吹雪となれば 第四章

吹雪となれば 第四章

九藤 朋

時は日本・中世戦国時代。出雲大社御師の娘・若雪と堺の会合衆の甥・嵐の物語。諸研究論説を参考にした、時代物フィクションです。よろしければお楽しみください。

兄妹

第四章   兄妹

あなたが
照らした道は
花の色
ともに辿ろう
あの灯まで

       一

 堺への出立を控えた前の晩、若雪らの旅立ちの名残を惜しんで、元枝の館ではささやかな宴が催された。
 月の、淡く白く輝く、明るい晩であった。
 座敷の上座に座る元枝を挟んだ席の片側には若雪と嵐、そして堺より来た護衛の者らが並び、向かいには元服を終えたばかりの元枝の嫡男、十三歳になる長親(ながちか)と元枝の近臣が居並んだ。元枝の傍らには酒器を携えた元枝の妻・八重花が控えている。元枝の後ろに飾られている彼の甲冑は、順当に行けばいずれ嫡男である長親に譲られることになるだろう。
 元枝の館に滞在の間、若雪は長親に請われ、手の空いた時にはその剣術指南をよく務めた。
 長親は若雪に対して大いに尊敬の念を抱き、またよく懐いてもいた。山田正邦の件に一応の決着をつけ、若雪一行の堺への出立の日取りが決まった際、元枝が若雪の素性を妻と長親、そして近臣に語ったのちも、その態度が変わることは無かった。
 正邦と対峙した晩の翌日、始めに若雪から山田正邦に関する顛末を聴いた元枝は、若雪の下した決断に対し、何と評するでもなくただ一言「左様か」、とのみ言った。
そもそも、余人の口を出すことではないとも考えていた。
(それで、良かったのであろうな)
 若雪の静かに澄んだ表情を見て、元枝はそう思った。また若雪が決断を下すにあたり、傍らにいた嵐の存在が少なからず影響を及ぼしたであろうことも、なんとなく察せられた。
 月が登るころにはゆるゆると宴が始められ、穏やかさと親しみのこもった惜別の思いが、しみじみとした空気となり座敷を満たしていた。
 嵐は自らの前に据えられた白木の膳を目にして、相好を崩した。
「山女(やまめ)ですか」
「うむ。今日は市で、運良く新鮮で大振りなものが手に入った。江の川の恵みよ。嵐どののおられる間に供することが出来て良かったな」
 元枝が人の良い笑みを浮かべ答えた。目上の者より先に、箸を持つのは不作法とされる。よって元枝は、すぐにも食べたそうな顔をしている嵐のため、早々と箸を手にした。
 素材の味がそのまま活きるよう、単純に塩焼きして出された山女に、嵐は舌鼓を打った。膳には他にも茄子と瓜の香の物、なますや枝豆、鮑(あわび)、冬瓜の羹(あつもの)、鯉汁、菜飯などが並んでいる。胡桃や豆飴などの菓子まで用意されている。心尽くしの品々だった。
「若雪どのは、次はいつ石見に参られるのですか」
 長親の問いに、八重花が注いでくれた酒を少し口に含んでから、若雪は小首を傾げた。とりあえず堺に着くまでは男装を通すことに決めた為、その姿にも違和感は無い。傍目からは、美しい若武者が楚々とした奥方より酌を受けているようにしか見えない。居並ぶ人々が目を細める麗しい光景であった。
「さあ、それは…。次はいつになるものやら、今はまだわかりません。次に長親どのにお会いした時、お手合わせ願うのが楽しみですね」
 石見銀を堺へと運搬する作業の目途は立った。銀の運搬に関し何かしら異変が起こりでもせぬ限り、若雪が石見へと再び来る可能性は、あまり高くないものと思えた。それゆえ若雪は長親に対し、曖昧にぼかした返答をした。長親は勘が良い。
「もうお会いすることは叶わぬのですか?」
 悲しそうな面持ちで呟く長親を若雪は哀れと思ったが、迂闊な口約束をすることも出来なかった。
「そのように決まった訳でもありません。縁があれば、いずれまたお会い出来ますでしょう」
 若雪は、努めて優しい声音でそう告げた。その言葉が実現する可能性は極めて低いが、項垂れる長親をそのままにしておくことは忍びなかった。
 気が付くと元枝がその遣り取りを面白そうに見ている。座敷を満たす他の人間の耳目(じもく)も、なんとなく若雪と長親の会話に向いていた。
 長親は暫く押し黙っていたが、やがて思い切ったように顔を上げて言った。
「では。――――では、若雪どの。いずれまたお会いできた折には、私の妻となってくださいませぬか。それまでに、私は若雪どのの剣の腕を、越えて見せまするゆえ」
(おやおや)
 元枝は息子の突然の求婚に面食らいながらも、面白く事態の経過を眺めた。
 この美しい滞在客に、まだ年若い息子が恋慕の念を抱いていることはそれとなく察していた。我が息子ながら目が高い、という些か親馬鹿めいた感想も持っていた。
 男色が当然のようにまかり通った時代である。
その恋慕は若雪が女性であることを隠していたころから、密かに育まれたもののようであった。
 元枝が横目で窺った嵐は、その成り行きに頓着することなく、若雪の隣で膳に乗った料理を黙々と口に運んでいる。
 若雪は穏やかに答えた。
「長親どののお気持ちが変わらず、真に私よりもお強くなられましたなら、考えさせていただいてよろしいですか」
(―――これは無理だな)
 若雪は真面目に返答したつもりだろうが、元枝はその言葉を聞いて思った。
 反して、長親の顔はぱっと明るくなった。
「承知した!」
「…長親よ、若雪どのよりも強うなるということは、並大抵のことではないぞ。なにせ若雪どのの前に、この父を越えねばならぬ」
 元枝はのんびりとした声で一応、釘をさす。父親としての務めだった。
「…励みまする」
 長親が真剣な面持ちで元枝に答えた。
「ほな、そん時が来たら若雪どのの前に、この嵐とも立ち合うてもらえんか、長親どの。俺は若雪どのを守る命を叔父より受けとるさかい、そう簡単に嫁に取られる訳にもいかんのや」
 それまで、まるで若雪と長親の会話に無関心と見えた嵐が、不意にそう言った。
 相変わらず目は膳に向いたまま、料理に伸ばす箸すらも止まらないままだ。行儀が良いとはとても言えない。
 そんな命を受けているとは初耳だが、と元枝は盃を口元に運びながらやや呆れた。
(名目を言うものだ)
 やれやれと思ったが、何も言わない。
「あいわかった!それでは私は、父上と、嵐どのと、若雪どのを上回る武芸者となって若雪どのを娶ります!」
 果敢に言い放った長親の言葉に、座敷に集う元枝配下の面々は微温(ぬる)い微笑を浮かべた。未だ自分の発言が現実化するまでの困難さを解し得ない長親の幼さを、彼らは一様に寛容な眼差しで見守っていた。それと言うのも、嵐の腕前は定かではないのでともかくとして、元枝の近臣の多くが元枝と若雪の立ち合いを何度も目にしたことがあった為だ。目にした者は皆一様に若雪の剣捌きに目を見張り、固唾(かたず)を呑んだ。日頃より主の武勇を自負する彼らにとって、その主が立ち合いにて一本も取れないという事実は驚愕の一言に尽きた。更に若雪が女子と知らされたのちの驚きは、その比ではなかった。
 さて若君も大変なお方に懸想なされたものよ、という思いが彼らの顔には出ている。
 万一長親が元枝を凌ぎ、嵐も若雪をも凌駕する日が来たとしても、小笠原家の人間の婚姻はそう身軽に決められるものではない。若雪についても同じことが言えた。宗久が、おいそれと若雪を嫁に出すとは思えない。それどころか長親が精進する間に、他所(よそ)へ嫁がせる可能性も十分にあった。そもそも武器商人としての顔も知られた今井宗久の養女と、小笠原家の人間の婚姻など、毛利が許す筈も無い。若雪が身元を偽って小笠原家に滞在したのも、毛利にその存在を知られ行動を阻まれるのを危惧した為、という理由が大きかったのだ。惚れたというだけではままならぬのが、当世の婚姻だった。
(哀れよなあ)
 元枝は父として、息子の初恋の儚さを不憫に思った。
 その時、嵐が奇妙なものを見る顔で、しげしげと一つの皿を凝視しているのが目に入った。
 その目の先には、胡麻で和えた牛蒡(ごぼう)が載った皿がある。
「いかがされた、嵐どの」
「いや…。この和え物も、奥方の差配で作らはったんか?」
 問われて元枝も自分の膳を見る。
 確かに見覚えのない料理が並んでいる、と元枝も最初にその一品を見た時に思ったのだ。
 元枝の館は多くの家人を抱え、食事の支度も彼らの仕事の内である。しかし元枝の妻の八重花は元来料理好きであり、厨で家人に指図しつつ手ずから調理することも好んだ。
 その腕前は、味にうるさい嵐をも唸(うな)らせるほどのものであった。
しかし―――――――。
「酒と砂糖が、多いような……。この和え物は、もっと薄い味付けでええんちゃうかと……」
 言葉を選ぶように、だが結果的にはかなり率直に嵐がそう評した。
「嵐どの、お主もしや、料理をされるのか?」
 元枝がその言葉にきょとんとした顔で尋ねた。
「たまに。…趣味や。縫い物もするで。どっちも考え事したり、気い鎮めたりすんのに丁度ええねん」
「これは驚いた」
 目を丸くした元枝は、自らも件の一品を口に運んだ。
「む?」
 嵐が奇妙な顔をした理由が解った。それは料理上手の妻が作ったとも思えない、何とも不調和な味付けが施されていた。
 と、得心の行かない面持ちとなった元枝の着物の袖を、他ならぬ八重花が引っ張った。
 何やら慌てた様子で元枝に耳打ちする。
「―――――」
 その言葉を聞いた元枝の顔が固まった。
「せやかて、弘法も筆の誤り言いますよって、八重花どのかて少しばかり手元が狂うこともたまには――――――」
「待て、嵐どの、待たれよ」
 さすがに嵐も客の身で、館の奥方の差配した料理にけちをつけるわけにはいかず、もう一口と箸をつけ、なんとか言葉を繕おうとした。そこに、元枝が若雪の背後からぐいい、と腕を伸ばし、嵐の袖を強く引いた。礼儀も作法もあったものではない。丁度八重花が元枝の袖を引いたのと同じように、慌てた面持ちをしている。箸を持った手の袖を強く引っ張られ、怪訝そうな顔をする嵐に極めて小声で、且つ素早く囁く。
「それは、若雪どのが作られた物だそうだ」
 和え物を口に含んだ嵐が一瞬凝固した。
 今、申し合わせたかのように同時に首を巡らした嵐と元枝二人の、丁度目の前に位置している若雪の背中は小さい。とても小さい。恥じ入るように面を伏せ、身を縮めているのが後ろからもわかる。剣を振るう時の姿とは、まるで別人のようだ。元枝は何事も無かったかのように、素知らぬ顔で伸ばした半身を上座に戻した。
「その、――――そう、珍味やな。今まで食うたことの無い味やから最初は慣れんけど、噛めば噛むほど―――…、奥深い味わいや」
 口許を手で覆い、和え物を咀嚼しつつ嵐がそこまで言ったところで、止(とど)めのようにその口からジャリッというざらついた音が響いた。一瞬、上座の周囲の空気が凍りつく。
「―――――――牛蒡に残る土の風味もまた、趣深い」
 苦し紛れにも程があるその言葉が、嵐の精一杯だった。
 よく耐えた、嵐どの、と胸中で喝采を叫び、元枝もまた、嵐の涙ぐましい努力に加勢した。
「真、その通り。…貴重な一品を、食させていただいた」
(若雪どのにも不得手があったか)
和え物の完食に努めつつ元枝は思った。自分の分の和え物の牛蒡は、ちゃんと土が洗い落とされていますように、と密かに祈りながら。
妙に安堵する思いだった。
 嵐たちの会話につられて和え物を口にした人々も、皆複雑な顔をしつつもそれとなく事情を察し、主らに合わせて「うむ、これは珍味」、「中々に、出会えぬ味」などと評している。まだ幼い長親に至っては、首を傾げること頻りである。
 若雪はまだ身を縮めている。
 これまでの滞在で世話になったささやかな礼として、出雲にいたころより時折作っていた副菜の一種を振る舞おうと考えたのだが、思うような味にはならなかったようだ。よく思い起こせば小野家の人々も、父を始めとして若雪の作った物を食べた際には、「珍味」という言葉を連発していた気がする。
 そんな若雪を見て嵐も元枝も、何とか取り成すべく心を砕いた。
「そうだ、若雪どの。そなたは舞いも嗜(たしな)まれるとか。今宵が、長(なが)の滞在も最後の晩となる。その名残と思うて、ここで一差(ひとさし)、御披露いただけぬであろうか」
「せやな、そらええ」
「…舞い、ですか」
 不意の元枝の提案に嵐が同調し、若雪は浮かぬ顔のまま目を上げた。
「舞いと言っても、神楽や能や、様々ですが」
「うむ。今はその出で立ちでおられることだし、仕舞あたりが妥当であろう」
「いずれの曲をご所望ですか」
 話題が逸れた、と意気込んだ元枝が若雪に問われ、ふと考える様子を見せた。
嵐に同じ問いを投げてみる。
「嵐どの。何が良いと思われる?」
「羽衣(はごろも)」
 即答だった。
「成る程。…相応しい」
 元枝が笑んだ。
「よろしいか、若雪どの?」
「承知しました」
 羽衣はゆったりとした曲調ではあるが、難易度の高い舞いである。しかし元枝も嵐も若雪がそれを舞えると信じて疑わず、若雪もまた当然のようにその求めに応じた。
「では謡(うたい)は、嵐どのにお願いできますか」
 この若雪の言葉に、嵐が「え、」と不服そうな顔をして横に座る若雪を見た。
「……俺もゆっくり、若雪どのの舞いを堪能したいねんけど」
 思ったことを口にする。暗に、謡を拒否したいという思いが、その口振りには込められていた。
 曲を指定はしたものの、嵐はこれまでに若雪の「羽衣」を目にしたことがなかった。ただ一度だけ、正月に宗久に請われて若雪が披露した「高砂」は見事なものだった。茶以外の万事に関心の乏しそうな兼久でさえ、他にどの曲目が舞えるのかと、常に似合わぬ熱心さで若雪に尋ねた程だ。嫌が上にも期待は高まる。出来ればゆったり構えて鑑賞したい、と嵐が願うのも無理は無かった。
 謡自体を不可能だとは言わない。そのくらいの嗜みは、嵐にもある。
「嵐どのが謡ってくださるのなら、舞います」
 若雪が言い切った。
 それは嵐の謡が無ければ舞わない、と言ったも同義であった。
 普段は人の求めに従順に、黙して応じることの多い若雪だが、時折こんな風に、ひどく頑固に、自分の意志を曲げまいとするところが若雪にはあった。こんな時の彼女は、押しても引いても無駄なのだということを、嵐は経験で学んでいた。
 溜め息を吐いて答える。
「…承知」
 仕舞「羽衣」は、駿河は三保の松原に降り立った天女の物語である。天女は美しい舞いを披露し、人々にたくさんの宝物を与えながら、富士山のはるか高くへと舞い上がり、霞に紛れて消えてゆく。その場面を表現した曲であった。
 嵐は明朝にはこの地を去る若雪を、消えゆく天女と見立てたのだ。
 粋な選曲と言えた。
 一旦座敷より退出した若雪が、扇を手に戻って来る。
 腰を落とした若雪の手にある閉じられた扇が、緩やかに開く。
既に場は、しんと静まり返っている。扇の表地が、金色(こんじき)に輝いた。
「――――東遊(あずまあそび)の数々に」
 若雪が、澄みながら尚重々しくも響く声で、最初の言葉のみを謡いつつすう、と立つ。
「東遊の数々に」
 嵐の朗々とした声がそれに続いた。
その声は、宵の空気に染み渡るように心地良く響いた。
以降の謡はすべて嵐の声に委ねられる。 

其の名も月の
色人は三五夜中(やちゅう)の
空に又
満願真如の影となり…

若雪のゆっくりとした足取りに、翻る扇に、座敷に集う人々は天女の影を見る。
常と変わらぬ表情が今は神々しささえ宿し、観る者を幽玄の世界へと誘(いざな)うようであった。
空の彼方には、下界に柔らかな光を投げかける、九日月(ここのかづき)が登っていた。

…天の羽衣浦風に棚曳き
棚曳く三保の松原
浮島が雲の愛鷹(あしたか)山や
富士の高嶺
かすかになりて
天つ御空の
霞に紛れて失せにけり―――――――――――

 旅立ちの朝は快晴だった。
 旅支度を調えた嵐と若雪を、元枝と八重花、そして長親が見送りに出た。
 若雪と嵐は馬を引き連れて門から出た。通りの通行人の邪魔にならぬよう、馬を脇に寄せる。
 宗久配下の護衛たちは、この地に残る。石見銀の円滑な運搬を計り、これを警護するという役割が彼らに課せられた。尚且つ、山田正邦が若雪と交わした約定を確かに守るかどうか見定めることも、その務めには加えられている。彼らはまた、嵐と若雪二人の旅路において、安全面での懸念を抱く必要が無いということもよく弁えていた。
「若雪どの。嵐どのも、息災でおられよ」
「元枝どのも。ご繁栄をお祈り申し上げます。――――毛利の察知する気配がありました時には、どうぞ我らの事はお切り捨てください」
 宗久との取引に応じた元枝は、これまで以上に情勢変化に敏でいなければならない。若雪は元枝らを慮り、万一の時は毛利に対し、自分たちとの密約は知らぬ存ぜぬで通せ、と忠告したのだ。
 短い言葉に込められた若雪の意図を受け取った元枝は、軽く顎を引いて了承の意を表した。
 次に会う時が、果たしてあるかどうかもわからない。互いにそれを暗黙の了解とした上での短い別れの挨拶だった。これが最後だとしても、この地で元枝と培った友誼(ゆうぎ)は、一生胸の内にあるだろうと若雪は思った。
 元枝は嵐を見てにや、と笑った。
 嵐もまた似たような笑みを返し、軽く右手を挙げた。
 無言で交わされたそれが彼らの挨拶だった。
 馬上の人となった嵐と若雪の二人を、元枝一家はその後ろ姿が見えなくなるまで見送った。
「…殿?いかがされました?」
 その姿が視界から消えても、一向に動く気配の無い元枝に、八重花が声をかけた。
 元枝はそれにうん、と頷きながら答えた。
「……器が満たされる日が来るようにな、祈っておったのだ」
 それだけを言って、不思議そうな顔をする八重花と長親の肩を、両手で軽くポンポン、と叩いて抱き寄せ、元枝は館内へと踵を返した。
 
「嵐どの」
「なんや?」
 蹄の音が響く中、馬上で若雪が嵐に声をかけた。
「お願いがあるのですが…」
「うん」
「杵築に寄って、最後に出雲大社を遠くから拝見してもよろしいでしょうか」
 嵐は若雪の顔を見た。被り笠の下の、表情はいつもと変わらない。
 最後に、と言った若雪の胸の内を思い、少し黙ってから頷く。
「わかった」

 翌日に訪れた杵築の町は、種々の職人、商人や参拝客などで賑わっていた。
 嵐は、若雪がもう少し大社に近付くものと思っていたが、若雪はかろうじて出雲大社の鳥居が見える地点で馬の歩みを止めた。やや邪魔そうな顔をしながら、通行人が二頭の馬の脇を避けて行く。人波の中で動かぬ二頭の馬は、まるで浮島のようだった。
「こっからでええんか?」
「はい」
 答えた若雪は、笠を右手で押し上げ、しばらくの間食い入るように蒼天の下の小さな鳥居を見つめていた。
 遠い眼差しだった。
 それから背筋を伸ばすと、鳥居に向かって一礼した。
「参りましょう、嵐どの」
 そう言って、そのまま馬を進める。ただの一度も振り返ろうとしない若雪に、嵐が尋ねた。
「…山田正邦は約定を守ると思うか?」
 若雪は前を向いたまま、嵐の問いに淡々と答えた。
「―――思います。…思いたいです。けれどもしも約定が違えられたなら、その時には、私のすべきことは一つしかありません」
「……せやな」
 嵐が問うまでもなく、それは自明の理だった。正邦に与えられた機会は、一度きりでなければならない。
 
      二

堺までの旅路は、平穏に過ぎた。
但(ただ)し平穏の内にも、嵐はことあるごとに、若雪に対して口を閉じたままではいなかった。
「脚絆(きゃはん)や足袋の汚れは、付いたら小まめに落とすんや。宿の人間なんぞは、案外にそういう足元を、文字通り見るさかい」
「はい」
「着替えの枚数はそれなりにあるし、上衣と袴の色合わせはちゃんと考ええ。隙の無い着こなしをしとったら、行き会いの人間にも侮られんし、道中での交渉にもいらん手間が省ける。値の張る物を着れ、言うとる訳やないぞ。色が和合(わごう)しとるかどうかが肝心や」
「…はい」
「袴の裾汚れにも気いつけや。脚絆してたかて、意外に汚れるからな。特に俺らは馬に乗っとるし、気付かん内に泥がはねて付くこともある」
「……はい」
万事が万事、この調子だった。
(細かい――――――)
嵐が几帳面であることは知っていたが、ここまでとは思わなかった。
若雪は旅が進むにつれ、面食らってしまった。
「どないした。疲れたか?」
そうかと思えば、少し息を吐いただけで、心配そうな顔をして訊いてくる。
気遣いが無い訳では、決してないのだ。
そうして、嵐のこのような数々の細かい忠言に、若雪は概ね大人しく従った。嵐の言うことは細かいが、その内容は一々頷けるものだったからである。
このようにして旅の主導権は、ある騒動が起きるまでは、確実に嵐の手に握られていた。

 それは旅も終わりに差しかかるころ、堺を目前にして泊まった宿での出来事だった。

 若雪は夢を見ていた。遠い夢を。
 夢の中に、鐘の音が鳴り響いた。
 馴染み深い、慣れ親しんだ音だった。

 …鐘の音が聴こえる。
 
 寺の鐘とは異なる響きだ。
堺にある、教会の…。
いや、…違う。
 これは。
 これは。
 これは……。
 これは、放課を告げるチャイムの音。
 その音が響くと同時に、勢い良く生徒たちが校舎から吐き出される。
 それぞれの目的地へと向かって。
 まだ十代の少年少女が発する熱と、ざわめき。
 渦を巻くようなそれには、堺ですら、及ぶまいとさえ思う程の……
 …堺?
 ―――――――堺とは、一体どこのことだったろう。

「―ゆきどの、若雪どの!」
 声をかけられ、若雪は夢から覚めた。声をかけた相手を見る。
「―――――――――」
(誰?)
 知らない顔だ、と咄嗟(とっさ)に思う。
「大丈夫か?さっきからおかしな寝言言うてたで。堺とはどこや、とか」
(関西弁だ…)
 頭が朦朧(もうろう)として、霞がかかったようだ。
 若雪はぼんやりした顔のまま、話しかける相手の顔を見て、次いで自分の夜着と両手を見る。白い絹の夜着に比べると、荒れた印象が際立つ無骨な掌。
見間違いようの無い、自分の手だ。
「……嵐どの…」
 言うと、ほっとしたように嵐が息を吐いた。
 そうだ、嵐だ。この顔を、纏う空気を、なぜ一瞬でも忘れたのだろう。
 良かった。
やっと会えた―――――。
 思うと同時に、涙がこぼれ落ちた。嵐が目を見張る。
「わか―――」
「嵐どの…――――――――、お会いしたかった」
 言うとまた涙があふれた。なぜだろう。これまで、ずっと一緒に旅をして来たというのに。ずっと傍にいたというのに、嵐の顔を、もう随分と久しく見ていなかった気がするのだ。
 若雪の戸惑いと感傷を前に、対する嵐はそれどころではなかった。
 嵐は生業上、夜目がきく。闇の中、仄白く光る夜着を纏った若雪が涙する様は、常には無い色香を漂わせ、心臓に悪かった。
 そもそも寝る時も平服で通そうとした若雪に、男である自分はともかく、男装しているとは言え若雪は女子なのだから、きちんとした夜着に着替えて寝るべきだ、と言う理屈を押し通したのは嵐だった。万一不測の事態が起こっても、自分が対処すれば済むのだから、と言って渋る若雪を説き伏せた。その嵐の細かさが、今や完全に裏目に出ていた。
 いつになく狼狽する。
「ど、どないしたんや。俺は、ずっと一緒におったやろ。怖い夢でも見たんか?また、昔の夢か?」
 顔を両手で覆ったまま、若雪は激しく首を左右に振った。
 そうではない。それは違う。嵐は嘘を言っている。そう思い、若雪はむきになった。
「おられなかったではないですか!嵐どのは…、おられなかった……っ、」
 若雪にしては珍しく、激しい口調で言い募りながら泣き顔を上げた。嵐が絶句する。
(そうだ。嵐どのは、どこにもおられなかった)
「それゆえ、私は――――」
(私は―――?)
 涙を流しながら、若雪は自分の言葉に茫然とする。
 嵐が、参った、と言うように両手を上げた。
「わかった、俺が悪かった。おらんで、悪かった。よし、よし。――――とにかく、大丈夫や。今はほら、ここにおるやろ?次に眠るまで、側についてたるからな」
 そうして若雪の頭を撫でながら、子供をあやすように、嵐が努めて柔らかな声で言った。この際現実の是非は問題ではない。今はとにかく、興奮した若雪を落ち着かせることが肝要だ、と嵐は判断した。
 実際、今の若雪は幼子のようだった。
 その後しばらく静かに涙を流し続けた若雪は、嵐が夜具の上から若雪のお腹のあたりをポン、ポン、と一定の間合いで柔らかく叩き続けると、その内眠りに落ちた。
 暫くの間、若雪の寝顔をじっと観察し、嵐は大きく安堵の息を吐いた。
(何やったんや、さっきのは)
 滅多に無いくらいに驚いていた。動悸がまだ治まらない。
 若雪を起こさないように、注意しながらそっと自分の寝床へ戻る。
 その日の夕刻に和泉国に入った嵐と若雪は、宿に落ち着くと早々に眠りに就いた。明日の早朝に宿を発てば、その日の内には堺に入れる。堺にも、恐らく明日には到着出来るであろう旨を、既に文で伝えてあった。
 若い武士の二人連れ、と見る宿より割り振られる部屋は、当然一間だったので、若雪と嵐の寝床の間には衝立障子を置き、間仕切りとした。これまでにも何度か同様にしてきたことだった。予め、部屋に衝立障子やその代わりとなるような物が置かれていない場合には、わざわざ嵐が宿の人間に交渉して、間仕切りの用を成す物の類を借り受けた。その場合、常に部屋の入口である板戸に近いほうに嵐は自分の寝床を配置し、万一の侵入者に備えた。嵐の眠りは往々にして浅い。
 その為、若雪の異変にも気付いたのだ。
(知らん人間を見るような目やったな……)
 聴こえた寝言に不安になり、思わず起こした若雪は、最初、嵐を知らない人間を見る顔で見た。そのことに嵐は、少なからず傷ついた自分を自覚した。
 寝惚けているにしても様子が妙だった。
 堺とはどこのことか、などと。
 挙句、泣き出した。嵐に会いたかった、と言って。嵐がいなかったのだ、と言って。
 それらの言動はまるで辻褄が合っておらず、およそ若雪らしくなかった。
 嵐は闇の中で目を細めた。
「――――…」
 順調に行けば明日には堺に着く。
 数年ぶりのことなので、若雪も緊張しているのかもしれない。特に出雲では、家族を亡くした件に、ようやくの決着をつけたばかりだ。長年背負っていた荷を降ろしたことで、気持ちが些か不安定になっているとも考えられる。それに自分たちは今、かつて若雪が正邦の放った刺客から逃れる為、辿った逃避行と同じ道を歩んでいることになる。それが若雪の気持ちの均衡を乱している可能性も、大いに有り得た。
(嵐どの―――お会いしたかった)
 ただその言葉が、今も嵐の耳から離れなかった。胸に迫るような、ひどく切実な声だった。まるで何十年ぶりに会ったかのような。それは思いがけず、嵐の胸を高揚させた。石見において再会した時でさえ、聴けなかった言葉だ。
 ゴロン、と夜具の中で寝返りを打つ。
(……寝言にしても)
 もう一度くらい、同じ言葉を若雪から聞けないものか、と思った。どのように仕向けたらその思惑が叶うか、時折寝返りを打ちつつあれこれ考えながら、嵐もまた浅い眠りに落ちて行った。
 
 翌日、暦は既に長月を迎え、秋も深まった堺の地に若雪と嵐は帰着した。
 陽が、もう落ちなんとする黄昏時であったが、町にはまだ日中の賑わいの名残があり、往来する人数(ひとかず)も少なくなかった。
 若雪と嵐が騎乗する馬は、双方、元枝の館を出たころとは異なっている。淀川の過書船に乗る際は、それまで乗って来た馬を置いて行かなければならない。そこで二人は乗船前に、宗久のつてで前もって手配された人間に、馬を預けた。
 そうして過書船から降りて、また新たに馬を業者から借り受け、調達した。出雲石見へ向かう旅の際も、二人は似たような手順を踏んで陸路と水路を利用していた
 木戸番の男が、騎乗した男装の若雪を見て、「お、」という顔をした。男装した若雪は、馬上にいることも手伝い、嵐が想像していた以上に堺の人々の注目を集めた。被り笠が、あまり目隠しになっていない。
 相変わらず、若雪はそれに頓着する様子を見せない。
 そんな事よりも今の若雪は、懐かしい堺の地を再び踏んでいるのだ、という感慨で胸を満たしていた。今一つまだ現実感が追い付かず、馬の足元もふわふわと浮いているように感じる。気が急いて、今日はつい嵐の馬を追い越しがちだった。若雪の心情を汲んでか、嵐は大人しく自分の馬を後ろにつけてくれた。
(あの春の日も、こうして嵐どのに導かれて、養父上の邸に辿り着いた)
 若雪にはそれがつい昨日のことのようにも、はるか遠い昔のことのようにも思えた。
 あれから自分にも嵐にも、随分と変化があった。
 昨日の夜、どうも妙な夢を見たような気がするが良く思い出せない。今朝、顔を合わせた時の嵐は、些か怪訝な表情で若雪の様子を窺っており、多少居心地が悪かった。
宗久の邸の豪壮な門が、徐々に近づいてくる。それを目にして、一層、胸が高鳴った。
 手綱を握る手に、知らず力が籠る。
 うろうろと、揉み手をしながら、邸の門前を落ち着きなく歩き回る女の姿が見えた。
 こちらに気付くと、目を丸くする。
 志野だった。
「姫様……」
 そう口が動くなり、駆け出した。他の通行人など、目に入っていない様子で駆けて来る。
 若雪らは、馬が驚いて志野を蹴ることの無いよう、注意を払わねばならなかった。既に、勢いよく一直線にこちらを目指してくる志野を、馬が警戒している気配が、手綱越しにも伝わってきた。
 嵐に先がけて、若雪は素早く馬から降りた。続いて嵐も降り立つ。
轡を慎重に曳きながら志野に歩み寄った。志野の足も、ようやく走ることを止めている。
「志野…。ただ今、帰りました」
 ほんの僅かばかり白髪が増えた他は変わらない、母のようにも慕った侍女に向かい、若雪は万感の思いを込めてそう告げた。その頬は、やや紅潮している。
「…よう、お戻りに……」
 息が弾んでいることも加え、志野はその先の言葉が続かないようだった。瞳には涙が滲んでいる。志野は宗久と共に、堺を発つ若雪を見送った。そのぶん、感慨もまたひとしおなのだろう。
 次にまた来た道を舞い戻り、邸の奥に向かって声を張り上げた。
「戻られました!若雪様と嵐様が、戻られました!」
 邸内に入った若雪と嵐は、宗久や家の者の出迎えを受けた。皆、予め知らされていたのか、男装の若雪を見ても驚きを露わにする者はいない。狭くはない納屋の玄関の間が、忽ち集まって来た納屋の人間で埋まった。
端のほうには兼久の姿も見える。宗久らと一線を画すように、ひっそり立っている。視線を合わせて軽く頭を下げた若雪に、変わらない表情のまま無言で、うん、と頷いた。
 
「よう戻った。よう戻った…、若雪。ご苦労やったな、嵐。細かい話は後で聴く。若雪、賓客がお越しや。今日そなたが帰ると聞いて足を運ばはったそうで。ずっとそなたを待ってはった。疲れもあるやろけど、先にそちらのお相手をせい」
 旅装から衣服を改めた若雪と嵐に、宗久が珍しく感情を昂ぶらせた声をかけたのち、そう言った。
(賓客?)
 納屋程の大家となれば、貴賓の往来も珍しいことではない。若雪は、はてどなたのことだろうと訝しく思い、自分の男装の出で立ちが失礼に当たるのではないか、と懸念もした。
 結局、その名を聞かされないまま客人のいるとされる部屋へ若雪は出向き、障子の外から声をかけた。しかし、返答は無い。仕方無く、そっと障子を開ける。
 部屋の上座には、大輪の牡丹を彷彿させる美女が座していた。扇を片手に、悠然と脇息にもたれかかり、遠慮がちに障子を開けた若雪の様子を、興味深げに見守っている。
「……お市様」
 驚きに軽く目を見張り若雪はその名を呼んだ。
「その呼び方はやめよと申すに。久しいの、若雪。面白い格好をしておるな。いずれの家中の若衆かと思うたぞ」
 世に佳人との誉も高い織田信長の妹・市が、婉然と若雪に笑いかけた。
朽葉色の打掛には金糸銀糸の刺繍が華やかに施されている。それは実に晴れやかな、市の容貌にいかにも相応しい衣装だった。市の座った後ろの床の間に活けられた、赤く色づいた楓と相まって、贅を凝らした絵のような趣を醸し出している。
恐らく若雪を驚かせようと、わざと宗久に名を告げぬよう口止めしたのだろう。それくらいの茶目っ気はある人物だった。真っ先にこの方を思い浮かべるべきだった、と思いながら、若雪は改めて障子を広く開けて室内に入り、市の前に座った。
「また清州城からのお忍びですか?」
 その身分の割に、市はいつも身軽に動き過ぎる。
 そうも思いながら、若雪は年上の友人のように思う美女に対し、呆れたような笑みを浮かべて尋ねた。
「左様じゃ。そなたが戻ると聞いたゆえ。信長兄上が京都に新しゅう建てられた、邸の見物も兼ねての。やれ、戻って良かった。宗久めが、もう若雪は帰らぬやもしれぬ、などと心気臭く申すから、案じておったぞ。嵐が無事連れて帰ったとは、重畳(ちょうじょう)。あやつもたまには良い働きをしおる」
 ふふ、と市が扇で口元を覆い、含み笑いをする。
 浅井長政に嫁したのちも、市はお忍びで非常識な程、身軽に出歩いた。しかもその移動は常時、駕籠に乗ってのものだった。それを聞いた時の若雪は、駕籠の担ぎ手と同伴する供の人間に同情した。そして兄・信長の赴く先を気ままに訪れた市は、この邸で若雪と出会った。それ以来、若雪が山陰に赴くまで、市はしばしばこのように不意に宗久の邸を訪れた。
 前触れの無いその訪問は、邸の者にとって予期せぬ突風が吹くようなものだった。
「姫君方は、よろしいのですか」
 市が、亡き夫・浅井長政との間にもうけた三姉妹のことだ。
「このような時のために乳母がおる。大事ない」
 鷹揚に頷き、答える様からは乳母への信頼が窺える。
 噂には仲睦まじい夫婦だったと聞いているが、市が長政について何かを語ることは無かった。
 若雪もあえて訊こうとはしない。
「それにつけても……」
 言い差した市は、つくづくと若雪の全身を眺め、次いでずずい、と顔を近付けた。
「若雪は若衆の装いもよう似合うの。それに時の流れとともに、以前より美しゅうなった」
 そう言う市の顔は、若雪の顔に吐息がかかるほど間近にある。
 小袖を着ても不自然でない程度に髪が伸びるまでは、男装を続けることに若雪は決めていた。袴の動きやすさに味を占めた、というのもある。
 するすると市の手が若雪の頬を撫でる。
 市は若雪とは違い、正真正銘、本物の姫君だ。
 荒れとは無縁の、傷一つ無い市の掌が肌を滑る感触は、不快なものではないのだが。
「うむ。肌も申し分ない……」
「お市どの。お顔が大層…、近いのですが」
 もう、すぐ間近にある華やかな美貌に、気圧されそうになる。
「良い」
 良くはない。
 市が膝立ちでじりじり迫るのに押されて、若雪も坐したままじりじりと後退した。
 傍から見ればそれは、妙齢の美女に迫られる若衆の構図だ。
しかし若雪本人は、自分が蛇に睨まれた蛙になった気がした。白い顔は一層白くなっている。若雪が声にならない悲鳴を上げた時、客間の障子が勢い良くスパン、と開いた。
 救い手は、茶菓子の乗った盆を手にした嵐だった。
「お茶をお持ちしました」
 本来の、声をかけてから障子を開ける、という順序が逆転している。
 その不作法を省みることも無く、また、若雪と市の体勢に驚く素振りも見せず、嵐が簡潔に言い放った。客人を市と知った上での来室のようだった。
 市がふん、と鼻を鳴らす。
「なんじゃ、嵐。無粋ぞ。少しばかり手柄を立てたからと言うて、妾たちの逢瀬を邪魔するでない」
(逢瀬…)
 逢瀬の定義とは何であったか。そんなことを思いながら、若雪はその言葉を胸中に反芻する。
「これは失礼。お茶の冷めん内に、思たもんで」
 鼻白んだ市に、嵐は悪びれるどころか「阿呆言うてへんで早よ飲め」と言わんばかりに、そつのない手つきでさっさと茶碗と菓子を置いて回った。ちゃっかり自分の分も並べている。自分もここに居座るぞ、という意志表示である。その様子を見て、不機嫌な顔をしていた市は些か大袈裟に感じられるほどの盛大な溜め息を吐き、軽く首をすくめて大人しく上座に戻った。それに対し、嵐がついでのように言う。
「味は保障しますで。兼久どのの点てた茶ですよって」
 市の片眉がピクリと動く。
「ほう、それはそれは……。珍しいこともあるものじゃ。あれは妾(わらわ)を嫌うておると思うておったが。大方、長旅より帰った若雪への労い、といったところであろ。兼久の点てる茶は確かに美味じゃが、あの冷淡な様はどうにかならぬものかえ。あんな風であるから、妾も兼久が苦手なのじゃ――――――――うむ、美味い」
 兼久に対する批評を一通り語った市は、続いて冷めぬ内に、と茶を飲みその味に目を細めた。
 以前、宗久不在の折、邸を訪れた市が、兼久に対して茶室における茶を所望した際、兼久はこれをすげなく断わった。理由は、「御召し物に焚き染められた香が、茶の風味を損ないますさかい、本日は堪忍してください」というものだった。宗久であればあり得ない対応だ。これには周囲も驚いた。内容はともかく、その言い様があまりに気のない、情味の感じられないものだった為だ。姫君にしては捌けた気性の市も、さすがにこの一件は根に持った。
 のちにこの話を聴いた宗久は、兼久をやんわりと叱責した。
(兼久兄様は、こと茶道に対しては誰より真剣に向き合うておられるゆえ)
 若雪は苦笑した。
 堺にいた間、若雪は時折兼久に茶の指南を受けていた。
「兼久はの、あれよの…。遠くの止まり木から、じっと人を見ておる鳥のような男よな。陰気な在り様じゃと妾には見えるが。まだきゃんきゃん吠える嵐くらいのほうが、可愛げがあるわ。まあ、時折しよる、真綿に針を包むような言い様は、あまりいただけぬが」
 市が空の茶碗を手すさびに弄びながら、ぽつりぽつりと失礼なことを言った。
 本人に含むところは無い。思ったままをただ正直に述べているだけだ。
「……そらどうも。本人に伝えときましょか」
 市が今言った兼久に関する批評の丸ごとを、という意味で嵐が尋ねた。本気で尋ねているのかどうか、判じかねる声音だった。
 それはどうかと、と生真面目に思う若雪とは対照的に、市は茶碗を畳の上に戻しながらあっさり言い放つ。
「どうでも良いわ」
 市は些末事と見なす事柄にはおよそ頓着しない。思ったことは飾らずに伝える率直さがあった。そのあたりは、実の兄・信長との血の繋がりを強く感じさせる。
 そしてその些末事の中には、兄たちの関わる戦事(いくさごと)さえも入っていた。
市は嫁ぐ前も嫁いだのちも、政(まつりごと)や戦には欠片も興味を示さなかった。
そんな市の態度は、若雪の目に、世を知らぬからではなく、ままならぬ世を知り過ぎるゆえ、あえて素知らぬ顔をしようとしているように映っていた。哀しみや怒りといった負の要素から、市なりに目を逸らそうとしているのだと感じた。
そして信長も、恐らく長政も、市の気性と思惑に気づいていた。度を越すほど、彼らが市の行動の自由を容認する背景には、彼らの寛容さとなけなしの忍耐力があった。市の奔放さは、彼らに愛されていたのだ。
かくしてあらん限りの自由を与えられた市は、並外れた行動力を獲得した。
〝市を、籠の鳥とするは忍びない〟
信長が以前洩らした言葉だ。
今、信長は近江国安土に新たな城を築城中だと聞くが、兄の張り切る事業に対しても、市はまるで他人事のように、関心を示そうとはしなかった。完成の暁には一度くらい見ておこうか、といった程度である。
そのように、市には万事思うが儘のようであるかのように、傍目には見られがちだ。それでいて若雪は、彼女が「信長の妹」という存在価値の烙印を押されながら、常に必死で生きようとしていることを察していた。
周囲から見ればどれほど太平楽に見えようと。しがみつくような心持で、生に喰らいつき――――どこか遠い処(ところ)で独り、闘っている孤高の貴人。
それが若雪から見た市だった。
そして孤独は孤独を招く。
市が若雪に興味を抱き近づいたのも、恐らく若雪の中の孤独を感じ取ったせいだ。
己と同じく、独り闘う心を察した為だ。
身分の貴賤を問わず、誰も彼もが必死なのだ。誰もが皆、死にもの狂いでこの乱世を生き抜こうとしている。
自由を享受させようとする庇護者がいるぶん、市はまだしも恵まれているほうだろう。
 市と嵐の遣り取りを眺めていた若雪は思った。
 嵐は、人に接する際、態度を概ね二分する。
 すなわち、猫を被るか、率直に徹するか、である。以前より市に対しては後者と見えた。
 嵐が空を自由に舞う鷹であれば、市もまた、自由に餓(かつ)え空を欲する鳥のようだと若雪は思っていた。率直という点と、自由たりえんと欲する点において、この二人は似た者同士だと若雪は思う。
 そうして同じ空を見る者同士、この二人には口論していたかと思えば、妙に意気投合するところも実際あった。
 そんなことを考えていた若雪を眺め、市がとんでもないことを口にする。
「…妾も一度男装というものを試してみるかの」
「後生ですからお止め下さい」
 頭を抱えたい気分で若雪が止める。嵐も呆れ果てた顔をしている。
「なぜじゃ。似合わぬかの?」
「そういう問題では…。お立場を、お考えください。私が織田様にお叱りを受けます」
 男装するためには、市の豊かに波打つ長い黒髪を、ばっさりと切らねばならない。
 そこのところを市は解っているのだろうか、と若雪は思う。信長は往々にして市に甘いが、断髪した妹姫の姿を見て喜ぶとは、若雪には到底思えなかった。
 市が若雪の言を一笑に付す。
「は、左様なことはなかろ。兄上は、若雪に対しては驚くほど諸事、配慮しておられる」
「似合わんと思いますよ」
 そこに嵐が至極冷静な意見を差し挟む。
「若雪どのに男装が似合うんは、性別を超えた空気が顔にあるからです。お市様はいかにも女子らしい美貌でいはります。男装は難儀でしょうね」
「成る程」
 嵐の意見に、市はあっさり納得して引いた。美貌と言われても当然の顔をする、謙遜と無縁の正直さもまた市らしさであった。
「…お市様、お伺いしたいことがあるんですけど」
「ん、なんじゃ?申してみよ」
 おもむろに切り出した嵐を、市が軽く促す。
「雪に嵐では吹雪となろう。吹雪となれば、荷が重かろう」
 一瞬、しん、と部屋に静寂が降りる。
「――――なんじゃ、それは?」
 謡うように言った嵐に、市が目を丸くした。
「信長公が言わはったお言葉やそうです。…意味がお解りですか」
 若雪も初めて聞く話だったので、思わずきょとんとした顔の市と、顔を見合わせることになった。
 市の紅の唇が、ゆるりと開く。
「どことのう風情があるが、今様でも連歌でもないな。そなたら二人のことを指しておるのは解るが…、はて。他は、皆目(かいもく)見当がつかぬ。真に兄上がそのような思わせぶりなことを言われたのか?」 
「叔父上からはそう伺うてます。―――まだ若雪どのが堺を離れる以前、俺と若雪どのを、信長公が所望しはった時のことやそうです」
 嵐はそれしか言わなかったが、現状を鑑みれば、信長の所望を宗久は断った、ということになる。
 若雪はまたも初耳の話に目を見張り、宗久が信長の望みを拒んだ、という事実に驚いた。
 信長からそんな要求があったとは、宗久から聞いていない。
(…なぜ、黙っておられたのだろう)
 そう思う。動揺のため、宗久の親心までには、思い至らなかった。
そんな若雪を横目に、ふうん?という感じに市が首を傾げる。
「妾には兄上のただのあてつけのようにも思えるがの…。わざわざ妾にまで訊いてくるあたり、そなた、その言葉の意味が、余程気になるのかえ?」
「はい」
 嵐ははっきりと答えた。
「――――ふむ、よかろ。では折を見て、妾から兄上に伺っておこう。若雪も気になるのであろ?」
 気前良く言った市は若雪を見た。
「よろしゅうお頼み申します」
 中途半端に首肯した若雪には頓着せず、重々しい声でそう言い、嵐が市に頭を下げた。

「ほんまに、ご無事に戻らはって良かったです」
 志野が何回目になるかわからない言葉を言った。
 市の相手をした若雪は、その後改めて以前自室として使っていた部屋に足を踏み入れた。
 何もかもが、三年以上も前と同じままの様子で若雪を出迎えた。もう戻らぬかもしれぬと承知の上で、それでも変わらぬ部屋の有り様を留めようと、宗久を始め邸の人間が差配してくれたのだ。若雪はそれを有り難く思った。
 ふと、床の間に活けられた白と薄紫の菊が目に入る。
 茶褐色の小振りな備前焼に、可憐な菊の色合いが優しく映える。
「そのお花は、兼久様が手ずから活けはったんですよ」
 若雪の視線を辿った志野が、にこやかにそう言った。
「兼久兄様が…」
 出迎えの時にも、平生と全く変わらぬ表情に見えたが。
 宗久を始め兼久や市、志野が自分の帰りを喜び、迎えてくれる。
 この場所に再び戻ることの出来た喜びを、若雪は改めて噛み締めた。
 そういえば、と志野が何かを思い出したようにくすくす笑った。
「若雪様からの便りが途絶えてた三月ばかりの間、嵐様が暇を見ては厨に来はって、料理してはりました。難しい顔で腕組みして、鍋の中で煮える具材をじいっと見てはったりするんです。そうかと思たら、次にはえらい勢いで魚を捌き始めたり、葱(ねぎ)を切り始めたり。嵐様は昔から心配ごとがあると厨に籠らはることが多いですよって。余程若雪様のことが心配やったんですね」
 石見の宴の席で嵐が自ら語ったことが、図らずも証明された。
 志野の話を聴いて、若雪の頭には、気難しげな顔でぐつぐついう鍋とにらめっこしている嵐の様子が浮かんだ。それは思わず笑みを誘う光景だった。
「志野」
 笑みを口元に浮かべたまま、若雪は呼びかけた。
「はい?」
「朝拝のことですが」
 
       三

その夜、若雪と嵐は宗久に呼ばれその居室に足を運んだ。
 もう日も遅いので、市は邸の貴賓用の部屋に泊まり、明朝、京都にある信長の邸・二条御新造(ごしんぞう)へと発つことになった。
「――――そういう次第で、元枝どのを仲介として、石見銀を得る筋道は既につきました」
 若雪は山田正邦の一件を除き、今回の旅における報告を宗久に話し終えた。嵐もあえて若雪の仇の件に関しては何も言おうとしなかった。
 そんな二人を見つめて少し目を細めたものの、宗久は暫く黙ったのち、言った。
「……期待した以上の働きや、若雪。ほんまにようやった」
「ありがとうございます」
 宗久の労いに、若雪が頭を下げる。
 そんな若雪の動作をじっと凝視しつつ、宗久が口を開いた。
「ところで―――、朝拝を止める、と志野に言うたらしいな。ほんまか?もう、供え物の準備もいらんと」
 嵐が驚いた表情で、若雪を見た。
 朝拝とは、酒、米、塩、水からなる「お日供(にっく)」という神に対するお供えをしたのち、大祓祝詞(おおはらえのりと)を奏上するものである。神官の家に生まれた若雪に幼いころより根付いた習慣だった。
 その為、若雪の部屋には小さな神棚が設けられていた。
 若雪は堺に住まうようになってからも、昔から馴染んだこの習慣を毎日欠かさなかった。
 邸の人間なら誰もが知っている。
「はい」
「…それでええんか」
「はい、…私は最早、社家の人間ではありません。今井若雪です。ですからもう、朝拝は不要なのです」
 嵐はまだ若雪をどこか物言いたげに見ていたが、やがて視線を逸らした。
 出雲で過ごした日々は、一生胸に仕舞い生きて行く。出雲の神々への敬意も、ただ自分の胸の内に変わらずあれば、それで良いのだ。朝拝を止めることは、若雪にとって一つの区切りであり、堺で生きて行くという覚悟でもあった。
 今になって解る。
 亡き家族の思い出は、若雪にとって、懐かしく慕わしく、――――そして重くもあった。
 忘れてはならないという思いが、朝拝への強いこだわりとなり、殊更、若雪を頑なにさせていたのだ。
 今はようやく縛りから放たれて、ただ純粋に家族の面影を、優しく思い描くことが出来る気がする。終生、癒えない痛みはあったとしても。
 静かに言い切った若雪の顔を、宗久は見た。
(――――面立ちが、変わったな)
 それは年月のみによるものではなく。
 以前より、その目に感じられる意志の強さが増した。
 自我の光が、朧に感じ取れる。
 三年が過ぎても尚、戻る気配が無く、加えて音沙汰の途絶えた若雪を案じて、宗久は本人の強い希望もあり、嵐を山陰に遣わした。その選択は、間違っていなかったようだ。
 一旦は手放した娘が、予期せぬ成長を遂げて再び戻って来た。その感慨を、宗久は面には見せず、自分の心の奥深い場所で静かに喜ばしく思っていた。
「―――ようわかった。疲れたところ悪かったな。今晩はゆっくり寝るとええ」
 今は朧でも、一度自我の光が生じたなら、いずれそれは明確な形を成すであろう。
好もしい変化だと、宗久には思えた。

 目を開けると、市の顔が間近にあった。
「―――――!?」
 思わずガバリ、と身を起こす。
 驚愕のため一気に眠気が吹き飛んだ若雪は、まだ自分が夢を見ているのかと一瞬考えた。
 市は若雪の驚きには一切構わず、満足げに、花がほころぶような笑みを紅の唇に浮かべた。
「起きたか」
 どちらかと言えば、「起こされた」が正しい。
 始末の悪いことに、市は若雪と同様、光沢のある白い絹の夜着しか身に着けていない。本人はそれを気に留めることも無い様子で、しどけなく若雪の枕辺に横座りしている。加えて、少しはだけた夜着の胸元からは、白絹と見紛うような肌が僅かに覗いている。なぜかそれを見た若雪自身の頬が赤くなり、思わず目を逸らした。
 同時に、その恰好でこの部屋まで来たのかと思うと、寝起きから頭が痛くなった。それを示すようかのように、右手を額に添えて言う。
「―――…お市どの。前々から申し上げておりますが、居室を前触れなく訪れるのは、お止め下さい。心臓に悪いです。夜着のままでというのも、尚、心臓に悪い」
「左様か?」
 その言葉には若雪の言葉を思慮に入れる気配が、微塵も感じられなかった。
 勘弁して欲しい、と若雪は心の中で叫ぶ。
 市は若雪が知る人間の中で誰よりも自由で、押しが強かった。その押しの強さは、場合によってはその兄・信長をも上回った。
 見ればまだ朝も早い。六つ時ごろだろうか。
 そう思っていたところに、市ののんびりとした、不思議そうな声が尋ねた。
「のう、若雪。ばす、とはなんじゃ?」
「は?」
「そなた、寝言でばすに遅れる、と言うておったぞ」
「そう…なのですか?―――記憶には、無いのですが」
 覚えていない。
「左様か。若雪は妾よりはるかに見識があるゆえ、ばすとやらも、実際どこぞにあるものかと思うたわ」
「いえ、そのようなことは…。……言っていたのは、それだけでしたか?」
 なんとなく気になって尋ねる。嵐も、堺に至る手前で、若雪が妙な寝言を言っていたと言ったのを思い出した。
「ああ……、けんごとやらに怒られる、とも言うたかな。そなた、意外に寝言が多いの」
「―――誰ですか、それは」
 知らない名前に当惑する。
「知らぬ」
 市があっさりと言って、小さく欠伸(あくび)をした。実際、若雪本人さえ覚えが無いのに、市が、若雪の夢の中に出た名前の人物を、知る筈も無かった。
「………?」
 自分がまるで覚えていないことを、人に指摘されるというのは妙な気分である。
 若雪には何一つ、覚えも心当たりも無かった。
 ともかく。
「…お市どの」
「うむ、なんじゃ」
「私はこれから着替えますので、お部屋へとお戻りください。そして、お市どのもお召し替えを」
「手伝おうか?」
「―――まさかとは思いますが、私の着替えを、ですか?」
「うむ」
「遠慮申し上げます」
 けろりとした顔で言う市の申し出を、さすがにきっぱりと若雪は断った。

 はた迷惑な客人が京都へと去るにあたり、嵐は明慶寺へと足を向けた。
 総門を抜け、山門、仏殿の横を通り過ぎ、唐門を通過したところで目当ての人物、智真を見つけた。向こうも嵐に気付いたようで、小走りに駆けて来る。
「戻ったんか、嵐。若雪どのもご一緒か?」
「ああ、一緒や、昨日戻ったとこや。ほんまは、若雪どのも今日、こっちに出向く予定やったんやけどな。賓客の相手をして疲れとるようやったから、俺一人で来たんや」
 まあ、今日はそのほうが都合ええけどな、と嵐は続けた。
「賓客…。小谷(おだに)の方様やな?」
 市が嫁した浅井長政は近江国小谷城主であった為、市は小谷の方と称されることが多い。
 二十歳となった智真は、墨染の僧衣を纏った穏やかな風貌に、やや面白がるような笑みを浮かべた。明慶寺においては、智真を目当てに来る女子の参拝者が増えた、という話はあながち出鱈目でもなさそうだ。嵐は本人を目の前に思った。
 事情があり、いまだ有髪の体である。
「お前、今、時間あるか?」
「今日は和尚さんが参加しはる連歌会に供をするさかい、あまり長うは話せんが」
 連歌はこの時代、堺においても盛んであり、かつては高名な連歌師・飯尾宗祇(いいおそうぎ)がこの地を訪ねたこともある。
「方丈で話すか?」
「いや、山門の石段とかでええわ」
 そう言ったきり、山門に着くまで嵐は少しの間黙った。
 それぞれ山門の石段に腰を下ろす。
 紅葉した木々の葉が、時折、はらはらと思い出したように散った。
 静かな秋風に吹かれ、その内の一枚が、はらり、と嵐の膝に落ちた。
 膝に乗った赤い葉を払うでもなく見つめながら、嵐はどこか迷うように沈黙した。
 それから、意を決するように口を開いて出て来た言葉は、意外なものだった。
「―――智真、酒で無くした記憶を取り戻すには、どないしたらええか分かるか?」
「酒?私は門外漢やけど――…お前が、酔い潰れた言うんか?」
 嵐の言葉に、智真は目を丸くした。
「せや。任務外やった言うても、気が緩み過ぎたな。今までにはあり得んかったことや。――…石見で、ある晩酒を飲んだ後、自分がどないしたか記憶が無いんや」
 嵐はうわばみ、と称して良いほど酒に強い。堺の町は海近くにありながら良質の水をも有し、灘や伏見とまではいかないものの、酒造りも行われていた。嵐は子供の時分より、酒を水のように慣れ親しんで育った。
ちなみに智真は酒を嗜まない。「葷酒(くんしゅ)山門に入るを許さず」という戒律ゆえでもあるが、元来、飲酒自体にあまり興味が無いのだ。
 自他共に酒豪と認める嵐が酒で記憶を飛ばすなど、本人でさえ認めがたい話だった。自尊心の高い嵐にとっては、智真相手であっても、出来れば口にしたくない失態だ。けれど認めなければ、相談事も前には進まない。
 眉間に皺を寄せて、嵐は息を吸って覚悟を決めたかのように次の言葉を発した。
「若雪どのの居室を訪ねた後を、覚えてへん。さっぱりや」
「嵐―――――――。お前、まさか…」
「何もしてへん!朝目が覚めたら俺は自分の部屋で寝てたんや!」
 智真の頭をよぎった想像を遮るように嵐が声を上げた。必死の顔つきである。その勢いのまま、若雪には指一本触れていないと断言しようとして、旅の宿で頭を撫でたことを思い出し、口を閉じた。それも物の数に入るのだろうか、と。
「覚えとることは他に無いんか」
 智真の顔も、今では真顔だ。表情からは穏やかさが消え、目が据わっている。普段は朗らかで、滅多に笑みを絶やさぬ智真が稀に怒りを表す時の顔は、並み居る武将たちの強面(こわもて)を見慣れている嵐でさえ、たじろぐものがあった。
(うお。怖……)
 次の言葉を言えば、ますます智真の顔は怖くなるだろう。そう思い、一瞬言うまいかとも考えたが、結局は白状した。
「…はっきりとは、覚えてへんねんけど。――――俺が若雪どのの部屋に入った後、若雪どのがどっか怯えた様子で後ずさったような……―――――おい、智真、上!上!暗雲が出とるっ!!お前、まだ力を制御出来んのかい!」
 比喩ではない。
 嵐に指摘を受け、自分の上空を仰いだ智真は、そこに確かに発生する黒雲を見た。細く稲光が奔り、同時に、鳥が一斉に飛び立つ羽音が響く。
 はっとして、智真が深呼吸を二度、三度繰り返すと、頭上の不穏な雲は消えた。
 それを確認して、嵐も智真も、ぐったりと脱力した。はあ、という溜め息がどちらともなく漏れる。
 智真が侍者の地位にありながら剃髪できない理由が、これであった。
 そもそも侍者より前の僧階、沙弥(しゃみ)になった折、一度は剃髪したのだ。しかし智真の剃髪後、それに合わせるようにして堺の町を度々落雷が襲った。雷が落ちたのは、明慶寺の近隣ばかりだった。そのことと智真の剃髪を結び付けて考えた明慶寺住持と嵐は、髪が一定の長さになるまで、寺の一室に智真を押し込めることにした。部屋の障子には嵐のこしらえによる呪符が何枚も貼り付けられた。以降、落雷はぴたりと止んだ。
 髪は神に通じる、と昔から言われている。智真の髪は、これまで智真の力を抑制する役割を果たしていた、ということになる。
 おかげで、有髪僧で通すしかなくなった。有髪のままでは登れる僧階にも限度がある。
 頭の痛い話だった。
 有髪であってさえ、今のように感情がひどく乱れると、俄かに雲が寄ってくるのだ。
「それで…、若雪どののその後の反応はどうなんや」
 強いて気持ちを鎮めるよう、努力しながら智真が訊いた。
「…特に変わった様子は無かった思うで……」
 答える声は心なし小さい。道中、寝言を言って一騒ぎした件は、これとは無縁だろうと思い、「変わった様子」からは除外した。
 酔い潰れた翌日、さすがに若雪に面と向かって、「昨晩、何も無かったか」などと尋ねるわけにもいかず、嵐はその後、ただ彼女の様子を観察するしかなかった。旅の途中で、同じ部屋に寝泊まりする時もとにかく気を遣い、万一の間違いなど無いように殊更、努めた。そういう事情も手伝って、若雪が奇妙な寝言を発し、泣き出した時にはひどく狼狽してしまったのだ。
 智真がほっと息を吐いた。
「……なら、心配するようなことも無かったんやろ。何かあれば、若雪どのがお前と平静に接することは無い筈や。私の記憶する限り、若雪どのはそう器用な性分のお人でもないさかい」
 そう信じたい、という口調で言った智真に、応じるように嵐が数回、頷いた。
「せやな、確かに。その筈や」
 すっきりした、という顔で嵐が山門の石段から立ち上がった。
 それを見ながら智真は、嵐はこんな話を、狼狽えて相談してくるような性格だっただろうか、と今更ながら怪訝に思っていた。
(そないかいらしい性分でもなかったよな…)
 そんな智真に、嵐が笑いかける。
「忙しいとこ邪魔したな。近い内、若雪どのも顔を見せに来ると思うで。今、多少、なりが変わっとるけど、まあ驚きなや」
 そう思わせぶりに言うと、嵐はさっさと総門に向かい歩き去った。
 結局不安の捌け口にされたらしい、と智真は察したが、まあ良しとした。
 晴れた秋の空を仰ぎ、目を細める。唇には気付かぬ内に微笑が浮かんでいた。
 ―――――若雪が帰って来たのだ。

      四

「今井の旦那さんとこに、えらい綺麗な若君がいはるそうやな」
 茜が父親にそう聞かれたのは、昼飯の席であった。
 もう九つ時もだいぶ過ぎていた。茜の家は茶店を営んでおり始終客足が途絶えない為、昼食を食べる時もやや忙しない。堺は四方から人が流れ込んでくるので、茶店の客には事欠かないのだ。茜の両親も茜も店の表から引っ込んでいる間は、雇っている店の人間が客の応対をする。
「ちゃう、あれは若雪さんが男装してはるんや。五年前、旦那さんの養女にならはった」
 茜はぼそりと答えて粕味噌汁の椀を膳に置く。急いで食事を摂る最中に、よくそんな話をする暇があるな、と思う。
「ああ、さよか。そう言うたら綺麗なお顔立ちしてはったな、確か。しかしなんで男装なぞしてはるんや?」
「知らん」
 父の問いにすげなく答える。
 既に友人らが黄色い声で騒ぐのを耳にしていた。
「嵐もそらええけど。あんな殿方がほんまにいてたら、他の男はどうでもええ気にもなるわな」と、のたまう娘(こ)までいた。
 昔から、嵐に色めき立つ友人たちを、そうとは気取られないように、茜は白い眼で見ていた。それをそつなくあしらう嵐のことは、更に白い眼で見ていた。
(皆、嵐の本性を知らんさかい)
 それに比べて若雪は、茜の目に控えめで律儀な人柄と映っていた。
 若雪が堺より離れる前、数回会って、世間話めいたことを話す程度の付き合いがあったのだ。急にいなくなったと聞いた時は、そう親しかったわけでも無いのに、我ながら不思議なほど落胆した。だから、今回の若雪の帰還は、茜にとっても喜ばしいものではあった。
 色々と複雑な思いを胸に、はー、と溜め息を吐き、箸を置く。
「もうええの?」
「うん、ごちそうさん」
 茜の父親は、茜の母と共に茶店を営みながら、この堺の町において町代寄合(ちょうだいよりあい)という役職に就いていた。三十六名で構成される町代寄合は、会合衆の下に属する組織である。堺の市政は上から、会合衆、町代寄合、各町年寄衆寄合、各町町衆によって担われていた。
 執政を行う役割の中で、最も上に位置する会合衆は十名。
 現時点においては紅屋宗陽(べにやそうよう)・塩谷宗悦・茜屋宗左(あかねやそうさ)・山上宗二やまうえそうじ)・松江隆仙・高三隆世(たかさぶりゅうせ)・千宗易(利休)・油屋常琢(じょうたく)・天王寺屋宗及、そして今井宗久らで構成されている。
(久しぶりに行ってみよかな…)
 納屋へ。宗久とはあまり顔を合わせたくないが、美しい若君に見紛う、という若雪に会うのも数年ぶりだ。男装した姿への期待も、多少あった。

「ごめんくださーい」
 数日後の昼過ぎに宗久の邸を訪ねた茜は、声を上げた。昼過ぎの訪れは、昼食のお呼ばれを狙ってのことである。すぐに気づいた家人が、玄関の間に鎮座する、華麗な花鳥の描かれた大きな衝立障子の向こうから、姿を現した。上り框(かまち)近くまで来て両膝を折り、にこやかに応じる。
「これは、茜さん。嵐様に御用ですか?」
 四十くらいの、福々しい顔立ちをした男とは、納屋に出入りする内に顔見知りになった。
「うん。おる?」
「いてはりますが、今、お嬢さん方に縫い物教えてはりますで」
「ああ、その日か…」
 嵐は、内偵や戦、商い交渉など外の務めがある時を除き、平時は月に二回、会合衆や町代寄合らの娘に針仕事の指南をしている。
 無論、好き好んでの無償奉仕ではない。
 目的は、情報収集だ。
 彼女らはいわゆる堺の有力者の娘であり、父親の動向を意外によく見ている。加えてその若さも手伝ってか、水を向ければ聞いていない話まで色々と喋る。今現在、誰がどの武将を支持しているか、どういった物資を主に売買しているか、またはするつもりか、今井宗久に反感を持つ者は誰か、など、情報は多岐に及ぶ。時には、放った忍びや間者によって得る情報以上のものが得られることもある。彼女たちがもたらす情報を掴んでおくことは、嵐にとって、ひいては宗久にとって、非常に重要で益のある行為だった。
 茜はなんとなくその思惑に気付いている。
(普通の習い事ならお師匠さんが口やのうて手を動かせ、言うけど、嵐の場合は口も動かせ、手も動かせ、やからな)
 腹黒い、と思いやや渋面になった茜に、取り成すように家人が声をかける。
「待たはりますか?」
「うーん、せやな…。――――若雪さんはいてはるの?」
「―――いてはりますけど」
「そしたら若雪さんに会いたいわ」
「…ほな、ちょっとお伺いして来ます。お待ちください」
 にこやかな笑みを顔に張り付けたまま、一瞬の間を置いて応じた家人が奥へ引っ込む。
 宗久の邸の人間は、嵐よりも、若雪に関わろうとする人間への警戒が強い、と茜は前々から思っていた。今のような家人の対応が、そう思わせるのだ。
「茜さん、では若雪様の居室までご案内します」
 戻って来てそう言う家人に、茜が片手を上げてそれを制した。
「あ、案内はええわ。前と同じ部屋やろ?一人で分かるし」
 はあ、と答えた家人を置いてさっさと邸内を歩いて行く。
 若雪の居室に至る途中、ちらりと幾つかの大きな蔵が目に入った。蔵の前には始終番人がいることを、茜は知っている。名物道具が仕舞われた蔵も無論あるだろうが、中には、恐らく鉄砲を含めた多くの武器の類が納められた蔵もあるだろう。容易に想像がつく。
それが、この堺の町だった。

「若雪さん?茜です。入ってもええ?」
「どうぞ、お入りください」
 部屋に足を踏み入れた茜を、穏やかな顔で若雪が出迎えた。
(―――――――はあ、なるほど)
 室内に坐す若雪を見て、茜は得心した。
 濃紺の上衣に、浅葱色の袴。以前よりもなお端整さを増したように見える面立ち。
 その顔からは、儚さと怜悧さが微妙に入り混じった風情が感じられる。
絵草子から抜け出たような若衆ぶりだった。
 これでは女子に騒がれても無理はない。
 茜は思わず自分の姿がみすぼらしく見えないか、小袖や帯を見回して、確認してしまった。そしてそんな自分に気付き、赤面する。
「茜どの、お久しぶりですね。私に何か、御用でしたでしょうか」
 物腰柔らかに声をかけられてはっとした。
「…ううん、特に用は無いんやけど」
 言いながら勧められた敷物に腰を下ろす。
 欄間彫刻の流麗な鳳凰が、茜を見下ろしている。
相変わらず豪勢な部屋だが、部屋の主と同様、下品な印象は欠片も無い。若雪の広い居室は、床の間と違い棚が隣り合うという作りが施されていた。そして明障子(あかりしょうじ)と付書院(つけしょいん)の無い代わりに、黒い漆塗りの文机が床の間と違い棚が設けられた手前に置かれてある。硯や幾冊かの書物や文の束が乗せられた文机は、いかにも実用に使われている、という感があった。部屋の半分、五畳ほどはそのような、私的な趣の強い空間として使用されているようだった。
そして、華やかな打掛が掛けられた衣桁(いこう)の置かれた、こちらもう半分は、茜のような来客に応対するための空間のようだった。欄間彫刻は丁度衣桁の上部、部屋の仕切りに当たる部分の、天井近くに位置している。
贅を凝らした部屋なので、いかにも香が焚かれていそうな印象があるが、この部屋で香炉を見た覚えはあっても、それが実際に使用されるところは見たことが無い。若雪自身からはごく仄かに、良い香りが漂っているのが対面していると分かる。床の間には香炉の代わりのように、可憐な菊が活けてあった。
 納屋ほどの大家にいて、なぜ香の一つも焚かないのだろう。上等な香炉にも事欠くことなど無い筈なのに―――――――。
 茜は不思議に思いながら、当初の目的を若雪に告げる。
「嵐に何か作らせよ、思て来たんやけど」
 嵐の料理上手を良いことに、茜は時折「何か食べさせろ」と言って押しかけることがあった。それに対して何の彼の文句を言いながら、結局嵐は旬の物を使った料理をこしらえてやることが多い。嵐を待つまでの間に、若雪の男装ぶりを見てみたかったのだ、とは言いにくい。
「ああ、今、縫い物を教えておいでのようですからね」
 軽く頷きながら若雪が言った。
「嵐どのは料理も、針仕事も良くお出来になります。羨ましい話です」
 茜はこの発言にちょっと驚いた。およそ不得意なことなど無さそうな若雪でも、人を羨むことがあるのか、と意外に思ったのだ。それでつい尋ねた。
「若雪さんは、出来ひんの?」
 若雪の唇が笑みを形作ったまま沈黙した。
 長い沈黙だった。
 どうやら訊いてはならぬことを訊いたらしい、とようやく悟った茜が話題を変える。
「あの、前に嵐に、若雪さんはえらい剣術が出来る、て聞いたけど。ほんま?」
 違い棚の前に置かれた、日本刀と脇差に目を遣りながら言う。実は、部屋に入った時からずっと気になっていたのだ。
 出来ないものの話題より、出来るものの話題だ。
そう茜は考え、好奇心も手伝って尋ねたのだが、果たして若雪の反応は芳しくなかった。
 白い面に苦いものが浮かんで、消えた。
「……確かに、料理よりは得手と言えますが」
 嵐が茜にそんなことを話した、ということが少々意外でもあった。
「…男の人にも負けんって聞いたけど。何人でかかっても、そうそう勝てへんやろうって」
「―――――一対一の場合と、多勢を相手にする場合ではまた勝手も異なるのです」
「へえ?」
「基本的に、どんな名刀であろうと、初太刀、二の太刀、三の太刀と相手を斬るごとに、なまくらになるのです。相手が一人の場合は…立ち合いを素早く終わらせることも可能ですが、多勢相手となると――――、」
「となると――――?」
 興味津々で続きを促す茜の声に、若雪ははっとしたように口を噤(つぐ)んだ。
「…いえ、茜どのにお話しするようなことではありませんでした。すみません」
 消化不良の面持ちになった茜を見て、若雪は後悔した。
 多勢相手となると、最初は滑らかに斬れていたものも斬れなくなる。
―――――――肉を斬った血脂のために。
 だからその先は、鈍った刃で相手を薙ぎ払うか、剣先を突き刺すしかない。相手の命を奪うも止むを得ない場合には、急所に狙いを定めて。そうするだけの技術が問われることになる。
 死なせずに相手を打ち伏せるには、さらに高い技術を要する。
 いずれにしても、要は刃を喰い込ませる角度を、寸分違わずに斬りつけるのが肝心なのだが、動き回る相手にそれを成すことは並大抵の腕では不可能だ。
 若雪の剣の基本は、相手の刃を真っ向から受けることをせず、避け、受け流し、すりあげる中で瞬時に刃の角度を測り、素早く相手を斬り伏せることにある。派手な剣戟の音があまり響かないのは、その為だ。
刀を振るう際、頭の中にほとんど思考は無い。物を考えているようでは、とても剣を斬り結ぶのに追いつかないからだ。若雪は鍛錬によって培われた本能で、刃を振るう。若雪に限らず、武芸者の多くが恐らくそうだろう。まして若雪の剣の身上は速さだ。要らぬ思考で動きを鈍らせれば敗北は必至だった。
 剣の巧者が、間近に若雪の剣捌きを見たら、すぐに諸々の特徴を見抜く筈だ。
 だから恐らく嵐も、若雪の剣の何たるかに気付いている――――。
 思わず思索に耽り黙り込んだ若雪を見て、茜が口を開いた。
「……あんな、うちの父親な、ほんまの父親とちゃうんよ」
 若雪が急に現実に引き戻された顔で、茜を見た。目を丸くしている。
「お母はんは、うちのほんまの父親との間にうちを産んでから、今のお父はんと一緒になったん。せやからどうこう言う話やないんやけど。お母はんもお父はんも仲良うやっとるし。ただ、うちは時々、あの人らに、自分の言葉が届かんなあ、思て悔しなることがある」
「…届かない」
「うん」
 ぼんやり繰り返した若雪に、茜は頷いた。
「思うてることはちゃんと言わんと解らん、て言うの。でも、あの人らのちゃんと言う、てのは、自分らに通じる言葉で話せ、せやないと聞かん、て言うことと同じなん。うちは、お母はんたちには、花やら木やらを育てることが出来んのやろなあ、て思う」
 話しながら茜は、衣桁の向こうにある、部屋の床の間に飾られた菊の花を見た。
「花は自分が今どんな状態か、そないなこと、よう言えんやろ。育てる人間が、毎日じっと様子を見てやって、どうしたほうが花の為になるんか、考えてやらなあかんねや。……うちの親には、無理や」
 こんな話を急に聞かされても困るだろう、と茜自身思いつつ、引っ込みがつかずに言葉を続けていた。若雪の白い面を見ていると、何もかも吸い込む雪原のように、自分の内に籠った言葉を吸い取ってくれるのではないか、という気がしてしまったのだ。若雪を試してみたいという思いも、少しあった。
 若雪は黙って耳を傾けている。
「こんなこと言うたら、なんもかも察しろて言うんか、甘えんな、って言われるやろうけどな」
 茜がどうにも仕様が無い、という顔で若雪に笑いかけた。乾いた笑いに、若雪は少し切なくなった。自分はそもそも、両親に不満を持つことや、逆らうことの許されない育ち方をした。しかし、若雪が何をどう感じているか、彼らがもっと理解してくれたら、と願うことは時折あった。茜は確か今年で十五だ。世間では一人前と見なされる年齢だが、多感なころだ。思うところも、色々とあるのだろう。この年頃に特有の孤独も――――――。
「お辛いのですね」
 茜の言葉に過剰に共鳴するでもなく、ただ一言、静かに言った若雪を、茜が驚いたように見た。そして少し間を置き、頷く。
「―――うん、多分な」
「嵐どのは、茜どののお力になれますか」
「嵐?」
 ここでその名前が出て来るのか、と茜がまた少し驚いたように問い返す。
「はい。茜どのは、嵐どのには遠慮無く接しておられるように見えますので」
 特に深い意味は無さそうだ。
 茜はうーん、と頭を傾けながら、考え考え、答えた。
「嵐はな、しょうもない奴やけど、うちのことは甘やかしてくれんねん。罪悪感も、多少はあるんかもしれん」
「罪悪感?」
「うん―――」
 その時、障子の外から声がかかった。
「若雪どの?茜がそこにおるて聞いたけど」
 嵐だった。
「はい、いらっしゃいます。どうぞ」
 嵐が入って来るなり、茜が口を尖らせた。
「なんやの、嵐。今、女同士の話してたのに。もうちょい遅れて来るとか、気い利かしたり出来ひんの?」
「ぬかせ、ただ飯喰いに来たくせに。茶店を手伝わんでええんか、お前。もうええ年なんやから、いつまでも親に甘えんな。仕事せえ、仕事。若雪どのかてすることあんねんぞ」
 忍び、陰陽師、更には商いにも携わる、言わば三足の草鞋を履く嵐にこれを言われるのは、耳に痛い。ばつの悪さを誤魔化すかのように、茜は声を荒げた。
「うっさいわ!もう、来て早々――」
「いえ、私は―――」
 暫くの間は、山陰における長旅の疲れを癒すべく、休養するように宗久には言われている。若雪はそう言いたいのだが、口を挟む余裕が見つけにくい。
 ―――――少なくとも現状を見る限りでは、とても嵐が茜を甘やかしている、という発想は出て来ない。二人の遣り取りを聴きながら若雪は思った。嵐の口調はまるで遠慮も容赦も無い。
「あんた、もうちょっと愛想の一つもうちに見せたらどうなん?他の娘らにはにこにこして猫被っとるくせに!」
 対する茜の遠慮の無さも清々しい程だった。
 は、と嵐が小馬鹿にしたように笑う。
「お前相手に使う愛想があったら余所(よそ)で使うわ、阿呆。しょうもないこと言うてると、智真に言いつけるぞ」
 茜の頬にパッと朱が差した。
「なんで、ここで智真様が出てくるん!?関係無いやろ!ええから、ちゃっちゃと何か作ってきいや。うちら、お昼まだなんやから!」
 とても解りやすい反応だったが、若雪は気付かないふりをした。また、どうこう対応する余裕も無かった。
「お前、それが人に物を頼む態度か…。なんや、若雪どのもまだなんか?」
 嵐が意外そうに若雪を見返った。
「あ、はい」
 目をぱち、と一つ瞬いて若雪が答える。怒涛の勢いで交わされる嵐と茜の遣り取りに、ついて行けず半ば放心していたのだ。
「これの相手してたからやろ。もう邸の人間皆喰い終わってんぞ。ああ、それで志野が飯のこと訊きに来る頃合いを見計らってたんか。二人分くらいまだ取っといてある思うけど。―――縫い物の指導してて俺もまだ食うてへんからな。……ちょっと待っとれ。足りんようなら作り足してくる」
 これとはなんや、と憤慨する茜を相手にせず言う嵐に、若雪が念の為にと声をかける。
「――――お手伝い致しましょうか」
 この申し出をするには、少なからず勇気が要った。
 嵐が真顔で若雪を見る。
「――――――――いや、いらん」
 目線を逸らしてそれだけ答えると、嵐はさっさと部屋から出て行った。
 予想通りの答えに、若雪が肩を落とす。
「なんやの、あれ。失礼やな!」
 嵐の態度に、茜がまたも憤慨している。

 暫くして、嵐が三人分の膳を一人で器用に運んで来た。
 膳は朱色の根来塗(ねごろぬり)である。朱漆塗りで堅牢な点が特徴の根来塗は、当世寺院において什器、仏具などに多く使われており、宗久の邸でも膳に限らずよく利用されていた。白木で作られた木具(きぐ)のほうが格上では、と指摘する者もいたが、宗久は客をもてなす際を除き、日常に使う物として実用を重んじた。
昼食は美味だった。とりわけ嵐が作り足した里芋の煮物は、絶妙な味付けが施されていた。
 その場の流れで、若雪の部屋で茜も嵐も、共に昼食を摂った。
「嵐どのは良い嫁御になられたでしょうね」
 何せ針仕事も料理も、人並み以上に出来る。
 嵐の箸が止まる。羨望混じりに言った若雪を、茜と嵐が注視した。
 それに気付き、若雪が言い添える。
「もちろん、女子でおられたらの話です」
「あんま嬉しゅうないな……」
 嵐がぼそりと言う。茜も微妙な表情をして言う。
「うちも、嵐みたいなお嫁さんはどうかと思うわぁ…。若雪さんみたいな人が旦那様やったらそら素敵やろな、とは思うけど。嵐やったら、絶対威張り散らすお嫁さんになるで。きっとお姑さんをいびったり、旦那様を尻に敷いたりするて思う。家事さえ出来ればええ、ゆうわけやないもんな。うん。若雪さん、ろくなことならへんで。やめとき」
 茜の中では、若雪が夫、嵐が妻、の奇妙な仮定で想像が巡らされたようだ。
結果、最後にはしたり顔で締められたこの発言に対し、嵐が、があっと喚(わめ)いた。
「何がやめとき、じゃ。自分を棚に上げて。お前は、どんだけ俺に対して失礼な仮定の話をしとんねん!」
 堪えていたのだが、若雪はついに声を立てて笑ってしまった。
 茜と嵐がその笑い声に口論を止め、同時に目を丸くする。二人とも口にこそ出さないが、世にも珍しいものを見た、と思っている。
 茜は自分のことを上手く物を言えない花木に例えたが、若雪には、彼女の思いはともかくとして、茜の存在はいるだけで周囲を明るく、活気付かせる、と思った。茜自身は自分を無力と考えているようだが、若雪にとって茜の気質が持つその力は、ひどく羨ましいものに思えた。自分には無いものだ。若雪が、近しくなって見習いたい、と思うのに十分な人柄だった。
若雪は茜に声をかけた。
「茜どの、よろしければまたお越しください」
「え……、ええの?」
 目を吊り上げた嵐の顔が怖いので、なるべくそちらを見ないように答える。
「はい、私は――――…、同性の友人が少ないので、お願いします」
「ふうん、そう?ならしゃあないな。また来るわ」
「来んでええ」
 照れたように言う茜に、すかさず嵐が言う。
「鬼嫁には言うてへん!うちは若雪さんに誘われたんや」
「……若雪どの。あんまこいつを甘やかすな。本人の為にならん」
 何とも答えらえれず、若雪は曖昧に微笑んだ。
 自分の目には、嵐は茜に対して手厳しいようにしか見えないのだが、言われている当人が甘やかされていると感じるのなら、事実そういう面もあるのだろう。

 腹を満たした茜が帰ったのち、嵐は疲れた、と言わんばかりの顔で深い溜息を吐いた。
 気が付けば若雪の部屋で長い時間を過ごしていた。
「茜に懐かれたな、若雪どの。―――全く、お市様といい、茜といい、あんたを訪ねて来る女子は、騒々しゅうて図々しいのばっかりやな」
 それがまるで若雪のせいであるかのように、じろりと恨みがましい目付きで言われても困る。
「あの調子やと、あいつほんまにここに入り浸るかもしれんで」
「…茜どのは、嵐どのが自分を甘やかしているのだ、と言っておられました」
 小言を重ねる嵐に、若雪が控えめに言った。
「茜が?」
 意外なことを聴いた、という顔で嵐が問い返した。
「はい。私にはよく解りませんが。茜どのに対して、嵐どのはとりわけ遠慮が無いようにも見えますし。……茜どのがこちらに入り浸ることに、何か問題がありますか?」
 嵐がふと黙った。何やら考え込む様子を見せる。長い沈黙ののち、障子の向こうを見透かすように目を逸らし、口を開く。
「…あいつの父親の話、聴いたか?」
「…―――今の父御は、実の父ではないと」
「ああ……。あいつの実の父親は、俺の親父や。せやからあいつは、俺の妹、言うわけやな。異母妹や」
 驚きに声の出ない若雪に、嵐は続けた。胡坐をかいた膝の上に両肘を置き、組んだ手の上に片頬を乗せ、目は障子の向こうを睨み据えるように見たままだ。眉間には皺を刻んでいる。
「俺の母親と駆け落ちまでしよったくせにな……。親父はそのへん、わりあいだらしない男やったみたいや。そういう事情があるさかい…叔父上は今でも、茜に良い顔をせん。家の人間の手前、あからさまな態度は見せんけどな」
 苦いものを吐き出す口調だった。
 茜に罪は無い。それは恐らく宗久も承知している。けれど割り切れないものはあるのだ。
 茜の言っていた罪悪感、という言葉の意味が解った気がした。家にいることを茜が辛く思う理由も、このことに端を発しているのだろう。
「若雪どの。…たまにでええ。面倒やろうけど、あいつの相手したってくれんか。あいつ、俺の他に甘える相手が欲しいんや。…なかなかそういうこと、よう言えん奴やけどな。…――――まあ俺も、そうそう人を上手く甘やかしてやれる程、度量の大きい人間やないし」
 そう言いながら嵐は、胡坐のまま両手を後ろの畳について、顔を仰向けて息を吐いた。
 その言い様は、先ほど茜の前で言っていたこととはまるで逆だった。嵐の言葉には、母親の違う妹への気遣いが感じられた。そしてその気遣いを、嵐は率直には出さないながらも、茜は感じ取っているのだ。
 なんとなく今は亡き兄たちのことを思い出して、若雪の胸が痛んだ。
 喪失の痛手は、今も尚、このように若雪の不意を衝いてやって来る。
 それを押し隠して、答えた。
「はい…。面倒だとは、少しも思いません」
「そうか?」
空中を仰いだまま、嵐はどこか自嘲するように小さく、ふっと笑った。
「―――若雪どの。改めてあんたに、確認しときたいことがある」
 嵐が体勢を元に戻して若雪を見た。
「何でしょうか」
 嵐の声が響きを変えたことを察し、若雪が居住まいを正した。
 嵐もそれに真正面に対峙するように、身体を動かす。
「よう考えて、答えて欲しい。あんたは、今井家の人間として、納屋のために働くか?叔父上がそう望むから、やのうて、あんた自身の意思として、それを望むか?」
 それは、本来なら石見で問うべきことであった。
 今井の人間であることにより課せられる責務から、自由になる余地が、遠い彼の地ではまだ残されていたからだ。何の肩書きも責も負わず、ただ一人の人間として解き放たれる余地が。
 それを堺へと連れ帰り、宗久の力が及ぶ範囲内に至ってから、嵐は尋ねた。問いかけに対する若雪の「否」という返事を阻むために。
 我ながら姑息なやり方をしているとは思う。
 思うものの、一度は離れ、再び摑み直した手をまた放すだけの度量を持つことが、これ程困難なことだとは、嵐自身にも予測出来なかったのだ。
 嵐の心中に気付く様子も見せず、若雪は明瞭に答えた。
「無論です。そのために、私は堺へ戻って参ったのです。私は、嵐どのや養父上、兼久兄様や志野を守りたい――――、ひいては納屋に属する人々を、私の力の及ぶ限り守りたいと思っています。それは、私以外の誰でもない、紛れもなく私自身の意思です。―――――…堺へ、共に戻って欲しいとお願いしたのは、私ではありませんか」
 それは、問うた嵐自身が思わずやや気圧されるほどの、意思の力にあふれた声音だった。
 一国一城を守る、と宣言するのに劣らない程の心意気が、その声からは感じられた。
 そしてほぼ予想通りだったその内容に、嵐はそうと悟られないよう、ほっとした。
「うん、せやったな。――――よう解った。そんなら俺も、腹括(くく)るわ。近い内、若雪どのに紹介したい奴らがおる」
「紹介?…どういった方々ですか?」
 若雪の問いに、嵐はにやりと笑う。
 悪戯を企む子供のような顔には、先ほどまでの翳(かげ)りの気配は欠片も無い。
 その顔で、一言、答える。
「俺の耳目」

嵐が明慶寺を訪れて数日、堺の町は晴天が続いていた。
「智真様、智真様」
 方丈内、法事の聴聞等に使われる御所間を整理していた智真を、喝食の蒼円が呼んだ。
先頃明慶寺に来たばかりで、まだ諸事に物慣れない。
「どないした?」
「えらい綺麗な若衆が、智真様を訪ねて来はりました!」
 そう言う蒼円の頬は紅潮している。
「―――若衆?」
 はて、と首を傾げる。
 蒼円は意気込んだ調子で続けた。
「今井宗久様のお身内やそうです、御影間にお通ししときました」
「―――――――」
 思い当った。
〝多少、なりは変わっとるけど―――〟
 そういうことか。
「わかった。すぐ、行く」

 御影間に至った智真は、果たしてそこに予期していた通りの人物を見た。
「智真どの。長らくご無沙汰を致しておりました。先だって山陰より戻りましたので、ご挨拶に伺いました。…色々ありまして、今はこのようななりをしております。不作法とは存じますが、ご容赦ください」
 口元に微かな笑みを浮かべ、礼儀正しく頭を下げる姿は、記憶の中のものとはだいぶ異なっていた。律儀な態度はまるでそのまま、変わっていないのだが。
 淡い桔梗色の上衣に、やや朱色がかった茶の袴を穿いて、若雪が端座している。
 桔梗色の上衣には、白い絞り染めの文様が細かく散っていた。
身なりに一家言(いっかげん)ある嵐が見立てた訳でもないのだろうが、その出で立ちは今の季節によく合い、且つ洒落ていた。若雪のような容貌がこの装いで出歩いていては、さぞかし目立っただろうと智真は推測した。
 当たり前だが、妙齢の面立ちである。記憶に残る、幼さを残した柔らかな輪郭が、滑らかに削ぎ落とされた――――。蒼円が興奮したのも、納得がいく。
男装しているならしていると、嵐もはっきり教えれば良いものを、と思う。
「…若雪どの。息災で、いはったんですね」
 はい、と静かに首肯する若雪を、唐絵が描かれた襖障子の向こう、方丈の客殿に招いた。
「とにかく、こちらへどうぞ」

「堺を離れる折は、智真どのにご挨拶もせず、失礼しました」
 客殿の板張りの上に正座した若雪は、出された茶を一口飲むと、開口一番そう言って智真に詫びた。客殿は開かれた唐戸(からと)により、広縁と接している。
 外から、一際高い鳥の鳴き声が長く響いて、消えた。
「お世話になっておりましたのに…」
 そう続けた若雪に、智真は思わず苦笑する。
 ほんの時折、寺を訪ねる若雪と会話を交わすことを、〝お世話になった〟と称した若雪の堅苦しいまでの礼儀正しさに、懐かしいものを感じたのだ。
 若雪が堺を出たことを智真に知らせたのは、兼久だった。嵐は苦手としているようだったが、智真は兼久が嫌いではなかった。不器用な性分だ、とも思っていた。尤も、嵐と兼久の二人は、智真から見てもまるで水と油のようで、互いを弾き合い、反発するのも無理は無いことと思えた。その兼久が、明慶寺の所有する茶道具を借り受けに来た際、若雪が山陰へ向かったことを智真に告げたのだ。それは若雪が堺を発ったしばらくののちのことだった。兼久もまた、智真がそれを知らずにいたとは思わなかったらしく、驚く智真に対し、「知らなんだか」、と意外そうに言った。
 その時智真の胸には、嵐に対する軽い腹立ちが芽生えた。
 なぜ、早く自分に知らせなかったのか、と。
 若雪に対しても、何も思わなかったわけではないが、兼久とはまた異なる彼女の不器用さをよく理解していたため、智真に何も告げず去ったことは止む無しと思わざるを得なかった。のちに、嵐もまた自分と同様、若雪が去った後でその事実を知った、と聞かされては猶更だった。誰にも、嵐にさえ告げずに堺を離れた若雪の心中を慮れば、おいそれと非難することも出来ない。若雪が去った事実を聴かされて、自分と同じく呆然としたであろう嵐を責めることも、出来なくなった。
 ―――――どんな形であれ、こうして若雪をまた眼前に出来たことを、智真は御仏に感謝した。
(少し、表情が変わらはった…)
 以前の若雪は、年齢に似合わず、もっと冷たく変わることのない表情をする少女だった。その為、周囲には彼女本来の情の優しさが伝わりにくく、損をしているように智真には見えた。今は、その優しい内面が、表に微かに滲み出ているように感じられる。
「……あちらでは、お務めの他に、なんぞありましたか」
 若雪を繊細な気質と知るため、余計な負荷をかけないよう、気遣いながらそっと尋ねる。
「―――――嵐どのに、命を助けさせていただきました」
「命を、助けさせる?」
 助ける、ではなく―――。
 不思議そうに問い返した智真に、若雪が真顔で頷く。両手に持った茶碗に湛えられた茶の、翡翠色に光る水面を、覗き込むように見つめながら答えた。
「はい。……私は…、ある者を、この手で殺めずには済むまい、と思っていました。そう思いながら、自らをも、追いつめていました。長い間、ずっと――。世の定めに縛られて、その中でもがいておりました。そんな私を、嵐どのが救けてくれたのです。どんな人間であろうと、殺めてしまえばその命の重みを負わなければなりません。私は、それがこの乱世を生きる人間の、礼儀だと心得ております。私は嵐どののおかげで、人一人の命の荷を、この肩に負わずに済みました……。…一滴の血も流さずに、とは参りませんでしたが」
 本当は、堺より迎えに来てくれただけで、若雪にとっては十分だった。居場所に固執する未練に嵐が応じてくれただけで、嬉しく、有り難いことだったのだ。
 けれど嵐は思いがけず、山田正邦と対峙することとなった若雪を支えて力づけてくれた。それは若雪が予想だにしない助力となった。
 そう思いつつ、恩義を感じています、と若雪は続けた。
 具体的な内容を省き、静かに語った若雪に対して、智真は、殺める、という言葉の剣呑さに眉を顰めた。血を流す、という言葉は、若雪の唇が紡ぐに相応しくない言葉のようにも思えた。
 嵐が戦場などで行う殺生は、その生業ゆえ仕方の無いことと思っている。乱世を駆ける為に生まれたような男だ。だが、若雪に関しては、剣術を嗜むとは聞いていたものの、実際に人と剣を交わすこともあるとは思っていなかった。若雪の気性と、命の遣り取りが、智真の中で結びつかなかった為だ。今、若雪の傍らに置かれた剣も、男装ゆえの飾りと考えていた。
若雪は、更に言葉を重ねた。
「…それから、出雲で、小野若雪に別れを告げて参りました」
 暗に、過去を置いて来たのだ、と言った若雪に、智真は瞠目した。
(――――――別れ)
 智真は若雪に会ってから、彼女と自分に相通じるものを感じていた。気性の趣や、過去に囚われて生きているようなところが。
〝立派に修行を終えたら、きっと迎えに来るさかい〟
それまでお勤めに励むんよ、と幼い智真に言い聞かせた母が、自分を迎えに来ることが無いだろうことを、智真は随分早くに悟っていた。そのことを子供心に、仕方無い、とも感じていた。
 それを悟ってからの智真には、色々な物事に対して諦観する癖がついた。穏やかな笑みの鎧を纏い、周囲を受け流してやり過ごした。笑みの内には、常に諦観と孤独があった。
だから、初めて嵐に会った時には驚いた。嵐は両親に恵まれなかった過去や複雑な生い立ちを、それはそれとして心から切り離し、欲しい物は欲しい、自分はこう動きたい、こう生きたいのだ、と思うまま、全身で叫ぶように生きていた。まるで名前そのままのような奴だと思い、その生き様を新鮮にも感じた。
 そして若雪に会った時には、ああ、自分に似ている、と思ったのだ。
 自分とは正反対の嵐の気性に惹かれ、自分とよく似た気性の若雪に惹かれた。
 けれどその若雪は、既に過去を置き、前に進もうとしている。智真には眩しいと思うような世界へ、歩み出そうとしている。
 鏡の向こう、ずっと自分に寄り添うように思っていた姿が、不意に離れて遠ざかって行くような錯覚を覚えた。
 置いて行かれる、と感じた。焦燥と共に。
 この世には、予め用意された全(まった)き光の道など無いことを、智真は御仏に仕えながらも承知していた。ただ、人が真に望めば、自分なりの思いや願いを叶えようと懸命に手を伸ばせば、淡い光に照らされることもあるだろうと、思ってもいた。自らの力で作り上げる、希望という光に。
 けれどそうして手を伸ばせるのは、その先に待ち受けるかもしれない失意や、絶望への陥落を覚悟し、それを恐れぬ強い者だけだ。
 智真は、その強さが自分には無いものと考えていた。
 陥落を怯え、怖気づく自分を自覚していた。
 一方で、そうして手を伸ばそうと、果敢に挑む者たちが実際に在ることもまた、知っていた。
 嵐や、今、その道を行こうとする若雪のように。
(……………)
 自分も後に続けるだろうか――――。
 智真は思った。
 若雪は既に、その道を選んでいる。新しい世界を。
(――嵐か……?)
 彼がそうさせたのだろうか。
 そして今、自分の胸に湧いた、痛むような思いは。
(…これは、嫉妬か?この、私が――――――)
 自分にもそのような感情があった、ということが、智真には驚きであった。
 あの、およそ人に気遣うところのない男が、若雪の事は妙に気にかけていたことを智真は知っている。
 若雪を出迎えに赴いた嵐が、見事彼女を連れ帰ったと聞いた時には、ただ喜ばしく思ったものだが――――。
 智真は、ふと己の力、雷を招来する力を思った。この力の為に、両親が彼を棄てたことは事実だ。また、今に至っては有髪の体に縛られ、今後、僧としての在り様も危ぶまれる。
 しかし、智真がこの力を強く呪うことは無かった。
 そのような宿命に生まれたのだと、――――諦めていた。
 諦観と受容は似ているようでいて、その実、決して相容れるものではない。
 諦観は諦めた時点で終わるが、受容は、受け容れた時点から次の段階が始まる。
 智真の口からこの力のことを改めて知った若雪は、それを忌避することもなく、利用しようとする気配も見せなかった。ただ純粋に、学術的な問題としてこれを捉え、力の生じる所以について頻りと不思議がっていた。
 その屈託の無い反応を、智真は嬉しく思った。
 自分でさえ持て余す、あるがままの自分を、受け容れてもらえたような気がした。
 冷えた孤独の境涯(きょうがい)に身を置く智真の中に、優しく点(とも)された灯りが若雪という存在だった。若雪もまた、自分と同じ孤独の境涯に身を置いていると思った。けれど彼女は、その境涯において尚、人との結びつきを望んでいた―――――。
 それが智真と若雪の、似て非なる在り方を示す最たるものだったのだ。
 若雪には、自らへの厳しさとまるで反比例するかのように、他人に対してはその在り様を丸ごと受け留めようとする、素直さと寛容さがある。
 そればかりは、きっと今までもこれからも変わらない彼女の気質だろう。
 静かな面持ちで智真を見ている若雪を見て、そう思った。
 不可思議で、重荷にしかならないようなこの力を、これも自らの一部と受け容れることから、まずは始めるべきなのかもしれない。そうすれば、今は厄介としか思えない力も、いずれ何らかの役に立つ時が来るかもしれない。
 初めて会った若雪の、頬を濡らしていた涙を止めたように。
 全ては、智真の心一つだ。察していながら、今までずっと足踏みをして、それを認められずに来た。
(私にも歩き出す時が来た、言うことか…)
 若雪の訪れが、今、智真にも変化をもたらそうとしている―――――。
 旅先において、若雪と嵐の間に、心を繋ぐような何事かがあったのは確かだろう。
 それは嵐が危惧したような、酔い潰れた挙句のどうこう、といったことではなく―――。
 余人の入り込めない絆が、嵐と若雪の間に築かれつつあることを、智真は誰より早く気付き、そして寂しく思った。
 若雪は多くを語らなかった。
 それでも智真が重要と感ずることを知るには、十分だった。

吹雪となれば 第四章

この第四章では、タイトル「兄妹」の示す通り、3組の兄妹が軸になっています。1組はお読みになればすぐわかると思います。あとの2組が、誰たちのことを指すのか、考えながら再読されるのも面白いかもしれません。それぞれ、タイプの異なる兄妹たちです。

吹雪となれば 第四章

家族殺害の一件に一応の決着をつけた若雪は、嵐と共に堺の町へと帰還する。帰った彼女を出迎えたのは、暖かい人たちだった。一方、とりわけ若雪の帰りを今井宗久の邸で我が物顔に待っていたのは、若雪もよく知る、とある貴人だったーーーー。 作品画像は、そのとある貴人をイメージに作った、アシンメトリーのイヤリングです。 繊細さと苛烈さが共存するよう心掛けて作りました。 あなたが 照らした道は 花の色 ともに辿ろう あの灯まで

  • 小説
  • 中編
  • ファンタジー
  • 恋愛
  • 時代・歴史
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-06-17

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