吹雪となれば 第五章

吹雪となれば 第五章

九藤 朋

ファンタジー要素を含んだ、日本史中世時代劇で、研究論説を参考にしたフィクションです。
よろしければお楽しみください。

疑惑

第五章   疑惑 

頬を濡らしたのは
黒い雫
覚えがないと
目をそらしていた
私だけ

       一

 その巌(いわお)はいずことも知れぬ、荒れた海にせり出した崖の先端にそそり立っていた。
 巌の表面には常にとりどりの色の光が明滅し、目まぐるしいような有様である。
 光の示す意味を読み取り得る者は、極めて限られている。
 彼女はその前に佇み、白い手を岩にかざしていた。
 そうして徒人(ただびと)には踏み込むことの出来ぬ禁域に、ただ独りで立っていた。

「摂理(せつり)の壁(かべ)が赤の色を発したそうな」
「なんと…」
「それはなんとしたこと……」
「花守共(はなもりども)は、何をしておる」
「したがこたびは、理(り)の姫が御自(おんみずか)ら動いておられるのであろう」
「しかし、赤色(せきしょく)とは」
「然(しか)り。看過(かんか)出来ぬ話よ。とは言うても、理の姫が動いておられる以上は、我らが手出しすること、まかりならぬ」
「信長を、今少し上手く使うことは、出来なんだか」
「――――吹雪か」
「避けねばならぬ」
「左様(さよう)。吹雪は許されぬ」
「吹雪となれば」
「左様。赤色に光るどころの話では」
「なくなるやもしれぬのだ」
「吹雪となれば…」
「吹雪となれば」

 今井宗久の邸にある茶室は、四畳半の茶座敷である。屋根は棟が水平でない宝形造(ほうぎょうづくり)の屋根、天井は杉板のふちなし天井、その下には茶事の用意等に使われる水屋、床の間などが設けられている。床の間には、中国禅僧の墨蹟(ぼくせき)がかかっている。
 まだ人の気配の無い早い時間より、兼久は自ら作った茶杓(ちゃしゃく)を手に、茶室に座していた。
 彼は今年で二十四の歳を数えていた。
 主客が思いを一つにする境地を尊ぶ茶道の世界において、しかし兼久は己一人きりで茶を点(た)て、それをじっくりと味わう時間を何より好んでいた。それも、出来れば余人の雑多な気配の感じられない、早朝か夜も更けたころが良い。
 唐物・茄子(なす)と呼ばれる茶入れの中の抹茶を、茶杓で一杯半すくい、和物の信楽茶碗に入れる。茶碗の中の茶を良くかきならし、茶入れを元の位置に戻す。茶杓を茶入れの上に置くと、沸いた湯を柄杓(ひしゃく)にとり茶碗に入れた。茶筅(ちゃせん)を緩やかに動かし、茶を点てる。
(………この、静寂)
 四畳半の宇宙に、ただ己一人が在る孤独の贅沢な味わいを、兼久は愛おしむような心地で堪能していた。
 茶筅を静かに置き、茶碗を手に取り、茶を一口含む。
 本当であれば、茶室は今よりも尚、質素なものが好ましい。いっそ山中にある、隠者(いんじゃ)が住まうような風情くらいが、兼久の好みだ。父・宗久とはやや好みが異なる点だった。
 また、兼久は茶道における偉大な先達(せんだつ)・村田珠光(むらたじゅこう)の世界観に、自分と近しいものを感じていた。珠光は不足の美、余白の美しさを求めた人であった。それは「やつし」の美と呼ばれ、「冷え、枯れる」という言葉で表現される。
(――――――月も雲間(くもま)のなきは嫌にて候(そうろう))
 隈(くま)無き月を拒否し、雲間の月をこそ愛(め)でるという、珠光の残した有名な言葉だ。
 完璧に満ち足りた物事の在り様など、兼久の想う美しさとは対極でしかない。
満ち得ないものの美しさ、儚さこそが至上であり、兼久の愛してやまないものだった。
 彼にとって欠けの無いもの、不足の無いものは、むしろ醜悪に通じた。
 
あなた様、若雪にこれ以上、あのような剣を教えるのはお止めください。
 そなたは黙っていよ、若水。
 さあ、若雪、木刀を取りなさい。
 あなた様…。
(母様、そんな顔をしないで)
(私は、大丈夫)
(父様の仰るように、ちゃんと出来るから)
(私は、大丈夫…)
(だからそんな悲しい顔をしないで…、母様)

 早暁(そうぎょう)の中、若雪は目を覚ました。
「…………」
(なぜ、今頃になって、このような夢を…)
 季節は神無月、出雲においては神在月と称されるころに移り変わっていた。朝の空気にも、既に冷たい気配が感じられるようになって久しい。
 若雪は夜具の上に半身を起こし、じっと虚空を見据えた。
 嫌な夢を見たせいか、どことなく身体が気だるい。寝起きの良い若雪にしては珍しいことだった。
 夢の中で再現された記憶は、今では最早、遠い過去の話に過ぎない。
(…けれど、私の剣の在り様は、未だ過去に囚われたままでいる。私はきっと、それが辛いのだ。普段は努めてそうと感じないようにしているだけで。だから、その原点となったころの記憶まで、夢に紛れ込ませてしまうのだろう……。目を背けたいと、どれ程願っても)
 そっと唇を開く。
「――――あらちをの かるやのさきに たつ鹿も ちがへをすれば ちがふとぞきく」
 口を小さく動かし、ささやくように詠んだ歌は、嵐から習ったものだ。
〝夢違(ゆめたが)えの呪法や。夢違誦文歌(ゆめちがえじゅもんか)言うてな、悪夢を吉夢に転じるて言われとる。まあ、悪い夢を見た時のお呪(まじな)いやな〟
 気休め程度のものだと言いながら、過去の惨事に限らず、忌まわしいと感じるような夢を見た際に詠むと良い、と教えてくれた。石見で、山田正邦にどう対処すべきか、若雪が思い悩む時間が増えていたころのことだった。
 嵐は若雪に対して、自ら有する知識や情報を、惜しまず口にするようになっていた。
 それは三年前と比べて、大きく変わったことの一つだ。
 若雪はその事実と、嵐の気遣いが嬉しかった。

「叔父上、今日、若雪どのをお借りしてもええですか」
 その日の朝、朝餉(あさげ)を済ませた嵐は、宗久の居室を訪れてそう尋ねた。
 文机の前に座して文を読んでいた宗久が、目を上げて嵐を見る。
「借りるもなんも。急ぎの用を申し付ける予定は、別段無い。あとは若雪の都合次第や。……儂に内密で、なんか企みごとか、嵐?」
 甥の目に踊る、ちらちらとした悪戯小僧のような光を、見逃す宗久ではない。
「まあ、ちいとばかし」
 嵐はにこやかに答える。後ろめたいような様子は見せない。
 そこが曲者(くせもの)ではあった。
「あんま若雪を困らせるようなことはすな」
「心得とります」
(ほんまかいな)
 宗久はやや疑わしげな目で、軽く請け合った嵐を見た。
 若雪が堺を離れたあと、嵐が示した狼狽(ろうばい)ぶりは宗久の予想以上だった。若雪の不在が余程こたえたのか、嵐はその後、若雪に関する物事にかなり神妙になった。以前には時折見せていた、噛みつかんばかりの若雪への対抗心も今ではなりをひそめている。
 けれどそう思い油断していると、思わぬ方向に動くのが嵐という人間だった。
 嵐は宗久にとって、心安く頼もしい身内であると同時に、警戒を怠ることの出来ない存在でもあった。
――――いつの間にか嵐は、ただ宗久の意に沿って動くだけの子供ではなくなっていた。

 嵐が呼んでいる、と聞いて若雪は客室の一つへと足を向けた。
「富田林(とんだばやし)?―――河内の?」
「せや。為替(かわせ)で甲冑、鉄砲を買い付けたはええものの、支払期限を過ぎても銭を払わん寺があってな。若雪どのにはその寺に行って、支払の催促をして来て欲しいんや。今は使える馬が無いさかい、徒歩(かち)で行ってもらうことになるけど」
「養父上のご指示ですか」
「ああ」
「…情報を拾いながら、でしょうか?」
 若雪はちらりと目を上げて尋ねる。
 宗久は、嵐や若雪が遠出をする際には、可能な限り市や種々の店、行き合いの旅人から情報を収集して来るように命じることが多かった。
商売や戦に限らず、広く世情の声に耳を傾けて来るよう―――――――。
 情報はこの時代、金であり、銀であった。
 そして宗久が情報収集を指示する時には決まって、「道中は、ゆるりとな」という言葉が符牒(ふちょう)のように使われた。
 それは山陰から堺への帰途においても例外ではなく、和泉に入った若雪らが堺に至るまでの短い道程でも、他の土地以上の熱意をもって、人々の口から情報を引き出すことに若雪らは腐心した。宗久は自分の本拠地である和泉国の情勢を、殊の外重視した。その為に、堺を目前にしながら、道程を行く嵐と若雪の足取りは、馬に乗っているにも関わらず、牛歩の歩みであったのだ。けれど道程の全体を鑑みるに、情報を集める余地も無い人気の無い道で距離を稼ぐには、馬はやはり必要だった。
「いや、今回はその必要は無い。叔父上はその寺の始末は急ぎたいらしい」
「――――一向宗の寺ですか」
 河内国富田林は、一向宗興正寺を中心に商業も活発な寺内町である。
 若雪の問いに嵐は笑みを浮かべて答える。
「ちゃう。――――表向きはな」
 一向宗と信長の根深い確執(かくしつ)は、周知の事実である。富田林内の寺が信長対策の為、万一に備えて武具を確保しようとしても、何ら不思議なことではない。宗久は信長の耳に入る可能性が低い、と見なした場合は相手が一向宗であれ、商売の相手とすることもあった。
 その為、取引は円滑に、隠密裏に済ませたいという理屈は、若雪にも理解出来るものだった。情報収集などして、下手に目立つ必要も無い。
 しかし――――。
「嵐どのも、ご一緒に行かれるのですか?」
「いや。俺には他に、やることがある。……俺と一緒やないと心細いか?」
「はい」
 からかうような態度を見せた嵐に、若雪は顔色一つ変えず頷いた。
「…………」
 少しの間、探り合うような空気が両者の間を流れた。
「―――堪忍。今回は一人で行ってくれ」
「……わかりました」
 大人しく請け負った若雪は早々に部屋を去った。
 若雪が出て行ったのち、閉められた障子を見たまま嵐は言った。
「―――勘付かれたかいな」
 一拍の間を置いて、それに応じる声があった。
「さあ、何とも言いかねますね。確かに、鋭そうな御仁のようでしたけど。とにかく俺は、言われた通りに気配を消してましたよ。全く、何でまたこんなことするんだか……」
 隣室との境を隔てる襖の向こうから答える声は、やや投げやりな感がある。最後にはぼやくようにぶつぶつと言った。
 嵐はさらりとそれを聞き流し、指示を下す。
「そんならあとは、手筈通りにな」
「はいはい――――」
「兵庫、」
 そのまま遠ざかろうとする気配を、嵐が呼び止める。耳にした者が思わずぎくりとする程の、低い声音だった。
「力を、出し惜しむんやないぞ。若雪どのに、お前を殺させとうはない。斑鳩(いかるが)たちにも、よう言い聞かしとけ」
「――――――…承知」
 そして今度こそ、隣室は無人になった。

 若雪は、出がけに嵐より受け取った為替を懐に、堺を発った。
 手甲に脚絆、被り笠をしての旅装である。
 嵐に言われて、身なりは朽葉色の上衣に、蘇芳の袴を着込んでいる。上衣の上に胴服(どうふく)(羽織)を重ねてはいるものの、全体にやたら華やかである。不必要に目を引く色合いでは、と若雪は思ったが、何も言わず嵐の指図に従った。しかしその派手な装いゆえか、堺の町中では、婀娜(あだ)っぽい化粧に小袖を着崩した女性の数人に声をかけられ、木戸を抜けるまでに手間取った。ほとんどの女は、若雪の「先を急ぐので」という言葉に大人しく引き下がったが、中には返事を貰えた、ということにもう満足し、「きゃあ」と黄色い歓声を上げて喜ぶ者もいた。
今回の旅程では、まずは堺を出て、古道、丹比道(たじひみち)を利用し、河内国に入ってからも暫くはそのままの道を行く。そして羽曳野(はびきの)付近で丹比道から外れ、富田林を目指すことになる。
 今、若雪はその丹比道を河内国との国境を目指して歩いていた。幼少より山陰など諸国を巡り歩き、見かけによらず足腰の頑健(がんけん)な若雪にとっては、造作(ぞうさ)も無い道程であった。
そして黙々と道を行く若雪は、すれ違う旅人も無い、静かな道に差しかかったころから、違和感を感じ始めていた。
(人がいない…)
 丹比道は伊勢参詣にも使われる道である為、本来なら人が途切れる、ということは無い筈である。それが先程から、誰にも行き会うことなく、何より静かだ。
(静か過ぎる―――――)
 道の左右に被さる山林の繁みが、どこか得体の知れないもののようだ。
 若雪がそう感じたのと、それが飛来したのと、どちらが早かったか―――――。
 キン、という澄んだ金属音が、立て続けに響いた。
 若雪が雪華の鞘を払い、飛来した物を打ち落とした音だった。
 若雪が懐に入れていたのは、為替だけではなかった。
 打ち落とした物を横目で見れば、棒状の手裏剣だった。筆形、菱形、紡錘形など様々な種類が地面に落ちている。だが、今の若雪にそれらの形状を一々確認する余裕は無い。
 若雪は油断せず、あたりに目配りをしながら次なる襲撃に備えた。視界を狭(せば)める被り笠を手早く外して道に投げ捨てる。それも一瞬のことだった。
 二丁鎌を構えた男が一人、刀を持った女が一人、左右の繁みから走り出て来る。
 明らかに若雪を目指す彼らに、若雪もまた大地を強く蹴りつけ、真っ向から駆けた。
 瞬息(しゅんそく)の間に、若雪はふ、と身を沈めて二丁鎌を持った男の懐に入り、雪華の柄頭(つかがしら)を渾身(こんしん)の力でその腹に叩き込んだ。
 ぐう、と男が呻く間に、左右の繁みから再び襲い来る手裏剣を避け、あるいは雪華で打ち落としながらも若雪は素早く動き、刀を手にした女との間合いを詰め、切り結んだ。
 女の刀は通常より刀身が短い。その刃に沿うように自らの刃をすりあげると、若雪は女の胸元目指し、雪華を振るおうとした――――――――。
 その時。
「やめえ!!双方共(そうほうとも)、それまでや!!」
 大音声(だいおんじょう)が、その場に轟(とどろ)いた。
 嵐が、若雪の右手側の繁みから姿を現した。

「ご説明願えますか、嵐どの」
 若雪が雪華を手にしたまま、取り立てて驚いた様子も無く訊いた。
 繁みの色に溶け込むような萌黄(もえぎ)の上衣に、濃色(こきいろ)の袴を合わせた嵐の姿を目にしても、平静な表情をしている。
 何も予想していなかった訳ではないことは、その静かな顔を見れば明らかだった。
 その間、嵐の後ろと、向かいの繁みから、更に二人の男女がそれぞれ姿を現した。
「―――これが、いつぞや私に紹介したいと仰っていた者たちですか……」
「せや。……いつから気付いた?」
 嵐は、にこやかな顔の中、検分(けんぶん)するような目で若雪を見ている。
 若雪が緩く首を振った。静かに雪華を鞘に納める。優美な仕草だった。
「嵐どのが何事かを意図されている、ということまでしか、私には解りませんでした。養父上からのご指示を、嵐どのが私に話すのもおかしな話です。加えて、このような目立つ身なりを私に勧めた――――。今になって解ったことです。この身なりは、この者たちが、私を見分けやすいようにとのお考えからですね?私は事前に厩も確認しました。使える馬が無い、と嘘を言われたのも、乱戦で馬が傷つくのを厭(いと)われたからでしょう。そうまでして私に、腕試しをさせたかった者たちとなると―――――」
 嵐は黙って若雪の話を聴いているが、その目には、期待通り、と言わんばかりの光がある。
 襲撃者たちも、若雪の姿を注視しながら、黙って話を聴いている。少なからず、自らの推論を滔々と語る若雪に、気圧されている感があった。
「嵐下七忍(らんかしちにん)。――――北条の風魔、上杉の軒猿(のきざる)、武田の三ツ者、尼子の鉢屋、毛利の座頭衆……彼らとも並び称される、織田家中、少数精鋭の忍び。嵐どのを筆頭にした、その者たちのことですね。今は、四名しか見当たりませんが」
 そう言って若雪は、視界の端にある、木の枝より垂れた苦無(くない)を横目に見た。若雪を待伏せる際、また手裏剣を仕掛ける際において樹上に足場を確保する目的で、枝にからめて登る為に利用したのだろう。
「うん、正解や。若雪どの」
 嵐は唇に笑みを刻んだ。
 しかし笑顔はすぐ、渋面に変わる。
「…それにしても、ちいと俺らは知られ過ぎやな。若雪どのかて耳が早いほうとは言うても、こないにあっさり看破(かんぱ)されてまうとは考えもんや――――」
 嵐のその言葉に対し、二丁鎌を持った男が口を開いた。若雪が雪華を打ち込んだ衝撃がまだ残っているらしく、身体を軽く前傾させて腹を庇っている。
「……それは嵐様が、派手に動くのがお好きだからですよ。仮にも望月家の、上忍(じょうにん)であるお人が戦場で先頭を切って働くなんて。有り得ませんよ、普通。〝嵐下の頭目(とうもく)は犬使い〟、なんて噂まであるって知ってます?」
 苦言を呈する声は、やや呻くような響きだった。若雪は、命に支障は無い、という前提において、打撃を与える際、一切の躊躇も加減もしなかった。斑鳩に対峙した時に至っては、その前提さえ守れないかもしれない、と一瞬覚悟した程に余裕が無かったのだ。
「戦場を駆ける嵐と、今井家で商いに携わる嵐は、別の人間や。俺はちゃんと使い分けてるつもりやで、兵庫。実際、納屋の人間として商いする相手が、俺を忍びと疑うた例なぞ無い」
 その論争は、これまでも幾度か繰り返されてきたもののようだ。双方の間に、「またか」というような、ややうんざりした空気が流れている。
 嵐の言い分を聞いた若雪には、確かに、と得心するところがあった。
 納屋に過ごす嵐を見ている限りでは、忍びであるとは思いもしない気がする。
 若雪は予め知らされていたからそうと認識出来ただけで、本人と宗久にそのことを明かす気が無ければ、気付かぬままに過ごしたかもしれない。
 ただ、嵐が常に足音を立てずに歩く理由を、追及して考えなかったならば。
 まして陰陽師でもあるなどとは、猶更考え付かないことであったに違いない。
「話を戻すと、若雪どのが本気で堺に生きる場所を見出したなら、俺の使うこいつら―――、嵐下七忍とも顔合わせしといたほうがええと思うたから、引き合わせたんや。状況を素早く、正確に掴んでおくには、これ以上無い程重宝な奴らや。そんでもって、こいつらは自分の納得した相手の命やないと聞かんさかい、あんたの力を見せたる必要があった。せやから、腕試しの出来る舞台を整えた。―――――結果、若雪どのを騙(だま)すような形になったんは、謝る。ほんまは全員揃うた時が良かってんけど、あと三名は今、遠国(おんごく)に散ってよう動けんよって、今集められる奴らだけでもと思うてな。あとの奴らは事後承諾になるけど、まあ、問題無いやろ」
「……よろしいのですか、嵐どの。そこまで私を、信用されて」
 慎重に、そしてやや呆気にとられたように尋ねる若雪に、嵐のほうはあっさりと答えた。
「若雪どのは裏切らん。――――…元来、裏切るとかいうことが出来ん性分や。あんた、不器用やもんな。なら、いらん隠し立てをすることもないわ。―――兵庫、若雪どのの力量に不満があるか?」
 兵庫、と問われた男はまだ若い。二十代前半だろうか、剽軽(ひょうきん)な中にもどこか怜悧さを感じさせる空気がある。ごく普通の百姓のような身なりをしているが、隠された刃のような鋭さが、若雪には感じられた。未だ身体をやや前傾させているが、何気なく二丁鎌を持つ立ち姿には、どこにも隙が見出せなかった。彼と対峙した時、長引けば不利になる、と一瞬の思考の中で判断したことを思い出す。居並ぶ面々の中でも、嵐に次ぐ立場にいるようだ。
 面白くなさそうな声で兵庫が答える。
「今更、そういう意地の悪い質問をしますかね。俺がこの方に太刀打ち出来なかった様子は、もうご覧になったでしょう。――――認めますよ。その頭の回転の速さもさることながら、――――確かに。得難いお方だ。中々の、別嬪ですし。俺は正直、こんなことに何の意味があるのかと、そう思ってたんですけどね。まあ…この方の命令なら、聞くのもやぶさかじゃないですよ」
認めると言いつつも、不遜(ふそん)な物言いだ。
 しかし続いて若雪の足元に跪(ひざまず)く姿は神妙だった。一度頭(こうべ)を垂れると面を上げて、若雪にひた、と視線を合わせた。
「改めて―――、嵐下七忍が一人、兵庫(ひょうご)と申します。若雪様におかれては、これより先、我らを耳目とも、手足とも思いお使いください。既に嵐様に捧げた命ですが、有効に使ってもらえるのであれば、この命、若雪様にもお預けしましょう?」
 それに続くように、若雪に刀で斬りかかってきた女が、跪いた。
 艶麗(えんれい)な顔立ちに反して、動きの邪魔にならないよう手軽に髪を束ね、どこかの商家で下働きでもしていそうな出で立ちをしている。
 その表情には、先に跪いた兵庫と同じく真摯な色がある。つい今しがた、若雪と切り結んだばかりの彼女の目には、若雪に対する尊敬の念が宿り、頬は紅潮している。
「斑鳩(いかるが)、と申しまする。私もまた、兵庫どの同様にお使いくださいませ。必ずや、若雪様のお役に立ちまするゆえ」
 残る二人も同様に跪き、それぞれ男は黒羽森(くろうもり)、女は水恵(みずえ)と名乗った。彼らは誓約の言葉以外、余計なことは一切喋らなかった。四人共、言葉遣いはてんでばらばらで統一されていなかったが、忍びという生き物はそんなものなのだろう、というのが若雪の感想だった。
 どうやら兵庫は、忍びの中でも多弁な部類に属するようだ。
 己の実力を自負する者程、それを上回る人間に出会った時の感嘆の思いは大きい。
 二人がそれぞれ直接攻撃に出て、残る二人が飛び道具でそれを援護する――――。
 それは四人という人数で一人の人間を急襲するに際して、最も効果的な戦法だった。四人で束になっての奇襲よりも、はるかに能率が良い。
 その効果的な戦法をもってしても、襲撃を受けた、たった一名に戦局を持って行かれるならば、その一名の実力をどうあろうと認めない訳にはいかない。
計画を聞いた当初、兵庫らが、自分たちの実力を軽んじているのか、と嵐に反発する程四名にとって有利な条件だった。 
 若雪を嵐下七忍に引き合わせるには、若雪の実力を示してやるのが最も手っ取り早い紹介の仕方だと嵐は考えた。顔合わせと同時に、若雪の実力であれば彼らを心酔させることも難しい話ではない。
 また、宗久配下の忍びと嵐下七忍の指揮系統を明確にしておく為にも、若雪の下に七忍を組み込んでおくことは都合が良かった。宗久の命を至上とする忍びたちと、嵐の命にしか従わない嵐下七忍との間には若干の溝があり、これまでも何度か小競(こぜ)り合いのようなことが起きていた。若雪の下に直接七忍が付くならば、宗久の忍びを、更にその下に位置する者として扱うことが出来る。嵐の命を聞くことを義務付けられていない彼らも、若雪の言葉には従う。そのように宗久から言い含められているからだ。宗久が嵐に対して抱く警戒心が、よく見て取れる指示だった。
だが、今回七忍を直接若雪の下につけたことで、若雪が命じれば七忍の言葉にも宗久の忍びが従う、という構図が出来上がる。若雪が、宗久の忍びより七忍を重んじるであろうという確信を、嵐は抱いていた。力量を測られたのは、若雪だけではない。兵庫らも同様に、若雪に力を見切られたのだ。直接刃を交えたならば、七忍の実力に若雪が一目置かない筈が無い。自らに直属する忍びの実力の程を、嵐は確かに信じていた。
 これは嵐にとって、宗久を相手にした水面下の駆け引きでもあったのだ。
(出来れば、叔父上とことを構えとうはない。せやけど万一の事態の為にも、俺かて態勢を整えとく必要はある――――――――)
 但し今回の腕試しに関して、嵐は兵庫らに厳命したことが二つあった。
 一つは、若雪を殺さないこと、そしてもう一つは、若雪に殺されないことだった。
 腕試しはあくまでも腕試し、命の遣り取りは許さない、ときつく言い付けた。
 七忍を損なうのも困るが、彼らの命を奪うことで若雪の心に負荷がかかることも避けたかった。七忍が若雪を殺めてしまう、という可能性は低いものと思えたが、万一に備えて、嵐はいつでも両者の間に割って入ることが出来るような態勢で状況を見守っていた。
 なるべく双方が傷を負わないように、とも言い添えたいところだったが、あまり制限を設けては若雪の実力を彼らに納得させる、という肝心の目的が達成されない。
 その点は、両者の腕に賭けるしかなかった。

       二

 若雪の目前を、細い川が流れていた。
 河原から見通せる山は紅葉に、赤く燃えているようだ。
 川近くに生える木々の中には蔦漆(つたうるし)もあり、これも見事に紅葉して、杉のような常緑樹とは異なる色合いを主張していた。
 嵐下七忍の面々が姿を消したのち、若雪は嵐と連れ立って、丹比道を逸れた河原に赴いた。七忍に関することの他にも話のありそうだった嵐に、若雪が川を見たい、と頼んだのだ。嵐はこのあたりの地理もよく心得ているようで、難無く若雪をこの河原に導いた。
 富田林にある寺へ支払を催促する必要のある話は事実だったが、急務という訳ではない、と言い、嵐は前言を翻していた。嵐が、若雪と同じく手甲に脚絆を身に着けた旅装をしているところを見れば、最初から二人の道中になることを予想していたことは明らかだった。
 若雪は、嵐が話したい内容について、なんとなく察しがついていた。
 だからせめて、水の流れを見ながら語りたい、と思った。
 自分が出来るだけ平静でいられるように。
 嵐は川のほとりに近寄ると、袖から紙のような物を取り出し、身を屈めてそれを川の流れにそっと散らした。その白い色は水の流れに押され、あっと言う間に小さくなった。
「…今のは?」
「紙垂(しで)や」
 短く問うた若雪に、嵐が簡潔に答えた。
 紙垂は通常、注連縄(しめなわ)などに垂れ下げられることが多い。
「さっき若雪どのを兵庫らに襲わせた場所には、俺が紙垂を、あの一帯にある四方の木々に張ることで、略式の結界を張ってたんや。巡り灯篭の術程に強うはないけど、ある程度人を寄せ付けん効果がある。関係の無い人間を、介入させる訳にはいかんかったんでな。旅人の一人もおらんかったやろ?…そういうことや。水場の確保は忍びとしても大事なことやけど、陰陽師には違う意味で川が重要なんや。穢れや術に使った物は燃やすこともあるけど、こうして水に流すことで、始末をつけることも多いさかいな」
 それでは嵐は、今まで赴いた先々の土地で、常に水辺の在り処を確認してきたのだ。その為、この河原にもやすやすと若雪を導くことが出来たのだ、ということが若雪にも理解出来た。
「若雪どのが近くにおる時は、なんでか知らんけど術がよう効く。巡り灯篭の術を施した時も思うたけど、術の行使で引き出される霊力が、増すみたいなんや。なんでやろな…」
 嵐は独り言のように言った。
 昼を過ぎた日の光に照らされて、水が眩しく輝いている。
「…結界は、今、この場にも張ってある。―――――――――せやから、今ここでする話は、俺ら二人以外の誰も聴くことはない、ちゅう訳や」
 その言葉は、嵐が今から話す内容を、若雪に確信させた。
 嵐は、極めてさりげない様子で話を続けた。
「相変わらず、鮮やかなお手並みやったな。兵庫の二丁鎌なんぞは、忍びの間ではそれは恐れられとるんやで…。あいつを軽くあしらえるような女子は、日(ひ)の本(もと)広しと言えども若雪どのくらいなもんや。まあそれくらいやないと、死んでも誰ぞの旗下(きか)に収まるような奴やないけどな。若雪どのは、父君から剣を教わったんか?」
(ああ、やはり―――――)
若雪は思い、目を閉じた。
 そうすると、頬にあたる秋風がそれまでよりひやりと冷たく感じられ、川の流れの音が少しばかり大きく、耳に響いた。
「――――そうです」
 冷静に答えたつもりだったが、川の流れる音を背景に、若雪自身にも、答えた声音は固く感じられた。
 目を開けると、再び涼やかな流れが眼前に現れた。
「……静かな剣捌きやな。初めて見た時から思うたわ」
「そうでしょうか。それにしても、あのような不意打ちにはさすがに少し驚きました。兵庫も斑鳩も、大層腕が立ちますね。嵐下七忍が皆あれ程の腕前だとしたら、敵に回すのは脅威でしょう」
 嵐の淡々とした物言いに耐え切れず、若雪は強引に言葉を繋げた。
 若雪のそんな反応を半ば見越していたかのように、嵐は動じることなく続けた。
「あの剣捌きはまるで、」
「私は加減をしかねて、危うく――――、」
 二人の言葉が、互いに打ち消し合うように重なった。
「―――――まるで刺客のようや」
「危うく、殺めてしまうところでした――――――――」
 そして二人は同時に口を閉ざした。
 川の流れが、サ―――、と響いた。
 水と、木々の匂いが混じったものが、鼻をつく。
 先に再び口を開いたのは、嵐のほうだった。
 嵐は、視線をずっと川の流れに向けている。若雪に目を向けて語れば、今以上に彼女を弾劾(だんがい)し、追い詰めることになるような気がしたからだ。それは嵐の本意ではなかった。
「父君は、どんな人やった?」
「――――清廉(せいれん)な方でした」
 目を向けなくても、血の気の引いた若雪の顔が見えるような、切羽詰まった声だった。
「………言い方を変えるわ。父君は、どんな意図で、若雪どのにあんな剣を仕込んだ?…気付かんあんたでは、なかった筈や」
「―――清廉な方でした!父は。…私に言えるのは、それだけです。嵐どのは一体、何が仰りたいのですか?」
 若雪の声は、既に真実を悟りつつ、それを否定しようと足掻(あが)く人間のそれだった。
 嵐は、痛ましいような思いで目を伏せたが、語ることを止めはしなかった。
「自分で言えんのやったら俺が言ったるわ。若雪どのの父君は―――」
「嵐どの!」
「父君は若雪どのを、」
「お止めください!」
 若雪が悲痛な叫び声を上げて、耳をふさいだ。
「……あんたを、刺客として育て上げようとしてたんちゃうか」
「―――――――私には何も解らない!!」
 若雪は叫び、嵐を睨むように見た。嵐もその時に至って、ようやく若雪を見た。
 視線が交じり合う。
 追い詰められた色を宿しているのは、やはり若雪の目だった。
「嵐どのにも、本当にはお解りになる筈も無い……。嵐どのは、それを追及してどうされようと言うのです。死者に鞭打とうとでも、お考えですか」
 若雪の口調は、いつになく苛烈(かれつ)だった。
 清らかな水の流れも、今の若雪の目には入っていない。
「俺は―――」
「今、あなたが仰ったことは、私を何度も苦しめた猜疑(さいぎ)と同じです。今となっては最早、確かめる術も無く、また、その疑いを裏付けたとしても、何の益も無い」
 苦い物を噛み締めるような口調でそう言いながら、若雪は思い返していた。
(父様はいつでも、あまりお幸せそうには見えなかった)
 それは、若雪たちに笑いかける時でさえ――――――。
〝父上から剣を学ぶのは、もう止めろ!〟
 長兄の太郎清隆(たろうきよたか)からそう言われたのは、惨劇の起こる少し前のことだった。
 いつも明朗快活(めいろうかいかつ)だった兄が、怒ったように、いつになく真剣な顔で若雪にそう言った。
(太郎兄も、気付いておられたのだ……)
 悲しみの中で、若雪はそうと察した。
(…偽りでも良かった)
目隠しした状態であっても、それで良かった。その目隠しは、自分で自分に施したものだったからだ。綺麗に彩られた記憶の中に在る、兄弟と、母と、そして美化された父の姿を、ずっと自分自身に信じ込ませていたかった。美しいだけの過去を、大切に守りたかった。あの悲劇が起こるまでは、一点の曇りも無く幸せな日々を送っていたのだと、自分に繰り返し言い聞かせて。
そのようにして、黒い滲(し)みのような疑惑を、無いものとして過ごそうとした。
若雪の父は、若雪に闇の剣を学ばせた以外は、公明正大で、実際、清廉な人だったのだ。
そのまま黒い滲みを忘れていられれば、どんなに良かっただろう。
 けれど自分の記憶を偽り続けることには無理があると、今では若雪にも解っていた。
 嵐の言葉は偽りの覆いを取り払い、それを若雪に再認識させたに過ぎなかった。
「別に、若雪どのの父君を貶(おとし)めるつもりは無い。―――――そんな権利も俺には無いしな。俺は単に、便・不便の話をしたいだけや。いつまでも剣戟の音を消す癖を引き摺るんは、若雪どのの不利になるやろ。音を消すことを心がけるぶん、いらん手間がかかるからな。…この先、若雪どのが闘いの場に身を置く機会があるかどうかはわからんけど、万一いうこともある。ひょっとしたら、今のままでは通用せん相手に出会うことも、あるかもしれん。簡単な話やないやろけど、覚えた太刀筋を、一旦忘れてしもたがええ。剣戟の音を恐れんな。……父君も亡き今、若雪どのの剣に静けさを強いる人間は、もう誰もおらんやろ。おるとしたら、それは若雪どの自身だけや」
 嵐は静かな、しかし芯の通った声で若雪に語りかけた。
 嵐が当面心がけるべきことは、若雪が剣を取らざるを得なくなる状況を、未然に防ぐことだ。このまま、一生剣術とは無縁の生を送れば、剣戟云々といった話も問題ではなくなる。嵐下七忍を若雪の盾としても上手く使えば、それは不可能なことではない。
(忘れたほうがええ―――)
 忌まわしい、暗殺の為の剣捌きなど、若雪には似合わない。結局のところ、当時の小野家当主が何を考えて娘にそんな剣を教えたのか、真相を知る者は誰もいないのだ。
 若雪の剣捌きに、嵐と同様な疑念を抱く者がいるとすれば、稀に彼女と立ち会うか、それを目にする機会を得た一流の武芸者くらいのものだろう。
 小笠原元枝のような人間は、そうは現れまい。
 嵐は目を細めて思い起こしていた。
〝嵐どの。お主、若雪どのの剣の在り様を、実のところどう思う〟
 酒肴に招かれた晩、お互い相当に酒が入った頃合いを見計らうように、元枝がそう尋ねてきた時、嵐は内心ぎくりとした。
 だがそれを隠すように、極めてふてぶてしい表情をして見せた。
〝どうって、どういう意味や?〟
 問いに対し、問いを返してはぐらかした嵐を、元枝は酒で少し赤らんだ顔でじっと見た。そして微かに笑いをこぼすと、それ以上は何も言わなかった。
(山田正邦は――――――)
 知っていたのだろうか、このことを。
 嵐はその可能性について考えてみた。
 もしも、小野家当主が娘に仕込んでいた剣術の種類やその目的を知っていた上で小野家を討滅したのであれば、所業が正当化されるとまではいかないまでも、その行為の意味もまた違った色合いを帯びてくる。
(…いや、それは無いな)
 嵐は思いついた可能性を、自分で打ち消した。
 最後に見た正邦の様子を思い出す限り、彼がそこまで小野家の内情に通じていたとは思えない。何より、知っていれば必ずそのことに言及した筈だ。そう思い至り、嵐は少しほっとした。若雪の、正邦に対する憤りの正当性が、揺らがずに済んだことへの安堵だった。
 また嵐は、音を消すという枷をつけられて尚、悠然と剣を繰っていた若雪が、その枷を外した時どれ程の力を発揮するのかを考えると、檻(おり)に収まっていた虎を、むざむざ野に放つような真似を自分がしているような気にもなった。それでも、闇に生きるような剣は捨てろと、言わずにはいられなかった。若雪への確かな信頼があればこそ、忠告する気にもなれたのだ。
「……嵐どのは、私が剣戟の音を響かせて、―――今より尚、多くの人を殺める程の力を持つようになったとしても、私を恐れずにいてくださいますか」
 暫く黙っていた若雪が、嵐に尋ねた。探るような口振りだった。
 丁度胸の内で考えていたことを、読んだような若雪の問いに一瞬だけ嵐は驚いたが、その驚きを面には出さずにあっさり答えた。
「当たり前や。なんで俺が、若雪どのを恐れなあかんねん。枷(かせ)が外れて、今より多少強うなるくらいで、簡単に俺が若雪どのに負けると思うなよ」
 嵐の乾いた口調に混じる虚勢はほんの僅かで、嵐が本気で、若雪に武術において勝るつもりでいることが感じられた。
 その矜持の強さ、どんな難関であろうと突破してやろうという負けん気の強さこそが、嵐の真骨頂とも言えた。そして嵐は、自らの言葉を実行する為の努力を決して惜しもうとはしない。筋は通す性分だった。
 若雪は少し、ポカンとしたような顔をした。
(…意図しておられるようにも思えないが。――――なぜだろう。嵐どのはいつも、手厳しいようでいてその実、私を安心させる言葉をくれる……)
 今、自分の発した言葉が若雪の心をどれだけ安らげたか、きっと嵐は気付いていないに違いない。
―――――――今朝詠んだ夢違誦文歌は、確かに効果があったのではないだろうか。
 若雪にはそう感じられた。
〝若雪…。そなたのその、人の身に過ぎる程の力は、神よりの賜(たまわ)りものなのやもしれませんね……〟
 かつて、幼い若雪の髪を優しく撫でながらそう言った母・若水の顔は、微笑んでいながらもどこか悲しそうだった。
(…―――――賜りものなどいらない。普通の人として迎え入れられ、その温もりの中で生きていきたかった。――――――けれど、母様。嵐どのは、私が例え何者であったとしても、構わないようです。負けるつもりも無いと、仰せです。…私は、嵐どのに会えて良かったと、そう思っています)
 胸中で、若雪は静かに母に語りかけた。
「若雪どのの父君も、叔父上も、あんたを利用しようて考えを持っとる点では同じや。―――――つくづく、若雪どのは庇護者に恵まれんな」
 若雪の胸の内には気付かず、嵐は溜息を吐きながら言った。
 目の前を流れる川から頭をのぞかせた石に、白と黒の二色の柄の鶺鴒(せきれい)が一羽とまり、長い尾を上下に振ると、また飛び立った。
「嵐どのもですか?」
「え?」
 鶺鴒の姿を見るともなしに目で追った嵐は、不意に若雪に問われて、訊き返した。
「嵐どのも、私を利用したいとお考えですか」
「―――そう考えて用心するに、越したこと無いで」
 少し思案してから、真面目な口調で嵐はそう答えた。
 今回の腕試しにおいて、嵐が、若雪の守りを厚くしようと意図していたのは事実だ。
 雄々しさと繊細さが混在する、複雑な内面を持つ若雪に、何をしてやるのが最善なのか掴み切れないながら、自分に出来ることをしてやろうと考えていることも。
 けれどそれだけの思いで動いた訳ではなかったことは、誰より嵐自身が良く知っている。
純然と、若雪の為だけを思っての行為ではなかった。
嵐にも若雪にも、双方に利がある、と思った末のことだ。
(俺はまだ、女一人の為だけに生きることは出来ん)
 誰よりも自由に、鷹のごとく空を舞い続けたいと願うのであれば。
 囚われる訳にはいかないのだ。
「…そうですか……」
 どこかほっとしたように言う若雪を、訝(いぶか)しむように嵐が見た。今の自分の答えに、若雪が安堵する理由が解らなかったからだ。
 本当に警戒するに足る人間は、自らをそうと言い指すことは無い。
 若雪の安堵は、その考えから出たものだったのだが、そうと知らない嵐は言葉を続けた。
「とにかく若雪どのは、寄って来る人間をもっと疑ってかかれや。あんたが案外無邪気に人を信じても今まで生き延びて来れたんは、出鱈目な強さがあったからや。いつまでもそれに寄っかかってばっかではあかん」
 気が付けば、いつもの小言のような口調になっていた。
「私は誰の前でも、簡単に隙を見せているつもりはありません」
 いくらかむきになって若雪が反論した。
「へえ、さよか?とりわけ山陰から戻ってこっち、俺の前では、結構若雪どのは隙を見せとる思うたけど」
 些か意地の悪い口調で嵐が指摘した。
「それは…、そうかもしれません」
 この素直な返答には、むしろ嵐のほうが詰まった。それだけ信頼しているのだ、とあっさり言われたも同然なのだ。
「――――若雪どのはいっつも、正直でいられて楽でええな」
 つい、憎まれ口を叩く。
 さすがに若雪も気色(けしき)ばんだ様子を見せたが、言葉に出しては何も言わなかった。それが嵐の苛立ちに一層の拍車をかけた。
(言い返せばええもんを)
 少し前とはまた異なる、不穏な空気が漂う中で、二人共、口を噤んでいた。
 空の高いところを、鳶(とんび)が鳴きながら旋回(せんかい)していた。

「嵐どの、申し訳…ありませんでした」
 丹比道に戻り、再び富田林を目指して歩き始めた二人の沈黙を、先に破ったのは若雪だった。
「何が」
 怪訝そうに嵐が問い返す。
「…父の…ことです。私の、身勝手な感情に任せて、嵐どのを責めてしまいました。……後ろめたさのあまり、八つ当たりをしました。申し訳ありません」
「…………」
 若雪は消沈した様子でそう言ったが、嵐にとってはあの程度の反発は予測の範疇だった。
 何と声をかけてやるか考えていると、若雪が更に続けた。
「私は心が弱いので、辛いと思う物事からすぐに目を背けてしまう…。直面することから逃げて、無かったものとして過ごそうとする。それで済む筈もないのに。……私の、悪い癖です」
 訥々(とつとつ)と言う若雪の声は、悔いる響きを帯びていた。若雪の語る言葉は、人としてごく自然な感情だと嵐には思えたが、彼女自身はそんな自分をひどく責めているようだった。若雪が恐れ、目を背けようとしたのは、忌むべき剣を振るう自分の姿というよりはむしろ、そのような剣を覚えさせた父の姿の記憶だったということには、嵐も今では気付いていた。
「…大袈裟やな。気付いた時点で改めるんなら、もうそれでええやろ。……若雪どのが目を背けたいて思うた気持ちも、解る。実際、若雪どのが目を背けようとするんは、一人で処すには重いもんが多い。あんたが弱いんやない、背負うたもんが重過ぎるんや。そんな時は、信頼出来る周囲の人間に頼ればええんや。――――独りやないことを忘れんなって、俺は前に言うたよな」
 石見での話だ。山田正邦と対峙する前の晩、嵐は確かにそう言った。
「―――はい…」
 それでも、若雪は憂い顔のままだった。被り笠の下で、顔を俯けている。
(まだ自分を責めよるな……)
 若雪のこの、自責の念の強さはどうにかならないものか、と嵐は思った。
 必要と感じたとは言え、若雪を追い詰めるようなことばかりを言ったのは嵐のほうだ。
 結果として、まるで若雪を苛めたかのような負い目を、嵐こそが感じていた。
(機嫌を取ろう――――)
 富田林まで行けば、市で何か気の利いた物が見繕える筈だ。
 沈み込んだ若雪の、気が晴れるような物を買ってやろう。
 若雪を横目で見ながら、どんな品であれば彼女が喜ぶか、嵐は今から考えていた。
 若雪の父の話とは別に、七忍を若雪に会わせたことで、若雪が今後突き当たるであろう悩みが、嵐には見えていた。その負い目をも自覚するぶん、若雪の憂いを晴らしてやりたい思いが、嵐の中に一層強くあった。

       三

 嵐と若雪は日暮れ前に富田林に着いた。
 嵐の予想した通り、町では市が開かれており、人の往来も賑やかだった。
 どの土地の市も、それぞれその土地ならではの特産物が売られており、若雪は地方の市を訪れるたびに物珍しく、目は並ぶ品物の上を泳いだ。
 こうした、人の集まる市特有の賑わいや活気が、若雪は好きだった。行き交う人の活き活きとした表情を見ると、どこか気持ちがほっと和むのだ。少し前まで表情を覆っていた憂いの気配も、今ではだいぶ薄らいでいる。
 そんな若雪に、嵐がさらりと尋ねた。
「若雪どのは今、なんか欲しいもんとかないんか?」
 若雪のような手合いには、回りくどい訊き方をするより、直截(ちょくさい)に問うのが最良だろう、と嵐は考えていた。その程度の察しがつけられるくらいには、彼女を知る時間があった。
 嵐の存在を半ば忘れ、商いをする人間や、品を手に取り見比べている買い手、種々の品などに目を泳がせていた若雪は、思い出したように嵐の顔を振り向くと、その質問にきょとんとした顔をした。少し考え込む素振りを見せて、答える。
「そうですね…。砥石(といし)、でしょうか。雪華の手入れをしたいと思いまして。質の良い物が無いかと、最近探していたのです」
 その答えに、嵐は暫く沈黙した。
 無表情だが、この顔は機嫌が良い時の顔ではない、と若雪も最近では解るようになっていた。
 嵐の意に沿わない答えだったらしい、と察した若雪は、慌てて思いを巡らし、他に欲しい物が無かったか、考えに考えた。
「――あ…、」
 一つ、思い当たる物があり、若雪は小さく声を上げた。
 何とか手に入れたい、と望んだ物ではある。
 けれど。
(けれどこれは……)
「なんや、なんか他にあるんか?」
 嵐が耳聡(みみざと)くその声を聞き咎(とが)め、せっつくように尋ねた。
「ええ、はい…あるのですが…―――」
 どこかそわそわした様子で若雪は言い淀(よど)んでいる。頬が少し、紅潮している。
「なんや、言うてみい」
 高価な品ゆえ気後れして言えないのかと思い、嵐が柔らかな声を作り、促した。
「けれど、その…」
「言えっちゅうとるんや」
 煮え切らない若雪に苛立った嵐が、ついに声を荒げた。
 短気な性分の成せる業だった。
「―――――六韜(りくとう)、です」
 ようやく聞き出した品の名は、しかし、またもや嵐の思ってもいない代物(しろもの)だった。
「…六韜?…って、…………あの…、書物の…?」
 呆気にとられ過ぎて思わずポカンとした顔で、嵐は訊き返した。
 間の抜けた声になってしまったのは、どうしようもなかった。
「そうです」
「………」
 少しの時を無言で過ごしたあと、嵐はにっこりと笑った。
 完璧に取り繕った、紛(まが)い物(もの)の笑みだった。
 笑顔でも作らなければ、若雪にひどい渋面(じゅうめん)を向けてしまいそうな気がしたのだ。
 努力の末に作られた笑顔だということは、若雪にもよく解った。
 そして、嵐はそのまま沈黙した。
 若雪もまた、所在無い心持ちで黙り込んだ。
 市の賑わいの中を、見目の良い、若い武士二人が一言も交わさず連れ立って歩く様は、少なからず人目を引いた。
 六韜は、後漢から隋の間に成立したとされる兵法書・三略と並び称される書物である。文韜・武韜・竜韜・虎韜・豹韜・犬韜の六巻から成り、戦国から漢代における兵法戦術が集成されている。
 普通に女子が欲しがる物と、かけ離れていることは明らかだった。
(……櫛とか、紅(べに)とか、反物(たんもの)とか、香とか、組紐(くみひも)とか)
 黙り込んだままの嵐の胸中に、呆れを通り越した不満の言葉がふつふつと湧いていた。
(もっと女らしい品が色々あるやろが。なんやねん、この女)
 思い切り、肩透(かたす)かしを食った気分だった。
 しかし、こちらから尋ねた上で女性当人が、欲しい、と望む物に難癖をつけるのは、男としてみっともない気がする。
 嵐にも面子(めんつ)というものがあった。
 男としての意地も、あった。
 仕方無い、相手は若雪なのだ、と思い、自分を納得させることにした。気持ちの切り替えは、嵐の得意とするところだ。
「―――まあ、若雪どのらしいて言えば、らしいけどな……」
 今では諦観の境地で、軽く吐息をこぼしながら嵐が呟いた。
 その声は小さかったが、若雪の耳には届いた。
 若雪は思わず身を縮めた。
(やはり呆れられた…。そうだろう。全巻で六冊に及ぶ上、そう簡単に手に入る書物ではない。……高望みが過ぎると、思われたのだ)
 若雪は自分の答えを悔いていたし反省も十分にしていたのだが、その内容は嵐の心情とはだいぶ隔たったもので、実際ずれていた。
「若雪どの、妙善寺には一人で行けるか?もう、すぐ先の通りやけど」
「――――はい」
(まだ怒っておられるのだろうか…)
 不意に嵐に訊かれて、若雪はそう思った。
 六韜という答えに呆れるあまり、為替を持って一人で行って来いと、嵐が意地の悪い思いから言っているのでは、と咄嗟に考えたのだ。
 この考えは若雪を再び消沈の淵に沈めた。
「なら、この件は若雪どのに任せた。俺はちいと、他に用があるさかい。あとで、宿で落ち合うことにしよ」
 そう言って嵐は、市の近くに門を構える宿を、指差した。
「はい…。承知しました」
 若雪はやはり、と思いつつも力無い声で嵐に請け負い、悄然(しょうぜん)とした足取りで妙善寺のある通りへ歩いて行った。

「あーあー、可哀そうに。若雪様、相当に落ち込んじゃってますよ。良いんですか、嵐様?」
 飄々(ひょうひょう)とした声で嵐の脇から声をかけたのは、姿を消した筈の兵庫だった。
 相変わらずの野良着姿で、両手を頭の後ろに組んで立っている。二丁鎌は、今は腰の後ろに挟み込んである。怜悧な空気を完全に消し去った普段使いの表情は、気安い色男にしか見えない。おかげで異性受けは非常に良い。忍びとしては好ましいことだ、と嵐は思っている。だが、若雪の周りをうろつかれるのは、正直な所鬱陶しい。
 任務に赴く時以外は気紛れな行動を取りがちなこの男が、自分たちを追って来ていることに嵐は気が付いていた。
「しょうもないこと言うてる暇があんねやったらお前も手伝え、兵庫。多少高うついてもええ、若雪どのが見たら小躍(こおど)りして喜ぶようなもんを探すんや。あの石頭、今に見とれよ」
 兵庫は軽く咳払いをした。主への忠言も、職務の内である。
「――――嵐様、女子に贈る物を探す男の言葉じゃないですよ、それ。と、言いますか、あの方が小躍りする姿って、俺にはちょっと想像出来ないですけどね」
 狐とか狸が踊るっていう光景のほうが、まだ現実味がありますよ、と兵庫は遠慮無い言い草で続けた。
 嵐はもう兵庫には構わず、目の前に並んだ櫛の列を見遣った。
 どう望んでもこの市で六韜を入手出来ないことは明らかで、ならばそれ以上に彼女が価値を見出すような品を探す他無かった。
 その目は据わっている。
(…塗りが荒い。これは柄に工夫が無い。…貝が少し剥げとる。ようこんな傷物売れんな)
 そうして、一つ一つ、品を手にしてはためつすがめつ眺め、また元の場所に戻す、という作業を繰り返す。
 品定めの手伝いをするでもなく、その様子を見ている兵庫は呑気だ。
「駄目ですねえ、嵐様。苛立たしい、と思う時程、そこをぐっと堪えて優しくしてあげないと、嫌われちゃいますよ。良品を見繕えば済む、って話じゃないですよ」
「やかましい。お前みたいな女泣かせに言われとうないわ」
 嵐が品物を取る手を止めぬまま、低い声で兵庫に答える。痛いところを突かれたような思いと、むっとした思いが相半ばして、言い返さずにいられなかった。
「いやー。それこそ、嵐様に言われたくないんですけど」
 何の彼のと話しかけてくる兵庫をつい相手にしながら、嵐は市の店を巡り歩いた。

 若雪が宿に着いた時には、もうすっかり日が暮れ、夜の寒気が宿の内にも忍び寄っていた。
「嵐どの、若雪です。入ってよろしいでしょうか」
 宿の人間に案内された部屋の、板戸の前で若雪は声をかけた。
「ああ…」
 少しくぐもったような返事を聞いて、戸を開ける。
 嵐が、部屋の奥のほう、板張りの床に寝転がっていた。
 顔が向こうを向いており、表情が窺えないものの、全身から「疲れた」という空気が漂っている。だらりとした風情の、そんな嵐を見るのはあまり無いことであり、若雪は軽く驚いていた。
(そんなにお疲れになる程の、用だったのだろうか…)
 嵐はその体勢のまま、部屋に入ってやや入口寄りに座した若雪に、尋ねる。
「どないやった?」
「今は全額の返済は無理、ということでした。当面払えるだけの額で折り合いをつける他無く、三貫を預かって参りました。―――――寺の者からは、何なら本尊である、阿弥陀如来像も差し出す、と言われたのですが、…さすがに受け取れませんでした」
「…そらそうやな。成る程――――納屋との繋がりを絶たへん為に、向こうも必死っちゅうことか」
 一貫は現代の十万円を超える。三貫は少なくない金額だが、妙善寺が返済すべき全額にはまだだいぶ及ばない。
 嵐がくるり、と勢いをつけて、疲れている割には軽やかに身を起こし、若雪に向かって胡坐をかいた。
「まあ、そんなもんやろ…。為替の支払いを怠る、いうことは商品を手に入れた側のほうが、実際の損失は大きい。信用を損なうことになるからな。それでも今に至るまで支払えんかったっちゅうことには、それなりの事情があったんやろな。叔父上も多分、妙善寺が全額支払えるとは、考えてへんかったやろ。――――あそことの取引の縁も、これまでやな」
 胡坐をかいた片膝に肘を置き、頬杖をして、いくらか物憂い風情で嵐が言った。
 そこで、板戸の向こうから声が響いた。
「お客さん、預かってたもん、持って来ましたで」
「ああ、そこに置いといてくれ」
 宿の人間と思しき声に、嵐が答えた。
 何のことか解らず小首を傾げる若雪の目の前に、嵐が板戸の外から持ち込んだ物をコトリ、と置いた。
 青磁の壺に、竜胆と様々な色の菊が活けられている。
 鮮やかな色合いを見せる花々に、若雪は目を奪われた。
「…これは?」
「―――若雪どのの、花や。あんたにやる。それから…、ちょう、手え出せ」
 まだあまり嵐の意図を理解出来ていない若雪が、言われるままに右手を差し出すと、その上にひやりと固いものが置かれた。
 光沢(こうたく)のある蛤(はまぐり)に入った紅(べに)だった。
 若雪はこれまで、紅を注(さ)したことが無かった。今のような男装の出で立ちで注したとしても、珍妙な様相になるだろう。
 けれど、こうした贈り物を貰い、何も感じない訳ではなかった。
「――――花は、嵐どのがご自分で摘まれたのですか…?」
「ああ、まあ。……壺と紅は、市で買うた」
 解説するように、嵐が付け加えて言う。
 納屋という大店で、一級の品ばかりを見てきた嵐の目は当然のごとく肥えており、納得出来る品を見出すまでには相当な時間を費やした。
 おかげで常に無い疲れ方をしてしまった。
「紅は当分注すこと無いやろけど、小袖を着る頃合いになったら、使うとええ」
 若雪の目は、手の上の紅と花を、じっと交互に行き来していた。まるで目を離すとそれらの品が消えてしまうと恐れてでもいるような、慎重な視線の動きだ。
(……意地悪ではなかった…。私に、そうと知らせずこれらを手に入れる為に、市を見て回ってくれたのだ――――)
 疲労困憊(ひろうこんぱい)して床に転がる程に。
 その表情を、窺うように嵐がじっと見ている。
「…竜胆の花が好きだと、嵐どのにお伝えしたことがありましたか?」
「――――いや。…好きな花やったんか?」
 考えていなかった、という顔を嵐がした。
 嵐は、この季節に手に入る花で、出来れば鮮やかな色味のものを、ということだけを考えていて、若雪の花の好みにまでは思い至らなかった。竜胆の花の濃い青紫を、単純に美しいと感じたのだ。
「はい。とても、好きな花です。昔から―――」
 若雪の顔に、晴れ渡った空のように、明るい笑みが広がった。見る者の心まで晴れるような、邪気の無い、幸福そのものにくるまれた人間の見せる笑顔だった。
 微かに恥じらうようにして、言い添える。
「紅も、大切に致します。…いずれ、注せる日も来るでしょう」
 大切な宝物を手にした子供のように、若雪は両手でそっと紅の入った貝を包み込んだ。
「…………」
 嵐の目に叶った品は青磁の壺は無論のこと、紅花(べにばな)を贅沢に使った上質の紅においては、嵐の予想をはるかに上回る程高値だった。買うか買うまいか暫く店の前で躊躇したが、思い切って買って良かった、と嵐は今、心底から思っていた。
 同時に、してやったり、という思いも、もちろんあった。
 花と紅を受け取った若雪の反応は、嵐を十二分に満足させるものだった。自分でも思いも寄らなかった程の、ほっとするような喜びが、嵐の心の隅々(すみずみ)までを温かくした。
(―――あんな風にも、笑えるんやないか)
 哀しみも憂いも含まず、まして寂しいような決意を秘めたものでもない、ただ純然と喜びにほころぶような若雪の笑顔を、嵐は初めて目にしたと思った。

 夕餉(ゆうげ)を終えると若雪は、少し一人で考えたいことがある、と言って宿の裏手に出た。
 嵐はその言葉を聞いて一瞬若雪の目を見たが、胴服を着て、身体が冷える前に戻って来い、とだけ言って送り出した。
泊まるつもりも無く、支度もして来ていないので、今晩は夜着に着替えろと言われずに済みそうだと、若雪はその点ではほっとしていた。無論、着替え中は室外で待っていてくれる嵐だが、それでも恥ずかしい思いはあったし、夜着に着替えた若雪を凝視したりするような嵐ではないとは言え、夜着姿を見られるのにも恥じらいや抵抗はあった。
(兵法書を欲しがるような私でも、女子としての恥じらいはある……)
 山陰からの道中でも、そのように物申したい思いはずっとあったのだ。
 あまり手入れをする余裕も無いのだろう、宿の裏手は雑草が丈も長く生い茂っていた。
 草の上に降りた露が、そこかしこで綺羅(きら)と光っている。
 星の多い晩だった。
 天と地、それぞれに散る輝きの間に、若雪は立っていた。
 吐く息は、少し白い。
 雑草が茂る先には雑木林が続いていた。
 嵐から思わぬ贈り物を受け、気持ちの華やいだ若雪だったが、それとは別に思案しなければならないことがあることも、忘れなかった。嵐下七忍と引き合わされたことで、若雪の胸にはある懸念が生じていた。
 若雪は、家族を守りたいと願っていた。
 それは嵐であり、宗久であり、兼久であり、志野だった。
 ただ、嵐下七忍との繋がりを持ったことで、物事はそう単純なものではないのだ、と気付かされた。
 初めて会ったころの嵐は、宗久の為に動くことに何の躊躇いも不満も無く、むしろそれを生き甲斐としているように見受けられた。
 その心情は、若雪が堺から離れていた三年余りの間に、若干の変化があったようだった。
 今の嵐は、依然として納屋に利がある方向に動いてはいるが、宗久の思惑にただ単純に従う以上に、自分の考えを持って積極的に行動しようとしている。
 若雪と嵐下七忍を引き合わせたことも、嵐が独自に考えてとった行動だろう。
 それらの事実は若雪に、この先、宗久と嵐との間に起こり得る対立を予感させた。
 それは、少し前までは思いも寄らない想像だった。
(養父上と、嵐どのが意見を異にし、その末に反目(はんもく)することになった時、私は一体どうすれば良いのだろう)
 それは容易に答えの出る問題ではなく、若雪の頭をひどく悩ませた。
 宗久は、命の恩人だ。山田正邦の討手から若雪を守るべく人を遣し、納屋という居場所を与えてくれた。
 対して嵐は、言うなれば心の恩人だった。深過ぎる哀しみに麻痺(まひ)し、壊れかけていた心を救い、正邦を殺めることで闇に沈むかもしれなかった心を、別の道の存在を照らすことで救った。もしも正邦を手にかけていれば、自分が堺に戻ることもなかっただろうと、若雪は納屋に帰着してから思い至っていた。
 ―――――――かけがえない人間なのだ、二人共。
 若雪は手近にある草の一つに手を伸べ、その上に乗った光る露を、戯(たわむ)れに散らした。
(今の世における人の命も、きっとこの露のごとく儚いものだ……。私たちは、小さな儚さの中で、喜び、怒り、笑い、泣いている―――…)
 なればこそ愛おしい命なのだと、若雪には思えた。
(……嵐どのは、七忍を私に会わせようと考えた時点で、私をご自分の陣営に組み込もうと、きっと考えておられたに違いない)
 そうして、その意図を察した若雪が、宗久と嵐の間で懊悩(おうのう)することは解っていた筈だ。
 花や紅という贈り物を渡そうと考えた嵐の胸には、罪滅ぼしの念が少なからずあったのだろう。
(それでも…)
 若雪は紅の入った貝を大事に握り締める。
 思惑がどうであれ、嬉しかったのは事実だ。
(それに嵐どのは、私を追い詰めたと感じたぶん、その責任は必ず取るお人だ。自分が成す行為の、成した行為の結果を把握し、その後始末を確かにやり遂げてみせるお人だ……)
 露の降りた草の中に立って考え込んでいた若雪の袴の裾は、今ではだいぶ濡れていた。
 冷たい感覚を足に感じながら、星空を見上げて若雪が口を開いた。
「―――――私に護衛が不要だということは、よく解っていると思うのですが。なぜ、まだそこにいるのですか?」
 しばしの静寂ののち、雑木林の木々の間から、兵庫が姿を現した。
「またえらく敏(さと)いんですね、若雪様。こうもあっさり気付かれちゃ、俺は忍びとしての自信を失くしちゃいますよ。俺がお二人のあとを付いて来てること、ずっと解ってたんですか?」
 露の降りた草を踏み分けて近付いて来ながら、つまらなそうな声で尋ねた兵庫に、答える。
「上手く言えませんが…、人の発する熱や空気には、独特なものがありますから、その気配で何となくわかるんです。…けれど…、河原では気付きませんでした。丹比道に戻ってからです。追って来る気配に気付いたのは」
「ああ、河原はね…。嵐様が結界を張ったでしょう。だから近付けなかったんですよ」
 ごくあっさりと兵庫が答えた。
「なぜ、まだ私たちのあとを追っているのですか」
 若雪が初めの質問を繰り返した。
「あなたに興味を持ったので。もう少し、見ていたくなりました」
 またあっさりと兵庫が答えたが、若雪には今一つ得心がいかなかった。
 口説(くど)き文句のような返答だが、兵庫の口調は軽く、乾いていた。
「それより若雪様、嵐様からなんか良い物、もらったでしょう」
 にんまり、とした顔で兵庫が言った。
「――――はい。市での会話を、聴いていたのですか?」
「ああ、いえ。若雪様が嵐様から離れるまで、そこまで近くには行けませんでした。あんまり首を突っ込むと、嵐様に怒られそうでしたしね…。贈り物は、お気に召しましたか?」
「―――はい、とても」
「…そうですか」
(上首尾だったようだな)
 思わず、といったように笑みを浮かべて答えた若雪を見て、兵庫は思った。
 花について助言をしたのは、兵庫だった。
〝金がかかってない贈り物でも、女子によっては喜ぶものですよ〟
 嵐は胡乱な眼差しでそんな兵庫を見たが、少し顎(あご)に手を添えて考えると、地元の百姓に近くで花の咲いている場所を尋ねた。そのまま教わった場所まで出向き、あまり納得がいかない様子で菊だの竜胆だのを手折っていた嵐だが、その甲斐があったと今では思っていることだろう。
「欲しい物を訊かれた当初は、実用ばかりを念頭に答えたので、嵐どのを困らせてしまったと思います。私はこういうことに、少し疎くて………」
 苦笑いを浮かべた若雪の言葉に興味を引かれ、兵庫が尋ねる。
「初めは何を欲しいと言ったんですか?」
「…砥石を」
「はあ。砥石」
 兵庫は気の抜けたような声を出した。
「それから、―――――六韜、と答えました」
「……兵法書でしたっけ?」
「はい」
 兵庫は思わず、若雪の答えを聞いた時の嵐に、同情を禁じ得なかった。
「ああ、なんか今、嵐様の苦労が解ったような気がします―――」
 しみじみとした声でそう言うと、兵庫は改めて「六韜、ね…」と呟いた。それから肩を震わせ、堪え切れないように爆笑した。
「面白い、面白い」と言いつつ、腹を抱えて笑い続ける兵庫を前に、若雪は些か憮然とした。
 顔も、赤くなっている気がする。幸い今は夜であったが、空には明るく輝く星が瞬いており、夜目のきく忍びに顔色まで見通せるかどうか、若雪には判別出来ない。
「―――兵庫は、私と嵐どのがそれぞれ異なる命令を―――、場合によっては対立する命令を下したら、どうしますか」
 兵庫の笑いが収まるのを待って尋ねた若雪に、兵庫が意表を突かれた顔をした。
 が、すぐに納得したような表情になる。
「ははあ、今井の旦那と嵐様のことでお悩みですか」
 若雪の懸念を、素早く察した言い様だった。
「そうですね…。その仮定の場合、俺の判断基準は利と義の二つですかね。その二つを含める色合いが、より濃いと判断したほうの命令に従います。主命に唯々諾々(いいだくだく)と従うだけじゃなく、そのあたりを自分で見極め、見定める能力もまた、忍びには不可欠なものなんですよ。これが俺の答えですけど。若雪様の場合は、また状況も立場も異なるんで、あんまり参考にならないんじゃないですか?」
「いえ…、そうでもないです」
 言って若雪は、拳を口元に当てて考えた。
(自分で見極め、見定める……)
 いよいよ事態が差し迫れば、若雪にも、嫌でも選ばねばならない時が来るだろう。
 宗久につくか、嵐につくか。
(けれどその前にまだ、出来ることがある筈だ。双方に必要とされ、近くにいることの許される私だからこそ、両者の間に立ち、お二人が共に携(たずさ)える手の、離れることがないように努力することも、可能な筈だ。それが私の願いであり、役割なのだと考えよう――――)
 今井家内部の分裂は、納屋の為にもなる筈がない。
「お心は、決まりましたか?」
 笑みを浮かべる兵庫の顔を、ふと見つめる。
「――――兵庫は、自分の下す判断に、命を懸けているのですね。どんな時でも」
 不意に若雪が感じたそれは、恐らく忍びの本質だ。すなわち嵐の本質にも繋がる。
 兵庫の笑みが深まった。
「そうですよ。俺たちのような生業は特に、その時その時の判断が常に、生死の選択に繋がります。――――俺が今日まで永(なが)らえてここに在ることは、その判断の正しさの積み重ねの現われであり、そのまま俺の誇りです。そして俺は多分、自分が死ぬ時も、きっと自分の判断に満足しながら死ぬでしょうね。あえて終焉(しゅうえん)の地を、自分で選ぶんでしょう」
 そのくらいの自信はありますよ、と言って、兵庫はそれまでよりは控えめな笑みを見せた。
 聡(さと)い男だ、と若雪は思った。理を知り、利を知り、己の分を良く弁えているが、自分の力量を過小評価することもない。
 嵐下七忍という集団の有能さが、兵庫一人を見ただけでも推し量れるというものだった。

       四

 富田林より堺に戻り、数日後の早朝、空の白む気配もまだ遠いころから、嵐は既に夜具をあとにしていた。
 宗久の邸の中で、最も早くに起きることが多いのは、実は忍びと陰陽師、更には商人をも兼ねる嵐だった。
 着替えを手早く済ませると、邸の庭を静かに徘徊(はいかい)し、草木に付いた、日を浴びる前の露を集めて回る。
 次いで自室近くにある大振りな石の付け根に置かれた、青、赤、黄、黒、紫の五色米の配置を確認する。五色米は、忍びの間で暗号文として使われるものだった。その内容は、中国地方に放っていた嵐下七忍の一人からの報告だった。
 米の並びを読み解き、表情はあまり変えぬまま、微かに眉だけを顰める。
(ぼんぼんの毛利輝元(もうりてるもと)は、やっぱり本願寺と組みよるか……)
 今や天下に迫らんとする信長に、上杉謙信(うえすぎけんしん)を盟主とした、諸勢力の反信長体制が出来上がりつつあった。その中には石山本願寺、紀州の雑賀集(さいかしゅう)なども加わっていた。
(謙信が、いつまで生きるか――――――――)
 それが信長の行末を左右する、大きな鍵であるというのが嵐の見立てだ。
(軒猿(のきざる)の目をかいくぐっての暗殺も、骨やしな…)
 優しげな顔で、物騒なことを考える。
 上杉謙信は家督を継ぐ若年のころより忍びを重用していた。上杉家の使う忍びは「軒猿(のきざる)」と総称され、武田信玄の使う忍び、「三ツ者」を凌がんばかりの有能ぶりで知られる。そんな軒猿の跋扈(ばっこ)する謙信の膝元まで、七忍を刺客として送り出すことは、あまりに危うい賭けだ。
(俺が行ったかて、殺されるかもしれん)
 いっそ陰陽術を用い呪詛でも行うほうが、まだ暗殺の成功率を上げるかもしれないが、嵐はその手の外法(げほう)には一切手を出さない主義だった。しかも謙信には、軍神・毘沙門天を始めとした諸神仏の加護がある。
早く信長に中国地方を平定してもらわなければ、自分たち納屋の人間も、小笠原元枝も、息をひそめて水面下での銀と諸物資の遣り取りを続けねばならない。商売を行う上で、やはり安定した基盤は欲しいのだ。
目前に並べられた米の並びは、そこまで考えを巡らせることを可能にするだけの、貴重な情報を嵐に伝えていた。嵐下七忍を使った嵐独自の情報網は、正確さと内容の充実において、宗久の忍びよりも勝っていた。
嵐は五色米の読み解きを終えてしばし思案したあと、集めた露の入った器を手に、部屋に戻った。
 集めた露を使い上質な墨をといて、これも上質な毛筆で、和紙に咒言(じゅごん)を一気に書きつける。同様にして、霊符を書き上げる作業を暫くの間黙々と続けた。
 空が明るくなるころには部屋を出て、朝日を拝み、生業繁盛の咒言を八回唱える。
「金伯五金(きんはくごきん)の気を呼び、全家(ぜんけ)の軸となる。百幸千福(ひゃくこうせんぷく)、今井家の金箋(きんせん)に集まり、五方化徳(ごほうかとく)、大皓金神(だいこうこんじん)、願わくば今井家に留まらんことを。奇一(きいつ)天心、奇増万全(きぞうばんぜん)」
 それから朝餉を食べる時間になるまで、納屋の帳簿に目を通して過ごした。
 こうした一連の作業が、宗久の邸で起居する日々において、嵐の日課のようなものになっていた。嵐が日頃より、様々な動作、物事の在り様につい細かく、口うるさくなりがちなのは、生業によって培われた慎重さと几帳面さの表れでもあった。
 また、それだけの作業を同時並行で行える、ということが、何より嵐の優秀であることを物語ってもいた。めまぐるしいと言うなら、嵐程にめまぐるしい毎日を送る人間は堺中を探しても、恐らくどこにも見出せないだろう。寸暇(すんか)を惜しむかのように、嵐は日々を駆け回り生きていた。

 その日の午前を、嵐は打掛の選別に費やした。
 信長から、正室である濃姫と、妹・市の打掛を見繕え、という要求があった為だ。信長はこういう際の金離れが良い。間違いなく上客であった。
 納屋の中でもとりわけ広い座敷には衣桁に掛けられた打掛が立ち並び、畳にも幾枚もの打掛が重ね置かれた。それは豪奢(ごうしゃ)な賑わいだった。
頭の中でそろばん勘定をしながらも、嵐は華やかな打掛の数々を自ら手に取り、真剣な目で品定めをしていった。選別は嵐に一任する、という指名があったのだ。
納屋の誰もが納得する、妥当な人選だった。
また、納屋の屋号を負って商品を納めるからには、僅かな糸のほころびさえ許されるものではない。しかも相手が相手である。気合を入れて昼までに選別作業を終えると、嵐は今朝こしらえたばかりの霊符を懐に、明慶寺へ向かった。

「蒼円、智真はおるか?」
 兼久は、明慶寺境内、仏殿近くの落ち葉を掃いていた蒼円に声をかけた。ただ落ち葉と言っても、その中には思わず目を奪われる程の美しい紅に染まったものもあり、そんな葉を見つけた時には嬉しくなって、蒼円は自らの目を楽しませながら竹箒(たけぼうき)を動かしていた。
 その手を止めて、答える。
「あ、兼久様。はい、方丈の自室においでです。ご依頼されてた絵、描き上げはったようでしたよ」
 蒼円は、今井家の人間が明慶寺にとっていかに重要であるか、日頃から兄弟子の僧侶や、住持より言い聞かされている。そして今井家の人間の中でも、この兼久は、相対すると蒼円がつい緊張せずにいられなくなる、最たる人物だった。伝える言葉を間違えないよう、一言一句を慎重に、はっきりした声を心がけて言った。
 その言葉に、兼久は口元を緩め、少しだけ笑んだ。
「さよか」
 そう言って唐門へと向かう背中に、蒼円はつい、言いそびれた。
(嵐様も、来てはった……。…まあ、お従兄弟同士やし、急に顔合わせたかて問題無いか)
 兼久と嵐の間の確執を未だ知らない蒼円は、軽い考えで結論付けた。

 滲み一つ無い、真っ白な足袋を履いて方丈内の廊下を歩く兼久は、丁度、向かいから歩いて来る智真と顔を合わせた。
「兼久どの」
 智真が目を見張っている。
 常よりやや大袈裟な反応を、少し訝しく思いながらも、兼久は口を開いた。
「頼んでた絵、仕上げてくれたそうやな。装丁はうちの抱えてる表具師(ひょうぐし)に任せるさかい、とりあえず今、見せてもろうてええか?」
 穏やかな口振りでそう言って、智真が自室の障子戸を開くのを待つ。
 絵の上手でも知られる智真は、茶室にかける為の掛け軸の絵を描く依頼を、兼久より受けていたのだ。
 智真がどこか迷うような素振りを見せつつ、障子に手をかけ、開いた。
 室内では、嵐が持参した護符を部屋の四方に張り付け終えたところだった。
 作業に集中していて廊下の会話も聞こえなかったようで、障子戸の開く音に振り返ると、そこに突然現れた兼久の顔を見て顔を硬直させた。
 そして、まるでその鏡であるかのように、嵐の姿を認めた兼久の顔もまた、微かに強張った。
「………」
 二人はそのまま身じろぎもせず、互いの顔を見返していた。言葉こそ無いものの、そこに漂う剣呑な空気は隠しようも無かった。
自室の障子戸を開けたままにする訳にもいかず、手をかけていた障子を、智真はいつになくゆっくりと閉めた。今から嵐と兼久の二人と同室で過ごすであろう時間が、穏やかなものになるとは思えず、予想される気詰(きづま)りな状態を智真は覚悟しなければならなかった。
しかしこののちに起こった事態は、智真の予想をはるかに上回り手に負えないものだった。

「あ、しまった、間違えた」

 智真が戸を閉めた途端、年齢不詳の男のような声がどこからともなく聞こえた。
 軽やかな風のようなその声が響いた、次の瞬間、室内が漆黒の暗闇に満ちた。
 互いの顔さえ見えない闇の中に、三人は唐突に放り出されたのだった―――――――。

 静寂と闇の中、暫くの間、三人は茫然として声も出なかった。
 無論、自然にこのようなことが起こる筈も無い。
 どこまでも広がる無音と完全なる闇は、人間に原初の恐怖を喚起させる。
 混乱に陥る三人の内、いち早く立ち直ったのは、通常とは異なる事態や物事に、それなりの免疫がある嵐だった。黙ったまま、頭の中で素早く思考を巡らせる。
 面倒なことが起きた、ということは嫌でも解った。
 静寂を破り、最初に口を開いたのは兼久だった。
「なんや、これは。……お前の仕業か?由風」
 淡々と静かに、だが確実に責める響きを帯びた声で、嵐に尋ねる。
 対する嵐の答えも静かで、感情は完璧に覆い隠されていた。
「こんなことしたかて、なんも俺の得になりませんわ。さっきの声、兼久どのも聞いたんとちゃいますか。――――あれがこの事態の、黒幕でしょう」 
「…………」
「嵐。私も兼久どのも、この手の領域のことはまるで解らんのや。お前になんか解っとることがあるんやったら、なんでもええから教えてくれ」
 強いて平常心を保つべく、努力しながら言う智真の声には、懇願の響きがあった。
「―――結界術の一つにも思えるけど、人為的な術の気配がせん。人の生きる現世(うつしよ)と、異界を繋げる術を操るんが、陰陽師であり、他の術者たちなんやけど、仲立ちに人が入ってたら、その気配なり痕跡(こんせき)なりは感じ取れるもんなんや。少のうても同業者ならな。せやけど―――――今、俺らがいてるこの闇には、仲立ちとなった人間のそれがまるで無い…」
 嵐は出来ればその先を言いたくなかった。
 極めて厄介な事態に陥っているのだと、駄目押しして確認したくなかったのだ。
「どこぞの神霊の仕業としか思えん……」
 嵐の感覚は、身を包む深い闇の気配を、ひどく澄明(ちょうめい)なものとして捉えていた。
 禍々しさや濁りが、この空間からは一切感じられない。
 闇に沈黙が満ちた。
 ただでさえ暗い闇が、その濃さを増したように三人共が感じていた。
「それは―――つまり、例えばどこぞの武将が直接に神霊を勧請して、ここに遣したとか、そういうことか?…なんかの、目的があって?」
「…さあ」
 覚束(おぼつか)ないなりに、思考する力を振り絞った末、発された智真の質問に対し、そこまでは嵐も知るところではなかった。そもそも明慶寺に神霊を遣す意図も、理解出来ない。
「私にはそうした理屈そのものが、よう受け付けられん。結界やら異界やら、簡単に口にしとるけど、ほんまにそんなもんが、現(うつつ)にあるんか?―――ここまでの影響を、持つ言うんか?」
「…はあ。信じるも信じんも兼久どのの勝手ですけど、今のこの、在り様をちゃんと把握してもの言うてますか?俺は、自分が知っとる世界の尺度での判断を、智真に訊かれるままに言うただけですよって」
 あとは知るか、と言外に冷たく突き放した。
 兼久は昔から、徹底して現実主義者だ。目に見えぬものの妖しさを懐疑し、否定してかかる。智真の体質さえ、未だに納得出来ていない。その気質は、嵐とそりが合わない大きな要因の一つでもあった。
 嵐が黙るとあとの二人も沈黙した。
 それにしても、と嵐は思う。
 男三人が暗闇に閉じ込められ、成す術も無く立ち往生している在り様には、些かうんざりするものがある。何が悲しくてこんな目に、と思ってしまうのが人情だった。
(華が無い……むさくるしい)
 こんな非常事態に思うことではないのかもしれないが――――――――。
「まあ、時間が経ったら自然と現世に戻れる場合もあるし、神霊の気が向けば案外早くに戻れるかもしれん――――」
 嵐は主に智真に向けて、気休めじみたことを言った。
 神霊の気が向かないままであればどうなるか、といった可能性は、この際考えないことにする。
 そこに、三人の内、誰のものでもない声が鳴り響いた。
「そうだね。でも、自然と戻れる、っていう安易な考え方は、捨てたが良いよ。僕もそうそう、こんな場を作れる訳じゃないから、手違いが起きたとは言え、ちょっと君たちを見学させてもらうつもりでいるんだ。うん…いや、観察、かな?」
 三人共、思わずぎょっとした。
 響いた声は、視界が闇に転じる前、「間違えた」と言ったものと同じ声だった。
 極めて軽やかで、どこか人間味を置き忘れたような声だ、と嵐は感じた。
 声の主が真実、神霊であるならば、それも当然のことではあった。
「…………」
 警戒心に黙り込んだ三人に向け、再び声が響いた。
「黙ってないで、何でも良いから、お喋りしてくれない?念の為に言っておくけど、君たちに選択の権は無いよ。僕にだって、滅多に無い機会なんだ。活用させておくれよ」
 呑気な声だったが、嵐たちはヒヤリとした。
 刃のような冷たさが、その声に含まれていると感じたからだ。
「……菊と、竜胆。壺に、紅、か」
 だしぬけに兼久が並べた言葉に、敏感に反応したのは嵐だった。
 暗闇であろうと、兼久の視線がこちらを向いてるような錯覚に陥る。
「由風、お前―――、女子に対しては気前がええな。しかも、あの品この品と、節操(せっそう)が無い」
 冷ややかな声だった。その上、明らかに刺(とげ)が含まれた言い様に、智真は混乱する。
彼には、兼久の言葉の意味がさっぱり解らなかった。
(若雪どの……)
 呻くような思いで、嵐は若雪の面影に文句を言った。
 富田林から戻って数日後、そういえば若雪は兼久に茶の指南を受けていた。
 その際に話したのだろう。
 しかし―――――。
 何でもかんでも、喋り過ぎではないのか、と思う。
 若雪は身内と見なした人間とは距離を詰め、打ち解けようとする。その警戒の解き方は無防備な程だ。それゆえのこと、とは解るものの、嵐の心中は複雑だった。
 嵐は、青磁の壺に活けた花を若雪が見て、喜んでくれればそれで満足だった。
 手荷物にもなるので、気前良く宿に置いて行こうとした嵐に対し、若雪が堺まで持って帰ると言って聞かなかったのだ。重ねて自分で運ぶ、と言い張る若雪に運ばせる訳にもいかず、結局、花が活けられた青磁の壺ごと、嵐が抱えて堺まで運んで帰った。道中、嫌という程に注目されたのは言うまでもない。それらは今、若雪の部屋の床の間に大切に置かれている。
 帰り道で好奇の目にさらされ、気まずい思いをした名残はまだ嵐の胸にあり、この暗闇に乗じて嫌味を言う兼久には、腹が立った。
 しかし嵐も、言われたままではいなかった。
「――――麝香(じゃこう)」
 ぼそり、と呟く。
 闇の中、微かにたじろぐ気配がした。
「香りもんは、茶道には向かんのとちゃいましたかね、兼久どの?」
 若雪が山陰より帰ってから、仄(ほの)かな香りを漂わせるようになったことに、嵐はすぐに気が付いた。忍びの嗅覚は伊達(だて)ではない。誰から与えられた香なのかも、容易に見当がついた。どうせ尤もらしい理屈を言いながら、兼久が若雪に渡したのだろう、と。そしてそれを、あまり疑問を持たずに受け取った若雪の様子も、ありありと想像出来た。基本的に人の心に聡く、鋭い若雪だが、ことこの方面に関しては、どこかしらおっとりしたところがあるのだ。本当なら若雪から取り上げて、すぐにも捨ててやりたいような気分だったが、それをしなかったのは理性ゆえではなく、癪(しゃく)に障(さわ)ることに、麝香の香りが確かに若雪に合っていると感じたからだ。
(俺が、気付いてへんとでも思うたか。なめんな)
 兼久は少し押し黙ったあと、口を開いた。そこから発された声は、いつものごとく静かだった。そうあるように、努めている風でもあった。
「……着るもんに焚き染める訳やなし。あの程度なら問題無い思うたから、香り袋を渡したんや。茶室に入る前日には、身から離しておけばええだけの話や」
 しれっと続ける兼久の言葉に、段々と智真にも話の流れが見えてきた。
 大の男が二人して、女子への贈り物について角を突き合わせ、嫌味合戦を繰り広げている――――――。
(なんちゅうか…。皆、思うたより好き勝手しよるんやな)
 智真は、若雪に対して遠慮した姿勢を保っている自分が、少しだけ馬鹿らしくなった。
「大体、若い女子のいてる部屋に、備前焼なんて地味なもんは似合わんと思いますわ。唐物の、青磁くらいの華やかなもんのほうが似合うんとちゃいますか」
「お前はまだ、侘びの何たるかを解ってへん。花は野にあるよう、さりげのう活けるのが相応しい在り様なんや」
「それは茶室の花に限っての話でしょう。なんでもかんでも茶室の花入れと同じにせんといてください」
「花入れの何たるかも知ろうとせん奴が、軽々しゅう言うんやない。そもそも常に見境無う動いて銭勘定しながら生きてるようなお前が、茶道の物真似をしよるのが間違いなんや。茶室を何やと思うとる」
「清らかなお心持ちの兼久どのには解らしませんやろけど、銭は生きてく上でそら大事なものですねや。あんたのお好きな茶室も茶道具も、銭無しにはいっこも手に入らしませんのやで。これまで今井家の財の恩恵をさんざんに受けといて、銭を蔑(ないがし)ろに言うんはちいと勝手が過ぎるんやないですか」
「銭がどうこう言うとるんやない。銭に対するお前の姿勢を、見苦しい言うてんのや」
 口論はまだ続いている。
 しかも二人共、平淡なのは声の調子だけで、完全に感情の流れるままにものを言っていた。おかげで話の趣旨も方向性もどんどんずれてしまい、先が見えない。
(きりがない…)
 智真は罵り合う二人の行き交う声を聴きながら、茫然としてそう思った。
 これは果たして、この闇を作り出した当の神霊の、意に叶ったことなのだろうか。
「……ええと、あの。二人共。多分今は、そんな話をしてる場合ちゃうと思う。こっから抜け出す方法、考えんと――――」
 そもそも、自分がこの二人に挟まれている現状はどうなのだ。よもや、神罰の一種とでも言うのだろうか。
そんな疑問を感じながら、智真は困惑混じりの声を出した。
それに応じるように鳴り響いた声は、何かを探るようでいて依然として冷たく、あくまで傍観者としての立場を貫きながら、嵐たちを突き放していた。
「ふうん、そっか。あんまり、面白くもないお喋りだね…。でもまあ、一つは解ったよ。大筋の流れは、まだ変えられてないってことが。よろしくない状況だ。僕はただ、姫様のご意向を尊重したいだけなのに。…それは、僕自身の望みにも繋がることだから。けれど今のままでは、僕らは何事をも成し遂げることは出来ないだろう。…このくらいまでは言っても大丈夫かな、―――――ねえ、嵐」
 意味不明だが厳(おごそ)かな物言いの果て突然に名指しされ、嵐はまだ兼久との口論を続けるべく開いていた口を閉じた。
「雪に嵐では吹雪となろう。吹雪となれば、荷が重かろう。―――――忘れた訳じゃ、無いだろう」
 嵐は息を詰めた。
(なんで、それを)
 信長が宗久に語ったという謎の言葉を、なぜ神霊が知り、ここでわざわざ口に出すのか。
「――――あなたは、その意味を知ってはるんですか」
 初めて、自ら神霊に問いかけた。
「知ってるよ。花守だもの」
 軽い調子で答えが返ってくる。
(花守(はなもり)?)
 何だそれは、と嵐は思う。
 その先の言葉は、物憂げに続いた。
「だけどね、今ここでは、教えてあげられない」
「なんでですか!その為の、この空間やないんですか。……あなたは、神なんでしょう!?」
 今ではそのことが、嵐にも確信出来た。
この闇を創り上げた、正体不明の神霊の真の狙いは、謎の言葉の意味を解き明かしてみせることだ。だというのに今に至って、それが不可能だと言う。
 納得出来ない嵐に、少しだけ決まり悪そうな声が言う。
「だから、間違えちゃったんだって。言い訳をさせてもらうとね、この場を創り出すだけでも、どれだけ微妙な力加減が必要だったか、解るかい?天の摂理に触れぬよう、僕は慎重にも慎重を重ねて力を紡いでいくしかなかったんだ。神に属する者でも、間違えることはあるんだよ。あまりしたり顔で責められるのも、不愉快というものだ。――――まあ、もう少し待っててごらん。この空間で、ぼんやり立ってることしか出来ない君たちを助けに、彼女がじきに現れるだろう」
 名が挙がった訳でもないのに、「彼女」と聞いて三人が思い浮かべたのは、同じ一人の人物だった。こんな不可思議な状況を打開してみせる力を、彼女ならば持ち得るのではないかと、兼久でさえ思ってしまったのだ。
 しかし嵐は、ただそれを待っていることには我慢ならなかった。
例え相手が人であろうと神であろうと、関係無い。この神霊が今現在、嵐に何の利益ももたらさないことが発覚した今となっては、遠慮や気後(きおく)れをする必要も、全く無いのだ。
(気を呑まれたら終わりや)
 相手が何者であろうと、主導権を渡したままの状態で、いつまでものさばらせているのは虫が好かない。嵐は忍びとしての自分同様、陰陽師としての自らをも強く自負していた。
 ただ若雪が現れるのを待つなど、嵐の高い矜持が許す筈も無かった。
 腹に力を籠め、口を開く。
「天(あめ)切る、地(つち)切る、八方(はっぽう)切る、天に八違(やちがい)、地に十の文字(ふみ)、秘音、一も十々、二も十々、三も十々、四も十々、五も十々、六も十々、ふっ切って放つ、さんびらり!」
 早口で、しかし明快に力強く唱え、所持していた呪符の一枚を、漆黒の空間に鋭い手つきで放った。紙である筈の呪符が、まるで鋼(はがね)で出来た物であるかのように、真っ直ぐに飛翔する。呪符の飛翔のあとにはまばゆい光跡(こうせき)が一瞬浮かび、すぐに消えた。
 すると闇が、少しばかり揺らいだ。
それはささやかだが、確実に見て取れる変化だった。
 その時に至ってようやく、三人は互いの顔や、自分の手足を見て取れる程度の視界を取り戻した。闇は、完璧なものではなくなっていた。
「…おっと……、やってくれるね。――――ちぇ、神道系の呪術もありか―――…。全く、手当たり次第な陰陽師だなあ。呆れた」
 声は、少しばかり悔しそうだった。
 そして僅かな間を置いて響いた声は、それまでとは異なる真摯な色を帯びていた。
「ねえ、嵐。彼女は、可能性なんだ…。それは、僕たちにとっても、姫様にとっても同じ。けれどまだ暫くは、見守ることしか出来ない………。その暫くの間で僕たちに出来ることは、あまり多くは無いんだ。それでも、時の輪は回り続ける――――……」
 神霊はその言葉を、まるで自身に言い聞かせているかのようだった。
 嵐を諭し、自らをも諭しているようだった。
 その時、嵐は紡がれる言葉から隠しようのない悲哀を感じ取った。
(なんや、こいつ…)
この神霊は、本当は泣きたいのではないか、という埒外(らちがい)の考えを抱いた程だ。
 気のせいかその声は、先程までよりも小さく嵐たちの耳に響いた。
「だから僕は、助言を与える機会を潰した自分のこと、これでも結構腹が立ってるんだよ。君が憤(いきどお)るまでもなくね――――――ああ、時間切れが近いな。嵐、君に教えておこう。姫様は既に一度、御自ら、君たちとお会いになっている。君と彼女の動向に、それ程までに僕らが注目しているということを、どうか忘れないで」
 続いた最後の声はひどく幽(かそけ)きもので、耳に拾えるか拾えないかという小ささだった。
「……人に苦しみがあるように、神とても苦しみ、悲しむものなんだ。それらを分かち合うことが出来ないとは、僕は思わない――――……」
 その声がごく微かに空間を震わせ、消えてゆく余韻(よいん)がまだ残る中、前触れ無く軽い音がカラリと聞こえた。
「―――――どうされたのですか、お三方共。もう、日が暮れてしまいますよ」
 障子戸を開けた若雪が、目を丸くして立っている。
 彼女の後ろには、白い、光の世界が広がっていた。

 嵐も、智真も、兼久も、まだ信じられないような顔で若雪を見ている。
 ずっと闇の中にいた為、現の空間に戻った感覚が未だ掴めず、また、現の明るさに目を細めるような思いでいた。
 今の彼らにとって、闇を開いて現れた若雪は、まさしく後光が差す程に有り難い存在だった。
 若衆と見紛う出で立ちをした、常と変らない若雪の姿に、全員がほっとしていた。優美な面立ちが、今は殊(こと)の外(ほか)凛々しく感じられた。
(戻ったか…)
 嵐もそう思い、安堵したのだが、様々な疑問は残った。しかもそれらの疑問は、まるで野放図(のほうず)にとっちらかった状態で放置された。
 結局、あの神霊は何者だったのか。信長の言葉の意味は何なのか。
 ―――――なぜ若雪は、多少ほころびかけていたとは言え、神霊の作った結界を、いとも容易く解くことが出来たのか。
 何より。
〝姫様は既に一度、君たちとお会いになっている〟
(俺と、若雪どのの話か?)
神霊が「姫様」と呼び、敬う程の存在に自分たちが会ったことがある。
声が告げたその事実に、嵐は少しも思い当たることが無かった。
神霊と思しき声は、言いたいことだけ言って勝手に消えたようにも見えたが、その言動には制限が設けられている可能性が高いことが、言葉の端々(はしばし)から窺われた。
人の身ならぬ尊き存在が、自分たちをはるか高みから見下ろし、何やら画策(かくさく)している。
井の中の蛙(かわず)になったような気分で、面白くないことだけは確かだった。
がしがし、と嵐は首の後ろを掻(か)いた。その手が止まる。
「………」
(してみると)
 自分が、智真と兼久を異界への移行に巻き込んだことにもなる。
 少しだけ、嵐は済まない気持ちになった。
 神霊との接触の間、時間が凝縮されでもしていたかのように、現に戻った今、日が暮れなんとすることに嵐はさほど驚いていない。
 現と異界の狭間(はざま)においては、時間の流れにずれが生じることもままある。
 けれど智真と兼久の二人においては、未だそのことに困惑しているであろうことは、想像するに難(かた)くなかった。
「―――若雪どのは、なんでここに?」
「織田様より、加えてご依頼がありました。清州の姫君方の、お召になる物も見繕うようにと。嵐どのがなかなかお戻りにならないので、そのことをお伝えする為に参ったのです」
 思い出したように尋ねた嵐への若雪の返答に、嵐は顔を顰めた。
(また信長公か)
 信長の言動は、いつも絶妙な間合いで嵐の行く手に一石を投じる。普段は敬服も信用もしている相手だが、こんな時には忌々しいような気持ちにさせられた。そもそも「吹雪となれば」云々という、意味不明の言葉を最初に発したのは信長の筈だ。自然、神霊との繋がりも勘繰(かんぐ)ってしまうというものである。
(徒人ではないとは、思うてたけどな…)
 改めて、その存在の底知れないような不気味さを、嵐は感じていた。
「わかった。もう護符も張り終わったし、帰るわ。…ああ、腹減った……。――――智真、この呪符は、身に着けとけよ。まだお前の力が安定してへんいうことが、こないだのでよう解ったしな」
 兼久の存在を完全に無視し、持って来た呪符を、智真の手に押し付けた。まだ心ここに在らず、といった風情でぼんやりしていた智真が、はっと我に返る。
 兼久を無視する嵐の代わりのように、室内に立ち尽くしていた兼久に、若雪が首を傾げて声をかけた。
「兼久兄様、帰りましょう」
「……ああ」
 平淡な兼久の声は、それまでと変わらないもののようでもあったが、嵐の耳は確かに、その声から柔らかな充足感を聴き取っていた。
 軽く眉を顰める。
(置いて帰ってええんちゃう――――)
 喉元(のどもと)まで出かかった言葉を、嵐はすんでのところで飲み込んだ。 

吹雪となれば 第五章

吹雪となれば 第五章

嵐の迎えにより、石見から堺の町へと戻って来た若雪。しばしの休息ののち、河内国富田林の寺内町に、為替を懐に負債を取り立てに出向いた彼女が遭遇した出来事とはーーーー。 頬を濡らしたのは 黒い雫 覚えがないと 目をそらしていた 私だけ この章のタイトル「疑惑」は、黒のイメージがあります。どこか不吉で、謎めいて艶があり、惹かれずにはいられない色でもあります。

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更新日
登録日
2014-06-25

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