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からだのあかりは目です。それで,もしあなたの目が健全なら,あなたの全身が明るいが,もし,目が悪ければ,あなたの全身が暗いでしょう。それなら,もしあなたのうちの光が暗ければ,その暗さはどんなでしょう。
『新約聖書(マタイの福音書)』より
PROLOGUE
眼科医院の自動ドアから駅前の雑踏に合流すると,途端にお母さんが喉に塞き止めていた言葉の数々を放流し始めた。
「あんた,問診の時にお医者様が仰(おっしゃ)ってたこと覚えてる? 今時の高校生の6割は近視なんですって。我々が高校生の時には,そんなに多くなかったわよ。眼鏡掛けてるっていったら,勉強に目がない真面目君ってイメージだったのに。きっとテレビの見過ぎなのよ。嫌だわ⋯⋯」
「ふぅん,6割か⋯⋯。確かにあたしの学校にも,そんくらいの人が眼鏡掛けてると思う。日の光に眼鏡が輝いて,キモいくらい。
でもさぁ,医者は言ってたじゃん,水晶体は思春期と中年期が最も著しく衰えるって。だから,あたしが目悪くなったのもセェジョォ。お母さんだって,そぉじゃん。」
私は,現在高校2年と3年の過渡期,つまり春休み中である。今日は,お母さんと一緒に駅前の眼科医院へ足を運んで,ちょうどコンタクトレンズを買う為の処方箋(せん)を貰って来たところだ。これから傍の眼鏡量販店へ歩いて行き,ソフトコンタクトレンズを購入するつもりである。
言いたかったことを言い終えて黙ってしまったお母さんの横顔を覗くと,眼鏡を掛けていなかった。お母さんも,人の悪態を吐(つ)けるような目を持っていない。昔から弱い近眼だ。普段は眼鏡を掛けていないけれど,夜間外出する時に限って掛ける。
他に家族はお父さんとお兄ちゃんがいるが,前者は遠視で後者は近視という具合に,皆目が悪い。それにも拘らず,私一人が異端を誇っていられるはずがない。
今し方,医院で検査してきたばかりだ。次々とレンズを付け替えられる医療用眼鏡を掛けて,お馴染みの〈C〉ランドルト環を見たり,機械に顔面を突っ込んで,眼球に圧搾空気を当てられたりと,かなり恥ずかしいことを強要された。その結果は,もちろん近視で,視力が0・1と,思いの外(ほか)に悪い。これに対して,あの忌ま忌ましい医者は「両眼視力が0・1以下なら,盲学校入れますよ」と私を脅した(第一,あれは差別発言だ)。
私が近視を痛感し始めたのは,高校に入学した直後だ。末席からでは,黒板の字が霞んで見える。瞼(まぶた)を自販機の硬貨投入口の幅に窄(すぼ)めなければ,到底識別できない。それは全く出し抜けな出来事で,文字の分身術に随分戸惑わされたが,まだ眼鏡やコンタクトレンズを作る気にはなれなかった。それほど症状は深刻ではなかったし,多少なり快復を期待していたからだ。
しかしながら,近視は悪化の一途を驀(ばく)進し続け,今に到ってとうとう仕方がなくなってしまった。そこで,不承不承コンタクトレンズをつけることにしたのだ。その際,眼鏡は頑(かたく)に拒んだ。既に家族3人が掛けているのも理由の一つだが,最大は,クラスメイトが授業前になって大儀そうに掛ける様子が白々しく思える為だ。さも〈別にコンタクトでもいいけど,取り敢えず眼鏡掛けてる〉とでも言いたそうで,皆,体裁(ていさい)を気にしているのが見え透いている。私は絶対にそうしたくない。それならば,いっそコンタクトレンズにしよう,という所存である。
「ねえ,あんた,本当にコンタクトでいいの? 眼鏡にしない?」母が私の肩を小突いた。眼鏡店の前だった。
「だから,もう何回も言ってるでしょ! 眼鏡はヤだって。クラスのほとんどが掛けてるってのに。あたしは,何の迷いもなくコンタクト」
「そう⋯⋯,わかったわ。好きにしなさい。コンタクトは目に刺激を与えるっていうのに⋯⋯」
「平気だって。最近じゃ,コンタクトの人が随分いて,目,全然おかしくなってないんだから」
「もうわかったわ。その代わり,絶対に後悔しないでよ」
お母さんは,これまでずっと眼鏡を私に勧めていた。無論,コンタクトレンズより安全なことぐらい知っている。正直なところ,私もコンタクトレンズに一抹だにの不安を抱いていないわけではない。実際,医院からの道すがら,ずっとあんなことを考えていた。が,ここで痩せ我慢しなければ,たちまちお母さんに反対されてしまう。私は勇んで自動ドアを開けた。すると,店内に整然と陳列されたたくさんの眼鏡たちが,私に輝いてみせた。
Ⅰ
担任の男性教諭は,淡黄(クリーム)色のフォルダを胸板に寄せ抱えて,私たち母子(おやこ)の視線から,取り出した書類を庇(かば)っている。そしてその体勢で「うぅん」と唸(うな)ってみせ,私たちを意地悪く焦(じ)らすのだった。
寂寥とした教室に並ぶ無機質な机のうち,窓際の一区画を溶解して,三者面談用に設(しつら)えてある。夕刻の陽光が,完全に閉められたカーテンに流し込まれており,その大部分はたちまち滲んで布を橙黄(オレンジ)色に染め上げている。一方浸透した一部は,ホフホワイトの漆喰(しっくい)の壁をカーテンと同じ色に塗装し直している。また,屋外で部活動に精を出す黛青(たいせい)色の掛け声が空(うつ)ろに響いている。
遂に,何も言わない担任に痺れを切らしたお母さんが,鹿(しし)脅しを手で押してしまった。「あの,先生,どうなんでしょうか?」
先生は眼球だけをこちらに回して曰く,「事前の進路調査はいずれも国立志望になってますが——ちょっと難しいんではないかと」次に担任は,私とお母さんの間,二つの机の境目に,長らく見ていた紙の一枚を差し出した。「ご覧下さい。上が栞さんの中間テストの得点,真ん中が期末テスト,そして一番下が今学期の成績です。まずテストですが,平均点を越えているのは,僅かに中間の現代文だけですね。それから成績ですが,平均評定6・71,学年順位318人中253位,成績概評Dランク。これまでの本校の進学実勢からしますとね,国公立へ行くには,せめてAランクで,平均9以上が必要なんですよ。やはり国立となると,浪人生を含めても,毎年5人行ければいい方ですし。相当難関なんですよ」
お母さんは閉口してしまった。無理もない,具体的な数値となって表れた現状が唇を撮(つま)んでいるのだ。
再び沈黙が降りた。その静寂(しじま)の最中,窓が開いているのか,カーテンが小刻みに波打っていることに,私は気づいた。
「もし現役を狙うのであれば,すぐに私立へ転向した方が宜しいですね」今度は担任が先だった。「私立は受験教科が少ないんですが,国公立はセンターもあって,およそ全教科ですので,夏休み前ですし,勉強の仕方も随分と変わってくるでしょう。もしくは,浪人を覚悟なさるのであれば,挑戦は構いませんが,それこそ死ぬ気で勉強しないと。私個人としては,浪人はお勧めしませんがね。大学ならどこでも何かしら学べるわけですし,第一まだ若いんですから,足踏みは勿体ないと思うんです」
「じゃあ」お母さんが反駁(ばく)に転じた。「私立にすればいいんですね」
担任は渋面を浮かべつつ,「別にそうは申しません。受験はあくまで本人の意志ですので」
流れ弾が私に当たった。お母さんが横で「栞,あなたはどう思ってるの?」と槍(やり)で刺してくる。私は耐え兼ねて,返事を口に委ねた。
「私,国立以外に考えたことないんです。なのに,今更私立に変えろと言われても⋯⋯。取り敢えず頑張ります」
言い放ってから,私は凄く後悔した。実は,国立はおろか大学についてすら真剣に考えたことがなかったからだ。家にはもう既に浪人生が一人いる。その為,経済的な問題を慮(おもんぱか)ると,私立の学費が一家の重荷になって,転覆するのは明らかだ。それで,両親(特にお母さん)は以前から頻(しき)りに私に国立大進学を強い続けている。しかし私には到底不可能な要求だ。それを今お母さんの前で明言するべきだった,〈先生が仰(おっしゃ)るなら,私立にします〉と。
「わかりました」担任が面談を——いや,膝詰め談判を総括し始めた。「ご家庭でももう一度よく話し合って下さい。本当はこの場で具体的な受験校の目安はつけておきたかったんですが。後日,個別でまた三者面談を持ちましょう」
担任が指先で机上の紙を更に突きつけた。それを合図にお母さんは席を立つと,平身低頭して「これからもとうぞ宜しくお願い致します」と言った。担任は横柄に手を振りながら「こちらこそ」と応じた。私はその間で,まるで他人事のように茫然と佇(たたず)んでいた。
退室時にお母さんはもう一度会釈し,そしてそこで待機していた次の人と交代した。次は恵美(えみ)の番だ。私は彼女に目配せして,面談の結果を伝えた。〈ソッコーダメダシ〉
重い鉄扉が軋みを立てて閉ざされた刹那に,突風が開けられた窓から入ってきて,私たちの髪の間を吹き抜けていった。
「何やってるのよ,あんたは!」
「お母さん,ここじゃよしてよ」
制止すると,お母さんは,私の顔に照射していた鋭い視線を廊下の奥へ向けた。各クラスの前に設けられた椅子に座る親子を認めたらしい。
「——帰るわよ」
お母さんは,視線の出力を抑えると,掛けている金縁眼鏡を中指で押し上げて,それから踵(きびす)を返した。近頃,お母さんは平生(ぜい)から眼鏡を掛けるようにしている。私はお母さんの影に運ばれていった。
家はすっかり蒸し風呂になっていた。1階には誰もいなかったにも拘らず,空気は盛んに対流しており,私たちの身体に絡みつく。それが皮膚に触れると液化し,汗になった。
2人は無言を保ったままLDKに到った。お兄ちゃんが予備校から帰って来て食べたのであろうカップラーメンの空容器が置かれている。それから発生する豚骨の匂いが充満している。でも,まだお母さんは窓を開けようとしない。
食卓でお母さんは歩みを止めた。まず自分が先に椅子に座り,そして徐(おもむろ)に私に告げた,「座りなさい」
〈一同着席——これより開廷〉説教が始まるのだ。
「何やってるのよ,あんたは! これから一体どうするつもりなの!? 家には私立に行かしてやれるお金はないんだから!」
「それ,もう何度も何度も聞いたよ。さっき頑張るって言ったじゃん」
「じゃあ,今まで頑張ってなかったってこと? そうなの!?」
「今までもちゃんとやってたって」
「いいえ,それは嘘です。ちゃんとやってれば,あんな成績取るはずないもの。あと幾つ上げなくちゃいけないかわかってるの? オール9よ,9! 250人牛蒡(ごぼう)抜きよ! それができるの!?」
お母さんは,他人の汚点を過大に非難する癖がある。私はうんざりしながら,「はい,はい。これからも十二分にやるっての」
「それなら,バイト辞めるわよね,もちろん。大切な勉強時間が削られちゃうものね」
急所を突かれた。これに対して,私は有効な遁辞(とんじ)を蓄え持っていない。「ケータイ代払う為にも,バイトは必要なの! 辞める代わりに払ってくれんの?」
「何バカなこと言ってるの。携帯電話なんて解約しちゃいなさい。高校生でそんなもの必要ありません。それに,バイトぐらい大学入ってからだってできるでしょ? 大学入試は今だけなんだから」
私は拳に妙な冷たいものが漲(みなぎ)るのを感じた。「あたしにとって,ケータイは必需品なの! このお陰で友達がいるんだから。あたしは友達も今だけだと思うけど!」
間髪を容れずにお母さんが反論できないのを見破り,私は攻勢に転じた。「どうせあたしの気持ちわかりっこないでしょうよ! お母さんには,高校時代なかったの? ひょっとして,友達いない箱入り娘だったとか?」
我ながら余りに強烈な爆弾を使用してしまったことを省みた。しかしその頃にはもう手遅れであった。お母さんは咄嗟(とっさ)に飛び上がるや否や,私の頬に平手を打ったのだ。私の脳はまごつき,一瞬意識がブラックアウトしたものの,すぐに戻った。今,私は右のキッチンに向いている。勝手口の脇で鎮座する冷蔵庫がモータを回し始めた。
不意に玄関に通じるドアが開いた。
「さっきからうるせぇよ。2階まで聞こえて,勉強の邪魔だっつぅの」
お兄ちゃんだ,浪人生の。国立医学部という比類ない難度の大学を目指している。お兄ちゃんがこの不穏な空気を換気してくれることを期待した。
「ごめんなさい。用はそれだけ?」お母さんは低い声音(こわね)で言った。
「ああ,ついでだから空き瓶持って来た」
そう答えると,食卓に近づいて,そこにブルーのパッケージの栄養ドリンク10本入りの箱を置いた。その時に,お兄ちゃんは,同情的な眼差しを私にくれた。どうやら事態を憐察して貰えたようだ。
「どうかした? 母さん,栞が面談で何か言われたの?」
「あなたには関係ありません。それより,もう浪人はさせませんから,そのつもりで勉強しなさい」
突如,お兄ちゃんの顔色が一転して曇った。「わかってんよ,そんなこと⋯⋯」
階段を駆け昇る足音がやがて消えると,私は汗をたっぷりかいた掌を握り締めて言った。
「どうしてあんな水を差すようなこと言えるわけ? お兄ちゃんが一番気にしてるってのに。親が逆にプレッシャーかけてどぉすんの?」
「そんなこと言える資格があんたにあるの? 直樹より自分の方を心配しなさい」
「わかりました! 取り敢えず勉強してあげます。でも最後に一つだけ言わせてちょうだい。親が自分の感情で子を殴るのは,立派な虐待よ!」
私は席を立って,早々に撤退した。指先は,もしサーモグラフィで測れば,真っ青に違いない。
私に掻き分けられた熱気は渦を巻き,そしてそれは対流となって,お母さんに絡みつくのだった。
2階の自室へ駆け込み,危うくそのままの勢いでドアを閉めてしまうところだった。隣室ではお兄ちゃんが勉強しているのだ。私は手を去ろうとしていたノブを呼び止めて,一旦手を叱ってから,穏やかに閉扉(ひ)した。
身体をベッドに投擲(てき)した。一瞬重力から解放されたが,寸秒のうちに背中に返ってきた。シーツだけが敷かれた,あまり軟らかくないマットレスの上に横たわり,天井よりもやや高い位置に目の焦点を合わせる。すると,西の窓から南の窓へ,熱気を孕(はら)んだ夏の風が吹き抜けてゆくのをぼんやりと見た。
——スカートのポケットで携帯電話が震動(バイブレート)している。私はストラップを引っ張り,前屈しているケータイを仰向けにさせた。液晶画面がメールの着信を教えている。早速開封した。
〈栞がきのういってた面談っておわった?どーせサンザンだったんだべ?バーカ!ハハハハハ!! それはあとでジックリきくとして,今日バイト行く?俺は行くぜ。かったりーけどな⋯ 母親が反対かましてんだろ?かわいそーにな。がんばれよ。バイトで待ってる。おわったらどっかいこーぜ!♥〉
潤からである,私の彼氏の。彼との出会いは正に〈運命〉であった。4月,3年がスタートテープを切られてすぐ,恵美にドラッグストアのアルバイトに誘われた。アルバイト自体はレジ係なのだが,彼女の目論みは別にあった。恵美曰く,ドラッグストアにはカッコイイ男の働いている可能性が大きいそうだ。そこで,バイトがてらに彼氏も獲得(ゲット)してしまおう,という魂胆で,生来彼氏に恵まれなかった私を誘った次第らしい。男に関することは端(はな)から全然信じなかったものの,私は正月の巫女(みこ)以来アルバイトにありつけていなかったので,それを快諾した。この際,それまで部活動をしていない分アルバイトを承認していたお母さんは,学年も学年,やはり反対した。けれども,私はそれをほとんど無視してやり始めた。
そして〈運命〉が訪れた。アルバイト初日,高校生の新参2人(恵美は私と担当の曜日が違う)は,店長から簡略に指導を受けることになった。その時である,彼と対面したのは。一目惚れというわけではない。ちょうどお気に入りの音楽のように,聴いた当初は鼓膜が反応する程度だが,CDを幾度もリピート再生するにつれて,漸次陶酔感が煎じ詰められる——彼を最初に双眸に収めた瞬間もこうだった。仕事中,その快い音楽は胸中で反芻(すう)され,一切の世俗的な男性像は見る間に蒸発してゆき,しまいには純粋な恋心が結晶となって析出した。私にとって彼は具現化された理想的存在となり,結晶は甘酸っぱい潤の味となって完成した。それ以来,私は常にその結晶を舐めて過ごした。
暫し後,私は恵美に悉皆心事を打ち明けた。彼女は,自分の予測が的中したせいもあろうが,大いに喜んでくれた。とはいえ,私の恋は一向に進捗(ちょく)しない。同い年でしばしば話題を共有することはあっても,彼は私に恋愛感情を仄めかそうとはしなかったのである。
ところが今月7日,私は彼に隣街で開催されている七夕祭りに誘われたのだ。祭りは全国最大級の規模だから,人ごみに攪拌(かくはん)されることに後込(しりご)みしたものの,憧れの彼の誘いを断れるはずもない。ようやく結晶は溶け切った。——告白されたのだ。
まだ付き合い始めて一週間余り,デートも片手で数えるに足りるだけ。しかし今や私は幸福の絶頂に立った——いや,正確にはもう下っているところだ。振り返れば,この1学期は終始幸せに満ちていた。そのつけが一括請求されたのか,禍福は糾(あざな)える縄の如し,進路問題が巡って来た。このところ家庭ではそれについてお母さんと衝突が続いている。遂に手まで上げられた。家や学校は,最早私にとって決して居心地のいい場所ではなくなってきている。一体全体私はどうするべきなのだろう。果たして取りつく島はいずこに?
——私の夢想は尻窄まりになり,途切れた。どうして恋のことを考えていたにも拘らず,進路に帰着してしまったのか。きっと無意識(サブリミナル)な部分で気にしているからに違いない。
私は夏の風にケータイを握った手を浸し,潤へ返事を認(したた)め始めた。同時にテンキーは怒りで歯軋りし出した。
午後4時を5分前に控えた。そろそろアルバイトへ出掛ける時分である。私は出発する準備を整えに取りかかった。
廊下は爪先で歩き,なるべく足音を立てずに努めたものの,どうしても床板が普段使わない関節を曲げる音は防げない。バキリと鳴る度に,泥棒さながら,私は身を固めて耳を欹(そばだ)て,1階の様子を窺(うかが)うのだった。音沙汰なし,そうわかれば,抜き足差し足忍び足を再開した。
階下は玄関なので,支障は何もない。私は学生靴(ローファー)を穿(は)き,片手をドアにつけたまま,LDKの方を顧みた。空気は冷たく淀み,家は無人のように静まり返っている。お母さんはまだあの扉の向こうにいるはずだ。だが,現在のところ,それが開かれる気色は感じられない。私は顔を前に戻すと,施錠・開錠を司るつまみを両手の親指・人指し指で撮んだ。そして指先に力を込めて慎重に回す——カタン。目を見開いて振り返った。誰もいない。私は肺を最大に膨らませてから一思いにドアを押し開けた。強烈な西日に瞳孔は縮こまる。最後にドアを抜かりなく閉めた。ここで作戦をやり遂げ,肺の空気は暖められて吐き出された。お母さんに気づかれずに家を脱出することに成功したのだ。
自転車に跨(また)がり,門扉の前で自宅の全体を眺めた。小さな我が家はすっかり黄昏(たそがれ)色に染まっている。私はもうこの家には帰って来られないような気がした。
もう逢(お)う魔が時は迫っている。
私の働くドラッグストアは駅前の目抜き通りにある。その上,左右をデパートとディスカウントストアの巨大店鋪に挟まれているという立地状態も相俟って,5時を過ぎても,客足はほとんど途絶えることがなかった。そもそもドラッグストアが高校生をアルバイトに募集しているのは滅多に聞かない。従って,猫の手を借りたいぐらい忙しいのは自然と理解できる。
夏本番は間近,その為,制汗(デオドラント)製品はよく売れているみたいだ。ペットフードや掃除用品何かも陳列されているものの,曲がりなりにも薬局,もちろん薬を取り扱っている。しかし化粧品や生理用品と比べると,売れ行きは格段に劣るだろう。また,意想外に男性対象のボディケア商品の売り上げが高いことには,アルバイト駆け出し当初,随分と驚かされた。
私が担当するレジは,5台のうち最も出入口に近い所にある。それ故,通過する客の量は,他の4箇所より多い。POSにバーコードを読み込ませ,商品をビニール袋に入れ,金銭の授受をするだけの流れ作業的で単調な仕事だ。けれども,手際よくやらねば,たちまち行列を作ってしまう。それは流石(さすが)に焦るものだ。特に釣り銭で1円玉を4枚返す場合は頭にくる。
潤を彼氏にして以来,この鞅掌(おうしょう)にかまけて,2つ隣の彼を気にすることはなくなった。それでようやく仕事を一人前に,かつ楽しくこなせるようになった。だから今は辞めるわけにはいかない。その上,彼との重要な接点の1つを失ってしまうことも,他ならぬ理由である。
時計の針は7時を発った。即ち夕食時であり,客足は急速に引いた。私の手も数分間休んでいる。そこに1人の女性客がやって来た。「いらっしゃいませ」
黄色い買い物籠に栄養ドリンクの箱が2つ入っている。私はその1つをPOSに通し,レジスターで数量を2に変えた。次にボタンを叩き,大きな液晶ディスプレイに青く値段を表示させた。「2085円です」
女性が財布を突(つつ)いている間,私は台の下からビニール袋を取り出し,栄養ドリンクの箱を入れた。ふとお兄ちゃんが浮かんだ。こんなことは珍しかった。仕事中に家族を思い出したことはかつてになかった。
トレーに出されている5千円札を取り,その額面をレジスターに打ち込むと,抽き出しが飛び出した。そこから釣り銭を,覚えた指先の感覚で数え取った。最後に印刷されたレシートの上にそれらを載せて,恭しく客の掌に返した。その時,私は見てしまったのだ,自分が応対している女性客の顔を。紛れもなく,私のお母さんだったのだ。声が口腔まで走って来たが,私はかろうじて手で抑えた。その分,出口を眼窩(がんか)に求めた声は,眼球を膨張させた。
今まで幾つかのアルバイトをしてきたが,家族の誰かが私の仕事場に現れたことは,一度だになかった。だからこそ,これはお母さんの悪辣(らつ)な実力行使であるのを見透かせた。わざわざアルバイト先に赴き,禁圧をかけようというのだ。もし家にいるならば,私は怒鳴ってやるところだが,ここでは許されない。
お母さんは冷酷な表情で,しかし眼底では炎が燃え盛っていた。対して私の目は冷淡で,敢えて事務的な取り澄ました表情を装い,「ありがとうございました」と言って目礼した。お母さんは,黙って栄養ドリンクの箱の入った袋を提げて,店から退出していった。
雑多な作業を終えた後,私と潤が店の裏口から出る頃には,もう9時を回っていた。私たちを追い越す先輩らにいちいち挨拶しながら,店員専用の駐輪場に来た。
「今日も疲れたな。ご苦労さん」
「そちらこそご苦労さま」
私が素っ気ない返事しかしなかったからなのか,潤はスクータを動かす為の準備の手を休めた。
「どうかしたん? 面談とかってやつ気にしてるのか?」
「流石潤くん,鋭いね。それもあるけど,もっとサイアクなことが」私は自転車の錠を外してから言った。
「そっか。じゃっ,メシでも食いに行くべ。そこで話聞いてやんよ」
私たちは,銘々の乗り物を手で押して,店を後にした。
日はとうに沈み,繁華街は生温い巷(ちまた)風を吹き出しており,のっぺりとした漆黒の夜空の下,瞬くネオンの星となっている。夜の駅前は,その機能を十分に発揮させていない。大半の商店はシャッターを下ろしてしまい,ただ街角を形成しているに過ぎない。営業中なのは,酒を出す飲食店や風俗店,雀荘(じゃんそう)等の,総じて青少年に不健全な店ばかりだ。その為,夜の駅界隈に対して,私は淫靡なイメージをいまだに根強く生やしており,ここにいることが後ろめたかった。私たちは,自転車とスクータの轡(くつわ)を並べつつ,並行に歩き,彼の行き着けの中華料理屋に到った。
店内は,通路にテーブルが置かれているように見えるくらい狭苦しい。油の浮いた空気とその弾ける音が,調理の副産物として垂れ流されている。そこに加えて,アルコールも注がれている。客にはワイシャツとネクタイの組が4つほどあった。私たちはそれらの視線を断続的に感じながら,カウンター席ではなく,一番奥のテーブル席に着いた。
間もなく,伝票を持った,割烹着(かっぽうぎ)姿のおばさんが現れた。
「いらっしゃい,潤くん,栞ちゃん。ご注文はお決まりかい?」
この溌剌(はつらつ)とした声を聞くのは初めてではない。時々彼がここに連れて来るので,私もおばさんと顔馴染みになっていた。
「そうだなぁ,ビールくれよ」
「バカ! ダメよ,未成年が」おばさんが潤を小突いた。
潤は俄(にわか)に相好(そうごう)を崩して,「ッタク,わかったよ。俺,ラーメンでいいよ。それにギョーザとチンジャオロース」
「あんた,いつもこればっかね。偶(たま)には違うの注文しなさい」
「だって,読めねぇんだよ,壁の短冊が。俺,漢字知らねぇ」
「栞ちゃんは?」
「えっと——炒飯(チャーハン)小皿と粟米湯(スーミータン)をお願いします」
「はい,畏(かしこ)まりました。2人ともごゆっくりね」
おばさんは傍の簾(のれん)に消えた。
「——で,続きだけど,どうかしたん?」
「ちょっと聞いてちょうだい。さっきね,仕事中お店にお母さんが来たの」
「へぇ,例の母親が。修羅場になったようには見えなかったけどな」
「何よ,あたしたちそんな仲じゃないよ」私は拗(す)ねてみせ,それから神妙な顔で,「別にその時は何も言われなかったけど,バイト行く前に一喧嘩やっちゃったのよ。ほら,今日三者面談あったじゃん。あたし,担任からソッコーダメダシ食らってさ」
「そうか,そりゃカワイソォにな。まあ,ガンバれよ。俺はお前の家族事情と関係ねぇんだからな」
案外潤は無愛想だった。彼は会話の種でこの話題を提起したことがわかった。私が恋人にそんなプライベートなことにアドバイスを貰えたら,と勝手に期待した方が悪かったのだ。
「おっちゃん,水くれ」
おじさんはカウンター内の厨房で,ちょうど青椒牛肉糸(チンジャオロース)を炒めているところだった。おじさんは店の奥の誰かに(他におばさんしかいないが)顎で合図した。するとすぐにおばさんが水の入ったコップを2つ届けてくれた。「ごめんなさいね。お水忘れてたわね」
また2人きりになると,今度はこの日彼が秋葉原へ出掛けた話を始めた。彼は,いわゆるパソコンオタクの1人である。その影響で,繊細な乙女にしては,私もごく短期間でパソコンの知識が増えてしまった。話に合わせる為に買ったパソコン雑誌が,現在も自室の床に落ちているはずだ。私は彼の長広舌に耳を貸しながら,水を一気に飲み干し,あんなことを話したのを後悔した。この場の雰囲気につられてしまったのだが,恋人同士の会話に相応しくない。それは常にロマンティックであらねば。
私は気分を改めるべく,おじさんにコップを傾けて,水のおかわりを頼んだ。
店を出ると,暗く淀んだ空気が清浄なことはわかった。が,夜10時半,多少涼しくなったような,いや,まだ暑いような,緑がかった気温に感じられた。
店先に停めてある互いの乗り物のハンドルを手にし,私は徒(いたずら)に駅周辺を徘徊(はいかい)する前に言っておいた。「あたし,悪いけど,今日は早く帰んなきゃマズいかも」
「もぉ帰っちゃうの? まだ宵の口だぜ」
潤は不満そうな表情を作った。私は余り機嫌を損ねたくないので,とにかく謝った。「ごめんなさい。本当はもっと一緒にいたいんだけど,特に今日は問題あったし⋯⋯。本当の本当にごめんなさい」
「まぁ,別に全然構わんけど。
——ところでさ,お前の親は,俺たちが付き合ってんの知ってるわけ?」
意外な質問だった。お母さんがこの関係を知ったら,絶対に許さないに違いない。恋愛は受験勉強を妨害する,とでも怒鳴るのは想像に難(かた)くない。「いや,知らないけど」
「じゃあ,俺は心配だ。もしお前の親に知れたら,別れさせられるかも知れないだろ」
潤は結論を言わずに,ここで切った。そして唐突に真顔になって,私の視線を自分の瞳と繋(つな)げた。私は息を飲んで次を待った。すると,彼は徐々に結ばれた視線を弛(たる)ませてゆき——遂に私たちの唇は触れ合った。大動脈を吹き飛ばしそうな血圧を刻む心臓の鼓動は,キスの時間を数えていた。1,2,3,4,5⋯⋯。唇の違和感が消えた。初めてだった,あの柔らかいものが当たる感触は。
「これで大丈夫だな。俺たちが付き合ってる証だ。俺は別れねぇぞ,栞と」
私は嬉しくて思わず涙が溢れた。それはとても温かかった。
「おいおい,泣くなよ。照れるなぁ」
潤は私を片腕で抱いてくれた。私は彼の胸の中で,この世のあらゆる出来事をどうにかできそうな,無限の自信と勇気が沸くのを感じた。
自宅の前に着いた。私は,スクータを運転する潤の右肩に掴まって自転車に跨がっていたから,とても速く帰って来られた。
「じゃあ,ここでな。家に着いたらワンコする。これから頑張れよ」
私は微笑し,「ありがと。気をつけてね」と別れを告げた。
潤はスクータを発進させた。夜の平和で閑静な住宅地にエンジン音が波及する。私はそれに耳を傾けていた。ちょうど同じ周波数帯である幹線道路の青黒い騒音も空ろに聞こえた。
私の心は波打っている。これから場合により起こるべき修羅場でいかに応戦するか,その戦略を練っていた。その時,カーポートに自転車を入れながら,私は気づいた。お母さんのがない。どこへ出掛けたのだろう,もう11時だというのに。不可解ではあるものの,特に心当たりがあるわけではないので,勘繰ろうとはしなかった。
ポーチにはスポットライトが落ちている。その光の中で,私はまだ鍵を差し込むのを躊躇(ちゅうちょ)していた。辺りを見回しても,この場が明る過ぎるせいで,何も認められない。私は無制限の時間内で決断を迫られた。取り敢えず家に入る。それからどうするかだ。もしお母さんが現れたら——いや,今はいないらしい。では,すぐに自室に籠ろう。自信と勇気は急速に蒸発してしまい,その際,温度も奪っていってしまった。波頭は丸くなった。
突如,カーポートの方で物音がした。背筋にクレバスが走る。すると間もなく帷(とばり)の中へお母さんが入って来たのだ。
「おっ,お母さん!?」
「何やってんのよ。とっとと開けなさい」
私は手中の鍵をほとんど反射的に差し込んでしまった。
玄関で背後から「ちょっと来なさい」とピストルを突きつけられた。私は観念してそれに従う。もう修羅場は回避できない。やれるだけやろう。強制連行されている最中,私は玉決(ぎょっけつ)をぎゅっと握り締めた。
リビングのソファーでは,会社から帰っていたお父さんがカップの焼酎を呷(あお)っていた。その2本の空き瓶とともにコンビニ弁当の空き箱も足許にある。酔っている様子は全然ない一方で,あたかも搾り切られた濡れ雑巾のように,疲れ切った表情をしていた。だが,それは至極当然のことに思われる。毎日毎日夜分遅くまで残業して(徹夜や休日出勤もざらではない),その上,こんな状態で帰宅するとお母さんに責言を浴びせられる。家にはただ寝食の為に帰るに尽き,到底家庭の事情まで構っていられる余裕はない。従って,お父さんが私とお兄ちゃんの進路について議論したことは,ほとんどなかった(私にとっては好ましいのだが)。
お母さんは,持っていたビニール袋(私が店員として客に渡したもの)を一旦食卓に置いた。それからお父さんの前に立つと睥睨(へいげい)し,そして私に照準を合わせて言い放った。「あの男は一体どこの馬の骨!?」
頭から血の気が引き,大動脈を逆流して,どっと胸に流れ込んだ。「ちょっ⋯⋯,ちょっとそれ,どぉゆぅ意味?」
「とぼけたって無駄よ。お母さんはあんたたちをつけてたんですから。さあ,白状しなさい!」
キスのシーンが泡となって浮かび上がった。が,それは憤怒と慙愧(ざんき)によって,たちまち弾けてしまった。「酷い⋯⋯,酷過ぎる!! あんたはもう親なんかじゃない!! ケダモノめ!! くたばっちまえ,馬鹿野郎!!」
自室に一目散で駆け込んだ。扉を全力で閉め,電気もつけず,涙を滂沱(ぼうだ)と零(こぼ)して,ベッドに投身した。手に触れた枕を我武者らに破いた。布が裂けて中のパイプが四方に飛散し,枕が重さを失うと,それを投げ捨てた。次に標的を目覚まし時計に変え,それもフローリングに叩きつけて破壊した。手近に何もなくなれば,仕舞いにシーツを切り始めた。ある程度そうしてから,ようやく私はただ泣き伏した。完全に激情の虜に付した。もうコンタクトレンズは,水位が上昇した為に堤防を越え,どこかへ流失してしまった。
部屋の二つの窓は両方開いている。屋外で啾々(しゅうしゅう)と鳴く虫の音色は,私の咽(むせ)び声に伴奏した。結局,その伴奏が止むまで,私は凍らんばかりの冷たい雫を流し続けずにはいられなかった。
Ⅱ
「んで,どぉすんの? 栞(しおり)」
前の席に逆に腰掛ける恵美(えみ)が言った。私の机の上で腕を組み,その交点に顎を置いて,上目で私を覗き込んでいる。また,机の横では由香里(ゆかり)が両手をついて立ち,同様に私の返事を待っている。
放課後の生徒がいなくなった昼下がりの教室,離れた校舎からラッパを吹く音色が聞こえて来る。南中で照る太陽の日差しは窓の庇の上で留められており,そこから溢れた光線が鉛直下方へ落下している。ここはちょうど滝の裏側のようだ。
恵美と由香里には,既に授業中にケータイを通して昨夜の出来事を伝えてある。2人とも同情してくれて,母親を強(したた)か貶(けな)していた。もちろんであろう,娘がその彼氏と一緒にいるところをつけていたのだから。この2人にしろ,もし自分がそうされれば,激怒するに違いない。
「ちょっとぉ,栞。また頭がブッ飛んでんよ」由香里が肩を揺すぶった。
「あっ,ゴメン」
「家に帰りたくないんでしょ?」と恵美。
「うん,そりゃ,まあ⋯⋯」
「あのさぁ——」恵美が顎を浮かせて,顔を私と相対させた。「やっぱ栞は〈マザコン〉だよ。あたしなんか,親子喧嘩は日常茶飯事。いちいち気にしてたら,頭ん中それで一杯になっちゃうっつぅの」
「〈マザコン〉なんて⋯⋯。あたしは,ただ喧嘩の傷がまだ少ないから,気にしてるの」
「そぉかね。じゃあ,傷痍(い)軍人さんはあたしんちに避難するかい?」
「それがいぃよ!」由香里は恵美に向いて,「あたしも行ってい? 今日は泊まり」
「うん,全然構わないけど」
「ねぇねぇ,栞もそぉしよぉよ。恵美んチ泊まろ」
私はこの提案に即座に従い泥(なず)んだ。自分でも意外だけれども,かつてに1回も友達の家へ外泊の経験がない。ただでさえ母親との間に群発地震を起こしている真只中のだ。関係が益々険悪化してしまう。しかしもうそれも壊滅状態になってしまっている。今更瓦礫(がれき)を揺るがしたところで,何の影響が及ぼうか。
不意に額に痛みが当たった。「おいっ,どぉすんだよ」恵美の人差し指が眉間にあった。
「あっ,うん。行くよ,行かして貰うよ」私は必要以上に何度も小刻みに頷(うなず)いた。
昼食を執り終えた吹奏楽部員の吹くラッパの音は,先程よりもその数が増していた。
学校を発った私たち3人は,駅前の小さいレストランに自転車を停めた。夜間とは異なり,それは商店群を有機的に形成している。また,店先の通りを,銘々目的を携えた主婦が,空気分子のように活発に熱運動をしている。
「皆,ここでいぃでしょ? 安く上げたいんなら,あっちのマックでもいいけど」と由香里。
「あたしは別に。栞は?」
突然,恵美の掌が私の視線を遮り,視界が曇った。反射した自分の視線に気づく。「あっ⋯⋯,いいよ,ここで」
店内はシーリングファンの回る,いささかカントリー風の内装であった。料理の芳ばしい香とともに,磁器の搗(か)ち合う忙(せわ)しそうな金属音が響いている。
中央は甚だ採光量が少ないので,私たちは明るい窓際の隅のテーブルに着いた。
「ランチタイムのバイキングでいいよね? ここのピザ美味しんだよ」
恵美が私の分まで首を縦に振ってくれた。
間もなくウェイトレスが現れた。私たちよりも若干年上,きっと大学生だろう。無愛想に「ご注文の方は?」
由香里が例のものを3つ頼むと,ウェイトレスはキッチンの方を指して,皿が置かれてあるから勝手に取れ,と説明した。
金色の人工太陽の下,ビザやスパゲッティなどが保温されている。私は余りホットなものが喉を通りそうもなかった為,ピザを1ピ—スだけ貰って,横のサラダバーのものばかりを盛った。こんな時には,青々としたフレッシュベジタブルが打ってつけだ。それに,ドリンクバーで見つけたトイレの洗浄剤水溶液(かき氷にかけるブルーハワイの炭酸割りか?)を添えた。
「ブゥッ⋯⋯,栞,何それ?」
私がテーブルへトレーを持って帰った途端,恵美が怪訝(けげん)な容貌を呈した。すぐにこの毒物についてだとわかった。私は笑顔を取り繕って,これ以上の詰問を回避した。
3人が食事を始めてから,恵美が事もなげに話を転がし出した。
「栞,あんたの彼氏とどう?」
「どうって?」
「関係あった?」
口内のプチトマトが潰れて,気持ちの悪い液体が迸(ほとばし)った。「カンケイって?」
すると,由香里が意味深長な口調で「とぼけたってムダムダ」
私は平静を装い,「別に何もないってば」
「嘘を吐(つ)けよぉ!」恵美はフォルテシモで言った。「でなきゃ,いちいち親がつけてくるなんて,非人道的なことしねぇっつぅの。もっとも,本当に何もなけりゃ,あんただって『別に何もない』って反論できるわけじゃん。
——で,どうなの,実際は?」
私は俯(うつむ)いた。恵美の述べることは全くだ。では,なぜ母親につき合っていることが発覚してしまったのだろう。ともすれば,私が恋愛のオーラを放散していたか。いや,単に母親の勘か,とてもそんな洞察力を隠し持っているとは思えないが。
ソーダの入ったグラスはびっしょり汗をかいている。中に溶け込まれた遊離物質は,それを包んで浮上する炭酸気泡が汗に変わると同時に,析出するのだった。
「キスした⋯⋯。してる所を見られた」
「おめでとぉ!」出し抜けに2人は拍手した。
それから話頭は方角を転じ,もう使い古された陳腐な話題を蹴鞠(けまり)にした。会話中,ふと窓の外を覗いたら,行き交う人々は,頭上に区切られた蒼空を頂いていた。
カラオケ店を出る頃には,午後4時になっていた。夏なので屋外はまだ相変らず明るいが,東の空の色素は段々西に空いた穴へ流れてゆき,紫に変色しつつあった。
私たち3人は,昼食後どこへ行く当てもなかった為,取り敢えず付近のカラオケ店で過ごすことにした。恵美と由香里は終始笑顔と笑声を絶やさずに熱唱し続けていた。その一方で,私は雰囲気に馴染めずにいた。これから一体全体どうするべきか,思い悩んでいたからである。無断で恵美の家に泊まるべきか(まさか母親が許すはずがない),ないしは平常通り自宅に帰るべきか——弥次郎兵衛(やじろべえ)は左右に揺れる切りで,一向に静止する気色を見せなかった。当然,一度動き出したものは自然に止まらない。もし泊まれば,母親との絶縁は益々強まってしまう。また,もし帰宅すれば,2人に私がマザーコンプレックスと思われてしまう危険を孕(はら)む。私は正に典型的な回避型葛藤に苛(さいな)まれていた。しかし時間制限があり,それが徐々に,されど確実に逼(ひっ)迫していることが,余計なプレッシャとして作用し,決断を阻害する要因となっていた。揺れる弥次郎兵衛は私に自動車酔いのような心地を催させ,それ故私はカラオケを楽しめなかった。
とうとう決心できないまま,カラオケ店を出て来てしまった。
「あたし,これからバイトだから,行かなくちゃ。恵美もでしょ?」
「うん。でも栞は今日違うよね。じゃっ,ここで一旦お別れじゃん。栞,夜ちゃんと家来いよ」
恵美の打ちつけた釘が私のハートに食い込んだ。万が一でも忘れていることを願ったが,やはり無理だった。「大丈夫,行くよ」
2人は各々行くべき場所へ散った。一人取り残された私は,突如潤を思い出し,するといても立ってもいられず,メールを出したい衝動に駆られた。傍の街路樹に凭(もた)れて,ケータイのテンキーに悉皆胸の内を託した。〈いますぐあってきいてほしいことがある〉中華料理屋の一件が脳裏を掠(かす)めたものの,最早この際どうでもよい。もう取りつける島は,潤唯一人しかいないのだ。
30分経ったのか,いや1時間経ったのか,わからないけれども,潤はスクータで現れた。メールで伝えたカラオケ店の前に停車した。銀色のヘルメットを脱ぎながら「後ろに乗れよ」と親指を自分の背中に向けている。
「ごめんなさい。ここじゃダメ?」
潤は一瞬眉を顰(ひそ)め,それから暫時俯くと,再び元に戻した。そうして大儀そうにスクータを路肩に寄せてエンジンを切った。その一連の挙動を見て,私は潤の期待を裏切ってしまったと直観した。
「泊まるかどうかってやつだな。そんな急いでるのか?」私の目の前に立って言った。
私は黙って頷いた。
「——ったく,わかったよ。
あのなぁ,家に帰るか,ダチんチ泊まるかってのは,T字路をどっちに曲がるかってのと同じだぜ。バイクに乗ってる以上は,そこに差し掛かれば,必ず片方を選択しなくちゃなんねぇ。まぁ,どっちに曲がるにせよ,どうせ道はあるんだし,違いは,目的地の距離が近くなるか遠くなるかってとこだな。だから,栞が泊まるか帰るか決める時に考えることは,まずお前がこれからどうしたいか,そしてそれを実現するには,どっちを選ぶ方が近いかの2つ。
外野の一意見としちゃ,もちろんお前がどうしたいかによるけど,帰るべきって言っといた方がいいな。っつぅのも,泊まりを誘ってるのっがダチ自身なんだろ。だったら,そいつ自身が泊まりなって言っときながら,同時に帰れって矛盾するよぉなこと言うわけねぇじゃん。だから関係ねぇ奴としちゃ,帰るべきって言っとく方がいいな」
私は目頭が熱くなった。付き合い始めて以来,潤が私の拙(つたな)い相談に真剣に乗ってくれたのは初めてなのだ。嬉しくて,嬉しくて⋯⋯。私は改めて,感情が激高すると人は涙を堪(こら)えられないのだと実感した。
では,潤のアドバイス通り,今日は家に帰ろう。私はお母さんとの関係を修復したいのだ。それを実現するには,帰宅が最短距離である。
「人体から出る液体は涙,汗,尿,血液とかあるけど,そん中で唯一純潔なのは涙だな。ホント,お前は泣き虫だぜ」潤は指で雫を拭(ぬぐ)ってくれた。「あのよぉ,ちょっと気になったんだけど,どぉしてこんなことになったんだ? また母親との喧嘩か? にしちゃぁ,いつにも増して深刻のようだけど——」
一刹那,不整脈を刻んだ。潤には私をここに到らしめた経緯(いきさつ)を教えていない。もっとも教えられるはずがない。途端に涙は枯れ,私は言い訳を探した。
「まぁいぃや。言いたくなけりゃ,それで結構」
安心と共に,また更に懸念も増えた。そこで私は衷心より「本当に来てくれて,どうもありがとう。足労をかけて,どうもごめんなさい」と丁寧に謝った。
「とんでもねぇ。どうせ駅前に買い物もあったしな。まぁ,気にすんな」
潤はスクータの許に引き返すと,それに跨(また)がり,ヘルメットを被った。「頑張れや,栞」こう言い残してからスクータを発進させ,駅の方向へ颯爽(さっそう)と去って行った。
今,私の心はとても静穏である。人跡未踏の黄泉(こうせん)みたいだ。これが〈嵐の前の静けさ〉でなければいいのだが。
帰ってみたら,家の中は,私が昨日アルバイトへ出て行った時と全然変わっていなかった。対流の鎮まった淀む空気が漂っている。心なしか,それは肌に冷たい。また,玄関を直線で繋(つな)ぐ廊下の突き当たりにあるLDKの扉は,不気味に閉ざされている。母親は恐らくその向こうにいるだろう。
私は足音に細心の注意を払って階段を昇り,自室前の廊下に到った。左側に2つの扉があり,手前のは開いている。そこが私の部屋だ(因(ちなみ)に奥がお兄ちゃんのだ)。足を止めずにさっそく入り込もうとした。が,廊下と部屋の境で突発的に列車自動停止装置(ATS)が作動した。私の机に誰かが座っているのである。その人物は私の気配を察して,AOチェアを半回転させた。固唾を飲む。私と面を合わせた人物は,何と母親だったのだ。喉に押し寄せた唾液を遡(さかのぼ)って,声が口から飛び出た。「ちょっと——そこで何してるの!?」
「別に何もしてないわよ。あんた,もう帰って来ないと思って。だからここにいたの」
「はぁ!? それ,どぉゆぅ意味!?」
母親は得意の,人を逆撫でする笑みを浮かべた。「てっきり男の家に逃げ込むかと思った」
〈そんな関係じゃない!〉唇はそれを形作ったものの,そこに材料は届かず,ただ空を切るに留まった。それが母親には,的の中心を射られた私が震え戦(おのの)いているように見えたかも知れない。
「そう。じゃあ,今荷物を取りに来たわけだ」母親は腕を組むと,「——あんたは,あの男と結婚する気なの?」
〈はぁ!?〉この唐突な一言で,私の項(うな)垂れかけていた項(うなじ)が真直ぐに伸びた。なぜ〈結婚〉なんて,脈絡のない,異次元にあることを言い出すのか。なぜなら,私はまだ高校生なのだ。その真意が解せないうちに,母親は更に攻撃を追加した。
「まぁ,別にいいわよ。勝手にしなさい。お嫁に入っちゃえば,学歴なんか関係ないものね。私も行ってないわよ。それに,家にとってもそっちの方が都合いいのよ。これから直樹(なおき)が6年間医学部行くから,お金がたくさんかかるし。あんたの分が浮いて大助かりよ」
私はもう〈この家にはいられない〉と悟った。既に私を構ってくれる人は存在しないのだ。では,こんな所にいてはいけない。私は遂に愛想を尽かした。黙秘を貫き通し,踵(きびす)を返した。〈あばよ,畜生野郎〉
階段では,一段一段飛び降りるが如く,敢えて足音を立てた。
母親は,換気の為に窓を開けた娘の部屋で,漸次遠ざかる足音に耳を欹(そばだ)てながら,再び頭を抱えるのであった。
恵美の自宅は,自転車で30分ほどの所にあった。ディムグレーの現代的な外壁を持つ7階建てのマンションである。私はそこのオートロックに行く手を阻まれてしまい,エントランスホールで一人しゃがみ込んでいた。2人は早くとも9時までは帰って来ない。しかし,あと3時間もあるにも拘らず,私はほとんど退屈を感じていなかった。大海原に揺蕩(たゆと)う漂流民のように,360度絶望的な水平線に囲まれて,どの方角へ筏(いかだ)を漕ぐべきか決め倦(あぐ)んでいたからである。
時折,マンションの住人が私の前を通った。その際,必ず彼らは私を白眼視した。ところが,私はそれを全然意に介さなかった。寧ろそのことさえ特に意識していなかったとも言よう。私は魂が抜けてしまったように,ただ呆然自失と過ごしていた。
ここに着いた頃は,まだ太陽は尻を覗かせていたものの,今では残光もすっかり夜の暗闇に希釈されている。ホールに備えつけられた黄赤色の電灯だけが私を照らしている。
ケータイが歌を歌い始めた。もう5回目だ。どうせまた友達に違いないと思いつつ調べてみると,意想外なことに家からの電話であった。私は出るのを躊躇(ためら)ったものの,戦(おのの)く親指で〈〉のボタンを押した。
「もしもし,栞か?」
お兄ちゃんだ。ということは,LDKにある親機からでなく,2階の廊下に掛けられた子機からかけているのだろう(お兄ちゃんは携帯電話を持っていない)。
「そうだけど」平静を装って応答した。
「お前,今どこいるんだ? 今日はバイトじゃないだろ」
「うん。ちょっと友達と遊んでる」
「そうか⋯⋯。いやぁなぁ,お前が用もないのに,夜中出歩くことなんてなかったからな。母さんは別に何ともない様子だし」
「心配してくれてありがとう。あたしは大丈夫だから,気にせず勉強頑張ってね」
「大丈夫⋯⋯? お前,何時に帰って来るつもりなんだ?」
私は一旦ケータイを頬から離した。お兄ちゃんがいつもに増してずっと優しいのだ。
「もうすぐ帰る」
「——本当か?」お兄ちゃんは急に声を押し殺した。「俺,さっきお前の部屋で母さんと話してたの聞こえたんだ」
互いに黙ってしまった,電話中にそんなことは滅多にないのだが。お兄ちゃんは私が潤の家にいると誤解しているみたいだ。まずそれを改めることが先決だ。では,次に何と言おう。友達の家に泊まると言ったところで嘘に聞こえる。第一,お兄ちゃんに事情を子細に話してどうなるのだろうか。
お兄ちゃんの声が甦った。「とにかく帰って来いよ。深夜でもいいからさ。そん時,俺でよけりゃ相談に乗るよ。一応兄貴なんだし,お前のことは他人よりも多少はわかると思う。善後策を考えよう」
私は瞼を閉じて,自分の心を感じてみた。潤にこんなことを言われれば,確実に号泣しているけれども,実の兄だ,水臭くて,仮に重大な問題でなかったら失笑しているだろう。石油ストーブの輻(ふく)射熱のように外部がこんがりと暖まる嬉しさではなく,ハロゲンヒータの遠赤外線のように内部がじんわりと暖まる嬉しさを感じた。
「栞,泣いてないか? お前はガキん頃から泣き虫だったし,怖がったり,不安がったりすると,よく俺に泣きついてたよな。でも最近は家族の前じゃ泣いてないし,お前も大人になったんだよ,いや,強くなったのか。でも,昨日久し振りにお前が部屋で大泣きしてるの聞いて,俺はどうするべきか正直悩んだ。親の方が受験でうるせぇし,保護者の立場にない,一番妹に近いのは俺だから。まぁ,こんなこと言ってるけど,クソ益体もない慈悲ってやつのせいだぜ」
「——それじゃあ,さっそく訊きたいことが1つあるの。お兄ちゃんは,どうして大学行くの?」
「俺か⋯⋯。そうだなぁ,医者になる為だ。もし大学行かなくても医者になれんなら,とっくに行ってねぇよ。お前は行きたくねぇのか? その気持ちはよくわかる。だけど,大学行かなかったら,その4年間何するつもりなんだ? 独立した大人なら働きゃいいけど,お前はきっと暇人になるんだろぉな。それじゃぁ,時間勿体ねぇだろ。折角のモラトリアムを有効に使おうぜ。子供を蔑(ないがし)ろにするクソ社会じゃ,目的ない奴は,取り敢えず大学さ入るしかねぇんだ。そん為に必死こいて辛い受験勉強しなくちゃなんねぇのはシャレになんねぇけど,それは,するべきことがあるっつぅ安心を得る為だと思えば,少しは救われるってもんだ。受験生にしろ,勉強1つしてりゃ誰も文句言わねぇっつぅ特権階級だし。会社首になって,金も尽き果てて,ハローワークに通う羽目になるよりゃ,ずっとマシだろうよ」
「確かに,そうだね」
母親が私に大学を強いる理由が,何となくわかったような気がする。お兄ちゃんの言う通り,もし私が大学へ行かなければ,間違いなく暇を持て余すことになる。また,苟も私にメジャーで通用する十分な歌唱力があったら,お母さんは私が歌手になるのも拒まないかも知れない。
「ありがとう,わざわざ電話くれて。お兄ちゃんは,いいお医者さんになれるよ。あたしはそんなお兄ちゃんが——」
続きを言い終わらないうちに,電話先で物音(ハウリング)が響き,電話が切れてしまった。母親がお兄ちゃんの部屋に来たのだろうか。
なぜ私は母親の言う通り,大人しく受験勉強に取り組まなかったのだ。もしそうしていれば,こんなことにはならなかったかも知れないのに。内省してみると,理由は到って単純だった。きっと母親は,私が大学へ行きたくないと思っているからだと,誤解しているに違いない。本当は,母親に散々言われた挙句に勉強し始めて,母親に従ったと思われるのが悔しいからである。石に漱(くちすす)ぎ流れに枕す。しょせん,私はクラスメイトと同様に体面を気にしているのだ。
電話の後,私は水平線の向こうで頻りに信号を送信する人がいることを知った。まだ陸には辿り着けそうにないが,少なくとも私の抱える問題には歴然とした答えがあることは確かである。太陽が明日昇れば,それを目印にして筏を漕ぐ決心がついた。私は櫂(オール)をぐっと握り締めた。
「2人とも中に入っていぃよ」恵美は玄関で私と由香里を招き入れた。
モデルルームと見紛(まが)うばかりに綺麗な内装は,ベースカラーのホフホワイトが西洋食器特有の清潔感を演出しており,間接照明がそこにシルクのベールを掛けている。真直ぐな廊下の壁には,絵画とタペストリーが設(しつら)えてあり,とても上品なインテリアデザインが施されている。我が家で飛蚊症のように浮遊している埃は,ここには微塵も見られない。
恵美は右側にある2つの扉のうち,最も近いのを開扉した。「ここがあたしの部屋」
そこは,宛(さなが)らドラマ(特にラブストーリー)に出てくるような,小洒落たアイシーな部屋であった。壁紙にホフホワイト,什(じゅう)器にチタングレイを配色し,全体的にメタリックな印象を与えている。それは,ややニヒルな面を持つ恵美の性格を象徴しているようでもあった。
「あぁ,疲れた⋯⋯」恵美がパイプベッドに飛び込んだ。
「恵美ぃ,あたしも疲れちまったよぉ」由香里も恵美の隣に転がった。「恵美の部屋きれいだね。ちゃんと掃除してんだ」
「全然。寧ろ掃除すんのメンドいから,グローゼットにぶち込んである」
私はフローリングで家鴨(あひる)座りをした。すると,「栞もこっちに来な。あんたはどうも他人行儀でよくない」と恵美に咎められた。不承不承私はそれに応じ,徐に由香里の隣に身を横たえた。そしてそのまま3人は皆黙って天井を見詰めた。
まだ新しい天井は,染み一つない真っ白であった。しかしそれにしろ,何年か経るにつれて必ず自然に汚れてゆくのだ。誰も触れやしないにも拘らず,である。私も幼い頃は両親に対して従順であった。だが,いつからか刃向かうよういなってしまった。いや,〈いつから〉というのはない。
きっと私たち人間は,大人になる過程が予め定められているのだと思う。天井が自然に汚れてしまう原因に同じである。それが例え尋常であっても,私にとってかなり辛い。しかし時流に逆らうことで,私は終点に着くのが遅れるような感覚がするし,また,この楽しい一時が永遠に続きそうな錯覚さえ覚える。詮ずるところ,私は,連続に力を加えて一瞬を引き延ばそうとしているのだ。もう大人になってしまった者がそうしている者に対して忠告するのは,それが全くの無駄であることを既に経験で知っているからに違いない。今私はその忠告に刃向かっている真っ最中なのだ。
「あたしたち,もうすぐ受験だね」恵美の頭から音が漏れた。「こうしてられるのも,今日が最後なんかも知んない」
それを聞いた由香里は「うん,そうかも。2人とも受験勉強してる? 栞は真面目だし,予備校の夏期講習とか行くんじゃない?」
「いやいや,全然。そんでなきゃ,家出されないよ」
「何,結局,家出されたの?」恵美は別段驚きもせずに言った。
「うん,まぁ。ってゆぅか,母親勘違いしてんだよね。潤ってちょっと見た目は悪っぽいから,あたしたち如何わしい仲だって思い込んでる。だから,潤の家へ行ちゃえって」
「えぇっ!? だったらこんな所来ないで,男んチ行きゃぁよかったじゃん!」と由香里。
「あのね,あなたたちがバイト行ってる間,潤と会ったんだけど,帰った方がいいって促された」
「それって怪しいな⋯⋯」恵美に悪い予感が降りたらしい。「そんな絶好のシーンで家なりホテルなりに女を連れ込まない男はいない。栞の他に女いるんじゃない?」
「えっ⋯⋯,どぉゆぅ意味?」
恵美は即答した。「ひょっとして,まさかあんたまだ処女守ってるとか?」
「うっそぉ!? 栞って,どこまでピュアなの? っつぅか,それじゃぁ彼氏寝取られちゃうよ」
「あの⋯⋯,まだよくわかんないんだけど⋯⋯,私って変?」
「変ってゆぅかぁ——」由香里に代わって恵美が続ける。「栞はさ,恋って何だと思ってる?」
〈罪悪である〉これは違う。「うぅん⋯⋯,お互いに愛し合うこと,かな?」
「ははぁ⋯⋯」恵美は溜め息を吐いた。「まぁそぉかも知んないけどさ,あたしらまだ高校生だよ。もっと恋を楽しまなくっちゃ」
私は恵美の考え方に得心し難(がた)なかった。もしかすると——いや,仮定するまでもなく,私は他の高校生とは恋に対する考え方が異なるのだ。由香里も,無論潤だって〈恋は楽しむもの〉と考えているに違いない。それでようやく私を包んでいた濃霧が晴れた。潤が私の相談に乗ってくれない理由も,そして母親が〈結婚〉を口にした理由も。私は敢えて2人に訊いてみた。
「じゃぁさぁ,あたし,さっき家を追い出される直前に,母親から言われたことがあるの。『あんたはあの男と結婚する気なの』って。これ,どぉゆぅ意味かな?」
「はぁ!? 〈ケッコン〉って⋯⋯,何わけわからんことほざいてんの!? あたしらまだ高校生だよ。ねぇ,恵美」
「〈結婚〉か⋯⋯。つまりそれは,家を出てっちまえってことじゃないの」
「そうだよねぇ」と由香里は賛成する。
私はそれに真っ向から反対だ。2人には決してわかるまい。母親が言うところの〈結婚〉とは——
「もぉこんな話よそぉよ」由香里は上体を起こした。「恵美,テレビのリモコンどこ? それと食い物と雑誌ない?」
私の生来初めての家出(いわゆるプチ家出)は,テレビとファッション誌,スナック菓子とチューハイ(アルコールが入れば本音が出て話が盛り上がる),そしてケータイとともに夜が更けていった。3人は制服のままで,知らずのうちに睡魔の術にかけられたのだった。
Ⅲ
目が覚めた。誰もいない。マンションの外廊下に面する磨(す)り硝子窓が一面白く発光しており,いよいよこの部屋は,雪国のように無彩色となっていた。紛れもなく朝だ。私は床に座りながら顔をベッドに伏して寝てしまったらしい。
不自然な静寂が耳に聞こえた。2人はどこへ行ったのだろう。私は突然焦燥に駆られた。ここは他人の家である。ところで,今,何時だ? 私は辺りを見渡した。掛け時計はない。そこでケータイを取り出した。——9時半。〈畜生,あいつらめ!〉不意に2人のほくそ笑む顔が頭を過(よぎ)った。液晶画面はメールの着信を示している。
〈栞(しおり)起きた? おはよう。そっち何時?わたしら先いってるから。あと,起きたら勝手にフロ使っていいよ。シャワー浴びてね。ちなみに家には誰もいないから安心して。でも物色すんなよ。それじゃあメール読んだら返事してね〉メールをケータイの腹に叩きつけた。
さて,これから一体どうしよう。私は気力がすっかり失(う)せて,学校へ行きたくなかった。それは絶望感に似ている。私は生来初めて学校をサボることにした。しかし既にプチ家出の最中であった為,罪悪感はちっともなかった。
誰もいない他人の家は,あたかも放課後の教室みたいであった。普段ほとんど注意しない他人の机をまじまじと見るようにして,私は恵美(えみ)の宅を眺め回った。花瓶や電話機,ダイニングテーブルやサイドボード,延(ひ)いては照明や掛け時計に到るまで,自分の家にもあるに拘らず,それらは凄く目新しかった。私を捕らえる密閉空間内の物品は全て他人のだ,そう殊更に意識すると,何だか感慨深いものである。
私はリビングの座卓の前の純白なソファーに飛び込んだ。それはU字形に変形し,私を優しく受け止めてくれた。肘(ひじ)掛けを枕にする。そして天井に目を遣(や)り,暫し物思いに耽った。
私は,私に所有権のない物に囲まれて,酷く〈自分〉を実感した。これも自分の物ではない,あれも自分の物ではない⋯⋯,そう一つひとつ除外していくと,最後に残った物は唯1つ,〈自分〉しかなかった。私の皮膚に接する物は全部他人のと思えば,途端に自分が持っている物,〈心〉に縋(すが)りつくことを禁じ得なかった。しかし,それは思いの外(ほか)に細くて軽かった。それ故に,私は到底一人では生きてゆけないと,今更悟ったのだった。
目を屋外へ遣った。棹(さお)にTシャツ等の,総じて雨に濡れても構わない服ばかりが干されている。その一端で,黄味がかった色のブラジャーが風に翻弄されている。私は思わず笑みが零れた。他人の私生活を垣間見,秘密を知った時の奇妙な嬉しさを感じた。
肢体を反り上げ,その弾みでソファーから立つと,私は浴室へ向かった。他人の家だから遠慮していたけれども,恐らく恵美の母親のであろうブラジャーを見てしまったせいで,そんな抑止は霧散した。私は,ちょうど他人の物を拝借しているのと同じ感覚を掴んだ。
浴室には大きな雫が点在していたので,由香里(ゆかり)もシャワーを浴びていたのだろう。傍の棚からバスタオルを取り出し,手早く全身の水気を拭いた。そうしながら,私は他人の家で全裸でいることに些(いささ)か上気し,不思議な快感を覚えた。試しにそのままの恰好でダイニングまで行ってみる。さっきまでの心細さはいずこに求めようがない。私は仁王立ちし,ふと思った。——いつかこの華奢(きゃしゃ)な身体を抱かれる瞬間が来るのだろうか,しかも潤に。突然全身が寒くなった。咄嗟(とっさ)に右手を股間に挟んだ。鳴呼(ああ),私にはできない。胸に左手を触れた。鳴呼,私にはできない。私は潤を十分に愛していないのだ。
〈あんたは,あの男と結婚する気なの?〉この声が永遠に心中で木霊した,正弦波のように強弱を繰り返して。
正と負の接近‐回避型葛藤の結果,片方がもう一方を制すると,私は脱力し,その場に崩れ落ちた。恋の結晶は作れても,愛の結晶は作れない。お母さんとお父さんは愛しているのだ。だから私とお兄ちゃんを産み育てている。私にはまだそれができない。私が潤と〈結婚〉しないということは,即ち必ず離別するということだ。
〈結婚するはずないじゃん。だって,あたし,まだ高校生よ〉〈じゃあ,別れるってことじゃない。そんなの愛し合ってない証よ〉
〈これで大丈夫だな。俺たちが付き合ってる証だ。俺は別れねぇぞ,栞と〉〈それって本当? あたしと結婚するってことなの?〉
私は恋愛を甘く見過ぎていた。潤が〈結婚〉する何て答えるわけがあるまい。万が一そうしたとしても,私の方が彼を裏切ったことになるから,後ろめたくて〈結婚〉はできない。
では,〈恋〉と〈愛〉はどう違うのか。私にはそれをはっきりと我が身をもって知った。〈恋は有償 愛は無償〉私は〈恋〉の為にデートを重ねて媚(こ)び諂(へつら)い,自分の身体を貢(みつ)がなければならない。それは従属の関係で,互いに利益を求め合う。対して〈愛〉は対等の関係である。互いに利害がない。親子の〈愛〉もそうだ。お母さんはどんなことがあっても私を愛してくれるだろう。また,私もどんなことがあってもお母さんを愛する。私がいくらお母さんを拒もうが,お母さんは私を拒まないだろう。しかし私が潤を拒めば,潤も私を拒むだろう。私たちはまだ高校生だ。他人を愛することも,他人から愛されることもできない。私たちはまだ親の子なのだ。
涙が頬を伝わり,乳房に落ちた。その点滴はとても温かいものであった。
制服のスカートは毎日同じのを穿(は)くけれども,流石に一旦脱いだ下着を再度着用するのは,とても不快である。ドライヤーは洗面台にあったから,それを失敬して借りた。ヘアーブラシや多少のメイクグッズは,学校のバッグにバニティーケースを持ち合わせていたので,当座の身嗜みを整えるには事足りた。
結局,外出の準備を完了すると,10時半になった。ちょうどよい頃合だ。もうすぐ学校では休み時間に入る。更に10分経った後,私は恵美に電話を掛けた。
「栞!? 今起きたの?」
「いや,もう1時間ぐらい前」
「あっ,そぉ。じゃあ,これから学校来んの?」
「なぁに,行けるわけないじゃん。鍵は? 戸締まりしなくていいの?」
「あぁっ!! そっかぁ,そうだった! ——ったく,テーブルの後ろのサイドボードの一番右の抽き出しにスペアキーあるから,それ使って。後で必ず返せよ!」
「わかってる,もちろん」
ここで一方的に私から電話を切った。スペアキーの在り処(か)が判明すれば,用件は済んだ。私は学校へは行かない。他にやらねばならないことを帯びている。
コンタクトレンズをつけていないせいで,単純な歩行さえどうも綽(しゃく)然とできない。それは仕方ないことだ。我慢する必要の範囲内である。私は儘(こ)ならぬ調子で自転車を漕ぎ,アルバイト先のドラッグストアへ赴いた。
「はぁ!? 何ふざけたこと言ってんだ!?」と店長は怒声を上げた。私が唐突に辞意を伝えれば,当然の至りである。
「本当にごめんなさい。今日限りでどうか辞めさせて下さい」私は七重の膝を八重に折った。「お願いです。この通りです」私は額を膝頭につけた。
「ったく,これだから高校生のバイトはヤなんだよ。こっちはお前らの遊び金を供出してやってんじゃねぇんだぞ。仕事なんだ! 家族に飯食わせる為に,命懸けてやってんだ。足手まといになるよぉなマネよしてくれ!
だいたい,こっちはあんたを雇ってる側なんだ。どぉしても辞めるっつぅなら,次のバイトが入るまで,つまり夏休みまでやって貰わねぇと困るんだよ。確か契約もそぉなってるはずだ。文句あっか!?」
〈そういえば,政経の授業で⋯⋯〉私は妥協せずに「今日にして下さい。もしあたしが言ってもダメなら,親を呼びます。親なら民法823条2項の規定で,子の職業契約を取り消すことができますから」(バイトを始める折に提出した諸々の書類には,私が自分で保護者認印を捺(なつ)印した。店はそれを真に受けて,全然疑いも,確認もしなかった)
30分ほどして,お母さんが慌てて事務室へ駆け込んで来た。その間,私は黙然(もくねん)と鼠色の事務椅子に座っており,一方店長は平常通りの事務作業に取り組んでいた。二人切りだったので,一昨日の三者面談より遥かに緊張し,不安だった。蛍光灯のくすんで青ざめた光が落ちていた。お母さんは店長に「どうもご迷惑をお掛けして,誠に済みません」と頓首(とんしゅ)して謝った。お母さんは敢えて私に見向きしない。
「こちらも商売なんで,こぉゆぅことされちゃぁ,大変困るんですよね。確かに伺いますけど,本当にお子さんを辞めさせるつもりですか」
「申し訳ありません。恐縮ながら,そうさせて頂きたいと存じます」
お母さんはこちらを見ずに,私へ手を伸ばし,無理矢理頭を下げさせた。二人で店長に深々とお辞儀する。私にとって,それはとても堪え難い屈辱であった。私個人の問題であるにも拘らず,お母さんにまでこんなことをさせるのは,きっと親不孝に違いない。
「はぁ,仕方ありませんよ。法律には私どもも逆らえません。今本部に承認を取りますから」店長は鼠色の事務机上に設置されている同色の電話機の受話器を取った。
外は最高の好天であった。白い入道雲が遠くの昊(こう)天に浮かんでおり,それは夏の存在を証明している。また,太陽は益々火力を強めており,街並は建物の黒影によって,夏独特の判然とした輪郭線を掘り下げている。一応ドラッグストアのアルバイトを辞めさせて貰えることになった。新しいアルバイトが入るまで書類上在籍しているが,実際は来なくていい,ということに結着した。
お母さんは相変わらず頑(かたくな)に私を無視し続けている。本来ならば,まだ修業時刻だ。きっと言いたいことは湧水(ゆうすい)のごとく止めどもなく溢れ溜まってるだろう。それなのに,お母さんは泥水の苦味を我慢している。私はもう少し耐えていて欲しかった。まだするべきことが一つ残っているのだ。私は店の自動ドアを出,日陰の砂浜から日向(ひなた)の海へ移ると,お母さんに無言の別れを告げた。それを聞いたお母さんは,無動作で頷いた。もう無彩色に彩られたドラッグストアの事務室,そして恵美の部屋へ行くことはない。
潤が住んでいるマンションには二度訪れていた。とはいえども,中へ身体を入れたことはまだない。デートの帰りに,私が勝手について行っただけだ。
私は恵美の所でもそうした通り,またエントランスホールに腰を下ろした。外が甚だ明るいせいで,こちらは一層際立って暗い。私はケータイを掌中に収めた。ここに来る道すがら,潤に事前に電話で通知しておこうか迷った。だが,不意打ちを敢行することに決めた。わざわざ連絡して会って貰うのに引け目を感じたからである。私はアドレス帳で自宅を選択した。5度ベルが鳴った後,止んだ。
「はい,もしもし」予想的中,お兄ちゃんである。
「あたし,栞。勉強中ごめん」
「あぁ,そんなこと気にすんな。で,どうした?」
「あたし,たったさっきバイト辞めて来た」
「そぉか,それで母さんが家を飛び出したのか⋯⋯」お兄ちゃんの反応は,心外に淡白だった,まだ学校では授業中というのに。すると,優しいお兄ちゃんのことだ,私を余計に刺激しないように気遣ってくれたのかも知れない。
「それで,これから——彼氏とも別れるから」
「おいおい,急にどぉしたんだ? まさかそいつに何かされたのか?」
まさかお兄ちゃんに変な想像をさせたか。「大丈夫,平気平気。何もない。あたし,よく考えて決心したの,今できることを——いや,今すべきことをやろって。あたしには男の子と付き合うことは,まだできないみたいだから。勉強に専念するよ。お兄ちゃんの予備校の夏期講習も受けてみたいな」
「おうっ,いぃんじゃないか。今すべきことか⋯⋯。そうだな,できるってのは不適だな」
「それと——」私は昨日の電話を思い出した。「昨日言いそびれたことがある。——お兄ちゃん,好きだよ」
電話口でお兄ちゃんは唾を噴霧したらしい。「なぁに言ってんだか。マセやがってよ。俺はお前のことキラいだけどな」
私たちは別れの挨拶を交わして電話を終えた。順調に事は運んでいる。こんなうまくゆくのは,かつてになかった。私はほとんんど達成を摩していた。
ここから屋外を眺めると,私はプールサイドのテント下にいる心持ちに囚われた。生理の為に水泳の授業を休まざるを得ない際,その日陰から,炎天下で水飛沫(しぶき)を上げる快さそうなクラスメイトらを羨望する時の心地である。しかし暫時その情感に浸(ひた)っていた私は,強引に引き出されてしまった。マンション先の道路を1台のスクータが通過したみたいだ。しかも,二人乗りしていたものの,あの車種は紛れもなく潤のである。では,後ろは誰だったのか。まさか私の他の彼女? いたらいたでまた構わない。そちらの方が話は速い。私はいよいよ到来するべき事態に臨んで,玉決(ぎょっけつ)を扼(やく)し直した。
間もなく潤と1人の女子(高校生?)が私の待ち構えているエントランスホールに土足を踏み入れた。私は,自動ドアが再び閉まる前に,起立した。
「栞!?」潤は,全く意表をつかれたと見えて,喫驚を露(あらわ)にした。
私はここぞとばかりに一気に王手をかけようとした。ところが,意想外にも,王将の前に間駒(あいごま)が躍り出たのである。潤に寄り添っていた女子はさらぬ体(てい)で,さらりと言って退(の)けた。「あぁ,この娘(コ)が例のスイートハート⋯⋯。かなりカワイいじゃん。アイドル顔ね」
その女子は紺色(ネイビーブルー)のスカート,空色(スカイブルー)のカラーシャツを着ていた。髪はファウンテン纏(まと)めで,金色に染髪している(もう髪自体も相当いたんでおり,色も斑になっている)。化粧は色々なトレンドを総合しているせいで,ちょうど渋谷や原宿の街のように,いがらっぽい。恵美に共通する部分もあるけれども,彼女の方が節度を守っており,よほど綺麗だ。いくら潤と別れるとはいえ,こんな下品な女子と付き合っていたことに軽いショックを受けた。すると,その隙を突かれてしまった。
「まぁ,栞ちゃん,どぉぞ心配しないで。あなたのヴァージンは,このあたしが保障するわ」
この幼児をあやすような口調が癪(しゃく)に触った,どうせわざとに違いないが。私が鉛弾を込めている最中に,2人は間合いを詰めて来た。女子が私の手首を掴むと,「栞ちゃんも一緒に来る?」と説明不十分な勧誘を仕向けた。そうして私の顔を下から挑発的な瞳で覗き込んだ。私はそれから目を側めて,潤を見た。彼の表情は,あたかも傷だらけの鏡であった。
「ねぇ,この娘,連れてっていぃでしょ?」
当然潤は曇ったきりで,何も面色(めんしき)に映らない。女子は私たちの答えを聞かないうちに,私をマンションの中へ強制連行した。正直,この後我が身がいかなる災難に見舞われるか,全然見当もつかず,動脈血は炭酸入浴剤のごとく,盛んに泡立つのだった。
潤宅の玄関には,なぜか幾足もの靴が散乱していた。それはスニーカーだったりスポーツシューズっだったりローファーだったりと,区々(まちまち)である。その上,不可解なことに,奥でベルリオーズの『幻想交響曲』が流されている。つまるところ,クラシック観賞会か? 私は女子につれられるがままにリビングへ押し出された。
「この娘が潤のスイートハート,栞ちゃんでぇす!」
フローリングに車座していた男女4人が口々に「カワイぃ」と言った。
「じゃっ,潤,この娘にマリパン作ってあげなよ。始めっからMMじゃヤバいっしょ」
私を連行した女子がそう潤に命じると,彼は大儀そうにキッチンへ向かった。明らかに不承不承といった様子である。
出し抜けに,彼を見ていた私の手を,傍の男子に引っ張られた。もう片手も別の男子にそうされて,私の視界は急降下した。初めに私の手を掴んだ男子が「おぉ,鬼カワイぃ!」と,狂気の声を上げながら,鼠蹊(そけい)を摩(さす)った。私はその痴漢行為を反射的に拒絶した。するとその男子は「俺をそんな円(つぶら)な目で見ないでぇ」と,流涎(りゅうえん)堪(こら)えずに言った。私は気づいた,この男の目が空ろで光を失っていることに。ちょうど死んだ魚の目である。
そう思っていると,油断につけ込んで,今度はもう片手を掴んだ男子が私を羽交い締めにした。男子は禽獣(きんじゅう)のような,言葉でない声を発しながら,私の敏感な胸を揉(も)みしだいた。「キャァ!! 止めろ,この変態野郎!!」
全力で抵抗を試みたら,案外男子の力は弱く,たちまち私の片腕は自由となった。そして間髪容れず,顔面へ拳を打(ぶ)ち込む。男子は呆気なく床に伏し,身悶(もだ)えた。変だ,あまりに変だ,非力な女子高生の一撃でノックアウトしてしまうなんて。
「あぁららぁ⋯⋯,こいつら完全にトリップしてんよ。あまりキツいことよしてね。バッドになっちゃうから」と,輪にいる2人の女子のうちで私服の方が,私を窘(たしな)めた。2人とも潤と一緒にいた女子と同然の化粧を施している。
「栞ちゃん,ったっけ?」続いてセーラー服の女子。「あたしら,まだ素面(シラフ)だから大丈夫。あんたはビギナー?」
「そぉだ!」キッチンから最初の女子が口を挟んだ。
「そっか。んじゃ,少し説明せんと」私服が話を始める。「ウチらはドラッグスレの住人で,全員高校生。んでもって,今日は1日オフ会兼ねてのドラッグパーティってわけ」
私は〈ドラッグ〉と聞いた刹那に,柔軟な背骨が固まった。
「ドラッグっても,アシッドやオピオイドなんかの違法物じゃなくて,MM(マジックマッシュルーム)——まぁ,安全な幻覚茸なんだけど,合法だから問題なし,安心せよ。でもこれは上手くセッティングできないとソッコォバッド入っちゃうから,ビギナーにゃ勧められん。んで,今潤があんたに作ってんのが,通称マリパン——マリファナとアンパンを足して2で割ったよぉなもん。成分はTHCっつぅマリファナと同じもんだけど,これは七味唐辛子にも入ってて,もちろん化(ばけ)学的にも無害だって実証済みだし,裁判でも認められてる。今回は違法のシンナーじゃなくて,アルコールを溶媒にしてんから,心配無用」性懲りもなく,セーラー服が継続する。「マリパンはセッティング——うぅん,気持ちの落ち着かせが必要だから,クラシック音楽とか聴いてリラックスしなくちゃいけないの。MMなら,セッティングにしくじると,容赦なくバッドトリップ——悪酔いしちゃうけど,マリパンはそれ自体に麻薬作用ないから,イきたい時にイけて,シラフに戻りたい時にはすぐ戻れる。正にビギナー向け」
私は2人の長広舌の間,ずっと脱出方法を画策していた。ドラッグに関するパンフレットは学校でしばしば配布されていたけれども,それを滅多に読んだことがなかった。よもや自分がドラッグの驚異に直面するまい,と固く信じ込んでいたからである。従って,対処法が記載されていた気がするが,覚えているばずがない。では,逃走するか? 十分に可能だ。しかし,し難(がた)い。私はこの倒錯した奴らを目の当たりにして,何もせずに退去するわけにはいかなかったのである。できることならば,荒れる滄浪(そうろう)から救出してあげたかった。
不意打ちを食らった。左右のMMたるドラッグを摂取した男どもが一斉に襲いかかってきたのだ。
「ウッドローズとサンペドロのカクテルじゃ,性欲炸裂じゃん!」私に延々と説明していた女子が姦(かしま)しく笑い転げている。
「ウラァ!! アナル拝ませろやぁ!!」狂人の1人が私の臀溝(でんこう)を弄(まさぐ)っている。また,もう1人は私の腕に齧(かじ)りつている。勢い私は肘(エルボー)と踵(ヒール)を銘々に食らわせた。2人は床に弾き飛ばされ,顎が外れて発語できなくなった者のように,不気味な唸り声を発しつつ,全身を痙攣(けいれん)させた。
「あんたら,一体何やってんの!?」私は咄嗟に立ち上がった。それは適当な動作で,相手に威圧感を与えるに足りる位置から4人を俯視することは,私を心強くさせた。「合法ドラッグだか何だか知らないけど,あんたら人間じゃないよ! 今すぐここにあるドラッグの類は全て始末して,金輪際止めなさい!!」
足許の女子2人は引き続き笑っている。代わってキッチンにいた女子が私に言った。「あんたにそんなこと言われる筋合いはねぇな。大体このどこが悪いってわけ? 身体にゃ害ねぇし,外出しなきゃ他人に迷惑かけんこともねぇし。ねぇ,どこが悪いってわけ!?」
ちょうどオーディオは,第四楽章『断頭台への行進』の終盤に差し掛かり,焦躁感を煽り立てるようなBGMを奏でていた。
「悪いよ,ドラッグに頼らざるを得ないあんたらの生き方が!」
「あんた,完璧に学校教育の申し子だよ。ドラッグにはイい面もちゃんとあんだ。芸術家とか芸能人とか,よく覚醒剤で逮捕されんだろ? あれは,ドラッグにゃ脳を活性化させる作用があんからだ。デタレメだと思うんなら,試してみりゃいぃ。そうすりゃ,曲を聴けば,今まで聴き流してた部分も次々と頭に取り込まれて,全く異質の曲に聴こえる。飲み食いすりゃ,嫌いなもんだろぉが,何でもオイシくなる。勉強すりゃ,効率は何百倍も上がって,丸一日没頭すんのも全然苦じゃない。〈ムカツク〉っつぅ感覚すらすっかりわからなくなって,〈ハッピー〉を心から感じる。こんなこと学校のクソパンフには書いてるわきゃねぇけど,体験者の証言だ。こんな最高のクスリ知ったら,やらざるを得ないだろ? それにお前だって,オナニー気持ちよくて,つい病みつきになっちゃうだろ? それと変わんねぇよ,快感を求める点においては,な」
「おかしい⋯⋯,それはおかしい!! あんたら,もう助けよぉもないよ!」私の義侠心は指数関数的に昂進した。「確かにこの世は生き難いし,快感を見つけることは滅多にない。けど,だらかって逃げてもいぃの!? 逃げてばっかりじゃ,一向に正しい道に戻れなくなっちゃうよ。道を誤った者同士がこうやってつるんでれば,益々一人で引き返せなくなる。楽な道ばっか進んでったら,その先はきっと崖よ。落ちて死んじまうんだ!
それにあんたら,一度だって自分の将来考えたことある? どうせわかんねぇとか言うんでしょぉね。当たり前よ,間違った道進んでるんだから。正しい道を人に訊いたってわかりゃしない。もう地図に載ってない所まで来てるから,助けに行きようがない。完全にお仕舞いよ! 死にたくなけりゃ,自力で迷ってでも正しい道を見つけることね。目の前にある困難を乗り越えれば,道はきっと見つかる。あんたらは今まで下り坂を進んでたんだから,正しい道は上り坂の上よ!」
「お説教どぉもありがとさん。あんたには,あたしらのこと関係ねぇじゃん。ほっといて!」
「確かに,あたしは関係ない。ただ,あたしもちょっくら道を外した体験者なの。デタラメと思うなら,紆余曲折(うよきょくせつ)を試してみりゃいい。あんたにも母親いるでしょ。今まで正しい道順を教えてくんなかったの?」
突然,我を張っていた女子のそれが弛んだ。「あたしの母親——あたしが小さい時に離婚したから,今はいない」
雰囲気が急転した。恐らくここいいる人は皆決まりが悪くなっただろう。相変わらずCDプレイヤーだけは,機械的に『幻想交響曲』を流し続けていた。
「ごめんなさい,失礼なこと訊いて」
私は,立ち竦(すく)んでいるその女子の背後を通り抜け,ガスコンロの前にいる潤の前へ,徐に足を運んだ。
「酷い幻滅よ,あなたがドラッグ漬けだなんで。それにセックスフレンドがいたなんて。もうこの時点をもって,別れさせて頂きます」
私は凛(りん)然と告白した。キッチンの構造上ここは陰になっていたので,背の高い潤は,ピサの斜塔のように崩壊しそうな危うさを見せていた。鍋の中で製造させつつある緑茶色のマリパンのアルコール臭は,強力な換気扇によって排気されているのだった。
エントランスホールの自動ドアを出ると,待ち焦がれた太陽の下にようやく立つことができた。まず目を瞑(つぶ)る。視界が檸檬(れもん)色一色になった。次に深呼吸する。娑婆(しゃば)の空気というのも,水道水ではなく,こんなミネラルウォータの味がするのだろうか。
私の横を,下校する小学生の集団が通った。男とも女とも区別されない無邪気な声が飛び交っている。私は子供たちを暫し眺めて,不意に「頑張れよ」と激励したくなった。潤も私と別れる際,しばしば「頑張れよ」と叱咤(しった)してくれた。あれも,無邪気な子供である私に対して掛けてくれた言葉だったのかも知れない。
Ⅳ
「ただいま」
興奮が尾を引いている為に,私は特に抵抗なく家へ入れた。随分と年月が経ってしまったようだが,ここを離れていたのは,たった1日だけである。修学旅行にも満たない。しかし私には家が全く異なって見えた。
まだ昼下がり,LDKから炒飯(チャーハン)の香が漂っている。私はその源へ向かった。
キッチンではお母さんが調理の最中であった。油の弾ける音の粒子が飛散している。お母さんは一見取り澄ましているものの,顔面の皮膚の下の筋肉は一部変形していた。
「ちょっと時間ある?」
「いいわよ」お母さんはコンロの火を止め,濡れた手をエプロンで拭いながら,食卓へやって来た。私たちはそこに相対して座る。
「ごめんなさい。よく反省しました。まずは言い訳から言わして貰うね。
お母さんは,あたしを望んで産んだんかも知れない。けど,あたしは望んでお母さんから産まれたんじゃないの。だから,例えお母さんがあたしのことを考えてくれてても,あたしにはそれが却(かえ)って迷惑な場合だってある。反抗しちゃうのは,こんな運命的な原因があるからだと思う。
でも,私は家を出て気づいた,いつでも,どこでも,いかなることでも,あたしを真剣に考えてくれるのは,お母さんやお父さん,お兄ちゃんだけだってことに。友達にも彼氏にも相談したけど,結局親身になってくれる人はなかった。皆他人のことなんて構ってらんないはずなのに,家族だけ例外だね。それがわかんなくって,お母さんたちに反抗して,本当にごめんなさい。
今,あたしはこの家に帰って来たよ」
お母さんはとうとう眼鏡を外した。目に涙を載せていた。それを垣間見せた後,エプロンの裾でそれを拭う為に,顔を被ってしまった。
「バイトも辞めたし,彼氏とも別れた。あと——」私はスカートのポケットから,酷使していたケータイを取り出して,テーブルに置いた。「ケータイも解約していぃよ」
お母さんはエプロンを下ろした。涙を零さないように,眼球を瞼(まぶた)で隠している。「それはあなたが持ってなさい。お友達とのコミュニケーションツールなんでしょ。お金はお母さんが工面してあげるから」
「でも⋯⋯」
「お友達は大切よ。本当のお友達は高校生でできるものなの。あなたを十分に理解してくれる人なら,女でも男でも構いません」
私も涙の水位が上昇し,溢(あふ)れた。もうコンタクトレンズはない。互いに裸眼で話し合っているのだ。
この後,私たちは一言も言葉を交わさなかった。けれども,双方どういう感情にあるかは,全部涙が物語っていた。名状し難いこの気持ちは,それが完全に代弁してくれていた。
部屋に帰ってみた私は驚いた。私が破いてしまった枕とシーツは,しっかりと修繕されている。また,目覚まし時計も,セロファンテープに巻かれながらだが,確実に時を数えている。部屋は,主人(あるじ)が不在の間に,誰かが整理してくれたのだ。私は〈幸せ〉を衷(ちゅう)心より感じつつ,ゆっくりとベッドに身を預けた。
風に揺れていたカーテンは,今や静止している
その晩,お母さんの粋な計らいにより,お父さんも含めた家族4人で鍋を囲んだ。夏だから,食欲は流石(さすが)に萎(な)えた。しかし鍋の湯気に眼鏡を曇らさせられた3人はそれを外したので,全員裸眼で会話を楽しめた。明日からは受験勉強が始まる。今宵は,私とお兄ちゃんのささやかな壮行会となった。
EPILOGUE ⅰ母の胸中
栞(しおり)が家を出て行ってしまってから,もう5時間が経っていた。普段なら夕食の後片づけも一段落つき,最近の陳腐な薄利多売のドラマを観るとはなしに観ている時分である。けれどもこの日は例外で,リビングのソファーに私は座り,今後の趨向(すうこう)について,そのベクトル上を幾度も低回していた。
現在はベクトルを始点へ遡源(そげん)しているところである。私は第一に栞を追い出したことが,本当に適切であったか,という問題に当面した。親元を離れて親の有り難みを悟るものだ。それは大抵婚後だが,繰り下げて,家出を契機にして欲しかったのである。しかし考えようには,それは私が栞を追い出した言い訳にもなっている。実際,私はもう栞に対して言えることを尽かしていた。毎日毎日同じことを語尾だけ挿(す)げ替えた説教を聞かせても,果たして快方へ向かっているのか,自分でさえ疑わしかった。いずれにせよ,子育てを放棄したわけではない。ただ,人力を超越する自然の力に,栞の改心を委ねたのである。
次に私が栞を尾行したことが,本当に適切であったか,という問題に当面した。あれはほとんど体罰に同等の効果を含んでいた。しかし栞だってもう17歳,まだ半熟ながらも大人の素質は凝固しつつある年頃だ。そうわかっているものの,どうしても栞が,庇護(ひご)するべき非力無能な子供に見えてしまうのである。従って,子供がどこを目指して道を歩んでいるか,そしてその道中に危険がないか,親として見守っていたいのだ。わざわざ仕事中の栞の前に現れねばならない必然はなかったかも知れないが,ついいたたまれなくなった。また,デート中の栞にも尾行を続行せねばならない必然はなかったかも知れないが,親としての,好奇心に似た抑止を禁じ得ないものが,その時働いていたのは否めない。私は兼ねてより栞に彼氏がいることに勘づいていた。感覚ではなく経験に基づいてそれを感じ取った。私にも,多からずも夫へ恋心を抱いたことがあるからだ,それは歴とした史実である。
子供たちが小学校へ上がった頃,僅かながらの昇進のお陰で,夫は途端に帰宅が甚(はなは)だ遅くなるようになった。その為,夫の家庭への参加頻度は激減した。私は何回も何回も夫に哀願した,「お金なんていいから早く帰って来て」と。もし私に家庭外に関係を持っていたなら,そうも強情に求めなかっただろう。だが,私は私の両親に箱入り娘のごとく育てられていたこともあり,故に消極的な性格が形成されてしまった。よって,私は自ら進んで働きに出たり,近所と付き合おうともしなかった。その上,趣味と呼べる趣味もないので,家庭だけが私の人生の拠(よ)り所であった。だから,夫や子供たちが家庭を漸次遠ざかってゆくことが,私に虚無感を与える代わりに充実感を奪ってしまった。家事のみ行って日々を過ごしていると,将来が益々絶望的なものに思える。積年が厚さを累増するにつれ,私の遣る瀬ないストレスも逓(てい)増していった。最近に至っては,夫との仲は不和になっている。子供が見ていなければ,泣く泣く言う,「もう会社を辞めて下さい」と。私に相談できる人があったなら,ストレスの捌(は)け口を見つけられたかも知れないのに。
私は我に返った。玄関ドアが開けられる音がしたからだ。栞ではなく,きっと夫だろう。栞について思案していたにも拘らず,なぜか夫について帰着してしまった。
LDKは仄(ほの)暗かった。キッチンの流し台の蛍光灯だけが点(とも)っている。私の胸中に巣食う寂寞(せきばく)感は,もう間もなく全部を占領しそうだ。小さな光を消灯する為に,私はすくっと立ち上がった。
EPILOGUE ⅱ父の胸中
私が帰宅すると,家は既に消灯されていた。しかし別段意識しない。毎日のことである。
LDKの電気を点け,私はソファーに反り返った。これだけが私を優しく受け止めてくれる。会社にせよ,妻にせよ,私に対する態度は岩石のように固く冷たい。それは私がどんなに働き掛けようとも,氷のごとく容易に解けてくれるものではない。
駅から家への道程でコンビニエンスストアに立ち寄った折,弁当と焼酎を購入しておいた。私はまだ振り子運動を続けている数々のストレスや疲労の類が静止するまで,黙然(もくねん)とソファーに座っていた。そうして,やがて落ち着くと,足許のビニール袋から焼酎のカップを取り出した。
私は,景気の上下に然程(さほど)影響されない業種に従事している為,昔から長らく多事多端を極めている。一方で,給料の増加率は年々小さくなっており,それが私に不況を実感させるのに一役買っている。そのせいか,妻は私の仕事に対する価値を甚だ低く見ており,最近頻(しき)りに転職を促してくる。「早く帰って来て。どうせ残業代つかないんだから」と圧力をかけられた日には,私の方も気が滅入(めい)る。転職したところで,早く帰って来られる保証はないのだし,この時勢,第一転職自体が困難だ。収入が暴落することとローンが残っていることを憂慮すれば,とても転職何て及ばないのである。それを知ってか知らずか——全く女ってものは⋯⋯。
早くも1カップを空にした。次に弁当へ手を伸ばす。
そういえば,今年から栞も受験生である。あいつは何をやっているのだろうか。国立へ行けるだけの十分な学力を持っているのだろうか。詳しいことは悉皆(しっかい)わからない。もっとも,私が知ったところで何の意味がない。あいつには自分で頑張って貰う他にない。もし私立に入ってしまったら,一体いかに手取り20万円の収入から工面すればよいのか。やはり転職なんてできるはずがない。
直樹(なおき)は3度目の受験である。医学部を目指すのは全くもって結構,しかし,苟(いやしく)も今回が落第になったなら,気の毒だが諦めて貰おう。経済的援助も,親としては身を切っているに等しい状態なのだ。現代社会も同じように,無駄な所へ出資しない,合理化が大切かつ必要なのである。すると,あいつは別の進路も考えているのだろうか。医学部を諦めた後,どこへ進むつもりなのだろうか。詳しいことは悉皆わからない。もっとも,私が知ったところで何の意味がない。望むらくは,お金の余りかからない道であれば,あいつの好きな方面へ進めばよい。
子供たちも,すっかり大きく成長しているのだ。親として全うすべき責務も,もう間もなく果たし切る。あいつらと遊ぶ為の余暇を持っていたのは,10年以上往年のことだ。時にその頃を懐古し,今再びそうしてみたいと思うことがある。しかしながら,あいつらは望まないに違いない。当座の私の目標は,定年退職である。
2杯目の焼酎を傾けていると,玄関扉が開けられる音がした。きっと直樹が予備校から帰って来たのだろう。ところが,ここに入って来たのは,案外妻と娘であった。2人でこんな時刻まで,一体どこへ出掛けていたのか。妻が私の前に立った。「あの男は一体どこの馬の骨!?」
湿度が異常に高い。これから嵐に見舞われそうな天気である。
栞が突如この部屋を飛び出した。何が起こったのか,私には全然わからない。それより,会社から帰ったばかりの私の前で,早速喧嘩は自粛して欲しい。
「あの子に男がいるんですよ」妻が皮肉を込めて言った。
「いぃじゃないか」妻はまだ返事を求めているみたいだったので,「好きにさせとけ」と加えておいた。
「何言ってるんですか!」妻は怒号を上げた。「あの子,受験生ですよ!」
それぐらい私だって承知している。「受験より大切なことがあるなら,別にいいだろ」
私はここで妻と下馬評を語らう気は更々ないので,空瓶を座卓に置いて,立ち上がった。
「真面目に考えて下さい! 娘のことですよ!」
私はそんな挑発に乗らない。大方その後の趨勢は読めている。〈もう会社を辞めて下さい〉
2階に上がると,栞が自室で泣いていた。不憫に思うものの,私が手を差し伸べたところで,誂(あつらえ)え向きの八つ当たり道具になるだけだ。私は気配を圧殺して,廊下を通り抜けた。直樹の部屋の前の寝室へ入り,眼鏡を外して,早速ベッドに倒れ込んだ。
〈あの子に男がいるんですよ〉これ以上心労を増やさないでおくれ。父親以外の男に娘が見せる表情が,親として,やはり気になるのだ。あいつはその男の前でどんな表情をしているのか。私の想像したのは,栞が幼い頃に常に見せていた可愛らしい笑顔であった。もうあの日々は二度と繰り返さない。妻はそれをどう思っているのか,少々気掛かりであった。が,それはやがて訪れる微睡(まどろ)みに消え,翌朝には微塵もなく溶かされているのだ。
EPILOGUE ⅲ兄の胸中
〈平面上の動点Pが原点Oを出発して,xの正の向きにa(a>0)だけ進み,次に90°曲がってar(0<r<1)だけ進み,次に90°曲がって,ar だけ進む。以下このように進むとする。このとき,Pの極限の位置Qを求めよ〉
俺はこの数学の問題に斜めから視線を投射しつつ,シャープペンシルを指先で器用に回転させていた。この時期は,今年度の入試と来年度の入試のおよそ半ばである為,浪人生にとって,ちょうど中弛みに陥ってしまい易い。俺の場合はそれよりも一層深刻で,入試本番の直前になると受験生に起こりがちな〈自信喪失〉に,早くも苛(さいな)まれていた。
俺が確実にキープしている偏差値は65から70である。一方,国立医学部におけるB判定(合格可能性70%以上)の偏差値は,およそどこの大学でも70以上である。即ち,この事実は,俺の合格の可能性は極めて小さいことを意味している。その上,募集人員という別な問題もある。医学部は医師を養成することが目的の学部であるせいで,近年の医師過剰の事情が災いして,取水制限が行われている。従って,募集人員は他学部と比較すると,その二分の一から三分の一であり,狭き門も甚だしい。俺はこれまでどうしても上澄み液になれなかった。入試当日に実力の200%もの力が到底出せないのである。そのことが俺の〈自信〉を挫(くじ)かせていた。人の努力の及ばぬもの,不可抗力に失敗の原因を求めた時点で,もう成功への道は断たれた,ということは,冷たい頭では重々理解している。そう理解できるものの,熱い感情は理論をなかなか受け入れず,欠如した〈自信〉を補完する為に,どうしてもそこへ不合格の理由を与えたがっていた。
恐らくこれが最後の挑戦になろう。よしや失敗してしまったら(こんな仮定したくもないが,今までのことに参照すれば,してしまうのも無理はない),〈夢〉を諦めるしかない。一般に,〈夢〉は実現しないという。それは〈夢〉自体が実現困難であることも一因だろうけれど,ほとんどの場合,実現に向けて行動しなかったことが要因だと思う。プロ野球選手になりたかった,宇宙飛行士になりたかった等の〈夢〉を実現する為に,一体何人の者が本気で試みたか。その点において,俺は,医者になりたいという〈夢〉を一途に抱き続け,そして実際に医学部に挑戦している。〈夢〉の実現に積極的に働きかけた希有な人物の1人であると自負する。しかし,やる気だけでは条件を満足しないことぐらい百も承知だ。いや,やる気なんて全然必要なくて,学力だけ備わっていればよい。そのことが益々俺の〈自信喪失〉を助長させていた。合格者が学力を持て余して,不合格者を嘲(あざ)笑っているように思われるのだ。浪人当初それが悔しくて,俺の受験勉強の重要な糧になっていたものの,今ではすっかり腐り,俺を食中毒にさせている。
俺は医学部受験を諦めた後の進路をまだ決めていなかった。交通事故に遭い,その際病院に入院して以来10余年,医者を志してきた者が,ものの数百日の間に,受験ガイドを読んで容易に志望を変えられるはずがない。俺は,〈夢〉を投げ打った凡人になりたくないし,そんな軽はずみで決意したわけでもない。それは俺に進路を変更させる為の重大な抵抗となっており,また,失敗の連続が,俺を頑に夢に拘泥させていた。よしや変えるなら,国立理系だろう。俺の偏差値があれば,東大・東工大でもない限り,合格の可能性はあり得る。しかしながら,俺はそう打算的に自分の進路を決定することが嫌であった。却って大学へ行かない方が自分の矜持(きょうじ)を守れるのでは,と考えてみたものの,恐ろしくてとてもできない。大学へ行かなければ,悲しいかな,俺は何もすることがないのだ。
〈悩み〉というものには,大別して2種類あると思う。一つは問題があってその答えを導くもの,またもう一つは選択肢があって適当なのを選択するもの,以上の2つである。俺の〈悩み〉は後者であり,それはどうも雑駁(ざっぱく)であった。それ故に,連立方程式を解くにあたり,未知数に未知数を返すような,堂々巡りを繰り返すだけで,一向に解決の兆しは認められない。しかも物体系内の力は,外界には運動として見えない。それ故に,親や友達に相談しても,勉強量が足りないからだ,と即答されるのが関の山だ。果たして受験生の悩みは全て勉強に収束するものなのだろうか。
階段を誰かが駆け上がって来る足音がした。それが消えると途端に隣の部屋から凄(すさ)まじい物音が轟(とどろ)いた。一瞬,地震を疑ったほどだ。暫くするとそれは収まり,今度は栞の咽(むせ)び泣く声が聞こえた。久し振りである,妹の泣き声を耳にするのは。きっとまた母親と喧嘩したのであろう。
あいつも受験生の一人だ,あいつには,あいつなりの受験生としての悩みを抱えているのだろう。それに対して,肝心の親は高圧的で居丈高な態度をとる切りである。もう家族内で俺の外(ほか)に栞の味方はない。ここは,同じ受験生として俺が手を差し伸べるしかないのか。〈同病相哀れむ〉
シャープペンが指先から零れた。俺は数学のテキストの上で腕を組み,そこに顎を置いた。俺は,妹たる栞に対してよりも,泣き惑う人に対する同情を抱いていた。しかし俺があいつの〈悩み〉を解き放ってあげるのは,残念ながらできない。もう17歳である,小さい頃のように,あいつは俺に泣きつかなくなったので,〈悩み〉の内容が全く与(あずか)り知れない。この背反することが俺を悩ませた。そして俺は,あの指で拭えばたちまちになくなってしまう脆(もろ)い涙の一滴さえ除いてあげられないことで,腑甲斐なく,胸が痛んだ。
EPILOGUE ⅳ友人の胸中
私達は互いに沈黙に捕われてしまった。3人とも銘々の思いを巡らせながら,私の部屋の天井を眺めている。私もその特に変哲ない白天井に,現在の悩み事を投影した。受験についてである。そしてそれに附随する彼氏とアルバイトの問題。もっとも,後者の方は見切りをつけてもよいが。
今までケータイ代や洋服代,その他諸々の個人的な出費は,全部バイト代で賄(まかな)っていた。それが絶えれば,もう親に頼る外にない。しかし,一旦自分の腕をもって稼ぐようになった後に,今更,親から「無駄使いするな」と戒められて小遣いを頂戴するのは子供じみていて,18歳にもなると,やはり恥ずかしいものだ。その際,親に「アリガトォ」と満面のお追従(ついしょう)笑いを浮かべて,それから,これを何に使おうか胸を弾ませながら,こそこそと財布へしまいこむ様は,想像するだけで空嘔(からえずき)を催してしまう。けれども,それは受験勉強を優先する以上,どうにもしようがないこと。バイトと受験を両立させるなんて,睡眠中に夢の中でもやらない限りは,到底不可能だ。暫くの間はこの屈辱に耐えねばならない。その覚悟は既にできている。
本当の問題は彼氏についてだ。アルバイトがてらに見つけようと考えたものの,結局栞に獲(と)られてしまった(誘うべきではなかった,と些か後悔している)。従って,私は,ベンチとしては手頃な,学校の同学年の男子に,取り敢えず腰を掛けることにした。友達を数人辿ってゆき,そいつのメルアドさえ入手できたら,続きは至極簡単だ。つまり,何度かメールを交換しているうちに,デートへ誘(いざな)えば,男の釣り上げ成功である。旧時代の常套(とう)手段であったところの,下駄箱へラブレターの投函や待ち伏せの告白なんていうような稚拙なやり方は,現代において一切必要ない。男たるものは,女の誘(さそ)いに易々と乗ってしまう,色欲単細胞の生物であるから,デートを共に過ごせれば,後は全て惰性だ。こんな荒技が実践できるのは,精々高校生ぐらいであろう。大学生は合コンなんて籤(くじ)引きみたいな不確定要素の多いことを望んでやるが(その不確かさ故に出会いを運命と信じたがっている),私はそれに全然魅力を感じない。彼氏が欲しくなったら,自分の好みのタイプをすぐに入手するのが,私のモットーだ。しかしながら,私は臨戦体制を整えねばならない時期を迎えた。〈欲しがりません 勝つまでは〉私が彼氏について悩んでいるのは,別にあいつが惜しいからではなくて,恋がし得なくなってしまうからである。男を撮(つま)み食いする余裕すらないだろうから,その間に,果たして私は餓死してしまはないか。
鳴呼,受験なんて呪わしい。気がブルーに入る——
「あたしたち,もうすぐ受験だねあたしたち,もうすぐ受験だね。こうしてられるのも,今日が最後なんかも知んない」
私は,友達と話すことで,気を紛らわそうと試みた。
EPILOGUE ⅴ彼氏の胸中
栞との出会いは今尚心に新しい。しかしそれは余り衝撃的ではなかった。辛いものや酸っぱいもののように,口へ入れた途端に味を感じるのではなく,甘いもののように,咀嚼(そしゃく)することで味を感じるがごとく,徐々に栞の魅力に引きつけられていった。俺の恋心は日を増す毎に加速度的に強まってゆき,ようやく10日前に終端速度に収束した。これから無限の愛を捧げようとしていた矢先に——
俺は,予(あらかじ)め粉砕しておいた麻の実を茶漉(こ)し嚢(のう)に詰めながら,思い出に耽っていた。無尽蔵であるはずの心がすっかり空虚になってしまった。光芒(ぼう)の入る,埃舞う蔵の中で深呼吸してみると,まだ愛の匂いが仄かに残存している。
当初,俺には既に彼女がいた。〈彼女〉といえども,互いに認め合っているセックスフレンドであったので,栞への告白はほとんど逡巡することはなかった。俺は,栞と付き合うに当たり,あることを決意した。即ち,彼女の純真は決して犯さない,と。栞は本物のアイドルに優るとも劣らない美少女である。実際は外見のみに留まらず,中身も処女であった。従って,栞は,廉価な日用品としてではなく,高価な美術品として,大切に扱いたかったのだ。しかしいざ付き合い始めると,間もなく俺は行き詰まる。これまで付き合ってきた数多(あまた)の女とは,結局身体だけの関係になってしまっていた男だ,つまり,俺は,健全に付き合う為の力量が著しく乏しかったのである。〈付き合う〉とは一体どのような行為なのか,はっきりとは知らなかった。だから,万が一誤って射精してしまった場合に備えて,俺は栞と半歩距離を隔てた。それが彼女にとっては不本意だったのだろう,デート中2人の間にはよそよそしい雰囲気が吹き抜けていた。ドラッグに頼る荒(すさ)んだ生活を送っている俺は悪友ばかりで,それ故に,栞に相応しい話の種もろくに持ち合わせていない。栞はきっと満足しなかたったにも拘らず,よくも矯笑(きょうしょう)しながら熱心に聞いてくれたものだ。寧ろ俺の方が嬉しかったくらいで,久し振りに〈嬉しさ〉を味わわせてくれた。栞は本当に優しい子だ,不器用な上に性行不良な俺に対してさえも微笑んでくれる子だ。一生手放したくないと懇願した。正しく彼女は〈夕日〉であった,一日で最も穏やかな光である。
夏休みも直前,その間にどこかへ一緒に出掛けて,2人の仲を親密にし,よそよそしい雰囲気が入り込めないようにしようと目論んでいた。が,それはもう実現しそうにない。
茶漉し嚢を湯煎鍋に注がれてあるエタノールへ入れた。俺は液体が次第に緑色に染まってゆく様子を見るとはなしに見ていた。
栞はしばしば彼女の家族についての話題を選んだ。受験のことで母親と喧嘩した,といつもぼやいていた。俺はある日の暮れ方の道を歩いていた時のことを思い出す。あの時も普段の語勢で母親へ文句を連ねていた。そうしながら俺の前を歩く栞の背中を見ると,そこはちょうど夕日の陰となっていた。俺は〈夕日〉の後ろ姿を垣間見た気がした。それで男として,いや,彼氏として義侠心が奮起しないはずがなかった。何とかして俺が援助してやろう,と思い立った。しかし情熱は筋肉を動かす熱量(エネルギ)としては不十分であった。どうアドバイスしてあげればよいか,そんなことを知る由もない。なかなか回転しようとしない歯車は漸次熱を帯びてきた。自分で自分に憤った。その為,栞が家族について話す度に,嫌気が差すようになった。そして遂に一昨日栞にキスをしてしまった——純真は犯さないと誓ったのに。事実上の口封じをしたのである。それがどれほど愚劣なやり方だったか,重々にわかっているが,それを禁じ得なかったのだ。栞が泣くのを見て,俺も泣いてしまった。しかしそれによって,俺はインスピレーションを得られた,頻りに彼女が「お母さん,お母さん」と口にする理由が。彼女は,そう繰り返すことで〈お母さん〉に隠されている何かを探求していたのだ,まるで幼児が迷子になって,母親の名前を呼び求めるように。栞は探し物を見つけられたのだろうか,恐らくこれがそれに違いない。
眼下の液体はアルコール臭を放つ緑茶になっていた。その中で盛んに対流が起こっている。
リビングでは栞が息巻いている。いよいよお仕舞いだ。俺はもう二度と恋はできないかも知れないと悟った。到底俺には人を愛する資格のない男だということは,栞が教えてくれた。あの忘れられない彼女の温顔が俺にそう暗示していたのだ。
栞が俺の許にやって来た。「酷い幻滅よ,あなたがドラッグ漬けだなんで。それにセックスフレンドがいたなんて。もうこの時点をもって,別れさせて頂きます」
俺の胸にその寸鉄は深く突き刺さった。中空だったから,それは容易に奥の急所へ達した。今まで連戦連勝のケンカ野郎が初めて負けた心持ち,痛みはこんなものなのか。俺はガスコンロの火を消し,躊躇(ちゅうちょ)せずに素手で鍋を掴み,流しに明けた。湯気と同時にアルコール臭が辺りに立ち篭める。「畜生!!」俺はリビングへ鍋を放り投げた。
走って〈栞〉の後を負った。呼び止めて何を言うべきか,そんなことは考えてもおらず,ただ立ち竦(すく)んでいるわけにはいられなかった。しかしエレベータは1階へ降りている最中であった。それを認めるや否や,俺は急速に正気に戻った。彼女の下した決断だ,邪魔をしてはならない。そう俺を抑止するものも確かにあるものの,彼女を求めるものの方が優勢であった。エレベータがこの階に上がって来ても,俺はまだ乗れなかった。口実を考えねばならない。エレベータが幾度となく上下した後で,再びこの階を訪れた時に,俺はなぜ栞を追求しているのか,という単純な疑問に解を与えた。買い物袋を提げる主婦と入れ違いで,俺はエレベータに飛び乗った。
スクータで栞の自宅へ向かうと,庭先で栞の母親だろう女性が花壇に手入れを施していた。その人が屈めていた上体を擡(もた)げた。一瞬目が合った。相手は図らずも会釈をした。即座に俺は逃げるようにして,スクータを走らせた。〈俺のこと,知ってるのか?〉
もうあの家へ訪ねることはない。幸せな家庭に汚れた俺の記憶を甦らせたくなかった。大海に放り出された俺に取りつける島はあるのだろうか。
〈なぁ,一体俺はどうしたらいぃ?〉色を濃くしつつある太陽にこう問い掛けた。
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©SPECTRUM/Kanta Kimiyama 2002,2011
制作履歴
2001年12月〜2002年1月 書き下ろし
2011年12月 一部書き直して公開
主要参考文献
新約聖書刊行会・訳「新改訳 新約聖書」(日本聖書刊行会)
激裏情報&にらけらハウス「WWW激裏情報」(三才ブックス)
※表記について
星空文庫で公開するのにあたり、テキスト入力の制約上、本文中の一部表記(空白・振り仮名・傍点・特殊文字など)が原稿どおりに再現されていません。正確な表記は、作者ウェブサイトで公開されているPDF版を参照してください。http://www.geocities.jp/spectrum_kanta/works/contact.pdf