ずっと傍らを離れなかった。
そもそも、若雪が嵐の部屋を訪れること自体珍しい。
 嵐が滅多に手傷など負わない分、若雪が過剰に心配しているのだということが察せられた。親猫のあとをついて離れない仔(こ)猫(ねこ)のようで、妙にいじましいものがある。
(――――怪我の功名)
 そんな言葉が頭に浮かんだ嵐だったが、若雪の顔色が悪いことが気になった。
 そう言えば先程、咳き込んでもいた。
「若雪どの、風邪はもう治ったよな?」
 若雪はきょとんとした顔で答えた。
「はい」
 それもその筈、風邪をひいて若雪が寝込んでいたのは、もう随分前、五月雨の降る皐月のころだ。あれから半年程が経過している。
「―――――医者が来る、言うたな。念の為、若雪どのも診てもらえ」
 若雪は不思議そうに少しばかり首を傾げたが、細かい嵐の言うことと思い、素直に頷いた。
「はい」
 嵐の胸に、何かがざわつくような、嫌な予感がした。
 今の若雪が示すような症状の出る病気を、嵐はかつて目(ま)の当(あ)たりにしたことがあった。

「ふむ。あんたはお若いことやし、この程度の傷、治るんに大して時間もかからしませんやろ」
 嵐の肩の傷は意外に深く抉(えぐ)れていたが、一瞥(いちべつ)した医者はあっさり言ってのけた。薬を塗り、傷口に布を巻きつけると、仕上げとばかりにその上から傷口をぺちり、と叩いた。嵐は表情一つ変えなかったが、心の中では呻き声を上げた。
(こんにゃろう―――――)
宗久と昵懇(じっこん)のこの医者は、まだ嵐の幼い時分からその傷の手当をすることに慣れており、若雪が初めて堺に来て倒れた折も呼ばれていた。当然、嵐の忍びとしての顔も承知している。その手当は容赦無いが、いつも的確だ。
「俺の傷はどうでもええわ。あんた、若雪どのを先に診たよな?どうや?あれは、ただの風邪か?」
 嵐が、脱いでいた上衣の袖に腕を通しながら性急に尋ねた。
 荒療治にも声を上げない嵐を、面白くなさそうに見ていた医者の表情が僅かに変化する。
 こんな顔を見たことがある、と嵐は思った。
告げるに気の進まない事実を知っている人間のそれだ。
嵐の中で、不安が一気に膨れ上がった。
「……その話は、宗久さんと一緒に聞いてもらいましょか」

「――――――――労咳(ろうがい)?」
 客間の一室で、宗久が、医者の告げた若雪の病名を繰り返した。
 顔色は変えないものの、表情は唖然(あぜん)としている。
「……は、そない阿呆な。…まさか……………。……間違い、ないんか―――――――」
 一瞬浮かせた腰を下ろし、押し黙ったのち、唸(うな)るように念を押す。
「………残念ながら。肺を、患(わずら)ってはります」
 医者が嘆息して答えた。
 労咳は現代で言うところの結核で、当時は、罹(かか)ると死は免れないもの、という意識が強かった。若雪は、肺結核という見立てを受けたのだ。
「どんくらい―――、」
 進行具合を訊こうとしたのか余命を訊こうとしたのか、宗久はそれだけ言うと続きを口にしなかった。
「まだ発病してそないに経ってませんな。とにかく大人しゅう養生させることです。すぐにどうこうなるような、病気やありません」
 この医者にしては遠慮した物言いだった。
「なんで病に罹(かか)った?」
 嵐が静かな声で尋ねた。傍目には冷静そのものに見える嵐に、医者が目を向ける。
「……それは儂には何とも。あんさんらのほうが、察しやすい筈や。近くに労咳の人間がおって、それでうつったいうことなら判りやすいけどな。この納屋に限って、そないなことは無いやろ」
 労咳の人間がいれば、すぐに暇を出されるなり何なりする筈だ。労咳は発病してしまえば、その特徴からそうと知られやすい。
「なんぞ、お心当たりは無いんかいな」
 医者にそう尋ねられたが、二人に答えられることは何も無かった。

「儂が、無理をさせたのかもしれん」
 医者が帰ったのち、宗久が言った。文机の上に置かれた右の拳は、固く握られている。
「若雪が根を詰める性分やと知っとったのに、商いの手伝いもさせてたし、石見との遣り取りも任せとった。――――――弱音を吐かん若雪に、甘えてたんや」
 首を振りながら自らを責める宗久の声は、後悔の念に満ちていた。
「あれの両親に、なんて詫びたらええ。こんなことになるんやったら―――――――」
 その続きは言葉にならないようだった。
 嵐が穏やかな声で、諭すようにそれを否定した。
「叔父上のせいとちゃいますよ。若雪どのは、俺と違うて人を甘えさせてしまうんが上手なお人ですからね。尤も、それで病になってたらなんもならしませんけど」
 まるで若雪を突き放す口振りで淡々と話す甥を、宗久は不思議なものを見る目で見た。若雪が労咳と聞いて、誰よりもまず先に狼狽(うろた)えそうなのが嵐だと思っていたからだ。
「ええですか、叔父上。労咳に罹れば、必ず死ぬとは限りません。肝心なんは医者が言うたように、精のつくもんを食べて、大人しゅう横になって体力を保たせることです。それから、――――――周りの人間が揺らいだらあきません。誰より不安なんは、病に罹った当人です。周囲が悲嘆に暮れて病人に接したかて、病人の心身に負担をかけこそすれ、いっこもええことあらしません。叔父上は普段通り、どっしり構えとってください」
 嵐の落ち着いた言葉を聞き、宗久も腹が据わったようだ。一度、二度、と深く頷いた。
「…お前の言う通りや。これまで若雪に支えられたぶん、今度は儂らが若雪を支えらなあかんねやな。―――労咳なんぞ、弾き飛ばしたる」
 低く言い放たれた最後の言葉はいかにも嵐の言いそうなことで、嵐と宗久の間の、血の繋がりを感じさせるものだった。
 嵐は叔父の言葉に微笑んで頷くと、部屋を出て行った。
 
無表情で自室に辿り着いた嵐は、中に入ると後(うし)ろ手(で)に障子戸を閉めた。
〝周りの人間が揺らいだらあきません〟
〝普段通り、どっしり構えとってください〟
「――――どの口が、それを言う」
 低い声がこぼれ落ちた。
〝心決めた時には、手遅れになるやもしれぬぞ〟
 市の言葉が、今更ながら胸に刺さる。
 胡坐をかいて部屋の中央に座り込むと、右の握り拳を、床板めがけて躊躇なく振り下ろした。
 ダン、という激しく鈍い音が部屋全体を震わせた。
「―――――くそったれ………っ!」

 平静な顔を繕える程度に落ち着いてから、嵐は若雪の部屋を訪れた。
 志野が、若雪の横で声も無く泣いていた。
 整えられた床(とこ)から、横たわった若雪がそれを困った顔で見上げている。
成す術が無いという感じで、途方に暮れているようだ。
「志野…。気持ちは解るけど、病人の前で涙はようない」
 志野がキッと顔を上げる。
「せやかて嵐様―――――――」
 それだけを言うと、また泣き始める。
 暫くそのままにさせてから、嵐はゆっくり口を開いた。
「俺は今から若雪どのに話があるさかい、お前は夕餉の支度にでもとりかかってくれ。若雪どのには、精のつくもんを食べてもらわなあかん」
 言いながら、ポンポン、と志野の肩を宥(なだ)めるように柔らかく叩く。
 嵐が冷静に話すのを聞いて、志野も我に返ったらしく、その言葉に沿うべく若雪の部屋を出て厨へと向かった。
 二人になった室内は、静かだった。
 嵐が無言で若雪を見つめる。
 若雪は、半身を起こし、そんな嵐に尋ねた。
「傷の具合は、いかがでしたか?」
 開口一番、若雪が口にしたのはその問いだった。
 嵐は両手を広げ、打掛を若雪の肩に羽織らせてやりながら答える。そうすることで、肩の傷は騒ぐ程のものではないのだと、若雪に印象付けようとした。
「………大したことない。医者もそう言うてた。俺はこの程度の怪我には慣れとるし、問題無いわ」
 問題なのは、若雪のほうだ。
「そうですか。……良かった…。軽いと感じる傷であっても、侮(あなど)るとあとが怖いですから」
 若雪はほっとしたようにそう呟いた。経験ありげな口振りだった。
 二人の間に沈黙が落ちた。
先に若雪が、ぎこちなく話を切り出した。
「人生とは全く…―――――、何が起こるかわからないものですね」
 驚きました、とあくまでも軽い口調で言う。別にある本心を、隠そうとしている様子が感じられた。若雪は病を宣告された動揺を、嵐に悟られまいとしていた。
 嵐は黙っている。
「嵐どのが、お医者に診てもらうことを勧めてくださったおかげで、私は残された時を少し永らえることが出来たと思います。…誰かにうつしてしまう前に、判(わか)って良かった。……それだけは本当に幸いでした。ありがとうございます」
 どこか上滑(うわすべ)りな物言いの中で、その一点は、実際心から安堵していることが、声の響きから窺えた。平静を装う口調の中で、若雪の本当の思いが見え隠れする。
 嵐は黙っている。
「けれど……、」
 若雪は言い差して少し間を置いた。目は、夜具の一点を見つめている。
「けれどこの在り様では、私は嵐どののお役にも、養父上のお役にも、もう立てませんね。…皆を守ることも出来ない……」
 最後は寂しげな口振りだった。微笑を作り損ねた唇が、歪んでいる。
「―――――なんで泣かんねや?若雪どの。泣きたい筈や。まだ…、死にとうない筈や」
 とうとう嵐が発した言葉に、若雪は笑顔になりきれていない表情を硬直させた。
「………泣いて、何が変わるというのです。嵐どのを、困らせるだけでしょう。そんな真似をするつもりはありません」
 その言葉が終わらない内に、若雪は気が付けば嵐に抱きすくめられていた。反射的にもがいたのは最初の内だけで、若雪は恐る恐る嵐に身体を預けた。嵐の心の臓の音が聴こえる。生きている、という確かな証だ。
(私は今、嵐どのの腕の中にいる――――)
 それは嬉しいことの筈なのに、若雪は悲しかった。今という時間が、もうすぐ嵐の温もりを失うからこその、奇跡の時と察したからだ。残された時間が短いゆえの、幸福というものがこの世にはあるのかと、若雪はまざまざと感じた。
 何と刹那(せつな)の幸福か。
 嵐の腕と、胸の温もりに、若雪は陶然(とうぜん)となった。
 知ってしまっては離れがたくなる温もりだった。
 顔を押し当てた嵐の衣からは、取り立てて何の匂いもしない。ほんの微かに、清潔な布と陽の匂いがするだけだ。生業上、そう心がけているのだ。それはいかにも嵐らしく、そんな場合でも無いのに、なんだか可笑(おか)しくなって若雪は少し笑ってしまった。嵐は、どんな時でも嵐なのだと思った。笑った拍子に、涙の粒が転がり落ちた。素っ気無い嵐の衣服の在り様でさえ、今の若雪には愛おしいものに思えた。
 何も言わないが、嵐の腕の力は渾身(こんしん)のものではない気がした。腕に籠める力を、慎重に加減している気配を感じる。
 若雪の身を、気遣っているのだ。
 そうと悟った時、若雪は嵐にしがみついて泣いていた。
「嘘だと、思ったんです……っ」
「うん」
「――――そんな筈無いって、思ったんです!」
「うん」
「けど――――けれど、母様たちが死んだ時と同じで、嘘でも、夢でもなかっ………、」
「――――うん」
(―――私は―――――――、まだ生きたい―――――。生きていたい。乱世の果てる時を見たい。この目で、嵐どのの傍で―――――――)
 その願いが叶うなら、どんなに不可能なことでも、自分の持てる全ての力できっと可能に変えてみせる。神仏がそれを課すというなら、過酷な試練でも耐えてみせる。
 例え大きな歴史のうねりから見た自分の命が、いつか散らした露のごとく儚いものだとしても。
(今、これより先の生が欲しい)
 若雪は、生まれて初めて渇望(かつぼう)を知った。
「…大丈夫や。俺がなんとかしたる」
 腕の中で若雪がむせび泣く気配を感じながら、嵐はいつまでも彼女を離そうとしなかった。

 それからの若雪は、病という難敵との戦いの日々を送ることになった。
 有言実行を宗(むね)とする嵐は、その戦いにおいて若雪の最も近くで、頼もしくも口うるさい味方となった。宗久は、納屋の内における、若雪の病に関する権限の全てを嵐に委ねた。
 一日に読む書物は二冊までに限り、一日三食は必ず食べ、よく寝ること。
そして――――――勤めの類は一切合財(いっさいがっさい)差し控えること。
 以上のことを、とにかく嵐は徹底的に、若雪に対して厳命した。
 嵐が若雪に説教めいたことを言う回数は、このところ随分と減っていたのだが、病をきっかけにして以前の倍以上にもなりそうな小言が賑(にぎ)やかにも復活し、あれをするな、これをしろと、雪崩(なだれ)のように若雪に振りかかることとなった。
嵐の厳命を後ろで聞いていた医者は、呆けたような顔をするとさっさと若雪の診察を済ませ、「これなら儂の口出しはいらんわな。…まあ、また来るわ」と言い、後ろ頭を掻きながら帰って行った。若雪の労咳であることが発覚してのち、感染の源を調べる為にも、日を改めて、嵐や宗久、納屋の奉公人から馴染みの出入り業者に至るまで、可能な限りの人間が嵐の采配(さいはい)により医者の診察を受けた。しかし労咳の見立てを受けた者は、若雪を除いて一人もいなかった。
手持無沙汰(てもちぶさた)そうな医者が帰ったのちは、店の帳簿関係はもちろん、諸国の情勢を知る為の文の数々、銀山関係の遣り取りの文に至るまで、そのほとんどを若雪は嵐に没収された。
それらが手元にあれば、若雪が時間を忘れてつい読み耽(ふけ)ってしまうことを、嵐は先刻(せんこく)承知しているのだ。若雪から病を遠ざける為の嵐のこうした徹底ぶりは、これまでの毎日を、勤めを果たすことに費やして過ごしてきた若雪には、無情にも感じられる程だった。
けれど若雪は、そんな無情が吹いて飛ぶ程の言葉を、嵐から貰っていた。
〝俺がなんとかしたる〟
 若雪は、今まで何でも自力で成し遂げようとしてきた。そうして事実成し得た物事も多かったが、大事な節目には、決まったように嵐の助力があることが多かった。けれどそれも、あくまで若雪が主体で、嵐は一歩引いたところから少しだけ、手を差し伸べる程度のものだった。嵐は嵐なりに若雪の力を信頼していたし、その意思を尊重してもいた。過剰な助けは双方の為にならないと考えていたようだ。
 今回のように、嵐がどこまでも前面に出て、若雪を助けると宣言したのは初めてだった。
(……常に勤めにお忙しい嵐どのが、その全てを投げ打って私の為に動いてくださっている。…それだけで十分、私は果報者ではないか)
 嵐の言葉を胸の内で何度も反芻(はんすう)しながら、身体を巡る血が、踊るように熱く脈打つのを若雪は感じた。そうしていると病や死への恐怖すら、少し薄らぐようでもあった。
嵐による諸々の差配が済んだのちは、どちらにしろ、若雪は寝ているより他は無かった。 
(まるで子供のころに帰ったようだ…)
 保護され、何くれとなく世話を焼かれる。
 出雲で、御師として両親に同行するようになる以前、若雪はまだそれ程丈夫ではなく、たまに熱を出しては寝込んだ。
 母の若水は、御師として夫に同行する為、中々娘を看病してやることが出来なかった。そんな時は、兄である太郎と次郎が、若雪を看病する役割を奪い合っていた。結局、一
日交代で看病することにして、双方妥協していたようだった。
 若雪は、暇に任せて色々な昔のことを思い出していた。

宍道湖(しんじこ)から望む朝日。
松江に沈む夕日。
出雲大社の屋根に積もったまっさらな雪。
神域を吹き渡る、静かな風の匂い。
社を守るように立つ木々の、濃い緑。

思い浮かべていると目に涙が満ちて来て、はっとした。
(―――――私はもう、今井若雪でしかないのに)
例え置いて来たものであったとしても、やはり郷愁の念は絶ち難いものがある。
 それから――――――忘れられない、兄たちの笑顔―――――――――。
 出雲の地で、兄弟と共に育んだ温かな絆は、決して忘れることなど出来ない。一生、若
雪が生きている限り、胸の奥で大切に抱き続ける。
(兄様…もしも今、お会い出来たなら―――――――)
 若雪は、何事も無く成長していたらそのようになっただろう、と想像する兄弟たちの姿
を思い描いてみた。
(太郎兄には、大人しくしていろと念を押して言い聞かされそうだ。そうして、きつくは
ないか、食べたいものは無いかと忙しく訊いてこられるのが太郎兄だ。少し…、嵐どのと
似ているかもしれない。次郎兄は悲しみをあまり顔に出さない。他愛も無い話をして、私
の気が紛れるように気を使われる。………三郎はどうだろう。あの子は、どんな大人に育
っただろう…。同じ年でも、嵐どのとは全く気性が違うし、よく解らないな…。きっと頼
もしい大人に、なったには違いないだろうけれど)
 そんなことを考えたりもした。
 今の若雪は目の前にいきなりポンと放り出された空白の時間にただ戸惑っていた。
 そうした時間の扱いは、若雪には物慣れないものだった。
 熱がほんのりとあるのは自分でも判っていた。時折、咳き込みもする。
 しかし、そのように自覚症状はあるものの、一日をただ寝てやり過ごすことは思った以上に骨で、若雪は意味も無くゴロンゴロンと何度も寝返りを打った。
 嵐は嵐で、薬湯を作ったり延命法の呪術を調べたりで忙しいらしく、中々若雪の部屋を訪れる暇が無かったが、日に一度は必ず顔を見せた。それは見舞いの為と言うより、暇を持て余した若雪が、万一にも床を抜け出したりすることの無いよう、目を光らせる為のようであり、まるで目付役(めつけやく)だった。

 そんな折、智真が納屋を訪れた。初冬が厳しい顔を見せ始める、冷たい風の吹く日の昼頃だった。
「珍しいな、お前がうちに来るて」
 納屋の家人に、丁寧な態度で嵐の部屋まで案内されて来た智真に向かって、嵐が言った。
 その部屋は、元々嵐が起居する部屋とは別の、調べものや薬湯づくりなどの作業を行う為の部屋だった。智真には名前も解らない様々な野草の束が幾つも棚に並び、書物は部屋のあちこちで山を築いていた。
ちり一つ無いような、起居する為のほうの部屋とは雲泥(うんでい)の違いである。
忍びと陰陽師を兼任するように、嵐は居場所においても全く異なる在り様の空間の二つを使い分けて過ごしていた。嵐のこうした感覚の切り替えの潔さは、いつも智真を感心させる。最近では、一日の多くを嵐はこの部屋で過ごしていた。
「―――――若雪どのの話を聞いたんや」
「ああ―――――…」
 そういえばこのところ色々と余裕が無く、明慶寺へも赴かずに智真への報告をすっかり失念していた。
 珍しく智真が険しい顔をしているのは、そのせいもあるのだろう。
「…すまん。忘れてた」
 あまり悪びれる様子も無く言った嵐に、智真は一つ息を吐いた。
 それどころではなかったのだ、と嵐の顔には書いてある。
 解らないでもないが自分に対してあまりに不義理ではないか、と智真は少なからず嵐を責める思いだった。 
先だって、宗久が自らの足で明慶寺を訪れ、住持に、若雪の病平癒(やまいへいゆ)を祈る為に喜捨(きしゃ)をしたいと申し出た。御仏への寄付によって功徳(くどく)を積み、若雪の回復を願うという意思の表れだ。
その際、智真も住持の傍らに控え話を聴いていた。若雪が労咳を患っている、と耳にした当初は何かの間違いではないか、と疑う思いで、智真はまじまじと宗久の顔を窺った。
宗久の顔は、厳しく、重いものを漂わせていた。そもそも、事実と異なる軽はずみな言葉を口にするような宗久ではない。解っていた筈だが、認めたくなかったのだ。智真は、若雪の病が紛れもない事実だと悟らざるを得なかった。
 今でもまだ、若雪が労咳であることの実感は薄い。
 遠からず、若雪が智真の生涯から姿を消すかもしれない、ということが上手く呑み込めないでいる。
 恐らくそれは嵐も同じだろう、と思った。
「…―――具合は?」
「良からず、悪しからず、やな。元々長丁場(ながちょうば)の病や」
「……思うてたよりも平気そうやな」
 嵐が厳しい顔で首を振る。
「油断はあかん。少しの無理でも、症状が一気に悪化することかてあるんや」
「いや、若雪どのやのうて、お前の話や」
 嵐が冷静な顔の中、虚を突かれたように、目だけを智真に向けて動かした。
「――――そう、見えるか」
「一見な。お前は、自分の心を覆い隠すんが上手いさかい」
 手にしていた書物をばさりと棚に置いて、嵐は黙ったのちに言った。
「智真――――。俺は今、自分が薬湯の調合に長(た)けてて良かったて思うとる。呪術にも詳しゅうて、良かったて思うとる。……節操無しに知識を食い散らかして、損は無いもんやな」
「…ああ、せやな」
「なんか、若雪どのの病を治す手立ての為に没頭してへんと、……怖(こわ)あてな。…我ながら、驚くわ」
 語尾に向かう程、笑い混じりの声は小さくなっていった。
 嵐は、今の表情を智真に見せまいとして顔を背けた。
「……あんなに、若雪どのに縛られるんを恐れてたいうのにな。若雪どのが生きとってこその自由なんやと、…今になって気付いた…。こんな、突拍子もないことになるやなんて、思いもせんかったんや。……俺も大概、阿呆やな。若雪どのがおらんようなったら、縛るも縛らんもない。きっと――――自由どころか、俺にはなんも残らへん」
 気位の高い嵐が弱音を吐露(とろ)するのは、極めて稀なことだった。
 智真は眉根を寄せて、心持ち俯く。
 嵐が今最も恐れるものは何か、問うまでもなかった。

「智真どの」
 部屋を訪れた智真を見て、若雪はふわりと口元をほころばせた。
 すぐに床から身を起こす。
 その優しげな笑顔は、いつもより軽やかなくらいなのに、と智真は思う。
後ろにいた嵐が、少しむっとした顔をする。その顔のままで、綿入りの小袖しか着ていない若雪の肩に、甲斐甲斐(かいがい)しくもう一枚小袖を羽織らせる。羽織らせつつ、身体を冷やすな、と釘を刺すのも忘れない。部屋は早くも火鉢(ひばち)で暖められているが、油断は出来ない。
 暇で仕方の無い時間を辛抱強く過ごしていた若雪にとって、智真と嵐、連れ立っての訪れは非常に喜ばしいものだった。
 いつもの穏やかさで智真が声をかける。
「お見舞いに、伺いました。若雪どの。思うたよりもお元気そうで、何よりです」
「ありがとうございます。本当は、少しくらい起きても構わないと私は思うのですが――――――――」
 若雪はそう言って、智真の向こう隣りに座した嵐をちらりと見る。
「あかんで、若雪どの。病をなめんな」
 若雪の視線の意図するところを察し、嵐はぴしゃりと叱る口調で言った。
 若雪が項垂(うなだ)れる。
「はい……。すみません」
 智真が笑いながら言った。
「嵐はまるで、口うるさい医者みたいになってますね。言うことをちゃんと聞かんと、がみがみ言われますよ。お暇な気持ちは解りますけど、若雪どのは今までが少(すこ)うし忙し過ぎたんやと思うて、大人しゅう養生してください」
「…はい。……ところであの、智真どのは、今日はどのくらいこちらにおられるのですか」
 上目遣(うわめづか)いに尋ねる様子は、まるで子供のようだ。
 若雪らしからぬ発言と仕草に、智真は少し驚いた。
 普段の若雪は、落ち着きと理性の中で冷静にものを言う。その在り様が今はすっかりなりをひそめている。
 暇は人を変えるものだと、智真は同情混じりにしみじみ思った。
 体調が悪いと気鬱(きうつ)にもなりやすい。ずっと一人で横になっていると、人恋しさも募るのだろう。智真としては、可能な限り傍にいてやりたいところだ。けれど隣に座る男がそれを歓迎するかと言うと、それはまた別問題だった。
「そうですねえ」
 言って、嵐の顔を横目で見る。見事な仏頂面である。
 ほんまにこいつは、と思う。こういった場面では、やたらと心情が面に出る男なのだ。
「……嵐、お前このあと時間は取れるんか」
「―――――まだ目を通さなあかん書物がある。密教系の祈祷(きとう)法を、今調べてんねや」
 若雪を生き永らえさせる為の命(めい)続祈祷(ぞくきとう)だ。
 それが重要な調べものだということは、智真にも解る。
 しかし。
 ここは予定を変えてでも時間は取れると答えんかい、阿呆、と心の中で智真は毒づいた。
 基本的には穏やかな気性の智真だが、今の嵐の、察しの悪い物言いには腹が立った。
 普段はもっと、気働(きばたら)きの出来る嵐の筈だ。
 余裕の無さの表れと言えるのかもしれない。
 ―――――世話が焼ける。
「その本、私が帰ったあとは、この部屋で読んだらどうや?」
 これには若雪がやや難色を示した。
「あまり長居は―――――。嵐どのに、病をうつす訳には参りません」
「私ならええんですか?」
「――――――、いえ」
 にこやかに尋ねる智真に対し、若雪が困ったように口籠(くちごも)った。ええんとちゃうの、と嵐が後ろで減らず口を叩くので、智真は呆れた。子供のころから、こういうところだけは全く変わっていない。いい歳をした大人の態度とも思えなかった。
 それから嵐は少し黙って、おもむろに打開策を告げた。
「こちら五畳には近付かん。几帳(きちょう)の向こう側の五畳で書物を読んだらええやろ」
 以前は衣桁(いこう)が置かれていた場所に、今は二藍(ふたあい)の裾濃(すそご)の練絹(ねりぎぬ)が掛かった几帳が置いてある。
 若雪の目に喜色(きしょく)が光った。
「この部屋で、書を読まれるのですか?」
「せや」
 さも仕方の無いことのように、嵐が頷く。
「では、私はお邪魔にならないよう、じっとしております」
「ああ、そうしてくれ」
「……こんな奴かて、同じ部屋に人がおれば少しは気も紛れるでしょう。私が帰っても、嵐で我慢したってくださいね」
 阿呆らしい、と思いながらも、智真は朗らかに言った。嵐に対して、あえて遠慮の無い物言いを選んだ。そのくらいは許されるだろう、と思う。
 意外にも、嵐は智真の嫌味に何も反論しなかった。
(――――――…ああ、成る程)
 ことの成り行きに喜んでいるのは、若雪だけではないのだ。
 嵐もまた、智真が口を挟んだことで成立することとなった状況に、満足しているのだった。五畳の何のと言った嵐の物言いが、急に可愛げのあるものに思えた。

       四

「……………」
純粋無垢な眼差しが、書物を手にする嵐に真っ直ぐ注がれている。
 こんな状況でもなければ微笑ましいと感じたであろうそれが、今の嵐にとっては気を散らすことこの上無い、難物(なんぶつ)だった。
(勘弁してや…)
 これで何度目になることかと思いつつ、嵐が口を開く。
「……あんな…、若雪どの。床(とこ)の中の隙間(すきま)からであっても、視線、いうんは気になるもんなんや。―――――あんまこっちを見られては気が散る。そもそも俺は、そういうもんに敏(さと)い生業しとるんやから。さっきから、書物がいっこも読み進めてへんのやけど」
 横になった若雪との間に几帳を挟んで嵐が書物に目を通す、ということで落ち着いた筈の状況だったが、智真が明慶寺へと戻り、いざそれを実行するとまた別の問題が生じた。
 確かに若雪は、嵐の邪魔をせぬよう大人しくじっとしていた。
 書物に目を落とす嵐をじっと見ていた。
 夜具を目の下まで引っ張り上げ、目から上だけを覗かせた状態で、几帳に掛けられた練絹と襖の隙間から嵐を凝視し続けた。
 ―――――――これで集中出来る筈が無かった。
(子供帰りしとるんちゃうか)
 本気で嵐がそう疑った程、こちらを見る瞳には邪気が無い。
 その仕草を愛らしいと思わないでもないが、集中を乱して命続祈祷の調べ物を疎かにする訳にはいかない。面白くないという自分の思いはさておき、もう少し智真を引き留めておくべきだったかと考える。だが智真も、そう暇な身ではない。いつまでも若雪の相手をさせるものではなかった。
「あ…、すみません」
 若雪は指摘されるとすぐに視線を逸らす。
 そしてまた必ず、その視線は嵐に帰ってくるのだ。
 どうでもいい人間の視線なら受け流すことも無視することも出来るが、相手が若雪ではそうもいかなかった。
 嵐はこれ以上読み続けることを断念して、書物をパタリと閉じた。
 がしがし、と首の後ろを掻く。
「ああ、もう」
 その声を聞いて、若雪が恐る恐る、という顔をしたのがわかった。
 また嵐が彼女を叱るのでは、と思っているのだ。その顔を見て、嵐は少しばかり後悔した。自分の短気な性分が、不必要に若雪を構えさせている、と思ったからだ。
 意図的に作った表情で、声で、相手の望む自分を演じるのは嵐の得意とするところであったが、本音で相対する人間相手には、つい性格のきつさが表に出てしまう。
 智真や市のように、嵐のきつさをあしらうのに慣れている人間が相手であればそれでも良いかもしれないが、若雪は、他者をあしらうという行為に馴染(なじ)みが薄い。身内に対しては特にそうだ。いつでも温厚で純粋で、真面目だ。
 嵐が鑑みたところでは相性が悪い訳でも無いと思うのだが、若雪と嵐がそれぞれに持つ個性は、時にひどく噛み合わず、たまに嵐を苛立たせ、反省を促したりもした。
「この際や、若雪どの。俺になんか、訊きたいことは無いか?訊かれるまんま、答えたるわ。人の話す声でも、聞いてたら暇つぶしにはなるやろ。けど今日だけやで。明日から、また俺は書物の続きを読む」
「――――何でもよろしいのですか?」
 怒られるとばかり思っていた若雪は、嵐の気前の良い発言に目を丸くした。
「――――――ええで」
 よもや女子絡(おなごがら)みの話までは訊かれまい、と思い、嵐は請け合った。
 訊かれた言葉は危惧(きぐ)したものとは全く方向の異なる、思いもよらないものだった。
「…嵐どのはなぜ、料理がお上手なのですか。何か、秘訣(ひけつ)でもあるのでしょうか」
 真剣な声に、嵐は目をぱちぱちと瞬かせた。
 それから笑いが噴き出そうになり、慌てて口を手で覆った。
 しかし、くっくっく、という笑い声はどうしても漏れてしまい、若雪は怪訝(けげん)な表情をした。自分が嵐を笑わせるようなことを訊いたとは、思ってもいない様子だ。
(ああ、せやった。若雪どのの、弱みやったな…)
 人も羨む容姿に触れれば切れる程の聡明さを備え、更には剣を取らせれば敵無しという、およそ完璧と見える彼女は家事、とりわけ料理がひどく不得手で、そのことに強い引け目を感じているのだ。
 改めてそのことを認識し、嵐にはその引け目が可愛いくも可笑しくもあった。
「――――母親がなんも出来んかったからな。俺が上達するしかなかったんや。食うてく為にも、色んな仕事せなあかんかったし」
 笑いが収まり、嵐が語った内容に、若雪は自分が踏み込んだことを訊いてしまったと思った。嵐は特に気にした風でもなく、喋り続けている。
「俺の母は叔父上の姉とは思えん程、若う見える人でな。子供心にこの人は化けもんちゃうか、って疑うたりもしたもんや。その上、まあ息子の俺が言うのもなんやけど、それなりに別嬪やった。若雪どのみたいに儚い感じやのうて…、せやな、お市様と少し似た感じか。せやけど名家に育ったからか、料理どころか、実利に繋がるようなことはいっこも出来んかった。若雪どのの比やないで」
「…はあ」
 実利を重んじること甚だしい嵐の母の印象としては、意外なものがある。なまじ嵐が何でも器用にこなしてしまう人間なので、その母も、出来ないことは無いような女性だったかのように若雪は考えていた。それとも実利と程遠い母を持った為に、逆に嵐の中で実利に重きを置く性質が育まれたのか。
 市に似た雰囲気の美人、を頭の中で描いた若雪は、そこから嵐が生まれるところを想像してみた。性格はともかくとして、顔立ちには何ら似通ったところの無い二人だ。両者共に端整ではある。
「茶目っ気があるいうか、子供じみたところのある人でな。よう悪戯(いたずら)を仕掛けられて往生したわ」
「悪戯?」
「家の戸を開けると桶が上から降ってくるのは日常茶飯事で、いつの間にかこしらえた落とし穴に落とされたり、暴れ馬をけしかけられたりな。…他にすること無かったんかな。本人は、自分がおらんようなっても俺が生きていけるよう、鍛えとるんやて言うてたけど。―――――――あれは半分以上、面白がってたな」
「………」
耳を疑う程に、剛毅(ごうき)な気性の女性だ、と若雪は思った。そして、幼少のころより身内にそのような鍛えられ方をしていれば、嵐のような若干癖のある性格になるものなのだろうか、ともこっそり考えた。
「…なんか俺に失礼なこと考えとるやろ」
 嵐に指摘され、若雪はどきりとした。小さく首を横に振る。
「いいえ。そのようなことはありません」
「あ、そ。まあ、ええけど」
 あまり信用してはいない口振りだった。
「――――なあ。俺も訊いてええか、若雪どの。あんた、…料理する時に、その、……味見はしてるよな?」
 嵐はこの機会にと思い、かねてより疑問だったことを口にしてみた。
 失礼の仕返しという訳ではないが、今なら訊けそうだと思ったのだ。
 返答はすぐに返ってきた。
「もちろんです。何回も」
 若雪の力んだ答えに、さよか、と相槌を打ちそうになって、止(とど)まる。
「……何回も?」
「はい。これでも、料理が不得手だという自覚はあります。ですから、何かを作る際には、何度も何度も何度も、味見に味見を重ねて―――――…仕舞いには、味がよくわからなくなるのですが…………」
 言葉が進むにつれて、若雪の声は憂いを含み、重しを載せられた舟のように沈んでいった。
「―――――……成る程な」
 思わず嵐は唸(うな)ってしまった。
 不得手と思う余り、力み過ぎているのだ。
 嵐は、若雪の作る料理の、実に独特な味付けであることの合点が行った気がした。
(…俺が横で教えたったら、なんとかならんもんかな)
 それとも、そうしたらそうしたで、若雪は嵐の目を気にして緊張し、いつも以上に力んでしまうだろうか。
 話題が途切れ、双方共に沈黙した。
 実のところ若雪は、先刻から嵐の話には父親が出て来ない、と思っていた。
 口数多く話すのは、母親のことばかりだ。
「…………」
 不自然と言えば不自然だが、茜の一件もある。
 触れたくないことは誰の過去にでもあるのだと思い、若雪はその点を追及しようとはしなかった。恐らく嵐は、母一人子一人のような環境で育ったのだろう。嵐にとって母の存在は、若雪が推し量るよりもずっと大きなものなのだ。
(確か、嵐どのが十にも満たない年に、亡くなられたのだと聞いた……)
 その存在を亡くした時の嵐の心の痛手を思うと、若雪の胸も軋(きし)むようだった。
 そうした様子の若雪を、気がつけば嵐がじっと見ていた。
「―――――なあ、若雪どの」
 世間話でも始めそうな口調なのに、その声を、どこか怖い、と若雪は感じた。嵐には、真剣な話を何気ない口調で切り出すところがある。床の中、身構える思いで答えた。
「…何でしょうか」
 目を逸らさぬまま嵐が続けた。
「小雨か?」
 表に出すまい、と努めた若雪の顔が、ただ固まる。
「――――何が、ですか?」
「若雪どのに労咳をうつしたんは」
「違います」
 素早く、若雪は断じた。
 それは勘違いであると、嵐には思ってもらわなければならない。
「けど、他におらんやろ。その子は、体調を崩してた言うたな?そんで若雪どのと数日の間、寝起きを共にした。―――――――小雨からうつったとしか、考えられへん。時期から考えてもな。なら小雨はそのあと、どこに消えた?雇い主がおる、て言うてたんやろ?……そいつが、この成り行きを仕組んだんやと考えるんは、俺の穿(うが)ち過ぎか?」
「穿ち過ぎです。いくら嵐どのでも――――。あの子はただ、亡くした一向宗徒の母親を恋しがっていただけです。私や、あなたや、養父上や、織田様が死なせた親が恋しくて、寂しかっただけです」
 その声には怒りも、あてつけめいたものも無かった。ただ切ない悲しみだけがあった。
「………うん、小雨は多分その通りなんやろな。せやから問題は、その雇い主のほうなんや。あんたにはとうに、見当がついてるんやないんか」
 若雪は口を閉ざし、もう何も答えようとはしなかった。
 こんな問答を、以前にもした覚えが嵐にはあった。
(あれは…)
 嵐下七忍を若雪に引き合わせたあと、丹比道(たじひみち)から逸れた河原でのことだった。
 あの時の若雪は、自分に暗殺の為の剣を教えた父親を庇っていた。そうして偽りで彩った父の像を、信じ込もうとしていた。

 今は誰を庇っているのか――――――。
 嵐には、既に大方の推測が出来ていた。
 若雪の部屋をあとにし、自室へと引(ひ)き揚(あ)げながら嵐は思った。
 若雪が死に繋がる病をうつされて尚、庇おうとする人間などそう多くはいない。
 庇えば庇う程に、嵐の確信を強くするだけだ。
〝私の、悪い癖です〟
 父親の姿から目を背けようとした若雪は、自らをそう評して責めた。
 そんな彼女に嵐は、それは若雪の弱さではない、と言ったのだ。
 今でもその思いは変わらない。
 あえて若雪の悪い癖を挙げるなら、情が深過ぎることだ。
 初めて若雪に会った時、嵐はその印象を、情にもろそうだと評した。それから、それが命取りになるかもしれない、とも言った。
「……………」
 果たして、事態は嵐の言った通りになったのだ。
 大きな夕日が沈もうとしている。
 暮れゆく冬の風は一層、冷たい。
(日が、沈む――――)
 嵐は目を細くして、落陽(らくよう)に見入った。
 間を置かずに、あたりを暗闇が包むだろう。
「――――兵庫」
「はい、何ですか?」
 名を呼ぶとすぐ隣の部屋の障子戸が開き、兵庫がひょっこり顔を出した。
「裏付けは?」
「まだですね」
「…お前にしては時間のかかるもんやな」
「そりゃ、他の七忍はそれぞれ関東やら中国やらに散って、堺には今俺しかいませんし?色々と、手が足りないんですよ。ご理解ください」
「―――続けて調べろ」
「はいはい」

 数日後、昼頃に再び納屋を訪れた智真は、若雪の部屋を訪れる前に、志野に呼ばれた。
 若雪には内密に、相談事がある、とのことだった。
「―――小雨(こさめ)?」
 供された茶碗から、智真は顔を上げた。
「はい。具合を悪うしてたようで、数日の間、姫様がお部屋で面倒見はったんです。私には、どうも姫様の病が、その子からうつされたとしか思えんで――――――。姿を消したんは、単に主人のとこに戻っただけなんでしょうけど。姫様からは、そのことを誰にも言うな、とりわけ嵐様には知られるな、って口止めされたんです…。けどなんや不安で……。智真様にお話ししようと思いましてん」
 客間の一室で恐縮するように話す志野を、智真は見つめた。
 志野が若雪の意思に背くなど、滅多にあることではない。
 しかも話を聴く限り、明らかに若雪は小雨と、―――――その主人とやらを庇っている。
「…志野さん。その子、どんな子でした?」
「蘇芳の色の鮮やかな着物の…、肩までの黒髪で。大きな目の、愛らしい女(め)の童(わらわ)でした」
「―――――――――――――」
 それを聴いた智真の身を、衝撃が駆け抜けた。置き損ねた茶碗が畳に転がり、緑の茶が畳の上に溢(あふ)れては滲(し)み込んでいく。
「……智真様?」
 顔色を変えた智真に、志野が訝しげに声をかける。
 カタリ、と音がして二人が振り向くと、若雪が立っていた。手をかけた障子戸が細く開いた向こうで、顔を強張らせている。
「――――喉が渇いて。水を貰おうと思ったら話し声がしたので、つい足を止めてしまいました。すみません…」
 言い訳するように若雪が言った。
「姫様……」
 うろたえる志野を制して、どちらともなく智真が口早に尋ねる。
「嵐は、どこです?」
 切迫(せっぱく)した声に戸惑いながら、若雪が答えた。
「明慶寺に行くと、仰っていましたが?」
「――――来てません」
 目眩(めまい)がするような思いで智真が言った。
「え?」
 聴いた言葉が理解出来ない、という表情を若雪が浮かべる。
 そんな彼女に向けて、噛んで含めるように智真は繰り返して言った。
「嵐は、明慶寺には来てへんのです!」
「―――けれど………」
 確かに嵐は、明慶寺に行くと言って昼前に出かけた。
 なぜ彼が、行く先を若雪に偽る必要がある―――――――。
 若雪はそう言おうとして、一つの可能性に気付き両手で口元を覆った。
「まさか」
「若雪どの――――、あなたは部屋に戻ってください。私が嵐を追います。嵐は、小雨の主人が誰やったんか、もう気付いてる。早う行かんと――――――――――殺してまう」
 最後の言葉を智真は青ざめた顔で呟き、足早に走り去った。
 残された若雪と志野は、揃って茫然としていた。

 寒風の吹き荒(すさ)ぶ堺を駆けながら、智真は去る五月雨の日のことを思い出していた。

〝智真…。頼みがある〟

(なんでや―――――)
 道を駆ける墨染の有髪僧は随分と大衆の視線を集めていたが、今の智真の知るところではなかった。
(なんでや、兼久どの―――――――!!)

 堺の町は北荘と南荘に分かれているが、兼久の構えた邸は宗久の納屋と同様、南荘にあった。
 元々あまり人を雇わない主義の兼久の邸に、智真は訪問を知らせる声もかけずに、草鞋(わらじ)を脱(ぬ)ぐ手ももどかしく兼久の名を大声で呼ばわりながら駆け込んだ。
「兼久どの!どこですか、兼久どの!?」
 不思議な程に、邸には人の気配が無い。いくら奉公人が少なくても、智真がこれだけ騒げば、誰か一人くらいは駆け付けて来て良さそうなものである。
(――誰も、おらんのか?…兼久どのも?)
 出来れば不在であったほうが良いと、そう思いながら声を張り上げていた智真だったが、彼の呼びかけに応じる静かな声があった。
「ここや。―――――騒々しいな、智真」
 さらりと開いた障子戸の向こうに、兼久が立っていた。
(間に合うた――――――)
 智真は肩で息をしながら、そう思った。
 ひとまずは、安堵する。
「…兼久どの……。あの時の子供は、小雨て言うんですか?…あの雨の日、私と和尚さんで弔(とむろ)うた、あの子です」

 頼みがある――――――――――。
 濡れそぼった兼久の腕には、小さな女の童が抱かれていた。
 既に、事切(ことき)れていた。
〝この子を、弔うてやってくれんか〟
 抱き取った子の身体はひどく冷たく、腕にずしりと重かった。
 濡れた肩までの黒髪が二筋(ふたすじ)ばかり子供の頬に張り付いていた。
身に着けていたのは、目に染みるような蘇芳の着物だった―――――――――。
 訳ありであることを察した智真は、すぐに明慶寺住持に相談し、兼久の願う通りに子供を境内の墓地に葬り、経を上げて懇(ねんご)ろに弔ってやった。
それを最後まで見届けた兼久は弔いの礼だけを述べ、十分な額の回向(えこう)代を置くと他には何も喋らずに去って行った。
 智真たちは黙って兼久を見送り、彼の行為の背景までを探ろうとはしなかった。

「ああ……。そう言うたら、名前を訊いたことも無かったな。小雨、言う名前やったんか…。―――――悪うないな…」
 常と変わらず、淡々と言う兼久に智真はカッとなった。
 何かの間違いではないか、実は兼久は何も知らないのではないか。そう、祈るような思いで駆け付けた自分の行為を、軽んじられた気がした。
 激したままに怒鳴りつける。
「嵐に殺されてもええんですか!」
 兼久は顔色一つ変えなかった。
「……あの子はな、いつの間にかうちの庭に入り込んで、茶室で私が茶を点てる様子を聞いてた。ご覧のとおり、納屋とは違うて、入ろう思うたら入り放題の家やさかいな。私が茶室を出るまでじいっと待っとる。猫みたいな子やった。作法もなんも知らんけど、茶の味が好きなようでな、私が点てた茶を飲ませたら、それは大事そうに、少しずつ飲みよるんや。愛らしかったで」
 兼久はその様子を思い出したように、目を細めた。
「気紛れに、下働きなんぞさせてみた。……労咳を患っとることに気付いたんは、少し経ってからのことやった。―――――あの子の両親はもう死んでたようやったけど、よう受け容れられんのやろな。母様(かかさま)を探してるんやと、いつもそればかり言うてた。………今にして思たら、少し心を病んでたんかもしれん」
 智真は何も言えずに兼久が語るのを聞いていた。
(まさか)
「あんまり母を恋しがるんが哀れで、私は言うたんや」
(そんな)
「兼久どの、あなたは――――――」
「―――――納屋に、お前の求めてる母がおると。天女のように綺麗で、お前に優しゅうしてくれる女人(にょにん)がおると。部屋の場所も、私が教えた」
 兼久が、誰を指してそう言ったのかは、明らかだった。
 智真はまだ信じられない気持ちで兼久を凝視していた。
 気付けば、走った際に噴き出た汗が滴(したた)り落ち、足元の畳に小さな滲(し)みを作っている。
「なんで。なんでそないなこと言うたんですか……。それを言うことで、小雨を納屋に差し向けることで何が起こるか、まるで解らんかったとでも言うんですか!?」
 兼久の両腕を掴んで揺さぶる。
「いや―――――、ことはむしろ、私の望んだように動いた。私自身が、驚いた程」

 そのころ納屋では、智真が去ったあと我に返った若雪が、声を張り上げていた。
「兵庫!兵庫!」
 自室に戻り、上に向かい下に向かい、声を限りに叫ぶ。その声には懇願の響きがあった。
「兵庫!出て来てください!」
「――――犬猫じゃないんだから。あんまり頑張って声を出すと、身体に障りますよ。若雪様」
 開いた障子戸から、ごく普通に兵庫が姿を現した。
 てっきり天井や床下あたりにいるかと考えていた若雪は、多少驚いたが、そのことに構う余裕は無かった。
「嵐どのを止めてください。急いで――――あなたは、行き先を知っているのでしょう」
 確信の籠った若雪の問いかけに、兵庫は軽く肩を竦めた。
「まあ知ってますけど。…その命令には従えませんね」
 突き放すような言い方に、若雪は目を見開いて尋ねる。
「どうして………」
「嵐様から、別命を既に受けてます。若雪様を、ここから動かないようにしろ、とね―――――――――」
 行動を読まれている。
 若雪は唇を噛んだ。
 そんな若雪を見ながら、兵庫が口を開く。
「…いつか、若雪様は俺に訊きましたよね。嵐様と若雪様、双方から違う命令を受けた時にはどうするか―――――。俺は答えた筈です。理と、義を多く含むほうの命に従う、と。今の若雪様の命には、理も、義も感じられません。ただ情によって動いている。違いますか」
 兵庫の言葉は冷たく、容赦が無かった。
 それから少し間を置いて、付け加えるように言った。
「―――俺も少しは迷ったんですよ、若雪様。もし俺が調べ上げた通りのことを嵐様に報告すれば、嵐様が兼久どのを許さないであろうことは、明白でしたから。けどね、迷ったのは……少しの間だけでしたよ」
 若雪はただ兵庫を見つめている。
「――――…あなたも一応は俺の主です。自分の主を死病(しびょう)に追い込んだ人間を、俺が救わなきゃならない謂(いわ)れも無いですね」
 ふい、と横を向いた兵庫を、若雪は一喝(いっかつ)した。
「このたわけが!!」
 若雪が人生で初めて放った一喝は、美しくしなる鞭(むち)にも似て、周囲の空気を鋭く打ち据えるような迫力があった。
 思わず飛びずさった兵庫は一瞬、自分の耳を疑った。
 儚げな面を、極めて厳しく引き締めて佇む若雪に、恐る恐る、尋ねる。
「…今、若雪様が怒鳴りました?」
 若雪が大きく息を吸う。
 ここで兵庫を相手に、位負(くらいま)けする訳にはいかない。
「そうです、たわけと言ったのです!情に囚われているのは、兵庫のほうです。そんな子供じみた感情で、納屋を分裂させる気ですか!?……嵐どのが兼久兄様を殺めれば、例え理由が何であれ、養父上が許しません。そうなってしまえば、もう、私にもどうしようもない。必ずやお二人は、袂(たもと)を分かつことになるでしょう。それが、嵐どのの為になるとでも思いますか。頭を冷やしてよく考えなさい!!」
 兼久の死は、嵐と宗久の間に決定的な亀裂(きれつ)をもたらす―――――――――――。
 声を荒げてそのことを指摘した若雪は、息を乱していた。白い頬は怒りに紅潮している。自分が夜着同然の白小袖のままで兵庫の前に立っていることを、今更ながらに思い出した。
 呆気(あっけ)に取られた顔で、兵庫がそんな若雪を見ている。
 それでも、と若雪は荒い息のままで続けた。光る眼(まなこ)は、兵庫を睨み据えていた。
「……それでも兵庫が嵐どのを止めぬなら、私が自ら出向きます。嵐どのの命に従い、私を病身(びょうしん)と侮り力ずくで止められると思うなら、やってみるが良い」
 そう言って若雪は、雪華を手に取った。

「どこぞへ、早う身を隠してください。嵐は、あなたを許さんでしょう」
 兼久の言葉に受けた衝撃に茫然とした智真だったが、思い出したように慌てて言った。
「お前は私を許すんか、智真?」
 兼久にそう切り返され、智真は兼久の上衣の袖を掴んでいた手を放した。
放した両手は、行方を失ったように宙を彷徨(さまよ)う。
「――――――解りません。けど、利用された小雨が、哀れやとは思います」
 蒼白な顔で答えた智真を、兼久が軽く笑った。
「お前にはかなわんわ…」
「早う、早う逃げてください。若雪どのの、今の在り様があなたの望んだもんやなんて、そんな。そんなことを嵐が聞こうもんなら―――――――、」
「逃げる?何でや。ここは、私の邸や。由風が何を聞いたかて、関係無い」
 おっとりと、兼久が言葉を返す。
 智真は必死の形相(ぎょうそう)で言い募った。
「嵐は、きっとここに来ます。じきに―――――恐らくあなたを、殺しに。せやから、その前に」
「ふうん…」
 それでも兼久は動こうとはしない。
「けどそれは、ちいとばかし間に合わんかったようやで、智真」
「え?」
 智真は兼久の言葉に怪訝(けげん)な表情をし、その視線を追い、そして凍りついた。
「思うたより遅かったな、由風」
 二人のいる部屋の開け放たれた障子戸の外、嵐が静かに佇んでいた。
 その左手は腰刀を掴んでいる。
 外では、氷雨(ひさめ)が降り始めていた。

吹雪となれば 第六章

吹雪となれば 第六章

時は移り天正九(1581)年、それぞれ二十二歳、二十四歳となった嵐と若雪は、互いに意識しつつも間近に迫る織田信長の天下統一に向けて立ち働いていた。 そんな折、庭内に紛れ込んできた少女・小雨と若雪は出会う。 「 さぁ始まる 紅に染まれよ 縁どられた 命の競演 カーニバル 」 この章から、物語の展開スピードが増します。 作品画像は、その目まぐるしさと、命の競演を意識したものです。

  • 小説
  • 中編
  • ファンタジー
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  • 時代・歴史
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-07-02

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