太陽とヒマワリ

※1 黒い手帳

太陽とヒマワリ  トラキチ3

初稿 20140525

※0 プロローグ

「あっ、もしかして、ヒビノアキラさん?」

 ランチに訪れたカフェのスタッフから、いきなり自分のフルネームを告げられれば、誰でも驚くだろう。
 しかも、自分好みのかわいい女の子。
 僕は、驚きの表情から、だらしなくニヤケた表情にならないようにと顔面をピクピクさせながら、うなづいて返事をするのが精一杯だった。

「あの……私、あなたに会えるのを楽しみにしていました」

 え? あなたに会えるのを楽しみに? ってどういうことなんだ。こちらは相手が一体誰かもわからないのに、彼女は、自分に会えることを楽しみにしていたって? 僕の頭はパニック状態になった。
 ちょっとまて、誰かと勘違いしているのか? それとも単なるイタズラなのか? ここは、冷静に考えよう。ともかく、彼女は僕の事を知っているようだ。それなら、確認してみればいい。

 即座に過去の画像データベースにアクセスを開始した。
 僕の場合、この世にデビューしてから18年、自分とかかわりのある女性はごく少数に限られている。
 脳内の身内親類フォルダを調べてみよう。父の兄弟姉妹はおらず、母は、僕が生まれたときに亡くなっていおり姉妹もいない……該当者なし。
 次に、保育園、幼稚園、小学校、中学校、高校、学習塾……いずれの学校関係のフォルダにも完全一致はみられない。

 まだ2月で吐く息も白いというのに額から汗が噴出してきた。このままでは熱暴走しそうだ。

 落ち着け、落ち着け、ここで、「ごめん。君は誰だっけ?」なんて事を言ったら、目の前の彼女を傷つけてしまうかもしれない。まてまて、まだ確認していない脳内フォルダがあるじゃないか!
 僕は、あわててご近所フォルダを参照し始めた。近所のコンビニ・行きつけの本屋・ファーストフードの店員……行動範囲を可能な限り広げてみたが、やはり完全一致はない!
 ダメだ……。誰だ? 誰なんだ、このかわいい女の子?
 そうだ! 今の彼女のルックスから、検索対象をさらに緩めてみよう。もしかしたら、小さい頃に出会っていて、成長とともに容姿がかわっているかもしれないじゃないか。僕は、彼女をじっくりと観察してみた。

 まず、なんといっても特徴的なのは、目だ。大きくて澄んだ黒目がちな目。見つめられると吸い込まれてしまいそうだ。ただ、記憶のどこかで同じ目に見つめられた気がする。
 次に容姿だが、どちらかと言うと童顔で背も低い。パッと見たときは中学生かと思ったが、中学生がカフェでアルバイトをするわけがないし、それに丁寧な言葉遣いなので高校生とみて間違いはないだろう。
 髪の毛は少し染めているのか明るめの色で、ツインテールにしている。おそらく、この髪型もバイト仕様なんだろう。まぁ、高校生で普段こんな髪型をしているのは、なかなかいない。それにしても、フリルのついた白いエプロンがとても似合っている。
 となると、僕とほぼ同じ年齢ということになるわけだが、こんな女の子が僕の近くにいただろうか? ともかく特徴的なのは目だ。この目。どこかで見たんだけど……。

「あ、ごめんなさい。いきなりで、私、カザママナミっていいます。はじめまして!」

 え? はじめまして? この言葉で、今までの作業が全て無駄であったことが判明し、僕の頭は凍りつき、再起動を余儀なくされ固まった。


※1 黒い手帳

 大学入試に手応えを感じた僕は、2月最後の日曜日、見知らぬ土地を歩いていた。ここは、父が子供の頃過した場所らしい。自宅からは1時間以上も離れている。
 駅から、かれこれ30分、田園風景が広がるのどかな道を歩くと、大きな川の土手にぶつかった。土手の上にあがってみると、川下の方はキラキラと光る海が見え、すがすがしい青空が広がっている。僕は、白い息を弾ませながら、海のほうへ向かって歩きはじめた。

 しばらくすると遠くに1本の大きな木が見えてきた。
 あれか? 僕は、ゴソゴソとコートのポケットから黒い手帳を取り出し、そこに挟まっている40年前の白黒写真とその木のシルエットを見比べてみた。ついでに、写真の裏面に書かれた住所をスマートフォンで確かめて見ると、この方向で間違いはなさそうだ。
 僕は、手帳を閉じると歩みを早めた。

 かれこれ土手の上を20分くらい歩いただろうか。
 大きな木に近づくにつれて、僕は、なんども写真を見直すことになった。なぜなら、白黒写真にある風景が、なんとそっくりそのまま目の前にあったのだ。
 大きな木の枝ぶり、大きな風見鶏がついたトンガリ帽子の屋根がある建物……このあたり一帯は、40年間、まるで時間が止まってしまったかのようだ。そして、写真の裏にある住所は、風見鶏のついた古い建物の場所であることが判明した。
 さて、ここに一体何があるんだろう。目指していた目的地は、目の前だ。僕は、少しばかり緊張し、落ち着かせようと大きく息をした。
 すると、その建物から食欲をそそるなんとも言えないいい香りが鼻を刺激し脳に到達した。

 グゥ……

 いきなり、僕のお腹が情けない音を出した。
 時計をチラリとみると昼の12時半。まずは、腹ごしらえだ。調査はその後でもいいだろう。僕は、風見鶏のついた建物に近づいた。

~~

 その大きな風見鶏のついた建物は、おしゃれなオープンテラスのカフェだった。建物はレンガ造りの洋館で、トンガリ帽子の屋根は明らかにこの界隈の田園風景にはマッチしていない。特に大きな風見鶏はことさら異様に映る。
 丁寧に刈り込まれた低木の柵が建物を取り囲んでいた。そして、その中を覗くと、驚くことにこの寒空にもかかわらず、テラス席は満席になっており、ガヤガヤと楽しそうな笑顔があふれていた。
 なんだって、こんな寒いところで……と不思議に思ったが、すぐにその理由がわかった。どのテーブルからも白い湯気がモウモウと上がるビーフシチュー、焼きたての香ばしいパン、そして色鮮やかなサラダが並んでおり、皆、満足げに熱々のシチューに舌鼓を打っているのだ。
 さらに、お店で用意しているのだろう、温かそうなひざ掛けで暖をとっている。

 ググ、グゥ……

 我慢しきれずお腹の音が僕に追い討ちをかけてきた。
 もう、考える余地はない。カフェの入口を目指し、ゲートをくぐるとフリルのついたエプロン姿の女の子が出迎えてくれた。

「いらっしゃいませ、お一人ですか?」
「はい……」
「ただいま、満席ですので、こちらでしばらくお待ちいただけますか」

 丁寧に受け答えると、彼女と目が合った。
 彼女はニッコリ微笑みペコリとお辞儀したのだが、その瞬間、僕はなぜだか急に身体が熱くなりドキドキと動悸が激しくなってきた。なんだ、この胸騒ぎ……。
 まぁ、電車やバスで隣にかわいい女の子が座わればドキドキすることはよくある。だが、今のこの衝撃はそんなものとは比べ物にならないほど強烈だ。こんな衝撃は今まで味わったことがない。

 グググ、グゥ……

 皮肉にも、僕のお腹は目の前の彼女の存在と全くの無関係のようだ。大きな音で何か食べさせろと騒ぎ立てきた。
 彼女は、さりげなく左手で口元を抑えたが、あきらかにプッと吹き出していたのだろう。たが、すぐに冷静さをとりもどし会話を続けた。

「もう少々、おまちくださいね」

 彼女は肩を震わせ、必死に笑うのを堪え奥の方へ消えていった。

 ああ、なんたる失態!
 何しているんだ! どうした、単にあのシチューを食べたいってことだけじゃないか! そう、彼女とはなんら関係はない。落ち着け!
 僕は、その場で大きく深呼吸をしてみた。すると、熱かった身体もゆっくりと冷静さをとりもどしてきた。よし、いいぞ! もう少し、大きく深呼吸をしてみよう。今度は、両手を挙げて大きく息を吸い込んで……。

「あ、お客様……あ」

 僕が両手を大きく上げたところで、例の彼女がヒョイと顔をだした。そして、僕の怪しげなポーズを見つめると懸命に笑いを堪えている。
 僕は、思いっきり息を吸い込んだままだったので、あわてて息を吐き出すと、ハナミズがブヒッと飛び出した。

 またしても大失態。
 急いでハンカチで拭おうとすると、彼女が紙ナプキンをサッと差し出してくれた。しかし、彼女の手は、笑いで震えていた。

「あ、ありがとう。すいません」
「いえいえ、あの、申し訳ないのですが、まだかかりそうなんです。ひざ掛けをお持ちしましたので、お座りになってお待ちいただけませんか」
「あ、はい」

 彼女は、懸命に冷静を装いながら僕に話しかけてくれたが、肩が震えて笑うのを必死に堪えているのがわかる。
 僕が、ひざ掛けを受け取ると、彼女はクルリと後ろを向いていそいそと奥へ消えていった。

 僕は、うなだれた。
 この18年間、僕は、女の子の前に出ると、別に狙ってやっているわけではないのだが、なぜか変なことをやらかしてしまう。
 中学生の頃は、それがとにかく恥ずかしく、そんな自分が嫌で嫌で仕方がなかった。おかしなことだが、わざわざ女の子と、どうすれば接点を持たないようにできるかと考えていたほどだ。
 ところが、高校生になるとそうもいかなくなった。
 めきめき身体が大きくなり、ただでさえ目立つ存在になってしまったのだ。そして学級委員に選ばれると、クラスの女の子からも話しかけられることが多くなり、いちいち気にするのもバカバカしく思えてきた。
 そしてついには「どうせ何やったって笑われるなら、もういいや」と開き直ってしまった。
 すると不思議なもので「笑われて恥ずかしい」という感情は消え失せ、むしろ笑われることに快感さえ覚えるようになっていた。

 それなのに、彼女の前では、昔の異常に恥ずかしい感情が僕を包み込んでいる。
 なんでだ? しばらく、考えてみたが、サッパリわかららない。
 大きく、ため息をつくと、椅子に腰掛け、彼女が手渡してくれたひざ掛けをかけるとコートから黒い手帳を取り出した。

~~

 この手帳は、今年の1月に亡くなった父のものだ。
 父は、心臓の持病があり、出張先のホテルでポックリと亡くなった。突然の電話で驚ろいてホテルへ急行した。その後、警察の検視やらなにやらの手続きは大変だったがなんとか無事に、葬祭場での慎ましやかな葬儀をすることはできた。

 僕は、父が大嫌いだった。
 父はともかく口うるさいヒトで、中途半端なことや迷った挙句の行動が大嫌いだった。僕が幼い頃、遊ぶおもちゃを迷っただけでも「一度決めたことは、撤回するな最後までやれ」と後から選んだおもちゃを取り上げるようなヒトだったのだ。
 一方、僕の母は、僕を出産すると同時に亡くなった。当然、僕は母の温もりを知らない。これは後で知ったことだが、父は母のことを思い出すのが辛いからと、母が亡くなるとすぐ、一切の写真や手紙をすべて処分してしまったのだそうだ。なので、僕には母親の存在を裏付けるようなものが何一つ残っていない。唯一、戸籍謄本に残っている「ミナミ」という名前だけしかわからない。
 母親の存在がないというのは、幼少期の子供にとっては重要な問題だ。それを父も知ってはいたのだろう。母親の代わりというわけではないが、父の知り合いの女性が、ちょくちょく僕の世話をしてくれたことがあった。当然のことながら、僕はその女性に夢中になり、すぐに仲良しになった。ところが、そんな生活も長くは続かなかった。
 というのも、僕が小学校に入学したとたん、彼女はプッツリ家に来なくなってしまったのだ。当初、僕は、父が彼女を追い払ったのではないかと父に言い寄ったが、「先方が勝手に来なくなったのだからしかたないだろう」との一点張りで何一つ話をしてくれなかった。
 この頃から僕は父が嫌いになった。一度決めたことを曲げることは出来ないヒトだということは子供ながらにわかっていたので、母の事や世話してくれた女性の件も、父の答えがそうなら、これ以上聞くことは無駄なことだとあきらめた。
 中学生になると、口うるさい父の存在がさらにウザくなった。幸いにも、父もその頃から仕事の関係で出張によく出かけていたので、面と向かって衝突することはなかったが、たまに一緒にいるときでも、一言も口も聞かず、勝手に学校へ行き、勝手に出張にでかけるような日々が続いていた。
 というわけで、父の葬儀の最中は、父との別れにも何の感情も湧かなかったし、涙を流すこともなかった。

 ところが、葬儀を終え、ホテルから送られた父の遺品を片付けてみると、1冊の黒い手帳に目がとまった。弱弱しく震えるような文字でホテルのメモ用紙が挟みこまれていたのだ。

――アキラ、おまえがこの手帳を手にしたら、父さんの事を知ってほしい。身勝手なお願いだが、父さんの大事な人に、俺の想いを伝えてほしい――

 手帳をパラパラとめくってみると、手書きの地図と、数字の羅列が並び、一枚の白黒写真が挟まっていた。不思議と興味が湧いて、その手帳だけは捨てずに保管しておいたのだ。
 そして、大学入試も終わり、高校も卒業まで特に何をすることがなかったので、この日曜日、その写真の裏に書かれた住所を頼りにこうしてやって来たのだ。

~~

「お客様……すみません」

 僕は、手帳から目を離し、あわてて声の方を向くと、先ほどの女の子が悲しそうな顔をしている。

「お席のほうが空きそうにございません。まもなくランチも終わってしまう時間なので……」

 彼女が申し訳なさそうに丁寧に頭を下げた。
 僕は彼女の態度にピンときた。これは、「今日はもう、お引取りください」ということだろう。まぁ、ランチの時間がおわってしまうのならしかたがない。

「ああ、じゃ、また来ますね」

 そう告げると、席を立ち、ひざ掛けをさっと畳み、彼女に手渡した。

 ググググ、グゥ……

 またしても、情けない音が大きく響く。
 自分でも顔がみるみる真っ赤になるのがわかった。そして、彼女の前から一刻もはやく逃げ出さなければとクルリと背を向け歩き出した。
 すると、背後から彼女の声が聞こえてきた。

「あ、あの……あのですね、裏庭でもよろしければ、ご用意できるんですが……」
「え?」
「普段は、裏庭は従業員用のスペースなんですが、よろしければ……」
「あ、ありがとう」

 僕がそういうと、彼女は嬉しそうに僕を見つめニッコリ微笑んだ。

「じゃ、こちらからどうぞ!」

 そういうと、テラスとは反対の小さな小道を抜けて裏庭のほうへ出た。彼女は、テーブルを指差した。

「あちらで、おまちくださいね!」

 裏庭には、一組のテーブルがあり、温かな陽射しが注がれていた。周りの景色はお世辞にでも美しいとはいえないが、ゆったりくつろげるだけのスペースがある。
 しばらくすると彼女が、モウモウと白い湯気があがるビーフシチューをトレイにのせて運んでくれた。

「私も、ごいっしょしていいですか?」
「え?」
「丁度、私も休憩時間なんです。お邪魔でなければ……」

 身体が熱くなり、動機がどんどん早くなる。
 彼女と一緒に食事だって? 食事中は、ずっと彼女を独り占めできるってことじゃないのか? なんという幸運!
 だが、まてよ。どうやって場をつなげばいいんだ?
 そうだ! ついでに、このカフェについても聞いてみよう。そうそう! 僕はこのカフェのことを調べに来たんだった。それで会話をつなげていこう!

「ぼ、僕も一人じゃ寂しいですし……実は、このカフェのことで伺いたいことがあるんです……」
「え? この古ぼけたカフェのことで?」

 彼女は、不思議そうに僕の顔を見つめてクスクス笑い出した。

「私、生まれて17年間、ずっとココにいますから詳しいですよ」
「え? 17歳?」
「ああ、よく間違えられるんです。私、背も低いし中学生とか……ひどいと小学生と間違えられることすらあるんですよ」

 し、しまった! そんなつもりはなかったが、なんとかフォローしなければ……。ぼくは焦って言葉をさがした。

「あ、僕は18歳ですが、あなたの方が言葉遣いが丁寧だから、もしかしたら年上なのかなって思ったぐらいですよ」

 うーん。見えすぎたウソに聞こえないか? いくらなんでも少しもちあげすぎたか? 内心ドキドキしてが、一瞬驚いた彼女の顔色がみるみる明るくなっていくのを見て一安心した。

 彼女のサラサラとした髪の毛が風に揺らめきキラキラ輝く。白いエプロンも優雅に揺れている。気がつけば、僕は、だらしなく彼女の姿にうっとり見つめていた。

「準備できましたよ」

 僕は、あわてて視線をテーブルに降ろした。2人分のシチューと焼きたてのパン、そしてサラダが並んでいる。白い湯気にのってシチューのいい香りが立ち込める。

「いただきましょう!」
「いただきます」

 2人同時に叫んでしまった。思わず、僕も彼女も笑い出した。そして彼女は嬉しそうにうなずいた。

「熱いから気をつけてくださいね」

 焼きたてのパンをバリっと割り、小さくちぎって口に運ぶ。香ばしい香りが鼻にぬける。
 スプーンでシチューをいただくと、なんともいえないまろやかな味わいが口いっぱいにひろがる。

「う、うまい……あ、いや、おいしい」

 彼女は、嬉しそうに僕の顔をじっと見つめている。
 僕は、温かなシチューと焼きたてのパンを二度三度と口に運んだが、彼女は、自分のシチューにも手をつけずに、ずっと僕のことを見つめている。

 え? もしや、僕に気があるのだろうか。いや、考えすぎだ。今までそれで何度悲しい想いをしてきたとおもっているんだ。忘れろ、忘れろ。単に、へんな男だとおもって、またなにかやらかさないかと思っているのだ。そうだ。そうに決まっている。
 僕は、胃袋の欲求のままにシチューに集中することにした。

「あの、このカフェのことは、前からご存知なんですか?」

 いきなりの彼女の言葉に、驚いてしまった。
 そうだ! そうだった! カフェのことをいろいろ聞きながら食事をするんだった。
 僕は、静かにスプーンを下ろすと、彼女の前に黒い手帳を置いた。

「この手帳、先月亡くなった父のものなんですが、この写真が挟まっていたんですよ」
「写真?」

 僕は、手帳を広げると白黒写真を彼女に見せた。

「日付からだと40年くらい前ですか?」
「そうですね。ここを尋ねたとき、びっくりしましたよ。なにせ、この辺りの風景は、この写真のままとほとんど変わらない……」
「うふふ、うちのお父さんは、頑固にこの建物も周辺も変えようとはしないんですよ」

 彼女は、嬉しそうにうなずいた。

「ところで、あなたのお父さんは、なんでこの写真を?」
「それがわからないんです。ただ、大切なメッセージを届けてほしいとメモがあったんです」
「大切なメッセージ?」
「それが、この手帳に書かれているんですが、なぜか暗号になっていて……」
「暗号?」

 僕が手帳を彼女の前に突き出すと、彼女は興味深そうに手帳をパラパラとめくっていた。
 ところが、最後の裏表紙を見たときに彼女の顔色が変わった。

「あ、もしかして、ヒビノアキラさん?」

 彼女は、手帳の裏表紙に書かれたヒビノヒカルという父の名前を指差して僕を見つめた。僕はいきなり自分の名前を呼ばれて、心臓が口から飛び出るかと思うほどビックリした。そして、うなづくいて返事するのがやっとだった。
 すると、彼女の顔が、みるみる赤く染まり、そして、うつむいた。

「私、あなたに会えるのを楽しみにしていました」

 僕の脳内はパニックになった。今の状況を把握し、彼女の発した言葉を理解しようと努力した。そして、ずっとうつむいた彼女をジッと観察していた。裏庭は静寂に包まれたまま時が止まってしまったように感じる。

「ごめんなさい。いきなりで、私、カザママナミっていいます。はじめまして」
「え? はじめまして?」

 僕は、呆然と彼女を見つめた。

「で、でもどうして僕の名前を知っているんですか?」

 彼女は、僕を見つめたまま、目にいっぱいに涙を浮かべ、泣き出してしまった。
 え? ま、まってくれ! なんなんだよ! 何か僕が彼女を悲しませることを言っただろうか? こまった。どうすればいいんだ。というか、なんで泣いてるんだ?

「ご、ごめんなさい。なにか、気にさわることでも?」

 彼女は、涙をぬぐいながら、僕をみると微笑んだ。

「私、本当にあなたに会えるとは思っていなかったので、感激しちゃって涙が出てしまいました」
「ど、どういうことです?」

 ともかく、目の前には、かわいい女の子がいて、しかも自分のことを知っている様子だ。しかも、自分と会うことを楽しみにして待っていたといっているのだ。
 彼女は涙を拭うと、話をしはじめた。

「私の父はこの店で生まれ育ちました。母は、父の幼馴染で、もう一人の幼馴染と3人で、小さい頃から遊んでいたそうです。それが、ヒビノヒカルさん、つまりあなたのお父さんなんです」

 彼女はポツリポツリと話し始めた。

「私の母は、幼い頃からヒカルさんが憧れの存在だったたそうです」
「え? 僕の父に憧れるヒトなんていたんですか!」
「うふふ、母の話では、ヒカルさんは学校中の女子にモテモテだったそうですよ」

 はぁ? あの父が、学生時代はモテモテだった? そんなことあるんだろうか。いつも陰険な顔をして、ウィスキーを飲んで、ひっくり返っていたあの父が?

「当然、母も、ヒカルさんの追っかけみたいなことをしていたらしんですが……高校卒業してすぐ、ヒカルさんは別の女の子と婚約しちゃったんだそうです」
「高校卒業してすぐに?」
「らしいです。で、母の初恋は終わってしまったんだそうです」
「うーん、で、父はその婚約者と結婚したんですか?」
「大学を卒業してすぐに結婚をしたんだそうです。幼馴染ってことで父も母も結婚式に招待されたらしいんですが、ヒカルさんと私の父とが披露宴の席上で取っ組み合いの喧嘩をしてから、もう3人で合うことはなくなったんだそうです」
「知りませんでした。父は昔話は一切しないヒトでしたから、すごく新鮮です」

 僕は彼女に話しながら、父の昔のことを知っている彼女の両親2人にすごく興味が湧いた。

「実は、これは父には内緒なんですが……母は、アキラさんが生まれたことを知って、こっそり会いに行ったことあったそうです。それ以来、私は、母から『いつの日かマナミと一緒にあそべるといいね』とアキラさんのことばかり聞かされて育ったんですよ」
「え? 僕が小さい頃に?」
「ええ、私もアキラさんを勝手に想像して、アキラさんに夢中になってしまい、いつか会えるものと楽しみにしていたんです」

 彼女は、まるでアイドルでも見るような目で僕を見つめている。
 僕は、急に恥ずかしくなった。どう逆立ちしてもイメケンとはいえないし、ファッションセンスもひどい。スポーツも苦手だし、お世辞でも頭がいいとはいえない。どんくさくて、空気も読めず……到底、クールな男とはいえない。彼女の想像している男とはまるで正反対ではないだろうか。

「す、すみません」

 思わず、僕の口からは謝罪の言葉しか出てこなかった。

「え?」
「だって、幻滅したでしょう。こんな男で……」

 彼女は、プッと吹き出すと笑い出した。

「笑っちゃってごめんなさい。でも、私の想像どおり! いつも接客しながら同じ年頃のお客さんを見かけるたびに想像してたんですよ。でも、今日、アキラさんとはじめてあった時、すごく特別な感じがあったんです」

「え?」

 なんだこの展開。あまりに出来すぎたドラマみたいじゃないか。こんなことがあっていいのだろうか。それとも誰かに担がれているのか?

「あ、ちょっと父を呼んできますね」

 そういうと、彼女は嬉しそうに厨房のほうへ消えていった。


 (つづく)

※2 Cafe Les Amis(カフェ レザミ)

太陽とヒマワリ  トラキチ3

初稿 20140529

※2 Cafe Les Amis(カフェ レザミ)

「二度とこの場所には来るな! いいな!」

 ガタイの大きな男は、顔を真っ赤にすると大声を出した。
 野太い凄みのある声が、僕の鼓膜を激しく震わせた。その震動は、全身に広がり、手足はガクガクと震えはじめた。
 何か言葉を出さなくては……と頭をフル回転させたが、口がパクパク動くだけで声もでない。
 男は、もの凄い殺気で僕のことを睨み続けている。

「ちょ、ちょっと! お父さん、ヒドイじゃない。いったいアキラさんが何をしたというのよ! いきなり怒鳴るなんて最低!」

 マナミが叫んで、男と僕の間に割り込んでくれた。情けないことだが、僕は、どうして良いものか呆然とするだけだった。
 男は、マナミを無視し、大きく息を吸うと叫んだ。

「俺は、お前が生まれたとき、今後一切、ヒカルには関わらないと誓ったんだ! なぜだかわかるか? あの男は、ミナミ……いや、お前の母親を見殺しにしたんだぞ! 俺は、絶対にあいつを許さない!」

 僕の頭は、バチバチと火花が散った。ミナミ……ミナミだって? 
 僕が知っている唯一の母親の存在……それは戸籍謄本で見た「ミナミ」という名前しかない。そして、今目の前にいるこの男は、僕の母親のことを知っていて、父が母を見殺しにしたと腹を立てているのだ。
 母のこと。この18年間、僕が知りたかった母の足跡を、この男は何か知っているにちがいない。
 僕は、身体が次第に熱くなっていくのを感じていた。

~~

 僕は、父が残した手帳に挟み込まれた古い白黒写真をたよりに、見知らぬ土地を歩いてこのカフェにたどり着いた。そして、そこで出会ったのは、僕のことを待っていたというマナミという女の子だった。
 彼女と話をするうちに、彼女の両親はこのカフェのオーナーで、僕の父とは幼馴染であることがわかった。ところが、僕の父の結婚披露宴の席上、彼女の父親と僕の父が取っ組み合いの大喧嘩になり、小さなころから仲良しだった幼馴染3人は、その事件以後は、一度も同じ時間を過すことはなかったという。

 そして、彼女が父親を呼んでくるとニコニコして厨房へ向かったまではよかったのだが……彼女が紹介してくれた男は、腕組みをしたままジッと僕のことを睨んでいたのだ。
 そしてこの有様だ。

「アキラさん……ごめんなさい……」

 こちらを振り向いたマナミの目は、涙でいっぱいだった。そして、堪え切れずにポロリと頬を伝わって流れ落ちた涙を見た瞬間、僕は、全身の毛穴から汗が噴き出すのを感じた。
 なんなんだよ! なんで、僕が責められなければならないんだ! なんで、彼女が涙を流さなくてはならないんだ!
 全身が猛烈に熱くなっていく……そして、爪が手の平にギリギリ喰い込むほど強く両手を握り締め、男をキッと睨みつけた。

「僕は、ヒビノアキラです。そう、ヒビノヒカルの息子です。だからなんなんですか。あなたが、父のことを許せないというのなら、それはそれでかまいません。僕を怒鳴り散らして気がすむのならどうぞ、やってください。でも、僕にはさっぱりわけがわからない! それに僕がここへやってきた理由もまだお話していません」

 自分でも驚くことに、大きな声をあげて叫んでいた。男は、腕組みをしたまま僕の話を聞いているが、相変わらず怖い顔をしてこちらを睨みつけている。

「理由? ふん、なんだ。言ってみろ」

 僕は、大きく息を吐き、気持ちを落ち着かせた。

「父、ヒカルは、先月出張先のホテルで亡くなりました」

 男は、一瞬驚きと哀しみの表情を見せたが、すぐに元の表情にもどり、ギロリと僕を見つめた。

「父の遺品の中に、この手帳があり、おそらく死に際に書いたのだろうと思われるメモがありました」

 僕はワナワナ震える手で男の前に手帳を置いた。
 男はドカッと椅子に座り込むと、黒い手帳を手に取り、パラパラと中身を見た。

「それで?」

 男は、手帳を無造作にテーブルに投げ出すと、面倒くさそうにため息をついた。

「そのメモには、――アキラ、おまえがこの手帳を手にしたら、父さんの事を知ってほしい。身勝手なお願いだが、父さんの大事な人に、俺の想いを伝えてほしい――と書いてありましたが、どういうことなのかわかりません」
「ふん」
「僕は、ずっと父のことが大嫌いでした。むしろ憎しみがあったといってもいい。父は、母の写真を一枚のこらず処分し、いっさい母のことを僕には教えてはくれなかった」

 僕は、男に一歩近づき頭を下げた。

「お願いです! 父のこの手帳はどういうことなんですか? 僕の母はどんな人だったんですか? 先ほどの話を聞く限り、あなたは、母のことを知っているようだ。なんでもいいんです。母のことを教えてはくれませんか」

 僕は、恐る恐る顔をあげると、男は、困惑した表情で僕を見つめた。

「そうか。お前は、自分の母親のことは全く知らんのか……それなら、そのほうがいいかもしれん」

 男は、急に立ち上がると話を切り上げ、スタスタと厨房に向かって歩き出した。
 マナミは、あわてて自分の父親の行く手を阻むと叫んだ。

「ちょっと! ちょっと待ってよ! お父さん、あんまりじゃない。アキラさんのお母さんのことを知ってるのなら、教えてあげてよ! アキラさんのお父さんとは仲好しだったんでしょ! なんで?」

 男は、ピタッと足を止めた。

「仲好しか……。まぁ、お前の母親の件は……考えておく。それまで待て!」

 凄みのある声が裏庭に響いた。そしてゆっくり振り向くと僕をギロリと睨み、厨房の奥へ消えて行った。

「マナミさん……」

 僕は、彼女に声をかけた。

「ごめんなさい。父は昔から頑固で、一度言葉に出すとなかなか撤回できないヒトなんです」

 彼女は、申し訳なさそうに僕を見つめ、がっくり肩を落とした。

「いや、僕、感謝しているんです」

 僕がそっと話をすると、彼女は、驚いて僕の顔を見つめた。

「さっきは、大きな声を出しちゃいましたが、僕は、ずっと母の事を知りたくてたまらなかったんです。父がいなくなってしまった以上、もう何も手がかりはないとあきらめていたんです」

 僕は空を見上げ、大きく息をした。

「でも、今日ここに来て、マナミさんに会えたこと、そして、僕の母の事を知っているマナミさんのお父さんと出会えたことは、僕にとってはとても嬉しいことなんです」
「そんな……ごめんなさい。父があんなになるなんて」

 彼女は、小さなため息をついた。
 と、突如、彼女は、すごい勢いで立ち上がると僕を見つめて叫んだ。

「もしかしたら、母の方が知ってるかもしれない。何しろヒカルさんの追っかけしていたぐらいだし、きっとアキラさんのお母さんのことも知っているはず!」
「ええ?」
「ただ、3月まで外国のレストランで修行をしてて日本には、ちょっと戻れないんです……」
「そうですか……」
「ともかく後でメールを入れてみます。そして、アキラさんに出会えたことと今日の話をしてみます」
「ありがとう。お願いします」
「私……アキラさんの力になりたいんです」

 そう言うと、僕の手をギュッと握りしめてくれた。
 柔らかな手だった。手の平の温もりが伝わってくる。そして彼女は、僕のことをジッと見つめている。
 ああ、そんな目で僕を見つめないでくれ! 彼女の大きな瞳がキラキラ輝やくと、僕はメロメロにとろけてしまいそうだ。
 僕は、彼女の手を握り返すと手を離した。

「ありがとう」

 僕がつぶやくと、彼女は悲しそうな表情を見せた。
 ダメだ、ここは彼女を笑顔にさせなくては……。

 グゥ……

 え? 僕は、自分のお腹を触ってみた。今のは、僕のお腹じゃないぞ!
 彼女を見ると、彼女は少しばかり頬を赤らめてクスクス笑いはじめた。

「ごめんなさい、私、お腹空いちゃった」

 思わず、僕はプッと吹き出した。

「いただきましょう!」

 僕達は、少しばかり冷めてしまったビーフシチューを口いっぱいに頬張った。

~~

 食事をしながら、お互いの子供の頃の話をした。
 彼女は、幼いころはかなり活発な女の子(まぁ、俗にいう御転婆)だったようで、このカフェのシンボルでもあるトンガリ帽子屋根の上にある風見鶏を調べようと、塔によじ登ったことがあるそうだ。
 ここの塔は結構の高さがある。20mはあるだろうか。足を滑らせて地上に落ちたら大怪我どころではすまない高さだ。
 結局、消防署からハシゴ車がやってきて、彼女を下ろすことになったそうだが、そのとき奇妙なものを見たという。

「あの風見鶏の足のところに赤いガラス球がはまっているんですよ」
「赤いガラス球……ですか?」
「1年に何度かそのガラス球がキラキラ輝くことがあるんですが、それが不思議で確かめたかったんです」
「でも、よくケガしませんでしたね」
「平気、平気! そうそう、あの庭の木にもよく登って、アキラさんが遊びに来ないかいつも見張っていたんですよ」

 彼女の話を聞きながら、幼い頃のマナミさんの姿を想像してみた。きっと泥だらけで夕暮れまで外を走り回っていたのだろう。親は大変だったんじゃないだろうか。

「そうだ、マナミさんのお母さんってどんな方なんですか?」
「そうね、父とは対照的で、いつもニコニコしています。背は、ちっちゃくて、そうそう、これは内緒ですけど……父は、子供の頃から母の事が好きだったみたいです。だから、母がヒカルさんに夢中になっていたのが気に入らなかったみたい」
「なんか、複雑ですね」
「でも、高校に入って、ヒカルさんが別の女の子と付き合い始めたのを知ると、俄然、父はウチの母に告白したそうですよ。母も強い父のアプローチに根負けしたっていってましたけど」
「あはは、ぜひ、マナミさんのお母さんにお会いしてみたいなぁ。実は、僕が小さい頃に世話をしてくれたのは、マナミさんのお母さんだったんじゃないのかなぁ……という気がしているんです」
「でも、その頃は私もまだ赤ちゃんだったかも……」
「そういえばその女性は、なんどか小さな赤ちゃんを連れてたような気もするんです」
「ええ! もし、その小さな赤ちゃんが私だったら、アキラさんとは幼馴染になれたかもしれませんね」

 そういうと彼女は嬉しそうにクスクス笑いだした。

「マナミさんが幼馴染だったら、僕ももう少しマシだったかもしれないなぁ」

 僕は、父ヒカルとの生活を彼女に話した。荒んだ日々の話は、多少表現を和らげて話をしたが、それでも彼女は、目を丸くして驚いていた。

「でもどうして、お母さんのことをアキラさんに隠すんでしょう」
「それはわかりません。普通、大事なパートナーを亡くしたら、その思い出を何か残すはずだと思うんですが、そんなものは一切残っていないんです」
「そんなこと……驚きです」

 僕は、最後のビーフシュチューを口に入れ、ナプキンで口元を拭いた。

「いやぁ、ビーフシチュー美味しかったです」
「はい! よかったです。でも、うちの父の料理で一番のメニューは、オムライスなんですよ」
「え? オムライス?」
「でも、滅多に作ってくれないんです。特別な時だけの裏メニューなんです」
「特別な時?」
「家族の誕生日とか、あと3月30日かな」
「3月30日?」
「なぜかわかりませんが、3月30日は、かならずオムライスです」

 僕は、うつむきながら答えた。

「その日は……僕の誕生日だ」
「え?」
「その日は、僕が生まれ、僕の母親が亡くなった日です」
「そうなんですか……ちょっとびっくり」
「なんでですか?」
「実は、私、4月2日生まれなんです」
「え! それじゃ、僕と3日違いってこと?」
「アキラさん早生まれだから学年は1つ上ですね」
「そ……そうなんだ」
「だから、春はオムライスの日が続けてすぐにあるんですよ」
「いいなぁ、マナミさんのお父さんは怖いけど、ここのオムライスは、僕もたべてみたい!」
「それじゃ、ぜひ、食べにきてください!」
「いやいや、今度またここに来たら、マナミさんのお父さんにボコられてつまみだされちゃうよ」
「え? そんなこと、私が許しません! 大丈夫です! うふふ」

 そういうと彼女は笑顔を見せた。

「おいっ、マナミ! 仕込みを手伝え!」

 厨房のほうから野太い叫び声が裏庭に飛んできた。
 僕は、声にビクっと反応し、あわてて手帳を片付けながら、時計をみるとすでに15時近くになっていた。

「ごめん。こんなに長居するつもりじゃなかったんだけど……」
「あ、かえってお引止めしちゃって、ゴメンなさい。私も、お母さんに聞いてみます。何かわかったらすぐに連絡します……あ、そうだ、メルアド教えてください」
「あ、はい」

 僕は、あわててスマートフォンを取り出すと、彼女と携帯電話番号とメルアドの交換をした。そして、彼女は、嬉しそうに何度も僕の番号をみつめてニコニコしている。

「今日は、どうもありがとう」
「こちらこそです。私、アキラさんに会えて本当に嬉しい」

 ニコニコ微笑む彼女は、楽しそうだ。
 僕は、財布を取り出してランチ代を彼女に渡そうとしたが、彼女はあわてて両手を引っ込め頭を横に振った。

「ダメです。今日は、アキラさんに会えた私の記念日なんですから、私のオゴリです」
「いやいや、おいしいシチューをいただいたんだし、それとこれとは別問題でしょう? 第一、マナミさんが裏庭に誘ってくれなければ、こうして話もできなかったんだし……」
「いいんですっ」

 彼女はサッと僕の背後に回ると、背中を押して僕をお店の外に押し出した。

「毎度、ありがとうございました。またのご来店お待ちしてます」
「また?」
「もちろんです。絶対ですよ、また来て下さい!」

 そういうと、彼女は、手を降った。
 太陽の光が彼女を照らし、キラキラ輝いている。そして、彼女は、僕が角を曲がり見えなくなるまでずっと見送ってくれた。


 (つづく)

※3 謎の暗号

太陽とヒマワリ  トラキチ3

2稿 20140608
初稿 20140531

※3 謎の暗号

 その日は、朝から冷たい雨が降っていた。
 すでに朝の9時を回っているのにあたりは薄暗い。そんな雨の中を一人の男が、傘をさして歩いていた。気付いているのかいないのか、男の傘は、大柄な男の身体には小さすぎた。
 男は、墓石の前までくると、新たに墓標に書き込まれた文字を指でなぞった。

「まさか、またココに来ることになるとはな……」

 ポツリつぶやくと、無造作に花を墓石に置き、小さなカップにはいったビーフシチューを墓石に供えた。
 男は、傘をたたみ、両手を合わせると頭を下げた。
 黒い喪服に雨が、ポツリポツリと染み込んでいく。

 しばらくたって、男は、小さくため息をついた。そして、小さなカップに入ったビーフシチューを一気に飲み干すと、鉛色の空をジッと見上げて叫んだ。

「いったい、俺は、どうすりゃいいんだよ! 教えてくれよ!」

 冷たい雨が、男の頬を濡らしていく。しかし、その冷たい雨とは違う熱いものが男の頬を流れていた。そして、何度となく嗚咽を漏らし、大きな身体を震わせた。

 雨は、静かに降っている。

~~

 月曜日は、朝から冷たい雨が降っていた。
 昨日、例のカフェを尋ねたときは汗ばむ陽気で、もうすぐ春がやってきたとおもっていたのに、これでは気が滅入る。
 僕は、大きくため息をついた。

 学校の授業は、まったく気乗りがしない。クラスのほかの連中もほとんど進路が決まっているし、卒業までの数週間は、単に授業を消化すればいいようなもので、さっぱりおもしろくない。
 こんな調子が続くのかと思うと嫌になる。

 午後になり、いよいよ授業を受けるのが苦痛になった僕は、授業もそっちのけで、例の手帳をとりだし、数字を眺めることにした。
 最初のページの欄外には、53214という5桁の数字があり、数字が続いている。

 35 03 74 02 55
 63 45 63 15(21)43 05 14(15)81 35
(23)72 02 13 65 65 43 34(53)65 95 83
 :

 ジッと眺めているうちに、ある規則性に気が付いた。
 まず、見てすぐわかるのは、すべて2桁の数字であること。そして2桁目は0~5の数字しかないこと。さらに、丸括弧でくくられた数字の1桁目は、1、2、3、5の4種類しかないことだ。
 つぎに、各ページの余白には5桁の数字があるが、すべて1~5の数字の並べ替えであり、ゾロ目にはなっていない。
 最初の2桁の数字は、ローマ字の子音と母音を数字に置き換えているのだろうと想像はできる。ところが、いろいろな組み合わせをしてみても、意味のある文章にはならない。
 問題は、5桁の数字だ。これは何を意味しているんだろう……。
 僕は、頭を抱えて考えこんだ。

 ふと、顔を上げて周りを見回すと、とっくに授業は終わっており、教室には誰一人残っていない。驚いて時計に目をやると、夕方の5時近くをさしていた。
 なんだよ、誰も、僕に声をかけてくれなかったのか? まったく冷たいヤツラだ。まぁ、いいか。

「帰るか……」

 僕は、手帳をカバンにしまい、ふと、教室の窓から差し込んできているやさしい光に気が付いた。

「うん? 雨、やんだのか?」

 窓際に近づき空を見上げてみると、雨はポツポツと小振りになっており、西の空が明るく輝いているのが見えた。

「夕焼けか? 明日は、晴れそうだ……」

 荷物をまとめ、校舎をでると雨はすっかりやんでいた。
 校門へ向かい歩き始めると、真正面に雲の切れ間から太陽が顔を出した。

「う、まぶしい」

 これでは、まともに前を見ることができない。僕は、視線を地面に落として直進した。そして、校門に近づくと、長い人の影が見え、その影が手を振っているのがみえた。

「あの……」

 突然、正面から声が聞こえ、長い影が動いた。声の主を確かめようと顔を上げたが、太陽がまぶしくてよく見えない。懸命に目を細め、見上げたが、その瞬間、鼻がムズムズして、大きなくしゃみがでた。

 ふぇ、ふぇ、ぶはっくしょん!

「アキラさん? だいじょうぶですか?」
「マナミさん?」
 
 またしても、大失態。
 今度は、情けない派手なクシャミ顔を見られ、しかもヨダレが口元に飛び散っている。あわててハンカチを取り出して口元を拭いたが、確実に見られただろう。
 僕は、急いで彼女に近づくと太陽を背にして、彼女を見た。

「え?」

 そこには、ウチの学校とは違う制服をきた背の小さな女の子が傘を大事そうに抱えて立っていた。髪の毛は自毛の三つ編みでカチューシャのようになっている。
 茜色に輝く彼女の目が僕をジッと見つめているではないか。
 僕は、またしてもドキンとしてしまった。

「マナミさん……?」
「アキラさん、ごめんなさい。何度か、携帯に電話をしてみたんですが、繋がらなくて……」

 僕は、あわててコートのポケットから携帯電話を取り出してみると、見事に電池が切れていた。

「あ、ごめん。携帯のバッテリーが切れてたよ。でも、僕が通っている学校、なんで知ってるの?」
「うふふ、昨日、お財布をだしたとき、学生証のマークがチラって見えたんです。どこかで見たことがあると思って、友達に聞いてみたら、その子もここの生徒だったんです。その友達の学生証をみせてもらったことがあったので、それで見覚えがあったみたいです」

 マナミが、少し興奮気味に話すと、大事に持っていた傘からしずくがポタポタと落ちた。

「あ……もしかして、ここで、ずっと待ってたの?」
「えっと、2時間……くらいかな」
「そ、そんなに? 僕が先に帰っているかもって思わなかった?」
「まぁ、太陽が沈んじゃったら、あきらめて帰るつもりでした……」

 彼女は、西の空に沈んでいく太陽を見つめた。
 なんてことだ。僕のために冷たい雨の中、2時間も、待っていたとは……。

「ごめん……」

 僕が、彼女に声をかけると、彼女はあわてて僕に手を振った。

「あ、いえいえ、私が勝手に押し駆けてきただけです。でも、どうしても報告しておきたいことがあったので……飛んできちゃいました」

 彼女は微笑みながら話をしているが、身体が少し震えている。おまけに彼女はコートも着ていない。ここは、温かい飲み物でも飲んでゆっくり話を聞くことにしよう。

「それじゃ、ホットチョコレートの美味しいお店にいかない? 今日は僕のオゴリで!」
「あ、はい!」

 彼女の顔がパっと明るくなった。

「ところで、マナミさんはどこの学校なの? あまり見かけない制服だけど」
「ああ、これ、制服じゃないんですよ。私、地元の公立高校なんですけど基本制服は自由なんです。最近『制服っぽいものを考えて着る』のが私たちの中で流行っていて、これは私もオリジナルの組み合わせなんです」
「そうなんだ。昨日のフリルのエプロンのときと、イメージが違うからビックリしちゃったよ。とても似合ってるね」
「え? あ、ありがとうございます」

 僕は、彼女と並んで商店街のほうへ向かった。時折、チラっと彼女の顔を伺うと、うつむきながらもニコニコしている。

「そういえば、マナミさん、コート……着てないけど」
「ああ、実は、あわてて学校から飛んできたので、学校に忘れてきちゃいました」
「だって、ここまで1時間はかかるでしょう?」
「電車の中は温かかったですし、だいじょうぶでしたよ」

 彼女は、嬉しそうに僕の顔を見上げて話をしてくれる。そんな彼女を見ていると、ぼくも思わず嬉しくなって微笑んだ。

「ところで、マナミさん、すごく嬉しそうだけど……」
「え?」
「さっきから、ずっとニコニコしてるから」
「えへへ、私、小さい頃からの夢だったんです。こうしてアキラさんと並んで歩くこと」
「え?」
「私、小さいころから何度もアキラさんとおしゃべりしたり、並んで歩いたり、デートしたりって想像してはドキドキしてたんです」
「デ、デート?」
「あ、ごめんなさい。私の勝手な妄想ですから……」
「いやいや、それは光栄だけど、逆に、マナミさんみたいな子なら、いろんな人から告白されたんじゃない?」
「うーん、好きっていってくれる人はいたんですけど、でも、私の中ではアキラさんと出会うことが一番だったので……」
「僕と?」

 なんとも、嬉しい言葉だ。思わず、だらしなくニヤケてしまうのを懸命にガマンした。しかし、そこまで勝手に妄想して好きになれるものだろうか? 僕は、ジッと彼女の横顔を見ながら考えた。
 普通、自分が想像している相手が、実際に会ってみたら幻滅するほうが多い。なのに、彼女はそうじゃないらしい。逆に、今の自分は、どう考えても彼女と釣り合いが取れるとはおもえない。

 ドン!

 突然、目の前に火花が散り、激痛が走った。

「うそ? だいじょうぶですか?」
「あいたた……」

 前を見ると、商店街の店先から自動販売機が飛び出しており、そこにモロに激突してしまったようだ。なんとも情けない。まるでギャグ漫画だ。
 またしても、大失態。
 僕は、ヘラヘラ笑いながら頭を掻くと、マナミは、クスクス笑い出した。

~~

 駅前の商店街から少し離れた小さな路地に「砂時計」という古めかしい喫茶店がある。
 カランカランとドアについているカウベルがけたたましくなり、アルゼンチンタンゴのBGMが聞こえてくる。店内には、マスターが集めた砂時計のコレクションが所狭しと置かれ、店全体が、古道具屋のようなインテリアで埋め尽くされている。
 奥へ進むと、壁面全体がオレンジ色に輝き、店内はいつも夕暮れ時の雰囲気を演出している。

「このお店素敵ですね」
「いいでしょう? 学校帰りに、よくここで時間をつぶすんだ」
「時間をつぶす?」
「うーん、この間も話したけれど、父親とはあまりウマが合わなくて、顔を突き合わせるたびに喧嘩になるから、ここで宿題をしたり、本を読んで、ご飯もたべて帰ることが多いんだ」
「そうなんですか」
「そっちの奥にいこう」

 僕は、彼女を僕がいつも座る一番奥の席に座らせた。

「温かい飲み物がいいね」
「はい。ホットチョコレートがおいしんですよね」
「そうそう、ケーキのお奨めは、シフォンケーキだけど……」
「私、ホットチョコレートと、そのシフォンケーキのセットにします」
「じゃ、僕もそれにしよう」

 彼女は、店内の装飾に興味があるのか、あちらこちら店内を見ては目を輝かせていた。

「ほんと、いい雰囲気ですね」
「でしょう、僕には、家よりも断然落ち着ける場所なんだ」
「え? 自分の家よりもですか?」
「うーん、父親がいれば喧嘩になるし、出張中なら、家で一人きりだしね。あんまり好きじゃないんだ」

 彼女は、僕の顔を見ながらカバンから白い封筒を取り出した。

「ずっと一人のことが多かったんですね」
「まぁ、小学校までは、父さんの知り合いの女性がよく面倒みてくれたんだけどね。小学校に入ってからは一人きりのことが多かったよ」

 彼女は、先ほどの白い封筒を僕の前に突き出した。

「これ、見てください」

 ぼくは、そっと封筒をあけた。中には1枚の写真が入っている。僕は、その写真を取り出し見た瞬間、目頭が熱くなった。
 そこには、僕を世話してくれた懐かしいあの女性の姿が映っていたのだ。
 どうしても思い出すことができなかったあの女性。
 いつもやさしく僕の頭を撫ぜてくれたあの女性。
 転んで泣いたときには、やさしく抱きしめてくれたあの女性。
 僕は、写真を見つめたまま涙を堪えた。

「ど、どうしてこれを?」

 彼女は、唇を噛みしめしばらく考え、言葉を選びながら話はじめた。

「実は、昨日、アキラさんと話をしていて、子供のころ世話をしていた女性は、もしかしたら……私の母じゃないかって話をしていたじゃないですか。それで、母にアキラさんがお店にやってきたこと、ヒカルさんが亡くなったことをメールしてみたんです。そしたらすぐに電話がかかってきて……突然、電話口の向こうで泣きだしてしまって……それで、メールでこの写真のデータを送ってきてくれたんです」

 そういうと、彼女は目を伏せた。

「え? ということは、僕の面倒をみてくれてたのは、やっぱりマナミさんのお母さんだった?」
「そうみたいです。ただ、母は、父の目を盗んで、アキラさんのところに行っていたみたいで、丁度、アキラさんが小学校に上がる頃、そのことがうちの父にバレて大変だったみたいです」
「それで、小学校にはいってからは、僕のところに来れなくなってしまったんだ」

「お待たせしました!」

 突然、喫茶店の店長の声がした。
 いつもは、アルバイトの女の子がケーキを運んでくれるのだが、なぜか今日は、店長自ら、ホットチョコレートとシフォンケーキを運んできてくれた。

「アキラくん、こちらのベッピンさんは、アキラくんの彼女かい?」

 うお! 店長なんてことを口走るんだ!
 僕は、チラッと彼女の様子を伺った。すると、彼女は心配そうに僕のことを見つめているではないか。

「えっと、彼女じゃなくて……」

 と話し始めると、彼女は、一瞬、悲しげな表情になった。
 まずい! まずいぞ! どうして「自慢の彼女です」って、言えないんだよ! マナミさん的には、すでに、妄想世界で僕とデートしていたって言ってたじゃないか!

「えっと、彼女じゃなくて……、僕にとって一番大切な人です」

 うお! すごいフレーズ言っちゃったよ。自分でも驚いたが、ニタニタわらう店長をキッと睨みつけると、店長は、おどけた表情を見せ、逃げるようにカウンターへ戻っていった。

「しかし、若いっていいよなー!」

 カウンターの中から店長の遠吠えが聞こえてくる。

 僕は、あわてて彼女に視線を移した。
 すると彼女は、耳まで真っ赤になって、うつむいていた。

「マナミさん、ごめんね。ここの店長、ちょっと変わり者だから」
「うれしいです」
「え?」
「私、そんな風にいわれたの初めてでドキドキしちゃいました」

 そ、そりゃそうだろう。僕だって、初めて口にした言葉だし、僕もいまだに心臓はバクバクだ。さっきまでの雰囲気がとてもよかったのに! 店長が変な事言うから、ちょっと気まずくなっちゃったなぁ。
 と、とりあえず、ケーキをすすめてみよう!

「ホットチョコレートと、シフォンケーキ、味わってみて!」

 僕が、彼女に声をかけると、彼女はハッとして、目の前のホットチョコレートとケーキをみつめた。

 僕達は、温かなホットチョコレートを飲みながら、ケーキをつついた。

「おいしいですね!」
「僕も、ここのケーキは大好きなんだ」
「母にも食べさせてみたいです」
「うーん、お母さんはプロでしょ? 厳しいコメントが飛びそうだね」

 すっかりマナミも元気になった。

「ところで、例の暗号ですが、なにか手がかりはみつかりましたか?」
「うーん、まだ解読はできていないんだけど、すべて2桁であること。2桁目は0~5の数字しかないこと。そして、丸括弧でくくられた数字は限られていること、さらに5桁の数字がところどころにあるんだ」
「実は、母に暗号の話を聞いてみたんです。そうしたら、5桁の数字のセットがあるのなら、それがローマ字の母音の順番だと話していました」
「え?母音の順番をズラしてあるってこと?」

 僕は、急いでノートに五十音図を書き留めた。
 最初の1桁目は、子音だろう。数字は0から9まである。0はア段。1はカ段ということだろう。アルファベットにすれば……
 0=子音なし
 1=K
 2=S
 3=T
 4=N
 5=H
 6=M
 7=Y
 8=R
 9=W
 続く2桁目は、母音。5桁の数字が「53214」とあることから……
 5=A
 3=I
 2=U
 1=E
 4=O
 文中00というのがあるが、これは「ん」ではないかと予想をしてみた。

 35 03 74 02 55
 た  い  よ  う  は
 63 45 63 15(21)43 05 14(15)81 35
 み  な  み  か  ぜ  に  あ  こ  が  れ  た

「いい感じだね。ちゃんとした文章になりそうだ」
「そうですね!」
「まなみさん、手帳の数字を読み上げてくれない? 僕は、表から文章をノートに書き取ってみるよ」
「はい」

 それから、最初のページを夢中になって解読してみた。丸括弧でくくられた数字は、濁点であることもわかり、最初の1ぺージは、こんな内容だった。

 太陽は
 南風に憧れた
 自由気ままに飛び回り
 誰にも縛られない南風

 南風は
 風見鶏がお気に入り
 どんなに辛くあたっても
 しっかり見つめてくれる風見鶏

 風見鶏は
 ひまわりを見守った
 明るく元気に背伸びして
 いつも微笑むひまわりを

 ひまわりは
 太陽に恋をした
 いつでも真面目で
 顔色一つ変えない太陽を

 ずっと憧れていたかった
 ずっとお気に入りにしたかった
 やさしく見守り
 恋していたかった

 それなのに……

 ここで、ページが破られていた。まだまだ、数字は続いていたが、喫茶店の古い柱時計が夜7時のカネを打った。

「とりあえず、文章がでてきたけど、内容がまた謎めいてさっぱりわからない。ただ、風見鶏って、お店の屋根にあるあれのことなのかなぁ」
「うーん。確かに、風見鶏ってあんまり日常的には出てくる言葉じゃないですものね」
「そうだね。でもこのまま、さらにページは解読できそうだ」
「やってみます?」
「だけど、マナミさんの家、ここから1時間以上かかるでしょ、あとは僕が解読して、内容をメールしてみるよ。で、お願いなんだけど」
「はい?」
「その内容を、マナミさんのお母さんにメールして欲しいんだ」
「わかりました! もしかしたら意味がわかるかもしれません」

 僕は、サッと席を立って会計をすませた。彼女は驚いて飛んできた。

「今日は、僕が出します!」

 両手を大きく広げ、すごいオーバーアクションで話してみると、彼女がプッと吹き出した。

「はい。じゃ、ごちそうになります」

 彼女の笑顔に、僕はまたドキドキしてしまった。

~~

 喫茶店を出ると、あたりはすっかり暗くなっていた。太陽が沈んでしまうと、一気に気温もさがり、息が白くなる。

「マナミさん、寒くない?」
「大丈夫です。ところで、あの……」
「なに?」
「アキラさんが構わなかったら、私の事はマナミって呼んでください」
「え?」
「さん付けで呼ばれるのは、ちょっと冷たい感じがするんです。私の想像の世界では、ずっとマナミって呼ばれてていたので……」

 なんだって! そんなことを言われても、女の子の名前を呼び捨てにしたことは、生まれて一度も経験がない!

「マ、マナミ……」

 僕が、緊張気味に話をすると、彼女は、クスクス笑いだした。
 そうだ、そっちがその気なら、こっちだって!

「それじゃ、マナミも、僕のことはアキラって呼んでくださいね」
「え? 先輩にむかって、それはちょっと」
「じゃぁ、ぼくもマナミさんて呼びますよ」

 彼女は、少し考え、うつむきながら話し始めた。

「わ、わかりました。アキラ……(さん)」
「うん? なんとなく、最後に『さん』って聞こえたけど?」
「わかりました。アキラ!」

 彼女は、僕を上目遣いでみあげると勢い良く叫んで、ハッとして口を押さえた。そして、2人とも笑ってしまった。

 駅の改札口で、僕は自分のマフラーをはずすと、彼女の首にかけた。

「風邪引くといけないから、コレ貸すよ」
「あ! 私、平気です……」
「本当は、コートを貸してあげたいけど、マナミには、ブカブカだもんね。マフラーだけでもしていってほしいんだ」
「ありがとう」
「じゃ、気をつけてね!」
「はい!」

 彼女は、改札口に吸い込まれていった。

~~

 僕は、彼女と別れてから、喫茶店にもどった。もう少し、暗号を解いてみたかったのだ。
 ふと彼女が座っていた席をみると、彼女が大事に持っていた傘がポツンと忘れられているのに気が付いた。
 僕は、傘をもって急いで駅へダッシュした。駅までは200m程度の距離だが、日ごろの運動不足がたたり、100mもダッシュしないうちに息があがってしまった。
 なんとか改札を抜け、ホームにつくと、丁度、電車が出発したところだった。

「遅かったか!」

 僕は、肩で息をしながら、赤いテールランプが暗闇に消えていくのを見守った。時刻表どおりなら、次の電車までは20分待たなければならない。
 まぁ、後で携帯電話を充電してメールをいれておけばいいか……と思って、振り向くと、マナミが青ざめた様子で立っていた。

「あっ、私の傘……」
「マナミ! 喫茶店に忘れていっただろう? よかった会えて……はぁ、はぁ」

 僕は、白い息を整えながら、彼女に傘を手渡した。
 すると、彼女は、僕に抱きついて泣き出した。

「アキラ、ありがとう!」

 向かいのホームには、帰宅途中のサラリーマンや学生であふれている。僕は、あわてて彼女をなだめるとベンチに座らせた。

「だいじょうぶ?」
「ご、ごめんなさい。取乱しちゃって」

 彼女は、傘を抱きしめて、僕に話をしはじめた。

「この傘は、私にとって大切な傘なんです。母が昔使っていたもののお古なんですけど、このヒマワリの柄がとても好きで、母からやっと譲ってもらったんです」
「ヒマワリ?」

 彼女は、ゆっくりと傘を広げた。すると、青い空に向かってヒマワリが元気に伸びている柄が表れた。

「母は、昔、ヒマワリってあだ名だったみたいです。旧姓が、日向 葵(ひゅうが あおい)って名前なんですけど、苗字の前後をいれかえるとちょうど、向日葵(ヒマワリ)ってなるんですよ」
「ああ、なるほど!」
「それでヒマワリってあだ名がついたそうです」
「そうなんだ……」

 あ、ちょっと待てよ。さっき解読した文章に、たしか、ヒマワリってでてたよな。

 太陽は
 南風に憧れた
 自由気ままに飛び回り
 誰にも縛られない南風

 南風は
 風見鶏がお気に入り
 どんなに辛くあたっても
 しっかり見つめてくれる風見鶏

 風見鶏は
 ひまわりを見守った
 明るく元気に背伸びして
 いつも微笑むひまわりを

 ひまわりは
 太陽に恋をした
 いつでも真面目で
 顔色一つ変えない太陽を

 ずっと憧れていたかった
 ずっとお気に入りにしたかった
 やさしく見守り
 恋していたかった

 それなのに……

「さっきの暗号文だけど、そこにでてくるヒマワリって、お母さんのことじゃないかな」
「風見鶏はヒマワリをいつも見守った……ということは、風見鶏は、私の父のことですね!」
「となると、ヒマワリが恋した太陽っていうのは、僕の父ヒカルのことになるのかな」
「そうですね! でも、この南風……っていうのは?」
「たぶんだけど、僕の母がミナミって名前だから……」
「でもそうなると、南風は、風見鶏がお気に入りってことになりますよ」
「うーん。僕の母は、マナミのお父さんのことが好きだったのかなぁ」
「どうなんでしょう」

 どうもこの最初のページには、幼馴染3人と僕の母を含めた相関関係が説明されているようだ。まとめると次のようになる。

 太陽:ヒカル → 南風:ミナミ
 南風:ミナミ → 風見鶏:マナミの父
 風見鶏:マナミの父 → ヒマワリ:マナミの母
 ヒマワリ:マナミの母 → 太陽:ヒカル

 という見事に面倒な四つ巴の関係になる。
 最後のフレーズが「ずっと……していたかった」という表現になっていることから、その関係が大きく崩れるある出来事があったのだろう。
 僕とマナミは、ホームのベンチで少し興奮気味に話をした。

「ともかく、残りのページも解読してみるよ」
「わかりました。なんだか、私の父と母のことも関係してそうですね」
「そうかもしれないね」

 突風が2人を包み込み、電車が到着した。

「電車が到着したね。この続きはまたにしよう」
「はい」
「気をつけて帰ってね、またあとでメールするよ」
「マフラーお借りします。ありがとう」

 マナミは、僕の手をギュッとにぎると電車に乗り込んだ。
 電車のトビラがしまると、マナミはガラス窓越しにニッコリ微笑えむと手を振った。


(つづく)

※4 謎の地図

太陽とヒマワリ  トラキチ3

2稿 20140615
初稿 20140613

※4 謎の地図

「うーん。わかんねぇ! なんでこんな面倒なことするんだよ!」

 僕は、手帳を机に投げ出して叫んだ。
 暗号を解読するための鍵になる5桁の数字を使い1ページ目は上手く解読できたが、破れたページ以降は全く解読ができない。
 しかし、なんでこんな面倒な暗号で書かれているんだろう。暗号文にしたってことは、誰かに読まれるとまずい秘密や機密事項があるからなんだろうか? でも、誰に読まれるとまずいんだ?

「僕?」

 父の身近にいたのは、僕だ。ただ、顔を合わせても口もきかなかったし、父の持ち物にこれっぽっちも興味はない。それは父も知っていたはずだ。僕がわざわざ手帳を盗み見ることなど考えもしていないはずだ。

「会社の人?」

 これもないだろう。そもそも他人のプライベートには関心がないだろうし、社内トラブルになるようなことが書かれていれば別だが、それもありえなさそうだ。

 僕は、手帳に挟み込まれていたメモを取り出した。

――アキラ、おまえがこの手帳を手にしたら、父さんの事を知ってほしい。身勝手なお願いだが、父さんの大事な人に、俺の想いを伝えてほしい――

 前段は、父ヒカルのことを、僕が理解してほしいという話だ。
 問題は、次のフレーズだ。「身勝手なお願い」を「父さんの大事な人」に「俺の思いを伝えてほしい」と書いてある。
 ここでいう「大事な人」とは、僕ではないだろう。すでに前段で僕に対して理解してほしいと言っているのだからダブってしまう。
 それに、父は、自分のことを「俺は……」とは呼んでいるのが気にかかる。いつも僕に対しては「父さんは……」だ。

「俺の想い……?」

 深くため息をつくと、手帳に挟まっている白黒写真に目がいった。

「すべての始まりは、この写真……」

 ともかく、この写真が発端で僕はカフェへ行き、マナミに出会い、マナミからマナミの両親と父が幼馴染だということを聞いた。つまり、この写真は、僕をカフェへ向かわせるために挟んだことは間違いない。ということは、『大事な人』はマナミの両親、あるいはこのカフェに関係がある人と考えていいだろう。
 でも、なんで、わざわざ暗号にしてあるんだろう。

「何か恐るものがある?……」

 僕は、手帳を閉じ、部屋の電気を消すと、ベットの上にゴロリと横になった。
 そして、目をつぶると、マナミの笑顔が浮かんできた。「アキラさんと私、幼馴染だったかもしれませんね……」マナミの言葉が繰り返えし聴こえてくる。思わずニヤニヤしてしまうが、幼馴染っていったいどんな感覚なんだろう。小さい頃からいっしょに遊んで、兄弟姉妹のようなものなんだろうか。
 僕には、兄弟姉妹もいないし、小学校の頃は、父の仕事の関係であちこち転校ばかりで友達もいないのでよくわからない。
 幼馴染か……

「ま、まてよ! そうだよ! そう!」

 僕は、ベットから飛び上がった。
 5桁の数字が母音の並び替えだと教えてくれたのは、マナミの母親のアオイさんじゃないか。つまり、アオイさんは、唯一この手帳を解読できる相手ということになる。アオイさんの周辺で暗号化までして内容を隠したい相手といえば、あの父親では? それなら、ツジツマも合いそうだ。
 この手帳は、父ヒカルからアオイさんに宛てたメッセージじゃないだろうか! つまり「大事な人」は、アオイさん?

~~

 僕は、翌朝、マナミの携帯電話に興奮気味に電話をかけた。

「おはよう! アキラです。今、ちょっと話せる?」
「あ、ごめんなさい。今、電車の中だから、メールでいい?」
「あ、ごめん。じゃ、メールするね」

 電話を切ると、興奮して震える指でメッセージをいれた。一刻も早く、ヒカルの学生時代、自分のことを「俺」と呼んでいたのか確かめたかった。

<お母さんに聞いてほしいんだけど、ヒカルは、学生時代、自分のことを「俺」って呼んでたのかな?>
<わかりました。母にメールで聞いてみます>

 これで、手帳に書かれたメッセージがアオイさんのものであるかわかれば、暗号の解読などせず、直接手帳を手渡せばいい。それが父の「身勝手なお願い」でもある。そして、後ほど、アオイさんから僕の父のことを聴けば、少しは僕も父のことを理解できるだろう。

 しばらくすると、メールの返事が返ってきた。

<母からメールは戻ってきましたが、俺・僕・私・自分と色々使っていたようです>
<うーん……「俺」っていうことばかりじゃないんだね、残念!>
<そうそう、お母さんに、この間の解読した文章を送ってみたんですけど、あの文章は初めて見たって話をしていました。ただ、内容というか4人の関係は、その通りだそうです>
<太陽、南風、風見鶏、ヒマワリ?>
<そうそう、ヒカル、ミナミ、ケンタ、アオイね>
<うん? ケンタ?>
<あ、私のお父さんの名前はカザマケンタっていうんです>
<でミナミは、ケンタのことが気に入ってた?>
<お母さんの話では、ミナミさんは、ケンタといつも一緒にいることが多かったみたいです>
<え? ヒカルとじゃなくて?>
<そうなんです。ちょっと、不思議ですよね>

 どうなってるんだ?

<あ、ところで、今度いつ会える?>
<雨降りの日なら、お店がお休みになるので放課後の手伝いはないんですけど>
<え?>
<お店はオープンテラスだから、雨が降ったら休業になるんです>
<そうなんだ。あ! だから、昨日は時間があったんだね>
<はい。あ、予報では、今週末は天気が崩れるみたいです>
<じゃ、週末にまた相談しよう>
<そうそう、携帯のバッテリーは、ちゃんと充電してくださいよ>
<ハイ……シトキマス>
<ウフフ……>

~~

 僕は、学校の授業中も、手帳を眺め続けた。しかし、他のページの暗号は、どうしても解読ができない。様々な組み合わせを試してみたが、実に忌々しい。
 放課後、いつものように喫茶店「砂時計」に立ち寄ると店長が、神妙な顔をしてやってきた。

「アキラくん、昨日のこと、怒ってるかい?」
「ああ、彼女のことですか? 別にそんなことないですよ」
「いやぁ、すごいベッピンさんだったからビックリしちゃってさ」
「ベッピン? はぁ……まぁ自分とつりあいがとれているのかどうか」
「つりあい? 何でそんなこと思うんだい?」
「だって、彼女はかわいいし、器量もいい、作業もテキパキしてしかも丁寧……それに引き換え、僕は、何のとりえもないんですよ」
「だから?」
「え? だから、彼女とつりあいが取れないんじゃないかと思ってるんです」

 店長は、小さなお皿にのったケーキをテーブルに置いた。

「じゃ、聞くけど、彼女が誰かに襲われたらどうする?」
「え?」
「まぁ、たとえばだけどさ……」
「そ、そりゃ、彼女を助けにいきますよ」
「そう? マッチョで筋肉隆々、ごっつい奴でも?」
「まぁ、確実に殴り倒されるとわかっていても、彼女を守らなくちゃ」

 店長は、僕の腕を鷲づかみにすると、笑った。

「まぁ、この腕じゃ、無理かもしれないけどな」
「そ、そんな……」
「アキラくんが、彼女のことを守ってあげたいって思うのなら、つりあいなんて関係ないさ! 要は、ハートだろ? 世界中の誰にも負けないぐらい彼女のことを大事に想っているなら、全然オッケーさ」
「そうでしょうか」
「まぁね」

 店長は、拳をつくると軽く僕の腕を叩いた。

「そうそう、このケーキ、新作なんだけど、試食してあとで感想きかせてくれよ」
「はい」
「勉強で頭を使っている時には、甘いものがいいらしいし……」
「勉強? ああ、これ勉強じゃなくて、暗号なんですよ。でも、なかなか解けなくて」
「暗号か! そいつは、懐かしいなぁ……」
「へ?」
「ぼくらが、小さい頃は、よく暗号で友達と連絡をし合うのが流行りでさ、いろんな暗号を考えたもんだよ」
「そうなんですか」
「あぶり出しとか、ロウソク文字とか、そんなものもあったなぁ」

 ロウソク文字? それってなんだ?

「あの、店長、ロウソク文字ってなんですか?」
「正式には何っていったかなぁ。要は、紙にロウソクで文字を書くんだよ。それで水をかけるとはじいて文字が浮かび上がるって感じさ。ほら、クレヨンとかで絵を描いて水彩絵の具を塗るとハジクでしょ? あんな感じさ」
「あ、そういえば小学校の図工の時間にやったことがあるかも」
「ただ、難点は、明るい光の下で表面をみるとテカテカしちゃってわかることかな」
「あははは」

 そういいながら、僕は手帳の表面を光に当ててみた。すると明らかに一部光っている場所があるではないか。
 僕は、あわてて指先に水をつけるとその部分をなぞってみた。

「23145」

 あ、みつけた!
 僕は、あわてて50音図表を取り出すと解読を開始した。

~~

 宝の地図

 白と黒の世界が同じくする時
 風見鶏は玉子を産む
 白い世界の真ん中で
 その赤い玉子を探せ

 玉子は大きな木に転がる時
 その軌跡をたどれ
 3つの足跡の先に宝が眠り
 鍵は暗闇の中から探しだせ

 暗闇は黒き世界ではない
 真実の記録の中にある
 手で触れ感じよ
 必ず鍵を見つけ出せ

~~

 僕は、家にもどると夜の8時過ぎにマナミに電話をかけた。

「さっきメールした文章だけど」
「暗号解読できたんですね! 宝の地図っていうことは、手帳に挟まっていた地図の説明なんでしょうか?」
「たぶん、そうだと思う。でも意味がよくわからない」

 しばらく沈黙が続く。

「白と黒の世界が同じくする時……って光と闇ですかね?」
「うーん。僕もそこはわからない。でも、その続きの風見鶏が赤い玉子を産むってところだけど……」
「はい」
「それって、マナミが小さい頃、屋根によじ登った時に見た赤いガラス球に関係があるんじゃないかと思うんだ」
「あ、あの赤いガラス球ですか?」
「おそらく、その赤い玉子っていうのは、その赤い球の影のことじゃないかと思うんだ」
「ということは、白の世界の真ん中で……というのは太陽の光があたっているんだから昼間ですね。あ、白と黒の世界って、昼と夜ってことじゃないですか!」

 マナミが少し興奮気味に話をしてきた。

「そ、そうか! 同じにするときってことは、春分の日か秋分の日だ。えっと今度の春分の日は3月20日だ」
「白い世界の真ん中っていうと正午!」
「そのときに、赤い影ができるんだ。で、その影の軌跡を追えって書いてあるから、時間とともに徐々に大きな木に向かって円弧を描くのかもしれないね」

 だんだん、謎が解けてきたぞ!

「3つの足跡の先に宝が眠り……鍵は暗闇の中から探せ?」
「うーん、3つの足跡の先……3歩進んだところを掘ればいいのかなぁ」
「鍵は暗闇の中? でも暗闇は黒の世界でない………」
「真実の記録……手で触れる……」

 ここは、さっぱりわからない。
 そういえば、最初にカフェに行ったときには、裏庭しか見ていないのを思い出した。もしかしたら、テラス側のところに、何かヒントがあるのではないだろうか。

「あ、もう一度そっちへ行ってテラスを見てみたいんだけど……」
「はい! ぜひ!」
「あ、いや、でも、問題はお父さんだな。『二度と来るな』って言われてるし」
「うふふ、朝から雨だったら昼前に出かけるかもしれません……雨の日は、メニュー開発のために、あちこちのお店を食べ歩るいていますから!」
「そうなんだ! じゃ、とりあえず、土曜日の朝、雨だったら11時にそっちの駅に到着するようにするよ」
「わかりました。私も、お父さんの状況は、逐次メールしておきますから! 駅で待ってます!」
「おやすみ!」
「おやすみなさい!」

 よし! ともかく現場だ。現場に何かヒントがあるかもしれない。
 とはいえ、マナミの父親ケンタと鉢合わせることだけは避けなければならない。この前の勢いでは、僕と目があった瞬間に袋叩き間違いなしだ。

~~

 金曜日の夜半から降り出した雨は、土曜日の朝には、物凄い雨となっていた。僕は、手帳と巻尺をカバンにいれると朝の10時前に家を出発した。

 電車で1時間揺られ、ほぼ1週間ぶりにマナミが待つ駅に降り立つと、時刻は朝の11時を少し過ぎていた。
 雨は、だいぶ小降りになってはきているが、今度は風が吹いてきた。いずれにしてもこんな天気であれば、カフェはお休みだろう。
 突然、ピコっとスマホにメールが入ってきた。

<おはようございます。お父さんは、さっき出かけたので大丈夫です>
<おはよう! いま、駅についた>

 スマホにメールを入れ、ふと、改札口の方を見るとマナミの姿が見えた。彼女は、僕に気が付くと、大きく手を振っている。

「アキラ、急いで!」

 マナミは僕の手をグッと握ると、カフェに急いだ。

 カフェ・レザミに到着したのは昼前の11時半だった。
 店のゲートには、「本日は休業」の看板がぶら下がり、すっかり雨に濡れている。
 マナミは、ゲートのカギをはずし、テラスへ進む階段を案内してくれた。

 テラスは、外から見るのとはまた違って広く見える。まぁ、今日は、雨なので、テーブルと椅子はまとめられてシートがかぶせてあるからかもしれないが、それでも広い。そのシートにポツポツと雨音が響いている。
 僕は、そのシートの間を抜け、大きな木の根元から風見鶏を見上げてみた。太陽は雲にかくれてしまっているがしっかり屋根の上の風見鶏を見ることができた。カバンから巻尺を取り出し、大きな木からまっすぐ風見鶏の方へ建物までの距離を測り地図に書き込んだ。
 また、スマホの水準器を目に当てて塔の風見鶏を見上げ、その角度から、おおよその高さを推測した。

「マナミ、明日から天気の日には、12時、14時、16時と3回、風見鶏の足元のカゲがどのヘンにくるのかマークをつけておいてくれない?」
「春分の日じゃなくていいんですか?」
「本当は、そうなんだけど、当日雨が降るかもしれないし、いくつかのラインを書き出せれば、予測できるからね」
「わかりました。それじゃ、このサンドウィッチ用のプラスチックの楊枝をその都度色を変えてさしてみますね」
「いずれにしても、どうしても3月20日には、もう一度こなくちゃならないな」
「うふふ! 待ってます!」

 僕達は、テラスでの調査を終え、雨を避けて建物の軒下にある小さなテーブル席で休憩することにした。
 建物は、天井が高く古めかしい石造りだ。さすがに、今日は他のスタッフもおらず、静まり返っている。聞こえるのは、ポツポツと雨の音だけだ。
 僕は、じっとテラスの大きな木を眺めていた。

「アキラ、お腹すいたでしょ?」

 僕がおどろいて振り返ると、マナミは、大きなお皿にたくさんのサンドウィッチを運んできた。

「あ、これ作ってくれたの?」
「いそいで作ったら、ちょっと味は心配だけど……」
「お! おいしそう!」

 僕は、時計をみるとすでにお昼12時半を回っていた。

「お昼にしましょう!」
「ありがとう! いただきます!」

 マナミが用意した濡れおしぼりで手を拭くと、サンドウィッチを頬張った。

「おいしい!」

 マナミは、ニコニコしながら、紅茶カップを並べて、温かいお茶を用意してくれた。
 僕は、サンドイッチをほおばりながらも、お茶を入れる彼女の仕草にみとれてしまった。
 あぁ、かわいい。やっぱり、かわいい。

「うん? どうしたんですか」
「あ! いや!」

 僕は、だらしなくマナミに見とれていたことを誤魔化そうと、あわててカバンから手帳を取り出したが、その拍子に、カバンがテーブルに当たり、せっかく入れてくれた紅茶のカップをひっくり返りかえしてしまった。

「ああ、大変!」
「ご、ごめん!」

 またしても、大失態。
 マナミは急いで、布巾でテーブルの上を拭き出した。
 僕もあわてて自分のハンカチでお茶を拭こう身を乗りだした瞬間。

 ゴチッ

 目から火花が散った。

「いったーい!」
「あいたた!」

 なんと、彼女と頭をぶつけてしまった。
 僕が目をあけると、目をつぶって額をおさえている彼女の顔が目と鼻の先にあった。

「ごめん、マナ……ミ」

 僕が、声をかけると、マナミはゆっくり目をあけた。そして、ジっと僕のことを見つめた。
 ち、近い、近い! ぼくは、あわてて身体を引くのだが、彼女は、どんどん僕に近づいてくるではないか。

「アキラ……私、アキラのこと大好き」
「マ、マナミ?」

 とうとう、僕達は、お互いのオデコをくっつけた状態になってしまった。
 ドキドキと動悸が早くなる。
 彼女は、なぜか静かに目をつぶった……。

 ちょ、ちょっと待って! これって、アレだよな。どうするんだよ!
 雨の音が、次第に強くなってきた。
 僕は、覚悟を決めて、彼女の小さな両肩に手をかけ、そっと抱き寄せた。
 彼女も僕の背中に手を回して僕を抱きしめている。
 僕は、唇を近づけた。そして、唇がわずかに触れたかどうか……。

 その時だった、突然、地の底から唸るような聞き覚えのある野太い声が響き渡った。

「おい!」
「あ! お、お父さん」

 僕たちは、急いで身体を放すとケンタを見つめたまま、その場に凍りついた。
 血の気が引くというのはこういうことなのか……と実感したが、これは、まずい、非常にまずい!

~~

 真っ赤な顔をしたケンタが仁王立ちになってすごい殺気で僕の事を睨みつけている。
 あ、あの目は、怒り心頭120%だ。「この場所に二度と来るな」という約束を破り、娘を溺愛する父親がの目の前で、娘を抱き寄せ口付けをしようとしている現場を押さえられた。この修羅場の行く末は見えている。

「おまえたち! いつから、そんな関係になってるんだ!」

 外の雨音がすべて消し飛んでしまう大声だ。
 マナミは、僕の前に出ると叫んだ。

「お父さん、私……ずっと小さい頃からアキラと会うことが夢だった。やっと会えたら何十倍も素敵な人なの!」

 ケンタは、マナミの小さな肩を両手で掴み、軽々と横へ吊り上げ移動させた。

「おまえは、黙っていろ。おい! アキラ、二度と来るなと行ったはずだが……」

 ピーンと張り詰めた空気が流れた。
 一歩、一歩、真っ赤な顔のケンタが僕に近づいてくる。

 僕の脳内は、緊急事態を知らせている。
 このままであれば、ボコボコに張り倒され、この場所からつまみ出されることはまちがいない。
 どうする! どうする! 考えろ! 考えろ!

「ぼ、僕は……」
「なんだ! はっきり、いってみろ」

 ついにケンタの顔が目の前にきた。

「ぼ、僕は、風見鶏がヒマワリを見守るように、マナミのことが大好きです」

 自分でも驚くほど大きな声で答えた。一瞬、あたりの音がすべて消える。

「な、なに!」

 ケンタは、さらに一歩前にでると、僕の両肩を押さえつけた。とんでもないチカラだ。
 しかし、僕はケンタから目を離さず、睨みつけた。ジワジワと両肩が痛むがそれをこらえて、また叫んだ。

「み、南風が、風見鶏をお気に入りだったように、マナミも僕のことを気に入ってくれてます」
「う、うぅむ」

 ケンタは、マナミのほうを振り向きジッと見つめた。
 マナミは、少し驚きながらも、僕のほうを見つめ、コクリと大きくうなづいている。
 僕の両肩を掴んでいるケンタの力が、徐々に抜けていくのがわかった。そして、両肩から手を離すと、小さくつぶやいた。

「お前……どうして、それを知ってるんだ……」

 ケンタは、椅子に倒れるように座ると頭を抱えた。

「なんで! おまえが、そんなこと知っているんだよ!」

 ケンタが大声で叫んだ。

「あの父の手帳……最初のページを解読したんです」

 ノートに書き取った文章をケンタの前に突き出した。ケンタは、震える手でその内容を何度も読み直した。
 マナミは、ケンタに近づき、隣に座るとそっと肩に手をやった。

「お父さん、これって意味わかるの?」
「そりゃわかるさ……これは、もともと俺が書いたものだからな……」
「え?」

~~

 雨足はさらに強まり、時々雷鳴が聞こえてきた。
 僕らは、建物の中に入り、小さなテーブルを囲んで座った。
 しかし、会話は全くない。

 突然、室内の大きな柱時計が1時のカネを打った。

「アキラ……」
「あのぉ……」

 僕と、ケンタが同時に話を切り出した。ケンタは、うなずくと口を閉じた。

「あのぉ……僕が、今日ここに伺ったのは、2つ理由があるんです」
「2つ?」
「一つは、手帳に挟まっていた地図に関する暗号が解読できたので、現場を確かめたかったんです」
「地図?」
「宝の地図とありましたが、どうも春分の日に、風見鶏の足元の赤いガラス球から発する光がその宝の場所を教えてくれるようです」
「宝の地図……か……」

 ケンタは、うつむきながら、フッと笑った。

「そして、もう一つの理由は、父ヒカルが、学生の頃、自分のことを『俺』と呼んでいたかを確認したかったのです」
「ヒカルが?」
「そうです。手帳に挟まっていたホテルでの最後のメモにでてきます」

 そう話すとメモを机に置いた。

――アキラ、おまえがこの手帳を手にしたら、父さんの事を知ってほしい。身勝手なお願いだが、父さんの大事な人に、俺の想いを伝えてほしい――

「このメッセージで、父が僕に伝えた事は2つです。僕が、父ヒカルのことを知ること。そして『大事な人』に『俺の想い』を伝えることです。でも『大事な人』が誰なのか、それを知りたかったんです」

 ケンタは、ジッと僕の顔を見つめた。

「ヒカルが伝えたかったこと……それは、俺にはよくわかる」
「大事な人って、アオイさんのことですよね?」

 ケンタは、深くため息をつき、首を横にふった。

「アオイじゃない……」
「え? そんなはずはない!」

 僕が、思わず声を上げると、ケンタは、テーブルを拳で叩いた。そして、僕をギロリと睨んだ。

「暗号については、俺よりアオイの方が詳しいが、遅かれ早かれ、お前は真実の記録に触れるだろう」
「真実の記録?」
「そうだ……だから、おまえたちが暗号を解き始めるだろうと予測して、ヒカルは……あいつは、この俺に全てを託すってことをそのメッセージに込めたんだよ」

 ケンタは、静かに話すと、ジッと外の景色を見つめた。
 昼の1時過ぎだというのに、あたりは暗く、雲は紫色に不気味に光っている。雨風は激しさを増し、激しくガラス戸を叩きつけている。

 突然、空が紫色に明るく光った。

「俺は……あの日、ヒカルと約束した……」
「あの日? 約束?」
「ヒカルは、おまえが大きくなったら、おまえを連れて必ずここにもどってくると言った。そして、その時に全てを話そうと約束をした……」
「全てを話す?」
「だが、あいつは先に逝っちまった……俺は、アキラおまえから、ヒカルが亡くなったと聞いた時、それを受け入れることができなかった。約束どおり、ヒカルがおまえを連れて、必ずここへ戻ってきてくれるはずだと信じていたかったのかもしれない。だか……あいつは冷たい墓石の下だ。俺は悩んだ。話すべきか、そのまま胸にしまっておくべきか……」

 突然、ケンタがハッとしたように表情が変わった。

「そ、そうか! あ、あいつ……お前をちゃんとここに連れてきやがったんだ。自分はそのちっぽけな手帳になっちまったが……。全てを話すために戻ってきたんだ。あいつ……約束を守りやがった……」

 ケンタは、拳を強く握る。次第に肩がワナワナと震えた。
 いきなり立ち上がり後ろを振り向いた。そして、大きく息を吐き出し、棚からウィスキーの瓶と、ショットグラスを持ってテーブルに置いた。ケンタは大きく息を吐くと、ショットグラスになみなみとウィスキーを注ぎ、グイっと一気に喉に流し込んだ。そしてうつむいた。そしてうつむいたまま、叫んだ。

「アキラ、これから、ヒカルが伝えようとしたことを話してやろう。マナミ、お前にも関係がある話だ。一緒に聞け。いいな」

 ケンタは、大きく息を吐き、目を伏せるとゆっくりと話をはじめた。


 (つづく)

※5 幼馴染

太陽とヒマワリ  トラキチ3

2稿 20140622
初稿 20140622

※5 幼馴染

「ケンちゃん、ズルイよ!」
「だって、ヒマは ちっこいんだから仕方がないだろう!」
「ヒマも木の上に登りたい!」
「ダメ!」
「ズルイよぉ」

 泣き叫ぶアオイを尻目に、俺は庭の大きな木にスルスルっと登った。

 3月は、絶好の木登りの季節。白い雪も溶けてなくなり、木には葉っぱもまだ出ていない。葉っぱがあると枝が見えなくなるし、毛虫も湧いて厄介だ。
 アオイは、物心ついたころから、いっしょに遊んでいる幼馴染。この時は、アオイがなぜ自分のことを「ヒマ」と呼んでいるのか知らなかったが、アオイの親も、いつも「ヒマちゃん」と呼んでいたし、アオイ本人も自分のことを「ヒマは……」と話していたので、俺もいつの間にかアオイのことを「ヒマ」と呼んでいた。

 しかし、今日は絶好の天気。俺は、アオイにバイバイと手を振ると、枝や木の幹のコブに足をかけて、ぐんぐん木を登っていった。少しばかり肌寒かったが、毛糸のセーターも着ていたし、木に登るうちに身体もポカポカとしてきた。
 やがて、木の幹がどんどん細くなり、木のてっぺんが見えてきた。

「おお!」

 てっぺんに到着すると、ちょうどいい感じの枝に足をかけて座ることができた。
 どこまでも澄んだ青空が広がり、まるで空中を飛んでいるかのような気分になる。さらに上を見上げれば、太陽にも手が届きそうだ。

「ケンちゃん、あぶないよー」

 遥か眼下からアオイの声が聞こえてきたが、すっかり火照った身体に冷たい風が心地よく、アオイの言葉を気にもしなかった。
 俺は、伸びをして、土手の向こう側の川を見つめた。静かに流れる川面が、キラキラと輝き、その先には海も広がっている。

「ねぇ! ケンちゃん! だいじょうぶなの?」
「平気だよ! ここからは、海も見えてキレイだよ!」
「いいなぁ、いいな! ヒマも見たいよぉ!」

 俺は、満足して大きく深呼吸をした。気持ちがいい。

 その時だった。突然、俺の頭上に黒いものが飛び交った。

「うん?」

 周りを見渡すと、一匹の大きなカラスがこちらをジッと見つめている。
 カラスは、バサバサと俺の周りを飛んでは、しきりにカァカァとうるさく鳴いている。俺は、近くの小枝を揺らし、カラスを追い払らおうとしたが、カラスも負けてはいない。ヒョイヒョイと枝から枝へ移る。
 俺は、もっと大きな枝を揺らしてやろうと身を乗り出した瞬間、足元が滑って、大きな枝を掴んだまま宙ぶらりんになってしまった。俺は、あわてて身体を揺らし、なんとか幹にもどろうと必死に反動をつけたのだが、その拍子に掴んでいた枝がボキッと折れてしまったのだ。

 バキバキバキ……

 あっと思ったときはもう遅い。俺は、青空を見上げたまま、両手を広げ墜落しはじめた。途中、枝を掴もうと手を広げてみたものの、どれも上手く掴むことはできない。何度か太い枝に身体がぶつかり跳ね返されながら墜ちていく。
 みるみる青空が遠のいて、もうすぐ地面に叩きつけられると覚悟を決め歯を喰いしばり目を閉じた。

「あ?」

 俺は、何か柔らかなものが、俺の身体を一瞬支えてくれた気がした。そして、ゆっくりと地面に横倒しになった。
 ゴツと頭を地面にぶつけ、ジーンと痛かったが、意識はあった。おそるおそる、目をあけてみると、今にも泣き出しそうなアオイの顔が見えた。

「ケンちゃん! ケンちゃんだいじょうぶ?」

 そして、アオイの顔の隣には、青白い顔をした男の子の顔が見えた。

「だいじょうぶかい?」
「痛てて、こ、こんくらいは、へっちゃらさ」

 強がりを言うものの体中は痛く、動かす事ができなかった。でも、アオイの隣の誰だか知らないその子のことが気になってしかたがない。

「よかった!」

 その男の子はニッコリ微笑むと、俺の視界から消えてしまった。俺は、あわてて起き上がろうとしたけれど、背中がジンジンして動けなかった。

「ケンちゃん、起きれる?」

 アオイが手を差し伸べる。俺が手を掴んでチカラをいれると、アオイは真っ赤な顔をして懸命に俺を起こそうと引っ張ってくれた。でも、俺がちょっとチカラを入れるとバランスを崩して俺の上に倒れこんでしまった。

「きゃぁ」
「痛いよ! ヒマ!」
「ケ、ケンちゃんが引っ張るのが悪いんじゃない!」
「ヒマ、あいかわらずチカラないなぁ」
「ふん、ケンちゃんが重すぎるんだよ」
「うるせっ」

 俺は、ちっちゃな身体のアオイを押しあげると、身体を回転させて腹ばいになり、なんとか起き上がることができた。

「なんだ、一人で起き上がれるんじゃない。ケンちゃんのウソつき!」

 アオイは、腕組みをしながらほっぺたを膨らませていた。

「まだ、身体痛いんだってば、本当だよ!」
「え? そうなの?」

 アオイは、急に心配そうに俺の背中をさすってくれた。
 俺は、ゆっくり立ち上がり、大きな木を見上げて見た。かなりの高さだ。あの上から落ちたのかとおもうと、我ながらゾッとした。
 体についた木屑を払いながら、木の下で何があったのか、アオイに聞きいてみた。

「ヒマ、あの子、誰?」
「えっとね、ケンちゃんが木に登り始めたら、土手のほうから降りてきて、ずっと木の下にいたんだよ」
「ふーん」
「それで、ケンちゃんが、墜ちてきたとき『どいて!』って叫んで、ケンちゃんをちゃんと受け止めたんだよ。でもその後、いっしょに潰れちゃったけどね」
「そっか、すごいな! あの子」
「すごいよね」

 あわてて土手を見上げてみたが、その子の姿はなかった。

 それからというもの、俺は、あの子にお礼がいいたくて、近所を自転車で回ってみたり、公園や商店街をくまなく探してみたが、さっぱり見あたらなかった。

~~

 春休みが終わり、小学校2年生の新学期が始まった。
 もしかしたら、俺が通っている小学校の生徒かもしれないと、学校の前で待ってみることにした。

「ケンちゃん、おはよう! おばさんに聞いたら、もう先に学校に行ったよって聞いて驚いちゃった。なんで、今日はこんなに早いの?」
「ほら、この前の子、もしかしたらウチの小学校かもしれないと思って待っているとこ」
「そっか! じゃ! ヒマもいっしょに待ってみる!」

 2人でずっと校門の前で待ち続けた。
 大きなランドセルの1年生、背の高い6年生、みんなニコニコしながら口々におはようと元気な声が響いている。やがて、生徒もまばらになり、ついに始業のチャイムが鳴り出した。

「ヒマ、教室に行こう。やっぱり、うちの学校じゃないのかもしれないね」

 俺は、あきらめて門に入ろうとしたとき、ヒマが俺の腕を引っ張った。

「ケンちゃん! ケンちゃん! あの子! あの子だよ!」

 俺は、あわてて振り向くと、先生に連れられたあの子の姿があった。俺は、その子に駆け寄るとペコリと頭を下げた。

「この間は、ありがとう」

 青白い顔をした背の高い子は、最初は驚いたが、すぐに俺に気が付いてにニッコリ微笑んでくれた。

「ほらほら、君たちもチャイムが鳴ったんだから、早く教室に行きなさい!」

 先生が、ポンと俺の背中を押した。

「また! あとでね!」

 俺は、男の子に手を振るとアオイと一緒に教室へ向かった。

~~

 始業式が終わって、教室にもどると、なにやらザワザワ騒いでいる。

「ケンちゃん、うちのクラスに転校生来るみたいだよ」
「ふーん」

 もしかしたら、あの子……と一瞬頭をよぎったが、背も大きいし、力もありそうだから上級生の転校生だろう。

 ガラリと教室のドアが開くと、担任の先生と男の子が入ってきた。

「今日から、いっしょに勉強する事になったヒビノくんだ」
「え!」

 俺とアオイは、その転校生を見て飛び上がってしまった。
 先生といっしょに入ってきたのは、まぎれもなく、あの子だった。そして、なによりも自分と同じ小学2年生ということに呆然となった。
 その転校生は、かなり緊張しているようだったが、俺とアオイに気が付くと、パッと明るい表情になってニッコリ微笑んだ。

「僕は、ヒビノヒカルっていいます。どうぞよろしくおねがいします」

 大きな声で、しっかりとした挨拶だった。
 最前列のアオイは、ヒカルを見上げて、手を振っている。さっそく、教室のあちこちからヒソヒソ話が聞こえてきた。

「ヒカルって、女の子の名前じゃないの?」
「背、でっかいなぁ」
「かっこいいね」

 誰もが、転校生に釘付けだった。

「みんな、静かに! えっとヒビノの席は、一番後ろのカザマの横の空いている席だな」

 そう先生が言うと、ヒカルは俺にペコリと頭を下げ、ツカツカと俺の隣の席に座った。

「俺、カザマケンタ。この間は、本当にありがと!」
「僕は、ヒビノヒカル。でも、カザマくん、あんな高い木に良く登れたね」
「カザマ……あ、ケンちゃんでいいよ! みんな俺のこと、そう呼んでるから。でも、カラスをやっつけようとして、手が滑ったときは、正直、怖かったよ」

 ヒカルは、静かにうなづいた。そして、目をキラキラさせながら話をしてきた。

「ところで、あの風見鶏のついた家、あれがケンちゃんの家なの?」
「うん! 中は、ボロっちぃけどね。レストランやってるんだ」
「すごいなぁ」
「学校終わったら、遊びに来ない?」
「いいの?」
「もちろんさ!」

 ヒカルは、ニコニコしながらカバンから新しい教科書とノートを取り出した。

 1時間目の授業が終わり、休み時間になると、一番前の席からアオイがすごい勢いで飛んできた。

「ねぇ! ねぇ! ヒカルくん背が高いよね! どうしたら背が高くなるの?」
「え? 特に何もしてないけど、牛乳は好きだよ」
「牛乳かぁ……」
「おい! ヒマ、いきなりなんだよ」
「だって、ヒマも大きくなりたいもん」

 ヒカルが目を丸くして、アオイの名札を見ている。

「ねぇ、ヒュウガさんは、なんでヒマって言うの?」
「あ、それはね、漢字で書くと……」

 アオイは得意顔になって自分の名前について話を始めた。

「ケンちゃん、ちょっと、ノート貸して!」
「うん、いいけど」

 俺が、ノートを手渡すと、アオイは裏表紙に自分の名前を書きだした。
 日向葵(ヒュウガアオイ)の名字の漢字を入れ替えると向日葵(ヒマワリ)になって、小さい頃からヒマワリって呼ばれていたと懸命に話をしている。
 俺はどうもピンとこなかったが、ヒカルは、ニコニコしながらその話を聞いていた。しかし、俺のノートに書かれたアオイの字は、ひどく下手な字だ。俺は、おもわずツッコミをいれた。

「ヒマさ、もう少し、キレイな文字で書けないの? 自分の名前だろ!」
「ケンちゃんよりは、マシだとおもうんだけど……」

 アオイはそういうと、俺のノートをめくって指差した。そして、ヒカルのノートをチラっと見ると目を丸くした。

「すごい! ヒカルくんのノートの字、すごくキレイ!」

 俺も、身を乗り出してヒカルのノートを覗きこんだ。まるで印刷されたかのようにキレイな文字が並んでいる。

「すごいな。ヒカル! キレイに書くコツってあるのか?」
「あるよ! 今日、帰りに教えてあげるよ」
「あ! ヒマにも、教えて!」

 というわけで、俺たちは、あっというまに友達になった。

 それから毎日、学校が終わると3人いっしょに帰った。
 俺の家で、文字の書き方練習や宿題を片付けた。もっとも、俺は勉強は苦手だったから、ヒカルから教えてもらうばっかりだった気がする。まぁ、今から考えれば、ずいぶんとヒカルには迷惑な話だったかもしれない。
 ちなみに、ヒカルの文字をキレイに書くコツは、「ゆっくり丁寧にチカラを抜いて、大きさを揃えて」だった。
 当時は、テレビゲームなんかもなかったから、勉強のあと遊びといえば、ビー玉や石蹴りだった。ところが、ヒカルは、ビー玉や石蹴りで遊んだ事がないと言う。さっそく、俺が遊び方とちょっとしたコツを教えると、あっという間に上達してしまう。

「ヒカル。すごいぞ。初めてって言ったけど、すごいな」
「えへへ。ケンちゃんの教え方がいいのかもね」
「え? あ、まぁ、そういうことだね」

 するとアオイが、クスクス笑って、俺にツッコミをいれた。

「えぇ! ヒマは違うとおもう! ヒカルくんがすごいんだよ」
「ちぇ」

 そんな毎日が、俺は楽しかった。

~~

 ケンタは、ウィスキーをグラスに注いだ。

「これが、ヒカルとの出会いだ。ともかく、何をやらせても上手かったよ。体格はヒョロヒョロだったが、ともかく背が高くて、チカラもあったから、俺と相撲をしても全然歯が立たなかった」

 グビっと一口、ウィスキーを飲むと話を続けた。

「でも、ヒカルは、やたらアオイのことばかり気にかけていて、俺的にはちょっと嫉妬したところもあったんだがな」
「え? その頃から、お父さん、お母さんのこと好きでヒカルさんに取られちゃうとおもってたの?」
「いや、むしろ、俺は、もっとヒカルと遊びたくて、アオイはお荷物だったんだよ」
「ひっどぉい!」

 ケンタは、肩をすくめ、フっと笑うと話し始めた。

「まぁ、俺は、いつもアオイは俺のことを見ていてくれるって思いこんでたのかもしれないな。それが、ヒカルの登場で、すぐに俺とヒカルを比べるもんだから、たしかにカチンときたことはあったよ」
「ところで、その頃、ヒカルは、アオイさんのこと、好きだったんでしょうか?」

 僕が、ケンタに話しかけると、ケンタは、コクリとうなずいた。

「おそらくな……。ヒカルは、女の子とは話をするのが苦手だったんだが、アオイだけは特別だった。それに、アオイがピンチのときは、いつも飛んできていたからな」
「ピンチ?……ですか」
「アオイは、結構、ドンくさいところがあって、犬に追い回されたり、落し物をしたり……その度に、ヒカルが飛んできては、よく助けていたからな」

 ケンタは笑いながら、話を続けた。

~~

 ヒカルは、転校して1週間もするとクラスの人気者になっていた。身体も大きく力強いし、勉強もよくできる、おまけに、みんなにやさしかったから、とりわけ女子には人気があった。

「ねぇ、ヒカルくん。好きな食べ物って何なの?」
「……」
「ヒカルくんは、誕生日いつなの?」
「えっと……」

 休み時間になると、ともかくヒカルの周りには、女子でいっぱいだった。ヒカルは、困った顔をして、隣の俺に助けを求める視線を送ってきていた。
 なんでもカンペキとおもっていたヒカルだが、唯一、女の子前では、顔を真っ赤にして話をするのが苦手だったのだ。

「おい! ツグミ! パンツみえてるぞ」
「きゃ! 野蛮人!」
「ちょっと、カザマくん、ヘンタイ!」

 俺が、大きな声を出して女子を蹴散らすと、ヒカルはほっとした顔をしていたものだ。

「ヒカル。女の子苦手なのか?」
「まぁね、あんまり、自分のこと聞かれるのは好きじゃないんだ」
「ふーん、そうなんだ」
「もちろん、困ってるときは、助けなくちゃって思うけど……」
「俺なんか、女子のモノにさわっただけでも『野蛮人! 消毒しなくちゃ!』とか言われるのになぁ」
「でも、ケンちゃんは、体育の時間はすごいじゃない!」

 その当時、体育の時間といえば、俺の独り舞台だった。鉄棒だろうが、跳び箱だろうが、ドッジボールだろうが、縄跳びだろうが、いつでもお手本をするのは、俺だった。

 ある日、学校帰りに、ヒカルが神妙な顔で、俺に逆上がりの特訓をしてほしい言ってきた。

「あれ? ヒカル、逆上がりできたんじゃなかったっけ?」
「もうちょっと、上手くなりたいんだ。たのむよ!」
「まぁ、いいけど……」
「ありがとう。ヒマちゃんも教えてもらうよね?」

 突然、ヒカルがアオイに話を振ったので、アオイはおどろきながら小さな声で答えた。

「うん、ヒマも教えてもらいたいけど……ケンちゃんが……」
「あああ、ヒマは無理だよ。だって筋肉全然ないんだもん」

 俺が、アオイにズバリ言うと、アオイは悲しそうな顔で、自分の腕を触ってため息をついた。

「大丈夫だよ! ちゃんとできるようになるよ! ケンちゃん先生の指導だから」
「あ、でも、ヒマは無理だってば!」

 ヒカルは、ニコニコわらうと腕を出した。

「僕だって、ほら、筋肉はあんまりないんだよ」

 アオイは、ヒカルの腕をチラっとみると、急に明るい顔になり、俺を疑いの眼差しで睨みつけてくる。

「ちぇ、わかったよ! じゃ、ヒマにも教えてもいいけど、だけど俺の特訓はキビシイぞ!」
「ケンちゃん、ありがとう! ヒマ、がんばる!」

 その日の放課後から、鉄棒に長くぶら下がったり、ヒザをついた腕立て伏せをしたり……と、ヒカルとアオイは俺の特訓を続けた。2,3日すると筋肉痛にもなったみたいだけど、訓練は休まなかった。
 そして、4,5日したところで、タオルを身体に巻けば、逆上がりが出来るところまでこぎつけた。

「ヒマ、ちゃんと鉄棒にくっつくイメージだぞ!」
「足も丸めてね」

 なんとか、ヒマも、蹴り出すタイミングと身体を回すコツもわかってきたようだ。

 そして、体育の時間がやってきた。
 準備体操をおえると、鉄棒の前まで駆け足をした。前をならえをして、キチッと整列すると、先生が、逆上がりのテストをしますと話し始めた。例によってお手本は、俺だった。スルッと回ると拍手が起こる。
 ピッっと先生の吹くホイッスルが鳴り、次々、逆上がりをしていく。そして、いよいよ、アオイの順番がやってきた。俺とヒカルは、アオイに手を振った。アオイは、うなずいて真剣な眼差しで鉄棒を握る。そして、何度か弾みをつけ地面を蹴った。
 すっと身体がキレイに鉄棒に巻きつくと、クルリと回って鉄棒の上でとまる。

「あ! できた!」

 アオイが嬉しそうに叫ぶと、先生も他の子からも拍手が沸いた。そのときの、アオイの顔は今でもしっかり覚えている。

 それからというもの、ボール投げや、跳び箱、縄跳び、水泳……と、体育の特訓も3人でよくやった。ともかく体育が苦手なアオイも、この特訓の成果が発揮され、体育の時間が好きになったと話していた。
 一方のヒカルも、コツを掴むとどんどん上手くなった。小学校6年生のころには、ヒカルがお手本をみせることも多くなり、俺の出番が少なくてちょっとさびしかったのを覚えている。

~~

 桜が咲き誇り、新しいブカブカの制服に身をつつんで中学校へ向かった。ヒカルはさらに身体が大きくなり、ほとんど大人と変わらないぐらいだった。一方のアオイは、紺色のセーラー服にプリーツスカートをなびかせていた。

「おはよう!」
「あ、ヒカルくん、おはよう!」
「うぃっす! ヒカル! いよいよ中学生だな」
「そうだね、アオイちゃんも、制服に合ってるね」
「えへへ、ありがとう」
「まぁ、ヒマは、相変わらず、背が伸びないが……」
「ちょっと、ケンちゃん!」
 
 ドスッ

 笑いながら、俺の背中にグーパンチが飛んでくる。背面からのパンチは、俺の息を詰まらせた。俺が悶絶している間に、ヒカルとアオイは並んで先に歩いていった。
 しかし、ついこの間まで空が茜色になるまで、いっしょに遊んでいたアオイも、その制服姿は、おしとやかな女の子に映る。俺は、アオイのポニーテールをジッと見つめて2人についていった。
 ゆれるポニーテールを見ているうちに、ちょっとだけその髪の毛に触れてみたくなった。

「きゃ! ケンちゃん! ちょっとやめてよ!」
「なんだよ! ヒマ、髪の毛さわっただけじゃないか」
「うー」

 アオイが、振り向くとほっぺたを膨らませている。

「前から、言わなくちゃとおもってたんだけど、もう、私のこと、ヒマって呼ばないで!」
「え! なんで?」
「だって、私、アオイって名前があるんだし……」
「ヒマは、ヒマ! 俺はずっと、ヒマって呼ぶから……」
「や、やめてよ!」

 ヒカルが呆れて、割り込んできた。

「ケンちゃん、僕たちだけの時はいいとして、学校ではアオイちゃんって呼んであげたら?」
「うーん、なんだか背中がムズムズするんだよ。『アオイちゃん』なんてって呼ぶの」
「慣れだよ、慣れ」
「そうかなぁ、アオイちゃん……うぅ、気持ち悪いな」

 ドスッ

 また、背中にグーパンチだ。

「う、痛いな。ヒマ……じゃなくてアオイチャン」
「アオイでいいから! ケンタくん」
「ケンタくん?……やめてくれ! ケンちゃんのままでいいからさ、アオイ!」

 俺が、手を合わせてアオイに頼むと、アオイもヒカルもゲラゲラ笑いながら中学校に足を踏み入れた。

~~

 中学校に入学して2ヶ月。
 3人とも別々のクラスになってしまった。俺は、部活の勧誘を受けて柔道部に入った。ヒカルは美術部に入部して絵ばっかり描いていたはずだ。アオイは、何を血迷ったのかテニス部に入部していた。
 俺が、体育館に畳を運んで稽古をしていると、体育館の鉄扉の隙間から、アオイが今にも泣きそうな顔をして筋肉トレーニングをしているのが見えた。
 それでも、部活を終えると、校門で待ち合わせて3人で帰えるのは、昔と変わらない。

「なぁ、アオイ、なんでテニス部なんだ?」

 俺が、ボロボロになっているアオイに聞いた。

「だって、あの白いミニスカートかわいいんだもん!」
「そんだけ?」
「そんだけ……ですけどナニか?」
「いや、別に……ただ、いつも死にそうな顔してトレーニングしたり、校庭駆けずり回っているから」
「球拾いだって大切なトレーニングなんですけど!」
「そうかなぁ、まぁ、がんばって続けないと、ずっと球拾いばっかりになるな」
「言われなくても、わかってマス!」

 俺とアオイのやり取りを、ヒカルはニコニコしながら聞いていた。

「なぁ、ヒカル、なんで中学って試験ばっかりなんだ? 中間試験、期末試験……って」
「仕方ないよ、少しずつでも勉強しないと」
「部活して帰ると、もうクタクタで勉強どころじゃないんだよ」
「ああ、それなら! 朝、勉強するといいよ」
「朝?」
「その代わり、夜は、テレビ見ないで9時ごろ寝ちゃって、朝4時ごろからやるんだ」
「朝4時デスカ……」
「ソウデス」
「無理……」
「できるって!」

 ヒカルは、まじめな顔で話をしている。

「私も、そうしてみようかなぁ。これから朝練もあるって聞いてるし……」

 アオイも、急に真面目な顔して話し始める。
 俺は、ため息をついた。

「なんだよ、わかったよ、じゃ、俺もやってみるよ」
「えらい! ケンちゃん! えらい!」

 アオイが笑いながら、俺の背中をドンと押した。

「すいませんが、アオイさん、俺の身体にさわると、反射的に投げ飛ばしちゃうから、よく覚えておくように……」
「うひゃ、ケンちゃん、武道家だね」

 ヒカルも思わず吹き出して笑っていた。

 結局、この朝型への転向は、今でも俺の生活のパターンになっている。
 夜に勉強するのと違って、朝は、学校に出かけるまで時間が限られている。自然と、勉強の時間が決まっているので死に物狂いでやらないとあっというまに時間が過ぎてしまうのだ。おかげで、集中力はついたのかもしれない。

 なんとか、中間試験を終えるころには、季節は梅雨に入っていた。
 そして……あの事件が起きたのだ。


(つづく)

※6 水色の想い出

太陽とヒマワリ  トラキチ3

2稿 20140630
初稿 20140630

※6 水色の想い出

「雨、やまないねぇ」
「しかたないだろ、今は梅雨なんだから」
「でも、部活、室内トレーニングばっかりでつまんないんだよねぇ」

 朝8時。中学校までの道すがら、俺はアオイのおしゃべりに付き合っていた。6月に入ってからというもの連日のように雨が降り続いている。

「でも、今の時期、きっちり基礎トレーニングして、しっかり身体を作っておかないと、夏場、バテるぞ」
「わかってるけどねぇ……」

 アオイは、傘をズラすと、恨めしそうに鉛色の空を見つめた。

「そういえば、ヒカルくん、元気になったかなぁ」
「まぁ、この時期に風邪ひくなんて、ヒカルも油断してるよな」
「今日、学校終わったら、お見舞いに行ってみない?」
「そうだなぁ、今日で3日目だし、もう元気になってるとは思うけど」
「きまり! じゃ、部活おわったら校門で待ってるね」

 アオイは、嬉しそうに、傘をくるくるっと回した。

「冷めてぇなぁ。傘、回すなよ」
「あ! しずく飛んだ? 嬉しかったから、ごめんね」
「もう、子供じゃないんだから、嬉しさを全身で表現するなよ!」
「うっさいなぁ……嬉しいことは嬉しいでいいじゃない。でも、早く夏こないかなぁ。まぁ、この傘の中は、いつも常夏なんだけどね」
「常夏?」
「ケンちゃん、自分の傘をたたんで、こっちの傘の中に入ってみて!」

 そう言うとアオイは、ニコニコして俺に手招きをしている。
 面倒だ……。
 言い出したら聞かないアオイのことだ。ヤレヤレと思いながら、俺は、傘をたたんでアオイの傘の中に入ってみた。
 アオイは、背が小さいので、俺に傘を持ってくれと言わんばかりに、傘の柄を突き出した。
 面倒だ……。
 再びため息をついて、アオイの傘を持ってやった。

「ね? 常夏でしょ?」

 アオイが傘を見上げているので、つられて俺も見上げてみた。すると、傘の裏地には、真っ青な空と元気にまっすぐ伸びるヒマワリが鮮やかに描かれていた。

「おお、ヒマワリ……だ」
「私、ちっちゃい頃から、『ヒマちゃん』って呼ばれてたせいかもしれないけど、ヒマワリって大好きなんだ」

 嬉しそうに、俺の顔を見上げる。

「えっ」

 そこにはいつものアオイの笑顔があったのだが、ドキッとしてしまった。小さな傘に、男女が肩寄せ合って学校に通うという情景がそうさせたのかもしれない。ただ、アオイが俺を見上げて微笑む姿に、心臓の鼓動は早く、体中が熱くなり、自分の顔が赤らんでいくのがわかる。
 俺は、あわててアオイの傘から逃げ出そうと、手に持った傘をアオイに手渡そうとしたが、アオイは意地悪く手を引っ込める。

「おい! 傘、持てよ!」
「ふふ、ラクチン、ラクチン。このまま学校まで傘を持ってくれたまえ、ケンタくん」
「はぁ? 何言ってんの! アオイ、いい加減にしろよ」
「ケンちゃんとの相合傘……ちょっとドキドキしちゃうね」
「はぁ?」

 俺は、アオイを無視して前を向き、スタスタと歩き始めた。アオイは、すこし小走りで俺の後を追いかけ、意地悪そうに俺の顔を覗き込む。

「ケンちゃん、どうしたの? 顔、赤いよ」
「うるせぇなぁ」

 アオイは、クスクス笑って、多分ワザとだと思うが、俺に身体を密着してきた。

「おう、カザマじゃないか。朝からお熱いね! おまえのカノジョか?」

 突然の声に、俺はびっくりした。
 なんと、柔道部の先輩が俺に声をかけてきたのだ。俺は、直立不動で、先輩に深々と一礼をした。

「あっ! 先輩! おはようございますっ。ち、ちがいますよ。カノジョとかじゃないっス。単なる幼馴染です」

 ドスッ

 いきなり、アオイのグーパンチが背中に入った。鈍い痛みが背中に広がる……。そして、アオイは俺から傘を奪い取ると、一人で走って行ってしまった。
 俺は、あわてて自分の傘を広げた。
 先輩は、呆然とアオイの後姿を見送り、俺を見つめるとニタニタ笑った。

「カザマ……俺、なんか悪いことしたか?」
「いや、むしろ、助かったッス。ありがとうございましたっ」

 一礼をして、先輩と別れた。
 まぁ、アオイから開放されてホッとしたが、それにしてもなんだってアオイのやつ怒ったんだろう。

「まぁ、いっか……」

 俺は、一人つぶやいて学校に向かった。しかし、あのドキドキはなんだったんだろう。アオイとは、幼い頃からずっといっしょだが、あんな感覚になったのは初めてだった。

~~

 授業を終え、放課後になっても、雨は降り止まない。体育館での稽古で俺は汗を流した。
 いつもなら校庭からテニス部の掛け声が聞こえてくるが、今日は聞こえない。さしずめ廊下でストレッチでもしているんだろう。アオイの苦虫を噛んだ顔が思い浮かぶと思わずニヤリとしてしまった。

 部活を終え、帰り支度をすると校舎を出た。

「やまねぇな……雨……」

 傘を開いて、トボトボと校門に向かうと、アオイの傘が見えた。

「あ! アオイ? 待っててくれたんだ。てっきり怒って先に帰っちゃったのかと……」

 俺が声をかけると傘がピクリと動いたが、どうもいつもと違う。

「おい? アオイ……どうした?」
「ケ、ケンちゃん……私……」

 俺に振り向いたアオイは、目に涙をいっぱい溜めていた。
 驚いた……。
 アオイは、滅多に泣いたりはしない。子供の頃からそうだった。そんなアオイが涙を目にいっぱい溜め、泣くまいと堪えている。俺は動揺して入学の時に封印していた言葉を口走った。

「ヒマ、どうしたんだよ? 何があったんだ!」
「ケンちゃん……」

 アオイは、俺の声を聞くと、堰を切ったように大粒の涙があふれ出し、ポロポロと頬をつたって落ちた。
 俺が何を聞いても、アオイは、声を詰まらせるだけで話をすることなんてできそうにない。俺は、いっしょに歩いて落ち着かせることにした。

 学校からしばらく歩いたところにある児童公園に、雨宿りができる大きな日よけがある。
 俺たちは、その日よけにあるベンチに並んで座った。
 アオイは、肩を震わせてずっとうつむいていた。

「どうだ? 少しは、落ち着いたか?」
「うん……」
「何があったんだよ……ヒマが泣くなんて……」
「ケンちゃん……ありがとね。さっき、ケンちゃんが私のこと『ヒマ』って呼んでくれたとき、堪えきれなくなっちゃった。ガマンしなくていい相手って、ケンちゃんだけだもん」
「そ、そうか?」
「そうだよ。ケンちゃんには何でも話せるし、きっとヒマのことも一番分かってくれてるから……」

 俺は少しばかり誇らしかった。まぁ、アオイとはなんだかんだいって付き合いは長いし、顔を見れば、何を考えているのかは大方わかる。

「まぁ、俺もガマンしないで、ガンガンいえるのはヒマだけだな。俺の事、一番知ってるしなぁ」

 俺が、ボソっと言うと、アオイが突然プッと吹きだした。

「まぁね。小さい頃、真っ裸でおじさんに追いかけられてたのも知ってるし」
「え?」
「おばさんの口紅塗って怒られてたのも知ってるし」
「い、いつの話だよ……まぁ、昔は、熱い風呂に入れられるのが嫌だったし、母さんの化粧も不思議だったけど……そんなこと、なんでヒマが知ってるんだよ」
「それは、ヒ・ミ・ツ」

 アオイはクスクス笑い、俺もつられて笑ってしまったが、いつものアオイの笑顔が戻ってホッとした。

「なぁ、何があったんだ?」
「……あのね、私、部活やめようかと思ってるんだ……」

 アオイは、鉛色の空を見上げて、アッサリと言い放った。単に「白いミニスカートが素敵だからと入部した」という動機は不純だが、厳しいトレーニングに耐えて続けてきたテニス部をそんなにアッサリ辞めるというのはどういうことだ?
 俺は、アオイに呆れ顔で見つめた。

「ほら、今朝、相合傘したじゃない」
「ああ、その後、俺にグーパンチ入れてスタスタ歩いて行きやがりましたがね」
「あ、それは、ケンちゃんが『単なる』幼馴染なんて言うからよ! 何? 『単なる』って!」
「だって、相合傘してる最中に部活の先輩に声かけられたんだぞ。俺だって動揺したんだよ……ってまぁ『単なる』は、悪かったよ。ごめん。でも、それがなんで、部活をやめることになるんだよ」

 アオイは、顔を曇らせてうつむいた。

「あの相合傘、テニス部の先輩が見てたらしいんだ。で、今日の部活のミーティングで『男子といちゃいちゃしているチビの1年がいる』って私のことジッと見つめて言うから、私もカチンときて『幼馴染ですが何か』って反論したんだ」
「それで?」
「そうしたら、なんだか知らないけど、私のことばかり目の敵にして、イジワルしはじめたんだよ」
「なんだそれ? かなり陰湿だな」
「仲良くしてた同じ1年の子も、『先輩が、今後、アオイちゃんとは話もするなっていわれたから、ゴメンね』って耳打ちしてきて……」
「嫌だなぁ、女子は……」
「頭にきちゃって、男の顧問の先生に『男子といっしょに帰ったり、相合傘するのは、ダメなんですか?』って聞いちゃった」
「そしたら?」
「そしたらね、先生が『仲がいいのはいいが、あんまりベタベタするなよ。おまえも、もうチビの小学生じゃないんだから、少しはお前も大きくなれよ』って頭ポンポンしてきたのよ。もぅ、すごいムカついちゃって!」
「チビの小学生?……ああ、そりゃ先生が悪いな。ヒマが怒るのもよくわかる」
「でしょ、私、懸命にガマンしたんだ。でも、悔しくて、悔しくて……あんな部活もう嫌!」

 正直なところ、俺は、あまりのバカバカしさに呆れたが、アオイのことだ、自分が一番気にしている背丈のことをバカにされたのが許せなかったんだろう。

「よし! それなら、こうしようぜ!」

 俺が、大きな声をだしてベンチから立ち上がり、アオイを指差した。

「え? なに?」

 俺は、ニヤニヤ笑いながら叫んだ。

「雨が降ったら、かならず、俺と相合傘で学校に行くこと!」
「えっ!」
「いいじゃないか、別に。もっとガンガン見せ付けてやればいいじゃないか」
「うーん、でもねぇ……」
「なにか、不満でも?」
「できれば……」
「うん?」
「できれば、ヒカルくんとがいいな!」
「はぁ? なんだよ、ヒカルかよ! ちぇ、せっかく人が何とかしてやろうと思っているのに」
「えへへ」

 アオイは、元気にベンチから立ち上がった。

「ケンちゃん、ありがとね」

 そういうと、俺の腕にいきなり抱きついてきた。

「うお! なんだよ」
「うふふ、これからも頼りにしてるよ!」
「ま、まぁな……」

 俺の顔を見上げて微笑んだアオイに、俺はキュンと胸の奥が締め付けられた。まぁ、これが俺の初恋の瞬間だったのかもしれない。

~~

「やったじゃない! お父さん!」
「マナミ、茶化すんじゃない」
「でも、あの傘で、そんなことがあったんだね」
「ああ、アオイは、いつも大事にしていたんだ。何度か骨も取り替えていたし、布地も張り替え修理をしていたからな」
「そうなんだ」

 ケンタは、僕を睨んだ。

「なぁ、アキラ。このことを俺がヒカルに話したんだが、その時、ヒカルはどうしたと思う?」
「え? さっきの相合傘の話ですか?」
「そうじゃない、アオイが部活をやめるって話さ」
「ああ、父の性格だったら、職員室に乗り込んで顧問の先生に直談判ですかね」
「ふふふ、そんなもんじゃなかったよ」
「え?」
「あいつ、例のアオイに意地悪した先輩の教室まで行って、大声で『僕と付き合ってください』って公開告白しやがった」
「え? なんでまた?」

 ケンタは、空になったグラスに、ウィスキーを注いだ。

「目には目をだ。あいつ、そういうところは頭が回るんだよ」
「それで、どうなったんですか?」
「ヒカルの公開告白の話は、あっという間に学校中に広まった。『あの先輩が、1年生の男の子をもてあそんだらしい』とか根も葉もない噂にまでなって、その先輩はもう真っ青だ。あわてて、ヒカルに告白したワケを聞いたらしい。ヒカルがアオイの一件について先輩に抗議をしたら『ちょっと、面白半分にからかっただけで悪気はなかった……』って、アオイに謝りに行ったらしい。それから、顧問の先生に直談判だ。その先輩も加勢してくれて、顧問の先生もアオイに謝って、一件落着。ともかく、夏休み前は大変だった」
「じゃぁ、アオイさんは、テニスを続ける事ができたんですね」
「まぁな。今でも続けているよ。ともかく、この騒動でヒカルは、学校中で有名人になったんだ」

 マナミは、身を乗り出して話をした。

「ヒカルさんて、すごい!」
「まぁな、ともかく、アオイのことになると、まるで見境がなくなるからな……」
「でもそうなると、お父さんは、ヒカルさんが恋敵ってことじゃない?」
「まぁ、ヒカルは、そんなことは思ってもいなかったみたいだが……夏休み明けの水泳大会で対決することになった」
「すごい! で、お父さんが勝ったんだ?」
「いや……。2人とも失格だった」

 ケンタは、ウィスキーを一口なめると話をした。

~~

 夏休みも残すところ数日。
 俺たちは、図書館のエアコンが効いた自習室で最後の宿題を片付けていた。アオイが眠気覚ましに顔を洗ってくると出かけたスキに、俺は、そっとヒカルに話かけた。

「ヒカル! おまえ、アオイのことどう思う?」
「うん?」

 ヒカルは、参考書に目をやったまま、小さな声で答えた。

「どう? って?」
「あいつ、ドキってするくらい、キレイになったと思わないか?」

 ヒカルのペンが止まった。そして、ニヤニヤしながら俺を見つめた。

「ケンちゃん、アオイちゃんに恋しちゃったね」
「はぁ?」

 俺は、あわてて、周りを見渡した。アオイは、まだ、戻ってきていない。

「いや、そういうことじゃなくて……」
「僕は、アオイちゃんのことは大好きだよ。気兼ねなく女の子と話ができるのはアオイちゃんだけだし」
「そっか……」
「でも、恋するって感じとはちがうんだ……なんて言ったらいいのかなぁ」

 ヒカルは、言葉を探して天井を見上げた。

「双子の妹って感じかな?」
「はぁ?」

 俺は、呆れてヒカルを見つめたが、ヒカルはいたって真面目顔だ。

「妹っていうのはなんとなくわかるけど、なんで双子なんだよ」
「まぁ、いつも気になる大事な存在で、まるで自分の分身みたいに感じることがあるんだ」
「そうなのか? 俺には良くわかんないなぁ。でも、アオイは俺たちのことはどう思ってるのかなぁ」
「まぁ、アオイちゃんは、ケンちゃんのことは、大好きだよ。まちがいない」
「そ、そうかなぁ」
「アオイちゃんのグーパンチは、ケンちゃんだけだし……」
「なんだ? あれって、歪んだ愛情表現ってことか?」
「ズバリ! そのとおり!」

 ヒカルは、ニコニコして笑った。

「で、どうすんの? アオイちゃんにいつ告白するの?」
「ちょっとまて、なんで告白って話になるんだよ。イヤイヤ、どうせ告白したって、答えはわかってる。あいつは、ヒカル、おまえのことしか眼中にないんだぞ……ヒカル、お前が告白したらどうなんだ?」
「わかってないなぁ、ケンちゃん。乙女心っていうのは、そんな簡単じゃないよ。ともかく告白しなよ!」
「告白はちょっとなぁ」

 俺の返事に、ヒカルは呆れ顔になったが、急に何かを考え始めた。

「そうだ、9月の水泳大会で決着をつけよう!」

 いきなり、ヒカルが叫んだ。

「ちょっと、ヒカルくん、うるさいわよ。図書館は静かに!」

 アオイが呆れたように自習室に戻ってきた。

「で、水泳大会で何を決着つけるわけ?」
「それは、お楽しみ! さぁ、ラストスパート! 早く宿題終わらせようよ!」

 ヒカルがニコニコしながらアオイに話すと、アオイは、じっと俺の事を睨んだ。

「どうせ、ケンちゃん、また変なこと、企んでいるんでしょ」
「お、俺は、し、知らないよ!」
「ウソばっかり……」

 結局、宿題が片付いたときには、外はすっかり暗くなっていた。
 3人で図書館から帰る道すがら、ヒカルがそっとメモを俺に渡してきた。
 アオイにバレないように、そっとメモを開いてみると「水泳大会で負けたほうが、アオイちゃんに告白すること」とあった。
 俺は、小学校の頃は、水泳は得意だったし大好きだった。でも、中学生になり体が大きくなるにつれ、泳ぐスピードが落ちている。一方のヒカルは、水泳の授業がある度に水泳部が勧誘にくるほど泳ぎは上手くなっている。
 つまり、この水泳大会は、圧倒的にヒカルに有利ということになり、結果、俺がアオイに告白するって筋書きとなるのだ。

「まじ? つうか、普通、勝ったほうが……じゃないの?」
「いや、負けた方……って事で……」

 ヒカルは、ニコニコ笑ってガッツポーズをした。

 俺は、そんなことで決めるのもどうかと思っていたが、ヒカルはやる気満々のようだ。そういえば、小学校のころ、泳げなかったヒカルに水泳を教えたのも俺だった。そんなヒカルに大差で負けてしまうのも悔しい。それに、ヒカルに告白されてアオイがどう答えるのかも気にもなる。
 そこで俺は、水泳部のヤツに頼み込み特訓を密かにやることにした。結果、フォームの改善で、かなりタイムは短縮することができたのだ。

~~

 水泳大会当日。
 天気は快晴。俺とヒカルは、個人メドレー100メートルに出場する。25メートルプールを2往復。バタフライ、背泳ぎ、平泳ぎ、自由形で勝負する。バタフライは、水泳部のフォーム改善でかなりタイムを縮める事ができたので、最初で大きく引き離し、苦手の背泳ぎを切り抜けて、平泳ぎと自由形で勝負をつけるしかない。
 個人メドレーは、大会最後の種目で、エントリーも5人と少ない。しかも、うち水泳部が3人なので、水泳部以外では、俺とヒカルということになる。
 俺は2コース、ヒカルは3コースだった。ヒカルはスタート台に立つと、ニコニコして俺を見つめた。余裕の表情だ。

「位置について……ヨーイ……」

 ピストルの音が聞こえ、水の中へ飛び込んだ。ほとんどスタートでは差がない。そのまま潜ったままドルフィンキックで進む。チラリと横をみるとヒカルよりリードしている。
 25メートルの折り返しで、壁を蹴り背泳ぎになる。ぐんぐん、ヒカルが迫ってくるのがみえる。すこしでもここで差を縮められないようにしなければならない。俺は懸命に泳いだ。
 旗つきロープが見えた。あと5m。ターンは、俺のほうが早い。
 残すところ平泳ぎと自由形だ。
 少しばかり、ペースが早すぎたかもしれない。かなり左足が重くなってきた。しかし、そんなことは無視して俺は、懸命に平泳ぎで水を捕らえた。
 あと5メートルで最後のターンというところで、左足から背中にかけてビキビキっと痙攣をおこした。
 俺は、焦ってしまい、水の中に沈み、懸命に痙攣した足の筋を伸ばそうと必死に手を出すのだが、身体もいうことが効かない。
 そのとき、ヒカルが俺の横を通過しているのが見えた。ヒカルは、壁でターンをすると、いきなりコースアウトして、俺のレーンに入り、懸命に俺の左足を伸ばしてくれたのだ。ところが、なかなか痙攣が治まらない。

「ケンちゃん、ちょっとガマンしてチカラを抜いて!」

 ヒカルが、俺を背後から支えて叫んだ。そしてプールサイドに引き上げてくれた。

「ごめんな、ヒカル……」
「お、おどろいたよ、ケンちゃん速いね! やっぱり、ケンちゃんはスゴイよ!」

 俺は、自分が情けなく、そして自分に悔しかった。そしてそれ以上に、ヒカルのやさしさに熱いものがこみ上げてきた。すると、ヒカルは、サッと俺の頭にタオルを掛けてくれた。

「ケンちゃん、まだ痛む?」

 ヒカルは、未だハァハァ息を整えながらも、マッサージを続けてくれた。

 競技の結果発表では、もちろん、俺たち2人はコースアウトで失格だったが、それが告げられた時にはプールサイドから大きな拍手があったのを覚えている。

~~

「これで、ヒカルに助けてもらったのは2度目だ。俺は3度、ヒカルに助けてもらっている」

 ケンタは、ウィスキーを飲みきると、グラスをジッと見つめ、テーブルに静かに置いた。

「木からの転落、プールでの事故……あともう1回?」

 マナミが心配そうにケンタを覗き込むと、大きな柱時計が3時のカネを打った。

「なぁ、マナミ、冷蔵庫にケーキがあるだろう、アキラに出してやれ。それから紅茶を入れてくれないか?」
「あ、はい」

 マナミは、席を立つと厨房に向かった。
 ケンタは、マナミを見届けると、アキラに手招きをして、小声で話をしはじめた。

「ヒカルに助けてもらった3度目の話の前に、ミナミのことを話さなくてはならない」
「ミナミ! ミナミですって?」

 思わず、僕は大きな声を出してしまった。
 ケンタは、人差し指を口に当て、厨房をチラチラと気にしながら話をする。

「アキラ、お前、ミナミの写真を見た事がないって言ってたよな」
「はい」
「なぜ、ヒカルがミナミの写真を処分したのかは、ミナミの写真をみれば一発で分かる」
「え? どういうことです?」
「実は、俺もミナミの写真は処分してしまった」
「な、なぜなんです。どうして、存在を消そうとするんですか!」

 僕は、ケンタを睨みつけた。

「お前は、すべての真実を知る覚悟はあるか?」
「そ、そりゃありますよ」
「お前は、マナミのことをどう思っている? 本気なのか?」
「マナミさんのことが好きですし、僕の大切な人です。それは本当です」
「それじゃ、マナミといっしょに結婚して家庭を持つ事まで考えているのか?」
「え? 家庭を? 今は自分にそんな資格があるかわかりませんが、できればそうしたいです」
「そうか……」

 ケンタは、ジッと僕を見つめ、唇を噛んだ。
 そして、厨房をチラリと覗き、背面の書棚から一冊の分厚い本を取り出した。そして、テーブルの上に置きページをめくった。どうやらレシピ集のようだが、日本語では書かれていない。
 パラパラとページをめくると、薄い封筒が挟み込まれている。

「ここに、ミナミの写真が入っている」
「さっき、処分と……」
「ああ、処分したつもりだったんだが、1枚だけ残したんだ。いずれ必要になると思ってな」

 ケンタは、封筒を俺の前に置いた。

「いいか、見たら何も言うな」

 僕は、おそるおそる、封筒の中の写真を取り出した。そして、18年間追い求めていた母の姿を確認する瞬間に手が震えた。

「え! そんなバカな」

 僕は、目を疑った。そしてケンタを睨みつけた。

「いいか、アキラ、よく見るんだ」

 僕は、もう一度じっくり写真を見つめた。少しばかり色あせてしまったカラー写真だ。写真には25年前の日付が刻み込まれている。そして、その写真の中央には、制服を着た少女が写っているのだが、その少女が、マナミに瓜二つだったのだ。
 しかも、おどろいたことに、よくマナミがしている三つ編みでカチューシャ風にまとめたあの髪形までおなじなのだ。

「アキラ、写真を封筒に入れてコチラへよこせ」

 僕は、言われたとおり写真をケンタに渡した。
 ケンタは、本を書棚にもどすと、大きくため息をついた。

「ど、どういうことなんですか! なんで? どうして?」

 俺は、ケンタに小声で話をした。

「はい、おまちどうさま。ケーキと紅茶……あれ、アキラさんどうしたの?」
「え? いや……」

 マナミは、キョトンとして俺を見つめている。そして、僕は、あらためてマナミをジッと見つめると、先ほどの写真の少女の顔と重ね合わせていた。

「ぼ、僕は、夢をみてるのか?」


(つづく)

※7 風香る夏の日

太陽とヒマワリ トラキチ3

3稿 20140711
初稿 20140706

※7 風香る夏の日

「ケンちゃん、頼みがあるんだけど……」

 通学途中の坂道で、ヒカルがボソッとつぶやいた。
 高校2年の7月。すでに陽射しも強いが、この坂道の並木が木蔭を作り、涼しい風で俺たちをむかえてくれる。だが、この場所へ来ると、ヒカルは、決まって俺に頼み事をしてくる。

「頼み? って、いつものアレだろ? おまえのファンクラブの撹乱作戦」
「あ、ちがうちがう! 今回は、ちがうんだ。僕、やっと決心したんだ」
「決心? 決心って何をさ?」

 何やらいつもと違う様子に、俺は驚いてヒカルの顔を覗き込んだ。すると、ヒカルは、俺の視線から逃げ、急に歩くのを止めてしまった。

「どうしたんだよ。ヒカルらしくないな」

 俺が、ヒカルの背中をポンと叩くと、ヒカルがビクッとした。

「ケンちゃん、あのさ……僕、中学のころから気になる女の子がいるんだ」
「はぁ? 気になる女の子?」

 俺は、吹き出して笑ってしまった。

「そんなに笑うことないだろ。マジなんだから……」
「だって、ヒカル! お前の周りはファンクラブの女子でいっぱいじゃないか。直接話せばいいだろ? それにアオイもいるんだから相談すればいい!」
「それが、出来ないんだよ。だからケンちゃんに頼んでるんじゃないか……」
「なんで?」
「その子、僕には全く興味もないみたいだし、それに……彼女は、特別な子なんだ」
「へぇ、ヒカルに興味がない子なんているのかねぇ。そいつは驚いた」
「と、ともかく、その子のことで頭がいっぱいになるんだよ」

 俺は、あまりのバカバカしさに呆れ、ため息を付くとゆっくり坂道を登り始めた。
 木蔭の間を爽やかな風が吹いてくる。

「なぁ、ヒカル、俺なんか『野蛮ゴリラ』って呼ばれて、女子から嫌われてるのに……お前、贅沢すぎるぞ!」

 俺は、少しイライラして叫んだ。
 ヒカルは、高校生になると雑誌モデルも顔負けのイケメンになった。頭脳明晰、スポーツ万能、おまけに謙虚で女の子にも優しい……まさにパーフェクト。そんなヒカルを学校の連中が黙っているはずがない。入学してからというものヒカルの噂はあっというまに広がり、全校生徒の注目の的になった。
 今では、まさにアイドルタレントのような扱いで、アオイが主催している『ヒカル君ファンクラブ』にも加入者が殺到しているらしい。
 もちろん、男子生徒の中には、そんなヒカルが気に入らない奴もいた。ヤキを入れてやると喧嘩をふっかけた奴もいたようだが、どいつもこいつもコテンパンに返り討ちにあったと聞いている。
 ヒカルは、中学時代、俺の柔道の試合を見てからというもの、すっかり武道にハマり、中2から合気道の道場に通いはじめた。そして、例によって腕前を上げていたのだ。

 ヒカルは、俺の行く手を阻むと、俺に両手を合わせ、頭を下げた。

「ケンちゃん。頼むよ。たよりはケンちゃんだけなんだ。それに、その子、ケンちゃんとおなじクラス……」

 俺は、ヒカルの話を遮り、ヒカルを押しのけると前に進んだ。

「ちょいまった! ヒカル、アオイはどうすんだよ」
「え? アオイちゃん?」

 ヒカルは、驚いた様子で俺を追いかけ、顔を覗き込んだ。

「アオイちゃんは、ケンちゃんからの告白を待っているって言わなかったっけ……って、まだ告白してないの?」
「はぁ? 何で、俺が告白したってしかたがないじゃないか」
「なんで?」
「なんで? って、お前も知ってるだろう、いまやアイツは『ヒカル君ファンクラブ会長のアオイ様』だぞ」
「ああ、アレね。でも関係ないよ」
「ああ、アレね? じゃないだろう。おかしいだろう? アイツは、中1からずっとお前の追っかけしてるんだぞ」
「まぁ、それは、それだよ。僕にはわかるんだ。アオイちゃんは双子の妹だからさ」
「あぁ、また、双子の妹の話か……。ま、いいや、じゃ、俺、先にいくから!」
「あ、ケンちゃん! まだ話が途中……」

 ヒカルは、何か言いかけたが、俺は、全速力で坂道を登ると校門を目指した。

~~

 校門にやってくると、毎度のことだが、女子生徒が列を作って待っている。大方その目的は、ヒカルと握手をすることだ。

「バカじゃねぇのか。何が気になる女の子だよ!」

 俺は、舌打ちし、校門でソワソワしている女子生徒を蹴散らした。と、アオイが怖い顔で仁王立ちをして両手を広げて通せんぼをしているのが見えた。

「おっと……あ、おはよう」

 俺は、あわてて立ち止まり、アオイに挨拶をした。
 アオイは、不機嫌そうに俺のことを睨むとツカツカと近づき、大声をあげた。

「ちょっと! ケンちゃん! ヒカルくんとベラベラしゃべって通学しないでくれない!」
「はぁ?」
「ヒカル君の到着スケジュールが狂っちゃうとファンクラブとしては困るのよ」
「なんでだよ? 別に構わないだろう? 友達なんだし」
「とにかく、困るんだから!」

 そう言いながら、腕時計をチラチラ見ている。
 俺は、あまりのバカらしさに、呆然とアオイのことを見つめた。

「何よ?」

 アオイは、口をとがらせて、俺のことを睨んでいる。
 ああ、ダメだ。アオイの瞳を見たとたん、俺は、この瞬間で時が止まってくれれば……と真剣に考えてしまった。
 アオイは、高校生になってから、さらにかわいくなった。まぁ、相変わらず背は低いが、コイツの笑顔を見ると、どんなに落ち込んでいても力が湧いてくる。
 だが……コイツは、ヒカルのことで頭がいっぱいだ。そう、それは昔から変わらない。そして、これからも変わることはないだろう。
 そう、すべて、わかっていることだ。
 俺は、何度もそう自分に言い聞かせてきたし、俺は納得してきたんだ。
 ただ、あの中学の梅雨時、相合傘をしたときのシーンが頭から追い出せない。あの時のアオイの笑顔、そして、懸命に目に涙をいっぱい貯めて耐えていたアオイ……。
 あのときのドキドキはなんだったんだ。あの胸を締め上げるほどの想いってなんなんだ。
 思い切り抱きしめて、告白してしまおうか……。
 いや、ダメだ……。
 俺が告白すれば、ヒカリとアオイと俺の3人の関係は二度と元には戻らなくなってしまう気がする。
 そんなことになれば、アオイの笑顔がみれないのではないか。そんなことになったら、俺の心は、砕け散ってしまう。
 どうすればいい……。
 いや、俺の心なんかどうでもいいじゃないか。砕け散ってもかまわないさ……。
 どうであれ、コイツが笑顔でいてくれればいいんだ……。
 どうであれ、コイツが幸せでいてくれればいいんだ……。
 俺は、大きく息を吸い込み、ゆっくり口を開いた。 

「ヒマ、俺は、ヒカルとお前のこと、応援してるからな」

 突然の俺の言葉に、アオイは、目を見開き俺のことをジッと見つめた。
 そして、くるりと後ろを向くと大声で叫んだ。

「ケンちゃんには、関係ない話でしょ! 早く教室行きなさいよ。これから握手会の準備をしなくちゃならないんだから」

 俺は、大きくため息をつくと、アオイの横を抜け校舎に向かった。

 ドス……

 久々に背中に鈍痛が走った。アオイのグーパンチだ。

「痛ッ……」
「ケンちゃんなんか、大嫌い!」

 アオイの叫び声が背中にザックリと突き刺さる。大方、封印していた「ヒマ」と呼んでしまったのがまずかったのだろう。俺は、そのまま後ろを振り向かずに教室に向かった。

~~

 1時限目の授業が終わると、ヒカルが凄い勢いで飛んできた。

「ケンちゃん! アオイちゃんがおかしい!」
「はぁ?」
「さっき、B組でアオイちゃんに会ってきたんだけど様子が変なんだよ」
「変?」
「そうなんだ。ずっと、ピリピリして不機嫌なんだよ」
「はぁ? いつものことだろ? 女子は、定期的にそんな時もあるらしいって聞いたぞ……」
「ねぇ、ケンちゃん。朝、アオイちゃんに何か話した?」
「まぁ、『俺は、ヒカルとお前のこと応援してるからな』って話したけど」
「な、なんだって!」

 ヒカルは、バンッと俺の机を叩いた。俺は驚いてヒカルを見上げた。

「ケンちゃん……なんでそんなこと言っちゃうんだよ」

 ヒカルは、首を左右にふると、俺の耳元で小声で話をした。

「ケンちゃん、アオイちゃんのこと嫌いなの?」
「嫌いなはずないだろう。俺は、アイツのことは一番知ってる。だから分かるんだ。アオイには、ヒカルお前が必要だ」

 ヒカルは、肩をがっくりと落とした。

「ああ、面倒だなぁ。どうして、2人ともそうなんだろう……」

 ヒカルは、つぶやくと天井に目をやり腕ぐみをした。

「うん?」

 ヒカルは、周囲を気にしながらそっと俺に小さく畳んだメモを渡してきた。

「なんだこれ?」
「あとで……」

 そういうと、ヒカルは、急いで教室から出て行ってしまった。

 始業のチャイムがなり、2時限目は英語の授業が始まった。
 俺は、こっそりとさっき渡されたヒカルのメモを開いてみた。

「ケンちゃんの真後ろのイブキミナミさんについて、なんでもいいから調べて教えて! たのむ!」

 うん? 俺の後ろの席?
 うちの学校は、男女が互い違いに座っている。つまり、前後左右は全て女子だ。俺の前は、キンキン声のおしゃべりアケミだし、右隣のユキコは、クラスのアイドル的存在。左隣のカヨコは、秀才メガネ女子。後ろの席……。
 あれ……、後ろの席? って誰だっけ?
 気になる。ものすごく気になる。誰だっけ? 
 俺は、なんとか口実をつけて後ろを振り向きたい衝動に駆られた。

「おい! カザマ、教科書の14ページ頭から読んでみろ」

 チャンスだ! 俺は、ゆっくりと立ち上がりながらチラっと後ろを振り向いた。

 誰だ……コイツ……。

「どうした、カザマ」
「す、すいません。あの……ちょっとおなかの調子が悪いので、トイレに行っていいですか」
「おいおい、お前は小学生か? ちゃんと休み時間に済ませておけよ! 仕方ないな、早く行って来い!」

 クラスのあちこちから、俺をバカにする笑い声が聞こえてくるが、そんなものはどうでもいい。俺は、ゆっくり、教科書を机に置き、後ろを振り向いた。
 長い黒髪に、青白い肌。顔立ちは凛として整っている。なんだ、結構かわいいじゃないか。でも、どうして、こんな子のこと今まで気づかなかったんだろう。

「カザマ、早く行って来い!」
「すいません。今、動くと、出ちゃいそうなんで」

 再び、クラスの中からゲラゲラと笑い声が聞こえる。俺は、ゆっくりと、彼女を見つめながら移動した。彼女の背後から、彼女の広げている教科書を見るとなんと内側に文庫本をいれて、読んでいるのが見えた。

 なんだ……コイツ……。

 トイレから戻ってからも、俺は、ずっと後ろの席が気になって仕方がなかった。ヒカルのメモによれば名前は『イブキミナミ』だ。
 授業が終わり、休み時間になると、俺は離れたところからずっと彼女を観察した。不思議な事に、クラスの連中は、彼女のことをスルーし、彼女自身も誰にも話かけることはしない。
 なんというべきか、彼女は自ら存在を消しているかのようだ。

 4時限目の授業が終わり、昼飯の時間になった。

「よしッ!」

 いつもならクラスでつるんでいる連中と一緒に昼飯を食べるところだが……今日は、後ろの席の彼女に声をかけてみることにした。

「ごめん、一度も話したことなかったよね。俺、カザマケンタっていうんだけど、よかったら昼飯一緒に食べない?」
「うぬ?」

 彼女は、驚いた様子で俺の顔をジッと見上げた。そして、小さくため息をつくとボソっとつぶやいた。

「修行が足らんな。ミナミ。存在をみやぶられてしもうたぞ」
「はぁ?」
「貴殿の申し入れ、誠にありがたいのじゃが、先約があるので、これにて失礼つかまつる」
「はぁ?」

 俺は、驚いた。なんだ、あの変なしゃべり方。時代劇のサムライのセリフのようだ。俺は、そのまま呆然と彼女を見つめた。
 彼女は、スッと立ち上がるとツカツカと廊下へ向かって歩いていく。

「ヒカルが気になる子っていうのは、アイツのことなのか? なるほど、こりゃ驚いた」

 俺は、好奇心からそっと彼女の後をつけてみることにした。
 彼女は、スタスタと廊下を速足で歩くと、渡り廊下を抜けた。そして、旧校舎の階段を昇り始めた。この先は3階の旧図書室しかない。
 しかし、旧図書室はすでに立入禁止のはずだし、屋上のトビラにもカギが掛けられているはずだ。
  俺は、ゆっくり3階への階段を昇り様子を伺った。

「あ! いない!」

 驚いた事に、3階の旧図書室の前には彼女の姿がない。図書室の扉もしっかりカギがかかっていて開かない。

「ということは、屋上?」

 俺は、屋上への階段を見上げたが、まるで人の気配は感じられない。しかし、そこしか彼女の行く場所はないはずだ。俺は、ゆっくり、階段を昇りはじめた。

「貴殿は、なぜゆえ、後をつけるのじゃ、早々に立ち去れぃ」
「うぉ」

 突然の声に、俺は驚いた。しかも、階段室の壁に声が反射してどこから声がしたのかもサッパリ分からない。俺は、一気に階段を駆け上がってみた。

「い、いない。そんなバカな……」

 念のため、屋上への扉に手を掛けたが、やはりカギがかかっている。

「イ、イブキさん……ちょっと話がしたいんだけど」
「貴殿と話すことは何もござらん。おひきとりいただけまいか」

 俺は、あたりを見回した。

「って、いったいどこにいるんだ!」

 すると、図書室前に無造作に置かれた椅子のホコリ避けの白い布が、わずかに動いたのが見えた。

「ええい、この地も失うとは、まったく困ったものじゃ」

 彼女は、勢いよく白い布を取り外すと、俺をジっと睨みつけた。長い黒髪がサラサラと流れたのが見える。

「この場所のことは誰にも言わないよ」
「ふん、たわごとはよい。で、何用じゃ」
「だから、一緒に昼ごはん、食べない?」
「ふん、昼は食べんのじゃ」
「食べない……って具合でも悪い? あっ、ダイエットとか?」

 彼女は、うつむき、がっくり肩を落とした。

「巾着を忘れたのじゃ」
「巾着? それって?」
「札入れじゃ」
「ああ、財布? あ、財布忘れたの?」

 俺は、おもわず吹き出して笑ってしまった。

「わ、笑うでない!」
「悪かったよ。でも、イブキさんて、面白い人なんだね。そうだ、俺、パン4つあるから2つあげるよ」
「ご好意はありがたいが……お断り申す」

 俺は、階段を降りると、彼女の前に机と椅子を置くと、袋からパンを取り出すとパンを並べた。
 彼女は、何も関心がないような素振りを見せていた。しかし、チラチラ菓子パンを見ているのがわかる。

 なんだ、コイツ……。

 グググゥ……

 突如、彼女のお腹が鳴り、俺はもう耐え切れず、ゲラゲラ笑ってしまった。

「うぬ」
「イ、イブキさん、ともかく2つ選んで? 別に食べなくてもいいからさ」
「左様か、しからば……」

 彼女は、震える指で、ヤキソバパンとコロッケパンを指差した。

「はい。じゃ、これは残しておくよ。じゃ、俺、目の前で食べるから、気が向いたら食べてよ」

 俺は、少し意地悪をしてみたくなった。
 バリッとジャムパンの袋を開けると、あたり一面にイチゴジャムの甘い香りが広がる。
 彼女は懸命に横を向いているが、鼻がヒクヒクしているのがわかる。

「あぁ、ジャムパン……美味いなぁ」
「ちっ、貴殿も酷なことをする……」
「パン、嫌いなの?」
「す、好きじゃ」
「じゃ、どうぞ……」

 彼女は生唾を呑み込むと、顔を赤らめて、コクリとうなずいた。

「うぬぬ。し、しからば……そのヤキソバパンを一ついただけぬか」
「一つでいいの?」
「充分じゃ、かたじけない」

 俺が、パンを手渡すと、手を合わせ、ブツブツと何やら唱え、パンを口にした。

「イブキさん、ずっと気になっていたんだけど、どうして、サムライが使うような言葉使いなの?」
「ミナミは、武家の出であるゆえ、そのようにしておるのだ」
「はぁ……武家の出ねぇ。でも今はそんな言い回しはしないとおもうけど?」
「ミナミは、それがよいと申しておるのじゃ。べつに良かろう?」
「はぁ……なんだか面倒だなぁ。まぁいいか、実は、ちょっと話をしたかったんだ」
「うむ。何用じゃ?」

 俺が、彼女の顔を見ると、唇に青ノリがベッタリとついていた。おもわず吹き出して笑いそうになったが、グッとこらえてポケットティッシュをそっと取り出し渡した。
 彼女は不思議そうにティッシュを受け取る。

「俺の友達が、イブキさんのことを知りたがっているんだ」
「ぬぬ?」
「たぶん、イブキさんに興味があって、いろいろ話をしたいってことじゃないかなぁ」
「なにゆえに!」

 彼女は、ビクンと身体を震わせ、俺の顔を睨みつけてきた。

「あ、唇に青ノリついてるから……」

 彼女は、あわててテッシュで唇を拭きとると、顔を赤らめた。

「なにゆえって言われてもねぇ、ともかく、会って話をしてみない?」
「ミナミは、そのような尻軽女ではないわ」
「いや、尻軽って、そういうことじゃないと思うけど」
「しばらく、時間をくれぬか」
「ああ、別に急いではいないけどね」

 俺は、コロッケパンを1つ机に置くと、階段を下りた。

「もし! コロッケパンを忘れておるぞ!」
「ああ、後で召し上がってはいかがかな! 腹が減ってはイクサはできぬゆえ」
「左様か、こ、これは、かたじけない」
「では、ごゆるりと」

 俺は彼女の口調に合わせて話すと、ニタニタしながら階段を降りた。

~~

 部活が少し早めに終わったので、誰もいない教室から、校庭整備をしているテニス部を見ていた。アオイも懸命に整備をしているのが見える。

「なぁ、アオイ、俺、なんか間違ったのか?」

 考えてみれば、俺はヒカルとアオイとは別の高校に行けばよかった。だいたいが勉強も好きでもないし、中学からはじめた柔道もソコソコで、限界がみえている。同じ高校を受験したのも、ヒカルの勧めと、アオイの笑顔をみたいがゆえだが、どうもここんところアオイとは、ギクシャクして息苦しくてたまらない。
 一方、ヒカルの俺に対する態度は、昔と何も変わらない。俺を見かければニコニコしながら声をかけてくる。まわりに女子がいようがいまいがそんなのはお構いなしだ。おかげで、その度に、取り巻きの女子は、「あいつダレ?」みたいな視線を浴びせてくる。
 俺は、大きくため息をついた。

「ケンちゃん!」

 突然、ヒカルが声を掛けてきた。俺は振り返るとヒカルに手招きをした。

「ヒカル……。あのイブキミナミって子だけど……」
「お! なんかわかった?」
「あの子、ちょっと変だぞ」
「何が?」
「まず、普通にしゃべれない。なんでも武家の出とか言ってたが、時代劇のサムライが使うような言い回しだ」
「ああ、それは、知ってるよ。でも、バイト先では、普通だったけどね」
「なに!」
「実は、僕、たまたま駅前のハンバーガー屋で、彼女と会ったんだよ。丁度シフト交代だったみたいで、学校の制服姿の彼女がスタッフルームに入っていくのを見かけたんだ」
「何をご所望か……って感じじゃないの?」
「まさか。きちっとした普通の応対だったよ」

 俺は、チラッと時計をみると、ヒカルに話をした。

「これからそのハンバーガー屋に行ってみようよ」
「あはは、そう言うと思った!」

 ヒカルは、ニコニコ笑うとうなづいた。

~~

「いらっしゃいませ、ご注文を……」

 俺は、駅前のハンバーバーショップで、ジッと「イブキ」と書かれたプレートを胸に着けている店員を見つめ、おもむろに注文をはじめた。
 店員は、作り笑いをしていたが、殺気立った目で俺を睨んでいる。

「その、ダブルバーガーのセットとやら、いただきたいのじゃが、揚げた馬鈴薯は増量できますまいか?」
「すみません、別途、単品となります……」
「うぬ? それは残念じゃ、では、それはヤメとしよう」
「の、飲み物は、いかがされますか……」
「色々あるのじゃな、それでは、冷たい牛の乳をいただけぬか」
「はぁ……ア、アイスミルクでございますね……」
「勘定は、いかほどじゃ?」
「680円になります……」
「左様か、680両とは、こりゃ大金じゃな。ほれここに置くぞ」
「うぐ……」

 ミナミは、苦虫を噛んだような顔でこちらを睨みつけた。しかし、トレイにハンバーガーとフライドポテトそして牛乳のパックを手際よく用意すると丁寧に俺の前に差し出した。

「この仕打ち、覚えておれ!」

 ボソっとミナミがつぶやいたように聞こえた。

「はて、笑顔が良いとの評判の店……と聞いて参ったのだが、ずいぶんと違うようじゃな」
「あ、ありがとうございました。またのご来店おまちしております……」
「そうじゃな、そなたが、おるのなら、ちょくちょく寄らせてもらわねばなるまいな」
「おのれ、いい加減にせぬか!」
「うん? なんか申されたかな?」
「……早よう、立ち去れ!」

 ミナミは、真っ赤な顔で俺の事を睨み大声で叫んだ。

「イブキさん、笑顔で丁寧な接客をしないと!」

 突然、背後の背の高い女性が優しくミナミの肩に手をやった。

「あ、店長、すみません。この知り合いが、私のことをからかうものですから、すみませんでした」
「あ、ごめんな。ミナミ」
「ミナミ? おのれに、そのように呼び捨てにされる筋合いはないぞ」
「わ、わかったわかった。またな!」

 俺が、ヒカルのところへ戻ると、ヒカルは、ゲラゲラ笑っていた。

「最高! やっぱしケンちゃん、凄いね」
「しかし、彼女はやっぱし変だよ。ヒカル、あんな子のドコがいいんだ?」

 ヒカルは、フライドポテトをつまみ、チラっと彼女のほうを見た。

「あの子、ナギナタの腕前がすごいんだ」
「ナギナタって? あの槍の先に刀がついてるやつだっけ?」
「そう、僕が通っていた道場の隣で、練習をしていたんだけど剣道の剣士相手に、すさまじい試合だった」
「そんな風にはみえないけどね、で? それで惚れちゃったの?」
「ナギナタに一途なんだよ。ものすごく懸命で、素敵なんだ。ケンちゃん、もう少し彼女のこと調べてみてよ」
「え? 俺が? ヒカルお前が直接すればいいだろ!」
「ごめん、学校で彼女と話すと邪魔がはいっちゃってダメなんだよ」
「そっか……わかったよ……」

 というわけで、俺は、しばらく彼女を追い回すことになった。

~~

「ねぇ、お父さん、ミナミさんのナギナタの腕前ってすごいの?」
「まぁな、お前も凄いとおもうが、ミナミも凄かった。何度かヒカルと試合を見に行った事があったんだが、エキシビジョンに登場して、剣道の剣士2人を同時に相手にしたんだ。鳥肌が立ったよ。凄い気迫で、あっという間に2人とも負かしてしまった」

 ケンタは、マナミを見つめて笑った。

「あ、あの、マナミさんもナギナタやってるんですか?」
「うん、道具があったし、お父さんからも勧められて、今も続けてるの」
「そ、そうなんだ……」

 僕は、ケンタを見つめると、ケンタは、肩をすぼめた。
 そして、大声で話を始めた。

「ともかく、ミナミと話をするのは骨が折れたんだが……ミナミには秘密があったんだ」
「え?」

~~

 あのハンバーガー屋の一件があってから、ミナミは、俺のことをやたら目のカタキにしてきた。
 まぁ、俺もツッコミを入れるようになり、お互いクラスでも随分と目立つ存在になった。もとから、顔立ちもかわいいし、あの口調もクラスのみんなからおもしろがられた。
 毎日のように口喧嘩の日々が続いて、俺は邪険にされたが、俺もヒカルから頼まれた手前、彼女のことを知ろうと、必死に喰い下がった。そうこうしている内に、ミナミも時々は笑顔を見せるようになり、当初、「カザマ氏」「イブキ氏」とお互いを呼び合っていたが、「ケンタ」「ミナミ」と呼び合う仲にまでになった。

「ケンタ、6時限目の数学の宿題は、いかがした?」
「済ませてはあるけど、自信はないよ」
「すまぬが、写させてほしいのじゃが」
「ほぉ? お忘れに?」
「めんぼくない」
「ほい、じゃ、これ……」
「おお、これは、かたじけない」

 俺が、ノートを渡すと、ミナミは、カバンから、数学のノートを取り出そうと必死になっている。

「だけど、ミナミ殿。計算途中の過程が大切じゃないかとおもうけど」
「わかっておる。なんでも手順があろうからな。しかし、今は結果じゃ」

 やっとのことでノートを取り出したが、バサっと1冊、桃色の手帳を落とした。だが、ミナミはそんなことは気にもせず、懸命に答えを写している。
 俺は、床に落ちた手帳を拾い上げて驚いた。ヒカルの写真が手帳の間から落ちたのだ。

「あれ……」
「ぬ、ぬおぉぉぉ!」
「ヒカルの写真?」
「ケンタ、何をしておる。返すのじゃ!」

 真っ青な顔をしてミナミが俺の手許から手帳を取り上げた。だが、その瞬間、手帳の間から便箋が数枚バサバサと落ちた。

「あ……ごめん」
「あぁ、なんとしたことか!」

 ミナミの絶叫が聞こえ便箋を必死に集めている。俺もあわてて、便箋を拾い上げたが、そのうちの1枚を読み上げてみた。

「ヒカル殿、ミナミはいつもヒカル殿の御姿を拝見するたびに、胸の奥が熱くなるのでございます。この秘めたる想いが、ヒカル殿に届けば、ミナミはうれしゅうございまする。ヒカル殿と逢瀬できました暁には、すべてをヒカル殿にお捧げ申し上げる覚悟でございまする……」

 ミナミは真っ赤な顔になり、いきなり泣き叫んだ。

「ケンタ、もうやめてよ……おねがいだから……」
「え?」

 俺は、驚いてミナミを見た。クラスの連中の視線も一斉に俺たちに注がれた。

「あ? ごめん、ミナミ。悪かったよ」

 そういうと、サッと便箋と写真を拾い上げ手帳に挟み込みミナミのカバンに押し込んだ。
 教室のアチコチから、「サイテー」だとか「ひどいよね」やら「やっぱし野蛮よね」という声が聞こえてくる。
 しかし、ミナミがヒカルの大ファンとは知らなかった。しかも、その想いは相当なもののようだ。

 数学の授業の最中、俺の後ろからミナミの嗚咽が聞こえていた。

~~

 俺は、部活を休んだ。というか休まざるをえなかった。
 というのも、ミナミが、授業を終わっても自席でずっと腕に顔をうずめて泣いていたからだ。
 教室には、俺とミナミだけが取り残されている。

「ミナミ、本当にごめんよ。悪気はなかったんだよ」
「ケンタのバカ。なんで、声に出して読み上げたりするのよ!」

 ミナミが、いきなり普通の会話をしているのに驚いた。

「なぁ、覚えてるかなぁ、俺が、初めてミナミと話したときのこと」
「うん……ヤキソバパンだった」
「いやいや、そうじゃなくてだな、俺の友達が、ミナミのことを知りたがっているって話をしただろう」
「……」
「その俺の友達って、ヒカルなんだよ」
「……」
「さっきの手帳に挟まっていた写真のヒカル……あいつ、俺の幼馴染なんだよ」
「……」
「ミナミ?」
「そ、それって、ケンタは、ヒカルに頼まれたから、ずっと私と話をしてきたの?」
「そうだな、まぁ、そういうことかな」
「ひどいよ……」
「へ?」

 ミナミは、スッと立ち上がった。涙でぐしょぐしょになった顔をハンカチで拭うと、俺の顔をジッと見つめた。

「わ、わたし、どうしよう。どうしたらいいの」

 そうつぶやくと、また目に涙がいっぱいにあふれてきた。

「おいおいおい」
「私……」
「何だよ! ヒカルと話をしてきたらいいじゃないか」
「ちがうの……」
「何が?」
「私、いつも一人だった。小学校の頃からずっとナギナタの道場に通っていたし、強くなりたかった。そのためには、精神を鍛える必要があったのよ。だから、いつも自分を縛ってきた」
「……」
「周りのヒトは、みな私を避けた。そう、それはわかっていたこと。私もそれを望んだ。そのほうが好都合だから」
「あ、あのさ……なんで、そんなにストイックなんだ?」
「だけど、ケンタ、あなたは違った。私を避けることはしなかった。真正面からいつも私をみていくれた。私は、驚いたの。こんなヒトがいるとは思ってもいなかった」
「そ、それはどうも」
「だけど、それは、ウソ。すべては、ヒカルくんに頼まれたことだったのね」

 ミナミは、俺を見据えたままポロポロと涙を落とした。俺は、何も言えなかった。たしかに、そうだ。俺も、ヒカルのことがなければ、もしかしたら、ミナミのことを避けていたのかもしれない。

「ごめん……」

 俺は、うつむいた。

「私……ケンタ、あなたのことが大好きになっちゃった。そう、あのヤキソバパンの時からずっと気になった。今までの私には、ナギナタしかなかったのに、ケンタと出会えて学校にいくのが毎日楽しくなった」
「……」
「さっき、ヒカルくんへの随分前の手紙を読まれたとき、わたしの想いがヒカルくんにあると、ケンタが勘違いしちゃったんじゃないかと想って、私、もうどうにも切なくなっちゃって……」

 ミナミは、肩を震わせた。俺は、ミナミの肩を両手でそっと押さえた。

「ミナミ! よく聞いて! 俺以上に、ヒカルは、お前の事をずっと想い続けているんだよ。どうだ、ヒカルと合ってくれないか」
「ヒカルくんは、たくさんの女の子に囲まれているし、私なんか……」
「お願いだ。ヒカルの想いも聞いてやってくれよ」
「いや、いやだ。私は、ケンタがいい……」

 そういうと、ミナミは、いきなり俺に抱きついてきた。
 そのとき、教室のトビラが開き、ヒカルとアオイが入ってきた。

「あ!」

 俺は、ミナミの肩越しに、アオイと目があった。アオイはジッと俺を見つめたまま呆然としている。ヒカルは、静かに教室のトビラをコンコンと拳でたたいた。

 ミナミは、音に気が付くと、あわてて俺から身体を離した。

「おじゃまだったかな?」

 ヒカルが俺たちに話をした。

「ケンちゃん、ゴメン。イブキさんの想いがそれほど強いとは思ってもいなかったんだ」
「ヒカル、ど、どうすんだよ」

 ヒカルは、ミナミをまっすぐ見つめた。

「イブキさん、僕は、キミが中学のナギナタの大会で優勝したとき……」
「え?」

 ミナミの顔色が変わる。

「そう、三段技で、スネ・面・胴と連続技が炸裂したとき、ものすごく感動したんだ。そしてそのときからずっとキミと話せたらいいなと思って憧れていたんだ」
「……」
「イブキミナミさん、突然だけど、僕と付き合ってくれませんか、おねがいします」
「えっ」

 いきなりのヒカルの告白に、俺は、チラッとアオイの様子を伺った。アオイは、まるで魂が抜けたかのような顔をして突っ立ったまま、呆然とヒカルとミナミを見つめていた。俺は、そんなアオイの腕を掴み、一緒に教室をでた。
 そして、渡り廊下のところへやってくると、アオイと並んで二人で夕日を眺めた。

「ねぇ、ケンちゃん……ヒカルくん、あの子のことが好きなの?」
「ああ、中学の頃から想いを寄せていたらしい。俺はいろいろ頼まれて調べたんだけどちょっと変った子だよ」
「そうなんだ……ヒカルくん……あの子のことが……好きなんだ」

 アオイは、まっすぐ夕日を眺めている。俺は、その横顔を見つめた。キラキラとアオイの顔が黄金色に染まっている。と、アオイの目から涙があふれてきた。一粒……また一粒。
 風がそよぎ、アオイの髪が静かに揺れる。

「ケンちゃん。私、ヒカルに告白したんだ」
「告白って、お前がヒカルにしたのか?」
「うん……」
「なんで?」
「私、ケンちゃんから『ヒマ、俺は、ヒカルとお前のこと、応援してるからな』て言われたとき……」

 アオイは、いきなり俺の襟首を掴むと睨みつけ叫んだ。

「ケンちゃんは、私のこと一番分かってくれてるはずじゃなかったの! 私の一番は、ずっと、ずっとケンちゃんだったんだよ。ずっと、ずっと待っていたのに……あんなこと言われたら私、どうしたらいいのかわかんなくなっちゃったんだよ」
「お前……」

 アオイの目から涙が溢れ、肩が震えた。

「だ、だから、ヒカルくんに告白したんだよ。でも……ヒカルくん……僕は好きな子がいるから……って断られちゃった」
「ちょっと待て、告白って、いつの話だよ」
「ついさっき……。それで、それじゃその子を確かめたいって言ったのよ」
「ああ、それで、一緒に教室に来ってことなのか……」
「そしたら、ケンちゃんもその子から告白されてるし、私、もう何がなんだかわからなくなっちゃって」

 俺は、そっとアオイの頭を抱き寄せた。アオイの頭が俺の肩に当たる。

「ヒマ、ゴメンな。俺、お前のことが、すごく大事だったんだよ……」
「え……」
「お前、昔からずっとヒカルの話ばかりしてたから、俺は、お前のことを見守ろうと中学のときに決心したんだ」
「そ、そんな……」
「でも本心はちがう。子供の頃から、ずっとお前がそばにいて、いっしょに笑っているときが一番楽しかった。それはいつまでも続くとおもってた……」

 俺は、アオイの顔を両手で包むと、じっとアオイの瞳をみつめた。

「ヒマ、俺は、お前のことが一番大切だ。そして、誰よりもお前のことが、好きだ」

 俺は、アオイの頭を胸に強く抱き寄せた。
 アオイは俺の背中に手をやるとギュッと抱きしめて答えてくれた。

「ヒマも、ケンちゃんのことが、大好きだよ。ずっとずっと前から……」
「そっか……それなら付き合うか」
「うん……」

 俺は肩を震わせて泣いているアオイを抱きしめ、優しくアオイの髪の毛を撫でた。
 夕日が、ゆっくり沈んでいくのが見えた……。

~~

「これが、俺の始めての告白だ。結局、ヒカルとミナミ、俺とアオイは、それぞれ付き合う事になったわけだ」
「お父さんも、なんか、青春してたんだね。それにモテモテだったんだ!」
「マナミ! 冷やかすなよ。ここまでは、俺たちの青春の記録っていったところなんだが……」

 ケンタは、俺とマナミを見つめると大きく息を吸い込んだ。

「このあと辛いことがおきたんだ。生死に関わる大変な事がおこったんだよ」

 ケンタは目を伏せ、息を吐き頭を抱えた。


(つづく)

※8 大事な人へ  ※9 エピローグ

太陽とヒマワリ トラキチ3

初稿 20140711

※8 大事な人へ

 時計が夕方5時のカネを鳴らした。
 外は、怪しく紫色に光り雷鳴が轟いている。雨は、激しく降っているようだ
 ケンタは、時計を見上げ、ゆっくり立ち上がると、テーブルの上の大きなロウソクに火をともした。ロウソクの炎が大きく揺れ動き、温かな光が部屋いっぱいに広がる。

「アキラ、何か食べるか? 作ってやろう!」
「あ、はい」

 ケンタは、僕の顔をジロジロ見つめると微笑んでつぶやいた。

「アキラ、お前、やっぱりヒカルに似てるな……」
「そ、そうですか?」
「昔話をしていたら、いろんなイメージが蘇ってきたよ。ほんと、ヒカルはモテモテだったからなぁ」
「そうなんですか、僕には、そんな浮いた話は一つもありませんが……」
「うーん。身体の鍛え方と、自分に自信があるかどうかだろう。お前だってその素質はあるハズなんだがな」

 ケンタは、マナミに視線をやると微笑んだ。

「マナミ。今日、アキラをウチに泊めてやってもいいぞ。土曜日だし、どうせ家に帰っても一人だろう。それにこの雨じゃ傘をさしてもズブ濡れになるだけだろうからな」
「え、お父さん、いいの?」
「かまわんよ。ただし、マナミの部屋ってわけにはいかないがな」
「ちょ、ちょっと! お、お父さんなんてこと言うのよ!」

 マナミが、真っ赤な顔でケンタを睨みつけた。ケンタは、ゲラゲラ笑うと、スタスタと厨房の奥へ消えた。

「ねぇ、アキラさん、お父さんなんかおかしくない?」

 マナミは、小声で僕に話しかけてきた。

「昼間とは、なんだか様子が違うね」
「そうよね。もしかしたら、昔の話をしているうちに、お母さんとのことやミナミさんとのトキメキを思い出したのかなぁ……」
「そうかもしれないね……」
「それにしても、4人の関係って本当だったんだね」
「ああ、太陽が南風、南風は風見鶏、風見鶏はひまわりで、ひまわりは太陽のことが好きだったって事だね。僕も最初は面倒な関係だなぁっておもったけど、話を聞いて納得したよ」
「でも、その結果、太陽と南風、風見鶏とひまわり、って2組が生まれたんだから、それはそれでいいんじゃない」
「まぁ、そうなんだけどね……」
「うん? アキラ、何か引っかかることでもあるの?」

 僕は、ケンタがそっと見せてくれたミナミの写真のことが気になっていた。マナミとソックリなミナミ……親子であることは間違いない。
 でも、そうなると、マナミの父親はヒカルってことにならないか? 俺もヒカルの息子となると……俺とマナミは兄妹と言うことになる。
 まてまて、もしそうなら、ケンタが僕に「マナミといっしょに結婚して家庭を持つ事まで考えているのか……」なんて話を言い出すハズがない。何がなんでも分かれろと言い張るに違いない。
 どういうことなんだ……。

「うーん、まぁ、実際にそれぞれ結婚もしているし、子供もいるわけだしね」

 僕は、ミナミの写真のことは、ケンタの話を最後まで聞くまで黙っていることにした。

「ところでさっき話が出た生死に関わる大変な事って何だろう……」
「私はね、やっぱり、アキラのお母さんのミナミさんのことなのかなぁっておもったけど……あ、ゴメンなさい」
「そうだよね……僕もそう思ったよ……」

 マナミは、ゆれるロウソクの光の中でじっと僕のことを見つめている。

「あ、そうだ。マナミはナギナタっていつからはじめたの?」
「うーん、小学校に上がった頃かなぁ、お店の倉庫で遊んでいたら、ナギナタの道具がでてきて興味を持ったんだ」
「道具?」
「でね、お母さんに聞いたら、色々教えてくれて、マナミも道場いってみようと誘われたのがキッカケかなぁ」
「そうなんだ……」

 突然、厨房の方から美味しそうな香りが僕の鼻をくすぐった。

「あ! この香り……」

 マナミは、笑顔でいっぱいになった。

「お父さん! オムライスじゃない! 特別に作ってくれたんだ!」

 ケンタは、ニッコリ微笑むと熱々のピカピカにひかったオムライスを運び、テーブルに並べた。

「今日は、ある意味、記念日だからな」
「え?」

 マナミはキョトンとケンタを見つめたが、ケンタは、ゆっくりと話をし始めた。

~~

「ケンタ。少し休ませてはくれまいか?」
「なんだ、ミナミ。体力ないんだなぁ」
「ナギナタとは、少し勝手がちがうのじゃ、しかたなかろう」
「ケンちゃん。僕もバテたよ」
「ヒカルもか……じゃぁ、ちょっと休憩だ」

 ミナミとヒカルは二人とも汗だくだ。ポタポタと顔から汗がしたたり落ちる。
 アオイが水筒の白湯を二人に差し出している。

 ヒカルとミナミは、高校を卒業すると大学に進学した。
 一方、俺とアオイは、専門学校で料理の勉強に専念することにした。通い始めて驚いたのだが、アオイはお菓子作りにハマり、連日のようにケーキを焼いては二人で試食をしていた。そして、教室と厨房だけの行き来しかない毎日は、俺の筋肉をどんどん脂肪に代えてしまっていったのだ。
 厨房での作業は、かなり過酷で、相当な体力を使う。そこで、アオイとも相談し、体力作りのために二人で軽登山をするトレッキングサークルに入ることにした。以後、毎週土日は、二人でトレッキングにでかけた。四季折々の自然と触れ合うことは、料理の盛り付けや、彩り等も養うことができ、まさしく一石二丁の効果があった。

 ヒカルとミナミが大学を卒業した日、久しぶりにヒカルから「ケンちゃんもアオイちゃんも部屋にこもりっきりだから、少し出かけない?」と電話をもらい、4人でいっしょにトレッキングに出かける約束をした。
 そして、就職先での新生活も落ち着いた6月の土日を使い、1泊2日のキャンプに出かけることになったのだ。

「ちょっと、ケンちゃん! さっきのお昼ご飯たべすぎたんじゃないの?」

 アオイが俺の背中の肉を指で摘むと叫んだ。

「なんだよ、そんなすぐに肉がつくわけないだろう! それに、お前も人のことは言えないだろう?」
「な、なによ。失礼しちゃうわね」

 アオイがプイと横を向いた。

「ケンちゃん、相変わらずだね。アオイちゃんといっしょに、おじさんの店を引き継ぐの?」
「ああ、学校卒業したらそのつもり。うちの親父もだいぶ年食ったからな」
「ヒカル、私はね、パティシエになるんだ。まぁ、ケンちゃんのお店の中に出店させてもらおうかとおもっているんだけど」

 アオイが俺たちの話しに割り込んできたので、俺がアオイを睨んでつぶやいた。

「アオイのケーキは、ちょっと雑だからなぁ、もっと繊細なセンスで取り組んで欲しいものだが……」

 ドス……

 アオイのグーパンチが、俺の背中を襲う。

「おお、相変わらず、アオイ殿のグーパンチは健在でございまするな」
「そうなんだよ、ミナミ。最近アオイのやつ、毎日のようにパンとか練っているから腕力が強くなって困ってるんだよ」
「それはそれは、恐ろしゅうござりまするな」

 ミナミは、クスクス笑うと、アオイもつられて笑いだした。

「もしかして、ケンちゃんの背中は、アザだらけじゃないの?」

 ヒカルがツッコミを入れてきたので、俺は真面目な顔で答えた。

「実は、背中に蒙古斑みたいになっちまってるんだ!」
「ぬぬ! それは、誠にござりまするか?」

 ミナミが、目を丸くして俺をみた。

「ケンちゃん、いい加減にしないと……怒るから」

 アオイがジッと俺を睨みつけた。

「ウソです……」

 俺が、謝ると、ヒカルはゲラゲラ笑った。俺もつられて笑い、ヒカルのザックにはいっている荷物を俺のザックに移した。

「ヒカル、少し荷物をこっちに詰めておくよ」
「ケンちゃん……ありがとう」
「じゃ、もう少し歩こうか!」

 俺たちは、頂上を目指して山を登り始めた。

~~

 頂上の眺めは最高だった。6月は、新緑の緑が鮮やかですがすがしい。
 今回は、普段のトレッキングよりもすこし無理をした感もあったけれど、来てみてよかった。
 ヒカルとミナミも岩の上に座わり、風景を楽しみニコニコしながら話をしている。

 午後2時。
 俺とアオイはテントの組み立てを開始した。山は、ともかく早め早めの準備が肝心だ。そして、今日のこの日のために、あらかじめ下ごしらえした食材を取り出し食事の用意を始めた。
 ご飯を焚き、ポトフをコトコト作り始めた。その横で、アオイが肉の塊をゆっくりと焼いている。

「ケンちゃん、いい香りがしてきたね。もうすぐできる?」
「ああ、こっちはもういいかな。アオイ、そっちはどう?」
「うん、あらかじめオーブンで火をいれてあるから大丈夫。もういいかな」

 午後6時。
 薄っすら空に雲がかかり始め、あたりが徐々に暗くなってきた。
 コッヘルに具沢山のポトフを分け入れ、炊き立てのご飯を食べ始めた。皿にアオイが薄く肉をカットしてはみんなに配った。

「美味しいよ。いやぁ驚いた。やっぱり自然の中で食べるのは格別だね」 
「うむ。ケンタ。これは、実に美味じゃの! あっぱれじゃ」

 ヒカルもミナミも美味しそうに食事をはじめた。ミナミは、食材の下ごしらえのことをアオイに聞きしきりにうなずいていた。俺とヒカルは、ポトフと肉をお代わりしながら、近況報告をし合った。

「え! 高校卒業したときに婚約してたって?」
「そうなんだ、実は、高校の卒業式の当日、ミナミの両親に会いに行ったんだ」

 俺は、驚いてヒカルの顔を見つめた。

「で? ミナミの両親の反応は?」
「ミナミの両親は高齢で、二人とも病院に入院中だったんだ」
「え? そうなのか? それは知らなかったよ。それでどうだったんだ?」
「二人とも喜んでくれたよ。ただ、大学を卒業するまでは学業に専念して、結婚は卒業してからにしなさいって約束をさせられたよ」
「まぁ、社会に出て一人前になれってことなのかな。でも、卒業して就職もしたんだから、いよいよ結婚か?」

 ヒカルは、少し恥ずかしそうにうつむいてつぶやいた。

「ああ、今年の9月には、式を挙げるつもりなんだ」
「そうなのか! おめでとう!」

 俺は、ヒカルと握手をした。ヒカルもニコニコ微笑んでいる。

「ところで、ケンちゃんたちは、どうするんだ? ケンちゃんは、おじさんの店引き継ぐんだろ?」
「まぁ、その予定。店の名前は変更することが条件にしてくれって言われて、思案中なんだけどね。アオイには、まだ話していないんだが、近々、プロポーズするつもりだよ……」
「ケンちゃん、おめでとう。きっとアオイちゃんも喜ぶよ!」

 ヒカルは、俺の肩を叩いた。

「そうそう、アオイのヤツ、実はお菓子作りのセンスは、いいもの持っているんだ。いずれは世界に出して修行もさせたい……」
「それはスゴイ!」
「俺もアイツを応援してやりたいと思ってるんだ」

 俺は、アオイをチラっとみた。アオイはあいかわらず、ミナミとニコニコしながら話し続けている。

 午後8時。
 辺りが真っ暗になり、俺たち4人は、テントで横になった。
 心地よい満腹感と披露感で、あっというまに眠りに落ちてしまった。

~~

「ケンちゃん!」

 俺は、ヒカルの声で目が覚めた。辺りを見回すと、もうすっかり朝のようだが、テントにポツポツと音が響いている。

「あ、ヒカル……おはよう」
「ケンちゃん、参ったよ。朝4時ごろから雨が降り出したんだ」

 俺は、腕時計に目をやった。

「もう6時か……随分寝ちゃったなぁ」
「疲れがでたのかもしれないね」
「でも、この雨じゃ、ちょっと下山は予定を変更したほうがいいかもしれない」
「え? でも、ただ下山するだけだろう?」
「ああ、そうなんだが、見通しも悪くなるし、それに滑ってケガをしやすいんだよ。気温も下がってるようだし」
「そういえば、少し寒いかな」

 ヒカルは両手で自分の腕をさすった。
 俺たちが、ガサガサしていると、ミナミとアオイも起きだした。アオイは、テントの外を眺めると、俺のほうを心配そうに見つめた。

「ケンちゃん。いまラジオで天気予報聞いてみたんだけど、これからもっと酷くなる可能性が高いみたい……」
「なぁ、ケンちゃんどうする? 下山は3時間くらいだろう?」
「そうだなぁ。天気がこれから酷くなるのを考えると、急いで下山のほうがいいかもしれないなぁ」

 滑って転んでケガをすることだけを注意すれば、この程度の雨なら大丈夫だろう。登山道も迷うこともない。
 俺は、アオイを見つめ話をした。

「ヒカル達は、ともかく身軽になって下山をしよう。ただし、焦らない事と、調子が悪くなったら、これを頭からかぶって休憩する事。絶対無理しちゃダメだ」

 そういうと、俺は小さくたたまれたナイロンシートとピカピカアルミシートをヒカルのザックに詰めた。

 午前7時。
 俺とアオイは、手際よくテントを畳み、下山の準備を始めた。
 
「視界が悪くなるかもしれないから、念のために、アンザイレンしておこう」
「アンザイレン?」
「ああ、ザイルをつないでおくんだよ。まぁ、電車ごっこって感じかな」

 俺は笑いながら、ザイルを取り出し、一人ひとりのカラナビにザイルを装着した。そして、アオイ、ヒカル、ミナミ、ケンタの順番で山道を降りはじめた。

~~

 かれこれ1時間くらい歩いただろうか。何度か休憩を繰り返し、その度にアオイが用意した白湯を飲んで温まった。雨は相変わらず降り続き、時々雷鳴も轟きはじめた。
 下山ルートには、途中3箇所ほど、丸木を数本束ねただけの粗末な橋で、小川を渡らなければならない。
 1度目はなんの問題もなく無事にわたる事ができた。

 そして2度目の時にアクシデントが起きた。
 すでに、アオイとヒカルは、先に橋を渡り終えていた。次は、ミナミの番だ。俺はミナミの腰につけたザイルを握る。

「ミナミちゃん、気をつけて、その丸木橋すべるから……」

 アオイがミナミに声をかける。

「ゆっくりでいいからね」

 ミナミが橋に足をかけ慎重に渡りはじめた。俺は、ザイルを束ねて持ち、ミナミが滑っても手繰れるようにピンとザイルを張っている。そして、ミナミが橋の真ん中まで来た時、突然、小川の水かさが増えはじめ、あっという間にミナミの足元まで水位が上がってきたのだ。

「きゃぁ」

 ミナミは、驚いてしゃがむと、丸太にしがみついた。

「まずい!」

 俺は、とっさに手に持ったザイルの束を地面に落とし、背負った荷物を向こう岸へ放り投げ、アオイに叫んだ。

「ミナミは俺に任せろ。アオイ、ヒカルのことを頼んだぞ! 安全なところでビバークだ! いいな!」

 アオイは、俺のザックを抱えてうなずいた。
 次の瞬間、濁流がミナミを飲み込んだ。足元に置いたザイルが次々、水の中に飲み込まれていく。
 俺は、自分の身体にザイルをしっかり巻きつけると、濁流の中に飛び込んだ。

「ミナミ!」
「ヒカル! ダメ、ここはケンちゃんに任せて!」

 ヒカルとアオイの声が聞こえた。
 しかし、すぐに、激しい水の流れに引きずり込まれ、ボコボコと水の音がする。俺は、濁流に逆らわず、下流にむけて流されながらもザイルをゆっくり手繰り寄せた。
 おちつけ! 大丈夫。ともかくミナミを手繰り寄せるんだ……。

 二度、三度と岩の間を滑りぬけた。俺は必死にザイルを握り締め手繰った。

「ミナミ?」

 前方にミナミが着ていたコートが見える。もう少し……と思った瞬間、いきなり俺の身体が宙を舞った。

「え!」

 次の瞬間、水に叩きつけられ、水の底へ深く潜っていく。水底面に足がつき、フワッと身体が静止した。
 ザイルを手繰ると、水の中にミナミの姿が確認できた。

「ミナミ!」

 俺は、ミナミのコートを掴むと水面を目指した。

「くはぁぁ……」

 水面から顔を出すと、肺に空気をめいいっぱい吸い込んだ。そして岸辺にミナミを引きずりあげた。

「ハァ、ハァ、ミナミ! 大丈夫か?」
「……」
「おい! ミ、ミナミ?……」

 ミナミは、意識がない。あわてて、ミナミの口に手かざしてみたが、息が止まっている。驚いて、首筋をさわってみると、かすかに心臓の鼓動は確認する事ができた。

「ミナミ、こんなところで死ぬなよ」

 俺は、岩に寄りかかり足を開きくと、仰向けにしたミナミの首を太ももの上に載せ、気道を開かせた。そして、鼻をつまむと唇をピッタリ合わせ、息をゆっくり吹き込んだ。
 ミナミの胸が膨らむ。口を離すと、ゴボゴボと水が飛び出してきた。ミナミの顔を横にして水を出すと、再び息を吹き込んだ。数回繰り返すと、ミナミの意識がもどった。

「ゲホゲホ……」
「ミナミ大丈夫か?」
「あ、ケンタ? 私……どうなったんだっけ?」
「大丈夫。たいした事はないよ。ゆっくり、落ち着いて呼吸をするんだ!」

 ミナミは、俺を見つめ、俺にしがみついてきた。

「どう? 手足痛いところはない?」
「うん。だ、大丈夫」

 俺は、ミナミの無事に安堵して、周りをみまわしてゾッとした。
 なんと、背後には5メートル以上の滝が轟音をたてていたのだ。

「あそこから、落ちたのか?」

 俺は、ミナミを岩に座らせると、雨をしのげる場所を探した。
 すると、滝の裏側に3メートルくらいの深さの洞穴があるのが見えた。俺は、ミナミを背負い洞穴に入ると乾いた小石の上にミナミを横たわらせた。

「ケンタ。ありがとう……」
「ミナミ、ゴメン。俺の判断が甘かったよ」

 俺は、ウエストポーチから、ビニール袋に入っているトランシーバーを取り出した。

「アオイか?」
「あ、ケンちゃん! 大丈夫?」
「ああ、なんとか、ミナミを確保した。無事だ」
「よかった! よかった!」
「アオイ、下山するのには、たしかもう一度、小川を渡るはずだ。でも、この雨で水量が増えているから、しばらく、ビバークして様子をみよう」
「うん、わかった」
「テントを組み立てて、しっかりやってくれ。ところで、食料はどうなってる?」
「うん、だいじょうぶ。丸1日ぐらいは確保できそう。そっちは?」
「こちらは、ウエストポーチの非常食くらいだけど、うまく分ければ1日は耐えられそうだ」
「ビバークできるところはあるの?」
「ああ、滝の裏に洞穴があったからそこで休んでいる。ごめん、ヒカルに代わってくれ」
「うん」

「ケンちゃん?」
「ヒカルか? ミナミは、ケガもなく大丈夫だ」
「ありがとう」
「ヒカル、お願いがある。ともかく濡れた服は脱いで乾かすんだ。特にアオイは、低体温症になりやすい。6月でも濡れた服のままだと身体のコア温度がさがる。特に35度以下になると危険なんだ。急に無表情とかになったら、要注意。身体を温めてやってくれ」
「わかった。さっき渡されたピカピカのシートにくるまればいいのかな」
「そうそう、ともかく、アオイのこと頼んだよ」
「わかった。ケンちゃん、ミナミのこと、よろしく頼むよ」
「ああ、ちょっとまって」

 俺は、ミナミにトランシーバーを渡した。

「あ、ヒカル? 私は大丈夫。ケンタが助けてくれた……。うん、そうだね……。わかった」

 ミナミは、ニッコリ微笑むとトランシーバーを切った。

~~

「ミナミ、服を脱いで乾かそう。濡れたままだと、どんどん体温が下がって凍死してしまう」
「凍死?」
「ああ、低体温症といって、とっても怖いんだ。俺が後ろを向いているから、裸になって、このシートを身体に巻くんだ」

 アルミシートを手渡すと、俺は後ろを向いた。
 ミナミは、服を脱ぐとガサガサとシートを身体に巻きつけた。

「もういいよ」
「よし。もし、寒いって感じたら、必ず俺に言うんだ。いいね」

 ミナミがうなずくと、俺も濡れた服を脱ぎだした。

「ケンタの分のシートはないの?」
「ああ、でも、このビニールの簡易テントを被っておくから大丈夫だ」

 と、突然、外のほうからバラバラと大きな音が聞こえてきた。

「な、なんだ?」

 俺は、洞穴から外を見ると、ゴルフボール大の雹がバラバラと降っているのが見えた。そして、あっという間にあたり一面、真っ白な雹で埋め尽くされていく。

「雹だ。こんな時に……ヒカルたち大丈夫かなぁ」

 ミナミは、不安そうに俺の顔を見つめた。

~~

 どれだけ時間がたっただろうか。俺は、寝てしまっていたようだ。ガサガサという音で、目を覚ました。

「ミナミだいじょうぶか?」
「……」
「おい……ミナミ?」

 急いでミナミの首筋に手をやると、かなり体温が低い。ミナミは、目がとろんとして、表情がない。

「ちきしょう、ミナミ……」
「……」
「ミナミ、ごめん、許してくれよ」

 俺は、ミナミのアルミシートをとりあげ、ミナミと裸のまま抱き合った。そしてアルミシートに二人で包まり、さらにビニールの簡易テントを頭からスッポリ被った。

「ミナミ、ミナミ……」

 俺は、懸命にミナミに呼びかけた。

「あれ、ケンタ? どうしたの」

 ミナミは、トロンとした目で俺を見つめている。

「ケンタ。温かいね……」
「ミナミ、おい、ミナミ……」
「うん……。なんだか疲れちゃった」
「だめだ! ともかく楽しい事を話そう」
「うん……」
「なぁ、高校の時、ヒカルの告白を受けてからどうした?」
「うん?……なに?」
「おい、ミナミ、ミナミ!」
「私、なんだか……眠くなってきたよ」

 俺は、思いっきりミナミを抱きしめ、身体を密着させた。背中に回した手でミナミの背中をさすった。そして、全身の筋肉に力を入れ、ブルブルと筋肉が震わせ、熱をつくっては抱きしめた。

「ミナミ、こんなところで、お前を死なせるわけにはいかないんだよ。お前、ヒカルと結婚するんだろ! これから、いっぱい、いっぱい想い出をつくるんだろ! ミナミ、頼む! こんなところで死なないでくれよ」
「うん……これからだよね……」
「そうだ! これからだ! 俺のうまい料理を食わせてやるよ。何がいい?」
「ビーフシチューが食べたいな。熱々の……」
「よし、必ず作ってやる。だから、もうすこし頑張ってくれ!」

 懸命に俺は、ミナミに話し続けた。

~~

 やがて、辺りは真っ暗になった。心なしか滝の音も静かになったような気がする。
 俺は、ウエストポーチから携帯食料を口に入れ噛み砕いた。そして、ミナミの口の中に口移しで押し込んだ。

「うぐぐ……」
「ゴメン、今は、これしか食べ物がないんだ。ともかく、飲み込むんだ」
「ケンタ……」
「どうした? ミナミ……」
「ケンタ。寒いよ……」

 俺は、再度、懇親の力を込めて全身に力を入れた。筋肉がプルプルと振るえ熱くなる。ミナミをしっかり抱きしめると背中をさすった。

「私……このまま、死んじゃう?」
「だから、死なせるわけにはいかない! ヒカルが悲しむだろう」
「ケンタ。ヒカルのこと、すごく大事なんだね」
「ヒカル? ああ、アイツは俺の大事な友達だ。あいつは俺をいつも助けてくれた。だからアイツが悲しむ姿は見たくないんだ」
「ミナミは、ヒカルも好きだけど、ケンタも大好き。ミナミの大事な友達だよ」
「ああ、俺もそう思ってるさ」
「ほんと……に?」

 ミナミが、俺に身体を預けてきた。

「ミナミも、俺の大事な友達だよ」
「じゃ、ミナミのお願いも聞いてくれる?」

 ミナミは、そっと俺の耳元に口を当てるとつぶやいた。俺は、そのつぶやきを聞いて驚いた。

「バ、バカ! そんなことできるわけないだろう」
「私、このまま死にたくない……」
「だからって、俺に、お前の初めてを捧げる事はないだろう」
「まだ、意識があるうちに、ケンタお願い……」
「ダメだ……バ、バカやめろ!」

 ミナミは、腰を浮かせると、一気に俺と身体を重ねた。冷たいものが俺の下半身を包み込んだ。

「おい……」
「ケンタ……私の初めてのヒトになってくれてありがとう」

 ミナミは、ポロポロ涙を流すと俺にしがみついた。

「ケンタは、ミナミの初恋のヒト。ミナミを変えてくれたヒト。ミナミのことを助けてくれた恩人。ミナミの大切な友達……」

 ミナミは泣きながら俺を抱きしめてくれた。

~~

 俺は夢をみていたのか? それとも死の世界? まぶしい光が俺を包んでいる。

「ケンタ! 起きて!」
「ミナミ……? ミナミ!」

 目を開けると、ミナミがニコニコしながら、俺の服を渡してくれた。

「あ、ミナミ、大丈夫か?」
「うん……大丈夫。外は、すっかり晴れてるよ」

 俺は、滝の合間からみえる青空をみてホッとした。
 いそいで、ウェストポーチからトランシーバーをとりだすと、アオイを呼び出した。
 しかし、なかなか応答がない。まさか、アオイになにかあったんじゃないか? 俺は不安になった。

「あ、ケンちゃん?」
「あ、ヒカル。そっちはどうだ?」
「それが、アオイちゃんの身体が冷たくなって……」
「え!」

 ゴソゴソと布が擦れるような音が聞こえた。

「ケンちゃん、私はだいじょうぶ!」
「ああ、アオイ、おまえ低体温になったのか?」
「うん……でもヒカルくんが助けてくれた……」
「そうか……」
「よし、とりあえず、腹ごしらえしたら下山ルートを進むんだ。俺たちは、川をくだって、最後の丸木橋のところまででるよ」
「うん……」

 1時間後、俺たちは合流し、残った食料を食べると無事に下山することができた。

~~

「お、お父さん?」

 マナミが、じっとケンタを見つめた。

「なんだ?」
「ミナミさんと身体を合わせたってってどういうこと?」
「……」
「ヒカルさん、それを許したの? ねぇ!」

 マナミの口調が厳しくなる。

「ああ、ちゃんと話をしたよ」
「で、ヒカルさんは、それを許したの?」
「……」
「ねぇ! お父さん、いくらなんでもそれはヒドイんじゃない!」

 ケンタは、腕組みをしたままロウソクの炎をみつめていた。

「ああ、するしかなかった。ミナミは、半ば諦めていたのかもしれない……この話は、9月の挙式の時にヒカルにしたんだ」

 僕は、ケンタが拳を強く握っているのを見つめていた。

「いいか、マナミ、よく聞くんだ!」

 マナミは、唇をかみ締め、涙を浮かべケンタを睨んでいた。

「ヒカルの挙式の時、ヒカルが相談してきた。ミナミは小さな命を身篭っているってな」
「え?」
「あの山での事件があってから、ヒカルも俺もミナミやアオイとは一切、性交渉はなかったんだ」
「え! そ、そんな……」
「ヒカルは、俺に掴みかかってきて喧嘩になった。でも、そのときアオイが『私もそうなの』と泣き叫んだんだ」
「えええ?」
「ヒカルも俺も、呆然となってアオイのことを見つめたよ。だが、俺には、おおよそ想像はついた」
「想像?」
「ゴルフボール大の雹が降ったとき、アオイのビバークしているテントも損傷を受けるだろうと思った。案の定、後でテントをみたらそこら中に穴があいていたよ」
「それって……」
「ヒカルは、懸命に俺の大事なアオイを生死をかけて守ってくれたんだよ……」
「でも……それとこれとは……ちがうんじゃない! なんで、そんな時にエッチが出来きるのよ!」

 マナミは、ブルブル震えてケンタに詰め寄った。
 ケンタは、マナミの両肩を掴むと叫んだ。

「ミナミは、すごくかわいい女の子を産んだ。そして、アオイは、元気な男の子を産んだんだ」

 僕も、マナミも全身から力が抜けてしまった。

「ウソ……ウソよ、そんなのウソ……」

 マナミは、ポロポロ涙を落とした。

「マナミは、俺とミナミの子供だ。そしてアキラ、お前は、ヒカルとアオイの子供なんだよ」

 僕は、ミナミにそっくりなマナミの写真の意味も、そして幼い頃アオイがしきりに僕の面倒をみてくれたことも理解した。
 ケンタは、やさしくマナミを椅子にすわらせた。

「俺は、その事が分かったとき、ヒカルに結婚を取りやめてくれと頼んだ。子供が、辛い思いをするだろうと思ったからだ。でもミナミはガンとして言う事を聞かなかった」
「ど、どうして?」
「それは、ミナミの身体に問題があったんだ」
「問題?」
「ミナミは、先天的なものがあって子供を産めるかどうかとても危険だったらしい。ヒカルは、驚いて随分ミナミを説得したんだ。でも、ミナミは、自分の命と引き換えでも、この子を産みたいと言い張った」

 ケンタは、拳を机に叩き付けた。

「ヒカルは、ミナミの出産ときも仕事にでていた。何が何でも稼ぐんだといっていた。それで、俺が隣でミナミの手を握っていた。そして、マナミお前を産んだときミナミは、嬉しそうに微笑んだ。その顔は今でもハッキリ覚えている!」

 大きく息を吐きケンタは、マナミを見つめた。

「その後2時間後にミナミは息を引き取った。俺は、泣いた。大声で泣いたよ。隣にいるマナミお前といっしょにな……」

 突然、窓の外に閃光がひかり、ものすごい雷鳴が轟いた。

~~

 ケンタは、背面の書棚から例のミナミの写真を取り出した。

「これがミナミだ」

 マナミは、ジッとその写真を見つめると、涙があふれ出てきた。

「2人が生まれたとき、血液検査をしたんだ。ヒカルはA型、ミナミはO型、俺はB型で、アオイはAB型だった。生まれた男の子は、A型。女の子はB型だ」

 ケンタは紙に図を書いて説明をする。

「A型のヒカルとO型のミナミの間に、B型の女の子が産まれるのはおかしい。そこで、A型の男の子……。B型の俺と、AB型のアオイの間にB型の女子が産まれるのは何ら問題がなかった」
「ちょ、ちょっとまってください」

 僕はケンタに叫んだ。

「でもこれじゃ、母親が違うじゃないですか。これじゃ赤ちゃんを交換したのと……。ま、まさか!」

 ケンタは、目を伏せた。

「事情を担当の先生に相談したんだ。そして内密に院内で赤ん坊の取り違いをしたことにした。母子手帳も作り変えた」
「そ、そんな……」
「そのことは、俺も、ヒカルもものすごく後で後悔をしたよ」
「後悔?」

 ケンタは、マナミの手を握りしめた。

「ヒカルは、当時はよくここへやってきていたんだ。だが、マナミが成長をするたびに、どんどんミナミにソックリになっていくのが相当堪えたんだろう。無邪気なマナミが、ヒカルに手を伸ばすたびに、ヒカルは後悔をしていたよ。それだけ、アイツはミナミのことを愛していたんだろう」
「で、でもそれなら、写真を残しておいてもよかったんじゃないですか!」

 僕が、テーブルの上のミナミの写真を見つめて叫んだ。

「アイツは、アキラ、お前を育てなければならなかったんだよ! 仕事も内勤に切り替え、毎日、お前の世話をしていた。ミナミの写真を見ると、無邪気なマナミを思い出し仕事も手もつかないと、すべての写真を処分したんだ。ちなみに、俺は、マナミが自分そっくりのミナミの写真に関心を持つ事が怖かった。だから処分した」
「……」
「お前が、立ち上がり、言葉をしゃべり……その度にヒカルは、手紙を書いて寄こした。だが、小学校に上がった時……俺に黙って、アオイがヒカルのところでアキラの面倒をみていることを知って俺は頭に血が昇ってしまった」
「え?」
「今、考えれば、なんでそんな大人気ないことをしたのかと思うが、当時の俺は、ヒカルに、アオイもマナミも奪われてしまうんじゃないかと思い込んでしまっていたんだよ。俺も、余裕が全然なかったんだ、あの時は」
「……」
「それで、俺はヒカルのところへ乗り込んでいったよ。そうしたらヒカルが、『子供が大きくなったら、かならずここですべてを話そう』と提案をしてきた。しかも、それまでは、一切関係を断ち切ろうと言い出した」

 ケンタは、大きく息を吐いた。

「そして、お前が、ヒカルの手帳をもって現れたってわけだよ。これが真実だ」

 僕は、ケンタをジッと見つめたまま呆然としていた。

「ぼ、僕には、まだ受け入れることは出来ません。まだ……」
「そうだろう。俺も、今、今までの話をヒカルならどうやって話をしていただろうかと考えているところだよ」
「……」
「アキラ、お前には、ヒカルとアオイの血が脈々と流れている。ヒカルの自慢の息子に間違いはない。おそらく、今日のことをアオイが知ったら、お前のことを思い切り抱きしめるだろう。お前の産みの親だからな……」
「そ、そんな……」
「だが、ミナミの事も忘れないでほしい。ヒカルといっしょに夢を追いかけ色々なことにチャレンジしたがっていたミナミのことも覚えておいて欲しい。だからこそ、マナミを大事にしてほしいんだ」
「え!」

 僕は、マナミをチラっと見つめた。

「マナミは、俺とミナミの血が流れている。ナギナタもミナミ譲りの腕前だ。少しばかり気の強いところと一途なところがあるが、俺の……俺の自慢の娘だ」
「お父さん……」

 マナミは、ケンタの手をギュッと握り締めた。

「さぁ、すっかり冷めちまったが、オムライスをたべよう。俺のは冷めても美味いんだ」
「は、はい」

 オムライスは、甘く、酸っぱく、やさしさが溢れていた。僕は、スプーンで一口食べるたびに、涙があふれてきた。
 どうして泣いているのかわからない。なぜだろう。
 僕は、ケンタを見つめた。
 ケンタは、アオイのことを心底愛し、マナミを大事に育て、ヒカルのためにミナミも生死をかけて守った男だ。そして自分の娘に話す事もできないような出来る事なら忘れてしまいたい過去を、ヒカルとの約束のためにずっと頭に刻みこみ続けたのだ。
 このオムライスが記念日だけに作っていたのは、その事を忘れないために自分を戒めていたのかもしれない。
 僕には、柔らかな黄色い玉子がやさしく、真っ赤なチキンライスを包み込むオムライスの味は、ケンタのすべてが詰っているように思えてならなかった。


※9 エピローグ

 3月20日。春分の日。気持ちよいほどの快晴だ。
 それにもかかわらず、カフェレザミは、本日休業の看板がでていた。
 昼の12時キッカリにテラスに3人の影があった。
 僕は、「宝の地図」の暗号をもう一度読み直した。

 白と黒の世界が同じくする時
 風見鶏は玉子を産む
 白い世界の真ん中で
 その赤い玉子を探せ

 玉子は大きな木に転がる時
 その軌跡をたどれ
 3つの足跡の先に宝が眠り
 鍵は暗闇の中から探しだせ

 暗闇は黒き世界ではない
 真実の記録の中にある
 手で触れ感じよ
 必ず鍵を見つけ出せ

 白と黒の世界は、昼と夜の世界という事は分かっている。それが同じくする時は、春分の日か秋分の日だ。
 風見鶏が赤い玉子を産むというのは、カフェの塔の上の風見鶏の台座に埋め込まれた赤いガラス球の影を指す。

「これか? この赤い光」

 ケンタは、風見鶏の足元の赤いガラス球が、地面にくっきりと赤い影を落としているのを指差した。
 そして、僕は、地面に印をつけると見守り軌跡を追った。そして、僕が3歩目をシャベルで掘り返した。

「な、何もない。3つの足跡の先……あ、3歩じゃなくて、靴跡3つの先かもしれない」

 あわてて、少し手前のところを掘り出すと、ガチっと手ごたえがあった。

「あ、あった!」

 僕と、ケンタで懸命に地面を掘り返してみると、金属製のアタッシュケースがでてきた。

「こんなアタッシュケース、子供のころには埋めた記憶がないんだが……」

 ケンタがアタッシュケースを抱え、土を払った。

「しかし、頑丈そうだな。鍵がしまっているようだが?」
「ええ、あとは鍵を探すんですが、暗号には『鍵は暗闇の中 でも 暗闇は黒の世界でない 真実の記録の中にある』とあります」

 僕が、暗号解読文を読み上げると、マナミが、僕の顔を覗き込んだ。

「あ!『真実の記録の中にある』って、それはあの黒い手帳のことじゃない?」
「そ、そうだ!」

 僕は、あわてて手帳を取り出すと、そっと手帳自身に指を這わせた。

「あ!」

 僕は、手帳の裏表紙に膨らみがあることに気が付いた。慎重に手帳の裏表紙をはがすと、鍵が入っている。

「あ、あった! 鍵だ……」

 僕が、鍵を箱に差し込み、回すと、カチリと乾いた音がした。そして、ゆっくり、蓋をあけてみると、カチンコチンになった真っ白な粉が詰っていた。

「これは、塩だな。おそらく、乾燥剤の代わりだろう」

 ケンタが、粉をなめるとつぶやいた。
 すでに、白い粉はカチコチに固まってしまっていた。ケンタが、シャベルで白い粉を割ってみると、2つの包みが中から出てきた。一つは古めかしいお菓子の缶。もう一つは布の包みだ。

「この缶は覚えている。俺とヒカルの宝物入れだ」

 ケンタが中をあけると、王冠やビー玉、ひまわりの種、そして、古い写真が数枚はいっている。

「あはは、なつかしいなぁ。アオイのやつが見たら驚くだろうな。このハダカの子供の写真は、アオイだからな」

 ケンタはニコニコしながら、やさしく缶に写真をもどした。そして、もう一つの布の包みを開くと、ケンタの顔色が変わった。

「ヒカル! お、おまえってやつは!」

 ケンタは、空を見上げたまま、嗚咽をもらし涙がボロボロ頬を伝わった。
 その包みにはアルバムがはいっていたのだ。そして、処分したはずのミナミの写真が、たくさん挟まっていた。

 学校の制服姿でニッコリ微笑むミナミ。
 ナギナタを構えるミナミ。
 ヒカル、ケンタ、アオイ、ミナミのふざけたポーズでとった高校時代の写真もある。
 結婚式の緊張気味のヒカルとミナミの写真。
 病院でヒカルとミナミが並んで笑っている写真。
 アオイとミナミがお互いのおなかをさすって微笑んでいる写真。
 僕は、なぜだか、涙が止まらなかった。

「こ、この写真……」

 マナミが、一枚の写真を取り出した。
 ヒカル、アオイそしてケンタが椅子にすわって男の子と女の子の赤ちゃんを抱いて笑っている写真だ。
 マナミが写真を裏返すと何やらメモが書かれていた。
 僕は、そのメモを読むと、真っ青に晴れ渡った空を仰ぐと大声で叫んだ。

「父さん……なんでだよ! なんで黙っていたんだ! 僕は、もう、父さんには会えないじゃないか! もう、父さんと話ができないじゃないか! なんだよ……なんでだよ……」

 僕が叫ぶと、マナミがそっと背中から僕を抱きしめてくれた。
 そのメモには、こう書かれていた。

「俺たちの、大事な大事な……太陽とヒマワリ……この2人が丈夫で幸せでありますように……ヒカル」

 カフェの庭の大木には、サクラのつぼみが大きく膨らんでいた。そして、その枝が静かに揺れる。
 爽やかな南風が、そっと僕とマナミをやさしく包みこみ嬉しそうに吹いていた。 

(了)

太陽とヒマワリ

最後まで、お読みいただきありがとうございました。

今回は、幼馴染と親子の絆というテーマで描きました。
すべてを信じ、認め、許せることができる関係を考えて物語を描いています。
また、今回、魔法も、謎のアイテムも出さないという縛りしていますので、カテエラの烙印を捺されるのは覚悟の上です。

かなり厳しい表現もありますが、どうぞ、ご容赦ください。

トラキチ3

太陽とヒマワリ

大嫌いな父が残した手帳。震える文字でメモが添えられていた。 ――身勝手なお願いだが、父さんの大事な人に、俺の想いを伝えてほしい―― そして、手帳には一枚の古ぼけた白黒写真と、稚拙な地図、そして暗号化された数字の羅列が続いていた……。

  • 小説
  • 長編
  • 青春
  • 恋愛
  • ミステリー
  • 青年向け
更新日
登録日
2014-06-23

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. ※1 黒い手帳
  2. ※2 Cafe Les Amis(カフェ レザミ)
  3. ※3 謎の暗号
  4. ※4 謎の地図
  5. ※5 幼馴染
  6. ※6 水色の想い出
  7. ※7 風香る夏の日
  8. ※8 大事な人へ  ※9 エピローグ